旧約聖書関連史年表:
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  (イスラエル民族の出エジプト後、カナン(現在のパレスチナ地方)定住後、3、4百年経て、
   その後を記す。)

 BC1018 --ダビデ ユダ族の王となる (ヘブロン在位時代)

 BC1010 --ダビデ ユダと11部族からなるイスラエルの王となる
          (エルサレム在位時代=40年間の統治)
          **サウルの子イシボセテが死ぬことで、12部族全体
            から王として推挙される。

 BC970  --ソロモン即位し、王国を継承する。その繁栄は絶頂期に至る。40年に
          わたって統治する。その治世第4年2月に主なる神に宮をたてる為の
          基礎工事に着手する。

 BC931  --ソロモン王没する。その子レハベアムが王となる。彼は、アンモンの女
          ナアマを母とする。41歳で即位、17年間の治世であった。
          彼の即位後、王国は、北と南とに分裂--南ユダ王国と北イスラエル王国

        **レハベアムの第5年、エジプトの王シシャクがカナン、シリヤ方面に
          侵攻して、ユダとベニヤミン所領の要害の町々も占入され、エルサレムの
          町、王宮、神殿も荒らされる。その諸宝物が奪い去られ、ソロモンの金の
          盾もすべて持ち去られる。(契約の箱などはどうだったか??)
          彼の治世の後半期は、北イスラエルのヤラベアムとの間に絶えず小規模な
          戦争があった。
          (北のヤラベアムは、22年の間北イスラエルを治め、その子ナダブが王
          となる。) 
  
 BC915  --レハベアム没する。その子アビア(アビヤム)が王となる。
          (北イスラエル・ヤラベアム王の第18年)
          エルサレムで3年の治世であったが、北のヤラベアムとの大軍勢戦争で勝
          利して、ヤラベアムの治世を終わりに至らせている。
          彼の治世の終わりの2年後、ヤラベアムも死没する。

 BC913  --アビヤの子アサがユダの王となる。(北イスラエル・ヤラベアム治世第20年の時)

 BC727  --ヒゼキヤ(ユダの王アハズの子) 25才で即位し、29年間在位した。
   (728)  これは北イスラエルの王ホセアの第3年の時である。(列王下18章1-2節)

         *ヒゼキヤの時代はアッシリア帝国の絶頂下降期の時代で、アッシリア王
          シャルマネセル、セナケリブ、エサルハドンの代と時を同じくする。
          かの預言者イザヤは、このヒゼキヤ時代にも活躍した。

 BC724  --ヒゼキヤ王第4年 =イスラエルの王ホセアの第7年アッシリアの王
          シャルマネセルがサマリヤに攻め上り、3年の間包囲して、サマリヤを
          陥落させた。

         *実はシャルマネセルではなくて、サルゴン王(721-705)
          ではなかったか? ここは聖書の誤記???

 BC722  --南ユダ国ヒゼキヤ王の第6年=(北イスラエル王ホセアの第9年、サマリヤ陥落=
          北イスラエル王国滅亡、民はハランとゴザンの川ハボルのほとりと、
          メデアの町々に強制植民された。(列王下18章9-12節)
          いわゆるイスラエル10部族の流散のはじまり。

 BC701  --アッシリア王セナケリブがユダに侵攻したとする説(701年説)あり:

 BC714  --ヒゼキヤ王第14年 アッシリアの王セナケリブの来襲、彼はユダ王国の
          全ての町々を取ってゆき、エルサレムに迫った。
          しかしエルサレムを包囲することなく、彼の大軍はその陣営で大打撃を受け、
          アッシリアへ去ってゆく。この時、彼は18万5千の大軍を失って没落する。
          預言者イザヤによる主の言葉どうりにこの変事が成った。
          (列王下18、19章:35)

         *彼ヒゼキヤの晩年時、バビロンの王メロダクバラダン(バラダンの子)が
          病気見舞いの名目で使節をヒゼキヤに遣わしている。

 BC699  --ヒゼキヤ王、その治世第29年に病没。代わって子のマナセが即位する。
          (彼は未だ12歳の少年であった。)
          55年間世を治める。彼は、その父と異なり、数々の偶像崇拝を行い、
          ユダ全土を異国、多民族の偶像で満たした。(列王下21:1-18)
         *BC687年のマナセ即位説あり;;;

         *このマナセ王治世時には、アッシリア帝国支配下で従属したバビロンの
          王が諸将を率いてユダ王国に攻めてきた。(歴代下33:10~12)
          この折りにマナセは捕らえられ、バビロンに引いて行かれたが、何ら
          かの歴史的状況事象(エラムの襲撃と反乱:690年代 or ムシェズィプ・
          マルドゥクによるバビロン奪還政変:692年―689年、或いはエサルハド
          ンの在位と、レバント、エジプト遠征の折りの従属恩赦:680年以降等が
          推定される。)が起り、すぐにエルサレムに戻る事が出来、その後の治世
          を全うしたと見られる。

 BC645  --アモン即位(マナセの子)22才で王となり、2年間エルサレムで国を
          治める。(列王下21:19-26)

 BC638  --ヨシア即位(アモンの子) 8才で王となり、31年間世を治める。
          
          (*ヨシヤはアモンが何才の時に生まれた子であったのか疑問視さ
          れよう。即位する以前の子であったのか、16才頃の子であったと
          するなら、時を移さずにヨシヤは王に立てられたが、そうでなけれ
          ば、少なくとも数年間は、国、宮廷がゴタゴタ紛糾していたことに
          なる。)

 BC626  --ヨシア王の治世第13年、 祭司ヒルキヤの子・エレミヤが主の召命の言葉
          を受け、預言者として活動を始める。時にエレミヤは、20代の中葉前後の
          頃と見られる。(エレミヤ書1章1-12節)

          (このエレミヤをして、今や世界史的視野に立った預言者の出現ということ
          になろうか、、彼は、かって北イスラエル王国がその歴史、及び滅びた事情、
          さらにアッシリア帝国の現状、成り行きをしっかりと知り尽くし、世界の国
          々、種族を見る視野に開けた才覚、世界に明るい霊能を培った人物として、
          主の預言者に立てられていると見られる。)

        **彼の使命としての預言の務めは、ゼデキヤ王の第11年5月のエルサレムの
          陥落(587年)まで続く。また、その後、少数の残りの民がエジプトに下
          る折り、半強制的に随行させられ、その地(タパネスなど)でも、民らに請われ、
          主の言葉をたまわる預言者として働きをなす。(エレミヤ書43章8-13節、44章1-
          14節など)

        **625年頃バビロニア地方では、アッシリア帝国に対して反旗を掲げ、内乱、
          独立の動きが活発化してきていた。

 BC621  --ヨシア王第18年、彼による宗教改革が断行される。彼は国中のあらゆる偶像
          を打ち壊し一掃する。 主の宮を清め、その時代に発見されたモ-セ伝来の主
          の律法の書にしたがって、大々的に過越の祭りを復興、執り行った。

