6. 神の創造と進化、救世啓示の諸見


  神様による存在のしくみ:

  諸々の宇宙、即ち何億、いく百何十億光年という彼方の四方八方に存在すると、天体観測等で知ら
  れうる星雲のひとつひとつが、永遠の初めから神の創造によって創り出されたと、本当に信じること
 が出来る者は、神と共にこの世界を継承するものとして、その幸いを得ることとなる。永遠の初めか
 らの、その創造の御業は、その時間的世界の具現と過程にあって、いまや延々とその栄光を今に伝え
 現わすものとなっている。そしてそれはまさに人が意識し、人の頭脳が考え出した時空間の尺度を超
 越した、時空的世界を相対化した光速の何千倍ものエネルギー運動が展開された結果を垣間見るもの
 である。広大な宇宙の創世、それはまさに人間の見地からは、時空を超えた時空のパラドックスであ
 り、その結果的認識が、常に人間の目という一地点からの、その限られたスペース領域にあって、百
 数十億光年という途方も無い理性的数値をかもし出しているに過ぎない。(天体観測における光の偏
 移の計測から計算理論化された机上の数値=暫定観測可能な最大限の宇宙空間として)

  現代科学は、その宇宙物理学や理論物理学等の研究と実験的検証の成果の見地から、壮大な<宇宙
 誕生プロセスの論説>を描きうるほどであり、その極め尽くされんばかりにハイレベルな専門知識を
 所与するものとなっている。その専門知では、<宇宙の起源問題>は<元素の起源問題>でもあると
 いう、両者一体の研究テーマだとの見識に立つものである。そのような立場から導き出された、かの
 有名な宇宙誕生に関わる<原初ビッグバーン説>、この説に関して、世間一般の知識人は、ただそれ
 を鵜呑みにして受け入れるほか無いようなものであるが、頭を研ぎ澄まして冷静に考え巡るならば、
 <超とてつもない論説>だという現実に気づかされるであろう。何故ならば、その説論表意の言わん
 とする真相は、現宇宙に存在する数千とも、その数知れないところの<大小の巨大銀河あるいは星雲
 のすべて>が、その<原初ビッグバーン>という超々ウルトラ現象から、それら星雲等のすべての偶
 発多様なる誕生プロセスを個々に負うたものとして、その形成展開を成した、あるいは今現在もって
 成しつつあるという現象過程を語り表すものだからである。

 我々人間知能の受け容れられうる理性的理屈レベルの次元では、例えば<太陽における連鎖核融合>
 や恒星の末期現象とも云われる<超新星爆発>などの<ビッグバーン>程度のものであろうか。
 そんな<超絶アンビリーバブルなビッグバーン説>での<超ウルトラ爆発現象>も、理性的理屈から
 問い正せば、それが起り得た過程としての<その生起プロセス>をも念頭に入れなければならないで
 しょう。恒星レベルの爆発では、その星の大小によって多様な結果過程を辿ることなるであろうが、
 その現象の起因質料レベルは、既得の諸元素、つまり我々が化学で学んだところの原子番号1番の水
 素(H)から鉄(F)などの重元素なる原子番号何がしかに拠る諸原子の物理現象だと見なすことが
 でいるでしょう。身近かな例が<太陽の核融合現象>であり、水素の核融合で、ヘリウムを造り出し
 ている、ヘリウムだけではなく他の諸元素も作っているかもしれない。太陽の全体的現象、その内奥
 まで知る事が不可能だが、太陽コア(中心核)には、鉄元素の造蓄現象が起っているかも知れない。
 太陽も日々刻々と<現象の進化>を続けているというものでしょう。かの<超絶ビッグバーン>から
 第一の元素なる<水素>が無量に産出されたという考えが成り立つならば、その水素原子核での陽子、
 電子の構造存立への過程レベルの現象をも前提考慮すべきものとなり、中性子、中間子、あるいは、
 陽電子、反陽子といったレベル素子ばかりでなく、さらなる超ミクロな素粒子、荷電粒子などの超現
 象世界を概念モデル設定しなければ、その理論過程は進展しないという限界に来ていると思われる。

