●フロイスの表記視点、その解明真相、最新認識●

言葉文化が生み出すイメージ形成とその継承過程を踏まえて


 戦国時代には数知れない幾多の有、無名の合戦があったということだが、広く世に知られ
 るようになるものでも、後々になってその名を冠して知られるのは、1600年代の江戸
 時代初期以降であろう。、特に軍記物の諸文献、あるいはそれに類した文書の在るをして
 それらに負うところ大であり、やがて木版にしろ、印刷に係わる諸技術向上により、刊行
 版ものとして広く世間一般にまで出まわるようになると、その知名度がいやが上にも増し、
 言葉表現によりその諸々の既成イメージを得成してゆくものとなる。

 かって既存の鎌倉、室町時代の軍記物でさえ、それぞれにその時代の特徴、思想的人生観
 を反映することで、人に人生訓的な気意識を覚えさせたり、英雄的な豪気さを歎美させる
 など、種々様々な状景を連想せしめて人々の心への働きかけを千差万別的なものとなす言
 葉の移入効果があったであろう。
 
 長きに亘る戦国時代が終焉し江戸初期に至ると、またそれなりに別な趣き、新装を豊かに
 したものへと発展し、多様な文化的進展への適応が見られるものとなる。(合戦屏風絵、
 絵巻、講談、芝居等にも)
 1620年代になると、小瀬甫庵の<信長記>や<太閤記>などの軍記物が広く一般町民
 層にまで巾を拡げて読まれるような時代になって来るわけだ。
 (それらの刊行ものは、22年、26年)

 これらの軍記物読本は、まさに時代間隔がごく近いということもあり、何ら歴史の史実性
 の正否云々などを問われることもなく、そのまま過去にあった出来事についての知識とし
 て単純に受けとめられ得たようである。
 そういった傾向で書き物、読み物がどんどん進展してゆき、その積み重ねとあらたな刷新
 とを繰り返しつつ、言葉によるその刷り上げ、練り上げに磨きがかかり、英明さ、詳述さ
 が加わり、その輝きが一段と秀でるものとなる。
 そこにはあたかも多彩なイメージ化、その定着化を自ずと色濃くする言葉の妙なる魔力が
 宿っているかのごとくかも知れない。その時代の流れ、趨勢がたとえ一時的に衰退すると
 しても、また新たな息吹を呼び覚まして、絶える事の無い存続の命脈を保ち続けて行く。
                                                  
 昭和に至ってのその極めつけの頂点なるものと言えば、まさに壮大な文芸世界を創出する
 がごとき、数々の<時代物歴史小説>なるものであったろうか。それらがまた新たな映像
 文化との結びつきをなして、その時代再現や人物表象(演出イメージ像)をヴィジュアル
 なものとして彩り印象付けるものとなる。

 言葉が、その言葉自体における規制的な障壁を払い除けて、その自由さを深め、高め、広
 げて無窮に拡大して行けば行くほど、言葉の表現力は無尽な豊かさを可能とする。それぞ
 れの時代にはそれぞれに相応しい文芸の豊かさが大なり小なり備わっているようなものだ
 が、過去からの継承所産の様々な資料がまた、人をして新たな何かを生み出す契機、原動
 力の資源ともなる。昭和に至るその現代的な豊かさも、絶えざる過去の時代からの言葉と
 イメージ的な所産の賜物から汲み取られ、大いに発展、育まれて生まれ出でたるものとな
 ったものであろう。

 今や現代史的な状況において、歴史を知る事への多様多面的な試みは、そのリアクション 
 的な創作への営みと共に、まさに成熟した大人の知性を顕実化したことへの徴表だとも云
 える。だが、そこには疑念を差し挟まないではおれない日本近世の特異、特殊な時代の流
 れが横たわっており、成熟した知性を欺瞞と不実に満ちた所産への奴僕に変えてしまう、
 そんな危険、険役性を孕んでいるとも云える。
 
 フロイスの著作の一部完了継続の時代から、この年、2014年で、428年〜の時が経
 っているが、その彼の著作物が今の時代にして、ようやく甦って世に出たわけだ。何とも
 不思議で、奇跡的とも云うべきか、驚異なまでの現代とのめぐり合わせであろうか、、。

 彼の著書「日本史」は、不遇なものとして、つまり、余りにも内容記述が膨大なために、
 ローマ本部のイエズス会総長及び直下の上長(ヴァリニャーノ師)らが取り合う事のない
 事情の下に置かれたのがその運命の始まりであった。確かにイエズス会としては、日本イ
 エズス会活動履歴に基づく教会史を簡明端的に記述した形式であるべきものとの立場から
 は、はなはだ相応しからぬものであったというわけである。

 フロイスにしてみれば、併行して平易で端的に年毎の活動履歴や出来事の事実を簡略に編
 年体方式に著わせば良かったと云うものであろうが、とてもそれだけの余裕がなかったと
 も、、、心労、困苦も多く、いつも危険、危難が隣り合わせ、常に危険覚悟での危険慣れ
 の活動生活であったという実情からして、、、また、
 彼の思惑からしてみれば、簡略にして端的な教会活動歴を併行してまとめ上げたとしても
 それだけがイエズス会本部に末永く永久保存して生かされるだけであろう、と察し目論ん
 だに違いない。

 ともかく、膨大な量の著作、「日本史」が残り、1926年昭和の初めにその第一部の部
 分が、先ず西洋でドイツ語で訳され、日本ではその独語から重訳され、1932年と戦後
 の1963年とで初めて刊行されている。それから十数年後、1975年から77年以降
 にかけ、古ポルトガル語原典の写本から、並々ならぬご尽力により、お二人の先生方(松
 田毅一、川崎桃太両氏)共訳に依り、リアルで活き活きとした現代日本語での完訳にて、
 その日の目を見るに至ったという、大変貴重な著作物であるわけです。

 著書「日本史」自体の経緯はさて置き、前置き前提の予備知見文が何か変に逸脱したかの
 ように長くなりましたが、
 本論、フロイスの当該叙述の考証解明、見直し検証に移ることにします。

 フロイスの沖田畷合戦記事関連は、その前年83年10月にユリウス暦からグレゴリオ暦
 に暦法が切り替えられていたが、86年前後の著作時点にあっても、ユリウス暦の日取り
 を持ってその合戦の日を84年の<4月24日、金曜日>の事として記している。
 これは新グレゴリオ暦で<5月4日金>、和暦では<天正12年3月24日>に当たる。

