古代エジプト史年代記:

     
[注]エジプトの古代史家マネトーの『エジプト誌』に関わる諸問題関連の参考評論は、
   右をクリック⇒マネトー・エジプト誌問題
   (彼はBC3世紀初頭、エジプト史を纏め上げた最初の人物とされている。)
   エジプトは、古来ギリシャ・ホメロスの時代からすでにギリシャ語で<アイグュプトス>と
   呼ばれるようになっており、ヘロドトスも、その語を用い、広く世界に知られた地、或いは
   国となした。現在のエジプトの名は、これがラテン語経由で転じたもの。
   (ラテン語<Aegyptus> ⇒ 英語<Egypt>)

   さらに古代エジプト史の研究過程で、マネトーベースの<王朝区分史観>は、18世紀の近
   代以降に、歴史学者らにより、<古王国、中王国、新王国>、そして<諸中間期>概念等の
   新用語の考案使用により、年代的配分研究がなされるようになり、今日に至っている。

   ヘブル語の古語では、モーセによる<創世記、出エジプト記>など、旧約聖書ではまったく
   一貫して<ミッライム>、<ミッリーム=(エジプト人)>の語句のみが共通語として、全て
   の旧約諸書に亘って用いられている。
   この語の語源の成り立ちは知られてないが、二つの語が一つになって出来たものとの説等も
   見当たらないらしい。語根字<מצר =mitul>に、数詞の10までの基数の内“2”に対し
   てのみ複数&デュアルを表わすための接尾字<ים₋ =aim>を用いて、それに結合させてい
   ると、成立結果的に理解されうる。(デュアル語形の文法成立 For デュアルとなる名詞)

   そんな言語事情の故、固有名詞として、語形は複数形だが、デュアル(二双、二重等)の意
   味でのそれであり、ナイル川を念頭にして、下エジプトと上エジプトの双方を併せ想意した
   ものであると見られる。
   西セム語族系にすでにあったものがとり入れられた古語なのか、ヘブル語ベース自体からオ
   リジナルに生じたものか、定かではない。(しかし、モーセ時代にウガリット語で、Mzr、
   アラミック、アラブ系で Mizru、或は Mezr、エジプト・アマルナ時代に至る頃のエジプト
   でも、その粘土板(クレィータブレット)レターの記述にエジプトを表わす“Mizri”が見られる。

   したがってナイル・デルタでのイスラエルの民が、その共通語として<Mizlu, Mizri >
   などの表現のものを常用していたと想定される。しかし、ヘブル語の文語体の形成の原点、
   オリジナルの出発点を<モーセの記した五書の内容文書>とするならば、モーセによって、
   グラマティカルにその文語体の“ミツライム<מצרים>”が表出されたと推察されえよう。
   モーセの文語的な形成の才覚が、その若き時のエジプト語の文法からきていると見られるわ
   けである。

   ヘブル語スペルそのままの形でもっとも最初に出てくるのは、創世記10章6節と13節で
   ある。この場合は、エジプト(その地や国)をさすものではない。カム〔ハム〕の子孫系図
   として、その子らの名の一つとなっている。クシュ、ミツライム、プテ、カナンと、その名
   を列ねる。
   彼らカムの子孫系は、その初めから他をさし置き、最も精力的に広範囲にフローリッシュし
   て、その栄えを築いていったようである。いわば原初的なフロンティアーとしての生存活動
   が見られたとも、、アフリカ北部リビアから紅海を間にしたアラビア南部、南西部及びエチ
   オピア側アフリカ南部へ、そしてカナン=パレスチナからナイルデルタとナイル川渓谷全地
   域とにかけて、、また小アジアの一部にも、、、メソポタミヤではセム系に押され、それに
   とって代えられ、その最初の勢力地を失うものとなったが、、、、。

   創世記10章の系図記事は、特にカム〔ハム〕のものが内容的に多くを占めた文言になって
   いる。これは、やはり単なるイスラエルの父祖系伝承によるものではなく、当時のモーセ、
   その人が、当時の現実世界の史的状況を垣間見ての、月日をかけ入念に検証的認知をして、
   記述することができたものと見られる。
      
      
  

**【古代エジプト王朝の系譜: 旧約聖書との関連を考慮して】**

   *初期王朝時代(第1~2王朝期)BC3150~3100年頃から始まる。   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   BC3000年頃 ナルメル王、初めてエジプト全土を統一。          後継者ホル・アハ王による第1王朝の成立。-2900~2890年頃          **ファラオ座の順位継承者名は次ぎの如く推定されている。            ①ナルメル②ホル・アハ③ネイトホテプ④デェル⑤デェト            ⑥メルネイト⑦デン⑧アネディブ⑨セムエルケト⑩クァア            これら10人の内、③ネイトホテプと⑥メルネイトが女性で            それぞれ次ぎのファラオ④、⑦のために短期的な摂政在位を            執っている。          **メンフィスでの政邸(官宮殿)が建てられ、まだメンフィスと            は呼ばれないが、首都的発展へと向かうメンフィスの長い歩み            がはじまる。(しかし、ナルメルの時代は、まだ政殿拠点が、            上エジプト方面のアビュドス近辺、20キロほど北のティニス            にあったとされている。現在なおその遺跡は発見されていない            が、マネトー書伝のソースのみで知られえた都名で、考古学上            の証左が欠けている。ゆえに確固たる真義のほどは確定されか            ねない。)          **ナルメルは、その初めに上エジプトの種族的有力王であったと            見られ、その地域の勢力を結集して北に臨み、下エジプト勢力            を支配下に治めたとされる。            この最初期に進出して、その支配権の拠点となしたのが、ティ            ニスではなく、アビィドスであったとも推定されうる。つまり            崇拝神殿や墓地拠点、住居、政殿拠点などが近接混在する社会            的状況を経験する過程で、ここの聖域を守るべきこだわり観と            相まって、新たな社会的あり方の支配的進展への模索をなすも            のとなる。            (マネトーの記したティニスにその折り、何らかの痕跡があっ            たとしてもそれはアビィドスからの進出での前進拠点であり、            その後も防護的な役割でその一時の有用性を果たしたに過ぎな            かったとも考えられる。)          **考古学上の遺物証左が三つ挙げられている。            ①ナルメル・パレット・・・ヒエラコンポリス出土 (小さな化粧用パレットの形を盾か看板のように大きくした              石板に描かれた描像レリーフ)            ②年事ラベル・・・・・・・アビィドス出土             (ナルメルパレットと同じようなイヴェントを示す)            ③二つの円筒印シール印跡・・アビィドスの二ヶ所の墓跡から                          出土(Den王、Qa'a王のもの)             (その印章跡は、王名の順列印影を示している。)              <Narmer,⇒Hor-Aha, Djer, Djet, Den, ⇒                    Merneith(Den's Mother & regent)>          **ナルメルについては、メネスという人物との関係が問われている            が、メネスには考古学上で裏付けとなる存在の証左はなく、ナル            メルとの同一人説も確定的には成立しない。            メネスは、マネトー系の歴史的文書史料などに引き入れられた、            ネーム仮称の、或いは架空の人物であるかも知れないが、何より            もマネトーの記述史料において、第一王朝表設の枠組みの中で、            先行表記された ザ ファーストファラオであるわけだ。            ちなみにヘロドトスがエジプトの神官から聞きえた記述によると            <ミン>という名の人物が最初の王となっている。<ミン>は、            <メンまたはメニ>で、<メン>のギリシャ名化が、マネトーの            ギリシャ語記名化に際しては、<メネス>とされたものと見なさ            れ得るかも知れない。      BC2900年頃 第2王朝時代が始まる。 -2690年頃                **この王朝時代は、古代エジプト史のうちで、最も暗明な時代の一            つであり、その歴史的表記をするに、必要史料がきわめて少なく、            社会的状況内容、動向、特徴など、ほとんど知るほど至らないが、            第1王朝と第2王朝との仲継的時代との見方から、その前後両王            朝からの対類対異的資料により、少なからず推察、垣間見られる            ものとされる。                   **この王朝のファラオ継承順位は以下の如く定められるも、それへ            の推論、異論がされている。            王名リスト資料は、、サッカラ、チュリン系と、アビィドス(ラメスサイド)系            との間に、一致と相対的不一致、対間的違いの王列が表面化する。            <ホテプセケムウイ⇒ ネブラ⇒ ニィネチィエル⇒ ウェネグ-ネブティ⇒            セネデュ⇒ ここから二系に分岐並立し、                   {セツ-ペリブセン⇒ セケムイブ-ペルエンマァアト⇒   }            {ネフェルカラーⅠ⇒ ネフェルカソカル⇒ フデェファⅠ⇒ }            ⇒ カーセケムウィ(=Djadjayデヤアデヤイ):アビィドス王名リストから                               の比定、同一人とする)          ・・上記の王名で、<フデェファⅠ>は、サッカラとツュリンの両リ            ストだけに表記されている。しかし、この名それ自体が表わす意            味から、それが王名に相応しい特質を有しないとして、色々な面            から推察理論、論評がされている。            (その意味は、“消された”であるが、それゆえ元のオリジナル            の王名があったと見て、リスト作成時にはすでに消されて不明で            あったが、その経意を受け、何らかの思惑で、カルトーシュ内に            誤入され、それがまたすっかり王名扱いで長い間、誤写され続け            たとか、と色々な意見がある。)          ・・アビィドス王名リストは、<ネフェルカラⅠ、ネフェルカソカル、            フデェファⅠ>順系の3人の表示はなく、スキップしてそのまま            <セネデュ> から最後の王<カーセケムウィ>に同定した別名表記            の< Djadjayデヤアデヤイ>に移っている。            (これはセツ-ペリブセン⇒セケムイブ-ペル'.の二人をセネデュ            と同一人の別名との既知事実からの上エジプト系のグリフ刻示者            の扱い処置の結果であるとの、推定論を可能としている。)            それ故、王名リストでの分岐状況から、あえて推察すれば、上、            下、統一の王国だったものが、その支配統治において、何らかの            形勢的分割、或いは分裂体勢になったことを示している。            そして、その分割状態は、<カセーセケムウィ>の王位継承で、終            止符が打たれ、再びエジプトは統一王国となったとの推定がなさ            れる。            <セツ-ペリブセン>系列のもの・・上エジプト(アビィドス系)            <ネフェルカラーⅠ>系列のもの・・下エジプト(サッカラ、チュリン系)            さらに別の推論として、その三代目以降に<ウェネグ-ネブティ>と            いう別系の独立した王が現われ、その対抗策として、<セネデュ>            が、王国を上エジプト、下エジプトとに分割した統治体勢をしく            ように、後継者への二分割継承を行なったという流れも想定され            てくる。              BC2710年頃 カセックヘモイ(カーセケムウィ)第2王朝最後の王に在位。-2690年頃                      **この王により、下エジプト、上エジプトは、再び一つに統合され            た支配体制に復帰したとみられる。            首都メンフィスは、古王国第3王朝時代へと引き継がれる。     *古王国時代(第3~6王朝期)BC2700年頃から始まる。   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   BC2690年頃 第3王朝初代王として、サンアクトが在位する。-2615年頃            サンアクトの出自は定かでないが、第2王朝のカーセケムウィ王の            娘・ネマアトハプ(Ne-maat Hap)との結婚により、王位継承の地位            を得たと推定されている。            (男子に継承権を有する者がいない場合、王統系が母系社会の            慣例に準じて、娘王女が継承権を継ぐものとされていた。)          **第3王朝の初代王を定める説で、最も有力一般的に想定されて            いるのは、ジェセル王である。            上記では、サンアクト王(San-Akht=Nebka)としているが、            これは、            <Turin King List>や< Abydos King List>に表記            された王名系列と同じである。また、マネトーの王名順列でも            初代ネケロフェス(Necherophes)がサンアクトに比定され、            次ぎの王トソルトルス(Tosorthros)が、ジェセルに同一人            比定されるとの事。だが、            (ほかの極めて少ない2、3の考古学的資料から、ジェセルが            初代王とされるとの証拠付けが得られるとして、現代のエジプ            ト学者らの多くがジェセル初代説の支持となっている。)          **この王朝から<古王国>時代として、第2王朝から区分される            所以は、何らかの断絶があったわけではなく、経済的な発展と            社会的仕組みが中央集権的な様相(ノモス=州、王領制)を見            せ始めたこと、また、日干しレンガだけでなく、切石による住            宅の建築や、ネクロポリスでのピラミッド建造の顕著な始まり            等、かなり新しい諸所見で、この第3王朝時代を特徴付けられ            るからである。             BC2650年頃 第3王朝2代目・ジェセル王により最初の階段ピラミッドが建            造される。            (彼には先王サンアクトの弟説と、息子説とする二つの見方が            提論されている。)          **彼は、トト神の神官でもあり、当時の最有力な賢者であった、            イムホテプを総監(トップ高官)として重用し国を治めるもの            となる。            (イムホテプは、石造建築を監督する傍ら、ピラミッドを研究            し、その建造方法を発見的に導き出し、第4、第5王朝のさら            なるピラミッド建設発展の大きな橋渡し役となる。)                    **サッカラの階段ピラミッドは、彼の設案、建造によると見なさ            れている。          **第3王朝の王統系列は、サンアクト(サナクト)⇒ ジェセル ⇒            セケムケト ⇒ カーバァ ⇒ フニ           BC2615年頃 フニの子・スネフェルが第4王朝を創始する。-2500年頃            スネフェルはフニの側妃の息子で、正妃の娘・異母妹のヘテプ            ヘレスと結婚して、王位を継承したとの説がとられている。            彼の治世は、2590年頃までで、その後はヘテプヘレスとの間に            生まれたクフが王朝2代目として跡目を継ぐ。            **彼は、各地(メイドゥーム付近、ダハシュールほか)に沢山の            ピラミッドを建設したとされている。            注目すべきは、彼の父フニの<階段ピラミッド>であったその            形体を真正なピラミッドに改変修築させたとされる。            屈折ピラミッド、赤いピラミッド(二つ共ダハシュール)も彼            の治世時におけるものと見られている。   BC2589年頃 第4王朝2代目の王にスネフェルの子クフが在位する。            在位期間は厳密な確かさに欠け、定かでないが、彼の建設意向            に依る大ピラミッドの完成後の頃、彼の晩期、或いは没年頃と            推定される。            (推定統治期間:前2589年~2566年頃、マネトー史料            からの推定では、前2563年までとしている。また、スエズ            紅海側の王家港とされるワディ・エル・ジャルフで最近に発見            〔2007年7月〕されたパピルス文書から27年間、或いはそれ以上            の在位説が有力視される。)   BC2566年頃 第4王朝3代目にクフの子ジェデェフラーが在位する。            (推定統治期間:前2566年頃~前2558年とされてきた             が、1990年代後半期のピラミッド及び、その複合施設の             発掘、研究結果により、十数年から20年以上の在位期間が             あったとの考古学的確証がなされている。フランスの考古学             研究所とスイス・ジュネーヴ大学との合同チームにより。)            彼には、異母兄弟で、次ぎの4代目ファラオとなるカフラーが            いるが、ゆえあって彼は、父クフに続くギザでのピラミッド建            設への意欲的使命の座を弟カフラーに譲るものとなる。          **彼は、父王クフの大ピラミッド建造での困難な工事事業を見て            おり、自分のピラミッド建設に関しては、引き続いてそのギザ            地域への建造は、今やより一層条件が整わず悪いと判断し、あ            えてギザより7.5km北のアブ・ロアシュの地に建造するもの            となった。            その地に自らのピラミッド、および関連施設を建設する一方、            父クフの死後、その死を記念して、幾艘かの船(5艘?)を建            納埋設したとも推定されている。(おそらく彼は、その王子時            代に、船で石材を運び、全て船での石材確保事業の総責任者の            任を果たしたとの関係から船の献上となったと見られる。)          **2代目クフ王後を継いだジェデェフラーが王家の太陽神ラー崇            拝を公けに推奨し、王家の尊称タイトル名(誕生名)や、カル            トゥーシュ名にラー神表示を伴う方式を初めて導入した、最初            の王であるとされている。   BC2558年頃 第4王朝4代目にクフの子カフラーが在位する。            (推定統治期間:前2558年頃~2532年とした説がある            が、何故か確かな実証性のある定説が成り立っているわけでは            ない。25、6年の在位とする見方も同族系の王子ネクラー、            彼のクフの子の一人だが、その墓マスタバの壁面刻銘での、第            12回を数えるという年次が、カフラーの在位年を示すものか、            父クフの在位の表記かで、決定されがたい。)          **後世古代の歴史家ヘロドトスやディオドルスは、エジプト市民            にとって、善政王としてのカフラー像を描き提供しているわけ            ではない。むしろ、クフ王同様に、引き続き冷厳な独裁権を行            使する過酷な王であったとしている。          **彼は、父王クフののち、ギザでの父の大ピラミッドに続いて、            その地にそれに匹敵したピラミッドの建設を目論み、その意欲            を在位する前から現すものとなる。            つまり、先の3代目のジェデェフラー王の治世代の間に、その            下準備をなすべく、父王クフの代に築かれた河岸の堀や防波堤            を整備拡大、その河岸工事により、より近い所に船が進め、泊            められるように運河と港湾を設けて、後日への憂いをなくし、            自らのピラミッド建造に向けての備えをなしたとみられる。            (これは、やがてマーク・レーナー教授が1987年に発見し、            翌年から発掘調査がなされ現在に至っている、建設者集団の生            活する公共施設<ピラミッドタウン>と密接に繋がり関連した            人工の河岸港となり、その後の第4王朝時代にわたって大いに            発展してゆくものとなる。)           BC2550年頃 古王国時代の最盛期となり、クフ王の大ピラミッドを含め、そ               の後を受けてさらにギザに2つが建設され、その三大ピラミッ            ドをそれぞれ中心としたギザの複合ネクロポリス体制への発展            が見られるものとなる          (クフ以来のピラミッド主要建造時期:BC2560-2520年頃、            クフ王のピラミッド建造時から見れば、2590年前後からその開            発準備過程が始まっている。)            ケオプス(クフ)、ケフレン(カフラー:クフの子)、            ミケリノス(メンカウラー:カフラーの子)諸王、それぞれの            ものとされている。           *ヘロドトスの『歴史』の巻2でも、これらのピラミッドについ            ての言及がなされている。彼は、ケフレンをクフ・ケオプスの            弟と認知し、ミケリノスをクフ王の子と記している。            また、伝え聞いての認知により、クフの治世を50年、ケフレン            の在位を56年と記す。            クフの大ピラミッドに関しては、それ自体の建造工期に20年を             要したとし、それへの石材確保から始めるにあたり、その準備            工程段階から、常時、十万人の作業員が三ヶ月交替で動員され            たと記している。そして、階段式構築法により、地盤が堅固に            整えられ、4辺と高さの寸法、方位が設計どうりに定められる            や、起重装置の何台かで、4辺の第一段の面が敷き詰められ、            次に第二段面へと工程が進むという具合で、その過程に応じて            ピラミッド内部の構造工作も併行して行なわれたようだ。            〔岩波文庫:松平千秋訳・ヘロドトスの『歴史』巻二の124節-            134節内からの参照にて〕)        [注]:大ピラミッド建造に関する所見について、            ===================            ①、外寸法的な設計イメージは、基本的にと言う以上に根幹基              底として、しっかりと把握されている:              つまり、絶対的な基準であるかのごとく、円とその直径の              関係比が、ピラミッドの底辺と高さの比にそっくりそのま              ま適用され、設計の中心骨格を確立、不動のものとなして              いる。              この基本コンセプトは、先ずはミニモデルが製作される事              によって、しっかりと検証されている。              そのミニモデルのサイズは、              高さ:2キュビットに対して、底辺は3の1/7キュビット、                 小数値では 3.142857,,,,,,で、円周率に相当し、                 2キュビットは、直径に相当している。              この検証所見から大ピラミッド建造に必要な現場工事用計              測道具、角度を見る大きな台付きトライアングル物差し              (壁面角とコーナー稜線角の2種類)と、2メートル以上              の4、或いは、5キュビット尺の物差し(キュビット単位              だけのメモリ付き)なども製作、用意されるものとなる。               *このミニモデルのピラミッドは、実際に現存してい                て考古学上の発見となっている。しかし、それが、                クフ王当時のものであるかどうかの確証が可能では                ないようである。年代を知る手がかりになる何らか                の碑銘表示が無かったゆえ、のちに造られた類似品                とも推定されかねない。              その基本コンセプト方式により、実際に建造されうる高さ              と底辺が採択されるものとなる。              最初の目安として、高さを250から300キュビット以              内のものが妥当と予想して、その計算裁定を繰り返し、こ              うして最も、基準コンセプトにマッチした最良の高さが決              定されるものとなった。               ・高さ:280キュビット、これが最適なもの。                   (1キュビット=0.523mx280=146.44m ) <この高さ>から底辺が算出されてくる。               ・底辺:440キュビット に確定。                   280/2 x 3・1/7 = 440cub't                   (440 x 0.523=230.12m)                             (当時のエジプトの1キュビット尺は、今のメートル                ル値で、52.235cmが基準値であり、円周率に相当                する値は、3・1/7 が最新の比率ものとして採択さ                れたようである。                古代エジプトでは、小数表記の観念は生まれていな                くて、しかも庶民レベルでは、不十分な分数表記の                みであった。                この時代、BC2500年代に至る過程で、数学的                知識〔三角法、ピタゴラス的定理の比の観念や円周                比など〕や その数値的ものは、秘法のものとして                一部特権階級の者らが守秘伝授するようなものであ                った。したがって、一般官僚庶民に知られるように                なるのは、BC2000年以降であり、この頃までの一般                庶民の分数の表記形式は、1/2を起点に(1/2)の累乗                (⇒ 1/4, 1/8, 1/16, 1/32, 1/64, ⇒)のみ                を用いるといった不完全な分数使用のものであった。                                それがここBC2000年以降、新たな分数形式の表現                へと進展してゆくものとなる。                m/n分数形式で、分子をつねに<1>に定めた単                位分数に分解した和に等しくするという形式が用い                られるようになった。唯一の例外使用は、2/3だけ。                これは未だ小数形式表記がなかったゆえであるが。                〔例:2/7=1/4+1/28〕)                例外の 2/3 からは、2を分子にさだめ、2/nを                左辺にした新たな等式が展開されるものとなる。                BC1700年頃からリンド・パピルスに見受けられる                もので、これは、n分母を奇数からの素数と、その                半素数、合成素数をベースに算定展開されるものと                なっている。            ②、建造構築手順関係:これ以下は、別のWinページ参照にて、                        ここクリックにて                             **カフラ-王は、また巨大なスフィンクスを造営したとの説があ            り、有力な通説となっている。                これにはまた異説もあり、第4王朝3代目のジェデェフラー王            (ギリシャ名:ラトイセス)が、先代父王クフの死の記念として、            その大スフィンクスを造建したとしている。          **この第4王朝王統はスネフェル⇒子・クフ⇒子・ジェデェフラー            ⇒弟・カフラー⇒子・メンカウラー⇒子・シェプスセスカフと続            いた。    BC2500年頃 ウセルカフ、第5王朝を創始する。-2350年頃            彼は、前王朝の3代目の王ジェデェフラーの娘ネフェルヘテプ            を母としており、前王家からの血筋を受け継ぐ者であった。            (父親が不明なため、後世の神官史家マネトー新たな王朝とし            て区分わけしている。)            この最初の王の治世年は普通、2494年~2487年とする            のが定説とされている。            彼は、王家・先王シェプスセスカフ の異母姉妹ケンタカウエス            1世(メンカウラーの娘)と結婚、その王位継承権を得て在位            に至る。(先王には直系の跡目男子がいなかったと見られる。)          **この王朝では、ウセルカフを含めて9人のファラオが立つ。その            うちの一人(Shepseskare)は数ヶ月の在位とされているが、            王名表リストからは、サッカラ・リストにはその名があるが、            アビィドス・リストには無く位置付けられていない。