  科学という学問における<実証性>を超えたる論説であっても、その科学に根ざし、立脚したるを
 以て、演繹される理論見解は、やはり科学的であり、形而上学的な範疇の学問の類とは知質の異なっ
 た認識世界を示しているという事だが、純粋な意味で哲学や神学が存在の根源とか、それとの関係で
 神の存在とかを根本的に問うならば、形而上学上(on metaphysical)で、その言葉・概念による
 論究を試みる事となろう。このような意味合いで言葉の思惟理性が、形而上的神学での<神の存在>
 の<究極的存在モデル>を省察設定するとすれば、以下のような論理展開の概呈を示すものとなろう。

   【論呈その一】
   <時間と空間>は、本来的に元々、実体も実相もないものであるから、物・物質が存在する
   ことで、それぞれその表相存在を現わすものであるから、如何なる物・質料も存在しない、
   いわゆる<絶対ゼロ>の究極では、時間レス、空間レスの<無限の極大、即無限の極小>と
   いった、理解不可なる<場の在界>を前提とするものとなる。ここでは<光>もなく、その
   <光源因質料>も存在しないゆえ、明度という度合いも<絶対の闇・暗黒>ということをも
   その先天本来なるものとしている事になる。

   【論呈その二】
   さてここでは、物の如何なる物理も光も音も温度さえもない、理解不可能なる<場の在界>
   に、内に居ますとも、外に居ますとも、あるいはまた、共に在り居ますとも、言い定めがた
   き、唯一なる存在者、即ち、無源始・永遠・みずから在りて在る<霊なる神>のおわします
   を観なければならない。人が神を表わし得る唯一の才量手段は、言葉概念をもってより他に
   はその方法の手立ては無い。つまり神から受けた<啓示>、その言葉概念と一なる<啓示>
   をば、再び人が、言葉概念によって表わす以外に、そのすべの正しきが無いというものだ。
   すべてのもの、理(ことわり)の<初めなる方>を言葉による<概念御神像図>をもって、
   捉え観んとする、大それた不可能な試み、一体如何なる<概念御神像図>とならんや、、、
   それは、言葉によりて描き表わしたるや、立ち所にその手の<偶像>となり下がる様な、そ
   んな馬鹿げた滑稽さをさらすだけなのかとも、、そうなるとも知れない。

   【論呈その三】
   その御業、いまだ為されざる初めを現わさんとする、その<御神像図>とは、、、、?
   宇宙創世の初めの、その究極的な始原、及びその接点は、素粒子物理学の視点から見れば、
   物質の究極的本源に遡及したる次元のものと同一視されうるものとなる。   
   その究極的な素粒子次元までの超微粒子的存在は、その起源、始まりがあって存在するに至
   ったというものでもなく、また、神によって創り出されて存在するようになったというもの
   でもない。つまり宇宙創成のための究極的本源質料の源なるもの、すなわち、プリマァター
   (プロトマァター)は、創世に至る以前の、その究極的な始原時点において捉え見たならば、
   本来的に<初めから神と共に存在しているもの>である。活ける神の存在は、存在している
   事それ自体において本来的にエネルギーの発散者であり、その発散エネルギーそれ自体が、
   プロトマァター(物質以前のメタフィジカルなもの=非物質の物質的な性質を帯びたエネル
   ゲイア)なのであるからだ。

   究極的時性次元、あたかも無時間永遠が時間相を創出して、これを取り込み交わるかの如き
   原初のファーストプリミティブな神の創造活動においては、初めに述べた暫定理論値レベル
   での宇宙誕生138億年の遙か以前の活動事象として、(この数値は光の速度を前提、媒介
   手段として用いた空間距離次元から、全く異相な時間次元への転嫁数値に過ぎないが、、)
   その創生質料としての究極素粒子類が蔓延的に放散創出されると同時に、それら自体の、或
   いはその相互関係作用から自発展開される物性(物理的性質)作用の止め処なき発展が、あ
   たかも無限大に繰り広げられるかのように、そのプリミティブプロト空間に生起する。

   神の創生コンセプトに基づくこの放散と、結合集中及び凝縮事象は、いわゆる第一元素なる
   水素を生み出すと共に、無限大にまで及ぶがごとき高圧プラズマ発する<宇宙創成核>を形
   成する。その<創成核>をして、やがて必然の原初的ビッグバーン、即ち、現代天文学的な
   推奨学説の<ビッグバーン>に類比した、諸々の銀河などを形成する起生動力的な素料物を
   放出する現象を生起させるものとなる。そこでは発散放出力速度の比類なき速さ故に、地球
   史とか人類史とかの長い期間を経た後の、今日的な現代天文学からの<138億年>という
   理論数値は、まったく根拠を失い成立しないものとなるほどだ。それには認識のパラドック
   ス、真・偽同在とするような誤謬が潜むからである。
   