 彼のこの会戦記事に関しては、以下の三つの項目に関わる視点から、再検証を試みるもの
 とする。それによって新たな認識と、その理解の正しきを深めるのもとなろう。

 その一:戦場に関連した地理的環境(地形及び建造施設の立地状況等)への再検証。
     ---------------------
 その二:フロイス自身の合戦への著述視点となる情報収集的立場とそこにおける
     彼の見識の程度、知見的規模は如何ようか。その再検証。
     ---------------------
 その三:フロイスがその内容記事で、島津国主(義久)の【第二の弟】とした
     【中務なる人物】とは一体誰なのか、についての再検証。
 以下、
 《検証その一》:
 =======
 
 先ず、地名的な面で沖田畷は、かってその近隣地域の<宇土原[バル]、三会原[]、山田原[]
 などと同じように<沖田原[バル]>と呼ばれていたのではないか。
 日本側の古文書史料、或いは軍記物、例えば江戸中期初の北肥戦誌や、現代の著書「肥陽
 軍記」まででは、
 その <沖田原[バル]>での合戦が、後に薩摩・島津の<戦術:釣り野伏せ>への極めて優
 先志向の考え価値観の下に、その戦の模様が創作的に理解され、記されたのではないか。
 それ故、その戦記述に即して<沖田原[バル]>の地名から、<沖田畷[ナワテ]>へと変移明記
 されたのではないか。

 地理的地形面での当時の状況を推察するには、その合戦の時、84年から30年余の後の
 事だが、その江戸期初めの島原藩主・松倉重政がその戦場地域内にあたる森岳(低い小山
 をなす小規模の丘陵地)に新たな居城を築くことになる。1618年から1624年まで
 7年余をかけて、本丸・天守、二の丸、三の丸、数多き櫓など、その城敷地面積は南北に
 渡り相当大きな規模に及ぶものであった。それだけではなく、その西側には大々的な武家
 屋敷もほぼ併行して造成建築されていったという事で、まさに新城下町造りの発展という
 事態を迎えんとした土地柄であった。

 そういった松倉藩の造成事蹟を考慮すると、その立地条件として、その居城、新城下町地
 域は、泥田、深田、沼地湿地帯のようなところはかなり少なかったと見られうる。森岳の
 下辺りのどこかに小さい沼地が2、3あったとしても、他の山手に向う地域は、多少雨が
 降っても、泥土や湿地が一、二週間も水が引かないといった土地柄ではなかったようだ。
 【地形図:島原&他参照】 
 ※上記した<○○原[バル]>の古地名の記載はありません。
   【全体地形図】図下に注釈説明がある。
   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 
   【北部拡大地形図】 
   【南部拡大地形図】 
   −−−−−−−−−−−−
   HTMLの通常表示はこちら⇒《注釈付き》《地形図のみ》
 ※全体地形図・注釈説明のコピーを下に掲載(地図との照合読みを可とすべく)
   
 注釈1:島原城の西側、下新丁から(古丁地区も含め)桜門町方向に築城時に併行して<武家屋敷>が
     造成されている。

     (*合戦の直前、早朝であろうか、龍造寺隆信が小山から島津・有馬の布陣状況を眺めたのは、
     宇土山に連なるお山の一つで、地図上の上側、宇土町から杉山町辺りの山、“がまだすロード”
     のトンネルの山の尾根系かも、と見られる。)

 注釈2:島原城の南前、北原町を通る58号道路が昔の古道で、これは1618年以降の築城の折に城下の
     主要路として、それなりの道路整備がなされている。

     現在、その道に沿って10メーター前後の川が流れているが、この川沿い地帯は、昔は水の流れが定
     かでないような低地湿原だったようです。その流れと川土手の整備が築城の折りになされたか、
     その後になされたかは不明、だが、明治以降、昭和の整備が現在の状態という事です。その川の
     南側にまた東西方向に道があり、その山手側(萩が丘)三叉路で、北へ真直ぐ延びる道があって
     <三会城>へとつながっています。
    
    *58号の道が、前線防塁ラインとすると、その三叉路のある道は、最終防壁柵のラインと見られ、
     それが、その道の南側に位置した<旧島原城>の防護線となっていた。
     また、その旧城の出城(丸尾城)が、58号道の西・山手側の三叉路、<島原農高の右上>から北
     に延びる道沿い(上新丁の左下手前辺り)、現在の<本光寺>の敷地区域に何年か以前より設け
     られていた。

     かって龍造寺勢の進出の折りなど、その攻防を繰り返して以来、もはや戦時での砦の機能しか用
     を成さないものとなっていた。1584年の合戦時には、島津・有馬方の最前線の砦となっている。
     だが、
     この砦は、敵を引き付けて、ねばり強く留めおく囮の役目をする要害に利用されたようである。

 注釈3:会戦時(1584年)の旧島原城は、上記、三叉路の道の海手側、加美町から南に下る道の、地図上
      では右側、<白土町>表示の地域で、加美町と白土町の間に<中堀町(地図不出)>があるが、
      そこがその城の中心エリアで、現在は島原藩主・松倉の菩提寺として、当時に建立の<江東寺>
      となって今に至っている。有馬領の時代には、通称<浜の城(旧島原城)>と呼ばれていた。

      この城に通じる当時の港は、<白山町>表示の右側、この地図には出ていないが、<元船津町>
      地区の湾に位置していた。<坂上町>表示の上に、二股の道が、逆V字に下(南)に延びるが、
      これらが、湊道一、湊道二として、城への通路機能をなしていた。

 注釈4:さらに地形の面で注意すべき困難な事柄は、江戸中期末、1792年(5月21日)夕刻遅く夜になっ
     て、眉山が大々的な山体崩壊を起こし、広範囲に亘って地形を変容させた事である。
      【地形地図参照】:
       【眉山A地形図:地形変動範囲】 
       −−−−−−−−−−−−
       【眉山B地形図:拡大部】 
      大崩壊を引き起こす至る事前的経過兆候は、
      前年(91年)末頃<雲仙岳西側>有感地震継続多発、

