古代ローマ皇帝年表:
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          ローマ帝政期の皇帝年代記 及び その後の年代関係
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            《=序説:ユリウス・カイサルからアウグストスへ=》
        ローマの共和政末期、そのBC1世紀というローマ世界の時代の期間のうちに何か特別な時代の       節目か、流れの新摂動がうずいていたのか、、その世紀には、80年代にガイウス・マリウスと       コルネリウス・スッラの両者による対決内戦、その後、年を経て、再び49年~45年にはユリ       ウス・カイサルと、グナエウス・ポンペイウスの2大勢力がぶつかる内戦ともなる。、、、、、       共和政という体制下での貴族階級らの元老院と、民衆市民レベルからなる平民会(兵士や下級騎       士らも属した)といった政治上の社会的仕組みがある中で、かくも互いに皆々が、予断を許さぬ       ほどに権力抗争、生存闘争に気を使い、切磋せねばならなかったというものであろうか。民衆と       元老院議員の双方からの称賛の誉れ、人気や地位などの社会的価値と不可分に係わり、その名誉       栄達か、没落衰退かの命運をも単直身近に左右するものとなろうが、、、。       共和政の仕組み体制の狂いか廃れ、或いは軽視不尊の乱れが、共和制綻びの末期を自ずと招くよ       うなものとなり、二度、三度と、内戦を繰り返すなかで、有力な、或いは共和政初期以降、長く       続いた名門貴族(パトリキ)らが、この時代の趨勢において、次々に没落、消え去る運命ともなる。       ユリウス・カイサルが勝ち残ってその頂点に至った頃には、そう云った元老院議員の有力氏族の       半数以上が、その時代と共に消えていったか、或いは低落してその政治的影響力や指導力をまっ       たく失うかする以外に、その有能さを発揮できないような状況となっていたようである。       BC46年、カイサルは、内戦に勝ちを収め、もはや反対の意を唱える者も無く、非常時の事態       政策の便のため独裁官(ディクタトル)に就任する。しかも10年という長期に亘る期限付きを表し       てのものであった。しかしながら、この時点では、いまだ暗殺されるという事態、或いは誘因と       なるようなものはなく、その様相の気配状況は見られなかった。       ところが、翌45年になっても、元老院派の有力残党が、属州ヒスパニアを占有したかたちで巻       き返しの勢力となり、内戦最後の討伐平定戦へと向かうことになる。       それは、3月中旬頃、ムンダ(現オスナ)近くの平野での相当兵力規模の大きい、激しい戦闘会戦       (ムンダの戦い)となる。カイサルはこの折り幸いにも、敵軍自体の戦術的動きの判断ミスによ       り、運よくこの会戦に勝利するが、さらに州都ゴルドバだけでなく、敵に与したヒスパニア全域の       あちこちを平定して、ローマに凱旋するという軍略情勢の時を経なければならなかった。       その年、その帰還後、ただちにローマの国情体制、治世制度を全面的、多方面にわたって見直す       改革に着手し、自らの立場も、10年期限付きの独裁官から<終身独裁官>の就任への切り替え       を計り得ている。(元老院議員の増員600人から900人へ、カイサル支持派が大多数となることで       その終身条件が成ったと見られる。)       だが、かってのポンペイウスを中心とした元老院派(旧閥族派)がいなくなったが、長く続いて       大いなるローマのいしずえ、繁栄をもたらした<共和制>を是とする元老院議員、共和制信奉者       が数十人、或いは支持に傾く議員も含めて、百人近くは残っていたようであった。       彼らの内の主要なメンバーらは、独裁官カイサルの独占的な政策決定、実施の数々に対して、ひ       どく政治的疎外感に駆られ、共和制廃絶、有名無実化の危機感を覚えるしかなかった。       (元老院での議事進行は、カイサルの政策案件の提示に対して、ただ単に承認と賛同の拍手喝采       の場と化すといった議場に過ぎなくなった。もちろん賛同の賞賛意見が、花を添える如くに弁舌       よろしくなされ、また、たまには反対に異議を唱えて、勇気ある反論的意見を述べる者もいたで       あろうが、、、)       危機感を抱いた共和制主義者等は、カイサル暗殺を計画するものとなる。彼らは、ポンペイウス       劇場での元老院議会開催を画策、本来の元老院本議場が不祥の血で汚され、染まらないように、       また、ポンペイウスの弔い報復をも兼ねて、、、その計画は、44年3月15日に決行された。       (本来の元老院本議事堂の建物は、リニューアル工事中、これも暗殺計画を有利な立場で、事を       運ぶ上で、またその事後の処断を考えての策の一つであったであろう。)       カイサルに関しては、若い頃から、またかっての独裁官スッラに追われ、ギリシャ(マケドニア)、       小アジアに亡命した折などに、より一層、アレクサンドロス(大王)に親しみを抱いたかも知れ       ない。アレクサンドロス伝記の書などもその当時、BC1世紀頃には有名なものとして流行って       いたから、同年齢代のある程度裕福な若者の間では、結構話題となり、それらを教養の糧として       読んでいたことであろう。       (ギリシャのある都市だけでなく、ローマでも、書物の出版業を生業としているブック刊行屋が       あって、アレクサンドロスの伝記物、書物がけっこう金儲けのネタになっていたという経緯もあり、       ローマの民衆市民レベルでの世相趨勢も、ローマからの大英雄、ギリシャのアレクサンドロス大       王を凌駕するほどの英雄の出現登場を願望するような傾向が少なからず顕著になっていたと見ら       れる。それは、ポンペイウスの凱旋式だけでなく、カイサルの最後の華々しい凱旋式での盛り上       がり状況からも、共和制終端期でのピークとして推察できることであろう。)       アレクサンドロスの名を口にも出さなかったカイサルではあったが、若い頃から胸中、こころの       内に彼の事柄を意識していたことであろう。       財務官としてヒスパニアに派遣された折り、そこで大王の像を見て、つぶやいた言葉、“アレク       と同じ年令に達しているのに、自分はまだ何もなしえていない”と、自分の心の内を吐露してい       るのだ。カイサルは、当時の趨勢として、過去の偉大な人物と崇敬されるアレクサンドロスとは、       自分の意識の内にいつしかイメージされるかたちで、直接、間接、結び付いていたと思われる。       (アレクサンドロス、ギリシャ神話の書・イーリアスは、トロイ、トロイ陥落の故事、そして       ローマ創成の故事が、それに直接結びつく係わりをなしている。)       財務官になった直後の頃(69年BC)かっての義叔父マリウスの妻になった叔母ユリアの葬儀で       の哀悼の辞、その表明演説で、ユリウス氏族の始祖が、トロイ伝説、トロイ陥落時の王族王子・       アエネーアスが息子と共に落ち延びた末に、イタリアに来着したとの故事、わが氏族はその息子       ・アスカニウスの直系子孫なるを語り表しているのだ。そして、くすび切っていた義叔父マリウ       スの像を英雄視されるべき存在として、あらたに表敬設置するといった、アイデンティカルな思       いを込めた行動、振舞いをなしている。さらに       これがまた、のちの46年に独裁官になった時点で、先の54年以降から建設の下準備をなして       いたフォルム(公共広場)の建設が、内戦の状況で思うように進まない状況にあっても、その年       の9月末頃には、フォルムの奥に位置した、ユリウス氏族の始祖ゆかりの<ウェヌス神殿>の完       成だけは成し遂げている。このウェヌス神は、Venus=ヴィーナスのラテン語表現で、ギリシャ神       話の女神アフロディーテと本来同一とされている。       イタリアに来着したトロイの王子アイネーアスが、そのアフロディーテを母として産まれた(ト       ロイア王家始祖トロスの三人の息子のうちの一人の系統の孫であった父・アンキセースと交わる       ことで)という伝説神話に根ざしている。       伝説はその後、イーリアス戦争、かの木馬作戦でトロイ陥落、城から脱出後のアイネーアスの新       たな永住地を求めての漂泊の旅、カルタゴ経由で遂にイタリア来着の故事へと続くが、その子孫       がローマ人であり、とりわけガイウス・ユリウス氏族の母神、祖神と目されてのウェヌス=アフ       ロディーテというわけで、カイサルがその神殿を建立し、彼女ウェヌスに奉献され、祀られる所       以となっている。       (因みに列柱廊付きの建物を要したフォルム全体の完成は、後継者オクタウィウス=アウグストスが引き       継ぐことで進められ、彼によりそのすべての完成に至っている。しかし、のちのトラヤヌス帝の       フォルムが北側西よりに隣接して建設されているが、それは、カイサルのものよりも数倍も広い       ものとなっている。)       (イーリアスなどの叙事詩での神話の時代取りでは、トロイの最後の王プリアモスと、その王子        パリスやヘクトルと同時代で、王族傍系のアンキセースとその子・アイネーアスと、その彼と、       プリアモス王の娘の一人との間にできた子・アスカニウスの故事ということになる。)       カイサルはこのように自分直系のユリウス氏族の伝承のゆえに、非常に精神的な高揚をうちに秘       めたる存在であった。それ故その英雄的精神にあっては、つね日ごろから大王アレクサンドロス       を越えるべきを、自らの目標指針としていた。だが、才を重ねるうちに、いつしか初老をむかえ       るような時となり、そのビジョン姿勢を、いつしか暗黙のうちに後継者に転嫁するような立場と       なっていった。       これはまさに、彼が、アレクサンドロスの父・フィリッポスに自分自身を比定しているとの意識       付けをするような意味あいのものであった。アレクサンドロスの世の治世は、短命で残念なことで       あったが、その後の後継時代については、まったく評価したくないものだと感じていた。       大甥のオクタウィアヌスには、同じ年頃で有望にして堅実さの確かな青年・マルクス・ウィプサニウス・       アグリッパを側近助け手、兼親友となるを以て、充てがい備えていた。これは、アレクサンドロスに       最愛の親友、ヘファイスティオンがいたことの伝記に比定したもので、この者以外には、誰をも       彼の側近、随伴の仕官とするようなことは、カイサルの立場からは認めようとはしなかった。       カイサルは、腹を決め、たとえフィリッポス王の場合の暗殺がわが身に起ろうとも、覚悟して、       密かに後継者オクタウィアヌスへのバトンタッチの事にも万全を機していた。そのために彼への       内々のガイダンス、政策手法のアウトラインなど、書きとどめ、覚書として残していたほどでも       あったと推断されうる。       カイサルは実際に、大甥オクタウィアヌスをギリシャ大祭の競技大会に参列すべく送り出してい       るし、また、暗殺直前の数ヶ月前には、ギリシャ・マケドニアへの遊学に、彼を送り出してさえ       いる。その送り出しの際、何らかのアドバイスの言葉、申し渡しの覚え書など、あったと言って       も可笑しくない。(暗殺を予想しない時点では、東方パルティア遠征への下準備と心備えとも)       これらの彼の意向は、まさにカイサルのうちに潜むアレクサンドロス意識に根ざし通じた、そこ       からの表われ、振舞いでもあったと云える。        [注]:カイサルを含め、その当時の古代ローマ人らは、自分等の先祖起源およびローマの建国           起源について、その原伝承的な諸伝素類が、一つの纏りのある筋、体系的なストーリー           立ったものへと編容発展し、すでに<ヒストリア感覚でのローマの起源説話>として、           全面的に受け入れるものとなっていた。           このような進展傾向は、ローマの伸張隆盛への発展と共に自然と意図付けられる過程に           至るものとなったが、やはりひとえにギリシャの先進文化的な面での影響下で、ローマ           人自身の知的な意識、精神意識の成長が、自分等の過去へのアイデンティティー、先祖           の由来、創建伝えなど、その位置付け、方向付けを明瞭で確かなものとして提唱せんと           した流れを踏まえてのことであった。                      具体的に言えば、ミュートス(Mythos)感覚からヒストリア(Historia)感覚への意           識的シフトアップという事になるが、これには、ギリシャの歴史家の祖・ヘロドトスの著           書『ヒストリアイ』などの影響力が大で、加えてヘレニズム期での<アレクサンドロス大王>           にまつわる記録伝書など、その知的な啓発性は否定できないものである。その結果、、           紀元前以来、ローマの最初の歴史家・クィントゥス・ファビゥス・ピクトル(BC254年頃~200年           以降まで)が、その教養学識の影響下から出て、ローマの歴史を手がけている。           彼は、丹念に調査、探索することで、遠い過去の初源、起源な出来事とから始めて、同           時代的な出来事(BC225年ガリア人との戦い、カルタゴとの第二次ポエニ戦争)に至るま           での主要事柄を、ラテン語でなくギリシャ語で体系的なローマ史として書き綴ったとさ           れている。(紀元後3世紀前後までに写本を含め、散逸してしまっているが、、)           彼のその史伝的な試みの書典により、ローマ創建、建国への事蹟過程が史的なものとし           て初めて系統付けられるに至っている。           トロイの陥落直後、その王族系に属するアイネーアス一家が落のび、漂泊の幾多の末、           イタリアの地に来着、という<古い伝えの故事>を取り挙げ、それへの関連付けを創作           的な明瞭さをもって書き記すことで、初めて筋の通ったローマ創建の史的起源譚を体系           化している。また、ラティウム伝説があって、それをアイネーアスに当てたとも、、。           (ホメロスの叙事詩:イーリアスとオデッセーィアでは、アイネーアスの人物事蹟等は、           何も表記されていない。イーリアスの中で、部将の一人として、その名が出ている程度           である。ともかくアイネアス伝説をローマ創建史の初源に結びつけたのは、クィントゥス・           ファビゥス・ピクトルが最初であった。           ヘロドトスの著書<ヒストリアイ>との年代比定が出来ないが、ペルシャ戦争の遠因をペルシャ           側の識者から彼が聞いたその記録からすると、フェニキアの船商らがアッシリアやエジプトの品           々をギリシャ、イオニア各地で交易売買した前10世紀後半以降を目安として、前9世紀後半から           末頃にトロイの王プリアモス、王子パリスの時代、およびトロイ戦争とその陥落の時が           起ったという彼の年代想定がその記述内容から推定されうる。)           その後さらに時代が下り、ローマ帝政期に至ると、初代皇帝アウグストス治世時には、           ティトゥス・リウィウス(BC59年頃~17年)が、あらたに全142巻から成る大著書、              『ローマ建国史』をラテン語で、後半生をかけて著わしている。           (上記クィントゥス・ピクトルの書は、ギリシャ語であったが、ラテン語全盛への前触れと           して、この書に取って替えられるものとなる。1-10巻と21-49巻だけが残存。)           また、ほぼ同時期にプブリウス・ウェルギリウス(BC70-19年)が、ローマ創建、建国史           を踏まえた上で、ラテン語文化文芸の最高傑作とも称された、叙事詩『アエネイド』           を著わし、ホメロスの2大叙事詩の継続を意図する観を醸すような時代の流れを見せ           ている。(12巻からなり、人生最後の29-19年BCの11年を掛けての遺作)           (英語のHistory=邦訳<歴史>は、ギリシャ語のHistoriaを語源として英語の言葉           用語となったものだが、本来ギリシャ語のHistoriaには元々から“歴史”という意味           概念をを表わし有するものではなかった。           ヘロドトスが自著に、その語を書名として名打って以来、その著述内容と共合した書観           印象や、学研感覚から、その語に“歴史”という意味感覚のニュアンスが生まれ、自然           と含一なものとなり、その意味概念の専有化のごとき用語となったとみられる。           ミュートス<Μύθος=Mythos>:語り伝えられるもの、物語、伝説、伝承、説話、神話                          などの諸般的なカテゴリーで、事実を語るものなのか、                          虚構のものなのか、混淆とし、判然としない感性感覚                          から、、、           ヒストリア<Historia>:史実的な学究感性、史的意識感覚への目覚め、発展への端                        緒として、その意義は大である。)                     ギリシャ語<ἱστορίαι=historiai>は、文法上では女性名詞の複数形、単数形は、           <ἱστορία>、関連する動詞の原形は<ἱστορεω>となり、その意味は元々、=調査、探           索する、調べて知る、訪見する、見学に行く=とかの、知見探求的な行動を表す言葉で           あった。                                             ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                              B.C. 27年 アウグストス 在位-AD14年まで                          (BC63年9月23日生/AD14年8月19日没:77歳)           **彼はBC44年暗殺されたユリウス・カエサルの姉の             孫にあたる血筋の者。(姉の娘・アティアの子)             大叔父カイサルの死去時、若干18歳の若者であった             が、カイサルの遺言により、遺産継承者の立場に遇せ             られ、彼の志し、意向路線を引き継ぐものとなる。             おそらくカイサルは、政治的指針、プランビジョン、             対元老院における政略ノウハウの手引書など、書き記             し、いつ何時でも若い大甥に託せるように備えていた             ことであろう。それだけカイサルは彼へのひそかなる             後継者としての期待と思い込みが深かったとも。             後継者オクタウィアヌスは、そのガイドラインを参考             踏み台にして、軍事的にも政治的にも、その権力的頂             点へと、巧妙なまでに勝ち進み、登りつめるものもの             となった。暗殺者グループらの征討目的の内戦を乗り             越えなければならなかったが、、、                        **31年              アントニウスとの対決で、アクティウムの海戦で手堅             い勝利をおさめ、続けてその直後にはエジプトの制圧、             エジプト・プトレマイオス朝の終焉となり、BC30年             からその地は、ロ-マの属州となった。    A.D. 14年 テベリウス 在位-37年             (BC42年11月16日生/AD37年3月16日没:78歳)           **AD31年からアウグストの尊称を継ぐ、彼は、先の             帝王の実子ではなく、三番目の妻リウィアの連れ子で             あった。(連れ子は二人、テベリウスとドルススの兄弟)             彼は先の帝アウグストの最終的な養子となり、その後             継の立場にあったが、アウグスト死去時の遺言により             帝位を継承したという。             (彼にはガイウス・ユリウス家系のアウグストスとの             直接の血縁関係は全然なかった。)           **彼以降ネロ帝までの四代がユリウス・クラウディウス             家からの皇帝である。(先のカエサルとの血縁関係の             繋がりは、孫々において断、復をなしている。アウグ             ストスの姉一人系と、アウグストスの実娘一人系の両             方からの血縁関係が見られるのみである。)           **ポンティオ・ピラトがユダヤの総督に赴任したのは、             彼の治世の第12年、AD26年の時であった。           **彼の治世の第15年、洗礼者ヨハネと主イエスの出会いか             らの公生涯・<神の国・福音>宣教の始まり(ルカ3:1節~)         37年 カリグラ 在位-41年             (AD12年8月31日生/41年1月24日没:28歳)             彼は自らの側近を殺してまでも国費を浪費した。           **彼の父は、テベリウス帝の兄弟ドルススの子・ゲルマニク             スであり、帝政初期の最も有能な将軍であった。             そのゲルマニクスの弟・クラウディウスがカリグラのあと、次ぎの皇             帝となっている。             (父方の系譜からはアウグストスの妹の血筋系であり、             母方系では、母の大アグリッピナにより、アウグストの娘             の血筋系のものとなる。)           **彼には、男兄弟はなく、妹が一人だけ、のちの5代目             皇帝ネロの実母の小アグリッピナ(ユリア・アグリッピナ)で             ある。         41年 クラウディウス 在位-54年             (BC10年8月1日生/AD54年10月13日没:64歳)             彼は前々帝テベリウスの甥にあたる。テベリウスの兄弟             ドルススの子である。           **彼はかなり有能な皇帝であったらしいが、AD49年             ユダヤ人をすべてローマから追放した。             64歳で没(毒殺説ありで、後妻の妃アグリッピナに             よるとされる)         54年 ネロ・クラウディウス・ゲルマニクス 在位-68年             (AD37年12月15日生/68年6月9日没:32歳)             彼は母方の血筋で、アウグストスの娘からの系譜で、             母親の(小)アグリッピナが、先帝クラウディウスと             結婚(後妻として)することで、その養子となる機会             を母親を介して得た。           **母親(小アグリッピナ)との関係から、権力への疑心暗鬼             に取り付かれ、母親をはじめとする身内の者ら、側近             らを殺めるといった悪行に至り、元老院からの支持を             全く失うものとなる。(59年~60年代の治世後期)           **64年ローマの大火、その後キリスト教徒へのネロの             迫害、             (彼の大火罪業の隠蔽転嫁としてなされたという。)             65ー67年頃の間にパウロ、テモテ、テトスが殉教             する。             暴君ネロはロ-マの大火の後、68年元老院、有力者             らにロ-マから追われ、市外で自ら命を絶つ。(32才)         68年 4人皇帝の時期、 68-69年の約1年間。             元老院の権力が強くなってきた時代で、強い反ネロ姿             勢となった元老院が、遂にガルバを皇帝に擁立する事             態に直面するや、ネロは、自らを擁護する親衛隊もな             く裸同然にローマ郊外へと逃亡、ほんの一時ほど解放             奴隷パオラの別荘に隠れるも、もはや自らの運命と見             定めて自害するに及ぶ。             