   エネルギーを創り出す<神のエネルギア>は、神のご性質特性の一つであり、神存在のご神
   像図を彩る属性と見なしても良い。これは原初プリミティブ、未無な宇宙にあっての活ける
   神のファースト啓示であり、その活動である。未来永劫の最終目標の神格啓示活動、人を創
   造して、その人格形成を嘉しての、その反照的様相事象にあってご自身神格を啓示する、あ
   る前提的な事前啓示場的な事象とは、まさに両極端の関係にある。

   <霊なる神>は、宇宙創成以前の究極始源において、元々永遠の初め本来から、霊なる存在
   として、その存在ゆえに<エネルギー発散>を自然自明な道理としている存在なのである。
   この究極的エネルギーの存在、即ちプロトマャターと、物質素粒子次元までの超微粒子とに
   境界接点が有るかどうか、また転換変移の生起が有るとも無いとも定めがたく、まさにこれ
   こそは究め難い究極の事象のものである。

   現代の天文物理学では、全宇宙に関わる質量存在比が多大なデータから推定算出されうると
   して公表されている。その数値に拠ると銀河や星雲、その他星間物質の諸々、それらすべて
   の全体からの割合は、原子等の通常の物質ベース換算で4.9%足らずである。他は、ダーク
   マターが、26.8%、ダークエネルギーが、68.3%との算定となっている。(観測衛星プランク
   による2013年までの観測データ結果から計算されたもの。)

   したがって<霊なる神>は、<光のエネルギーを衣とする>、しかも<高電子エネルギーま
   での光を衣とする>という<御神像図>を想定することが可能となるわけである。さらにそ
   の上、宇宙創成以前の究極始原では、暗闇、ダークも本来的に自明なものであり、そこでは
   また、<ダークマァター>の存在も発散エネルギーの残象として結果しているとの推定も可
   能となり、そこでは、物質次元度のより高いレベルの創造への、神の御業の対象場的環境が
   出来上がってくるものとなるわけである。

   (こうした究極始原での<光を衣とする神存在の御神像図>は、その存在の<在映姿=在り
   かた様相>をして、それの写似類比の一つのパターンとして、ある高度な完成度に創造され
   た、いわば太陽のような自存で光り輝く恒星などの天体類をそれぞれ、それに似せたものと
   なしていると、言うことができようか。)

   【論呈その四】
   現代世界のこの世は、キリスト・イエスの存在における真理秘蹟の事柄のすべてを超信じら
   れない精神的知的生態状況にまで達しているとも言える。この事は、人間の知的精神的な成
   長に伴う文化人類史的なきわめて自然起生的な真実を示すところの一大宿命であるようなも
   のかも知れない。

   キリスト生誕の事蹟、これは、受肉降臨の真理秘蹟の理念が、生誕事蹟よりも、前々永遠か
   ら先に先行存在しているという、神の隠されたる秘儀に起拠したものである。(旧約聖書、
   その予言歴史、諸々の存在史はこの神の一大秘儀により生起随従させられたものである。)
   現実歴史上における<御子キリストの生誕から始まるすべての存在秘蹟>は、実を言えば、
   神による<全宇宙・世界創造の秘蹟>以上の存在存立意義を有するものであり、全宇宙世界
   創造に先行して在ったところのイデー(理念内容)であったものなのだ。

   キリストによる全宇宙的贖い秘儀の秘蹟は、観られるかたち、感じられるかたちで、可能な
   限り人がその理解受容に至るようにその可能性を意図して、その太陽系およびその系内での
   地球上に現象焦点化、絞り込まれたかたちでの、神による暫定想設的啓示場世界での生起実
   現となっている。
   この事は、神が御子キリストを立てて、御子を介して世界宇宙を贖い、義なる再取得を収め
   て、御子と共に再びこれを人に与えるという秘儀理法の実現成就に依拠するものである。