         *ヨシア王の主なる神への復帰、その宗教改革へのきっかけは主の宮の修繕改装
          を行う際に見つけ出された契約の書〔律法の書〕を手に取ってからである。
          (列王下22章:1-23章:27)

        **612年バビロニア軍がアッシリアの主要都市の他、遂に首都ニネベを陥落せ
          しめ、アッシリア帝国を滅亡させる。
          これはバビロン王ナボポラッサルと、メディア王キャクサレスとの大連合同盟
          による。

          この時アッシリアの同盟国エジプトは、アッシリア援助のため軍をユフラテ川
          へと差し向けたが、時すでに遅く、援軍の効には間に合わなかった。

          このアッシリア帝国からバビロニア帝国への変遷過程時代にはすでにペルシャ
          の王国(後の帝国)が台頭しつつ、その草創期あった。
          そのペルシャ帝国初期、およびそれへの過程は、年代的に以下である。

      《アケメネス王家の始祖》:アケメネス(ギリシャ名)=ハカマニシュ(BC690年代~675年?)→
      2代目:テイペス(〃)=チシュピシュ(在位:675~640)→子の代に宗家、分家の2家に分かれる......
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      ・宗家3代目:兄キュロス(〃)=クルシュ1世(在位:640~600)→彼はメディアに臣属していた
         4代目:カンビュセス(〃)=カンブーディア1世(在位:600~559)→メディア王国との
             同盟を親密に強める。(メディア王キャクサレスの子、アスチュアゲス王の娘マンダネを
             妃とするなど、、)この両人の子が5代目となる、かの有名なキュロス大王である。
         5代目:キュロス2(〃)=クルシュ2世(在位:559~529)→ペルシャ帝国への変貌、その
             大王らしき躍進を果たす。(母方は、メディアの王アスチュアゲネスを祖父とする。)

         6代目:カンビュセス2(〃)=カンブーディア2世(在位:528~522)→帝位は分家に移る...
      -------------------------------------------------------------------------------------------- 
      ・分家3代目:弟アリアラムネス(〃)=アリヤーラムナ(在位:640~590)→
             彼は、かれ当時の考古学出土品の金版の刻文で<偉大なる王、諸王の王、パールサの王>の
             称号を唱え、すでにペルシャの神アフラーマズダを讃えているので、その領有せし所領は
             メディア王国の東(現在のイランの中北部)で、ペルシャ帝国の属州とせられし時には
             そのパールサ地方がパルティア州とされている。
             ***                  
                           
         4代目:アルサメス(〃)=アルシャーマ(在位:590~)→彼は、宗家のカンビュセス1世の野心に
             屈し、王位の隠退を余儀なくされた。その分家の所領は本家の直轄地となる。
         5代目:ヒュスタスベス(〃)=ヴィシュタースパ→彼は、カスピ海南岸地方ヒュルカニアの総督として
             その地を管轄経営する。
         ----------------------------------------
         6代目:ダレイオス(〃)=ダーラヤヴァウシュ→父の後を継いで、ヒュルカニアの総督に留まる。
             しかし、宗家のキュロス大王の死後、カンビュセス2世(528-522)がエジプト征討を
             なしたが、バビロンで内紛反乱が起きている知らせを受け、急きょ帰途する最中、不慮の死を
             遂げ、さらに全国各州が混乱に陥ることになるが、このヒュルカニアのダレイオスが帝位を受
             け継ぐものとなる。(キュロス大王に次ぐ、注目すべき大王である。)

             宗家からの引継ぎの7代目として、さらにその繁栄は最高潮にいたる。世界的帝国としての
             ペルシャは、キュロス2世大王⇒ カンビュセス2世⇒ 分家のこのダレイオス(ダリヨス)1世
             へと継承される。

             彼の帝位:522~486年、その在位時から2年以上、数年にかけて諸総督の反乱を鎮め、
             19戦を交えて9諸侯を討ち砕き、その帝位を確保し、帝国を強固なものとする。やむなく、
             ギリシャへの遠征計画を試みるも、その派遣軍はマラトンの戦いでアテナイ・プラタイア連合
             軍に敗北を帰して失敗する。(BC490年)ギリシャ征討計画は、子の代にゆだねられる。

         7代目:クセルクセス1世(〃)=クシャヤールシャン→父ダレイオス1世の子、
             父のギリシア征討計画を後押しして、父の代から始まった対ギリシャ征討政策を継承する。
             クセルクセス王自らが遠征に乗り出すも、サラミスの海戦、プラタイアの戦い等、相次いで
             敗北し、失敗している。(BC480年~)
             このギリシャの戦役は、BC492年から449年まで続く(ペルシャ戦争)が、次の王
             アルタクセルクセス1世が、449年にギリシャとの講和の約を交わしたことで、
             終息するに至る。(BC449年カリアスの和約)
             ・クセルクセス1世の在位:BC486~465年。
             ・アルタクセルクセス1世の在位:BC465~425年。

          ***時代が下って紀元前4世紀後半ギリシャのアレキサンダー大王の時代後の、その後になって、
             248年頃からパルティア王国がその始祖アルサメスによって興起される。
             その3代を経て、ミトリダテス1世(在位:170~138)、その2代後のミトリダテス
             2世(在位:124~88)と続き、かってのペルシャ帝国の強勢を思わせる帝国ぶりと
             なるが、幾たびかのローマとの攻防を重ね行くすえ、バビロニアのクテシフォン、
             セレウキア(バビロンの近隣の主都)もトラヤヌス帝のローマ軍にとられたりし、国勢は
             次第に衰微、その後、アルタバヌス4世(在位:209~224)の時、シリアの北方
             (メソポタミアの最北西)ニシビスでローマ軍を破って、両都を取り戻したにもかかわらず、
             東の本国、本拠地方からササン朝ペルシャが起こり、そのアルダシール王は、アルタバヌス
             4世を討ち倒し、クテシフォンを陥落させた。これによりパルティア王国は消滅した。
             (AD224年)
                                                
 BC612  --ヨシア王の治世の後半から晩年にはエジプト王国が勢力を拡大してきた。
          その治世の第30年頃にはエジプト王パロネコと対決する羽目となる。

          アッシリア帝国がバビロンとメディアの同盟軍に首都ニネベに攻め込まれ
          てきた時、エジプトの王ネコがその援軍を果たすべく、アッシリヤ王の
          所へ行こうと、ユフラテ川をさして上ってきた。
          ヨシア王はこの時、彼を迎え撃とうと出陣し、メギドで一戦を交えたが、
          弓矢に射当てられ、エルサレムに搬送されるも戦死する。
          (ヨシア王第31年、彼39-40才の時であった。)

          この時以来、ユダ王国はエジプト王国に従属させられ、エジプトに貢納を
          強いられる。(列王下23:29-30)
          (609年のヨシア王死去説あり)

