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【戦国キリシタン時代:聖なるイエズス会士の事蹟録】


  初期から中期への頃まで、夢と望みに心かがやくキリシタンの時!
  九州全域が主(デウス)なる神の恵みに溢れる現実が見えてきたかのように、、

  <信長:本能寺の真相とは!& 光秀の錯読的意図>


 日本の時代が、室町時代の末期から戦国時代の頃、いわゆる16世紀という百年の時代を迎え過ぎんと
 する中、ヨーロッパでは、その時代の流れを大きく変えようとする一大過渡期の最中で、近代世界へ
 の幕開けの途上を加速度的に進展するまでに至っていた。
 そのような過渡期の変容的様相を三つの側面から挙げるとすれば、
 一つは、中世、近世で培われた科学知識が、技術的知識手法を一にして、近代科学への世界とその思
 潮への形成に発展して行き、、、
 二つめは、大航海時代の幕開けと共に、旧大陸西方にあり、イスラム世界との境界もあってかなり閉
 塞的な趣きを呈していたヨーロッパに新たなる世界への歴史の幕開けの如き時代の趨勢が生まれるも
 のとなる。
 三つめは、長期に亘って培われ形成された、あたかも不動とも言えるようなローマカトリック的な世
 界、及びそのキリスト教的世界観が近代哲学や科学の思潮に大きく影響され、今や変容的に崩れ去る
 ような時代への過渡期に来ており、宗教改革運動のうねりと共にローマカトリック教会とは一線を画
 した、新教プロテスタントの教会、信教の自由を旨とする近代国家への揺籃期を迎えつつあった。

 ヨーロッパのこのような大きな時代の流れの中、旧来のローマカトリック世界畑のうちから、新教プ
 ロテスタント派の発展、及びその信仰心情や信条を意識して、カトリック本来に元々根ざしていた純
 粋な恵みの福音をそのカトリック神学教義体系のうちにしっかりと位置づけたものとして、その教え
 をもって、主なる神(デウス)に仕えんとする、いとも強い聖なる志を抱いた若き信仰の奉仕団が生ま
 れるに至る。この修道奉仕団が、やがてその名を世界に馳せたるものとなるイエズス会であった。

 彼らの一団がローマ教皇からの正式認可を得たのは、かの同士の誓いの創建の年から6年が過ぎた、
 1540年のことであったが、その間の活動が高い評価を受けたのみならず、彼らの強い思いは、と
 にもかくにもキリスト教発展の原点に帰るべく、初代キリスト教会の地、エルサレムへの強い思いが
 心の内を熱くしていた。この熱き聖なる思いが、やがて時満ちて、ポルトガル、スペインのいち早い
 海外進出の国家的時流に合わせて、ローマカトリックの新たなる活路として、、、
 <地の果てまでもキリストの福音を!>と、福音書メッセージがあるごとく、カトリック神学教義に
 おける福音の教えをもって、海外未踏の地への布教活動の精鋭先進的リーダーとして、その働きをな
 してゆく。

 日本はいわば、極東、未踏の地の果て、ローマカトリック・イエズス会は、非常に強い”エルサレム
 から地の果てまで”の自覚意識をもって、そのポールポジションを握り占めるものとなる。
 これは、まさに<地の果てにまでも至りえた宣教という聖言成就の意味において>ヨーロッパ旧世界
 観での最後の花道を飾るものであった。在世のキリスト・イエスの時を経て進歩的に変容しつつも、
 その啓示場世界観の役目を大いに果したる、その壮大に形成されたる旧世界観が今やくずれ終わろう
 とする時代への大いなる節目の時、その最終時期にあってのイエズス会の最初の日本への果敢なる宣
 教活動であった。

 そのあと、しばらく経ち、遅れてフランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会が遣って来るに及ん
 だということであったが、(それらの会は、秀吉の<バテレン追放令 on 87年、および禁教令下>の
 時代になってからのことで、事情知らずのフランシスコ会士らの公然、無謀なる布教活動が1592
 年以降からなされるに至って、より一層きびしい悪しき事態となった。また折から<サン・フェリー
 ペ号の遭難に起因した取調べ事件 on 96年>の証言により、決定的に宣教禁令解除へのきざし、イエ
 ズス会の地道な粘り強く時間を要してまでの<禁教令、追放令>を取り除くための施策、お膳立ての
 すべての可能性さえも消[ツイ]えたものとなった。)

 当時の日本の戦国時代思潮は、階層的(公家、大名武家、下層町民、農民に至る全層において)に、
 種々雑多な仏教思想の宗門的影響下での意識思潮であったが、古来からの伝統的な<神仏習合>によ
 り、その生活風土エリヤにある共益性や憐れみ互助の心構えは、非常に洗練されたすぐれた理性感覚
 を培い有していた。そんな国民性にも拘わらず、戦国乱世の生存闘争、権力者たちの武力抗争は絶え
 ないものであった。一門一家の生きるための生存基盤、領地、領民の拡大、拡充を目論んで、他を凌
 いでさえも権力地位と富を求めなければならなかったし、また位階(官位)の名誉や名声のために互
 いに凌ぎを削って生きるという世の趨勢が現世の状況そのものであるかのごとくあったからである。

 仏教宗門各派も、その体制と権威の維持が生存基盤なる荘園経営や仏閣寺院の所有護持、より多い信
 徒衆の囲い込みがその要であったから、槍、薙刀だけでなく、鉄砲までも所有した僧兵が前衛的に利
 用配下され、一時の戦の生存闘争でも、一たび起これば凄まじいものとなる。当時の時代の宗門は、
 どこも名目上の門徒修行僧がやたら多くなっていたらしく、いわゆる食いはぐれないためのなり済ま
 しの僧たちがその多くを占めるものとなっていた。

 日本仏教の宗派宗門も奈良、平安、鎌倉、室町の時代に至って、その多様性は言葉の概容上実に
 奥深い感じのものとなった。
 その教義的力点の違いから主要なものを右から左へと並べ列記するように挙げると、

 ①天台宗(比叡山)=妙法蓮華経を中核として総合的な仏教の教学の体系化を試みる
  僧門仏教の学的総本山である。それゆえに宗派的な肌色を僧坊的に示している。
  概して<菩薩一乗>を旨とする救法を自他共に立てるものであるが、平安時代末に
  は、山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺=大津三井寺)との2大宗派に分裂した。

 ②真言宗=高野山密教・神秘的なものへの宗験実践の教えを説く、しかし、無知な
  下位の一般民衆には、大日如来の具象、有形的なものへの崇拝を唱える。
  一切観想の境地から演繹表象され、そこから生まれる言葉で表わされた大日如来を
  菩提心にあって受認し、ある定められた修道法により、それとの一体感を聖得霊験
  するを旨とし、それが成仏救(済)法となっている。
  (メタ的如来観を相顕し、そのイメージ像と世界観<曼荼羅>に自入合験してゆく
  が如き信心意識を主体顕現的に高め成仏実成させんとする。)
 
 ③浄土宗及び浄土真宗(一向宗)=阿弥陀如来への信心と極楽浄土への成仏を説く。
  南無阿弥陀仏を唱え、その他力本願の発心一念を成仏の法とする。
  此岸、彼岸といった類のメタ的思想観念の彩りなどが多彩に表象結果している。

 ④日蓮宗(法華宗の一教派)=日蓮を本仏としているが、経典を南無として、妙法蓮
  華経に定めている。この宗派は、きわめて国家安国、安寧意識が強く、安国仏土を
  志向して国政に関与する向きが強い。

 ⑤禅宗(曹洞宗) = 禅宗の宗門の一つであるが、臨済宗とは、坐禅のあり方、仕方
           といった流儀を異にする。修行は只管[ヒタスラ]坐禅のみを修験し
           て、心身不二の無常無我を覚知禅定滅我して、真我(仏性)に
           会解[カイゲ]する。(日本では道元の法燈系)

 ⑥臨済宗 = 日本では禅宗の一大宗門である。(栄西が法嗣した法燈系)
        観想直感的に現実を捉え、きわめて理知即思弁の無の思想とか、合理 
        主義的な教えを方便として説く。現世界唯一真論に立脚する。
        (坐禅での黙想時においては知的開悟に至らしめるため、予め目題公
        案を提与、提昌して、それを手立てに黙想禅を高めてゆく。
        中国の禅宗以来伝世しているものを含め、数百、あるいは千数百以上
        に及ぶ、悟りへの手立ての目題問答語録の公案が用意されている。
        所謂、経典類に依拠した宗門ではなかった。)
        日本では多数の宗派が生まれているが、同じ宗派でも、都と地方では
        気風の違いが生じる場合がある。例えば地方に有力な曹洞宗といった
        他の禅宗があれば、その修禅気風がそれと変わらないものともなる。

 *①から⑥の宗域幅の間に②から⑤、およびその他の小宗派が存在しているかの如くである。

 *民衆一般衆徒は、概してこれらの宗門社寺で、非常に徳聡悟り高き、徳富なイメージを想
  い抱かせる釈迦や諸如来、観音菩薩などを精緻にかたどって造られた像を代替として拝み
  祀り、拝礼し、また願いなどを祈願するものとなる。
  まさにこの上なき徳高き仏様[ホトケサマ]というイメージ心象の下にあるから、心の心理作用は
  その時々の世の中の状況、条件事情や、仏教思潮の諸流勢により、様々な心情反応の効様
  を醸し出すものとなる。
  しかしながらその乱世戦国の世というただならぬ時代であったがゆえに、一部の宗派を除
  き、明日をも知れぬ命ゆえに来世観や、極楽浄土への思い込み観が非常に強く意識付けら
  れていたので、そこでの至福や良き果報への願いは現世とかわらぬほどのものであった。
  いわば現世と来世とが非常に急迫した間近な状況のものとなっていた。

 *しかし現実は乱世、心は末法的で、荒廃した乱れた気と混沌とした様を意識知るほかない
  状況であり、殺気立った気に駆られ、つねに妄想につかれやすくなるのだ。
  物事の諸事象に<あらぬ気>を感じ取る特性、古代からの感性的所産なのか、道教の陰陽
  思想が紛れ込んだ影響からか、“物の気=ものの気”と言われるほどに、<気の意識>が
  漂う。そういった霊気性をおびたなかで、仏教受容がなされているということで、気の精
  神文化は日本特有なものとなろうか。<怨霊>とか<祟り>といった事柄も、気の文化を
  示す言葉だ。諸事象、事物に<仏>の気を感ずるか、<魔>の気を感ずるか、そういった
  気の判断への進展意識が表出されてくる。
  <気の文化>は、美にも、富にも及ぶ強いものとして表わされてくるので、その多様性は
  汎的な思潮を呈するが、全体的には混沌と化しているので、そこには普遍的に共通性を有
  した秩序だった一貫性の世界観は見られない。

 *平安時代の藤原摂関時代の最も華やかな最盛期だった関白・道長の時代、西暦1000年
  前後辺りの世紀では、かの安倍清明など陰陽師らが活躍し、権勢への関与だけでなく、一
  般的社会風勢にあっても影響力を及ぼすものとなる。朝廷での神祇官僚は、天武天皇以後
  の律令制の時代を経て伝統的にその制度ポストを存続させてきたが、時代の趨勢変化に対
  応を迫られるは当然の帰結であり、その舎人らは進んで先進的な新しいものを取り入れて
  時代の社会に応えなければならなかった。陰陽思想は、6世紀中葉からすでに知られてい
  たが、それが五行思想と結合して人間社会を規制し、適用性をもった技術的世界観となり
  得たのは9世紀以降であった。知識と実践(修行)の仏教が最も良き隆盛をなしていたこ
  の時代頃から、占術、呪術、祈祷的妖術など実践的手法があみ出されていった。

  (呪術、妖術めいた陰陽師の能力的パフォーマンスなどは、例えば安倍清明や芦屋道満ら
  霊能力者の如き存在が、後世には再三に渡って創作奇抜な語り草として書物(今昔物語他
  幾多のもの)などで真[マコト]しやかに伝えられたりして、その観念的な感性の鋭敏な表意の
  深まりとか、多様な知相的進展とかが異常なまでに奇異、霊鬼的なものへの反応映観とな
  ったり、或いは、表意表現的な心象を表するものとなった。)

  また、日本という自然風土の環境の只中で育まれる人間性が、神道や仏教の言葉、教えと
  一体相感的になりての、その観念性の深まり、進展は、向上心溢れる自我そのものを存立
  させるもので、その魂性は、そう簡単に易々と変えられるものでなかった。(頑迷な異教
  徒とイエズス会との精神的な対立動向がそのことを物語っている。それには位階・階級体
  制的な栄誉、利得の利害関係が密に絡んでの現実性となり得てのものであるが、、、)
  
  体制的な面から見ても、戦国時代の乱世の様相は全体的な概観からすれば、非常に複雑に
  込み入った生存階層が絡んだ状況での体制崩壊的な国情であったと言う他ない。
  天武天皇以後、律令制での66ヶ国の継承は、国司、群司の時代から鎌倉時代の武士階級
  による地頭など、
  室町時代の守護及び守護代など、それぞれの時代からの地方役職の官人、武官ら、或いは
  中央朝廷官庁から地方に左遷や下向させられた官人などの子孫らがわんさと折り重なり、
  その存続の変遷を土着的にも、浪遊着植的にもなしたるものとして、大なり小なり群雄割
  拠するような趨勢となる。
  天皇制朝廷権力の世俗的政権の崩壊、衰退の様が戦国乱世のその時代には最も極まったも
  のとさえなっていたが、全国民的な世相においては、ただに精神的な権威とか、伝統的神
  的な至高の顕位とかの命脈だけが、断ち切ることのできない精神的な生存本性の如きもの
  として、国民各層それぞれに濃淡おぼろげにもイメージ反映したものとなっていた。

  朝廷・内裏の公卿、公家達は、世俗的権力から失墜しているから、位階権威があるとは言
  え、旧来の<冠[官]位>の位だけでは食べては行けない。たとえ贈物、賂ものがあったと
  しても、格式ある家を切り盛り出来ないほどに火の車、まさに生きては行けない事態とも
  なる。荘園・御料地を保有した有力公家だとしても、いつ何時掠奪や収奪に見舞われるか
  知れないし、それらを保持確保するにしても多くの私兵用人を持てば、大変な費用出費が
  かさむものとなる。乱世、乱世で、それまでに多くの下級の公家らの没落が生じたであろ
  う。地方に出向き流れ、有力大名の下に寄留して、持ち前の貴族的才分を駆使して生活す
  る他ないような御人も多数存在していたと見られる。寺社、寺院、僧院などを自前のもの
  として所有しているようなごく少数の皇族、有力公卿ら身内だけが、その天下りの別当や
  門跡、殿主、或いは座主、僧正など、トップの位に納まり居る者として、かろうじて権威
  ある生き方の存命を計ることができたという不安と憂い多き時代の世であった。

  もはや朝廷などと言われるのは、今は遥か昔の事、京の御所という天皇家を頂く内裏は、
  内務官僚と召使他少数に過ぎず、有力公卿(公家)の7、8名ほどが、朝議をおこない、
  動静の判断及び意見交換をする程度であった。ただ遠方の九州や中国地方の諸国などで、
  目立ってその国の動向に注意を払うべきとした場合には、特別に現地の真相、情報収集の
  ためにそれなりの高位の人材を派遣して、時には皇家に係わる最高位の御人が自ら望んで
  赴いて、いち早い対応的な認知所見を心得る様に努めるものであった。それ以上の何らか
  の政治的工作とか、内密な策略工作とかの手段をとれるような余裕はなかった。

  (しかし、例外的に諸全国的な状勢や動向の趨勢にかんがみて、御所・内裏が威圧を感じ
  て、彼らが脅威の危機意識を醸すような場合には、たとえば織田家・信長のような、彼ら
  にとってかなり危険度の高い人物などに関しては、その諸処、時々の対応を見計らって、
  何らかの対処策を執らねばならなかった。
  信長についても、初めは“美濃の田舎ざむらいがえらく頭をもたげて来て居りやすわ、”
  といった程度の見識で、畿内への進出台頭の時期でさえ、初、中期段階ではその動乱の諸
  戦争がむしろ互いにあい相殺、消耗戦をなすようなものとなろうとの一抹の期待と、高み
  の見物的気分の判断をもって、これを注視していたという向きもあったと見られる。)

 このような体制的崩壊乱世と宗教性密度の濃い日本の地に、前人未踏という状況を踏まえて、カトリ
 ック・イエズス会士らは、僅かばかりの概容的情報を頼りに訪れたということであったが、彼らの熱
 き使命的なデウス(主なる神)への信仰と、秩序だった明晰な神学的世界観を心の拠り所として、そ
 の荒れすさんで蒙昧俗化した異教文化の未踏の宗教性ジャングル地に<主なるデウスの救いの栄光>
 を輝かさんとしたのであった。
 確かに戦国乱世の末法的な暗い世相下での心魂の救済的な願望が何か新しい確かな心の光を求めてい
 るような時代であったから、イエズス会士の布教活動は、やがて急速に進展してゆく傾向を示したが、
 日本の伝統的な神仏崇拝の国勢風土は、その守勢排撃的権力趨勢をしてこれを許容することは出来な
 かった。

 イエズス会士らによるこの時代の<地の果て日本への宣教>は、エルサレムから始まった初期キリス
 ト教会の迫害時代と、はるかな時を経て、日本でのより過酷なキリシタン迫害時での信仰の純粋さと
 が一つであることを証しているところの稀に見る事蹟でもあった。

 これは神の福音、キリストによる“初穂”としての救いの成就が、その啓示場世界観と一体的にあっ
 た旧世界観の今や最終的な時の段階のものとして、エルサレムの初期の時より始まり、遂には<地の
 果て日本においても完結>したことを歴史的に物語り意味するもので、カトリック・イエズス会とい
 う名に相応しく新聖立した、その近世的特有さをもって清練された一団の宣教師らによる並々ならぬ
 使徒的な働きを通して、その成就の結終を成し得たものであったと言えよう。

 実にイエズス会士ら自身が日本での布教活動において、驚きの、目を見張るばかりの大いなる祝福の
 成果でもって慰められ、励ましと奮闘の涙に心満たされるばかりであった。このことにより、厳しい
 艱難や辛苦があろうとも、当時のヨーロッパ諸国ではまったく見られない日本のキリシタンたちの純
 なる信仰心と共に、彼らはその恵みに与かり溢れて歩む事が出来たようだ。

 (キリシタンたちの信仰心から自然とつくり出した祈りの思いの在り方が、彼らの教会と、そこから
 続く美しく飾る事の出来る道と石段でつながる2百メートル前後ほど、その先にある小高い丘に立て
 られた十字架、そこでの祈りと賛美の祝祭典礼の行事などは、司祭、修道士らがキリシタンたちの信
 仰心から共に生み出した日本固有の新たな祝祭方式でもあったわけだ。)

 九州地方のキリシタンたちは、今や九州全域が主なるデウス(神)の恵みに満たされるのでは、とい
 う現実を目の当たりにするごとく、その夢、期待感を抱けるほどに、一時期その時代の時勢の流れが
 そのように感じとらせるほどであった。

 それだのに彼らの夢膨らむ期待感も一瞬の幻を見るがごとくに潰えてしまった。何故だったのか、
 日本の時代的事情要因だけに終始した史観的見方をとれば、具体的にその歴史的契機となった要因を
 幾つも挙げ列ねて捉え、それらが反動的な意相風土のある流れとして結果したものだと、演繹的に説
 明する事もできる。これも実証的な歴史解釈の確かな証示となるわけだが、、、、しかし、日本での
 キリシタンの運命(実に悲惨、陰惨、むごたらしいばかりの撲滅、一掃の運命となったが、)は、そ
 のような一時的な時事情の歴史解釈で終わり済まされ得るものではない。

 時を同じくして日本は、イエズス会士を媒介にヨーロッパと繋がったわけだが、そのヨーロッパが、
 神の汚れなき、聖なる福音を基モトイとしながらも、体制的な悪癖の諸悪の故にか、分裂紛争を引き起こ
 した時代(宗教改革の時代)の最中であったという世界史的実情を鑑み見なければならない。
 いまやヨーロッパが、カトリック旧教国家とプロテスタント新教国家という大きな体勢的な枠組みの中へとそれぞ
 れ分裂形成されてゆく、双方とも多数の国家並立群雄の時代へと変容してゆく途上にあった。
 これら双方の相克的発展は、旧ヨーロッパ圏内では許容されるものとなろうが、それ以外の他国への
 相克的延長転嫁の生存競争は断じて許されるものではなかった。

 もはやそのような状勢での様々な、あらゆる未来、将来的惨禍、弊害は早いうちに最小限に、その犠
 牲と共に阻止して置かねばならないというのが、大いなる神、主なるデウスの全能のご意思であった
 という他ない。ここに主なる神の采配が、旧日本側にも主流イエズス会カトリック側にも、双方平等
 に摂理的処理が下されるの時代の流れを見るに至るものとなった。

 そこでの<神の言葉>の聖なるケジメは、<神の聖なる福音、その大いなる義を、恵みを>決して汚
 し貶め、空しくされることのないように、かかる一切の諸状況、諸事象からそれを守り、聖別するも
 のであることを知るべきであろう。
 したがって日本は、その神のご意思の下にあり、<世界における日本の時>を先へと、将来に繰り越
 し(鎖国により)据え置いたかたちで、まさにそれ以外に最善なる方途、道なきものとして、その存
 続を将来許容されたわけである。
 また、イエズス会の布教活動が、日本の旧体制的なものと、厳しい対立的な局面へと追い立たされる
 状況に至によって、もはや福音的本質をも欠くものとなり、華美荘厳なる儀式のまじないミサの魅了
 でもって、キリシタン教徒の強勢発展を見んとする傾向にいたる。もって総合多様な面からして、も
 はやこれまでとなるに至った。日本の内にひそみ在るかの如き、何かダイヤモンドの原石ともなる貴
 重な、世界のどこにも見い出しえない、日本にしか在り得ないで、いまだ眠りたる貴重な可能性の何
 かが、遥かな未来の現代のような時に、日本が世界に向けてその本当の貢献を為しうるが如き、能力
 的な資質の何かとして、その素養揺籃の可能性が失われないように予定されたと思われる

 これより以下の表示内容は、その多くをネットのウキペディアのページなどからの抜粋コピーであっ
 たり、大変なるご尽力、並々ならぬ御働きをもって、その翻訳を果された<故松田毅一、川崎桃太>
 両教授の<完訳フロイスの日本史>から、その参照引用せし文言のあることを、前もってお断り、且
 つご容赦願いたく申し表すると同時に、両教授の並々ならぬご貢献に依りて成るその完訳本を通して、
 かのキリシタン時代の事柄をつぶさに知り、追体験するが如き読感の、この上なき至福の時に巡り会
 えたことを心から感謝申し上げる次第です。

 ●イエズス会の略歴: 創設 1534年8月15日、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友
  だった6名の同志(スペイン出身のフランシスコ・ザビエル、アルフォンソ・サルメロン、
  ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、ポルトガル出身のシモン・ロドリゲス、
  サヴォイア出身のピエール・ファーヴル)がパリ郊外のモンマルトルの丘の中腹のサン・
  ドニ聖堂(現在のサクレ・クール聖堂の場所にあったベネディクト女子修道院の一部)に
  集まり、ミサにあずかって生涯を神にささげる誓いを立てた。
  この日がイエズス会の創立日とされている。

  「モンマルトルの誓い」のメンバー(7人)
  =====================
  イグナチオ・デ・ロヨラ(1491年 - 1556年) :スペオン・バスク出身、第1代総長
                          青年期を過ぎた37才の時パリ大学に
                          入学し、他の6人の学生らと出会う。
  ピエール・ファーヴル (1506年 - 1546年) :フランス・サヴォイア出身、誓いの丘
                          の同士7人の内で、唯一人すでに司祭
                          の叙任を得ていた。
  フランシスコ・ザビエル(1506年 - 1552年) :スペイン・バスク出身
  ディエゴ・ライネス  (1502年 - 1565年) :スペイン出身、第2代総長
  アルフォンソ・サルメロン(1515年 - 1585年):スペイン出身
  ニコラス・ポバディリャ(1507年 - 1562年) :スペイン出身
  シモン・ロドリゲス  (1510年 - 1579年) :ホルトガル出身

  1537年一同はイタリアへ赴き、教皇から修道会の認可を得ようとした。当時の教皇パウルス3世は
  彼らの高い徳と学識を見てまず彼らの司祭叙階を認めた。ファーヴルはすでに司祭叙階されていた
  ため、他の6名が1537年6月24日にヴェネツィアで叙階を受けた。オスマン帝国と神聖ローマ帝国
  のカール5世の間で行われていた争いのために地中海を渡ってエルサレムに赴く事ができなかった
  ため、彼らはとりあえずイタリア半島にとどまって説教をしながら、奉仕の業に専念した。

  1538年の10月イグナチオは、ファーヴルとライネスの二人を連れて再びローマを訪れ、会憲の許可
  を願った。審査した枢機卿会の面々はほとんどが好意的にこれを評価したため教皇パウルス3世は
  1540年9月27日の回勅『レジミニ・ミリタンティス』(Regimini Militantis)で、イエズス
  会に正式な認可を与えた。このとき、与えた唯一の制限は会員数が60名を超えないようにという
  ことであった。
  この制限も数年後、1543年5月14日の回勅『インユンクトゥム・ノビス』(Injunctum Nobis)
  で、取り払われた。
  イグナチオは会の初代指導者(総長)に選ばれ、会員たちをヨーロッパ全域に学校や神学校設立の
  ために派遣した。

  やがて会が発展するに伴って、このイエズス会の活動分野は三つに絞られていった。第一は高等教
  育であり、ヨーロッパ各地で学校設立の願いを受けて、イエズス会員は引く手あまたとさえなった。
  イエズス会員は、神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴であった。
  第二の活動分野は、非キリスト教徒を信仰に導く宣教活動であった。第三は、プロテスタントの拡
  大に対するカトリックの「防波堤」になることであった。
  イエズス会員の精力的な活動によって南ドイツとポーランドのプロテスタンティズムは衰退し、カ
  トリックが再び復興さえしだした。

  イグナチオが1554年に改定した会憲では、イエズス会が総長をトップとする組織であることが明記
  され、教皇と会の長上への絶対的な従順を会員に求めた(イグナチオは「死人のごとき従順」
  (perinde ac cadaver)という言葉を用いている)。
  彼の座右の銘はイエズス会の変わらぬモットーとなった。それは「神のより大いなる栄光のために」
  (Ad Majorem Dei Gloriam)である。これは
  「どんな活動でもよい意志をもって精力的に行えば、かならず神の国のためになる」という精神を
  表しているものであった。

  【以下は日本への布教に関わった有力なる会士メンバーたちの年紀】:
  ================================

 ・<フランシスコ・ザビエル>:1506年頃4月7日 - 1552年12月2日、スペイン・ナバラ生ま
                 れのカトリック教会の司祭、宣教師。
                 イエズス会のリーダー格の創設メンバーの1人。
                 人種系ではバスク人。

 1506年 4月7日頃、ナバラ王国(現在のスペイン・ナバラ州)の地方貴族の家柄に生まれ、5人
       姉兄弟の末っ子としてそのザビエル城で育った。
       父はその国で信頼厚き宰相を務める地位にあったが、ナバラ王国はフランスとスペイン
       (当時のカスティーリャ・アラゴン王国)との間に挟まれた北部境界に位置した小国の
       地であったため、両大国の争奪紛争地にされてしまう。
       この紛争でついに1515年スペインに併合され、この動乱の最中、幼い少年ザビエルは、
       父を亡くす。

 1525年 19歳の時にパリへの留学、名門パリ大学の聖バルバラ学院に入り、学寮で同室となった
       フランス出身のピエール・ファーヴルや、3年後に同郷バスク地方からパリ大学に来た
       年配の37歳のイニゴ(後のイグナチオ・デ・ロヨラ)との運命的な出会いをなす。
       
 1534年 8月15日、モンマルトルの聖堂にて、後にイエズス会の創立者グループとなった、かの
       7人が同士となって、神への生涯献身の誓いを立てる。これが<モンマルトルの誓いの
       ミサ>として知られているイエズス会設立の端緒である。この時、仲間のファーブル
       だけが司祭の資格を得ていたので、彼が仲間の内で誓いのミサを執り行った。

 1537年 6月24日、一同はイタリアへ赴き、教皇から修道会の認可を得ようとしたが、この時、
       教皇パウルス3世は、まず先に彼らに叙階の認可が与えられ、ザビエルは他のイグナ
       チオら5人と共にヴェネツィアの教会で司祭に叙階される。

 1540年 9月27日、イグナチオ・ロヨラの再度ローマへ出向いての積極的な働きかけ(38年10月)
       の甲斐あって、その二年後、教皇からの公式の回勅により修道会の会憲の認可、及び、
       設立の正式許可を得ることが出来た。
       ザビエルらのイエズス会士としての新たなる活動の拠り所を定めるものとなる。

 1541年 4月7日 ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、当時ポルトガル領だったインド西海岸の
       ゴアに派遣されるべく、3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、ディエゴ・フェルナン
       デス、フランシスコ・マンシリアス)と共にリスボンを出発した。
       8月にアフリカのモザンビークに到着、秋と冬を過して翌1542年2月に当地を出発し、

 1542年 5月6日ゴアに到着。
       そこを拠点にインド各地で宣教し、

 1545年 9月にはマラッカへ、さらに
 1546年 1月にはモルッカに赴き宣教活動を続け、多くの人々をキリスト教に導く。マラッカには
       47年の秋頃に戻り、(あちらは年中夏のようで四季が明確でない、9、10月頃だ。)

 1548年 この年の始め、1月か、2月頃、そのマラッカで、鹿児島出身のヤジロウ(アンジロー)とい
       う日本人に出会う。そして、3月の中旬にはゴアに帰り、日本に赴くための準備をなした。
       
      *このヤジロウという人は、47年の中頃、ポルトガルの貿易船でマラッカに渡っているよう
       で、その船の船長アルバロスからザビエル司祭のことを聞いてはいたが、その地に着いた
       時には、ザビエル師は他の地へ布教に赴き、不在で会うことができなかった。その後、
       幸運な主の御摂理により、48年に巡り会うことが出来た。そして、彼の薦めにより、インド
       のゴアのコレジオ=サン・パウロ学院に入るべく、その3月初め過ぎには学院生としての
       学びと修練を始め、6ヵ月間の信仰と聖書の基礎教育を受け、ポルトガル語の学習に専心
       することになる。その期間中での5月、聖霊降臨祭の祝日に洗礼を受けたという。

       ヤジロウという人物が以前どんな育ちや素性のもので、社会的身分は町人、村人、下級武
       士の侍、或いは農民、漁民だったのか、その詳細は知られていない。ただ、薩摩国の者で、
       以前一人の人を殺して、逃れ免れるためにある僧院に入り修行僧になったとのこと、如何
       なる理由で人をあやめたのか、誰をやったのか、同僚か友人か、見知らぬ人か、敵対者か、
       そのようなことまで知られ得るはずがないわけだが、この辺の処は知られざる人物として 
       色々に創作的人物を描き出す事ができようかと思われる。

      ★(薩摩の国では、人を誤まって殺した場合、その咎、刑罰を免れるために、僧院に下僧出
       家するシキタリがあったというものかも知れない。そういった法制的なシキタリから、そ
       れを踏まえた形で、違った人物像の模索が可能ともなってくる。
       当時の薩摩の国に異国、南蛮の交易船が来航したということで、その相手の外国の諸事情
       の全般を海外現地サイドから知る必要から、。

       確かに南九州の島津氏一門の時代は、その三州、薩摩、大隈、日向を領国とした太守や守
       護の代以降、宗家の家督、守護職継承争い、領地問題での内紛が南北朝、室町、戦国時代
       にかけて幾度となく繰り返され、忠良、貴久親子の時代の1538年代に至ってようやく薩摩
       の国が再統一されるを見た。この時より
       その40年代から50年代初めにかけては国内はかなり安定して国力増強を計る時期で、産業
       の育成振興も少なからず省みられ、国内政策だけでなく、海外へも利得の目が向けられる
       余裕が出来てくる時代背景となっていた。大陸明との琉球、種子島経由の交易に加え、新
       たにポルトガル船による新局面の展開が開かれてきた。北九州方面の諸港、平戸や博多な
       どの諸港との交易ルートの争奪がにわかに始まりだした状況ともなった。

       例えば、インドのゴアを出帆し日本に向かったメストレ・ベルショール、ガスパル・ヴィ
       レラ師らの一行が1555年の7月15日に広東沖のサンシュアン島に到着した際、そこで数ヶ
       月ほどの滞在となったが、その折りに九州の肥前・平戸の国主・松浦隆信らしき人物が、
       早くも“歓迎友好の意を表明”した書状をかのベルショール師宛に送り、それが入手され、
       その文面の一部引用が『フロイスの史書』から知られ得るといったことで、その当時の様
       子を窺い知る事が出来る。)
       
 1548年 11月ゴアで、宣教監督としての任責を担う。
       (この年の3月中旬頃、あらたにヨーロッパから5人の司祭と6人の修道士がインド・
       ゴアに遣わされ、10月初旬頃到着した。彼らはポルトガルのイエズス会士であった。)

 1549年 4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、
       マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりの
       ヤジロウら3人の日本人と共にジャンク船でゴアを出発、日本を目指す。

       (5月の末日にマラッカに到着、ザビエルのこの時のマラッカからの書簡が6月22日付
       で、ヨーロッパの会本部に出されているので、そこを離れたのは6月末か、7月はじめで
       あったろうか。(その書簡では、洗礼者聖ヨハネの祝祭日の前日に日本に向けて出立する
       と記している。現在の祝祭日は6月24日と定められているが、これは1965年の第二バチ
       カン公会議以後に見直し修定された1969年2月以降の新典礼暦に基づくものである。
       シナ大陸側沿岸の明国の港には寄らないで、航行する予定だとも述べている。)
       そして、実際にマラッカから出帆したのは、そのヨハネ祝祭日の前日ではなく、その当日
       出航したと、フロイスはその史書であらためて記している。(第一部2章冒頭にて。)

 1549年 (天文18年)明の上川島(広東省江門市台山/en:Shangchuan Island)を経由し、
       8月前後の頃には、ヤジロウの案内で、まずは薩摩の薩摩半島の坊津に上陸し、その後、
       許可を得て、
 
 1549年 8月15日、鹿児島の港、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。一行は十ヶ月ほど薩摩に
       滞在し、宣教活動をなして、その鹿児島の市及び近隣から、二百名近い信者、洗礼を受け
       たキリシタンを得たとのことである。また、この地から出向いて薩摩の国主を訪れる機会
       を得ている。

 1549年 9月伊集院城(一宇治城/現鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩の守護大名・島津貴久
       に謁見、宣教の許可を得た。
       しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教の意図を表明したので、「京にのぼる」ことを
       理由に翌年には薩摩を去ることになる。丁度その頃、支那経由でポルトガル船が平戸に来
       航していたので、ひと先ずは一行の皆は、薩摩を離れてそこに向かう事とした。薩摩での
       滞在はまる十ヶ月ほどであった。
       (ポルトガル船が平戸に入った報せを受けた当初、ザビエルだけ、通訳従者一人だけ連れ
       て、先にすぐ平戸に出かけ、当面の用務を済まし、鹿児島に戻っている。)

 1550年 8月ザビエル一行は、肥前平戸に入り、宣教活動を行った。
       パウロことヤジロウは薩摩に留まり、代りに薩摩でキリシタン修道士となった日本人ベル
       ナルドが随伴した。

 1550年 10月下旬、信徒の世話をトーレス神父に託し、薩摩出身の日本人修道士ベルナルド、
       ジョアン・フェルナンデス修道士と共に京を目指し平戸を出立。

 1550年 博多に滞在経由後、11月上旬に周防国の山口に入り、国主に謁見後、無許可で布教活動を
       行う。市内のいたるところ巡って、また招きの応じて家々で、およそ一ヶ月余り教えの活
       動をなし、その地に滞在した。
              
       周防の守護大名・大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが大内の
       怒りをかい、その後、同年12月17日(降誕祭祝日の八日前)に周防・山口を立つ。
       岩国から瀬戸内の海路に切り替え、同年下旬には堺に上陸。豪商の日比屋了珪の
       知遇を得る。

 1551年 1月、一行は、日比屋了珪の支援により、念願の京に到着。了珪の紹介で小西隆佐の
       歓待を受けた。
       全国での宣教の許可を『日本国王』から得るため、インド総督とゴアの司教の親書と共に
       後奈良天皇および足利義輝への拝謁を請願するも、献上品もなく、外見の装いも貴賓的に
       立派な使者風ではなかったのでかなわなかった。京での滞在をあきらめ、わずか滞在11日
       (約1カ月との説もある)で、失意のうちに京を去った。

       (実のところザビエルにとって、布教のための日本の現状視察で、その戦国乱世のゆえ、
       心の内ではその一面として、非常に期待はずれの絶望を感じた。南洋モロッカ諸島の未開
       人への宣教の方がずっと好ましいと思ったであろう。初めての日本への布教活動ゆえに、
       その範例の道筋だけは、きちっと跡付け示して置こうと耐え忍んで頑張り抜いたわけだ。
       それだけではなく彼の最も良き所、立派に自らの本分を果しえたことは、日本人のよき所
       を存分に紹介し、布教推進への高い適性度、十分なる妥当性を後続の宣教師らに知らしめ、
       日本布教発展への大いなる期待、希望に夢膨らませたことであった。
       それで、日本の事は後続の者らに任せて、自分は新たに中国への布教を試みようと、心の
       内に決意したようだ。)

      ★ザビエルが入京したこの頃の時代状勢は、ルイス・フロイスの「日本史」著作時点では、
       良く且つ、しかと正しく把握できてはいなかった、或いはその情報は乏しかったと見るべ
       きか(1583年秋以降から著作着手にて)、それでもザビエルの入京時の50年暮れから翌年
       の頃は、都での紛争・戦の時が一時的に終息したばかりの時期であったとのことで、未だ
       <公方様こと将軍足利義輝が都を離れて郊外に逃れていったままである>という状況を、
       同伴のフェルナンデス修道士から、当時の情報として知らされ得ていたと見られる。

       日本側史料によると、  
       1546年6月以降~1552年1月頃まで、三好長慶に敗れた細川晴元と共に、将軍義輝(義藤)、
       及び父・義晴は、近江方面(坂本、朽木など)に退去生活を強いられており、都は長慶勢力
       が牛耳っていたとの見方を、その歴史の史実解釈としているからである。

 1551年 山口を経由して、3月、平戸に戻る。(フロイスの日本史によると、堺を出る頃は1月末で、
       初めに平戸を出てから平戸に戻るまで、4ヶ月を過ぎてから帰ってきたと記している)

 1551年 4月中旬頃、平戸を立ち三度目の山口入りにて、大内義隆に再謁見。これまでの経験から、
       日本では貴人との会見時には外観が重視されることを知って、一行を美服で装い、珍しい
       文物を義隆に献上した。
       献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、
       洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などがあったとされる。
       これらの品々に喜んだ義隆は宣教を許可し、信仰の自由を認めた。また、当時すでに廃寺
       となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた。(日本初の常設教会堂)
       ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2カ月間の宣教で獲得した信徒数は、
       約500人にものぼった。
              この宣教の時期にザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目の琵琶法師がいたが、
       その教えに感動してザビエルに従い、後に在日イエズス会の強力な支援宣教師となった
       ロレンソ了斎という人であった。翌年の春に洗礼を受け、準修道士としての神学的教育と
       修練を続けた。
       
       山口での宣教中、豊後府内(大分市)にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、
       宣教、及び山口地区の信徒等をトーレス師、フェルナンデス修道士に託し、自らは豊後へ、

      *この年の9月中旬過ぎ、この大内氏の本国周防で内乱が起こっている。これはザビエルが
       山口を去った後の出来事であった。国主・義隆への謀叛によるもので、家臣らが敵味方に
       分かれての戦に発展し、義隆方が敗れ反逆者らが謀ったクーデターが成功するに至る。

       最初に不意を突く形で挙にでたのは、豊前国守護代を任された家老・杉重矩[シゲノリ]一派
       であった。続いてすぐに武断派首領家臣だった陶隆房(陶晴賢)らが主導権を握って本格
       的に遂行されるものとなった。
       (両者の関係が密通協力のものであったかどうか、歴史上決めかねるところがあり、
       杉重矩派は、安芸国・毛利(元就)氏側の策略の下に動いたのでは、とも考えられうる。
       これは、陶隆房らが豊後国の大友義鎮と誼を通じる動きをしているのを掴んでいたからで
       ある。)

       領国内は、互いの屋敷が戦火に見舞われるだけでなく、いずれかを支持する寺院なども焼
       かれ、その争乱により不法者の掠奪も横行し、一部民衆も暴徒化し混乱を遍くするものと
       なった。この乱、戦イクサにより、大内家の領国は極度に衰微し、一時食料不足が深刻になり
       領民は飢えに苦しみ、巷や、野辺、山中に死人が横たわるほどの飢餓状態となった。
       山口の町で、月に六度あった市場の賑わいも消え去り、数年経たなければ回復に至り得な
       かった。飢餓の影響は54年まで続いたとも、フロイスの史記では述べられている。

      *このような領国衰微の時、自国領民を救済するような他国からの援助など有ろう筈がなし、
       期待できる策を講じる当てもない。戦国乱世のただ中ゆえ、かえってこんな状況の時には
       他国から攻め来られて国を失う危険の方が大きいわけである。
       今回の場合は、周防国が豊後国との親密な関係、兄弟国主の間柄となる同盟関係の体勢を
       すばやく可能としたから、その危険を免れ得たと見られる。
              
 1551年 9月、ザビエルは豊後に到着。守護大名・大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、宗麟の保護を
       受けて宣教を行った。

 1551年 11月15日、日本滞在の2年を過ぎ、インドからの情報がない事が気になり、一旦インドに
       戻ることを決意、日本人青年4人(鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオ)
       を選んで同行させ、トーレス神父とフェルナンデス修道士らを日本に残して出帆。
       種子島、中国の上川島を経てインドのゴアを目指した。

      *ザビエルは、これからの日本での布教活動の進展がどのように開かれ、発展してゆくかを
       目の当たりに体験することなく、日本を去るという結果になってしまった。再び日本に戻
       ってくるという心づもりがあったに違いないけれども、、、

 1552年 2月15日一行は、マラッカからコチンをへて、ゴアに到着。ザビエルはベルナルドとマテオ
       を司祭の養成学校である聖パウロ学院に入学させた。

      *マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人
       となった。しかし、彼は、リスボン、ローマ、再び、リスボンと学寮、修道院で、滞在生活
       をする中、積年の疲労から床に就き、そのまま日本に帰国することなく、1557年3月の初め
       に世を去った。

 1552年 4月、ザビエルは、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国で
       の宣教が不可欠と考え、バルタザール・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣、ザビエ
       ル自らは中国を目指し、
       9月、上川島に到着した。しかし中国への入境は思うようにいかず、体力も衰え、精神、心
       的にも疲労を重ねており、病を発症。
       12月3日、上川島で、召されこの世を去った。46歳であった。

      *ザビエルの遺骸に関して、かってヨーロッパでの伝統的なカトリック教会では、聖なる遺
       骸をちゃんと一体のまま安置されていたと思うが、何ゆえザビエルの生きた時代の東洋で
       は、遺骸をバラバラにしてしまうのか。これはザビエルという人格に対しての冒涜ではな
       いだろうか、、、。仏教などの風習、仏陀の舎利の影響だとしても、そのような風習にな
       らうべきではなかったというほかない。

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 ・<コスメ・デ・トーレス>:1500年? - 1570年10月2日、スペイン人カトリック司祭、
                後イエズス会宣教師、ザビエルの意志を受け20年にも及ぶ日
                本での宣教に従事する。
                スペイン・バレンシア出身のトーレスは若くして司祭となり、
                故郷を離れてメキシコに渡った。さらに
                1542年4隻の舟でメキシコを出航したビリャロボス艦隊に同行
                して、北太平洋を横断して東南アジア地域の諸島にまで至り、
                そして、1543年フィリピン諸島にたどり着いた。
                ザビエルと共に日本での最初期の宣教師の一人、主に山口及び
                九州での布教活動に従事した。
                ザビエルに代り、日本地区での初の布教長を任される。
   
 1546年 モルッカ諸島で、たまたま同地に来ていたザビエルとの運命的な出会いをする。
       トーレスは、ザビエルの熱き使命、神にあるビジョン、その人柄に心打たれ、
       インドのゴアへ随伴し、そこでイエズス会員となる。そしてザビエルの同行者として
       選ばれ、日本への宣教を志す。

 1549年 4月15日、インド・ゴアから日本へ向けて、ザビエル一行らと共に旅立つ。
       (ザビエルは、かってメキシコから太平洋を横断して、フィリピン、モルッカ諸島に
       まで来た、トーレス司祭をその経験により、高く評価していたと思われる。)

       ゴアからマラッカまでは、当時のジャンク船で、マラッカから日本へは、いまだ日本
       への定期的なポルトガル船はなかったので、5月末にマラッカに着いていたが、乗船
       出来る母国船はなく、やむなくシナ人で海賊家業をなす御人の船で、保証人を立て、
       保証金を積ませることで、日本までの乗船を約させ、マラッカを後にしている。

 1549年 8月15日、トーレスは、ザビエルや日本人ヤジロウ、他同士数人と共に鹿児島に到着。
       9月、領主・島津貴久から布教の許可を得たが、しばらくして彼が仏僧の意見を聞き入
       れてから事情が変わった為、薩摩を去る。

 1550年 8月ザビエル一行と共に肥前平戸に移り入りて宣教活動を行った。当初松浦氏の庇護を
       受ける事ができたため、トーレスは平戸に留まった。
       10月下旬、ザビエルらは、信徒の世話をトーレスに託し、日本人ベルナルド、ジョアン・
       フェルナンデス修道士と共に平戸を出立、山口を経由して京都へ上る道をたどる。 
       (ザビエル師らは山口に来て後、12月中旬過ぎにはそこからさらに都への旅を続けた。)  
 
 1551年 都から平戸に帰ったザビエルのその後の布教活動の見通し判断により、その春には再度、
       周防国・山口に赴くザビエルに随行して、その地域での新たな布教活動をなす。しかし、
       その時、ザビエルがフェルナンデスと一緒にその地で活動している間に、平戸の信徒ら
       が気になり、平戸に戻ったりもしていると見られる。
   
 1551年 春半ばに山口で修道士になったロレンソ了斎の協力者を得て、トーレス、フェルナン
       デスらの地道な宣教活動が実を結び、山口、九州の各地にキリスト教が広まり始めた。

      *この年(天文20年8月末)の9月中旬頃、山口の周防国で内乱が起こり、2ヶ月余り身を
       潜めての避難を強いられ、困難、難儀な日々が続いた。

      ★ザビエルが山口から豊後へと去った後に、国内に争乱の兆しが生じてきた。この内乱へ
       の発展は複雑に込み入った混迷した政争及び利害関係の生存闘争となり、最初の火付け
       役は、真言宗派の一部家老らとその仏僧らの謀叛のたくらみにより、国主・大内義隆の
       現世下で、未だ従属の隣国・安芸の領主・毛利氏とも内密に事の支援を計っているもの
       であった。この初端の乱の実行首謀者は豊前の守護代で家老・杉重矩[シゲノリ]であった。

       これに対して、その頃、国主から左遷され、政治の実権的地位から外されていた武断派
       の<陶隆房>らが、いち早く彼らの動きに対処して、挙兵の機会を狙っていた。
       この一派の背後には、豊後国の大友義鎮[ヨシシゲ]の強力な支援が控えていた。
       山口の町の戦禍は、八日間ほどで火と刃の混乱は終息したが、その折の乱が<陶隆房>
       らの挙兵の好機、合図となり、豊後の大友氏に支持された家臣団一派が勝利に至る形勢
       をつくるものとなる。
       彼らは国内の紛争内乱を平定鎮静化して、外的の毛利氏の動きも抑えるとともに、前の
       旧臣らや敵となった仏僧一派を一掃し、国主・義隆を追って、責任自害を迫り、これに
       成功したかたちとなった。
       トーレス師は、ザビエルが山口から豊後へ行く前に、平戸から戻って来ていた。彼が、
       山口に帰った二十日後 <杉重矩[シゲノリ]>らの策謀の実行がなされた。この動乱は9月
       下旬末頃から10月におよぶ時期であったため、この年の秋の農産物の収穫に大変支障
       を来たし、その後の周防国における極端な食料不足の飢饉を招くものとなった。
          
 1552年 この年、ザビエルの要望指示により、インド・ゴアから一人の司祭バルタザール・ガーゴ
       と、二人の修道士(シルヴァとアルカソヴァ)が、9月7日に豊後に到着したが、この折、
       トーレス師はそのことを知ると、すぐにフェルナンデス修道士を豊後に遣わし、その後、
       彼自身は、周防国・山口で10月中に先ず、それぞれ先発してやってきた二人の修道士に
       会い、その後、12月の降誕祭直前の日にガーゴ師と会い見えることができた。
       その年の降誕祭の時以降、翌年の2月初まで働きを共にし、ガーゴ師らに日本での布教活
       動のあり方、日本の生活マナーなど、教示する。
       
 1553年 2月4日、トーレス師は、日本への初布教以来、その最愛の同士だったジョアン・フェル
       ナンデスをバルタ'・ガーゴ師の通訳使に付け、山口から彼と共に豊後の国へと再び送り
       出す。この折、ガーゴ師付きの二人の修道士のうちの一人・ペドゥロ・アルカソヴァは、
       日本でどうしても必要な物を取り寄せるために、平戸からインドに向かわせるべく、豊後
       行きの彼ら一行に同行させる。その修道士は、折りよく豊後国主・大友義鎮のインド副王
       宛とする書簡を携えゆくものとなり、豊後から平戸へと向かい、インドへ旅立った。。 
 
 1554年 この年を前後した時期にトーレスは、ロレンソ修道士と新たに修道士となった日本人元僧
       侶・バルナバを都地方の比叡山の天台宗本山僧院に、その上長座主から京での布教の了承
       を得るために派遣している。(フロイスの「日本史」記事による)

      *日本側・現代歴史解釈での戦国時代史では、
       この時期1553年7月過ぎから1558年11月初頭までの5年余の間、三好長慶一門が京の都を
       支配下においた時期であり、幕府将軍・足利義輝、管領・細川晴元らは近江国(坂本、朽木)
       に亡命中にて、京都奪回の再起を図っていた。将軍不在、仮暫定の管領・細川氏綱を擁立
       した三好長慶政権下の幕臣たちが一応の公務出仕をなしていた。

 1555年 トーレス師はこの年、或いは翌年初め頃、一時的に山口から豊後に避難して来ている。
       これは周防国内山口で起こった謀叛の紛争によるものであった。

      *これは丁度、修道士ロレンソ了斎と元僧侶バルナバが都から<宮島で起きた戦>の影響で
       山口へではなく、豊後・府内に帰り着いた時、その地で彼らから迎えられていることから
       も知られうる。しかし、一時的避難が永久に山口に戻れない状況となる。
  
      *ロレンソたちの都からの帰途にあっては、おそらくその途上で、周防・山口の大身<陶隆
       房>率いる軍と今や安芸の惣領である毛利元就軍との戦の状況に出くわしたか、あるいは
       そのうわさを間じかに耳にしたに違いない。それで、山口に行くのを避けて豊後に至った
       のか、それともその戦の影響で船が山口に巡り行かない事態に遭遇したかであったとみら
       れる。この戦は、10月6日明けの深夜から終日かけて宮島(=厳島)とその周辺海域で
       なされたもので、宮島の港は普段より山口に至る海路の主要な寄港地であったから、戦状
       況ではどちらの水軍であろうと殺気立った情勢ゆえ、トラブル、災難に巻き込まれる以外
       にないからである。
       
      ★周防国の<陶隆房[晴賢]>軍は、その戦で潰滅的な大敗を帰する。総大将・陶義賢自身も
       その島(宮島)で脱出する事が出来ず、追い詰められて自害の憂き身にさらされた。

       この敗戦により周防国では、その後すぐに謀叛の内紛に見舞われ、山口の町は再び戦禍の
       火にむなしくされた。この時、最良の一等地に位置していたトーレス師らの司祭館、教会
       の建物も焼け落ち、備品家具も灰と化してしまった。この内乱により、トーレス師らは、
       事前に避難したものの、いつまでも山口には留まれないとみて、豊後へ
       所を移すものとなった。
       (この周防・山口の内紛の後、1557年4月には、安芸の惣領・毛利元就の軍が最良の好機
       と見て、攻め来たり、周防だけでなく、有力重臣の守護代・内藤氏が治める長門の国も攻
       略奪取され、5月以降は毛利氏が治める領有地となってしまう。)
        
 1556年 この年トーレス師は、その導きにより一定期間の修道修練を終えた元ポルトガル商人ルイ
       ス・デ・アルメイダをイエズス会員となした。その後、さらに数年の間、病院の設営立ち
       上げとその管理運営や、医師としての業務及び後輩指導の奉仕を続けさせたのち、それら
       の務めにけじめを付けてから、本来のイエズス会士としての宣教活動の任に当らせた。
       また、トーレス師は、
       この年の12月、山口の周防国主・大内義長からコスメ・デ・トーレス師に山口に戻って
       来て頂きたいとの要請がとどいていたが、豊後国主・大友義鎮[宗麟]のアドバイスにより
       それに応じることなく、翌年の夏頃まで一時見合わせることにしていて山口に戻ることは
       なかった。(この折り、トーレス師は、国主大内義長に返答すべく、かっての大内氏の家
       内奉公人であった内田殿ことトメを国主のところに送り出しているが、そのキリシタン・
       トメもその後まもなくしてすぐに再び山口から豊後に逃れ来る事になる。毛利軍により、
       国主・義長は敗走して、長門方面に退き、その守護代の城に落ちのびたからである。)
       
 1559年 トーレスは、サビエルの宿願だった京都での布教を果たすべく、再び、万を期してガスパ
       ル・ヴィレラ神父らを派遣した。随行者は、ロレンソ了斎とダミアンの2名であった。
       (フロイスの記事では、豊後から京方面までの案内役として、もう一人の日本人キリシタ
       ンのディオゴが加わり、その任を行っている。)

 1562年 トーレス師、豊後から肥前国大村領・横瀬浦に拠点を移す。豊後の府内の司祭館には3人
       の修道士、ドゥアルテ・ダ・シルヴァ、ギリエルメ、アイレス・サンシェスが残り、自身
       は、ジョアン・フェルナンデス修道士と同宿の内田トメ、および平戸から避難退去してい
       た数名のキリシタンを伴い、たまたま薩摩国の泊トマリの港に来航していたポルトガル船の船
       長・マノエル・デ・メンドンサら一行が豊後に来ていたので、彼らもトーレス師らに同行
       して、肥後の高瀬まではその旅を同じくした。夏の頃が終り9月に入った時期であったろ
       うと思われる。
       高瀬の港から伊佐早の港へと有明海を渡り、その地をへて、大村湾側の港からまた船に乗
       り、大村湾を縦断して横瀬浦に到着したようである。途中、その横瀬浦から数キロの海上
       まで出迎えに出たところの、ルイス・デ・アルメイダ修道士らの乗った船に出会い、再会を
       果している。

 1562年 この年12月3日、横瀬浦から平戸方面への訪問旅を、老弱になった身を奮起させ行なう。 
       この平戸への再訪の道、手立てをそえ開いたのは、外交的手腕で活動的になっていた修道
       士ルイス・デ・アルメイダであった。
       当初の予定は、平戸方面から博多へ、さらに出来ればそこから豊後へと向う心づもりであ
       ったが、博多および筑前地域で、その時代、戦国の常の如く謀叛内乱、いくさの情勢とな
       り、その予定は果されなかった。
       平戸および、その周辺の島々、特に生月島、度島、平戸島の村々でのキリシタンたちへの
       奉仕巡礼に終始したものとなった。

      *フロイスのこの訪問記事には<日数的な錯誤>があると見られる。“生月島に32日間滞
       在”とか生月島の記事のあとで、“一月の最初の日曜日に、度島に行った。”とか、、、
       度島行きは、文面内容を追って吟味すると、1月30日~2月最初の日曜が妥当な状況と
       なる。(第一部42章)

 1563年 トーレス司祭、平戸方面の地から横瀬浦に戻着する。フロイスの著述記事(43章冒頭)
       では、63年の“同年一月二十日に横瀬浦に帰ったが、云々、、”と記している。
       この文面も、前42章の文面内容を照合すると、まったく錯誤したものとなっている
       42章では1月24~30日あたりは生月島での内容記事となっているからである。
       この場合<“同年一月”を“二月”>とした方が妥当なものとなろうか。

       ##フロイスの著述ミスでなければ、邦訳ミスか、それとも印刷校正過程での邪悪なミス
         かであろうか。今日に至っても不甲斐ない事態が続いているのか、、#####  
         
 1563年 初のキリシタン大名として、この年の7、8月前後の頃、大村純忠が家臣ら二十数名と共
       に横瀬浦で、司祭トーレスから洗礼を受ける。
       その前年に純忠は、自領で、3、4軒の藁葺住居があるのみの寒村・横瀬浦(長崎県西海
       市)をポルトガル人の新しい港として開くことを快諾し、その土地を提供する便宜を計っ
       ている。
       (イエズス会最初期に係わる平戸の港が、その領主・松浦隆信に色々問題ありで、1562年
       平戸港でポルトガル人十数名の殺傷事件が起こり、事態が深刻化、彼らイエズス会は、新
       たな支援の役割をなす良き港を見つけ出すことを余儀なくされたからである。)

      *大村純忠公は、きびしい時代の情勢を生き抜くためにキリシタン伴天連イエズス会を受け
       入れ、領地領民を富ませ、領主としての立場を堅固にせんと望んだであろうと見られる。
       フロイスは彼に関する記事を詳細に記している。特に第一部41章においては、純忠が、
       洗礼を受けるまでの経緯、その前向きな交わりのやりとりが司祭や修道士らとの間でなさ
       れているのが見られる。以下それをまとめて、その横瀬浦が港町として急速に発展してき
       た最中、純忠公が、その地に出向いた訪問過程から掻い摘んでみると、、、

        ・その初回の訪問:<63年の四旬節の第二週中>の頃のことである。
                 司祭の答礼挨拶、食事会とその後の説話等々、 
                 この初回目は、トーレス師が昨年(62)12月に平戸方面を
                 訪れ、次年(63)の2月中旬頃、横瀬浦に戻ってから、ほど
                 なくしての頃となる。

        ・2度目の訪問 :4月の中、下旬の頃、いわゆる教会暦で<聖週間の
                 最中において>の頃のことである。
                 この折りは<主の受難週の時>ゆえに司祭トーレスは、お籠中
                 であり、代わりにジョアン・フェルナンデス修道士が応接、接
                 待するほかなかった。
                 大村公が港にきた時に少しでも長く滞在できるようにと、教会
                 の後方近くに自分の家屋を立てることを申し合わせている。

                *この2度目の後に、40日余りたった頃(御昇天の祝日の直後)
                 トーレス師自ら大村の殿(純忠)の地に赴いている。

        ・3度目の訪問 :教会暦で<御昇天の祝日>が過ぎた10日余りの後のこと。

                 この時期は<聖週間の最終日となる復活祭>から50日目にな
                 らんとする、2日ほど前の頃で、6月に入った頃であろうか、
                 すでに初回頃より3ヶ月余が経っている。その間に純忠公は、
                 教会の教えにより、<主のご恩寵に心開かれる者>となったよ 
                 うで、洗礼を受ける決意を、自らの心をして促がされ、その決
                 心を踏まえて、再び横瀬浦に出向くものとなる。
                 そして、この訪問時に彼は、洗礼を受ける。
                 お供の家臣のうち十数名か、二十数名かの者も一緒に受洗に与
                 かっている。

                *この時期、横瀬浦を訪れる前に、兄の有馬義貞からの出陣要請
                 を受けていたので、まさに彼の出陣間際のことであった。
                 したがって、ひとしきり悩み、こころ迷うところもあったろう
                 か、出陣故の<出陣の際での迷いは不肖、不運を招くなり>で
                 その決断を迫られたとも言えようか。      
                 明らかに、もはや出陣する前に洗礼を受けておきたいとの思い
                 が高まったと思われる。
                 洗礼を受けたからイザ出陣ということか、受けた日の翌日、急
                 遽して大村の本拠地に帰っている。
                 
                 その頃の日本の慣例事として、出陣の時に<戦勝祈願>を神仏
                 社ヤシロにするのが往々のならいであったので、彼とその家臣らの
                 洗礼は、その従来の慣例儀礼の代替を兼ねるものであったとも、
                 と見なし得る一面もあろうか。
                 (フロイスは、純忠が今すぐにも祭壇の<聖母画像>が頂けた
                 ら良いものだが、、、の彼の胸の内をちょっぴり遠まわしに覗
                 かせている。第一部41章にて。)
                 洗礼を受けたのは、大村純忠、30、or 31才の頃であった。    
            

      ★純忠は、有馬晴純(千巌)の子、次男で、母は元々、大村当主・純伊の娘であった為、
       しかも現当主だった大村純前の正室が、これまた有馬出の叔母に当たっていた親近関係
       ゆえに、天文7年(1538年)その養嗣子に迎え入れられた。
       彼が、大村純前の養嗣子となるによって、その当時からの純忠に恨みを残していた、純
       前の実子ながら庶子で養子に出されて、後藤氏を継いでいた後藤貴明が、純忠に不満を
       抱く大村家の家臣団の要望と企てに呼応し、反乱を起こした。その折りに横瀬浦は再起
       できないまでに町、港全体を焼き払われてしまう。63年8月16日の1日、2日の内
       においての惨事であった。
       
       そこでひとまず仮の港として福田の津を利用するが、入り江が外海に近いので、船の長期
       碇泊に問題の出る怖れあり、また海岸近くは水深がないので問題アリとかで、そこからか
       なり近い場所で、奥まった湾をなす長崎にと、イエズス会にとっての支援港となる港が移
       ってゆくものとなる。
       その後の1570年に大村領主・純忠は、再びポルトガル人のため長崎を提供した。当時
       そこはまったくの寒村にすぎなかったが、それ以降に良港として大発展していく。

       1578年に長崎港が佐賀の龍造寺軍らによって攻撃されると、純忠は、ポルトガル人の支援
       によってこれを撃退した。その後1580年に純忠は、長崎港周辺をイエズス会に教会領とし
       て寄進した。

       トーレスは、横瀬浦および長崎の二つの地での開港にも尽力し、貢献を余儀なくされた。
       戦国乱世の時代、九州でも同様で、布教活動においては大変困難なマイナス面も生ずる。
       日本地区の布教責任者として、各地を転々とした布教奉仕に疲れ果てるほどであったトー
       レスは、自らの余生の少なきを自覚し、1560年代の終り頃にはインドの総管区長へ、自分
       に代わる新しい布教長の派遣を依頼した。

 1563年 トーレス師の困苦、難儀、生活不安定な受難の時期がこの8月16日以後、数ヶ月、半年
       以上続く事になる。

       これは前日の15日夕方から起きた大村(純忠)公への謀反の乱の影響で、その翌日、横
       瀬浦がひどいパニック状態に陥った。他国(豊後など)から来ていた異教徒の悪辣商人ら
       がこの混乱緊時にポルトガル人らとの取引対処に折り合いがつかず、遂に彼らとの殺し合
       いの騒動にまで発展し、その港町が商人らに放火され焼け落ちてしまったからである。

       それでトーレス師は、老齢病弱の体を保持しながら、11月初旬まで碇泊中のポルトガル
       船で4ヶ月余り、
       島原の諸侯の一人でキリシタンのドン・ジアンの船で、肥後の高瀬に運ばれ、そこでは、
       翌年64年に亘って、数ヶ月の間、藁葺小屋(納屋)での忍苦困窮な生活と奉仕の日々を
       過ごさねばならなかった。

 1564年 トーレス師、有馬殿(晴純=仙厳)の所領、口之津に移る事になる。
       これは前年にアルメイダ修道士がトーレス師と共に高瀬に来た折り、彼が豊後に赴き、国
       主・大友公にトーレス師の現状報告並びに支援を求めたからであり、また、たまたま有馬
       国(仙厳)から来ていた重要な使者らに対して、キリシタン教会からの資金援助でもって
       彼らの用務を無事に終えさせた事があり、その事情を国主・仙厳も知り且つ、豊後の大友
       公からのトーレス師に関わる書状を受け、大友公の意向、方針に従い倣うものとなったか
       らである。これにより仙厳は、トーレス師に島原の領国に来る事の好意を示す書状を出し、
       アルメイダをその事前確認のために遣わした際、国主・仙厳は、口之津の港町をしかと確
       約するものとなる。

       このような経緯より、トーレス師はあらたな布教事業の拠点を得て、安堵する訳であるが、
       老疲労と病身的な身体ゆえにデウスの恩寵とそのご奉仕の至福の精神だけがその強い支え
       であった。この頃も全面的にその布教活動のために彼の支えとなったのは、アルメイダ修
       道士であった。修道士もトーレスと共に口之津に留まり、そこを拠点として活動するが、
       一時はルイス・フロイス師の都への派遣の為に随伴する。しかしアルメイダは一年と経た
       ぬうちに、半年ほどで畿内の堺を旅立ち、九州へ帰るものとなる。

 1569年 この年の前後から70年春ごろ、トーレス師は、大村の地に留まってデウスへの奉仕活動
       をなしているが、彼がその地で在住して、ドン・バルトロメウ大村公との交わりを親しく
       する故に、異教徒の家臣らが叛旗するような行動を起こしている。その紛糾の解決策とし
       て、トーレス師はその地から身を引き、老齢病身にて平穏ならざる身であったが、口之津
       から天草の志岐へと70年の初夏には移り住んだと見られる。 

 1570年 トーレス師のインドに向けての後任布教長要請により、この6月ようやく、フランシスコ・
       カブラル司祭が天草の志岐の港に到着した。それからほどなくすぐ、無事に日本管区の布
       教長の任を、彼・カブラル師に引き継がせることが出来た。

 1570年 10月2日、コスメ・デ・トーレス、天草志岐(熊本県天草郡苓北町)で召されて死去。
       (フロイスは70を過ぎた老齢の師と記しているが、生年月日が1510年とかの説もある
       らしく、もしそれが本当に真ならば、享年60才ともなり、今の時代から見れば、初老で
       若すぎる生涯逝去とも言える。当時はその年令程度で、高齢のうちだと言われていたと
       いうことであろうか。)

       ザビエルの最初の初期伝道の2年余り(1550-1551年等)が無駄に終わることなく、同労
       宣教師コスメ・デ・トーレスの並々ならぬ働きにより、ザビエルの志しの夢が、叶うものと
       なった。

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 ・<ジョアン[フアン]・フェルナンデス>: イエズス会修道士、宣教師、スペイン、コルドヴァ出身、
                       ザビエルと共に日本での最初期の宣教師のうちの一人で、
                       主に山口、豊後、平戸及び西九州で布教活動をした。

 1547年 リスボンから船出する。彼は裕福な商家の子の一人であったが、後にインド管区長になった
       メストレ・ガスパル師に随員するかたちで、若くして現地インドに渡った。

 1548年 東インド・ゴアの地に至る。パウロ学院にて、学び修練するとともに、イエズス会員となり、
       際立って誠実な修道士として、その日常任務も忠実に果たしてゆくものとなる。  
       ザビエルが日本行きメンバーに抜擢したのも、彼の清廉さと忠実従順な人柄のゆえであった。
       
 
 1549年 4月、ザビエルによる日本布教への初めての試みに参加、その7名の同伴者の一人として、
       インド・ゴアから出航する。
       8月15日、薩摩国の首都鹿児島の港に到着、ザビエル、コスメ・デ・トーレスと共に日本
       宣教の最初の第一歩をしるし、その後の布教史に名を留めるものとなる。

 1550年 10月末、ザビエル念願の京の都入りへの旅立ちにも随伴する。

 1551年 都での布教を事情により一時断念、4ヶ月の長旅のすえ、ザビエルと共に平戸に無事帰る。
       そしてまた、ザビエル師のこれまでの状況判断により、その春、再び山口での布教を本腰を
       入れて推進すべく、トーレス師や他の従者も含めてその地、周防国に向かった。

      *ザビエル離日後も、日本布教長トーレスを助けて山口での布教に従事し、またバルタザール
       ・ガーゴ師の到来後には、彼を助けて、
              53年から豊後、55年から平戸、57-58年では博多でも活動をなし、
       59-62年には、再び豊後・府内、及びその周辺にて、またその後、
       62-63年には、布教長コスメ・デ・トーレスと共に西九州の肥前の下[シモ]の地(横瀬浦)
       に移り、そこからまた再び、平戸方面にも布教の足跡を残している。

 1562年 フェルナンデス修道士は、ルイス・デ・アルメイダ同士の特別な用務の必要から、その7月の
       5日豊後から博多への同行をなす。その地に日本人ダミアンがいて、彼がアルメイダ修道士
       を手助けして、横瀬浦の視察と領主・大村公との接見を試みるためであった。
       フェルナンデス同士は、ダミアンの代りに博多にとどまり、仕牧と布教の務めをなす。
       その後、また豊後に呼び戻された後、布教長トーレス師の肥前・横瀬浦への移転をサポート
       して同行。その地から再び、平戸及び平戸の島々(生月イキツキ、度島タクシマ)などへの信徒養育、
       布教活動に赴くものとなる。

       (布教長トーレス師の新たな新布教地開拓意向の方針により、新たな支援の港とその地の君
       侯の有力候補が確かなものとして見い出されたからである。アルメイダとダミアンは、7月
       12日、小舟で平戸から大村領の横瀬浦に向う。その湾港は、すでに前年アルメイダ同士に
       より、ポルトガル船の入港、碇泊に適しているかどうか、水深その他、施設構築条件など、
       密かに調査ずみであった。
       布教長トーレス師はこの年の9月前後には豊後から肥前大村領の横瀬浦に移ったと見られる)
       
 1568年 平戸での布教活動に従事する中、病に倒れ、その熱病により死するものとなった。
       洗礼者聖ヨハネ生誕の祝日の4日か5日後の昼頃、召されるものとなる。病を押してのその
       祝日の説教が彼の最後の別れの務めとなった。日本に来て19年にも及ぶもので、その活動、
       務めの足跡は、一修道士として比類なきものとなった。

      *当時の日本語をいち早くから修得し、ザビエル、トーレスらの通訳を務める他、来日宣教師
       の日本語教育にも力を尽くし、こうして彼の日本語取得の薫陶を受けたイエズス会士のうち
       には、後に『日本史』を執筆したルイス・フロイスらがいたことを忘れる事はできない。
      *彼は生涯一修道士としてその道に甘んじたものとなったが、彼の修道士としての多大な助力、
       影響力は、日本キリシタン史にあっては計り知れないものとなった。
       
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 ・<ロレンソ了斎>: 日本人イエズス会修道士、通訳助使及び接渉人、説教師、

            かっては有能な琵琶法師としての語り師、まさに琵琶の音に調して吟じ歌い、
            語るところの秀でた話者芸人であった。
            1526年-1592年2月3日(天正19年12月20日)

          ザビエル来日以来、その離日前の山口でキリシタンとなり、また修道士とし
          ての誓いをなす。彼の才分をして天職の如き布教活動に勤しむものとなる。
          この御人の助力、活躍なくして、日本のキリシタン布教の多大な進展はあり
          得なかったと言われるほど、その貢献度は大きい。特に初期時代からの都、
          河内、高槻など、畿内での布教活動は、1559年から1586年まで、 
          66-68年頃を除いて、20年以上もの長きに亘っている。
         
         ★彼は、琵琶を捨てることは、今までの自分を捨てる事と一つであったから  、
          新しい自分に目覚めたものとして、誠心誠意布教献身の道を学びつつ、その
          活動及び自分の出来る務めにまい進することとなる。布教に関わる全ての活
          動、学び修練が彼の成長途上であり、決して余裕のあるものではなかったし、
          厳しい現実に遭遇する事も度々であった。
          それ故にふたたび琵琶を活かして、自分のなす常日頃の説教とは、趣きを大
          いに異にした、琵琶を奏でながらの<キリストの生涯、物語>或いは<キリ
          ストご受難>の場景などを感動的に語り明かすような、そんな彼の最大限の
          持ち前までの可能性に至り得なかったことになる。(秀吉の禁教令や追放令   
          など無く、穏当に進展をしていれば、そのような彼の活躍が現実のものと成
          り得たであろう。)
          
 1526年 (大永6年)肥前白石(現在の平戸市)にて生まれる。目が不自由であったが、若い頃か
       ら琵琶を習う機会にめぐまれ、やがて琵琶法師として生計を立てる道が開ける。

 1551年 (天文20年)山口の街角でフランシスコ・ザビエルの話を聞き、心に光を感じるところと
       なり、さらにザビエルの教えの薫陶をしっかり受けた後、彼より洗礼を受け、ロレンソと
       いう洗礼名を授かった。
       信仰の修練でも、精神的に内から強められ、肉体的ハンディーも思いがけないほど、幾分
       なりとも快癒的な面を知るものとなる。足も以前より多少強くなり、片目の視力も前より
       良くなったのかと、その変化を自分なりに自覚していたが、生涯そのことを秘したほうが
       無難であろうと決めていた。
       彼の30代前後からの精力的な活動の源がこの辺の意識の強さから出ていると思われる。

       ロレンソはザビエルが日本を離れた後も、イエズス会の宣教師たちを助け、キリスト教の
       布教活動に従事した。
       (この年、周防国、山口で謀叛の紛争が起きて、キリシタン成り立ての信徒等に大変な動
       揺が走り、司祭らについての心配憂いがつのるばかりの日々がしばし続いた。)
       
 1553年 山口の内紛による混乱や、仏僧らの圧迫の手により、相当に心の動揺を来たすところがあ
       ったが、その試練も乗り越えて、信徒等の霊的な奉仕の業にいそしむ。また
       ロレンソは、山口から一里ほど離れた近隣の農村へ、単身で初めて派遣されるかたちで、
       その村の5、60名のキリシタン宗徒に説教と教理を教える試みをなした。
       その後、同地を含め、その近隣の村々からの信徒の数が300名にも達した。

       そうこうするなか、一度生まれ故郷の肥前に帰ることを決意する。父母を一日でも早くキ
       リシタンにしたかったからである。もうそれほど余生があるわけではないからと、、、、
       その折り、トーレス司祭から豊後にいるガーゴ師宛ての書簡を託され、豊後に立ち寄る事
       となる。しかし、そこへ着くと、司祭館にくる異教徒のために説教をする任をまかされ、
       しばし府内での滞在となる。これはこの年の8月以降でのことであろう。それから数ヶ月
       後、山口の布教長トーレス師から召還の指示が出て、山口に戻ることになる。

 1555年 この年の春頃かは定かでないが、ロレンソは、トーレス師の都への布教計画を意図して、
       都地方にある比叡山に使わされることになる。同行者は、先の内乱後の2年ほど前に畿内
       から来てキリシタンとなった元仏僧(禅宗)のバルナバであった。

       彼らの大任を秘めた旅は堺から大和の国に一端立ち寄ってから、目的の比叡山天台僧門に
       至るものであった。しかし交渉取次ぎはその場では決まらず、9月初旬頃には帰途への旅
       路に着いた。(戦の影響で、帰路の船が山口に向かうものがなく、豊後へ行き着いたとの
       様子がフロイスの記事から推知されうる。)

 1556年 昨年の山口での杉重矩の子・重輔による陶氏への突如の挙兵に端を発した家臣同士の内紛
       騒乱により、この先数年にかけ、豊後・府内での滞在を余儀なくされることとなる。

       トーレス司祭らも昨年来より、その乱のゆえ山口から避難して来て、豊後府内での逗留活
       動となった。しかしロレンソは、その滞在の初めの頃、昨年の11月前後の頃と推定され
       るが、早速ながらかの比叡山の件にて、周防国主・大内義長からの信任状を入手する為、
       一度山口に出向いている。
       例の都への布教許可取次ぎの為の国主の書状が必要であったからである。
       (その後、周防国主・大内義長は、この年及び翌年4月頃、攻め来る毛利元就軍との戦に
       破れ、翌57年5月頃、遂に自害に追い込まれる。)