   顧みるに現代に至る人類史、その確かなる事は、現代的宇宙世界観という次元に在りて特視
   すれば、地球という一個の天体そのものが、人類にとって<歓喜=エデン>の園という天体
   であるという事を、その創成の成らぬ以前から、あらかじめ元々本来的に意図していた可能
   性のものであった。この事は、現代的宇宙観に至りえた視点に立ち得るからこそ、今やそれ
   が意識されうるものとなる。

   旧約聖書伝承での<エデンの園>、この園だけに限定すれば、地球自然史における人類に係
   わる一般史のものとしてのみ成立し、この範疇での歴史一般だけの事柄しか有り得ないもの
   となる。園の豊かさの多種多様な種子などが鳥やその他の生き物、或いは自然条件、風や河
   水により、また後には人により、地球のほかの地域に次から次へと伝播、植生植林されてゆ
   くものと、、、断絶されることなく、それが可能となったことであろう。

   この園は、園だけではなかった。この園の内、その中央あたりの特別な配慮が施されるもの
   となった。この特別な配慮は、2本の実のなる木、アダムがその名称を神から名づけ受けた
   ところの<命の木>と<善悪を知るの木>であった。
   これに係わる人類史の可能性があらかじめ予想され、先に述べた園だけの一般史を全面的に
   贖い、補足するものとして、神の子キリスト・イエスの現世以前、以後の特別史の存立を、
   その結果において観ることができるようになった事は、唯一なる神の最良の配慮、最愛のご
   意図であろう。
   
   現代的宇宙世界観における<地球というエデン天体>、他方は有史以前という知的にアプリ
   オリーな状況段階ゆえに非常に偏狭な小世界感覚、大地的に天を見上げる程度の世界といっ
   た意味合いに等しい時点での<エデンの園の設定>、双方は極めて対比的であるが、その関
   係は、後者<エデンの園>をもって、前者<地球エデン>を象徴暗示するの時間的連続性を
   なしているものである。しかし、事は自然事象的にも、歴史事象的にも、様々な弊害により
   このような関係事を単純に認め、受け入れられるものではなくなっているから、まったく何
   も見えて来ないものとなる。

   この見えない迷妄さ、一寸先も見えない知的濃霧を晴らすといっても、これは、現代科学や
   宇宙物理学の知識、その諸体系と一体をなしているから、如何なる明晰さをもってしても、
   不可能に近いものとなる。つまり、実証知とそれから演繹された仮説か、とれともメタフィ
   ジクスな英知理論かのいずれか一方、二者択一を迫るような事情のものとなりかねない。
 
   20世紀初頭以降、地球史の体系的知識図表がしっかりと構築されるようになったが、これ
   は、地質学や、地球物理学、ひいては宇宙物理学、とりわけ<光速度>の測定値の定立に依
   るところが大である。あたかも無限的な宇宙規模の<空間と時間>を測る尺度を<光速度=
   29万9,792.5km/秒>をもってして当てることが出来るようになり、いまや理論的に秩序
   の整った知的ベースに基づいた演繹的な仮想世界図表や、地球史の仮説体系図表を描くこと
   をも可能となしている。

   <光速度>は、ある面で人間知における仮想尺度であるに過ぎないが、ある面では、物理的
   実証理論の計算上での利用に欠かせない定数値ともなる。例えば、太陽の光が地球の届くの
   に、その距離と光速度の尺度により、500秒(8分20秒)という計算値を得るが、これは、単
   に仮想値(計算値)であって、実測(実証)値ではない。太陽からの光は、単に一様なもの
   ではなく、その速度において、一秒とか、五秒、あるいは十秒で届くような速度をなすもの
   があるかもしれない。(他の諸惑星軌道面と隣共した類的関係上で、地球の公転軌道上に向
   けての太陽光の計算把握に過ぎないのだ。)

   現代宇宙科学では、暫定138~140億年前の頃を現宇宙のはじまりと捉えているが、こ
   れも星天体類や諸銀河の距離計算値からの導出で、ケプラーの第三法則に基づくものから始
   まって、年周視差、ケファイド変光星などの段階を得て、最終手段のハップルの法則までの
   5種段階ほどの梯子(宇宙の距離梯子)により、それぞれ別個の計測算出方法を踏まえて、
   宇宙最深奥の対象銀河等への距離を概算把握しているといったところである。
   (下方の注①:参照)