      ⇒震源が普賢岳に徐々に移るや、92年2月10日普賢岳噴火開始、溶岩流山中の谷を埋め、2km
      にまで達する。

      ⇒92年4月1日再び地震が一週間ほど群発するや、岳の火柱噴、噴石雨あられの如し。

      ⇒地震の震源が島原方向に移り、4月21日頃からは島原近辺での有感群発地震が活発化。

      ⇒5月21日群発地震収まったかと思う矢先、夜になって強い地震が立て続きに2度発生。
      一度目は、<七面山>の北東面を部分崩壊、2度目は、その衝撃力で増長されて、<天狗岳>
      の大崩壊、この時には山全体の三分の二が、山の麓元から大崩落したようだ。

      おそらくその<天狗岳>は、今でこそ標高700ほどだが、崩壊前は900近い高さだったろう。
      また、<七面岳>も今は820ほどだが、以前は850ほどの標高だったのではと思われる。

      大規模な崩壊流は、地図上では今の<崩山町>から白山町、その東の海岸沖合いにまで至り、
     その辺面を扇状形の北側とすれば、南側は<仁田町><大下町><鎌田町>及び<南安徳町>
     の北部にまで達する規模のものであった。
     特に南側の海岸線は最長で800mほどに一気に押し広げたものとなり、一方、北側の東面
     では、<元舟津町>の東方面の沖合いに幾多の岩礁の島を出現させている。

    *以前から眉山は、<七面山=眉岳>と<天狗山>の二峰からなり、<七面山>は、北方向の、
     宇土町方面に緩やかな山麓を広げ、一方<天狗岳>は、南に向け、<白谷町>方面にそれな
     りの山麓スロープをなした。遠方からはその両方の山並みをして、眉形のような景観を映し
     出すようだった。だが天狗岳の東面の山容は、かなりの急斜面山麓をなし、近傍からは、山
     が急に聳え立つ感じに見えるものであった。

    *北部の<白土町地域>では、大規模の地盤陥没の場所が生じ、そのくぼ地に地下水脈が開け
     て大量の湧水が起こり、それにより湖が生じる。梅雨時の雨の影響も重なって、一時の間、
     南北に約1km、東西に3、400m程の規模になったと伝えられている。
     (現在では南北約200m、東西約70mほどであるが。)
     今の地形図上では、北は<萩原、寺町>から南は<崩山町から西八幡町>を堤として、東方
     向の<坂下町>方面に、弓なりの南北の湖面をなしたとも、、、。
 
 以上、江戸初期の島原藩・松倉氏の新居城(島原城)築造から、さらに加えて170数年
 後の眉山大崩壊の事まで、かの合戦場(通称名・沖田畷の戦)地域に係わる地形的な概容
 をふり返り見なければならなかった訳ですが、
 結局のところ、江戸期の島原城及び、その南側の道路沿いに流れる川のラインから北側の
 北部領域全体への<眉山崩壊>による、直接的地形変化、変動はなかったものと見られる。

 さて以上の如く地形面での諸事蹟、諸事情の概握を以て、地形的な面での戦場地域の全体
 的範囲、合戦の当日に係わる領域を大まかに暫定、垣間見る事ができるように思われる。
 この概容認知により、ルイス・フロイスの記した文言の語る処を、改めて見直し、その真
 義の是非を問い判断する検証の余地が残されよう。
 《検証その二》:フロイス自身の情報収集的立場、、
 =======
 
 フロイスの記した文言内容をつぶさに見た限り、彼には、戦、合戦に係わる<地形の有利、
 不利>を云々する戦術的所見、及びその論点的記述はなされていないようであった。ただ、
 援軍島津勢の総司たる、島津国主・義久の弟・中務[ナカツカサ]と称した御仁が島原の地形、及
 び陣立て布陣の様、配備をめぐり自らが視察に赴いたと記しており、(50章の初め)また
 入念に陣屋での守りと攻めの体勢をさらに強固にし、陣地の整備に手抜かりの無きように
 務めたと記している。(50章末尾)
 
 フロイスにとっては、戦にいたる事情、状況とか、戦の模様、経過状況を、自らの目で以
 て見るが如くに書き記すのみで、まさに目で見、耳で聞くなど、その確かな情報を如実に
 著わす手法を駆使する傾向を示すばかりであった。
 
 敵方龍造寺勢の陣立てにおける隊列にも言及しているが、それがヨーロッパ風を思わせる
 ほど、整然として見事な配分であったとも伝えている。(51章)
 彼はヨーロッパの戦陣配備での陣容について、多少の知見を持っていたとみられるが、そ
 れは、何らかの戦術的な布陣図や、戦術計画を図示した紙面、書物を見てのものという程
 度に過ぎなかったと見られる。

 戦略戦術をどう組み立て、どう実行するかという専門経験的な知見もなく、また当時の日
 本の戦での戦法など、その予備知識さえなかったと思われる。
 だが、先の6年ほど前、1578年の豊後と薩摩との日向の地での合戦(通称・耳川の戦)
 では、フロイスの在地的立場(戦場から4、5日も離れた、豊後の臼杵⇔野津にいた)が
 異なっていて、日向現地の戦況の事は、その敗北から数日後、国主・宗麟からの知らせを
 受けるまで全く知らないままであった。

 フロイスはこの戦いの折りに現地日向の地にはいなかったので、この戦の記述に関しては、
 聞き知った確かな戦況模様を前提考慮し、それと共に、大敗するに至る状況要因をつぶさ
 に調べ、自らの見識を加味してその詳細を著したと云える。(第二部9、10章など)

 その決定的な合戦の日は、ユリウス暦で、12月2日(火曜日)=グレゴリオ暦:12月
 12日であった。(この戦に係わる記事を彼は1586−87年度中に記したと見られる
 が、故意にか、ウッカリにかは判らぬが、ユリウスとグレゴリオの両方の日付けが出てい
 る。78年の合戦、豊後大敗に関連した、その当初からの諸資料文書の取り扱い等で、思
 わぬ両暦の日付けが前後して出てしまった風な記述が生じたかとも思われる。、
 現在の日本側の歴史解釈では、ユリウス暦と見なした12月10日を以て=和暦:11月
 12日の<天正6年>を宛がい採用している。)