ガルバ ➡ オト ➡ ヴィテリウス ➡ ウェスパシアヌスと             次々に皇帝が入れ替わる1年となり、その間の時期に             は国内に内紛、動乱があり、その最終的な平定者が、             元老院からの権威ある承認を得ることで、真の帝位に             推挙される。             --ウェスパシアヌスは、その折り自分の軍団からも             ほかの2、3の軍団からも帝位への熱い支持を得てい             た。彼はローマ市内での内紛の恐れ有りと見て、急遽、             ユダヤ平定の任を息子ティトスに委ね、東方シリヤか             らローマに戻り、事の状況に対処した。         69年 ウェスパシアヌス 在位-79年(6月23日没)             ガリアとゲルマニアの反乱を鎮定した後、AD66年来             ユダヤは反ローマ、親ロ派に分かれての争いが激化、             反乱状態になったユダヤに遠征し、エルサレムを占領、             反ロ-マ勢力を鎮圧した。             (彼の子であり、その帝位の世襲者となったティトゥスが             彼と共にその任にあって直接陣頭指揮した。)           **エルサレム陥落=AD70年、ユダヤ人の離散、             キリスト教会の中心もアンティオケに移ることになる         79年 ティトゥス 在位-81年(9月13日没)             彼は、ユダヤ反乱の際、アレクサンドリアから自軍の             軍団レギオを率いた。父ウェスパシアヌスが帝位への             任勢のためローマに向かった折には、全指揮権を任せ             られてエルサレム征圧を完遂する。           **彼の時代、AD80年にウェスウィウス火山の大噴火             でポンペイ市とその他が埋まり、廃墟となった。         81年 ドミティアヌス 在位-96年(9月18日暗殺)           **ローマ帝国の領域を積極に拡大していった有力な皇帝             の一人でもあった。             初代皇帝アウグストの治世代の中葉からテベリウス帝               の代に中東欧方面パンノニアやモエシアがローマの領             域に組み入れられたが、モエシア地域に関してはまだ             堅固な属州(AD14年頃以来)として定まった状態では             なかった。属州マケドニア、トラキア方面からも、パ             ンノニア方面からも、丁度中間的な地域で、領域国境             の防衛ライン確立守備するのに未だ困難な領域であっ             た。またその領域のドナウ川を越えた北方は異民諸種             族の生活する広大な領域であった。             彼の治世の86年、ドナウ川北方、ダキアの王ドゥラス             がドナウを越えて、南方のモエシア地域を取り戻すべ             く進攻してきた。             これに対して、ドミティアヌスは、モエシアに自らが             軍を動かし、ダキアン部族の進攻をドナウ川の向こう             に追い戻し、87年にモエシア属州を安定させるべく、             上モエシア、下モエシアの二つの州に分割改組した。             (この頃には、パンノニアからモエシアまでの軍事、             植民、交易用道路もよく整備されたものとなった。)             このモエシアの州政が整った87年を足場として、ドミ             ティアヌスは、川向こうのダキアへの将来的軍殖キャ             ンペンを開始する。             87年夏、最初に起用されたのはコルネリウス・フスクス将軍率い             る、5、又は6の軍団レギオがドナウを渡った。             89年にダキア王デスバルス率いるダキア軍勢との戦い             を同意終結させる和議がなされたが、ローマ側は、何             ら決定的な成果を得ることは出来なかった。                          (その後モエシアを拠点としたダキアへの新たな展開             は、トラヤヌス帝の治世までおあずけとなった。彼は             101年から106年にかけてダキアへ、粘り強く攻防を繰             り返したが、103-105年にかけて、ドナウに強固で大             規模な橋を構築することで、あらゆる物資、兵站の供             給バックアップを良くし、遂にダイアを制覇した。)           **彼はティトゥスの弟で、専制的な悪政へと傾き、自ら             を“主にして神”と仰がしめた。そして、反対派や、             反目不支持の多くの政治家、多くの貴族の者ら。知識             人を探り出し処罰、追放、弾圧してその批判を封じた             ので、反感を駆って遂に暗殺された。           **彼の治世15年の終わり、つまり96年頃、使徒ヨハ                ネはパトモス島に追放される。             (史家ユウセビオスによる)             -------------------------------------------------------             《五賢帝時代のはじまり》         96年 ネルヴァ 在位-98年(1月27日没)                           (五賢帝の最初の人)             彼の在位は、高齢での即位ゆえ、その期間は短かった             という、のちの歴史家の評価であったが、その当時の             60才代は、高齢と見なされていた。在位はその60             代前半で、65 or 67歳頃、病没する。             (96年10月1日の即位から1年4ヶ月ほどの在位)             彼は、ネロ帝の時より、政治家として立身出世を良く             し、その宮廷の実力者となっている。             ネロ帝が排斥され、自害に追いやられた後、暫時、4             人の皇帝暫定者による内乱が一年余り続くが、最後の             勝ち残った、ウエスパシアヌスが正式に帝位を確立す             ると、たまたま彼の親友であったゆえ、執政官に抜擢             される。その後、子の代のティトス、ドミティアヌス             と二人の皇帝時代にも執政官に叙任され、同様に宮廷             重臣として仕えている。             ドミティアヌス帝の暗殺後は、元老院でも経歴のある             実力者であったので、元老院の主導により、全会一致             の支持で、次期皇帝に選出されたと見られる。             皇帝暗殺は、元老院議員内の反皇帝派貴族らの策動に             よるものとされている。                        **ヨハネはネルヴァ帝の治世の初めに解放される。           ・福音書の著作年代:AD85ー90年頃エペソで           ・黙示録の著作年代:AD96年頃以降に成る         98年 トラヤヌス 在位-117年             彼は、ロ-マ出身の者でなく、スペイン出の人物で、             ローマ、イタリア本土以外での属州出身者が皇帝に在             位するのは、彼が初めての事となった。             (ヒスパニア属州の一植民市イタリカに住む元老院議             員の実息子として、、青年時から軍歴キャリアを積む             が、政治的にもエリートキャリアを、財務官、法務官、             91年に執政官へと歴任している。             その折々にまた、各地の属州総督をも歴任し、96年             からイタリア本土に近い、ほぼ隣接のゲルマニア・スペリオル             =上ゲルマニアの総督であった時、皇帝登位の機会が開か             れる。             当時のローマの近衛隊が、ある一件の事を介して強行             策の挙に出る。=宮殿包囲、ネルウァ帝をそのまま軟             禁、その処事問題解決後、ネルウァ帝は、近衛隊が強             力に支持したトラヤヌスを後継者に指名する以外、選             択の余地なく、実子の居なかった彼は、トラヤヌスを             養子に迎え入れ、帝位の継承者に定めた。)             彼の時代にロ-マは、最大の版図に達し、内政は良き             施策を実行し、公立の学校なども建てた。           **彼が、下モエシアからドナウ川を越えた北方地域のダ             キアまで領域を安固確定的に広げたが、これにはドナ             ウ川に非常に堅固で頑丈、立派な橋を架けたという経             緯により、可能となったものであった。             (103/4~105年の築造構築工事)                          この橋の建設により、北方の異民族も驚嘆、度肝を抜             かれ、焦燥し、戦う意欲を削がれ、降伏脱帽する他な             かったと見られる。また、             それと共にローマの文明技術の偉大なるを知らされ、             先住土着の民らは、ローマの領域内に自由に住めるな             らば、どんなに幸いかと思うほどになったとも。             当時としては、最高度な土木工事技術、水中下での構             築技術が駆使されてのものであった。             全長:1.1km余、高さ:水面上からの橋門は45m、             同じく橋上路床面まで19m、             両サイド欄干からの外形幅:15m余りで、その実質             通路幅は12m以上はあったと見られる。             橋脚工事は、スパン幅57mほどの間隔で、ローマン             コンクリートが流し込まれ、水中下に20体ほど設造             された。             両端のそれぞれの橋門でのワン・スパン巾は、30~             40m内外のレイアウトであったと見られる。             (広い川幅がどれほどの距離か、測り認知するのも大             変な事である。おそらく、水深を測りながら、長い竿             のような物、長槍に類した物を水面下の川床に突き刺             して、遂次的に測っていったものであったろう。)             橋脚の上は、堅ろうな木材によるアーチ型の橋げたが             組まれてのものとなった。             橋脚間上に組んだアーチの内のりスパン巾は、38m、             1km余に延びた橋姿は、実に壮観なものであったに             違いない。           **イレナイウスによるとヨハネは、トラヤヌス帝の治世             までエペソに在住していたという。             AD100年頃死去。             (エペソの南よりのエーゲ海が見渡せる丘には、聖母             マリヤの住んでいた家があったとの事、伝承にて伝え             られていたが、近年情報では、それらしきものが発掘             発見されている。ヨハネがマリヤを伴って、エペソの             地に移ってきたとの事かも。)                      **イグナティウスは、ヨハネの弟子の一人だった。        117年 ハドリアヌス 在位-138年           **彼はロ-マの版図を守るべく、平和政策をとって国境             を整備し、ゲルマニア、ブリタニアで防壁を築いた。             国境守備隊には現地人を多く徴用した為3世紀になっ             てその辺境軍隊が独立的傾向を帯び、動乱をおこすと             いう結果を招く。また法制、官僚制を整え、皇帝権を             一層強化した。(国境は征服領土化での帝国本意の線             引き国境であったが、、)             ギリシャ文明を強く愛好した彼は、アテナイ市の美化             にもつとめ、前六世紀以来、その建築が中断されてい             たオリンペイオン神殿を完成させた。        138年 アントニウス・ピウス 在位-161年             前帝の方針を忠実に継承し、帝国の平和維持に努めた             (161年3月7日死去。養子のマルクス・アウレリ             ウスは、彼の娘・ファウスティーナと145年に結婚             していたので、彼は、皇帝の後継者として確定されて             いた。)彼の家系は、初期のガリア属州(現フランス             南部=地中海側のイタリヤ北部からスペインに通じた             回廊沿い地方の諸侯貴族だったから、ガリヤ・ケルト             人系であろう。祖父の代にローマ元老院の地位を得て             いる。    161年 マルクス・アウレリウス 在位-180年             彼もギリシャ文明に傾倒し、自らストア哲学に親しみ             哲学皇帝として歴史に名を残した。彼には自省録とも             言われる ”瞑想録”という書き物の著書を残した。             厳格な倫理感を有した彼は、皇帝の職務にも忠実で、             自ら東方アナトリア域、ドナウ流域など東西の辺境に             遠征守備した。その治世の後半、10年余は外地国境             の諸要塞での戦時暮らしとなった。           **これら五人のすぐれた皇帝の時代(約60数年の間)             にロ-マは最もその繁栄と平和を実現し、帝国の版図             も最大限となった。             このロ-マ時代の文明は、ギリシャ文明を模範として             それを摂取し発展したもので、その結果グレコ=ロー             マン文明といわれる一大世界文明を形成することで、             インドや中国にまで知られる事、久しきものとなった。             近代初頭のルネサンスは、中世キリスト教精神に代わ             って古典文明を復活させたものだったが、それは主と             してこのグレコ=ロ-マン文明に相当するもので、ま             さにロ-マ人を通じてのギリシャ文明であった。             (ちなみにギリシャ文明の全盛期BC5世紀の頃、イ             タリヤ、ロ-マ地方の土着民の主要は農業民族で、南             方のギリシャ植民地からその文明の波を徐々に受けて             いった。)           **マルクス・アウレリウスの時代にはその繁栄、発展と             相まって国家財政の膨張と国庫の欠乏、そして地方属             州と中央ロ-マとの経済関係及びそのしくみの歪み、             弊害化、対応不能などによって、ロ-マ帝国にも繁栄             の陰り、衰退への兆しが顕著になってきた。        180年 コモドゥス 在位-192年           **彼はマルクス・アウレリウスの息子であったが、意志             薄弱にて皇帝としての才なく、ガリア遠征の機にも             その土着部族と不利な和平協定を結び、あわただしく             ロ-マに引き上げると、国庫を乱費し、剣闘士試合に             夢中になったり、反対する元老院議員を殺し、財産を             没収するなど数々の暴政をなしたので、暗殺された。        193年 セプティミウス・セウェルス 在位-211年           **前帝コモドゥス以後、各地の軍隊が元老院を無視して             都合のよい人物を皇帝に押す時代となってきた。             彼はその最初の一人で、パンノニアのカルヌントゥム             で、軍団から擁立され、即位への宣言をなした。             息子のカラカラもヴィミナキウム(上モエシアの州都)から、皇                 帝への推挙宣言を高揚した。             (彼はその支持推挙としては、三番目であり、その折             にはさらに他2人の対立宣言者があった。その四番手             ペスセンニウス・ニゲルとの帝位争いからは、ローマ帝国全域             に影響した大きな内戦へと展開してゆく。(193-197)             もう一人の有力者クロディウス・アルビヌスを共同者に引き入れ             た上で、勝ち残ったが、結局最後には、両者が激突す             ることになり、アルビヌスを破って帝位する。)           **彼は、前帝コモドゥス以来のローマの腐敗権勢を少し             でも一掃、立て直すために、元老院を含めた<内部の             人材改革>を断行したと、歴史的に評価される向きも             ある。             彼はパンノニア方面からロ-マに連れて来た、いわゆ             る奴隷扱いとなるようなイリリア人やトラキア人らの             粗野な農民を近衛兵にし、さらには前帝の有力支持者             や腐敗分子の元老院階層の人々を追放し、配下の武将             たちでもって、議員数を補充した。さらに一部官僚の             入れ替えも断行されたであろう。             これらの処事により、ロ-マ政府の人材に起因する非             ロ-マ化、東方、或いはその他への外部化が起こった             と見なす事ができる。             (カルヌントゥムは辺境北辺最大の要塞で、後の400年             頃、フン族の襲撃によって大火し、衰微した。)           **この帝の時、キリスト教徒への迫害があった。アレキ             サンドリアのキリスト教神学者オリゲネス(182年?-             251年)の父もこの折りに殉教している。        211年 カラカラ 在位-217年             前皇帝セウェルスの息子で、弟ゲタを共同統治の帝に             登位させている。(211-212年)           **帝国領内の全自由民にロ-マの市民権を与え、イタリ             ア・ロ-マと属州との差を無くさせた。これは広く市             民権を与えることで、相続税や奴隷解放税を徴集して             国の財源を確保したのではと考えられている。             また軍事費を増大させ、公共浴場なども建築したりし             たが、その経費捻出のために貨幣の質を落とす方策を             実行した。             彼の専制君主ぶりにあっては、弟ゲタをはじめ、反対             派を処刑するまでに至り、その結果自分も部下の近衛             長官方の一近衛兵に暗殺された。             (彼の暴政は、余りにも目に余るものであったから、             彼の暗殺を是とする者が多かったと見られる。)           217年 マルクス・マクリヌス 在位-218年             (217年4月11日-218年5月16日の在位期間)           **カラカラ帝の近衛長官に抜てきされたが、それは、前             セウェルス帝への忠義とそれに対する信頼を得ていた             からであった。加えて法律に明るい専門職的な官吏で             有能重宝な人材だったからと見られる。             だが、前帝とは何か異なり、皇帝の専横無尽ぶりに事             を下す性格には、側近としても危機感を覚えざるをえ             なかった。だが、帝の暗殺などを企てるような意図は             なかったようである。             ところが東方パルティアへの遠征での行軍、陣営途上             での事、思いがけない事態として、カラカラ帝刺殺事             件が生じた。近衛隊長であるマクリヌス自身の部下で             一人の近衛兵(ユリウス・マルティアリス)が個人的な恨みから皇             帝を刺殺したというものであった。この事態に仰天し             たが、自分に責任が帰せられ、また、陰謀暗殺の疑い             が掛けられるのも避けられないというもの、慎重、冷             静に対処して、仲間の有力者らの理解を得ることで、             この危機的事態を切り抜けることができたというもの             であった。           **彼の治世は、内外ともにかなり有効で穏健なものであ             ったが、軍隊、軍事関係で、いろいろな要望を満たす             事を怠り、かえって膨大化していた軍団軍事関係の経             費を削減した事から、軍団からの支持忠誠が遠のき、             不満のみが残るものとなった。             この状況に目を付けることのできた、かっての前帝カ             ラカラの一族関係筋からの陰謀への誘発を生むものと             なる。シリアに追放されていたカラカラの伯母ユリア             ・マエサが旧知の多くの支持を得た後、長女ソエミア             スの子・ヘリオガバルスを擁立して、その前帝からの             再興復帰への叛旗を掲げた。             財力、財有にも引けを取らない豊かさを誇っていた彼             女は、現帝マクリヌスの征圧軍と、アンティオキアの             地で対決するも、根回し良く先に彼の軍団内への裏切             りの策謀工作をしたらしく、             その双方の軍団衝突のさ中、帝の軍団自体からの大規             模な裏切りの反乱に晒され、思わぬ敗北を帰する。             共同統治の地位にあった息子・ディアドゥメニアヌスも、父帝             とは別々に分かれて、イタリア本土に逃れんとしたが、             それぞれ厳しい追っ手の目をかわすことが出来ず、命             運尽きるものとなる。             (マクリヌス帝は小アジア・カッパドキアを抜ける道中で、             息子は他の地域で殺害されたと史料は録している。)                   --------------------------------------------------           **この時期から各地の軍隊が皇帝を擁立する傾向となり             皇帝は、皆、地方色の濃い属州軍隊に依存する軍事的             独裁者となって、ロ-マ元老院の権限も都市の自治権             も次第に衰退してゆき、一時期、内乱と無秩序の末期             的状況を呈した。             とくに235年から285年の50年間は、ことさら             無政府状態の様相が相次ぎ、入れ代わり立ちかわり、             26人もの将軍らを擁立、廃位する様を繰り返した。                          以下の二人の皇帝は、軍人・将軍関係の者ではないが、             この二帝擁立の時期過程を経ることで、軍団および軍             属の将軍、要人らが元老院の意向の如何によらず、皇             帝権を占取してゆくことになる。        