 BC608  --エホアハズ即位、父ヨシアに代わって王となる。23才、エルサレムで
          3か月間だけ在位。

 BC608  --エホヤキム即位、これはエジプト王パロ・ネコの介入により、エホアハズ
          が退位させられ、代わりに彼が擁立された。
          その即位に際して、名をエリアキムからエホヤキムと改めさせられた。
          (先のエホアハズは、エジプトへ引き行かれ、やがてその地で亡くなる。)

          エホヤキム(エリアキム)は25才で王となり、エルサレムで11年間治める。

         *彼の世にバビロンの台頭が著しくなり、王ネブカデネザルがシリア、
          パレスチナ、エジプト方面まで勢力を拡大してきた。
          エホヤキムは、その治世の3年までエジプトに従属していた。
        
 BC607  --ネブカデネザル王が、607⇒6年にエルサレムに来攻してきて以来、
          バビロンに服属している状況であった。(エホヤキムの第3年⇒第4年)

         *この時ダニエル及び王族、貴族の一部は、捕らわれの身となり、バビロン
          に移される。(服属の証しとしてのバビロンへの人質幽囚:607年)

          バビロン在住のダニエルらは、故国ユダヤの即位元年からではなく、
          その翌年の正月(第一の月・ニサン)から起算している。          
            ・ユダヤ暦:エホヤキムの第4年(エレミヤ 46:2)
            ・バビロニヤ暦:  〃 第3年(ダニエル記1:1)
                
         
         *この年に、預言者エレミヤは、これまで23年間、主の言葉をたゆまず
          語ってきたことの、ある一つの起点的決算として、ユダとエルサレムの
          すべての民らに、彼らに関する事を改めて預言、語り示すものとなった。

          この折りの預言の言葉の中で、<70年の間バビロンの王に仕え、この
          地は荒れすたれる。>、又、<70年が終った後には、バビロンの王、
          その民、カルデヤの地も罰し、荒地とする。>との《70年の期間》に
          ついて言及した最初の預言の言葉が見られる。(エレミヤ書:25章1-12節)

       [注]: 預言者エレミヤに端を発した預言の<70年の期間>に関わるその当該内容
          には2面性があり、その2つの面が関わり当てられたものだと云える。

          ①、民の捕囚期間として・・・・・598年(607年)⇒ 537年までの70年。
          ②、エルサレム、ユダの地の荒廃期間として
            神殿再建の完成まで・・・・・586年(587年)⇒ 516年までの70年。
                
 BC605  --バビロン王ネブカデネザル治世の元年(エホヤキムの第4年)

          《605年エジプト軍、カルケミシで大敗を帰す。》
           ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
          エジプト王パロ・ネコの軍勢がユフラテ川の近辺、カルケミシの近くで
          ネブカデネザル王に破れた。

         *

          
 BC604  --ネブカデネザル治世の2年
          その王ネブカデザルの夢(ダニエル2:1以下)

 BC603  --ネブカデネザル治世の3年
          
 BC602  --ネブカデネザル治世の4年
          この頃デネザル王は、バビロン州のドラの平野に高さ20数メートル
          (60キュビットx幅6キュビット)の金の像を建立する。(ダニ3:1以下)

 BC601  --ネブカデネザル治世の5年
 BC600  --ネブカデネザル治世の6年

 BC599  --ネブカデネザル治世の7年

 BC598  --  同    治世の8年= エホヤキムの治世第11年    

          エホヤキムはその治世の第4年にネブカデネザル王の捕虜となり、
          バビロンに引いて行かれ、数カ月後帰還する。その後3年間は従属、
          忠誠を尽くすが、その後は背反しつつも11年間の在位治世をエル
          サレムでなす。彼の死(死因)は何も記されていない。
          彼は捕えられ、バビロンに引いてゆくため、かせに繋がれたが、途
          中、ユダの地のどこかで処刑され、数日野ざらしにされ、その後、
          エルサレムに回収されて、ご先祖たちと共にその墓に眠ったとの、
          歴代志下36:6、列王紀下24:6などの文言から知られうる。

          ただ彼の治世の第7年目前後当たりからカルデヤ人のみならず近隣
          のスリヤ人、モアブ人、アンモン人の略奪隊によってユダの町々が
          荒らされ、無法状態のように荒廃していった。

          それで彼の没する年の前後には再びネブカデネザルがシリヤ、パレ
          スチナ、エジプト方面にまでやって来たというわけだ。
          (エルサレムという都自体が、幾多の略奪隊のターゲット、お宝の
           山、獲物の対象と化しているといった状況であった。)
          (列王下24:1-17)         
         
                             
 BC同 年  --エホヤキムの子エホヤキンがバビロン王の命、認可の下に即位する。
          しかし、その在位は3月と10日の期間で、突然の中途にて廃位となる
          にいたった。

         *初来攻から丸7年経った後のエルサレム占領であったが、その後、再び、
          バビロン王ネブカデネザルがエルサレムに来攻する。これは、この時、
          彼の子・エホヤキンの即位が認められて、それから3か月ぐらい経って
          からのことである。

          (エホヤキンが即位したのが、8才なのか、18才の年令なのか、
          歴代志下(36:9)と 列王紀下(24:8)とで、その記録が食い違っている。

          いずれかであろうが、恐らく未だエルサレムの包囲を解かない駐屯状況に
          ある最中、ネブカデネザルは、上程されたユダ王即位報告書、その列王紀
          記載事項の写しとは食い違って、彼が、たった8才であるとの事を知り、
          激怒して急遽、ユダ・エルサレムを治める王の変更を余儀なくしたと思われる。
          = エホヤキンからエホヤキムの兄弟で、21才のゼデキヤに王位変更。) 

 BC598  --同ネブカデネザル治世の第8年 前記したように再びネブカデネザルは、
          エルサレムを包囲し、エホヤキムの子・エホヤキンをその王族宮廷一族、
          および、諸々の才能職人、祭司、預言者らの有力者と共にバビロンに引
          いていった。
          (エホヤキンは、エルサレムで3月と10日の間、王位についたに過ぎない。)
          
        **この時の捕囚を先のダニエルの時をも含めて、第一次バビロン捕囚という
          ことになろうか。??
          (預言者となる祭司エゼキエルも、この時の捕囚に含まれていた。彼の預
          言活動は、捕え移されて第5年目<594年>に始められた。エゼ1章2節)

        **エステル記の第2章5節以下で記されている<モルデカイ>もこの捕囚時
          の一人で、ユダの王エホヤキン(エコニヤ)らと共に捕え移された者であった。
          モルデカイも、未だ10才前後の少年であったとみられる。

          かのエステルは、575-570年頃の年代に、モルデカイがそのおじと
          共に移り住んでいたエラム州スサで生まれたと推定されうる。

 BC598  --同 治世の8年 この時ネブカデネザルは、エホヤキンの父(エコヤキム)の兄弟
          ゼデキヤを彼に代わってユダの王とする。前記のごとく。
          =ゼデキヤの治世の第1年(ユダヤ暦)