 84年の龍造寺との合戦(沖田畷)に比べて、78年の豊後大友軍の大敗(耳川)に係わ
 る記述では、その戦模様、戦況自体を生ナマに言及した部分は極めて少ない。間じかに立ち
 会っていなかったから当然のことだが、敵方の島津の配陣状況、島津四兄弟の動きなど、
 ほとんど掴めて記すほどの報知には至っていないと見られる。ただその戦況概容のあらま
 しとして、豊後勢が耳川を勢い良く渡河し、先ず要衝の城、高城の攻略を試みたが、意の
 のままに成らず、包囲戦の攻めに切り替えて対陣したと記す。その関連文言で、その薩摩
 方の城を籠城死守したのが<薩摩国主の兄弟の中務>であったとの表現で取り挙げている
 のみで、具体的にその名を記していない。(第二部5章の後半終りがけ)

 この籠城対包囲の対決となるや、島津国主・義久も援軍を率いて出陣して来るが、自らの
 陣営領域に布陣し、そして命運を賭けて敵への攻撃作戦の指揮をとったという向きに記し
 ている。豊後勢を誘き出すために、先ず囮の兵をもってその攻撃を始め、二度、三度の内
 には豊後勢は全面的に陣地を離れてくり出し行き、その図に載せられ、薩摩勢の計略の罠
 (伏兵取り囲み戦術)に陥るに至ったと、しかも籠城中の城兵も、その機に乗じて豊後勢
 の背後から攻め込んで行ったという風の記述が見られる。そして今や戦が白熱肉迫の乱戦
 模様で、その一時の間だけは拮抗するや、すぐまもなくして豊後勢の敗北の兆しが、案の
 定に現れるものとなったと、フロイスは記している。=第二部10章3パラグラム目以降=

 しかも豊後勢の本陣の陣営に居残って、その戦況を注視していた総大将の田原親賢(紹忍
 ジョウニン)は、その戦場に打って出る事もなく、すばやく退去していったと、フロイスは、
 悪ざまに書き留め、しかも形勢危うしから、その敗北をダメ押し的に完全決定へと落しめ
 たのは、総大将・親賢の戦場を前にした退散そのものであったとしている。

 (親賢自身は自らの立場、全軍の総指揮の大将として、本陣に留まっていたが、ただ留ま
 っているだけで、その当初から何らの組織的な戦術の指揮も、指令をも出すような体勢の
 軍の動きをなし得ていなかった状態で、ひとえにその戦場の状況を見守るだけであった。
 恐らく形勢が不利になり、負けに傾くも、戦場に自らが援軍を率いて出てゆくに、皆すで
 に出払ったままで、今やその将兵すら居ない始末、居るのは僅かばかりの、十数人にも満
 たない側近の馬廻り衆だけであった、との状況が見えてくるのではなかろうか。)

 とにかくフロイスは、その当時の豊後国の内情、外情のことごとくを、その戦の敗北にか
 らめて、しかも、対イエズス会、キリシタン宗団の発展の立場から、その実情をつぶさに
 入念に調べ分析して、豊後の国情を究明するが如くに、その真実、真相の史歴を著わし示
 さんとしているとの文筆姿勢が伝わってくる。
 だが、その戦イクサ]事情に関わる面では、その実際現況的な様子、事柄の認知には、自ずと
 限界、制約があったと見るほかない。そのことが反ってフロイスの臼杵在住ゆえに、嫡子
 義統[ヨシムネ]とその奥方に係わる洗礼問題のあれこれ事情、義統への対応記事の多さが全面
 に現われ出ているという記述事情を物語るものだ。

 (日本側史料では国主義久が佐土原城に着陣し、そこから戦場となる地域への布陣を進め
 たとの事だが、フロイスは、それとは反対に<豊後の山岳からあまり距たっていないある
 嶮山に設けられた陣営に到着すると、云々、、>と記しており、あたかも義久は、戦場、
 及びその近隣にまでの陣行をなしていない風であるかの如くだ。=第二部10章3パラ'目

 この場合の<豊後の山岳>とは、豊後領・肥後と、日向、薩摩の双方あわせた国境の山岳
 地域を指すものと見られるが、それを特定、あからさまにして、その地名を挙げることが
 出来ないが、肥後の相良氏が大友氏に与している事態に憂慮して、相良氏を牽制するため
 に山岳経由、特に<飯野城>辺りを迂回するような進軍移動を試みたものと見られる。
 ==現在の宮崎県えびの市飯野にある山城、当時の昔はとても山深い処に位置していた=

 義久の薩摩からの大軍を率いてのその出陣も、やがては自身が何処にいるか、隠密行動と
 もなり、その総指揮も隠密なものとなったというものか。自ら率いてきた軍を佐土原城他、
 幾多に分けて配備もし、その布陣体勢の様を確かなものとしたとも、、。

 日本側の史料に基づくものは、江戸初期以後、1615年の一国一城の制で、皆廃城に処
 せられる中、存続できたのは、その戦場となる地域からはさほど遠方ではなく、最も目ぼ
 しいと見られた<佐土原城>しかなかったから、そこを義久の着陣場所として、その後の
 家文書などで、その由緒ある記録とすべく、書き留めたという事に依ると見られよう。
 −−−−−−−−
 さてまた、参考として、78年豊後の大敗北の戦イクサに触れなければならなかったが、当
 時、豊後地区の上長であったフロイスにしてみれば、思いがけない予期せぬ敗北であり、
 心の混乱ショック、相当インパクトのあった出来事だった訳で、今や入念に省察を試み、
 かかる豊後問題への事後解決、その歴史的把握をして置かないと、先が見通せないという
 状況であったと見られる。
 豊後の時にはまだまだそのような試みをする余裕があったという事だが、、、、。

 一方6年後、84年の肥前高来の有馬では、そのような余裕は全くなかったと云えるほど
 事態が緊迫した状況に陥っており、領国有馬自体の存亡が切迫しており、その明暗如何に
 よりキリシタン宗門の存続、崩壊のいずれかであるとの異常な危機感や不安の高まる中で
 その時期を過ごし見守らねばならなかった。当時はそのような生存状況をリアルに体験し
 ながらフロイスは口之津に在住しつつ、近隣の加津佐や政庁の有馬などに係わっていた。

 そんな緊迫した状況の折りにフロイスは、前年(83年)の秋頃、副管区長のコエリョを
 介して、特命の任事を受けていた。イエズス会の日本での活動記録を主旨とした、イエズ
 ス会目線での「日本史」を編さん執筆することであった。だが、そんな明確な任務をつと
 に意識しつつ、有馬領国が迎え対決を迫られたその実情及び、肥前覇者たるの勢いを付け
 た龍造寺隆信との一大決戦を身近に見られるといった裕著な情勢ではなかった。