218年 ヘリオガバルス 在位-222年                    (本名:バッシアヌス-Bassianus, 203-222年)           **彼の母ユリアは、セウェルス朝一代目セプティミウス・セ             ウェルスの妻であった皇后ユリア・ドムナの姪にあた             る血筋関係からして直系ではない。             しかし、母ユリヤは何故か、カラカラ帝の実子だと主             張している。(お落胤が実か、僭称かは不明)これは             明らかにセウェルス朝復権のための策謀であるとの見             方が歴史評価の大勢である。             出生地は、シリヤ属州のヘメサ(現ホムス)である。           **わずか14才ほどの少年帝に一体、どんな執政ができ             るというものか、実権を執って、摂政まがいに後見す             るのは伯母ユリア・マエサと母のユリア・ソエミアス             の二人の女性であり、彼を支持する取りまき仕官連中             がこれに従事するほかなかったことであろう。             彼のなした行政的なことは、シリアから従ってきた神             官らが自分たちの宗儀信仰をローマで大々的に執り行             うように神殿を建て、ローマの宗儀、宗教慣習を自分             らのものに吸収改革するようにさせたことぐらいであ             った。(彼らのご神体、天から賜ったという大きな黒             い石をシリアからローマに移送して祀っており、また、             祭儀の大祭には、6頭立ての豪勢に金銀祭飾したチャ             リオットに乗せて行列パレードをするということも催             している。)                          彼はローマ史上、最悪、最低の愚劣な皇帝であったと             評されている。人格的に未成熟で、何か幼少時期に異             様な環境の中で、例えば神殿の巫女らに取りまかれ、             神官らの卑猥な戯れ事にも慣れ親しむものとなって、             育てられたとかで、、とにかく青年期への直前に性的             放縦にはまり込んだら、やりたい放題の性的倒錯まで             至るほかないというものであろう。             また、それになんでも好き勝手にできる身分であった             がゆえに余計、大仰なものとなったというほかない。             さらにまた、自分が思いがけない皇帝の位にあるとい             う事で、いつ命を奪われるか、暗殺されるか知れない             という心身的不安が、自らの愚行、愚劣さの動機にな             っていたというものかも知れない。              **ミトラ教の至高神ミトラスが太陽神に化身したとして             のその尊称名ヘリオガバルスの名を彼自らが名乗るも                 のとなる。             (ヘリオスとガド・バアルの合成語⇒ヘリオガバル(ス))             彼はローマでの正式官職の神官の地位やその候補にあ             ったというわけではなく、ただ単に一族の伯母マエサ             の経営するシリア土着の有力神殿で幼少から神官育ち             に養育されたということだったと見られる。           **シリヤの太陽神ミトラ教をローマに持ち込み、ローマ             帝国の国教並みの宗教への布石を据えるものとなる。             後の皇帝ディオクレティアヌス帝(在位284-305)が、             正式に《無敵の太陽神ミトラ》として、ローマ帝国の             最高守護神化を計り、奨励する事で国教となすに至る。        222年 アレクサンデル・セウェルス 在位-235年             影で実権を握る女性実力者ユリア・マエサが先に帝位             させたヘリオガバルスの執政力に欠け、不甲斐なさ、             倒錯的性放縦に狂い、政治意欲の無さに落胆して、彼             を退け、もう一人の孫で、従弟となるバッシアヌス・             アレクサンデルを帝位に即ける。彼のまた14才ほど             の少年皇帝であった。           **マクシミヌス・トラクスによって暗殺される。           ---------------------------------------------------             <軍人による皇帝権の時代>             =============            ●マクシミヌス・トラクス(在位:235年-238年)           **238年頃から西ゴ-ト族はダキアに侵入し始めた。             まだ、ローマ軍との全面的衝突はなかった。            ●マルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・ピウス             (ゴルディアヌス3世)(在位238年-244年)            ●フィリップス・アラブス(在位:244年-249年)             (マルクス・ユリウス・ピリップス)             前帝ゴルディアヌスの近衛長官で、ペルシャへの遠征             戦役で、前帝の敗死後、帝位を継承する。             息子のフィリップス2世を後継者に定め、共同皇帝に             任位する。                **父帝フィリップスが帝位簒奪を目論むデキウスに敗れ、             戦死すると、子の2世フィリップスもローマで近衛隊(プラ             エトリアニ)により、処刑される。                        ●ガイウス・メッシウス・クィントゥス・トラヤヌス・             デキウス(在位:249年-251年6月)             デキウスには中央ローマでの政務官職の経歴があり、             232年コンスルを務めた後、プロコンスルとして、             233年から238年の間、下ゲルマニア、モエシア、ヒスパニア・タラコネ             ンシス(235-238) と各属州を治める総督を歴任、その             後、ローマ市と、その周辺近郊に役割限定された、特             にローマに直属した港(ポルトスorオスティア)などを含めた             警備、護衛、警察、そのほかローマ市の維持管理全般の             権限を有する高官(市長or知事?)の職(プラエフェクツス・             ウルビ、in 英では、uruban prefect)にあった。             245年頃、フィリップス帝により、ドナウ川の国境ボーダー             ラインの全般的防備の総指揮を任され、ゴート族の侵             入を押しとどめたが、それから間もなくの248-249年             にかけ、そういったドナウ地方の数ある軍団レギオの             うちの一軍団内の指揮官パカティアヌスがモエシア、             パンノニアからの兵を率いて、まずは帝領域簒奪の叛             旗を掲げた。             デキウスは、この叛逆を討ち崩し収めた後に、何故か             ドナウ流域の諸軍団からの支持、宣言により皇帝に擁             立されるといった経緯があり、この状況が避けられな             いと見て、現帝フィリップス・アラブスと対決、排除しての帝             位に就くものとなった。            **250年デキウスにより、キリスト教の全面的禁令に             係わる勅令の布告がなされる。             彼は、一応<軍人皇帝>時代の一人に数えられている             が、ローマの元老院議員でもあるという事から、その             時期としては異例の皇帝と見なされうる。             彼は保守的にあらゆる面で復古調を意図しており、元             老院の復興と(軍団勢力に依存しない)これによる皇             帝位の確立を望んでいたと見られる。                        **250年頃ゲビ-ト族もカルパ-ト山脈を越えてダキ             アに迫ってきた。(ダキアはバルカン側から見て、ドナウ川を             越えた向こう側の地域)           **251年デキウス帝、西ゴ-ト族と戦って戦死、この             時、長男の共同帝ヘレンニウス・エトルスクスも同じ             戦闘状況で戦死したとか、さきに小競り合いか、敵軍             偵察かの折り、待ち伏せにより、不意の弓矢急襲で射             殺されたとか、古代の歴史家記述史料により異なる。                        ●トレボニアヌス・ガッルス(在位:251年-253年8月)             先帝デキウス配下の将軍で、前々からモエシアの総督             の任にあり、かのダキアの戦いでは、彼は事前に巧み             に戦死をまぬがれた。デキウスの敗北、戦死により遠             征軍の混乱する中、軍団を掌握し、よって軍団からの             擁立宣揚により帝位につく。            ●アエミリアヌス(在位:253年8月-10月)             トレボニアヌスの腹心の部下で、モエシアの後任の総             督に任命されたが、叛旗してローマへと進軍する途上             に、ガッルス帝も迎撃の軍を率いて向かったが、自陣             営内で裏切り将校らの反逆に遭い、息子の共同帝ウォ             ルシアヌス共々殺害される。(253年8月)             アエミリアヌスはそのまま僭称皇帝として即位する。                         ●ウァレリアヌス(在位:253年10月-260年)             軍人皇帝が輩出される時代のさ中、異例の由緒ある元             老院議員一族の出身。デキウス、ガッルス帝の時に、             ラエティア、ノリクム州の総督の任にあったが、ガッ               ルス帝を斥けたアエミリアノスを討伐すべく、軍を率             いて、イタリア北部経由で南下、その折にまた、アエ             ミリアヌスは、その自軍内から兵士らに弑逆に伏せら             れ殺害される。よってウァレリアヌスが帝位する。           **ウァレリアヌス帝の最期は、ササン朝ペルシャ(シャープール1世)             ローマ領カッパドキアに進攻(256-259年)した折り、             そのペルシャ戦で、シリア北部エデッサの戦いで大敗             を帰し、敵に捕えられて処刑されたとも、そのゆくえ             は定かでない。             ただローマの皇帝が異民族敵国に捕えられ、帰らざる             者となったという事態は、その当時としては過去に遡             るも、かって前例の無い、前代未聞の事として受け止             められるものとなった。              ●ガルリエヌス (在位:253年10月-268年9月)             先帝ウァレリアヌスの子で、父との共同統治の帝に任             命されていた。             父帝がペルシャとの戦いで破れ、捕虜となった。処刑され             世を去ったとも(実は消息不明、敵方の遺体返却なし             では)その後は単独皇帝として統治。(260-268年)             **256年ウァレリアヌス帝とガルリエヌス帝はゲルマ             ン諸族と戦ったが、成果なくダキアを守ることができ             なかった。サルミゼゲトゥサの州都トラヤーナ兼要塞コローニ周             辺を死守する程度で、やがては属州ダキアからの完全撤             退に繋がる事態となる。(271年)             この時期260年代以降、ラインとドナウ川の間を繋ぐゲルマ             ニア防壁の防衛サイトも放棄、アラマンニ族の領域内             での居住を認め、代りに防衛の任を負わせた。             それでさらにゴート族の連合による大規模な侵入がド             ナウ中、下流域に向け広い領域で起ってきた。             (パンノニア侵出でのナイススの戦い268-9年も含めて。)             現バルカン半島全域にわたって、トラキア、マケドニア、モエシア、             パンノニアらの属州の諸都市が掠奪に晒された。さらに           **267~269年にかけて、黒海北岸からゴート族系               の大規模な船団による侵略に2度晒される。エーゲ海             の諸島やギリシャのアカエア諸都市にも略奪被害が及             ぶものとなった。この海から内陸部への侵略が、ナイスス             の戦い、その最終的征排戦となったとの歴史解釈説が             一つの見方となっている。           **ガルリエヌスの時は、内外両方面からの最も激しい国             難の時期となり、奮闘に奮闘を重ねるほどに努力する             も、領内帝国の安寧さは見えず、まさに受難の皇帝と             さえなった。             彼は、267-8年のゴート族連合侵入時のマケドニアでの一             戦(現地人呼称ネッソス川デルタ付近でのネッソスの戦い)で、             勝利した直後、イタリア北部で反乱に遭い、急ぎ帰還             するが、ミラノの近郊で、268年の夏、遂に不満と野心             に満ちたクラウディウス2世ゴティクスの手の者、一             将校により暗殺される。        268年 クラディウス2世(ゴティクス) 在位-270             彼は上モエシアを攻略した西ゴ-ト族をナイッススの             近傍で大いに打ち破り、(269年)しばらくの期間、ゴ             ート族らの侵入を押し止めた。(ナイッススの戦い)               **その頃。帝国の東方では、パルミラ市が女王となった             ゼノビアに率いられ、東方の諸州、エジプトからシリ             ア、小アジアのカッパドキアまで支配下に治め、パル             ミラ王国の分離独立の形成を見せつつあった。             (267年~273年)             また、帝国の西方では、ローマの一将軍がローマ皇帝             を僭称して、独立分離のガリア帝国の形成を成しつつ             あった。(260年~274年)             これも初めのうちは、頻繁に起る軍人皇帝僭称の一種             として見なされていて、互いの抗争と暗殺のうちに消             え去るものと、この混乱の時期での馴れ合いとして同             一視するものであった。             しかし、事態はローマ帝国の分裂という危機状況にさ             らされるものとなった。        270年 ルキウス・アウレリアヌス 在位-275年             先帝クラディウス2世がパンノニアでのヴァンダル族             侵入への対応中の陣中で疫病に罹り没する。このおり             帝の弟クィンティッルスが後継即位の任を得た。元老             院も承認したが、帝軍の多数は、強くて一番優秀な将             軍ルキウスを擁立して、クィンティッルスを斥けた。             (クィンティッルスの在位は、a few days or months とも)           **彼は精力的に、帝国国境を越えて侵入してくるアラマン族             ゴート族、ヴァンダル族、ジュート族などのゲルマン諸族だけで             なく、サルマタイ族、ケァルピ族とも対決してこれらを討ち破             るなど、国境防備に余念がなかった。がさらに、パル             ミラ王国(273年)やガリア独立帝国(274年)による             ローマ帝国の分裂の危機事態からも、これらを討ち破             り、またガリア領返還降伏をもって、帝国の再統一を             果たしている。             (この270年代はじめは、何故か北方ゲルマン諸民             族を中心とした異民族の大移動がいちじるしく活発化             してきた時期となった。)             イタリア本土への相次ぐ北方ゲルマン諸族の進入のた             め、それまでに市街地発展して拡大したローマ市の防             衛に備えて、新たな城壁の構築に踏み切る。             帝政期初め以来、規模の小さい古い城壁(セルウィウス城壁)             があったが、その頃からすでに外敵からの防備には不要             のものとなり、2百年以上も経ってから再び市中の守り             に規模の大きい新たな城壁が必要条件となった。             (アウレリアヌスの城壁:その完成はプロブス帝の時期となる。)           **271年アウレリアヌス帝、遂にダキアから軍隊と多             数のロ-マ植民を引き揚げさせ、そこを放棄する。             これは帝国維持防衛の為、やもう得ない戦時政策とし             てのものであった。             (ドナウを越えた北のダキアからドナウ川南岸の地域             に新ダキア属州を設け、州都をセルディカ(現在のブル             ガリア国内)とする。ドナウ南岸線を国境防衛ラインと             した。)           **この頃、パンノニア州同郷出身で、アウレリアヌスの信             任を得た軍人プロブスが彼ののち、次ぎのタキトゥス帝             後の継承抗争で、対立対抗者(タキトゥスの半弟フロリアヌス)を排             して即位している。                     275年 マルクス・クラウディウス・タキトゥス 在位-276年             前帝アウレリアヌスの後を受けて、元老院からの選出             により帝位しているが、アウレリウスが暗殺されたそ             の直後の衝撃は大きく、動揺した軍団からは、即座に             擁立に適う有力な将軍、人材が見当たらず、結局、何             か異例のというよりか、軍団自体の元老院との繋がり             の利益的な思惑から元老院への要請となったようだ。           **タキトゥスは、現役の軍人ではなく、退役して久しい             人物で、75才に達するような高齢者であった。             現役時代の軍功も長年におよび、コンスル(執政官)             にも、かって一度は経験済みで、総督の暦もあった。             もちろん、軍人功労者が元老院入りする時代となって             いたから彼も元老院議員であった。したがって、即位             の折りは、その直前にもう一度コンスル就任の形式を             踏まえての帝位となった。             (軍役出身の多い元老院が志向した帝位のシステム)           **だが、彼の在位も短命に終わった。ペルシャの戦役の             おり、シリアに向かう途中で、或いはシリアで、その             死が不明のまま、一年も満たない任期を絶っている。        276年 マルクス・アウレリウス・プロブス 在位-282年9月頃             (生没年:232年-282年)             彼は先のアウレリアヌス帝のパルミラ王国討伐の折り、             従属同盟のエジプトを降し、征討戦への勝利に貢献、             その軍功を評価され、その後の東方諸州全域の防備を             任された。前帝タキトゥスの代には有力な将軍の一人             と目されるようになった。             (彼は若い時からの志願兵として、ウァレリアヌス、ガルリエヌス帝             の代から軍歴出世を重ねた軍人であった。)             東方属州の軍団の熱き支持にて、帝位への宣言を表明             したが、その時、西方諸州の軍から推挙された前帝タ             キトゥスの異母弟フロニアヌスが元老院の承認を得ないま             まに、西方のほぼ全域各州の同意を得て、先に即位し             た形勢となった。             しかし数ヶ月後の9月、フロニアヌスは、配下の者ら             の裏切りで暗殺される。(在位:88daysの数ヶ月間)             (両者の軍勢対峙があったが、この時期、異部族の外             敵が多く、帝位を争う大きな内戦の直接的対決は帝国             の存亡、破滅を招きかねないと見て、猶予して避けて             いたようであった。)                         **プロブスは、ドナウ、ライン川の防衛線で、ゲルマン             諸族他の侵入をよく撃破して、国境の安定に貢献した             が、ペルシャへの戦役の途上、不満兵士らにより暗殺             される。これには近衛隊長のカルスが黒幕として関わ             ったとされる。             (282年9月)             次ぎになお、カルスを含め3人の短命な皇帝が続くが、             彼らは親子で、息子は長男とその弟である。父カルス             の帝位する折りには、二人とも副帝とされている。                   282年・マルクス・アフレリウス・カルス(在位:282年10月-283年8月)             プロブスが暗殺された後、一端 パンノニア の シルミウムから             ローマに戻り、自らが皇位を継承したとも、、、、             そのあと、長男に西方領域の統治を任せ、再び次男の             ヌメリウスと共に遠征軍を掌握、指揮して東方へ向う。             プロブスのペルシャ遠征計画を引き継いで、ペルシャ             戦争への続行を開始、戦いは初戦から有利に展開した             が、メソポタミア・クテシフォン近くのティグリス川沿いに幕営             駐留中、落雷事故に遭い急死したとも、急病とも、ま             た戦傷によるとも、真相は定かとはならないが、落命             する。暗殺ではなかったことは確からしい。             (ヒストリア・アウグスタは、凄まじい雷雨と稲妻電光衝撃の模             様を伝えている。)            ●マルクス・アフレリウス・カリヌス(在位:283年8月-285年7月)             父カルスの帝位就任のおり、弟ヌメリアヌスと共に副帝の             地位に就く。カルスが、ヌメリアヌスを伴って、ペルシャ             への遠征に向かう一方、カリヌスは、帝国西方領域の             統治防衛の権限を任され、その当初は、ローマ外に在             留して権現対応する日々が多かったとも、、だが、外             交的な人間関係作りを多方面において疎かにしたので             人望を集め、支持を得ることにはいささか欠けるもの             があった。宮廷を自らの恣意的な悦楽の場としたとの             古史料記事もある。             (ヒストリア・アウグスタの史料記事では、信憑性を欠くとされ             るが、とにかく彼は、ぼろ糞に悪く書かれている気来             がある。)             