2.主イエスの生誕: その歴史的実情
B.C.5年頃、時はローマ皇帝アウグスト時代、主イエス生誕の地、ユダヤはヘロデ大王によって
治められ、その大王が没する2,3年前の晩年頃で、シリヤのローマ総督がクレニオであった時に
主イエスの生誕の出来事。それにについてのいきさつを、古代の聖なる文献ともなる聖書の福音書
(ルカ、マタイ等)を綿密に検証してみると、双方の文言内容の違いから結果する、ある種の問題
点が露わになってくると見られる。
イエスの母となったマリアには、ユダという町に親族のおば、エリザベツがいた。 彼女の夫、
ザカリヤは祭司の職にあり、エルサレムの神殿でその務めをなしていた。妻エリザベツは、その
家系上、モーセ時代(その当時から遡る事千数百年前)のモーセの兄、アロンの家系氏族に属する
娘の一人であった。 世間では不妊の女と見なされて久しく、彼ら二人には子がなく、すでに中年
を過ぎ年老いていた。だが、ザカリヤが聖所内でその祭司の務めをなしている折り、妻エリザベツ
が、子を宿すとの御告げを受け、はたやそのとうりにエリザベツは身ごもる事となった。
その6ヶ月目になった頃、ガリラヤの町ナザレに住んでいたマリアの所に御使いガブリエルが現れ、
彼女に“神の子”を受胎するとの告知をもたらす。マリアがその不思議な告知を受けた折りには、
み使いは、おばエリザベツの事にも触れたので、おばの身重の事がひどく気に掛かり、その後、大
急ぎでエリザベツの住むユダの町に行き、おばとの再会をなすことになる。この時マリアは、身重
のおばの生活を臨見しつつ、3ヶ月ほど滞在して帰っていった。(ルカ1章5-56)
マリアは、自らの体の胎の実を感知しつつ、おばエリザベツを訪問したに違いない。彼女はこの
時、旧約聖書(レビ記等)に記されている、”月のさわり”つまり、月経による汚れと、それにま
つわる”いましめ”の処事から解放された事もあって、それで訪問できる時を得たに違ない。
彼女に臨んだこの現実的な出来事は、彼女自身のしるしとなり、正に『聖霊があなたに臨み、いと
高き者の力があなたをおおうでしょう。、、、』との御告げに関わる実体験の何物でもないような
ものだったでしょう。(ルカ1章35節、参照マタイ1章:18,20節)
**参照: 古代イスラエル民族のモーセ律法に関わる女性の”けがれ”に関する”清め”の
処事(儀式)は、宗教的な規則とベールに包まれた形式になってはいるが、実際的に
は、体の生理、衛生、医療的知識の欠如した古代にあっては、それの代替的な役割を
担っていたと思われる。この潔癖なまでの清潔さを生活慣例として強いた“神の律法”
の意図する処は非常に重要ではあるが、その第二義的な面として、選民イスラエルの
末長き存続のためであり、すぐれた民族になるべきところの優生保持にあった。
マリアの臨月が近くなった頃、時のロ―マ皇帝アウグストの勅令により属領となったユダヤでは、
その最初の人口調査が行われようとしていた。(ローマがその国庫税収を得る基盤整備として)
ユダヤは、その部族、家系的な特質に従って、その人口調査の登録が実施された。(その実務は、
ヘロデ王国政庁の役人がローマの意図に準じて担当、記録したと見られる。)
この時、マリアの夫ヨセフは、すでに身重になっていた彼女をつれだってガリラヤのナザレの町か
らユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。夫ヨセフがその町のダビデの家系の者で
あったからである。(ベツレヘムはエルサレムから南南西に向け8q、ユダ族の獅子ダビデ王の出
生地、ダビデの代以前から、かなり古い時代(イサク、ヤコブの代)から村として存続してきてお
り、ダビデの頃に町の様相となった。旧約聖書で予言されていた<メシア誕生の地>でもある。