 差し迫った戦の数日前には、有家、有馬以下、有馬領の南を下った口之津、加津佐などは
 婦女子、子供、年寄りだけが居残り、武器を取れる男子は皆、従軍し出払っていたから、
 その町々、村々はまったくの無防備状態に晒されていた。千々石湾側の有馬領の要となる
 千々石城(釜蓋城)が82年時に奪回、確保されないままに経過しており、今回の戦の状
 況では敵方の拠点として、すでに多数の兵が集結を始めており、臨戦態勢よろしく、そこ
 から敵が何時押し寄せて来てもおかしくない状況であった。
 武器を取らないイエズス会士ら自らが、同宿ら、神学校の校長モーラ師も含め、それぞれ
 の町村地区で警戒にあたるだけの僅かな人数でもって、昼夜を問わず避難のための警護を
 なすといった異常事態に見舞われた。

 長崎からも退いて口之津のいたフロイスも、その無防備の村を警護するほかなかったが、
 その戦のいきさつ、状況を最低限、限りを尽くしてその情報資料を確保できたものと思わ
 れる。数年後にはそれらと自らの体験記憶によりその諸章が著わされるものとなる。
 その当該の文言内容をつぶさに経過立てて見てゆくと、日本側の歴史解釈には無いような
 側面が新たに把握認知されるものと思われる。以下、文面量が長くなりますが、要項書き
 にその内容を追い辿ってみよう。

 ・《フロイスは龍造寺との合戦に係わる日時をユリウス暦をベースに記しているが、その
   ユリウスベースでの合戦までの事蹟的流れを辿ってみると、、、》

  その合戦前の1584年時点から溯る事、1年半以上も前から薩摩・島津氏への支援を
  懇願し続けて、その援軍派遣の第一陣が82年の11月20日(和暦日本側史料の日付
  け、西ユリ’暦では12月20日)にしてようやく果されるものとなった。
  この第一陣は、安徳や深江の城などに未だ入る事は出来なくて、有家など有馬よりの地
  を拠点に上陸したと見られる。(77−78年来、神代から大野、三会、島原、深江、
  安徳など、かって有馬氏の家臣であった諸侯らはみな龍造寺方に従属していたから、)
  
  年明けて83年の早い時期にその薩摩軍、総勢約千五百人余りが、有馬の兵と共同で、
  敵方に取られていた千々石城を攻める。奪回、攻め取るまでの決着に至らなかったが、
  敵をそれなりに叩いて戦意、戦力を削ぎ、一応の勝ち戦をなして早々に引き上げたが、
  それにより、北東部有明海側の安徳、深江、島原への進出を試みるものとなる。この
  進出の動きで、安徳は抵抗することなく、再び有馬方に戻り、安徳城を薩摩方の拠点と
  して提供するものとなる。(6月10日、日本側史料の和暦:5月10日<天正11年>)

  その頃、肥後での島津と龍造寺との勢力戦は、高瀬川を境界として、肥後を北、南と二
  分するかたちで領地分けしての和睦が、83年早々には成立するものとなる。これによ
  り国主・島津義久は、有馬鎮純(洗礼後、和名も鎮貴と改名していた)の支援懇願に本
  腰を入れて応答対処する意向に傾く。

  年明けて84年となり、前年の先の第一陣が有馬に進出する以前より、
  有馬援助を強く志望していた、<国主・義久の第二の弟で、中務[ナカツカサ]>と呼ばれてい
  た人が、薩摩主力軍のさきがけとして<枝の主日>後の週日に肥後の八代方面から対岸
  の有馬に上陸するものとなる。(4月15日<水曜日>)(=和暦:日本側史料での3月
  16日<木曜日>は、その主力本隊軍として<安徳の港>に上陸する。その後、20日〜23
  日にかけ増軍のため、幾度か渡海を繰り返している。)=※<枝の主日>は、教会暦で
  その当時は4月12日(日曜日)であった。

  この薩摩の援軍到来の折り、フロイスは島津義久の第二の弟、中務が八百人ほどの精兵
  を引き連れ、<有家の湾岸の津>から上陸して、その町に到着、2日前後そこに投宿し
  たとの情報をもって、その事を記している。有家は、有馬と共に有馬領のキリシタン宗
  門の修道院、教会がある本拠地であったので、その時、加津佐にいた副管区長コエリョ
  の指示により、日本人イエズス会士ら修道士をして、中務や、他の部将殿らを訪問させ
  ている。(フロイスはその日の折りには、<中務>率いる軍勢の有家到着の報だけを知
  るのみであった。安徳に後続上陸した本軍多数、繰り返しの増援渡海の事は、その記述
  過程において後述されるものとなる。)

  有馬方・鎮純プロタジオ(鎮貴)も事前に天候海荒れなど支障のない限り渡海するとの通達
  を受けていたので、出陣するばかりの態勢で、その合流の日に備えていたが、そのイク
  サ、合戦の時期がその年の教会の大事な<聖週間及び復活祭>の時と全く重なってしま
  い、通常普通どうりには守り行なえない状況であった。
  
  その当時、教会暦・こよみでの<ラザロの週>は、四旬節の第5の主日からの週とされ
  ていたであろうか、、、副管区長コエリョ師はその週の初めに急遽、長崎から口之津経
  由で有馬の地に至った。イクサが差し迫ったから、聖週間どころでない有馬の現況を憂
  慮して、<次の日曜日・主日(=枝の主日であろう)>に副管区長自らがミサ聖務を執
  り仕切って、出陣に備えての激励ご加護の式典を行なう。

  4月15日(水曜)予定どうり、その聖週の中葉であったが、島津勢・中務の援軍が到
  着、有家に投宿の運びとなる。
  その翌日(16日)には有馬鎮純、兵を率いて有家の島津軍と合流すべく、馳せ参じ、
  出陣していった。

  4月17、18日には、前線への本拠地となる<安徳城>に陣容を移すものとなる。安
  徳には合戦が始まる前日までの間、輸送船舶が限られていたが、それなりに続々と増援
  の将兵が集結するものとなる。(第二部48章経由、49章〜50章冒頭まで。)

  有馬・島津中務勢は、龍造寺勢本軍との直接合戦に臨む前に、深江、島原の両城が味方
  側に立ち戻らぬものかと、威志表示の行動に出たが、その意を受ける事無く籠城の気構
  えを示すばかりであった。
  もはや、大急ぎして龍造寺勢本軍を迎え撃つ陣地態勢を構築し、深江城周辺の2、3の
  要所には見張りの兵を配置し、島原城の周辺にも兵を配置しつつ、兵員を適時に移動せ
  しめて、その布陣を固くするほかなかった。