   だが、このような宇宙科学の見識には、本来的に乗り越えられない問題ベースにあっての、
   結果現存宇宙への追求研究からの所見となるもので、有史以来からの宇宙の様相は目立って
   変わらないとは言え、現代20世紀に至って以降、ようやくにして把握できたところの知見、
   つまるところ、結果現象、現存への様々な追求データを関連した媒介手段(既存の諸知識、
   法則、定理公式、尺度など)により演繹算定、導出された仮想見解に過ぎないものだ。

   例えば、<ビッグバン>という宇宙の始まりの仮説を借用して言えば、極端な事になるが、
   この超高圧、超高密な火の玉(プラズマ)ビッグバンの膨張(インフレーション)が一瞬にして、現在
   所見での全宇宙規模の領域にまで達していたものであったとしたら、時間や距離の尺度とな
   るもの、光速度など、全く通用しないであろう。ただ、結果からの仮定として、仮想的に宛
   がうような尺度でしかない。

   (かって当時ビッグバンと談あだ名された火の玉説は、1927年、カトリック司祭で天文学者・
   ジョルジュ・ルメートルが最初に唱えたものであった。彼の想定した<火の玉(プラズマ)ガス説>
   は、現在認知想定されている全宇宙の広さ規模の10分の1とか、5分の1とかの巨大な規
   模の火の玉タマゴを想起すべきものであった。
   しかし、その規模が、20世紀後半以降に、天文学的な宇宙論の科学的理合性を踏まえた理
   論的把握の追求のため、時間概念、時間過程が、時空一体の四次元という新たな想定の中に導
   入され、その宇宙に係わる理論物理学上の見地から、素粒子次元での<1センチにも満たな
   い火の玉説>の非常に陳腐で滑稽なビッグバン&インフレーションに変容してしまったのだ。)

   ガリレオからケプラーを経てニュートンの近代天文学への確立、彼の万有引力の発見とその
   数学的公式化(力学)は、大いなる知見であった。だが、引力そのものがどうして生じるの
   か、その発生メカニズムが解明されたわけではない。リンゴが木の枝から落ちる、リンゴに
   引力が発生しているわけでない。リンゴの質量が地球の重力作用で重さとなるから落下現象
   が生じるわけだ。小惑星帯に大小無数の個物があるが、そのすべてに引力発現があるわけで
   はないように、宇宙の星間物質も同様に引力を有するものではない。したがって万有と言っ
   ても、それなりの天体構造とならなければ、質量の相互応対作用からの力学的引力関係を見
   い出すことはできない。
   ただ、全宇宙のフォーメーション、レーアウト発展が、その始原から本来的にアプリオリー
   に展開、アプリオリーな状況から新たなアプリオリな現象が生じてくるごとくに、アプリオ
   リーに万有引力運動システムを現象化しているものだ。

   地球形成に関しては、なみなみ成らぬものだ、水の惑星と云えるほど地表面積の3分の2以
   上内外が海洋湖水で占められているからだ。現代の人類文明が維持存続できうるのもこの膨
   大な水のお蔭だともいえる。水や必要な酸素量のある空気だけでなく、生存活動が最高度の
   自由になせる<適宜な重力>を発生させうる地球本体という内部構造的仕組みなど、もう、
   まったくの摩訶不思議な創成天体でありうると言える。

   (この重力発生のメカニズムはまったく解明されていないが、ほかに類比的なものとして、
   宇宙での諸銀河の中心的核となるような天体での強大なブラックホール現象の力に通ずるよ
   うな向きがあるとされている。しかし地球重力は、水で覆われた部分を多く占めた地殻内で
   の特別なケース、おそらく仮定的推論だが、4つ、6つ以上の強力な電磁気力を有する塊団
   による入り乱れの混合流転を成す事で、コア核引力に係わるその自伝調整発現力が重力とし
   て、地表上にまで及んでいるものと思われる。
   また、電磁気力本来の性質特性での、その最終総結束の表われパターンとして、地球磁力線
   の磁界を地球圏空界に表象していると見られる。)
 