また町の付近には羊飼いたちの小高い山野の自然草牧地が広がっていた。)
そのベツレヘム滞在の初め頃、マリアは神の御子イエスを出産する事となる。(ルカ2:1‐7節)
*恐らく実際にはそれは、町に着いて数日後の出来事であったに違いない。 御子イエスがお生ま
れになった夜おそく、最初に<みどり子イエス>を拝したのは、羊の群れの番をしていた羊飼い達
であった。その夜、彼らに天の御使いが現れ、その知らせの言葉を受けたからである。その時の光
景がかなり強力であったが故、彼らは急ぎ動いてみどり子の所に行ったに違いない。(ルカ2:8-20)
さてここで、問題とされる点が生ずる。それはつまり、ルカの福音書とマタイのそれとの間に、
イエス誕生にまつわる記事で、くい違いの矛盾が見られるのではないかという点である。
その矛盾点の材料記事を要約すると、以下のようになる。
@ 東方の博士たち(恐らくサポーターを引き連れた3人の学者たち)のエルサレム来訪は、
いつだったのか、本当に誕生直後だったのか。(博士たちから事のいきさつを聞き出した
ヘロデ大王は不安に駆られ、”2才以下の幼児を目どにして幼子イエスを殺さんとした”
とのマタイ2章16−17節での記事、ヘロドの極悪の遂行対処には、博士たちが去った後
という何日かの時間差が見てとれる訳だ。)
A ヨセフは博士たちが帰った後、幼な子とマリヤを連れてエジプトへ逃避行したが、(マタ
イ2章13−15節では) この避難は、ルカの福音書2章21,22節などに記された日数
が過ぎてからのことなのか。
**誕生後八日が過ぎて、幼な子に割礼をほどこす時となって、、と、21節には記され
ており、さらに22節では
**モーセの律法による彼らの清めの期間が過ぎたとき、幼な子を連れてエルサレムに
上った。、、、と記されている。(ベツレヘムからエルサレムへ)
この母マリヤの清めの期間は、その当時も厳密に守られており、7日と33日、合わ
せて<40日>が定められていた。(旧約聖書のレビ記12章2−6節に記された如く)
そして、
この日数が過ぎたとき、幼な子のためにエルサレムの宮に上り、古来からの定めの
儀式をなしたとある。<初子としての清め、鳩での燔祭の捧げもの等の諸規定儀礼>
(ルカ2:22-24)
B そして、最大の矛盾点のかなめ、ルカの2章39節では“両親は主の律法どうりすべての
事をすませたので、ガリラヤへむかい、自分の町ナザレに帰った。”と記されているのだ。
エジプトへと一時、難を逃れたのはいつになるのか、、、そこではマタイの文書記事の
入り合わさる余地は全く無い。
以上の記事側面から、ルカとマタイの両福音書において、くい違いの矛盾が生じてくるようだ。
ちなみに主イエス様の誕生説話は、これらルカとマタイの福音書だけに見られるものである。
今日19世紀以降の近、現代の聖書批評家たちは、これら両福音書に記された記事は単に後から
創作された“誕生説話”に過ぎない、真実を伝える口伝伝承ではないと、その粉飾性を主張する。
それ故、彼ら批評家にとっては、この際矛盾があろうが、なかろうが問題とはならないのである。
ところが敬虔なキリスト教徒にとって、このような矛盾を提起されると、不信の種となり、その
物語記事の信憑性が疑われる結果となる。それらの記事の解釈、誕生記事そのものの成立云々に
までその思惑は漂うものとなる。
一般的に両者の記事はともに紀元後50年代後半から60年代に記され、成立したとの定説が
ある。マタイ福音書の記者はマタイという名の人で、主イエスに選ばれた12人の直弟子のうち
の一人となった者である。 彼はローマ帝国が治めるユダヤ州の税の取立人としてローマに雇わ
れた取税人であった。 したがって同族のユダヤ人からは全くの嫌われ者で、罪びとに等しい目