 1558年 (永禄元年)ガスパル・ヴィレラ師の豊後から平戸への派遣に伴い、通使、同労者として
       随行し、久方ぶりに生まれ故郷の地を踏む事になる。

       平戸では、仏教宗派・仏僧らの反対とその動向作為が強まるばかりで、備前国主の松浦隆
       信も家臣らのそれへの迎合で、彼らに屈して、当初のキリシタン庇護的立場からすっかり
       様変わりするものとなる。それ故、
       唯一の頼みであった有力家臣でキリシタンの籠手田[goteda]殿ことドン・アントニオの
       同意、支持により、彼の配下領有の平戸近海に島々(度島、生月、平戸島等々)での活動を
       主になす事になる。やがて布教が成果をなした段階で、ヴィレラ師らは、あちこちの寺社
       から偶像とみられる全ての礼拝物や諸宗派の書物を一掃すべく燃やし尽くしたため、その
       事が一層激しい反対と憎悪の火種となり、遂に国主・松浦氏の命により、平戸から追放さ
       れることになる。
       それにより、ロレンソ了斎も彼らとともに平戸を離れ、博多を経由して豊後に戻る。
       その頃、併行して博多の市を主に活動していたバルタザール・ガーゴ師、フェルナンデス
       修道士らが、その後の平戸に度々出向いたり、在住してキリシタンへの霊的奉仕を続ける
       ものとなる。

 1559年 (永禄2年)、コスメ・デ・トーレスの命を受け、再び9月5日、豊後(府内)からガスパル
       ・ヴィレラ司祭、同宿ダミアンと共に都への旅に立つ。
       比叡山との再三の接渉もうまく行かず、やむなくヴィレラ師は意を決して、無謀な京入り
       滞在に踏み切るものとなる。

 1560年 ロレンソ一行らは、この年の1月初めに入京し、その25日に非常に貧疎な掘建て小屋を
       借り受けて滞在するものとなる。その貧疎な小屋に3ヶ月ほど留まったのち、六角町通り
       の玉蔵町の一角の別の貧屋を借り受け、移り住んで布教の場をしつらえ、その奉仕に従事
       した。
       かって堺での旅の途中、一人のキリシタン医師の紹介状により、京の高位な僧・永源庵の
       心ある支援手立てにより、ようやく念願切望していた公方将軍・足利義輝に謁見すること
       がかなった。その後、かの永源庵や幕府官庁の高官・伊勢守・の執り成しにより、将軍公
       方殿からの直々のキリスト教布教許可の制札を受ける事ができた。
       また、その当時の頃、いまだ京都の実質的な支配権を行使していた三好長慶にも会い布教
       許可を得る事ができた。

       京での布教が公けに認められ、広く京中に知られるようになり、ロレンソ修道士の説教奉
       仕は、まさに昼夜を問わず、その忙しさの極みに至るほどであった。こうして、布教活動
       は、翌年、62年と比較的順調に進められたかに見えたが、、、、、

 1561年 この年の初夏の頃、ヴィレラ司祭が一時京から追放されるような状況となり、避難を余儀
       なくされる事態が起こった。これは激しく反対する法華宗・仏僧らの裏工作運動によるも
       ので、この時期、すでに大和国を領していた松永久秀が長慶に代り、京の政権を代行して
       いたが、
       その配下の有力秘書(今村)の手により、一通の伴天連追放の書状が京のキリシタン宛に
       出されたことに、その端を発したところの対処事件であった。
       これにより、司祭は、一時京を離れ、鳥羽から淀川を下り、十数キロ離れた八幡の地に隠
       れ避難し、様子、対応の行方を見計らうものとなる。

       この事件の折り、ロレンソは司祭の書状を携えて大和の国に赴き、その秘書官に取り合っ
       たり、また、京の公方[クボウ]方のかの政庁高官・伊勢守・伊勢貞孝に執り成し確認し、彼
       からの一書面を得て再び大和に行ったりして、その追放事件の解決を果たし終えている。
       その間一ヶ月前後を要したと見られる。

      *この年の8月から司祭が、京以外の地への布教を試みる意向をもって、堺に赴くものとな
       り、それにロレンソも同行している。

       この年、京での布教以来、初めての<キリスト降誕祭>の祝会が行なわれた。これは、
       三好方と六角義賢方との紛争が起こり、京がその戦争に巻き込まれる危機的状況が続く 
       最中の事で、ロレンソがその頃、堺に留まっていた司祭の指示により執り行ったもので
       あった。彼はその紛争の最中、度々、様子を見に堺から京に出向いていたとみられる。

 1562年 京や河内方面でのその戦争も7月までに終結して、京も平穏を取り戻したので、司祭及び
       ロレンソらは、一年余の堺の逗留から京の教会に帰還した。
       
 1563年 この年の復活祭が過ぎて後、再び司祭は堺にでむいたので、ロレンソもそれに同行した。
       その堺に滞在中の折に、ロレンソは大和の奈良や、松永久秀の居城・多聞城を訪れる機会
       を得た。この折りは、キリスト教に対して反対の立場にあり、まったく好意的でなかった
       松永久秀の顧問役の結城進斎山城守が、デウスの教え、宗論のために司祭ヴィレラを自ら
       の地・奈良に招いた時、ヴィレラ自身が直ちに赴くのは危険すぎるということで、ロレン
       ソが先ず代りに同地に派遣された次第であった。

       そこでロレンソはデウスの教え、教理を説き、理路整然と宗論の相手方を論破し、その疑
       問にことごとく答えた。これにより結城山城守とその友人で問答相手となった清原外記殿
       は、キリシタンになることを決意した。彼らは上流階級で位が高かったので、何の妨げも
       なく自由に自分等の意思決定をなすことができた。
       その後、ヴィレラ司祭を奈良に招き、じっくりとその教えを聞き、洗礼を授かることとな
       った。この折に、たまたま沢という所から奈良に来ていた高山友照がその場に居合わせ、
       これを聞いて大いに感心するところとなり、さらに奈良市中に数日とどまり、日夜感嘆の
       思いでもって聴聞して、洗礼をその時に受けるものとなった。
       この司祭の大和訪問伝道にロレンソが通事として同行していることは確かである。

       その後、高山友照は、沢の自らの城にロレンソを招いての教えを請い、妻や子の高山右近
       娘ら、そして家臣らなど、一週間ほど熱心に聴聞することで、百数十名の者が洗礼を受け
       るものとなった。その約一年後には司祭ヴィレラと共にロレンソは再び沢城を訪れる。

       この年は布教活動にとって、非常に稔りある充実した年となった。結城山城殿の息子が、
       かの時に一緒に洗礼を受けキリシタンになっており、彼が三好長慶の居城・飯森山城で仕
       える家臣であった関係から、彼の熱心な招きにより、ロレンソはその河内の飯森城に教え
       のために赴くものとなる。そして、その滞在中においてさえ、司祭が招かれるものとなり、
       七十数名の家臣らが洗礼を受けるものとなった。

 1563年 (永禄6年)この年にロレンソは、正式にイエズス会に入り、日本で最初の修道士(イル
       マン)となった。

 1564年 この年にも再び河内の飯森山城を訪れたりして、布教奉仕にたずさわっている。また、
       京方面での紛争のため、司祭が堺に出向いたりして、この河内方面での活動が、より多く
       行なわれるものとなった。

 1565年 (永禄8年)ロレンソ修道士は、フロイス師とルイス・デ・アルメイダが都へ遣わされ、都
       に来てからしばらくした後、アルメイダ修道士だけが、再び九州豊後に戻る際、堺から船
       で同乗し、そちらに同行しているとみられる。
       5月15日に堺から乗船して13日を経たその月末には豊後に到着している。その旅路に
       は、デウスへの献身奉仕を願っていた養方パウロというキリシタン医師も同行している。
       
       その九州の地では、そのままアルメイダ修道士に同伴して、島原・有馬、口之津、そして
       そこから大村公の領地の福田の港や、大村の地にも出向いている。
       また、九州の他の地にも赴いて宣教活動を行い、平戸やその近隣の島々での求めに応じて
       遣わされ、教会の布教活動の一貫としての説教に従事している。

 1566年 五島の島々においても、この1月の中旬以来、ルイス・デ・アルメイダ修道士と共にその
       最初の布教活動をなしている。アルメイダ師がその8月前後に病気のためその地を去った
       後、単身イエズス会士としてそこに留まる事になったが、その直後すぐに入れ代りとして、
       豊後からイタリア人司祭のジョアン・バプティスタ・デ・モンテが遣わされ布教活動が継続された。

       その後、彼らの後を受けて5島に遣わされたのは、1565年にインドから福田の港へジョア
       ン・ペレイラの定航船でやって来たイタリア人会士のアレシャンドゥレ・ヴァラレッジオ
       師であった。彼は暫らくして病を患い、重くなったので、来日以来2年目にして療養のた
       め、インドに送還される。彼の後には、正規の修道士ではないが、日本人のキリシタン医
       師・養方パウロが後を引き継ぎ、数年間、同地のキリシタンたちへの奉仕の任に当たる。
     
      *ロレンソ修道士はアレシャンドゥレ・ヴァラレッジオ師への引継ぎ支援の後、この5島への布教奉仕を終
       え、豊後の地にその布教活動を移す事になる。(68年までには豊後でベルショール・デ・フィゲイ
       レド師の助伴者として留まっている。)

 1569年 (永禄12年)ロレンソ再び畿内へ戻る。都に新しい権勢的動きがあり、予期せぬ大身候・
       信長により新将軍公方様が復位をなしたからであった。折しもロレンソが堺に着いた時、
       司祭フロイスは、高山右近の父ダリオの地の館に一時避難をしていた生活から堺に戻って
       きたばかりであった。ロレンソは、高山ダリオの大いなる支援協力により、信長の配下の
       和田(惟政)殿の援助、好意を得て、司祭を都に復還せしめる事ができた。

      *都への帰還が3月の末であったので、この年の復活祭の祝日(4月10日)を守る事がで
       きたと、フロイスの『日本史』記事にはある。

 1569年 さらに和田殿の執り成しで、司祭が織田信長と面会できた際、信長から布教許可の書状を
       得ることができ、(信長ご朱印の充許状:永禄12年4月8日付け、将軍公方様の制札:
       同12年4月15日付け)やがてロレンソは、
       ルイス・フロイスと共に信長の面前で反キリシタンの論客であった日蓮宗の僧・朝山日乗
       と宗論を交わした。この仏僧との執拗な反目抗争にかなり悩まされるものとなる。

      *フロイスの『日本史』での記述で、フロイスが都に戻る記事の個所(第一部85章)での
       出立日から都入りの日にちと、上記に挙げた<信長ご朱印の充許状と、将軍の制札の年月
       日>の日付(次の86章で載せている)が、永禄12年としての旧暦月日であるが、都入
       りの月日は、西暦での5月26(土)から28日(月)として記されている。これを旧暦
       にすると、4月の中旬以降の日となろうことゆえ、記述上で辻褄が合わぬ誤謬が生じてい
       ると見られてがちだが、どうやらそこには訳があり、かの二つの充許状それ自体の成立の
       経緯が絡んでの事で、その年月日が決め記されていたもののようである。
       (フロイスが日本の旧暦日と西暦日との関係からウッカリミスの錯誤をなしたかも知れな
       い。3月26-28日を、5月の26-28日としたことで。フロイスの著述が十数年後
       の1583年秋以降であったから、上記の二つの充許状の日本元号の旧暦日を西暦した月
       日として意識したことから生じたミスとも、、、、)

       つまり、その二つの充許状を書き記し作成した者は、信長に仕える、都と津の国の奉行職
       の和田惟政であり、これに信長が朱印の押捺し、将軍公方も同様に印をなしており、和田
       は、その際の年月日を、ほぼ伴天連を堺から都に帰還せしめた月日の頃にあえて合致させ
       て付すのが最適と見なして、そのようにしたからである。実際にそれらが出来上がったの
       は、ロレンソ、司祭らが都に帰還して後、信長に2度目の謁見をなしてから、さらにしば
       らくしてのことで、その充許状を得るために和田殿がまた大変尽力し、銀の延べ棒を10
       本を懐に携えて、信長にまかり願い出た次第であった。信長は、そのような賂を受け取る
       ような方ではなく、何の代価をなくわが朱印状を交付する旨をもって和田の上申に応えて
       いる。司祭、ロレンソらが3月28日(5月は何らかの錯誤)に都入りしてから、およそ
       1ヶ月余から2ヶ月ほど経過してからのことであった。

      *ロレンソ修道士は、この年から71年になる頃まで、仏僧・日乗の圧迫迫害のたくらみに
       より、大変な心労、難儀をさせられる事になる。何度も何度も高槻城の和田殿を訪れ、ま
       た和田殿が兵庫に出向いた(援軍の為)際には、その地まで行ったりして、良き守護の手
       立てを願ったり、美濃の信長を訪れて、その良き結果が得られた事へのお礼と報告をなし
       たりしている。

 1569年 ロレンソは、司祭フロイスに伴って岐阜の信長を訪ねるほかないような状況になり、6月
       中旬頃、岐阜へと旅立つが、その際ロレンソは和田氏から賜った書状を携えて行くという
       事で数日遅れて、途中近江の坂本で落ち合うことになった。そして、そこから共に船で対
       岸に渡り、美濃の国への旅を急いだ。そこでの滞在は十日ほどで、7月初旬までには都に
       戻っている。フロイスの記述では<岐阜の町に八日間滞在しました>とある。

       (このフロイスとの美濃国への同伴旅は、70年の6月中旬頃~7月初めにかけてとする
       見方もあるが、ここでは69年の事だと見なしたい。)
      *ロレンソは、都に戻った数日後には兵庫に向った。和田殿が高槻城など、摂津の国にはま
       だ戻って居なかったからである。信長からの書状を渡し、その後、和田殿と一緒に高槻に
       戻っている。(和田氏が戻ったのは7月下旬頃と見られるが、彼が兵庫に赴いたのは6月
       前後と見られる。彼が都だけでなく、近隣の居城である高槻城をもしばらく留守にするよ
       うになったので、これは大変、守護されるお方がいないという最悪な状況となり、もはや
       岐阜の信長殿を訪ねるほかないとの対処策をとった見られる。)
       
      *かの反デウス、反伴天連の急先鋒なる仏僧・日乗も美濃の信長の許に赴いている。これは
       ロレンソ、司祭らが都に帰ってからのことで、7月の中旬以降8月頃であるが、その訪問
       で信長に対して相当な懐柔工作をなし、しかも自らの地位権限を高めたと見られる。また
       信長と将軍・義昭との間を離反させるような政策を立案して、言葉巧みに彼を持ち上げ、
       信長を朝廷側にまるめ込むように、義昭との仲を裂き、分断させるかの工作を進めたと見
       られる。(翌年の早々に策定された<五箇条の条書>をもって、信長、義昭との間にそれ
       を承認せしめたことがその具体例となって現われている。)

 1569年 9月か10月頃に再びロレンソ修道士が、美濃の信長の許に赴いている。これは、悪辣な
       僧侶・日乗によって、最有力な支援守護者だった和田殿[惟政]が失脚、蟄居の憂き身に晒
       されたからである。
       (和田殿は8月中旬頃に所用謁見のため美濃の信長の許に出かけたが、その途上で信長か
       らの通達を受け、それにより自分が蟄居失脚、その他、大変な処分を被らされていること
       を知るに至った。)

       その後、一年近く経て、信長の上洛の折り許され、現職復帰している。この時が、『言継
       卿記』に記された、永禄13年(元亀元年:1570年)2月30日付けの「信長、岐阜城よ
       り上洛し、明智邸を宿所となして泊まり、3月1日に禁裏へ伺候」とある時期の事か、或   
       いは、同年4月に朝倉討伐に出かけたが、浅井氏離反での挟撃の危機に遭い、撤退して、
       京に帰った時での事なのか、それとも同年6月の姉川の戦いの後、7月に帰還した時であ
       ったのか、定かな史料記事は見い出されていないが、それらのいずれかの時期であったと
       見られる。
       
      *悪辣な日乗の執拗なまでの<伴天連追放工作>には黒幕のグループが見え隠れしているか
       も知れないが、和田殿失脚の工作は、国政に係わる事項での、ある事ない事の虚偽欺瞞の
       箇条文言を並べ立てたもので、和田殿が横柄な出すぎた職権乱用、権力行使をなしている
       を想像させるに充分なものであった。しかも、それがまた、朝廷・内裏から出たかのごと
       き文風にして、信長宛にそれが届けられた折にはもはや和田殿の立場はなく、完全に彼は
       ノックアウトとなってしまったのだ。処が半年か1年後には、実に不可解だが和田殿は、
       信長から以前にも優って大いなる処遇を賜って復帰させられている。そこに信長の知られ
       ざる思惑と、ある歴史的な事柄に絡む、隠された謎が秘められているという事情の事跡が
       あるのではないかと推察されうる。(これにはロレンソの信長への懸命な弁明、説得が密 
       かにあったから、和田殿復帰への機会があったと見られてもおかしくない。
       悪辣仏僧・日乗は、将軍・義昭と信長とを繋ぐ太い親密なパイプ役が、和田惟政だと気づ
       き、両者の仲を裂き、疎遠にすることで、伴天連追放の件も容易に成し遂げられると、そ
       の策謀を実行していったと見られる。さらに加えて日乗は、信長へ将軍義昭の政治的活動
       を具体的に束縛規制するため、五箇条の条書を草案し、承認するように仕向け、翌年の正
       月早々にその承認手続きを成している。)

 1570年 この頃はロレンソは、都を中心に畿内の高槻、堺、河内の三ケ頼照の地などで、布教活動
       をなしている。
       この年まで京の都、畿内地区の司祭は、ルイス・フロイスだけであったが、念願待望の新
       たなイタリヤ人司祭・オルガンティノが遣わされ、加わることになった。彼はこの年6月
       18日、日本地区の後任布教長として来航してきたフランシスコ・カブラル師に同行して、天草
       の志岐にその第一歩をしるしたばかりであった。

      *和田殿は信長から復帰するように、以前にもまさって認められ、俸禄を大いに加増され、
       再び守護職、奉行の任に就くが、摂津の領地での反信長勢力の三好三人衆や松永久秀に加
       担していた池田知正、及びその家臣・荒木村重との突然の戦に見舞われ、充分な準備、兵
       力もなく、性急うかつに出陣したため、彼自らは勇猛に戦ったが、結局多勢に無勢で相手
       の陣形の内に包囲されたも同然の状況となり、しかも銃での伏兵襲撃にも遭い、悲惨な最
       期を遂げる。71年9月11日のことであった。
       (日々の職務の忙しさ、油断、少々の驕り、戦略上での思慮の足りなさ、しかも高山有照
       ダリオの城からの危急な知らせで勇み足過ぎたから、等々で無残な戦の顛末となった。)

 1571年 この年の秋口、9月11日(元亀2年8月28日)、高槻城主・和田惟政の討死。(摂津国・
       白井河原の戦いにて)
       都にいて、最愛の庇護者、支援者である和田惟政殿が戦死したとの悲報を知らされ、ロレ
       ンソら教会の者たちは非常な動揺と悲嘆に見舞われた。この事態に対処すべく、何はさて
       置き、その当時、近江に居た信長の所にロレンソ修道士が赴くものとなり、彼がそこに行
       き、信長からの変わらぬ庇護、ご好意を確かなものとして帰ってきた。

       その後、高槻の城主は、幸いな事に高山ダリオ・右近父子となって、より一層デウスの教
       えの祝福がもたらされる情勢となった。この年、寒い冬の季節や到来した頃、都に新布教
       長に就任したフランシスコ・カブラル師が訪れた。その数日後、カブラル師に随行して、ロレンソは
       美濃国・岐阜にいた信長への訪問の旅に出かけた。都在住のルイス・フロイス師、コスメ修道士も同伴
       した。

 1574年 この年、2度目の畿内・都地方の訪問に下の九州から、布教長・カブラル師が訪れた。 
       彼のこの巡回の旅では、山口に3ヶ月ほど、岩国で約ひと月弱(この折り、流行り熱の病
       気に係り、余分な日々を費やしたが)留まり、その後、堺経由で元気に都に至った。都で
       は、丁度折りよく信長も滞在していたので、再び彼に接見することができた。
       その頃、都在住の2人の司祭、上長のフロイスとオルガンティノは、頻繁に高槻のキリシ
       タン宗団を訪れるものとなったが、その奉仕の聖事を交替にして務めていた。
       布教長カブラルは、この都訪問の旅から九州豊後に帰る途上で、数日の間、高槻城に滞在
       し、聖なる祝福の祭務をなし、デウスの御恩寵あふれる布教の時を過ごした。その折に、
       ロレンソ修道士も、都のフロイス師と共にその恵みの奉仕に大いに与かるものとなる。
       高山ダリオ、右近父子は、これ以後、より一層、信仰、救霊に燃え、教会環境を大いに整
       え、高槻の領地全体に展開してゆくものとなる。

 1575年 この年、都の待望の新しい、見るからに立派な教会の会堂が建立された。かって、ガスパ
       ル・ヴィレラ師が都に在住して、下京の老朽化した中古家屋とその地所を入手して、そこ
       で布教、聖祭の務めをなしてから、ほぼ十年が経過していた。
       五畿内の国々のキリシタン全員のさまざまな協力のもとに、この建物は新築新麗あふれる
       ばかりに完成するに至った。
       ロレンソ修道士は、その間にも高槻に復活祭を祝う務めに同行したり、その他の地に説教
       奉仕に赴いたりして、自らの聖なる務めに励む日々となった。

      *会堂、司祭館、そのほかの居室は、三階立ての建物に階層別に一体化されたものとなり、
       記念すべき、かってフランシスコ・ザビエルが九州・薩摩の国に主の恵みの福音をもたら
       すべくその地に到着、初来日した<8月15日>のカトリック教会暦の祝日名・<被昇天
       の聖母マリア>がその教会の呼称として選び定められるものとなった。その8月5日まで
       に完成には至っていなかったが、その祝祭日はとみに盛大に守り行なわれた。また秋の中
       頃には落成の祝(奉献)祭へと無事に至り、その後も各地からの大勢の人々の来訪を受け
       るに至り、日本国の都の教会としての栄誉を得る事ができた。

 1578年 この年の9、10月以降、畿内の全キリシタン及び都の司祭、修道士らにとって大変過酷、
       険悪な事態に巻き込まれる事になる。
       (荒木村重の突然謀叛:有岡城の戦い、天正6年(1578年)7月以降、翌天正7年(1579年)
       10月19日にかけて、摂津の主城への包囲戦となる戦への始まりで)

       信長の配下で摂津の国の守護を異例の特誉扱いで任された荒木村重が、反信長の叛旗を掲
       げた事からこの事態が起因した。というのはその時、高槻城主であった高山ダリオ、右近
       父子は、荒木に仕える家臣であったがために、信長との関わりが都の司祭オルガンティノ
       の仲介的な立場をして、大変な事態へと展開するものとなる。信長が高槻の右近が決して
       荒木側に与しないようにオルガンティノ司祭に命じ依頼してきたからである。
       司祭は右近への折衝を試みるが、右近の方は、荒木方に人質として、自分の息子と妹をあ
       ずけているので、信長方に付く事も出来ないで、その対処方法で窮地に立たされるばかり
       であった。信長はその事情をよく知っていたが、時を延ばせば敵方の同盟(大阪の石山本
       願寺と毛利輝元ら)がより強くなる恐れありで、司祭らやロレンソ修道士らを捕縛して、
       事をより速やかに進め、荒木方の威勢を崩さんとした。ロレンソと司祭が如何にして右近
       の無抵抗的立て篭もりの高槻城に入ることが出来たか、またその後の展開は、等々が、、
       ルイス・フロイスの著述に記録されている。
       (この深刻な事態は、フロイスの『日本史』第二部27章にて、他章よりあつ巻のページ
       を割いて記されている。実に臨場感せまられる記述内容で、その邦訳がなされている。:
       文庫本・織田信長篇Ⅲ<中央公論新社刊>)
 

 1580年 (天正8年)安土山城山麓下に晴れて3階建て洋風向き修道院(司祭館、神学校室舎付き)
       が出来る頃からは、そこでオルガンティーノ司祭らと共にデウスの福音活動に従事する。
       したがって、信長やその子息ら(信忠、信雄、信孝)との交流の時がしばしば持たれるも   
       のとなった。
       
      *修道院は、湖畔に面した造成地で、城山からは1キロそこそこで、城下町とお城、邸託群と
       の中間西方寄りに位置して、これも大そうめずらしい建物であったから、見物に来る人々
       が絶えることがなかった。


 1583年 信長横死の変の後、安土から一端都へ戻ったが、安土修道院関係の会士、成員、及び神学
       生徒らはすぐに高槻のより大きな教会堂へ移り、そこで従前どうりの活動を再開するもの
       となる。
       この年9月、ロレンソは、オルガンティノ司祭に伴われて大阪の秀吉への謁見に臨んだ。
       この初訪問への事由は、当時の高槻城主・高山右近からの良見ある勧告アドバイスに基づ
       くもので、目下、秀吉が大阪城築城とその新都市建設の事業に着手している事から将来を
       見込んでのもであった。

       司祭らの大阪での教会聖堂建築のための土地の下付の懇願は、その秀吉の事業と相まって、
       彼の大いに心良しとするところであったので、それに相応しい最適な土地を予め用意して
       いたかのごとく、与えられるものとなった。

 1585年 (天正13年4月初旬頃)羽柴秀吉が大軍を率いて紀の国雑賀攻め(太田城水攻め)時の折、
       ロレンソは、司祭グレゴリオ・セスペデスに同行して大阪からこの秀吉の陣中に訪れている。
              (最初の根来衆の諸砦城攻めで、焼け残った寺などの建物で良材の建築資材となるものが
       大阪の教会堂および修道院の建設にあてがう事が秀吉から許可されたので、そのお礼を述
       べるために訪れたということであるが、これはその戦地いた高山右近からの、その届いた
       書状による適切なるアドバイスに促がされてのことであった。)

      *この紀州征討(根来、雑賀衆攻め)では、キリシタンの高山右近や小西行長らが主将、軍
       船指揮官として加わっており、信長の後を継いだ秀吉のキリシタン衆及び伴天連らに対す
       る対応も、信長路線を踏襲する如くに状況は良好傾向にあった。したがって、畿内でのイ
       エズス会の布教活動、キリシタン宗徒の増大もこの先2年前後がピークとなるといった状
       勢で、何か一変するごとくに厳しい時代への変遷を迎えるものとなる。

       (信長の安土城時代には、尾張や美濃国でもキリシタン衆徒の数は大きく増大してゆくば
       かりの傾向にあり、越前へも<デウスの福音と平安の恵み>がもたらされる時期に至った
       のであったが、かの変(本能寺)により有望な安土という最愛の拠点を失う事になる。
       越前国へは、81年にルイス・フロイスと日本人修道士コスメら出向いている)

 1586年 5月4日、大阪城がほぼ完成する様相を呈した頃、秀吉からの通達により、日本地区の準
       管区長ガスパル・コエリョ師が大阪城へ親善表敬及び見学のため訪れる際、ロレンソ修道
       士も同伴随行するものとなる。
       この時は総勢30名を越える人数で、司祭、修道士がそれぞれ4名、同宿の者、及び神学
       校生徒らあわせて10数名、教会関係従者、及び地元や近隣キリシタン等、その他の従者
       ら出向いたものであった。この折、ルイス・フロイス師も同行してコエリョ師の通訳を行
       っている。

       その後、この年の6月(西紀)準管区長コエリョ師が予ねて念願していた、関白秀吉から
       の<伴天連布教の特許状>を得ることができた。この特許状には秀吉の大いなる好意の表
       われを示しうるもので、伴天連らの要望がすべて満たされるばかりか、<日本全国>何処
       にありても自由に良識活動を認可するものであった。
       <天正十四年 五月四日>の表記にて、<秀吉>自筆の署名入りのものであったが、普段
       普通は、朱印だけで自筆署名を一々していないとのことであった。
       この特許状の拝受には関白正室夫人<北の政所>の大いなる働きかけによるものであった
       とフロイスが記しているが、いまだ異教徒であった正室夫人のご好意あふれる手立ての処
       遇には驚きを隠せない教会側の様子がうかがい知れる。
        

 1587年 (天正15年)、豊臣秀吉による突然の<バテレン追放令>を受けて九州へと再び移り、そ
       の間、豊後から北九州、西九州を遍歴訪問しながら、奉仕活動をしてキリシタンを励ます。

 1592年 (文禄元年)長崎の地で召されて逝去する。

      *琵琶法師として日本の伝統文化や当時の文物読み物、及び仏教・神道の知識、習慣に詳し
       かったロレンソは、それら知識を生かしてキリスト教を布教し、戦乱の世にあって救いを
       求め、キリスト教の教えを知ろうとした多くの人々の疑問に答えた。当時の畿内や九州で
       多くの洗礼者が出たことは、ロレンソの類なき活動に負う処、実に大である。

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 ・<バルタザール・ガーゴ>:司祭、宣教師、イエズス会士、ポルトガル・リスボン生まれ、
                日本での最初期の宣教師の一人、主に九州の豊後及び、平戸、博多
                などの西北地域で布教活動をした。

 1546年 イエズス会に入会する。

 1548年 インド・ゴアに至る。

 1552年 この頃にザビエルの指示により、彼の代りに日本への派遣の任を受け、二人の修道士ら
       (ドゥアルテ・ダ・シルヴァとペドゥロ・デ・アルカソヴァ)らと共に日本にへ。

       4月17日、ザビエルと共にゴアを出航、マラッカでザビエルと別れ、
       6月 6日、マラッカから日本に向かう。最初に着いたのは種子島で、
             そこに幾日か滞在した後、そこから船出し、薩摩の港へは不寄港にてか?
       9月 7日、その交易船の最終目的地の豊後に到着した。

       (ポルトガル船の交易ルートは、当初種子島経由で薩摩国から豊後府内の港まで開けた
       が、もう一つの航路が、広東の地よりさらに中国北東部寄りの沿岸経由、かって明との
       勘合貿易でのルート=寧波と北九州の港間に沿った、平戸や、後の長崎港に至るルートが
       開け、このルートの方が航海するにより安全であると認知されるようになった。)

      *フロイスの史書での<第一部6章>の記述で、“平戸港に着いて、すぐにトーレス師の
       いる山口に直行した”という文言を記しているが、これは、誤記と見られる。というの
       は、あとの9章での記述、“豊後に到着し、その後のガーゴ司祭ら一行の行動記録が詳
       しく述べられているからである。

       その10月には、随伴の二人の修道士らを先発して、豊後から山口に向かわせている。
       次いでガーゴ師自身は、山口から豊後に遣わされていたジョアン・フェルナンデス修道
       士を伴ってその12月、降誕祭直前頃に山口に来着し、先輩布教長のコスメ・デ・トー
       レス師に会い見えている。

 1553年 2月4日、山口から豊後へ戻る旅路につく。ガーゴ司祭は、かねて豊後国主・大友義鎮、
       (後の宗麟)のザビエルへの要望、約束に答えるかたちで、豊後への司祭としての来着を
       意図するものであった。
    
      *ガーゴ師は豊後に到着したその日のうちに、また翌日にも国主の許を訪ね、会見したが、
       その数日後、大変な事態に見舞われる。国主・義鎮への謀叛が起こったからであった。
      *この年、国主・義鎮から司祭館を建てる土地を与えられたが、ガーゴ師らはキリシタン
       とともにその敷地に大きくて非常に高い十字架を立てた。

 1555年 ガーゴ師は、まだ山口にいたコスメ・デ・トーレス師の賢明なる指示により平戸へ、そ
       このキリシタン衆の司牧を兼ねて遣わされる。
       その折、ジョアン・ヘルナンデス修道士と、かって畿内大和の多武峰から来た元仏僧の
       パウロ(彼は和医者でもあった)らが同伴した。
       (この日本人パウロについて、フロイスは非常にすぐれた偉大な説教者だと、賛評の辞
       で書き記している。史書:第一部14章)

 1556年 昨年の晩秋近くに豊後・府内に居所を移したトーレス師の指示で、平戸からの博多の町
       での宣教をも兼ね任されるものとなる。これには豊後の大友氏による地所供与のお膳立
       てがあったからである。

       (その頃筑前国の国人領主・秋月文種は、豊後の大友氏に従属していた。しかし翌57年
       安芸国の毛利(元就)氏が、周防国の大内義長を滅ぼし、長門の国をも配下にして、北九
       州にも勢威が及ぶにいたり、筑前の秋月氏は、毛利方に通じて叛旗をひるがえす。豊後
       の大友方は、2万ほどの兵を繰り出して秋月を征伐し、筑前国を自領とするに至る。
       この動乱の時にカーゴ師はたまたま博多から豊後・府内に一時避難していたか、或いは
       平戸に戻ったという事態になったかも知れない。)

       その後、58年になり、来日して日の浅いガスパル・ヴィレラ師らが新たな平戸地域担当
       として派遣されるにより、
       ガーゴ師らは、博多の町が移り、その地が専門の担当教区となり、そこでの布教活動に
       従事する。併せてその頃、教会、司祭館の建設にも着手している。

 1558年 ガーゴ師らは、豊後国主・大友氏の計らいで、土地を与えられ、教会と司祭館も建てる
       事が出来て、布教活動もさい先良く順調に進むかに見えたが、あに計らずや、そこでも
       戦国動乱の世の常が行く手を阻むものとなった。

 1559年 かっての肥前の菊池一族系の国衆で筑紫の代官である家臣が謀叛を起こす事件が発生し、
       その筑紫の殿の兵により、博多の町は一時占領される事態に陥る。
       ガーゴ師らは、その3ヶ月余り、惨憺たる難儀をしいられ、迫害状況に晒される。
       その間に教会と司祭館の建物は、異教徒等に壊され焼かれたりして見る影もなかった。
      
       博多での布教活動もほんに短い年月であったが、そこでの戦国動乱の災難と迫害をもろ
       に受けたガーゴ師らの身と命の危険度は、日本での布教活動始まって以来、最も過酷な
       ものとなった。それでも博多の町から脱出できたのもデウスのご加護によるものと、キ
       リシタン達が思わずにはいられなかったであろう。
       その地元育ちの一人の機知のあるキリシタン・カトク・ジョアンという者の救助と手引
       きにより難を逃れる事ができ、豊後にやっとの思いで戻ることができた。
       彼を助けたそのキリシタン・カトクジョアンは、後になってフロイスらが京へ行くとき
       の道案内役として、随行した者の一人で、その良き働き人となっている。

       その後、ガーゴ師は体調を崩して病を患い、一時布教活動から後退を余儀なくされたと
       見られる。
       
 1560年 ガーゴ師、インド・ゴアの地に帰ることになる。先の56年にインドからメストレ・
       ベルショール師が訪れて以来、その後数年の間インド・ゴアの管区長からの連絡音沙汰
       がなく、日本からの状況報告も非常に不十分であったから、信頼と責任のあるガーゴ師
       がインドに戻ることになった。

       豊後の教会で、沢山のキリシタンからの送別を受け、10月27日に港から出航。
       航海は初めの12日ほど順調で、そのままマカオに無事到着するかと皆が安心していた
       が、船が進行する方向側からか、にわかに嵐に遭遇し、船は帆柱が折れ、沈没寸前の波
       揺れの中、漂流し皆が死を覚悟する思いで、船の進む方向も判らないうちに4日目に漸
       く嵐から抜け出て、無操縦の船の進むまま陸地の見える島(シナ領土の海南島だと後で
       判る)に漂着する。
       11月21日にその島のちゃんとした港に入港しようとしたが、勝手の分からない港で
       あったから、浅瀬となる砂州に船底を何度も衝突、引きずるなどして、ついに難破、船
       は航行出来ないほど損傷、その後、やっと別の救援の船で、その年の暮れマカオに無事
       到着することになる。それからはシンガポール海峡で海賊船でのトラブルがあったもの
       の、翌61年1月20日にマラッカに着いた。その後はコチンからゴアへと無難に行き、   
       その長い航海を終えている。
       
       バルタザール・ガーゴ師は、その後ゴアの地でしばらく過ごすが、病気をわずらい、快
       癒することなく、召され逝去する。
       (1562年12月10日付、ゴア発信のガーゴ師の書簡で、ポルトガルのイエズス会
       宛のものが見られるとのことで、その頃以降のご逝去かと思われます。 )

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 ・<ルイス・デ・アルメイダ>:1525年? - 1583年10月戦国時代末期に日本を訪れたポルトガル人。
                 若くて裕福な貿易商人であったが、後にイエズス会員となった。医師
                 の免許を持ち、西洋医学を最も最初に日本に実践導入し、日本初の病
                 院をつくったことで知られる。(現在大分市には、彼の名を記念した、
                 <アルメイダ・メモリアル病院>がある。)

 1525年 リスボンでユダヤ教からカトリックに改宗したコンベルソの家庭に生まれ、医師として
       の道を歩み、医学校での学業研鑽をなす。(王立医学校か、伝統あるコインブラ大学の
       医学科の出なのかは定かでないが、、)(ユダヤ教からの改宗者をコンベルソと言う)

 1546年 ポルトガル国王から与えられる外科医開業免許を取得した後で、何故か、開業医とか、
       雇われ医師とかを生業とする道にそのまま進まず、夢多き若者ゆえの、その思う処の人
       生はなはだ大きくして、おそらく<時勢のときめく流れ>に影響されてか、、
       2年余り後には海外で、、

 1548年 貿易商人となるべく、インド・ゴアに向かった。アルメイダは中国と日本の交易で財を
       なして、マカオでは高名な富豪商人となってゆく。
       (彼の場合、推察の域を出ないが、マカオを基点に、ゴア、東南アジア、中国、そして、
       日本へと、その中継貿易ルートを確立し、単なる貿易商だけに止まらず、海運船業をも
       副益的な営みとしていたと思われる。おそらく自前所有の2、3隻の外洋商船を持つま
       でに至っていたであろう。)
   
 1552年 27才の頃、貿易商人として初めて日本へ、種子島の土を踏む。その後鹿児島に行き、平戸
       を経て山口へ、そこでイエズス会士コスメ・デ・トーレスに出会う。この出会いが彼のそ
       の後の人生を左右するものとなる。
       (その頃、彼はすでに人生の岐路に立たされる状況になっており、それがゆえに山口に居
       たトーレス司祭の許を訪れたと見られる。)

       それから、一度マカオに戻り、富豪なる商人だったことでの身辺整理、財産や商会組織等
       の整理をして、新たな人生に向けての決意として、再び日本へ向かう決心をなす。彼30
       才に成りし時であった。(ただ、商船の1隻だけは、ただ同然の無償貸与でもって手放し、
       その代わりに必要なものや、何らかの品々を無料で運ばせるようなかたち等々で、契約を
       交わしていたであろう。)

 1555年 アルメイダは富と名声を捨て、ザビエルやトーレスのように、日本で宣教する新たな望み
       を抱いて、この年に再び、日本の平戸に到着した。その当時、平戸地域の布教を担当して
       いたバルタザール・ガーゴ司祭の導きで、修道士としての神学修養と訓練を始める。その
       後、トーレスの指示で、大友宗麟の領地、豊後に遣わされ、豊後府内(大分市)での布教
       支援を任される。この地で悲しむべき光景を目の当たりにした彼は、先ず持って、貧しさ
       の故に見捨てられた乳児、幼児の為の育児院を私財を投じて建てるものとなる。

 1556年 彼はイエズス会に入会、イエズス会に献納された巨万ともいえる財産は、1557年には豊後
       府内(大分)に本格的な西洋式の病院(病棟は2棟で、ハンセン病棟と外科病棟)を建て
       るのに有用される。これには日本人医師の養成のための医術舎屋も併設された。

       1559年には内科・外科一般病人向けの、さらに大きな病院施設が設けられ、総合的な病院
       施設とまでなった。病院の運営は、ミゼリコルディア(慈悲)の組と呼ばれる信徒組織に
       委ねられた。
       このミゼリコルディアという信徒の互助組織の家は、九州の他の地にも出来てゆくものと
       なった。

      *教会建物の建設はこの56年の10月にも完成し、200人ほど収容できる規模のもので
       あったと記されている
       (ヴィレラ師による106号報告書翰)=ルイス・フロイスは、その当時の幾多の報告書
       及び書簡などを管理しており、それらを参照、引用して自著「日本史」を著わす。) 

 1561年 この6月から、彼は宣教活動に専心すべく、各地に赴くものとなる。
       その伝道の旅の初めは、コスメ・デ・ トーレス師の命により、先ず博多の地に行くこと
       から始められた。
       博多[18日間ほどの滞在]後、平戸及びその海域の島々[度島、生月の島々、平戸島等]
       そして、8月中には豊後に戻る予定になっていたから、再び豊後に帰って来る。
       だがその折り、彼はひどく病み疲れて帰ってきたから、再び健康を回復させるのに一ヶ月
       ほどの病臥療養をなした。健康が回復したその後、秋ごろには
       今度は府内周辺のキリシタンの村々へ、その5、6ヶ所にそれなりに見合う教会施設を建
       てるようにと派遣され、それぞれ教会での集い方の指導にもあたる。その後

       この12月に再び豊後を出発して、薩摩の国に向かう事となる。それはザビエル師の時以
       来の事で、12年ぶり久々のイエズス会士の訪問となるものであった。これはトーレス師
       が薩摩国の泊[トマリ]港に碇泊していたポルトガル船の船長が数人のポルトガル人をガードし
       て府内の教会を訪れた折りを利用して、彼らが薩摩の碇泊地に戻る機会を捉えて派遣する
       のが良いと判断したからであった。

 1562年 この年の初めより4月頃までか、薩摩国内に滞在しその活動の日々を過ごす。
       鹿児島内⇔市来、及び泊の港などで。
 
      *この薩摩への訪歴伝道の旅のルートは、朽網[クタミ]経由で阿蘇の山稜を踏破して、有明海
       側に至り、そこの港から八代の海側のある町で逆風のため上陸し、その翌日にはそこから
       阿久根港へ、そこから小舟に乗り、市来の港で下船、その山中にある市来城を訪れ、そこ
       からさらに陸路で鹿児島の国主の城下町に至るものであった。

      *このアルメイダ修道士と通訳使の日本人同宿の薩摩国滞在は、非常に良好なもので、2、3
       ヶ月足らずの期間ではあったが、市来城へと3、4度繰り返された歴訪奉仕においても、鹿
       児島城下市内における教布宣示においても、思いがけないほど濃密な交わりを、心の惜し
       みないふれ合いの時を彼らに印象付けるものとなった。

       (かってザビエル師と親しい間柄となった忍室という高僧や、その師弟関係にあったもう
       一人の高僧との知魂的交わりなど、薩摩の国の領民の多くが<魂の心の渇き>を表して、
       何かしらを求め満たされたいという心情的な状況にあったようである。

       これについては、アルメイダらが鹿児島から去った後、62年に国主・島津貴久のある精
       神的な面での焦りとか、せっぱ詰まった面での心情を吐露していると思われる書状(手紙)
       においても見受けられる。その頃の国主・貴久にとって薩摩守護でありながら、いまだ自
       国の統一さえままならず、成されていない現状で、2、3の国衆豪族らが勢威反目した状
       況であった。それに引きかえ豊後の大友氏は日の出の勢いのごとく、中央及び地元九州に
       あってその隆盛に目を見張るものがあったからである。=インド副王宛の書簡[これはアル
       メイダが国主から受理したもの] 及び、永禄4年9月8日付けのイエズス会インド管区長
       宛書簡において。)
       フロイス「日本史」の第一部33章(邦訳:文庫版第24章⇔大友宗麟篇)

      *薩摩国での滞在も豊後のトーレス師からの書状における通達により終了する事となる。
       書状を受け取ったアルメイダは、市来から鹿児島に戻り、キリシタンたち、友人知人らに
       別れを告げ、市来城経由で、市来の港から乗船し、肥後の国ルートで豊後へ帰った。
       (4月初旬頃に発ったと思われる。)

 1562年 鹿児島からの帰途の途上、肥後の港(高瀬辺り)まで来たが、平戸港とポルトガル船との
       問題が何かと気がかりになっていた。それは、ポルトガル船がすでに平戸から薩摩の泊の
       港や阿久根の港など予期せぬところへ回航していたからである。やも得ず平戸湾内近くに
       碇泊している船(フェルナン・デ・ソーザ総官船長のもの)が一隻いたが、これらは前年
       (61年)に来航していたものであった。阿久根港に碇泊していた船なども薩摩国への公式
       許可を取ったものでもなく、事前連絡なしのものであったため、その船長のアフォンソ・
       ヴァスらが薩摩国の防備兵らの他国から侵入してきた盗賊を討伐する事件に巻き込まれ、
       誤殺されるという意外な一件が既に生じていた。同胞ポルトガル人らの安全、マカオ経由
       での日本イエズス会宛の必要物資の安全確保などにも関わることであったから、、、、

       そんな訳で、アルメイダは考えめぐらした末に、密かに肥後から平戸に旅足を伸ばし、あ
       る一つのことのために事前の策を講ずるに至ったようだ。
       (フェルナン・ソーザの船の水先案内のドミンゴス・リベイロと都出身のゴノエ・バルト
       ロメウというキリシタンの二人に極秘裏の内に依頼して、大村という領国の横瀬浦の港と
       その領主のところへ遣わすものとなる。フェルナン・ソーザ総司令官を含め、殺されたポ
       ルトガル人が14人とも17人とも言われた殺傷事件が平戸で起きたのはその直後のこと
       であったようだ。)

       その依頼を執り行うや、アルメイダは急ぎ豊後に帰ったと見られようか、、、、そして、
       トーレス師とも相談したが、師は、平戸の島々のどこかにも平戸港に代るところがないか
       など、広域的な肥前の中でもできる限り平戸に近い周辺を考慮に入れていたようだ。それ
       で、アルメイダを平戸方面に7月初旬にあらためて遣わすものとなる。

 1562年 コスメ・デ・トーレス師は再びアルメイダ修道士を二人の日本人同宿を伴わせて平戸方面
       の度島[タクシマ]に遣わした。
       これは、平戸の肥州(松浦氏)が司祭及びキリシタンを追放締め出していたから、肥前の
       地のどこか下に港を擁した新たな布教の拠点を設けるための密かな試みの用務であった。

       アルメイダ師は、トーレスの指示以前に自らの判断でもって肥前の下[シモ]の一領主・大村
       (純忠)氏の横瀬浦の港が平戸の港にとって代り、ポルトガル船が入港可能かの下見調査
       を極秘裏のうちに行わせている。この横瀬浦への入港条件が船の碇泊に支障ないことと、
       領主・純忠公の積極的な支援意向の表明を取り付けたことで、布教事業の新しい進展が開
       けるものと期待されるものであった。
       アルメイダ師は、この朗報を携えて急ぎ豊後にとって帰り、上長トーレス師に報告した。

       それからすぐにアルメイダ修道士は、その現地の大村領と横瀬浦港へ派遣され、外航船入
       港の開港整備や、布教長トーレス師の来着に備えて、諸々の用務をなすものとなる。

       7月5日に彼は、ジョアン・フェルナンデス修道士と共に豊後から出発し、博多経由でその
       港から平戸の沖合いを回り巡って横瀬浦港に至る手筈になっていたが、その前に途中で、
       博多の手前4里ほどの処で、宣教奉仕のために先に博多に遣わされていたダミアンに落ち
       合うことになっていた。このダミアンがアルメイダ師の支援通訳として同伴するものとな
       って、代わりのフェルナンデスが博多での司牧奉仕を務めることになったからである。

       7月12日ダミアンを伴って港から小舟で横瀬浦に向け出発した。到着した翌日、大村の
       地に赴き、ポルトガル船寄港地としての承諾の最終確認のため領主大村公の邸を訪れる。
       又その筆頭家老・伊勢守殿との用務会見をも果たし、2日後に横瀬浦港に戻る。
       そこでトーレス師が移り来ることを待ちながら、開港に向けての準備やらを含め、多忙に
       自らの務めに勤しむものとなる。

       (コスメ・デ・トーレス師はその秋、或いは初冬のはじめには横瀬浦に移り、そこを新所
       とすることができたようだ。そして、数ヵ月後、翌年[63年]の四旬節の第二週の間に初
       顔、初対面での領主・純忠公に会い見えている。これは、トーレス師が平戸の島々への巡
       回奉仕のから横瀬浦に戻ってからの事であったが、領主・大村公は、この四旬節、聖週間
       復活祭の頃までには、公けには洗礼を受けてはいなかったが、その心は、イエズス・キリ
       ストを受け入れ理解するものとなっていた。)

      *アルメイダ修道士に随伴した<ダミアン>は25歳にも満たない日本青年で、いまだ修道
       士とはなっていなかった。彼は、59年時にガスパル・ヴィレラ師とロレンソ了斎らに随
       行して京の都に入って、何かと彼らの手助けの奉仕をした、二十歳になっていなかった同
       宿少年ダミアンと同一人物らしいが、そうならば61年の初半の5月頃までに都から豊後
       へ、都の現況報告などで帰って来ていることになる。また、その機会の時期に合わせて、
       薩摩国・鹿児島に通訳として同伴した日本人同宿も、実はダミアンだったとも思われる。

       (その薩摩布教旅の記事では、フロイスがアルメイダの書簡をそのまま転用しており、ア
       ルメイダ自身が随行させた同宿の者の事に触れ、<その同宿は、イエズス会の家で育てら
       れた人>である云々と、特徴付けて語っているが、そのような人に該当するのは、山口の
       出身で、のちにジョアン・デ・トーレス修道士として知られた会士の他にはいないようで
       ある。彼については、他の章の記事で、幼児洗礼、しかも<生まれて八日目に行なうよう
       に昔から定められた教会慣例の洗礼>を受けているとしている。山口で母親がキリシタン
       洗礼を授かり、その生まれた子供が<八日目洗礼>を受けたということになるが、その夫
       の方は、家臣としての務めや軍役に多忙で、教えを聞く折りがなかったという。

       別の記事、1559年での第一部二十章の記事では、博多の布教状況を記しているが、そ
       の一家族が山口での家臣奉公に見切りをつけ、博多に移り住んで熱心なキリシタン信徒と
       なったとして、その幼少の息子を教会の中で育てられるように、教会に捧げ預けたとして
       いる。しかし、その記事文言に基づく1559年と、1562年の薩摩布教旅との間の年
       数が3、4年と、あまりにも短すぎて、その幼少時からの3、4年プラス後での成長年令
       として見た場合、その同宿の年令があまりにも低すぎて、我天納得しがたいものとなる。
       せめて17、18才くらいになるならば、すんなり申し分なく認められるが、、、

       しかもその山口出身のジョアン・デ・トーレスという教名の同宿少年は、1565年1月
       にフロイス、アルメイダに随伴して都に行っている同宿少年らの一人であった。これは、
       同年都での起こった将軍・義輝暗殺クーデター騒動で、伴天連追放の事態まで併発喚起す
       るものとなり、ヴィレラ、フロイス両司祭が都から出向するその一連の状況記事の中で、
       その同宿少年の教名、ジョアン・デ・トーレスの名が記され出ており、その時点で明白に
       いまだ15、6才までの年令でしかない少年だった事が知られうるからである。⇒第一部
       66章=文庫版:信長篇Ⅰ第二四章P-316参照)
       
      *ダミアンについては、63年の8月中旬かの横瀬浦町炎上後以降、遣わされていた島原の
       地から64年までに退去させられ、その後、64年中に再び都に遣わされ、ヴィレラ師や
       ルイス・フロイス師の許にあり、65年7月末の都での<伴天連追放令>の事態にも遭遇
       している。フロイス師と共に堺に避難して、その内外で地域で活動していたが、その二年
       目の67年頃に再び、西九州、島原、天草にコスメ・デ・トーレス師の許に赴いている。

 1562年 アルメイダ修道士は、トーレス師が横瀬浦に到着して、ほどなくするや、再び平戸とその
       島々に遣わされる。トーレス師来訪に備えての状況視察と聖ミサなどの巡回奉仕への準立
       てをなしておくためであった。(トーレス師横瀬浦来住は9月か10月頃であろう。)

       12月2日、これらの用務を終え、横瀬浦に帰ってきた。
       その折り平戸の大勢のキリシタンも同行してきて、トーレス師の平戸で降誕祭を熱望する
       ものであった。その当時、ジョアン・フェルナンデス修道士も先行して、生月[イキツキ]、度
       島[タクシマ]の島々に来ており、彼はその島々を巡回奉仕せんとするトーレス師来訪に備え、
       キリシタン信徒らへのミサ聖祭の霊的準備のため、そのまま平戸に留まった。

       翌12月3日、トーレス師一行は横瀬浦を出航した。
       そして、翌年63年2月初旬頃に横瀬浦に戻った。その間、生月[イキツキ]島には32日間滞
       在したとしている。

      ※(フロイスの「日本史」記事では、第一部43章の文言初めで“<1月20日>に横瀬浦
       に帰った”と記しているが、前章の42章の文言内容での旅日程を推察、照らし合わせる
       と、その日にち日数とで差違の矛盾が出てくる。これは明らかに彼の記述ミスだとは思わ
       れないので、写本ミスか、、それともウッカリして当時の和暦・旧暦を記したものか?
       (1月を2月にすれば、妥当な日にちとなるが、邦訳 or 印刷校正ミスかも、、)

      *この巡回奉仕の旅は、
       横瀬浦に拠点を移した老布教長トーレス師が自らの余生幾ばくかの思いと共に、デウスへ
       の奉仕と救いのために最後の踏ん張りをと、ザビエルと共にその務めをなした初めの頃の
       あの平戸に思いをよせ、平戸および島々を訪れる決意を新たにしたからであった。
       (このトーレス師の決意の内には、できれば博多にも、また豊後にも行けたらとの思いも
       あったが、丁度その頃に博多方面で、豊後の家臣・高橋公が他の国人衆らとくるんで謀反
       を起こして戦が始まったとの報せがあって、もはや断念するほかなかったようである。)

       家臣・高橋公(鑑種[アキタネ])筑前国守護代は、61年頃の筑前から豊前地域で交えた豊後
       の大友勢と毛利元就勢との戦で、毛利方にやむなく調略されて、この時にはその叛旗に及
       んだわけであった。だが、その後の67-68年での2度目の謀叛では、本格的に毛利方
       へ寝返り同盟して、国主豊後の大友方と戦っているので、その時の敗北ではもはや赦され
       ることなく処罰されて没落するほかなかった。)

 1563年 アルメイダはトーレス師の平戸、島々滞在中、横瀬浦にいたが、当時日本の旧暦で大晦日
       と元日に当る63年の1月23、24日の日に間に合うよう生月[イキツキ]島に再度赴いて、
       その旧暦新年元日の祝祭日の為に特別な用務をなし、デウスの御恩寵に花を添えている。
       それから早々に横瀬浦に戻っている。ジョアン・フェルナンデス修道士も、その巡回旅の
       終わり近くにはトーレス師の命で、師よりも先に横瀬浦に戻っている。

      *さらにこの年のアルメイダは、とても精力的に布教開拓、伝道活動に出回っている。それ
       は老いて自由に動けなくなった布教長トーレス師の分を補い、代理を兼ねる面もあり、い
       やが上にも務め励まざるをえなかったわけである。(イエズス会の人員不足ゆえに、、)

       それゆえ彼の63年の四旬節の初日(復活祭の46日前の日に当たる)から7月17-
       25日豊後到着にいたる期間内での横瀬浦から大村、島原半島全域の諸所に関わる活動の
       履歴はまさに奔放している有様の如くにて、著者のルイス・フロイスも、その記述にチグ
       ハグな矛盾を引き起こしているかの如く見られる。
       そうでなければ、原典からの写本上での編集ミスによるか、そうでもないなら、或いは現
       代の日本の邦訳者(松田氏、川崎氏)の邦訳編集上の手違いとか、印刷校正過程の誤字ミ
       ス等々、、となるかもしれない。

       その矛盾らしき諸点を挙げる前に、その第一部42章から46章に亘ってのフロイスの記
       述に関わる日順的展開様相がどのような案配なのか、知りえておくことが肝要となろう。
       (邦訳文庫版では「大村・有馬篇Ⅰ第一章から第五章」に該当:P13-82)

       ・まず42章から43章にかけてのイエズス会士らの活動に関わる記述には、その日順的
        な前後を逆錯するような過程は見られない。これらの章では1562年の12月前後の
        時期から63年の<復活祭>後の十五日目が過ぎた辺りまで、その過程的流れは一貫し
        たものとなる。

       ・つぎの44章では、43章の後半終りかけの部分、事件的な事で大村の地に出向いたそ
        の数日後にアルメイダがさらに有馬の地、その国主への最初の訪問を行なっているが、
        その旅立ちが大村から直に出向いたのか、横瀬浦に戻ってから出立したのか、定かでな
        い曖昧さが残る。しかし、この有馬への訪問は四旬節(2月中旬以降)の初め頃として
        その後、再びすぐに横瀬浦から島原への訪問という日順を辿っていると見なすほうが妥
        当だと思われる。

        しかし反対にこの有馬訪問が、かの大村から直に出向いたもので、43章の<復活祭>
        後、二十数日過ぎの事として、その流れの続きを見るならば、その訪問記事までは何の
        差し障りもないわけだが、そのまま44章に関連付けるや、その章の半ばから後半部分
        での島原訪問の記述を、そのまま有馬訪問のあとに続くものとするやいなや、たちまち
        日順的な展開に錯誤的チグハグの記述上の問題が生じる。

        したがって、44章の内容記事は、<復活祭>以前のものとして、あたかも先の42章
        のあとに置かれる如くに、しかも43章の内容に日順的に逆行して結びつくように、そ
        の前に位置づけられるものと見る他ない。
        (44章の終わりの段落文で、復活祭主日の前の聖週間の水曜日で、日順的な過程が締
        められ、前章43の<復活祭>及び、その後の八日目、十五日目へと一巡した関係付け
        の章組み構成をなしているかの如くである。)

       ・つぎの45章では、最初の島原訪問(44章でのもの)後、しかも復活祭後、20数日
        過ぎで、しかも<聖霊降臨祭祝日>の二十日ほど前での、2度目の島原訪問、その地で
        <聖霊降臨の祝日>を守り、その翌日、翌々日かに口之津に向う。
        だが、口之津での<二十日ほどの間>という言からのその滞在期間には無理があり、そ
        れ故に1563年の<復活祭日>及び<聖霊降臨祭日>の日付表示はまったく記述され
        ていない流れの日順となっている。この章(45)の半ば過ぎの後半で、初めて日にち
        表示が見られる。この日付は<6月7日>だが、これは一端横瀬浦の帰ってから(6月
        2日であるが、この日付はつぎの46章に出ている。)、島原に戻ったという日順をと
        らねばならず、その後島原から再び6月26日の日付け表示で口之津へ向ったとなり、
        そのあと、7月2日表示で、また島原に戻り、そこで数日滞在する事も無く、何処か他
        の地への旅立ちをなすといった日順で、この章を締めている。

       ・一連の最後の章、46章では、45章での7月の続きとして、その7月前後での記事と
        なり、島原での日本人修道士ダミヤンの応援か、それとも彼と交替してか、アイレス・
        サンシェスという他の修道士が滞在活動をするといった記事を示す。だが、この章の後
        半では、日付け表示でもって、6月初めの後に逆戻りするかの如き記事となる。しかし
        その日付け、6月2日での事柄は、その日にアルメイダ修道士が横瀬浦に行って、そこで
        布教長トーレス師から<大村バルトロメウ公>らの陣中訪問もすべきだとの指示アドバイス
        を先に前もって受けていたとの示唆表示の文言を記すことで、先の45章での7月2日
        以降でのアルメイダの旅立ちの向かい先が、かの<陣中訪問>藤津郡(鹿島辺り)への
        足取りとして、その日順の流れを示し、その訪問記事等で46章を締めている。だが、
        その結びの言の日にち<七月二十五日>は、<七月十五日>の間違いではないかという
        事が、47章での中間部の記事の日付から特定される。
        (その47章は、文庫版では大友篇Ⅱの冒頭第二十七章に組み込まれているが、この篇
        組は好ましくないとも、、、確かに後半最後の数段落は、大友・豊後の地での事柄を記
        しているが、、。とにかく校正、翻訳、印刷時でのミスによる錯誤は、フロイスの著書
        の価値、信用度を落しかねないから、まことに残念な事だ。)
   
       《矛盾点》:
       ======
       その1)第一部43章と44章を一貫したかたちでアルメイダの足跡を辿るように読む事
           ができない。その矛盾内容とは、、

           43章で、四旬節の初日から復活祭前後の事が横瀬浦をして記され、復活祭の8
           日目に大村の本拠地で騒動が起きている事を知らされる。やむなくアルメイダが
           その復活祭後15日目に大村へ同日到着で遣わされる。到着時には事はほぼ事前
           に収まり、そのまま5、6日の滞在となる。

           (この大村滞在記事では、領主の大村純忠がまだ洗礼を受ける前であるが、洗礼
           名の<ドン・バルトロメウ>で記述しているが、これは、彼の洗礼が実際に63
           年であったのに、41章で、前年の1562年だとの誤認扱いから、生じたもの
           と見られる。
           41章での冒頭文脈パラグラフから数えて、4番目の文脈パラグラフ以降は、
           1563年の内容記事である。“トーレス師が横瀬浦に来て、数ヶ月に及んだ、
           その時の<本年>”とは、すでに年を越しての63年の事であり、また62年に
           横瀬浦の初来航となった、ペドゥロ・ロシンらが、その地で“越冬し
           ていた、、ポルトガル人”との記述も見られるゆえ、、、。)
           
           その後の彼の動向は、44章へとつながるかたちで、先ず前置きの状況説明と、
           国主殿方事由の二つのパラグラフを記したあと、有馬の地への初訪問記事として
           出てくる。

           この44章では、アルメイダが<その地>つまり国主・大村の地から出立したと
           の自明の流れでもって、あえて出発地を明示しなかったと見られる。
           三人の日本人通使同宿を連れて有馬の国主(義貞)を訪問するために出発。そし
           て、有馬からさらに安徳にまで立ち寄り、そこから引き返し口之津まで巡ってい
           るが、その全旅程で要した日数は一ヶ月ほどで、一端横瀬浦に戻っていると推定
           される。
           (安徳が、その頃、有馬と口之津の間に位置していたとフロイスがかん違いして
           いただろうかとも思われる文言だが、、)

           そのあと島原の殿に係わる事由記事があり、44章の後半へと続く、、、

           今度は、横瀬浦から出立して、有明の海側の南方、島原半島沿岸の島原を訪れる
           記事となる。しかし、
           
           この部分の記事(島原訪問記事)は、聖週間の初日(枝の祝日)つまり、復活祭
           の一週間前よりも以前、少なくとも2週間前後以前に島原に到着してからの内容
           記事となっており、そして、その帰途に至っては、聖週間の初日(その当時も日
           曜日)の翌日(月曜)に、島原の港から横瀬浦に向かう記事の流れが見られ、そ
           の帰途の状況文脈内容のあと、その結びとして、翌々日の“聖週間の水曜日に横
           瀬浦に着いた。”とルイス・フロイスは記している。

           これは、<復活祭日の4日前の日>あたるものである。
           (この帰還によりアルメイダは、横瀬浦で復活祭の祝日にいたる、その聖週の後
           半の聖日を守っていることになり、例の大村の騒動が復活祭の8日目の知らせと
           して届いた記事などが続くわけだが、そのためアルメイダは15日目に大村の地
           に向う。)

           したがって、43章と44章の記事内容の繋ぎが、いつしか時の流れが逆行した
           記述展開となり、変な堂々巡り記述の観を呈するものとなる。<島原訪問記事>が
           <大村紛糾時の訪問(復活祭後15日目)、及び有馬国主訪問記事>の前に置く
           べきものであったろうか。、、

           そう見るならば、<大村紛糾、有馬訪問記事>へのつながり順が矛盾無く良いも
           のとなるが、しかしそれでも、フロイスの記事文言の2、3の表現言葉には<島
           原訪問>を後方に置くように規定している記述手順を示しているゆえ、そう見て
           正すような見方とも一致しないで、なおも矛盾解消にはならない。

       その2)次の45、46章への関わりで、その45章は、43-44章での上記のごとき
           記述上の矛盾点も何らないものとして、つまり、44章末尾文で横瀬浦に帰った
           その後を受けて、引き続き再び島原に戻ったことで、その地の状況、事態を記し
           ているが、その島原では、

           <聖霊降臨の祝日>の前日におよぶ騒動記事、祝日当日の洗礼式事情、その翌日
           以降は、問題トラブル、事件の解消策として、アルメイダらの居場所・拠点、=
           トイ・ジョアンの邸内の一家屋だったが、そこから別の場所に移った事情を記し
           いる。が、しかしこの時点で、

           聖霊降臨祝日の3、4日前の時が、すでに島原に来てから16日目に当たるもの
           となるようなものとして、その記述から見受けられるので、結局、その祝日は、
           島原来着から19日か、20日目になる。

           その祝祭日から3、4日後には、彼は、口之津に向かったと見られ、その地には
           <二十日ほどの間>との文言で、そこにいた事が知られる。そのあとの文脈には
           明確に“6月7日に、修道士は島原に帰った。”との文言が続いている。
           ところが、
   
           46章では、アルメイダが“6月2日に横瀬浦のトーレス師のところ行った”と
           の記事がある。<“6月7日に、修道士は島原に帰った。”>が対置している。

           問題の矛盾点は、この<二つの日にち>に絡む事から始まっているかの如き感が
           する。(横瀬浦から島原という城の町まで、最短で2日、通常3日を要する旅程
           だから、日数的には問題は無いので、この場合、口之津からではなく、実は横瀬
           浦から島原に帰ったものだと見なしても差し障り無いものとなる。

           46章は、概して45章では記述できない、一つの章にうまく纏められない内容
           を、別個に章を新たにして書き記したというものであるとも。その前半部分は、
           島原での記事が主で、小後半部は、かの横瀬浦での<6月2日>以降のもので、
           しかも、アルメイダがトーレス師の指示で、大村純忠公と、その弟、及び島原殿
           らが出陣していったところの地への訪問の所以と、彼らに会った事蹟の記事内容
           を記したものである。

           それには訪れた日にちは明示されておらず、“ある日曜日の夕刻、彼らの宿泊し
           ていたところに赴いた”との表示があるだけである。
           したがって、この陣地訪問は、6月2日(46章)に横瀬浦に行った後、6月7
           日(45章)には島原に再び戻ったとの事で、その後の<島原&口之津>での活
           動の合間に、彼らの陣地を訪問した事蹟だと見なす事も可能となる、といった記
           事だとも言えることになるが、(その出陣した先の場所、陣泊先は何処だったか
           といった問題も残る。)

           45章での、その6月7日以後の記事は、教会が建てられる地所が、島原の港の
           湾(2つの半月形を並べ閉じるような地形で、その2つの繋ぎの真ん中が少し海
           に突き出ている)の真ん中の部分の先にあり、その場所がいまやインフラ整備の
           工事がなされているとの記事で始まり、その他は、ほかの状況(教会で習う子供
           等)や対抗迫害する仏僧らの事情記事の後、6月26日にはアルメイダが口之津
           に旅立ったこと、そして、彼がその地で行った事を記し、幼い子供らが召されて
           死(昇天)んだ事の記事を記したあと、
           “7月2日に[再び]島原に戻った。”との一文を含めた文絡部分で45章が終わ
           っている。

           その7月2日後は、島原の地に留まることなく、他の所に出かけ、旅を続けたと
           受け止めうる文言が見られる。同宿の<パウロ、ダミアン>をそれぞれ後に残し
           たと(45章末)、、、、だが、その折り、それに続く46章ではなくて、、

           47章では、7月6日に横瀬浦港に、この年のポルトガルの定航船が入港したと
           の記事があり、彼は、その来着の事を未だ知らないままに、その月の10日過ぎ
           ぐらいにまで日が過ぎていたと、彼の状況についての推察がされうる。さらに、

           47章では、その<7月の17日に>アルメイダが、そのポルトガル船と共に新
           たにやって来た二人の司祭のうち、その一人が豊後に派遣されるによって、その
           司祭に同行するかたちで、<豊後>へ向かうべく、<横瀬浦を出発した。>との
           記述が見られる。

           ゆえに遅くとも、その二日前の、15日までには横瀬浦に戻って来ていなければ
           ならない。
           (この新たな司祭は、ルイス・フロイス自身とジョアン・バプティスタであった
           が、ジョアン・バプティスタがアルメイダを途中まで同伴させ、先に豊後に到着
           するかたちで遣わされている。)

           この出立時、アルメイダとバプティスタは、一夜泊後その朝方には別れており、
           バプティスタの一行は、どこへも立ち寄ることなく豊後に直行してそこに至る。
           しかし、アルメイダは、有馬の国主(義貞)と口之津(島原半島の岬)を巡り、
           取って返して島原のキリシタンをも訪れ、そこから海(有明)を渡り、肥後・高
           瀬経由で豊後に至る。豊後に着いたのは、<7月25日>と記している。
           だが、しかし、この日付が矛盾錯誤の問題を醸すものとなる。

           46章の終わりの行、その末尾には、<横瀬浦に帰り、7月25日にそこに到着
           した。>との記述が別にあるからだ。

           47章では<豊後に着いた>のは、その<7月25日>とあり、
           46章の<横瀬浦に着いた>のは<7月25日>では、まことにおかしくなる。
           横瀬浦の方は、<7月15日>の記述ミスではないか、あるいは写本上のミスと
           なるものか、と見る他ないが。(まさか邦訳文庫版の印刷校正時でのミスだとも
           考えられ無くもないが、、、)また、つぎの以下に述べるような西暦での暦に切
           り替え(ユリウス⇒グレゴリオ) 、新改暦実施時期とフロイスの著述開始頃が重なる時代
           であったので、10日のプラス か マイナスかの判断誤差を起こすものとなったであろ
           うか、、、。

      ★ここでもう一度アルメイダ修道士の<島原と有馬への布教訪問>を順序正しく見直し、
       整理しておこう。        ・・・・・・・・・・・・・
     
       その前に、1563年の<復活祭祝日>が4月11日(日曜日)(旧暦:永禄6年3月19日)
       であり、その復活祭日の46日前の<四旬節の初日=灰の水曜日>が、2月24日(水)
       (西暦ユリウス)で、その日から四旬節の期間が始まるものであったこと、そして、また
       復活祭日の日曜日のその前の日曜日が<聖週間の初め日=枝の主日>となり、この日が
       4月4日(日曜日)となっていたこと、等々を前提に考慮しておくべきであろう。

       (教会暦では年々ごとに復活祭日を決める規則があり、その決め方に依るが、その教会暦
       が、1582年10月15日(金曜日)を改暦スタート起点日として、従来のユリウス暦の1582年
       10月5日(金曜日)をグレゴリオ暦のその日付:10月15日として、10日プラスの新暦を実施
       している。
       ところで、フロイスが「日本史」の著作に着手したのが1583年の秋ごろ以降で、丁度
       新暦グレゴを実施して一年ほど経ってからで、特に過去に遡った1563年頃の復活祭祝日
       の日にち認知に、改暦実施で10日、規定法で一週=7日、最大17日の誤認差が彼の内に
       生じうる可能性があったとの状況は、一概には否めないものとなる。)

          ・最初の島原訪問:第一部44章の中&後半部の記述において、
                   (文庫版大村・有馬篇Ⅰの第三章のP-40/41以降参照)

                   この訪問の日にち日程の決め手は、
                   ①アルメイダがあちこちと忙しく活動する中、ジョアン・
                    フェルナンデス修道士を遣わす意向のあったが、なにせ
                    <四旬節>中で、いよいよ用務が多忙になるとの事で、
                    アルメイダが遣わされるものとなる。=四旬節の時。

                   ②その章後半の終わりかけの文面で、
                    “次の日曜日は<枝の祝日>であった、、>との文言が
                    見られうる。
                    ここではじめて日にちの特定が可能となってくる。
                    <枝の祝日>とは、教会暦で、<聖週間の初日>に当た
                    るわけである。この時は、4月の4日である。

                    <聖週間>はいわゆる<キリストの受難週と次週の復活日を
                    含めた週の期間をさしているものである。
                   
                   *章の終わりの結びの文面で、“修道士は<聖週の水曜日に
                    横瀬浦に着いた。”とあり、<枝の祝日=日曜日>の三日後、
                    つまり月、火曜日の次の日(4月7日)を示している。
                  
                   ③上記①、②を前提にして、その日数を溯り、逆算すると、

                    横瀬浦出立から島原着まで、“途次五日間を費やした。”の
                    文言が見えるから、

                    5日+翌日訪問1日+“二、三日後”+ ”三、四日後”+
                    “そのうちにもう、修道士が横瀬浦に向う時期となった。”
                    との文言で、数日、或いは一週間前後の日数をプラスⓇを加
                    えて、合算すると、

                    <5+1+3+4+7Ⓡ>=20、二十日余りとなる。この
                    日数が<枝の祝日>の日から溯った期間として、その20日
                    前あたりの頃となり、横瀬浦から島原に向けて最初に旅立っ
                    た日(頃)となる。(3月15日の月曜日あたりか、)

                    この頃は、その旅程期間として3月中旬から4月上旬頃に相
                    当しており、
                    特に注目すべきは、その文中内容で、丁度その訪問滞在時に、

                    <有馬の国主(有馬義貞)が出陣してその島原の地に至り、
                    島原殿の館に一日逗留、泊まっている記事が見られる。アル
                    メイダがすでに以前(島原訪問以前に)国主に会っているか
                    らとの会謁理由と、その会見の模様を記している点である。

                    (この時の有馬国主の出陣時期と、出陣先となる戦地、及び
                    出陣の目的概容=大友や島津氏など他国に呼応した援軍なの
                    か、所領保守のための対外敵戦の出陣なのか、日本側の諸史
                    料を調べ、照合できると思われるが、しかし、その頃、色々
                    な状況事情で、国主は2度、3度と出陣していた可能性もあ
                    るし、その特定照合は難しいかも、また、国主が島原に立ち
                    寄ったのは出陣からの帰途であったかも、、これは、ありえ
                    ない可能性かも知れないが、、、。

                    しかも、有馬国主・義貞は、横瀬浦のトーレス師からの返書
                    の書簡をその出陣前に、或いはアルメイダらの有馬訪問前に
                    受け取っていたのか、出陣途上で入手所持していたものか、
                    とにかく重要な書状類のものとして家臣に保管所持させてい
                    たと見え、アルメイダにそれを尊大に見せている文言も見ら
                    れる=文庫版P-46、47の渡り部分で、)

                    <この頃の肥前の戦時状況>:
                     ・・・・・・・・・・・
                    ◎=62年来の有馬傘下の小城、杵島、藤津の三郡あたりの
                      臣従諸侯への牽制保全、および東肥前の佐嘉(佐賀)の
                      龍造寺隆信の西進阻止。
                      (第一次佐賀攻め)==西暦1562年&63年6-7月

                      *有馬の所領・藤津郡の本拠地:松岡城や物見の山城・
                       蟻尾山城、その他2、3の支城があり、この頃はまだ
                       余裕があって、多久城(梶峰城)の城代・多久宗利と
                       の連合支援のため、島原・高来の伊佐早(西郷純堯スミ
                       タカ)氏と島原城主の島原純茂氏が遣わされ、城中して
                       その城を西の要、及び佐賀に攻勢を仕掛け前線とさえ
                       していた。
                       -------
                       有馬国主・義貞は、63年3月末~4月2日前後までに出陣
                       して、同日頃に島原城の邸に立ち寄っている。そして
                       5月頃までに陣容、人数を相整えて、藤津郡の鹿島辺
                       りに布陣の体勢に入ったと見られる。
             
                      *兄の義貞の出陣要請の命を受けて、、、
                       大村領主・純忠らは、早くても5月末日か、6月初めに
                       出陣している。
                       その頃、純忠バルトロメウは、後詰で松岡城下の館に、その
                       弟(千々石 直員チヂワ ナオカズ)は、物見監視の利く山城・
                       蟻尾に陣中していたと見られる。

                       (フロイスの記事では、<聖霊降臨の主日>の数日前
                       および数日後に、大村純忠の洗礼、そして出陣という
                       運びの記述を想定したものとなっている。だが、フロ
                       イスは、その<聖霊降臨の主日>を5月23日として
                       いるのか、5月30日としているのか、その記述上に
                       おいては曖昧にして、その日付を明示していない。
                       そもそも1563年の<復活祭主日>についても、そ
                       の日付明示はなく、4月4日なのか、4月11日(日)
                       なのか、ご都合的な曖昧さで著述をオンワードしてい
                       るとも。5月23日<聖霊降臨日>は和暦では5月2日、
                       5月30日<聖霊降臨日>は和暦では5月9日となる。
                       いずれにしても純忠の出陣は、5月下旬‐末か、6月初
                       め頃となる。)

                    ◎=その後、その肥前諸侯連合軍の動きにより龍造寺方が、
                      筑後から筑前、そして豊前、肥後へと伸張する形勢とな
                      リ、豊後の大友宗麟主導にて、佐嘉(佐賀)城包囲網作
                      戦が展開されるといった具合である。