チュリン            ・リスト(トリノ)では、あるべき個所が空白にされていると            いった、不確かな事情を示している。            一方、マネトーの著伝に依拠した記録では、サッカラ・リスト            に同準しつつ、Shepseskare の治世期間を7年としている。            これが、かって以来、その継承順位と共に伝統的に支持されて            きた見方であった。            (現在では王位順が相前後し、治世も数ヶ月との論拠にある。)          **この王朝の最後の王ウナスのピラミッド内部の壁からの碑文と            して、その最初の<ピラミッド・テキスト>と学究名で呼ばれ            るようになったものが1881年に発見される。            (フランス人エジプト学者、考古学事業振興家による)            このテキストは、埋葬時での祭儀の呪文、秘文(遺体の保護、            その再生)に係わるだけでなく、死後ファラオの<天への旅立            ち>で、旅をすることができるように、そのあらゆるノウハウ            が記されており、当時の死後に関する宗教的世界観、2400            年BC前後の内容が知られうる。スクリプト(文字形体)は、            ヒエログリフスであるが、ロゼッタストン解読後、数十年過ぎ            ているので、ドイツ、フランス、英国など、その翻訳が成立し            ている。            ずっと後に出現する<人がた柩テキスト>や、<死者の書>            とは、また異なり、ファラオス、王家に限定されたものとして、            ウナス王以後、慣例化してゆくものとなる。               BC2350年頃 テティによる第6王朝が創始される。-2180年頃            前ファラオのウナス(第5王朝の最後の王)の娘と見なされ            る、イプトと結ばれ王位を継承したとの説が、一般的な見方            として受け容れられている。          **テティを含め、7人のファラオが支配したとの見かたが一般            説となっている。            だが、異説として、最後の7人目の王が、女性で、ニティク            レト(Nitiqret)であったとの推定が何らかの根拠により、            なされている。                      **マネトーの書伝(エジプト誌)では、この王朝の初期に首都            が再びメンフィスに移され、そのネクロポリス的役割をなす            サッカラに彼らのピラミッドが建造されたといった動向から            前王朝と区別した、新たな王朝(第6に相当)区分を立てて            いる。            (マネトーは、前王朝(第5)が、上エジプトのエレファン            ティンを支配政庁の中心としたと記しているが、これに関す            る考古学上の証拠は挙げられておらず、いまだ未発見状況の            ままにて、真偽のほどが問われるところである。    *第1中間期(第7~10王朝期)   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ BC2180年頃 メンフィスの中央集権国家が崩壊し、群雄割拠の時代が          到来する。 BC2100年頃 有力となったヘラクレオポリス侯(第9~10王朝)と          テ-ベ侯(第11王朝)が対立する。    *中王国時代(第11~12王朝期)   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ BC2040年頃 テ-ベ侯メンチュヘテプ2世が上下エジプトを再統一。          首都はテ-ベとする。 BC1991年頃 アメンエムハト1世、第12王朝を開き、ファイユ-ム          付近(メンフィスから南方100キロ辺り)へ遷都 BC1950年頃 セヌウセルト1世、ヌビア方面に進出。またシナイ鉱山を          開発する。           BC1850年頃 セヌウセルト3世、支配地域を拡大する。          **BC1870年頃ヤコブのエジプト入国説:            {出エジプト時をBC1440年、滞在期間を430            年(出12:41)とする場合。}-聖辞典:P-101              (ヤコブの息子、末から2番目のヨセフがエジプトで              要職宰相となるのは、セヌウセルト3世の治世の初め              頃と推定される。〔前1878~1841年の治世〕) BC1800年頃 アメンエムハト3世ファイユ-ムを開拓する。    *第2中間期(第13~17王朝期)   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ BC1790年頃 王権再び弱体化、国内混乱し、第13王朝の支配地域は          上下エジプトが中心となる。        **1700年代後半ナイル川デルタ地帯でヒクソスの人口が          増加し、王権が弱体化する一因となる。 BC1745年頃 ソベクヘテプ3世治下に碑文の記録あり、80人あまりの          宮廷付き召使の一覧表のうち45人が外来ヒクソス人          (セム系ヘブル人??)の名前らしい。 BC1700年頃 ヒクソス系有力種族による北部エジプトへの武力進出が          顕著となる。 BC1680年頃 アジアの遊牧民ヒクソスが下エジプトを占領、初めて異民          族王朝が成立(第15、16王朝)、ヒクソスは”砂漠の          王子”の意だが、*この時、馬と戦車がもたらされる。          アヴァリスの宮殿にはミノア様式の壁画が描かれており、          クレタ島のクノッソス=ミノア文明との交易、交流が盛ん          に行われたと見られる。            (北部、下エジプトのヒクソス王朝の首都は、ナイル川デ            ルタ地帯の東端アヴァリス)          **第16王朝は、ヒクソス支配下共治の上エジプト豪族委任            連合による自治的王朝であったらしい。          **<ヒクソス>という言葉には、エジプト側のエジプト語に            よる同音語に類した意味から合成派生した意味や、ずっと            後になって「ユダヤ古代史」を著わしてヨセフスが用いた            意味など、3種類が見られる。 BC1650年頃 南部上エジプトで第17王朝を開いたテ-ベの一族系豪族            が下エジプトのヒクソスに対頭し、アヴァリス・ヒクソス            王朝の衰退傾向により独立的、或いは競合、共立的支配権            を拠点地域的に中、下エジプトの地にも及ぼすものとなる。   BC1633年頃 セナクトエンラー(アフメス/[タオゥ1世?])が第17王            朝を開始、在位する。            この上エジプト王の治世代も、下エジプト・ヒクソスとの            軍事的な衝突や、双方の軍事侵略は見られなかった。          BC1580年頃 セケンエンラー(タオゥ)が在位する。- 1574年            上エジプト及び王家の経済活動が盛んに拡大するにつれ、            ヒクソス・下エジプトとの摩擦が激化する状況となる。            穀草地、牧草地、ナイル川交通商権、鉱物、良石資源確保            問題など、利権、商権がらみで紛争が起ってくる。            この王は、第17王朝の2代目か、3代目と目されたが、            1574年頃、ヒクソスとの戦いで戦死する。          **この王は<シスターワイフとしての主要な第一王妃、第二            王妃がいたことで知られている。            (アァフホテプⅠ、シツデェフティ)   BC1573年頃 セケンエンラーの長子カーメスが即位する。-1570年                **父王へのリベンジで、ヒクソスとの戦いで、下エジプトの            領域を北部中域(ファイユーウム隣辺)を広げたという意            味での勝利であったが、その後、1570年、わずか3年            の治世で早世する。            第17王朝の最後のファラオとの見方がなされ、新たに第            18王朝へと継承されてゆくが、その第18朝のイァフメ            ス1世は、年令の離れた弟にあたると見られている。          **カーメスがセケンエンラーの弟であるとの説も見られる。              *新王国時代(第18~20王朝期)の始まり。   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ BC1570年頃 アハメス王(イァフメス1世)、ヒクソスを国外へ排除し            国土を新たに統一した事で、新王国としての第18王朝と            なるを開く。1546年頃まで在位=25年間の治世。            兄カーメスが逝去した時、弟イァフメスは10才の幼少で            あったので、後見人宰相、或いは母(アァフホテプⅠ)の            摂政下での在位体制であったと見られる。            (彼の在位には1560年-1537年説、1551年-1527年説             があるが、20才頃の即位、1560年が妥当であろう。)          **この新王国の首都はテ-ベにて、第18王朝の第1代目と            して、おそらく「ヨセフのことを知らない新しい王」とも            想定されている。            (旧約聖書・出エジプト記第1章:8節 )          **アメン・ラー神がエジプト全土の主神となる。(中王国時            代からアメン神信仰はあったが、ラ-神がアメン神と習合            して、カルナクなど神殿の町ではその増築が空前絶後の勢            いとなる。アメン神は、アモン神とも称されている。)          **正妃アフメス・ネフェルタリからの息子、娘たちは以下の            如くで、彼らの間での王位継承的血族婚が継続的に強く維            持されてゆく。           ・息子ら・・<アフメス‐アンク、シアムン、アメンポテプⅠ、maybe-ラメス>                 *シアムンまたの名:アフメス・サッパイル は、この王アハ                  メス1世の弟とする説もあるが、その弟の名                  を継承すべく、子に転嫁した見方もある。                  いずれも年差があるが、早くの早世である。                           ・娘ら ・・<アフメス‐メリツアムン、アフメス‐シッアムン、maybe-ムートノフレツ>                 *ムートノフレツ(ムーツネフェルツ)は異母系かもしれない。          **注目すべきは、やがて若少息子アメンヘテプの摂政として、            正王妃であり続けたネフェルタリである。彼女の存在は、マ            ネトーの歴表記録では明らかな出自となっており、母アァフ            ホテプⅠとセケンエンラー王の娘ということだが、、、、            諸神殿での装飾レリーフ画では、他の幾多の女王妃らとは、            何か特別に識別表示されたふうに身体肌の色が表わされてい            る。なにか意味を込めた彩色がなされたというものか、後に            はやがて<全エジプト大地の母>を表すごとくに、ボディー            全体を黒く装飾したものもあるとかで、、、初期には黒くは            ないが、ほかの妃や王らとは異なった褐色系の塗飾で仕上げ            られている。            (彼女のミイラの検証で、髪の毛が多少ちぢれ毛で、擬似毛            と共に巧みに織り込まれ、女王に相応しい立派な髪型となっ            ていたと、思わせるような結果が報告されている。)            これらは、上エジプトのヌビア(クシュ)系の人種を示した            ものかも知れない。、、            アハフメスがヒクソス征圧排除する前後の頃に、ヌビアの主            要豪族との同盟支持において、その証したる婚姻の儀での正            妃として迎えられ王家入りしたことを暗に示しているもので            はないだろうか。(考古学、各種ドキュメント的資料からは            何の確かな表記証拠は見い出されていないが、、。)                    BC1546年頃 2代目アメンヘテプ1世が王位を継承する。 -1526年            (下位年代説では1526年在位 ⇒ 1506年)                   この頃から王墓と葬祭神殿が別々に造られるようになる。          (ピラミッドに代わる“王家の谷”王墓群の始まり)          **この王の治世第9年に<暁のシリウス>見られたとの記録か            ら、上記の在位年代の他に別の在位年が割り出されている。            つまり、観測場所がメンフィス、ヘリオポリス辺りか、上エ            ジプトのテーベ域かによって、天文的に年差が生じ、二説が            算出されるという。            それで観測記録がテーベであったとした条件でのテーベ説は            1526年~1506年の在位という年代説となってくる。            上位年代付けとは、20年の差異が出てくる。               **父王アハメスの治世17年目以降、8年の間に二人の兄が亡            くなり、王位継承権を得ての即位となる。未だ若年期だった            ため、母・ネフェルタリによる短い摂政期間があったと見ら            れる。            同母の兄ら<アフメス・サッパイル、アフメス⁻アンク>は幼少、及び少年時の            死亡と見られ、特にサパィルのものと断定されたミイラが5、            6才と推定されている。(1881年&1905年発見&調査)                    **アメンホテプには正妃(アフメス・メリタモン)との間からの現存の世            継ぎとなる息子はいなかった。だが、正妃を迎え娶る前に宮            中で仕える女性との間にできた子があったと見られる。その            子がトトメス1世で有能な青年となっていったと見られる。            (若少在位から数年過ぎた頃で、正妃を娶る前、まだ母親ネ            フェルタリが摂政後見の時、1540年前後頃であった。)          **アメンホテプ1世に関する資料情報は、注目すべき王にも拘            わらず、確かな筋のものは少ない。            (カルナックの神殿拡張増築に大いに貢献しているが、のち            の王らの改造増築で、その建造の事蹟は失くされている。)            彼の没年とそれの事情、最初に葬られた王墓の位置も、その            特定は候補に挙げられのみで、確定できる物証もない。                        