で見られていた。ローマ(カイザル)への何がしかの租税を取り立て義務付けることで、その搾
取の手助けをしていたからである。その彼が主イエスの召しの声に応えて弟子となり、ペテロ、
ヤコブ、ヨハネ、アンデレといった主要な弟子たちと共に主イエスに終始同行することとなる。
(マタイ9:9節)彼マタイの才は、後年になって実を結ぶこととなる。以前取税人としての職
にあって、帳文、書記的な物書きの才の経験を踏まえて、のちに主イエスの言動の一部始終を記
事にし、集めて編纂する事への自らの使命を自覚するにいたったからである。
イエスの生誕記事についても、直接母のマリヤから伺い聞いたに相違ない。何故ならば、主イ
エスの昇天直後、彼ら弟子たちは、イエスの母マリヤ、その下の兄弟ら、その他の信者たち総勢
120名あまりが一団となって、原初期のキリスト教団のはじまりを形成しかけていたからであ
る。(使徒行伝1:12−15節) 使徒たちを中心としたこの新しい神の国の民としての一団
は、エルサレムがローマ帝国によって完全に制圧、破滅される(AD70年)までの約30数年の
間にユダヤ、シリヤ(パレスチナ)から小アジア、ギリシャ、ローマへと地中海沿岸地域一帯に
わたって、点々と小さな群れの教会を形成していった。
そんな歴史的状況の中で、使徒の一人だったマタイは、自らの使命を自覚し、キリストイエスに
関するデータを編纂し、まとまったひとつ文書に仕上げることに着手し、それを成し遂げた。
生誕記事に関しても、直接母のマリヤから伺い知ったに違いない。又聞きやマリヤの語った語録
の記録からではないと、証左断言は出来ないものの、、、、。
母マリヤはその折り、マタイにこんなふうに話したかも知れません。
“私が主を生んだ時、東方から見知らぬ博士たちがエルサレムにやって来ました。
彼らはユダヤ人の王としてお生まれになる方の星の現われを見て、ここに来たといい、
そして再びこちらの地でその星を見、その星に導かれて幼な子を拝する事ができたと、
そう博士たちは申されました。その当時の大王ヘロデは、博士たちがはるばる東から
エルサレムにやって来た当の事情を詳しく伺い知っていましたから、その時のヘロデの
暴虐は、ダビデの町ベツレヘムと、その近辺では大変な惨事となったわけです。
(マタイ2:16−18 節にある事件)
その時、私たちは主の御告げによって、エジプトに逃れて助かったと云うわけです。”
マリヤがマタイに伝えた情報はこの程度のものであったでしょうか、しかし、それは作り話でも
嘘でもなく事実であり、真実を語るものであった。 マタイはこの正真正銘の事実をそっくりそ
のまま、博士らの来訪時の事柄に関しては、まさにその事実を生かし引用して、<イエス誕生の
当日、当夜に引き当てるような感じで>、あえてその記事、福音書の第2章にあたる部分を書き
上げたと見なす事ができよう。
と云うのは、イエスの両親は毎年欠かさすユダヤ人の祭り、過越祭にはエルサレムに上っており、
ルカの福音書では、イエス誕生後1カ月半頃にはガリラヤの自分たちの町ナザレに帰っていった
との足どりを読み取ることができ、その後数ヶ月、あるいはその1年以内には過越しの祭りなど
で再びエルサレムに上ったと見られ、その時たまたま先の誕生の時と同じようにベツレヘムに立
ち寄り、親類縁者、知人らに挨拶をした。(かっての出産時には、緊急に洞窟風の広い馬小屋を
世話、配慮された事などのお礼も兼ねて、、、)このおりの滞在中、たまたま東方の博士たちの
思いがけない来訪を受ける事となったとの事実ケースもありとの見方、、、そう推察できるし、
これはまた、あり得る事だとも思われる。
この事は、ルカの福音書の誕生記事に見られるきわめて時間的な明瞭性と比べて、マタイのそ