                      義鎮自らも豊前と筑後境界辺り(日田)に布陣して、前
                      線への指揮を執り、佐賀城攻めに迫った。だが北九州に
                      勢を張った毛利勢に背後を迫られる動きにより撤退する。
                      (第二次佐賀城攻め)==西暦1563年8-9月

                      *この折りは、義鎮(宗麟)が対龍造寺勢征圧のため家
                       臣諸侯の出陣を命ずる。南肥前の領主・有馬、大村公
                       らも呼応して再度出陣し、西側からの攻勢を目論み、
                       佐賀に迫らんとする。肥前の有馬方はすばやい対応、
                       迅速に兵を動かし前線を進めるものとなる。だが、
                       一方、大友氏方の布陣は遅れていた。この遅れが有馬
                       方の<いくさ事情>を左右するものとなる。
                       (龍造寺方の策謀に付け入る隙を与えてしまった。)

                       (この折の<大村純忠の出陣>は、横瀬浦にポルトガ
                       ル船が入港した7月6日の一ヵ月後、彼がその船の視
                       察を兼ねて横瀬浦を訪問した後の事で、日本の旧暦の
                       <盆行事>の8日後と見られる。
                       その当時の旧暦の盆の日を7月15日前後と暫定する
                       と、彼の出陣は、7月22日(西暦8月10日)とな
                       る。だが、この出陣は、先の5月末、6月初めに出陣
                       した陣中からの一時帰還に依るもの。つまり、その陣
                       中からの一時的な抜け出しにて、一度大村の本拠地に
                       戻り、そこでの各種の所用や、横瀬浦、ポルトガル船
                       に係わる要件等を済ませての事情により、いわば陣中
                       先に再び帰る意味での帰還出陣だったと思われる。

                       この布陣陣地を留守にし、そこへの帰還が遅れた事が
                       有馬側の勝ちいくさとなり得る筈のものが、大変な負
                       けいくさとなる要因となったと見られるとも、、、、
                       よって有馬方の後藤貴明や伊佐早の西郷純堯らは、ひ
                       どく憤慨、感情を害して大村純忠により一層強く敵愾
                       心を抱くものとなったとの、推察もありうるわけだ。)

                    ・=因みに第三次戦は、1569&70年で、この時は、大友方が
                      小競り合いの前哨戦ばかりでなく、大軍をもって佐賀城
                      の包囲体勢に入っても戦期間がいよいよ長くなる。そん
                      な中、遂に総攻撃を仕掛ける日が来る。
                      だがその前夜の事、先発精鋭の主力となる軍営が、夜半
                      から朝方にかけ、思わぬ龍造寺方の夜襲攻撃、陣営撹乱
                      の奇襲に遭い、致命的な失敗を帰する。
                      (今山の戦い)
                      その戦況結果において龍造寺側からの和睦の議を受けて、
                      本陣の撤収となる。
                       1569年=佐嘉城方の支城、出城など対する、大友方の
                           臣下諸将らによる対峙、小競り合いの前哨戦
                       1570年=包囲網戦&小競り合い
                           [今山の合戦(夜襲攻防戦)に至る戦期間]は、
                           4月~9月19日(旧暦:3月~8月20日)

                   *この旅訪問の行程ルートは“海上を三十里以上も航海し、途
                    次五日間を費やした。”と記されているが、やはり外海では
                    なく大村湾の海を縦断し、先に寄るべき所があって、それが
                    国主の従兄弟にあたる伊佐早の殿(西郷純堯)であったと見
                    られ、その文言にあるごとく、

                    “有馬国主(義貞)の従兄弟を訪れた。”との記述に見合う

                    ものとなる。

                    その伊佐早の領地の有明海側の港から再び船で、訪問地なる
                    島原に向ったと見られる。
                    (従兄弟の伊佐早殿は、義貞の父・晴純(千巌)の弟・純久
                    が養嗣子に入った西郷氏に相当している。この伊佐早は、
                    純久 ⇒ 純堯 ⇒ 純尚と続くが、その後は龍造寺家晴が引継
                    ぎ、その一族系へと代る)

           *島原への初回訪問が、以上のような事情内容をも記している事から、その44
            章の前半初め部分の<有馬(国主)及びその所領への訪問が、島原訪問よりも
            先に行なわれたものとして、記述されているのは至極当然と言えよう。

            上記の島原初回訪問に先立ってなされた、有馬訪問の概略は以下ある。

            【有馬領及び国主訪問】(文庫版:大村・有馬篇Ⅰ第三章P-34~36以降参照)
     
                    その章の冒頭からの前置き説明から、有馬の国主や、隠居し
                    た父・晴純(千巌)が、横瀬浦の開港以来、大村領主・純忠
                    に伴天連らへの布教許可や、洗礼を授かる事への暗黙の了承
                    を与えると共に、彼らは早くからコスメ・デ・トーレス師宛に書状と
                    伝言をもって、有馬にもその共益要望の意向あるを申し伝え
                    招来せんとしていた。この良好な事情に応えて、、、
                    アルメイダと三人の同宿の邦人通訳を遣わすものとなる。
                    (P-36以降、3名の通使は、ダミヤン、パウロ、他の教名の者)

                    ”二日を費やして、国主のところに到着した。”とあり、
                    この折も、大村湾の海を船で縦断した後、陸行して、そのま
                    ま有馬の地へ入ったか、千々石湾の何処かの津から乗船して
                    有馬領に入ったかである。とも角一泊二日の旅程で、その日
                    の夕刻にはまだ間のある頃に到着したようである。
                    (国主の館への訪問は、その到着日の夕方だとの見方も含め
                    て、その2、3日以内になされたであろう。)

                    その夕方から夜遅くまで有馬国主の邸にて、その後辞去、

                    翌日はその地を出立すべく、目的地<口之津>へと乗船しよ
                    うとするのだが、何やら船の都合で、つまり、潮の満ち干き
                    の流れにより船の航行予定が立てられており、その日の朝方
                    午前中は満ち潮で、島原方面の安徳まで船が行き、午後は引
                    き潮で、ほぼ口之津に直行するという、運行パターンで船が
                    動いていたようであった。
                    アルメイダ一行は、その航行事情を利用して、その日、安徳
                    まで足を延ばし、国主(義貞)の義父にあたる、その地の殿
                    を訪れる機会を得ている。
                 
                    安徳訪問、一、二刻後、その津から乗船し、その日の夜には
                    口之津の到着する。(口之津まで40キロ 弱の航行であろう。)

                    その口之津での滞在は<15日+αアルファ日>の二十日余りの
                    日数となる。有馬と口之津日数を合算すると、
                    
                    <2+2+15+αアルファ日>20から25日内外となる。

                    口之津では
                    国主からの布教許可を得ていたので、すぐにも布教活動をし
                    て、多勢の人に洗礼をも授けられるものとなり、その成果の
                    状況を伝えている。

                    そして、アルメイダ修道士は、伴にしていた同宿の一人、パ
                    ウロという教名の日本人を同地の残し、自分は次の予定に着
                    手出来るとの意向をもって、その地を離れ、一端横瀬浦への
                    状況報告のために旅立っている。

                    以上が有馬訪問の概容であるが、その要した日程は、20日
                    から25日前後の日数となろう。
                    この有馬訪問は、その年の四旬節が始まる日(2月24日)
                    の数日~一週間ほど溯る日あたりからの遂行と見られる。

                    これは次に続く島原訪問の日数や日にちから、逆算考慮する
                    事に依り導き出されるものである。
                    
                    著者フロイスは、この有馬訪問の記述の締めくくりで、アル
                    メイダ修道士の次の企てへの着手への切っ掛け、要請端緒な
                    どの事情を<島原の殿>に係わるものとして記し、先に上記
                    した<・最初の島原訪問>の記事に繋げている。
                    (文庫版:P-40/41以降)
                    
          ・二度目の島原訪問:第一部45章のほぼ初めの部分からその前半部分余において                    
                    (文庫版:大村・有馬篇Ⅰの第四章のP-50/51~P-62まで参照)

                   *この章は、後半部分以降、有馬の口之津などへの再訪などを
                    挟んで、島原への訪問が、さらに3度目、4度目と繰り返さ
                    れ、内容的に複雑に込み入ったものとなり、史事表記されな
                    かった分への含意の余地を残していると見られる。

                    この二度目の訪問の日にち日程の決め手は、
                   ①前回最初の訪問が、聖週間中の水曜日、4月7日に横瀬浦に
                    帰還することで終わっているので、その聖週間と復活祭祝日
                    (4月11日)が終わった後、4月12日以降の近日に再度
                    の島原への出立が可能であったと見なせるが、、、。

                    だが、実際にはその頃、大村の本拠地で、二人の有力家臣
                    の間で大騒動が起こり、そのためにアルメイダ修道士がその
                    地に出かけている。それが、<復活祭後の15日目>に同地
                    着き、6日ほど滞在したとの文面が<第一部43章>にある
                    から、これを無視することは出来ない。つまり、
                    <4月11日+15+6> = 5月1日以降での島原への旅
                    立ちを想定するものとなる。
   
                    (文庫版:大村・有馬篇Ⅰの第二章のP-30~32での記載)

                   ②この訪問活動中に係わる記述には、その文脈中には日数や日
                    にちを確定できる表記が見られること。

                    その一つは、“そこにいることすでに十六日となった。”
                          の文言により、ただし、これは、島原の地にあ
                          って、トイ・ジョアンという教名の人の家に在
                          留した日数だとも見られる。したがって、
                          島原に到着してからの<何日かの不明な日数>
                          加算考慮すべきものとなる。

                    その二つは、“聖霊降臨の日”の祝日と、その日を前後した
                          日に係わる文言が見られることにより、

                   ③“聖霊降臨祝日”の翌日以降に、一先ずその地・島原を離れ
                    て、有馬領の口之津へ行く。アルメイダ修道士がその地に、
                    “二十日ほどの間”留まったとの文言により、さらにまた、
                    その日程把握の暫定的目安となる、もう一つの以下の文、

                    “同じ年の六月七日に、修道士は島原に帰った。”の文言で、

                    (だがこの文言については、良く吟味すべきで、口之津から
                     そのまま直に島原に戻った、と文脈字義どうり受けとめて
                     良いと判断されうるが、しかし、
                     次の章、46章での文中に見られる文言との関係で、少々
                     難が生じるような注意点を誘発させているからである。
                     文庫版:第五章P-77参照。その当該文言には、

                     “当年の六月二日に、アルメイダ修道士は横瀬浦のコスメ・
                      トーレス師のところに行った。”との表記が見られる。

                     先に上記した<六月七日>と、この<六月二日>の事柄は
                     同じ1563年の同月にあたる内容を示すものである。
                     したがって、この場合、
                     <六月二日>には、何処から横瀬浦・トーレス師のところ
                           に来たのか、、またその五日の間隔後となる
                     <六月七日>には、何処から島原に帰ったのか、、
     
                     双方共にこの<何処から>が問われなければならないし、
                     また両者の関係も考証されるべき観点となる。この点につ
                     いては後で随時触れる事になろう。)

                   ④さて、上記①、②、③で挙げた表記条件によって、その足ど
                    り日程を見定めてみよう。

                    先ず、横瀬浦から島原までの旅路は、有馬のそれ(2日)と
                    同程度、あるいはそれ以下での時間的余裕さえあると見られ
                    るから、
                    *2日+<着後の不明Ⓡ日数>+16日・・が確定されうる。

                    次に内容文面では、     
                    16日目頃に至る悪いエピソード記事があり、続いてその翌
                    日にも仏僧らによるトラブル記事が見られ、さらにその翌日、
                    18日目が<聖霊降臨日の前日の前日マエビ>にあたる日とし
                    て、夕べの集会で不祥事な記事へと続く。そして、次の日、
                    聖霊降臨日の前日(19日目)の記事に至る。したがって、
                    <聖霊降臨日>は20日目だとの認知を得ることが出来る。

                    *2日+<着後の不明Ⓡ日数>+20日となり、続いて降臨
                     日の翌日の記事が続く。

                    その翌日記事では、教会活動の拠点を移すことが記されてい
                    る。今までのトイ・ジョアンの家から、島原の殿が修道士に
                    与えた教会の敷地となる地所近くの住居にその活動拠点を移
                    して、当面の布教活動で生ずる様々な環境的弊害や、異教徒
                    との接触害悪などをできる限り解消処理せんとした。
                    そしていまだ同宿であったが、若い日本人ダミアンをそこに
                    残留させ、そこを拠点に教会活動を委ねるものとしている。

                    その状況に要した日数は、記事文面からは掴み取ることがで
                    きず、その翌日を含め、2、3日なのか、一週間ほどなのか、
                    残念ながら不明である。とりあえずアルメイダの任務遂行癖
                    を考慮して、プラスアルファⓇ3日とする。
                    *(2日+<着後の不明Ⓡ日数>+20日+Ⓡ3日)との
                      日数が上がってくる。
                      この合計日数が、口之津に行く前の島原滞在分となる。

                    そしてアルメイダが島原から口之津へ向うという内容記事に
                    移るが、この頃は<復活祭日>から50日目(聖霊降臨日)
                    プラス3日にあたる時節であり、かの
                    <復活祭日>は4月11日(日曜日)であったから、暦の上
                    では、(まだユリウス暦であったが)5月30日(日)が、50
                    日目のその<聖霊降臨日>に当たる事になる。

                    だがここで、先に注意すべき観点として取り上げた、
                    <六月二日(水)>と<六月七日(月)>の日にちが、口之
                    津に来てからの活動記事内容での日数をまったく満たしてい
                    ないものとなる。つまり、③で述べた“二十日ほどの間”の
                    日数がカバー出来ていない。まさにこれは、フロイスの著述
                    上での増作によるミスティクと見なさざるを得ないか??。

                    そうではなくフロイスは、おそらく<復活祭祝日>を一週間
                    先に繰り上げた、4月4日と見なし、50日目の<降臨日>
                    を5月23日ベースで、それらの記述をなしているからであ
                    ろう。(検証しなければ、著述上からは隠れていて判らない
                    が、フロイスの誤認知の日取り設定であろうとも。、、)

                    また、口之津での<“二十日ほどの間”>については、島原
                    からの2度に亘る口之津滞在での合計の日数(13+6)の
                    およそを表現したものであろう。
                    (ただし前出の13日は、<6月7日>に、その文言どうり
                    をそのまま受けて、口之津から直に島原へと向った、との記
                    述をベースにした日数である。) 

                    だが、例の次の章、46章で見られる、<六月二日に、横瀬
                    浦に行った。>の文言と、その<六月七日>との関係は無視
                    でき兼ねるものであろうから、
                    それらの日付は、一つに繋がった関係の日にちとして捉える
                    ことが妥当である。しかして、
                    
                    <口之津>から⇒横瀬浦に行った。・・・<六月二日>の事。
                    <横瀬浦>から⇒島原に帰った。・・・・<六月七日>の事。

                    この足取りの場合、アルメイダが横瀬浦に着いた翌日、彼は
                    コスメ・デ・トーレス師から大村・バルトロメウ、島原殿らの出陣先への訪問
                    要請のアドバイスを受けているが、その時、そこから直には
                    出陣先に向ってはいない。

                    むしろ島原殿の出陣をそこで知ったから、今一度先に島原に
                    向うべきだとの思いが強くなったと思われる。アルメイダは
                    トーレス師からのその訪問意向を一先ず胸の内に持して、自
                    分の予定どうりに島原に帰ったと見られる。

                    *フロイスはこの双方の文言を、暗黙なものとして留め置く
                     ような仕方を採ったものであろう。とにかくその1563
                     年という年は、彼にとっても初来日の時で、その来航した
                     ばかりの7月から一ヶ月余には、大変な惨事(横瀬浦炎上
                     壊滅)に見舞われ動転するばかり、大村、有馬などの国情
                     に係わる外的時勢も不穏動揺の色著しく、その情勢は定か
                     ならず複雑で色々な事があり、混沌とした様相であった。
                     そんな世情のただ中で、イエズス会の活動布教史状況を、
                     20年後の後日になってあれやこれやと上手くまとめ史実
                     化するのは大変至難な事であったと見られる。

                   ⑤46章の<六月二日>表記に関連付けた、アルメイダ修道士
                    のさらなる動向足跡。

                    到着した翌日(6月4or5日)、トーレス司祭は、アルメイ
                    ダに新たな指示アドバイスを与える。その頃、すでに戦地と
                    なる方面に出陣中であった大村公バルトロメウから書状などが届い
                    て、その状況心情などを垣間見てのことであったろうか、、

                    だが、ここ46章でのフロイスの著述は、アルメイダの陣中
                    見舞いの旅を本命としながらも、その確かな日にち等を特定
                    表記していない。ここでも暗黙なままで、その旅立ちへの記
                    事の導入切っ掛けを、かの<六月二日>に横瀬浦へに帰った
                    折りに由緒付けて、その続きの文面書述としている。

                    “修道士は、ある日曜日の夕刻、彼らが宿泊していたところ
                    に赴いた。”
             
                    とだけ、記すのみである。彼が何処にいて、何処から出向い
                    たかについては、空白状態を残すままに留め、あえてその明
                    白な表記を避ける手法をとっている。

                    (この年の8月中旬に横瀬浦の炎上破壊のため、教会、司祭
                    館が燃え落ちて、参考史料となる書類等がみな消失し、何も
                    残っていなかった。来日早々のダメージ的混乱、そんな事情
                    からもそうする他なかったとも言える。)

                    アルメイダは横瀬浦でほんの3、4日して、その<六月七日>
                    に再び島原へ旅立った。(これは45章での表記文言だが)
                    そして、十日の日前後には島原に着ており、そのままその地
                    に十数日間滞在して、何処か他に出かけた様子は見られない。

                    <六月二十六日>になって再び口之津に向け旅立っている。
                    その島原滞在期間におけるアルメイダの具体的な活動は記さ
                    れていないが、彼がその前の時、つまり<聖霊降臨の主日
                    (5月23日)>の後に口之津に旅立ったその後以降の島原
                    のキリシタン事情、状況については、6月7日以降、再び彼
                    が島原に戻ることで認知するものとなるという内容の記事と
                    して、それらを書き記している。

                    島原の殿が、教会の敷地として与えた地所、かって城が築か
                    れていたところの跡地で、その頃はすでに町外れに位置して
                    いたが、そこは両方に湾が入り組んでいて、港として再開発
                    が見込まれると目をつけて、島原の殿が自主的にその地所を
                    均すと共に、その周辺の土地整備にも乗り出した。
                    かって城、石垣に使われてまだ埋もれたままになっていた石
                    の塊、大石などが残っていて除けなければならなかった。そ
                    れらを橋の基礎や、新たに突堤を築造するのに利用するとい
                    った具合に、何か目に見えるかたちで、その急進展ぶりの動      
                    きが見られたことなどを書き記している。
           
                    しかし、アルメイダのこの滞在時には、すでに島原殿は出陣
                    して、不在であったと見られる。

                    <六月二十六日>以降、口之津再訪となり、その地には7月
                    初めまでの5、6日の滞在にて、、、

                    七月二日にはまた島原に戻ったと、フロイスは書き記してい
                    るが、そこにはもはやなんら留まることなく、すぐに別の旅
                    に向けて、その地、及び口之津方面をしばし離れ去った模様
                    だとしている。

                    第45章はここまでで終わっているが、その7月2日以降の
                    旅立ちの行く先は、どうやら次章46の後半以降に記されて
                    いる。
                    これは、大村バルトロメウとその弟、島原殿らの出陣先を訪ねるも
                    のであったようだ。そのアルメイダの訪問模様の内容を伝え
                    記す文脈部分が、その次の46章で編されており、まさに、
                    意外な方法、構成配分で著されるものとなっている。

                    例の“六月二日に横瀬浦、トーレス師のところに行った。”
                    の文段落でもって、その陣中見舞いの記事が導入されている      
                    といった形式を採るものとなったが、とにかく、戦の模様、
                    結果には立ち入ることなく、その訪問記事を書き残しておき
                    たかったとの、著者フロイスの思いがあったようである。

                    因みにアルメイダがその陣中訪問に出かけた折り、横瀬浦の
                    トーレス師は、修道士アイレス・サンシェスをその代わりと
                    して島原に遣わし、若い日本人の同宿ダミヤンの負担をやわ
                    らげ助けるものとしている。また、
                    46章では、その冒頭の文脈部分で、その当時起こった事件
                    エピソードの記事や、2年後の1565年以降の布教活動の
                    事情さえも、その事態内容の経過状況を分かり易くするため
                    に取り込んで記すといった傾向を示している。

                    (トーレス師が、島原、口之津を巡回訪問し、日本人の養方
                    パウロを島原に留め置く事が出来たのは、その63年ではな
                    く、アルメイダ修道士が都、畿内に行き、そこから再び九州
                    の地、その島原方面に戻ってきた65年6月中旬前後の事だ
                    からである。
                    アルメイダが堺から九州へ船出するその折、初めて日本人・
                    養方パウロが、彼に同行して九州に至り、その島原の地で、
                    6月の半ば頃にトーレス師に会遇し、イエズス会の同宿同士
                    として認められているからである。)

                    そしてアルメイダのその旅訪問の最終記事は、さらに彼が知
                    己であった他の殿のところに立ち寄り、その後、彼らの処を
                    辞去したのち、その46章の結尾の文言は、

                    “横瀬浦に帰り、七月二十五日にそこに到着した。”

                    と結んで、その章を終えている。だが、この日にちは、すで
                    に先に指摘しておいたように、他のところ(47章)で著述
                    表記された日付、期間と重複し、ダブリの錯誤をなしたもの
                    となっている。*<十五日>とすべきところの印刷ミス??
                    (第一部47章=文庫版:大友篇Ⅱ・第27章P-19&22参照)

                    この場合の横瀬浦帰還は、他の記述内容との証左をすると、
                    <七月十日以降、十五日以内>での事であったと見なすほか
                    ないとの結論に至らしめる。 
                                                                                                                                            
 1563年 7月の中旬頃、横瀬浦に戻ったアルメイダは、再びトーレス師の指示により豊後への再訪
       を余儀なくされる。かの豊後府内には未だ3人のポルトガル人修道士しかいなくて、神・
       デウスへの教会奉仕が不十分であったし、また、国主・大友氏からの司祭在住赴任の要望
       及び、そのほかの友誼を絶たないようにすべきであったからである。

       7月17日(金曜日)新任のジョアン・バプティスタ・デ・モンテ司祭に同行して横瀬浦を出立した。
       横瀬浦港から大村湾の海を縦断し、千々石・伊佐早の島原半島方面へ、アルメイダは、
       その翌日、そこで先に司祭を豊後に直行させるべく、案内人らの従者に任せて別れ、自分
       らは有馬国主・義貞を表敬訪問した。そこから陸路を巡って、先に島原の教会を訪れた。
       (その当日19日は日曜日)、そして、翌月曜日には船で下の口之津の教会に赴き、そこ
       から豊後への旅を急ぐべく、肥後へと小舟で渡ってゆき、7月25日には豊後府内に到着
       している。その後、再び(モンテ司祭ら同伴にて)国主・大友(宗麟)氏との会謁に至り、
       さらなる友好関係が深まる。やがて後には国主在住の臼杵には新たに華麗な教会施設群が
       設立される運びとなる。

 1563年 アルメイダが豊後に至った後、ひと月も経たぬ内に、大村の地および横瀬浦で、謀反や暴
       動が起こった。その報せが豊後に届いたのは8月25日のことで、すでに事が生じてから
       10日経っていた。その情報は、有馬、島原地方全域をも含めて、突然事態が変わったよ
       うで、詳しい確かな詳細も掴めず、豊後の関係者らをやみくもに不安にさせ、焦燥をつの
       らせるばかりであった。何よりも横瀬浦の司祭、修道士らからは、何らの連絡も届いてい
       なかったので、猶予する間もなくアルメイダ修道士が横瀬浦に向かった。

       陸路4日で肥後の高瀬に着き、三日過ぎても島原に行く船便がなく、さらにしばらくして
       からそこに渡航するという有様であった。事態は深刻の有様を示していた。島原の地から
       口之津に至るまで、キリシタンへの迫害は、非常に厳しい状況を迫るものであった。

       アルメイダ一行は口之津を経て、17里ほど距てた千々石湾の対岸のある港に寄り、そこ
       から23里ほど離れた横瀬浦に向かい、9月20日にやっとの思いで、司祭たち(トーレ
       ス師、ルイス・フロイス)らに会うことができた。彼らはそれぞれポルトガル船に留まっ
       て過ごすほかない状況で、フロイスまでも熱病(マラリヤ)で病んでいた。

       それらの船は11月にはシナに向け出航する手はずになっていたが、そのまえに島原の有
       力キリシタンのドン・ジアンが自前の船で司祭らを探しに来てくれたので、アルメイダは
       トーレス師、修道士らをその地、および島原地方から肥後の高瀬に救出引率することがで
       きた。
       (フロイス師は、その同じ日に平戸の島、度島[タクシマ]に向かうことができた。そこには先
       に旅立ったジョアン・フェルナンデス修道士が、一ヶ月以上も前から彼を待っていた。)

       トーレスら一行が高瀬に到着して間もなく、アルメイダは横瀬浦の教会・司祭館を訪れて
       いた少年たちを伴って、豊後へ戻ることになった。

       (この少年らは、かって豊後の府内の教会施設で育った少年たちで、アイレス・サンシェ
       ス修道士に連れられて、先の8月15日の祝日の数日前に豊後から横瀬浦に来ていた5、
       6名の子らであった。修道士はその子らにヴィオラを教えて、その演奏も上手にできるよ
       うになったという。)#ミサなど主要な典礼にも弓で弾く(ヴィオラス・デ・アルコ)ヴィオラの
       比較的低めの合奏音が奏でられたりするようになった。
 
      *謀叛や暴動の起こりは、以下のような背景状況、事情によるものであった。(未だ未記述)
        
       
 1563年 アルメイダは再び豊後から肥後の高瀬方面へ行くことを余儀なくされた。
       彼が豊後に到着した頃、彼と入れ替わるようにしてドァルテ・ダ・シルヴァという一人の
       修道士が、豊後国主(大友宗麟)の布教特許状を携えて、肥後の川尻(現熊本市南区の地)
       に布教活動に赴いていた。(これは国主・宗麟の政策と指示によるかどうか判明せず?)

       その修道士は日夜の説教に追われ、休む間もない奉仕活動の熱心さ、日々の苦行練磨の熱
       心さに加え、様々な自己責務を抱え、遂にその体が過重労苦の限界を超え、衰弱しきって
       倒れ込んでしまった。
       7里(28km弱)ほど離れた高瀬にいたトーレス師にその報せが届き、看護と救助のために
       豊後からアルメイダを呼ぶ他なく、彼をその地に向わしめたからである。

       アルメイダ師の懸命な看護、薬の処方ももはや手遅れなのか、回復の兆しなく、トーレス
       師に会うことを最後の望みと知ったアルメイダは、彼を司祭トーレスのところ、高瀬に運
       び、彼の手の内に臨終の秘蹟を受けてから、安息と至福の天に召された。
       (何ゆえの無謀な単独布教活動の道を選んだのか、好んでか、強いられてか、そのところ
       は定かでない。その修道士自身の気性、性格にも問題があったかも知れないが、、、)
       
 1564年 彼はトーレス師の名代として口之津から豊後に遣わされなければならなかった。府内の司
       祭館に毎年国主・大友(宗麟)公を招くのが年中の習わしであったからだ。

       彼はその用務滞在を無事終えた後、トーレス師の布教活動の意図に基づく指示により、そ
       の旅足で、ルイス・フロイスのいる平戸へと赴いた。もはや大村領の破壊された横瀬浦に
       は立ち寄ることも帰ることもなかった。この平戸への旅では予期せぬ天候豪雨のため、異
       教徒の村に三日間足止めされたり、途中博多へと至る手前のキリシタン村に立ち寄り、ま
       た、博多の近傍の<姪[メ]の浜>から平戸行きの船を待ったり、途次名護屋に泊まり、その
       地のキリシタンを訪問したりして、意義ある時を過ごすなど、その平戸への旅は、およそ
       1ヶ月を要した。

      *この平戸への旅で、平戸の度島[タクシマ]でルイス・フロイス、フェルナンデス修道士との再
       会、また本年来日したベルショール・デ・フィゲイレドとジョアン・カブラル両司祭とも
       出会うことになる。(この時、ベルショール・デ・フィゲイレド師は、アルメイダらが平戸から発つ前
       より早くに豊後・府内への在住赴任の故にてその地を旅立った。)

      *アルメイダ修道士が、平戸への旅の間か、そこに着いてからか、すでにルイス・フロイス師
       へ、都に赴くようにとの指示が、口之津の布教長トーレス師から届いていたようであった。
                     
 1564年 10月末頃、ルイス・フロイスと共に平戸を出発、すでにその頃、布教長のトーレス師が
       肥後の国高瀬から口之津(島原半島先端の地)に戻っていたので、まる4日間かけてそこ
       に向かい、フロイス師もトーレス師らと再会することができた。その港でトーレス師らと
       別れを惜しんだ後、その当日の内に島原に至る。
       その地には数日の滞在を余儀なくされた。およそ9百余名のキリシタンがおり、さらに洗
       礼の備えのできた多くの衆徒が待ち焦がれていたからである。その後、島原から肥後の高
       瀬へ、その翌日早く陸路で豊後へ、冬季に入ったような山に、荒れ道の旅路、朽網[クタミ]の
       キリシタン村経由で4、5日ほどの旅をなし、豊後の府内に到着した。

       京の都に向けての旅立ちの準備も整い、するべき事の用務をみな終えて、いつ出立しても
       良い状況で、日を見て港の湾内を出ようとしたが風向きが反対方向で、三度も出る事がで
       きず戻る始末であった。
       それでこの年の降誕祭祝日を府内のキリシタンらと祝い、その数日後、ようやく港湾を出
       航するに至った。
       (都への船旅は、後述のルイス・フロイスの事蹟1564年の項参照にて)

 1565年 1月の末頃、四国の伊予から瀬戸内海を経て、ようやく畿内の堺に到着した。
       一行らの内、立ち寄ったいずれかの港からさきに先行させていた者らが、1月20日以降
       の何日かに先に堺に着いていたが、、。

      *豊後から堺までの船旅で、ほぼ40日を費やした長旅となった。冬期ゆえにひどい寒さの
       ためか健康を損ねて、力尽きるかのようにして堺に至ったので、日比屋ディオゴ了珪とい
       う豪商の屋敷で、ひと月近く療・静養しなければならなかった。したがって、都入りを急
       いでいたフロイス師ら一行と共には、その折り京へ入る事は出来なかった。
       (フロイスはこの時のアルメイダの事を、自著の「日本史」で、アルメイダ自身の一書簡
       からそのまま引用するかたちで載せている。)

 1565年 2月下旬頃、ようやく離れの別邸で、身の回りのことが出来るほどに回復した頃、京にいた
       ヴィレラ司祭から手紙で彼の要望を受け、当堺に滞在していた<篠原(長房)殿>を訪れ、
       数日の間、説教する機会を得ている。以外にも篠原氏の祐筆(秘書)の竹田という家臣が
       キリシタンであったため、大いに便宜を計ってもらえて、アルメイダもそこに数日ほど留
       まり、彼の説教を通して、デウス(神)のご恩寵に触れる事が出来た。
       (篠原長房は、三好長慶の弟・三好義賢の重臣であり、先の61年7月以降、翌62年の
       5月に亘っての六角義賢・畠山高政連合軍との畿内での戦に、三好方として、阿波・讃岐
       両国の軍勢を率いて二度ほど、四国から出陣している。久米田の合戦、および教興寺の合
       戦にて、前者の戦では、敗れ退却したが、後者では最終的な三好勢の勝利への貢献をなし
       ている。)
       その後、すぐに、
        
 1565年 2月末か3月初め頃、ガスパル・ヴィレラ神父が河内国の飯森城に赴いている折、その事を
       アルメイダ修道士に知らされていたので、完全に健康が回復してはいなかったが、堺から
       6里ほど離れた飯盛城へ向かい、この国の国主(三好長慶)の重臣・三ヶ(頼照)サンチョ殿    
       らの歓待を受けている。
       (当時この城の家臣らの多数がすでにキリシタンであった。) その城山での一週間ほどの
       後、その裾野の三ヶ殿の館に移り、ヴィレラ司祭により日曜日のミサ礼拝などもなされた
       が、その数日後、再び脇腹のひどい腹痛におそわれ、すぐに京の都へ駕籠カゴで移送され、
       再療養を受けねばならなかったという。およそ2ヶ月にして、暖かくなった5月頃近くに
       ようやく死に瀕する思いからの回復をなしたと、自らの書簡でもって綴られている。
       (彼が都へ移送されたおり、都に留まっていたルイス・フロイスも、長旅での寒さと疲れ
       の出た影響からか、病を引き起こし、臥していたというあり様であったという。)

    【注】ルイス・フロイスはその著「日本史」で、平戸からこの65年での都への派遣旅の折り、
       都への玄関口・堺に到着してからのコスメ・デ・アルメイダ修道士の貴重な布教活動に関
       わる一、二の彼の手記的書簡をそのまま引用して、第一部59章から62章まで、4章に
       わたる相当な分量の書簡として載せている。アルメイダのこの長文の書簡は、彼が堺に着
       いて過ごした時から、およそ半年余の間の行動記録であり、堺から豊後への帰還後、島原
       口之津、大村領・福田の港および大村公の邸訪問、そして口之津に帰り、また、そこから
       乗船し島原へ、そこでの滞在(その折りの島原の事を記し)後、豊後の臼杵に用務のため
       旅立った事にまで及ぶものであった。

       この時の豊後の臼杵滞在での内容の仔細は、アルメイダ自身がそれを書き留めないままそ
       の書簡を終えたのか、それともフロイスが掲載しなかったかの、いずれかであろうと思わ
       れるが、、、、、

       ともかく、邦訳の全集もの、後の文庫版共々<一五六五年十月二十五日、福田より。」>
       の記述日表示となっている。(おそらく、肥州(肥前)平戸の殿(松浦氏)による福田港
       碇泊のポルトガル船襲撃事件を憂慮して、急遽再び豊後から福田に戻っていったその頃に
       一連の書簡として纏めあげたものと見られ、その書簡の日付と場所が示されている。)

       以下、引き続きその書簡によるところの年代事蹟である。       
 
 1565年 アルメイダはこの病の回復後、4月29日~5月7日を経てその月の下旬頃まで、
       日本地区の総布教長コスメ・トーレス司祭の指示により、都周辺20里内外・畿内のキリ
       シタン訪問遍歴を行なっている。

       その折には大和の奈良及び多聞城や、奈良市中の寺院などの建築文化の見学もしている。
       興福寺、春日神社、八幡神社、東大寺(大仏)など、それから都からはさらに遠方の十市城
       (城主・石橋氏)のキリシタン、次にキリシタンの城とも言える沢城(右近の父・高山ダ
       リオ氏)への訪問へと旅が続く、、、、   
       この沢城に数週間ほど滞在して主なるデウスの御用をなし、その後、予定していた堺へ向
       けて下っている。堺の町では、先に世話になった了珪ディオゴの屋敷に三日ほど留まり、
       九州の地・豊後へと出帆した。

       (沢城の城主・高山ダリオは、この数年前以内(63-65年)に使者として、美濃国の何れかの
       城に行っていることが知られる。ついでにそこで2人の有力美濃衆を改宗させたとも記し 
       ており、彼の信仰の熱心さがうかがえる。←フロイス日本史)

      *5月15日アルメイダが堺港から九州へ向けて出航した。
       この九州への旅立ちには、日本人で、堺や都でその名の良く知られた医師の一人が、イエ
       ズス会での事業、デウスへの奉仕に参与したいとの強い希望により、アルメイダに随行す
       るものとなる。その日本人はすでにキリシタンになっており、養方パウロという名で知ら
       れ、この年の6月中旬以降、当時コスメ・デ・トーレス師がいた有馬領・口之津を初処拠点に
       司祭館務め、及び活動するものとなる。

       都で起きた永禄8年の乱(足利将軍義輝暗殺のクーデター)は、その日から数週間後の事で
       あった。<永禄の乱:6月17日朝方に勃発する。>
      
      *堺からの船旅は順調に進み、13日で豊後に着いた。その後の彼の動向は以下である。

       到着して4日目にその居所臼杵に国主の大友(宗麟)氏を訪問、機会ある度に訪れ、親交
       を深める甲斐があって、その地のキリシタンのために教会の施設を建設できるような確か
       な方向付けを得ることができた。

       府内に戻って4日後には島原、有馬の国に再び旅立つ。有明の海の南方に続く島原の海を
       渡り8日間で島原に着いた。その数週間前に口之津から来ていたトーレス師にも再会し、
       この地ではすでにキリシタン信徒が千数百人にも達せんとしているほどであった。そこで
       の滞在後、トーレス師と共にキリシタンらが用意してくれた大きな2艘の船を連ねて、口
       之津へと向かった。

       そこでの15日後、アルメイダ師は、大村純忠の領土に遣わされる。それはマカオからの
       定航船が福田港に来航したとの報せがトーレス師の元に届いたからである。

       入港碇泊した船は、マカオの総司令官ドン・ジョアン・ペレイラが率いる定航船であり、
       一人のイタリア人司祭アレシャンドゥレ・ヴァラレッジオを伴っていた。(この司祭は、
       後日、五島(列島)の布教を担当したが、重い病を患い、やむなく滞在2年も満たないう
       ちに病気治療のためインドに送還される。)

       福田の港には15日と数日滞在、その間に領主純忠公に急を要して招かれるべき緊事が在
       りて、大村邸に出向いて行く。純忠公(ドン・バルトロメウ)は、2年この方、幾多の戦
       のため、司祭、会士らの誰にも会っていなかったので大変な歓待を受けるものとなった。

       10月になり、その港でトーレス師から書状をうけ、それにおける指示で口之津に戻る。
       この口之津で10日余り滞在したあと、再び豊後への旅に出た。途中島原の地に立ち寄り、
       8日ほど滞在してからその港から有明の海を渡って肥後からかの地に赴いた。
       
       その頃までには豊後に居たベルショール・デ・フィゲイレド司祭が、この西九州方面への
       応援の為、すでに福田港に来ていた時(7月中旬)を継いで、この地方への務めの巡回派
       遣中にあり、またアイレス・サンシェス修道士も、豊後から島原の地に派遣されていて、
       豊後への補充代わりを兼ねて、アルメイダ士が、バプティスタ司祭の援助や、臼杵の教会
       及び司祭館建設のより良い遂行のために赴くものであった。
       その後、翌年の初め頃には、再び口之津に戻っている。
                
 1566年 この年の1月15日にアルメイダ師は口之津から乗船して、五島の島々への初めての伝道
       布教に派遣される。この時、日本人修道士ロレンソ師がパートナーとして随行する。
 
       この五島との関わりは、すでに2、3年前、トーレス師がまだ、かっての横瀬浦に居た時
       から、一時的ではあったが繋がりが出来ていた。当時その島々の領主なる殿が病気でかな
       り重かった折り、司祭トーレス師の許から一人の医師(洗礼名ディオゴ)がその危急の求
       めに応じて遣わされ、その時の幸いなるご快癒により、布教への切なる懇請を受けていた
       事があったからである。

       この5島での活動中、度重なる病気がひどくなり、その8月前後にロレンソ修道士を残留  
       させ、その地を去り、島原地方の岬、有馬領国地である、口之津に戻ることになる。

      *アルメイダ師の跡を引き継いで、豊後からイタリア人司祭のジョアン・バプティスタ・デ・モンテが代り
       に遣わされた。彼らの後には、イタリア人司祭アレシャンドゥレ・ヴァラレッジオがその任を負ったが、
       彼も病魔に冒され、帰還を余儀なくされた。彼の後、未だ正規の修道士でない日本人の同
       士・養方パウロが引き継ぎ補充され、数年踏みとどまった。

 1566年 健康が回復した後、9月になった頃、新たな布教の地として、口之津とは入海の海峡を挟  
       んで真向かいにある志岐の地に派遣される。
       布教の地盤が整えられた後、同伴の修道士ミゲル・ヴァスをその地のとどめ、新たな職務
       のためにトーレス師の居る口之津に帰る。

       この天草・志岐の地は、その後の68年には、都から帰ってきたガスパル・ヴィレラ師が
       その司祭職として奉仕する処となる。

      *志岐の地は、天草島の一領域であり、当時は、その天草全域は、肥後の国の領分とも、薩
       摩の領分とも、また、島原・有馬の領分でもない、国衆大身侯らがそれぞれ領地を治めて
       いた。その頃は、5人の侯殿が群雄割拠しているところであった。
     
 1567年 トーレス神父により長崎に遣わされ、長崎での福音布教活動と共に教会堂を開いた。また
       当時一寒村に過ぎなかった長崎の開港への扉として、貿易のための港町建設にも尽力し、
       1571年にはポルトガル船が入港するまでになった。

 1569年 アルメイダはこの年、新たに布教活動の道を天草の別の地域に開き築くものとなる。
       その地は、先の66年の志岐の地の南方で、少し東よりであるが、有明の海側の地域をも
       占めるもので、その地の領主は、その内陸部の河内浦を居住地となし、天草島を領有する
       5人の諸侯の中では最有力者として知られ、下々の領民にも天草殿と称されていた。

       5ヶ月ほどの滞在布教での成果は部分的には良い進展をみせていたが、なお長引く状況を
       予測して、コスメ・デ・トーレス師への状況報告のため、ひと先ず帰還を余儀なくした。
       彼の帰還直後、布教反対の異教徒勢力による内紛が起こっているが、天草殿とその2人の
       弟との紛争という対決状況で結果している。

 1570年 アルメイダは前年の天草領国からの帰還後、その11月初め豊後に赴いている。その折り
       ジョアン・バブティスタ師が豊後に派遣される事で、口之津から有明を渡った肥後・高瀬
       までは二人は同道しているが、その後はアルメイダが別の道を辿っている。

       彼は、その頃日田に居た豊後国主・大友氏に会うのが第一目的であり、さらに秋月所領の
       殿・秋月氏をも訪問する。そのあと、豊後に到るものであった。

       その豊後、府内等で冬を越し、年明けて70年になってから、再び日田に居た豊後国主訪
       れ、必要な何通かの書状を依頼しており、また秋月領を通り、秋月殿を訪ねる帰還ルート
       をとり、高瀬、口之津経由で大村に戻る旅程を辿っている。

       その帰りの途中、有明の海で海賊に襲われ、身ぐるみ、船の道具などすべて奪われ、大変
       な難儀を被っている。筑後(秋月領方面)地方の海岸沿いを下り、肥後の高瀬に近い港に
       着岸する間際での事であったようだ。

       その頃、大村の地にしばし在留していたコスメ・デ・トーレス布教長は、この年の復活祭
       後(4月下旬or5月初頃)、その地を離れざるを得ない状況となる。大村での異教徒家臣
       らによる謀叛内紛の起こるを懸念し、その生起を避けるためである。
       このため、老いと病身の身であったトーレス師は長崎から、すでにガスパル・ヴィレラ師
       が在住している天草の志岐に所住を移している。

       この折にアルメイダの大村帰還とその動向との間に行き違いになってはいないと見られる
       が、彼は、彼で、、或いはトーレス師の許にある要請の指示かとも、、その大村での滞在
       日数15日の後、再び豊後へと赴いている。豊後国主・大友からの新たな要請によるもの
       かとも、、、。(第一部93章)
       
      *アルメイダの大村への帰還の数ヶ月後、この年の7月には天草の志岐の港に来航したジャ
       ンク船で、後任の日本地区布教長のポストを宛がわれたフランシスコ・カブラル師が来日
       しており、他に別の司祭オルガンティノも彼に同行している。時同じくして別の船・定航
       船でバルタザール・ロペスという司祭も来着している。

       (この豊後滞在の折り、7月過ぎには、マカオから天草・志岐に来着した新任布教長なる
       フランシスコ・カブラルの招聘により、天草志岐の地にふたたび戻ることになる。)

      *アルメイダ修道士の<都からの帰還(65年)後>の彼の布教活動も、この70年代前後
       までは、いまだ日本イエズス会の人材不足もあり、彼独自の個性あるものとして、まさに
       <外交的な新開拓布教施策活動>ともなり、日本イエズス会の有能な外交官とも言える役
       割をも兼ね果している会士の観を見せている。
 
    [注]:フロイスの『日本史』では、このアルメイダに関わる記事叙述が交錯しているように見ら
       れ得る。つまり、
       第一部81章で<アルメイダ修道士の天草布教開始記事>を叙述している・・・69年
       その次の年、70年になって、
       第一部92章で<フランシスコ・カブラルの来日およびその後の動向と、併せて老布教長
       トーレス師の逝去昇天(10月2日)記事>を記している。この両者の記述の流れには、
       何ら問題は見られないが、その次に、
       第一部の93章で<アルメイダ修道士の布教活動>記事を載せているが、これは、81章
       での<彼の活動記事>のまさに直後の69年(11月)での言及からの内容記事で、翌年
       70年の<復活祭後>5月の月に到らんとする時期を示しているというものである。

       しかも、フロイスは、アルメイダからの未だ公けの報告書簡となっていない、手記的な覚
       書文書を得て、それをこの93章の本文として引用し、しかも、81章、92章とは関わ
       りの距離を置いての、別個独立的なものとして、そのアルメイダの事蹟を編入編纂してい
       ると見られる訳だ。
       したがって、このような経緯による交錯した章での内容記事には注意が必要となる。

      *この70年のカブラル師の新布教長着任以降、つまり志岐島での彼のイエズス会士の召集
       会合、申合せ会議後以降、その新布教長カブラル師にしばらくは同伴するものとなる。
       そのカブラル師が志岐から樺島[カバシマ]、福田、長崎、そして大村と巡回布教を続け、そし
       て、再び長崎に戻り、そこから口之津、有馬(の国主)を訪れ、それから豊後へと、その
       国主・大友宗麟を訪ねる一連の巡回旅に、ルイス・デ・アルメイダは同伴随行している。

       その後、すでに71年になっていたが、その年、カブラル師の日本の首都・京及び畿内地
       方への旅となるが、その折りの通使兼同伴者は、日本人のジョアン・デ・トーレス修道士  
       が担当している。

 1572年 この年のインド・ゴアからのガスパル・コエリョ師の来日以降、彼が九州の下地方の上長
       となっていたという関係上、このコエリョ師の下で活動するものとなる。とくに島原半島
       (旧高来郡)の有馬領主・有馬義貞その家臣らへの改宗布教等に関わる活動には、その上
       長コエリョ師の下で事前交渉活動に貢献している。

 1576年 この年、九州島原半島の有馬領主・義貞がキリシタンに改宗したことにより、その地方の
       キリシタンが大幅に増加したので、豊後にいたカブラル師は、この地方区担当としての司
       祭をアントニオ・ロペス師に定め、その師に付し伴侶としてルイス・デ・アルメイダ修道
       士を宛がうものとなる。

       だが、10ヶ月も満たないうちに領主・ドン・アンデレ有馬義貞は、持病の腫れ物の病が悪化
       して死去、それにより一挙にキリシタン状況は、降下急変し、跡を継いだ異教徒の嫡子・
       鎮純[シゲズミ]の廃棄行動により、元のもくあみとなったかたちで情勢が一時衰退頓挫して
       ゆくものとなる。

       この頃、豊後から島原半島の有馬、口之津に来ていた布教長カブラルは、アンデレ・義貞の葬
       儀ミサを盛大に終えて後、跡を継いで領主となった鎮純[シゲズミ]の意向に応じて、司祭ア
       ントニオ、アルメイダ修道士にその有馬の本拠地教会の撤収を指示している。

       その後、ルイス・デ・アルメイダ修道士は、かって69年に布教活動をなした天草の領地
       ドン・ミゲル天草鎮尚[]のところ、本渡城へ出向くようにカブラル師から指示を受けて、その
       地にしばし滞在する事となる。この天草諸領地区は、全領民、家臣らがキリシタンとなり、
       一人も異教徒がいないような状況とまでになった。
       
 1577年 この頃、前布教長コスメ・デ・トーレスの先例に準じて、新布教長のフランシスコ・カブラス師が、
       冬期を豊後に滞在して、自らの管轄職務をなすものとしていた。そうした折に薩摩国主・
       島津義久からの会士の布教派遣要望が督促書状としてあり、アルメイダ師が再び薩摩に赴
       くものとなる。先の62年にその地に出向いて以来、15年ぶりの事になろうか、今回も
       ほぼ一年ほど在住して布教活動にあたったが、以前の振り出しに戻った如くにその進展に
       はまったく成果の少ないもので、将来の見通しの見込めないものであった。
       それは何故であったのか、、、、
       国主の島津は、切なる思いでもって、デウスの教えの布教を歓迎していたが、その全家臣
       ら(縁戚の有力家臣らが牛耳る故の)および強い仏僧階層の強力な反対圧力により、国主
       の意向が全く実行反映されないままの状況であったからである。
       彼ら薩摩の家臣団は、むしろ国主を担いで、キリシタン、及び豊後のようなキリシタン擁
       護国を撲滅したい、と願うほうに傾いていた。
 
 1578年 アルメイダ師、やむなく薩摩から豊後に召還され、その後、カブラル師に随行して、日向
       の国に出向く。これはまさしく豊後の大友宗麟フランシスコとカブラル師とが連携して、
       その新たな試みとして、全面的に新たなキリスト教国を建設せんとするものであった。

       だが、その試み、夢は、耳川の合戦で潰えるものとなる。薩摩の勢力領土への深入りし過
       ぎ、また配下の異教徒総大将、武将らの戦意の不熱心さや、作戦立ても無く、各将官の意
       気投合の連携一致もなく、自分本意な勝ち急ぎ、足並み不揃いの無戦略のミス等により大
       敗を被り、早々にその地から引き揚げるほかなかったからである。

 1579年 この年来日した巡察師ヴァリニャーノの指示により、アルメイダ師は、他の4名の修道士
       (フランシスコ・ラグーナ、々・カリオン、ミゲル・ヴァス、アイレス・サンシュス)と共にシナ・マカオに廻派遣された。
       これは彼らに司祭の叙階を受けさせるためであった。この頃、日本には叙階を行なう司教
       が一人もいなかったからである。
             
 1580年 叙階を受けたアルメイダ師は、マカオから再び日本に戻り、宣教師として幅の広い才量を
       もってその活動に専念し、天草全島の布教責任者としてその奉仕の任にあたるが、、、、
       その後の佐賀の竜造寺氏と薩摩の島津氏の勢力争いの情勢下で、その地が双方の狭間に位
       置する中、布教とキリシタン事情は、常に緊迫した厳しい現実を間じかにしていた。

       (竜造寺隆信軍と島津家久、有馬晴信連合軍との最終決戦となる天正12年(1584年)3月
       の<沖田畷の戦い>にいたる状況過程で、天草の全域に亘っていつ紛争に巻き込まれるか
       知れない緊迫した状況下で、アルメイダ師は、その晩年の最後の数年を老いの病を患いつ
       つも主なるデウスへのご奉仕に心燃ゆる日々を過ごした。現に82年頃には副管区長ガス
       パル・コエリョの指示により、彼の生涯最後の薩摩入り、その鹿児島にしばし在住を試み
       るが、その折りは家を建て住む許可を与えられるも、反対勢力の厚い壁に阻まれて、国主
       からの布教、及び洗礼の許可を得ることかなわず、またもや退去するほかなかった。)

      *アルメイダ師と一緒に戻った4人の司祭のうち、フランシスコ・カリオンと他の一人は、
       翌81年には豊後から巡察師ヴァリニャーノの都行きに同行するかたちで、畿内地方での
       布教に従事する。82年には都の先在住組のオルガンティノ司祭らが安土へその在住拠点
       を移したので、その後継にカリオン師と2名の修道士が都での任となり、もう一人の帰還
       司祭は、高槻あるいは大阪での任地となったと思われる。

 1582年 この頃もアルメイダ師は、天草諸島の領主ドン・ミゲル(天草殿)の地にいたが、この年、す
       でに七十歳に近い老齢だった領主ミゲルが重い病となり、その死期の近い事を感じると、
       彼の良き霊的手助けともなり、彼を看取りつつ栄えある臨終の時を迎えさせ、その昇天逝
       去を意義ある立派なものとなさしめている。(6月末7月初目頃)
       副管区長コエリョ師は島原高来地方(有馬、有家)からその地の赴き、その葬儀も栄えあ
       る高貴なものとして盛大に執り行なっている。(7月初め)

       その後、アルメイダ師は、上長コエリョ師の意向指示を受けて再び、薩摩の国に派遣され
       るが、国主・島津義久への上層親族、仏僧らの反伴天連勢力の圧力が強く、以前にも繰り
       返されたように国主の布教許可、教会設立を公けになすことが叶わず、この折りもアルメ
       イダ師は、国主の命によりやむなく退去を強いられ、その頃高来(有馬)に在留していた
       副管区長ガスパル・コエリョの許に戻るほかなかった。

      *アルメイダは、天草領主ミゲルの葬儀が済んでから薩摩へ赴いたと見られ、その7月中旬
       以降から年内数ヶ月の間の滞在であったと見られる。だが、その頃、都での政変、<天下
       の織田信長暗殺の変>の情報、知らせが薩摩政庁にも届くものとなるといった状況で、、
       伴天連、キリシタンを有力に支持していた当代随一の都の君公・信長、彼に倣え、彼との
       誼を交わすべし、といった趨勢が立ちどころに途絶え、暗澹と化してしまった。
       薩摩の国でもそういった望みある趨勢を無視できないものとして心得、状勢把握していた
       であろう。

       薩摩は、都から最も離れている九州西南の国ではあるが、元々、都に負けじ劣らずの独自
       な伝統の神仏保守の王国といったところを基盤としているものであったから、その都政変
       の与えた影響、刺激はかなり強かったと見られる。
       つい先ごろの都での巡察師ヴァリニャーノ現象(キリシタンフィーバー)及び、今や信長
       のイエズス会との明らさまな昵懇化状況など、先に目前としていたわけであるから、、、
       国主・島津義久と、その有力側近の一部、非保守進歩派の家臣らは、落胆と憂慮、戸惑う
       処が思いのほかあったに違いない。反対に多勢保守派は大いに勢いづいて、その持ち前の
       時世を誇らかに進めるものとなったことであろう。

       アルメイダにとっても、薩摩・鹿児島に在りて、今までにない厳しい状況に直面したであ
       ろう。フロイスの記すところ、何ら都からの情報などにはまったく触れていないが、アル
       メイダがひどく悪魔に殴打されたとの彼の自述を取り上げての記事は、ひどいショックの
       あまり、夢うつつの中でその悪魔から、夢とも現実とも定かならぬほどにリアルにひどい
       殴打を食らって寝込んでしまった、、ということであったかも知れぬ。心身ともに弱り果
       てた彼、人生の晩年であったから、、。以下の現実相をも考慮すべきだが、、、、

       (この滞在時にアルメイダが悪魔により殴打され、数日寝込んだという記事をフロイスが
       記しているが、そのような記事の書き方により、当時の時代のキリスト教的な世界での反
       キリスト的な事象の捉え方を如実の反映するものとなっている。反キリストの見えざる勢
       力・人の世の背後に働くと見なす悪魔の感知観念思想の立場から、何かと他でもしばしば
       見られるようにそういった類の記事を記すものとなっている。
       この滞在の折りは、<邪悪な心を主体意識とした形相悪辣な人>が仏僧らの手先となって、
       アルメイダに先手の手痛い脅し、追い出しの殴打を浴びせたと見られる。)

       ともかく、アルメイダを全面的に支援していた最有力の新進派の首席家老・右衞門大夫か
       その仲間の主力要人かであろう一人の家臣が、都での信長暗殺の場合とはまったく対照的
       に騒動なく、刺客により忍び込み刺殺されてしまった。信長は、その当初、厠カワヤの外の手
       洗いで狙い弓矢されたが、(光秀が穏便に事を成し、すばやく都を掌握するの意図で)
       この場合も、状況ケース、類を呼ぶ如く、無防備な家の便所の中で、という事であった。
       その事件の後、アルメイダもはや、その先まったく布教進展の見込みなく、失意絶望する
       かのごとく、薩摩から退去する他なく、島原高来の地へ帰らざるを得なかった。

      *アルメイダの薩摩国訪問は、フロイスの著書「日本史」での記事で見る限り、三度の布教
       旅を記している。1561年末-1562年、77年、そして、晩年の1582年のそれ
       である。それらの訪問のうち、最も穏当で有意義な状況、布教環境を示したのは、その最
       初、62年の時だけであった。これは、かってのメストレ・フランシスコ・ザビエル師の初来日当初の
       訪問の和やか交流布教を思わせるような、その効果的余韻を帯びた延長線上に在るもので
       あった。だが、その後の77年及び、82年時での訪問状況はその布教に係わる諸事情、
       世情環境は、旧来神仏体制、僧院神社の存営堅持を自善なりとして、異教キリシタンは、
       受け入れざるもの、排斥すべきものとして、その国情は厳しい傾向を現わにしていた。

       (民衆一般レベルでは多くの人が、布教、キリシタンを内に望んでいる傾向のあった事は
       戦ばかりが起こる世の中事情に僻々していたから一目瞭然と云えるが、フロイスのエピソ
       ード記事からもそれが読み取れると云えよう。

       例えば、アルメイダが宿にした宿屋の大家の娘、年は18ほどで、とても賢いと見られる
       その娘は、外なる諸国のキリシタン事情に明るく、キリシタンへの強い憧れを抱いていた
       がゆえに、<悪魔憑きで生死の境をさ迷うかの如き病気状況>を演出、やってのけるわけ
       だ。両親周囲は仰天蒼白となるが、それは本人しか知らない。無力な若い娘っ子レベルが
       が考え抜き思い付いた、現状を変えようと願う、インパクト、影響力が見込めるとする、
       ある一種の現実打開策であったろう。このようなケースは、かって肥前の大村領の松原と
       かいう村だったか、そこでの娘か、年増の女もやっているようである。)

       [注]:現代的に見れば、<悪魔憑き現象>は、無知、蒙昧の言葉とその観念を心底として、
       様々な恐怖や圧迫、虐待などで、脳障害や損傷を負ったり、心身のトラウマ、欠陥を有し
       て、その心、自我がゆがんだものとなり、その正常さを失った、いわゆる壊れた意識状態
       の人格を現わすものである。正常な自我が表出されず、潜在的に眠っていた記憶要素の機
       能組織がその欠損自我を代償、補填するかたちで、働き作用して別自我のように意識表示
       されたりもする。
       
 1583年 アルメイダは年が進むにつれ、労苦を重ねた身体も一層病弱なものとなり、布教活動の第
       一線から退くものとなる。養生しながら天草の地で、キリシタンたちの相談相手、面倒見
       の司祭として、ほんの一時の余生を過ごす。だが病弱を来たす病は重くなり、その10月
       には天草の河内浦(熊本県天草市)の田舎風の貧しい自居にて、涙するキリシタンたちに
       見守られ、天に召されて逝去する。
   
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 ・<ガスパル・ヴィレラ>:1525年(大永5年)? - 1572年(元亀3年)ポルトガル人イエズス会員、
               カトリック司祭。日本での最初期の宣教師の一人、主に京都及び、畿内で
               布教活動をした。都で1565年に<バテレン追放令>がでた翌年年5月以降は、
               堺から九州の地に移っている。

 1525年 この年に生まれたと推測されている。ポルトガル生まれのポルトガル人。
       ポルトガルですでにカトリックの司祭叙階を受けており、イエズス会には未だ入会
       していなかったと見られる。おそらくポルトガル国王の要請希望に応えて、叙階後、
       ほどなくしてインドへの自主的派遣の道を選択したようだ。26or27歳の頃。

 1551年 この年にインドのゴアに到着、その折、彼の兄弟らも一緒だったらしいが、イエズス
       会員だったか、商人とか商業志向、或いは若いゆえの海外志向とかの一般人だったか
       は定かでない。
       (彼は、54年5月に日本に向けて出立する数ヶ月前にイエズス会員として採用認定   
       され、会としての一定期間の修練期にあっての日本行きの抜てきであったのか、それ
       とも自ら日本行きを希望したが、イエズス会員でなければ、日本行きを認めないとの
       方針規則があって、やむなく入会したということのいずれかだと見られる。)

 1554年 ガスパル・ヴィレラ師、日本へ渡航する。その経緯は以下である。
       日本行きの一行は、出航準備のために少し遅れたのか、その5月初め、インドのゴア
       を発ち、日本へ向かうことになった。(普通は4月中旬頃出帆が頃合いであったが。)
       ヴィレラ師は、現インド管区長メストレ・ガスパルの指示承認により、日本行き宣教
       のメンバーの一人になっていた。
       (現インド管区長のガスパル師は同年、この年のうちに天に召され逝去する。)

      *この折、すでに後任のインド管区長となるメストレ・ベルショール・ヌーネス師がゴア
       に来ていて控えていたが、この一時を利用して、日本への応援視察のため、今回の日
       本行きの一行に同行参加する事となる。(一行の長が突如、ベルショール師に代わっ
       たので、バルタザール・ディアス師が降りて、ゴアの学院でベルショールの代理とし
       て留まることになる。)

       同行の一団は、他に四人の修道士と、名もない15、6才の五人の孤児少年らであった。
       4人の修道士のうちにルイス・フロイスが参加していたことは注目に値するが、彼は
       途中で航海が大幅に遅れ、マラッカに着いてその冬にあたる時期を越冬するほかない
       事態におちいり、その地・マラッカでおよそ半年近く滞在することになる。そんな状
       況の下で、
       この滞在中、たまたまこの地の司祭館の留守役の司祭に空きが生じていたので、ベル
       ショール師は、その期間にフロイスの才能、適性を見抜き、その司祭館の後任の司祭
       の来任まで、司祭館の世話管理の代役を彼に命じ、そこに残留させることになった。
       これによりルイス・フロイスの渡日は、何年か先、63年の事となる。
       (54年の5月にゴアを離れてからこのマラッカ滞留までの期間で丸々11ヶ月が過
       ぎた。)

 1555年 4月1日、一行はマラッカから船出した。しかし、この出航のためには、三ヶ月間に
       も及ぶ準備が必要であったと、フロイスはその史書で懐述している。用立て手配され
       たその船が老朽化しており、しかも船体が低く、特に両舷が低すぎるので、荒海外洋
       には不向きときており、船自体だけでも、両舷を防壁的に少し高く整え、帆や帆柱も
       新しく調達、付け直すといった具合に、修繕全般を施してのものであった。
       
 1555年 7月15日、一行は、広東沖のサンショアン(上川島)に到着する。
       マラッカからは
       3ヶ月半の日数を費やすほどの大変な航海遅れであったが、これには2度、3度の激
       しい嵐にも見舞われ、その一度めには帆を裂き破られ、2度目は嵐の高波で大量の浸
       水を来たし、沈没も覚悟するほどの難破的なうちに船を陸地に向けたが、逆風にあお
       られ流され、以前に出航した島に戻るかたちで、その陸地に避難するのに40日もか
       かったとも、、、また、そんな事態の時より前には、シンガポールの海峡に来た折り
       に、海底岩礁群に乗り上げてしまい、丁度出くわした他のガレオン船に救助を求めて
       脱出したこともありで、、、、
       結局、浸水に見舞われた最初の船を放棄することになる。一行は、折りよくかの島に
       来た、二艘のシナに向かうポルトガルのガレオン船に移乗することを余儀なくし、そ
       のガレオン船で航海を続け、漸くにして、シナの広東沖のサンショアン島に至ったわ
       けである。また、亡きザビエルゆかりの地のこの島でも半年余り滞在する事になる。
       
 1556年 (弘治2年)イエズス会インド副管区長ベルショール・ヌーネスと共に豊後府内(現大分
       県大分市)に上陸し、日本での布教活動を開始。

      *この年の6月に広東沖のサンショアン(上川島)を出帆したとの情報が書簡から覗え
       るので、7月中旬~8月頃の到着かと推定される。
       この府内の港に到着する際、その前に航行を行き過ぎ間違えて、備前の国東半島沖の
       豊後国領域外の、とある島とかの港に誤入着するトラブルを起こしている。

 1557年 この年の降誕祭祝日後の暮れに、府内から9里ほどの朽網[kutami]の地を訪れる。この
       地は、かって54年にガーゴ師が布教に出かけ、キリシタン信徒衆ができた所であった。
       たまたま、ジョアン・ヘルナンデスが博多から府内に来ていたので、( この時たぶん
       博多のキリシタンらをその府内の降誕祭に連れてきたのであろう。)彼が同行案内役
       として随伴したが、以前の時とは違い、雪に覆われた極寒の山地となっていたため、
       途中で他の村にも寄ったりしているうちにいつしか道に迷い、道中難儀苦労をしての
       貴重な朽網来訪の時を過ごす事となった。
       
 1558年(永禄元年)バルタザール・ガーゴ神父に代わり平戸布教を担当し、沿岸の島々も含め
       凡そ1500名ほどに洗礼を授けたが、現地の仏僧、異教徒らと対立し、領主・松浦隆信
        (道可) により退去を命じられる。
       
 1559年 仏僧らの訴えにより領主松浦氏が宣教師追放の命を下した時、ヴィレラ師はやむなく
       一時、博多への避難を余儀なくされた。
       この時、ロレンソらも同伴したが、それからすぐ日本布教長トーレス師の指示により
       8月の下旬には博多を後にして豊後・府内に戻っている。これは、ヴィレラ師らが京
       の都の布教を目指すことになったからである。

 1559年(永禄2年)九州豊後(府内)から9月5日に旅立ち、その年に、日本人ロレンソ了斎らと
       京入りを果たした。(ヴィレラ師35才頃、同宿少年ダミアン、道中案内役のディオゴ
       という日本人キリシタンが同伴した。師を含めて四人のみである)

      *船旅ルート:府内近隣・<沖ノ浜港> → <守江ノ港> → <宮島ノ港・安芸の国> →
         <堀江ノ港・伊予国> → <鞆トモノ港・備後国> → <室ムロ(津)港・播磨国> →
         <兵庫ノ港・摂津国> → <堺港・畿内の和泉国>・・・瀬戸内海の満潮干潮時の
       潮の流れと順風が頼りの船旅ゆえに豊後から堺まで四十四日間を要した。港での滞在
       日数、待ち日数のかかり過ぎだったと云えるが、たっぷりと<主なるデウスの御摂理
       による、良きに付け悪しきに付け事前の慣れを付ける初期体験の瀬戸内の旅となった。

              (★沖ノ浜港は、現大分港界隈で、大分川河口の東岸から沖合いに突き出し、国東半島
        側の守江湾の住吉浜のように弓なりに、別府湾奥側に延びたかたちで囲われた港で
        あったらしい。
        慶長元年7月12日<1596年>の近畿東海の大地震の三日前の9日に九州東部を襲った
        瀬戸内・豊後水道辺りを震源とする局地的な大地震とその津波の直撃で大部分が海
        に呑み込れて沈み、沖ノ浜港は消失した。
        ★守江ノ港は、今の別府湾北側出口寄り・国東半島側の杵築市の小さい守江湾の内に
        位置しており、おそらく弓なりに湾に突き出た住吉浜の内側を港としていたと思わ
        れる。)

      *堺からは、山口の国主・大内義長の書状を携え、先に比叡山の座主・西楽院から布教
       目的の都入りの許可を得るために、近江国の坂本(比叡山ノ麓)に向かった。
        → <大阪の町> → <山崎> → 舟で川を溯り<六地蔵> → 陸路で<山科、醍醐、
        逢坂関を経て> → <大津・近江国> → <坂本>・・・・
       ロレンソ修道士の4度の比叡山への折衝(2度はヴィレラ司祭が同行)を試みるも、許認
       紹介状を叡山座主から得ることも、謁見することも叶わなかった。しかして、
       
      *ヴィレラ司祭は、意を決し、死を覚悟して、都入りを敢行する以外になかった。
       <近江国・坂本から> → <京の都へ>・・・西暦で1559年末頃か、明けて60年初め頃
       であった。(フロイスの日本史の第一部23章から特に24章の文面から推察すると、
       翌60年の年明け早々、近江国の坂本から京に向かい、1月10日前後に紹介されてい
       た老尼僧の京の知人宅に着いたことが知られる。

      ★司祭らは比叡山との交渉のおり、大泉坊という老僧に促されて、近江国主・六角氏の重
       臣家老・永原殿を、坂本から湖を渡った対岸の先に永原にも訪れている。これは司祭ら
       が身の危険に曝されないよう安全を確保するための書状を得るためであったが、この折
       にも、家老・永原殿の代官である北村という家臣との折り合いが、説教の教えなどで悪
       くなり、永原氏からの書状を得ることなく、すぐに退去させられる事になる。

       この退去させられる時に代官・北村の申し伝えた言葉をフロイスが書き記しているが、
       この初老の田舎の代官・北村には、西国のみやこ山口の将軍大内義隆のことが思い出さ
       れていたことであろう、、、

       その言葉の文言で、(原文の訳者の方:松田、川崎両教授の訳文語では)

        “サイゴウ・ショウグァン”とカタカナでの表記とされているが、その場合の
        原文はポルトガル語上でのローマ字式のスペルで日本の言葉を音写したもので
        あろうと判断される。
 
        この“サイゴウ・ショウグァン”は、フロイスがそのようにローマ字綴りした
        ことに違いないが、この語は、“サイゴク・ショウグン”を表わすものと思わ
        れる。つまり、<西国・将軍>である。したがって、それに続く文言で、
        “数年前、都を統治し~、その後まもなく、この殿は討たれ殺されて~、”と
        する、その<西国・将軍>とは、西国周防・山口の<大内義隆>であったと断
        定できようか。加えてその際の伴天連は、フランシスコ・ザビエルとなる。
        この文言について、原著者フロイス自らが、補足の説明文を付け足しているが、
        どうやら、“サイゴウ”という言葉を、人名と受け止めたようで、明解さを欠
        いた、不適切で誤まった補足文となったようである。
        
      *坂本で紹介された宿の知人の家主の所に、4、5日のところを、どうにか14日間留まり、
       その間に同宿のダミアンの懸命な貸宿探しにて、1560年1月25日次の宿屋へ移る。全く、
       馬小屋のような貧疎で雨漏りがする、人が生活するに不適切なものであった。それでも
       そこに、三ヶ月ほど留まり、少しでも適する所へと、次の宿所へ移っていったが、そこ
       も大差なく掘建小屋同然であった。⇔ フロイスの「日本史」より。
 
 1560年(永禄3年)苦労の末に将軍足利義輝に謁見、砂時計を献上。大友義鎮や伊勢貞孝の助力も
       あり、京におけるキリスト教宣教許可の制札を受け、四条坊門姥柳町に定住し、教会
       とした。

       フロイスの史書によると、その<四条坊門姥柳町>への定住は、さきに借用契約期限の
       切れる1562年の早春3月(西暦)の中旬頃に移住したわけではなかった。

      *初めて都入りしたその折での旅の一時的宿として、その最初の14日間を過ごし、都内に貸
       してくれる家がなくて、やむなく町外れの<革ノ棚>と言う一区の後家寡婦の家の貧疎で
       小さな小屋のような家屋で、宣教を始めながら3ヶ月を過ごす。
       そこから4月末頃には、6角町通りの玉蔵町という所に移り、そこで数ヶ月ほど留まる。

       それから又、次の所(四条烏丸町という地区)に移り、この所が上記の62年4月(旧暦)まで
       の借用契約により住むということになるが、、この借家も結局は、61年の2月頃の冬期
       を越して、春過ぎか初夏の頃までしか住めなくなり、契約解除となったようだ。

      *それらの移住の住まいは皆、実に貧素で粗末な、冬の寒さをしのぐ事の出来ない掘立小屋
       のような家であり、そんな住居で宣教の務めをしている。従って、京入りの1560年の
       1月中旬頃から、まる2年が過ぎてからの<四条坊門姥柳町>への移転ということではな
       く、先の借用契約が満了するまで、四条烏丸町にいたわけでなく、追い出されるようにし
       て、契約途中で(61年の春過ぎか初夏の頃)移転せねばならなかった。

      *おそらく購入した家への移転は、61年の春過ぎか、初夏の頃であろう。というのは、
       その購入の年の8月の下旬頃、わが身をしてヴィレラ師が、堺の町へしばしの布教活動に
       出向いたのは、畿内地区への最初の試みであったからである。これは堺の有力な一市民・
       富商なる日比屋了珪の支援的招きに応じてなされ得たものであったが。
       (中公・文庫版Ⅰ巻11章135ページ2行目による)

 1560年 ヴィレラ師、公方様こと・足利義輝将軍を初めて訪問、義輝は当時、都の妙覚寺という大
       きな僧院に住んでいた。これは京への旅の途中、堺で、山口で先にキリシタンになった日
       本人医師パウロに出会い、その彼による紹介状から、都のある高僧・永源庵のご好意溢れ
       る支援手引きによって、うまく願いどうりになったものであった。
       (この初訪問は未だ<六角町通りの玉蔵町>にいた頃で、おそらく秋頃であったろう。)

      *日本側の歴史では、畿内の河内国で、幕府の実権を握っている三好(長慶)一族に軍政的動き
       が見られた。
       畠山高政の背信行為により、長慶が、高政とその守護代・安見直政の軍をそれぞれに打ち
       破り(永禄3年7月)、直政の居城・飯盛山城が10月24日に、高政の居城・高屋城が10月
       27日に開城され、両名は追放されるものとなった。これにより河内国は、完全に三好長慶
       一族の領国となる。
       11月には飯盛山城を長慶自らの居城となし、高屋城にはその平定に功のあった実弟の三好
       義賢の居城として与えた。
  
 1561年 日本暦(旧暦)の正月(西暦で1月末か2月初めである)2度目の訪問をすることが出来た。
       これは将軍公方や主君への年賀挨拶としての日本の習わしによるものであった。
       (この年の春過ぎ、新たな場所に移転している。今度は借家でなく購入した家で、<四条
        坊門姥柳町>という所へ。)

      *この年の初夏の頃でのある一時的な<伴天連追放事件>の解決が無事果された後に、
       その7、8月(西暦)に至る頃、3度めの公方将軍・義輝を訪問している。この折は政所の
       礼法・式部職の伊勢守殿(伊勢貞孝)の説得執り成しによるものであった。
       この訪問に関しては、あわや司祭、修道士らが悪辣な法華宗の僧たちの悪しき目論みによ
       り、当時の天下の執権代<松永霜台・久秀>をして、都から追放され、キリシタンたちに
       あらぬ被害が及ぶような危機に遭遇しかけて、大変な労をもって免れることが出来たが、
       これも公方・義輝の以前におけるご配慮があっての事に依っていたから、そのお礼を兼ね
       ての訪問であった。
       
 1561年 8月、都以外での地、堺の町で宣教を始める機会が到来した。日比屋了珪なる人の屋敷内
       での一部の建屋が教会の役割をなした。その二階が聖堂での交わりの場となり、司祭の居
       室ともなった。
       (ヴィレラ師が堺に来て、一ヶ月もしないうちに京方面で戦が起こった。)

       ほぼ一年に亘って堺に滞在することになるが、それは結果的に、京の都、畿内での動乱に
       次ぐ動乱の戦禍を避けるためでもあった事になる。その後、18年以上にわたって、堺で
       の布教活動の際には、日比屋了珪氏の屋敷が教会用拠点として有用される事となる。

      *日本側の戦国時代史の歴史解釈では、            
       この年<永禄4年5月頃>、細川晴元と、その元家臣・三好長慶とが十数年の間、政権紛争
       がらみとなった戦を度々繰り返し、ようやく終局段階となった。そこで晴元と長慶とが和
       睦するに至るが、前管領・晴元を幽閉し、その後、子の信良も同様にするという、長慶の
       処遇に対して激怒した六角義賢が兵を挙げる事態に至る。義賢は晴元の妹を妻にしていた
       からである。同年7月28日の戦陣体制以来、11月24日での全面的会戦に至る。
       (京都及びその近隣での戦→<将軍山城・白川口・神楽岡の戦において>)

       この六角義賢に呼応するかたちで、以前の戦で長慶に破れ、紀伊に落ち延びていた畠山
       高政が打倒長慶を旗印に巻き返しを計るべく、同年7月13日の挙兵し、三好勢の有力地・
       和泉国の岸和田城を取り囲むに至り、これにより大きな戦へと発展してゆくことになる。
       (久米田の戦いへ)

       この戦いは断続的に11月、12月と続き、翌永禄5年(1562年)3月5日午ノ刻(午後0時)
       より両軍は遂に激突、双方共死闘を繰り返すものとなる。岸和田城の攻防を賭けて両勢が  
       対陣してから7ヶ月後のことであった。戦闘は、申ノ刻(午後4時頃)過ぎには終息し、この
       時、総大将の三好義賢(長慶の弟)は討ち死し、三好勢の敗北となった。(義賢享年37才)
       高屋城も開け渡され、再び畠山高政のものとなり、南河内から和泉をも奪還するものとな
       るに至った。