   注①:
   (この場合、天文学の専門距離単位は、年周視差の理論に基づき、パーセク[pc]の単位を使
   用、太陽と地球間の距離<1au>に対して、直角三角形を模したその垂直頂点の角度が1秒
   (1/3600)となる距離を1パーセク[pc]と定めた単位である。これが、光速度の時間単位に
   換算でき、約3.26光年強となる。したがってハップルの法則、これはデータ集積からの計算
   の経験法則であるが、その現代的高度の観測技術による<赤方偏移>のデータによるパーセ
   ク計算からの値に基づき、光年単位で換算すると、<130億光年代前後>といった最深奥
   の対象物体が捉えられたものとされている。因みに年周視差が精密な計測値を獲得できるよ
   うになったのは、20世紀後半で、欧州宇宙機関が、年周視差専門に測定できる観測衛星・
   ヒッパルコスを1989年8月8日打ち上げて、観測終了の1993年6月までに、全天における視差
   対象となる恒星、11万8千2百余個ものデータが得られている。その精度は100パーセクの距離
   以下ならば、10%以下の誤差の観測結果であると評価され、<宇宙の距離梯子>での重要な
   礎定段階での精度を上げるものとなった。)

   【論呈その五】
   神の普遍的遍在能力(=偏在性)と限定的臨在能力(=臨在性)、いずれも神の本来的本質  
   特性であり、属性的に自らが啓発生得、自己付与したものではない。

   <神の遍在能力>、これは、瞬時の偏在であり、しかも時間性や時間規制を超越したもので
   あるから、もう人知を超えて、まったく説明も何も出来ない、といった神存在となる。
   かって、光が見かけ上から、その瞬時性を想感させてくれたが、地上のとどく太陽の光が8
   分19秒何がしかの時間を要し、光の速度、時間性が知られている。

   神の瞬時遍在能力は、まさに太陽系領域はおろか、銀河と銀河の諸系間において、その瞬時
   偏在を実現しているものであるから、こんな事は信じられないほどの、驚くべき事だと云う
   ほかない。また、神の意思伝達能力に関しても、その仮想的なネットワークを仮定想定して
   言えば、たとえ宇宙の大きさがその直径が990億光年もあったとしても、その彼方にとど
   く伝達能力は、十数分と掛からないものであろう。
   (こんな事は、実証、証明もできない、空想の馬鹿げた戯言だと、世間一般の人々は、あき
   れてモノが言えないというところであるに違いないが、、、)

   <神の臨在能力>、元々偏在性、臨在性を云々することへの生(成)因形相場が成立現実化さ
   れた存在世界(万物創造の世界)ゆえに生起される<神の活動的色相存在としての御神像>
   を表わしていると云えるものである。本来的にはそういった二面性の表われに即自関与する
   相なき自在一様なる存在者で在られるわけである。
    
   メタフィジクスという言葉概念が想成されうるのも、物質・物理世界が在り、それを前提と
   した知的認識の見境が生じるからであろうか、そこからかっては神をメタフィジクスな存在
   であるとの捉え方も出てきたものであった。
   今では人が神の臨在を観ることの能力を失ったという、ある精神的欠落状態なのか、或いは
   開かれた自由な理性発動の発展方向が不信仰を誘発するばかりで、その能力育成、啓発に事
   欠く無意義な文明環境でしかないという事象的な事柄が併存している。

   このような人間、人世界の良からぬ反照的併存性を払拭するほどに、現世リアルな神の臨在
   性を感知することは容易なことではない。
   確かに“聖書の言葉”が人にとって<ひかり>とならない限り、それは望み得ない事だが、
   有りがたい事にこの太陽系エリヤの地球は、かって以来、神の臨在活動の場、全宇宙創造時
   途上にあって、特別な最深奥なる、計り知れない多様な配慮が込められたる天空系の地球と
   して創り出されたるもの、、、、、
   “初めに神、天と地を創り給えり、地は形なく、むなしく、闇がふちのおもてにあり、、”
   (創世記第1章1節から)
   まさに創造の最終結晶となるような太陽系エリヤとその地球であったということで、神の臨
   在活動の最も顕著なるところというものである。

   人はこの地球上での生活において、古来より一日の時を知り、時節、季節を知り得るものと
   なる。また夜空の全宇宙的な無数の星々の素晴らしい輝きを眺めて、観察の知に目覚める。
   このようなことはなんでもない事のように無感覚なままで生きているような現代人であるか
   も知れないが、太陽系とその地球の在り様がそのようにかく在りてこそ、人がそれに反応し
   うるというものである。月や火星ではそんな風な反応、生活環境を決して味わう事は出来な
   いのだから、、、、現代においては、月や火星の事が非常に良く知られるようになったが、
   それでもたとえ世界中の国家予算を駆り集め、費やしたとしても、地球における生存と同じ
   ように、同レベルの生活が月や火星で出来る程にその環境を整える事は出来ないであろう。