れには時間的な限定さもなく、無限定な時事象の流れを物語る状況とさえ感じさせる。(マタイ
記事では、ヘロデ王が<2歳以下の男の子>に限定、目安に事をなしているから、誕生の時から
それなりの時が過ぎている。幼子は、まさに満一歳前後になっていたとも推定され得る。)
このような見方をとれば、ルカとマタイの福音書の誕生記事の両者の矛盾関係もたちどころに解
消されてくるであろう。(元々、見かけ上から矛盾しているように見られるに過ぎないと、、)
確かに東方の博士たちの来訪を受けたエルサレムでは、彼らの話を聞いて騒ぎたっているさ中
幼な子イエスを伴ってエルサレムの宮に出かけるであろうか、出かけはしないと考えられよう。
(ルカ2:22−39節)
《*さらなる別の主イエス様の生誕問題について*》:西暦紀元定立と共に、、
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それは、<生誕年>の問題として神学的、或いは歴史的な論争ともなった。それへの問題意識は近代
前後、教会内保有の聖書(写本本)が活版印刷され始めた時代頃から考究されはじめ、啓蒙吟醸し
持ち上がってきたものと見られる。というのは、それは<西暦>が定まった由縁と深く関わったもの
と見られる。その経緯は以下の如く、
中世ヨーロッパの6世紀、525年ローマ教皇庁の有能な教会法、暦法学者ディオニシウス・エクシ
グスが、かねてより問題視されていた<復活祭の日付算出>で、新しい<復活祭日>計算方式とその
算出表を発表する。その折り共に、キリスト・イエス様の生誕を起元とした<西暦紀元という制度>
をも発案、呈上した事で、ローマの教会の暦法基盤は、ユリウス太陽暦ベースでの<新復活祭日付算
定表>とキリスト生誕年を紀元とした年号を当てる<新年紀法>を採用可能とするに至る。
これは、ユダヤ教の過越の祭日と、ローマ教会が伝統的に遵守してきた<復活祭の日>とがユダヤ暦
とユリウス暦との関係において、532年で一巡一致するという、その当時の見識をベースに、その
当時、たまたま先行的算出で運用されうるとした<ディオクレティアヌス紀元>の279年の年が、
まさにそれの一巡、合致する年である事を発見するに至り、この予見認知によって計算上以下の如く
キリストの生涯年数を満30歳とし、紀元年の1を念頭にすることで、
<ディオクレ紀元279年=532年+31年を加算>での等式が成立、<キリスト紀元563年>
を割り出し定める事になる。
(この時の彼の現在時の年は、ディオクレ紀元247年であり、かの279年からの30と1年とを
合わせての引き算でも合致して、その現在年の翌年(248年)を新考案の<復活祭表システム>の
実施のスタート初年とし、案の上うまく確定し呈表できるものとなる。しかも、その新紀元でもって
現在年も、紀元525、526年と割り出し確定するものともなる。この合致結果を彼は、神様のお導きと
心悟し、人知れず歓喜、驚喜のうちに、もはや我が人生を終えても良かものと思ったに違いない。)
このキリスト紀元法が、いわゆる<西暦紀元法>としてやがて数世紀かけて一般化してゆくが、これ
によりローマカソリック教会内では、過去の教会事蹟の年代や関連する歴史、聖人事蹟の年号が次第
に書き改められ、読み改められゆくものとなる。ヨーロッパ世界でのローマ教会の布教活動、各地へ
の聖職者の派遣などで、その教会教区ベースでの採用でもって次第に広まるものとなる。
7-8世紀、北イングランド出身のローマ・カソリック下の聖職者ベーダ・ヴェネラビリスが著わした
「イングランド教会史」781年頃完結、先住のケルト、ブルトン人からアングロサクソンの7つの
王国に至る一般史的内容にも触れており、しかもそれにはキリスト紀元(=西暦)での年号が用いら