 BC597  --ネカデネザル治世の第9年 = ゼデキヤ治世の第1年

 BC596  --同       第10年 = 同      第2年

 BC595  --〃        11年 = 〃      第3年

        **ゼデキヤ治世の初め、この年の前後、預言者エレミヤが、先の598年
          に捕囚となってバビロンに移されたエホヤキン(エコニヤ)ら、全ての民達
          に対して手紙を書き送ったとの記事がある。(エレミヤ書29章1-10節)

          その手紙の内容においても、<あなた方がバビロンで70年が満ちるな
          らば、、云々>と、バビロン捕囚に係わる<70年の期間>の言説が見
          られる。(先に人質となったダニエルらのグループは対象外で、この手
          紙での知らせには与からなかった。ごく一部の司らの手中に留まりて、
          シマヤという者が反ってエレミヤを批判、戒めるべきとの返書を送って
          いる始末、それを信ずるのも愚かしいと、、、捕囚民らもまだまだ落ち
          着けない生活状況で、おおぴらにそんな事を報知するのもはばかるもの
          だと突っぱね判断されたからである。)

 BC594  --ネカデネザル治世の12年 = ゼデキヤ治世の第4年
 
          ユダ王ゼデキヤは、この治世4年にバビロン詣でを行って、王に服属の
          意を表明している。(エレミヤ書:51章59節)

        **このバビロン詣での折り、預言者エレミヤは、同行した側近侍従のセラヤ
          に、非常に高度な政事的処方を講じさせるように指示を与えている。
          (エレ.51章59-64節)
          《そうした対処をなした理由、意図》は、、以下のようである。
          エレミヤは<バビロン及びカルデヤの地>を最終的な預言の主題として、
          主なる神よりその託宣を大々的に受け表わすものとなった。(エレミヤ50-51章)
          彼は、50-51章の預言のものを、その同文全てを巻物に記したのでは
          ないであろうが、セラヤにバビロンへ持ってゆかせるために、その内容を
          うまくまとめアレンジした巻物を宛がったと見られる。
          
          エレミヤはバビロン・カルデヤへの神の裁きの言葉は、あまりにも厳しい
          もので、どうあるべきか、その対処の許容を神はお許しになっておられる
          との御旨を信じて、かの地、バビロン側に公表のデモンストレーションを
          行なうものとした。
          神の定めたバビロンの運命が、広くバビロン側世界に末永く告げ知らされ
          れば、訓戒ともなり、その預言を回避する反動、反発の動きともなろうか
          と、、、、よって、その意図するところ、バビロンの延命、或いは当座の
          ところ最小限の損傷で済めば、、それにより、バビロン及びその地方に住
          んでいる、新たなる選民ユダの民らのより良い帰還がその預言どうり、万
          全に成就するものとなろう、というものであった。

          セラヤは、バビロン宮廷での拝謁の折り、或いは宴席の場で、名をはせた
          る力ある万国の預言者エレミヤからの託宣として、その心ある主旨を前置
          き述べ奉って、巻物を読んだであろう。おそらく、時と場所を変えて、2
          度、3度読んだであろう。その最後は、ユフラテの川沿いに設けられた、
          日の涼しげなサロン広場に場をしつらえて、各国の要人らを招いて、その
          最後のデモストを敢行したものと推定される。(エレミヤ書:51章63-64節)
          ==その効果は、確かにあったとみられる。538年のバビロンの包囲、
          攻城戦もなく、かのクロス王によるバビロン入城、及びその後のユダヤの
          捕囚の民の帰還の成就において==
          
        **この頃、祭司エゼキエルが、ケバル川のほとり、カルデヤ人の地で主の
          預言を始める。(エゼキエル書:1章1-3節)
          この川は、バビロンの南東の川(バビロン市に付随した大運河に通じた、
          或いはそれに相当する川であったようだ。??)

 BC593  --〃        13年 = 〃       5年
          

 BC592  --〃        14年 = 〃       6年
 BC591  --〃        15年 = 〃       7年

 BC590  --〃        16年 = 〃       8年
 BC589  --ネカデネザル治世の第17年= ゼデキヤ治世の第9年

          この年の第10の月の10日、バビロンの王ネブカデネザルはエルサレムに
          攻め来たり、これを包囲する。(3度目の来攻)
          その包囲は、ゼデキヤの治世の第11年5月にまで及ぶ。

 BC588  --ネブカデネザル治世第18年 = ゼデキヤ治世の10年
          
         *この年にすでにユダの民、及び一部のエルサレムの者らがバビロンへと
          捕え移されるものとなった。その数、832人と記されている。
          エルサレムいまだ陥落前の事。(エレミヤ書52章29節)

 BC587  --同         19年 = 同      11年
  (586)   この年の4月9日直後、町の一角がついに破られ、エルサレムが陥落する
          状況への避けがたい事態に至る。

   ~      その5月7日には、主の神殿、王の宮殿、そして町のほとんどの家々が、
          掠奪と火でもって焼かれた。

   ~      (第2バビロン捕囚:この時は、前回よりも少なく、王族、貴族、町の
           有力者、才たる者はほとんどいなかったようだ。殺されたり、他のどこ
   ~       かに捕らえ移されたりしたからだ。)

        **祭司で預言者のエゼキエルが捕え移されて第12年目の年であった。

 BC587  **追記
          同年5月以降バビロンの王は、シャパンの子アヒカムの子であるゲダリヤを
          ユダの町々の総督とする。しかし、ミズパにいるゲダリヤのもとに来た者達
          の中で、彼の意向に反意を抱くようになったエリシャマ子ネタニヤの子であ
          るイシマエル(彼は王家の血筋に当たるもので、高官でもあった。)は他の
          10人の仲間と計ってゲダリヤを暗殺した。
          さらに彼は手勢をもって、ゲダリヤのもとにいた全てのユダヤ人と、たまた
          まそこにいたカルデヤびとの兵士たちを殺した。このイシマエルは、アンモ
          ンびとの王 バアリスに通じており、この王に唆され、利用されてゲダリヤ
          への反旗を計った。(同年7月の頃の変である。)

          この乱と彼の悪事の全てを知ったカレヤの子ヨハナンは、共にいる軍勢の長
          たち、および兵士たちを率いて彼を討った。
          イシマエルは8人の者と共にアンモンびとの所に落ち延びて、この変亊はお
          さまった。しかし、カレヤの子ヨハナン達は、バビロン王の定めに反した事
          態のなか故、カルデヤびとを恐れてユダの地にとどまることなく、エジプト
          の地に行った。これは預言者エレミヤによる主の言葉に反する行動となって
          しまった。この時、エレミヤと彼の書記バルクとは、半強制的にエジプトに
          随行させられた。
          (エレミヤ記40章から42章以降の記事による)

 BC562  --ネブカデネザル治世第44年 =
          この年、王は没する。その在位期間は約44年(病没)
          (605-562年間)

 BC562  --王の実子・エビルメロダクが即位する。彼の治世元年、その年の第12の月
          アダルの27日(ユダヤ暦)バビロン王メロダクは、元ユダ王エホヤキンを
          宮廷の牢から解放する。捕らえ移されてから37年目の事である。
          =バビロンへ移された598年から数えて(列王下25:27)