       六角・畠山連合軍が勝利して、
       翌3月6日、六角義賢は、京に進軍し、その8日都を掌握した。その後、畠山の軍勢が、
       3月下旬頃には大和の西北沿いに進軍、三好長慶が篭る飯盛山城を攻囲するが、簡単には
       攻め落とせず、再び持久戦となる。
       その間に三好勢は、兵力を整え挽回し、先の時をはるかに勝る総兵力6万余をもって、畠山
       勢との対決に迫ってゆく。畠山勢は、三好勢の援軍増勢への動きにより、飯盛山城の包囲を
       解いて、河内の高屋城方面に南下し迎撃に備える。
       (教興寺合戦へ)

       ついに河内高安郡教興寺村(現大阪府八尾市教興寺)付近一帯で、5月19日の暁時から
       日没時にいたる大合戦となった。
       (この時に至るまでに六角義賢が、援軍を畠山勢に送るのをためらい怠ったため、三好長
       慶軍側が勝利することになる。畠山軍の敗北の知らせを得た六角義賢は、和議を申し入れ
       る一方、次月の6月には六角軍退京、早々に近江へ撤退した。)

      *日本側での上記一連の合戦歴史の詳細な記述は、一次史料及び2次3次史料の多様な断片
       や、創作物語的な類を含め、且つ、現代的歴史著作物を参考資料として、その戦国時代史
       の一面を創作的に再現するようなふうに捉え記されたものである。

       一方フロイスの「日本史」では、そのような詳細な合戦史的記述は見られない。極めて簡略
       的に一つの出来事として捉え、不明細に凝縮されたかたちで記述されている。
       戦争、合戦に係わった主要人物に関しては、氏名的記述の言及を極力避けている。その戦の
       最終の勝利者として<三好殿>の名が一度きり出ているのみである。

       六角氏や畠山氏の名等は、フロイス側では知られていないようで、<岸和田城包囲、久米田
       の合戦>について直接的言及はない。京の都及び周辺と、堺と都の間での<堅固な城>の
       攻防戦、(これは<父の居城なる>飯森山城であろう)とそのすぐ後の合戦、即ち、都を統
       治していた<子なる大身=(三好義興)>らの叔父方の援軍を含めた再編成の軍勢と<父=
       (長慶)>方の守城軍が合流しての戦(=教興寺合戦への推定??)にて、その父子軍勢が、
       先の戦(都近辺での)では敗者となったが、今度は勝者となり、都を敵の手から取り戻し、
       この場合、近江に退いていた将軍・公方様(義輝)も都に戻ったとしている。
 
       この義輝の動向に関しては、畠山が完敗した状況で六角氏が近江に撤退する際、和議和睦
       のための切り札として用いるべく、義輝を近江に随伴せしめた事による。義輝もそれを了
       解しての事であろう。

       (フロイスの記述では、堅固な城・飯森山城の攻防戦から一時退いてから<教興寺合戦>
       なる戦に関わる現代的設定解釈とは、それと比定し、推出できる記述内容としてうまく示
       し得るものとはならないほどのものである。)

 1562年 9月、ヴィレラ師およそ1年ぶりに堺から都に戻る。上記のような、三好天下の軍勢と、
       六角・畠山の連合軍勢との陣営が61年8月末(西暦)には戦陣体勢となり、翌62年7月
       までに大きな会戦が2度、3度とあり、断続的に続いたからであった。この戦が終息し、
       この年は、都でキリストご降誕祭を祝う事ができた。

 1563年 この年、都での初めての四旬節を祝い、また聖週間を守り、復活祭を祝った。
       その後、4月末か5月初め頃、再び堺に避難を余儀なくされた。これはまた、堺のキリシ
       タン達の慰励にも良いという事での都の信者等の同意協議によるものだった。
       この堺での滞在期間は2ヶ月余ほどであったが、そこから他の地への意外な布教の進展が
       見られ有意義なものとなった。
       一つには、その5月中旬頃にロレンソ修道士が大和の奈良に遣わされる機会があり、その
       後、続いて司祭ヴィレラもそこに赴き、都に関わる有力な2人の貴人(結城山城守、清原
       外記[土岐?]殿)、及び、右近の父・高山厨書らがキリシタンになった。

       他の一つは、奈良から都に戻った後、夏が訪れた7月の頃、ロレンソ修道士を三好長慶が
       国主となす河内国の飯森城に派遣する機会を得たからである。それは、結城山城守の長子
       左衛門尉からの来訪要望によるもので、彼は、父と共にかの奈良で他の武士ら7名と一緒
       に洗礼を受けており、三好長慶の城に仕えるものであったからだ。

       そこでは、三好幕下の73名ほどの者が洗礼を受けるものとなり、その中でも重臣で大名
       並みになった<三ヶ伯耆(ホウキ?)>なる者が、その後、15年間に亘って五畿内地方での
       教会発展のための大いなる支柱となった。彼の館は、修道院のような趣きがあり、美しい
       教会堂が建てられ、司祭らが寝泊りできる家屋もそれに添えられていた。

      *細川 晴元は、畿内の権力闘争内乱(1527年-1548年)がいま尚断続して続く中、一時は室町
       幕府の管領の座に就くが、その権勢は安定せず、最有力な家臣であった三好長慶に離反され
       (天文18年<1549年>)、彼を征伐せんとするも、反って敗北を期し、追撃を恐れて都落ち
       して、将軍義輝や義晴と共に近江へ逃れた。その後も、将軍・足利義輝を擁して京都復帰を
       (1550年-1561年)目論み、再び三好長慶と争うも、永禄元年(1558年)6月以降、一時期
       六角義賢の支援を受け足利方が有利となったが、長慶率いる三好一族の結束攻勢は衰えず、
       11月には支援を得ていた六角義賢の仲介により長慶との和議が成立。それに基づいた幕府の
       将軍義輝は、長慶方の支持となるかたちで5年ぶりに京に入洛、幕府政治が再開される。

       その後、永禄4年(1561年)5月6日、将軍足利義輝の勧めにより、前管領細川晴元と長慶と
       の和睦がなり、京に迎え入れられるかたちでなされるが、長慶の晴元への処遇は、普門寺城
       への幽閉となした。(この時、長慶は、すでに49年6月以来主君としていた細川氏綱を52年で
       の先の和睦により、将軍義輝を京に帰上させた折り、名目的に幕府管領に据えていた。)

       長慶のその処遇をめぐって、六角義賢や畠山高政ら打倒派が手を組み、兵を挙げ、再び大
       きな争乱を起こしている。(<将軍地蔵山の戦い>から<久米田の戦い>→その後<教興
       寺の戦い>へと続く。1561年7月-11月、翌1562年3月5/6日→同年3月末-5月19/20日)

       幽閉の身とさせられた前管領晴元は、そのまま出家、隠棲し、永禄6年(1563年)3月1日、
       摂津富田の、その普門寺城で失意の内に死去する。享年50才であった。
       この晴元に代って、かって以来名目傀儡的に幕府管領に据えられていた細川氏綱もこの年
       の12月20日(1564年1月4日)長慶により与えられた居城・山城淀城にて病死する。

      *三好長慶は将軍足利義輝を擁して、1559年から1563年にかけ、その権勢が全盛期となるが   
       反抗する勢力が後を絶たず、1562年5月の<教興寺の戦い>では、嫡子・義興、実弟・
       安宅冬康ら三好一族の大軍を擁して畠山軍に大勝するも、時すでに衰退の傾向にあった。
       先の61年3月に四弟・十河一存の急死、さらに62年3月の久米田の戦いで、次弟・三好義賢
       の戦死と、三好の天下体勢の強力な要となる二人を失っているからである。
       自らも病身の身となって、63年半ば以後、飯盛山城から京などに出向くこともなかった。
       その翌年1564年8月10日(永禄7年7月4日)飯盛山城で病死する。享年43才であった。

      *長慶政権およびその家督を継いだのは、嫡男・義興ではなかった。彼は、長慶が亡くなる
       前年(63年)の永禄6年8月25日に22歳で急死早世したため、長慶の甥・義継(十河一存の
       息子)を養子として家督の継嗣と定めていたとして、その義継が飯盛山城の城主となり、
       三好権勢の新たな顕位者となる。しかし15才と若年であったゆえ、当初は、重臣の松永
       久秀や三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)よる傀儡当主であったに過ぎない。
       (日本側の歴史史料に基づく一般史による)

 1565年 永禄8年5月19日(1565年6月17日)に起きたクーデター(永禄の変)は、丁度、主の日、
       日曜日の朝方の事であったと、フロイスの「日本史は」記している。

       フロイスによる<史実記事>と日本側での現代における<真相追究歴史解釈>での諸記述
       とは、多少の相違点も見られようか。(日本側では第一次史料となるものはほとんどなく、
       二次、および三次的な創作ものも参考にしての歴史記述解釈が主である。)
       
      *フロイスの史書では義輝殺害の直後、二人の実行主導者(松永久秀の子・久通と三好義継)
       らが、義輝の弟で鹿苑院院主・周暠を殺害したことを記しているが、義輝のもう1人の弟
       で、大和の興福寺一乗院の門跡・覚慶を幽閉したという事までは記していない。
       またフロイスには、長慶死後、跡を継いだ<若き三好殿>に該当する実行者の一人につい
       ての人物認知に錯誤があったとすべきであろうか。
       恐らく長慶が養子・嗣子とした<義継>ではなくて、すでに(63年)亡くなっていた実子の
       <義興>と勘違いして、彼に比定し、その年齢が、
       <23、24歳>だと記していることから判断してだが。フロイスが<義継>だと認知してい
       れば、その彼は当時、未だ17、18才でしかなったから、そのような年齢として記すことに
       なる。(容姿外見だけで判断し、その年齢を定め記すものならば、18才前後の若者と二十
       歳を過ぎた者との見分けもつけ難くなり、ほとんど一見するも大差のない事となるが、)

      ★この場合フロイスに、果たして、そんな<人物認知の錯誤>が生じたであろうか。
       フロイス、ヴィレラ司祭らの教会館から将軍義輝の二条御所の宮殿までは、1kmと少々
       の距離に過ぎない。しかも彼らは、その年(65年)の正月(2月1日)には、年賀のご挨拶に
       出向いたばかりであった。
       その騒動と混乱の様子はリアルタイムに響き伝わってくるという状況にあったわけだ。
       その上、クーデターを挙行した家臣のうちにキリシタンも幾人か参与していたから、彼ら
       からその行動や状況内容もかなり確かなものとして聞く事ができた。
       しかして、フロイスはその十数年(83年秋以降)後から、「日本布教史」の著述事業を専門に
       手がけ、このクーデター事件をも記すことになる。
       (彼は、イエズス会からのこの任務指令を予期していた事であろうか。自分がその任を負
       わなかったとしても、いずれ誰かが成すべき事と感じていたわけで、それ故、彼にとって
       は、それを手がける任務は、
       “待ってましたと云わん”ばかりのものとなったと見てよいであろう。)

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      ★フロイスのその記述には間違いはなかった。人物<認知錯誤>を起こしてはいなかった。
       <若き三好殿>は、日本側の歴史記述では、すでに亡くなっていたとする、実子・嫡子の
       <義興>その人だったのだ。実行首謀者の一人として、、、、しかも当の将軍義輝とは、
       昵懇ジッコンの間柄のような主従の関係をなしていたから、非常に残酷卑劣な運命のめぐり合
       わせとなった。三好家本流にとっても、“主君殺しの謀反”という汚名は、末代まで消え
       るものではない。それゆえ、<三好家関係一門に係わる史料的文書>において、その曖昧
       なところも多分に付与することで、巧みな捏造記述がなされるものとなった。また、その
       歴史的真相には、<義興>が養子で嗣子となっていた<義継>になり代わっていたという
       相承家臣・松永久秀の奸略によるところの事情が隠されていたかとも推測されうる。

      ★父親三好長慶の病死した年月日が、1564年8月10日(永禄7年7月4日)となっているのも
       ウソである。長慶の葬儀が実際に行われたのは、永禄9年(1566年)6月24日で、これは、
       真実である。しかし、死んだとした日から、およそ2年後になされた葬儀となる。色々な
       事情があって、その死を伏せ、喪を秘していたことになるが、実際にこんな事は考えられ
       ない事だ。
       父親・長慶が死んだのも、同じ<永禄9年(1566年)5月か、6月>であったに違いない。
       そう見なすほうがまったく妥当で正しいだろう。

       “病気がちの父親・長慶は、息子・義興がとんでもない事を仕出かした、まさに仰天、
        打ちのめされるほどのショック極まりないものとなった。あぁーわが三好の家運も、
        これまでかー、、自らの家系の行く末、その終わりを憂うものとなり、病は、いよ
        いよ深刻なものとなっていった。そして、遂に病の床に臥したままにとなり、やが
        て死が、その臨終の時がやって来たのだった”

 1565年 変の直後、その月の下旬から7月に亘って、ヴィレラ、フロイスの両師と教会は、危険に
       晒されることは必致であった。彼らにとっての庇護者的存在の将軍・義輝がいなくなり、
       今や都にいる限り、敵対者の暴挙から擁護されうる何の手たてもなくなったからである。
       それでも彼らは、身の危険を危惧しつつも一ヶ月余(40日ほど)都ミヤコに留まり続けた。

 1565年 ヴィレラ司祭は、7月27日(金曜日)未明にかけて河内国に向って都を後にした。
       この時、同宿の日本人少年ジョアン・デ・トレスは司祭に随伴していったが、他の
       ルイス・フロイス司祭と年長のダミアン、2人の同宿少年らは31日(火曜日)まで都に
       居残っていた。
       都のキリシタン宗徒らの切迫した危機的状況下での協議の末での、司祭の生き残り存命策
       としての彼らの切実なる要望に折れての都落ちであった。
       この出立にはキリシタン宗団の長老、頭でもある三ケサンチョ殿という、河内の飯盛山城
       三好国主の家臣が同伴していた。

      *ヴィレラ師が都を去った直後、その2日も経たぬ内に<伴天連[バテレン]追放の詔勅>が下さ
       れるという動きに変わっていた。法華宗の僧侶やその宗徒の家臣らの殿らは、その上主・
       松永弾正(久秀)の意向に従い、すみやかに彼らを誅殺する事を心良しとして決めていた
       が、キリシタン宗徒の家臣らの防御の動き、威勢の覚悟を知って、まさに家臣同士が血を
       流し合う羽目になる現状を察しての対処変更であった。
       (その頃都の執政の実権を行使できる立場にあった松永弾正久秀には、有力な公家として
       彼に仕える顧問の如き重臣、竹内公がおり、またその兄弟の下総殿という武家の有力家臣
       がおり、数年前の62年にガスパル・ヴィレラ師が一時都から追放された時も、法華僧侶
       の策謀により、彼ら兄弟と弾正松永の追放への大いなる賛同により、事が計られたことも
       あり、今回は朝廷・内裏(天皇)を巻き込み、利用しての内裏からの詔勅を頂くものとし
       て、その追放策が現実のものとなった。

      *ヴィレラ司祭に同行することなく、なお都に踏み留まる気持ちでいたルイス・フロイス師
       もその4日後、7月31日(火曜日)に都を出て、淀川の中上流の乗船場の鳥羽から河内
       の国に向った。この都落ちには河内の国主・三好殿の有力家臣でその祐筆であったキリシ
       タンの庄林コスメの後ろ立て支援があり、無事に飯盛山城の麓に行き着くことが出来た。
       都の全市にその<追放勅令>が公けに布告されたのはその一日後の8月1日であったが、
       コスメ庄林がかの松永弾正の臣・竹内兄弟に掛け合って、布告を遅らせたからであった。
              
 1565年 ヴィレラ司祭らは、ルイス・フロイス師らが河内に来たその当座に飯森の麓で再会し、ほん
       のしばらくその地の教会に留まるが、今や国主・三好殿(義興?)の承認支持の下にある
       <追放勅令>であったので、その地を離れ、堺に向うほかなかった。

       以後は、しばらく都から離れた畿内を中心に、66年には豊後へ、それから平戸へ、そし
       て大村公の領地・福田の港町を遍歴し、長崎の地で2年ほど在住布教をなしている。島原
       地方などへの布教にも奮闘し、68年中葉には天草の志岐に移り、在住して活動をなす。
       そのままその地で70年に至り、その年の10月2日には当時、その地に移り留まってい
       たかのコスメ・デ・トーレス前布教長のご逝去の召しに臨拝し、最後の祝福と心温まる別
       れの時に与っている。

 1566年 4月の末日に堺から豊後の地へと旅立った。布教長トーレス師の命により、豊後のキリシ
       タンに奉仕し、彼らの告白や、説教、ミサ聖祭に与らせるためであった。

 1568年 天草島の志岐に移り住み、司祭職により、その地および近隣地方のキリシタンらへの奉仕
       に信仰堅持成長のためにその霊的務めをなす。

 1570年(元亀元年)ガスパル・ヴィレラ師は、先に上長コスメ・デ・トーレス師のご逝去の後、11月
      マカオに向けて出航する船で、インドに帰る長旅の途に着くことになる。
      その後、翌1572年、ゴアで病没逝去する。

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 ・<ルイス・フロイス>:1532年(天文元年) - 1597年7月8日(慶長2年5月24日)リスボン
              生まれのポルトガル人、少年期に王室秘書庁で下働きしながら、王室
              付属の学校で初・中等課の学びをなす。
              16才の若さでイエズス会士となる。その直後、インドに渡り、司祭
              への教育と信仰修練を受ける。 
              カトリック司祭、宣教師、イエズス会員。
              後年に『日本史』を著わした著者。
  
 1548年 この年、16才でイエズス会士になり、その直後の3月、海外派遣に夢躍らせ、インドに向
       かう。
       この時、5名の司祭と、彼ルイスを含めて6名の修道士が、ポルトガルとインド・ゴア間
       を航行するガレガ号に乗船していた。彼ら一行は、ゴアに10月9日に到着した。

       フロイスもゴアのサン・パウロが学院での司祭養成コースで学んでいるらしく、その折、
       日本行きへの準備に忙しくしていたフランシスコ・ザビエル師とも会っている。また、
       見習い修道士のようなかたちでその学院で学び、キリシタンになった日本人のヤジロウら
       とも面識を得ている。ザビエルの日本行きに随行した、かのコスメ・デ・トーレス師とも
       顔見知りとなっている。
       (とにもかくにも、日本への布教に向けての最初の第一陣・ザビエルら一行への祈りの壮
       行会、及び見送りをなしていると見られる。)
  
 1554年 学院での司祭養成の学びを終えたのち、修道士として、日本行きを望み、かってインドま
       で同行していたベルショール・ヌーネス・バレト司祭と共にマラッカまで赴いたが、運悪
       く種々なる事情が重なって、日本への渡航が許されず、しばしその地での滞在を余儀なく
       した。その後、一度ゴアに戻っている。
       (彼は、未だ22歳の若さであり、司祭に叙階されるべき途上にあったから、日本行きは
       時期尚早、指し止めとの上長指示であったとも、表向きは、ベルショール師の命により、
       マラッカの司祭館の管理事務をなす留守役司祭の空のため、その代役としてフロイスが留
       まることになったとの事である。)
 
 1557年 マラッカから再び、インドのゴアへ戻っている。
  
 1561年 ゴアで司祭に叙階され、当初、語学と文筆の才能を高く評価されて、学院長やインド管区
       長の秘書の働きをなし、アジア各地から届いた書簡や報告書を取り扱い、ヨーロッパ本部
       との通信の任に当たっていた。
       
 1563年(永禄6年)7月6日、31歳で横瀬浦(現在の長崎県西海市北部の港)に上陸して念願だった  
       日本での布教活動を開始する。フロイスらがこの地に到着した頃、布教長のコスメ・デ・
       トーレル師がすでに豊後からこの地方に移ってきており、はや高齢になっていたがゆえ、
       到着した彼らを会い迎える事のできた主なるデウスによる幸いを、大いなる喜びと慰めを
       もって彼らに示し得るものとなった。

       ところが翌8月15日以後、領主・大村純忠(=ドン・バルトロメウ)の異教徒家臣ら一
       派による謀叛が起こり、それに便乗した他国の悪徳商人らが糸引く暴動により新港の町・
       横瀬浦は破壊炎上されてしまった。ポルトガル船に避難して危害を免れたフロイスは、や
       むなくジョアン・フェルナンデス修道士と共に、11月に平戸の数キロ沖合いの度島を避
       難先として移り行く。その島、度島[タクシマ]で、一年の間フェルナンデスから日本語を学ん
       だ後、あらたな布教への旅立ちをなす。

 1564年(永禄7年)10月末頃に平戸を離れ、口之津、島原、肥後の高瀬を経て、豊後に至って後、
       その府内の湾港から12月中旬には京都に向かう手筈だったが、船の出帆に見合う天候、
       風向きなどで、降誕祭祝日後(の八日目)での出航となってしまった。
       一行は、アルメイダ修道士、シナ人、インド人、同宿の少年3、4人、同数のキリシタンの
       道案内人たちで、合せて10人程度の一団にて。

       豊後から畿内の堺までの船旅であったが、順調な船旅ではなかった。豊後から海峡を渡っ
       て、その海峡を三日間もかけて、四国の伊予(堀江港)へ、そこから
       2つの港(塩飽シワク→坂越サコシ)を乗り継いで堺に着いた。豊後から堺まで、40日ばか
       りを費やしたと、フロイスの史書は記している。

       これは、寄港した港での滞在が、8日とか10日とかの期間が日数ロスとなった故でも
       あるが、冬期の船旅でもあり、船の航行自体も遅れをとったわけである。
       夏場に向けての時期で、最ベストに順調の船旅程であれば、15日前後で行けるのが、
       当時の状況であったようだが。

             (1565年1月31日京都入りしたが、堺からは、大阪経由での陸路をとった。大阪の町で
       大変なトラブルに遭遇し、その町から脱出するのに数日の遅れがあり、また、真冬の折り
       からの大雪のために、陸路を進むのも困難になるという有様で、大変な旅であったことが
       知られる。)

 1565年 1月31日(永禄7年12月29日)に京都入りを果たしたが、フロイスは保護者と頼んだ将軍・
       足利義輝と室町幕府権力の脆弱性に失望したという。三好党らによるクーデター騒乱など
       で困難を窮めながらも京都地区の布教責任者として奮闘した。だが、時の室町将軍義輝が
       殺害された事により、身の安全が危ぶまれ、京から逃れて堺などに移ったりしている。
       (この年の7月31日都を離れ、河内の国の飯盛山城の麓、三ケのサンチョの所領から堺
       に移り、先輩のガスパル・ヴィレラ師と共にその地の内外でそれなりの布教活動、キリシ
       タンたちへの奉仕をなすが、66年春4月末以降は、畿内でただ一人の司祭としてその地
       に留まり、その職責を続行する。)

 1568年 室町幕府の新たな主上・足利義昭が、織田信長に擁立される形で、信長と共に上洛。
       三好三人衆や松永久秀らが擁立した14代将軍・足利義栄は京から追放される。
       フロイスは、この時初めて信長の存在を認知するものとなる。(ルイス書簡:1568.10.
       4.付け)堺にいたフロイスは、堺が信長の意に反した姿勢で対処していたので、市民の動
       向に倣い、堺から対岸方面の尼崎、さらにそこから高山右近の父・ダリオ殿の在所である
       高山山中の館に一時的な避難生活を強いられた。その後、高山ダリオの執り成しで、また
       ロレンソ修道士(了斎)の支援の説教にて、和田惟政殿の大いなる援助を得るものとなる。

 1569年 フロイスは和田氏の信長への執り成しで、5年目になって、それは予期せぬ事であったが、
       ようやく都への帰還復帰の時を迎えるものとなる。
       この年の5月26日土曜日の夜、堺の地を出て、翌日高山ダリオの芥川城で一泊し、翌月
       曜の28日その城を後にし、その日の2時前後には都の大通りに行列をなし、ほぼ5年ぶ
       りの帰還を果す事ができた。その三日後、
       和田氏の計らいで信長への謁見の時を得て、都に逗留中の信長の館を訪れたが、この時は
       信長との直接の引見がないままに終わってしまった。

    【注】この京への帰還時での月日について、「日本史」著者フロイスには、錯誤の誤りがその記
       述にあると見られるのか?、、或いは写本ミス、邦訳ミスまたは印刷ミスなのかとも、、

       <聖マリアへの神のお告げの祝日>は、その伝統以来、西暦で、3月の下旬~末である。
       したがって、<5月26-28日>表示の記述は、3月の誤りと見るほかない。その文言
       段落中には“折から四旬節であったので、”という文節もあり、5月のその日では、全く
       その表記時期とも一致しないからである。また他の個所とも食い違い出てきて、69-70年
       に係る全体的な面で誤謬を内包した様な著述結果を見せているからである。
       (文庫本:フロイスの日本史-信長篇Ⅱ第34章<第一部85章>P-133参照) 

 1569年(永禄12年)その後再び、和田氏の熱意ある執り成しで、信長への謁見を、二条城の建築現
       場の壕橋上で、初めての対談を果すものとなる。この時ははや5月に近い頃で、日差しも
       日中の最中は幾分強くなった頃であったと見られる。

       (フロイスの書簡によると、二条城建設現場での会見の機会は2度あり、一度目は、すで
       に出来上がっていた奥のほうの一角の邸に信長が休み、能の和楽などに聞き入っていた時
       あった。その時には信長は直接フロイスを引見して顔を合わせることなく済ますこととな
       った。これは信長が周囲の目を気にしたからというよりか、周囲の状況反応がどうかを知
       りたかったからであろう。2度目は来客を招くような常套な対応をもって会見をなしてい
       るが、自分本来の邸なり城なりでの招きの引見ではなかったわけである。自らが手がけて
       いる宮殿建築現場でのことゆえ、その建設現場を見学させもしているわけである。)

              既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、フロイスはその信任を獲得して
              畿内での布教を許可され、その後すぐに来京したグネッキ・ソルディ・オルガンティノと
       共に布教活動を行い、多くの信徒を得た。(信長35才、フロイス37才で同じ年頃。)

      *フロイスと信長との対談は、初対面以来、2度、3度となされたであろう。実際にフロイ
       スの「日本史」での記述では、信長が美濃の自国に戻るまでに、信長が都を出立する前日
       と、その当日を含めて6度、さらに日乗という仏僧との宗論を信長らの面前でとり行った
       その日を別に定めたものであったならば、7度にての記載記事のものとなる。
       それらによる会見は、信長への影響力、将来的権力ビィジョンや、その形成志向への動向
       要因に幾多の素養、知的視野ともなったと考えられる。(永禄12年4月20日=西暦で
       は5月であるが、妙覚寺でも、同じく1570年夏、造営されたばかりの岐阜城にても、
       =フロイス書簡1569年7月12日付⇒ フロイスはこの書簡の年をあえて1569年としてい
       るとも解釈する向きもあろうが、それはその当時の記述内容が複雑に入り組んでいるから
       70年の事ではないかと錯覚させられるからである。)
       
 1569年 5月12日前後の頃、堺を訪れているが、これは先に5年ほどそこに滞在したことでの、
       謝意を表するため、またそこに残していた少しばかりの教会用具や家具を持ち帰るため
       でもあったが、10日余り滞在する事で、堺のキリシタンらのため<主のご昇天・祝日>
       のミサ礼拝を行い、彼らを励ますためでもあった。
       それからすぐに都に戻り、都の教会で、<聖霊降臨の祝日>のミサ礼拝をキリシタンたち
       と共に守り行っている。この頃丁度、フロイスらが都に復帰してまる2ヶ月になるところ
       であった。

      *この堺訪問の時は、かの仏僧・日乗が内裏(天皇)から<伴天連追放>などの勅命を得て
       事を始めかけた矢先であったが、公の詔勅の勅命文証が発布されたわけではなかった。
       したがって、日乗は将軍・義昭公方様からもその承認証書を必要として、公方義昭にも掛
       け合っていたが、義昭はこれを受け付けなかった。先に信長と共に充許状を家臣奉行の和
       田惟政を介して交付していたからである。この折、和田殿は、ロレンソ修道士からの早急
       なる連絡請願を受けて、早速公方殿を訪れ、便宜を計り良き対応をもって、日乗の企みを
       一時的にも阻止してくれたばかりの時期であった。さらにフロイスは、自著『日本史』で

       <それから約一ヶ月後、再び日乗は新たな力を擁して《伴天連追放、デウスの教え撲滅》
       のために事を計るものとなる。彼は、五畿内における幾つかの政治的な特権と職務の充許
       状を信長、および内裏(朝廷)から授かるものとなり、自らが願う事を実行しやすくした
       からであった。>といった内容の文言を記している。だが、これらの文言は彼の著述上の
       兼ね合いの都合から<後の事を前倒し>に記述していると見られる。つまり、日乗が美濃
       の信長の所に行って、この時、公家らと共に内裏からの詔勅を携え、その使者として訪れ
       ているが、そこではかなりの政治的な工作、及び畿内を中心とした政策提言や、自身への
       信望回復のための貢献策を表明して、信長への信頼を巧みに高め強固にしたと見られる。
       これはフロイスらが岐阜の信長を訪れた(7月初旬に京に帰還)後のことであったから、、

       しかもそこでは、日乗の要望や提案を受け入れる代わりに、<伴天連ら>に関しては、穏
       便に計らうように強く命じる事で、両者は暗黙のうちに約束事を交わしたかの如くなる。
       このことによって日乗の当面の撲滅活動の矛先は、<伴天連ら>から、直接<和田惟政>
       に向けられ、彼の失脚、没落への策を講ずる動きとなる。
       
      ★フロイスに対する仏僧・日乗に係わる所見に関して、さらに洞察すべき点が多々ある。
       信長は、先の六条<本国寺での将軍・義昭襲撃事件>で、都に超駆力で馬駆け舞い戻った
       1月8日以来、都での世情を見直すべく新たな対策問題が浮上するものとなった。その折
       にたまたま本国寺に係わりのあった<朝山日乗>が登場してきたわけで、信長は彼との対
       面、出会いの時を有するものとなった。日乗もかの上洛以来(68年9-10月)信長に注目し
       彼に取り入る機会が有らばと、その時のために色々思案をめぐらしていた。彼は、実に信
       長の上洛まで、堺で三好三人衆により、捕らわれの身であり、やがては処刑される定めと
       なっていたが、信長が三好らを畿内から追い出したため、解放される機会を自らつくり得
       たからであった。そして、都を訪れたがその折には、信長との対面をなすような良好な時
       が来ておらず、信長もまた、自分の職務を果したかのごとく、10月26日、早々に本国美濃
       に引き返しているから、その時には良き機会への時の余裕すらなかった。

       一方信長は、その上洛の折り、東山辺麓の臨済宗門<東福寺>に在陣していたが、元より
       かって美濃を征圧し自国領として以来(67年)その永禄10年11月には、お側顧問であった
       永年来の僧・沢彦和尚が、<「天下布武」>の印文を彼に与え付すことで、その老齢の身
       をして隠居、引退していた。信長にとって、その印文は、臨済禅宗などで法灯継嗣を認め
       る場合に与え証する<印可[状]>に相当し、それに取って代るものである事をしかと心得
       候[ソウロウ]申した心境であった訳だが、それでもその沢彦[タクゲン]師匠なきあとの後任に関し
       て一抹の思いありて、今後の為にも、もし重用するに相応しい人材あらばと、その気持を
       心の隅にでも持っていたようで、その空きが出来たままであったわけだ。

       そういった状況で、信長の前に罷り出た日乗は、時期に適った色々な進言、政策的な立案
       などを申し述べるものとなり、信長も“こやつを使えるかも、、”と、彼の上案などを彼
       に実行させる事で、ひとまずは側に控えさせるものとしたわけである。どうやら、将軍・
       義昭の新居・二条城の建設での<本国寺の建物解体、築材移転>も日乗の提案であったと
       みられ、それに係わる責任者を任された。また、見直し都対策の新たな管理所司として、
       『殿中御掟』9ヶ条の掟書(1月14日発令)、その追加発令の7ヶ条(16日分)も、彼・日乗
       の手によるものであったようだ。(この<殿中御掟書>にさらに一年後の70年1月23日に、
       5ヵ条が追加され、21ヵ条になったが、この追加分も日乗の判断、口車に乗せられて信長が
       承認したものであった。この追加処置には日乗の悪だくみの計略が込められていたが、、

       信長の前に現れたフロイスらに関して、信長がいとも彼らを優遇、歓待するにつけ、非常
       に気がかりになりだした。日乗は彼らの故に、信長への信望を失墜させるような悪戯な非
       礼を大勢の家臣らが居る前で演じて、彼の地位栄誉も低下させてしまい、あげくの果て、
       個人的にも恨みをいだいて、フロイスらを以前にもまさって憎むものとして暗躍するもの
       となる。彼にはまた、信長がフロイスに好意関心を持てば持つほど、自分の信長への地位
       に取って替えられること、それさえあり得るとの懸念を感じるほどであった。特にフロイ
       スらが美濃の信長の所に出向いたという、彼の思いもよらなかった、そのまさかの事情に
       ついての反応は、日乗自身の美濃への万全万策をもって行脚するを強く誘うものとして、
       その策謀活動に現れるものとなる。
              
       フロイスのその諸著作において、信長は、異教徒ながら終始好意的に描かれている。
       (フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、戦国期研究におけ
       る重要な資料の一つになっている。しかし、69年-70年の頃は、彼が非常に動揺して
       いた時期なので、年や月日などの勘違い齟齬が見られる)

       信長が都をたって本国美濃へいったその後は、信長の都での目付け顧問のような役柄で、
       彼に仕えていた日乗上人という仏僧から、以前にも増して執拗な<伴天連追放の裏工作>
       で、非常な不安と窮地に追い込まれることになる。それゆえ、
       司祭らは都のおもだったキリシタンらと協議した結果、信長のいる美濃岐阜への密かな訪
       問を断行する以外になかった。

 1569年 6月中旬頃フロイスは、まさに急を要するかたちで、都での在住布教活動に関わる重要事
       態で、美濃の国岐阜城へ、信長を訪問する旅に出向く。
       彼の邸やほぼ完成に近い新しい宮殿や、天守閣でのきわめて私的な歓待をうけ、変わらぬ
       ご好意、寵愛の許に、支持証明の書状や、他の書状をも賜り、6月末か、梅雨明けに近い
       7月初めには京に急ぎ戻っていった。
       
       (このフロイスの美濃への信長訪問は、信長が越前・朝倉氏を制圧するために何かと準備
       に忙しい時であり、その好機の到来に時勢を窺がっている時期であった。つまり、翌年の
       5月24日(元亀元年4月20日)から6月3日に亘る<金ヶ崎の戦い>や、その後の7月
       6日&30日(元亀元年6月4 & 28日)<野洲河原の戦いと姉川での戦い>へと進展する
       時期の前年頃であったと見られる。)

 1570年 この年、丁度フロイスが堺からの帰途、三ヶサンチョの教会(河内国飯盛山麓地)に立ち
       寄った折りに、銃声がとどろき聞こえ、高槻方面の城下から燃え立ち昇る煙を見たが、使
       いを先に出していた従僕が高山ダリオ、右近のところから帰ってきた午後になって、和田
       惟政殿が戦に破れ、しかも非業の最期を遂げたとの知らせであった。

 1571年 前年に日本地区の新布教長として、フランシスコ・カブラル司祭が天草の志岐の港にその
       第一歩を印した。(彼と共にオルガンティノ師、また同航での別船で、バルタザール・ロ
       ペスというポルトガル人司祭も来日した。その来日時にオルガンティノ師は、畿内・都に
       いるルイス・フロイス師を応援するため、すぐに志岐から都に向った。フロイス師がすで
       に都地方に7年もただ一人の司祭として活動を余儀なくされていたからである。)
       
      *新布教長カブラル師は、この年の冬の時期に、通訳同伴者の日本人修道士ジョアン・デ・
       トーレスを伴って都地方を訪れた。彼は都に到着した数日後には、美濃の国にいた信長を
       訪れる。フロイスはその折り、日本人修道士ロレンソとコスメを伴って、案内同行する。
       フロイスにとっては2度目の岐阜訪問となった。

 1573年 この年、都で将軍義昭が信長に叛旗したおり、信長は直ちに都のやってきた。このおり、
       フロイスとコスメ修道士は都にいたが、オルガンティノとロレンソ修道士は、復活祭の祝
       日を祝うために河内の三ケ教会に留まっていた。フロイスらは、都での争乱は避けられな
       いと見て、教会の用具、書籍、重要品などを他の所、4、5里離れた郊外にキリシタンた
       ちが移し、自分達は避難する他なかったが、フロイス、コスメらは大変な危険、難儀を強
       いられた避難となった。
       この紛糾対決で、都の上京地区のほとんどが焼失の災禍にあったが、幸いにも家屋兼教会
       の建物は災火を免れた。

 1574年 フロイスやオルガンティノ司祭ら、畿内の在住のイエズス会は、再び日本布教長カブラル
       の支援訪問に浴している。この頃、摂津の国の高槻地方では高山ダリオ・右近父子の城下
       となっていたから、デウスの教えが急速に弘まってきていたが、カブラル師の訪問、その
       聖なる奉仕により、信仰と心的喜び情熱の高まりと共に、より一層の布教活動の熱意と成
       果への進展が見られるものとなった。

 1575年 フロイスはこの年のはじめ、同僚のオルガンティノ師と共に、畿内、都の全キリシタンの
       ためにこの都に新しい立派な教会堂を建立することを重立った信徒ら提議し、全信徒の協
       賛支援、熱き建築参助奉仕により、その秋の時期には建物がほぼ完成するものとなる。
       (その会堂の呼称は、暦名祝日の中から8月15日に記念される<被昇天の聖母マリア>
       が選ばれた。これはメストレ・フランシスコ・ザビエルが初めて日本の薩摩、鹿児島で、 
       主の輝かしい福音を伝えた日にあたるとして選祝されたものであった。)

 1576年(天正4年)12月31日 畿内及び京の布教長の任を同僚司祭のオルガンティノに任せ、自分は
       日本総布教長フランシスコ・カブラルの指令により九州管区へ、豊後の臼杵を本拠として
       その後、数年に亘り、その方面で活動する体勢となり、都をあとにする。

 1577年 1月3日摂津国西南の兵庫から乗船して、その18日(天正4年12月30日)に豊後に
       到着、府内からすぐに大友宗麟を臼杵の城に訪れ、その地に留まり、豊後の上長(布教長)
       司祭として、総布教長のフランシスコ・カブラル師を手助けする傍ら、数年間布教活動に
       従事した。

      *フロイスが豊後に所を移した頃は、まさに豊後の府内と臼杵を拠点とした布教活動の強勢
       著しい絶頂期に甘んじえた時代であった。そんな中、大友氏一族家門のうちで問題がない
       訳ではなく、その深刻な事情をフロイスは克明にお家問題の歴史として記している。それ
       は、翌78年の3月中旬以降からの日向国進出、そして耳川の戦いでの壊滅的敗戦事情と
       その後の豊後国内の最悪な経過影響の動向まで、イエズス会及び教会の殉教を覚悟した熾
       烈な危機状況を踏まえて、同時代を生き体験した者として、驚くほどリアルに豊後の内情
       を書き記している。

      *フロイスは、カブラル師やルイス・デ・アルメイダ修道士らが国主・大友宗麟に付き従っ
       て日向の地に向った後を任されて、豊後の臼杵に留まり、その多忙なる多様な聖務職責に
       邁進している。彼はこの時期、伴侶の同労として、日本人修道士ダミヤンとその活動を共
       にしている。
       ダミヤンは、かの日本人修道士ロレンソ了斎と同様に、多大に宣教活動に生涯を捧げ、初
       期布教時代からキリシタン同宿として先駆的働きをなし、のち修道士となって有益稀なる
       人材の人となった。1559年にはガスパル・ヴィレラ師、ロレンソ修道士と共に畿内・
       都への本格的な布教活動を強行するものとなる。
       後にフロイスが、その著書を著わすに当たっても、彼から貴重且つ、相当量の情報を得る
       ことが出来た訳で、その点でも影の功労者であったと見られ得る。

       フロイスはこの豊後での時期、ダミアン修道士とは非常に親密に活動の聖務を共になすも
       のとなり、彼にとっては、ダミアンがその後、彼の許を離れて1586年に下関で、不慮
       の病魔に襲われ死去するまで、その豊後でのかけがえのないパートナーであった。それ故
       特別な思いを込めて、ダミアン死去に寄せての1章を、78年紀分から始まる第二部にお
       ける初頭で、連綿と続く<豊後問題と諸状況>の数章の間に差し挟み記している。
       あたかも惜別の思いが彼の事を書き洩らさないよう促がす如く、記憶が確かなうちにと、
       その86年時に書き記し始めた第二部の78年豊後の事柄を扱うただ中で、、、
  
       (邦訳の文庫本<松田、川崎氏訳>での出版では、その章分けの編纂で、ダミアンの章を
       原書コピー版(第二部11章)にある如く、<大友宗麟篇Ⅱ>第二部の連綿した豊後各章
       記事のうちに収まったままにしないで、<大村、・有馬篇>での第一部116章の直後に
       続くかたちで、その11章を抜き出し編集している。
       その事情理由は、フロイスが第一部1章~116章までが、1586年12月に完結した
       ことを、その116章の末尾に付言表明しており、且つ、その著述の年、86年に親愛な
       る<ダミアン修道士>が逝去しているから、その末尾表記との関連に準じて、第一部の終
       章、116章の後にその章を移し入れ、あえて<大村・有馬篇Ⅱの本書中第36章>で、
       載せるかたちを採ったと見られる。)
       
 1581年(天正9年)79年来日した日本巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの畿内、都への訪問
       となった時(3月)、フロイスは通訳としてその視察に随行する。安土城で信長に謁見、
       久しぶりの再会に信長から歓待される。

       (安土での会見の前に、巡察師ヴァリニャーノが復活祭の当日午後、高槻から京に到着し
       たその翌日、本能寺に逗宿していた信長を訪問し長時間に亘って会談をなしているが、そ
       の内容は記されていない。フロイスが同行してその通使を務めたかどうかは定かでない。
       たぶん他の会士であろうかとも、、、)

       フロイスはその著『日本史』にて、安土城とその地の様子を、先の岐阜城の内容に劣らず
       手際よく詳述している。(第二部31章にて。)

       この年の5月、ヴァリニャーノ師の指示にて新たな布教開拓地として、越前国・北ノ庄に
       出向く。その地にはかって高槻城主だった高山ダリオ(右近の父)が追放の処罰をうけて
       柴田勝家の客将として住んでいたが、彼の信仰と布教への熱心さゆえの予てからの強い要
       望により、フロイスらがようやくその新地に赴くものとなる。同伴者はコスメ修道士で、
       その二十日余の滞在期間の間、日夜その対応に忙しい毎日の布教活動であった。その甲斐
       あって、50数名のキリシタン信徒ができ、小さな教会の誕生を見た。
       かってその地は一向宗徒の国であった習性柄、多くの異教徒がひっきりなしにデウスの教
       えを聴聞するために彼らを訪れ、ダリオの邸に出入りしたわけであったが、、、、
       
       この年の秋、ヴァリニャーノ師の長崎への帰還の船に同乗し、堺から土佐廻りで、豊後、
       日向経由、薩摩の港へと航行して、下九州へと移る。

 1582年 フロイスは、前年の秋に、巡察師ヴァリニャーノの帰還に伴い、再び豊後に戻り、その地
       及び九州地方で、しばらくの間自らの任務に従事する。しかし、その帰還の折りには、
       ヴァリニャーノ師が豊後到着の7、8日後、そこから海路で、日向や、薩摩の各地の2、
       3の港に寄港し、その地を巡るのにも同伴している。さらに船で長崎に至るが、それにも
       フロイスは随行している。
       そして、この年の2月8日、インド・ゴアに向けてのヴァリニャーノ師の旅立ち出航にも
       見送りに立ち会っている(ヴァリニャーノ師は日本出立に際して、かの<遣欧少年使節>
       となる四人<伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン>の若公子らを
       連れてゆくものとなる。彼らは有馬セミナリオの在校生であった。)

      *信長の死去に関わるかの<本能寺の変>(82年6月20日=天正10年6月2日)の時には
       九州に居て、都、畿内には滞在していなかった。しかし、この<変の情報>は、京都の教
       会・修道院支部からの生の報告や書簡等で充分に察知する事が出来た。

 1583年(天正11年)時のイエズス会総長メリクリアンからの命令で宣教の第一線を離れ、日本にお
       けるイエズス会の活動の記録(この場合は日本布教史を念頭にしたもの)を残すことに専
       念するよう、その時の日本副管区長のガスパル・コエリョ師を介して命じられる。

       以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国を巡って見聞を広めた。この記録と
       見聞経験から後に『日本史』と呼ばれ得るに相応しいものとして結実されるものとなる。
       この著書の記述は、1549年のサビエルの来日に始まり、1593年で終わっているが、まさに
       その時代当時の現代史を著わしたものと言える。

       (1579年ポルトガル国王エンリケ1世の命により、『ポルトガル領東インド史』の編纂を開
       始していたイエズス会司祭マフェイは、当時すでにインドと日本からの通信者として知ら
       れていたルイス・フロイスの事を思い出し、同年11月6日にイエズス会総長エヴェラール・
       メルキュリアンへの書状を出し、フロイスを布教の第一線から引かせ、日本でのキリスト
       教布教史を書かせるよう依頼した。総長メルキュリアンはこれを承諾し、インド管区巡察
       師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに指令を出した。)

       1583年秋、フロイスは口之津で、副管区長ガスパル・コエリョからこの指令を受け取った。
       彼はそれ以後、10年以上にわたって執筆を続け、時には1日に10時間以上の執筆作業を行っ
       たという。

       翌1584年には第1部「日本総記」(現在では逸失)を書き上げ、1585年6月14日には『日欧
       風習比較論』を加津佐で執筆。1586年(天正14年)3月、日本史1549~78年の部(第一部)
       が概ね完成した頃、ガスパル・コエリョと共に五畿内を廻り、大坂城で豊臣秀吉に謁見する
       などした。(第一部の完結は1586年12月30日であると、フロイス自らが記している。)

 1586年 3月、副管区長ガスパール・コエリョの通使として畿内地方に随行、コエリョと共に五畿
       内各地を巡り、大阪城では関白・秀吉に謁見している。
       その後、同じ年の7月23日に堺から瀬戸の海路にて西へ向う。その折、小豆島の近港沖
       で、小西アゴスチイノ(行長)の要請により、随伴同船させていた、大阪の司祭グレゴリ
       オ・デ・セスペデスを小豆島の改宗布教、教会設立のため遣わしている。

       この瀬戸内の船旅で四国の伊予国を訪れたのち、九州豊後へ、その後、9月にはその二十
       日に下関に移り、87年2月17日(天正15年1月10日)下関を離れ、再び都に向うまで
       その地に滞在する。同年3月都から再び下関に戻る。その途次、同月15日には、山口の
       キリシタン信徒を訪れている。

 1587年 7月24日(天正15年6月19日)秀吉が伴天連追放令を出すに至り、フロイスは畿内に戻る機
       会すら潰えたかたちで、平戸へ、さらに時間の許す限り、88年有馬へ、89年島原の南
       西部加津佐を経たのち、久留米、天草へと移り、90年には一応長崎に落ち着いた。

 1590年(天正18年)7月21日、帰国の遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイ
       スは再び、彼の通使として都に同行し、一行らは聚楽第で秀吉と会見した。
      (その後、1592年まで日本で執筆を続け、同年10月9日にヴァリニャーノと共に日本を発ち、
       マカオへ、、、、)

 1592年(天正20年)10月9日、巡察使ヴァリニャーノと共に日本を離れ、シナのマカオへ、その
       地に3年近く留まる。
      (マカオに到着後、その地で94年までに日本史の第3部が完成した。ところが原稿を検閲
       したヴァリニャーノは、自身が多忙なことや、あまりにも記事が膨大で、本来の執筆趣旨
       に反するとして、それを理由に短縮編集し直すことを命じた。だがフロイスはこれに応じ
       ず、「原型のままでローマに送付させてほしい」と、時の総長クラウディオ・アクアヴィーヴァ 宛に
       嘆願の書簡を出している。)

 1595年(文禄4年)再び長崎に戻って、いくつかの年報や報告書を作成した。
       彼の日本史の原本=原稿は、マカオのマカオ司教座聖堂に留め置かれ、彼の死後、長くそ
       のままにて、忘れ去られたままになった。

 1597年(慶長2年)『二十六聖人の殉教記録』を、文筆活動の未執筆のまま最後に残し、7月8日
      (旧暦5月24日)長崎の地で召され没した。65歳。
       報告書の最後が、この年3月15日付の<26人殉教死事件>であったが、「日本史」の
       草稿は、94年度初め頃を除いて、それ以降、未稿のままで完成の締めを留めていない。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

      ●【フロイスの日本史】:マカオのマカオ司教座聖堂にその原稿が置かれたままだったが、
       1720年以来、ようやくポルトガルの学士院が、同書の写本を作成して本国に送付した。
       1835年に司教座聖堂が焼失した際に原本は失われたと思われる。写本も各地に散逸した。
       後年に再度蒐集され、行方不明となった第1部以外は20世紀以後に徐々に刊行されるよう
       になった。詳細は下記参照

      *長年の研究の成果により、『日本史』は以下のような構成によって成り立っていた事が
       判ってきた。(これは、散逸していた写本から暫定作成された<総目次>である。)

        序文           }
        日本六十六国誌 : 未発見 }「日本総記」...............(=第1巻) 
        日本総論 : 目次のみ現存 } 
        --------------
        第一部 : 1549年(天文18年) - 1578年(天正 6年)の記録(=第2巻)

        第二部 : 1578年(天正6年)  - 1589年(天正17年)の記録(=第3巻)

        第三部 : 1590年(天正18年) - 1593年(文禄 2年)の記録(=別 巻)
              ======================================
       第1巻: 本文が現存しない「日本総記」と称されるもの(序文・日本六十六国誌・
            日本総論から成る)

       第2巻: フランシスコ・ザビエルが日本を訪れてキリスト教の布教が開始された
            1549年(天文18年)から1578年(天正6年)までの内容からなる

       第3巻: 1578年(天正6年)から1589年(天正17年)までの構成とされるもの。
       (別巻)  ただし、実際の第3巻は、1594年(文禄3年)まで執筆されており、
            1589年(天正17年)以後の部分は加筆されたものと考えられ、この加筆部
            分を第4巻に当てるものとした別の巻として扱う見方もある。


     ●フロイスの『日本史』原本が焼失した背景事情:

      つぎの3、4点の事柄から検討推察すべきかと、、思われる。 
      ①オランダ人による江戸幕府への海外ヨーロッパに関する現況報告書となる、毎年幕府
       に提出されたオランダ風説書、およびオランダ人の談話から、、
       (フロイスの『日本史』は、それが著述された当初の1580代から日本側に密かに
       知られていた。その最初の部分が邦訳されていたとも、、その後、1720年以降に
       写本が作られたことを知らされるものとなり、、幕府側がにわかに問題重視すべきも
       のとした、、、)

      ②江戸幕府の当時の状況、島原の乱などにより、キリスト教(耶蘇教)そのものの完全
       抹殺政策(影も形の残さない如くに)を目論む事情の下で、、、、

      ③国学主義隆盛政策徹底化を目論む下で、『群書類従』という国学に係わる国学関連全
       般を網羅した百科的な資料古書収集編纂の一大叢書製作事業という状況から、、、
              (1780年当初から塙保己一を中心にして、寛政5年(1793年)―文政2年(1819年)に
       木版で刊行され、その成就を見た。)

      ④厳しい鎖国政策下での幕府指導の対海外貿易での利益増大を求めた趨勢から、、、、
       (これには幕府要人による内密な裏取引が、ポルトガルを属国化したスペインと交わ
        されたとのことで、写本類は出版されることなく、密かに何箇所かに分散保管され
        封印されたとも、、写本の散逸化工作)
       *スペイン・ポルトガルは、シナ人などを使用して、巧みな代理貿易をしていた。 

      詳細な論拠論述は省略して、その結論を言えば、日本側幕府要人による密かなる陰謀施
      策として、シナ人を買収して、その筋書き手立てどうりに、マカオの司教座聖堂があっ
      たイエズス会学院が火災に見舞われるものとなり、その文書館書庫に保管されていると
      の目星が付けられていたフロイスの原書が焼失するに至ったと云うものである。
      1835年1月26日の事で、失火に似せた巧妙な放火によるものだったというわけで
      ある。
      
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 ・<グネッキ・ソルディ・オルガンティノ>:1533年 - 1609年4月22日、イタリア人宣教師。
                        カトリック司祭、イエズス会員。

 1570年 6月18日(元亀元年5月15日)フランシスコ・カブラル師に同行して初来日、天草志岐
       にその第一歩をしるした。
       その後すぐにオルガンティノは都に派遣され、初めから京都地区での宣教を担当し、先任
       在住のルイス・フロイスと共に京都での困難な宣教活動に従事した。
       彼らには日本人修道士ロレンソとコスメ、2、3人の家僕が同労援助者として付き従った。
       彼は、1577年(天正5年)から以後、フロイスに代って、30年に亘って京都地区の
       布教責任者を務めあげた。

 1576年(天正4年)京都に被昇天の聖母マリア教会が、前年75年の春、聖週間が始まる前より建
       築着工して以来、その落成を成すに至った。

       かって、ガスパル・ヴィレラ師が都に布教を始めた年から15年、フロイスが着任してから
       10年、そしてオルガンティノが任地して5年が経過して、ようやく教会らしき建物が出
       来た。この折には、天下の信長殿の支持もあり、その下に京・奉行の村井貞勝の善処する
       ところが建築推進の助けとなっていた。
       フロイス、オルガンティノ両師の建立発案により、畿内のキリシタンらすべてがその建築
       に様々なかたちで参画、協力するものであった。

       オルガンティノはまだ完成には至っていない、その建築途上の教会建物で、前年の8月
       15日、被昇天の聖母祝祭日としての、記念すべき初ミサをとり行ない捧げた。
       
       京市中の異教徒の住民らはこの教会を「南蛮寺」と別称、俗称するものとなった。

 1578年(天正6年)荒木村重の叛乱時(有岡城の戦い)には、家臣と村重の間で板ばさみになった
       高山右近から去就について相談を受けた。

 1580年(天正8年)安土で直接織田信長に願って、与えられた土地にセミナリヨを建てた。
       オルガンティノは、このセミナリヨの院長として働いた。
       しかしこのセミナリヨは、信長が本能寺の変で横死した後に安土城が焼かれた時に
       放棄された。

 1583年(天正11年)豊臣秀吉に謁見して、新しいセミナリヨの土地を願い、大坂に与えられたが、
       結局、右近の支配する高槻に設置された。

 1587年(天正15年)最初の禁教令が出されると、京都の南蛮寺は打ち壊され、高山右近は博多で、
       秀吉から追放処分を受け、明石の領地を捨てた。
       オルガンティノは、都で<伴天連追放令>の告知書面を受けたのち、その地のキリシタン
       との対応、霊的善処の後、高槻に赴き、その地のキリシタンとの別れの善処をなし、他の
       司祭、修道士らと共に下・九州へ向うべく堺から室に向って船出した。
       だが、オルガンティノは、一人の日本人修道士と共の密かにその地に潜伏、留まりて、信
       徒らへの霊的支援を試みようとした。

 1588年(天正16年)この年の4月13日(旧3月18日)オルガンティノは密かに都の戻る。その地で
       尾張の老キリシタン・コンスタンチイノを招き寄せ再会して、かの地の迫害状況を知らさ
       れている。5月7日以後には、密かに近江の国へ、その地の信徒ら、老チュウアン夫妻に
       めぐり逢い、また、人を遣わして国主夫人の京極マリアを訪ねて奨励奉仕をしている。
       その後、右近とともに表向き棄教した小西行長の領地・小豆島に逃れ、そこから京都の信
       徒を指導したが、右近が加賀国に招かれると、オルガンティノは九州に向かった。

 1591年(天正19年)天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。前田玄以のとりなしに
       よって、再び京都在住をゆるされた。

 1597年(慶長2年)<日本二十六聖人の殉教>に際して、京都で彼らの耳たぶが切り落とされると、
       それを大坂奉行の部下から受け取っている。
       オルガンティノは涙を流してそれらを押し頂いたという。
       最晩年、長崎で病床につき、

 1609年(慶長14年)76歳で没した。彼は、その半生を日本宣教に捧げた。

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  ・<フランシスコ・カブラル>:1529年 - 1609年4月16日、スペイン系ポルトガル人宣教師、
                  カトリック司祭、イエズス会員。
                  アゾレス諸島のサンミゲル島に生まれ、コインブラ大で学び、
                  軍人としてインドに派遣され、そこでイエズス会と出会い、
                  1554年に入会、高等教育を終えていたので、1558年には司祭に
                  叙階されている。

 1570年(元亀元年)6月18日(旧5月15日)老布教長・コスメ・デ・トーレス師に代って、新任の
       布教長として、天草・志岐の港に初来日した。この折にはフロイスに代って都地方で活
       躍することになるオルガンティノが同行していた。
       さらにもう一人のポルトガル人司祭バルタザール・ロペスが別の船、シナ・マカオから
       の定航船にて来航した。

      *カブラル師は、6月下旬頃には新たな布教体勢を整え、司祭、修道士らを志岐から送り
       出している。この時、初来日で同行してきたオルガンティノを都地方支援のため派遣し
       ている。彼自らも、その後諸事を済まし、島原方面に赴いたが、前布教長コスメ・デ・
       トーレス師が10月2日逝去の知らせを受け、志岐に戻り、その使徒的な栄誉ある人の
       葬儀を行なっている。(トーレス師享年72歳、この時カブラル師は42歳であった。)

       その頃を前後して天草の領主・天草鎮尚[シゲヒサ]らの内輪紛争も収まり、志岐の領主・
       志岐鎮経[シゲツネ]との関係も良好となり、天草領主・鎮尚も、ドン・ミゲルの洗礼名で、
       カブラル師より洗礼を受けている。
       
 1571年 カブラル師は来日以来、再び天草の志岐から九州・下シモ地方を中心に、樺島[カバシマ]、
              福田、長崎、大村方面に巡って宣教活動をなす。領主・大村純忠(ドン・バルトロメウ)の在地
       には、当時福田から長崎に数年に亘って在住布教していたベルショール・デ・フィゲイレド、
       前年に別定航船で来日したバルタザール・ロペス両司祭、及びルイス・デ・アルメイダ修道士
       らを同伴させている。その後、
       そこから島原の口之津、有馬などを訪問し、豊後を歴訪したが、日本総布教長としての
       幾多の務めをこなした後、ようやくこの年の後半以降に、都地方歴訪の旅に出かけるこ
       とが出来るようになる。
       
       フロイスの記述によると、都までの同行者として通訳の日本人ジョアン・デ・トーレス
       修道士を伴ったとあり、その途上では、堺から河内、摂津の国近隣を経由して都に入っ
       たと見られる。
       都に入ってから数日後(一週間以内)には美濃国・岐阜の信長のところに出かけている。
       その時すでに雪の降る12月の時期になっていたらしく、近江国北東方面から関が原、
       岐阜にかけて、東山道、中仙道はかなりの積雪に見舞われ、美濃まで5、6日を要した
       と言う。(普通の旅で3日、4日であろう。)
       この時の同行者は日本人ロレンソとコスメ修道士、そしてルイス・フロイスが付き添っ
       ている。
      *岐阜から京に戻った後、公方将軍・義昭もカブラル師らの訪問謁見を歓迎し、師は、フ
       ロイス、オルガンティノ、修道士ロレンソを同伴して、会見交流の機会を得た。
       その後、翌72年の初めの諸月には九州の下地方に帰ったと見られる。

 1572年 都から長崎に帰ったカブラル師は、この年の7月頃、長崎に初来日した二人の司祭、セ
       バスティアン・ゴンサルヴェスとガスパル・コエリョ師を迎え入れたが、彼らのうち後
       者のコエリョ師を五島の島々に派遣した。これは当時その地域のキリシタンにとって、
       布教活動の手薄を鑑みて、このところ司祭及び修道士らが、ここ1、2年来不在のまま
       であったからである。

      *五島への布教活動は、日本人ロレンソ修道士、同宿養方パウロが、69年に前布教長の
       コスメ・デ・トーレス師の召還により、途絶えたままであったから、これを憂慮して、
       取り敢えずガスパル・コエリョ師を1、2ヶ月巡回派遣させている。

 1573年 カブラル師が再び長崎から豊後へ赴く際、その海峡の関門通過の折り、反大村公として
       対立していた伊佐早領主一族の出で、深堀一家をなす郎党に待ち伏せ襲撃を喰らう危険
       に晒されている。この折り七艘の船で長崎の津を出たが、一艘がやられ、六艘は、引き
       返すほかない惨事に見舞われている。

      *この年、カブラル師が別ルートから無事大村の地を離れ豊後に向ったが、その直後、隣
       接の伊佐早の地を治める異教徒の豪族・伊佐早の殿が、前触れも無く大村の領国を襲撃
       進攻してきた。それで大村領が一時手中にされたかの如き惨憺たる事態に曝され、大村
       城も包囲される状況にいたった。
       だが、伊佐早に屈服していた家臣らのうち次第に彼から離脱する者も出て来た。城内に
       立て籠もった大村純忠の下には五百人もの家来が集まるものとなった。今や勇壮な彼ら
       と共に守備を堅める事ができ、且つ城外にも打って出て情勢を逆転させ、遂に伊佐早を
       圧迫して逃亡させる事に成功した。

      *その頃、大村諸領の上長として、五島から帰還していたガスパル・コエリョ司祭は、大
       村城下の教会、司祭館を留守にし、諸領の諸村各地を巡回していたが、大村の地が伊佐
       早から解放されてから無事戻ることができた。

      *長崎の村港にはもう一人の司祭ベルショール・デ・フィゲイレドが定住して、周辺各地の諸村への
       布教活動をなしていた。福田の港からポルトガル船の碇泊地を長崎の津が最良港となる
       と定め、少なからず整備して移転させるのに寄与したのが彼であった。長崎に在住する
       ようになって6、7年が経っていたが、今回の大村領への伊佐早の襲撃進攻でも、長崎
       はその攻撃に晒されるものとなった。幸いにも国主・大村公が生きて城に立て籠もって
       いるとの知らせを受け、長崎のキリシタン武士らも勇気付くと共に、司祭らはその村港
       に砦を構築、堅固に柵をめぐらして防戦体勢を整える事ができた。伊佐早の兄弟・深堀
       も海上から60艘以上の船で攻めてきたが、それにも抗して砦を守り、勇猛な4人のキ
       リシタン武士らの先頭を切っての生命を投げ打った活躍により、敵勢を打ち破る事がで
       き、敵勢を海路に陸路に逃走させることができた。

 1574年 再び都地方を訪れる機会(2度目として)を得ることになる。その旅の途上、前回の折
       りには寄る事がなかったが、毛利輝元が今やその祖父の代より受け継いで統治していた
       旧周防国地方の山口や岩国を訪問している。この地方のキリシタンらにとって、20余
       年ぶり、かのコスメ・デ・トーレス師やジョアン・ヘルナンデス修道士との別離の時以
       来、長期に亘る空白の年月を重ね経てのものであった。

       カブラル師は、この折りも日本人ジョアン・デ・トーレス修道士を通使に伴い、山口で
       三ヶ月余り滞在奉仕した。その後、(岩国の旅程+逗留で1ヶ月近く)
       そこから岩国に立ち寄り、その港から堺に向けて乗船するはずであった。が、彼の病の
       患いがひどくなって20日余もその地に逗留を余儀なくされた。

       司祭を懇切に看病してくれた九郎右衛門という異教徒の人物は、自分らの船を所有して
       海賊まがいの生業をしていたが、非常に事をわきまえた好人物であり、時代の流れを読
       んで、司祭らに恩を売ることを忘れなかった。(川尻という自分等の村の港にも異国の
       貿易船の恩恵が齎されん事を期待してか。)

       その後、回復傾向に向うと共に彼らの船で無事に堺に到る事が出来た。都に入洛した際
       には丁度その折り、在京していた織田信長に、再度の好意ある会見をする機会を得た。
       
      *カブラル師の都入りの日時は定かでないが、山口、岩国経由⇒堺の旅程であったので、
       早くても7月以降、8月頃ではないかと推測される。ともかく信長が在京していた時期
       とほぼ重なっていたと、フロイスの記述からは受けとめられる。

      *フロイスがその著で記すところに依れば、当時都にはフロイス自身とオルガンティノ司
       祭、ロレンソ日本人修道士、そして都育ちの若い同宿コスメが留まり、それぞれその役
       分の務めに従事していた。(同宿コスメは、この2度目の来訪時に、カブラル師から修
       道士資格への修練修行を授けられ、正規のイエズス会士の修道士となっている。)

       特にその頃、フロイスとオルガンティノは、摂津国の一領域地方で高槻の城を与かって
       いた高山右近及びその父ダリオの治める高槻領のキリシタン宗団への訪問奉仕には都か
       ら交替番のかたちで事に当たっていた。

       このような折り、カブラル師の2度目の都来訪に際して、その帰途、数日の短い滞在で
       はあったが、その高槻に立ち寄っている。フロイス、ロレンソ、及び従者のジョアン・
       デ・トーレス日本人修道士を伴って。
       そうした日本布教長の時機を得た訪問により、布教活動がより一層勢い付き、大いなる
       成果を齎すものへと発展していった。
       カブラル師はその数日後、後事をフロイスら司祭、修道士、若き城主・高山右近、その
       父ダリオに託し、堺の港に向けてその帰途に着き、下の九州・豊後へと船出した。

 1575年 この年以降、豊後の府内を中心として、その務めをなし、島原地方、高来、口之津など
       には自らが出向いて巡回聖務、急務諸事等に当たっている。

      *カブラル師は、この年再び、五島の島々のキリシタンへの奉仕に向け司祭を遣わす。
       その地から養方パウロが帰還して以来、1、2年弱の空白時期が生じたままであったか
       らだ。長崎在住の有力な司祭・ベルショール・デ・フィゲイレドを遣わすものとなる。
       だが、この時も五島への常住滞在ではなく、もう一度北九州での博多の市への永住の拠
       点となる教会づくりがカブラル師のねらい、ビジョンであった。

 1576年 この年に豊後にいたカブラル師は、島原地方・高来(有馬周辺)での布教熱、改宗事業
       の進展に異常な高まりを見せたとの報告をコエリョ師から受け、早速にも高来を訪れ、
       現況を察知して、新たにこの地区の担当司祭としてアントニオ・ロペス師を任じた。
       またこの地方で以前から活動しており、今回もコエリョ師の同伴としてその働きをなし
       ていたルイス・デ・アルメイダ修道士を引き続き新任ロペス師の同労伴侶と定めた。

       だが、高来地方の領主・有馬義貞(ドン・アンデレ)がキリシタンになってから9ヶ月も経た
       ないうちに、以前患ったことがあった背中の癰[ヨウ・ハレモノ]の膿瘍が悪化して命を絶ってし
       まう。跡を継いだ異教徒の嫡子・鎮純[シゲズミ]は、キリシタン廃止姿勢を打ち出したの
       で、仏僧や異教徒等の棄教への圧迫が激しくなされ、同領域でのキリシタン宗団は崩壊
       その趨勢は、完全に低落頓挫してしまう。有馬の教会もその土地建物をして返上させら
       れ、司祭らも退去を余儀なくされた。
       その後、アルメイダ修道士には、天草の地、天草殿の主城・本渡城に赴くよう命じて、
       彼は、77年の四旬節に入らない前に、口之津から豊後に引き戻っている。

 1577年 カブラル師は、数年来の自らの日本地区布教事情の掌握展望を鑑みて、前年来の目論み
       要請が叶い、この年、布教に仕えるイエズス会士が、最も多く来日するものとなる。
       その内訳は、司祭が7人、修道士が7人、計14人に上った。これは、前76年が3人
       であったが、その以前においても3人を上回る事はなかった。また全然渡来しない年が
       数年続いた場合もあった。例えば1566年~69年に至る4年間など。
      
      *その会士らが渡来してくる数ヶ月前に、カブラル師は、都地方の上長ルイス・フロイス
       師を豊後の国に召還、その代わりとして74年来日の司祭(ジョアン・フランシスコだろうか?)
       を配する。この年の1月初めにフロイスは兵庫の港から豊後にむけて出立した。


 1578年 この年の8月28日(木曜日)、カブラル師は、大友宗麟に洗礼を授ける。それに到る
       に20数年に及びたるイエズス会との関わりの猶予期間があった。だが、宗麟が洗礼を
       受ける頃には、その内心的心情は、デウスの教えにより洗われ、デウスの御恵みを心魂
       深く知るものとして、すでにほぼキリシタン化されていたと見られる。
       (ただし10数年前の62年に外見的な威厳見栄で出家して、<宗麟>という仏法名を
       名乗った頃は、禅宗異教徒の感性心に留まっていて、その知識の慣例、修法を行なうも
       のであった。)

      *この年の末月には豊後の大友氏が薩摩の島津勢に日向の地、耳川の戦で大敗した事で、
       各地の状況、特に肥後、筑後をも含め、博多地方は、豊後の従属から離脱する紛争を起
       こすものとなり、各地が混乱した事態に陥った。(その敗戦後、九州キリシタンはさら
       なる進展と浮き沈みが相互に錯綜するような、まさに曲がり角の時代のただ中となる。)


 1578年 カブラル師は、豊後国主・大友宗麟(ドン・フランシスコ)の新たな試み、ビジョンの意図(西
       洋風キリスト教国の建設)を受けて、10月3日(旧9月4日)、臼杵の港から海路日向  
       の国に向けて、彼に同行するものとなる。(宗麟その人生の晩年期に差し掛かった49
       歳の頃であった。) 
       これにはジョアン・デ・トーレス日本人修道士、ルイス・デ・アルメイダ、若手のアウ
       ドゥレ・ドウリアの三人の修道士だけを同伴している。

      *国主・大友氏の試みには、言い知れぬ苦悩と、啓発された大いなる望みが錯綜する中、
       心中多様、色々な思惑がよぎっていたと思われる。
       何もかも一から始める新たな国づくりを目指さんとしたものであったがゆえに、、、。
      
      ★日向国・伊東氏が薩摩・島津氏の進攻により、その国を棄て去ってから(旧暦77年12月
       9日)10ヶ月も経たない頃には豊後・大友氏の日向領土の奪回、進出となっていたが、
       その前の段階で、既に豊後勢は、島津方に鞍替え臣従した日向北部領有の名家国人(旧
       縣主)土持氏を追滅し、その領域を確保(1578年[天正6年4月10日])しており、
       その後の進出を有利に展開する状況となっていた。したがって、大友フランシスコが、土持氏
       の所領地(縣の牟志賀)に乗り込んだ10月初旬頃にはその豊後勢の前線は、耳川(高
       城川)の十キロ乃至十数キロ内外の手前まですでに伸びていたと思われる。

       島津勢との対陣対決は、耳川流域を間にした辺りから本格的な臨戦態勢を予期するもの
       となった。(耳川を難なく渡河した豊後勢は、旧10月11日、高城に近い国光原台地
       に陣構えをした。同月20日、高城への城攻めを開始した。その日、一気に城を落とす
       勢いで、2度、3度と攻撃を試みたが、他部将隊による加勢、協力の増援がなく、その
       先攻部隊は一端、兵の退去を余儀なくされた。
       その後は城の包囲戦、兵糧攻めの策で事が進み、小康気味となって何日かが過ぎようと
       する状況となった。)一方、
       
       宗麟、カブラルらは、かって土持氏の領有地だった、牟志賀(現延岡市無鹿町)を当面
       の本拠地として以来、2ヶ月余りが経過する中、かような豊後勢の進攻と共に、順調に
       事が運んでいるかの如くであった。
       だが迂闊にも前線状況をしかと自らの眼で確かめていない宗麟の人任せの不甲斐なさ、
       無思慮ぶりが豊後勢の戦況を一挙に急変させ、暗雲なる奈落の憂き身へとわが身を晒さ
       せるものとなる。

       天正6年(1578年)3月半ば、日向に豊後勢・大友軍が投入されて以来、その数ヶ月後、
       遂にその暗雲の運命の時、壊滅的な敗北を帰する時がやってきた。
 
       同年11月9日-12日(西暦12月9日-12日)のほんの数日足らずの戦況上の出  
       来事が、良好に見えたかに思われた進展情勢を急変、激的に一転させるものとなった。       
       
       その壊滅的敗北の要因の深さには把握し難いものがあるが、その直接的に目に見えて明
       らかな事象要因は、大きく二様に分けて知られうるものとなる。
       ――――――――――――――――――――
       一つにはこの戦での豊後方総大将を任されていた<田原親賢>には総大将としての、軍
       団を統率する資質と能力はなく、各主将がそれを認めないゆえ、各自が思い思いに軍事
       行動を行なうことを認める以外にその対処姿勢はなかったという事であった。
       (総大将たる者、その実戦経験での戦略と勇猛なる名誉を馳せずしては、配下の将兵が
       己が命をあずけ、勇意に溢れて戦うといった事が出来ないと言うのが、戦国武将の本音、
       道理であった。)

       これは戦の本命となる島津軍との直接対決で、その体勢をとる際、極めて致命的な弱点
       となり、その戦運を左右しかねない。最悪の場合、まさに愚の骨頂をもたらす事、はな
       はだ大ともなり得るものであった。
       総体的な作戦、攻略手法の手立て、確認もなく、その共同的な遂行の分担協力の評定、
       認識もなされない愚蒙の会評では、敵方の動き、陣地、兵力状況の情報さえ乏しいもの
       であったと思わざるを得ない。

       総大将の田原親賢自身は、元々耳川以北までを日向の領有地にして、島津との和睦を目
       論んでいたという事で、それ以上は戦を遂行しない腹積もりでいた。それ故、密かに和
       平の道を探るべく、その密使を送り出す手筈であった。主戦派の主将らは<耳川を渡河
       するか、しないか>の軍評会議に臨席していたが、即座に結論が出ないうちに、先を競
       うかの如く、各部隊が我もわれもと次々に渡河して行く始末となった。何かもう勝ち戦
       が間違いないものとして、その武功を我がものにせんが如くの風容を漂わせていた。

       一方敵方島津勢は、75年の本州での織田と武田の長篠の合戦での状況を知るものとな
       っていたので、その逆手の有用点を生かし、しかと鉄砲隊の備えを充分に整えていたと
       思われる。
       (鉄砲隊で存分にかの高城を守り抜く、たとえ多少の雨でも使用できるように銃口射撃
       場所を整えて、、、しかも弓手隊をも大いに併用してのこと、、、。)
       ――――――――――――――――――――
       二つには、豊後勢には何らの作戦や、攻めの方策が出来ていない始末であったが、島津
       勢には、その初めからすでに作戦動向が採られていた。つまり、相手方に耳川を容易く
       渡らせ、且つ、高城を襲撃することさえ認めるという捨て身の作戦を遂行するという大
       胆不敵な策をとった。国主・義久の弟、家久が、その城詰め指揮官に定められ、その城
       代・山田有信と共に陣頭指揮を執る手筈であった、、、。

       家久は、オトリの城とした高城への敵の攻撃の際、すでに数キロ先に伏兵して、打って
       出る挟撃の機会を窺がっていた。がしかし、今まで経験したことのない<大砲の轟音>
       によりしばし躊躇し、この時は様子を見る他なかったとも、、、、

       その後、豊後勢には城を包囲させる以外になく、それと共に、その本陣勢をも誘うかた
       ちで、次の作戦行動を遂行していった。(<“釣り野伏”>と称される伏兵策を加味で
       きる兵法策)
       豊後勢はまんまとその作戦に嵌められ、本陣に控えていた田原親賢は戦う意志なく、形
       勢不利と見るや、即座に思いがけない迅速さをもって退去していった。豊後勢はこの時
       以降、完全に総崩れとなり敗走、総追撃の憂き身に晒された。折からの耳川の増水も、
       これを見込んだ時に合わせた島津勢の計算づくの軍略行動となり得たものであった。

       (初戦での豊後勢の高城攻めがあまかった、城崩しの<大砲>、これは日本史上初めて
       とも、これを使って城が破壊される事を惜しみ嫌って、威嚇程度の距離にしたとも、、
       これがまったくあまく裏目に出たとの要因で、それが一つの歴史解釈として考えられる
       とも。また、
       高城川<小丸川>近隣から木城町下鶴付近に及ぶ最終合戦の折、総大将の田原親賢が、
       勇猛果敢に打って出て、戦場支援すれば戦況は変わっていたとも、、、少なくとも両軍
       共々引き分けて、一時退去する事になったかも知れない。)
       ――――――――――――――――――――