彼のミイラだけが一度か、2度か移し変えられ、その最終場            所の王家あてがいの集括墓(ハトシェプスト葬祭殿の上後方            あたり)から見つけ出され、現在はカイロの博物館に保存展            示されている。ハトシェプスト葬祭殿は、クリフ直下のスロ            ープをうまく利用して、それに結続するよう建設された。            (かのツタンカーメン墓の発見発掘者ハワード・カーター氏            も、このアメンホテプの最初の埋葬墓として、ハトシェプスト            の葬祭殿の地域に近い先代系の王家ネクロポリスの地域で、            後に最有力候補の一つとされた遺跡墓[Tomb ANB]を見つけ、            調査している。別の有力候補は[KV39]in Royal Valley。            この王の時代にはまだ、<王家の谷>は始まっていなかった            が、のちの19~22王朝時代のうちにそこに埋葬されなか            王、王族関係のミイラなどを中心に、王家谷近隣地域の一つ            の場所に集括、再埋葬されたと見られる。)           BC1526年頃 3代目トトメス1世が即位する。  -1513年            (下位年代説:1506年在位 ⇒ 1493年)            それ以前から共同統治を行っていたとの説あり。            (また子の2世との共同統治が治世途中からあったとの説            論もアリ。1518⇒1513年)          **トトメスの母はセンセネブで、先王の妃アフメス・ネフェルタリに仕え            た美貌のナース(ボディケア、健康ケアの侍女)で、王家            の血筋縁外の女性であったと推定される。            (のちのハトシェプストの葬祭神殿の装飾レリーフにその            名のヒエログリフと共に美しい姿が描かれているから、考            古学上ではその確実性を示している。)          **このトトメスは、父王アメンヘテプの庶子であったが、有能            な指揮官として信頼され、先王(アハメス1世)とその正妃ネフェル            タリとの間に生まれた娘の一人(名はアフメスで=アメンヘテプ            および正妃の妹で、King's Sisterの尊称を有す)と結婚            して、王位継承者に定められた。            (別説としてアメンヘテプ1世の娘とする説もある。)            この折りトトメスは、すでに同じアハメス1世王の別系の娘            (ム-トノフレツ)を妻とし、一人か二人の息子らがいたが、これ            は、王位を継ぐためのロイヤル婚ではなく、プライベート婚            であった。          **トトメスの正妃アフメスには疑問視される面がある。それは            色々なタイトル尊称の表記がある中で、最も重要視される内            の一つ、<王の娘>というタイトルが考古学上から見出され            ていないからである。            したがって、<King's Sister>というタイトル尊称もアメ            ンヘテプ王に係るもか、それとも夫なる王トトメス1世自身に            係るものかともなって、確定されないままである。            (また、父がアフメス1世なのか、アメンヘテプ1世かの、            いずれの説かも決まらないで、トトメス1世自身の実妹との            婚姻説まで出てくる。)                      **しかし、正妃となって後、アフメスが<King's Daughter>            のタイトル表明を伏せて刻銘をさけたすると、彼女に何らか            の思惑や立場上の事情があったであろうとの観点から、この            点も考慮した上での別の歴史的視点も出てこよう。            しかしそれは、先ずもって、王族ファミリーの状況に関わる            推理を前提とする事になるが、、、、。            その推論の一つには、            トトメスが王位に就く前、既に2人の子(アメンメス、ワディメス)が            いて、30才代になっていたということ、、今一つは、アメ            ンホテプ1世にはトトメス以外に直系の世継ぎがなく、彼の            後ろ立てとなって強力に支えていた母親ネフェルタリの懸念            心配、意向に従い、現正妃であるメリタモンの妹、アフメス・            シツタモンをトトメスに正妃として娶せるように取り仕切った            と見られる。だが、シッタモン自身は、これに承服せず、兄            王アメンポテプが亡くなった数年後まで拒み続けたようで、            そこにはいろいろ訳あり、思惑ありであったが、最後には、            老いた母皇ネフェリタリの願いに折れたようであった。            (トトメス一世のその間の王位継承は、実質実権を執っては            いたが、正式な戴冠の儀を済ました在位ではなく、それが、            のびのびとなっていた。)            母親ネフェルタリは<アフメスの名>を継承した一系の王家            存続にこだわり、トトメスの名をいぶかり、軍事的な面で力            ある者にのし上がり、、やがて息子のアメン王の代理の如く            なった<トト>名を付冠した野心的青年に不安を覚える状況            となっていた訳だ。            かって自分の息子の名に、アメンをあえて付したわけだが、            それは、当時の王家王国がテーベでの地元ベースの基盤が、            未だなお磐石ではなかった事情があり、生まれた子の名に、            その地域で最も有力、最大多数の信仰崇拝を有した神の名、            アモンを冠付することで、王国の支持を幅広く盛り上げ、堅            固なものとするという、不可欠な必要策に強いられての、や            もえない実情があったからである。            本当ならば、その気持ち本心上では、アフメスの名としての            <2世>となるをもって、夫にして父王の名たるの、その名            を付冠したいところであったろうに、、、。            また、ネフェルタリは、息子アメンの庶子ではあるが、トト            メスの名を付冠したのは、その母親センセネブ自身であった            ことを、その当初から黙認、承知置きして、時の経つまでは            全く意に介することはなかったが、十数年と過ぎる内に時代            の趨勢は、急速に変化の様相をなし、それを許さなかった。            というのは、その頃すでに神話の神学的体系化が内容的に円            熟味をなして、主要な宗教都市、ヘリオポリス、ヘルモポリ            ス、その他関連大小の諸市など、それぞれ競合し合う状況で            あり、首都たるテーベも、都内カルナック神殿体制(アモン            神を主神に)を大いならしめ、その優位な威光、勢威を顕示            するよう計らねばならなかったからである。            (これらの状勢に加え、トトメスの母親センセネブがその中            域エジプトにある、今や盛んなる<トト神崇拝>の中心たる            ヘルモポリスで生まれ育ったとするならば、その気掛り因縁            は拭えぬものとなる。これはアメン王が、母皇ネフェルタリ            のために良き侍医を求めて、その地ヘルモポリスを訪れた事            が縁の始まりだったとも。            たまたま侍医の娘がセンセネブで、その侍医の退去後、父に            代って、ネフェルタリのナース侍女として宮殿に留まったと            のいきさつにて、。彼女の後、ライという名の侍女が代わり            に務めたとみられる。このライという女性のミイラ残存し、            ミイラ検証CT?結果で、1530年頃、動脈管ファブリック・            カルキ結晶害症で亡くなった事が、つい最近、数年前に知られて            いる。)                        上エジプト、テーベ周辺、界隈地域での<トト神>崇拝の教            勢は<アモン神>崇拝への競合を熱くするものともなったが、            結局、トト神崇拝の趨勢は、そのまま<トトメス1世>の存            在に反映し、彼の威を高めるとして、王アメンホテプと母皇            ネフェルタリは、もはや王家の内に高々と彼を抱きこみ、王            位継承の第一任者にするという任事策(共同統治)でもって            善的に対処したとみられる。            その折り母皇ネフェルタリは、自分の娘で王アメンの末の妹            アフメス・シツタモンをトトメスに嫁がせ、その二人から生ま            れる孫に、夫たる先王アフメスの名を<2世>として継がせ            ようとの強い意向を秘めて、娘を出したと見られる。            (結局、ネフェルタリは、トトメス1世の治世第5年か、6            年まで、頑張って生きたが、実際にその意向、望みは実現し            なかった。孫娘として生まれたハトシェプストの顔を見て、            世を去ることになったようだ。)            娘のシツタモンも、母皇の意に従い、いたずらに夫のトトメス            を刺激することなく、<王の娘>というタイトル尊称を表掲            する事を避け、専らに現時点でのアメン<王の妹>タイトル            でもって、自らの出自地位を示すよう努めた、との見方も可            能となろう。(もちろんこれは女性として、彼女自身にとっ            ても、年令とか若さなどの点で、見かけ、気分意識にメリッ            トになったと思えたであろう。すでに別のタイトルと共に、            <王の娘>と刻まれたレリーフ、モニュメントや像が建てら            れていて、宮中、世間かしこに知られた存在であったとして            も、、。)            のちにハトシェプスト女王が、カルナック神殿での増築で、            その第8塔門(パイロン)を手がけた際、その前面脇に母と            想定されうる<アハフメス・シツタモン>の巨像を据えたと            の証蹟を示すものとして、今現在もそれが残っている。            シッタモンの巨像を造り置く心のある者は、女王以外には、            誰もいないと、断言され得るものではないか。            (第8塔門は、神殿の東⇒西の主要軸上ではなく、大列柱室            後部と第4塔門の間の側脇スペースから南北方向を軸とした            域内を南に第7から8、9、10と設けられた塔門の一つで            ある。現在は、一般観光客用に復元、整備の状態にないが。            アハフメス同一人比定シッタモン説 ⇒ハトシェプストの母)                      ・正妃アハフメスから・・娘<ハトシェプスト、ネフルビティ>                       ネフルビティは幼少女時に死す。                         息子一人<ワディメス>                           父より以前に早世する。                      *ワディメスを側妃の子とする説の                       方がむしろ有力視されている。           ・側妃ムトノフレツ・・ 息子<アメンメス、ラメス>                       両者共に父より先の早世。アメンメス                       は、二十歳すぎまで生き、父の死の                       3、4年前に亡くなったと推定され                       ている。(王位継承者の第一位と                         して有力視されていたが、、)                       さらにその後、                       息子<トトメス2世>2男或は3男                       として生まれており、長兄との年の                       差は7、8才前後内と推定される。          **トトメス1世は、長兄アメンメスの死後、側妃との子トトメス            2世を世継ぎとし、正妃の娘ハトシェプスト(のちの女王ファ            ラオ)と娶せ、彼2世を王位継承者に定める。           (注)近現代のエジプト考古学者らは、アフメス・シッタモンと              正妃アフメスとは別人であり、その考古学証拠が無いもの              として、両者が同一人である事を否定している。あたかも              色々な秘密、関連を隠ぺいしたような結果となっている。              シッタモンに対して、もう一人のアフメスを想定登場させ              ている根拠(考古実証)さえも不確かで曖昧である。              恐らく、シッタモンの<グレートキングワイフ>のタイト              ルを、架空登場のアフメスに移し与え、そのアフメスには              <キングスドゥーター>のタイトルがなく、<キングスシス              ター>だけがあるという具合に割り振って、その出自さえ              も、あえて不確かなものとしているのではなかろうか。              (シッタモンのミイラだけは、デイル・エル・バハリの例              のロイヤルキャシュDB320で発見され、現在はカイロ              のエジプト博物館にあるということだが、、、)            ____________________________                      **モ-セの誕生はBC1521年頃(トトメス1世の治世時にあ            たる。)          彼を養育したパロの娘は、ハトシェプスト女王に相当するとし            た説が有力視され、通説化されているが、、しかし、ハトシェ            プストは、トトメス1世と正妃アハメスとの間の、生き残った            唯一の子で、トトメスの即位後に生まれているから、モーセと            は若干年の差ありだが、同じ幼児時代を過ごした事になる。       【注:1】モーセは自分の生まれた時の史実的な背景を跡付けるように、            自伝的な、自らをアピール、主人公の如きものとして<出エジ            プト記>を記そうとした訳ではない。だからその誕生時、及び            時代的背景などは、意図する主意記述を主とするべく、極めて            必要最低限の内容としている。(出エジプト記1章~2章10節)            モーセが生まれた地に関しても、出エジプト記では不明、定か            でない。