 BC560  --エビルメロダク治世第3年目 = この年、王は暗殺される。
          これは、ダニエルが壁に記された<主の手>による謎の文字を説き明かした
          直後、その夜にであるが、ダニエルがその褒美として第三の司に任命された
          日の夜の事でもあったとも、、。(ダニエル5章30節)

          首謀者はネブカデネザル王の娘婿ネリグリッサロスで、そうした処理、待遇
          をユダヤ人ダニエルになした事を妬み恨んで、自分より年下の若輩王を亡き
          者にしたと見られる。

          彼は、ユダ王ゼデキヤの時、エルサレム包囲に加わったネルガル・
          シャレゼルか??(エレミヤ記39:3 & 13)

          =その彼が、ダニエル記のベルシャザル王だという他説もあるが、しかし、
          ダニエル記は、明確にベルシャザルをネブカデネザルの子と表記する文言と
          なっている。(5章11、13、18、22。)

          また、その例の折りに宮廷広間に出でたる王妃は、父王・ネブカデネザルの
          の王妃(アミュテス)で、ベルシャザル王(エビルメロダク)の母上であった。
          息子ベルシャザル王を支助するために、<第二位の実権>を堅持していたと見ら
          れる。
          (ダニエル記5章10節以下の文面をしっかと読み取れば、その事が判って
          くる。)

       ** ベルはバビロニア語(カルデヤ語)で神を表し、シャザルは霊とか、神の子
          とかいう意味を表わすらしい。(ベルはバビロニア人の間ではマルドォーク
          に比定されているが、、)

          エビルメロダク=ベルシャザル 同一人説。。。。。

          --- ヘブルvsカルデヤ語との関係から見ると、---
         ・エビルは、ヘブル側での蔑称である。カルデヤ語での本来の語は、
          アピルで<息子>を意味する。
          (ヘブル語では当時、慣習的に意味なしの音写はしないようだった。)

         ・メロダクはヘブル語で、カルデア語ではマルドゥーク(Marduk)で、
          バビロンの守護神で、且つ、神々の大いなる主神でもあった。

         ・ベルは、カルデヤ語でベァルス、バビロニアの至高神だが、語源は
          Lord(主)を意味する<バァール>と同根である。
  
       ** この時はなお、亡き父王ネブカデネザルの王妃(母)が、国の第2位の
          実権を執っていたのではないか。(ダニエル書5章 7、16、29節での
          ベルシャザル王の発言、<“国の第3のつかさにしよう、、、云々”>と 
          5章3節の文言から照合判断してみると、第2位の実権者は<王の妻や、
          そばめ>とは別格の、亡き父王ネブカデネザルの王妃で、メロダクの母
          (アミュテス)であったと言える。

          何故なら文言記事では、ダニエルの事を昔から良く知っているといった
          立場を見せたかたちで記されているからだ。
          この王妃の出所は、ネブカデネザルが同盟を結ぶ手始めとなった、かの
          メディア王(キャアクサレス)の娘、アミュテスと見られる。
         
 BC560  --ネリグリッサロス在位の第1年 =(別名:ネルガル・シャレゼル)
          この人物が、ベルシャザル暗殺の首謀者、或いは黒幕だったと見られる。
          (彼は、ネブカデネザルの娘の一人と結婚して、王室ファミリーに連なる
          ものとなっていたと見られる。)
 BC556  --  同      在位の第5年 =この年、彼は暗殺される。?
  (555)   
          彼は、在位4年半ほどで没した。彼の子、ラバシ・マルドュクがいまだ
          年少若輩者として即位したが、その数カ月後に撲殺される。
          暗殺の陰謀者らの一人で、おそらく影の黒幕であり、別名・偽名を弄した
          ナボニドスが王位に就く。

          このナボニドス1世は、メディアの王アスチュアゲスに比定された人、
          まさに同一人物で、同盟的にバビロンの重臣籍にあずかる一員でもあり、
          はや長年にわたりエラムの主都スサの君主王(太守)でもあった。

        **BC559年にペルシャのクロス(キュロス)2世が一地方的な豪族の王
          として即位しているが、その時は未だエラムの王ではなくて、のちの王宮
          ペルセポリスが建設された地方(アンシャン方面東方)を領有地とし、代
          々からのパサルガダイをいまだ主都としていた。だが祖父のメディア王・
          アスチュアゲスには何かと煙たがられ、東方や北方の守備駐屯の任務さえ
          指図される始末で、いい目をしなかったらしい。

          (ギリシャの前5世紀の歴史家ヘロドトスが、キュロスの母であり、祖父
          アスチュアゲスの娘であるマンダネの夢や、その父自身が娘の夢をみて、
          その内容により、キュロスが生まれる以前から、母となるその娘をして、
          祖父アスチュアゲスは大変な気がかりとなり、生まれたキュロスを亡き者
          にせんとした逸話を、その史書に記している。、、ヘロドトスがペルシャ
          に旅して入手した情報でもあったというものか、、。)

          それで遂にキュロスは叛旗をひるがえし、敵の将軍を味方につける策略を
          講じて彼・祖父を捕らえ、550年、一気に首都エクバタナを陥れ、その
          多大な財宝を奪い、メディアを滅亡させるに至る。
          (キュロスの在位は559~529年まで)

        **ダニエル書では、ネリグリッサロスの在位5年間ほどに係わる記事はなく、
          その数年の期間は、啓示書本来の主旨に基づき、記述的に無用な関与なき
          ものにて省略されている。

          (ベルシャザルの酒宴時の出来事は、ダニエル本人も関わったものとして
          史実ではあったが、しかしその出来事はあえて治世年を表記せずの叙述内容と
          して重用記載している。それでかの中継的期間(ネリグリッサロス在位期間)
          を省略し、何の前置き前述もなく<メディア人ダリヨス=アスチュアゲスが
          バビロン国を受けた>に、突飛なまでに直結させる記述方法を行なっている。
          =ダニエル書:第5章31節参照)

       [注]:ダニエル書では、それ自体の本旨、つまり、あくまでも預言の内容を記した
          書である事の主旨に基づいて、その叙述の形式が図られたものとなっている。

          したがって、テキスト本書でのこの意図、叙述方式を認知した上で、本書の
          内容だけでなく、その存在事由等を理解すべきである。
          その《叙述方式》とは、章区分的に以下のごとくである。

          ①、その前半部、これは<バビロンの王たちを主軸>とした、預言、或いは
            事蹟におけるエピソードを記述して、しかも、その歴史的手順過程が、
            王代系譜的に何らの順番の狂い無く、定められたものとなっている。
            これが、<第1章から6章>まで、完璧に方式に遵守している。

          ②、その後半部、これは、まさに預言という本旨本尊の部分で、その幻視と
            それにおける言葉を受容する立場のダニエル本人を主軸とするもので、
            ダニエル自身の反応的心理状態、及び時代的な境遇心境をも添えたかた
            ちで、活き活きと記したものとなっている。