      *フロイスはその著書で、この時の壊滅的敗因事情を記しているが、、もちろん田原親賢
       に関しても、、フロイスは、その彼・親賢をして、<主なるデウスの計り知れない御摂
       理>による懲罰説を唱える。後々今後ための<豊後勢に対する裁きの懲罰>であったと
       している。豊後勢のほとんどが、各主将らから兵士にいたるまで異教徒で、ずっとキリ
       シタンとデウスの教えの敵であり、その敵対行為の所業は今や赦されざるものだったか
       ら、その懲罰が下されたのだと、その主なるデウスにある<霊的歴史解釈>を表明、書
       き記している。

       この彼の解釈は、その敗戦後の豊後国状況の裏づけ例証に続くものとしている。つまり
       豊後国の崩壊的な内情による動揺と混乱のどん底、そういった状況下でイエズス会、キ
       リシタン宗門が味わった艱難、危機、不安な殉教覚悟の様相、そういった双方の凡てが
       錬金炎の浄化の手立てとなり、デウスの御摂理により、戦前以前よりさらに一層良い趨
       勢として、その回復がなされたとの<デウスにある霊的解釈>へと、1580年の時点
       時期にあって、その現実実証の裏づけとして続くものだとしている。

       この時期は又特に非常に助けとなる案配で、タイミング良くかの巡察師ヴァリニャーノ
       が、下[シモ]の口之津港(島原地方の岬)に来日(1579年)し、翌80年には豊後国
       を訪れ、豊後の国情が回復傾向に向いつつある最中、日本イエズス会の活動体勢、動向
       方針の抜本的見直し且つ、建て直しを、その豊後国の現状況を踏まえ考慮しつつ、日本
       教区全体に及ぶものとして行なっている。

      ★この時期までの日本総布教長・フランシスコ・カブラル師が、その布教路線、基本的な姿勢を
       誤まった感がするとの受けとめ方もあるが、、彼の日本人に対する評価は、ややもする
       と受け入れがたい一面もあるが、戦国時代当時での事ゆえ、、実際に自分が見、実体感
       したところからの発言(書簡報告等)であったから、その時代に生きていない我々がど
       うこう言う資格はない。カブラル師のように<主の十字架>の御前にぬかづいてこそ、
       人間の傲慢罪性は取り払われ、真にそれの滅去した人間性となれるものだと知る者は、
       異教徒なる日本人が、その仏僧、異教徒にとどまるかぎり、まったくの傲慢そのものだ
       との評価の目を心に映すものとなる。何はともあれ、ともかく彼は、かって軍人であっ
       た経験もあり、その将校的性向が尚も尾を引いたものとなったかも知れないが、、

       彼のオルガン(荘厳ミサ)と大砲でもって、一つ外面的に象徴される布教方針の顛末は
       その失敗を大々的にあらわにしたと言う他ないとも、、、。
       (かって十数年前の1562年頃、国主・大友義鎮が出家して“宗麟”と名のり異教徒とし
       て留まった事情により、先の前任布教長コスメ・デ・トーレス師が彼の改心、改宗事に
       失望し、豊後を見限ってその地を去ったという事の事由とは対照的だと言えようか。)

       オルガンの響きに魅せられ、現実の状況をば見誤ったかとも言いうる、かの国主・宗麟
       が、今や出陣直前に洗礼を受けて、、彼にとっては、その日向への進出は、またと無い
       絶好のチャンス、天、或いはデウスの与え給うた機会だと判断したであろうか。
       彼を取りまく時代の状況は、いまや極めて有利な情勢だったとの判断、、77年10月
       以降、78年1、2月の段階で、毛利氏との対決、或いは九州への毛利勢主力の進出は
       あり得ないという確かな状況になっていたから、(信長の遣わした大将秀吉が播磨以西
       に進出して来て勢威を振るっていたという現状を鑑みて、)

      ★薩摩国・島津方では、1576年から溯ってみれば、朝廷前公卿トップ<近衛前久>の
       鹿児島来訪時での諸策が結構なかたちで、国主・義久に有利なものとなり、その時代を
       後々まで進展させていることが知られうる。

       前久が鹿児島入りしたのは1576年旧暦の3月中旬頃で、2ヶ月ほど滞在している。それ
       以前には薩摩領土の出水に、前年の12月25日から3ヶ月ほど留まっている。
       近衛前久は信長の要請で九州に下向したと一般的に見られているが、その解釈の基とな
       る史料が、たとえ前久側から出ているとしても、そのように記したものだと見なすほど
       に疑わしく、定かでない。
       密かに内心、信長の天下状況の行く末を予想して、諸策を秘めて自ら九州に下向したと
       見なすほうが妥当ではないかと思われる。

       (近衛家と島津氏とは、鎌倉時代の初めから、その先祖の代から公家の家門一族として
       近衛家に仕える家司の主従関係にあった。
       近衛家の所領は、藤原摂関家として、薩摩、大隈、日向の三州を股にかけた地域の、当
       時では日本最大の荘園に発展した島津庄であり、その現地管理の荘官(下司職)を、近
       衛家一門僕従、島津氏の先祖(惟宗忠久)が下向し、務めた事で始まり、その後、代々
       受け継がれてきたという、因縁深き関係にあった。)

       当時、信長は公家らの所領を元に戻すという、異例の善処策を敢行しており、朝廷・公
       家らの経済的状態は相当な回復傾向へと向っていた。公家所領の回復、近衛家、前久の
       先祖の所領、島津の庄に思いを致すこともあったに違いないが、なにぶん九州のような
       遠方までは、未だ信長の政治策はとどくすべも無い。そんな九州所領の事を信長に話す
       機会があったろうか、、信長も九州に関わる一計を思いつき、前久に九州島津の庄を案
       ずるならば、一度出向いてみたらどうかと、勧めた向きもあったかも知れない。また、
       前久自身もそれをネタに信長から下向の了承を取り付けたと言えなくもない。
       
       日向・伊東氏と同盟関係にあった肥後の相良氏と、これと紛争対決していた薩摩島津氏
       との間に不戦条約の如き、起請文(誓紙以上のもの)を交わし和睦を成立させている。
       これはまさしく近衛前久の快挙であり、それ以後の時代の流れを因縁方向付けるものと
       なる。
       これにより島津義久は、前久が去った1、2ヵ月後、大軍3万を率いて、懸念の宿敵、
       日向・伊東氏に立ち向かい、攻め行くことが出来た。(1576年天正4年8月19-23日)

       その後も逐次勢力を伸ばし、拮抗した有利状態の中、翌1577年6月から12月にかけての
       進攻、調略で、遂に伊東氏を追い詰め、追放して日向の全地を領するものとなる。
       伊東氏は、籠城して戦う勢いや戦意の無きを見て、本拠地・佐土原城を棄て、その家門
       一族は、豊後国に落ち延びる事となる。(12月9-10日)その落ち延び先はと言えば、

       国主・伊東義祐の後を継ぐ嗣子だったが、今は亡き次男義益の奥方(正室)が、豊後・
       大友宗麟との姻戚関係(姪・妹の娘)にあったから、その豊後へと落ちる。
       この流れにより、大友宗麟、その生涯最後の使命、大仕事と奮い立って、日向への思い
       を現実のものとすべく、新たな決行に踏み切るものとなったわけであったが、、、。

      ★近衛前久の時代、まさに戦国乱世たけなわのただ中であったわけだが、朝廷が存続生き
       延びるためには、その朝廷人として、常にどのように対処し、その手を打つべきかが、
       中枢での朝議談合するところの事柄であった。室町時代の南北朝期が終わる頃には、朝  
       廷は、武の力も財の力も維持できなくなり、喪失したようなものとなっていった。応仁
       の乱(1467~77年)以降、室町幕府の後ろ盾も潰えるほど不穏なものとなり、加えて乱
       世戦国の世情が全国的に広がりて、有力な大名を親朝味方に付けたり、朝敬厚き大名の
       支持を得たり、血縁姻戚関係を嘉したりと、多様な朝廷の施策工作をする以外になかっ
       たようだ。伝統と殿上の格式儀礼に託[カコツ]けて、政略、知略をもって生き抜くほかなか
       った時代であった。
 
       だが、朝廷で最も有力であった近衛前久が九州下向時の頃は、すでに朝廷からお役目御
       免(関白除職)を被って日久しく7年余りになり、朝廷からはフリーの身となっていた
       ので、どんな胸算用、面持ちで九州下向をなしたか、信長のご意向とは裏腹に、摂関家
       なる自家の存続を憂慮して、朝廷への復帰をも内に秘めての事なのか、、その詳しいと
       ころ、ホンネとするような胸の内はまったく知られない。
 
       その下向時、瀬戸内の海から最初に出向いたのは豊後の国であろう。だが、その国主・
       大友宗麟との直接会いまみえる会見の時を持たなかったようだ。ただ内密にかっての有
       力公卿・久我氏の父子(<通堅、三休>、前久とは従兄弟で、前久の正室はその娘)を
       介して、最有力筆頭家老・田原親賢との密談をなしていたと推測されうる。
       
 1579年 カブラル師は宗麟らと豊後に帰還したが、宗麟が津久見に留まる中、さきに臼杵に入り
       司祭館に戻った。この年以降、府中、臼杵のイエズス会は、布教事業どころでない事態
       に追い込まれ、カブラル師の対応はまさに窮地に耐えないばかりの深刻な事態にあって、
       その最善をデウスに願い、嘉して処するところのものとなるばかりであった。
       この年は豊後国自体が内からも崩壊寸前状況の動乱状態であり、今や下克上的な内乱が
       起こるに違いないとの懸念が全領民の間によぎるものとなった。


      *田原親賢はかの敗戦以来、豊後の府内や臼杵には姿を見せず、行方知れずとも、死んだ
       とも巷では噂されていた。が、78年末、年明け頃には、悠然と豊後に復帰するものと
       なる。この年の一月初旬には、イエズス会、キリシタン宗門撲滅のために公然とした政
       策的覚書を策定し、豊後国・老中諸氏の方針として策動せんと活動するものとなる。

       だが、これより先に、かってその親賢の根っからの仇敵であった本元本家の田原親宏と
       という大身(国主・宗麟の近親一族出)が、先の戦での重臣欠員の穴埋めとして、老中
       に選任されていたので、彼のけん制により親賢のたくらみ政策は、中途半端なものとな
       り、頓挫してゆく。それでも一部のキリシタンは迫害に晒され、また自主的に多くの者
       が棄教し、迫害圧迫、罵倒の徒衆となる。

       この動揺撹乱の嵐の時期、その2月過ぎには国主宗麟・フランシスコの嫡子・義統[ヨシムネ]が、
       受洗間際状態の継続中でのイエズス会、キリシタン支援者の支柱であったにも拘わらず
       執拗で激しい説得と、異教徒反対派の圧力、及び対外からの支援、不支援の利害が絡ん
       での事情により、屈服、離反するものとなり、撲滅、弾圧の異教徒側に鞍替え、付いて
       しまう。

      *国を父・宗麟から任されていた嫡子・義統[ヨシムネ]のそんな状況の最中、田原親賢(田原
       一族の養子となった人物)と田原親宏とが、互いにけん制反目し合い、老中メンバーも
       双方の二派に分かれての権勢であったが、嫡子・義統が支持方針を鞍替えし、親賢、及
       びその妹・奈多(宗麟の後妻正室として嫁いで、嫡子の母ともなった。キリシタンらは
       イザベルとあだ名していた)一派に与するものとなったため、<田原親宏>は、状況不
       利と見て、ひそかに政庁の臼杵を離れ去るものとなる。

       だが、この彼の行動は、豊後国の巷では、蜂起をなす前触れのような動きと見なされ、
       彼の娘婿たる筑前の国衆・秋月種実[タネザネ]の叛旗に連動したものと仮想判断された。
       これにより愈々さらに深刻な、より大きな動乱の嵐に豊後国が突入するものと見なし、
       府内や臼杵の住民らは動揺し、イクサの戦禍を避けるべく、早々に疎開騒動の巷と化す
       るものとなる。(79年冬期での危機)

       この大いなる危機の禍間際に宗麟・フランシスコの強い意向もあり、嫡子・義統は父の説得に
       折れ、親宏への支持親睦の親善策を取り付け、この国内問題最大の危機を回避するもの
       となる。
       (かって親宏の所領であったものが、すべて親賢に召し上げ譲渡されたものとなってい
       たが、それらが義統[ヨシムネ]を介して、すべて元の親宏に返却されることにより、丸く収
       まり、その破滅の危機が回避されるものとなる。その処置により、親賢の所領は、ほと
       んど失われ、彼は政治的勢威を失い、まさに没落的に自粛蟄居のような存在となってし
       まった。)

      *だが、その後すぐに再び、その田原親宏(その子・親貫)の動向が深刻な蜂起への動き
       となり、老体の親宏が病で死去後には、子の親貫が、叛旗して、海からも軍船を差向け
       府内を包囲攻撃せんとした危機に晒されるものとなる。(80年前半期にかけての動乱
       の危機)筑前では秋月種実が離反、自立の動きをなし、竜造寺隆信が筑後を占拠して、
       独立領主となってきた情勢であり、豊後国内も動揺動乱の最悪状態に達していた。

 1579年 カブラル師、ところを豊後から下区の地方に移す。
       この年にはアレッサンドロ・ヴァリニャーノ師が、イエズス会総長エヴァラルド・メルクリアンの
       直属名代の巡察師として、島原有馬領・口之津の港に来日しており、そのためカブラル
       師は、彼の到着(7月25日)後、8月以降から島原半島、長崎、大村方面に豊後から
       活動居所を移している。

       だが、この年の10月か11月頃、有馬及びその周辺の領土が、佐賀の龍造寺勢に攻め
       込まれ、重大な危機に曝される。
       これは若き有馬国主・鎮純がヴァリニャーノ師から洗礼を受けんとして、口之津に向う
       直前の事で、領国全土がいまや混乱と動揺の渦と化した。この折り主城のある有馬は、
       やがてその近辺の町や村と共に包囲され、一時的な休戦和睦が成るまで、5ヶ月近くに
       亘って包囲状態となった。一時的な和睦は、年が明けて、80年の3月下旬、その年の
       復活祭に至る<聖週間>の数日前ごろに結ばれた。
       龍造寺勢の惣領・隆信の思惑は、有馬国主・鎮純の穏当なる降伏開城を迫るもので、そ
       れが成ればポルトガルとの交易独占、その利益を一望出来ようというものであった。

       有馬が未だ包囲されない状況下で、領国全土が混乱と動揺に陥ったその当初ではあった
       が、若き国主・鎮純の洗礼は、その日の当日の直前中止となった。鎮純はそれをとても
       憂慮したが、ヴァリニャーノ師はその代わりとして、有馬への出来る限りの援助、バッ
       クアップするを申し伝え、約するものとなった。その証として彼は、有馬の城に一人の
       司祭とその従者を住み込み、城中させるものとなる。
       この司祭が、フランシスコ・カブラル師その人であったが、その有馬がいよいよ敵方に
       包囲されるという険悪な状況に至り、この折りにはヴァリニャーノ師とともに有馬から
       肥後の国側に属する天草の地に退去するほどの事態となった。
 
 1580年 巡察師ヴァりニャーノが下の有馬方面より豊後にやって来た折り、カブラル師は、日本
       総布教長の責務を保留とされて、やがて解任されるものとなる。
       実際にカブラル師は、この年の8月に下の有馬、口之津に召還され、巡察師の召集によ
       る、その地方(下教区)でのイエズス会員全体会議に臨席させられている。その後9月
       になって、巡察師の豊後訪問となるにつけ、それに同行し帰還している。

       年明けて後任にガスパル・コエリョ師が選ばれるが、この折り日本が単なる布教区では
       なく、準管区に繰上げられたため、日本総布教長を兼ねた準管区長としての新しいポス
       トの職責となった。
       カブラル師はこの時、なお豊後地区にとどまり、より自由な形で主なるデウスへの奉仕
       に専心するものとなり、豊後教区の上長は、引き続きルイス・フロイスがしばし担当、
       兼任するものとなる。

 1583年 カブラル師は日本を離れ、マカオに召還を余儀なくする。これにより彼は、数年後の日
       本全体的な過酷な布教の冬期、追放、殉教の嵐に見舞われることは無かった。
       マカオでの一時的な滞在、及び中国での布教状況を詳察認知した後、元の古巣のインド
       のゴアに帰還、その地で新たに92年から97年までインド管区長を務める。

 1609年 4月16日 ゴアにて天寿を全うし、召され逝去に至る。
     
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 ・<ガスパル・コエリョ>: 1530年 - 1590年5月7日 ポルトガル出身で戦国時代の日本で
                                 活動したイエズス会司祭、宣教師。イエズス会日本支部の準管区
                 長をつとめた。彼が日本での布教事業で最も注目され、九州地方で
                 の最も動揺、激動の激しく拡大してゆく時代に、大村、有馬及びそ
                 の周辺地方での布教に苦悩、心痛、困難をも耐え厭わずして、心血
                 を注いでその務めを主なる栄光となさしめ、さらにより厳しい困難
                 が差し迫るなか、主なるデウスの栄光とされた時期は、86年代の
                 長門・下関および山口での思いもよらぬ成果と進展であった。
                 (イエズス会布教活動の中期末頃、70年代から80年代を中期、
                 90年~ 1600年代を後期&終期とした場合での見識による。)
                 
 1556年 ポルトガルのオポルト生まれの彼は、1556年にインドのゴアでイエズス会に入会した。
       また、同地で司祭に叙階された。 

 1572年 彼は、同僚司祭セバスティアン・ゴンサルヴェスと共に長崎に初来日した。そのまま九州
       下地方での布教活動にたずさわるものとして、日本布教長のフランシスコ・カブラル師より九州
       肥前地方の上長に任命される。

       また急きょ、未だ布教不十分、司牧者不在の五島の島々に遣わされて、1、2ヶ月の巡回
       聖務の任にあたる。その後、平戸に戻り、そこから長崎、大村の領地などで、布教とその
       司祭職の任に従事し、やがて大村地区に拠点在住するものとなった。
       (数年の後、80-81年代初めには第三代目の日本総布教長兼、初代の日本副管区長の
       新たな職責を担っている。)

      ★その当時、いまだ上長コエリョ師の指示下で活動する以前であったが、長崎には64年に
       来日した別の司祭ベルショール・デ・フィゲイレドが在住任務をなしていた。その68年
       前後の頃、前布教長トーレス師の指示により同地域近隣の大村領福田に初めて定住する。
       そのかたわら良港となる最良の湾岸地を求めて探査、やがて長崎港開築の運びとなリ、そ
       のためにその地に拠点を移し、その地域での最初期の教会形成に携わっていた。

       (この司祭は、その来航当初、横瀬浦が63年の大村領内乱により壊滅的な災禍に遭い、
       港は入港不対応状態で、その船は引き返して平戸沖に廻り来た。だがそこも問題ありで、
       当時度島に在留していたルイス・フロイスより、その入港を差し止められる事態に直面し
       た。しかし、平戸の領主・松浦氏は強く入港を望んでおり、フロイスらを招き呼んで談義
       がなされる。これによりフロイス側の要望条件が承諾されたので、平戸での司祭、修道士
       士らの受け入れが何より最優先の第一条件にて、教会再建への復帰ができるものとなる。
       これにより船の入港もようやく、肥州平戸側の求めていたその<碇泊入港>の要望を満た
       すものとなった。(だが、これも一時期の間だけ、またすぐ後に不祥事が起こる。)

       その後すぐにフィゲイレド師は度島[タクシマ]に一時のあいだ遣わされたが、司祭不在住の豊
       後・府内に招聘される。そこからまたこの司祭は、翌65年には、ポルトガル船が、また
       またある残虐事件により平戸を避け、福田という大村領の漁村の津に寄航したので、その
       折りかの地に赴いたりもした。また66年には平戸にしばし滞在し、そこから福田にごく
       近い手熊という村にも洗礼聖務などで赴く。その折にはコスメ・デ・トーレス師の招きで
       彼の在住する口之津へ。
       そこからまた島原へと一時滞在巡回したりして、再び豊後に戻ったりの活動をしている。

       その後の豊後では、日本人修道士ロレンソが五島への派遣から豊後に召還され、彼の支援
       にあずかって豊後の諸地域での司祭任務を為している。その在任中、上記の開港要件で、
       肥前大村領の福田という港村への派遣在住となる。それから港が長崎に永続的開築港をな
       した後の75年には

       総布教長ガブラル師の指示で、その頃すでに司祭、修道士が久しく不在となっていた五島
       を訪問巡回する事が急務と見なされ、先にそこへ遣わされる。その任務終了後、そこから
       筑前の博多の町に3年余り定住し、筑前地域での布教、司牧活動に従事している。
       そこには同労伴侶として日本人修道士のダミアンやミゲル、老養方パウロがその教会活動
       に一緒に携わっていた。さらにこの司祭(ベルショール・デ・フィゲイレド)は、

       77年には、かのフランシスコ・ザビエルが初めて開拓した周防国・山口、そこには未だ少数の古く
       からのキリシタンが息を潜めて暮らしているところだったが、その地への布教状況の見込
       み視察を兼ねて使わされる。が、結局、豊前国に属する小倉経由で下関に渡るや、その地
       の名望ある一キリシタンから現地状況を把握し、同宿伴侶の一人を山口のキリシタンのと
       ころへ遣わし、その報告により、山口での布教への門戸が非常に困難で極悪な危惧事態に
       晒されることを知るものとなる。

       下関で足止め状態のまま上長カブラルの指示を受けて、豊後への戻り旅となり、再び豊後
       での滞在、そこで3年間の在住任務となった。
       その折りに、80年には巡察師ヴァりニャーノが豊後を訪れる時に至り、彼の新たな布教
       事業、教会発展への抜本的基礎付けとその新方針により、府内に学院(コレジオ)が設立され
       た時には、その初代学院長に抜てきされている。

       先の博多には、その年(77年)に来日した司祭のうちの一人ベルショール・デ・モーラ
       と、日本で修道士となったポルトガル人アイレス・サンシェスが委任され、その地域での
       二年間の布教とキリシタンの世話に従事する。)
              
 1573年 この年、大村の地での布教活動も2年目に入らんとし、いよいよこれからが成長発展の時
       となる、そんな状況時に大村の領国に思わぬ事態が起こる。伊佐早による大村[バルトロメウ]
       公、その地への突然の進入攻撃が始まったからである。

      *この折りコエリョ師は、たまたま本拠地としていた大村の地を留守にし、諸村各地を訪れ
       る務めをなしているところで、デウスのご加護により直接的な紛争の災禍に見舞われる事
       はなかったが、一時的に何処かに避難し、不穏な時を過さざるを得なかった。
       事態が深刻な状況を報ずるものとなり、長崎の司祭、キリシタンらへの合流を計るべく、
       一時、その地に向ったとの推測もなされうるとも、そう考えられない訳でもない。

 1574年 伊佐早との戦争も、伊佐早殿の思わぬ危惧撤退のことが生じ、その後は進入領地の回復、
       敵勢力からの全面的解放というかたちで終結。
       (当初大村純忠から離反した家臣団の部将らには伊佐早の西郷純堯スミタカは、ひどくその猜
       疑心に取り付かれるようになる。寝返った部将等の軍勢が、純堯伊佐早勢本軍よりも多勢
       になっており、彼らは余りにも積極的な動きをしようとしなかったからである。まさに離
       反した振りをしての策略にはめられた、、本軍が勢威を落としたと見るや、一斉に襲って
       気やしないかと、ひどい疑心暗鬼にとり憑かれ、最早これまでと撤退退去していった。)

      *その戦後の大村家臣団は、キリシタンを中核とした一致団結的な纏まりも見られるように
       なり、布教改宗事業は、大村の全領域に亘って一段と急速進行し、その規模を全領、全領
       民に繰り広げるものとなった。だが、それだけに乗り越えるべき課題や、対外的にも困難
       な問題に直面する事態が多くなった。

      ★ガスパル・コエリョ師は、大村領全域がキリシタン領国化してゆく最中、異教の仏僧、僧
       院集団層に対して、その善処策を大村公バルトロメウに計り求め行ない、一応の良好成果を収め
       るものとなったが、日本人修道士(同宿)らの説教内容が、異教宗門との対立教勢を先鋭
       化した面もあり、日本の古くから続く、古い蒙昧な世界観的な諸偶像、神々世界観が如何
       に迷妄、虚妄で無きに等しいものであるかを現実的に説き明かし、且つ西洋天文科学的[*]
       に暴露して、目からウロコの覚醒をさせ、その上で、世界宇宙が主なるデウスによって、
       機械構造式に、或いは時計仕掛けのごとく創造されたものと、説き明かすわけであるから
       して、キリシタンになろうとする者、なり始めた者、或いはなったばかりの者らは、仏僧
       らの教えや、その営みに騙された、いままでの寄進などによる損失も大変な額だとの自覚
       認知もなすものとなる。だが、そのままで心おさまるわけがなく、現実への憤激や恨み、
       腹いせの血気にはやりて、偶像撲滅、寺社破壊、その木資材奪取に走るものともなる。
       さらには悪魔の偶像施設は焼き払うべしとの考えで放火する者もあったりした。

       (そんな状況を引き起こす事情を知らない周辺諸国の異教信奉者諸侯、民衆らの目に、傍
       から見てどんな風にその状況が映り、受けとめ考え計られたものとなったであろうか。外
       面的にではあるが、深刻な問題が、そこには立ちはだかり生ずるものとなっていたと云え
       ようか。)

        [*]:当時のヨーロッパは、数学的仮説として一部の学者、知識人に知られていたにすぎ
          なかった地動説に対して、いまだ天動説が優位なものであり、地球を中心とした天
          球天蓋の世界宇宙観を観察認知するものであった。これは、古典ギリシャのアリス
          トテレスからプトレマイウスの天体宇宙論を継承発展してきたところの天文学の結
          実となったものであった。イエズス会は、この天文宇宙説の見識に立ち、これを説
          くものであった。
          (ヨーロッパではコペルニクスが世に出て、1543年には世を去り、その20余
          年後の1564年にガリレオが生まれ、ケプラーがまたその数年後の1571年に
          誕生するといった時代の頃であった。
          当時の認識レベルでの<天動説と、新たに1550年前後からひそかに注目支持さ
          れ出した、その当時の地動説&その観測的概念>の時代が、次の世紀、17世紀へ
          と至らんとする過渡期の時代であった。)

      *伊佐早の殿はその後、建築途中の高廊板を不注意に踏み誤り、自らの重みでひどい状態で
       落下、その怪我で亡くなるものとなる。伊佐早の強迫的くびきから解放された有馬の領主
       は、弟である大村公の領政方針を注視しつつ、大村在住のコエリョ司祭への自領来訪と、
       自領と自らの本望に係わる相談を司祭に求め計るものとなる。
     
 1576年 この年コエリョ師は、島原半島地方の領主・有馬義貞に授洗した事で、有馬だけでなく、
       その周辺の村落、町々が、皆、主なるデウスの祝福を求めてか、、洗礼の功徳にあやかる
       ことへのフィーバー現象が起きるものとなる。(これは有馬氏及び30名の家臣らの壮麗
       な洗礼の秘蹟を多くの民衆が見聞きしたからであり、身分の高い領主と同等に下の領民も
       洗礼の恩典に与かるのが容易な事だとその望みを抱かせたからであった。さらに又、有馬
       殿の奥方、子息、侍女ら、及び他の家臣らも洗礼を受けキリシタンとなったからである。)

      *この高来地方、口之津から有馬を中心とした地域でのガスパル・コエリョ師の滞在布教の
       務めは、息つく暇もない、休息もできないほど多忙な状況となったので、疲れで身体が衰
       弱するほど、体力と健康を保てないほどになっていた。
       豊後にいた布教長カブラル師は、この地区の状況報告を受けて、新任の司祭アントニオ・
       ロペス(この年、7月長崎港に来着、他の2人の司祭と共に)を、歴年の会士であるルイス・
       デ・アルメイダ修道士を伴わせて派遣するものとなる。

       そして、コエリョ師は、以前いた大村領に戻る事になるが、、、、、しかし、有馬では、
       そのような布教の良き進展状況を急変させるような事態が起こってきた。

 1577年 この年の初め、1月10日過ぎ、(1月15日=旧暦1576年12月27日<天正4年> )有馬領
       主ドン・アンデレ義貞が、以前患ったことがあった背中の癰[ヨウ・ハレモノ]の膿瘍[ノウヨウ]が再発、悪
       化し、良き療養も侭ならないで、数週間するうちに亡くなってしまう。
       (戦などで背中にうけたちょっとした刺し傷がもとで化膿し、内部にまでおよび、膿が溜
       まるようになった一種の化膿症であろう。)

       この頃コエリョ師は大村の地に戻っていたが、フランシスコ・カブラル師が口之津、有馬に在留
       して、その動向情勢に教会、イエズス会としての対処をなすものとなる。

      *家督を継いだ若い領主・鎮純[シゲズミ](晴信)は、まだ11、2才の少年であり、異教徒
       育ちで、キリシタン養育環境とはまったく無縁な幼少期を育まされていたので、主だった
       異教徒の家臣や仏僧らの言うところに耳を貸すばかりで、彼らのキリシタン廃絶、伴天連
       追放の領政方針が大ぴらに罷り通るものとなる。これにより数年の間、有馬およびその地
       域のキリシタン宗団は崩壊状態のままで、信徒の数は激減していった。

      ★鎮純[シゲズミ](晴信)の生年月日は、実際のところ正確には知られていない。信憑性の高
       い史料における確かな記述が見られないようで、ずっと後に記された作意的な家伝文書な
       どに基づき恣意想定されたものであろう。
       ネットの情報百科ウィキペディアも、この手の類の記述で、<永禄10年(1567年)>の生
       まれとしている。

       フロイスの著書「日本(布教)史」、信憑性が他のものより高いと評価されているが、そ
       の記述内容から推定すると、<永禄5年~、、1562年から65年内>であろうと見られる。
       だが、ネット・ウィキペディアでは、何故か捏造的で不確かな内容にしている。と言うの
       は、彼・鎮純の兄・義純の生年が、1550年となっており、実に同母でありながら、17年と
       いうトンデモない年齢差が見られる。さらに三人の弟がその次に生まれているからである。

       その5人の内、生き残ったものは鎮純(晴信)だけである。嫡子の義純は71年に亡くな
       リ、他に松浦支流の波多氏に養子に出した子で、波多鎮という三男も戦死、つぎの純実と
       純忠も、病没か、戦死かの早世であったとの歴史所見にて。それで、

       義貞の第一夫人(正室)の五人の子らの内、次男と見なされ、ただ一人の世継ぎとして、
       鎮純が残ったとの見識となるが、ここではフロイスの記述とかなり矛盾しているようだ。
       彼・鎮純も、生まれて後早くに養子に出されている。伊佐早(西郷家・純堯スミタカ)公側の
       圧勢的政略により、表向きは互いの絆保全のためと言う事だが、両公の間での養子交換に
       供されているものである。

       フロイスにとっても当初は未だ、そのように認知し得てはいなかったと見受けられる一文
       言が見られる。それには、その第一夫人との間の子らとして、

       “最初の夫人は、殿との間に五人の子供を生んだが、すでに数年前に世を去っていた”と

       認知して、1576年の年紀内容の時点ベースで記している。(第一部109章:有馬篇Ⅱ30章)
       この文言では、5人の内に<鎮純>を含めたものとしていないことになる。

       伊佐早家とのその交換養子縁も、有馬義貞側の嫡男・義純が1571年に急死したため、
       その絆縁交換を解消したと見られるが、その時期は74年で、その年、西郷純堯が城中で
       の邸増築中の折り、新たな縁側の未だ固定されていない所に踏み乗り誤って、ひどい転落
       事故を起こし、それが持病への致命打撃となって数日後に死に至る。その彼の死後にその
       養子交換の解消が成ったものと見られる。

       (この交換養子に係わる情報も、フロイスの文言と日本側の現代的歴史所見の記述との間
       に捏造的矛盾がある。フロイスの見識記述では、義貞の第一夫人の
       五人の子らは、皆すでに世を去っていると認知している。それ故、鎮純(晴信)は、第二
       夫人から生まれた長男であったかのように、明確な言示はないが、暗にそんな風に思わせ
       る仕方の文章内容を表出している。)

      *新領主となった鎮純[シゲズミ](晴信)は、有馬に所在した<教会の立ち退き、その地所の
       返還>を期日指定にて迫るものとなる。フロイスの記述では、どうやらその伝言文書の期
       限日付<一月四日>をそのまま記しているようだが、この日付は旧暦(和暦)のもので、
       西暦ユリウスでは、一月二十二日(火)に相当するようである。
       
       その教会施設に在住していたアントニオ・ロペス司祭、アルメイダ修道士らは、その期日の二日前に退
       去して口之津に戻っていった。布教長カブラル師も豊後に引き上げ、アルメイダ修道士も天草の本
       渡城、ドン・ミゲル天草鎮尚殿の地に留まることになる。

 1578年 有馬領主・義貞ドン・アンデレの逝去により、高来地域、有馬のキリシタン宗団が崩壊して、す
       でに2年目が過ぎようとしていた。
       ガスパル・コエリョ師にとって、有馬の教会復興、キリシタン宗門再興は、何よりの悲願で
       あり、いつも心に憂慮したる使命的な一件であった。

       家督を継いだ子息・鎮純[シゲズミ]が異教徒であったため、いまだ根付いていない見せかけ
       のようなキリシタン衆徒の教会はたちまち棄散の憂き身に曝される。前領主トップの義貞
       が洗礼を受けてキリシタンになったから、それに倣って少しばかり教えを聞いてその信徒
       になったという程度のもので、実際その大多数の者は、ようやく教えの教化に耳を傾ける
       よう心を気遣う姿勢となり、そんな人衆的社会趨勢の出発点に在るといった状況に等しい
       ものであった。
       
       この頃は時代の状況が、肥前国地方だけでなく、九州全域が緊迫した情勢となっており、
       先の見通しは定かにならず、いつどんな事態に直面、遭遇するものか、皆目予断を許さな
       い、難しい局面に日々立ち至っているようなものであったが、、、

       鎮純(晴信)にとって、今確かに予断を許さない動静となっているのは、その現実即下に
       直面した自国の危機的状況として、父・義貞の時よりも、より一層脅威、抗しがたい対敵
       と認める他なかった肥前・佐嘉(佐賀)の<龍造寺隆信>の進出、進攻問題であった。
       この目下直面せる問題の背後情勢には、豊後の大友氏、肥後の国衆ら(相良氏)、薩摩の
       島津氏などの動向がその判断材料としてあった。

       (この年は、豊後国が、薩摩勢により奪われた伊東氏の領地・日向の地奪回に向けて力強
       く軍勢を進めるにより、耳川以北の領地がほぼ回復に向っていた。これを好機と見た国主
       義鎮(宗麟)は、10月早々には日向北部の土持に居住し、拠点を築きまでとなった。
       この折りの彼の意気込みは、戦イクサ目的のための出陣というものではなくて、新たな国づく
       りに着手するいった主旨に重きをなしたもので、何かさい先の良い見通しが立てられるほ
       どに余裕のある現状を示していた。その時に至るまでは終始、、、つまり
       
       豊後勢が薩摩の精鋭と直に衝突するようになる以前までは、終始豊後勢の一方的な優位が
       伝えられていた。やがて薩摩島津軍が日向の地に向かい、直接対決となり、戦陣を交える
       時が始まるものとなった。その戦の最終決着が<耳川の戦い>であったが、、、、
       そういった戦の情勢、結果云々が、その戦の前と後とで、それぞれ自国、領国の情勢対応
       を大きく左右するものであった。)

       まさに鎮純にとって、自国を取り巻く情勢は、自国の運命と共に、”一寸先は闇”といっ
       た言葉で表される状況であった。即刻当面の事として、より身近に対処すべく、その打つ
       手といえば、隣接領主で、親縁関係にあった叔父・大友氏(純忠・ドン・バルトロメウ)との同盟
       関係をより強く結ぶ手立て以外になかった。だが76年の父・義貞の死後以来、鎮純は、
       反キリシタン、反伴天連の政策方針を進めてきており、かって父の代まで続いていた親密
       な誼も絶たれ、敵視されるが如き冷たい、大きな溝が出来たような関係であった。

       イエズス会との関係を絶って2年が経過する中、有馬勢は、佐賀の龍造寺勢との合戦をこ
       の78年(天正6年2月)3月に、いわば所領・藤津郡ゴオリの防衛、進出阻止のいくさを
       交えているが、その所領を守り切れず、龍造寺方の進攻を許してしまう状況となってしま
       った。

       そんな状勢が進む最中、有馬の領国は、領主・鎮純を取り持つ異教徒の後見・家臣団をし
       て、今やキリシタン系家老を含め、一致団結して、佐嘉(佐賀)の龍造寺氏への臣従と、
       さらなる孤立化という深刻な状況へ進展する現状を打破するためには、もはや、外勢なる
       イエズス会、ポルトガルの援助、軍資権益に期待を寄せる他ないような方向へと暗黙の歩
       み寄りをなすものとなった。

       これは、豊後の大友氏の政策路線に類を同じくするもので、前国主・義貞が支持、命じた
       キリシタン奨励策を早急に復旧する事が、何よりも万事に付け、うまく事が捗るものと見
       なされた。
       
       その具体的な表向きの手立てとして、今や15、6才になった新領主・鎮純の婚姻、正室
       を迎えるという家の大事に事掛けて、叔父の大村家領主・純忠公バルトロメウの娘(ドナ・ルシア)
       との縁談接渉の目論みを前面に押し立て、それへの仲介役としてその地に在留中の伴天連
       イエズス会の下の地区・上長、ガスパル・コエリョ師にこの一件を懇請願う事となる。

       この懇請申し出伝言に対して、上長・コエリョ師は、高来・有馬のキリシタン宗団回復が
       見込める条件状況と見なし、またとないこの機会をより一層確かなものとなし得ると判断
       して、この一件を了承、引き受けるものとなる。

       コエリョ師の交渉での先方、大村公バルトロメウの強い要望なども含め、この件には大村家親族
       内での意向了解が得られないまま、紆余曲折してしばし時間を要した過程を辿ったが、結
       局、結婚の決議は先送りとなり、イエズス会との関係の修復、コエリョ師の願う処が最低
       条件ながら先行するかたちで事が進み、有馬のキリシタン宗団の立ち直り、再度の布教の
       道が開けるものとなる。その復帰への当初、ガスパル・コエリョ師は、約二ヶ月余り高来
       地区・有馬に在住して、その立ち直りの教化活動を推進しその務めをなしている。

       この折りには国主・鎮純の弟が彼の代わりに洗礼に与かったが、6、7才といった年令で、
       これはもう幼児洗礼に類するものであろう。その教名(洗礼名)を<ドン・サンチョ>と
       しているが、以外にも近親で、隣接領主たる大村純忠の嫡子・嘉前ヨシアキ(69年生れ)も、
       同名のドン・サンチョである。
       (何だか謂れがあったのではと思えるが、、父・義貞と、大村純忠が互いの息子を養子交
       換に出していたが、解消して戻したものであろうか。)

       [注]:その頃の肥前の情勢については、東肥前・佐賀の有力国衆となっていた龍造寺家の
           動向を参考にして概知できようか。以下の如く、(1570年前後から1578年頃まで)

        【龍造寺家惣領・隆信の台頭】肥前統一への概略:

        永禄12年(1569年)豊後の大友宗麟は、佐賀龍造寺征圧のため自ら八万に近い兵軍を
        率いて出陣するが、毛利元就が豊前に侵攻したため、その目論みは阻まれ、隆信攻めは
        未完失態のものとなる。その後、豊前から毛利勢を追い払い、再び宗麟は、元亀元年
        (1570年)に弟の大友親貞を総大将として、6万とも号した大軍をもって、肥前佐賀
        に侵攻させる。
        しかし隆信は、その総攻撃本軍陣営を鍋島信生による暗夜の急襲策により撃退する。
        (今山の戦い)それにより大友氏と有利な和睦を結ぶことに成功。その後も大友氏と
        和し従属を装いながら、周辺豪族を征圧し、従属させていく。宗麟からの詰問使者が
        来てもその収奪した領土はすでに既得したものと見なされる状況で、着実に領土、所
        領を広げ、勢力を蓄えていった。

        元亀3年(1572年)、少弐政興を肥前から追放、また、天正元年(1573年)西肥前を
        平定し、天正2年(1574)に有明北岸地方、須古の平井氏を制圧し、天正3年(1575年)
        には北肥前を平定。天正4年(1576年)になっては南肥前への進出を準備し、天正5年
        (1577年)までには先ず、伊佐早・西郷純尚を海側からと、上陸戦で征する。天正6年
        (1578年)になって、有馬晴信、大村純忠を降伏させることで、肥前を勢力支配下に置
        くところの統制をほぼ成し遂げるにいたった。

 1579年 ガスパル・コエリョ師は、緊迫と不安が日ましに増す中、長崎、大村、口之津、有馬と、
       仕牧と布教活動だけでなく、世事世俗に係わる様々な諸事、事態に対応従事しなければな
       らなかった。

      *巡察師ヴァリニャーノが7月25日に口之津に来着して以後、8月以降からは、長崎、大
       村方面を主要な教区地にすることができ、コエリョ師にとってはその任責が軽減されたよ
       うであったが、有馬の地と同様に大村も迫りくる龍造寺勢の勢いにより、家臣らの動揺が
       高まるばかりであった。

       伊佐早(西郷)が龍造寺に降ってからは、大村での一人の家臣がその城を挙げて領主・純
       忠に叛旗を掲げる始末であった。この折りには、ヴァリニャーノ師や、有馬に城中してい
       たフランシスコ・ガブラル師が、未だ肥後の天草に退去する前の状勢であったので、ガスパル・
       コエリョ師による仲介のとりなしも効をなし、事無くして収拾された。

       また、この頃には、すでに口之津が砦を構築、さらに強化していたが、長崎もそれ以上に
       今や要塞化せずには敵の手にたやすく落ちてしまうと見て、コエリョ師は、大村のキリシ
       タン家臣らにその要請、説得に奔走、立ち回らねばならなかった。

 1580年 龍造寺隆信の大村領への進攻勢威に対しては、隆信側の自国を取り巻く概況の思惑意向に
       より、大村純忠への臣従降伏での和睦を迫るものとなり、純忠公バルトロメウもこれを受け入れ
       ることで、総力決起戦に至る事も無く、一応の終息を見るに至った。

      *この年コエリョ師は、イエズス会側の代表として龍造寺隆信との交流の時を持つ機会が訪
       れるものとなる。その経緯は以下にて、、、、、
       
       佐賀の隆信は降伏和睦より、純忠に己が在城地、佐賀への臣従表敬をしきりに命じて来る
       ものとなり、コエリョ師も他の司祭らと共に、大村公がそれに応じることは、自ら龍造寺
       の策中、手のうちに捕らわれ、なき者にされるとの予感を抱き、なんら先の見えない非常
       な憂慮と不安を覚えるものであった。5月、6月に至る頃になって、、、

       だが、純忠は、その佐賀表敬訪問を決行した。これにより龍造寺の威信を満たし、彼への
       信頼を示せば、彼の宥めと満足になろうとの判断、決意の上でのことであったが、純忠が
       多くの意見を徴聞し、外的状勢関係をも考慮してのそれであり、入念に拝謁接見の自らの
       立場、意中を準備してのものであった。龍造寺隆信おそらく、純忠に感服し、味方に付け
       ることが善策だとの強い読みを抱き、この時世での諸策としては、ひとまず彼をねんごろ
       に帰還せしめるものとなった。
       (隆信は純忠に起請文=誓紙を取らせること無く、キリシタンなら、おぬしの心を我への
       誓紙となせ、と命じるような面持ちであったろうか。)

       その後、イエズス会側、コエリョ師も、純忠の首尾よい訪問により、龍造寺隆信との交流
       の切っ掛け糸口ができ、できる限り友好関係を築くようにつとめ、会士らを度々遣わすも
       のとなったが、コエリョ師自身も、隆信からの求めに応じて佐賀への訪問をなすに至る。

      *この年の12月になって、肥前の下地区での司祭者ら全員の召集による会議が長崎で持た
       れるものなる。これはその頃、コエリョ師が、豊後に滞在していた巡察師ヴァリニャーノ
       の意向指示を受けて、その旨開催されたものであった。
       これには先の10月に豊後地区在住のイエズス会士全員召集の全体協議会で決められた事
       項や、新方針の内容等の報告確認と対処検討事項の協議が盛られたものであった。

       (ヴァリニャーノ師は、豊後・臼杵での新修練院が発足するまで、その多様な準備に余念
       がなかった。イエズス会の会憲、会則、そして修練院で用いる教書の日本語訳を作成する
       こと等、その発足開始は、降誕祭の後となったが、それ以後、翌年にかけ2ヶ月余り、彼
       が都、畿内への旅に立つまでの間、その修練院の気風、内実が整い充実、板に付くように
       直接自らも指導尽力し、教鞭、教導の任に当たるものとなる。)

 1582年 コエリョ師は、巡察師ヴァリニャーノが2月8日、長崎港からマカオに向け帰還するや、
       早々に長崎、大村地区から島原半島の高来地区に居住、拠点を移すことになる。

      *その高来地区は、ヴァリニャーノ師により有馬地域を第一区とし、有家、口之津と、三つ
       の管轄区に分けられて、キリシタン宗団への教会仕牧、布教活動がなされるようになった
       が、半島の他の地域、深江、安徳から島原といった北部の諸侯領域は、龍造寺配下での異
       教徒の地であり、伊佐早の領主と同様にキリシタン布教を認めるものではなかった。
       かってルイス・デ・アルメイダ師の開拓による島原のキリシタンらは、有家、有馬の教会を訪れて、
       祝祭の喜福に与かるほかなかった。だが、その島原から有家などに出かけるのも憚る厳し
       い異教下の情勢となってきていた。

       この管轄区には、フロイスの他、日本人修道士ダミヤンも、長崎、大村に赴在活動する傍
       ら、なお健在にコエリョ師の良き助け手となって奉仕していた。ところがこの年、思いが
       けなくもミゲル・ヴァス司祭(修道士の時、島原の地で共に活動)が召され、逝去する。

      *コエリョ師は、この年の聖週間中に国主・鎮純の一姉妹に洗礼を授ける(ドナ・カタリナ)など、
       国主の身内親族だけでなく、すべての家臣らがキリシタンになってゆくという有馬領の状
       況となってきていた。

       この頃、有馬領に限らず、何処の領地の少年、少女たちも、大人達の戦イクサに明け暮れる現
       実状況にとことん嫌気をさし、忌み嫌い、親に従うことさえ心を暗くして過ごすといった
       状態で、、、平和で、何か心に希望の持てるようなものに強い憧れを抱き、その望みにあ
       えぐような風でもあった。これは彼らなりに何かある種の平和的な意識に目覚めたという
       感じのものであった。特に有馬にある学び舎、セミナリオは、何か特別に輝いたものとし
       て映り、彼らにとって羨ましいほどに、その羨望の的ともなり、そこでの学び、文化的な
       修得に、自分達の望みを繋げ倣うようなものとして、教会、司祭館などでの学びや、ミサ
       礼拝参加に熱心に努めることで、彼らなりの一番の心の拠り所、充足、安喜をえるといっ
       た傾向を示すに至っていた。
        
      *かの巡察師ヴァリニャーノが都から豊後経由で長崎に帰還する折り、ルイス・フロイスも
       随行帰還しており、その後、高来地区、口之津などに在留している。
       また、2年近く前より天草の地には、ルイス・デ・アルメイダが在住しており、領主・ドン・
       ミゲル(天草鎮尚)の晩年時、その死期終生まで付き添い供している。

       (天草ドン・ミゲルは6月中に逝去か、、その日にちは定かでないが、死期の訪れの前、
       “サンチャゴの祝日、5月1日に新調の甲冑を教会に贈呈”とフロイスは記しており、彼
       の葬儀は、副管区長コエリョ師が、幾人かの司祭、修道士、神学生ら多数を伴って現地に
       赴いて、壮麗、盛大になされたと、記している。また
       夫人のドナ・ガラシャは、亡き夫のための法事を<雪の聖母の祝日>という8月5日の教
       会暦の特定日を、丁度良い日どりと見定めて、その日に執り行なっている。おそらく日本
       仏式の49日目法要に対して、カトリックキリシタン式として、五旬節か、主の昇天祝日
       かになぞらえた日取りで、8月5日祝日の日を選んだと思われる。)

      *有馬の領主・鎮純ドン・プロタジオは、巡察師ヴァリニャーノが豊後へ旅立つ頃や、都からの
       有馬、長崎へと帰還した折に、薩摩国主・島津義久側が、盛んにその交流の意向を表明し
       てきており、ヴァリニャーノ師もそれに応えて、薩摩の国、港に立ち寄るなどしている状
       況に鑑みて、薩摩・島津氏との連携・誼の方策をより一層積極的に推し進めるものとなる。
       その鎮純の意向方針は、この年の11月には、島津氏側からの援軍支援を確固として得る
       ものとなる。島津氏も、対龍造寺への新たな打開策として、有馬の領土奪回復興という、
       大義名目をもって、相当力強い本格的な支援に乗り出す形勢へと向う。有馬鎮純は、その
       有力支援により対龍造寺への共同戦線を張ることができたが、島津側の狙いの思惑は、つ
       い先頃の肥後の国での龍造寺勢との事態状況の先例のごとく、肥前の国の半分を、最低で
       もこの際、先取り支配下に領することを目論むものであった。

 1583年 高来・有馬への島津勢の支援介入が表ざたになるにつけ、大村の地、及び所領域は、龍造
       寺隆信の対処策により、いよいよその深刻さを増すものとなる。
       副管区長コエリョ師もその第一任者としての立場を考慮して、大村、長崎の地から、高来
       の口之津、加津佐の地へと、しばし自身の職務本拠をいつでも移せるようにしていた。

      *佐賀の龍造寺隆信も、島津氏の有馬への支援介入の動きに対して、その有馬領を囲う周辺
       態勢への備えをより確かなものとしなければならなかった。
       そのためこの年の初めに何よりも先ず大村への対処策が計られ、純忠の嫡子・嘉前が人質
       として抑留されるものとなった。

       この嘉前人質のいきさつは、島津&有馬勢が千々石城攻め、奪回への動きを見せたからで
       あった。この動きに対処すべく龍造寺は出陣の命を味方の近隣諸侯に下すものとなるが、
       この折りに嘉前ドン・サンチョも、しかじかに出陣出頭するも、その勢数少なくて様にならず、
       家臣らをすべて帰して、彼を人質に取る利を断行してしまう。

       この時の島津・有馬勢の千々石城攻めは、その最後の詰めとして一両日中にも奪回可能な
       形勢であったが、先に龍造寺が出陣をうながしていた配下の諸侯ら、伊佐早勢もその主力
       に含まれていたが、その加勢の来るの気配により、その勝ちイクサ途中ながら、無益な消
       耗を避け勢力を温存して次なる布石のため、すばやい退去を余儀なくするものとなった。

       だが有馬方のこの良好に見えた形勢により、有馬領以北の安徳の城が前々から有馬方に復
       帰するよう、説得され、圧力をかけられていた折り、この機に乗じて有馬方に再帰順する
       ものとなる。薩摩島津勢は、戦いを交える事無く安徳の城に入り、前線へのきょてんを確
       保するものとなった。(6月10日、日本側史料の和暦:5月10日<天正11年>)
 
      *その後、年半ば以降、コエリョ師にとって、最も深刻に憂慮すべき事が大村の地の生じた
       それは、大村国主・純忠バルトロメウが大村城を離れ、肥前中北部の波佐見という不便辺境な地
       に蟄居幽閉されたからである。この事は、先に純忠の嫡子嘉前サンチョが人質の取られていた
       が、さらに龍造寺は残りの二人の子らを人質の取り、その後、嫡子嘉前をその代りとして
       帰還させるという約束の下になされた状況下でなされたことであった。
       国主・純忠は、これによりその領国の地位と権勢をまったく失うに等しい事態となった。
       大村の所領は、名目的に嫡子・嘉前が継ぐべく、大村城に返されるものとなったが、それ
       もいつ廃絶、追放されるか知れないといった状況のものであった。

 1584年 副管区長コエリョ師は、有馬にて教皇グレゴリオ十三世から送られてきた高価な聖貴物入
       れ、金と七宝で彩られた最良のものを与えて、目前にさし迫った戦の時への彼の勇気ある
       備えとした。
       ローマの教皇グレゴリオは、日本の状況を鑑みて、その重立ったキリシタン君侯らに配賜
       すべく、その貴品な聖物をイエズス会に託して送ってきたものであった。

       コエリョ師はこの折り、聖週間の前の週(ラザロの週)に長崎から高来・口之津に移り、
       すぐに有馬の地へ、若き国主・鎮純プロタジオを訪れた。そして、次の日曜日(枝の主日)、
       そのミサ礼拝の諸典礼式目に加えるかたちで、鎮純プロタジオへの誉れある授与式をセミナリ
       オ(神学校)の校長ベルショール・デ・モーラ師を介して執り行ないせしめた。鎮純は、
       教皇グレゴリオ十三世からの貴重な贈り物、金と七宝で造飾された聖物入れを拝受して、
       主なるデウスからのご加護のしるしとなるように計らうものとなった。

      *この年の<聖週間の礼拝典礼>はいつものように盛大、荘厳になされるものとはならず、
       司祭、会士、生徒ら、また残った婦女子、老人らにより、戦での主なるデウスのご加護、
       武運を祈る、とりなしの熱き祈祷、祈願の礼典がなされるものであった。

      *薩摩からは肥後の八代の地から、続々と有家の港、その地に軍勢が集結してきた。その頃
       薩摩の国は、政庁のある鹿児島には多少の船舶があったようだが、本格的な水軍などを要
       してはおらず、(もっぱら陸戦部隊が主であった)八代の海から島原へは、有馬側の船舶
       を廻し利用しての渡海であった。有馬側とて船数が限られていたので、大小合せて、2、
       30隻あるかないかであり、将兵等の人員、馬などの他に、戦時に必要な様々な用具、武
       具、必要軍事部材をも運送しなければならなかった。中規模の100、150人乗りとし
       ても、海の時化シケる日時を避けねばならないし、何度も折り返して、用意周到に安全輸送
       しなければならなかった。(薩摩島津家臣団は、ずっと後の文禄の役、朝鮮出兵の折り、
       外海、玄界灘⇒朝鮮海峡を渡る大型船を所有していなかったので、それを自前で用意する
       のが大変であった。新しく造ったり、琉球貿易船を改造したり、とにかく費用と時間がし
       こたま掛かる難儀であった。家臣団のうちから梅北氏が叛旗したのも、そういった事情が
       直接起因の引き金となったとも云えそうだ。)

       その第一陣として、薩摩の国主・義久の<第二の弟で、都・朝廷の官職名では中務>と称
       せられる最主要の要人が、八百人ほどの将兵を伴って渡り、有家の地に上がったと、、、
       ルイス・フロイスは記している。(都・朝廷から宣下を受けたものかどうか定かでない)

       ルイスはその頃、切迫した不安と焦燥感がよぎる最中、高来の地にあり、口之津、有馬を
       行き来できる在留状況に身を置いていたので、龍造寺勢と有馬・薩摩連合勢とのイクサ模
       様、戦況の一部始終を、彼なりに詳細に記述しうる立場にあった。
       (その著の1584年=天正12年=の紀では、第二部の第48章から53章にかけてその
       前後の状況を加味し、連綿としたものとして伝え記述している。=文庫版:大村・有馬篇
       Ⅱの第49章~54章に該当参照)

      *同時代在世のフロイスがリアルに記録したその戦の模様、状況事情の文言が、歴史の最有
       力の第一次史料と見なされうるわけだが、日本側から比較検証できる一次史料となるもの
       が有れば、歴史の再認識も可能となるが、、。当時の島津家、鍋島家、或いは有馬家など
       どのようにその家伝書は記され、在るものと成っているであろうか。

       軍記物で、江戸期・正徳年間(1711~1716年)に成る『北肥戦史』という通年史タイプの
       著書(佐賀藩士・馬渡俊継著)があり、これには<沖田畷ナワテの戦>として、その戦いぶり
       の状況傾向が記されている。こういった軍記物が根幹資料となって現代の歴史小説作家の
       『肥陽軍記』(原田種真著、1994年6月出版)でも、それへの物語言及がなされていると
       見られる。また、現在のネット・ウィキペディアの<沖田畷の戦>での記述は、2001年の
       刊行版:河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』の内容に依存、負うところ大である。
       このあたりの著書などが広く一般的に共通した歴史見識の源泉となっていると見られる。

       このような日本側の共通見識に関わるものとして、或いはそれに対して、フロイスの記事
       における史実性をいかに読み解く事が肝要であろうか、という観点の問題意識が浮上して
       くるものとなる。
       これについては、別ページの以下にて、取り上げるものとする。
       《フロイス記述からの新検証》 参考にて。

 1584年 副管区長ガスパル・コエリョ師は、龍造寺との戦の終焉直後、大村領・純忠公の三百名に及
       ぶキリシタン家臣らが、敵方として島原城(浜の城=旧島原城)に篭城して、その戦の最
       中、打ち出て、有馬・島津勢の背後を突く動きをしなかった(静観していた)けれども、
       敵方に与した業ごとは赦されるものではない見て、有馬鎮純プロタジオにご赦免のとり成しを
       強く求望することで、その寛容なる処置、処分が成されるものとなった。

 1585年 コエリョ師、中日本・畿内への旅に出向かんと、用意万端すべて準備を済ましたばかりの
       折りに、薩摩の国主方からの使者により、年内の旅立ちを断念すべしとの脅迫めいた伝言
       を受けるものとなる。その過酷な処遇への予告ゆえに、都来訪への出発を年明けて86年
       に持ち越さざるを得なくなった。
     
      *薩摩の国は、戦後半年も過ぎるや、かっての龍造寺の代わりのごとく、有馬の領国に対し
       て支配、干渉の手をむき出しにしてくるものとなった。戦後の直後は、元有馬領の全地、
       前諸城を有馬氏に返上、復帰せしめて、その名誉、善政の聞こえを博していたが、いまや
       肥前国を支配する宗主であるかのごとくとなり、有馬領の三会、島原の城とその所領を接
       収し、島原にはその城代兼、代官を遣し置くものとなった。

       (島津薩摩の国では寺社領収益をも国是としていたから、かって温泉ウンゼン(雲仙)の社、
       仏閣の再建、経営を目論み、その欲得願望のために三会、島原の所領を普請の具としない
       わけにはゆかなかった。元々有馬領回復には、薩摩島津の強い支援が得られての事であっ
       たから、有馬方はその割譲的処置をやも得ないものとして容認するほかなかった。
       だが、有馬キリシタン国にとって、再び偶像の儀礼、神社、仏閣が復活する事は、屈辱を
       強いられるも甚だしい事で、キリシタン信仰、デウスの意向にいとも反する事であった。)

 1586年 副管区長コエリョ師、その聖務義務を果すべく、都、畿内地方への歴訪の旅に出向く。
       
       前年には薩摩・島津からの圧力阻止により、中止を余儀なくされたが、この年の春を見込
       んで実行すべく、急ぎその春先の3月6日、長崎を無事出立するものとなった。フロイス
       やダミアン修道士も、その旅に加わっていた模様で、数人の司祭と修道士らを伴った一行
       の歴訪、旅の経路は以下のごとくであった。(フロイスが記した海里距離はおよそながら
       も、その当時の航路距離として間違ってはいない。)

       長崎港を出帆
       ------  
       ⇒海岸沿いを西方に北上、大村領の諸城のキリシタらを訪問しつつ、平戸へと向う。

       ⇒平戸へ到着、この地は昔からトラブル危害が耐えないところだったが、滞在の8日間
        を無事に終え、つぎに予定している港に向けて出航、

       ⇒下関へ、玄界灘に面した沿岸沿いを航行するとは言え、春先の北風はまだおさまる時節 
        でなかったから、その向かい風に危険、難儀をしての到着となった。この地で、今年の
        <聖週間>を守るものとなる。聖週間後、同地を出で、瀬戸内ルートへ、、、
 
       ⇒別の港、上関カミノセキへ(この港は、下関から35里程隔たった所と記す)この上関から次
        の港、塩飽シワクへ直行で行くのは、かなり無理な航行、通常的な航行でないとすれば、
        他の港に立ち寄っているとも考えられる。例えば、中間地点に位置する、尾道に近い、
        昔から栄えた<鞆の津>などに、

        (だがフロイスは何も記していない。彼にとって、九州→堺への瀬戸内ルートの船旅は、
        64年12月と81年3月の時以来、三度目となる。この頃には船の造形構造や装備艤
        装がかなり進歩し、潮流の読みと操舵技術も良くなり、航行速度もそれなりにアップし
        ていたであろうから、天候さえ良好ならば<上げ潮から引き潮>へと船を巧みに乗せか
        え、一気に上関カミノセキから塩飽シワクまで直に航行したものと考えられなくもない。

        ちなみに船の船主は、長崎のキリシタン貿易商人コスメ・興膳コウゼン[*]のもので、その
        息子のうちの一人が船長として一行を乗せ、船の航行指揮をとっていたとの推察も可能
        かも知れない。(船はシナ製のジャンクを改装整備した帆船だったかも、、)

        副管区長ら一行が大阪城の秀吉を謁見訪問したおり、その名を明記していないが<船主
        のキリシタンも>一行に混じって同行し、秀吉、高山右近、小西行長の父・立佐らとの交流
        状況記事をフロイスが記しているからである。=第二部75章<文庫版:秀吉篇Ⅰ・9章P101)

         [*]コスメ・コウゼンという人は、元は博多で商いをしていた人物だが、フランシスコ・ザビエルが
          初めて平戸に訪問在住した頃(1550年)までには、その平戸の在家(木村氏)から養
          子に出され、博多を支配下に治めていた周防国・大内義隆の家臣団系中堅どころで、
          博多在住の武家(末次氏)に婿入りしたお人であったと見られる。

          その頃の時代情勢は、その当時以前から博多を含め、北九州も同様に戦国の世たけな
          わで、領有地の獲得、拡大のため戦ばかりを繰り返す乱世、北九州の地は、その領有
          権をめぐって、旧前からの筑前少弐氏と周防・長門国領主大内氏、その後には豊後の
          大友氏らとの抗争を歴々と繰り返す継争の場となっていった。

          1551年(天文20年8月末)に大内義隆への謀叛の乱で、彼が自害して死ぬと、再びその
          領有をめぐって不安定な係争の場と化し、1560年前後以降は豊後国・大友氏が支配する
          ところとなった。その平静化に至る間、本州中国では57年に大内氏が毛利氏により滅
          亡すると、毛利氏は、北九州への進出の好機なりと見てその調略を試みる。一時期、
          59年まで豊後の大友氏との対決、抗争の場となる。
          中国地方での毛利氏(元就)の台頭は、1555年前後以降から著しくなり、60年代後半
          以降、68年には再び大友氏との覇権を賭けて戦の修羅場と化する状況を繰り返す、、

          そんな戦々歴々の経緯を辿る時代情勢の中、末次氏は、1551年、本国・山口での
          謀叛の乱で、主君・大内義隆を失い、身の置き所なく、もはやこれまでと武家の身分
          を棄てて生き延びんとし、たまたま大内家の勘合貿易に付す役目に係わり、博多での
          交易関係に明るかったらしく、一転心機、商家の道に望みを賭けるものとなる。

          (大内義隆時代が大内氏の最も隆盛した時だと見なされているが、1523年のシナ
          の寧波港での不祥事以来、明との勘合貿易は途絶し、36年での明の再開許認後でも、    
          40年と、最後の47年の時とで、たった2回しか勘合符船を遣わしていない。この二度
          の遣船も、都・幕府方への手前、ただ表向きの見せ掛けを兼ねたものであった。その
          時期は、実際には密貿易ルートでの商い係る収益が大半であったと見られる。これに
          は、手広く密貿を経営、取り仕切る頭目シナ人・王直らの暗躍した時代、1540年
          代から57年代までの時期が、その時代的重なりを見せている。)

          末次家とその養子入りの<興膳>と名乗った人物は、直接間接、王直らとの交渉を持
          っていたと推定されうる。また以前、貿易商人であった、ルイス・デ・アルメイダとの
          接点も想定されうる。
          アルメイダが1552年、突然、周防山口を訪れ、イエズス会に入会転向をした事、
          及びその背景交易事情なども良く知っており、彼に影響され、今後を踏まえ、ポルト
          ガルとの交易関係を重視すればとの思いで、55年前後にはいち早くキリシタンの洗
          礼を受けたようだ。ポルトガルとの交易に信用を得るために、、、

          また、コスメ・コウゼン(=末次興膳)がシナ人の息子を養子に引き取っているが、
          これには、王族の王子だとの聞こえを良くした歴史的伝えが付随している。実際は、
          かの密貿易の頭目・王直からの頼みに依り、彼の息子を引き取ったものであったかも
          知れない。(実際、王直はそれなりに自覚して、自分は、かの元に滅ぼされた南宋・
          王族系遺民の末裔であるとしていたかも知れない。
          浙江省西側境界方、現黄山市辺りから、陶磁器で昔から有名な景徳鎮に至る地域の山
          岳地帯に隠れ潜んで、代々その命脈を保ってきた家系であったからとの推察も、、、

           ●末次家養父=カトク・ジョアン、その養子=コスメ・コウゼン
             (両者の教名は、コスメ・デ・トーレス司祭とジョアン・フェルナンデス修道士が北九州
              や山口で布教活動をしたその初期の頃を示していると見られる。)

           ●コウゼンの養子=シナ人王直の息子(=ジャコベ・コウゼン)であり、この人は
                    秋月の地に深く関わり、興膳善入の名で知られている。この
                    ジャコベ・善入は後にその<西暦1600年>の時を嘉し、
                    この年が、養父コスメ・興膳の85歳になるのを記念して、
                    居住地の筑前・秋月に長生寺を建立している。

           ●コスメ・興膳の実子=養子の兄(ジャコベ)の弟になるが、和名<末次平蔵>で
                      ある。彼も当初、キリシタンとして、ジョアンの名を有
                      したが、徳川幕府時代の禁教令以後に棄教、さらに長崎
                      代官の地位を得るために先任を追い落とすべく、キリシ
                      タンの迫害者に自らを貶めるものとなった。

           (*カトク・ジョアンは、第一部20章<1559年>と56章<1565年>
             のフロイス記事に出てくる。)
      
       ⇒塩飽シワクへ、(上関からおよそ40里と記す。現在の香川県丸亀市の本島泊港に相当。)
        この塩飽の津で、堺から遣わされた迎えの船に乗り換えてつぎの港へ、、乗り換えたか
        どうかは定かでないが、船主が長崎のキリシタン貿易廻船商が用意した船を遣って来た
        わけであるから、その辺はまーご隋のままであったろう。

       ⇒室津へ、(塩飽の津からおよそ20里と記す。姫路と赤穂の間、赤穂よりの相生の海辺)
        ここでは天候が悪く船を出せなく、3、4日、或いは一週間ほどの滞在を余儀無くされ
        たらしい。その後、つぎの港へ、
 
       ⇒明石の津へ、(室津から18里と記す。この明石は、都に近い高槻を所領としていた、
        かのキリシタン大名・高山右近一族、家臣らがすでに関白・秀吉の命で移り住み、その
        所領となっていた。右近ジュストらは、大阪城内での普請工事に従事していたので、右近の
        父・ダリオや婦人、老人など留守居のものらが一行らを出迎えた。だが、旅の大幅な遅れ
        のため、風と潮の好機を逸するわけに行かず、2時間足らずの立ち寄りとなった。この
        明石へは、畿内の教区長であるオルガンティーノ師が幾人かのキリシタンらともなって
        すでに出迎えに来ていたので、そこから副管区長一行らは、彼らを同伴して、、、
        つぎの港へ、

       ⇒兵庫港へ、(今の神戸の港辺、明石から近いから、明石寄港からその日の内に到着。)
        つぎの港は、この船旅の終着港、堺となるが、、、

       ⇒堺港へ、(兵庫の津からは、半日あれば十分のところだから、その翌日、昼過ぎには
        堺の港に到着した模様である。)
       
        *フロイスは今回の船旅が50日も要したと、通常は、天候が順調であれば、十五日か
         ら二十日前後で済むところとの内容を記している。<50日も掛かった>に関しては、
         彼のカン違いで、40日ほどの間違いであろうと思われる。

         (3月6日長崎出立、40日かけ4月15日頃、堺に着く、そこに20日ほど滞在。
         この場合、下関でその年の<聖週間3/30~4/5日>を守っており、長崎から平戸の8日
         を含め、10~12日ほどが経過、したがって、平戸を出てから下関まで、海峡日本
         海での荒波、強い向かい風、シケること等で、沿岸、島影によせたり、小さな津に寄
         ったりして、かなり日程をロスしたと見られる。
         下関から瀬戸内の航行は、申し分なく順調とはいかなかったが、(室津での天候不良)   
         下関→上関→塩飽シワク→室津→明石→兵庫→堺までは9日、乃至10日以内だったと
         見られる。)

 1586年 コエリョ師の堺滞在、4月中下旬から5月にかけて、およそ二十日間ほど滞在し、自分宛
       の用務、用件の処理に勤しむ。その後、(天正14年3月16日)=
       5月4日(日)<聖女モニカの祝日でもあり、主日>大阪(城)へ赴くものとなる。
       時の関白・秀吉への訪問謁見も、その最主要な目的の一つであった。
       (その最大の懸念理由は、畿内のキリシタン情勢事情が前年の10月中旬以降、急変して
       きたことであり、その背景には、大阪と都の中間辺りに位置する高槻のキリシタン領主・
       高山右近が、秀吉の国替え所領替え政策にて、播磨・明石に配置換えされたことにより、
       高槻領のキリシタン宗団が打撃を受けたばかりでなく、京都や大阪、および近辺のキリシ
       タンの相互協力関係網が寸断、疎遠傾向になっていたからである。)

      *一行総勢30数名、拝謁、諸侯衆義事の大広間での謁見、そこから別の部屋、および本丸、
       天守閣、宝殿等の観覧、歓談、談話を交えた歓待で、2、3時間のその日の時を過ごした
       との事。
       (フロイスは、時同じくして、副管区長が大阪へ出向いた矢先、入れ違いに豊後の国主・
       大友宗麟フランシスコが堺の市に到着したと記し、その直後には副管区長がすぐに引き返すが、
       堺に戻り、大友宗麟と初対面での邂逅をなしている。)

      *この大阪での滞在では、この謁見訪問を含めコエリョ師は、三度大阪城に足を運んでいる。
       二度目は、本望懇請の思いを厚くしていた、布教活動に関わる、<許認可、特例状>が、
       下された事への謝意、御礼のための登城となった。(畿内地区上長オルガンティーノ同伴)
       三度目は、関白・秀吉趣向の黄金の茶室(これは専用の室中にセッティングする細工式の
       もの)と茶の湯の道具を観覧させるゆえの招城に応じてのものであった。これは、また、
       その日、あるいは翌日にでも、豊後の大友宗麟の来城時に、茶の湯を楽しむ為のこしらえ
       でもあった。(日本側史料では、宗麟の大阪城への秀吉謁見の初登城が、天正14年4月5日
       =西暦グレゴ:5月23日(金)だが、この時ではなく、後日での秀吉の招きにより。)
       
       大阪での滞在期間は、例の<特許状>の日付けが<天正十四年五月四日>となっており、
       それをその日、或いは翌日には拝領している。それから急ぎ一週間以内には、都(京)へ
       向っている。日付けの5月4日は、西暦グレゴで6月20日(金)にあたり、その大阪での
       期間は1ヶ月と20日余り、都では24日ほどの滞在、大阪経由(2、3日の滞在)で、

       7月23日(水)(天正14年6月7日)、堺から無事、帰路へと船旅に着く。

    [注]:フロイスは、この副管区長コエリョの大阪滞在等の記事での叙述にあたり、その年が15
       86年で、まさに日本の中心の近畿地方に関わっている事柄であったので、その年の近畿
       地方に係わる関連、関心度として、かの<天正の大地震>の発生状況をも、この副管区長
       歴訪記事のただ中に挿入させている。しかし、彼の年次、月日設定には、ご認知が生じて
       いるようで、必ずしもその月日が正しい表記とはなっていない。さらに、

       誤解を招く故に注意を要するのは、コエリョ師一行が、この年の7月下旬に堺から下へ、
       四国に立ち寄り九州へと向うその途上過程で、その後に続く月々(86年の)の11月
       に、<かの近畿大地震>が起こったかのように、その記事を誤読みしてしまう点である。

       ・フロイスの月日指定・・”それは、(xxx)十一月一日のことで、(xxx)一月の
                   何日かに当るが、~~、、、”との文面で、、、
             
                 *xxxかっこは、文面上、<日本の暦では>と、<我らの暦で=
                  西暦>とを補うかたちで、補充読みすることになる。だがしかし、
                  彼の<11月1日>指定の日付けそのものが、ミステイクのもの
                  となっているが、、これは一体、どうゆう事か???、、、
                  (彼の誤認の原因は、前年の1585年で、日本の和暦には、8月に
                  関して、閏月の<閏8月>表記になっている関係上、その閏月の
                  29日分を誤まって差し引き処理したのではないかと思われる。
                  閏月29日分をそのままにすれば、11月29日となる。)

                 *フロイスが、この<大地震>トピックス記事を差し挟むその最初
                  の冒頭で、”本年、86年にxx~恐るべき地震が起こった。”
                  との文面を記し、またその結びの最終パラグラフの文末でも、す
                  でに数ヶ月以上時が経過した出来事であった事を物語る内容であ
                  るからして、彼の年暦認知は正当である。したがって、
                  その<一月の何日かに当たる>の文に相当した日にちは、西暦グ
                  レコで、1586年の1月18日に該当するわけである。   
                 
       ・日本側史料の
         和暦(旧暦)指定・・天正13年11月29日(1586年1月18日)で、この和暦の年月日が
                   大地震当日に関わる正しい日付けである。

                 *幾つもある日本側の古文書史料(日記類等)のすべてが、同一の
                  日付けを表記していると見て良い。

       したがって、フロイスの挿入した大地震記事は、副管区長コエリョ師が、近畿地方への歴
       訪に赴く(1586年3月6日)以前、1ヶ月半ぐらい前に起ったそれへの言及だ、との再認、
       再評価をしなければならない。<彼の歴訪の出立日>は、和暦元号では、すでに天正13年
       から14年へと、年が切り変っており、その14年の<1月16日>が出立日に該当している。

 1586年 堺の港を7月23日に出帆し、九州、豊後へ、途中、2、3の所へ、イエズス会士らを派
       遣したり、所用の使いを遣わしたり、直接寄港、碇泊して訪問したりして、いろいろな諸
       事情、所要事を取り計らいつつ下航の旅路をなしている。その内容、以下の如く、、、

       ・堺から45里ほど船を進め、小豆島の真正面に至った時、兼ねて小西行長・アゴスチイノから
        の要請で、同船していた大阪の上長司祭・グレゴリオ・デ・セスペデスと日本人修道士、そし
        て、その島を治めるために行長の一キリシタン家臣を下船、派遣する。

       ・明石海峡を経て室に寄り、旅を続けてある海賊の島に立ち寄る。この島は能島と云い、
        その海域を取り仕切る能島殿(村上武吉)という頭目の根城となっていたが、そこに日
        本人修道士を遣わしした。船の通行が自由に出来て危害、支障が起こらないように、そ
        の通行保証を取り付ける何らかの証文、標などを得るためであった。
        (能島への名代の修道士を遣わすにあたり、潮の流れの度合い、また、その時間などの
        読みを見ないと危険であったから、島に近づく航行過程で先に小舟を下ろし、小舟をで
        きる限り安全に島に寄せ向わせるようにせねばならなかった。本船の方も、潮の流れに
        対して、出来る限り影響されないところに一時碇泊して留まっていたと思われる。)

       ・能島での諸事対策の後、島を離れ伊予の国に向かい、その一港湾に碇泊、その地を訪れ
        る。3、4日ほどの滞在であったが、伊予国の中心地をすでに85年9月頃(天正13年
        8月)に所領としていた<小早川隆景>から布教活動への好意ある公認に必要な二通の
        書状を得るためであり、その所望が首尾よく叶うものとなった。
        一つは、以前より長い間、念願していた周防国・山口での布教、司祭在住、教会設立の
        地所供与の認可に係わる、国主・毛利輝元宛にての小早川氏からの書状。
        今一つは、当所伊予国での同様の許認可を表した書状であった。