メンフィスなのか、テーベなのか、、、、。            その王宮の庭園地域に隣接したナイルの岸辺、王宮から歩いて            もすぐの、王宮本館に通じた岸辺の涼みやかたが、テーベの地            なのか、メンフィスであったのか、何の決め手もない。水辺の            周辺と浅い水中にアシや、或いは他にパピルスが茂るところが            あったものかもと、また、水の流れもかなり穏やかで、それで            ありながら水はけっこう澄んでいると思わせる文章内容が無い            わけではないが(王女が水浴びする)、、、。川上での治水に            より、流れが途中バイパスのようなかたちで自然浄化されてい            るような、そんな所は何処であったろうか。            赤子モーセが、とある王女に川から拾われる。その季節も、お            そらく、ナイルの洪水期を終えた確かな時節(四季あり国で言            えば、秋口頃か?)であったろう。               とにかく生まれの場所は、特定出来ない。時代の状況は、トト            メス1世下のエジプト、しかもテーベを都〔ミヤコ〕として、神殿、            王宮など、町づくりインプラに乗り出した際に、ヘブル人イス            ラエルの氏族の一部がナイル・デルタの地からテーベ近隣に強            制移住させられ、近隣のあまたでレンガ造り、各地からテーベ            に集積される石材の搬入、搬出作業、また必要な素材石を作る            よう石の切断作業など、色々な労務にあたらせられる。そんな            強制移住、労役の氏族らの中に、モーセの生まれた家族を含め            た一族も混じっていたのかも知れない。            (この移住は、<王家の谷>以前のネクロポリスに相当した、            デイル・エル・メディナの開発創設のため、その作業労役にも係            わっていたとも、。アメンホテプ1世治世の後半期において)            ところで、赤子モーセを川から拾い上げ、育てるよう配慮した            王女は、はたして誰であったのか、それも知られようもない。            これも、ただ推量の域をでないが、アメンポテプ1世とその母            ネフェリタリが王位継承をトトメス(1世)に定める他なかっ            た時、彼らの下に残っていた王女は、アハフメス・シッタモン            で、彼女がトトメスの正妃となるべく嫁ぐことになったが、そ            の3、4年前にシッタモンは、赤子を川から賜っている。それ            以来のち、彼女の母性本能は火の付いたように全開してゆく。            彼女のアモン神崇拝は、その幼児をまったくアモン神から賜っ            たものと思い込むほどに狂信的となっていたからであり、その            愛着心は、なかなか冷めやらぬものであった。            その後、その子への思いを胸にトトメス1世に嫁ぐことで、             引き離されるが、やがて、自分のお腹から生まれ出たハトシェ            プストと、隠し子となっている幼児モーセとを、将来引き合わ            せようとの思惑を抱き、自分の意に叶い、思いどうりになるよ            うな王朝王家の先を夢に思い描くような時さえ無かったとは言            い切れない。            (モーセがその王朝宮廷でどのように成長し、大人に成って行            ったのか、まったく定かではないが、一応に宮廷王子並みに学            問的教養を身に付けさせられ、自らも積極的に学ぶところを広            く深くして、物事、事象の如何を吸収していったに相違ない。            ハトシェプスト女王に係わるエピソード的な片鱗にも成らない            かも知れないが、モーセが30才くらいの頃から、長い顎ヒゲ            を生やしていた。それをたまたまハトシェプストが見かけてい            たが、やがて、彼女がファラオの座に就いた時、ただ単に男装            の装いだけで公務謁見するだけでなく、あご髭を付けて臨むよ            うになった。この付け髭は、かってのモーセのそれにヒントを            得たものであったと思われる。            彼女がそのように付け髭をしてからは、ファラオとしての外見            ステイタス、その正式装いも、その後先々にわたってファラオ            のみに専属するとして、顎ヒゲ付きが好例、慣例化してゆくも            のとなった。            また、過去の歴代ファラオの数々の記念碑的彫像等も新規なも            のとして、あご髭付きのものが各地で献像されるものとなる。            そればかりでなく、神々の像にも新たな表像の形として、。)                                 BC1513年頃 4代目トトメス2世即位する。   -1500~4年            (下位年代説:1493年在位 ⇒ 1479年)          **1518年からの父王1世との共同統治説がある。          **トトメス2世は、トトメス1世と先妻となる側妃(ムトノフレト)と            の息子であったが、正妃アハフメスに男子の跡目がいなかった            事により、後に正妃の有望な娘の一人・ハトシェプストと結ば            れ、王位を正式に継承する。            (結婚の時期は1504年前後頃と推定され、両者には多少の            年の差ありのものであったようだ。)          **上位年代説ではトトメス2世の没年は1500年前後と見られ            る。下位年代説では1479年頃となる。          **この2世と正妃ハトシェプストとの間にも、男子の跡目がなか            った。一人娘がいたが、結婚前16才頃にて早世している。            しかし、側妃イセトとの間には、トトメス3世が生まれている。             BC1510年頃 トトメス1世、アジア遠征を開始、初めて「王家の谷」に墓を          造る。(彼の治世を1493年頃までとする説〔第3代目〕に            示唆されうる遠征との見方。)            共同統治者のトトメス2世が自ら実行遠征したものか、どうか            は定め難く不明である。          **第17王朝、18王朝の年代設定も確証的には定まらないなか            トトメス1世、及び2世の登位年代、治世期間はさらに重複し            錯綜的に混相、諸説が立てられて定まったものとはならない。            マネトー史料、考古学資料の双方考証からして矛盾があり、近            現代の学者らの研究見識により諸説の呈示となっている。 BC1500年頃 ハトシェプスト女王となるも、2世王の遺言により、側妃の子            トトメス3世の後見摂政を兼ねるものとなる。            (上位年代説)          **女王は、王室財政増強、交易外交を重視、その拡充のため、プ            ントに遠征隊を派遣する。            摂政期間:1500年頃 -1479年(上位年代説)                 1479年頃 -1458年(下位年代説)            摂政期間の早期途中から実質ファラオとしての在位権を執り、            もって治世をなす。        **新鋭の建築官センエムトが、ハトシェプスト女王の葬祭殿を            請け負い建設する。(現在復元された葬祭殿、何か真新しい            感じがするようだが、雄大なクリフの峰々を背景にして、壮            麗な景観を眺める一大観光スポットとなっている。)          **彼女の没年は、明確には定まらないが、1460年前後の頃、            およそ60才前後か、或いは過ぎた頃と見られる。    BC1480年頃 トトメス3世、ヌビア第4急瀑、ユ-フラテス河畔まで          進出し、領土は最大となる。            (上位説年代による見方)   BC1479年頃 トトメス3世成人即位する。  -1425年までの治世説            (下位年代説では1458年頃 ⇒ 1425年)            即位は21才頃とされ、1500年頃にトトメス2世の側妃            イセト(別称イシス)から生まれる。            父王トトメス2世が没する年、1504年説では、3世は、            4才頃の幼児期であったとされることになる。(上位年代説            による)          **トトメス2世(父王)の没年が何故か、上位年代説、下位年            代説、共に実際のところ現在まで曖昧で定まっていない。            また、この即位年を継母ハトシェプスト女王との共同統治で            の王位在任として、その後、22年間、女王が亡くなる年の            1458年までは単独統治ではなかったとの見方がある。        **1480年代前半頃から再びトトメス3世が、父王(2世)            に代ってイスラエル人を圧迫し、ヘブル人のほとんど全てが、            奴隷(奴僕、奴婢も含め)扱いされるようになるのも、この            頃からと見られる。            (トトメスのこの対応には、1480年前後に、モーセが、            同胞へブル人の過酷な現実を目の当りにして、現場責任者の            悪いエジプト人を怒りのあまり密かに殺してしまう。            モーセは、ファラオや女王〔ハトシェプスト〕が鞭打ってまで使役            するようにと、そんなふうには思っていなかったから、、。            その現場のエジプト人が居なくなった事に関連した同胞との            揉め事で、ファラオ(2世)の耳にも入り、モーセは失踪の            憂き身にさらされる。〔出エジ2章11-15節〕            それはこのモーセの事件が絡んでの事であるかも知れない。            子のトトメス3世がその事件を重く受け止めて、、、。            長期の時代に亘ってのヘブル人対策に対しては、その時々の            利的有益云々により、            とても緩慢、ある者には優遇的であったり、反対に非常にき            びしく使役されたりといったものであった。)        **BC1440年頃の出エジプト説:ソロモンの神殿建設が、            その治世第4年のBC960年頃で、出エジプト時からは、            480年後との記述(列王記上6章:1節 )に基づく場合と            なる。この出エジプト時では、ハトシェプスト女王が亡くな            って、20年近く経った頃の状況のものとなる。        **トトメス3世はBC1436年ごろ死亡?説は、考古学的に            エビデンスに欠けている状況と見られ不可能となるが、、、       【注:2】モーセとファラオとの対決的接見記事(出エジプト記第5章            から、その最初の接見がはじまり、12章までの間に何度も            繰り返される。その最終接見が12章31、32節の文となる。)            によれば、ある程度日数的に長い期間を経るかたち始まって            おり、今の太陽暦で言えば、おそらく冬の終わり頃、2月の            初旬か、中旬頃から3月中旬、下旬にかけての出来事となる。            この場合、最初の接見においては、主なる神が命じられたよ            うにして(出エ3章18節以下、神が予知した筋書きとアドバ            イスの下に)、モーセとアロンがまず、イスラエルの民の長            老代表(これは民全体の意思表明の証事で必須条件)を引き            連れてテーベに上り、陳情の口上接見(第5章)したものだ            とすれば、その後の間の事情過程の経過日数も考慮にあがる。            その後の接見はすべて、メンフィスの王宮、その周辺が主舞            台となり、行なわれたと見るべきであろう。            (メンフィスでは共同統治者の王と、事が重大になるのを気            にかけて、テーベから下ってきたファラオ・トトメス3世の            二人の王との接見対決となったと、推論されうる。)            これについては、後述の【注:3】を参照。 BC1450年頃 アメンヘテプ2世即位とする説もある。 -1416年          **この王の在位と治世期間については、先王の例にならい、            その在位の年代付けの問題に絡んで、通常、二つの説が併            存して考究されている。            上位年代では、1454年から1419年とされ、35年                   間の治世            下位年代では、1427年から1401年とされ、26年                   間の治世                        王位を継いだ時、アメンポテプは18才であったが、その            前、2年4カ月ほど共同統治の地位にあり、下エジプト全域            の掌轄の任にあたっていたとみられる。彼の生まれと育ち            が元々メンフィスであったから適地だったかも知れない。             (彼を産むメリツラーは暑いテーベを避け、幾分でも和ら            ぐメンフィスの地でお産をなしたということであろう。)          **アメンホテプの18才時即位と父トトメス3世の逝去年、            1425年を基準にして、考えてみると、            ・上位年代説では、1470年頃の生まれとなる。             この年代だと、父トトメス3世がいまだハトシェプスト             女王との共同統治のさ中、その年令29歳で、何ら子づ             くりの親としての時期であり、問題なく妥当な処となる。             しかし、共同統治の終わる1458年までは、他の如何             なる自分の息子らとの共同統治はあり得ない。            ・下位年代説では、1443年頃の誕生となる。             この年代では、父トトメスが1458年からの単独統治             が始まって15年が経ち、年令は56歳頃で、その権力             権勢がピークといったところの熟年末期の頃となる。             この時期では、すでに共同統治者なる息子が立てられて             いたと見られうる。それは、1450年代の末頃からで             あろう。その時の共同統治者なる息子は、アメンホテプ             2世の異母兄にあたる前王妃の子、アメンエムハトと断             定されうる。                       **アメンホテプ2世は、トトメス3世の庶子ではなかった。            