            もちろん、前半部分の歴史過程を踏まえているから、その記述の歴史的
            順序過程に前後の狂い、錯綜は微塵だにない。
            これは、<第7章から最終の第12章>まで、
            ●7章:ネブカデネザルの実子・ベルシャザルの元年 ⇒ 
             8章: 同じく         同   第3年 ⇒
             9章:メディア人アハシュエロスの子・ダリヨス第1年 ⇒
                (アハシュエロスは、父としての・ダリヨスに相当する。)
            10章以下12章まで:ペルシャの王クロスの第3年 ⇒(=BC536年)

              *当時のオリエント世界制覇の最終段階でバビロンを降し、
               諸王の王として、バビロン入城を果たしたその年を新たな
               紀年暦の初めとして、ペルシャ王クロスの元年(BC538年)
               と定めている。当時のユダヤ人の書記録、史書(旧約聖書)
               などにおいて。

            ●補足ではあるが、本書テキストの主旨、預言の聖なるを貫くために
             バビロン宮廷でのゴタゴタ内紛には係わり触れないように配慮して
             いる。書内容への視点が余分な方に逸れ、それに嵌り込まないため
             である。(ベルシャザル暗殺からメディアびとダリヨス登場の間の
             歴史的期間に関しては、その省略・不関与の姿勢をとる。)
             
 BC556  --ナボニドス1世、子の2世との同時的在位?その第1年=(556-539年)
  (555)   
          彼がダニエル書のメデアびとのダリヨス王らしいが、=ダニエル書5章31節と
          6章に続くダリヨス王であり、別名アハシュエロスであるというわけだが、
          9章1節の<アハシュエロス(アハスチュアゲス)の子ダリヨス>とは、父と息子
          の関係であると見られる。(子は父の通俗尊称ダリヨスを受けて)両者は共同統
          治の即位であり、息子の2世は、数年と経たぬうちにバビロンの王位治世を完全
          に父から任せられたと見られる。(その治世第18年目まで存続する)
          
          このアハシュエロス=アハスチュアゲスは、その後、主都スサに在住することが
          多くなった。(何らかの意味訳のへブル語での名が、アハシュエロスとなろう??)

          エステル記の第1章で記された王と同一人物であり、バビロンから首都スサに帰還
          したその治世の第3年、国の大いなる大成を祝う年として、盛大な祝宴、酒宴を催
          している事が知られうる。記事によれば、この年は前代未聞と言えるほどに盛大な
          祝宴の年となったとみられる。この祝宴の時には、パサルガタイの御曹司キュロス
          2世(後の大王)も、父・カンビュセス1世と共に、他の将軍らに交じって列席し
          ていたであろうと推定されうる。

          (キュロス2世は、その後、エステル記で記されている、かのユダヤ人(この時、
          多くの者が隷属民生活の状態)の起こした大胆な報復行動に目を見張り、彼らに非
          常な関心を寄せ、また、彼らの書物、特に預言書のイザヤ書に目を留める機会を得
          ている。そこにはキュロスの名による予言があり、力づき、鼓舞されたとも、、)

          その盛大なる年にエステル記での歴史物語の発端、きっかけが始まるものとなる。
          それは、王妃ワシテが、王の招きの命に従わないで、宮廷の庭園で催された宴会に
          出向くことを拒んだ事からその成り行きが展開、起こってくる。

          おそらく、王妃ワシテはその性格上、自分が<単なる王国のお飾り、王のご威光や
          尊大なる政治の道具>に過ぎない事等にひどく嫌気をさしていて、もうーそんな境
          遇にはウンザリ、我慢でき兼ねない心境だったと見られる。また、自分との王の子
          供、後継者の子も、未だ授かってはいなかった事もある。(エステル1:9、10節以下)
          
        **ダニエルは、このメディアの人物(息子2世のダリヨス)については、余り良く知
          らなかったし、メディアの国の内情もほとんど良く知らなかった。

          (ユダヤ人側へのこの王と治世時代のメディアの情報は、ほとんど皆無であった。
          それゆえ、エステル記での内容情報だけが宙に浮いたように残存されて伝承、その
          幾多の写本の中から、AD1世紀のヨセフスが、当時の70人訳ギリシャ語聖書に
          照らして『ユダヤ古代史』に転用記載されたようである。しかし彼は、ダニエルが
          メディアの首都エクバタナの王宮に召され、ダリヨス=〔アステュアゲスの子〕に
          仕え、その地に壮麗な自分の館を建設したとしており、その建物が王陵墓としての
          霊廟となり、ヨセフスの時代にまで残っていると記している。ヨセフスの諸王に関
          しての見識記述は、ここでの年代記のものと一致しない、食い違っている。)

          ヨセフスが編記するエステル記の<アハシュエロス>は、ペルシャの時代のずっと
          時代の下った、アルタクセルクセス王(在位:465~425年BC)に比定したものと
          なっている。(しかもダニエル書のダリヨスを、ペルシャのキュロス大王の子カン
          ビュセス2世のあとに出たダリヨスに比定して、王年代の誤謬、その時代錯誤に
          陥っている。)
          
          だがダニエルは、この2世ダリヨスの治世第1年に、預言者エレミヤの預言の言葉
          により、その文書から、<エルサレムの荒廃が終るまでに経ねばならぬ年の数が、
          70年>であることを、しかと知り、悟るものとなった。

          (偽名と影武者ナボニドスに関わる記録文書(粘土板)さえも、後々の為に偽造さ
          れる程の手の込んだものであったから、、簒奪者の汚名が立たぬようにとの配慮。)
                                    
        **バビロン王としてナボニドスが即位したBC550年代はその初め頃からバビロニ
          ヤ帝国の版図が二、三に割れ揺れる時代で、メデア、ペルシャが優位な大勢となり、
          さらに勢力を拡大せんとする、その王に、ペルシャのクロス二世が出てくる。この
          クロスは結局、ナボニドス王家と、その帝国に対して正義の誅殺を以って報いるも
          のとなる。(偽ナボニドス王家=真アスチュアゲス王家に対して、、、)

 BC539  --ナボニドス2世在位の第18年 (=メディア人のダリヨス2世)
          この年(はBC538年かも知れないが)にペルシャの豪族王クロス2世が遂に
          バビロンを攻略、この時期、メディア・バビロン帝国は衰退の域に達していたが、
          このバビロン占領よって実質的に衰滅する。

          すでに実質的にエラム、メデアの王となり、イオニア・ギリシャと親密なリュディア王国
          をも征服していたクロス二世は、バビロン軍を破り、彼の将軍ウグバルがこの年の
          4月、タンムズの月の16日、戦うことなく、凱旋するかの如くに都城に入る。
          (これはウグバルが、メデア出身のナボニドスと同郷、知己の仲ゆえに、万端、
          相成しえたことだったかも知れない。)

          この年の8月3日クロス王もバビロンに入城した。そして、その一週間後の
          11日の夜、ウグバルは、ナボニドス2世王の子、すなわち王子を処刑する。
          軍の最高責任者は王子であり、王権を執っていたのも、その当時すでに彼で
          あったからだ。

        **この王子をベルシャザルとする説があるが、その説だと時代が錯誤して、
          ダニエル書の内容、その事蹟経過の流れに辻褄が合わなくなる。=メデア
          びとダリヨスの治世とクロスの治世への流れ云々において、時代が逆さまに
          なり、全くその説は成立しない。 

        注:ダニエル書8:1のベルシャザル治世第3年は、558年頃が正しいとする
          歴史解釈説もあるが、、、?