帝国の内外事情ゆえに、自らの身辺だけでも緊張した             毎日で、余裕のもてなかった現実が、自らの行く末を             運命付け招いたものとなった。             ペルシャ戦役への現地出陣のさ中、父カルスの死去、               弟ヌメリアヌスと共同継承にて帝位に就いたが、元老院から             の正式な支持表明の認知を得る前に、弟が暗殺される             という事態に直面した。、一年余の共同帝から単独の             皇帝となったが、その実力も試されることなく、ペル             シャから帰還した軍団を中心に有力に推挙されていた             ディオクレティアヌス(かの折り将軍指揮官で出征)             が帝位宣言して、カリヌスの対抗者となった。             284年11月20日~末頃までにディオクレティアヌスは、先ずは軍             団に依拠した自らの帝位の準備体勢を良くし、全軍団             を率いて事に当たれるものとした。             その頃、ローマに居たと思われるカリヌスに、弟ヌメ             リアヌスの死の知らせが届いたのは、いつ頃か定かで             ないが、早くてもその年の12月から翌年の1月、或いは             遅くとも、2月か3月であったかも知れない。直ちに兵             力の結集を計ると共にローマを発った。             (カリヌス筋の手の者が敵方となる小アジア本拠地周             辺で、情報収集して手早く知らせを入れない限りは、             相手方は、その知らせを遅らせるであろうから、、。)             おそらく5月か6月には、ヒスパニアなど遠方を除い             た西方領の各地からの軍団が、パンノニアのシルミウム、             或いはそこに近いモエシアのシンギドゥヌム(現ベオ             グラ―ドinセルビア)に集められ、一応の軍団編成が             整えられたと見られる。             (その頃、ローマ道の一つ“Via Militaris”が、シルミウム             からシンギドヌム、ヴィミナキウムを経て、ナイスス             (現Nis)、セルディカ (現ソフィア inブルガリア) を通り、             小アジアを対岸にしたボスポロス海峡のビザンチウム             (後のコンスタンチノプル) まで、現ベオグラード側の             ドナウ川に合流する Margus River(現 Morava             River 及びその支流) に沿い、上流へと溯るように、             その平地や山あいを縫ってトラキア側に達していた。             すでに久しからずやであったので、いくらでも道路             整備、補修が必要であったであろうが、、。)             カリヌスとディオクレス(改名前)が対決に至る場、             広範囲ともなり得るバットルフィールドが、Marugus             川の中流域、ナイスス(現Nis)に至る手前の狭隘の             道から下流域のバレー平地、低丘陵地の中間付近であ             ったとみられる。             (ナイススは、ローマ道がコンスタンチノプルへの道と             ギリシャ方面に通じたテサロニカへの道の分岐地点と             なっていた。)                        **両者が対峙し、その戦闘交戦に関わるという出来事に             言及されるべき、3or4世紀以降の古代史家らのそれ             ぞれの史料筋からは、その戦争結果の具体的な数計を             示すほどのものでなく、緩慢に終わった事のようで、             その状況に直に関わるある別の事情を明記している。             その事情を史料的な古文書データから見てみると、            ◎<ヒストリア・アウグスタ>:作者はあえて著者名を表記せず。             “大いなる戦いと記し、何度か交戦があったが、最後             Margus川地域で、カリヌスが敗れた、”との記述。             (原本in Latin=邦訳名:ローマ皇帝群像)              ------------------             この書は中世から近世、近代にわたり、歴史家諸氏             に取り扱われた過程で、様々な問題を孕んだものと             して注視され、現代ではその多様な所見論が示され             ている。             執筆者も、執筆公表年代も擬装隠蔽され、その内容             にはフィクション記述が多分にあるとして、歴史性             の真義も問われ、厳しく批判される向きがある。             これは、隠れた本当の著作者が、その時代を生きる             立場事情と、本人の著作への意図、志向性が複雑に             絡んでの作風結果と思われる。           **現代の古代史家の多くは、6人の著述家の原書を             一つに纏めたものと、本書それ自体が表明してい             る事を、それが何らかの意図、都合により擬装さ             れた虚偽の類だと見なし、単独の著者説を表明支             持している。また、その著作年代も、4世紀の後             期~末とする説論を妥当として、支持主流の見識             となしている。             これに対し反駁反論する一流、トップクラスの有力な             学者らがいないという訳ではないが。             だが、推論の域を出ないが、記述間違いやフィク             ション適用は否めないが、原本どおり6人による             Scriptors&編纂者役説、そしてその著編時期を             本書どおり、ディオクレティアヌス、コンスタン             ティヌス治世、300年前後から320年頃までに成っ             たものとし、、、本原書、由縁の真実性を認める             ことが出来るのではと思われる。             これは、まったく無名マイナーな史家グループ6             人余りの手によるとして、ローマを中心とした伝             統的な史的記述志向ではない、視点の異なる意図、             向きを示すべく、             より広いローマ世界の時代の時流模様を外延的に             加味考慮して著わさんとしたものといえよう。             したがって、ほんの些細な逸話の欠けらからも、             フィクション記事が盛られ、それでもって時代時             流の一端を示しているとの主旨が見られるとも、、             彼ら史述グループは、ギリシャ、ローマ(ラテン)系             の人々ではなく、かって蛮族と言われる属州民系             の出で、ローマの伝統や、元老院には関わりのな             い知識層の輩であったと見られる。しかも、彼ら             は、すでにアリウス主義のキリスト教徒であった             と推論できる。それ故、色々困難な事情の下に生             き、時代に対処せねばならなかったと見られる。             のちにフラフィウス・エウトロピウス や アウレリウス・ウィクトルの史書             が世に出て、その内容で、同じ文言が本書アウグ             スタ内にあると指摘されているが、これは元々、             先に出たアウグスタの内容文を、後の代に引用、             さらに文言幅を豊かなものとして記したものと、             推断されるものともなる。             さらに推論すると、この書のテキスト原本には、             その当初、その記述内容の初めの段階で、ローマ             皇帝ネルウァ、その後を継いだトラヤヌスの記事             があって、その書が成っていたとの論所見が挙げ             られているが、これも恐らく、360年代以降(ユリア             ヌス帝361年~)             ペイガン(異教徒)及び、それ志向の記述史家、             エウトロピウスや ウィクトルら伝統系の輩の判断により、             ネルウァ、トラヤヌスの部分が削除改ざんされた             と、、、つまり、タキトゥスや、ガイウス・スエトニウスのような             ローマ帝政初期の由緒ある皇帝伝史書(ユリウス・カイ             ザルを含めた12人)に継続するとした向きに値し             ないとして、貶められの扱いを受けたとも、、、              ◎<Epitome de Caesaribus>:匿名異教徒の著作。             “交戦に直接言及した記述はなく、カリヌス自身の             側近護衛の近衛長官により死への拷問を受けて殺さ             れた、といった風に記されている。”その長官名は             その書には記されていない。(原本in Latin)             ------------------             4世紀末頃の匿名の著者で、原本著書がラテン語で             書かれているから、ローマ人であったとみられる。            ◎<フラフィウス・エウトロピウスの首都創建からの要略史>             “グレート バトルと記述しているが、Margus戦場地             での配陣の際、Viminacium 駐屯の有力な軍団レギオ             (たぶん第7軍団クラウディアが中心となり)により、             カリヌスを裏切り見捨てた事から、ディオクレティアヌス             の帝位の成ったことを記す。”(原本in Latin)             ------------------             4世紀後半(ユリアヌス帝361年~)に活躍した秘書官吏             で、史家として10冊から成るローマの要略史を著わ             した。                          ◎<セクストス・アウレリウス・ウィクトルの De Caesaribus >             “先に挙げたEpitomeと同様に、戦いへの戦陣過程で、             或いは初戦時に、近衛長官に暗殺されたと、その長             官の名前、アリストブロス(Aristobulus)を明記し、暗に             敵方ディオクレティアヌスとの結びつき(内通関係)があっ             たかのように記している。”(原本in Latin)             ------------------             4世紀後半活躍(ユリアヌス帝361年から)の政治家で、             歴史を記した史家でもあった。(320頃-390頃年:             ユリアヌス帝下ではパンノニア・セクンダの行政長官、その後、             389年にローマの都知事となり、生涯を終える。)             終生異教徒であったと見られる。            **結局、歴史的に言明付けられた“マルグスの戦い”は             双方共大軍勢を配下にして対峙した<大いなる戦い>             の形勢の如くなったが、大会戦直前間際の陣形体勢に             は至らず、前線地域での諸要塞の守備確保、争奪と             いった初戦のせめぎ合いを展開するに留まり、その             過程のうちに、カリヌス方の主要な軍団の背反離脱が             あり、軍団全体の統制が執れなくなる。そのさ中に、             側近長官アリストブロスらが、カリヌス暗殺という手段を             講じて、一気にその対決を終結に向かわしめたとい             う事であろう。                                           283年 マルクス・アフレリウス・ヌメリアヌス 在位:8月-284年11月             ペルシャへの遠征は有利に展開して、メソポタミアの中ほ             ど、セルウキア、クテシフォンという首都にまで、、以前の惨劇の             事態(260年代末のウァレリアヌス帝の大敗)などと比すれば             異例の進撃であったが、父カルス帝の思わぬ急死、ヌメ             リアヌスにとってはその死が如何なるものか、知りうる立             場にあったであろう。しかし歴史はそれを伝える状況             からは閉ざされたままで、実際の真相は定かでない。                          恐らく、自軍内の兵士らの動揺を抑えるべく、極力そ             の死を伏せて、敵方ペルシャ勢にそれが洩れないよう             に立ち回り良く、撤退を敢行したという事であろう。                          これは迅速周到に事を運び、大変神経を使うような撤             退となったが、ヌメリアヌス一人の指揮に依るもので             はなく、この折りには、幕僚、将軍らの一致団結があ             っての、無事なるメソポタミア領域外への撤退となった。             もちろん、ローマへの数名の密命使者が、撤退を開始             するや、その撤退先行の先遣隊に紛れて送り出された             と見られる。             ヌメリアヌスにとっては、あたかも自分が全軍を指揮して             帰還の途に着き、父に代わり今や軍団を掌握している             かの如く見えたであろう。だが彼の身にふり掛かった             のは暗殺という死への定めとなった。(284年11月)             その撤退時、ローマ領の安全圏に至った後、小アジア             のボスボロス海峡の港に通じるカルケドンで、その宿             営停留中、幕舎内で変死体となって発見されたとか、             移動時に皇帝が乗るコーチの中での発見とか、その点             は、以後の歴史家の記述が異なり定かではない。とに             かく11月末頃までに、ニコメディアで、近衛隊長官ア             ペルという人物が、ヌメリアヌスの死亡を正式にぶち             明け公表したという。(1世紀後に記された“ヒストリア・             アウグスタ”では、死体の悪臭で発見されたとか、、)             この折りアペルに殺害の嫌疑が及ぶが、その疑いが晴             らされないまま、次期皇帝に満場一致で擁立された有             力将軍ディオクレス(帝位の折りにディオクレティアヌス             に改名)により、どのような裏切りもなかったと宣言             されたうえで、そのままアペルが陰謀殺害犯と見なさ             れ、その大集会の場で、彼の抜いた剣で処刑される。             (エウトロピウスのローマ史)             (ディオクレティアヌスは、近衛騎兵隊の指揮官で、             遠征時にはこれを連携し、さらにその所属軍団の将軍             でもあったが、以前は同僚で部下だったアペルを暗殺             へと誘ったものかも知れない。)                ------------------------------------------------------        285年 ディオクレティアヌス 在位-305年退位             彼は帝国を四分割し、皇帝二人、副帝二人の制を設け             て、内乱と無秩序の続いたロ-マ帝国に秩序と回復の             時をもたらした。(自らは東方正帝に留まった。)           **最初から四分制を敷いた訳でなく、すでに西方統治の             副帝にしていた同僚のマクシミアヌスを翌286年に             自分と同位の正帝に昇格させた。             その後、293年に両者二人正帝の下に、それぞれ副             帝位を設けて、四分統治(テトラルキア)という、かって             前例を見ない統治制度を導入した。             (この制度により、尊称名アウグストスを正帝、カエサルを副帝             の名と見定める位階通念が慣例化してゆく。)           **この4分制の時、コンスタンティヌスの父コンスタン             ティウスは副帝としてガリア、ブリタニア方面を受け             もった。             この293年のおり、コンスタンティウスの子・コン             スタンティヌスは、東帝ディオクレティアヌスの下に             預け置かれる(臣下人質のような側近将校として)             296年頃、ディオクレティアヌスの軍がパレスチナ方             面にやって来た折りに、その軍の将校として加わって             いたとの一文記事をかの教会史家ユウセビオスは自著             で記載している。               **ディオクレティアヌスは、ダルマティア属州の州都サロナ             近隣の居住地に生まれたが、解放奴隷の父が州都赴任             の一元老議員の書記として仕える者となり、その関係             からローマに出て勉学の機会を得、それなりの教養を             修めたと見られる。そして、青年期の早くには一兵卒             ながら正規軍団への登用がかなり有利なかたちで叶っ             たようであった。             彼の40才頃までの経歴はまったく知られていないに等             しいが、ゴール地方での兵役や、それから出世してド             ナウ下流のモエシアの軍団の司令官になり、さらにそ             の後、皇帝の側近護衛、近衛騎兵隊の最高指揮官に登             りつめる。皇帝カルスのペルシャ遠征時には、イタリ             ア方面の直属ローマ軍団の将軍ポストをも任されての             随伴出陣であった。             彼は軍団での受けが良く、勇猛で他の将軍らからも相             応に支持され、皇帝に擁立されるものとなる。             その帝位の後は、自分本位の知恵知識、経験でもって             統治政策を敢行してゆくものとなる。             自らは東方のトラキア、小アジア、シリア、エジプト             をうけもち、自分を神性を具えたユピテル神の地上の             “代理者”=“ヨウィウス”として、専制君主制を強くと             ったりもした。元老院制を無意味なものとなし、宮廷             には東方的儀礼をとり入れ、臣下に叩頭の礼をさせ、             帝冠をつけ、笏をもち豪勢で華麗な王服をまとった。             彼の四分制の下、全国を100をこえる属州に改め、             その小属州を13の州に分属させて、小州には州長官、             13の州には総督を派遣し、さらにその上、属州の軍             事指揮は、べつの軍司令官に受けもたせ、内外の敵、             争乱に具えた。また皇帝に直属した強力な軍隊をも整             備し、多くのゲルマン人を軍隊に加えた。           **ディオクレティアヌス帝は、現役帝位中に退位すると             いう、かってこれまでの歴代皇帝においてはあり得な             かった、初めての<現役退位>事例となった。             この折りには自らの退位と共に西の正帝マクシミアヌス             の退位をも要請承諾させ、両者同時退位をしている。             (5月1日東はニコメディア、西はメディオラヌム             〔現ミラノ〕の宮殿にて、退位と即位の式典が同時挙行)             これは彼の施いた4分統治制(テトラルキア)への強い             思い、定着永久化を願ってのもの、その範例を示さん             と試みたものと、歴史解釈されよう。             (ただ単に何か健康云々、身体上の都合事由を第一義             的な理由と見なしての<現役退位>ではなかった。)                     286年 マクシミアヌス 西正帝在位-305年退位             ディオクレティアヌスのかって以来の同僚であったが、             彼の帝位した年度中(285年)に、その腹心としての共             同皇帝に任命されていた。四分統治制の前段階として             西方の正帝(アウグストス)に昇格する。        303年 東帝ディオクレティアヌスは、副帝ガリウスの強力な             意見、支持もあって、帝内に広く浸透したキリスト教             団、信徒らが、皇帝崇拝に反対し、危険な組織になっ             ていると見て、302年から全教会の財産を没収し、             厳しい迫害を始めた。             さらに303年には、帝国全土に布告令の言文を発し             て、キリスト教徒の転向改宗、追放、処刑の迫害が行             なわれた。(教会を根こそぎ破壊、すべての聖文書の             焚書絶滅を敢行せよとの勅令をもって、、。)             これは、官僚制度が全国的に良く行き届き、統治管理             体制が整い、政策的にうまく機能するようになってい             た故、その弾圧の取り締まりは、かってないほど周到             なものとなり、過酷なものとなった。             キリスト教教会史では、ローマ帝国<最後の大迫害>             とまで、言われる所以である。             (この迫害は、ディオクレティアヌス帝の後を継いだ             ガレリウスの治世、311年4月まで至り、彼の布告             勅令による<禁止の解除令>をもって、公式な終わり             を見た。)        305年 コンスタンティウス・クロロス 西方正帝在位-306年             彼は、マクシミアヌスの後を継いで、西の正帝となっ             た。その後、息子・コンスタンティヌスとの再会をな             したが、まもなくして死去する。             (東の正帝ガレリウスのニコメディア宮廷に人質のよ             うな立場になってしまったコンスタンティヌスは、ガ             リアを経てブリタニアにいる父帝の陣営に逃げ帰り、             再会を果たした。)             再会直後には息子による有力な支援を得たものとなり             共に戦って現地のピクト族を破った。その後まもなく             父帝は発病し、ブリタニアの現在のヨ-クで亡くなる。             (306年7月25日)             コンスタンティヌスは、軍隊に推され、父帝の後を継             ぐかたちになるが、東の正帝ガレリウスや、先の西の             正帝マクシミアヌスの子・マクセンティウスらの帝位             主張と対立、内戦へのきっかけとなった。        305年 ガレリウス 東方正帝に在位-311年             彼は、西正帝のコンスタンティウスと、分割共同統治             テトラルキアを守るべく、             東方かたのディオクレティアヌス帝の後を継いだ。           **西の正帝コンスタンティウスの306年7月25日の死去後、             西方は副帝だったセウェルスに、だがその折り直後、             マクセンティウスが帝位を僭称し出し、対抗立権する。             (その父親マクシミアヌスも助勢への現役復帰)、             そして、内戦を経た308年に、ガレリウス側のリキ             ニウスへと、西正帝は指名継承されるが、これはほと             んど暫定名目的な在位数年となってゆく。        306年 フラウィウス・セウェルス 西正帝に在位-307年             彼は、西の副帝だったから、コンスタンティウスから             帝位を引き継ぐ立場にあった。で、ガレリウスは当然             のことながら彼を推し、息子コンスタンティヌスを副             帝に留めおいた。             しかし、先帝マクシミアヌスの子マクセンティウスが             ロ-マにおいて帝位を僭称し、反乱する。               マクセンティウスは、ローマで、この年10月28日帝位             僭称、就任宣言を公けになした。それには都の守備駐             屯隊と都ローマ圏を治める長官の熱い支持があった。             これにより、西方の正帝統治権は、2分併存の形勢と             なった。東帝ガレリウスは、マクセンティウスを皇位             簒奪者と見なして、セウェルス帝にその討伐への意向             を申し送りする。             セウェルス帝はその支持によりローマへの戦陣をしい             たが、一方マクセンティウスは恐れて、父親マクシミ             アヌスに支援要請、一先ず父親が助けに乗り出し、そ             の策動によりローマから良からぬ撤退を強いられる。             その時、軍団の多くが寝返ったため、小規模の勢力と             なり、もはや対決できず、降伏を余儀なくされる。             その後、延命のうちにラヴェンナ近郊に幽閉されるも、             ガレリウスによる307年のイタリア進攻の際、マク             センティウスは、彼を生かしておくのは戦略的に良く             ないとして、セウェルスを直ちに死に処した。           **307年東正帝ガレリウスがマクセンティウス討伐の             ため、イタリアに進軍したが、またしても敵の寝返り             策動により、敗退した。             コンスタンティヌスは、セウェルス帝の時以来、その             副帝のままに留まり、マクシミアヌス親子からの同盟             援助の積極的な申し出があったが、自らの軍団を自領             統治の地域外に動かすことはなかった。                        **308年東帝ガレリウスは、彼の下にいたリキニウス             を、西方の正帝に推挙し、、リキニウス在位する。             (11月11日以降)             簒奪僭称マクセンティウスがいたが、ガレリウスは、             先の前東帝ディオクレティアヌス、及び同様に前西帝             のマクシミアヌスを招き、この政局について会談する。             その結果、西の正帝は、リキニウスとし、             コンスタンティヌスは、なおその副帝に留めおかれる             ものとして、三者はそれを正式確認する。           **310年コンスタンティヌスと、先の前西帝(テトラルキア             制初の)マクシミアヌスとの変、これは、コンスタン             ティヌスの出先への留守を狙って、マクシミアヌスに             自分の本拠地を奪われたとの状況判断から生じた衝突             事件へと至ったものである。             コンスタンティヌスは、マクシミアヌスを破り、彼を             自殺に追い込んで死なせた。             (注:テトラルキア<四分統治>システムは、マクセ             ンティウスとそのバックアップ親・マクシミアヌスの             横やり帝位僭称活動が悪因となり、収拾不可能のうち             に、その崩れ去りにのめり込んでいってしまう。             これは、たまたま最初の設立者・ディオクレティアヌ             スには、息子としての後継者が一人も居らず、また、             その養子を定めるほどに余裕のある世相ではなかった             から、彼、皇帝統治者トップの苦肉の策として、編み             出されてきた<帝国領土の統治システム>であった。             しかし、それを権威ある法律制度として、維持されう             る保証はいまだ何処にもなかった。)        311年 東帝ガレリウス、キリスト教禁令に関わる解除の勅令             を4月30日に発布する。           **311年ガレリウス死去、この時までマクシミヌス・             ダイアが東の副帝だったが、彼はマクセンティウスと             組んで、西のリキニウス、コンスタンティヌス組と             対立する。           **312年コンスタンティヌス、遂に自軍を決起させ、             イタリアに進入し、マクセンティウスをロ-マ城外の             ティベレ川の橋畔にて激戦のすえ破り、西正帝位を得             る体勢となる。(10月28日)        313年 リキニウス、東の正帝位の領有権をも暫定保有する。           **313年リキニウスはイタリア・ミラノからトラキア             (バルカン半島北東部)へ渡り、アドリアノーブルを             先に押さえて、そのあと直ぐにマクシミヌス・ダイア             を破り、アナトリアへ敗走する彼を追って自害の敗死             させる。             これにより、リキニウスが西の帝位から東の正帝に鞍             替えする機会を得て、コンスタンチヌスは、彼との協             約上での暗黙了解にて、西の正帝位者として、その共             同統治をなす状況に至る。             この状況に至る直前の2月、ミラノ(メディオラヌム)で、             両者は相和して、<ミラノ勅令>を発し、             <万民の宗教、信仰の自由を認め定める宣言>をなし             ている。がしかし、やがて             両者による帝国二分の統治体勢の状態は、双方の思惑             どうりには行かず、(副帝を決める人選が元で、、)             これまた両帝における体制的不和、種々なる権勢利害             が生じ、再び、疑心暗鬼な東西両帝の対決、内戦へ、。           **314‐316年、両者は2度、3度と戦端を開いたが、             しかし、事は負けたり勝ったりで、決定的に決するまで             には行かず、その後、またの戦争を経て、317年3月             一時休戦の和平協定が成立する。           **323年再び両者の関係は悪化し開戦するものとなる。             コンスタンチヌスは、アドリアノ-プル、ビザンティウム             近郊、及びボスポロス海峡での海戦においてもリキニ             ウスを破り、海峡を渡ってさらに最後のとどめの一戦             を小アジア側カルケドンに近いクルソポリスにて行な             い、その勝利をなした。(324年9月18日)                  リキニウスは、ニコメディアで身柄を捕獲され、後に             なって処刑された。(コンスタンティヌスの異母妹が             彼の妻であったことの関係の嘆願哀訴から一時の猶予             を課したものと見られる、、)             これによってコンスタンティヌスは、帝国全土を統一             し、内紛、内戦に終止符を打つと共に、その単独の皇             帝となった。        324年 コンスタンティヌス 東西統一皇帝に在位-337年             (312年-323年=ローマ西方正帝時代を経て)           **彼は、先の313年にミラノ勅令を発布、万人への信             教の自由を認め定めるが、             古代ローマ世界は、彼により新時代を迎えることにな             るが、皇帝権に依る国家政治は、教会問題動向への政             策、制裁の関与にまで及ぶものとなり、度々皇帝よる             教会会議が召集されるものとなる。        325年 コンスタンティヌス帝、教会政策への大いなる関与と             して、全教会の公会議をニカヤにて開催すべく、召集             布告をなす。(5月下旬~7月末まで)           **325年ニカヤ公会議を主宰、アリウスとアタナシウスと             のキリスト論論争が背景発端となっており、帝国内で             の教義思想の分裂、不統一は、政争、紛争への火種と             もなり兼ねないと見なしての事であった。だが、教会             が正統派(カトリック)とアリウス主義派(アレクサ             ンドリア派)とに分かれるその分裂を反ってより鮮明             にする事となり、後々までも問題化の尾を引くものと             なる。             (この会議で、信仰教義の内容、その正統、非正統の             是非が、初めて公けに表明宣言されることになった。             ニカヤ信条への成立がこれを示唆している。)               また、大帝コンスタンティヌスの意思により、この会             議では教会組織の新改組、および国家レベルでの承認             がなされる。             ローマ帝国の各州の州都の司教が大司教職、あるいは             総大司教職に成りうる制度が定められた。             この折り、ローマ、アレクサンドリア、アンティオケ             ア、そして、建設中の帝国の新都コンスタンティノポ             リスの予定を含めた4都が総大司教座に選定された。                        **330年帝国の首都をビザンティウムに移し、新ロ-マと             宣言するが、のちコンスタンティノポリスと改名する。                          彼は、古代の古い伝統文化の息づくローマを離れて、             324年よりビザンティウムでの新都建設に乗りだした。             そして330年に新都は完成し、新しいローマの新首都             とした。           **332年侵入してくるゴ-ト族を撃退し、辺境防備のため             30万人のサルマティア人を定着せしめる。           **ニカヤ公会議後の教会の趨勢は、そのニカヤ信条の採             択でもって、東方諸教会がすんなり一致を保っていた             わけでななかった。再びアリウス派が均衡多数派へと             進展し、東方教会の全地域を中心とした宗教会議が、             334年カイサリアで、335年ツロで開催される。             両会議共、コンスタンチヌス帝の意向によるもので、             少数派となったニカヤ信条護持のアレクサンドリア主             教(監督)となっていたアタナシウスの召喚を旨とし             て開かれたものであった。             先の会議への召喚を拒否したアタナシウスは、ツロの             の会議には出席したが、             結局、神学上以外での、あること、ない事の告発のな             すり合いで、評決断罪され、アタナシウスはガリアに             追放される。(アタナシウスの一回目の追放)                  さらに336年コンスタンチノポリスで同様の会議が             開催され、結局、アリウス主義を正として、その敵対             者であるもの、アンキュラの主教マルケロスらを罷免             追放するものとなる。             このような動向の背景には、西方ローマ教会側の趨勢             と皇帝コンスタンチヌスとの主導権的確執問題が絡ん             でいたと見られ、いわゆる西方派になびく者らを排除             せんとしたとも考えられる。             こういった東方の状勢に対して、アタナシウスを支持             していたローマ教会を中心とした西方のニカヤ信条の             支持派は、東方教会への牽制を考慮に入れ、できる限             り優位な教会進展を志向するものとなる。        337年 コンスタンティヌス大帝死す。(5月22日病没)             帝国は彼の3人の息子達によって引き継がれ、帝域領             土は3分統治の時代となる。             ●コンスタンティヌス2世:ブリタニア、ガリア、                          ヒスパニアを統治                          (治世:337-340年)             ●コンスタンス:イリュリア、イタリア、                           アフリカ統治                          (治世:337-350年)           **340年彼ら二人は不和となり、コンスタンティヌス             2世のほうがイタリアに進攻したが、彼は破られ敗死             する。           **350年コンスタンスも、ローマ軍がその将軍マグネ             ンティウスに皇帝宣言させ、彼を擁立しての内乱時に暗殺             される。             (コンスタンスはこの時、ガリアを将軍と共にその軍             事的な関係で訪れていたと見られる。彼は、イタリア             か、ヒスパニアかに逃げようとしたが、ピレニーの要             所、地中海側間との通路をなす地(ヴィクス-ヘレナ:現エルネ)             の要塞に追い込まれて、命運尽きたものとなった。)             これで3兄弟の分治体制が終わる。             残された次男のコンスタンティウス2世は、簒奪者マ             グネンティウスの討伐に向かわざるをえなかった。こ             のような謀叛者に対して、また別の謀叛者が立つとい             う事態もあり、謀策と征討への難儀、辛苦を味わうも             のとなった。                          ●コンスタンティウス2世:コンスタンティノポリスの                         首都を中心とした周辺諸州、                         及び東方の他諸州を統治                         (治世:337-361年)        350年 第2子コンスタンティウス2世の単独の支配となる。             在位-361年まで。             彼はアリウス主義者として、本拠地東方だけでなく、             西方へのアリウス主義化を推進して、教会政策に強く             関与、西方での教会会議も度々召集している。             (アルル会議353年、ミラノ会議355年など)           **ニカヤ信条派(正統派と見なされるが)は、355年             のローマ司教リベリウスを含め、追放、流刑の憂き身             に晒される。              (アレクサンドリアの総大司教になっていたアタナシ             ウスもすでに339年以来、追放の身となり、ローマなど             各地を巡るものとなった。)           **彼の治世の340年代以降から80年頃にかけて、新たな歴             史の流れを見せる一面が見られる。             それは、一人の福音的指導者ウルフィラスに率いられ             た西ゴート族の一派集団が、帝の認可の下に帝国領内             モエシア定住をするに至ったことから始まる。             彼ら混成一派はアリウス派キリスト教徒でもあった。             この事は大々的な“ゴート戦争”(376-382年)以前             のこと(350年前後の頃)で、             皇帝にとっては、その見返りに、有事の際には、その             ゴート人らによる非正規な補助軍団を設える事への利             便さ目するに価する前例ともなっていった。        353年 東帝コンスタンティウス2世は、西方での帝位簒奪者マグ             ネンティウスへの討伐戦に従事する。                          9月28日ムルサの戦:パンノニアのドナウ河の主要支流と             なる川沿い近郊フィールドにて、ムルサにはパンノニアの             駐屯軍要塞があったが、マグネンティウス自身は、そこを押             さえ、支持を固めるために進軍してきた訳であった。             歴史的にも名高くなるほど、激しい決戦のすえ、彼は             敗れて、南部ゴール(ガリア)地方に一時期、退く。             再起のため体勢を整えたかどうか、定かでないが、少             なからず不利な形勢であったようだが、、、、             その2年後には、再びモンス・セレウクスでの対戦(フランス             南西部)を余儀なくした。マグネンティウスは、再び             これにも敗れ、これが最後で力尽き、リヨンで自決する。           **その後、355年11月、共同統治の副帝にユリアヌスを             据える。彼はコンスタンティヌス大帝の甥であった。                     354年 (キリスト教神学者アウグスティウス生誕-430年没)        359年 コンスタンティウス2世、さらにこの年、3つのキリ             スト教の教会会議を要請し、開催するに至っている。            ・西方の司教らを召集したアルメニウス会議(イタリア             本土のアドリア海沿いの町レミニ(現リーミニ)で、今で             は大変有名なリゾート地となっている。)            ・東方の司教らの会議は、小アジア・ビテェニアのメト             ロポリスニコメディアでの開催予定であったが、地震             に見舞われ、所をキリキア地方の地中海沿岸に近い、             風光明媚で気候の良いセレウキアでの開催となった。            ・三度目は、東、西方合同での召集がかけられ(359年)             帝国首都・コンスタンチノーポリスでの開催(360年)             となった。             (この会議後、東側の正統派(ニカヤ信条派)だけで             なく、一部のアリウス派さえも免職され、追放された。             採択宣言されたクリードは、まさにかってのオリゲネス、             さらには新プラトン主義の創始者プロティノス、同時代             頃のグノーシス主義レベルの次元に立脚するようなも             ので、容易にそれらとも相合しうるものであった。)           **これらの会議での<信仰宣言クリード(信条)>は、             当初から極めて異端的であったが、コンスタンティウス             2世の死後には<異端的信仰宣言>として、ようやく             正式に否認される。                          神の子“キリストの本質と存在、その起源的事由”に             関わる最重要な教義が、まさに<キリストこき下しの             教説呈示の類>と見なされたからであった。             アリウス自身の教説の基準レベルから見ても、さらに             それからも低劣した信条内容を示すものであった。           **アリウスの論述弁証は、確かに秀でたものであった。             3、4あるいは5つ、6つの新約文書、使徒らの言葉             をそれぞれに引用し、その前提理解に立脚しての、新               たな認識理解を引き出し、さらに次ぎの認識へと進み、             そして結論的帰結認識へと至る。まさにギリシャの論                理学的手法(論理弁証法)を見るが如きものであった。             現代的評価からすれば、アリウスのキリスト認識も、             ある一つのかたちとして、キリスト存在の深さ、広さ             高さのうちに含まれたものとして、それらをあらわす             ことに寄与していると見なせば良いのでは、、という             ことにもなり得るが、、、、しかし、             アリウス教説と正統派教説とが、それぞれ一つの円と             それの円内内容範疇のものとして捉え見た場合には、             両者にたとえ共通項があると言えども、その2つの円             は、一つにはならないし、また内円、外円と捉えると             しても、双方一体的な重なりも成し得ないといった、             両者の間柄となっているというものであった。                                          361年 コンスタンティウス2世帝、東方ペルシャ地方からの             帰還途上、キリキア地方にて死す。(11月3日)             副帝ユリアヌスが皇帝位を継ぐ-363年             コンスタンティヌス大帝の甥で、355年11月から             コンスタンティウス2世の副帝に登用されていた。             ガリア、及びライン川上流ゲルマニアの諸族への対応             を任された。帝位後は、東方ササン朝ペルシャへの対             応にも従事する。           **ガリアおよびその以北で軍事に成功を収めたユリアヌ             スは、その軍隊から皇帝に推戴されるほどになり、東               方への軍隊の援軍派遣の要請を受けていたが、すみや             かに対応することなく、コンスタンティウス帝への疑             念を招く結果となる。             彼が時を逸して進軍をなし、モエシア方面ナイススへ             と進行するさ中、皇帝コンスタンティウスもペルシャ             との戦いを中断して、小アジアへ軍を引き揚げ西進の             途についていた。             だが双方の衝突紛争が生ずる事なく、コンスタンティ             ウス帝が道中キリキア地方で、11月3日、突然の死に見             舞われた。同月末にユリアヌスは、ナイススでその知             らせを受け、臨終時の床で、後継者に自らが指名され             たとの伝えを聞くものとなった。(361年11月3日)             (本当の処、その遺言めいたものは、支持者の捏造か             も知れなかったが、とにかく状況が可能な限り丸く収             まった、収めようとしたとの、ある種の方法だったか             も知れない。)                        **彼は、キリスト教の優遇政策を廃止して、異教やギリ             シャの伝統と文化を重んじ推奨した。             