当時テーベを中心として、アメン、ラー、アツムの三神を            一つにした、何か新たな崇拝方式を奨励し、その全国的な            推進を執り計っていた女性祭官長フイの娘、メリツラー・            ハトシェプストとの間に生まれた子であった。すでにその            時点で、王の思惑いかんにて、継嗣の子と予定される状況            下にさえ成りうるものとなっていた。            (アメンポテプの母親、祖母は、土着系アメン崇拝の貴族            の家系からのものであろうか、種族的にはヌビア人系で、            背の高い系統氏族であったと見られる。また、若い頃から            優秀な祭女の一人として、ハトシェプスト女王の配下にあ            り、彼女の目にも留まるものであったようだ。            アメン崇拝系の一族出であるにも拘わらず、ラー崇拝への            思惑アプローチが強く、女王に何らかの影響を少なからず            強くしたと見られる。            従来からの<テーベ・トライアット>から、ニュートライ            アットへの女王の神意識の心変化 ⇒ 布石、新踏襲への発            展のきざし )            アメンポテプ2世の母親メリツラーは、先王妃の亡き後、            王・トトメス3世に、再度の正妃、第一正妻として迎えす            えられ、その後、息子アメンホテプを身ごもり生んだ。            (これは、先の正妻なる王妃サティアが亡くなった直後、            すぐの事であったが、その息子で、長兄だったアメンエム            ハトにとっては、大いなる後ろ立てを失った事で、一時、            将来に向けた、幸、不幸の試金石ともなったようだ。)                   【注:3】王子アメンエムハト、モーセの出エジプト期の頃、下エジ            プト、メンフィスに座する王の如き存在であった。彼は、            いまだ正式に父トトメス3世から<共同統治王>としての            在位指名、召命の儀を受けてはいなかったが、実質的にメ            ンフィスに座す共同統治者としてその実権を執っていた。            この王子自身の考古、歴史的資料は、在位ファラオとは成            り得なかった故、その分事蹟もなく、極めて少ない。            ハトシェプスト女王が亡くなり、彼の父・トトメス3世が            その共同統治から、単独ファラオの座に就いた(1458年)            数年後、カルナック神殿に、その王子の名前と、任称タイ            トルとが、父・トトメス3世の刻記表示に付随したかたち            で記され残されている。それらは治世第24年の刻字内容            のものだと解読理解されている。(1455年頃)            だが、父王の治世第24年のアナルス(年代列記)での、            この王子アメンエムハトに係わる表記には見過ごし難いほ            ど注目すべきものがある。            それは、“家畜の監督者”という、極めて異名な任命タイ            トルであった。従来よりの王家には見られない異例の任位            タイトルと見られる。            しかし、トトメス3世のこの時期、治世の第24年は、そ            の前年(23年)からの王国状勢が大いに反映したもので            あると見なせば、間違いなく納得できる任命タイトルだっ            たと言い得るものである。            それは、ハトシェプスト女王の喪の明けた直後の事であろ            うか、メギドの戦い(第21年のエジプト暦第8月~23            年の遠征期間中の初期にて、現暦で1457年5月9日)で、            勝利し、その広域平定での、思いがけないほどの大量の戦            利品、貢物など、多種多様に収得して帰還した情勢結果か            ら来るものと見られる。            その勝利の威勢、国威の賞揚、いまだ冷めやらぬ時勢時で            あり、ファラオ・トトメス3世も、その戦利品等の結果、            内容に大いに気勢、気運の高鳴るをもって、古来伝統の諸            王の歴を追憶する思惑を秘めて等々、それは、種馬以外に            雌馬数千頭だけでなく、驢馬なども含め、多種なる家畜類            数千余、それに加えて羊が数万匹といった内容で、他の幾            多の内容物に比べて、はるかに顕著なものであったゆえ、            色々な意味合い、アスペクトから、自らの後継者となる王            子アメンエムハトに対して、その時勢柄に勢い合せ、大い            なる意義を込めて、まさに特別なる<時のしるし>となる            ごとくに、<“家畜の監督者”>という特例の任職タイト            ルを付与したと見られる。            (これは、1455年のアナルス表記の内容であった。)            そんな情勢事情ゆえ、これにより羊及び家畜類の主要な牧            畜適地、及び集散地には、ナイル・デルタを含めた下エジ            プト領域内と定められ、アメンエムハト王子は、それらの            経営に係わる管理、監督を兼ねて、下エジプト、メンフィ            ス方面に在住、王国統治の一端を負う事となる。            (実質実権的には下エジプトを任された共同統治王のごと            きものとなっていった。)            その後の十数年、何もなかった訳ではないが、この王子の            エジプト側歴史の史料からは何の情報も得られていない。            運命の対決、主なる神の摂理の下に、モーセとアロンは、            神の強力なご意思と言葉の命ずるところにしたがって、フ            ァラオ・トトメス3世とその脇に立つアメンエムハト共治            王の前で、いく度かの接見をなす。(1440年2月~3、4月頃)            (下エジプト、メンフィス及びナイル・デルタでの空白の            十数年、エジプト王朝側での牧畜牧羊経営政策のため、ヘ            ブルびとイスラエルの民は、この面でも辛苦を舐めるもの            となったと見られる。自由に放牧が出来ず、牧草地となる            土地は、王朝の専有地となり、家畜類を手放して、それぞ            れ各自飼うに必要最低限の数にしなければならない事態に            なった。また、ある者らは、王家側の牧畜経営の下に、低            い僅かな報酬で雇われ、奴隷のように働かねばならない境            遇になっていた。)            父王トトメス3世から全権を任され、荒野で迷っていると            の情報を入手して、この時とばかりに舞い戻らせる為に、            急ぎ脱出途上中のイスラエルの民の後を追った。            出国していった集群の数が半端でなく、厖大なものであっ            たので、エジプト側共治王・アメンエムハト率いるその全            権の兵勢力も、下エジプトの自分配下の兵力だけでなく、            父王テーベ・ファラオから下エジプト地域に駐屯守備して            いた最寄の各兵力も加わり、まさに一大遠征時の如き行軍、            急を告げるものとなった。            だが、総司令官アメンエムハトは、逃避群行して行く大集            団群の列を前にして、その海、紅海での追跡断行の指揮を            一瞬の猶予の間もなくその判断を誤り、意気盛んな軍勢と            共にその海の底に沈むものとなる。            --------------------------            これについてのエジプト側の記述史料などあろうはずがな            い。その伝統と誇りに満ちたエジプト王国が、最大限に味            わった無残な屈辱を記し、後世への汚点として残すわけに            はいかないからである。            (ずっと後のBC3世紀以後のマネトーとその神官グループ            らが、アレキサンドリアで訳されたモーセ5書の出エジプ            ト記事を目にして、まさに伝統的なエジプトの歴史と文化            の誇りを傷つけられ、冒涜されたとして憤慨、躍起となり、            ギリシャ語モーセ5書に対抗して、出エジプト記事を単な            るユダヤ人のご先祖にまつわる民族的自己主張の創作物語            と見なせるように、歴史的には全く根拠のない無効のもの            となるよう、また、それに替わる卑しむべき物語にすり替            えて彼らの編纂するエジプト史書に付け加えるように、マ            ネトー神官グループは、自分等の「エジプト誌」と、それ            に関連付けがなるような幾多のパピルス文書類を創作して            いった。現プトレマイオス王朝を、古来伝統の自分等系王            朝を引き継ぐものとして、大いに引き立て、強力に支持す            る立場に立ち、それを表明しつつ、、、。)            --------------------------            トトメス3世は、伝令早馬から密かにその壊滅の知らせを            受け、唖然、呆然として立ち尽くすほかなかったが、一応            の対応策として、メンフィスやその他の町々にふれを出し             警邏兵や役人らに命じて、その無残な事件情報が出回り広            がらないよう、エジプト民衆レベルでの口封じの厳しい取            り締まりを講じた。その一方で一時的ではあるが、偽の情            報を流して、“いま軍勢は、イスラエルの民を追いつつ、            カナン、レバント(フェニキア、レバノン)、シリヤ方面にまで遠征            を試みる予定の下にある。”との布れ、そのうわさを立て            させ、応急対処した。            このように善処した後、早急にテーベに戻ったが、内々に            その出来事の真相事実を知った、王宮諸官らは、その動揺            の色を隠せなかったようである。特に王に係わる書記官ら            は、どう対応すべきか、めまいがするほど動揺し、今後の            王の出方を終始見守りつつ、その務めを長く中断休止しさ            えする始末となった。            このような状況は、カルナックのアメン神殿のトトメス3            世専用のアナルス(年代列記)ホールの壁に、その影響の            影らしく、その支障的な刻字表示の現われとして、如実に            示す結果となって見られるものとなっている。            つまり、そのアナルスにおける王の遠征記録では、治世第            35年(1444年)の10回目を数える記録までは順調            に記されていたが、第36年から第39年治世(1443年~            1440年)までの11、12、13、14回目を数える記録            は、14回目を除いて、不明で内容が定かでないものとなっ            ており、14回目のものは、1440年だが、これは、先に述べ            た、かの偽の<うわさの遠征>文書記録を受け宛がったも            のとして、刻字されているといった始末のものであった。            そして、さらにその乱れは、遠征記録の14回目の連番を            最後にして、その後の連番は表記されないものとなった。            ここで留意すべきは、王のアナルスは、通常遅くとも2、            3年以内に神殿内の専用ホールの所定壁面に刻字表記され            なければならないものであったが、そこでは、相当何年か            の年数を経てしまい、その時の動揺、混乱のため、記すべ            き内容と、記すべき時のタイミングを失い、後に非常に遅            くなって、間に合わせの穴埋め表記で、事を処理したとい            うことである。            回数連番がなく、治世年だけの第40年~42年となるが、そ            の最後のものだけが、実際にレバント、シリア方面で、ミ            タンニ王国の王、その軍勢と戦った事蹟を記したものとな            っている。これが数えて、17回目かの治世第42年のもの            であろうか。            これ以降、レバント、シリア方面での記録はなく、その一            連の遠征記録はここで終わっている。       【注:4】因みに出エジプト記の第1章11節で“倉庫の町ピトムと            ラメセスを建てた”との文言に<ラメセス>の語があり、            その語名から出エジプトが、ラメセス2世の時代に比定さ            れる説が提示されている。いわゆるこれが初での後期説と            されるものだが、しかし、これはまったく安易なもので、            ほかに裏付け推定されうる史料的根拠はない。            モーセによる創世記の父祖系伝承ヤコブとその一族のエジ            プト下り、子ヨセフとの再会及び定住記事(創第46、47章)            では、ゴセンの地のうちでの一地域の名がラムセースとい            う<地名>としてすでに在ったかの如く記されている。            これは、モーセの時代からおよそ400年以上も前に溯る            出来事に<その地名>が出ている訳だが(創47章11節)、            これが、出エジプト記での<倉庫の町の名・ラメセス>と            地名、町名の同一視的認知がされたかたちとなっている。            まさに同一スペルのヘブル語<רעמסס>が地名として、数百            年も前からすでに在ったとするように、先に先行表示され            ている訳である。(モーセ自身が実際に、その地名がすで            に在ったと認知したかどうか、全く疑わしい限りである。)            倉庫の町、町名としてのラメセスのヘブル語<רעמסס>は、            ラアムセースまたは、ラアメセースと発音され、先行の8            節での文言<新しい王>には、次節以下の文筋内容から見            て、それに比定されうる王としては、後代の第19王朝の            ラメセス王をあてがい立てることはできない。                 これは、モーセ5書ヘブル語原典での写本校正をなしたBC            8世紀末のアッシリヤ来襲時、イザヤ時代、イザヤグループ            の書記らが、その語名を<ラメセス>であると、誤訂正し            た為であるとの考え方も出てくる。            元々は、ラーに当たる<ר >が無くて、<עמסס>であり、            その母音符からは、アモセス、又はアムセスと発音される            語名であった。