 BC538  --クロス2世王によるペルシャ大帝国時代が始まる。
          (以前からの地域的アケメネス王朝での在位から見て、その在位はBC559
           -529年である。
           バビロン在位のナボニドス2世=同一人物のダリヨス2世(556-539)
           とほぼ同時代の在位であった。)

        **ダニエル記:メデアびとダリヨス=バビロン王ナボニドスとして読むならば、
          (5章:31、9章:1、11章:1〔これら三ヶ所のダリヨス父・子につい
          ては、クロス治世の第3年<10章1節>を現時点として、ダニエルが、その過去
          を記すもの〕)、バビロン(偽称ナボニドス=ダリヨス)対 ペルシャ(クロス)
          の対決構図が、はっきりと浮かび上がってくる。

 BC538  --この年、クロス王によってユダヤ人解放の勅令が発布される。
          捕囚の民らのエルサレム、ユダヤへの帰還の時が始まる。

 BC537  --第一次ユダヤ帰還:ゼルバベル(その子ヨアキム)、エシュア、
          ネヘミア(ネヘミア記の人とは違う)、アザリア(その子
          セラヤ)、モルデカイら(彼らはすべてバビロン州の者)その他
          近隣他州の者あわせてユダヤ人の総計は、4万2千余人以上に
          のぼり、これに召使、メイドなど7千5百人余の人々がその帰還
          に加わった。その時、ユダ州の総督を命じられたセシバザルが、
          彼らを率いてユダヤ、エルサレムへ上った。(エズラ記:1-11)

        **帰還後の次の年(第2年=536年)の2月、宮の工事を
          始め、エルサレム神殿再建のための定礎が出来上がるが、
          しかし、サマリヤ、ユダヤ地方にアッシリアの時以来、先住して
          いた他種族、異邦人らの長官、役人らを首謀者とした敵の手痛い
          妨害に会い、神殿のみならず、城壁等を含めたエルサレムの都の
          再興は、ペルシャ王アルタシャスタ(アルタクセルクセス1世)の
          世にまで長引き及んだ。
          ただし、神殿に関しては、
          536年から16年間中断され、その後520年(大王キュロスから
          数えて三代目のダリヨス王の治世第2年)から、再建工事が再開され、
          その治世の第6年(515年)のアダルの月の3日に完成した。
          (エズラ記6章-15節)

          そして、、城壁、町の復興については、これより先、数十年の長期に
          亘って中断状態を繰り返す。(エステル、エズラ、ネヘミヤ、ハガイ
          書参照)

 BC536  --かのダニエル書のダニエル、三週間の間、悲しみの喪に服す。
          
          *これはペルシャのキュロス王、治世第3年に当る頃の事。ダニエル書
           第10章の初め、3節に依拠するが、あくまでも推察の域を出ないが、
           ドンピシャに当っていると思う。
           喪の対象者は、先のカルデェア人のバビロン王ネブカデネザルの王妃
           アミュテス、その逝去に接しての事であったと見られる。
           (これをあえてこの歴年史に記しておく。)

           彼ダニエルは、若い頃より、身内の者同然のように世話になっていた
           からであろう。
           名前などを記すのは、同族ユダヤに対して、はばかるゆえ、また、その
           啓示預言書に関わる神のご意図、御旨に反するゆえ、自分の心身ともな
           る状況、状態だけでも記しておきたいという、切なる思いが込められて
           の事であった、という感じである。

 BC529  --クロス2世大王死す。その長子カンビュセス2世が王位を継ぐ。

 BC525  --カンビュセス2世王、エジプトを征服する。その帰還途上、王に
          変事あり、
          彼はバビロンからの偽りの報を真に受け、乱心して短剣で
          自分を傷つけた。

 BC522  --カンビュセス王死す。例の傷が致命傷となって、その数日後
          亡くなる。(528-522年まで)

 BC522  --ダリヨス1世即位: 彼はカンビュセスの弟スメルディスを
          名乗る偽のスメルディスを計略をもって殺し、帝国を継承する。
          (522-486年まで)28,9歳頃即位。

 BC520  --エルサレムの神殿再建工事が再開さる。(ダリヨス治世第2年)

         *この年の頃、預言者ゼカリヤが、ユダ、エルサレムの荒廃について、
   ~      その<70年>の事柄に触れている。                           
         *BC517年は《エルサレム陥落後70年にあたる》

       [注]: 預言者エレミヤに端を発した預言の<70年の期間>に関わるその当該内容
          には、2つの面が当てられたものと見られる。
          ①、民の捕囚期間として・・・598年(607年)⇒ 537年までの70年。
          ②、エルサレム、ユダの地の荒廃期間として
            神殿再建の完成まで・・・586年(587年)⇒ 516年までの70年。   
                         
 BC515  --エルサレム神殿再建工事が完了。(ダリヨス王の治世第6年アダルの月の
          3日のことであった。)--エズラ記6章15節
  
 BC490  --ダリヨス1世による第1次ギリシャ遠征、配下の将軍らを派遣する。

 BC486  --ダリヨス王没す。(522-486)36年間の在位、
          彼の子クセルクセスが即位する。
          

 BC486  --クセルクセス王治世の第1年:ペルシャ名:クシャヤルシャ
          (治世:486-465年まで)
          この王が、エズラ、エステル記に出てくるアハシュエロス王に比定され、同一
          人物と見なされている。=従来からの通説。
  ~        
          (以下、この従来の定説に従う年表を記すが、実際は律法及び歴史の学者
          エズラらが自分等の歴史書の見直し改訂をするおりに、クセルクセス王を
          <=ユダヤ名:アハシュエロス王>に比定して、ダニエル記との一致を成
          さんとするも、その結果はもう一人異なる人物に同名の名を記した事にな
          ったとも、見られる。
                    *だが、エステル記、ダニエル書共に、100年以上の年代のズレ、隔た
           り格差が甚だしいものとなる。)

 BC484  --治世第3年、首都スサでの百八十日及ぶ大酒宴とスサの大小すべての市民の
          ために7日間の酒宴を設けた。
          (エステル記1:1-12)・・・・<伝統従来定説もこれを支持する?>

 BC480  --治世第7年、エステルの王宮入り(十月テベテの月)、そして
          王妃となる。--新王妃エステルの酒宴がおこなわれる。
          (エステリ記2:15-18)・・・<伝統従来定説もこれを支持する?>