れており、まさに中世に著現した貴重な歴史資料の文献ともなるが、その<紀元暦採用>の伝播過程
での代表的な一事例ともなっている。
時のローマ教皇ヨハネス1世の下で、ディオニシウスはその案件の役目を見事に解決、果たす事にな
るが、新紀元(西暦)定礎に関しては、後々に問題を引き起こす<根=原因>をなんら感知、見出さ
れる事もなく、極めて自然に秘め隠されたまま、ユリウス暦からグレゴリオ暦へと切り替えられる時
代の頃(1582年)にいたり、その西暦がすっかり広く採用、定着する近代の時世となっていった。
彼、ディオニシウスの時代は中世の初め頃で、西ローマ古代の終焉時頃(476年)から半世紀ほどが
過ぎたばかりであり、彼のローマ教会、教皇庁での一員任務の役割は、彼の有能な才力が発揮された
普段の分担任務では、教会文書正典類に関わるギリシャ語、ラテン語双方の翻訳業務を事として限定
されるものであった。位階職としての司祭や司教とは異なり、写本聖書を扱う事はなかった。
当時としては誰もが聖書写本を自らの手元や近くに置くことができるような時代ではなく、教会保有
の聖書は、礼拝典礼の時に司祭、或いは司教が朗読するものとして、そのページが開かれるといった
状況のものであった。(聖書を手元に所有できるようになるのは活版印刷でその発行が十分に可能と
なってきた1500年代初頭の頃以降であるといった事情のものであった。)
それゆえ、彼が考案呈示した<新紀元>には、厳密なる正確さの精度を欠くものとなった。聖書の福
音書でのキリストの生涯年数を良く調べ、吟味する事が出来ないまま、誰しもが一般通常的に認知し
ていた<キリスト満30歳>という既知既成の概念を安易にあてがい利用し得る知的環境下に甘んずる
ものとなった。したがって、いまやしっかり定着した西暦紀元には、問題を引き起こす<根、原因>
の年差の誤差誤謬が定礎当初から内在していた。
つまりキリストの満30歳に達する頃に始まる公生涯としての<3年半>とそれにプラスすること、
ユリウス暦を定めたユリウス・カイザル時(後に紀元前44年で算定)からキリスト生誕までの期間
における年差の日数分(これは、それ以前の太陰暦に似せたローマ暦と一緒にして、ローマ建国元年
からの年代がユリウス暦で算出されているので、)その建国元年が紀元前754年とされているが、
そのうちの44年間が重複し、44年x11日per年=484日分、丁度<1年と4か月>の年差が生
ずる。したがって両方を合計すると、少なくとも、4年半以上、5年以内の年数誤差が、ディオニシ
ウスの<キリスト新紀元>にはその発案定立当初より内包されたまま、何ら気づかれる事なく長い時
を経るうちにすっかり世界中に採用定着するものとなった。
この事が近代以降の人文・啓蒙志向の強い世となり、歴史資料再考や文献資料の年代考証の研究が盛
んになると、にわかに問題化されるようになって様々な聖書批評の始まりの一つの論点ともなるが、
いまや西暦紀元そのものや、紀年史記述の方法は改変できず、不動のままに絶対的位置を占めさせた
ままで運用、<キリストの生誕年>が、ほかの幾多の同時代的史料との整合性のゆえに、その西暦紀
元前(BC)へと移動、繰り下げ暫定、認知される以外にどうしようもなかった。まさにヘロデ大王
の死(BC4年)の直前、一年前ほど位に相当し、また、帝政ローマのシリヤ属州の総督が、クレニオ
(キレニウス)の最初の赴任時期とも符合する、符合させ得るものともなる。
これが<キリスト紀元定立>に秘め隠されていた、<キリスト生誕年>確定、云々に関わる問題点の
内容実情である。
以上にて問題の起因事情が明白化されたとも見られ得るが、それでもなお、妙に不自然に思える疑問