時代の流れに反動するようなかたちで、キリスト教と             その教徒は、ユリアヌス治世の間に排斥された。        363年 ユリアヌス、東方ペルシャ遠征中、戦傷がもとで陣中             にて死する。(364年2月)             後継者は、その将軍の一人ヨウィアヌスが軍団の選出             支持を得て皇帝となる。が、ペルシャとの不益、損失             の大きな和議(ササン朝シャープール2世)をなし、その撤退が             無事なるも、帰還途上中、帝都コンスタンティノポリス             を間近にしたビテェニア州内で、あらぬ事故死(火鉢             でのガス中毒とか)を招いたと、。             (暗殺説も囁かれたが、、、)              それで別の側近将軍ウァレンティ二アヌス1世がその             あとを継ぐ。             ー364年2月、及び ー375年11月まで。             その帝位の折り、弟のワーレンスを共同皇帝に任じ、             東方統治(東帝)を委ねる。        364年 ウァレンティニアヌス1世 西帝に在位-375年             この頃帝国辺境は、東方のササン朝ペルシャだけでな             く、アフリカ、ブリタニア、ゲルマニアなど、広範囲             の各地で反乱、蛮族の進入紛争に追われる状況となっ             てきた。             ブルグント族、ガリア北方のサクソン人、フランク人             だけでなく、ゲルマニアから大集団(部族同盟で)の             アラマンニ族、また、ドナウ川を渡ってクァディ族や             サルマティア人が、イリュリアからパンノニア、モエ             シアの各方面にまで迫ってきていた。             こういった多方面での辺境防御、軍事策の現地対応の             さ中、脳卒中を起こした事が原因となり、パンノニア             の陣中で、西帝ウァレンティニアヌス1世は死去する。             (375年11月17日)             帝位は、長男のグラティアヌスが継いだが、弟のウァ             レンティニアヌス2世が共同統治する立場で共に帝位             に就いた。                     364年 ワ-レンス 東帝に在位-378年             西帝ウァレンティニアヌス1世の弟で、共同統治者となった。           **376年             彼は、フン族の圧迫から逃れ、避難と定住への許可を             訴えてきたゴートの一種族(西ゴートの一派)に対す             る対応の手落ち、現地ローマ駐屯行政官の対応能力を             越えて事態は深刻な飢饉状況に見舞われた。それによ             り悪しき処置処断への対応になり変わり、その扱いが             ゴート族の決起襲撃の行動を引き起こすものとなる。             黒海北西の地からバルカン半島内陸部深く、広範囲に             わたって彼らは掠奪行為、侵略を行うものとなった。             他の同族種族もフン族の南ヨ-ロッパへの侵入の余波             で、同様に圧迫、押し出され、西方に或いは南下し、             掠奪を始める結果をまねいた。        375年 グラティアヌス 西帝に在位する-383年まで。             ウァレンティニアヌス1世の陣中死去の後継を受けて             長男グラティアヌスが帝位を継承する。             異母弟のウァレンティニアヌス2世も、この折り共同             西帝としての擁立され、その名目登位が承認される。             (ウァレンティニアヌス2世の宮廷はメディオラヌム             =現ミラノに在置していたが、4才ほどの幼年にて、             母ユスティナや、メロバウデス、バウト、リコメルと             いったフランク人の老臣たちが政治実務を行った。)                  **同年頃、東ゴ-ト族、フン族の進出、圧迫をうけ、そ             の軍門に降る。(一部は西ゴート族の地へ逃れる。)             西ゴ-ト族もこの折りに、大挙してドナウ河を渡り、             378年には             トラキアのアドリアノ-プルの一戦でロ-マ軍を打ち             破る。この折りにワ-レンス東帝は、戦死する。             (次の皇帝テオドシウス1世とは暫定合意協約を結ぶ             事で西ゴート族は、下モエシア、パンノニアへの定住             を得るものとなる。)           **東方統治の叔父ワーレンス帝死後の継承東帝に関して             グラティアヌスは、当時、色々な状況事情で引退、隠             棲中であったテオドシウスにあとを継いでくれるよう             協力要請を取り行ない、その任命を余儀なくした。             (378‐379年)           **この頃からゲルマン種族の集団(組織)的、武力的侵             入による大移動が始まったとされているが、彼らは、             このゲルマン民族大移動の最初期の種族で、その最初             の動きはドナウ下流域に起こり、2世紀の中頃二つの             グル-プに分かれ、一派はドン河流域に(東ゴ-ト族)             他はドナウ下流の北ダキアに(西ゴ-ト族)定着して             いた。           **彼の治世の382-3年にブリタニア駐屯の指揮官マグヌ             ス・マキシムスが叛旗して、ガリアに進軍、占拠して             帝位を僭称した。これに対処してグラティアヌスは、             軍を動かし軍事をなすが、配下の軍長官の裏切りに遭             い、敗走して逃れたが、リヨンで戦死する。(383年)        378年 東ローマ帝ワーレンスが戦役中にて戦死する。                        彼は、連合した西ゴ-ト族をトラキアのアドリアノー             プルで迎撃したが、その戦いの折りに戦死した。               ゴート族との戦争は382年まで断続して続き、西ロ             ーマもこれに苦慮し、西帝グラティアヌスの西帝軍は             381年中に彼らをトラキアに追い落とし、最終的に             東帝テオドシウスのゴートへの暫定処置を踏まえなが             ら、382年10月3日に諸部族総括代表との和議を             結ぶ結果となる。(376年-382年間の対ゴート族戦争)           **ローマ帝国の時代の流れも大きく変わり、そのポリティ             カル・ヘゲモニーも、異民族を国境帝国内領域に定住             させる政策へと、異例の変換対応となっていった。                          いよいよローマ帝国に深刻なツケがまわって来たとい             った時代状況となってきた。つまり、かってのローマ             帝政期初期までに伸張拡大していったその領土は、い             わゆる他の諸種族人民を打ち負かし、追い払ってその             国境ボーダーラインを設けたものであった。遊牧の部             族や半農遊牧の民らの自由で広大な大地、生活上最も             必要な土地を奪われてきたものであったから、、、、             色々な諸条件、自然的、社会民族史的発展状況により             ローマ帝国はそのツケの代償を支払わねばならない時             代を迎えたということである。             しかし、コンスタンティヌス1世(大帝)から半世紀             が過ぎてきたさ中、キリスト教が帝国国境内外にまで             浸透発展したおかげで、殺伐とした過酷な状況が少な             からず、いや大いに緩和されたと、その緩衝に益した             と見られよう。             (もっとも大帝以来の神学教義紛糾問題に関わるキリ             スト教公会議の皇帝主導の要請も、ある面で一時は、             地に落ちるような“神の子キリスト、こき下ろし論争             会議”ともなり、説論相手双方の“ビショップ追放試             合の観”を呈するものとなった。だが、このような良             からぬ事態がまた、ちまた社会での反響を呼び、大い             にキリスト教の宣伝、発展に逆プラスとなったと言え             るかも知れない。)        379年 テオドシウス1世  東帝に在位-395年             (347年1月11日生-395年1月17日没)             前東帝ワーレンスが前年トラキアで戦没すると、西帝             グラティアヌスの強い要請任命を受けて帝位する。           **392年西帝ウァレンティニアヌス2世が暗殺(or自殺説)             されると、それ以降、テオドシウスの単独皇帝として             の統治となるが、西ローマ帝国の簒奪者マキシムスを             征討排除してからのことである。           **彼の死後、帝国は2子に分割され、東方が長男アルカ             ディウス(18才)、西方を10才のホノリウスが引             き継ぎ、軍隊指揮官のヴァンダル人スティリコが若年             の西帝ホノリウスを後見補佐する最高実力者となった。                          この頃以降、イタリアは、西ゴ-ト族に侵略されたり、             防備の手薄な西方領土には他のゲルマン諸族が侵入し             て、次々と国を建てはじめる。             ・長男アルカディウスは東方正帝へ-408年4月             ・次男ホノリウスは西方正帝へ、 -423年8月           **テオドシウス帝の宗教政策には驚くべきものがあった。             それは先のコンスタンチヌス時代に定めたニカヤ信条             を基軸内容としたキリスト教を<唯一合法の国教>と             して制定、その宣言勅令を公布したからである。             (テサロニケ勅令)             これは在位して数年と経たない380年2月27日での事             として、<テオドシウス勅令典=法典>の分類内の記録に留             められた様式で知られるものとなったが、、、             (テオドシウス法典=Codex は、後のテオドシウス2世             治世時、429年3月26日以降から集編成し、438/2月告示             439/1月施行のもの。312年から427年分の勅法をカバー)             その布告をなす前に彼がマケドニアのテサロニカにて、             深刻な病に罹り苦しんだすえ、その地に在任のローマ司             教・アスコリウスの執り成しにより、何か奇跡的な癒し             の救いを体験することで、教会伝統の聖なる洗礼をも受             けるに至ったという事柄と強く関連しているものと見ら             れる。                          如何なる異教宗教、教派異端も、伝統的なローマの神々             宗教も非合法のものとして排斥される時代となった。             380年の勅令から388年の<古代ローマ宗教廃絶>             を求める決議案がローマ元老院議員側で最大多数で採択             され法令化、これで実質的にローマ帝国の国教となるに             それなりに年月を要する対処実施過程を経なければなら             なかったが、、、                          まさにローマ帝国は、その時代情勢の要請からをして、             その帝国維持政策をば、大きく変革すべき節目を迎える             ものとなる。(これは、確かに帝国領内と外でのキリス             ト教の影響が大きな趨勢となり、領内の教派的対立や、             領外から入りくるアリウス派系の諸部族他、他宗教勢力             などで、国政の至上的主導権が欠落する、失われる、立             ち行かずといった思惑にかられ、大いに懸念、危惧する             情勢を見て取るような時代背景となって来ていたからと             見られる。)                                381年 テオドシウス帝、東方領域での全教会会議を召集する。             これはコンスタンティノーブル公会議として成立して             いるが、また、一方では、西方ローマを中心とした教             会側からは、単に東方の帝国教会会議と見なした。             (東方の皇帝首位の帝国教会主義は、ローマ司教・教             皇側をして、<国家と教会の自由問題>を強く意識さ             せるものとなる。)           **この会議で、帝国の東の首都の司教が、予定されてい             た総大司教区の地位への承認を定め得るものとなる。        383年 ウァレンティニアヌス2世 西帝に在位-392年             兄のグラティアヌスの死後、東帝テオドシウス1世の             支援にて帝位を継ぐ。           **同年ブリタニアのローマ軍から擁立されたマグヌス・             マキシムスの僭称叛旗、ガリアへの侵出の時、兄グラ             ティアヌス帝が、自軍の歩兵長官の裏切りにあい、リ             ヨンで殺される。その折り彼は、東方皇帝テオドシウ             ス1世のもとに逃れた。その後すぐに全面支援を得て             マキシムスの進出を斥け、故兄グラティアヌスの西ローマ             帝位の継承をキープした。             しかし、簒奪者マキシムスは、ブリタニアとガリアの             統治帝位者として383年から388年8月まで踏み止まる。             これはしばし東帝テオドシウスとの交渉合意によるも             ので、西側での共同帝を据えるものであった。             だが、マキシムスはその野心を捨てきれず、387年             再びイタリアに進入し、事をなさんとした。この折り             東帝テオドシウス1世の進軍に打破され、捕えられ、             遂に処刑される。(388年8月28日)           **翌389年の6月13日にテオドシウスがローマにて             凱旋式を行い、また391年まで西ローマ帝国の首都             メディオラヌム(ミラノ)に留まって、西方領域の政             治、軍事、国内外状勢など、その認知把握をなす。             (ウァレンティニアヌス2世は、メディオラヌムの宮             廷からガリアのヴィエンヌの別邸に移され、西帝とし             ての実権権威のないまま不遇状況におかれた。)                     392年 テオドシウスの宗教、教派へのさらなる一元化政策。             これまで宗教政策での一連の勅令を出してきたさ中、             さらに念を押すかの如く再度的に<ローマカトリック             教会を主幹としたキリスト教>を帝国全体の国教とし             て公認、その勅令を下す。(皇帝至上権の発揚顕示)           **この年、西帝ウァレンティニアヌス2世が、ヴィエン             ヌの自邸で死んでいるのが発見される。(5月15日)             彼の後見人で、政務、軍務に関与していた第一人者の             フランク人軍司令官アルボガストの自殺に見せかけた             暗殺とも解釈されている。             (かの18世紀の歴史家・エドワード・ギボン説など)             この後、実質的に西ローマ帝国を牛耳っていたアルボ             ガストが、東帝テオドシウスからの指示を待ったが、             3ヶ月過ぎても連絡がなく、遂に自らの友人でもある             エウゲニウスを次帝に擁立、8月22日に西ローマ皇             帝位に就ける。この傀儡皇帝樹立、西ローマ帝国の簒             奪者アルボガストは、東方帝テオドシウス1世による             討伐の対象とされ、東帝軍との戦争を余儀なくされる。             (392年8月22日~394年9月5-6日)           **西帝ウァレンティニアヌス2世の死後、テオドシウス             は、単独の皇帝として全ローマ帝国領を統治するとい             った向きの体勢ともなったが、そこでは2人の息子へ             の<共同統治の参入>を意図した体制を整える事態と             もなった訳である。        395年 テオドシウス1世帝、ミラノの西方帝の宮殿にて没す。             2人の息子の世襲在位となり、その遺言により東帝、             西帝の分担統治となった。             ●アルカディウス〔18才〕東帝在位-408年4月まで              (377or 378年-408年5/1)             ●ホノリウス〔10才〕西帝在位-423年8月まで              (384年9月9日-423年8/15)               *彼は16才であったとの説も有力視されている。           **西帝ホノリウスの治世代は、その初期より言い尽くし             ようも無く、大揺れ大荒れ、波乱に満ちた西ローマ帝             国情勢ともなり、まさに崩れ行く西ローマ体制現出を             地で行き、その滅亡、終焉を数十年先(いまだ70年余             あったが)に決定付けるが如きものとなる。加うるに             もう一人の若幼西帝ヴァレンティニアヌス3世(425 ―             455年)の治世時も、その傾向を増幅したとも、、。        400年 フン族の西進は遊牧的生存傾向としてこの時期なお続             くものか、この頃、ロ-マはパンノニアを失い、この             地にフン族は、ダキアを含めた大王国を建てる時へと             至る前哨段階を取り得るものとなる。             この西進によりやがて黒海北岸地域から本拠地を移し             変える事に成功するものとなる。             (406年-453年頃まで)             それでフンガリア(ハンガリア)とも呼ばれるように             なったとも??。フン王アッティラの時には、現在の             ブタペストの地を王都にしたようである。           **それ故ゲルマン諸族はまた圧迫、定住拠点を失い、移             動移住体勢を強いられる。主力系西ゴ-ト族は、アラ             リックの迅速な対応により、フン族との衝突の災禍を             かわしてつつ、再び西進、南進、北進へと、トラキア、             バルカン半島全域での軍事的大移動を押し進める。        405年 再びゲルマン諸部族の侵入、大移動の波が起ってくる。             400年前後時期の西ゴート族・アラリックの活発顕著             な動きが刺激となり、ゲルマン諸族の動向への予備的             判断の予見ともなり、西進希求への呼び水ともなる。             以下の項目が何か関連因果的に一つに絡み、時代の大             きな趨勢となってくる。その大々的流れの中での対応、             対処をローマ帝国は、その領域全体において、すでに             無難に行ない、乗り切る事が不可能な状況、体勢に来             ていたと見られる。             ①フン族よる帝国ドナウ川沿線領域内への覇権的侵出。              (405年頃までにパンノニア地方まで進出、その頃              フン族は略奪だけでなく、貢納金をせしめる威嚇戦              術をも用いたりして、族王ルーアの采配指令も巧み              さを増して行く。さらに東西両帝国への傭兵戦術も              その柔と硬の使い分けで縦横になしてゆく。)             ②ガリア地方へのライン川越えのゲルマン諸部族の大              進入(ヴァンダル族、スエビ族、ブルグンド族、そ              してイラン系のアラン族、他にフランク系小種族、              アラマンニの小部族同盟などが拠点割拠の動向をな              してくる。405-408年)               ③アラリック王の率いる西ゴート族のイタリア本土へ              の進出(バルカン半島、アドリア海東岸側から)              アラリックは401年イタリア侵攻を試みるが、402年              に2度スティリコの率いるゴート族やフン族による              ローマ傭兵軍に阻止される。が、スティリコが408年              8月あらぬ讒言嫌疑で処刑されるや、409年9月に再び              ローマ道を進軍し、409~410年の間に3度ロ―マを包              囲、やがて城門が開かれ、3日にわたり略奪される。              その後アラリック・西ゴート軍はイタリア半島をその              南端にまで縦断進行する事態となる。その折りにアフ              リカへの渡船侵攻の目論みを断念せざるを得ず、彼に              代わり、アタウルフがゴート族を率い、再び4014年に              半島を北上、略奪、略食し乍らイナゴの大群のように              進行し、本土北西部からガリア南部方面へと移動する              といった状況となる。             ④上記の如き①から③に関わる時代、その時代状況に因              して、特に405年頃から411年~415年頃までの若年の              ホノリウス帝の時期には、内紛闘争(鎮圧)の事態も              併発し、耐え難き政情不安に晒される。                  この時期各方面ローマ軍団は、自分たちによる皇帝を              擁立できたならと、その危機的思惑があって、現西帝              ホノリウスに叛旗する動向が相次いで起こってくる。              だが伝統的なレギオ〔軍団〕組織で、実力ある規模で              擁立を実行できる軍団は、ほんの1、2の軍団に過ぎ              ない、限られた状況となっていた。              ここにこの時期、相次ぐ擁立にて推戴宣言をなした3人、              或いは4人に関わる事跡、その経過順(及び状況)は、              以下の如くであった。(詳細は次のリンクページにて)              (▼擁立諸皇帝の詳細状況は《こちらをクリック》にて、▼)                           ●〔コンスタンティヌス3世〕:407年(~411年)               ブリタニアに駐在のローマ軍団により皇帝宣言さ               れる。               ブルタニアのローマ軍団はこの当時、非常な危機               意識に駆られており、彼を擁立する前年より2人の               人物を立てたが、不相応(器量、指導力欠如)なる               を見て失敗。