  島津・中務は、先に安徳から合戦の場となる島原の地形とそれを最大限生かした布陣配
  置のあり方を定めるべく、その視察を終えて事に当たっていたが、今だかってない極難
  環境を強いられるとの予感さえ感じるものであった。
  4月22日(水)<こうして暗黒の水曜日に全軍は島原の周囲に布陣した。>とフロイ
  スは記している。

  この時点で島津勢は四千人ほどになり、有馬の兵は千人ほどであったと記す。おそらく
  20日前後の日に海荒れの時化で兵員輸送が出来なかったから、その増員がならないま
  まに日が過ぎた。22、23日での増員も千人余りにとどまり、すでに事態は海側での
  武装船隊を増強するほかなく、そのまま武装船への編成とその要員補充に当てる状況と 
  なっていた。

  敵方・龍造寺との前哨戦がすでに始まっているようなものとなった。20日過ぎには、
  佐賀から物資、食糧や酒などを満載した二十隻におよぶ船が島原城に運び入れるため、
  島原の港に入らんとして来航してきた。その後、翌日であろうか、およそ五十隻の船で
  五千の兵を乗せ、島原城に入らんと来航してきたからで、その船団には敵方総大将に指
  名予定された<鍋島信生ノブナリ=後の直茂>が乗り込んでおり、指揮を執っていたからで
  ある。だが、龍造寺方のこれらの目論見をみな阻止して、兵糧船をすべて奪い取り、兵
  員船団も島原には上陸させることなく追い返し、島原城近辺海域の防備を確かなものと
  し、その制海権を確保した。敵方鍋島軍は、三会城に入るほかなかった。これにより、
  集結してくる龍造寺全軍は、三会城を最終的本拠地とした布陣態勢となっていった。

  龍造寺方の兵糧船との衝突直前頃に、陸側では敵方の一隊の動きがあった。その一隊は
  深江の城兵と組んで有馬方の北上を阻止せんとの策で深江城に入らんとした動きを見せ
  た。だが薩摩兵がすでに要所に配置されていたので、そこへは入ることが出来ず、密か
  にそこを避けて、以外にも島原城に入り込むような事態へと進展した。
  その一隊は三百人ほどで、大村純忠・バルトロメウの精鋭で有力な家臣らであった。これによ
  り龍造寺隆信の策、深江城への役割の目論見も果せぬものとなった。

  有馬・島津方の<物見監視の拠点>もいよいよ厳戒態勢となり、昼夜の監視がきびしく
  とり行われた。敵方先遣隊による明け方間近までの万が一の夜襲に備え、その夜襲によ
  る混乱と同時に敵方全軍の総攻撃を避けるために監視態勢が強く敷かれた。

  島津・中務にとって、今や有馬隊の拠点陣地を敵方の目標となるような、<囮の陣地>
  とするほかなかった。だが、すぐに火矢などで焼け落ちるようなものであってはならず、
  その合戦の終焉までも持ち堪えられるような矢来陣地の構築を指図していた。
  鎮純プロタジオは、その自分の陣地が敵の攻撃目標になる<囮の陣地>であるとの事は、
  知らされてはいなかった。

  だが、合戦当日の早朝になって、有馬鎮純はその陣屋を出て、敵を迎え撃つ方が良いと
  判断して、そこを離れ、島津中務勢と合流しようともしたが、そこでの布陣も不適で、
  時間の有余もなく、元の陣地に近い方の<剱山=(眉山と見られる)>の東北面側の麓
  に布陣を定めるものとなる。(鎮純の矢来陣地は、小麦や大麦のアオ物で覆われたもの
  とし、水に浸してまでもしっとりと陣屋が掩われるものとなった。これは敵方が三会城
  に着陣する直前に敵側三会領域の畑などから刈り集めて仕立てたものであった。(50
  章初めの文段)居残り留守番組の兵士らがその矢来の陣屋態勢を守っていた。実際に千
  人余がその陣屋に立て籠もるのは、少々狭く、戦いの動作、行動スペースには支障が生
  じるということで、その陣屋から離れた訳であった。=第52章冒頭)彼らの陣屋の前
  方、防御の最前線となるところには、第一の矢来、第二の矢来となるところが3、4ヶ
  所間隔をあけて構築されていた。

  島津勢は、山手側と海手側(森岳の砦)にその監視の拠点と共に陣屋をなしたが、その
  軍勢の半数近くが早朝明けやらぬうちにその各所へ伏兵として密かに布陣していった。
  有馬方との伝令、通達など、連絡兵とのやり取りは、山手と海手の拠点陣屋を介するを
  通常の事として、行なうを旨とした。

  敵方龍造寺の総勢も23日の夕方近くには布陣の態勢がほぼ定まったものと見られた。
  つまり、龍造寺勢は、陸側からは伊佐早に集陣しそこを経由で、海側からは、主に隆信
  を要した陣勢であったが、神代経由で22日までに、一部の千々石城派遣隊を除き、総
  勢が三会城、及びその界隈に集結できた模様であった。

  だが22日の時点では、有馬方面、口之津にいたフロイスら、及びイエズス会側には、
  その敵方の動きの情報は、いまだ届き知られるものではなかった。その状勢を知ったの
  は、翌日4月23日(木曜)の朝方の事で、それも三会城段階以前の動きで、係る総勢
  ではなくて、伊佐早城集結勢に関わる段階の情報であった。(51章初めの段落文)

 ・《フロイスのいくさ、合戦模様に係わる情報取得認知の諸点》

  先に述べてきた内容と深く係わり、さらにその続きを述べるようなものとなるが、、、

  フロイスはこの戦争模様を、自らが直視した限りの立場からその数々の情報要素を認知
  把握し、すべて直視的にその現実状況の現われ模様をそのまま、ありのままに記してい
  るわけで、そこでは、フロイス自身が戦地の島原地域に出向き臨んだか、否かという点
  に関しては、直に触れ表明するような文言、表記をまったく避けているようであると見
  るべきか、、、いやその当初は実際に<有馬勢への従軍司祭>といったかたちで同行、
  或いは陣中訪問するような、余裕の欠けらすらないほど緊迫し、追い詰められた状勢で
  あったと見られる。フロイス自身は死を覚悟に、決死の思いでそのイクサ模様を現地に
  て取材特記すべきとの願望がよぎったであろうが、彼にはかかる大事な<特命任務>、
  日本イエズス会在来4、50年に亘らんとする<日本史>の編さんという使命仕事が、
  つい半年までに着手したばかりであり、その危険、リスクの大なるを踏まえ、賢明なる
  判断にて戦地への出向を避けたとも見られる。