 BC480  --クセルクセス王による第2次ギリシャ遠征(430年説あり)が興される。
          
         *480年のサラミスの海戦:ギリシャの優れた軍船により敗退する。
         *479年のプラタイヤの陸戦:大量傭兵による強力統制なき軍団で、地の
              利の不利な場所での不意を突かれたギリシャ軍の戦略敢行により、
              ペルシャ軍は総崩れし惨敗した。
              その後、ギリシャ軍に反撃されたまま、長きにわたり、ギリシャ
              との戦時体制が断続的に続いた。          

 BC475  --治世第12年、宮廷高官ハマンによる全ユダヤ人虐殺の計り事が行なわれる。
          モルデガイと王妃エステルによる計略打破が成功する。
          これによって12月即ちアダルの月の14、15日にこの事蹟を祝って、
          毎年プリム祭が行われるようになった。
          (エステル記の主要内容がこの事件を中心として記されている。第3章から
          9章にかけて、、、)

 BC465  --クセルクセス(1世)王、暗殺される。(20年間の統治)

 BC465  --アルタクセルクセスが即位。・古ペルシャ名:アルタクシャヤルシャ、
          またはアルタクシャースラ(=ユダヤ名:アルタシャスタ)
          (在位:465-424)           

        **彼はギリシャなどへの遠征を試みていないが、父である先王クセルクセスは
          父王ダリヨス1世の在世時、王子としてギリシャ方面への遠征に加わり、又、
          帝位に就いた後には再度エジプトを征服し、またギリシャへの遠征も遂行し
          ている。(年代をBC430年前後に見る説がある?)

          -ダニエル記11章2節の“第4の者”について、”ギリシャの国”に攻め
           てゆく預言がズバリ彼、クセルクセスをさしている。
           (クロス王を起点にして、クロス+さらなる3人の王の預言:
           クロス→カンビュセス→ダリヨス1世→クセルクセス〔彼が
           “第4の者”〕と言うことである。)

        注:ダニエル記はバビロンの王ナボニドスを歴史上のもう一人のダリ
          ヨスと見立て、ペルシャの王ダリヨス1世あるいは後の2世と
          crossさせ、ダブらせる結果となったと言えるかも。?

          とにかく、誤解、誤読をなしやすいところである。
          エステル記に出てくるダリヨス王(ペルシャ)とダニエル書に
          登場するダリヨス王(バビロン)とは時代の異なる別人である
          という説もあるが、はたして確かなのか、疑問の余地あり、、。

          (本来ダリヨスという名の言葉の原義は、個人名ではなく、王者を意味
          するものだった。ダニエルは、文書主旨に係わる理由や、思惑があって、
          あえてこの語・ダリヨスをメデア出身のナボニドスに用いた。そして、
          後世に出た後のペルシャの王は、自らの即位の正当性を主張して、たま
          たま個人名として用いた。)

          紛らわしく解釈を困難にするのは、ダニエル書:第9章1節の“メデアびと
          アハシュエロスの子ダリヨス”の文言である。この<アハシュエロス>が
          エステル、エズラ記で共に記されたものとなり、その時代のペルシャの王
          アハシュエロスと一致、或いは別人のダブりなのかと、2重3重に頭を混
          乱させる。

          しかし、第9章1節以下の内容的立場をその文言内容と共に理解すると、
          明らかにペルシャのクロス王以前の時代にカルデヤびと(バビロンを首都
          とする)の王となったダリヨス(彼自身はメデアびとだったが、)であり、
          その治世元年を示していることが判る。

          したがって、ダニエル記本文の時代的流れは:矛盾無く
          <ネブカデネザル→ベルシャザル→(未記載人物)⇒ダリヨス1世、2世=
          ナボニドス1世、2世)と、交代遷位の時、バビロンはペルシャに降伏する→
          ペルシャ王クロスの時代へ>という移り変わりを示している。

        注:メデアびとダリヨス(ナボニドス)がバビロニヤ国を継承した
          のは62才頃(ダニエル記第5章31節)、彼が老齢ゆえ、息子の王子が、
          治世を代行、共同統治のかたちで王権を行使して国を治めた。

 BC459  --アルタクセルクセス王(アルタシャスタ)第7年、その年の5月にエズラら
          (エズラ記の著者)数百人以上の一団がエルサレムに帰還した。
          ニサンの月・正月の1日(現在の暦では3-4月の月間)にバビロンを立ち、
          5月1日にエルサレムに着いた。(エズラ記7章:7-9 )

        **このエズラは、先の537年第1次ユダヤ帰還の民の一人セラヤ
          の子であり、セラヤは、その父アザリヤと共にエルサレムに帰還
          している。したがって、エズラは、父セラヤが未だバビロンに居
          住していた頃に生まれ、何らの理由ありてかの地、バビロンに住
          み育ったのか、それとも、エルサレムで少年期を過ごしたのち、
          学問の最も盛んとなった大いなる都バビロンに留学、定住して、
          ユダヤの最も優れた律法学者の一人と成りえたのか、その辺の消
          息は定かでない。
          (ネヘミヤ記には、その帰還簿にセラヤの代わりにその父である
          アザリヤの名が記されており、また、エズラ記には神殿再建時の
          20才以上の者として、そのリ-ダ-格として工事に参画してい
          ないとも見られる故、二十歳まえの青少年だったかも???)

 BC445  --アルタクセルクセス王(アルタシャスタ)の第20年、ネヘミヤ記での
          ネヘミヤなる人物の第一次帰国がある。彼は、宮廷での王の給仕役として
          記されている。その年、彼は52日間を要して、エルサレムの城壁の再建
          修理を完成させた。
          エルルの月(ユダヤ暦の第6の月)の25日の事であった。

          その日は、彼がニサンの月(ユダヤ暦第1の月)の何日かの日にバビロン
          を立って後、半年後の事であった。(ネヘミヤ記6:15)

          次の7月(第7の月:チスリの月)の1日に民の大集会(聖会)が催され、
          律法学者で祭司でもある、かのエズラが全会衆の前にてモ-セの書を読み
          聞かせた。(ネヘミヤ:8章)
          この月の後、城壁の落成式が行われたのではないかと思われる。
          (ネヘミヤ12章:27-43 )

        **この時期ネヘミヤは、第20年から第32年までの12年の間ユダの総督の
          地位に就いていた。

 BC424  --アルタクセルクセス1世王没する。(在位40年間)
          彼は、ユダヤ人(ネヘミヤ、エズラ記等)にはアルタシャスタ王と言われて
          いた人物に相当する。

 BC424  --クセルクセス2世即位、彼は、即位45日で暗殺される。
          (宮廷での帝位継承をめぐっての紛糾、争いあったと見られる。)

 BC424  --ダリヨス2世即位: (424-405年)
          (彼は庶子であったが、通俗定説によれば、ユダヤ人の王妃エステルの子に
          あたる王だと想定されているが、??史実かどうか定かでないし、ありえない
          事だと思われる。もしそうとするなら、
          彼は、40-45才前後の年での即位であったろう。)

 BC405  --アルタクセルクセス2世即位: (405ー359年)




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