人望器量良しとして3人目となるが、               この<コンスタンティヌス3世>なる者の出所は、               古記録、史料等で明白な裏付けとなる証左は出てい               ない。                    ●〔マキシムス〕:409年晩春~411年               先に推戴されたコンスタンティヌス3世の最有力な               支持仕官の将軍ゲロンティウスが、ヒスパニアで               その地のローマ軍団(駐屯守備軍)他をまとめ、彼               らの意向支持をバックに新たに皇帝擁立宣言に至っ               たものである。                            何故に有能且つ忠実に仕えていたゲロンティウスが               コンスタンティヌスを見限ったのか、、いい加減な               動機ではそんな軽率な挙動に出るべくもない。これ               に関しては長年に亘り代々の史家たちの推論する処               となっているが、、、、、              ●〔ヨウィヌス〕:4011年~4013年               ブルグンド族の王グンダハ―ルやアラン族の王ゴアル               の支援を得て擁立される。勿論ヨウィヌス自身は、               ガロ・ローマンの元老議員格の者で、同じゴール               (ガリア)諸州での<ガロ・ローマ文化圏>育ちの               有力貴族ら(先祖以来の元老院貴族層も含めて)か               らも相応の支持を得てのものであった。               ヨウィヌスは、情勢をうかがいつつ、その時の機会               をモノにしようと、自らも策謀的な行動をなしたが、               イタリア本土に侵出していたアラリック、アタウルフと               の関係善処ならず、結局そのチャンス到来の時が西               ゴートのアタウルフにより踏みにじられ、仇となる。                             ●〔プリスクス・アッタルス〕:409年and414-415年               西ゴート族によりゴート王に推任されたアラリック               の再度のイタリア侵出逗留中に、彼の策意により、               対立皇帝として擁立される。                 このアラリックの策動は、スティリコが生きていた               西ローマとの407~8年までの前段階過程からの交渉               の流れ、その延長過程を踏まえてのものであった。                 408年 テオドシウス2世 東ローマ帝に在位-450年7月まで           **彼の生涯は、満2才にもならずして、父帝アルカディ             ウスにより副帝への宣位を受け、さらに父帝の死去に             より8才児にして、ローマ帝国の東方皇帝に在位する             というものであった。             (子供としての成長期、政治、治世の実権の何も判ら             ない時期であり、色々多様に勉学をなして自分形成期             の時を過ごしたと見られる。)           **彼の成長後以降には、首都コンスタンティノプルを守             る大城壁の建造、東方への防衛強化、対外処理に努め             る。             その治世の420年代から440年代の間に外憂フン             族アッティラの侵入に度々悩まされ、ペルシャ・ササ             ン朝との戦争が421年と440年に生じたりもした。           **6世紀の歴史家プロコピオス(パレスティナ、カイザレア出身で             ビザンティン帝国・ユスティニアヌス1世代の最有力な             書記官僚)の記すところによると、丁度彼が生まれ育             った時期は、東方のササン朝ペルシャとの関係が非常             に親密な信頼関係にあり、その王ヤズデガード1世             (399-420年治世)が、父帝アルカディウスの死去の             時(408年)、その遺言書により、ペルシャ王・ヤズデ             ガードに我が子テオドシウス2世の後見を任せたいと             の、その意が伝えられ、ヤズデガードにより、彼の治             世の間は、テオドシウスへの後見養護の支援が実行さ             れたと、記録されている。             (東帝テオドシウス2世が成長して20才頃になるま             での期間、ペルシャ・ササン朝との間には信頼厚き友             好関係にあったと見られる。)             また、このペルシャの支援王ヤズデガード1世は、当時             のメソポタミアの司教マルサや、首都クテシフォン及び             セレウキアの司教アブダアスへの支持にも熱く、キリス             ト教を奨励し、自らもそれに傾倒して、国内キリスト教             徒に礼拝の自由を与える宣言をも発布(410年)した             と記している。        410年 西ゴートの首長アラリックによるイタリア、ロ-マへの             最終的侵略、制覇がなされる。             数年に亘り都が彼らの要求、盟約内容の交渉条件によ             り何度か包囲され、都内の一部への侵略もされたが、             それが遂に大々的な征圧包囲、都城壁の門からの市中へ             の侵入、三日間かけての掠奪行為となった。             この時以来、ロ-マ西帝の実権も、地位も形だけのも             ので、完全に実質的実力が無いに等しい事をあらわに             したとの、一つの見方が採れるかも知れない。           **この頃から、約1世紀の間に帝国領内に侵入してきた             ゲルマン諸部族、ヴァンダル、ゲピード、ブルグント、             フランク、ロングバルド、アングル、サクソン、ジュ             -ト族等、主なる部族はそれぞれに居住地を確保、拡             大し、さらに建国へと進展する部族も出てくる。        411年  ブルグント族は、グンダハールを王に要してライン川             左岸地域(南、西側)を主要地として定住、いち早く             王国の形成をなしてゆく。             この頃、グンダハール・ブルグント族は、アラン族王             ゴールと協同してゲルマニア属州の地(ゲルマニア・             インフェリオル)でガリア・ローマ軍からの名目的司             令官に仕立てられた、元老院格のヨウィヌスを皇帝に             擁立して、西ローマ帝ホノリウスに対抗せしめた。             (ガリアという地方での外来部族勢による初の皇帝擁             立の試み。時代が大きく変化してきた事を示す事象。)             西ゴ-ト族も同様にその後、さらにゴール(ガリア)西             へと進み、ヒスパニア(イベリア半島スペインなど)             に進出して占有地、居住地を拡大してゆく。             (これが<ゲルマン諸民族の大移動>と歴史的に位置             付けられた時期とされる。)             ゲルマン諸族の大きな動きは、フン族の西方移動及び、             回遊侵略活動(4世紀中葉以降~)での影響が非常に             大きかったからだと見られる。フン族の氏族連合は、             350年代には、カスピ海の北岸、ボルガ河を渡り、             黒海の北岸ドン河、およびドニエップル川周辺地域を             生存活動の本拠地として、西方へ活動の場を広げて、             さらに大きな勢力となり、脅威となったからである。             これは、370年前後から、アラン族、サルマタイ族、             東ゴート族、ゲピート族の圧迫、服属、避難の動きか             ら顕著な兆しとなって進展していった。           **415年頃、神学者アウグティヌスは、ロ-マへのアラ             リックの掠略後だが、“神の国論”の執筆を始める。             415年前後から420年頃にかけて完成したと見られる。??                          この大著は、当時の代以降、後々長くヨ-ロッパ世界に             多大な影響を及ぼすものとなる。             (マニ教の二元論的世界観とか、歴史観とかにその二元             的な考えの起点ヒントが隠されているのでは・・?)        415年 アラリック後の西ゴート族を率いるアタウルフは、イタリア             本土からガリア南中から南西部方面に移動していたが、             ホノリウス帝との友好と反目関係の狭間で、遂に軍の最高位             (マギステル・ミリトゥム)に任命されていたコンスタンティウス3世             により港湾諸都市の封鎖を含め、食料困窮攻めに遭い、             ガリアから追い出される。             これは、アタウルフ・西ゴート族が、ボルドーで、再び             対立皇帝としてプリスクス・アッタルスを擁立して、ホノリ             ウス帝との対決姿勢を露わにしたからである。           **この折りアタウルフは避難撤退先のバルキオ(現バルセロナ)             で暗殺される。(8月15日、サルスの元部下による報復)             アッタルスも416年にはシチリア本島の北沖の島(現エオリア             諸島の一つ、リ―パリ島)に追放される。        418年 西ゴ-ト族、ヒスパニア(スペイン)へ進出、同時に支                配地を徐々に拡大するさ中、西ゴ-ト王国を建てる。             その頃すでに首都をトロサ(トウ-ル-ズ)に定めていた             が、それは先のアラリックのイタリア侵入(401-410)             後、その数年後に南方のゴールに拠って定住してゆき、             アラリックの後を継いだアタウルフ(410-415)の下、             ローマへの軍事支援の協約関係を確かなものとなして、             そこを維持し得る状況下に置くものとなった。             (アタウルフ自身は、複雑な権力闘争的な関係の内に             血族的な同族リーダーらや、ホノリウス宮廷の権力者             コンスタンティウス、のちの3世共同帝に、自分のポ             リシー的な動向を阻止され、415年中にヒスパニアへ             先行的に逃れるほかなかった。だが、その事が権力失             墜の弱みと見られ、バルキノ〔現バルセロナ〕にて、機会             を窺がう魔の手により思いがけない暗殺の浮き身に晒             される。)                 また、西ゴート族は、その頃のローマの内紛とヴァン             ダル族の侵出によるイタリアの混乱時期に乗じ、ゴー             ル(現フランス)南西部のナルボンネや、413年には、             要所となる都市トウ-ル-ズを占拠して、その後の有力な             拠点となす。             (その頃ヴァンダル族を中心とする移動の波はすでに             409年10月ピレネー山脈を越えてスペイン北西部から             南東部にわたり領有を目論む状況になってきた。連合             していたアラン族、スエビ族と共に)             418年以降には、トウ-ル-ズを首都として南西ガリア・             アクィタニア(古名:ウクシタニア)に自族民の国家             <西ゴート王国>樹立に至る。           **ヒスパニアのほぼ全域が、410年前後の頃から、東ゲル             マンに属するヴァンダル、スエヴィや、異種族系アラ             ン人らの進出目標地となり、各個それぞれの獲得地域             へと定住していった。 ローマ帝はそれを是認、或いは             黙認する姿勢をとっていたが、、             現地ではローマ側に所属する既存の大土地所有貴族ら             の脅威と不安が増すばかりとなった。そこでローマ帝             ホノリウスは、412年以降アタウルフ(410-415)率い             る西ゴート族(ビズゴーッス)に促がし、ヒスパニアへ             の進出、定住を奨め、その地を譲り任せる方針をとる             ものとなる。(アタウルフはアラリックの義兄弟)             415年以降、大々的にヒスパニアへの侵出をなしゆき、             429年頃には、遂にヴァンダル族を北アフリカへと追い             掃い、移住させた。その後、テオドリック2世王の代             (453-466)からエウリック王(466-484)の代に             は、西ローマとの同盟協約をなした<スペイン王国>             の確立がほぼ完了した。(=460年代以降の西ゴート             王国として同一視され得る)                          次に息子のアラリック2世(484-507)の代、507年に             フランク族クロビス1世のゴール南西部方面への進出             により、翌508年に首都機能を果たしていたトロサ             (トウ-ル-ズ)は征服され、ガリア(ゴール)領を失う。             その時にゴールでの首都は放棄されたままとなるが、             その後、ヒスパニアでの数十年の経過後、560年にな             って、ようやく首都をピレネー山脈を越えたヒスパニ             アの中央部トレド(マドリードの南71㎞)の町に正式に             移すものとなった。             (アタウルフ以後の諸王らの治世:7日在位のシゲリック、             ワリア(415-418)、テオドリック1世(418-451)、             トリスムンド(451-453)、テオドリック2世(453-             466)、エウリック(466-484)、アラリック2世             (484-507)、ゲサリック(507-511)、アマラリック             (511-531)、テウディス(531-548)、             テウディギセル(548-549)、アギラ(549-554)、             アタナギルド(555-567)、リウヴァ1世(568-572)             と共同統治のリウヴィギルド(568-586)、レッカレッド             1世(586-601)と、この後も続いてゆく、、、、。             レッカレッドの代には、第3回トレド教会会議での公式             改宗と共に、キリスト教のアリウス派からカトリック             への転向がなされる。587年―589年)             (西ゴート王国は、711年アラブ・ウマイヤ朝イス             ラム勢力のイベリア半島への上陸制覇まで存続する。             スペイン・イタリア間のロード回廊上の主要な都市・             ナルボ〔ナルボンヌ〕バルセロナと共に719-20年ウマイヤの             執政官将軍アル・サムハに占拠されるなど、、             そんな時代までの長い過程の間には東ローマ・ビザン             ティン帝国・ユスティアヌス1世のイベリア半島ヒス             パニア方面への、かってのローマ帝国領回復のための             遠征があり、それによりビザンティンの協約属国(南             西部地中海側の一部割譲)として、存続を余儀なくさ             れた時期もあった。(554年頃~)             700年代になり、アラブ・イスラム勢力(ウマイヤ             朝)の北アフリカからの進出によって、ヒスパニア西             ゴート王国は最後の時を迎え、滅亡して、一時期混乱             した辛苦の状況となる。             711年西ゴート王国&王朝の事実上の滅亡、719年残党             勢力の完全滅亡。)        423年 ヨハンネス 西帝に在位-425年5月             先帝ホノリウスの後を受けて、ローマ元老院の選出推             挙により帝位に就くが、その後2、3年の内に王族の             世襲派から擁立されたヴァレンティニアヌス3世によ             り斥けられる。             この折り、東帝テオドシウス2世は、支援を求めコン             スタンチノポリスに逃れ来たヴァレンティニアス3世と             その母プラキディアの願いを入れ、慎重に事態、情勢             を見計う中、424年に西方帝ヨハンネスに向け、征伐軍             を差し向け、首尾よく事を果たす。(425年)        425年 ヴァレンティニアヌス3世 西帝に在位-455年3月             テオドシウス1世の娘婿コンスタンティウス3世の息             子で、元老院推挙のヨハンネスを敗り、西ローマの正             帝位を継ぐ。10月23日わずか6歳の幼児にて。             (東方皇帝テオドシウス2世の軍事支援があってこそ、             この在位継承は果たされるものとなった。)             母ガッラ・プラキディアはホノリウスの妹で、よって             彼の甥にあたる。また東帝テオドシウス2世は、プラキ             ディアの甥ともなる。             (かってプラキディアは、西ゴート王アタウルフの人             質となり、彼と正式結婚させられたが、414~5年中に             ホノリウス帝の下、コンスタンティウス3世が、彼女を奪い             返した事で、コンスタンティウスとのその後が成立す             るに至った。)           **後になって東帝テオドシウス2世は、自分の娘リキニア・             エウドキシアをヴァレンティニアヌス3世に嫁がせ、帝国             の東西二つの間の結び付きを強くするものとしている。             (437年以降)           **後の454年、ヴァレンティニアヌス3世帝自身の右腕で、             軍の最高位の長官アエティウスを自らの手で殺害した             事で、翌年の3月16日、自らもアエティウスの直近後続             者2名により、聖ジョバンニ・ラテラノ教会前広場で暗殺される。           429年 ヴァンダル族、北アフリカに建国、 -534年まで             ヴァンダル族は、東ゲルマン諸族系の中でも最有力             なものの一つと見られる。ゲルマン民族大移動時代             中で、最も移動距離が長く、しかも早期から知られ、             歴史的に息の長い足跡をたどっている。             (ローマ皇帝マルクス・アウレリウスのドナウ川流             域国境でのゲルマン諸部族への防衛戦〔マルコマンニ戦争〕             170-180年前後の時代、サルママティア族に付き与             した時から、北アフリカ移住王国時代の534年まで)           **ヴァンダル族のルーツとか原住地とかには中世から             現代まで、異なる説が出されているが、スカンディ             ナビアのスエーデン南部(デンマークの半島を含む)             方面からバルト海南部を渡り、現ポーランドの南部             方面に定住してきたとする説が有力となっている。             この場合は、スカンディナビア現郷での人種的ルーツ、             血族株では、ゴート族や原スエディス系と同種と捉え             られている。                        **415年前後にはイベリア半島中心部から南部、西部、             東部へと半占住して領有地を確保していたが、その             頃、数年遅れで侵入してきた西ゴート族の勢いに押             し出されて、429年には半島から海峡(ジブラルタ             ル)を渡り北アフリカへ。地中海沿岸寄りに南東、             南方へと西ローマの諸属州を征略して行く。             (その十年ほど前から、アラン族と共に協同してき             たスエビ族が西ローマと同盟して、ヴァンダル族に             対抗してきており、その折りから劣勢に立たされて             いた。そこへまた西ローマのお墨付きを得た西ゴー             ト族の来入、もはやこの不利、最悪な状況を回避す             べく、北アフリカへの進出移動を試みるものとなる。)           **        430年 (ラテン教父・キリスト教神学者アウグスティヌス没す。)        443年 ブルグント族、ガリア地方に建国、-534年まで             この部族は、スカンジナビアを起源に南下したとの伝承             に地名や考古学上の裏付けがあるが、その長い変遷過程             には紆余曲折して、定かでない時代を有している。                          紀元1世紀頃、スエーデン南部とポーランドに挟まれた             バルト海上の島ボーンホルムを要所とした一族で、3世紀             半ば頃までに島を引き払いポーランド側に移住する。             しかしその地での定住&移動の年月過程で、他の東ゲル             マン種族、主にゲピードとのいざこざ、衝突へ危険が生             じるようになった。           **現ポーランドの中央部よりを大きく蛇行しながら、南部             国境地域の山系(北に延びるカパラティア山脈の麓端に連             なる)に源を発し、北方バルト海に流れ下るヴィスワ川             (現ポーランドで最長の川)の中流地方を占有した矢先、             ゲピード族に攻め込まれて、徹底潰滅、全滅したとも記             す古代史料文献がある。             (『ゴート史=Getica 』6世紀半ばのゴート族系出自             の歴史家・ヨルダネス著:東ローマ帝国の官僚の出で、             後半生を歴史家として生きた。AD551年頃コンスタンチ             ノープルで著作。<初期ゴート族の歴史>を扱ったもの             としては、唯一残存する古代文献と目される。)                          だが、彼の著とは裏腹に、少数ながら西のライン川の東岸             地域に落ち延びて、生き残った者らがいたらしい。4世紀の             半ば過ぎ(360年)と、そのほぼ40年後に再び史実上に現             れ、諸史料にも記されるものとなる。                        **東ゲルマン諸部族の一部族となるが、ブルグンド族が5世             紀初頭(405-408年)頃、ライン川を越えて西ローマ帝国             領域に移動し、その流域からさらに西方流域近隣まで移住             圏を拡張して、411年以降には国の形成を計り、437年まで             一時、族長王グンダハールにより王国をなした。             