  だがこのような状況でも、キリシタン・イエズス会士側では、有馬国主の手前、決死の
  覚悟で日本人修道士、同宿ら、2、3名の者を従軍させざるを得なかったであろうとの
  推定も非なるものではなかろう。おそらく適材適所の者、イクサ模様に明るい、取材、
  情報収集能力のある会士らが送り出されていたであろう。
  
  フロイス自身は、薩摩側、島津中務の戦術、布陣策定、作戦内容の中味など、まったく
  その少しだに垣間見るもの、予め認知した、或いは後日の戦勝結果から知り得たとの立
  場をにおわすような文面、文章内容を示してはいない。例えば、島津中務の作戦を具体
  的に示したほんの一、二例の一つであるが、、、その現われとして

  第52章の末尾の記事で<中務は急遽、二門の大砲を船積みするように命じた。〜〜>
  有馬の家老・佐兵衛・ジョアンの一番大きな船にそれが積み込まれた。その他の船も銃砲を
  擁した武装船として海岸沿いからの攻撃に具えたといった風の記述をなしている。

  だがこのような作戦配慮記事もフロイスにおいては、敵方・龍造寺隆信勢が、23日の
  午後時点で、彼らの戦闘態勢の陣容、その進軍的布陣が、三様の隊列をなしていると、
  その一つは山沿いに、他は中の通常の道にて、そして海岸に沿って、三者は前進して来
  ると、すでにそのように三会から島原の境界近くまで張り出しているとの現状の描写記
  述をふまえて、
  それに即したかたちで、あたかもその折り<にわかに中務がそれへの対処策、打撃を与
  え得る作戦を模索し、構じたものだ>といった感じに、その事柄について、まさにその
  <現況の現われ>さながらのものとして、彼フロイスは、記述しているわけである。

  同様に砲門の策に付け加えて他の<中務の命令策>を見ることができる。ほんの当たり
  前の対処策であるが、フロイスは、中務のかかる<現況の現われ策>として、何気なく
  付け足し記している。(51章結尾文)だが、そこはイクサの勝敗を左右しかねない重
  要な視点で、“戦の最中に敵方の島原城から打って出られ、背後を衝かれたら、”と、
  その惧れを防ぐために“千人の兵を城の表門側に寄せ配するものとした”。

  指揮官ならば、誰でも当然対処することである。が、ここで中務は、有馬の敵、味方に
  顔やその名が良く知られている一部将を指揮官としてその布陣を構えさせる指示を出し
  ている。先に名を挙げた有馬の家老佐兵衛・ジョアンの部将の一人<平田>という御仁がそ
  れに抜てきされているが、やはり、<中務の作戦上のきめ細かい賢明さ>を覗い示めさ
  んとするところであったろうか、、、、
  戦いの決着が付いても付かなくても、とにかくここは、敵方城兵があらがう事無く平穏
  に留まるよう、最小限に敵意の刺激を与えぬよう誼的な計らいをしたと見られようか。

  フロイスが島津の中務の作戦をまったく<現況的な現われ>として捉えるのは、その元
  となる戦況模様の情報源によって、戦のなり行きを把握し記述する以外にないからであ
  ろう。そんなフロイスの立場であるから、実はその当初、中務が決定的に勝敗のカギ、
  要となると読んだことから、<中務の秘中の秘なる指示策>が執られたのではないかと
  推定してもおかしくない、その戦況模様最大の、肝心、要の戦事状況が、まったくの偶
  然の鉢合わせで生じた事態であったというような風に著述している点で、彼の現況的な
  情報の扱い方、立場をさらに新たに見ることができる。(第二部52章中葉の文段落)

  (その秘なる策とは、初めから<佐嘉の大御所・隆信を狙って討ち取る事>であった。
  つまり、智将・島津中務にとって、そのイクサの作戦・戦術のすべてがこの秘策への実
  現に掛けられていたと見なすべきであろうか、、、。敵方の戦闘隊列は三隊列の鶴翼の
  陣形(フロイスは半月形と表現)で進軍してきたものであったが、その両翼の山側の敵
  兵には、有馬方の山寄の砦と伏兵でもって、海側の隊列には、例の大船からの大砲と、
  中型の鉄砲武装船隊、それに合せて陸側の砦、伏兵により、それら敵の両隊列を徹底的
  に撹乱衝き崩して、中央の隊列から分断する戦術がとられた。

  中央に悠然と控え来る隆信の隊軍への対応は、彼を出来るだけ近くに誘い込むようにし
  て、第一矢来、第二矢来からの出撃と、その陣地からの迎撃防衛を巧みに繰り返し、そ
  の持久戦を可能な限り有利に展開するという作戦であった。そのような戦いぶり、戦況
  の中で、<龍造寺隆信狙い討ち秘兵隊>が周到なる隠兵戦術でもって、隆信の輿駕籠の
  ところに到るというものであった。

  彼ら秘兵隊は、いつしか密かに敵方と同じ軍装束を身につけ、その戦いのドサクサにま
  ぎれて出来るだけ敵対列の後方に廻り、後方から隆信の輿に近づいたが、さすが<隆信
  の近く>ではその将、兵士らに見破られ、槍、刃を交える戦闘になった。だが、フロイ
  スの記述にある如く、当の隆信は、自分の隊の仲間同士が争いを起こしている騒ぎだと
  錯覚してしまったようであった。遂に隆信は、この時の騒ぎからすぐに<川上左京(忠
  堅>という27歳の精悍勇壮な将兵、槍の使い手により討ち取られるものとなった。
  その時、戦況はまさに、有馬・島津方が敗北に至る寸前のところであったという。)=
  第二部52章中頃の文段にて。

  さらに注目すべきフロイスの記述的視点の立場が、51章中での敵方・龍造寺勢の陣容
  及び、その軍備、軍装に係わる詳細な記事叙述に見られるというものである。
  彼のその記述は、実際に現地にて自分の目で見て、しっかりと記憶に留めたものと思わ
  せる程に何か精彩さを感じさせると云えようか。