      *小早川隆景、この人は歴史の名を残せる有名人だが、生涯の後年に至り、黒田官兵衛とも
       知遇の間柄で在ったらしい。かって82年(天正10年)秀吉の<高松城攻め>以来、互
       いに戦敵同士では在ったが、その交渉中、互いの何がしかを知り合う仲となった。
       彼は、国主・毛利輝元の叔父で、兄の吉川元春と共に毛利氏の領国を支え、輝元を教導し
       つつ、生涯終生に亘ってその徳望ある重臣の任を律義なまでに務め果たしている。
       知将の聞こえも高く、また毛利水軍の総司の権をも執り、瀬戸内海の船海武衆・村上諸族
       (三島水軍諸族=因島、能島、来島の全族或いはいずれか)にも息の掛かった実力者であっ
       た。
       86年のその当時、すでに本州側安芸国の瀬戸海に面した三原の河口(沼田川)の袂に築
       いた水軍、陸地兼用の城塞を本拠地としていたが、85年の秋より関白・秀吉より四国の
       伊予国を治める所領地を授かっていたので、その国の領有化政策の務にも余念なき日々と
       なった。
       副管区長、フロイスら一行が伊予国に立ち寄ったおり、小早川隆景は、その地に在留中で
       あったわけだが、
       (秀吉の九州平定の命による隆景の九州出陣は、天正暦で、この年の8月20日~末頃=西暦
       10月1~11日までに行なわれた。)

       
 1586年 8月、副管区長ら一行は、日にちは定かでないが、この月の中旬過ぎには伊予から豊後・臼
       杵の港に入着したと見られる。その頃すでに府内が、薩摩方の勢力に押さえられていた訳
       ではなかったが、非常に不穏な状況で、その港に船を着けるほど安全ではなかった。

       9月16日(天正14年8月4日)豊後・臼杵の港から長門の国、下関に赴く。かの地へは、  
       4日後の20日に到着しているが、この折りルイス・フロイス師や日本人修道士ダミヤンらも同行し
       ていた。

       9月下旬、10月初めまでに山口での布教活動を再開、クリストヴァン・モレイラ師をそ
       の地に派遣、二人の日本人修道士も随伴。
       これは三十年も前から念願していた事で、国主・輝元の叔父で、権政を任されていた小早
       川隆景の許認可により漸く成ったものであった。

       10月、副管区長コエリョ自ら山口の出向く、丁度その滞在時に関白・秀吉の側近小寺官
       兵衛(黒田官兵衛)が九州平定のため先遣され、大阪地方から陸路下向して来て、山口で
       折り良く再会、諸事面談の宜しきを得ている。(その地での司祭館、教会等の地所供与確
       保などで、官兵衛が強力に便宜を計っている。下関への下向途中、国主・毛利輝元の居城
       に立ち寄り、予め先に土地供与の了承を取り付けたりしているからである。)
  
       10月中旬過ぎ、コエリョ師、山口から下関に戻る。その数日後、出陣の命を受けていた
       小早川隆景が四国・伊予から下関に到着した。その折り、副管区長の訪問意向を受けて、
       小寺官兵衛も司祭に同行し、フロイスらも伴ったが、小早川氏からは大いなる歓待の時の
       享受している。また、毛利輝元が下関に着陣してきた時にも、コエリョは彼を訪問せねば
       ならなかったが、その折りにも官兵衛が同行の誼を示している。
       (この頃からの黒田官兵衛のイエズス会及び、布教活動への支援関与の熱の入れようとき
       たら、まさに何故であろうかと、くびを傾げたくなるほどのもので、官兵衛自身、何か心
       に秘めた意図、目論み、或いは戦国の世を早く終らせんとする志向などがあったのかと、)

       副管区長は、その小寺官兵衛シメオンにより、さらに下関で地所の確保及び、山口、下関
       だけでなく、国主・毛利輝元配下のすべての諸国領内での布教許可、及びその活動上不備
       となる義務、条件を免除した、明確なる特許状を国主・輝元や二人の重鎮(吉川、小早川
       の両氏)から新たに入手している。
       (イエズス会側にとっては、関白・秀吉からの日本全国向けの特許状だけでは、なお安堵
       できないご時世で、いつ急変するか判らぬという日本の事情があるからであった。)

      *小寺(黒田)官兵衛は、10月末頃九州に上陸、11月初には毛利勢と共に豊前九州北部
       の小倉城及び、その諸支城攻めから始めて、豊前国地方を暫時島津勢から解放して行く。
       併せて筑前、筑後の島津方諸勢、及び占拠中の諸城への攻略、調略を遂行するものとなる。
       11月14日には小倉城が降伏、開城される等の成果を挙げてゆく、、、、

       その頃、すでに島津勢が肥後から、島津国主・義久の弟・義弘が、日向方面から家久が、
       二手に分かれて大友・豊後国へ攻め入る状勢を展開してきていた。

 1586年 12月14日、副管区長コエリョ下関から長崎へ向う。コエリョが下関を拠点にしてその
       任務活動をしたのは3ヶ月間ほどであった。
       そのような期間となった理由については、下の長崎では、この年の7月初め以降、薩摩勢
       が豊後への進撃を開始せんとして、その前線本拠地である肥後の八代城から、長崎イエズ
       ス会への干渉、嫌がらせが、いとも悪辣で陰謀めいたものとなっていた。そういった状況
       事情を憂慮し、事の重視、重大さを鑑みて、西九州・下へのご出向を強行したものと見ら
       れる。

       この折にも、かの官兵衛は、彼の旅の安全を嘉して、コエリョの求めに幾倍も応じるかた
       ちで、配下の水軍の船舶7隻をもって、彼を送り出している。この武装船は、村上系来島
       水軍が所属のもので、来島配下の一部将がその護衛の任に就いていた。
       (フロイスや2人の日本人修道士ダミアンとジョアン・デ・トーレスは今までどうり下関
       に在留にて。)

 1587年 コエリョ師、1月17日、下関に在留せし同伴者のルイス・フロイスを大阪に派遣する。
       2月9日(天正15年1月2日)に大阪在住の司祭らと共に大阪城の関白・秀吉を訪れる。
       その後、フロイスは、帰途の3月15日、山口の会士同胞、キリシタン宗団に立ち寄り、
       下関から平戸経由で、4月のうちには長崎、副管区長の許に戻っている。
       (*このフロイス派遣記事の日付けに原本写本に因るミステイクか、邦版ミスが生じてい
       るようだ。記されたグレゴ暦2月17日は<15年1月10日>、2月9日は<天正15年1月2日>
       とに因る誤謬。グレゴ暦1月17日は、天正14年12月9日に相当している。)

      *コエリョ師は、2月の中旬頃、新布教地と目される四国の伊予に2人の司祭と日本人修道
       士一人を派遣。(クリストヴァン・デ・レアンとペドゥロ・パウロ、修道士の名は不明記にて)
       この伊予の国は、小早川隆景の所領地であったが、6ヶ月と経たぬうちに領主小早川氏の
       国替えや、関白・秀吉の<伴天連追放令=7月24日発令>により、8月6日以降、早々に
       困苦、危険極まりない退去を余儀なくされた。

      *5月初旬頃、すでに関白・秀吉が九州に向けて、4月8日に大阪を立ってからの事であった
       が、副管区長コエリョ師は、その報を耳にして長崎から下関へ<フスタ船=小型武装船>
       にて出向くが、長崎から40里以上離れたところで、小西行長の率いる艦隊の一船にその
       途中の港で出会い、小西からの副管区長宛の書状を入手、それにより関白は、すでに筑前
       国に至っているはずで、数日後には肥後の国に入るであろうから、尊師は、関白を肥後国
       で待つがよい、との連絡内容が知るものとなる。依って急遽、下関には向う事無く、長崎
       に引き返し、肥後での会見に備えるものとなった。その後、

       関白・秀吉配下の軍船艦隊の一団が長崎に巡航してきた折に、コエリョ師は、フロイスら
       2名の司祭と3名の修道士、ほかに別舟で三名のポルトガル人と共に、その艦隊に庇護さ
       れ、肥後の八代に向けて関白訪問の途につく。
       5月27日に八代に到着し、その翌日、秀吉への謁見に臨む事ができた。
       (それらの軍船は、いよいよ薩摩領土進攻、出水から川内へと進行した先遣隊、小西行長、 
       脇坂安治、九鬼嘉隆らに所属するものであったと見られる。)

      *さらに九州平定後の7月初め、長崎から博多へ向い、その10日前後にその地に到着した。
       博多での再度の秀吉訪問会見を願ってのことであった。関白・秀吉は、陸路で多少の内陸
       部の道を経由しての帰還であったので、16日頃に博多(箱崎の陣屋)に着陣し、諸将ら
       も博多の地で、2里ほどの規模に亘ってそれぞれ逗宿の陣を設けた。だが、この博多の地
       で大変険悪な事態に遭遇するものとなる。

       この折り、7月24日夜半、翌25日にかけて、コエリョ師は同伴のルイス・フロイスら
       と共に、予期せぬ深刻な関白・秀吉の反伴天連、反キリシタン表明の告示を受ける。
       (伴天連追放令の布告)
       まさに急転直下、彼らにとって突然の事のようであり、ドンデン返しの秀吉の心の本性、
       内に秘めた彼本来の本音を見せ付けられた感じで、唖然自失の心境に陥るも、冷静に事態
       を見極め、対応、処置に尽力する。
       
       その数日前の19日、博多湾海辺近くで、コエリョ師の乗ったフスタ船の船上での思いが
       けない秀吉の来訪、和やか会見から、さらに翌日の午後には正式な陣所宿舎への秀吉訪問  
       といった諸事が、ご厚誼に与かるほどに良好に進展していた状況にも拘わらず、、、、。

   *[注]: 秀吉の<伴天連追放令、および禁教令>における内心的決意への思惑動向については、
       外的状況、内的条件など、彼自身の性格パーソナリティーを軸格として、外部契機的な様
       々な要素、動勢など、複雑に絡んだ諸積念状況の思惑からそれらが発せられたものであっ
       たから、
       ルイス・フロイスの記述した文面内容だけの一方的な、いわゆるイエズス会側の立場から
       秀吉をこっぴどく悪く描き、その暴君的イメージだけでもって、全面的に現われ生じた大
       迫害という悪辣な果実、その厳正なる告知文と<実際的な大迫害状況>への、ある種の解
       明判断と見なすだけでは済まされないし、彼の把握理解はきわめて不十分で、出来ていな 
       いと言うほかない。
       秀吉の対バテレン、対キリシタンへの心境の変化が、何ゆえに突発、急転直下の如きもの
       となり、直ちにその政策的布告にまで急進展したか、についての詳細解析は、このページ
       内の以下のリンク言及の文面を参照にて。

       《信長から秀吉への時代の流れに限定しての考証ならば》
       ============================
       からの文中にて。       

 1587年 副管区長コエリョ及びフロイスらは、追放令布告後の7月27日前後までに博多から平戸
       へフスタ船にて移り行く。日本人修道士3名、幾人かの同宿、従僕らも随伴して。

       24日付けの秀吉の追放令布告と、その後に出された布告書面に従って、すべての伴天連
       たちは、平戸に集結するを余儀なくされる事態となった。
       イエズス会の領地として栄えていた長崎の町も、今や秀吉の下に没収され、その当初の段
       階では、その地に赴く事は出来ない、拘束処罰にさえ晒されうる情勢となった。

       その後、日本からの退去の令を受けているという立場から、平戸、その地域の度島など、
       転々と居所を移動するほかなく、88年には肥前の下地方、有馬、口之津、加津佐方面な
       ど、89年から90年にかけては加津佐からその務めをなす日々が多くなった。その間に
       も、89年11月5日、老体病弱の具合が進む中、加津佐から有馬領地の北部島原の村々
       への最後の布教活動に出かけたりしている。(追放、禁教令が弱まっていた折からの事)

       その後、90年の4月前後に、病弱の回復を願って長崎に身を置いたが、再び加津佐に戻
       り、その地を召される時の最終地としている。(長崎も禁教が緩慢状態になっていた。)
       
 1590年 5月7日、コエリョ師、加津佐にて、主なるデウスへの栄えある務めの生涯を閉じる。
       翌日の夕刻、有馬においてコエリョ師の葬礼聖祭、つぎの9日葬送式典が行なわれる。
       葬儀は<追放令、禁教令>布告下の時世にありながらも、かってないほど豪華なものとし
       て挙行された。

      *葬儀が大々的になされ得たのは、この頃には、追放令、禁教令の布告後、まる三年近くに
       なっていたが、その実効性が継続的に十分発揮されないまま低迷化しており、京、大阪か
       ら離れた九州地方では、むしろキリシタン教勢が一層の進展傾向にあったということもあ
       り、また、加えて折りしも、当の関白・秀吉が、関東(坂東)の北条氏討伐、及び伊達氏
       など奥州方面の平定事業に出かけて、その平定戦に掛かりっきりとなる時期に重なったと
       いう時代状況も無視できない。(坂東平定:4月初め~9月29日の秀吉、京都への凱旋
       までの期間)
      
      *コエリョ師は日本管区巡察師ヴァリニャーノの2度目の来日に迎臨すべくもなく、その逝
       去は、長崎来着(7月21日)のおよそ2ヶ月半前のことであった。
       ヴァリニャーノの来日は、インド副王の特別使節としての任を負うてのものであった。又、
       先の82年2月に遣欧使節として離日した4人の少年が9年余の長きを経て、その帰還を
       を果たすべく、彼らを伴ってのものであった。

    [注]:コエリョ師の後任副管区長については、葬儀が全て終了した5月9日の夜、全ての司祭、
       修道士の会員により、選出討議された結果、新任副管区長は、ペドゥロ・ゴーメス師に決
       定された。これには巡察師ヴァリニャーノの先の初来日の時に彼が残し託していった後任
       に関わる原文書の開封がなされ、その後任選出条件の指針教書に基づいて、その選出決定
       が討議されたものであった。

       (新任のペドゥロ・ゴーメス司祭は、83年に定航船で長崎に初来日し、この時、5人の
       司祭と3人の修道士が同伴していた。彼はその数日後、豊後国の全体の上長として、その
       地・府内に派遣され、また、コエリョ師逝去前の最近に至っては、肥前下地方全体の上長
       としての聖務を歴任している。
       フロイスの記事によると、実は前年の82年の7月にマカオから渡来する筈であったが、
       大型のジャンク船が台風に遭い、台湾島の海辺に座礁難破して、一命を取り止めたが、そ
       の後、マカオに無事に帰還したとの記事を克明に記している。=<第二部35章前半部>)
           
  ---------------------------------------------- 
      
 ・<アレッサンドロ・ヴァリニャーノ>:1539年2月15日 - 1606年1月20日
                     キリシタン時代の日本を訪れたイエズス会員、カトリック
                     教会司祭。イエズス会東インド管区の巡察師として活躍、
                     天正遣欧少年使節派遣を計画・実施した。

 1566年 イエズス会に入会。(聖職者になるためにバドヴァ大学で神学を学んだ後に。その学位修
       得の前には、同大学ですでに法学を学んでいた。)

 1570年 司祭に叙階される。
 1571年 修練院で教官の任に当たる。教え子の中には後に中国宣教で有名になるマテオ・リッチら
       がいた。

 1573年 イエズス会総長エヴァラルド・メルクリアンの名代として、広大な東洋地域を回る東イン
       ド管区の巡察師に大抜擢された。  

 1574年 その巡察師の役務履行のため3月21日にリスボンを出発し、同年9月にゴアに到着。
       管区全体をくまなく視察した。インドでの視察を終えた後、

 1577年 本年9月にゴアを発つと、同年10月19日マラッカに入った。その後さらにマカオに
       向けて船旅を続けた。

 1578年 この年の9月、マカオに到着した。彼は、同地のイエズス会員のだれ一人として、中国
       本土への定住がいまだ果たせていなかったことの現状を知った。

       イエズス会員が中国に定住し、宣教活動をするためには、まず何より中国語を習得する
       ことが大切であると考え、彼はゴアにあった東インド管区本部の上司に手紙を書き、こ
       の任務に適した人物としてベルナルディーノ・デ・フェラリス(Bernardino de Ferraris)
       の派遣を願った。だがフェラリスは、コーチのイエズス会修道院の院長として多忙をき
       わめていたため、代わりにミケーレ・ルッジェーリ (Michele Ruggieri) が派遣される
       ことになった。

 1579年 7月、マカオに到着したルッジェーリと入れ替わるようにして、ヴァリニャーノは、そ
       こから日本へ出発した。
       (ルッジェーリは、この時、この任務にふさわしいさらなる人材としてマテオ・リッチ
       のマカオへの派遣をヴァリニャーノに依頼した。ヴァリニャーノが、ゴアに派遣を要請
       した事で、リッチがマカオに送られ、ルッジェーリとリッチの二人は、1582年8月
       7日から共同で中国宣教事業に本腰で取り組む事になった。)

 1579年 (天正7年)7月25日、当時の東インド管区の東端に位置する日本(口ノ津港)にたどり
       着いた。(口ノ津港は2006年3月31日まで口之津町(くちのつちょう)として、それ以後、
       周辺7町と対等合併し、南島原市となり消滅した。長崎県、島原半島の南端にあった町で
       現在は、加津佐町、南有馬町が、南島原市に隣接する自治体をなしている。)

       *ヴァリニャーノが到着した頃の九州は、ほぼ九州全域が平穏さを失った、謀叛や紛争
        が頻発するような荒れた状況になっていた。これは豊後の大友氏(フランシスコ宗麟)が、
        先の78年(12月2日)日向の耳川の戦で、薩摩の島津義久軍に手酷い敗北を帰して
        豊後の勢力体制が急変、急速に衰退していったからである。
        (豊後の5ヵ国<肥前、肥後、筑前、筑後、豊前>を従属させていた体制の崩壊である。)

       *肥前の大村公の領地や島原地方の有馬の領国のキリシタン情勢が非常に険悪なものと
        なり、有馬ではキリシタン事情の進展を立て直さなければならない結末に至った。

        佐賀の領主・龍造寺隆信の侵攻により、征圧の危機に曝されたからである。これによ
        り、巡察師ヴァリニャーノ以下イエズス会はその対応に翻弄されるものとなり、懸命
        な援護支援を余儀なくされる。
        
        龍造寺方の軍勢の進出により、島原半島の有馬方所領のほとんどの城が、龍造寺方に
        寝返り与し、国主・有馬氏はもはや孤立したようなかたちで、その主城と共に包囲さ
        れるような情勢ともなった。
        
        このような状況のため、彼が豊後を訪れる事ができたのは、翌80年の9月になって
        からであった。

        (このような折りヴァリニャーノ師は、有馬国主・鎮純がそんな危機的状況下、洗礼
        を授けてもらいたいとの懇願要請を受けるが、その状況当初にあっては、その懇請は
        了承すべくもなく憂慮先送りする他なかった。
        だが、この年、79年が過ぎ、明けて80年の春、聖週間に入る前、その前準備期の
        四旬節の第何週目かになってようやく鎮純は、ドン・プロタジオの洗礼名をもって、
        受洗されるものとなる。

        当初彼の洗礼は、四旬節の第一週の内に、遅くても第二週目の初めには行なわれる筈
        であった。だが、その間際になって彼の女性問題が発覚、鎮純が邸に一人の女性をか
        こっているとの事実が知られた事で、司祭ヴァリニャーノは、これを遺憾とし、不義
        なる同棲と受けとめ判断する他なく、その娘との離別、自邸から出すの条件で、有馬
        国主の洗礼がなされるものとなった。
        その問題事では十数日間ほど、意見、もの議が交わされ、これに第三者の、以前より
        いい名づけのようになっていた娘とその母親(義姉=鎮純の兄・義純の正妻とも)が
        絡んでおり、ゴタゴタ紆余曲折しながらも、ヴァリニャーノの尋常ならざる手段に出
        る計らいに困窮するにより、ついに鎮純はその娘を邸から出させ、離別して、国主た
        る自らの現状を顧慮して、その洗礼がすみやかに無事行なわれ得るものとなした。)

       *その後の国主・鎮純(のちに晴信と改名)の婚礼に関わる事柄については、フロイス
        の著「日本史」の記事からはその言及するを見るに至らず、その事には触れられてい
        ないようだ。そもそもこの頃フロイスは豊後に居り、鎮純の洗礼に関わる事柄しか伝
        書されておらず、81年には九州から離れて、都、畿内地方に巡察師ヴァリニャーノ
        に同行し、そちらでの務め、情報に忙しくしていたので、それに触れることに重きを
        置いていなかったわけである。

        有馬領国もその時期、龍造寺隆信により、存亡の危機に立たされており、華やかさを
        もって盛大に婚礼の儀が執り行なわれるといった状況ではなかったと見られる。むし
        ろ、龍造寺方の監視の目を意識して、密かに執り行なわれたとの向きであったろう。
        その時代、戦国の世では、常に婚儀には、政略的な趣き意図が濃厚に秘められていた
        からである。

        おそらく、大村公純忠の娘ルチアと、鎮純の亡き兄・義純の娘ルチアが同名の洗礼名
        であったわけであり、その両者の娘が養子交換されて、それにより、大村公の嫡子・
        嘉前[ヨシアキ]がその正室として、義純の娘ルチアを娶り、有馬の鎮純は、そもそもの最
        初、ガスパル・コエリョ師への接渉相談時に思い抱いた望みどおりに、後になってす
        んなり叶うものとなり、大村公の娘ルチアをひそかに娶るものとなったと見られる。
        その辺の事情を明かす日本側の確かな史料も見い出されていないといった関係上、有
        馬鎮純(晴信)の正室は、亡き兄・義純の娘ルチアであるとの歴史の見識が示されて
        いるのも吝かではないものとなる。
        
       *彼ヴァリニャーノのこの最初の日本滞在は、乱世たけなわの情勢下、1582年(天
        正10年)2月初めまで続く。
       
 1580年 (天正8年)9月ヴァリニャーノ師の豊後訪問、来日渡航時から随行してきたロレンソ・
       メシア師、オリヴェリオ修道士、それにその当時、下の肥前島原地方に出向いていた総
       布教長フランシスコ・カブラル師らも同行した。9月8日出発⇒14日豊後着の旅であった。
       (カブラル師は、ヴァリニャーノ師の主旨で口之津で開く事になった宣教対策協議への
       参席のため豊後を離れ、8月初め頃大村地方経由で訪れていたからである。)

       *この初訪問で、国主・フランシスコ宗麟を臼杵に訪れただけでなく、それより先に嫡子・義統を
        府内から十数キロ離れた陣中先に訪ねている。嫡子は、叛旗した田原親貫一派を征伐す
        るために、彼及びその部将らの2、3の城を包囲している最中であった。
        臼杵への国主訪問の後、その城内にて聖フランシスコ祝日を慶賀するミサ聖祭が盛大に
        行なわれ、国主の大いなる喜びと慰めとなった。(10月4日)

       *この豊後においてもヴァリニャーノ師は、府内、臼杵にいた司祭、およびすべてのイエ
        ズス会員を臼杵の修道院に召集して、日本イエズス会の最新充実の進展のため、革新的
        な会議を数日間にわたって討議し、今後の新たな方針を定めるものとなる。その中で、
        日本人修道士養成を重視したしっかりとした教義基礎のできる修練院を臼杵に設置する
        事が決議採択された。この修練院はこの年の降誕祭の後、6名の日本人と6名のポルト
        ガル人、計12名の修練生を受け入れて発足させるものとなった。その発足初年度中に
        は、修練生が20名(日本人12名、ポルトガル人8名)となった。

       *さらにヴァリニャーノ師は、府内に修練期を終了したイエズス会員や、ヨーロッパ出身
        の修道士で、日本語の出来ない会員のために、人文科学系の学問と、併せて日本語学習
        のための高等学院(コレッジオ)を設置した。この人文科学系学問は、世界地理学、近世天
        文学、数理学、西洋暦学、古典物理史学等に及ぶもので、医術医学的な別一系のものと
        合わせて、日本の近世黎明とその期をいやが上にももたらさんとするようなものであっ
        た。だが、その可能性も残念ながら、1600年前後以降には潰えるものとなる。
                
 1581年(天正9年)イエズス会員のための宣教の指針的ガイドラインを執筆する。これは、日本の
       階級社会、及びその文化に自分達を適応させるという処々の方法を記したものであった。
       (ヴァリニャーノ師の新方針は、カブラル師のかっての方針の良からぬ弊害を抜本的に
       見直し改めるもので、日本人司祭養成をも目指し、その宗教と教養の文化教育を初等から
       高等まで一貫して行い最重要視するものとなる。渡航してきた司祭、修道士らの日本語の
       学習を再開させるものとなる。また、日本の文化様式に即した日本的なキリスト教の発展
       をも許容するものとなる。)

 1581年 ヴァリニャーノ師、2月下旬頃、豊後府内の港から畿内地方、都への旅に出航する。その
       折りフロイスも彼の通使役として随行する。
       他に先の来日の際に伴ってきたロレンソ・メシア師とイタリア人オリヴェリオ修道士、そ
       れに現地畿内地方に留まる予定の司祭、修道士の各2名を同伴させての出立であった。
 
       3月の17日には無事に堺の港に到着した訳であったが、、、
       実のところこの船旅には、目下信長の敵となっている毛利氏の領岸、湾や諸港を航行しな
       ければならず、かなり危険であったし、また、瀬戸海の海賊が、堺のひとつ手前の港に立
       ち寄るのを予想して待ち構えているといった事情もあったりして、実際にその折り、海賊
       らの船に追われる事態となりながらも、沖合い海上では捕船拿捕を免れたが、堺港に着い
       た時には、その盗賊らに荷物を差し押さえられ、荷を取り出すためにそれなりの金額を支
       払うという状況であった。
       (その後、3月19日堺を立ち、21日の聖週間の火曜日に高槻に到着した。)

       巡察師として都及び畿内各地を訪れ、高槻での高山右近らとの会見交流では、盛大、荘厳
       なる復活祭(26日の早朝から始まる典礼等)を祝典するほどであったし、都に入っては
       本能寺を自らの邸としていた織田信長ともその居所で会謁の時を過ごしている。(27日)

       フロイスの著『日本史』では、この年の四旬節(教会暦)の初めにルイス・フロイスら7
       名の司祭、修道士らを伴って、都に向け、豊後を出発した、との記録を書き留めている。
       (四旬節の初めとは、常に復活祭の46日前の<灰の日>の当日にあたるが、かの81年
       のキリストの聖週間における復活祭の日にちが、西暦グレゴの何月何日に定められ守られた
       かを知りえないとその日を明示できないが、この年の復活祭は、3月26日であろうか。)

      *この年は、特に巡察師ヴァリニャーノによる高槻城内での今までなかったほどの盛大、荘
       厳なる復活祭があり、それに競い盛り上げる如くに、その数日後であったか、またイベン
       ト好きな織田信長により、京での盛大、華麗なる<お馬揃えの行事>が敢行され、といっ
       た具合で、何か特別に盛り上がっている感じの一年であったようである。

       ヴァリニャーノ師も、安土に足掛け2ヶ月以上滞在していたと思われる。安土を拠点にし
       て、その留守の間には畿内の多くの地を巡回したりしている。美濃国(岐阜)と尾張は、
       他の司祭(グレゴリオ・デ・セスベデス)と日本人パウロ修道士を遣わしているが、、、、

       ルイス・フロイスは、このヴァリニャーノ師の安土滞在に関して、その自著では、安土城
       の事や、信長の行なった盆のイベント行事など外面的諸事しか記していない感じである。
       微に入り細に入りの内容、つまりヴァリニャーノ師と織田信長の両者の関係がどうであっ
       たか、どれほど親密な間柄に進展したかどうか、といった事柄には、何故か一切触れてい
       ない、それをあえて伏せていたといったような感がしてくる。ヴァリニャーノの信長への
       相当なる気の入れようで、その天下人たらんとする信長に相応しい、肝いりの奨励をなし
       ていたのではなかろうか。
         
       (フロイスは、信長の側近らが、ヴァリニャーノ師との親密な関係を非常なまでに羨んで
       いるのを肌で感じ、身震いしていたかも知れない。それで、つぎの年、82年の初夏に、
       信長が<本能寺の変>で非業の死を遂げる。とてもその間関係を記し明かす訳にはいかぬ
       といった心境で、その後日の著述を行なっているのでなかかろうか。)
       
 1581年 10月3日、ヴァリニャーノ師、都、畿内地方より豊後に帰還、フロイスの記事では、豊
       後での7、8日の滞在後、海路南回りで、下の地へ、、、、日向の細島の港へ立ち寄り、
       薩摩(鹿児島県)の三つの港での滞在時での恵みと歓喜感涙の一家の御救い時、さらに、
       坊ノ津、天草、有馬に立ち寄り、同年12月25日長崎、大村へ

 1582年 当時の日本地区の責任者であったポルトガル人準管区長フランシスコ・カブラルを日本か
       ら去らせる。彼のアジア人蔑視の姿勢が布教に悪影響を及ぼしていることに気づき、日本
       人の資質を高く評価することで、カブラルが認めなかった日本人司祭の育成こそが急務と
       考え、司祭育成のために教育機関を充実させた。

       (それは1580年(天正8年)に肥前有馬(現:長崎県南島原市)と近江安土に設立された
       小神学校(セミナリヨ)、1581年に豊後府内(現:大分県大分市)に設けられた大神学校
       (学院コレジオ)、そして1580年に豊後臼杵に設置されたイエズス会入会の第1段階である
       修練期のための施設、修練院(ノビシャド)であった。)

 1582年 2月8日長崎港よりマカオに向け出帆、天正遣欧少年使節の企画を発案し、それを実行す
       ると共に、東インド管区本部のあるゴアに同年帰還する。

       (巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、キリシタン大名・大村
       純忠と知り合い、財政難に陥っていた日本の布教事業の立て直しと、次代を担う邦人司祭
       育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考えた。そこで、
       セミナリヨで学んでいた中浦ジュリアン、伊東マンショ、原マルティノ、千々石[チジワ]ミ
       ゲルの4人の少年達に白羽の矢が当てられ、ミゲルは正使、ジュリアンは副使となった。)

 1590年 (天正18年)2度目の来日、この再来日は、帰国する遣欧使節を随伴して行われた。
       この時には1591年(天正19年)に聚楽第で豊臣秀吉に謁見している。また、日本で初
       めての活版印刷機を導入、後に「キリシタン版」とよばれる書物の印刷を行っている。

 1598年 (慶長3年)最後の来日、この来日では日本布教における先発組のイエズス会と後発組の
       フランシスコ会などの間に起きていた不一致姿勢、対立問題の解決を計ることもその意図
       にあった。

 1603年 (慶長8年)最後の巡察を終えて日本を去り、3年後にマカオでその生涯を終えた。

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  ・クリストファン・フェレイラ:

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 ・<ジョアン・ロドリゲス>:1561年(1562年)?- 1633年8月1日
                ポルトガル人のイエズス会士でカトリック教会司祭    
                「日本教会史」を著作している(出版1634年)

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  ●【戦国時代の主要人物】

 <・足利義輝:>天文5年3月10日(1536年3月31日)- 永禄8年5月19日(1565年6月17日)
          室町幕府第13代征夷大将軍(在職:1546年 - 1565年)

       幕府管領・細川晴元と、義輝の父・義晴との対立がしばしば生じて、京と近江での
       生活を繰り返していたが、1548年に父・義晴は、細川晴元と和睦することができ、
       京に戻った。このとき晴元は、天文15年(1546年)12月に子・義輝に将軍職を譲位
       したことでの義輝の将軍就任を承諾している。

       ところが細川晴元の家臣である三好長慶が晴元を裏切って細川氏綱に属し、畿内に
       一大勢力を築き上げた。このため、天文18年(1549年)6月、義晴・義輝父子は細川
       晴元とともに京都を再び追われて近江坂本に亡命する。
       天文18年(1549年)6月から天文21年(1552年)1月頃まで、近江坂本、朽木などでの
       亡命生活、細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶と和睦し、京に戻った。
       将軍とは実質的に有名無実で、長慶とその家臣松永久秀の傀儡であった。

       翌1553年に細川晴元と協力して、長慶と対決、戦いを始めたが、敗れて近江朽木に逃
       れる。よって再び1553年~1558年11月まで5年間の近江朽木、坂本での時期を過ごす。
       1558年5月から六角義賢(承禎)の支援で、坂本へ、六角氏の三好一派との交戦及び
       11月での六角義賢の仲介による三好長慶への和議交渉で和睦がなり、5年ぶりの入洛
       が実現し、京での幕政が再開されることになる。
        
       三好長慶はなお権勢を誇り、足利義輝より御相伴衆に任じられて、その身分的権威を
       もって管領の役職を代行して幕政の実権を握っている。

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 <・足利義昭:>天文6年11月13日(1537年12月15日)- 慶長2年8月28日(1597年10月9日)
          室町幕府第15代将軍(在職:永禄11年1568年 - 天正16年1588年)
          父である室町幕府第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。同母兄は、
          第13代将軍・足利義輝である。彼は、1565年の将軍・義輝の暗殺クーデターの日ま
          で、大和国・奈良の興福寺一乗院の門跡としての出家の身であった。その永禄の乱を
          逃れ、近江、越前など遍歴した数年後、織田信長の擁載支援により美濃国岐阜より上
          洛を果し、ようやく室町幕府第15代将軍としての座を受け継ぐものとなる。

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 <・土岐頼武:>明応7年(1498年)? - 天文16年(1547年)?
          戦国時代の大名で美濃国の守護大名である。土岐政房の嫡男で弟に頼芸、
          治頼、揖斐光親らがいる。正妻は朝倉貞景の3女。その子は頼純。

 <・土岐頼芸:>文亀2年(1502年)- 天正10年12月4日(1582年12月28日)
          正室:六角定頼の娘(近江の方)1536年頃 側室:深芳野
          
          正室との間の子息には、頼栄、頼次、頼宗、頼元の4人がいた。家督と守護職は
          頼次に継がせるとしていた。

         *長男・頼栄:生没年不詳(1540年前後頃?)-
                彼は、父・頼芸の受けが悪く、父と旨く行かず、家系を継ぐに
                相応しからずやと、廃嫡にされている。
 
          次男・頼次:天文14年(1545年) - 慶長19年(1614年12月10日)11月10日
                兄に代り家督と守護職を継ぐものとされたが、父が道三によって
                美濃を追われた折り(1552年頃)、父に追従して他国に下る。
                その後、縁戚等の他家に託され、父と別れる運命を辿ったと見ら
                れる。

          三男・頼宗:生没年不詳(1547年頃?)-

          四男・頼元:生年不詳(1548年頃?) - 慶長13年(1608年11月26日)10月19日。
                天文21年(1552年)頃、父・頼芸が再び道三に追放されたが、幼児
                ゆえに斉藤家に引き取られ、養育される。その後、斉藤の姓を名の
                り、義弟として、義龍および子の龍興の家臣として仕えたが、、、
                1560年代早々、美濃国主・斎藤氏が信長によって滅びる前に、美濃
                国を去り、京の足利幕府に出仕、将軍・義輝に仕えるものとなる。

                永禄の変(8年5月19日)1565年6月17日、三好三人衆(三好長逸・
                三好政康・岩成友通)と松永久秀らの軍勢により、将軍・義輝が二条
                御所を襲撃され、横死した後も、三好、松永方による幕府に寄るもの
                として京に出仕したが、やがて信長の上洛、足利義昭の擁立により、
                京を逃れる憂き身にさらされる。その後、日本側史料では、武田氏、
                豊臣氏、徳川氏に仕えたとされている。(『寛政重修諸家譜』)

              ★(フロイスの『日本史』には、この四男・頼元に該当すると見られる
                人物を記述した個所が2ヶ所ある。

                最初の個所は、第一部65章で、この章の主要内容は1565年の
                永禄8年の<変>、第13代将軍・足利義輝が襲撃され、横死した
                事件内容を関連付けに記述したものとなっており、その章の初めに
                ガスパル・ヴィレラ師の布教事情を記す手始めと共に、その二つ目
                のパラグラフで言及されているものである。

                  ”この都には、美濃国主の義弟にあたる、非常に有能で
                   思慮深い若者がいた。、、、”で綴り始められている。

                次の個所は、同じく第一部75章、翌永禄9年、1566年の年紀
                の諸章の一つの内に見られるものである。
                その章での主内容は、前年の将軍・義輝襲撃のクーデターの変直後
                に、その混乱に乗じてバテレン司祭らを暗殺せんとする陰謀の難か
                ら司祭らが逃れて、河内の飯森山麓経由で堺に避行し、その地に在
                住を余儀なくされた折りの、その年々の布教事情の進展、及びその 
                成果などを記すもので、
                都での<変>の後、その政情不安定下で起きた、三好三人衆と松永
                久秀(彼に寄る河内国主・三好義継)との主導権紛争の戦にも言及
                して、都からの詔勅による追放後の事情を語るものである。

                堺という特殊な市、貿易と工産品を盛んに営む地域であり、畿内近
                隣諸国ばかりでなく、遠方の各地からも頻繁に人の出入りがある都
                市という状況下で、司祭らを訪れる人々が絶えることなく多くあり、
                そんな中での一文面パラグラフに、再度<頼元>らしきその人物を
                書き記している。その文面の始めは以下である。

                 ”美濃国主の家臣で、七百名の家来を有する一人の将士が、前年
                  都に来ていた。彼は町でデウスのことが話題にされているのを
                  耳にし、教会を訪れ、七、八日間引き続けに大いに心して説教
                  に聞き入った。、、”と、綴り始められ、”彼が仕えていた、
                  公方様(将軍義輝)が突如殺された。” そして ”それは
                  先には美濃の国主に仕えていたが、””ある不快なこと(事件、
                  事柄)があって、その許を去った後のことである。”と、、、
                  そして、再びその66年の年に
                 ”彼が、堺に来て司祭を訪ねた”との事情及び、その内容を記す
                  ものである。 

               *上記のフロイス言及の人物に<斎藤龍興>を想定した見解をとる説
                が見られるが、これは明らかに間違いである。
                龍興は、父・義龍の跡を継いで美濃国主になっており、その頃信長
                の美濃報復の戦に幾度か臨むのを余儀なくされていたからである。
                したがって、フロイスの言う<美濃国主>は、父の義龍でなければ、
                子の龍興であったと断定されうる。
                (義龍は、永禄4年(1561年)5月11日に急死している。)

                フロイスは、<美濃国主の義弟>、そして<美濃国主の家臣>、し 
                かも有力な家臣と見られる表現をしており、将軍・義輝が殺される
                65年以前の前には美濃国主に仕えていたが、その美濃国お家一門
                のゴタゴタ内紛(不快さ)事情ゆえに、国を離れて京の足利幕府に
                仕官したという事情を思わせる記述を成しているゆえに、、、。
                斉藤家の養子のように育てられ、義弟として斎藤氏を名のった四男
                の<頼元>以外に相当した人物はいないと推定されうる。

                フロイスは、彼の姓名を記していないが、66年9月3日、堺で彼
                に受洗させている。その後、彼からの一切の沙汰、連絡が途絶えて
                いるから、姓名等の表示を避けて、しない扱いの者として書き留め
                ている。
                彼・頼元は、その後、さらなる時代の流れに奔放され、波乱の時期
                を生き続け、秀吉から徳川家康に仕える時代へと己が人生を歩んだ
                と見られる。
                           
      *注:『寛政重修諸家譜』⇒老中職の松平定信が寛政元年(1789)幕府の右筆所に命じて、
                   『藩翰譜』の続編の編纂事業に着手する。その折りに併行し
                   て、若年寄・堀田正敦[マサアツ]の提言により、寛政11年(1799)
                   に『寛永諸家系図伝』の改訂増補を意図すべく、その再新と
                   して着手され、一大再編纂事業により成立したものである。
                   14年の歳月を費やして、文化9年(1812)11月に完成した
                   大名旗本諸家の家譜集の大成の書巻で、1530巻[冊]ある。

                   ちなみに新井白石の『藩翰譜』を引き継いで、編纂された続
                   編、『藩翰譜続編』は、文化3年(1806)に完成している。

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 <・織田信長:>天文3年5月12日(1534年6月23日)- 天正10年6月2日(1582年6月21日)
          生誕日には天文3年5月28日など諸説もある。

      *信長についての伝記文書:
       ============
              ①『信長公記』-大田牛一の1605年~1610年内までの著作で、史料的には価値が
               高いが、第一級のものだとも言いがたい面もあります。
       ②『信 長 記』-小瀬甫庵著
               太田牛一の著作『信長公記』を底本に儒教的価値観に基づき創作
               や脚色加えて書いたもの。資料的価値は低いが、江戸時代を通し
               て広く読まれた。

       ③『織田軍記』は、織田信長の事蹟を編年的に叙述した戦記です。『総見記』、
        『織田治世記』ともいいます。
        著者は遠山信春で、23巻、23冊から成っている。
        1685年(貞享2)頃に完成したようです。序文によると遠山信春が小瀬甫庵の
        『信長記』を読んで、これに補足・訂正・考証して『増補信長記』と名付け、のち
        『総見記』と改め、さらに信長の子孫に校閲を依頼して成立したと言われている。
        史料的価値はあまり高くありませんが、一部に他書に見られない記事を含んでいる。
        なお、『織田軍記』という書名は表紙に付けられた題名によります。諸本内題は、
        『総見記』です。
        (レファレンス協同データベース:滋賀県立図書館 (2110049)提供より)

 1534年 天文3年5月12日、尾張の戦国大名・織田信秀の嫡男として、那古野城(現名古屋
       市中区)で誕生する。母の土田御前は、実際には信秀の継室であったが、嫡男として
       見定められ育てられる。2歳にして那古野城主となり、その側役養育係として文化的
       素養の豊かな平手政秀が次席家老として務めるものとなる。

      ★信長が生まれ育った時代、それは、戦国時代後半期の只中、よくもこのような不穏で
       平安さだかならざる時代が在るものかというほどに、マクロ的体制の社会のしくみが
       崩壊されてしまった状況下にあった。古代から平安時代中世の古い体制が、併存的に
       残継されつつも、武家による幕府支配体制への2度(鎌倉、室町)に亘る再興体制的
       な変遷過程の末世に在りて、尾張という一国での<守護、守護代、守護代臣下>とい
       う一応の社会階層体制の下で、その揺籃期を過ごしたわけであった。
       彼の家一門は、同族が尾張守護代を預かる下、その家老職にある家柄であった。やが
       て20代、30代へと成長、年を重ねて行くにつれ、社会の様々な矛盾、弊害、人、
       生存に関わる様々な諸悪を、嫌というほどに経験し、自らもそれに馴れ合い同化せら
       れる、そんな過酷な人生体験の戦いを強いられるものとなる。

       信長のそのような戦国人生経験から、彼の改正的政治(政策)手法、是正改革的諸策
       が、漸次、必要に応じてなされて行くものとなった。
       自負心とプライドの高い信長は、いまや自分を頂点中心とした理想の日本国造りを目
       指す他ないような自尊心と志向性の気持ちを抱き、おのれの道を邁進してゆくものと
       なった。

       やがて、自分の幾多の家臣軍団も、その指揮権の任移と共に、家来や息子等の下へと
       独立分散してゆき、実質、自分の下にある、又は自下に集まる兵士、兵団は、一体、
       如何ほどのものとなったろうや、といった状況ともなり、かの最期の時を、<本能寺
       の変>の惨事を自らに招くものとなる。

       (信長の失策その一:譜代の佐久間信盛父子、林秀貞の追放は、実に残念な誤算事と
       なり、あとでこの事が、<報いの付け>となって自分に帰ってくるものとなる。
       もはや役立たずになったと裁定されるような両名の重臣を、今一度少しく留めおき、
       たとえ外では戦わずとも、内をしっかり守るものとして善立て、奮発重用しておれば、
       <己の死を招く事変>など、起きなかったに違いない。
       何処でどう見る目が曇ったのか、判断眼識を誤まったものとなっていったのか、、誰
       ぞ、下心のある者に内外諸政策の事で雑談するおり、それとは無しに吹き込みあやさ
       れて、そんな処遇への敢行をなしてしまったのか、、。
       そんな真相の有る無しも知れず、史実として浮現して来るものともならない、、。

       信長の失策その二:かの西域援軍要請の折り、明智光秀をただ単に野放し的に出陣の
       命を下したに過ぎなかった事のゆえに、この処置対応が拙かったのだ。
       これが、大変大きな不注意となって、自らへの災いを招く機会へと繋がってしまった
       のだ。安土山におけるかなり盛大、晴れやかな饗応振る舞いのため、出陣に関わる事
       の大事を鈍くし、きちんとそれを定める事ができなかった、そんな状況は、まさに人
       知れず大きな落とし穴であったと云えようか。最低でも書面にて出陣の<おふれの内
       容>を示し、光秀をその援軍の総指揮官に任命するなりし、軍団を動かす手綱を光秀
       をして、しっかりと執り得るように定めるべきであった。そしてその定めにおいては
       少なくとも光秀自身の軍団兵数の半分ほどを他武将の軍団から彼の下に集めさせ、共
       に京に布陣待機させるべきであったのだ。先発、先陣は名指しで2武将ほどに留め、
       秀吉からの再三のせっぱ詰まる性急な書状に応えるべきであった。ところが、その秀
       吉の要請も、裏目に出る因縁のものとなり、自分への仇となるべく、その対処を誤ま
       らせるものとなったようだ、、、。) 
  
      ★幼・少年期の信長は、臨済宗妙心寺派の僧であった沢彦宗恩[タクゲンソウオン]和尚の薫陶を   
              しっかりと受けて実践しているようだ。沢彦和尚は、幼少吉法師(信長の幼少名)の
       すぐれた天性やその気性の特性を見抜き、相応に指導すれば、まれにみる大器な人物
       になるに相違ないと感じて、最ベストな特別な処世術の真髄を投入教育していったと
       見られる。これはまさに双方二人だけしか他に知ることのない<師匠と弟子という関
       係>が自然なかたちでなり、秘密のようなものであったと見られる。

       家老・平手政秀氏からその教育をゆだねられた沢彦和尚は、どのような教育の仕方、方
       針をもって、幼少吉法師(信長の幼名)を育て上げていったであろうか。それに関する  
       歴史上の特記されうる史料は見出されていない。それ故、皆目検討が付かないといった
       ことになってしまう。
       当時も子供達への躾けや教育等は、上流から下々の庶民の子ら、それぞれの社会層、家
       柄により、その内容的なものに差異があり、また程度格差が著しくあるというのが当然
       であるとしていたのが一般的趨勢であった。親からも習うこともできず、お寺さんの個
       人的奉仕による読み書きを習う場にも与かれない子供らもいたに違いない。領民下層で
       はそんな時勢であったわけだが、、、

       武家社会という、ある一定の階級的な家風に浴した子弟の子らは、それなりの格式内容
       レベルで養育されたことは自明のことであろうが、信長・吉法師の場合は、そういった
       武家家風における一般的なものだけではなかった、むしろそれらに依るところが少なか
       ったと言えるのではないか。確かに織田家一門の家法的なシキタリ、または家訓なりが
       見られたかも知れないが、武家一門としての常識的な一般礼法、作法は守られていたに
       違いない。しかし<主従の関係>からのそれらという事になると、すでに吉法師・信長
       は、主の立場にあり、将来はその一門の頭領君を嘱望されている者であるから、その事
       を絶対前提として養育されねばならない事となる。中央の都での諸礼法、幕府や朝廷に
       おけるものに関しては、家老・平手政秀が一応にわきまえ明るかったであろうから、父
       であり主君であった信秀は、何ら気にするところはなかったと見られよう。だが、信秀
       には、とにかく乱世の世であるからして、つよい子、たのもしい男子にすべきだ、乱世
       を生き抜き、勝ち抜いて一門の名を高め、存続させるにはという思いが当然の危惧とし
       てあったに違いない。したがって、この面に関しては、家老・平手には内緒で、沢彦和
       尚には、何はともあれ“強い子に育ててくれ”と所望し命じ頼んだという事があったか
       も知れない。

       師匠となった沢彦和尚は、信長の存在ゆえにその名が歴史に残ったに過ぎない。彼個人
       の生い立ちからの詳しい経歴は全く知られていない。ただ臨済宗妙心寺派の一僧侶とし
       て、それなりの家柄の武家一門のおかかえの者となるに相応しい人格資質を有した人物
       であったという程度である。(妙心寺派本山法主43世・快川紹喜[カイセンジョウキ]とは、親
       密な教法兄弟の仲であったと、何らかの史料が伝えているものか、その事実は定かでな
       いが、そうであるならば僧侶としては一級なみの人物だったということになろうか。)
       [注]:禅僧・快川は、61才まで岐阜の妙心寺派としての崇福寺3世の住職であったが、
          1564年に甲斐の武田氏に招かれて恵林寺(甲州市塩山)を寺持するものとなる
          から、信長が美濃を征圧して、岐阜を本拠としたのが1567年であったから、こ
          の僧との面識、繋がりの関係はない。信長がその後、崇福寺を己が菩提寺としてい
          るわけだが、、快川は、82年の甲斐武田掃討戦の折に、信長の子・信忠の命にて
          恵林寺で、焼討ちに遭って亡くなっている。残党を匿って、引き出そうとしなかっ
          たので武将等の手で強行されたという。その当時としては最高齢とも言える80才
          前後の喝の効いた気丈な老僧であったとみられる。
 
      ★そのような沢彦和尚の教育方法、方針は如何なるものであったろうか、、、、。
       沢彦和尚の養育のあり方は、信長その人の成長的姿、生き様、人格性の多様な側面から
       おぼろげながらも抽出、捉えうるものとなるのではなかろうか。
       彼の立場をして類推仮定し、そのおおよその輪郭を思い描いてみたら、以下の如く示し
       うるものとなった。

       ①彼は出家僧侶の身であるが、もしも自分が俗世の身で、かの幼少吉法師の地位立場に
        あるとしたならば、自分自らがそう在りたいと願う如くに、可能なかぎり最高の君主、
        或いは名君になるようにしたいと、乱世ゆえにその自分願望を投影するような志向性
        をその方向付けの方針として立てた。
       ②最高の君主、名君の資質を身に付けるには、心の素養が何よりも大切である。つよい
        心、どんな貧しい民をも思いやる心のある気質、広い心を持って公平に人、物事に対
        処することのできる心根、、色々とそれに相応しい多様な徳目が挙げられようが、そ
        れらを可能せしめるのは、我が信とする<臨済宗妙心派>の心法・心義の適宜な方法
        (適便)しかないとする。
       ③たくましい心、何ものにも動じない心を培うのも何らかの修行を積まねばならぬが、
        その禅定の心を如何にしてものにするか、、、禅定の心と各種武術武道の一体化を目
        指すものとして、
       ④先ずは<自由奔放なる精神に目覚め、培い>、武家特有の礼法、礼儀に縛られて、格
        式ばった小者的御曹司にならないように、、、これには、海の向こう(大陸中国)の
        史書など、故事古伝からの武勇伝などを含め、また、彼が伝え聞いた事からの色々な
        事柄を話し聞かせる事で、少年信長に夢馳せらせ、広々とした大地を馬駆けるごとく、
        自由な広々とした精神に仕立て挙げてゆく。
       ⑤処世術としての臨済・妙心派の<真我><化相我>の手法を生きた心の体現となるよ
        うに教え込んでゆく、、、自分我は一つ、真我こそ我なり、この真我を内に秘めたも
        のとして、この<真我>を守るために、真にそれに根ざし、己が大成を果すために、
        多様な<化相我>をもって巧みに対処すべし。このことを身につけさせ、且つその自
        覚をもって、常に己の確固不動の自己認識とする、そんな悟りの境地へと至らしめる。

       以上が大体の輪郭概要となるが、若殿信長[26才]が出陣直前に舞った幸若舞の《敦盛》
       は、イザ戦[イクサ]という緊張した状況であるが、<禅定の静>に通じ対するものとして、
       その<敦盛舞>をして<舞の動>をもって自分を体現しているものである。

       また、沢彦和尚が<天下布武>の印文を与えたのも、<真我>あっての<化相我>なる
       を旨とした、指針的<化相我>のそれであったと見られる。少なくとも和尚は、それを
       強く所望していたに違いない。正に<真我、化相我>二法一如の処世心眼開かれたるや
       の天願を仰ぎたりの心境であったろうか。

       信長の陣旗印が大陸・明の永楽通寶を模したものであったから、彼は大陸志向の竜王君
       主(天子)を念頭想起していたかもしれない。
                             
 1546年 (天文15年)父・信秀の居城・古渡城(現名古屋市中区)にて、13歳で元服し上総介
       信長と称するものとなる。
       当時、父・信秀は、尾張国の守護大名・斯波氏の被官で下四郡(海東郡・海西郡・愛知
       郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして、主家と
       分家の関係にあり、主家清洲の三奉行の一人としての役職にあった。
       
       この頃の美濃の国では:
       天文15年(1546年)秋、再び頼純と頼芸・道三との間で和議が成った。朝倉孝景、織田
       信秀の室町幕府への働きかけに加え、頼芸の同盟者である六角定頼の仲介もあったらしい。
       9月、頼純は菩提山城を経て大桑城へ入城した。和議の条件として、頼芸の隠退と頼純の美
       濃守護職就任があったという。また、道三の娘との婚姻も実現した。

       かって土岐家では美濃の守護職をめぐり、長男・頼武と次男・頼芸の家督争いが永正14年
       1517年の合戦以来、何度もその争奪を繰り返していた。
       享禄3年(1530年)には弟・頼芸が、兄・頼武を再び越前に追放し、「濃州太守」と呼ばれ
       て実質的な守護となった。だが1535年頃、頼武は、再び美濃の大桑城を本拠として、稲葉
       山の麓に拠点を移した頼芸と対決したが、病死の前に自分の跡目を子の頼純に託す。

       重臣の斎藤道三の擁立により守護の座を得た頼芸の立場は、道三が弟を毒殺したという嫌
       疑により、次第に険悪な対立姿勢となってゆき、1539年に頼純との間に和議が成立してい
       たが、道三による頼芸の尾張への追放となる。
       その頃大桑城に籠った頼純は、天文11年(1542年)に道三勢に敗れ、鷺山城から越前へ、
       尾張に追放された頼芸は、その後各地を転々とし、他家に仕える身に甘んじたが、やがて

       尾張の織田信秀の支援を得て、越前で朝倉孝景の庇護下にいた頼純と連携して、守護の座
       に復帰する。だが、まもなくして天文15年(1546年)、道三と孝景が和睦し、その和睦の
       条件が頼芸の守護退任であったため、頼芸は守護の座を頼純に明け渡す事になる。

       しかし、頼純は、守護となって一年余りの後、天文16年(1547年)11月17日、急死したと
       されている。享年24。おそらく道三の手にかかって殺害されたものとされる。
       ただし、「土岐家譜」では、享年49となっており、法名も「南泉寺殿玉岑珪公大禅」との
       記録が残されている。それぞれその歴史的記録の信憑性は定かではない。
       
       一方、守護職を退いた頼芸は、揖斐北方城に留まっていたが、さらに天文17年(1548年)
       道三が信秀と和睦したことにより後盾を失い、天文21年(1552年)頃、再び道三により尾
       張に追放されて、2度と美濃守護職の家を再興することはなかった。

 1547年 (天文16年)9月中旬頃、織田信秀が、頼芸派の家臣と共に大規模な稲葉山城攻めを仕掛け
       たが、道三は、その籠城戦を有利な守勢として戦い、隙を突いて攻勢に転じ、織田軍を壊
       滅寸前にまで追い込み敗走させた。(加納口の戦い)この後、
       この情勢下で両者は、和睦に向かうこととなる。

       (長井家から長井氏の名を、斉藤家から斎藤氏の名を収奪し、守護代にまで上りつめた斎
       藤利政(のち道三)が1539年(天文8年)頃、稲葉山の<より高い山頂>に城作りを始める
       と共に、1541年(天文10年)ついに山麓中腹辺りに居城を構えていた国府・守護の土岐
       頼芸を追放するに至る。頼芸および頼芸派家臣らが尾張に亡命するという過去の流れの歴
       史的背景があっての事とされる。)
       (のち道三:54年に至って家督を嫡子の斎藤義龍に譲り、出家まがいの剃髪をして、名
       を道三と改号した。)

 1548年 この年(天文17年)父・信秀は、犬山城主・織田信清(弟信康の子で信秀の甥)と楽田城
       主・織田寛貞が謀反を起こす事件に遭遇したが、これを鎮圧して従属させた。しかしこの
       鎮定の折り、織田達勝の跡を継いだ信友が、家臣坂井大膳らに命じて、父・信秀の居城・
       古渡城に攻め入らせ、この際に城下の町は焼かれたが、落城はしなかった。古渡城を攻め
       たことにより、再び主家守護代・大和守家とも対立するが、翌年には和解している。

 1548年 (天文17年)、父・信秀と敵対していた美濃国の斎藤道三との和睦が成立する。
       この折、双方は姻戚同盟をなすべく、信長と、道三の娘・濃姫との政略結婚の儀を行う事
       を約す。  
              
 1549年 (天文18年)道三は正徳寺で信長と会見しその直後、天文18年2月24日(1549年3月23日)
       に濃姫を尾張に輿入れさせたと推定されるが、輿入れ時の歴史的記録はない。
       
       (道三は天文16年(1547年)11月17日、美濃最後の守護職・土岐頼純の急死の後、前守
       護だった土岐頼芸をも、織田信秀との和睦(1548年)後、天文21年(1552年)頃、再び
       最後の最終追放の断行に及んでいる。)

 1551年 (天文20年) 信長の父・信秀が没す。一応家督を継ぐが、尾張下四郡を支配して守護代
       であった「織田大和守家」当主で、清洲城主の織田信友が実権を掌握していたので、信長
       が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対し、
       信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた守護・斯波義統がその謀を信長に
       密告。
       これに激怒した信友は、斯波義統の嫡子・義銀が、家臣手勢を率いて川狩に出た隙に義統
       を殺害する。1554年(天文20年、義銀が14/15才の時)

 1554年 斯波義銀が落ち延びてくると、信長は、叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君
       を殺した謀反人として攻めて殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は、尾張
        国の守護代だった信友の守護所を手中に収めた。

 1555年 信長は、那古野城から信友の居城だった清洲城へ本拠を移す。信長21/22才の時であった。

 1556年 (弘治2年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死。(長良川の戦い)
       信長は道三救援のため出陣するも、義龍軍が道三を討ち取り、勢いに乗っていたため苦戦
       を強いられるが、道三敗死の知らせを得て、それにより退却する。信長自ら殿尻を務め、
       長良河畔に舟を用意して引き上げたとの事であったという。
       (この時、尾張上四郡の守護代「織田伊勢守家」=岩倉城の織田家が斎藤義龍に味方して
       いたからである。)

 1556年 道三救援の戦の撤退後、家臣団の間で、信長支持派と、弟・信勝を擁立せんとする派とが
       対立するものとなる。
       道三の死去を好機と見た信勝派は、同(弘治2)年8月24日に挙兵し、<稲生イノウの戦い>と
       なるが、信長に敗れる。(9月27日)その後、信長は末盛城に籠もった信勝を包囲するが、
       生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。

       更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報
       を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。

 1557年 しかし1557年弘治3年、信勝、再び謀反を企てたが、事前に柴田勝家の密告があり、信長は
       誘い出しの計により、清洲城で信勝を誅殺している。

       さらに先の1556年美濃国主・斎藤道三が、嫡子・義龍との戦い(長良川の戦い)で敗死し
       た時より、すでに義龍と手を結んでいた尾張上四郡を支配する守護代で、織田一族嫡流の
       岩倉織田氏(織田伊勢守家)とは以前より敵対関係の状況にあり、
       信長は、これを打開すべく同族の犬山城主・織田信清との協力関係を講じて事にあたる。
       
 1558年 かっての旧主・尾張下四郡守護代「織田大和守家」の旧来の宿敵、織田伊勢守家(岩倉織
       田家・尾張上四郡:丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡の守護代)は、信長織田家との全
       面的ないくさを余儀なくされ、岩倉城主・織田信賢は<浮野の戦い1558年永禄元年>で、
       信長により打ち破られ、翌1559年(永禄2年)信賢の本拠岩倉城は包囲され、数ヶ月の篭城
       戦になったが落城した。信は信長によって尾張から追放された。
       
      *【信長対信賢の争い】に関する年代には別の一説があり、それによると<浮野の戦い>が
       弘治3年(1557年)、<岩倉落城>が、永禄元年(1558年)と定めている。

 1559年 また、信長が新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏・吉良氏と通じて、
       信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。

      *1556年代の道三死後の美濃・斉藤義龍の動向については、自国内統一維持のため、その年
       の(弘治2年)9月19日に、濃姫の母方の実家・明智光継の弟・明智光安の明智城を義龍が
       家臣・武将長井率いる4千ほどの兵を遣わし攻め落としている。

       1560年代では永禄3年(1560年)浅井長政が六角家の従属から独立するため叛旗を掲げ、
       六角義賢と戦になるが、浅井軍に大敗を喫した(野良田の戦い)。この敗戦により、家督
       を譲られた六角氏の嫡男・義治が、それまで敵視していた美濃国・斎藤義龍と同盟関係を
       結んでいる。かっては、父・義賢の姉妹が美濃国守護・土岐頼芸に嫁いでいる事歴があっ
       たが、、

      ★信長の父・信秀の弟で犬山城主の信康の子・信清は、信長に全面協力して岩倉の守護代・
       織田伊勢守家(信賢)を一掃した後、その所領地の分与をめぐり、度々信長方と小競り合
       いをするが、永禄5年(1562年)に叛旗した信清は、その支城、砦を次々に落とされ、本拠
       の犬山城から追い出されるものとなる。一説には、1564年(永禄7年)に落城したとされて
       いる。蜂須賀子六という後の秀吉の武将は、その頃信清に仕えていたが、彼が信長に敵対
       するようになると、彼から離れるものとなる。だが、信長には直接に仕えるものとはなら
       なかった。信長の父信秀による手痛い仕打ちがあった事が忘れられなかったからである。
       子六が藤吉郎をとりあえず生駒屋敷の雑役護衛衆にとあずけたのがきっかけとなり、信長
       に仕える機会を得ることができたが、信長への仕官が叶ったのは、1556年前後の数年
       の間の内と見られる。60年の<桶狭間の戦い>には、何らかのかたちで出陣に参与して
       いたといえるが、おそらく信長の愛馬引きを任されたのではと、、、、仕官の初め、馬場
       用馬の管理を任されたからであったから。

 1559年 こうして信長は、守護、守護代を倒し、追い出して、永禄2年(1559年)までには尾張国の
       支配権を確立し、実質的に尾張の国主となった。年は25/26才の時であった。

 1559年 永禄2年 2月2日、信長は100名ほどの軍勢を連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に
       謁見した。

       美濃斎藤氏との関係については、未だ険悪なものとなっていた。今川氏との桶狭間の戦い
       (1560年)と前後して、両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。

       しかし永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃
       に出兵し、勝利(森部の戦い)して、織田家が幾分か優位に立つ。斎藤氏側では家中で分裂
       が始まる。永禄7年(1564年)には北近江国の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を
       強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。
          
 1560年 永禄3年(1560年)5月、信長が尾張国統一を果たした翌年、今川義元が、尾張国へ侵攻。
       5月19日午後2時頃以降、夕刻にかけて、信長は、精鋭2,000余の軍をもって今川軍の
       本陣に強襲をかけ、今川氏の前当主で、隠居中ながら出陣の総大将である義元を討ち
       取った。(桶狭間の戦い)

      ★信長の桶狭間の戦いは、まさに奇襲攻撃の如きものとなったのは間違いない。今川義元の
       本隊が、前戦状況すこぶる有利な結果を得て、意気揚々とした雰囲気で油断していた上に
       まさにその本隊が行列をなし移動行軍の途上であったから、なんら戦い本番直前の陣形を
       とっているような体勢ではなかったし、また攻撃を受けてからすぐに体勢を整えるような
       周囲の場所的環境ではなかった。それほど多くない信長軍が二手に分かれて両サイド斜め
       から総大将・義元がいると思われるほど遠くない処を突かれれば、あるいは前方正面方向
       の両サイドから突かれたとしても、もはや義元本隊の立つ瀬はなかった、一方的に攻め捲
       られる他なかったと云えようか。拠って信長の強襲作戦は見事に成功したといって、その
       まま信長の戦ぶりが評価されるのみで良いというものでもない。
       実はその強襲作戦にいたるまでの段階で、見落としてはならない、その成否を賭けた重要
       な鍵が見え隠れしているのだ。そのカギとは、大高城周辺を囲っていた信長方の二つの砦
       (丸根砦、鷲津砦)を征圧した松平元康(徳川家康)が率いる三河勢が大高城に留まって
       動くことなく、元康が信長の軍に正面きって当たろうとはしなかったからである。

       鳴海城の南に大高城があるが、その距離はわずか数キロにも満たないし、大高城から東か
       た方向にある今川義元が控えていた沓掛城までは十数キロ内外でしかない。しかも桶狭間
       の丘陵地も大高城からほんの5キロ内外で、その城とは地域的に見ればまさに隣り合わせ
       のようになっている地形である。そんな丘陵起伏の桶狭間に沓掛城に通じるくねくねとし
       た丘峡の山道、野道があって、義元の本隊がその丘陵地域に行軍してきたわけである。

       他にも脇道があったであろうが、松平元康(徳川家康)自身もそのあたりを1、2度通っ
       たばかりのところであったわけだ。元康は、信長の動きに対して、それを知っていながら
       自らは動こうとしなかったし、またその動きを義元本隊に知らせるような事もしなかった
       わけだ。元康は目をつぶった、一度だけ信長にチャンスを与え、義元を討ち取ることに賭
       けてみたという状況が見えてくるわけだ。桶狭間のいくさに至る前に、
       
       今川義元が駿府から出陣したという情報をえた信長は、すかさず自らの間者を密かに元康
       (家康)のところに遣わし、その作戦の手始めを開始したと推定してもおかしくない。
       かって竹千代(元康)が織田家から送り返される数日前に、うつけ者と言われていた信長
       から、心あかされるごとくに、励まされた信長の言葉に、自分が甚くうなづいた事を忘れ
       ないでいた。
           ”必ず吾が今川を討つから、その時、その事を約束しよう。それまで
            絶対に生きておれよ! 二人で天下をとろうぞ!竹千代!”
     