これは、つまり、第18王朝の初代王なる            アモシス(アフメス)に言及されたものである。            しかし、一部誤訂正を認めつつも、別の見方が正しいとも            考えられる。それは、倉庫の町の名をモーセは、既知のも            のとして、元々、そのままズバリ、ラメセス、つまり、            ラアムセースのスペル<רעמסס>でもって、記したとする            もので、この場合には、その名の命名由来や、それの意味            由来などをモーセはよく知っていたというものである。            モーセがよく知っていたという内容は、名前の命名者が、            第18王朝初代王のアフメスであり、その意味する由来は            彼が、上、下エジプトを統一したことで、下シモのラーと、            上カミのアムンとが習合して一つになり、王自身の名もそれ            に符合させた記念すべき町の名であるいうものであった。            (後の第19王朝ラメセス家、ラムセス2世は、元々この            下エジプトのラメセスの町の出身者であり、その町の名を            家系名、或いは生名にしたというものである。)            (誤訂正の<ラメセス>といっても、結局、結果は当時の            理解、認知度に照らし、さらに高めんとして、その一貫性            を持たせるためであり、先に述べたヨセフ・ヤコブ記事に            おける<ゴセン>の名に替えての、<地名・ラムセース>            の語の挿入校正も、その一環性の含みに依るものである。)            したがって、<新しい王=アフメス>を代表系列のトップ            に記し据える事で、関連する時代全体の始めを規定的に示            し、以て、次ぎの王に続く、アメンポテプ1世、トトメス            1世、そして、トトメス2世&ハトシェプスト女王を経て、            トトメス3世時での出エジプト、と続いてゆく時代での事            を示している訳である。            (モーセの記述の卓越したる奥深さを垣間見る?。紙面と            なるマテリアルズに限られ制約ゆえの自然結果ですかね。)       【注:5】出エジプト後、イスラエルのカナン進出の年代的経過録は、            参考として、右をクリック:⇒カナン入り事蹟録                            BC1416年頃 トトメス4世即位、第18王朝第8代ファラオ。-1389年            他に1419年 - 1386年在位説、              1397年 - 1388年在位説がある。 **この王の時代になって、かって敵対勢力だったミタンニ王国と            の協調関係ができて来た。それは、ミタンニがヒッタイト王国            やアッシリヤの勢力と対抗を余儀なくされ、エジプトとの友好            的な政略結婚をなしえたからであった。            トトメス4世は、ミタンニ王アルタタマ1世の娘を迎え入れた。            この友好的関係は、子のアメンホテプ3世にも受け継がれ、            王家同士の次世代婚姻関係が続いた。   BC1400年頃 トトメス4世、ギザの大スフィンクスの大規模な修復再現作業            を手がける。1401年頃完了され、全体的な塗装と、新しい            ファラオのステイタスとして、あご髭が接合される。これは新            王国、第18王朝が遥かなる歴代過去に繋がるものとして、そ            の国威の賞揚たるシンボルマークとされる。                      **その後、このあご髭が何時、どのようにして脱落したか、その            記録もなく定かでないが、脱落した破片が四片出土している。            (カイロ博物館3片、大英博物館1片所蔵) BC1389年  アメンヘテプ3世即位、第9代目のファラオ。 -1364年          -1389年までに父王トトメス4世との共同統治があったと             の説あり??          -1364年まで在位したとする。            他に            -1386年-1349年在位説アリ            -1388年-1351年在位説アリ          **アメンホテプ3世、ミタンニのシュッタルナ2世の娘ギルヘパ              を迎え入れる。            その頃ミタンニ王国は、絶頂期であったが、王家内の継承紛争            が相次いで続いてゆく中、アッシリヤへの支配的影響力を早落            してゆき、反対に王家の係争に関与されるようになる。            BC14世紀中葉にはアッシリヤ王アシュル・ウバリット1世            に攻め込まれ、領域の多くを失ってゆく。 アメンヘテプ3世の頃、王朝は再び絶頂期を迎える。                    **このファラオの時、マルカタ王宮を建設し、テーベから            マルカタ王宮に移転する。        **BC1390年か80年頃ギリシャの火山が大噴火を          起こす。(エーゲ海のテラ島の火山) BC1364年頃 アメンヘテプ4世の即位説あり。(別名アクナテン)            彼の帝国経済(王朝)の維持策は宗教改革を以てなされる。          つまり、アメン・ラー神からアテン神(太陽神)崇拝への          変換、これをエジプト全土の主神とするだけでなく、他の            全ての神々を否定して、アテン神を唯一神とする布告を            もってなす。そして、巨大化した神官制度をも廃止せんと            した。          さらには各地の帝国軍をエジプトに召喚し、巨大な新都の          建設に従事させた。(新都アマルナ時代の始まり)          -1347年          **このアメンホテプ4世の代にも、北メソポタミヤ&シリア            を領有するミタンニ王国との友好関係が継続し、ファラオ            アメン4世は、ミタンニ王トゥーシュラッタが送り出した娘            タドゥキパを受け入れ、妃としている。            この妃は、2番目の妃キヤとも、或いは王妃ネフェルティ            ティだったかも知れないと見られる説もある。                     ミタンニはその後、ヒッタイトとアッシリアとの勢力係争            の緩衝の狭間で、両者の間での従属国を繰り返して、次第            に弱体化してゆきその王国は没落してゆく。            その最後の止めは、1263年頃、シャトゥアラ2世が、            アッシリヤ王シャルマネセル1世に撃破され、王国は滅亡            する。             BC1359年頃 アメンヘテプ4世(別称:アクナテン=アクエンアテン)          太陽神アテンを国家神とする宗教改革を行い、テルエル          アマルナ(アケト・アテン)へ遷都する。          彼(アクエンアテン)の治世は、17年間であったという          のが通説である。        **彼の正王妃ネフェルトイティは、治世14年頃死去する。        **彼は第10代目の王なのか・・・・??        **第11代目の王あり、その名は、スメンク・カ-ラ-、          1年足らずの王権にすぎなかった。彼は最初、アクエン          アテンの娘(王女)と結婚したのち、共同統治          (約2、3年間)をなし、その後は、後継者として即位          したと考えられている。(=1348年在位)          (G.フィリップス著 “消されたファラオ”の説参照) BC1347年頃 ツタンカ-メン王の幼年即位、首都をテ-ベにもどし、          アメン信仰を容認し、その復活が公になされる。          (ツタンカーメン8才、宰相アイが、実務を執る。)        **先王(アクエンアテン)の治世17年説では、彼の即位、            治世は、BC1347~1338年となる。        **祖父アメンヘテプ3世の第1王妃ムトネジュメの家系から            スメンクカーラーが出、第2王妃ティイの系統からツタン            カーメンが出たという説があり、ツタンカーメンもアクエ            ンアテンの娘(第3王女?)の婿入りとして、王位を継承            したとの説がある。          (アクエンアテンの王妃ネフェルトイティの父親がのちの            宰相アイで(あるというのが通説とされている)その孫娘            (第3王女)が、アンケセンパーテンで、ツタンカーメン            より1才か2才年上だった。) BC1346年頃 治世第2年、王朝王家を古都メンフィスに移転する。                 ツタンカーメンと宰相アイによる政権は異宗教アメン神の            聖地テーベでは人気がよくなかった。            テーベより南の上エジプトは廷臣の医療長ペントウ ウが南            の宰相として留まり政務を執った。          アイの下には他にエジプト全土の国内問題担当として彼の            腹心の右腕マヤがおり(アクエンアテン時の宝庫長兼作業            監督)、軍事面では南エジプト軍の将軍ミンナクト、北エ            ジプト軍の将軍ホルエンヘブという重要な二人の軍人がい            た。将軍ホルエンヘブはさらに重臣の地位を得て、のちに            アイの治世が終わると、かっての先王 アメンヘテプ3世            の元王妃ムトネジュメと婚姻し、王位継承権を得て即位す            る事となる。彼にあっては軍事色の濃い政権がみられる。 BC1340年頃 宰相アイ即位する。  (1338)  (1338-1334年間の在位期間説) BC1334年頃 将軍ホレムヘブ(ホルエンヘブ)が即位、-1321年            **アテン信仰を根こそぎ抹殺し、国内を整備する。        **彼は第18王朝最後の王として27年間の治世をなす。          (1334-1307在位期間説) BC1320年頃 ラムセス1世、第19王朝を開く。 -1318年  (1307)            **カルナック神殿の再増改築、大列柱室の建設が始まる。            (1307-1305)          彼は2年ほどで死去、後継者は子のセティ1世。      BC1318年頃 セティ1世即位する。アジア遠征を余儀なくする。          **セティ1世の時代においても、ヒッタイト王国との勢力圏            紛争で、レバント、シリア方面へ、勢力地回復のため出征            を行なっている。                   **後年、14才の息子ラムセス2世に、王子摂政の地位を与            えて、その治世を助けさせ、習わせる。   BC1290年頃 ラムセス2世即位する。 -1224年(上位年即位説)          **下位年即位説では、1279年-1212年となる。             **彼の在位年令は、確定されないが、20才前後と見られる。          **出エジプト後年説あり:ラメセス又は、メル.エン.プタハの            時代としているが、BC1280年頃の設定としている。)                  **ラメセスはその治世の初期後半には新たな首都として、ナ            イル・デルタ地帯の東地区にラメセスの町を建設したとし            ている。            この王のカナン、シリア方面での活動、及びそのデルタの            首都の事が、のちのユダヤでもエジプトの歴として、最も            顕著に知られ伝えられ、それが旧約のモーセ5書、モーセ            時代に反映されて、このラムセス王の代に、出エジプトの            出来事が起ったという、上記後年説の考え設定に至ったと            見られる。            その場所は、ヒクソス時代の古代アバリスのおよそ2km            北に位置して、その首都がアバリスをその郊外圏内に連な            るものとなしたとされている。また、新都はタニスの30            kmあまり南に位置する処であったとされている。 地図:右をクリック(Wedウキペディアから借用)⇒デルタ地図            しかし、モーセの時代次元と対比して考えると、旧約での            ゴセンの地であり、このような位置に、当時の最も強力な            エジプト王朝(第19)の都があり、また、近隣に本営規            模の軍団組織の設営があったりしては、イスラエルの民の            脱出にはまったく不適切な歴史的環境であり、脱出不可、            失敗になり兼ねない。(たとえ出立の朝直前までに神の力            ある十の奇跡がなされたとしても、、、>)            出エジプト後期説は、したがってそれは誤謬なるもので、            神の摂理的配慮、その最善の歴史的時間に合致したものと            は言えないものである。            (このラムセスの新都は、現代のエジプト学者、考古学者            らの未だ研究的な<仮説の域>の出ないものであろうとの            見方も取られ得るものである。遺跡とか廃墟とか、とにか            く考古的な物証となるものが極貧であるからして、、。)          **ラムセス2世の正妃ネフェリタリは、ラムセスが即位前、            15才の時に見染めて結びつき、若い時からの彼らの純なる            いとおしき愛のはぐくみが、後々のラムセスの思い出にその            懐かしみを追想せしめ、彼女への記念碑的モニュメントを            大々的なものとしたようである。 BC1285年頃 ラムセス2世、レバント、シリアでの勢力圏の維持のために            遠征ツアーを繰り返すさ中、遂に1274年には、シリアの            カデシュで、ヒッタイト王ムワタリシュ(2世)との大きな            戦いとなる。                   この折りの戦いは、ほぼ5分と5分の戦況模様で停戦し、両            軍は、双方共にひと先ず軍勢を自国に引き戻す事になる。            (ラムセス王自身は、勝利者宣言を誇って帰還する)          **その後も長い年月の間、レバント(レバノン、フェニキア)、シリアは            勢力権益、商易圏益をめぐり、諸国との紛争の場となった。            治世第21年(BC1269年頃)になり、ヒッタイトから内紛に            より、娘のいるエジプトに亡命した王(ムルシリ3世)と、            身柄引き渡しを求めてきた件から、突如、両国間の不戦和平            への歩み寄りが条件となり、双方間で断続的に長く続いた戦            時体勢に終止符を打つ平和条約が締結される。            (その頃はミタンニ王国が、アッシリヤの支配の下に属国化            され、アッシリアの台頭、勢力に、両者お互い脅威となって            きていたからである。)            