この王国については、ローマの将軍アエティウスがフン族             の傭兵を攻め込ませ、潰滅せしめたと、古史料は伝える。             現代的歴史解釈として、これが、第一ブルグント王国=             (ラインラント王国)の興亡となる。                **その後、残留遺民、王族系の者等が、ラインラント地方             から、ガリア南方のローヌ川流域に移住させられ、ローマ             の将軍アエティウスの支援により、その数年後には小王国             ながら、再び建国をなし、しばし拡大する時代を迎える。             この折りブルグント族は再び、外来部族重用のために結ぶ             <フォエデラティ協約>の地位を与えられる。             (443年以降~534年:ブルグンド族自身の最終の第二ブル             グント王国)           **フランク王国に滅ぼされ、その土地はフランク領となるが、             <ブルグンド王>のタイトル名が歴史的伝統の価値を存続             させて、そのタイトル王位・ブルグンド王がフランク王国             系だけでなく、神聖ローマ帝国の継承維持として続き、そ             の帝国の終わり1806年まで歴代皇帝の保持継承となった。             (フランク王国の3分割時代843年~、東西フランクへの             2分割時代870年~、そして一時だけカール3世により、再び             統一、その884~888年時代に至って、880〔888〕年キス             ユラブルグント王国〔下ブルグント〕と、888年ユーラブ             ルグント王国〔上ブルグント〕が成立復興した。その後、             933年にユーラブルグント王国が、前者キスユラを併合し、             それ以降、<ブルグント王国>の名称となり、その首都を             アルルに定めたゆえ<アルル王国>とも通称された。             <ブルグンド王位>タイトルはユーラブルグント王国占有             経由で継がれている。)        446年 フン族の王アッティラがモエシアに侵入、この時、東帝             テオドシウス2世は、戦陣をしき、対峙しながらも、巧み             な外交(財力も要したが)によって決戦を避わし、フン族             の先鋒を西方領土に向けしめた。        449年 東帝テオドシウス2世、エペソ教会会議を召集する。           **キリスト論をめぐる論争で、エウテュケスのキリスト             単性論が正しいと宣言された。これにはアレキサンド             リア大司教の支持があり、コンスタンティノープル大             司教が明言する単性論誤謬説=批判は斥けられた。           **彼の死に至る晩年期の数年間は、フン族の侵入侵略、             及び巨額の貢納にひどく苦疲させられるものとなる。        450年 東の皇帝テオドシウス2世、死す。             マリチアヌス 東帝に在位-457年1月             先帝テオドシウス2世の後を継いで帝位。           **彼も教会会議を召集する。451年10月小アジア側             ボスボロスの近くカルケドンにて開催される。             これは先の会議同様、ローマのレオ教皇の時で、教会             史では、カルケドン公会議として重視されているもの。             この会議では、アリウス主義のキリスト単性論は斥け             られた。        451年 フン族の王アッティラが率いるフン族軍と従属部族軍             (ゲピード、東ゴート他)がライン川を渡り、ガリア             (北フランス地域)へ大々的に攻め入ってきた。             西ローマ帝国は防衛排撃への徹底会戦を余儀なくした。             ローマ将軍アエテェウスと協同ゲルマン諸族(西ゴート、             フランク、ブルグンド他)との連合軍が立ち向かい、             激しい戦闘を交わした。(6月20日)             ローマ連合軍がアッティラ・フン族軍を撤退させる事             が出来たことにより、合戦は勝利したものとなった。             (カタロニアンの戦い=シャロンの戦い in 仏語で)           **西ローマ側の西ゴート王テオドリック1世は、この戦い             で右翼の指揮をとったが、戦場で戦死した。             翌52年にはまたフン族勢が本拠地パンノニアから、             イタリアに侵入し、ロ-マにさらなる脅威を与えた。             ローマへの進攻時、教皇レオの会見、会談の説得によ             り、ローマは破壊される事なく、アッティラはイタリ             アから引き揚げ、自国へ帰った。        453年 フン族のアッティラ王死す。彼のフン帝国は、彼の死             によって、数年と経たぬうちに簡単に崩壊する。           **フン族王アッテラの3人の息子ら間での諍いがあり、             2、3の筆頭有力種族(ゴート系、他のゲルマン種族)             が離反しアッテラの子らとの対決戦争をなす。子らを             打ち破り、東ヨーロッパから追放したからである。             ただ単に権力的に連合組織化された実体の薄い遊牧民             的特質の抜けきらない諸族体制のゆえに何も残すこと             なく解消、消滅していった。                     454年 帝都ロ-マは、アフリカのヴァンダル族に占領され、             ロ-マ皇帝はすでに彼らの〔傀儡〕にすぎなかった。          455年 ペトロニウス・マクシムス 西帝在位-455年5月             先帝ヴァレンティニアヌス3世を暗殺し、元老院の支持             により帝位するが、ヴァンダル族の征威に立ち向かえ             ず、首都ローマから退避する折り、民衆の憤りの投石             に遭い死亡。           **その後のローマ西帝の在位は、ヴァンダル、西ゴート、             ブルグントなど他族の関与が絡むなか、異族出身の軍             務長官リキメルが傀儡帝の存立、廃位に関与する時と             なり、472年7月まで数代の帝位交代がなされた。              ・マヨルアヌス帝=457年~461年、約三月後              ・セウェルス帝=461年~465年、その後空位              ・アンテミウス帝=467年~472年7月              ・オリブリオス帝=472年から僅か4か月の在位                           軍務長官リキメルが8月半ば頃に死去すると、             その後は474年までに、ヴァンダル族とブルグント             族の後押しで、それぞれ代わり代わりの帝位がある。            474年 ユリウス・ネポス 西帝に在位-475年8月             東方ローマ帝レオ1世の支持により、西方帝位回復の             在位を成したが、             ネポスは、ゲルマン出身の傭兵司令官オレステスによ             って追放される。        475年 最後の西ローマ帝国の皇帝として、ロムルス・アウグ             ストゥルスの在位-476年9月4日まで。             ゲルマン人司令官オレステルが自分の息子ロムルスを             擁立、帝位させる。(475年10月31日-476年9月4日)             ネポスは、ダルマティアに亡命中、新たな東帝ゼノン             により正式な西方統治の皇帝との承認を得たが、復位             するだけの勢力支持を確保することはなかった。                 476年 この年の9月、西ローマ帝国の事実上の消滅が起る。               同じゲルマン出身の傭兵司令官オドアケルが、ロムル             ス帝の実父・オレステスを倒して、ロムルスを廃位さ             せる。           **これによって西ロ-マ帝国は、正当なる帝位の継承者             なく、遂に消滅する。             オドアケルは、西ローマを、その帝位と共に東のロー             マ皇帝ゼノンに返上する。(476年9月)             オドアケル自身は、ゼノン公認の代理として、名目上、             西ローマ領域での統治管理の任にあたる方式をとった。             (この政変時を、帝位体制の西ローマ帝国の事実上の             消滅として歴史上解釈されている。行政体制〔元老院             と官職制を中心とする政治機構はそのまま存続、オド             アケルに擁護され、執政官等の権威が回復された。)             その後、東ローマ帝国の内乱(484年~488年)があり、             オドアケルがゼノン帝に叛旗して帝位を僭称したレオン             ティウスに与したので、ゼノン帝は、東ゴート王テオ             ドリックにオドアケル討伐の軍を率いさせ、イタリア             に差し向ける。             オドアケルは、テオドリック軍との2度の戦い(489年             8月と9月)に敗れ、続いて493年に包囲されたラヴェン             ナで、3月5日に降伏、その直後、オドアケルは暗殺さ             れる。             東方帝ゼノンがその討伐中の491年に死去する事で、             次帝にアナスタシウス1世が選定(ゼノン皇后アリア             ドネとの結婚にて)され、その即位後の皇帝アナスタ             シウス1世により、テオドリックはイタリア支配と、             イタリア王の地位を認可(497年)される。             (この事により、イタリアに<東ゴート王国>が実質             的に成立することになる。)         481年 ガリアでのフランク族によるフランク王国の成立。                          ゲルマン民族でも西ゲルマン諸部族の内に分類される             一派で、ローマ帝国の3-4世紀の頃からゲルマニア             西部(ライン川中流域~下流域に至る東岸地域)から             ガリアに進出、定住を計ってきたフランク族は、敵対             側ローマ帝国との交戦、交流をなす過程で、次第にロ             ーマン化されるものとなった。             4世紀後半には、ほんの一部のフランク人にローマの             軍団職や、官職に在り就く者も出てきた。また、その             頃までに<フランク人の王>という、権力称号を帯び             た人物も現れた。             西ローマ帝国の弱体化の過程の末、その衰亡を迎えた             476年の後、ローマの属州ガリアは一地域を除き、             名だけのものとなり、数年後にはフランク族の有力氏             族が、<国の名>を掲げるものとなる。             フランク族はその支族の一つ、サリ族の首長メロヴィ             ング家からクロヴィス(在位481-511)が出る             におよんで、フランクの諸族は、一つの王国に統合さ             れ、フランク王国建国樹立の時を迎える。           **この部族は他のゲルマン諸部族とは大いに異なって、             一挙に故地を離れることなく新居住地を開拓し、着実             な膨張を遂げていった。        493年 東ゴ-ト族のテオドリック王イタリアに侵攻し、僭主             王オドアケルを倒す。             これにより実質上<東ゴート族によるイタリア王国の             出現>という歴史的時代の流れとなってゆく。             東帝ゼノンの命により、オドアケル討伐と西方領土の             回復が、その意図する大義名分であったが、実際には             東ゴート族によるイタリア占拠、イタリア王国成立へ             の流れがその実体となってゆく。           **東ローマの帝都では、この討伐中の491年にゼノン             帝が死去、新帝としてアナスタシウスが即位したが、             それに不服、叛旗した先帝ゼノンの弟・ロンギヌスに             より、内乱がその直後492年に起こり、497年に             ようやく鎮まったというゴタゴタ状況で、西方イタリ             アへの征討事情に関わる政治的対処はお留守となり、             東ゴート・テオドリック王への放任状態のまま進展、             結局、東ローマ帝国直轄の<西方領土回復>とはなら             ず、東ゴート族の半従属的独立王国を認めざるを得な             い結果となる。           **テオドリックは、フン帝国崩壊後、フン族を征圧、従             属化して,パンノニアを拠点に急速にその勢いを増す             東ゴート族のうちで首長としての頭角を現わし、その             頃471年(471/3-526)に即位する。             さらに474年頃、他部族、他種族出の衆群をも束ね             て、パンノニアを離れてモエシア、ダキア、トラキア             方面へと南下して、             何かと東ローマ帝国との折衝交渉をなす時を迎える。             (かって東ゴート族はフン族の侵攻により壊滅させら             れたが、その折には半伝説的な種族連合による、その             東ゴート王国(グレウツンギ)からの亡国遺民となり、             その多くは中央ヨーロッパのパンノニアに移住(これ             も一時期にはフン帝国支配傘下となる)したりした。             その後、東ゴート諸族<族民自称グレウツンギ>遺民は、             数十年後にはテオドリックを王に推戴(471-526年)             して、その下に集合、或いは支持、併合され、他部、             他種族出の者らをも束ね、より大きな集団、多衆群族             <オストロゴーツス>という族称名連合を形成すると             いった経歴を辿っている。)                         480年頃、彼は、東ロ-マとの利害の一致、和親政             策を掲げる。この事が因縁となり、やがて東ロ-マ帝             の命を受けて、今回の西方イタリアの僭主王・オドア             ケル討伐遠征の機会を得るに至る。             488‐490年の間で3度に亘る征討戦を展開の後、             493年にラヴェンナを占領、確保後、そこに新たな統治             政庁を設ける。             名目上は、東ローマ帝政府の代表としてイタリアを統             治する事になるが、実質的には同族の王国を建てる事             になる。(その王国自体は-552年まで存続。)        497年 オドアケル討伐後、イタリアでの<東ゴート王国>成立。             東ゴート王テオドリックが、東ローマ皇帝アナスタシ             ウス1世により、イタリア支配と、イタリア王の地位             の正式認可を得る。                          これにより合法的な東ゴート王国がイタリアに成立す             ることになる。        518年 ユスティヌス1世 東ローマ帝に在位-527年まで             元マケドニアの将軍で、彼は次代東帝ユスティニアヌス             1世の叔父に当たる。        527年 ユスティニアヌス1世 東ローマ帝に在位-565年まで                      **ユスティニアヌスの帝国内の国教政策の一環として、アテナイ             の学園アカデメイア(プラトン創設起源)や、郊外の学園リュ             ケイオン(アリストテレス創設)が共に閉鎖(529年)される。        534年 北アフリカ、カルタゴを首都したヴァンダル王国の滅亡。             東ローマ・ビザンティン帝ユスティニアヌスの帝国軍によって             倒される。(533-4年)        534年 ガリアのブルグント王国の滅亡、メロヴィング・フランク王国             により倒される。(ガリア地域内に割拠したゲルマン部族間で             の勢力紛争となるが、)             その領土はフランク王国に吸収され、遺民もほとんどフランク             族との吸収混淆を辿った領民となるが、<ブルグンディア>と             いう名の分王国として、メロヴィング・クロヴィス1世王の息子ら             及び、その子孫系に継承される。(534年⇒751年頃まで)                          751年にピピン3世により、王朝がカロリングとなると、その王             国の一領域名として<ブルグンディア>という名を存続させ、             その後カール大帝の800年以降、領土が拡大されたフランク             王国がその孫の3人(ルートヴィヒ王の子ら)に分割された際             北西部の一部だけが西フランク領分となったが、その大部分は             ロタ―ル1世帝の皇帝領ブルグンディアとして留まる。855年後             以降、子の代にはイタリア王国、ロタリンギア王国、プロヴァ             ンス王国の領分に3分され、それぞれの名跡を辿ることになる。             ブルグントの名は今日の時代まで<ブルゴーニュ地域圏=2015             年まで>といった変遷名称で名残り留めるが、それまでにフラ             ンス北東部でのブルゴーニュ公、東部地方でのブルゴーニュ伯、             南部アルル地方でのブルグント王国名、及びブルグント王位名             等々として延々と存続、継承されて来ている。        552年 イタリアの東ゴ-ト王国(イタリア王国)の滅亡、東ローマ・             ビザンティン帝ユスティニアヌスの東帝軍により倒される。             (~553年)             (王都ラヴェンナは、540年5月ベリサリウスの東ローマ             皇帝軍に城門を開き、降伏したが、なおゴート軍は、結集し、             新王を立てたりして抵抗を続けて、勢力を挽回、数年後には             ナポリ(543年)など重要拠点を奪還、546年12月にはロ―マ             を取り戻し、戦況は、東ローマのベリサリウスの再度のイタ             リア赴任にも拘わらず、膠着状態が続き、戦時状況が長引く             ものとなった。             結局この戦局状況の打開を理由に、552年4月ベリサリウスが             本国コンスタンティノポリスに召還、そうされる最中に、その代わりの             総指揮官ナルセスが、東ローマ軍を率いてすでに進軍途上に             あり、北方からイタリアに侵攻させる策が遂行していた。             その作戦が首尾よく行き、ラヴェンナを陥落占拠すると共に、             ローマに向けて勢いのある進軍を展開、、、、             その途上中で東ゴート軍との2度の交戦があるも、打ち破り、             さらにローマのはるか南東約2百数十キロでの追討戦でも勝             ちを収めて、東ゴート軍の再起の息の根を完全に絶った。)             〔ナルセスは軍人ではなく、宮廷官僚の政治家、大財務官の             地位まで得た宦官で、皇帝ユスティニアヌス1世からの信頼             も厚かった。彼には戦術家の才も有ったらしく、その巧才が             見事に奏したものと見られる。〕                        **ビザンティンと東ゴートの戦争は、535年頃から始まって             20年近くまで、その戦争状態が継続されたままともなり、             イタリア全土が荒廃と衰退のダメージを被った。           **滅ぼされた東ゴート諸族の残った遺民らは、やがてランゴバ             ルト族などに混淆吸収されていった。           **3世紀末の古代後期から7世紀初頭の中世時代の始まりまで             の時代は、まさに“暗黒時代”と云われるほど市民、民衆レベル             での文明文化的な繁栄進展の豊かさは見られず、衰退を余儀             なくされるほどの時期となった。             (権力、地位闘争と暗殺、内での内乱、外との戦争に明け暮             れるような時代が続き、唯一の希望のひかりは、融合と平和             をもたらさんと努力するキリスト教と、その教会の精神的な             パワー、フロンティア的な奉仕活動であったと見られる。特             に修道院とその多様な仕事&奉仕活動の登場が中世でのより             良き生活文化発展に一翼を担う希望の光ともなった。)        567年 ゲピード族の王国(ゲピディア)が滅亡する。             ゲピード王国(ゲピディア)が、ランゴバルト族(アルボイン             王)と、これと連携したパンノニア・アバール多種諸族群の             連合勢力により、ゲピード(クニムンド王)軍を打ち砕き、             その王国を壊滅させる。             ゲピード族は、先の552年でもランゴバルトの軍勢と会戦             (アスフェルドの戦い)し、大敗を喫していたが、その後、             勢力を挽回してきたその矢先の事であった。           **375年頃、フン族に征圧され、フン族アッティラ時代まで             忠実な従属部族として行動を共にする。フン種族らと共に             広大なパンノニア平原が生存拠点であったが、アッティラ後             の454年ゲピード王アルダリック率いる他族同盟軍により、                         フン族を打ち破り(ネオダ川の戦い)、しばらくカルパティ             ア山麓方面(現ルーマニア)に定住していた。が、504年頃、             東ゴート族テオドリックに追われ、かってのパンノニア平原             に移住、シンギドゥヌム(AD1‐2世紀ローマ化=現ベオグラード付近)             や、その西寄りのシルミウムを中心にして、ゲピード王国を             盛現させている。(510年頃~半世紀余の間:567年まで)        568年 ランゴバルト族、北イタリアに侵入、そこに王国を建てる。             イタリア半島の先まで拡張進展させ、中世イタリア王国とな             るが、ヒスパニアの西ゴート亡き後は、北のフランク王国と             南東の東ローマ帝国(ビザンチン帝国)との三つ巴勢力時代             を8世紀後半まで生き抜くものとなる。           **ランゴバルト王国は774年、カール大帝・フランク王国に             よって倒される。           **ヒスパニアの西ゴート王国は711年、アラブ・イスラムの             ウマイヤ朝のイベリア半島への進出により、滅亡している。 以上
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