       その言葉にうなずき応えたことがあったとも、15、6才前後の信長と、8、9才前後の
       竹千代との、同じような境遇の下での契りの約束とでもなったであろうか、、、、
       間者のもたらした密書には、
        <上総介信長、竹千代殿に、今やその時が来[マイリ]しを宣し候、わが砦を落とし、
         大高城に入りしならば、直ちに狼煙を上げられたし。それにて候、信じて候>

       狼煙の合図は、今川義元が沓掛城を出て、大高城に直ちに向うべきことを促がす合図でも
       あったのだ。
       まさに信長も大胆なる一大決意、元康・竹千代を信じるほかない。命を賭けた大一番の密
       書であったであろうか。
       心ふるえる如くに武者ぶるい、こころ静にして動なる<幸若舞「敦盛」>を舞って、出陣
       いまや宜しくしたに違いない。
       
 1562年 2月18日(永禄5年1月15日)徳川家康との清洲同盟、尾張・国府の地、清須城において、
       これはかねてからの念願だった美濃攻めの達成のため、三河を含め東側の脅威をなくし、
       全力で美濃攻めに当らんが為の策であったが、小牧山築城と合わせて、三河の家康への牽
       制への布石も兼ねたものであった。

 1563年 小牧山城の築城なる。(築城期間:永禄5年1562年から6年63年中葉にかけて)
       永禄6年7月には、家臣共々、主要兵力の本拠地を移転させる事になる。
       織田軍は、この小牧山城を拠点として美濃侵攻を繰り返し行う。
       (1567年9月17日=永禄10年8月15日 遂に美濃稲葉山城が落城、信長により稲葉山城が
       岐阜城と改名、増修築され、その年の内にそこに移住するものとなる。小牧山城は、結局
       これにより、約4年間の拠点居住を終えて、廃城処分となった。)

 1567年 永禄6年(1563年)の後半以降、美濃攻めへの布陣を繰り返してきたが、美濃斉藤方の
       各地の家臣城主や武将らを調略して味方にしたりして敵方の勢力を崩してゆき、ようやく
       斉藤方の強い残存勢力が内訌により内からも崩れるものとなったこの年の9月初め、再度
       の兵力を結集し、密やかなる出陣を稲葉山城に向けて進めた。
       (西美濃三人衆・稲葉、安藤、氏家氏への調略、東美濃勢への手なずけなど)
       同月の17日遂に美濃国主・斉藤龍興を攻め込み、伊勢長島へと追い落とすものとなり、
       美濃稲葉山城を落城させるものとなる。信長33歳の時であった。これにより尾張一国だ
       けでなく、美濃の国も併せ領する一級なみの大名となり、天下にその名がとどろいた。

 1568年 折りしも京を中心とした畿内では、新たな将軍を擁立し幕府権力を争奪してその権勢体制
       を整え維持せんとしていた三好氏族系の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と
       松永久秀らに対抗、反目した一派(65年に暗殺された旧将軍足利義輝方の幕臣ら)が自分
       等の推し立てんとする将軍を擁して再起の時を伺う形勢を模索していた。
       今や勢いのある新進の尾張美濃国の大身・織田信長に期待するほかなくなり、朝倉義景の
       家臣として仕えていた明智光秀がわが主君には望み無きを見て、足利義昭の大義をほかの
       有力者に叶えさせんとして取次ぎ役を買って出て、信長への接近を図り、協力の議を求め
       てきた。この夏の暑い8月の事であったが、天下布武の流れ
       を読んだ信長は、これを好機と見なし、嫡流将軍たらんとする足利義昭の要請、三好氏、
       松永勢力追討の事、これを快く応諾するものとなる。

      *前将軍・義輝の弟・義昭を擁立せんとする旧幕臣一派の6人衆は、元側近の一色藤長、
       和田惟政、仁木義政、畠山尚誠、三淵藤英、細川藤孝であった。
 
       同年10月(永禄11年9月):上洛進展過程は、義昭出立の永禄11年8月5日~10月18日
                     朝廷からの将軍宣下を受けて、第15代将軍に就任するまで
                     の過程が、以下に記す如く見られる。

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       信長による上洛が敢行される。まず最初の出向は、永禄11年(1568年)8月5日に精鋭の
       馬廻り衆250騎に、次将軍・義昭とその侍従らを取りまき護衛する少数の手勢を伴って、
       岐阜城を出発した。
       この時点では、京への上洛の街道筋にあたる国々への事前の根回しで了解、支援が取れて
       いた状況であった。同盟関係にあった浅井氏方の佐和山城に宿陣(7日) するにいたった
       時点で、もう一度確認すべく南近江の六角氏(義賢・義治父子)に参陣要請を求める使者
       を送った。これは信長のこの機の上洛策であり、浅井の軍と六角の軍を率いて先ずは入洛
       を試みんとするものであった。使者らは要請拒絶の返答を持ち帰ってきたので再度使者を
       送り、恭しく低姿勢で困り果てた態度でもって入洛援助を願ったという。だがこの使者も
       六角当主にお目通りさえできず追い返されてしまった。ならば出直す他なく、一端、美濃
       岐阜城に戻り、

       同年9月7日、六角氏との対戦を踏まえた布陣体勢の自軍の兵1万5千余をもって、改め
       て出立することになる。(この出立には足利義昭を奉戴随行させてはいなかった。)
       12日の朝方に開戦となり、先ず箕作城の攻略となって戦端が開かれた。さらに木下隊が
       その夜の夜襲策を強行することでその城は陥落、一夜で落城したのを知った他の城の城兵
       も愕然として気力を失い逃亡、有力な支城で守りの要となっていた和田山城も戦わずして
       落ちてしまう。  
       最主要の2つの支城を失った六角氏は、篭城するにも兵力や防備が十分ではなかったので
       早々に自分の主城・観音寺城を棄てて甲賀郡に落ち延びていった。

       この信長方の短日勝利により、京に勢威を拠していた三好方は、援軍を押し立てる時すら
       失い、一致団結への緊急合意すら成らず、それどころか反って彼らの分裂の度合いが一気
       に深まりひどい具体化の様相を呈した。三好家当主の義継や松永久秀らは、信長の実力を
       見るに付け、いち早く臣従の意を表わし、また、かの三好三人衆らは、ろくに戦うことも  
       無く一時の後退もやむなしとして、本国のある四国の地に退散してしまった。

       こうして京都の敵対勢力を駆逐した信長は、美濃(現岐阜市内)の立政寺に控え待たせて
       いた足利義昭を招き来させるものとなる。
       9月27日、信長と義昭は琵琶湖の大津沿岸に近い三井寺に入った。翌28日、入京した
       義昭は東山の清水寺に、信長は東福寺に陣を敷いて、義昭の将軍就任の時、その儀の挙行
       手立てを執り行わせるものとなった。
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

      *信長にとって将軍家嫡流の義昭擁立は、自らに与えられた政事的役目と心得、それゆえ、
       大義名分を帯たる行軍の進行とするものであったから、抵抗する意向のものはすべて征伐
       せざるを得ずを旨としたものであった。それにより他国ですら自らの権益領土化すること
       も正当と見なしていた。 
   
      *10月18日に信長によって、三人衆が推戴する14代将軍・足利義栄(義昭の従弟)が廃され、
       将軍の座を義昭に取って替えられた。その後、奉公衆と共に仮御所としていた将軍義昭の
       六条本國寺の警護を、明智光秀を中心とする近江、若狭の国衆に託しただけで、信長自身
       は、主力の自軍を率いて10月26日に領国の美濃へ帰ってしまう。

      *この年、15代将軍・義昭の就任当時を前後して、摂津の国が平定された後、摂津の最有
       力の豪族であった池田勝正を起用して摂津国統治させるものとなったが、旧来からの幕臣
       であり、この度の義昭擁立就任にあたり、多大な貢献をなした和田惟政、及び旧来摂津の
       分地領主で信長の上洛時には恭順貢献をなした伊丹城主・伊丹親興の3人により、摂津国
       を3分統治の<3守護制>を定めて、その安定化を計っている。

       また、その折り筆頭守護は、池田勝正となったが、幕臣の最有力者で、永禄12年(1569年)
       1月10日過ぎ、六条本圀寺の将軍・義昭襲撃の戦に三好軍と呼応して叛旗した高槻城の入江
       春景を防御、降伏させたことで、武功をなした和田惟政が芥川山城より高槻城に移り、京
       の政務(所司代職)を担当している。
       さらに信長は、襲撃事件後の4月頃から明智光秀、木下秀吉、丹羽長秀、中川重政らを京
       と周辺の警護、及び和田惟政の補佐代行として所政奉行の実務に当たらせて、織田氏の支
       配権の充実強化を計っている。

 1569年 明けて1月5日のこと、
       手薄となった畿内の織田勢の隙をついて、三好三人衆は巻き返しを計るべく、義昭を討た
       んとして、かって信長に敗れて流浪していた美濃の旧領主・斎藤龍興らも加勢して六条の
       本國寺を襲撃する事件(本國寺の変=六条合戦)が起きる。
       信長は大雪の中をわずか2日で都に駆けつけるという機動力をみせたが、近江、若狭国衆、
       池田勝正の援軍と、明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退した。

       この時の信長の再来京以来、彼は数ヶ月のあいだ都に留まり、都再建復興という名目で、
       宮殿御所の再興建設を自らの本分と認了して、これに着手する。
       こうして信長は畿内の覇権をも大々的に自らの掌中に収めるものとなり、義昭は念願して
       いた征夷大将軍の座に就くことができたという時代の流れが具現していった。
  
      *信長の軍略、政略一体の卓抜した才能はまさに驚きであるが、その強力に培い鍛え上げら
       れての覇者精神のパーソナリティーも恐るべきものを見るかの如くである。彼が自らに天
       命と自覚したその覇者精神をもって戦国の世を生き、まさに超脱的に全てのものを眼下に
       置き据え、且つ、もっぱら己の使命、天職となす処のために超然豪粛に用益立てんとする
       の掌握的意識と、その戦乱とする世のただ中で、まごうことなき道理を深くわきまえての
       透徹した心での裁配は、我々現代人にとって、その育ちのパーソナリティーからしては、
       決して理解することの出来ないほど、深くて大きな隔たりがあるように感じられないでは
       いられない。

 1570年 この年、元亀元年の4月20日以降の越前・朝倉義景討伐、およびその制圧時での浅井・朝倉
       連合軍との戦い(姉川の戦い)へと拡大展開してから、天正3年(1575年)5月21日の
       武田軍との長篠の戦いまでの間の数年間での幾多の戦いが、信長にとっての戦国の世の過
       酷な戦時体勢の最大の修羅場の時期(72年から73年がそのピークの修羅場、敵方包囲
       網の形勢下に立たされんとしたが、朝倉軍の動き、武田信玄の死により辛くのその危機を
       逃れる。)となり、さらに

       それ以降の76、77年に至る時期では、新たな敵勢に西国・毛利[輝元]氏が加わり、摂津・
       石山本願寺、越後・上杉らによる反信長の連係勢力なって、それらとの戦いがいまや彼の
       最終的な山場、正念場となって、この戦の時期を乗り切るものとなる。
       このような過酷な生存闘争の時期を生きることにより、人(の意思、性格も)が変わった
       ようなものとなろうかと見られるが、戦国覇者としての信長という人物が出来上がってゆ
       くものとなる。

      *この時期の信長の戦陣状況を列記すると、
       ・元亀元年4月20日(西暦ユリ:1570年5月24日)以降、越前・朝倉氏討伐へ。
       ・ 同  25日以降、近江の浅井長政の裏切りにより、挟撃の戦況にたたされ、撤退戦
        への動向(殿軍による金ヶ崎の戦い)となり、信長は本隊を後にして、密かに少数手勢
        で4月30日(6月3日)無事に京へ帰還した。

       ・元亀元年(1570年)6月28日織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍は姉川で激突する。
        (姉川の戦い<西暦1570年7月30日>)
        この戦では勝ち戦になったが、相手を降伏させるには至らなかった。

       ・同年8月25日、信長が摂津に出兵する。8月17日以来、開戦断行してきた三好三人衆討伐
        のために、及びこの戦の最中、9月12日夜半に敵方に味方して突如襲撃してきた石山本
        願寺討伐の戦へと拡大(野田城・福島城の戦い<8月26日から9月23日>)

       ・同年 9月20日、21日再び朝倉・浅井軍が近江坂本に侵攻し、大津を焼き払い、醍醐、
        山科に進駐したため、信長が摂津から近江に軍を引き返して、それがために敵方引き篭
        もりの比叡山包囲戦という長期的な対陣(志賀の陣)戦の展開となる。その間に伊勢の
        本願寺系門徒の一揆(長島一向一揆戦)戦も起こる。
        (摂津から23日に入京し、翌24日近江坂本、比叡山包囲し~断続した戦となる。12月
        13日まで。)

        摂津では四国からの三好軍への大規模な援軍(篠原長房、三好長治らによる)があり、
        まさに周囲は敵対勢力ばかりとなり、織田軍敗滅もありうるような最大の危機的状勢と
        なったが、辛くも懸命な工作手法により、この修羅場を乗り切ることができた。
        11月21日以来、信長の機転を制する和睦工作を開始、将軍・義昭も朝倉氏への和睦調停
        を朝廷に要請、朝廷・天皇が勅命をもって浅井・朝倉との和睦を成立に至らしめるもの
        となる。(12月13日に和睦成立により、この時期の包囲網下を切り抜ける)
  
       ・1571、72年では、三好義継、松永久秀が手を組んだ叛旗など中規模、或いは地域的な武
        将等の戦であったが、摂津での荒木村重が高槻城主・和田惟政を討ち取り、先に信長が
        定めた3守護体制(池田氏筆頭、伊丹氏、和田氏)が崩れ、摂津方面が不穏不安定にな
        るという状況が信長にとって新たに懸念されるところとなった。
        筆頭守護の城主・池田勝正を家臣の荒木村重らは、信長が前年(70年)元亀元年の6月
        に近江の<姉川の戦>への出陣の最中に追放してしまい、そして、信長家臣の和田氏を
        倒して高槻を領有し、三好方に与する立場になったからである。
 
        そうした懸念状況がある中、何度も警告接渉をしても比叡山僧兵は叛意を解かない故、
        比叡延暦寺討伐の焼き討ちがなされる。この時期信長に新たな憂慮を起こさせたのは、 
        数年前より誼を得ていた甲斐の武田氏が上洛の意図を画して兵を挙げてきたことで、徳
        川領・遠江国への甲斐の侵攻<二俣城の戦い、三方ヶ原の戦い>で大敗(元亀3年12月
        22日<1573年1月25日>)した事であり、さらに三河国への侵攻をも許す事態となり、
        再び危機的な立場が迫るばかりとなった。
        73年2月には三河国・野田城の戦へと、武田軍の進攻はさらに展開する。

       ・73年には武田氏上洛西進のこの動きに呼応して将軍・義昭が信長に向けて挙兵する。
        この時いち早く京へ進軍し、義昭への鎮圧和睦に至らしめる。これは3月-4月5日ま
        でのことであったが、
        ほとんど一時な休戦のようなものとなり、再び7月に義昭は信長に立ち向かう。
        (以下の槇島城の戦いにて)

        この将軍義昭の挙兵に乗じて、反信長の三好方が一つに纏まる勢力となり、三好3人衆
        と義継、久秀が呼応するものとなり、それに石山本願寺も打倒信長を目論んで構える状
        況で、摂津、河内、大和など畿内各所が再び争乱の渦となる。(8月、11、12月において)
        (将軍・義昭は、先の70年8、9月の信長支援の戦で、信長へ先の恩の全てを返したかた
        ちで、きっぱり信長とは縁を切り、信長打倒へとわだかまりなく進むものとなる。)

        この時の信長の危機も、武田氏上洛作戦が、4月12日の信玄の思いがけない死により
        頓挫し、武田勢は本国へ引き返すものとなり、また浅井・朝倉勢も、時に乗じ適った機
        敏な反信長への動きも見せず、その時を逸したかたちとなった。信長にとっては、石山
        本願寺を除いて、この年の内に畿内の反対勢力をほとんど一掃することができた。

       ・同じ年の8月越前国朝倉攻め(刀根坂の戦い)、9月北近江の浅井攻め(小谷城攻め)
        にて勝利して、この月の24日には伊勢長島への一揆勢の討伐に向かい、これらの戦で
        その後の信長勢の展開を有利の進めることが明るくなっていった。

      *槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい):元亀4年(1573年)3月以来度々、7月に
       かけて行なわれた織田信長軍と室町幕府第15代将軍足利義昭軍の戦い。この間の4月に
       和睦の協定が成立したが、将軍義昭がこれを破棄して兵を挙げたため再発するものとな
       る。この戦いで義昭は信長に敗れて京都から追放され、室町足利幕府は名実ともに実質  
       的に滅亡し、義昭は中国・備州の鞆で工作を計るも再復帰を見ることはなかった。

 1573年 将軍義昭の信長への挙兵にて、その3-4月信長の京への進軍上洛、4月5日勅命にて
       両者一端和睦したが、7月再び義昭が対決挙兵、信長同月7日に進軍入洛、二条城を開城
       降伏(10日)後、義昭が立て籠もる槙島城へ進軍、これを包囲し、18日に義昭を降伏さ
       せる。義昭の処分は都からの追放、義昭の妹婿である三好義継の居城・若江城(河内国)
       に一時匿い留保される。
       幕府の勢力は、この機に壊滅し都から一掃され、この時をもって室町幕府は、のち復興さ
       れなかったので、その終焉を迎えた事になる。
       同月28日信長は元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上、これを成らしめた。

 1574年 信長、天正2年3月に上洛、この折り、従三位で参議に叙任される。
       7、8、9月、長島一向一揆征圧、

 1575年 天正3年3月、石山本願寺、高屋城周辺を焼討ち、両城の補給路を断ち、そのまま包囲体
       勢を維持、やむなく高屋城篭城の将・三好康長が降伏する。石山本願寺とは一時的な和睦
       がなされる。
       同年4月、武田勝頼、三河国の長篠城に攻め来る。信長、岐阜より3万の大軍をもって、
       盟友家康支援の出陣をなし、家康軍と合わせて3万8千余の連合軍は、5月21日武田軍と
       設楽ヶ原で対陣、その当日の合戦となる。
       世に云う<長篠の合戦>である。火縄銃の巧みな素早い使用法にて、迫り来る武田軍の体
       勢を一挙に崩すものとなり、大勝に導くものとなる。

       6月27日信長再び上洛、7月初め、天皇・朝廷よりさらなる官位授与があったが、信長は、
       これを受けず、家臣らへの官位授与を奏請、了承される。
       この後、11月4日、権大納言、同月7日に右近衛大将(征夷大将軍に匹敵する官職)に
       任じられている。

       前年からこの年にかけて、越前国の本願寺門徒衆による謀叛、内乱があり、この8月に越
       前国に進軍し、門徒一揆衆を征圧し、再び織田領と成す。

 1575年 この頃の信長配下の軍団は、
       上杉景勝に対しては・・・・・・柴田勝家・前田利家・佐々成政らを、
       武田勝頼に対しては・・・・・・滝川一益・織田信忠らを、
       波多野秀治に対しては・・・・・明智光秀・細川藤孝らを、
       毛利輝元に対しては・・・・・・羽柴秀吉を、  
       石山本願寺に対しては・・・・・佐久間信盛を配備した。
       
 1576年 天正4年 1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、近江守護六角氏の居城観音寺城
       の支城・目賀田城のあった安土山に縄張り施行せしめて、築城事業を開始した。

 1578年 この年10月、信長は荒木村重の突然の謀叛により、かなり気持ちを動転させるところ
       があった。摂津の領主にすえた荒木が、、、かって73年に一度は刀を突きつけ、許し
       免じたところが有って以来、忠公の至りと思っていたが、再び摂津を不穏な状況におと
       しめるとは、、勝正への反逆もわが方への裏切りであり、もはや2度の裏切りは決して
       許しおくものにあらず、、信長の憤激はいかばかりの事となったろうか。、、、

       荒木は、毛利輝元、先の追放将軍・足利義昭、そして石山本願寺(顕如)紀伊国の根来、
       雑賀衆残余の反信長勢力の方が、今や間違いなく有利と見て寝返ったからである。
       この時ばかりの信長の重い暗憂な心情は耐え難いもので、荒木勢への戦の処罰において
       さえ憤怒の極みとなったと見られる。

       もし、あの中国毛利勢力と戦い最中の<羽柴秀吉>までもが、それに影響されて叛旗し
       たらという懸念さえも頭によぎったに違いない。秀吉が自らの軍師・黒田孝高を荒木の
       居城・有岡に向わせたからである。その時の秀吉への毛利方との戦の停止命令での信長
       の思惑は、何を意図し、考慮したものであったろうか。
       (荒木村重の突然謀叛:天正6年(1578年)7月以降、翌天正7年(1579年)10月19日
       にかけて、かっての伊丹城なる<摂津国の主城・有岡城の戦い>、村重は、有岡城から
       尼崎城、花隈城と、篭城転居して戦うが、最後の砦となった花隈城の落城時には落ち延
       びて、西国の毛利輝元の許に到り、寄留するものとなる。)

       この年、天正6年1月、信長は従二位・右大臣から、さらに正二位に昇叙されている。
       しかし、戦の事で、翻弄没頭しなければならず、朝廷諸事の務めには関わりえず、
       彼の気質、道理として、その4月には突如として右大臣・右近衛大将を辞職している。
     
 1579年 天正7年 5月、完成した天守に信長が移り住む。

 1580年 天正8年4月、10年ほどの長きにわたり、敵対関係、戦を繰り返してきた石山本願寺が、
       信長方の有利な条件で和睦するに至り、その本拠地・大阪を退去するものとなる。この
       和睦は、朝廷の計らいで天皇・正親町の勅命宣旨によりその実現に至った。

      *その8月、信長は現家臣団の譜代筆頭老臣・佐久間信盛、嫡子・信栄の親子を戦奉公不熱
       心、不手際など、信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられ、高野山への追放処
       分を受けている。石山本願寺戦だけでなく、先の1572年の三方ヶ原の戦いでの家康援軍
       の対武田戦での味方と強力歩調を合わせることなく退却するという失態をなしており、
       盟友家康及び配下の家臣、諸将にシメシが付かなかったし、ここで気を緩めては天下の事
       成らぬとの思いがあり、引き締めて気合を新たにせんとしたわけであったが、、、、。

       (信長の佐久間父子に対する<19条折檻状>について、『信長公記』では、信長の京
       郊外の<宇治橋完成>直後の見学視察後、8月12日その近場から船で大阪の佐久間氏
       滞在先に乗り込んで、彼らに対面しその処置を為している。この折り、やはり、佐久間
       父子らは最期のドタン場になって、大損失を信長に齎すような不手際、管理不注意の落
       ち度をなしたと、信長の眼には映るほかなかった。本願寺が誇る最大の門徒城が、8月
       2日の午後の何刻かに火が付き、3昼夜の大火で燼灰に帰してしまったからである。

       信長は以前より、かの安土城にまさる以上に、地の利豊かなその地、大阪の城を拠点に
       将来の展望を予見し、大きな期待を寄せていた。この8月2日の明け渡し完全退去後に
       は、そのことをしかと確かめるべく、そこを訪れる予定であった訳で、このような予想
       外の大損失の結末に到った事のゆえ、この事態が突発的な引き金となり、佐久間父子へ
       の長年に亘る事への異例の折檻状というかたちで、その責任追及が断行されるものとな
       った。この処置は、彼の憤激にもまさりたる道理の義を行なう適正妥当な対処だと信長
       自身もわが身を切る思いで見定め計ったようだ。

       実際の処、先の勅命綸旨による本願寺の大阪退去の事に関して、信長は少なからず訝る
       ところが生じていた。そのことを佐久間信盛にきつく問い正したかどうかは定かでない
       が、実に不備性、曖昧ホコなる事情の流れがあった。つまり、閏3月7日に本願寺方が
       誓紙をもって来る7月20日までに退去するとの筆書を交わし、勅使・近衛前久他2名、
       信長方・松井宮内卿法印、佐久間、そして安土の信長公からの検使・青山虎が立会い、
       庶事が定まり、いよいよ実行し得る運びとなったわけだが、、、。ところが何とも早い
       時期に、4月9日に門跡の顕如、北の方、及び主要な年寄り衆らの大阪退去をなし得る
       や、新たに若い新門跡・教如に大阪本願寺を受け継がせるというかたちでの、まさに寝
       耳に水という退出を行なっている。
       若い新門跡に跡を継がせて、後始末を委ねるという言い訳が通る訳であり、7月20日
       期限までのうちでの退去という事であるからして、退去する方はまーまー良かろう云々
       であったわけだが、、、、しかし、

       信長にとっては腑に落ちない、スッキリしない事態であった。勅使の近衛らと本願寺方
       だけが後から勝手に了解し合い決めた事であり、それを安土の信長のところに通達して
       きただけであり、納得のいかぬ不埒な対処、事態としか思えないということであった。
       信長もその退去時には、すっぱりと完遂すべく、誓紙筆呈の協約時に約定した礼金を投
       与してケジメをつける手筈であった。
       その礼金は、勅使ら、及び佐久間ら2人をも含めて、総合計:黄金の金子・200余枚
       であったが、その4月9日の門跡・顕如らの退去時にはもはや易々と下賜するわけには
       いかぬという事情に相成るに至った。

       これは<信長公記>では、後の7月2日の本願寺要人らを伴った勅使らの安土来訪時に
       支払われる状況に至っている。この折り、<信長公御対面これなし>、代わりに子息の
       <中将・信忠卿>がこれに当たっているという状況を伝えている。その後、大阪本願寺
       若き新門跡は、立ち退き期限内をオーバーして、漸く8月2日、未の刻[午後2時前後帯
       の頃]退去を行なっている。信長公よりの御検使・矢部善七郎を相加え、佐久間氏らの立
       会いの下、、その請け合いが終了するところであった。)
       
       佐久間父子へのこの処断は、後に信長自身にとっても、家臣武将らにとっても心理的、
       軍事的に影響して悪い傾向、禍根に至らしめるような誘因となる。信長のお膝元、畿内
       地方の大兵軍団の常時の統率管轄に関わる面で、何かしら見えない大きな空洞ができた
       かのようであったのだ。
       今まで信長側近の近衛軍団としての目付け守衛の大将の役目も兼ねていた譜代・佐久間
       氏が失脚させられ居なくなったからである。代りに明智光秀が何かと頻繁に起用され、
       今や光秀が筆頭家老となったようで、光秀が率いる軍団規模が大きく膨れ上がり、信長
       足下の近衛軍団となる馬廻り衆はそれに対して如何ほどであったことだろうか。

       (光秀も筆頭家老といっても、やがては佐久間氏のように使い捨てだとの、思惑を抱い 
       ていたであろうし、何かと信長の召使いのように仕え、口答えをすれば、怒られ、忠言
       もままならず、信長へのお側仕えにはヘキ壁して、彼への悪い印象をいだき、心の溝が
       深まるばかりで、主従の関係がギクシャクしてしっくりいかないものとなった。以前は
       そのようではなかったが、それは関係に幾分なりとも距離を置くものであったからだ。
       それにそういった悪い<主従関係>のすき間を窺い知って、巧みにチャンス到来の時へ
       と活かし利用せんとする、よりすぐれた知見を有した切れ者の眼のあったことも否めな
       いかもしれない。)
               
 1581年(天正9年)この年信長は1度ならず2度、御所の広場等にて盛大な馬揃えデモ祭典を催し
       ている。
       1度目は2月28日(旧暦)で、天皇、朝廷重鎮、公家貴族らが特設高坐席から観覧さ
       れる。
       2度目は(旧暦3月5日)4月の頃(新暦の復活祭の後)で、この折りには、イエズス会
       の権威ある巡察師ヴァリニャーノら一行をも列席招待して、その観閲をさせている。
       この時は、最初の催しには見られなかったデモ内容や、馬よる競技(競走、馬術曲技、
       古来以来の流鏑馬など)が披露されたと見られる。

      *3月1日(旧)信長は再び左大臣の官職に推任の勅書を受けているが、彼が正親町天皇
       譲位の強い要望意向があって、譲位されれば任官するとの条件で留保した。その後、
       朝廷側は信長の意向を呑んで、一端は譲位する旨を伝えたが、3月24日に譲位不履行
       の勅使通達を受け、左大臣への就任はお流れとなった。
       (天皇譲位不可の理由は、今年は、陰陽(おんみょう)道で祭る方位の神、<金神>の年
       だから、最重要儀典における移動、移転などは吉祥でない、凶となるとの事由で。)
       
      *信長が初めて巡察師ヴァリニャーノとの会見をしたのは、この年の復活祭の翌日の事で
       あった。彼が宿泊している本能寺にヴァリニャーノが訪れたからである。その折には、
       数時間以上にわたり話し合いがなされ、信長にとっては、様々な現今の世界事情や色々
       な知識、情報を得たと見られる。ヴァリニャーノ氏のこの最初の畿内・都への巡回には
       ルイス・フロイスが随行しているので、彼が通訳の手助けをしたと見られるが、その本
       能寺での会見では、すでに京在住していた会士が通使を務めたと思われる。

      *この年は信長にとって、何かしら心刺激されるというか、ひどく高揚されるところ多々
       にあったようである。巡察師ヴァリニャーノが高槻城で盛大な聖週間及びその復活祭の
       式典をなしたという事を聞き知ったりした事も、彼の今年2度目の馬揃えデモ祭典を執
       り行う契機となったと見られる。
       その2度目の行事を終えた後、すぐに近江の新都市、その居城、新安土城に帰還してい
       るが、そこへもヴァリニャーノが後を追って訪れ、会見の時を過ごしている。
       (ヴァリニャーノ師はその安土で、一ヶ月ほど滞在したのち、他の摂津や河内の地方を
       も巡り終え、いよいよ都及びこの地方を去り九州下シモ地方へ帰還する際には、再び安土
       に戻って来て、信長に別れの礼をなすほどであった。)
             
 1582年 この年は日本史でも名高い<本能寺の変>が起きた年で、信長最期の時となったが、そ
       の時への事蹟の流れとして、色々な事が信長最期の時への兆しを満たすものとなった。
       (この<変事の言及>は後述の項にて)

       この変の起こる一ヶ月と七日前あたり頃、丁度信長が甲斐武田氏を討滅して駿府、遠江、
       三河経由で安土に帰陣した旧暦4月21日の数日後、24日頃であろうか、夜の大空に
       いちじるしい彗星ホウキボシの出現が見られたという。当時の伴天連フロイスら外国人は、
       本国のヨーロッパで天動説、地動説問題などが生じた事もあり、天体気象への関心度が
       高かったせえで、フロイスも後に記した自著「日本史」にその事象を書き記している。

        ”五月十四日(西暦)、月曜日の夜の九時に一つの彗星が空に現れたが、はなはだ長い
         尾を引き、数日にわたって運行したので、人々に深刻な恐怖心を惹起せしめた。
         その数日後の正午には、我らの修道院(安土の)の七、八名の者らが、彗星とも花
         とも思えるような物体が、空から安土に落下するのを見て、このめずらしい出来事
         に驚愕した。”(文庫版信長篇Ⅲ‐第55章P-138引照=原書第二部40章)

       ところが<信長公記>太田牛一著では、これについて一切触れられていない。つまり、
       信長の安土帰還の<旧4月21日から5月10日過ぎあたり>まで、家康公の安土での
       饗応参上旅の記述直前まで、その間の記述無く、まったくの空白状態で、そんな彗星出
       現の記述はまったく見られない。

       明君、主君のご恩、崇敬の信長一代記なので<不吉な星の出現事象>など記す訳にはい
       かないと見られるものだったかも知れないが、、、。
       だが、この星らしきものを<信長への不吉な運命の星>なる天命として読んだ人物が幾
       人かはいたと思われる。その中の一人が<明智光秀>であったりして、彼はひそかにそ
       の兆候に後押しされた心の面があったかも知れない。

      *非常に驚くべき事だが、確かにその星らしき彗星は、その時を境として<信長の運命>
       がまさに<定まり決まった事>を表わし示した兆キザシ、その前兆を意味するものであっ
       たと見てよい。
       どうやら彗星[ホウキボシ]らしきものが、引動していた小惑星的な物体がその時、<賽は投
       げられたり>と云うが如きものとして、安土のどこかに落ちる風合いに人の目に捉えら
       れたものとなった。(これは大きな隕石が高熱を発して燃焼するように、相当な光の輝
       きと拡散的な火花を放った感じで落下したものであったようだ。)
       
       神の大いなる摂理的なご掌業面から深く黎明的に解受すれば、かの古代エルサレムから
       始まって、地の果てなる極東の日本までの、長い旧世界観的世界の終わりの時期におい
       て、まさに神がなし給うた<天空事象による最後の意味ある印シルシ>であり、且つ、神の
       ご意思、主権決断、許認を表すものであったわけだ。

       (何か特別な星なのか、その彗星、かってエルサレムに主イエスのご降誕に際しても、
       特別な星が出現したわけであったが、、ハレー彗星(75、6年周期?)のようにある一定
       の周期も知られない。天体的資質や星状構成も異なるものと見られる。常識的に見れば
       一見まったく彗星の類と見られ判断されるであろうが、ある別の見方をすれば、これぞ
       神の特別な光のベール、バリヤに包まれた<キリストの星>とも言うべく、<天の新し
       きエルサレム>を擁した天体らしきもので、光の反射光が、雲と、高山から噴出する水
       蒸気が後方に大きくたなびいて映ずる事で、その光の尾を演出するものとなったとも推
       測されなくもない。)

       フロイスの<信長という人物>見識、人物像となるような多々なる記述は、大まかに見
       て、反面善的で、反面悪的なものとなる。それらを総合すると滅裂なものとなり、一つ
       の統一された人格像とならない向きがあり、彼にとっても未だ知り得ていない、ちゃん
       と深く的確に捉え理解し得なかった、信長の本質的相貌の一面があったのではなかろう
       か。それがまた、フロイスの信長への不可解性の表明であろうかと思われるが、、、、
    
       フロイスに信長への誤解的な人物見識があるとすれば、その成因の場となるような拠り
       所は、やはり基本基底的な面で両者の生きてきた世界が異なっていたという、プリミテ
       ィブな相容れない相違を根底に有していたからであろう。(熟成したキリスト教世界と
       日本独自に熟成した異教国精神風土との相違)

       信長の幼少の頃からの師匠となった沢彦宗恩[タクゲンソウオン]和尚、その人は、信長が美濃国
       を征して尾張・美濃を有した国主なった1567年頃までは、信長の指南参謀・教導役
       の後ろ楯として、彼の許に隠然と仕えていたようである。信長自身にとっても、まさに
       全面的に信頼をよせ得る人物であったから、非常に心強いものとなっていたであろう。

       いよいよ天下を治めるの道、<天下布武>の時へと進むにあたり、沢彦和尚は僧侶ゆえ
       身を引こうとも考えていた。が、信長はこれを許さず、還俗して留まってくれるように
       懇願催促する。お膳立ての経歴は、美濃国で土岐氏、斎藤氏に仕えていた人として、今
       や、公けに信長に仕える祐筆(秘書)、姓名を新たに名のり変えての登場というもので
       あった。即ち
       これが<沢彦[タクゲン]和尚イコール=還俗名・武井夕庵[ユウアンorセキアンとも]>である。

       沢彦も武井も実際のところ、その生い立ちからの経歴に直に判明できるような歴史的史
       料にはすこぶる乏しい存在である。(信長公記では武井の方は70年代半ばが初出で、
       82年までに4ヶ所の6度ほど、その名に係わる表記が見られるのみである。特に81
       年の京での<お馬揃えのデモパレード>で、この時すでに75年以前からか、入道坊と
       して<二位法印の僧職官位>を受けていたが、その70余歳の武井が、山姥[ヤマンバ]装束
       で騎乗して出ているのが奇々に目を引くところである。これは何か彼にとって、人生最
       後の暗黙にして晴れやかな、自己or意思表示のようなものだったかも知れない。)

       フロイスの例の著書では、71年の冬場に日本布教長フランシスコ・カブラルとフロイス、日本人修道
       士ロレンソ、コスメ ら一行が美濃国・岐阜に信長を訪れた際、いち早く武井(=沢彦)が信長
       に取り次ぐ状況を記述している。(文庫本:信長篇Ⅱ・42章P-268= 原本:第1部95章)
 
       フロイスのこの記事の部分(P-268,269)について、夕庵(武井)のほかに友閑(松井)とい
       う老人の名も出てくる。彼によると、その松井友閑も、以前は仏僧であったとの認知を
       示している。友閑は在家坊主として室町幕府・将軍義晴と、子の義輝に仕えていた経歴
       があり、68年に信長が義昭を擁立して上洛する前後には信長に仕える身となるが、その
       前、65年の永禄の変以降、一時期、岐阜城下に移り住み、堺、京の豪商らとの商い取
       引をなしていたとの記録もあり、その折信長のお召し抱えとなったとの推定もされる。

       ともかく双方共に在家坊主のようなものとして、信長の行政内外政策のトップ官僚に留
       まるものとなった。75年以降、友閑(松井)のほうは、和泉分国・堺の代官に赴任し
       ており、他にもう一人有力な行政派官吏に、村井貞勝(信長家臣団の最古参)がおり、
       73年の将軍・義昭追放後には、京都の所司代としてその任を命ぜられ、京都の諸事全
       般を監督、取り仕切るものとなる。

       ところで、夕庵(武井=沢彦)だけは、岐阜から安土の時に至るまで、ずっと変わらず
       信長のお膝元にとどまる存在であったようである。しかも信長足下の家臣団の一翼とし
       て、在家坊僧集団を取り仕切る坊主長ともなっていたわけだ。安土の総見寺が出来た折
       にはそこを監督するものともなった。(開山名義は、織田一族の名を借用しているが、
       実際は、夕庵配下の禅僧<尭照?>が実務・住職管理に当たる任をなしている。)

       こうして信長の私的坊主集団<摠見寺>というかたちが、夕庵をして出来上がってきた
       と見られる。それはいわゆる修行僧兵をも兼ねていた。また安土に伴天連キリシタンの
       修道院兼神学校セミナリオが出来た影響で、安土城の少年小僧らも修養学僧として加わ
       るものとなる。彼らは安土城の早朝の清掃お掃除当番を任されていた。

       創建当初はもちろん、古来からの仏教セクトには関わっていなかった。が、城下町の民
       衆らと同様に<盆の祭りなど>を行なうようになったりして、真言系とも一向系とも、
       また禅宗系とも、表向き色々織り交ぜたような風合いを帯びるようでもあった。
       (信長死後には、セクト系が明確に系統確保して、ちゃんと占めるものとなる。)

       この安土・摠見寺創設への流れも、信長天下への夕庵の政策的ナビゲーションの結果で
       あったと見られる。
       とくに夕庵にとっては憂慮すべき点が持ち上がってきた。それは信長が堺での貿易に関
       わる収益、財力関係の利点から伴天連・キリシタンとの親交を誰よりも有利に進める以
       外に無かったからである。
       71年の冬場に日本伴天連トップのフランシスコ・カブラルが岐阜を来訪して以来、と
       みに気がかりが強くなったようである。以前のフロイス来訪時以上に今や信長が親伴天
       連傾向を深める状況であったので、適時それなりの進言忠告を促がすものとなっていた。

       信長がいつも<夕庵(武井=沢彦)>に意見を求める際には、二人別室にての事を常道
       となしていた。したがって公、私的な会見、拝謁などの場、カブラル師との会見の折り
       など、その場に臨席していても、信長に意見を求められる事もなく、また夕庵自身も意
       見することはなかった。夕庵は、じっくりと会見等の内容模様を観察熟考して、事が終
       了した後に、信長からの”どう思うか“等々の問いに応えると共に、自らの意見を述べ
       る役柄を分担するものであった。

       <伴天連の布教、およびキリシタン宗門>の信長天下への利用、その政策課題も念頭に
       あったわけで、夕庵にとっては今や伴天連がライバル的な存在となった。信長の伴天連
       への信頼が厚くなればなるほど、また信長がキリシタンになるような事が万が一にも生
       じてはまったくどうしようもない、彼としてはすべてが水の泡となるからであった。

       夕庵も自分の描く信長天下の大成を夢見て、信長ナビの教導を考慮せずにはおれなくな
       った。75年以降のある時に信長から意見を求められた際、彼は、次のように述べたで
       あろうか。(あくまで推測であるが、、、)

        ”殿は確かに古来からの宗門が不義収奪に満ち、堕に落ちた状況を見ておられ、また
         本来のご気性にも馴染めないご性質であらせられるから、伴天連の教えにも傾倒、
         心を同じくする趣きを感じられましょう、、それは伴天連たちの清き布教精神の熱
         意にその道理を見て、魅せられるからでもありましょう。だが、殿は、今の日本を
         決してお見捨てなさるな、、、、
         伴天連の説き伝える<外国の救世主・キリスト>を信心しなくとも、殿ご自身が、
         善政をおなりなさり、現にそれを実行され、宮家内裏や公家も救援救護なされ、諸
         国の道路の整備、通行関税を廃止され、庶民一般への多大な福益をもなされ、日本
         の救世主は、殿ご自身であられたとしても良いというものではないでしょうか。
         何もわざわざ伴天連の説く<外国の救世主>を受け入れ、信じなくとも、、、“

       夕庵はこのように意見し、くぎを刺すように歯止めのナビをなすものとなる。こういっ
       た内々の意見、また進言が何らかの形で反映するものとなる。例えば、、、

       天正6年、1578年の正月朔日、信長は、朝の初茶湯事に、家臣らの中から12名の
       者らを召し選んで、茶の湯を振舞っている。場所は御殿の内でも個室風なところで、右
       側が解放的で4尺幅ほどの縁側付きの6畳の部屋であった。これは今までに無い、正に
       異例の家臣らへの振舞い事であり、
       伴天連らが伝えるキリストの12弟子、12使徒の事を模しての、信長足下直臣らへの
       12人限定指名の、信長自身が特別に意識したところの振舞いであった。

       これは、先の天正2年、1574年元旦の酒宴の時、朝倉と浅井父子の頸・頭蓋を漆
       と金で塗装彩色して、興に添える肴とした宴会の折りとは対照的だとも言えるが、、、
       (確かにその頃は皆、いくさ、戦で修羅場を生きているようなもの、心あらぶり、あれ
       果てていたから、せめてもの武者魂の鎮魂として、酒の酔いにまぎれての一言をその前
       でいい放つことで、気がすっきりするというものだったかも知れぬ、、頭骨は格式ある
       白木の台に布座を添えて据えられ、元日の日に相応しいものであった。その前で愚痴を
       いう者、武勇を讃える者、冗談を飛ばす者、叱咤する者、涙声で語りかける者、旧知の
       事をあれこれ語る者、そのほか色々、皆、演技っぽく興に入るというものだったとも)

       その後、1574年にフランシスコ・カブラル師が2度目の都入りをして、丁度在京していた
       信長を訪問している。その日時は定かでないが、夏場に入る時期であったと見られる。
       どのような会話内容、談義の場、状況であったかは記録には無いが、どのようなかたち
       であれ、さらなる親交、親睦が深まったと思われる。

      *夕庵武井の対伴天連への憂慮も一進一退というところで、彼は、信長も伴天連への対応
       に自身の立場をどう位置付けるかに、今やその自覚を心得秘めているとの様子を垣間見
       て、一応の安堵感をほころばせていたが、かの九州での豊後大友氏、日向進出の際に、
       島津氏に大敗して、自国及び従属諸国の治世が動揺、動乱状態との情報を耳にして、何
       か一層安堵の色を隠せない気持ちにも駈られたが、何時わが殿信長にしても、同様な事
       態に陥るや知れないとの、一抹の不安がよぎる、、、。この時期は、いまだ厳しい時勢
       への思惑と共に、自らの指針に落ち度のなきことを願うばかりであった。
       (摂津領主で、家臣であった荒木村重の思わぬ謀叛で、大変な窮地に立たされた事も、
       大いに反省させられるところとなった。この謀叛は一体何なのか、謀叛の根とその表層
       的な切っ掛けとは、、、まさに沈思させられるところとなった。)

       80年前後には、伴天連・キリシタン宗門らに対しての信長の自覚的立場も板につき、
       <日本の救世主たる立場>として、今の時期にこそ彼らを支援加護するのが得策、最も
       適切だとの方向付けを心に秘めたものとなる。だが、その優遇好感の度合いは、家臣ら
       だけでなく、誰の目から見ても奇々驚々として余りあるものと見なされたから、そんな
       格差、不公平さやらに映るものが、荒木謀叛とかの誘因となりしや、とも疑念した、。

       信長と共に心労多き過酷な日々もあったが、そんな数年が過ぎようとしていた。そして
       81年になり、再び新たなるライバルの登場に接するを余儀なくされるものとなる。
       イエズス会の大物・日本巡察師ヴァリニャーノが来訪、畿内、及び都にやってきたから
       である。
       豊後からのヴァリニャーノ師が訪れようとする時期に重なるように、信長も本年81年
       の初上洛であったが、それが<お馬揃えデモ・イベント>の日に続く、本能寺での滞在
       となる。
       (都の通りと通りの間の一町域の同一区画内に本能寺と、イエズス会の教会&司祭館が
       あり、歩いて3分と掛からないお隣同士であった。そんな便ゆえ、ヴァリニャーノは、
       高槻城から都に到着した夜の翌日には、さっそく信長を訪問している。)

       夕庵武井は、信長に進言して止まなかった。”殿、お油断なさるな、キリシタンらの言
       うところの噂では、かのローマとかいう大本山の大身の来訪だとか、、、、殿も日本の
       大救世主たるの自覚を秘めて、お抜かりなくご対処されますように、、、、安土にも殿
       がわざわざお招きされなくとも、あのような豪勢な施設(修道院と教会など)整ってい
       ますゆえ、間違いなく訪れましょうに、、、殿、今や前々から申しておりますごとく、
       <日本の救世主たるの本分>をもって、<天下布宗>、すべての良き宗門を殿の下に統
       一ご融和なされるべきお志をお忘れなさいませんように、、!!!”

       丁度その頃行なわれた<お馬揃えの行事>が終わるや、数日と経たぬうちに信長は本拠
       地安土に帰っていったが、この折り、ヴァリニャーノも、彼の後を追うかのように安土
       に滞在先を移すものとなる。かくも信長の庇護の下にあるイエズス会及びキリシタン宗
       門であったので、もっと信長という人物を知り、理解できればと、また、出来得るなら   
       ば、信長を得ること(キリシタン信徒にする事)をも思い図って、安土での滞在を時間
       の許すかぎり長くとり、京の本拠に代えて安土を本拠地にして、その一時の巡察、聖務
       諸任務を行なうものとなる。

       二位法印・沢彦なる夕庵の大いに感じ入るところ、、、一見しただけでも、今まで出合
       った事の無いほど存在感を感じさせる、大物の御仁であろうかと、、、信長様にとって
       も手ごわい相手となろうやとも、、、、<天下布宗>の大義、成るや否や、、、、、、
       (フロイスの記述では、ヴァリニャーノが豊後から都に向う折り、畿内のキリシタンら
       は自分らで、5、6隻の船をチャーターしてお迎えに参上したいので、ということの打
       診をしている。また、安土を拠点にした滞在では、5月から7月か8月頃までいたとの
       記述が見られる。旧暦での日本の祭事・盆の行事の最中、信長とヴァリニャーノらが談
       話しているのを記しているからである。)

      *沢彦[タクゲン]夕庵、かの伴天連の頭目は、明晰で先見の明あり、しかも指導力にも甚だ富
       んでいると見抜く。我が殿、信長様の存在が薄れる程だとの、ある種の危機意識に捉わ
       れる。特別に本年(81)の<盆の祭事>を特番に嗜好を凝らして挙行したのも、夕庵の
       発意であり、その取り仕切りを命じなさしめたからのものであった。
       彼にとってはもはや躊躇している時ではないと思われたので、<天下布武>の信長天下
       大成への進展に合わせ、<天下布宗>への足場固め、その布石を安土の総見寺をして、
       いよいよ始めねばならぬと決意した。

       かくして、安土山の城下山腹の摠見寺創建以来の本義が公表され、その門前には案内事
       由として高札掲示が建てられ、安土城下の町々だけでなく、他諸国にも布れ知らされる
       ものとなる。それらの項目的内容文言の中には、本尊<信長の誕生日を聖日>として、
       当摠見寺を参詣することを義務付け命じたものも見られた。このようにして、
       <日本の救世主としての信長の顕位>を目論んだ、信長礼讃、礼拝を旨とした体制作り
       の布石が敷かれるものとなる。(この時、ほんの一部を除いて、すべての家臣らは、ま
       さに寝耳に水といったところで、だれも知らず、唖然、驚感の表情であったろう。)
  
       いまだ<天下布武>の平定が半ば達成途上であり、その最終大成があたかもすぐ先に見
       えたかの如く思われる時期であったが、、、信長もその気構えで、この<天下布宗>の
       布石に上々乗った気持ちで、師匠・夕庵画策の秘策をこころ良しとし、励行してゆくも
       のとなる。

      *この82年(天正10年)の<信長の運命(変事の死)>は、彼個人のたんなる運命で
       はなく、日本の歴史的運命そのものであったということであるから、まさに大いなる驚
       きであると言わざるを得ない。これにより日本の運命が、未来永劫とは言えないまでも、
       半永久的に定まるようなものとなる。

       その実のところとして、明治維新におけるような、ヨーロッパ的な事情視点から見て、
       前近代的とも、未近代的とも定かならぬ装いで、<王政復古>という様体として古代か
       ら中世におけるような古い権威が復活、復興してきたからである。
       これは欧米キリスト教国から見れば、西紀600、700年代以降、垣間見る事のなか
       った、千年後における古き異邦の<古代復活>をなしたる事を全面的に意味するものと
       なった。
                 
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 <・濃  姫:>天文4年(1535年)? - 弘治2年(1556年)9 月19日? / 慶長17年7月9日
         (1612年8月5日)?・・・・没年には諸説ありで、確定されないところあり。

       戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。斎藤道三の娘で、織田信長の正室。
       名は江戸時代に成立した『美濃国諸旧記』などから帰蝶(きちょう)とされる。
       母は明智光継の娘・小見の方。兄弟に斎藤利治。明智光秀とは、明智一族系として、
       従兄妹同士という説がある。

       (この濃姫については、信長の正室であること意外、時代の表舞台に現われるような
       事跡もなくて、歴史的史料となるものは残されていない。信長の各本拠地・最初の
       那古野城から清洲城→小牧山城→稲葉山城(岐阜城)→安土桃山城と幾度も遷居するな
       か、その城を奥方として、しっかりと守り整えてゆく、その内助の功をたゆまず果し
       ていたと見るほかないとも。だが、それでも別の見方として、あえて推理すれば、
       正室・濃姫には<天下統一的体制の本筋的流れ→(徳川天下)>の筋書きにとって、よ
       からぬ面があったから、それを秘め置く事もできず、というのは、織田の信長自身の
       存在に関しても、徳川家統一体制への本流命脈的起点として、先の秀吉を乗り越え、
       秀吉は単なる中継ぎでしかないものとして、信長の歴史的人物像を巧みにその虚像的
       な面を添えもって粉飾し、当世歴史に残せる文書(信長公記)としなければならないと
       いう体制的事情があり、その信長の存在像ゆえに、濃姫・奥方に関する事蹟、事柄も
       歴史的史料の痕跡となるものには何も触れず、ほとんど闇に葬り去ったような結果と
       なったということではないかとも、、、)
      ★それにも拘わらず、信長の大奥の外目からの存在様相は、秀吉に伝播継承され、次に
       徳川歴代に延々継承されていった、その最初のオリジナルティーを示すものであろう
       とも、、、けだし、信長の大奥には、彼の戦略上のある役目を成すような秘密の働き
       所を有したものであったのではないか。これを取り仕切っていたのが正室の濃姫であ
       ったということになるが、如何なる家臣からも知られないように覆い隠された、信長
       自身の秘密の強みであったということで、外部には内の事は一切漏れないように気配
       りしていたとの事であろうか。

      ★濃姫は本当に実在していたか、非常に不確かなところが多くあり、歴史の史実上に係
       わる疑念を醸し出す大きな謎である。その例証的な事柄を列挙すると、、、

       ①『信長公記』大田牛一の著として、信長の死後、秀吉時代末までに回顧録的覚書と
        して著述したものをベースに、1600年以降(関が原合戦後)彼の晩年近く(1610年
        前後)までに原本編纂が成立した著書だとされ、初の人物一代記なる英雄・信長を
        物語る内容のものであり、且つ、軍記物とも云える類のものである。
                この書においては、原文での直接言及は、以下の文面のみにて、、、、

        “ 平手中務才覚にて、織田三郎信長を斎藤山城道三聟に取り結び、道三が息女
          尾州へ呼び取り侯ひき。”

        信長の父・信秀がその9月3日から22日にかけ、道三の居城・稲葉山城の城下まで攻
        め込んだ戦で、戦陣の引き際の油断により、かなり手酷い惨敗をした後、道三側は、
        さらにその勝ちに乗じ、大柿城(大垣)に進攻これを包囲したが、信秀は木曽、飛
        騨両大河を渡り、道三居城の井ノ口城(稲葉山城)方面を攻める虚に出る。道三は
        おどろき、即刻自軍を本拠地に返して、双方とも全面合戦することなく帰陣する。
        そういった状勢があった後、織田家・家臣の平手政秀の才覚により、和睦が調計さ
        れ、<信長を道三の婿にし、道三息女を尾張に迎え入れる縁結びがまとまった。>
        と述べられている。
        
        ※この牛一の著書は、1巻から15巻までが先に編纂成立し、そのあとに首巻がまとめ
         編述されたものである。1605年(慶長10年)頃までに15巻本が完了され、1610年
         (慶長15年)までには首巻が追加されていたと見られるが、その首巻本が牛一の
         オリジナル手稿のものか、どうかが疑問視されるところである。何故ならば、太  
         田牛一がその最晩年の慶長15年に姫路城主・池田輝政にその『信長公記』を献上
         した際には、1巻から15巻のものでしかなくて、首巻本はなかったからである。

         この15巻本は、現岡山大学付属図書館池田家文庫所蔵のもので、通称「池田本」
         と言われているものである。(備前・姫路城主・池田輝政、その父、池田氏とは、
         信長の生誕時と全く同年代で、信長とは乳兄弟として育った池田恒興という、有
         力重臣であった家系の関係上、太田牛一にとってはいまや唯一残存せる、信長と
         の由緒ある古知の同胞家臣ゆえ、その子息・輝政に献上贈呈したと見られる。)

         <首巻本>が牛一の手に依るものでないとすれば、それは相当大掛かりな、文書
         次元での各方面に裏付け関連性ができ得るような、そんな歴史捏造の代物という
         ことにもなり兼ねない。(これを池田輝政に献上してないのも頷ける。)
         織田家没落、希薄化したその子孫状況の時期を機とした、正にこれは<鬼(信長)
         退治>をなし終えた、古代、中世以来の体制、各界支配者層の階級的体制擁護で
         の以心伝心、縁起係わり<世の空気を読め>の示し合わせ反応のなせる所業にな
         るものか、、、、
         
         とにかくこれは大変な歴史偽造カラクリであり、今日に至るまで、誰一人として
         気づく事のないことであったであろうか、ズバリ言うなれば、斎藤道三は、文書
         上で創作された架空の歴史上人物であり、実在の人物・<斎藤利政>その人に成
         り代わって記されているということである。道三の名前が(創作上)どんどん名
         跡を踏まえるようなかたちで変わって行くのも、この事を巧みにカモフラージュ
         するような効果を前置き的に考慮しているからである。(<斎藤利政>の出自、
         過去及び系譜を完全に消し去っての事であるが、土岐頼芸の守護代を務めた実在
         の斎藤利茂の名を<利政>に替えて、その名をもって道三を創作したとも、。)

         道理や正当な大義をもって事をなす信長にとって、<美濃国攻略>を正当化する
         には、道三というような人物を歴史上に捏造し、それによって信長の美濃進攻に
         対する印象付けをより一層良義に明白なものにすべきだったのだ。

         信長と濃姫(=帰蝶[キチョウ])の縁談も、隠された実在の人物・斎藤利政と小見の
         方との息女としてのそれに当たるものだが、今や婚約が成立したものとなったわ
         けだが、その公記文書では濃姫が実際に輿入れしてきた状況記述などは一切記さ
         れていない。
         普通ならば、娘の父親なる道三が、婿となる信長を見極め、納得した上で<輿入
         れ>させるものとなろう。(道三と信長の会見記事があるにはあるが、、だが、

         縁談成立時の折りには、未だ15、16歳の<輿入れ娘>の年頃にはなっていな
         かったという事情もあり、なお二、三年の有余がある少女期だったと見られうる
         訳で、その頃の信長がうつけ者だったから、輿入れの際に総家あげて儀礼的な式
         もしなかったという記風で、記されていないものとなるのかとも、、。)
       
         したがって、その首巻本は、一応信長と道三の会見事情を書き記すものとなって
         いるが、しかし、その後も、その前も、また、その折に合せても<濃姫輿入れ>
         の記事は記されていない。むしろ信長を道三の娘をして、<婿入り>的な印象付
         けをする為の代替としての、会見模様記事として創作したのでは、と見られる。

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        ★歴史の真相は如何に、、、記された歴史からその史実を認め、真実を知り得たと
         しても、可能な限り多様な側面を考慮念頭にしなければ、それはただ時代の一側
         面を見た限られたものでしかない。

         『信長公記』が信長一代に関わる記録の文書として、その時代に深い係わりを成
         し、且つ時代の流れとの相互相乗的な影響の過程を導出リードしていった歴史的
         事実を垣間見ることになるわけだが、その時代社会それ自体が暗出するところの
         ある志向的な動向趨勢が、大いなる世相的要望を伴摂[ハンセツ]するかたちで、その
         主導性を執り得るものとなる。

         これは『信長公記』と、そのあとに後継併存的に成立してきた小瀬甫庵(オゼホアン)
         の『信長記』の二著書をして、その存立所為を現に後付け例証したものとなった
         と言えるものだ。
         
         《信長から秀吉への時代の流れに限定しての考証ならば》                
         ============================
         その大いなる時代的要望志向が漂い醸す諸思情の関連的構成表象は、<信長から
         秀吉へ>という時代の流れに限定把捉して説明すれば、以下の如くになり、それ
         らからは自ずと<信長(その大いなる生涯関連共々)>を再基点的、刷新的に取
         り込み、自分ら(民族、伝統のアイデンティティー共有)みずからの体制的将来
         への発展をより正当に促がさんとするものであり、また、そうしたものになりゆ
         く、或いは、そうしたものになるとの方向性をも有していると見るべきである。

        イ)武家の主導する社会が<鎌倉、室町>と2度に亘り続いたが、3度目の正直と
          云わんばかりに、今度こそは本物志向、乱世なき、ゆるぎない太平の世とすべ
          きを本望本願として、ようやく武家社会の全体的足並みが揃うようになる時節
          の到来を間じかに感じるようになる。このような時代趨勢の折り、
          牛一の『信長公記』、及び、一般民衆町人向けをも考慮した甫庵の『信長記』
          の二書は、かって飛鳥の終わりから奈良時代への過渡期に成立した『古事記』
          や『日本書紀』の2書が、その朝廷天下社会での大いなるいしずえ思潮となっ
          た如くに存立したように、今や武家の社会天下体制においても、同様なそれと   
          して位置付けられるものとなった。

        ロ)信長亡き後、秀吉の天下人としての登場、まさに最大の動向要因となろう。
          疑いなく時代の流れを方向付けた主導者となり得たのは、やはり豊臣秀吉であ
          る。この秀吉は、信長の家臣時代に、信長がとみにイエズス会の利用活用の術
          を益として了見していたので、その路線を疑念無く自然継承してゆく。
          その線に乗っ取ってゆく形で、一応イエズス会の布教活動、キリシタン宗団を
          好容認したとする向きがあった事は疑い得ない事実だが、いよいよ1584年、
          85、86年に矢継ぎ早に朝廷から<権大納言、内大臣&従一位・関白、太政
          大臣>と官位官職の最高位の栄誉を得て、己が天下の体制の政治的眼識も変っ
          てゆくものとなる。
          つまり、今や朝臣トップの朝廷人としての自覚から天下を治めるという立場に
          立って物事を見極めねばならぬという、いわば<豊臣幕府>成立に拠らない別
          異な天下人の立場からであって、武家社会階層のトップ征夷大将軍の従来的立
          場からではないという事を念頭に置かねばならなかった。

         【九州平定直後の7月下旬での突然の伴天連追放の布告に係わる変容】
          秀吉の心変わりは、85年8月6日に関白宣旨を受けたのち以降、変わり始めた
          と見られる。それがたとえ次ぎの<九州平定>に備えての、或いは畿内うちわ
          の新体勢造りの諸策を主意としたものであったとしても、高槻城主・高山右近
          をその所領地から播磨の明石の地に国替えした事は、彼の心に変化をもたらし
          た証左ではなかろうか。
          その頃には、様々な相乗効果があり、壮大な大阪城の築城とその城下町の繁栄
          と相まって、中国、四国地方、関東、奥羽地方までかなり鎮まって平穏、太平
          な傾向にあり、またキリシタン宗門の全国的な流行、風靡により、戦国時代の
          残忍乱世からの直接、間接的にも、世相浄化の向上効果もあって、海外へも、
          対諸外国に対する自国・日本国本来の良い自意識を持たんとする気風にも目覚
          めるものとなる。
          そういった趨勢の兆しを見せる秀吉天下だが、彼自身は慢心の歴史的野心家、
          欲望の塊人格であり、また、それまでに子宝に恵まれないという致命的な欠落
          もあり、自分天下の行く末を殊更に憂慮しないではいられぬ気持ちがその心を
          暗欝にしていた。

          当初は子宝に恵まれるために召抱えた侍医もいつしか色事欲得の泥楽の執着の
          ためのそれに変わっていた。その色事侍医による讒言によって、自らの足下の
          キリシタン家臣、武将等の存在を思い直すや、疑念を抱き、その評価は低落し、
          もはや、彼らの存在は必要なかろうという考えを内に抱くものとなった。

          そんな心境のうちに秀吉は、その最終的決断を、西国・九州への遠征時点で、
          その地にて、視かと見定めるべく心し、
          九州一円のキリシタン事情、宗勢、イエズス会の影響力、及びキリシタン大名
          の存在意義問題、九州での争乱戦争の事情、等々を鑑みて、事を断行、決しよ
          うと密かに腹に決めて望んだようである。
          (この秀吉の思惑には、側近軍師なる黒田官兵衛の存在が微妙に絡んでくる。
          九州平定への目論見の前に、その官兵衛までが思いがけなくキリシタンになっ
          たからである。)

          <秀吉は、又しても右近の奴めー、官兵衛までもキリシタンにしおってと、思
          いつつ、
          官兵衛に対して“おぬしは何ゆえにキリシタンになったのか”と、内々に問い
          質した事があったと見ても何ら不思議はない。。そんな事はあり得ないと推断
          するほうが不自然な事であろうから、、。官兵衛に目を見張った秀吉が、あえ
          て彼に問うたとする方が、極めて自然の成り行きであったと云えそうだ。

          官兵衛はその時、巧みに、
          “殿のおん為ですよ、某、殿の代りに成り申した事ですから、、これからさら
          なる、殿の天下磐石に向けての、富貴、富強の為の一策としてですよ、、、”
          と、答えたであろう。官兵衛の秀吉向け専用の本音のそれであったのか、自分
          の本心を隠しての建前であったのかは知る義もないが、、、。

          その後、九州平定を控えての事、、
          秀吉は、九州に向けての体勢が整いつつある中、側近官兵衛に対して、官兵衛
          自身は如何なる戦術で対処するかを、その良き秘策が有るや無きやを問い詰め
          る心境となった。秀吉は官兵衛を、長宗我部他四国勢や毛利中国勢を大々的な
          先鋒として差し向け、動かしめる総イクサ奉行・軍監の立場に任じていたから
          である。
          黒田官兵衛は答えた、、、

          “このたびの殿のご幸運なる天下の目論み、おん殿がみずから未だかってない
          大軍団を率いてご出陣あらせられるとなれば、遠距離、日数等により、それだ
          けで、もう大変なるご出費でござりまする。イクサにはお金の入用も定かなり
          ませぬ、、、イクサでの莫大な戦費を避ける意味あいでも、その諸々の消耗、
          犠牲などを極力押さえ、できる限り短期間で決着がつけられたらと、所望致し
          ておりまする。
          よって私めとしては、おん殿の大勢力に物言わせるべく、密かなるとも、大々
          的な調略作戦を展開いたしとう存じます。そのためには、おん殿によって遣わ
          された私め自身の信用、信頼度をより一層高め、敵方諸衆に最大限にそれを知
          らしめ、伝わるように振る舞わねばなりませぬ、、それ故に、でありますが、
          かの九州の地は、その土地柄、いたってキリシタが流行っておりますれば、こ
          の風潮を利用すべく、私めの宣伝的活動よろしく、、それをねほんにして調略
          効果、首尾よく実らせんと試みる所存でありますれば、、、おん殿よ、某は、
          現地の九州では(高山)右近のお株を奪うごとくに、彼奴の立場を利用し、振
          る舞いたく決意いたしておりまする、、、、、、。”と、
          
          秀吉聴きて曰く、、、
          “ううー、具体的な細かな事はよー判らぬが、、そちの言わんとする主旨は、
          良く判ったぞや、、ならばわが隊の陣容いかにだが、そちの計をくんで、最前
          線ともなる一番隊から右近めを外し、彼奴を三番隊あたりにまわし、任せてお
          くべきじゃのー”と
          
          官兵衛、さらにこう付け加えて、秀吉に助言した。
          “さように宜しかろうとも、、、ところでつい最近、右近やキリシタンらから
          の確かな知らせですが、、何でも九州におりまする伴天連イエズスの頭目上長
          が、こちら大阪の方に出向いてくるとの事、おん殿へのご謁見訪問が間違いな
          くあろう事と存じまするが、、
          おん殿におかれましても、天下九州への聞こえ、ご信頼を宜しゅうすべく、大
          いに御歓待、ご処遇あそばされますように、、これも九州平定への事前の策処
          の一つでござりまする、、、、。”> と

          フロイスの「日本史」記事によると、関白秀吉の副管区長コエリョ一行への歓
          待ぶりときたら、まさに尋常でない異例の大振る舞いであったと記している。
          (文庫版:秀吉篇Ⅰ-第9章P-106<第二部75章>)
          この畿内大阪地方訪問時のあい間に、コエリョが毛利領・山口の件で、黒田官
          兵衛への懇請会見に臨んだと見られる記述もある。
          (文庫版:同第10章P-120<同76章>)

          黒田官兵衛の異例のキリシタン布教熱、イエズス会への助力、お膳立て奉仕は、
          九州平定への前段階から、毛利氏の治める中国地方に遣わされた時から始まっ
          ている。ほんの一時期の間ではあったが、高山右近の活動のそれをはるかに越
          えて影響力を及ぼすものとなった。

          彼は、九州平定布陣中、いつも二人の日本人修道士を引き連れて、陣営将兵か
          各主将に至るまでキリシタンの教え、説教を聞かせ、随時洗礼を受けるように
          仕向けていったからである。
   
          天下の関白秀吉が、大いにキリシタンを歓迎し、その筆頭側近者が、布教に大
          いなる熱意を込めているという事で、その趨勢は今や留まるところ無きほどに
          なっていった。だが、このキリシタン趨勢が、仇となり、裏目に出る事となる。

          その事情は、九州平定を成功裏に成し終えた後に結果するものとなるが、秀吉
          自身にとっては、その平定はさほど困難なものでなく、むしろ平易と云えるよ
          うな進展を見せるものであった。

          ただ、平定事業終盤、その大詰めとなった頃、すでに先行部隊(小西、脇坂、
          九鬼らの部隊)が薩摩領内に進攻し、食いつぶしていったあとで、何も残って
          いない状況であり、(5月下旬6月初め頃=天正15年4月下旬5月初)また、遠
          距離からの兵糧の供給も途切れてままならず、味方陣営全体への兵糧が切れて
          しまう。それに長雨の日々が重なり、諸部隊に一部餓死者が出たり、病人が続
          出したりで、兵営状況、規律の乱れが懸念された事と、さらに
          薩摩・島津の降伏和議成立後、その征還帰路の途に着いた矢先、暗殺策謀の危
          事があり、事前にそれから免れ得たとは言え、そんな危惧すべき事態にも直面
          した事など、まさに自尊、威信の心を削がれ、ひどく気を害して、あとに尾を
          引く心理的諸因ともなった。

          無事博多に帰還し、しばしそこでの滞在中、秀吉に何が起こったのか、、、。
          秀吉の本心が、その憎悪と憤怒と化して何か突発的に噴出したかのような、そ
          の即下、直接的引き金、導火線となった事情要因となったものは何かを、以下
          の如く項目別に挙げる事で解析検証されようか。

          ①、今回の九州平定のイクサが、以前何度も経験してきたものと、どこか感覚
            的にズレ違って、イクサ風情が異なるように感じられた。秀吉自身が、こ
            の1年半ほどの間、イクサの現場状況から遠ざかっていたからではなく、
            この度の出陣に掛けたる自分の、この上なきステータス(関白・太政大臣
            としての)に価する尊大な手ごたえが全く感じられなかったからである。

          ②、イクサの実践的現実からも、何にも得るものがなく、何の利得、収奪する
            に価するような分配物もなかった。秀吉が九州に踏み込む以前からその地
            には絶えず紛争、混乱のイクサがくり返されてきており、つい今しがたに
            至っては島津勢の制覇踏襲に晒されたばかりであり、財となるようなもの、
            残余の蓄財も底を尽いているといった現状であった。それ故に、、、
            城を落しても、そのお宝・収穫物を得るといった、通常のイクサ模様に付
            随すると目される何らかの副産物にあり付くにはほど遠いものとなった。

            (筑前の秋月種実の降伏時のような例外もあるが、これは秀吉の利得心を
            満たすだけのものであり、配下の部将等には恩賞の足しにもならない。
            秋月の降伏献上品が、かねてよりずっと秀吉が所望していた天下一品の茶
            壷<楢柴肩衝>で、彼にとっては思いがけない入手物となったが。)

          ③、薩摩から博多への凱旋(7月12日=和暦6月7日)後、直ちに戦後処理が行わ
            れ、新たな九州国分令の告布、仕置き処理がなされるが、その処置はもっ
            ぱら秀吉の先を見据えて(関東奥州出征と朝鮮への出兵備え)の処断とし
            ては、極めて妥当で抜け目のない狡知に長けたものとなった。が、しかし
            これは、小早川隆景や黒田官兵衛ら3、4人は別として、他の多くの主将、
            部諸侯らへの論功行賞の裁量の処遇を手立てる余地もなく、満たすもので
            はなかった。

            このような事態は秀吉の尊大なる威厳、権勢を低落しかねないばかりか、
            遠路遙ばる参陣した諸将、諸大名らの不満を大いに内につのらせるところ
            となり、暴発蜂起への動きを招きかねないと、懸念予見、憂慮すること甚
            だ大であった。
            また、加えて秀長と官兵衛が日向でのイクサが終結して、はや2ヶ月にも
            ならんとするに、官兵衛いまだ、こちらに姿を見せぬとは、如何にや、、
            <秀長に付くのを好み、天下のわしを嫌い見限るようなこと、、あるわけ
            ないと思うが、、秀長を担ぎ上げて天下を盗らんとするの下心、その官兵
            衛への疑心、、、
            当の官兵衛は、8月(和暦6月末頃)の初に博多に来着したが、その間、
            秀長に同行(豊後・府内及び臼杵などにも)していたのか、、、博多では、
            副管区長コエリョに出会う事なく、その折り司祭はすでに追放令を受け、
            博多を去り、平戸に移った後であった。

            (秀吉の政治<策謀>的支配力は、並外れたものであったと見られ、ここ
            でも予め予知して時を移さず、自らの権力をある方向に大いに行使する事
            で、不満状況の早期払拭、回避を計るものとなる。
            これがいわゆる、かっての越中国主で、現・秀吉の御伽衆の佐々成正と、
            現キリシタン大名・高山右近の二者をして、その正逆対照的に象徴となす
            ような扱いを見せ付けた処遇、処分を敢行したものであった訳だ。

            その二者の扱いを介して、それが大々的に注目される諸事状況の成り行き
            となり、参陣従属していた諸侯らの慮りの秀吉権勢の強大さ、揺るぎなさ
            を改めて見せ付けられるものとなるというものであったが、、、。)

          ④、秀吉の戦後処理の策謀と、内々に秘めたる諸策とは並行的に進展してゆく
            ものとなったが、その内に秘めたる案件として、秀吉自らが、しかと掌知
            した九州一帯でのキリシタン、イエズス会の活動状況は、いよいよもって
            甚だしく疎ましいと見なすものとなった。

            その平定事業のイクサの最中では、その九州での勢力争乱の戦国状況が、
            キリシタン諸侯、大名らと、そうでない従来既存の大名らとの相克争いで
            あるとの様相を呈したものではないかと、まざまざと実感するに至る。

            この事は、豊後危機の大友宗麟の援助を契機にして、<自分天下>の泰平
            内に九州全域を取り込むべく、その平定事業を目論んでいた秀吉にとって、
            その遂行に何かしらディレンマを感じざるを得ないものとなる。

            (自分天下の日本国形成のための九州平定を試みるものであるのに、現実
            的な実情からは、九州キリシタン勢力、大名らの側に立ち、大々的な味方
            支援のイクサを展開しているに過ぎないという自己矛盾、その錯綜、嫌悪
            すべき意識に捉われるものとなった。)

          ⑤、戦後処理も、秀吉らにとって何ら利益、収穫となるものも乏しく、反って
            自分天下の権勢を失墜しかねないような九州事情の土地柄であったので、
            これからの天下泰平の善政を目指して、博多の町、港の復興を目論み手が
            けるものとなるが、、。かって明との勘合貿易で大いに栄えていたと目さ
            れた博多が今では壊滅して焼け野原と化していた。ここを復興して自らの
            直轄地とし、大阪畿内地方の港、堺などと直結した交易ルート体制を意図
            せんとするものであった。(長崎の港は、概して全く辺鄙な処と見て。)
            だが、
            九州平定で唯一得られたこの将来的に大いに望み豊かな博多直轄地構想の
            夢も、あらぬ事柄条件で、実現不可能なるを知るものとなり、この現実に
            秀吉は憤怒の思いをぶつけるものとなる。

            (秀吉は再三、ポルトガルの定航船を博多に廻航するよう命じていたが、
            その定航船は大型で、博多湾に入港するのが甚だ困難であるとの事、水深
            の浅いところが多く、航路どり難しく座礁する、海岸近くに停泊できない
            など、そういった意見表明を船の司令官・ドミンゴス・モンテイロは、秀吉の
            御座所に直接出向いてしなければならなかった。その折りには尤もらしい
            言い訳に過ぎないと見て納得したふりをしたが、後でしっかりと海域、海
            路調査を試みては見たが、それが本当であると確認する破目となった。)

          ⑥、伴天連の首長らが、小型のフスタ船で博多湾岸に留まっている間、陸地の
            各陣屋にいた将兵らが船見学を兼ねて、頻繁に訪れるものとなる。それに
            合せてイエズス会の布教活動も盛んに行われる状況となる。

            一方、そんな情勢を見聞きする秀吉とその政庁家臣一派の側は、国分け令
            の発令をもって、秀吉天下の権威、権勢をアピールしたが、その後にあっ
            ては、誰も秀吉を表敬訪問する者もなく、良き献上品を齎す謁見もなく、
            仮尽くめの箱崎の地の御座所、政庁も閑散として、何かしら自分権勢の低
            落振りを示しているかの如くとなった。

            尊大さを誇示していた秀吉も、イエズス会の盛況ぶりに嫉妬するだけでな
            く、あたかも自分自身が時代の流れに取り残されるとかの、そんな疎外感
            と、一抹の不安を錯覚させられて、ひどく自分が害されているとの現実に
            直面して、憤慨この上ない心境状態となる。
            この九州でのキリシタン事情、イエズス会活動状勢は、まさにこれからの
            <自分天下の国、及び国の興り創成当初からの長きに亘る従来的な偶像崇
            拝慣例とその諸々の教え、諸文書を基盤とする日本国>を根底から害する
            ものとの強い見識を、明確に描き抱くものとなる。
          
          以上の如く、九州の地にあって、自分天下たらんとする尊大さと威信の低落、
          その異国的九州の現時代動勢での疎外感、ディレンマ、決起参集の蜂起、謀叛
          への疑心など、そういった上記項目概容がつのり働きて、即刻的な導火線の役
          因となったようである。
          秀吉は、自分権勢天下の堅持アップ、誇示高揚するを兼ねて、伴天連イエズス
          会士をして、彼らを国外追放をするという、己が権勢の権力を行使したが、そ
          れはいとも政策的な合法さを巧みに盛り計るかたちで以て、突如強行打診的に
          敢行する挙に出る事により大勢化されんとするをも目論むものであった。  

          その九州征業の諸事を無事成し終て間もない頃、87年の7月24日の夜半、
          秀吉は、伴天連イエズス会士らに対して、突如その心が豹変した如くにキリシ
          タン勢力衰滅の目論みを暴露するに至る。
          その翌日には政事的特性を帯たるもの、いやそれ以上に大いなる大義の意向を
          告示したるものとして、司祭らはその<伴天連追放>の布告令、5ヶ条書きの
          朱印付きで(政庁の正式公文書のものとして。グレゴ暦で:7月24日)、
          日付けが<天正十五年六月十九日>付した文書を担当使者から手交されるもの
          となる。

          その折り、副管区長コエリョ、フロイス及びポルトガル船司令官ドミンゴス・
          モンテイロらは博多の海岸に碇泊中のフスタ船にいたが、その前日の夜半には
          尋問調書を受け、良識ある返答を関白秀吉に申し伝えるように対応したが、す
          でに親愛なる高山右近が真っ先に<追放処分>を受けた事を知らされ、非常に
          心痛めるショックを隠せない状況で、停泊中の船のところに帰っていった。
          この関白秀吉の態度変貌により、世相、世情はその方向を大きく変えるものと
          なる。
          (司祭らの帰りがけの海岸で、一人の貴人が待っていたが、その結城弥平次・
          ジョルジなる人物はキリシタンであったが、公家出身、或いは縁戚関係の親密
          なお武家らしきもので、初期布教の60年代の初めに大いに信頼されたキリシ
          タン貴人・結城進斎山城守の甥ではあったが、どうも怪しい成り済ましの世情
          諜報お役目の<どこからか息のかかった人物>であったようである。)

         *博多の海岸では、秀吉が司祭らが乗る<フスタ船>に乗り込み来て、入念にす
          べて見学して、そのすぐれた造りの有能さ知るものとなる。さらに外洋向けの
          ポルトガル船が、如何ほどのものであるかをしかと確認したかったが、そのポ
          ルトガル船の司令官の言う事に、“博多には船を安全に止められる港がないし、
          浅瀬、暗礁からの危険があり、こちらまで曳航できない”といった言葉に接し
          て実際には見てはいないが、これも見ていないが故に、簡単には博多の海にも
          来られないという大きなものか、これまたすぐれたもの、と想像するわけで、
          それらの船に関する件からも、あらぬ妄想がさらに大きくエスカレートしてい
          ったと見られる。
          
         *確かな事として知られる点は、秀吉が大阪城を築城する頃、1583年頃から
          85年の頃までは、つまり、三河の徳川家康との戦争、及び僧兵・傭兵宗門と
          化している根来、雑賀衆の紀の国征討戦争などの頃までは、まさに
          キリシタン武将ら、及び側下の馬廻衆の幾人かのキリシタンらに、まごうこと
          なき信頼を置いて、わが身の安全を囲われ、保障しうるものと認めていたよう
          であったのだが、、、

        ハ)秀吉にとって、今や自分天下の権勢をさらに推し進め、先々維持して行く上で、
          キリシタン大名、武将、家臣らを含めたキリシタン宗団は、今後を見据えれば、
          今までにない最も強力でアブノーマルな宗徒集団でしかないと、九州に至って
          はっきりと自分の立場を打ち出すことができた。キリシタン宗団の強い支柱で
          ある高山右近を排除し、イエズス会伴天連をすべて国外追放することで、自分
          天下の暗雲的きざし、憂いも一掃できたというものであった。

          これにより、次の段階は、自分天下の権勢を如何なる方法でその太平への堅固
          な基盤造りを成すかということで、可能な限り全国的に2つの政策事を、全面
          的に打ち出し敢行するものとなる。いわゆる土地の収穫量となる石高を明確に
          把握するための<検地>調査、そして、翌88年8月の<刀狩り>で、百姓農
          民、仏僧からの武器類(刀から鉄砲を含めて)の没収、お取り上げという具体
          的な施策で、
          戦国乱世からの太平の世への移行脱却を少しでも大局的に推し進めんとした。

         ★秀吉はそれでも全国の諸大名の勢力台頭には安心できないので、叛起などの連
          鎖で再び国内乱世の戦の頻発を防ぐために、その本心を決して明かさない秀吉
          は、渦巻くそれらの国内諸勢力を<海外への遠征>というかたちで放出する事
          を念頭においていた。(狡猾極まりなき暴君ですかねえ、、大正、昭和のイデ
          オロギー盛んなりし戦前の時代もその世相底流次元では同じですよ、、)

          中国・明への征服、そのための朝鮮半島への進出、それが実際に文禄、慶長の
          役となったわけである。
          そういった海外遠征に関しての談話的公言は、しばしば信長でさえもしていた
          が、秀吉の場合もポルトガル人司祭らにあたかも胸の内を明かすかの如く発言
          しており、しかも大勢の家臣らにも聞こえるように話しているが、この折にも
          秀吉には他に色々と思惑があったとみられ、いわゆるシナ(中国)に海外拠点
          を持つポルトガルという国勢力の何がしか知るきっかけとなれば、あるいは、
          そういった日本側の遠征の試みを吹っ掛けて、それに乗ってくるような働きか
          け、そういった協同的な野心の動きを少しなりとも見せるや否や等々、軍船や
          その他の軍力はどうかなど知りえればと、、、一種の腹のさぐり合いという面
          も、そういった会見談話の場にはあったと見られる。

          (次の後継の家康では、各藩大名の勢力を削ぐために、<参勤交代>制度が設
          けられ、それがまた経済促進の効果ともなったというものだ。秀吉の遠征では
          その浪費が反って秀吉天下の共倒れの傾向、衰退の一因ともなったかもと、、
          色々な面で家康は、その情勢を見ていて、自らの時への展望、内省の学、経験
          を積んで自分の天下体制作りの方向付け、指針に役立てたとも、、、)

          *1587年<ガスバル・コエリョの履歴に戻る>
                   

       ②『言継卿記』戦国期の1527年(大永7年)から1576年(天正4年)の50年に亘って書
        かれた、公家の山科言継(79年没73歳)の日記。
        これにおいては、
        “永禄12年(1569年)8月1日付の日記に信長が(信長本妻の)姑に礼を述べるため
         会いに行くとの記述がある”
         
         *道三は歴史上では、1556年に討死、または敗戦自害しているので、この姑は、
          誰かと云えば、<小見の方>ということになろうか、、、、しかし、69年での
          日記上での記述、それとなしにの、何とも曖昧ファジーな、間接的見聞からの
          記述なのであろうか。<小見の方>は1551年(天文20年)日付3月11日として、
          既に死去しているとの記述が、他文書(後に『美濃国諸旧記』の構成の資料伝
          承となったもの)に見られる点も、歴史の曖昧さ、不明瞭さの影でもって、何
          らかの真実性を隠し被うものである。

       ③『美濃国諸旧記』大正4年7月2日公版された国史叢書の類で、『濃陽諸士伝記』を併
        記対編して一つの書籍にしたものである。 編纂資料となったソースの史料的な逸話
        や古文書類等が、寛永(1624年~1645年までの元号期間)の末頃以降、しだいに風説
        や、言い伝えとなったものを、他の既成の関連諸本を踏まえ創作されたものである。
        これらを纏めて編纂し、その名前を『美濃国諸旧記』と書名化して、大正初期に刊行
        しているものである。(最初から『美濃国諸旧記』というものが、『信長公記』のよ
        うに存在してたわけではない。)
        これにおいては、
        ”道三に嫁いだ小見の方は、美濃国の明智庄の明智長山城主・明智光継の娘(長女
         又は三女と伝わる)で明智光綱の妹で、道三との間に帰蝶(のちの濃姫)、孫四郎
         (龍元)、喜平次(龍之)、末子の斎藤利治(長龍)らを産むとの伝えがあり、具
         体的に<濃姫=帰蝶>についての言及は見られない。”
       
       ④『勢州軍記』寛永15年(1638年)まで、或いはその前年までに書き纏めて成立したも
        のである。戦国時代の伊勢国を中心にその出来事をまとめた軍記物であり、信長と同
        時代の記録を主要な内容としている。

       ⑤『明智軍記』元禄年間(最古の元版は1693年版)の江戸幕府作成のものである。

       ⑤『近江國輿地志』近世江戸中期、享保8年(1723年)から享保19年(1734年)に完成し
        た近江国の地誌。風土記のような歴史地理誌である。
       

        寛延の元号は1748年から1750年の3年間のみである。寛延1年~3年まで。
                家康在世時の禁教令:江戸幕府が1612年(慶長17年)及び翌1613年に発令した

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 <・細川
   ガラシャ:>永禄6年(1563年)- 慶長5年7月17日(1600年8月25日)旧姓は、明智 珠、
          明智光秀の三女で、細川忠興の正室。
       
       ガラシャという名は、彼女の洗礼時に付けられた洗礼名だが、後世の近代・明治の
       時期にキリスト教徒らがその呼び名で讃えるようになったと云われている。
       天正6年(1578年)8月、16歳の時に父の主君・織田信長のすすめによって細川藤孝
       の嫡男・細川忠興に嫁いだ。(両者は同い年であった)(父・光秀50-51才)

      *珠・ガラシャが洗礼を特別な聖なる配慮により、主侍女マリアから受けたのは、秀吉が
       九州博多から<伴天連追放令>を発して、その報せが畿内大阪、京に届いてから、その
       何日かが過ぎてからであった。実に将来への様々な希望の思いが消し去られる思いで、
       涙せずにいられない日々があったと見られる。
       彼女が邸にとどまるなかで、手立て知恵を尽くして侍女等を教会に送り出し、その時ま
       で(追放令の報せがとどく以前の頃まで)に20名近くの侍女らが洗礼を受け、キリシ
       タン(クリスチャン)になり、まさにその当時の大阪の教会・修道院の密かなる陪席家
       内教会を主導している風の細川家ガラシャ婦人の邸であったと見られる。
       その歴史的証しの詳細は以下の著書にて
       (フロイスの『日本史』第二部106章:文庫本・織田信長篇Ⅲ<中央公論新社刊>)

      ★光秀の息女であるこの珠は、光秀が信長の本家臣に召抱えられた頃、1569年前後に
       当時の武家社会の主従の慣例に従い、信長への忠誠の証しに、その娘・珠を信長にしば
       らくの期間あずけ入れたことがあったと見られる。信長の岐阜城の秘策の大奥での幼女
       教育が如何なるものであったか、、、、それは信長とその奥の方以外は知る由もなかっ
       たであろう。
       