  龍造寺勢の進撃の直前、23日午後から24日の早朝、合戦開始(8時頃)までの情報
  は、参戦した幾人者キリシタン部将、兵士らから幾重にも事情聴取することが可能であ
  ろう故、何ら不思議に訝る必要はない。だが、やはり戦争終結直後、その翌日には現地
  出向き、その状況視察をなして色々と目視情報を得たものと思われる。(彼が終結後、
  戦地確認に行きました、と記すほど鈍ではなかったから、これを伏せたまでかとも、)
  
  特にフロイスの銃についての言及、隆信が持たせた三千挺、或いは4千挺とも推定され
  る鉄砲が、従来から日本の各地で造られている幾種類もの一般的な火縄銃ではなく、ま
  た、遠くインド西部の西南海岸地方=マラバルで常用された小型銃のようなものでもな
  い、等々と比較検証するが如く、その当時のごく一般的な自らの銃知識でもって、龍造
  寺の使用した鉄砲の種別的な特定をなしている。

  当時は<架台銃>と云えば、大筒=モスケットと認識され、両手で頬面近くに構える、
  <火縄銃=アルカブス>とは異なった名で呼ばれていたが、龍造寺隆信の用いた<鉄砲
  =エスピンガル>は、銃身も長く、かなり大型で、大筒モスケットの銃身外状形体を細くし
  た感じに似ており、その玉の口径が一般的な種々の火縄銃の規模より大きかったとの、
  特徴付けをしているかのようである。(51章の中段落)
  その弾丸の飛距離もかなりあり、照準命中率の有効射程距離も百m以上はあろうかと見
  られる脅威の代物であった。が、実践使用時でのケースバイケースで、多分に弱点があ
  らわになるとの見方も取られた。

  ともかく龍造寺方の陣容、その大軍での武器、武具の軍備軍装の豪華さ、華麗なるも、
  その光景を目の当たりにする者にとっては、戦う前よりある種の威圧感やら、勢威を感
  じさせずには置かない程のものであったと、その一時かぎりの戦場模様を、想描観豊か
  にフロイスは記している。

  少し余談になるが、日本側史料に依るとした歴史解釈では、肥後の国人・赤星統家ムネイエ
  がその最前線で勇戦したと述べられている。フロイス記事には見い出せないが、島津・
  中務が、赤星氏のその恨心の意を汲んで、急遽参戦させたようである。総勢50人ほど
  であったとされ、中務のその作戦上、大々的に起用したと見られる。彼らは頭目・統家
  を含め、ほとんど玉砕に到ったのではないかと推定される。
  その後の日本の歴史上では、赤星統家が生き残っているようなかたちで、その赤星氏の
  家系を繋げているが、実際は同族別系の、岐阜の織田家に仕えた赤星氏の子孫に結び付
  けて家系の存続を仮定しているとも判断される。

  特に赤星氏の奮闘と共に<畷>係わる戦場地環境への“釣り野伏せ”戦法が巧くいった
  ことで、それが形勢有利に戦い行く最有力な勝機成因となり、島津・有馬勢に決定的な
  龍造寺隆信討ちの勝利をもたらしたとの歴史記述とか解釈は、家伝文書とかその他既存
  諸史料、後世の軍記物語、歴史的書物等から導き出された捏造の類に相当するとも。

  23日午後から24日の朝方の会戦時に到る間、双方は非常に接近した状態での対峙布
  陣状況であった。故に島津側中務も入念に相手の布陣状況を把握する事が賢明であると
  して、抜かりなく探りを入れていると見られる。中務の狙いは龍造寺隆信、その彼が、
  山に沿った隊列に入るか、中心的な中の道の隊列を指揮するか、未だ定かでない状況と
  の間者の報が翌24日早朝まで続いた。
  隆信は、山手の方に島津の得意とする伏兵が多く配されているのではないかとも、読ん
  だりして、、、実際、島津勢の旗印が2、3の砦以外には大して見当たらないが、少数
  閑兵過ぎる程に見えるが、どうも我点が行かぬ、果たしてどうか、といった具合で、、

  そこで、島津・中務は、24日早朝、<有馬鎮純勢>の大々的な移動布陣を最後の詰め
  の誘導作戦として挙行なさしめたのではないだろうか。有馬勢が、多数の旗印を華麗な
  までに朝風に靡かせ、小一時間ほど動き着陣したところは、幾分山寄りではあったが、
  そこは中央の範囲領域で、すごく敵方にも目立つ感じであった。これを(山の上から)
  見た隆信は、やはり中央から堂々と、もはや勝利を見込んで行くのが良かろうと判断し
  たであろう。
  今や鍋島信生(信茂)が、総大将として中央を行き、自分は山手の高いところから戦況
  を監視、把握せんと目論んで、決し兼ねていたところだったが、、、、、。

  このようにして島津中務の駆け引きは、一先ず思いどうりになったようであった。この
  事をフロイスは、52章の冒頭で、有馬鎮純(鎮貴)のその動陣模様を、現況の見た目
  のままの、ほぼ情報入手どうりに記したものと見られる。鎮純も、家臣部下、兵士らに
  そのような(フロイスが記したような)理由付けをもっておおぴらに通達し、その移動
  をしたと見られる。

  フロイスも鎮純プロタジオが、未だ18か19歳かの若者で、いくさ経験も浅く、戦闘への
  布陣に迷うところもあろうかと、その迷い動陣の動きを記したが、これが実は、島津中
  務の作戦上の要のものだったとは、知る由もないということであろうか。

  [注]:<島津の中務>という人物は薩摩国主・義久の弟であるが、この<中務ナカツカサ>と
     いう名称は、果して中央、京都の朝廷からの官職名として、実際にその正式宣旨
     を受けたそれであったかどうかは、甚だ疑わしくて今では定かではない。
     つまり、薩摩島津氏一門が朝廷のそれを真似て、家臣ら一同が、そのように呼び
     慣わし称するものとなったと見てもおかしくない。
     国主・義久と、島津家臣ら一同の間に立って、若い頃から、何かと事を取りまと
     め、取り次ぎ、諸事を治めうるところの中継ぎのまとめ役、<務め役>であった
     といった具合の御仁として、、こちらの方が正解かも、、、。     
   《検証その三》:
 =======
 
 
 
 
 




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2014.3.21