この条約は、現代では世界史上、最初の公式<平和条約>            として認知されたものとなる。その条約内容文は、ヒッタイ            ト側のハットシャ出土の粘土板、エジプト側では神殿壁面で            確認されている。            治世第34年(BC1245年頃)、ラメセス2世は、かの和平条            約の結果過程により、ヒッタイト王ハトゥシリ3世の娘王女            を妃に迎え入れている。            エジプト名(マアトホルネフェルタリ)でしか知られていな            いが、王のグレートロイヤル・ワイフとなり、先王妃の後を            継いでいると見られる。            (ヒッタイトはその後、1250年頃に、ミタンニの復興を              支援しての、アッシリヤ・シャルマネセル1世との戦いに敗            れ、さらに1230年頃、ツドハリヤ4世が、アッシリア王            トックルティ・ニムルタ1世に手痛い敗北を喫し、ヒッタイ            ト帝国はこれにより、衰退、弱体化の一途を辿り行く。) BC1224年頃 メル.エン.プタハ即位する。第19王朝の4代目ファラオ              **ラムセス2世の王子としては、その序列が第13王子と目さ            れていたが、王に信任され、三人目の継承者に選ばれた。            しかし、ラムセス2世の治世が長かったので、即位したのが            経年を得た、60才という高齢になってからであった。                      **下位年即位説では1213年 - 1203年 BC1200年頃 第20王朝が始まる。=ラムセス3世の即位:1198年説 BC1190年頃 ラムセス3世、海の民軍をナイル河口で撃退 BC1170年頃 賃金支給遅延のため労働者のストライキが起こる。 BC1130年頃 ラムセス9世の時、内政が混乱する。「王家の谷」の          墓泥棒が逮捕される。    *第3中間期(第21~24王朝期)   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ BC1085年頃 テ-ベのアメン神官団の王朝を分立して、東デルタ地方の          タニス市でタニス王朝が成立する。(第21王朝) BC1040年頃 プスセンネス1世即位  (980年ダビデによるイスラエル王国成立)  (964年ソロモンがイスラエル王国継承、960年神殿建造に着手) BC 950年頃 リビア軍の将軍シェションク(シシャク)がデルタ地方          南部の市ブバスティスで即位宣言する。( 第22王朝の祖) BC 935年頃 異民族による支配(リビア、ヌビア、アッシリア)が本格          化する。(リビア王朝:第22-24王朝)          **( 第22、23王朝: ブバスティス、第24: サイス) BC 917年頃 エジプト王シシャク(第22王朝:BC935-914)エルサレム          に進入し、宝物を奪った(列王上14:25、25)。          =レハベアム王の第5年。    *末期王朝時代(第25~32王朝)   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ BC 750年頃 ナイル上流ナパタから台頭したエチオピア人が、テ-ベを          首都として王朝を建てる。(第25王朝) BC 725年頃 エジプト三角州地方の王ソがイスラエル王ホセアの援助の          要請に同意する。イスラエルがアッシリアに対抗する為の          軍事的処置(列王下17:4 ) BC 712年頃 第25王朝の勢力がエジプト全土に拡大する。 BC 671年  アッシリア王エサルハッドンがエジプト王タハルカ(テル          ハカ)を追って、エジプトを制圧し、属州とする。            エサルハドンはさらに上エジプトの首都テーベへの攻略を            進めるが、その途上で急死するものなる。(669年)          (アッシリアのエジプト支配はBC671-655 年頃まで)                    **667 年上エジプトのテ-ベはアッシリア軍に攻略され          悲惨な状態になった。( ナホム3:8) 下エジプトの旧首都            メンフィスもすでに陥落した後であった。これは、            息子のアシュールバニパルによる最初のテーベ進攻の時で、            テーベはアッシリアの軍門に降り、降伏する。          **その後、また、アシュールバニパルは、テーベ征圧を余儀            なくされ、遠征軍を差向けて陥落させる。エジプトの大い            なる王権宗教首都は、大々的に破壊され、古代の歴史舞台            から消え去るものとなる。(664年2度目の時にて)                    BC 663年  リビア出身のプサンメティコス1世による第26王朝が          始められる。( サイス王朝: プサンメティコス1-3 世、          ネコ2 世) 。これはアッシリアのアッシュ-ルバニパル王          から独立を勝ちとり、国を統一してのこと。この時、海を            越えたイオニアからの援軍が助けとなった。 BC 609年  ネコ2世即位(第26王朝:-595(594) )          彼はイスラエルに進入し、ガザ、アシケロンを占領、          メギドの平野でヨシヤ王を戦死させる(BC608) 。          ( 列下23:29 、歴下35:20)。 BC 605年  ネコ2世さらにユフラテ川に軍を進め、バビロン王          ネブカデネザルとカルケミシで会戦したが、大敗する。          ( 歴下35:20 、イザ10:9、エレ46:2、)         **ネブカデネザルはエジプトを侵略し、属国化せんとす            るが、長くこれを保持することが出来なかった。 BC 600年頃 エジプトの王による最後の繁栄 BC 595年  プサンメティコス2世の即位(:-589 年まで) ヘロドトス の言及による。 BC 588年  ネコの後継者ホフラが第26王朝の王として即位する。          (:-567年まで)         **彼はユダの王ゼデキヤの時、エルサレムを攻めたパロ            と思われる。( エレミ37:5、7 、10) BC 567年  プサンメティコス3世の即位(:-525年まで???)          525年で第26サイスの王朝は消滅する。 BC 525年頃 第1次ペルシャ支配開始(カンビュセスのエジプト征服) BC 410年頃 エレファンティネ島のユダヤ教神殿が破壊され、400年          頃には、アスワンからユダヤ人はすべて追放されている。          (グラハム.ハンコックの著による) BC 343年頃 第2次ペルシャ支配の始まり    *ヘレニズム王朝時代   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ BC 332年頃 マケドニアのアレキサンダ-大王、エジプトを征服する。          (323年大王バビロンにて死す。)          大王の死後、彼の版図は4分されて、将軍らに統治され、          その後、それぞれ独立王国を形成する。  (プトレマイオス朝時代) BC 305年頃 将軍プトレマイオスは管轄地のエジプト王に即位、ここに          プトレマイオス朝が始まる。          首都アレキサンドリアはヘレニズム文化の中心となる。 BC 196年頃 ロッゼタ・スト-ンが建立される。          **プトレマイオス5世に係わるメンフィスの支配階級の立場にあった            神官組織のトップらの布告した勅令が、3種類の文字書体(ヒエロ            グリフ、デモティック、これら二つは古代エジプト文字、と、ギリ            シャ文字)で、石柱に刻まれたものである。            (プトレマイオス朝期でのこういった有力神官グループによる勅令            の石柱記念碑は、彼らの必要に応じて以前からも度々なされた慣例            的処事であった。王位の交代後など、新王ファラオの在位に関わる            ものとして、、。したがって、そういった類の石柱がほかにも2、            3 発見、出土している現状が見られる。)            AD1799年、フランスのナポレオン・ボナパルトのエジプト遠            征時にエジプト、アレキサンドリア近接の湾港の町・ロゼッタに収            得されるかたちで発見される。            3区分のテキスト部分はそれぞれ欠けているが、ヒエログリフ部分            は表示の部分を大きく占めるものとなるが、3様式の全体的テキス            ト内容ではその70、80%ほどをキープしている。他にタイトル            的表示や、装飾レリーフ、刻記年月日などの部分があったと推定さ            れ、タテ1.5m内外~2.0m以内の規模となるとみられる。            のちに同類系の別々の石柱碑が見つかり、それと比較されての推測            となるが、、、。            (発見された石碑の実際の寸法は、最高114x最巾72x最厚28cm、            重さ760kgのものであった。)          **1799年7月15日の<ロゼッタ・ストーン>発見から、その石            碑文解読までの1822年代及び、それ以降のさらなる進展まで、            そのストーンに係わり纏わる、人、社会関係での史実的ストーリー            が幅広く展開されるものとなる。            このストーンの現在状況は、大英博物館に永久展示保存される定め            となっている。それは1802年6月の展示、それ以来からのこと            である。            フランスとイギリス・トルコ連合との交戦で、フランス軍降伏後、                英国将軍と将校らと英学者らと計って、密かにアレキサンドリアか            らイギリス・ポーツマスに運び込まれた1802年2月以来、本国            イギリスでの学会(ロンドン考古協会)の対応は速かった。            その年の内にストーン碑文面をそのまま版木にする技術が考え出さ            れ、それらを写し取った複製版テキストができて、ヨーロッパ中の            各大学、学者らが目にする機会をえるものとなった。これにより解            読研究への熱は高まり、その流れが加速してゆく。            一方、発見したフランスの方は、また、石碑がイギリス側に渡って            しまう前、1800年にカイロに運ばれていたストーンへの調査と            研究、取り扱い対応を任された科学芸術委員会のメンバーらが、同            様にストーン碑面を版木となす方法を考設して、刷紙複製版を何枚            か作製して、本国フランスに持ち帰っていたので、イギリスよりも            一足早く解読研究へのあゆみが始まっていたと見られる。                **このロゼッタ・ストーンの解読研究のあゆみを契機に、19世紀中            葉前後にはいっきにエジプト学、エジプト考古学がオリエント学の            重要な部門となり、古代エジプトの歴史研究が掘り下げられるもの            となってゆく。 BC  30年頃 クレオパトラ7世が自殺し、アレキサンダー大王後に係争分立して            続いたプトレマイオス朝エジプト王国は滅亡する。          これよりエジプトのほぼ全域がロ-マの属州の一つとなる。            /////////------E・O・PS------/////////  【古代資料について】次ぎのものが古代エジプト史の基礎、参考研究ベースとなっている。       ・・①Den seal の 印影   (第1王朝期からの出土)*第1王朝のアビィドスでの                 デン王の墓から円筒印章出土、その印影のもの。ナルメル                 からデンまでの5人の王をホロス名形式で表わされている。  ・・②パレルモ ストーン (第5王朝期からの出土)*残存の7つの断片のうちの一つ。                 元々の大きさは、それらの断片を合せたよりはるかに大きい                 ステラ形式のもの。約巾2.1mx高さ0.6m                 テキスト内容は、第1王朝から第5王朝初期頃までの諸王の                 年代記的リストで、主な出来事が付加されている。                 (7つの断片の最大のものがイタリヤのパレルモの博物館に                 展示保存。発見場所、発見経路の判明しない代物である。)  ・・③ギザ キング リスト(第6王朝期からの出土)*ギザのマスタバという形式の墓の                 発掘で発見。スギ材のボードと石こうボードによるライティ                 ングボードに3色のインク(赤、緑、黒)で色書き描かれて                 いる。テキスト内容は五つのチャプターに別けられた様式。                   ・・④南サッカラ ストーン(第6王朝期からの出土)*特質のある玄武岩製の厚板、テキ                 スト内容は第6王朝の5人の王の年次イベントなどだけ消さ                 れず残る。(第3代目の王の王妃の埋葬時の再利用のため)  ・・⑤カルナック キング リスト (第18王朝期のもの)*石灰岩壁に刻字、知られうる全般か                 らのセレクトされたもの  ・・⑥アビィドス キング リスト  (第19王朝期=セティ1世)*石灰岩壁に刻字、第1中間期欠略  ・・⑦ 同じく      (第19王朝期=ラムセス2世)*石灰岩壁に刻字、セティ1世の                 ものをベースにセレクトアレンジしたもの  ・・⑧サッカラ キング リスト(第19王朝期のもの)*石灰岩へのカービング、第1王朝期の                 王はほとんど刻まれず。その頃、サッカラでは知られなかっ                 たからであろう。  ・・⑨チューリン キング リスト(第19王朝期のもの)*パピルス本で、損傷が激しい、完本で                 残っていれば、他のリストよりも有益であったと見られる。  ・・⑩マ ネ トー の「エジプト誌」(プトレマイオス王朝期BC3世紀)*原本、写本なし、紀元後の                 要約本、引用文、言及文等のみ。         **上記のほかにも、“ピラミッド・テキスト、コフィン・テキスト、死者の書”や        文学風な説話物語の“ウエストカー・パピルス、”これの内容は、第5王朝期に        すでにあったとされる。しかも第4王朝のクフ王のエピソード伝説とされ、物語        の主人公ともなっている。しかし、このパピルス文書の出所は、まったく定かで        ない。つまり、発掘とかで発見された云々の、考古学的にその出所が明らかにさ        れたものではない。         ==以上にて、内容的にまだ不十分ながら、追加の余地が有るほどですが、、==

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0402317