      *ガラシャが石田光成側の人質になる事を断固拒否して、家臣に胸を一突きさせて、
       討たせ殉死したことは、余りにも有名な事として伝えられている。その折に残し詠んだ
       彼女の辞世の句も、大そうな名句で、心あつくするものがある。関が原のいくさの直前
       慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)の事であったが、、
         
         ”散りぬべき、時知りてこそ、世の中の、花も花なれ、人も人なれ”

       (実父・光秀の娘であった如く、父に倣いてなのか、それとも父の残し詠んだ、あの時の
       辞世の句をあれこれ心に思い巡らし、誰よりの悩みぬいたうえに、悲しみと憂いに沈んだ
       日々を過ごしたせいか、いつしか<時を意識した>女性となっていたようだ。)
      
      *珠が生まれた時、父・光秀は、35 or 36才であった。嫁いだ時は、50 or 51才であった。
       (これは、光秀の生年を『明智軍記』で記された享禄元年(1528年)説を採った場合で
        ある。他に『綿考輯録』の大永6年<1526年>説や、永正12年<1515年>説を伝える
       『当代記』の付記によるものがある。)
       光秀は、今の大津市錦織町の琵琶湖西岸の宇佐山城に1570年12月中旬以降から、ほん
       の半年余常駐したが、すでに71年(元亀2年1月)初めから、越前から大阪、京に通じ
       る海路、陸路の通行封鎖がなされたから、信長の戦略上での常駐勤務であったようだ。
       その時期(元亀2年9月12日)の9月末には比叡山焼討ち攻めが始まるから、その月初め
       には織田軍の前線基地となった。叡山攻めが終わった後、近江国志賀郡一帯の領地を任
       され、信長より築城を命じられる。琵琶湖岸の出城を含めた大そうな城作りであったが、
       71年中には着工され、72年元亀3年12月には天守閣の完成も間じかであったとの事で、
       安土城のさきがけとなるような4層か5層のものであったらしい。
       光秀の娘・珠は、この城から京に近い勝竜寺城へ輿入れしていったことであった。

      *細川藤孝は、元亀2年(1571年)山城西岡一帯を知行地として、信長より与えられ、
       勝竜寺城主となる。その折に
       二重の堀を持つ堅固な城に改修したとされる。同年10月14日の信長より藤孝宛ての
       『印判状』による命にて、普請工事がなされる。

       その数年後、その勝竜寺城で、信長の薦めによって、
       天正6年(1578年)忠興と珠(子)(後の洗礼名:ガラシャ)が盛大な結婚式を挙げ、
       新婚の日々を過ごした住まいともなり、彼ら夫妻ゆかりの城として今に伝えられて
       いる。だが、出陣だ!いくさだ!で、いつ命を落とすか分からない戦国の世だか
       ら、つかの間の幸せであったろうとも、子孫を残すためにも、、、、、

       天正7年(1579年)には長女、同8年(1580年)には長男・細川忠隆、後の長岡休無
       が二人の間に生まれた。
       (現代では考えられないほどの若年結婚、若年出産であるが、それが通例常識の時
       代であったというわけだ。)

      *夫:細川忠興:永禄6年(1563年)11月13日‐正保2年12月2日(1646年1月18日)
       天正5年(1577年)、15歳で紀州征伐に加わり初陣を飾る。
       さらに信長から離反した松永久秀(信貴山城の戦い)の武将・森秀光が立て籠もる
       大和片岡城を父やその僚友で義父である明智光秀と共に落とし、信長より直々の感状
       を受けた。
       天正7年(1579年)には信長の命を受けて、父や光秀と共に丹後守護だった建部山城
       城主・一色義道を滅ぼした。
 
      ★永禄の乱(将軍・足利義輝暗殺)が1565年6月の時であったから、その2年前の63年
       に光秀の三女・珠(子)が誕生している。彼女の誕生地は越前国とされている。
       光秀の住居があったのが現在の福井市東大味町土井之内37-35にある明智神社付近
       であり、彼は、1556年9月19-25日にかけて可児郡の自らの居城・明智長山城での斎藤
       善龍の武将・長井らが率いる4千ほど軍勢の包囲、攻め込まれ、落城する直前に落ちの
       びている。その後、越前国の朝倉義景に召しかかえられて、一乗谷に近いその東大味郷
       地区数千石の領地を任されたという。恐らくその朝倉家被官の時は、60年前後~62
       年頃までの事であろう。光秀については、信長による将軍・義昭の上洛の1568年以
       降しか、彼の確かな史実は知られないとされている。『明智軍記』など他の古文書類も
       含め、それらの記述には確かな裏づけ照合されるものもなく、史料としての価値が認め
       られないと評価されているからである。そういった事情ではあるが、ここではそれらの
       うちの一つとして『前野古文書類の内に記された<武功夜話>』の内容から光秀の前半
       生を探り出せないかと、参考に嘉したいと思う。何か史実的に真実らしきものが込めら
       れていると、そんな感(素人まがいだからだと、、)がするからである。
       その文書資料から要約的に光秀の履歴を辿ってみると、以下の如くなる。
       
       ・光秀、明智長山城(可児郡明智の庄内)にて、十一代当主・光綱とお牧の方との間に
        生まれる。母親が18才のときで、1528年の誕生とみられる。
        (お牧の方は、揖斐郡桂郷谷汲村の山岸貞秀の娘で、その母は、若狭の武田家の息女
         とのこと。)
        
       ・父・光綱が病弱気味で、1538年(天文7年)光秀11才の時に死去する。この時、祖父の
        光継がなお在世していたので、その命により叔父の光安、光久、光廉の3人が後見役と
        なり、幼い光秀を上代惣領とし明智一門を取り仕切り、領地の維持管理をなしてゆく。

       ・光秀は、その数年後、元服の後であろうか、何らかの進言があったのか、思い立ち、気
        を新たに強く決意し、武術、学問の修行、及び諸国見学のため、城、領地を叔父らに任
        せ、旅に出る。

       ・光秀、畿内の都では、細川藤孝家門下の幼客として認められ、見習い仕えをする傍ら、
        僧・勝惠らから諸学を学ぶ。かれこれ2年余りして、1543年(天文12年)に美濃
        の郷里、明智家に戻る。16才になった頃であろうか。

       ・その後は、美濃国守護・土岐氏に仕えるべく、守護代の地位を掠めて、美濃国主の実権
        を握った斎藤利政(道三)に仕えるものとなる。
        それから数年後、光秀は二十歳前後の頃には、いわゆる先妻となった最初の妻と子を得
        るものとなる。
        また、利政(道三)とは、その正室が光秀の叔母・小見の方であったが故に、その姻戚
        関係が維持され、道三方に臣属するといった明智家の立場が継承されてゆく。

       *叔母の小見の方は、光秀が幼児の頃、1530年前後までに土岐頼芸方の最有力者の道三
        (その頃長井家頭領新左衛門尉の養子となり、長井の姓を得て長井新九郎規秀を名乗っ
        ていたが)に人質として出されていた。
        その人質差出の経緯は定かではないが、土岐本家なる美濃守護の家督争いという状勢下
        での、明智家生き残りの選択か、圧力強制かのいずれかであったと見られる。
        その後、名門土岐一族の傍流とは言え、その血は土岐を継ぐ娘であるからして、新九郎
        規秀(道三)は、正室として迎える入れるものとなる。
        この小見の方の長女が、かの<帰蝶>という名の<濃姫>であり、彼女の生まれるのが
        1535年との史料伝承から、1534年までには輿入れしたものと見られる。

       ・光秀が生まれる以前から、1517年以来20年近くに亘って繰り返された美濃守護・
        土岐宗家の家督争い(嫡男・頼武と次男・頼芸)の折にも、庶流明智家は、ほとんど中
        立的に対処して、支援の兵を出したりの明確な意思表示をしなかったので、余り影響を
        被ることなくその時期が過ぎ去るものとなった。

       *長い間の内紛の故、守護とは名ばかりで、土岐宗家は全く弱体化してしまい、1540
        年代以降は、守護代の立場ながら国主の如く美濃国を治める実権を執っていた斎藤利政
        (道三)に対して、土岐家・頼芸と頼武の子・頼純とが呼応して争う事態に移り変わっ
        ていた。(頼芸は織田信秀の援助を受け、頼純は朝倉孝景の支援の下に美濃国奪還、復  
        帰を果すべく、両者連携して美濃に進攻した。この折り、織田信秀による道三・斎藤氏
        の居城稲葉山城攻めが大々的に始められたが、利政・道三は、前面対決を避けて篭城戦
        を装い、隙を突く巧みな戦略により、織田軍を大敗に帰せしめた。=加納口の戦とも、
        井ノ口の戦とも言われているが、天文16年(1547年)9月の戦に比定される説が有力で
        あろう。古文書関係の記述では、天文13年(1544年)9月のものがあり、2説に分かれ、
        2度あったものかとも推察されうる。)

       ・美濃国が道三・斉藤家の天下となり、かっての旧土岐家臣団生き残りの各氏らも臣従を
        なすものとなり、また隣国尾張の織田家・信秀との和睦も、双方の子、信長と娘・帰蝶
        (濃姫)との婚姻でもって成立し、しばし平穏な時期を迎え、1550年代の時が過ぎる。

       ・明智家・光秀も平穏のうちに自領を治め、国主・斉藤家に従仕していたであろうか、別
        段、何ら歴史的史料には現れていない。
        しかし、弘治2年(1556年)の4月に至り、国主・斉藤家の内紛、父・道三と嫡男・義龍と
        が思いがけない争いの事態へ、長良川の合戦となり、明智の領地も再び不穏な空気に包
        まれるものとなる。

       ・光秀、生涯忘れる事のできない、土岐明智家滅亡の時がやってくる。弘治2年1556年9月
        中旬過ぎ25日の事であった。先の長良川のいくさで父・道三に打ち勝った義龍が、家臣
        の長井甲斐守率いる数千の兵を可児の郡、明智の庄に押し寄せ、その明智長山城は、一
        族共々討ち滅びるものとなった。
        光秀は、自害して果てんとする叔父の城主・光安の悲哀なる遺言に従って、城から落ち
        のびて行く事となる。光秀、27歳の時であった。

       ・城を脱出して、揖斐郡桂郷谷汲村、母の実家であった実兄の山岸光信に妻子をあずけた  
        後、越前丸岡へ弥念寺園阿を頼って落ち延びる。

       ・その後、6年近く諸国を遍歴し、永禄4年(1561年)越前に再び戻る。この遍歴期間の彼
        の消息は、全く知られていない。おそらく大阪、堺方面より西の地方へは出向いていな
        いと見られる。諸国遍歴中の4、5年の頃、ひょっこり尾張から東山道(中仙道)では
        なく、下街道(現国道19号)に寄って、土岐郡に立ち寄っていると思われる。そこで、
        土岐同族の妻木城主<妻木弘忠公>との再会を果たし、しばらく留まったと見られる。
        この折りに光秀の2番目の妻となる、弘忠公の息女・煕子をみそめたと推察されうる。

       *その遍歴中における光秀の唯一かすかな情報は、ずっと後、江戸中期に収集編纂された
        『群書類従』(国学関連全般を網羅した百科的な古書収集の一大叢書である)の中の一
        部類の古書(『永禄六年諸役人附』)に見られるというものである。その記載から推量
        すると、以下のような事情であったと思われる。

        ”細川藤孝が13代将軍義輝に兵部大輔の任の幕臣として仕えていた頃、光秀が以前の
         誼や名跡から彼の許でしばしの見習い仕官をしたとの形跡が知られているが、その時
         には正式に附輔されることを嫌って辞去したとみられる。その後、   
         室町幕府の『永禄六年諸役人附』というお役所古書に「明智」という名が記載されて
         いるが、これはどうやら細川藤孝が義昭上洛、幕府再建後、その臣下編成時にその附
         録書に追記したものとみられる。”
 
       ・その翌年、朝倉義景に認められ被官の道が開かれ、朝倉家家臣となる。主家の一乗谷に
        近い、東大味郷地区数千石の領地を任されれる。この被官の直後に光秀再婚、土岐郡の
        妻木城から煕子を妻に迎え入れた事になる。(妻木城は現土岐市南部に位置する山城)
        それから1年後、63年に珠子、後の細川ガラシャが誕生する。
        (現在ガラシャ誕生地の石碑が建てられているところである。)

       ・永禄8年(1565年末)かって幼年時代に世話になった細川藤孝との再会を果す。
        次期将軍にならんとする足利義昭を推して、藤孝公が越前朝倉家を訪れた折りのことで
        あった。

       ・永禄10年(1567年)越前国に寄留した義昭公のご用命の応えて、織田信長との上
        洛打診の交渉役を買って出ることになる。

       ・永禄11年(1568年)信長への上洛支援の執り成しがうまく決まり、その8月には
        義昭公をお連れして美濃国に移り行くこととなる。

       ・そして、同年9月、義昭公念願の上洛となり、その折り、信長配下の仕官として、都へ
        の随行を果す。
            
      *例の前野家古文書<武功夜話>などは、江戸初期(1630年代)以降、何度も写本が繰
       り返されている現状から判断して、その都度ほかの文書類との関連性を鑑みて、追補、補
       訂の手が加わっていると見られる。しかし、ほかの古文献には無いような内容記事に関し
       ては、かえって歴史の事実云々を伝えるものとして、その史実的な信憑性が高いと見なす
       のが妥当ではないかと思われる。
       
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  【信長配下の軍団動静】 

 *中国攻め(ちゅうごくぜめ)とは、天正5年(1577年)以降、織田信長(織田政権)が主として羽柴
  秀吉に命じて行った毛利輝元の勢力圏である日本の中国地方に対する進攻戦である。毛利攻めとも
  称する。戦争は、6年におよび、天正10年6月(1582年7月)まで続いたが、同月2日(ユリウス暦:
  1582年6月21日)の織田信長の突然の横死(本能寺の変)によって未完に終わった。

  《中国攻め・未完の最終時期》
  ==============
  羽柴秀吉の出陣と高松城の包囲: 宇喜多秀家が領していた備前岡山から先は毛利の勢力範囲であった
  ため、織田軍と毛利軍は備前・備中国境地帯で攻防を繰り広げることとなった。
  天正10年(1582年)3月15日秀吉はついに姫路城から、備中へ向け2万の軍勢をひきつれて出陣する。
  途中、宇喜多氏のかつての居城であった亀山城(別名:沼城、ぬまじょう)(現:岡山市東区)で、
  宇喜多氏の動向を探り、宇喜多氏が織田軍に味方することを確認、宇喜多勢1万を加えて総勢3万の軍
  勢で備中へ入る。

  備中高松城は当時数少なかった低湿地を利用した平城(沼城、ぬまじろ)であり、鉄砲・騎馬戦法に
  も強かった。城を守るのは清水長左衛門尉宗治で、3000~5000余りの兵が立てこもり、容易には攻
  め落とせる状況ではなかった。そのため秀吉は、周囲の小城を次々と攻め落とし、4月15日秀吉方の
  軍は、宇喜多勢を先鋒に3万近い大軍で城を包囲した。そして2回にわたって攻撃を加えたが、城兵
  の逆襲を受けて敗退した。

  水攻めの開始: 毛利輝元率いる4万の援軍が接近しつつあり、秀吉は甲斐武田氏を滅亡させたばかり
  の主君・信長に対して援軍を送るよう使者を向かわせた。信長からは丹波を平定させた明智光秀の軍
  を送るとの返事を得たものの、1日も早く備中高松城を落城させよという厳しい命が下り、秀吉が不安
  と焦りに駆られていたころ、黒田孝高が水攻めの策を進言した。この水攻めの策は中国の春秋時代に
  晋の智伯が晋陽城を水攻めしたことからヒントを得たと考えられ、低湿地にある沼城の利点を逆手に
  取った、まさに奇策であった。堤防工事は5月8日の着手からわずか12日で完成した。

  折しも梅雨の時期にあたって降り続いた雨によって足守川が増水して200haもの湖が出現。高松城は、
  孤島と化してしまった。
  城内では水攻めという奇想天外な戦法に動揺し、物資の補給路を断たれて兵糧米が少なくなったこと
  と、小早川隆景、吉川元春ら毛利氏の援軍が未だに来ないことも相まって兵の士気も低下。城内まで
  浸水したため、城兵は小舟で連絡を取り合わなくてはならなかったとされる。毛利輝元は、5月21日に
  なって猿掛城に本陣を置き、高松城に近い岩崎山(庚申山)に元春、その南方の日差山に隆景が着陣
  した。しかし、既に堤防は完成しており、秀吉の築いた湖を前にして身動きがつかず、さらに信長の
  援軍が送られてくると見なしたことから、秀吉との講和決意に傾くほかなかったようだ。
 
 *明智光秀の軍団は、すでに他の武将らが早々に出陣し、秀吉のいる西域にむかったが、最終出陣とい
  うかたちでなお畿内に残留していた。(信長公記が記すところによれば、先発した他の諸将は、
  長岡与一郎、池田恒興・勝三郎、塩河吉大夫、高山右近、中川瀬兵衛らであった。)

  天正10年5月中旬過ぎ20日以降、なお都の畿内近隣に集結的に宿営し、2、3個所に分拠して留
  まっていたが、遅れていた坂本からの光秀本隊の移動に合わせて、その26日には丹波の居城・亀山
  城に全軍が集結するものとなり、これにて出陣への待機態勢となった。
  (愛宕山参詣祈願&百韻連歌会の日が24日という一説に準ずれば、この動静には合わない。坂本を
  21日前後に立ち、23日以前には亀山へ着陣にてか、それとも光秀、その移動途中にて、23日愛
  宕山へ登拝、一宿参籠ということになるからだ。、、)
  
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 ●本能寺の変(ほんのうじのへん)は、旧暦天正10年6月2日(ユリウス暦では1582年6月21日、現在
   のグレゴリオ暦に換算すると1582年7月1日)前夜を回った深夜から暁まえにかけ、そして明け方から
  早朝に亘って事が起こった。

  本能寺の変での歴史真実の追究は、近代以降多くの方々によって論じられてきたが、これといった確
  定した正しい説が確立されているわけではない。多様な有名無名の方たちの拙論があり、これに関心
  のある一般読者がどこまでその歴史の真相真実に迫りうるか、思いはかり、共感支持したり、反感否
  定の意を示したりするばかりである。
        
  ★【変での信長の最期の言葉】: “ 是非に及ばず、、 ”
                 ・・・・・・・・・・・

  この言葉、色々なニュアンスに意味解釈して、それを当面した信長に当てて、その言葉による信長の
  現状心境を知り把握せんとするものとなろうか、、、。

  兎にも角にも、<信長らしい発言>であったと云えるとも。何故かそう思えるのは、これも何か既に
  知らず知らずに出来てきた先入観から来るものなのかどうか、果してその判断評価は正しいか、、。

  <その意味解釈、彼のそれに至る立場、その内外要件、生因を即座に鑑みての、彼・信長の心境内知
   (自覚)にて、発した言葉であろうか。> 光秀と知りて、その人の何たるかを知りて、、

   “是非に及ばず”⇒⇒⇒ あーわが落ち度か、自らを知らずしてスキを呈した不覚、失策なりや!
               万事が納得、問求するに非ずや!
              *森蘭へ投げ返されたような応答的言葉ともなるが、、、何よりも信長の
               自分自身への了解開悟的発言だと言える。
    
    “ 是れは謀叛か、如何たる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が
      者と見え申し侯と、言上侯へば、是非に及ばず、、、、、”
                   ・・・・・・・・・                         
                    太田牛一著:『信長公記』第十五巻の書中より引用。 

  上記に引用転載した牛一の著言記述の<文書言葉>と、実際に信長と森蘭とが交わした<話し言葉>
  とは、文章語と実際の話語という関係に係わる相互の特性上、そのまま逐一逐語どうりに双方が一致
  しているとは見なし難いが、牛一が表わしたその文言は、その交わされた状況内容をそれ相当に的確
  に伝えているものだとの評価はできよう。
  しかしながら、もっと厳密に極め付けて言うなれば、それらの文言表現そのものは、太田牛一自身の
  創作表現であり、彼から出たところの彼自身の言葉でもって伝えているものである。

  著者・太田牛一がいつ頃からその著作に着手したか、年を追った自らの覚書資料の数々と記憶により
  その編さん著作が準備され、可能となったとみられるが、やはり、1585年以降、90年前後、時
  の天下人・秀吉のお声がかかり、彼に召し抱えられた折りからその時を得たものとなったであろう。
  おそらく秀吉の命により、奮起してその着手を試みるに至った、そのために自分は秀吉の召しに与か
  ったことであろうからと、、、。

  彼の<本能寺の変>記述は、信長一代記としての最終章となるわけだが、その変事の後には、限定的
  な合戦紛争(山崎)だけでなく、近江国坂本や安土も動乱状態に、尾張、美濃、さらに甲斐なども戦
  乱動向が連鎖しており、<変の出来事>それ事態の直後、ただちに現場に駆けつけ、取材見聞をなす
  どころではなかったという状況であった。それゆえ、資料的には後日の見聞や、事件に係わる公的な
  記録調書の参照書き写し(特に討死した御人の人名記録など)等の覚書がその編述の基となろう。
  
  ★【ルイス・フロイスが伝えている<変>の記述との比較面から色々想定される事】:

  <本能寺の変>勃発時(82年)の折りフロイスは、畿内・都には居なくて九州にいて、その悲報を
  聞かされ、その事変の紛争動乱的影響も収まり、教会も落ち着きを取り戻した頃までには、その当時
  の事の経緯、事情、様子など、出来る限りその報告を書簡や来訪者等から材取していたと見られる。
  そうした数年後の1586年3月には、副管区長ガスパル・コエリョに同伴して、再び都、五畿内地
  方を歴訪することとなる。

  九州の地にいた彼は、すでに1583年の秋頃より、日本布教史なる厖大な<日本史>の着手執筆に
  取り掛かっていたが、それまでにイエズス会先輩諸士によるかなりの下準備的な資料文書や、日本人
  修道士(**)らからの文書ソース的な多様な手助けを得ていたと見られるわけである。
   注:(**)若狭出身の養方パウロやその息子のヴィセンテ修道士、ロレンソ了斎ら。しかし、養方
        パウロとその後継後輩らにより、フロイスの<日本史>草稿がいち早く併行して邦訳さ
        れ、その写し文書がイエズス会内より、密かに外部の日本人異教徒側に流れたことで、
        それによる影響が大きな結果をもたらすような、そんな痕跡的な臭いの影をかすかに
        ほのめかしているようだとも推断されうる。(当時の日本側古文書類、信長公記などを
        含めて、しかもその捏造面をも加味しての著述作成という流れにおいて)
        
  上記した1586年の都、畿内歴訪から帰り、下関に移ったその後の86年(天正14年)12月30日には
  <日本史の第一部>となるものが完結するに至った。
  その第一部の内容は、フロイス自身がその原書の序文で、ガイド的に定め述べていたものとしては、
  以下の様式となるものであった。(そのすべての全体構成は、三部作4巻となるものである。)
    
    《第一部》
     序文                     }
     日本六十六国誌 : 未発見           }「日本総記」(=第1巻)遺失or紛失、
     日本総論 : <第1章~37章の>目次のみ現存 }            盗難or焼失か 
     編年史 : 1549年(天文18年)第1章~ 1578年(天正6年)116章の記録(=第2巻)
     ----------------------------------------
    《第二部》
     序文
     編年史 : 1578年(天正 6年)第1章 ~ 1589年(天正17年)132章の記録(=第3巻)

    《第三部》
     編年史 : 1590年(天正18年)第1章 ~ 1593年(文禄 2年) 56章の記録(=第4巻)
       
      *(第三部には序文が付されていない。フロイスが健在で行き続けていれば1600年まで
        記すほどの感じで完結を見たであろうか。)

  このように第一部の著述を終えるような彼の執筆状況であったので、当時九州に滞在していて、未だ
  執筆の指令を受託する前であったが、<本能寺・信長事件>は、彼にとって、ひときわインパクトに
  顧慮すべきものとなった。また、都、安土など畿内地方のキリシタン、イエズス会の将来事情を非常
  に憂慮すべきものとして受けとめ、その後の管区報告書、書簡などにより、情報の蒐集分析、動向把
  握にも最大限の配慮をもって事件関連動向の認知に務めたと見られる。したがって、
 
  当時のフロイスにとっては、その事件及び当時の状況に関して、リアルタイムに信頼すべき信憑性の
  ある諸資料により、彼の手許にはより多くの情報データの集積を見るものとなる。彼の手によるその
  年、82年の「日本年報」においても、その変の事件事情が述べられるに至っている。
  (現場本能寺と修道院教会との距離は1町、同じ通りの東隣か、南に下りた通りの斜め東隣にかに位
  置していた南蛮教会であったから、メートル距離では縁々最短で120mほど、門から門では150
  ~170m以内の至近距離であったゆえ、キリシタン(武士)らのもたらす情報は確かなものであっ
  たと云う外ない。)
  
  彼の信長の死に関わる<本能寺の変>の記述は、上記の構成では《第二部》のうちに収められている
  が、この《第二部》は、<第一部>の完了への過程で、多少併行して下書き草稿がされていたと推定
  されようが、その本執筆の作業は、1587年から1591年にかけ、遅くとも最終、92年10月
  になるまでに完結させたと見られる。(92年10月9日、日本を発ってマカオに渡る前までに)
  係る<変・事件>に関連した記事は、その第55章から58章と、実に4章分を割いて記されており、
  その事件の重要度が最大限に意識されたものと見られる。

  その<変関連記事>では、先ず信長自身の<変>直前までの、諸行業及び近況、精神的な傾向が述べ
  られている(それにはフロイスの彼への不可解的誤認知という点も否めないが、)が、さらに際立っ
  て、信長に対する当人<明智光秀>の人物像評価の方がまさって辛辣で、その悪辣さを語り示すもの
  となっている。これが当時の光秀についての一般的な風評からのものなのか、あるいは事件後の悪評
  からのもので、それに同調しての分析認識に至るものなのか、本当にそのフロイスの人物評が正しい
  かどうかは今や知る良しもない。

  (フロイスの信長についての不可解的誤認識の人物評価は、彼が色々日本の国情、慣習、伝統文化を
  良く弁え理解していたが、そして彼自身の人物把握の人文学的知識能力も優れたものではあったが、
  それでも信長という人間を正しく理解出来ていなかったと言える。フロイスにとっては、日本の戦国
  乱世の現状を真にリアルに身に受けてはいなくて、正に外にある立場の人であったからだ。
  確かに彼はそれなりに色々危険や窮地に立たされ、困難、難儀に遭遇してはいたが、、彼にはデウス
  なる神への信仰ありにて、それなりにデウスからのご加護セイフティー意識ありで、信長が生きてい
  る現実の立場とは、その内と外という意味での対照的な存在であったともいえよう。

  信長が生きてきた現実・戦国乱世は、彼にとって、信長一門、何時没落するか知れないような、社会
  的に全く無セイフティーな世の中であり、如何なる保証も無く、まさに力を失えば即没落、一門は離
  散消滅という過酷な現実がつねに隣あわせであったわけだ。
  そんな過酷な当時の日本社会の現状では、武と財による権力、それに付随的な地位の権力を得れば得
  るほど、ますます増大誇示せねばならないものであった。自分の権力を保持存続させるために、その
  年、年齢を重ねる老いと共に、眼に見えて自らの武力的体力自体もその頑強さを次第に失ってくる。
  それゆえに自分権力の維持補充という信長自身の<自分を治め、絶大に高めること>が彼にとって、
  一番肝心なことになってくる。そのような自分自己維持政策との相関関係のなかで、当時の国・社会
  をより良く関係付け、結び変えて従属させてゆかんとしたわけである。

  彼にとっては、伴天連・イエズス会とその教えも、そのために有用に利用でき、社会的セイフティー
  を得られうる可能性豊かなものと見なしたわけであったし、少なくともそれらから自分天下への権力
  保持拡大のための大いなるヒントを得て、その体制を整える事ができたようだ、ということであった
  わけだ。
  フロイスのように外端からみれば、まさに傲慢不遜この上なきものとなり、デウスなる神へのはなは
  だしい冒涜ということになるわけであった。
  信長にとっては、乱世を生き抜くための最大限の努力奮闘であり、自らの権力保持と、その太平的繁
  栄の為の<前倒し的な施策の方便>であったということになる。)

  さて、光秀の<変>実行に際しての計略プロセスが如何なるものであったか、あらためて追求されな
  ければならない。映像文化時代となり、現今に至るにあって、何度となく、映画、ドラマでその場景
  が演じられ、それらが似たり寄ったりに一般化したものとして受けとめられてきたからである。
  
  光秀は実行の前日前夜、最も信頼厚き腹心の部下の4人の武将(明智左馬助・秀満、同 次右衛門・光忠、
  藤田伝五・行政、斎藤内蔵佐=利三)に自らの決意を明かすわけだが、その時、決して当てずっぽに事
  を決行したとか、或いはただ単に決死の熱意とか、怨恨鬱積を内に秘めた情感にはやって臨んだとい
  うわけではない。
  むしろ光秀にとって、その最ベストで2度と無いような好機到来の時に臨んで、極めて慎重なる手順
  策を踏むように、その決行策を提議し、彼ら指揮武将らとの謀議の一致をもって、その万全を期した
  と見られる。
  その内容的風勢志向、および手順プロセス、主目的性とは、

  ①、信長誅殺がその主目的であるからして、都にあらぬ騒ぎが大きくならぬように穏便に出来る限り
    しめやかに事をなすべし。  
  ②、本能寺への進軍、並びにその包囲は、出来る限り静粛に行い、あたかも本能寺を警護するかの如
    きものとして待陣するべし。門衛兵士らには騒がれないように先に始末をしておく事。
    (桂川からの第一陣は、明智秀満・左馬助と斎藤利三・内蔵佐の率いる3千余であった。)
  ③、本能寺から火が出ないように、火矢を使わない、騒ぎを大きくしないために鉄砲を使わないで、
    そういった武器を用いない前に必ず信長誅殺を成し遂げること。
  ④、本能寺の包囲をなすと同時に、特命任務隊及び数名の兵士ら(この兵士らにはこの折、どう対処
    すべきかを知らせてある。)が寺内に入って、信長が必ず起床し、出てくる所、厠、手顔洗いの
    縁先家屋の方面に待機して、信長が出てきたら、弓矢で仕留め、頸をはねること。
    (通常、その方面近くに厩[ウマヤ]があり、そこには番人兵などが寝泊りしているので、要注意すべ
    きこと。)
  ⑤、その特命任務隊(3、4名の者)は、かっての近江守護・六角一門の残党で、甲賀衆出の精鋭で
    あるから、その特別任務を果したならば、彼らを取り逃がしたということで、信長の頸だけは何
    とか取り戻したという筋書きとすること。
  ⑥、この信長誅殺(暗殺)、クーデター後の事後処理に関しては、都の治安維持に十分配慮し、信長
    の嫡男・信忠に対しては、その説得、擁立をもって望むが、入れられなくば、出家か、自害を迫
    るものとして対処すること。

  以上が光秀の描いたクーデター策謀手順のあらましであったが、実際には④の特命隊の失敗、弓で信
  長の背中を実際に射たのであるが、少々距離があったのか、天下の信長を前にして、緊張のあまり手
  元がぶれたのか、威力無く、的を外したかで、急所をそれて仕損じてしまった。これにより穏便なる
  信長誅殺計略はお払い箱となったのかとも、、、信長怒鳴り込んで薙刀を持ち出し、彼らと対決、立
  ち合うものとなり、次第に事が大きくエスカレートするものとなる。
      *[注]:特命任務の甲賀衆は、明智の武将に仕侍していたが、元々近江の六角氏が滅んだのは、
      明智光秀が足利義昭を信長に引き合わせ、信長がそれを引き受けたことから因するもの
      だとの考えを抱いていたため、その仇、報復は、光秀に向けられてしかるべきだともい
      った感情があり、それに流されたとの見かたもできようか、、、。
      (かの信長引き合わせ斡旋の時、和田惟政が明智光秀を動かして事を計ったわけで、
      惟政はその当時、近江国六角氏の一家臣、甲賀村から中央の都・幕府に仕出しており、
      六角近江と美濃尾張の信長とは、いよいよもって競い反目した関係にあり、彼が直接に
      信長に掛け合うわけにはいかない事情があった。)
      
  さほど離れていない所の厩[ウマヤ]の番兵や、その寄宿者連中も騒ぎに気づき、起き出で駆けつけて、容
  易ならざる闘殺騒動に発展するものとなる。包囲していた兵士らで待機していた者らの投入を余儀な
  くされ、2、3人の鉄砲兵を寺内に投入してさえも、事をすみやかに終わらせようとした。だが、そ
  の発砲も信長を撃ち倒すに至らず。森蘭丸もこの直前に廊を走りきたり、”上様、明智が軍の旗に候、
  光秀殿、謀叛やと存知候、、、”と声も荒わに信長の近くに、、、、

  手負い傷の信長、及び側近小姓らの防御の奮戦ヨロシク、信長の最期の引き際となり、彼のその幕引
  きが、自らが火を放ち<本能寺の大炎上>をもたらすという事態をもって、主君である信長は、嘱望
  第一の家臣であったはずの光秀、、思いもよらない謀叛をなした光秀に報いる処置となった。
  (従来の明智光秀に関する伝承では、信長より年上であるとされているが、真実本当のところは、2、
  3才年下であったとも、、年令は定かではなく、光秀伝承(明智軍記)などにより、のちに捏造され
  たものと見てのことだが、)

  ここに明智光秀の当初の深慮ある目論見、策謀は失敗に帰してしまい、その⑥においても、信長の嫡
  子・信忠が二条城御所に立て籠もるという事態となる。そこに対しては、激しい銃撃と、大変なる城 
  の炎上という結果を招き、朝方以降の都中は大騒動となる。事態はもはや拾捨収拾が着かないものと
  なった。
  (この二条城への攻撃は、第二陣なる藤田伝伍、明智光忠、溝尾茂朝らの率いる軍が投入された。)

  この折り以降、西からの秀吉の急来により、今や敵、味方に相分れて戦う討伐への動向状勢となり、
  畿内一円ばかりでなく、尾張、美濃、甲斐の国、その他に、その動乱紛争が連鎖波及し、一時期治安
  なき混乱不法の事態が処々に蔓延るものとなった。

  光秀によるこの<本能寺の変>、はたしてその動機は、彼の天下取りの野望であったのか、内に鬱積
  した怨恨晴らしだったのか、昔から延々と取りざたされている。今日では他に多様な説が提示され、
  折り重なるばかりにて多岐深謎化し、その個々説をもってその起因を特定する事あたわずという状況
  であるが、その当時の時代おいては、主君殺しの<謀叛の汚名>を一身に被らされ、彼一人悪者、反
  逆者に仕立て上げられ、見立てられた<明智光秀>がそこにあったという事である。

  ところで、決行の前日頃(信長公記では5月28日との記載だが、実際は24日の興行だとか?)に
  百韻連歌の会を催したとされている。山城国・愛宕山の西ノ坊威徳院において、、、、、、
  (この<変>前に連歌会興行がなされたというその事実そのものに疑念を差し挟むものは、今となっ
  ては誰一人いないわけだが、、、、、
  予め事前に作歌用意、或いは事後的歴史の跡付け処理として、捏造されたというようなことも、完全
  にあり得ないとして、否定し去ることもできないのでは、、、、百韻の連歌の帳本の写本だけが複数
  残存しているが、他には何らその興行を裏づけ証する史料も見い出されていないのであれば。)

  《光秀の愛宕参詣百韻の歴史偽造説》、今さらこんな非常識な馬鹿げた説を持ち出すなんて、、、、
  お笑いなさるかもしれないが、、、ところが当時の風潮がどんな社会的な利得志向の慣習に染め満た
  されたものであったことかを考慮すると、そんな一説までも浮かび上がって来るものだ。
  日本古代からの由来付けの神社創建に類比して、仏教伝来によりさらに一層根強くエスカレートして
  その民族的な特質習性をあらわした風潮、すなわち
  当時の仏教風土の社会、何でも感でも<あやかり・縁起>風潮で、その由緒、由縁語りと共に<墓石
  や供養塔など>を設けて、或いは有力有名人の<肖像画>を作成して保存することで、あやかりの将
  来的プレミアムの伝統価値を創設せんとする。寺院、神社ばかりでなく、連歌を生業とした連歌師達
  の興行界隈でも、そういった傾向が、、、、、連歌会興行収益、礼寄付の落ち込みなどで、何かと業
  界宣伝、盛況アップのために、、、社会全体が生き残り、将来展望のため、歴史の真実、事実よりも
  少しでも実益、利得に結び付くならばと、その事象事跡の事柄に係わるきっかけ、縁起の糸口造りに
  余念がないものとなり、確固たる歴史となる事柄事実に係わりつつも、その諸々の由縁作為がやみ雲
  な被いものとなり、その真相を掴み得ない、妨げとなるような空闢をつくる要因ともなる。
  
  そういった風潮傾向から先ず直に挙げられるもの、一つ目は、

  ①、連歌師・里村紹巴らが、光秀のこの度の出陣のあることを知って、別段、光秀の承諾を得る事も
    無く、彼の出陣に託けて、愛宕山神社祈願奉献絡みの百韻連歌を創作策定したという作為の可能
    性が想定されうる。これは連歌師ら自らが、専らに将来的由縁利得を望んで自主的に営むものと
    なるわけであるが、その際に良くわきまえ、肝要であるべきは、
    主賓設定の<光秀本人という人物、人どなり、及びその取りまきの社会環境、情勢なり>を予め
    把握して置かなければならない。
    さらに2つ目、3つ目を類推すると、、、

  ②、明智光秀自らが、書状にて、日付と場所を定め、自分自らの<発句>と<平句>の幾つかと、子
    の光慶による結びの<挙句>一句、そして、側近秘書(祐筆)東六郎兵衛・行澄の平句を最初の
    表八句のうちにか、ほど良い間に一句を入れて、百韻連歌の作定、その代理的祈願の奉献を依頼
    したいとの要請からの出所である。
    この場合は、光秀らの<発句>、<平句>、<挙句>は、その依頼書状のうちに名を付して、予
    め記されたものとなっている。
    (光秀の出陣の時、その日程スケジュールからして、坂本で5月18日から出陣に向けての準備、
    25、26日の丹波亀山への移動、陣着という動向の最中で、実際に愛宕山参詣、連歌会を興行
    する事は、その打ち合わせ準備のために、連歌師・里村に連絡依頼して、その了解を得なければ
    ならないし、愛宕神社へのその旨、連絡すべきものとなろう。しかも、そこでの開催となれば、
    連歌師らも、京から愛宕山へ移動、登拝するに大変な労をしなければならない。しかも時期が雨
    期、梅雨時にて、特に山岳地方での天気は、雷雨や激しい雨にたたれるやも知れない。とにかく
    出陣前でのあらぬ難儀は、あまりにもリスクが大きいというものである。愛宕山で
    の連歌興行するのは霊験豊かで好感度、好印象も高くなり、良い事は分かりきっている訳だが、
    実際にそれに向けての諸手続きの事、ご足労を考えると、無理強いはし兼ねるとの判断が懸命で
    あり、この時期は、特に冬期以上に無難にはいかない可能性が大である。
    といった状況を鑑みては、先ずもって書面にて、<百韻連歌>の祈願奉納先は、<愛宕山権現>
    にて、<光秀の書状依頼>ということで事が運ぶ、そんな可能性を見るものである。)

  ③、三つめの可能性の類説は、まさに第三者からの要請にて、連歌師・里村らが<百韻創作依頼>を
    受けて取り計らうものである。
    知られざる第三者からの依頼であり、直にではなく仲立ち、介在者を通じてのものとなる。その
    依頼をうけた介在者が、愛宕山権現・某坊院の住職行祐その人であったとなれば、最も都合良き
    手立てとなろうか。しかしながら、開かれたオープンな連歌の座にて、その首座を中心に内輪の
    興行としてとり行い、それを<光秀>主催のものとして、世間に公表、知らせるという場合さえ
    考えられるものである。
    その例としては:

    吉田兼見の日記『兼見卿記』では、81年1月29日と4月26日に2度連歌会をなしたとの記
    述が見られる。この時、前久が光秀の立場と自分をダブらせて、かの発句を、、

        ”ときは今、あめが下なる 五月かな ”(今や時は信長の世と化して、あめなる
                            内裏・朝廷は信長支配の下にあるよう
                            なものとなっているを詠う)
     
        前久の子・信伊は、光秀の子(光慶)として、、そして里村紹巴も同席していた。

        2度目の4月26日の場合は、先に行なったものに関しての検閲確認及び
        更正を考慮しつつ、その仕上げ具合を評議完了せんとするものと見られる。

       *この折に吉田兼見が、前久父子から光秀父子への<憑き移りの祈祷>、つまり、
        古来の古神道的な呪術を執り行なっているやも知れない。この<呪憑き祈願も>
        彼らにとっては、目的実現への一つの可能性、或いは少なくとも、それへの
        プラス志向的進展を促がしうる手立ての儀法であったと見られる。
        (兼見は、当時有力な神祇官であり、自社[吉田]神社の神主でもあったから。)

       *兼見の日記は、日ごとの覚えをメモる類のものであり、その日々に日本国内、
        世間に何が起こり、著名人の動向や、諸人に何が起こったか、自分の行動記
        録、何をしたか、誰とあったか等々、その詳しい中味内容は、当本人が記憶
        のうちに思い出せば良いといった用途をなすもので、内容、中味までも叙述
        するものではない。

    この第三者はまた、まさに黒幕的存在としても想定されよう。そのような立場であれば、専ら、
    その意図するところは、<光秀の変・敢行の行為>が、如何なる大義、善なる所見もかき消し、
    見えなくなるように、<光秀>を全くの謀叛人、主君殺しの反逆者に仕立て上げるような方向性
    の効果を期待するものである。

    さらにもっと<トンデモな的立場>とも云える、実にとっぴで、あり得ないとも、、、まったく
    思いも依らない第三者の依頼者さえも想定することが可能となる。すなわち暗殺される被害者、
    謀叛を被らされた<信長>自身が、用意周到に、巧妙な仕掛け人となり、いわゆる自作自演の如
    く仕組んで<光秀謀叛の行動>を誘発惹起せしめるというものである。今や光秀が、信長自身の
    将来ビジョンにそりが合わないばかりか、もはや危険な反対ライバルをうちに抱え込むようなも
    のであり、彼を正当に討つ手立てを自分をして講じたというものである。信長は、何を考え、ど
    んな珍奇なことをするか検討が付かないところがあり、この場合<本能寺の大火災>を介して、
    一端自分が消えて(あたかも死んだかのごとく見せて、ひそかにそこより脱出する目論見で、)
    再び生きて現れる。その時、ある所からひそかに指令を出して、<光秀>をその謀叛ゆえに、征
    伐するよう指揮を執り、彼を討ち終える事で、自身の存在を現わし大いにアピールするという、
    信長独自のシナリオがあるという訳である。(八切止夫の小説作品に見られる創作仮説の如く、
    実際に本能寺の地下に秘密の抜け道が設けられ、その地下道から脱出して、密かにあるところ、
    <イエズス会の修道院>いわゆる<南蛮寺?>から、征伐手立てへの陣立て指令を発するという
    ものである。)

  以上の如く、<愛宕百韻本>そのものの出所、存立を云々してゆくと、<本能寺の変>に関わる見識
  のあり方をも含め、今一度見直すべく新たな考究目線が差し加わることになる。いずれにしても上記
  ①、②、③における光秀に関わる<発句>の言葉の上では、本来的に同一次元的にあるものであり、
  事件の真相に関わる事後究明の故に、歌文上に、ほんの一字ではあるが、おかしな相違(あめが下し
  る or 下なる)を 引き起こす事態が生じている。

  その詠まれた発句には、<変>起こす直前の光秀の心の心境とか、決意の思いとかが反映していると
  の諸評が、<変>が生じた直後の段階からすでに立ち現れていたとの史料認識がなされている。現代
  でも色々な立場をして、さらに幅広く、ニュアンスの異なりを見せた、その歌句への読み込み解釈、
  或いは、法外な意味入れ投映解釈の宛がいがなされている。果たしてそれらの読み解釈に真の正当性
  を見い出し得ると見なしえるであろうか。

  “ ときは今、あめが{ }、五月かな ” *原本は失われているが、写本が14種有ると言う。
                   
      ・{下しる}   ⇒ ⇒ では、14種のうち、11本がその写本となる。

        この場合は、普通どうりの表の意味表現、自然の風情を詠ったものとしては、少々
        意味の通らない、意味不具合な“下しる”でしかないものとなる。
        ただし、“下はしる”の<は>の脱落省略としてのそれを意図しているならば、
        ”時節は今“のあとに続く“雨が下はしる 五月かな”で、意味が良く通る文となる。

        発句が全体的に裏の意味を表すために用いられた掛け言葉に過ぎないならば、その裏
        含意そのものを詠んだものとして、
        この“下しる”の言葉は、実に意味深長で、良く通る表現を得るものとなる。

                ・明智一門の出自に言及した<土岐は>の今で、その句の意味は、
               ・ {土岐の我らが今や、天下を知らしめす(治める)皐月の頃と
              ・  なったものだ}の意となると見られている。
       ”ときは今、”・
              ・
               ・
                ・<世の時勢>を表わす<時は>の今で、その意味するところは、
                 {時代は今や、天アメが下シタの事、天下の状況を良く知られる時節と
                 なった}の意である。                                
                 
      ・{下なる}  ⇒ ⇒  では、14種のうちで、3本の写本がそれである。

       この場合の ”あめが<下なる>、”では、全く意味不明ともなり兼ねないものとなり、
       何か異常なまでの読み込み宛のこじ付けをして、句全体に筋を通さねばならなくなる。
       ただし、<シタなる>を<モトなる>と詠んだとすれば、この限りではない。

       {土岐は今や、天の許(モト)にあって、五月を迎えているのだ。}といった意味となる。
               
       この<天の許(モト)>は、世相一般の世という<天下のもと>でも、朝廷・天皇に纏わる 
       天下の許、あるいは、信長天下のもと、でも、その句筋の意味は通るものとなる。

  結局、<愛宕百韻>の写本史料からは、確たる<光秀謀叛の動機>を確証付けることはできない、と
  いう結論に至るほかない。光秀が詠んだとしている発句さえも、詠んでいるようで、何かしら実際に
  は、詠んでいないのでは、、、といった直感めいたものをハダに感じさせもする。 
  仄[ホノ]かな野望説を演繹させうる、その<百韻連歌>も、その秘められた意図からして、謀叛の動機
  を臭わせ痕付けるように予め捏造されたものと見る向きも捨て去り難いものとなる。

  信長に纏わる本能寺の変、その謎は深まるばかりで、謀叛を起こした光秀の動機或いは決意の由縁は、
  直接的に引き金となった心的諸要因からの発動が絡んだものとなっている。

  《信長成敗に係わる(過程での)誘導的根回しの策謀》
  =========================
  日本側の歴史記述のソースとなる諸史料の文書類からは、何故か信長の本当の姿が見えて来ないし、
  幾多の小説などで描かれた言葉の数々によりイメージアップされた信長虚像を観させられる感じがし
  て、それだけでも歴史の真実から隔てられたような思いに駆られる。他方、イエズス会側・フロイス
  などの史料においては、かなりリアルな交流の様子が描写されているが、それ以外の信長の人格性を
  記する折りには、やはり世間一般の風評を加味していると見られる。特に本能寺での最期の時に至る
  数年に至っては、日本側の風評をキリシタン思考でもって再解釈したようなものとして記している。
  
  イエズス会側も信長の本心を、或いは彼の望む本当の野望的志向をほとんど知り把握するには至って
  いなかった。ところが一方日本側では、イエズス会士伴天連と信長との接渉交流を記した史料文書は
  皆無といっていいほど見当たらない。当時の日本の中央政治的な歴史的営みの主流に係わる面では、
  何らその事蹟的な立場や結果をもたらしていないからだと見なせばそれまでだが、、。しかしながら
  これは信長時代の終焉と同時に、その後の体制的時代の潮流を主導し、それを鑑みて、イエズス会の
  布教活動、及びそのキリシタンの歴史的痕跡を消し去り、日本の歴史のうちからは極力それらを排除
  すべきものと思慮、胆計するを心得としたからである。

  本能寺の変後、信長在世の時代は潰えるものとなった。しかし、信長が世を去ったが故に、彼の全て
  を自分達の内に、自分達の側にしっかりと取り戻さねばならなかった。将来的に自分等の歴史に相応
  しいその継承者として、、、、、。
  信長という人物生涯、及びその歴史的足跡のすべてを、自分達が慣れ従っている従来日本国の体制的
  趨勢の内に金字塔の如く取り戻し、その体制的外枠の内に信長に係わる歴史を継承しつつ、自分達の
  時代を築いていかねばならないとの近世的な時代感覚に目覚めるに至った。
  信長を取り込む、自分達の国の歴史の内に取り戻すという形で信長を語り、記さねばならなかったと
  言うことは、生前の彼の生き様が、如何ようなものであったかという事と、まさに反対称的表裏の関
  係をなしていると見てよい。

  1580年代以降、それまで朝廷側にも信長権勢にも、それ相応の貢献をなした公卿・近衛前久の存
  在は、信長のように表立った時代の寵児ではなかったが、目立たない影で時代を策導しうる立場にあ
  った。(彼の大阪・本願寺との和睦の調停も、正親町天皇の意向密勅の依頼であり、信長はその時、
  それが成るならばそう為されよといった程度で、さほど好感度を抱いてはいなかったようだ。むしろ
  本願寺攻め担当の重臣・佐久間信盛、信栄父子がずるずると長らくに亘り無策無作為で、積極的な攻
  めの何らの手立ても、調略の働きもせず、いたずらに日を費やすばかりであったことに相当腹に据え
  かねるところとなり、佐久間父子へのお仕置き処分のほうにその気持ちが向いたようであった。)

  前久はいまだ朝廷公家側の旧来の存在として、誰よりもこの先<信長天下>の存続展望を危険視し、
  痛感、憂いの極みを心の内に感じる者であった。信長への大いなる権威付けのため、朝廷公卿トップ
  の近衛前久が京・御所務めでなく、異例なほどに信長ベッタリの安土御殿詰めに留まって、信長天下
  の動静を見守りつつも、朝廷側からの期待を一身に背負って遣わされたようなものであった。
  
  <信長天下>がこのままさらなる権勢の発展遷変をなせば、かっての律令国家の形骸化時代が続くと
  は言え、根幹伝統の継承変遷の従来からの<日本が日本でなくなる>といった、公家、天皇家の存続
  さえも危ぶまれるという、大変な危機的状況に直面し、近衛前久はその危機意識を痛切に感じるもの
  であった。

  織田信長は、確かに旧体制的な日本を抜本的に造り変えよう、引っくり返そうと、内にその野心を秘
  めていたが、それを成し遂げることは至難の業であり、あらゆる面で自分権勢の存続に注意、配慮を
  怠らないように心しなければならなかった。その極初歩的な事、つまり、武将家臣らの絡む自分の子
  息らの家督相続争いといったような、信長にとっては正につまらぬ低次な抗争に、わが身と無駄な時
  間を費やす事のないように、家臣武将等と、血族の息子ら、兄弟らとの関係の配慮にも心がけていた。

  また、<天下布武>という自らの方針に関しても、可能な限り臨機応変にカモフラージュすべきとこ
  ろはそれをなし、旧体制的な面での支持、排滅もその決断よろしく無応無尽になすものであったが、
  特に彼のイエズス会の日本布教への認可、奨励は、彼の秘められた野心の根底に根ざした手段として
  自許していた事柄であった。しかしそうではあっても、イエズス会からは一応の距離を置いて、それ
  なりの対処対応の交流をなすものであった。

  だが、外来イエズス会に依る信長への影響は表向きだけを如何に装ってもそれなりの大きな影を心の
  うちに落としていた。イエズス会から得るところの海外の<世界についての情報>は大変なもので、
  その神学的な知識と共に、自らを多大に自負、高邁にするものでもあった。イエズス会バテレンども
  と非常に懇意に、しかも対等の立場で交わり談話する、そんな彼、信長にとって、大陸シナ、明に関
  しての事柄も、自らの力をを誇大に顕示すべく、大陸・明への征服を所望し、日本の存在を大きく見
  せようとしていたわけであった。これもまた、<天下布武>という外聞的旗印と共に、彼の内に秘め
  た野心へのカモフラージュの一つであった。

  (かって信長は、鉄砲の伝来と共に、いち早くその導入、使いこなしを試みた者であったが、イエズ
  ス会によるその外来思想も密かに、かなり大々的に入手し、読習研応の処方を見い出さんとしたとの
  見方が採れなくはない。というのは、フロイスの『日本史』第一部・1560年紀の第27章での記
  事について、<美濃の国><土岐殿>という記述で始まっている意外な文面があるが、この記事に係
  わる真相は、信長が当時の美濃国、土岐の名を使って、密かに家臣である<山田のショウ左衛門>ら
  を京に送り込み、その教えを網羅的に情報収集したのではないかと思われる。この折は、いまだ都で
  ガスパル・ヴィレラ司祭らが宣教を始めて、一年と経っていない時期であり、信長にとっても、今川
  義元を桶狭間で討ち取った後のことだが、都・中央が認めていた大物<守護大名>を潰してしまった
  という事で、都・中央に対しては多少の動揺を感じていたであろう。この<山田のショウ左衛門>の
  記事物語は、実は彼が<尾張の領地の山田の庄(西春日井郡から名古屋市矢田、小幡方面)>を管轄
  した政所内侍代官であったのではないかと思われ、信長は、その<山田の庄>を朝廷(内裏)の御料
  地として献上すべく、彼らを遣わした際に、そのような密かなる試み事をも併せてなさしめたものと
  見られよう。
  その<山田の庄>に関しては、その後80年代前後には、何故かその名が消え去り、その御料地は分
  割され、他へと吸収合併されか、何かで無くなっている。フロイスがしたためたその記事は、60年
  代のガスパル司祭当初の記録や、伝えの認知に基づくものであり、尾張も美濃国と一つ領域にあると
  見なされ、同領域的な認知感覚をなしての記録として伝えられたものと想定できると言えようか。
  <山田の庄>の消滅隠滅は、のちのフロイスの記事との一切の関連性を抹消するためであったとも言
  える可能性を拭い去りえないとの推察もある。)

  <本能寺の変>勃発への直前的時代状況、背景等を事後的に掻い摘み述べるばかりであったが、いよ
  いよ近衛前久にとっては、その82年の年になり、その時の到来、熟してきたとの予想感を心の内に
  抱くに至り、その機を捉え用いようと窺がい思い計るばかりとなった。

  前久が<太政大臣>に就任したのが同年の(天正10年の)2月2日であったが、翌3月彼が太政大臣
  として信長の甲斐武田氏征討に同行したということはその秘めたる計意活動にとって大いに意義深い
  事となる。信長の威信を一層高め、その心を増上慢ぶらせるに十分であったと見られる。
  時の現職太政大臣が、唯一御前に仕えるべきお方と言えば<天皇>以外にはないようなものであった
  から、信長はいまや天皇に成り代わっているような、そんな雰囲気を感じさせるものとなる。さりと
  てそんな演出も差ほど堅苦しいものではなかったが、ともかく両者はそれぞれに位の高い、しかも表
  立っては時久しい友誼の仲を建前としていた。

  前久及び朝廷側にとっては、すでに<信長の勝利凱旋>をほぼ確実なものとして情勢判断していたの
  で、この前久の太政大臣就任をもって、<信長工作>への布石、足懸りとしている。
  前久により、今や開かれ志行されんとする誘導計略による<信長暗殺への状況機会>作り、<誘因条
  件作り>は、
  以下の主要点に基づいて、言葉工作的な遂行と振舞いをその実践(方法)となしたと見られる。
    
    ①、信長を最大限に<思い上がらせ、慢心有頂天>にさせる。それと
                  共に、大いに信長による太平・平安来るやをアピールし、彼に最
                  大限の隙、油断を生じさせること。

    ②、甲斐征討凱旋直後には、もはや全日本的に<信長天下>も目前、成ったも同然として、その
      <戦勝祝いの饗宴>を催すように何気なく奨め、同時に<徳川家康からの返礼>に対する饗
      応をも兼ねたものとして、その日時をお膳立てして進めること。
      (その5月になって前久が突然、太政大臣を辞任しているが、その辞任の折りに合わせて、
      前4月に朝廷で提起された信長への<三職推任>問題に絡んだものとして、信長のそれへの
      就任の可能性を予想、匂わせるものとなった。推任への打診は、甲斐からの凱旋後であった
      ことは言うまでもない。)

      *<家康の安土訪問>に関しては、特に前久侍従の旧知の者を密かに遣わして、家康が出来
       る限り<少人数>で安土に来るように、またその折には、折角のお運びゆえに是が非にも
       京、堺など畿内各地を見聞なさるが良かろうとの、よい機会と成らん事を等々の、前久か
       らの言付けを家康にもたらす。
       (これについての家康の実際的反応は、重臣ら側近もかなり訝っており、結局、安土の北
       東数里手前の<番場という地名>の田舎宿場までは、百数十人程の護衛付きで、荷車1、
       2台の従僕者などを伴い、そして翌朝、番場からは、主要人ら2、30人足らずで、安土
       の地に乗り込んでいる。)

    ③、饗応役は、その頃の家臣状況から見て、<明智光秀>が担当することになろうと判断されえ
      たが、兎にも角にもダメ押し確実に、それとなく事前に<光秀>の担当ならば、きっと申し
      分なかろうとの印象付けを為して置く事。前年の<御馬揃え行事>の成功例を仄めかして、

      *この<光秀饗応役>に関する折り、信長と光秀との間に、<一悶着>おきるような、誤謬
       手違いが生じるように、その成り行きを自然結果させること。

       (これは、家康らの<訪問人数>に直接係わる事で、具体的には饗応御膳に用いる食料、
       及びその量的調達や、宿泊に関する件で生じるものとなる。信長公記の記すところに依れ
       ば、信長上意にて、その御宿が<大宝坊>と定められていた。がしかし、牛一著の公記で
       は、何の問題、トラブルもないものとして、不言及、略除の記述となっている。

       光秀にとってこの時、かなり考慮して、一日分の食材料の前日確保と数日前確保の物とに
       分けて調達したであろうが、事前の人数関係の確かな情報では、その前日14日に家康が
       到着した<番場>の時点までにおいて、家康一行が、百数十人であるとの連絡を受けてお
       り、その人数分で事前調達の手配をなしている。また<大宝坊>ならその御宿、収容出来
       るとの判断にて妥当なりであったわけであるが、翌日15日になって、2、30人程度で
       の家康ご来訪となり、いやはや大変な誤算となる。その対応を早急に変更すべく、<大宝
       坊>の厨房所にその食料調達品を運び入れることを急きょ取り止め、光秀自身の邸に回し
       留めた。しかもその15日のお泊りも、そんな少人数ならば、光秀自邸にての一宿お振舞
       いで良かろうと、家康一行を自邸に迎え入れるものとなした。

       この事を知った信長は、翌日相当のお腹立ちで、<光秀館>に出向き、一悶着起こすもの
       となる。主君・信長の客人を、光秀が事前許可も無く勝手に自分への客人であるかの如く、
       自邸に招き入れたと見なし、しかも家康との良からぬ交誼にうつつを抜かしおったかとも
       想像して、、、その16日以後には、光秀邸から異臭が立ち込めて、ご近所迷惑になった
       事も事実らしい。他の史料的古文書にもその異臭言及が見られるが、、、)

     ④、前久の人的誘導工作の決め手として、その心に描く指計図のカナメとなったのは、羽柴秀
       吉であった。秀吉は、信長が甲斐征討に出かけるその年の3月頃を前後して、東とは反対
       の西へ、77年10月以来、播磨方面の征&調略、中国の毛利輝元方勢力への押さえ、切
       り崩しに遣わされていた。
       (信長公記では82年旧暦1月21日安土に参上し、その後2月中旬には播磨へと、さらに
       日本側史料では天正10年[1582年]3月15日、姫路城から備前、備中へ向け、2万の軍勢
       を率いて出陣したと歴史は記している。) 
 
       前久と秀吉との接触は、<変>の起こる以前からあったであろう。歴史が記し得る諸史料
       は皆無と見られるが、信長が、京から追放の憂き身に晒されていた前関白・前久を京に引
       き戻すべく、支助の奏上を朝廷に行い、75年(天正3年6月28日)京に帰洛させた。
       その以来、この時信長殿が、前関白であった身分の高いお方を身元にお召しなさったとい
       う事で、家臣、部将らの間では結構な評判、その話で持ち切りとなり、前久は非常に身近
       かな存在として、注目されるべき的となった。

       その前久を信長は有用せんと要請して、9月20日九州方面・薩摩の国など、島津義久の
       下に遣わすが、その時までの約3ヵ月の間に秀吉とも何らかの接触があったと見られても
       不自然ではない。
       前久の方から偶然的にある機会などに“秀吉どの、またゆっくり貴公と誼[ヨシミ]を交わす時
       があれば、宜しゅうおますな、、”と一言お声を掛けて、、、その頃の秀吉にとっては、
       手のとどかない、超身分の高いお方としか考えていなかったわけで、突然直にお声を掛け
       られ、何かしら嬉しくて、心が舞い揚がってしまったようだとも、、と言ったような、そ
       んな接触があったとも、、、あり得ないことではない。

       実際、このような事が因縁となって、77年8月初め、越後の上杉謙信の上洛進攻を阻止
       する征討に、柴田勝家総大将の下、秀吉隊が助成参画を命ぜられるが、<勝家殿とは作戦
       が合わない、彼の作戦にはとても従えないなどと、、>色々と理由付けて、途中で無断退
       散してしまったのではないか。
       当世の実情勢を踏まえて、こんな時期に信長の命に背くとはもってのほか、軍律違反の何
       ものでもない、実に頸が飛ぶやも知れない事だった訳だが。あえてそれでもイチかバチか、
       それをやって退けた秀吉には、先を見込んだ昇進と合わせ、前関白・近衛前久の手前を慮
       る事の余りの故にそのような行動を誘発させたという他ないと見なしても差し支えない。

       その後、前久が九州から、天正5年(1577年)2月26日、京に帰洛後、それ以降に
       おいても、なんら歴史に留め置く、史料上で確かとなる接触の証拠付けは何ら見い出せな
       いが、秀吉が81年の暮れと、82年の1月21日に西国備前、播磨から安土に来訪した
       折には、京か安土かで、手土産の進上物を送り届ける事をもって、前久邸にご挨拶ぐらい
       の気配りはしていたであろうかと思われる。

      *信長にとっても、前久に自分の家臣、部将らを手なずけられることを何よりも嫌い、よく
       よく注意を払っていたわけであり、その上さらに、戦略上、特に彼を九州に遣わしたわけ
       であったのに、ほとんどその成果が出て来ていない趨勢にあり、ここに来てむしろ逆の結
       果(毛利輝元勢に有利になる)方向の情勢に進んでいるようだと、信長は、78年以降、
       判断せざるを得なくて、ひどく懐疑的な一面を秘めるようになる。(前久は薩摩と肥後・
       八代の相良氏とを和睦させたが、これによって反って薩摩が、豊後・大友氏へ大々的に戦
       を仕向け得るような方向進展をもたらしたのではないかと、、)
       その時期には信長の前久への信頼度がかなり落ちたと見られる。

       78年のこの年、前久は、1月20日朝廷で、先の関白職を再是認する意図の顕証として
       <准三宮>という高位を得る。ところがこれに対し、信長は反対に突然、朝廷から離れる
       かたちで官位、官職の<右大臣、右近衛大将>を辞職してしまう。そのような事態も、信
       長の朝廷側への、それ相当の不信の現れとも判断されうる。

       普通のかたちで何事もなく、信長と前久との仲が、相益・友誼に進展するとすれば、前久
       の子息・信伊をして、信長の新居所の二条新御殿で元服の儀を盛大に執り行なう事を許し
       た信長であったが、その彼が、信伊の婚姻についても、養女を上家からとってさえもそれ
       と結ばせ、前久との縁戚関係を成すように計らう事も起こり得るものとなっていたであろ
       うに、そのようにはさらさらならなかった、、、、、
       78年8月には、実際に信長は、かの明智光秀の娘・珠と、細川藤孝の嫡男・忠興との婚
       姻を取り計らい、なさしめているではないか、、、。

              前久と秀吉とは、上記のごとく、その程度の接触でしかなく、何か秘密めいた事を交わす  
       ようなことはなかった。そんな軽い顔見知りの関係であったが、前久は、その秀吉を巧み
       に利用する事が出来たわけだ。如何なる手法に依ってか、、それは、具体的には2種類の
       書状によるものであった。

       <《その一つは普通一般的な陣中見舞いの書状にて》>:
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       前久は、かの安土で、家康をも招いての戦勝記念の饗宴を目論むと同時に、西国の秀吉に
       密書でも何でもない、普通一般の、単なる陣中見舞いの如き書状を出したと見られる。
       それには何気なく、安土で戦勝記念饗宴を中旬頃行なうが、貴侯への援軍は、その後とな
       りましょうかとも、暗に記して、、。秀吉が書状を受けた頃は、すでに援軍の依頼書状を
       信長に送ったばかりの時であった。また備中高松城の水攻めの堤防造成工事に取り掛かっ
       た最中でもあったわけだが、、、、
       この奇策の遂行と併せて、毛利との対陣となる暁には、速やかなる和睦の道も有利に考慮
       すべきかと、事前の段取り対策も思い計るものとなるが、ともかく早急なる援軍を第一に
       考えねばならず、それゆえ

       何はさて置き、もう一度早馬を立て、秀吉上意の使者にて、安土の信長に再度の<援軍要
       請>を依頼する。この場合は、前回の要請とは異なり、<信長様ご自身>のご出陣、動座
       は為さらずとも、それは後からでも充分ですので、他の部将らを少しでも多くお送り下さ
       るようにと、強く念を入れるものであった。すでに勝ち戦になるとの判断、勝機も半ばで
       あったが、、、あえて
       その秀吉の念の入れようにはある思惑があり、自分がこの際、出来る限りの部将等を自分
       のところ配下に抱え込んで、実質的な総大将になるかの如く凱旋するか、或いは信長様を
       そういったかたちでお迎えするなどして、云わばパフォーマンス的な印象付けの実績を造
       り踏まえようとする、一種の自己アピールであったが、そんな意図、腹積もりがあったわ
       けである。

       近衛前久の秀吉利用の思惑は、信長身辺からその部将等兵力をできる限り無くして、信長
       ’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’
       を討つ、討たせる<環境の場>を前提演出することであった。
       ’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’
       (堤防工事は5月8日の着手からわずか12日で完成したが、その堤に水が流入し、満水
       して今や悠然と水攻め体勢が相成った。その直後の5月21日に毛利輝元は、猿掛城に本
       陣を置く事になり、高松城に近い岩崎山(庚申山)には吉川元春、その南方の日差山には
       小早川隆景が着陣するという体勢をとるに至る。だが高松城下は水没、城は孤島と化し、
       満水の湖を前にしては身動きがとれず、援軍の働きを成しえず、このまま時間が過ぎれば
       信長からの援軍来るの情勢は切迫するばかりだ、、。もはや輝元側も、多少の代償覚悟で
       も、和睦の道を念頭にした対処が無難だとの方向に向う。)

       ここで双方において和睦への方向性が見られ、歩み寄りの折衝が始められるものとなる。
     
       <《もう一つの別の書状にて》>:
       ・・・・・・・・・・・・・・・・
       これはもう、秀吉にとって怪奇なものであったが、、、これは通説日本史の歴史上の理解
       では、明智光秀が毛利輝元宛に送った密書として、その存在が知られたものに比定されて
       いるが、原書が残存していないので確証を伴うものではない。(後の『川角太閤記』別本
       で、<6月2日付け、惟任日向守>差出の毛利方・小早川隆景宛書状文言が写収録とされ
       ているが、原書状は無く、当該著者の見識に基づく偽作だと疑問視する歴史家もいる。)
       
       6月2日<本能寺の変>が起こった直後、その3日の夕闇迫った頃、秀吉陣営側をうろつ
       いているあやしい者の検問から密書が挙がったとされる。この密書の到着に要する時間に
       関しても疑問視されている。そんな<変後の翌日到着>は、当時の事情状況では全く不可
       能であると見なされている。少なくとも丸々2日以上、3日を要するとも、、、、、
       (たとえ光秀が<変>を起こす前にその密書を容易していたとしても、、、。実際には各
       諸侯宛に書状をしたためたのは、その<変>の日の午後遅く、坂本城へ戻る途上か、或い
       は帰陣後であろうと考えられている。)
  
       したがって、その怪奇な密書は、本当に存在したものなのか、どうかも疑われている。そ
       して、秀吉自身に関しても、その手際よい即応対処(撤収帰還・大返し)に疑いの目が向
       けられる根拠の一つともなる。(秀吉黒幕説、或いは加担説として)
       この密書が<光秀発信の毛利宛>としたのは、それの持参者を含め、密書に係わるすべて
       の事柄事蹟が、その後における事後処理上での秀吉の政治的工作の為の捏造であろうとの
       解釈も可能となりうる。

       いま暴かれるその密書の発信、形式等、その真相の真実とは、、、前久の発信であるとの
       歴史の証拠は、その物自体以外にはまったく存在し得ないが、想定推理して、その真相を
       暴き出すとすれば、以下の如くであったと見られる。、、、

         ・密書の宛名は、もちろん記されてはいるが、差出名や、それへの署名印、または、
          当世風の花押などは、一切表示されていない。
          紙の質、様相は、上品質上等なものに属し、立派なものと見られうる。

         ・密書の文面上の宛名は、<毛利輝元>宛と表記されているが、封印されているので
          運び屋の使用人は、そのことを全く知る由もない。だが、運び屋は、必ずや<羽柴
          秀吉>に、その陣営に届けるように通達を受けており、且つ、落ち度のなきように
          普通普段的な布袋に入れるか、或いは布に包んで<羽柴秀吉殿宛>と判るように、
          その目印細工(縫いつけ)がされていた。
  
         ・そのような形式、方法の密書として、予め<変>が起こる以前に用意され、変後の
          翌日、3日を想定して<秀吉>にもたらされるように、事前にその時間的余裕を見
          た一日距離分の手前で、日時指定の待機手配をしていた。

         ・密書の書体について、秀吉はそれに見覚えがあるともないとも、、、或いは気づい
          たかも知れないが、、半月ほど前に前久からの<陣中見舞いの書状>の文体と照ら
          し合わせたかどうか、そして覚ったかどうか、、その辺のところは、羽柴秀吉本人
          以外、誰も知る由もない。

       *光秀の<毛利宛>の密書は、恐らくちゃんと届いたわけであるが、それは変後の4日、
        その午後以降の事であったであろう。
        他にも紀伊の根来衆のだれ彼の要人から<本能寺の変、信長自害>の報を記した書状が
        4日の午後にもたらされたとの歴史記述の成る史料(毛利家文書?)が見い出されてい
        るのは事実である。

  このようにして、<信長討ち>の環境的場がお膳立て整えられて、その実行的チャンスの日への絞り 
  込みにもすでに予想決定され得るものとなる。前久とその志しを同じくする者たち、勧修寺晴豊、吉
  田兼見、(誠仁[サネヒト]親王は支持、静観の立場だったが、)それに前久臣下の高倉永相、中山親綱、
  広橋兼勝らがいたが、<信長討ち>実行の首謀者を立て演出するに当たっては、ほぼ全員一致して、
  明智光秀がその最適ターゲットで宜しかろうとの判断に決していた。しかも吉田兼見が光秀との友好
  関係でかなり親密であったので、彼が担当主任として、光秀への当たり障りのない誘因の任務に当た
  るものとなった。

  これらの事がすでに甲斐征討の出陣前、信長の嫡男・信忠出陣直後には決められていたので、前久が
  信長ご出陣(3月5日)に向けて随伴同行する際の、真の目的意図も<光秀>を考慮に入れたもので
  あった。つまり信長がその出陣旅程の最中で、立腹、不機嫌になるほどに、光秀と懇意になり、談義
  に花を咲かせる事で、その状況造りをなしておくことであった。そして、征討戦事に携わった有力部
  将等の手柄に対する褒賞の知行宛で、誰が何処に赴任され、振り分け配されるかを確かめ置く事も肝
  要な事であり、この折り以前の段階状況も含め、畿内・京を中心にかなり遠方、広範囲に信長の精鋭
  部将等の誰それが振り分けられているとの、あらたな認識も光秀の諸評を加味してさえ確認できた。
  この陣旅過程で、その<光秀>工作も、かなりの上出来効果をもたらすものともなり、信長の立腹も
  <時の太政大臣・前久>への暴言、不遜の体として見られる事態さえ生じるものとなり、光秀の朝廷
  遵守の気構えにも響き、主君信長への不忠反意のつのり、これを正すような何らかの影響、思惑が残
  ったと見られる。

  吉田兼見の<光秀工作>は、彼と交流談義の時をしばしば得る、その都度に、信長の警護お膳立てで
  の有力部将は、今やそなたしか居り申さぬ、、などと、誉めそやし感じ入るもので、しっかりとお守
  り下されようとの進言をするものであった。そして光秀が信長から離れての単独出陣が決まった折に
  は、<信長殿の警護>がまったく手薄になるが、実際これで大丈夫だろうか、、信長殿自身のご出陣
  においても、みな出払ってしまい、大して兵数が集まらないように思われるが、、、何だか妙に信長
  殿を討つような最良な機会、状況ができて来てしまうようで、何かしら背筋が少々ぞっとしますな、
  こんな時を狙って、誰かが信長様をお討ちなされるような事が起きたとすれば、後世永久にその名を
  歴史に刻む事になりましょうか。時代が大きく変わるやも知れませんでしょうから、、、などなどと
  いった向きの言葉が繰り返され印象付けられることとなる。

  また、光秀出陣における神前の戦勝祈願には、<愛宕山の愛宕権現宮>が宜しかろうなど、戦勝連歌
  の奉納についても、連歌師・里村紹巴らにお任せあれば、首尾よく行きまするとの提言も添えて、。
  光秀自身にとっては、実際、現実とは裏腹、心うらはらで、<信長討ち>のチャンス、信長に意外な
  隙、油断が出来てくるという事実、その認知の現実が、彼の頭にちらつくばかりともなった。

 *兼見の<光秀戦略>、その友好を深めて、世間に知られている限り、光秀方に何かあれば、自分の方
  にも災いが及ぶやも知れないと、また、その事後に光秀により、すんなりと太平の世が存続するとは
  限らない。むしろ、反対勢力により世情は大きな内紛、紛争を免れないとの予想を見立てた方が無難
  であると、その予知がないほど愚鈍ではなかっただろう故、そういった事への自分の安全対策として、
  一応の善処策をなしていたと断定されうる。つまり、これが、彼自身の日記『兼見卿記』自体に顕著
  に現れていると言える、別本、正本の2種に係わる存在事由の事柄にあたるものである。
  
  恐らく彼は、事が及んでからでは遅すぎると、ゆえに82年度ものを事前に2種周到に用意していた
  と見られる。<変の勃発>の前、5月初までにその別本、正本となる2種を準備していて、実際に起
  こった<変>の後、6月12日まで続けて記したものを永久中断して、別本として閉まって置き、先
  の5月初めに中断していた別本を正本としてその修正記述を行い、6月12日以降もそれにより継続
  してゆくという方法を採ったと見られる。つまり、<変後>の光秀如何によって、どちらでも正本選
  択が可能となるように考慮していたと思われる。

  (変後、光秀は<山崎・天王山合戦:6月13日(西暦7月2日)>で秀吉方に敗北した。その紛争が終
  息した後、<本能寺の変>に関する事後処理の裁評追及が勝者側でなされ、他に光秀に加担した者が
  いたかどうかが調査されるものとなった。
  吉田兼見も変の直後に光秀から<銀子50枚>を頂戴したという事で、秀吉から咎められているが、
  その銀子を秀吉に返上し、当たり障りのない日記を見せることや陳述で、当座の処罰を免れている。
  また、近衛前久については、その初めに秀吉も追求姿勢で臨んだが、途中からは取りやめており、信
  長の子息一族で、三男・信孝の執拗な追及を被っている。その難、探査、捜索の手を掻い潜り、三河
  の徳川家康の許へ、その領地に一時身を寄せるものとなった。

  兼見の日記に関しては、秀吉の死後、世に別本ありが知られることで、兼見に対して不当な、
  身に覚えのない追求がなされる、その難渋、不当処分を取り去るために、それを新たに書き改めた
  との評価を得て、反って光秀への関与、一切無きの証明カモフラージュの効能を現わすものへと様変
  わりしている。)

  こうして、前久の数年来に及ぶ<信長対策>の集大成が見事に成功裏に収められ得る世情環境が策整
  されるものとなった。                                                    
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