点がもやもやし、拭い切れないと、そう感じる人もあろうか。これは再びディオニシウスその人の立
場を検証するようなものとなってしまうようだが、、、その疑問を彼にぶつけてみれば、、
”彼の時代にはたとえ、福音書の一つだにその写本が手元になかったとしても、その生涯の間に1度や
2度は、それらの一つを熟読する機会があったであろう、、。だからしてキリストの聖なる活動の公
生涯の期間を知らない訳がないし、たとえ熟読の機会がなかったとしても常識として知っているのが
当然である。ならば何故、考慮に入れて算定しなかったのか、、、”
つまり、ここで満30才での算定にての、上記した<合致年数>を優先採用することを全面的に後押
しするような事情が、実は存在していたのではないかとの追究の予知があろうかというものである。
<後押しの事情が彼の内にあってどんなもの、どんな在り方のもの>であったのか、これはもう当時
の教会信仰事情、彼自身の信仰心情から推知する他ないものとなる。
その後押しの答えは、教会の<三位一体の教義信仰>と<彼のキリスト論的な思惑見地>に依拠した
ものであったろう。彼は、キリストの聖なる公生涯期間を、その地上的(歴史)時間に入れない方が
より的確で信仰にマッチすると、、つまり、永遠なる存在次元に止揚するのが、三位一体のキリスト
存在に相応しいとの、彼の信仰心情にて、、、キリストの全生涯そのものがキリストの存在をして、
永遠と時間とがその結合、結実を時間の内に実現成就しているという、その当時レベルの彼の認識観
にて、あえて彼は、その心、地に触れ伏さんばかりに、主キリストの<満30才>だけを、時間歴史
に採りあてがうが最善なりと判断し、それによりその後押し(内観)が完全、完璧に理に適ったもの
として自然なかたちで(彼のうちに)成り立っていると見られる。
次に全くの余談になるが、マタイ書の誕生記事で妙に気になる注目点を取り上げる。
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*博士たちの見た星*:
東から来た博士たちが見た星とは一体どんな星であったのだろうか。現在イスラエル国家の国
旗と云えば”ダビデの星”をイメージしてデザインされたものである。この‘ダビデ星’という
考え方は、相当古い時代、紀元前数世紀前(バビロン捕囚BC590−530年代後以降)から
イスラエルの民衆に定着していったようである。
権威とか威厳とかを感じさせえたであろうこの東方の学者たちは、エルサレムでこの考えを一層
強く呼びさます結果となったに違いない。 大王ヘロデだけでなく、町の有力者らも皆一様に動
揺し、不安を感じたと、マタイ記事は記している。(2章3,4節)
東方の学者とはギリシャ(ヘレニズム)時代になって以降、学問の都としてしばしその栄えを
存続させたバビロン地域(セルウキア)辺りからの使者であったと思われる。かってバビロン又
はその近郊ではユダヤ系の聖書学者らが在住し、その学派活動をしていたから、そういった流れ
をくむ人々だと想定されうる。
彼らがその星を最初に見たのは東の方、つまり彼らの在住の地、バビロン方面であった。そして
その星事象が暗示する予告に導かれつつ、ユダヤ、エルサレムの近郊でも、再びその星を見たと
いう訳である。(マタイ2章9−10)
この謎の星は、エルサレムとそこから南西約8km離れたダビデの町ベツレヘムとの間で、奇
妙な動きをしているではないか。それは天体運行上では考えられないものではないか。マタイの
記事では、確かに博士たちの水先案内の役割をなしており、まさにドラマチックすぎる、おとぎ
話的な状況だと云える。その文節では、博士たちがそんな星のゆえに ”非常な喜びにあふれた”
と伝えているが、そう表現されても不思議ではない。チイグリス、ユーフラテスの両大河の流れ
るバビロン辺りからエルサレムまで、シリア砂漠を迂回しての昔の旅では、1、2ヶ月を要する
事となろう。千キロ以上の道のりである。
博士たちがバビロンでその星を見た後、その数ヵ月後に再びエルサレム近郊でその星にめぐり
あった。その星の運行が地球という天体の周囲をゆっくりと回る星だったのか、それとも太陽系
の惑星のように運行するものだったのか。とに角1、2ヵ月後、千kmほど離れた別の場所でも
見られうるというケースは天文学上起りうる現象であろうか。しかしこの謎めいた星の場合は、
もっと細域な動きを示している。 博士たちの頭上を彼らの足どりに合わせながら南のベツレヘ
ムに向って、ゆっくりと運行してゆくと云う訳だ。しかも彼らのお目当ての幼な子のいる家の上
空でピタリと留まったと云うのだ。
科学知識が極限にまで豊かになった現代では、このような聖書記事での現象は決してあり得な
いことだと、一笑に付されるであろう。 マタイがマリヤから語り聞いたかの時代であったから
こそ、何の不思議もなくその星に関わる博士たちのことが、聖書の伝承となりえたのであろう。
しかし、今となってはその星の正体を解明、探し当てることは困難なことだ。 太陽系諸惑星の
力学的運行や万有引力に反する“神の大いなる力”によって動く星だったのか、それとも大空に
ひときわ輝く星のように光彩する“巨大なUFO”だったのか。、、その星が本当に実在している
のであれば、その真の正体をいつの日にか、その未来になって、その星自らが解き明かしてくれ
るであろう。
*人ゲノムの次元からの所見:
マリヤは ”聖霊によって身重になった”と、その生誕記事は伝えているが、これは一体どう
云うことなのだろうか。 人の肉体形質、その全体と部分の基本ベースは、遺伝子の設計情報に
よって限定制約されていると云う。新ミレミアム時代の到来、21世紀時代になって人ゲノム遺
伝子の全体的解読が成し遂げられようとしている。だが、このような著しき科学の成果も、新た
な第一歩に過ぎない結果として位置付けられてゆくであろう。 人の英知は多方面にわたって、
神の支配する領域のベールを剥いできた。その所産によって世界を観、理解を得てきた。人の体、
その生体現象も、ミクロ次元から捉えれば、ある種の小宇宙として表現できるようになった。
処女降誕説=“ マリヤの受胎 ”というものを、そんな現代的な立場から見ると、とてもあり
得ないことだと、一笑に付されることとなろうか。、、、、、、
“ 聖霊によって、”“ 聖霊によるもの、”という場合の「 聖霊 」という言葉の概念につい
ては、ルターやカルヴィンが在世した時代以前から今日の時代に至った今でも、多くの神学者ら
が論じ解説してきた諸点である。彼らの難しい諸説はさておき、その言葉の語源的起源は、やは
り選民ユダヤ人の宗教的生活生存の歩みの中からおのずと生まれでた言葉である。
彼らユダヤ人の異邦人への区別的な対処、異邦宗教や思想(ペルシャ、シリア、小アジア、エジ
プト周辺の偶像思想)に対する排他的な特質、そういった彼らの心の思いから、異邦の“神々の
霊”あるいは、その一般的に異邦人が使用した“ 霊 ”という言葉に対して、自分たちの“主
なる神の<霊>”という言葉を区別して、“ 聖なる霊、聖なる霊、、=聖霊 ”という言葉を
生み出したであろう事は当然のなりゆきではなかろうか。
だが、この聖霊という言葉は、そういった時代史的な背景、つまり、その精神風土的な成り立ち
が在りてこそ、イエス・キリスト在世の時でさえ、イエスご自身によるその内容的な充足、完成
を実現させうるに大いに寄与するものとなったと云える。
主イエスの時代以降、この神の霊なる“ 聖霊 ”は、神と人との関係的な意味合い上、あえて
簡潔に云えば、第一義的なものと、第二義的なものとに思別して表示することができる。
この第一義的な場合とは、“ 神は霊なり、霊は神なり、”という存在本性そのものであるが、
ユダヤ起源の聖書では、天地万物、世界の創造をなしたる ”主なる神 ”としての“ 霊 ”で
ある。全能なる力(物理的力学的な超常領域をも含めて)だけを捉えた意味では、それは、“神の
<霊>”として、人はそれを想定し表現しうる。 しかし、神ご自身にあっては、その全能なる
御力を発揮するには、人の尺度で言えば、とてつもない、測り知れない、人知を超えた知識を備
えた知力(全知能力)をもっての行使となろう。したがって “ 霊なる神 ”を全体的に捉え、
表現した場合にこそ、神は、人に対して真に“ 神 ”という名にふさわしい存在たりうるものと
なる。
マリヤにおける受胎、その処女降誕は、神のこの第一義的な面から、その神の御業として生起
したものと言えよう。 マリヤの胎内に造られる胎児は、いわば非常な綿密さと、のちに至る可
能性の発現内容を可能な限り秘めたる生体として、その胎内成長がなされていったものであろう。
人の“ 脳 ”とそれに秘められた無限の可能性、(人は未だ脳の全領域を行使できないのだが、)
それは神にとっては、活きた生体のコンピューターを造るようなもので、ご自身の意思を伝え、
反映させる事もでき、いたずらには操作されないけれども、神により操作されうるものである。
(神のロゴスそのものからの神性としては、その精子(遺伝子)は、唯一無二のオリジナルの発
現のそれであり、また、その人性としての源としては、聖別されたマリアの胎内(子宮機能)で
の、その<卵子>も、神の霊により最良のものとして、つまり、あたかもかってのエデンの園で
のエヴァの原初にさかのぼる如くのそれ、またはそれ以上のものであり、且つ、選別された最善
の遺伝子(情報)のそれにおいての受精、聖なる受胎の受肉化であったと言える。)
神の子イエスの場合の胎児成長における“ 脳細胞 ”の形成発展は、“ 神のことば(ロゴス)”
と、神の子としての“ 人格形姿 ”を“ 天地 ”が創造される以前の次元において、想起されうる
能力の可能性を秘めたものとして、記憶形質的なインプット造作がなされている。だから主イエス
の自らの存在に対する自意識や自己認識が、“私は、父とともに初めからいる。”、“ 天地が造
られる以前から父なる神とともにいる。”と、表明できるようなものとなりえたのである。
(ヨハネの福音書にはこの類の自己認識的なイエスの言葉が多数見られうる。これは、主イエスが
その昇天後以降、愛弟子ヨハネ・その心脳を器<=あたかもかってマリアの胎内に自らが受肉化し
た折りの器・子宮に比的するものだが、>として、在世時には言明表示しなかった内容をヨハネを
介して啓示表現せしめている諸内容があり、他の共観書とは視点的次元を異にしたかのごとくに、
その福音書の様式、あり方構成を特異なものとなしている。)
このようなマリヤの受胎と処女降誕に基づく歴史上のキリストイエスを全て受け入れる事は、真の
神と、その唯一無二の御子・主イエス(神と人との存在関係の真理において、現歴史上に在らしめ
給うた救世主=メシア)を信じること事態につながる訳だが、現代という時代は、なんと不合理で
非業さの渦巻く時代なのであろうか、その知的風土状況は、、ここで何が云いたいのかと云うと、
主キリスト・イエスの存在と、進化を起源とする人間存在、即ち人類進化論とは、双方相成り立た
ぬという不都合な対立関係の現実である。もちろん諸科学のみ(無神論的)に基づいた人類進化説
との場合においてであるが、、、。
この問題についての参照は、次のリンク頁へ、
《6. 神の創造と進化に関わる諸見》