   神の地球に臨んでの臨在活動は、諸々の力(物理的、力学的諸事象)をも伴うものであった
   事は、聖書でも多様に証し記されているものである。(イザヤの時の日時計の異象のしるしも
   その一つ。イザヤ書38章7-8節、列王下20章10-11節、パレスチナ動乱期のBC710年前後の頃)
   神の臨在性は、言葉啓示を本旨、本筋とした上での、計り知れない内容を有した神の意思の
   顕われと一つになるものである。

   一系の民・イスラエルが選ばれた。神がご自身のために聖別された。古代の数千年も前の事
   ゆえ、文書で記録されていなければ、まったく知るよしも無い事である。
   選民イスラエルの歴史は、神のご意図、目的、計画のあることを延々と運んできた運び屋、
   荷担者的器であったと言える。(“神の契約の箱”を運ぶ事の事蹟でもって、それが象徴され
   ているとも。)

   その歴史は、モーセの時、エリヤの時、そして、ご意図などのかなめ、中心となる御子キリ
   ストの時へといたる。モーセの時での強力な数々(臨在性)の印象付け、エリヤの時代でも
   その強力な印象付けはあった。カルメル山でのエリヤの祭壇、まったく火の起こりえない状
   況で、火が燃え立ってくる。神による天空からの強力な目に見えない熱線ビームなのか、そ
   れとも祭壇上での目には見えない原子素粒子レベルからの熱物理の現象なのか、、、、かの
   モーセの時でも、その祭壇の聖別、アロンとその子らの任職制定の大々的な聖儀式の終了し
   たフィナーレには、神の大いなる祝認として、<神からの火>が祭壇に立ち上り起こってい
   るのが知られる。(レビ記9章22-24節)

   一筋縄では行かぬのが人の世、その歴史、選民イスラエルの歴史とて同様、どんな強力な印
   象付けの数々も、世代々々を重ねる事で薄れてゆき、選民ゆえにその折には神のみ怒りによ
   り惨憺たるものともなる。
   御子イエスの時に至りえたのが不思議なくらいで、非常に強い民族意識を歴史的経験から培
   うものとなって、何とかイエス時代に至り得たものだが、ダビデからソロモンの王国時代の
   栄光は、すでに夢影の如くはるか遠くに消え去った時代状況にあった。

   御子キリスト・イエスはそれでも神の国の到来を告げるものとなった。神の国のための教え、
   その人の道の教えは、新たに神の国の民で在らんがためのものであった。また、可能な限り
   いろいろな譬えでもって、神の国の到来イメージを語り、後世への伝承を宜しくした。

   もはや、神の臨在性も、御子イエス自らが仰せられるに、モーセやエリヤの時の目覚しいし
   るしは無いと、、しるしを求める以外に立場のない輩に対して、ヨナのしるしのほかは、、
   大魚の腹の中に三日三晩ヨナがいたように、人の子イエスも地の中にいるであろうと、、。
   (マタイ福音書12章39-40節)
   御子なるイエスは、十字架にかけられ、確かに“地の中”に葬り置かれ、さら三日目には、
   そこから甦り、出られるものとなった。このしるしは、かって彼をとりまき付き随っていた 
   弟子たちに対して、計り知れない神の真言真理を悟らせるに至る強力な印象付けのしるし、
   導源となった。

   神の臨在ご意図は、御子をして、人を第一とし、その贖罪の救いを、その真意をご啓示され
   るものとなった。かくして弟子たちから始まるキリスト教の進展、発展があり、人の世界を
   変えてゆく歴史を見る事ができた。何はさて置き、まずその最初は、人第一の救いであり、
   また、一方では同時に神にとっては、良かろうが悪かろうが、(人アダム創造以来の)人間
   の自由意思そのものの善認、是認を旨とし得る時代をもたらしえたという事であった。それ
   はあたかも、人の生存、人類史に関わる神ご自身のご内観、観かた対応のリセット、再出発
   を意味するようなものであった。

   人間の自由意思(意志)や、かのエデンの園での“~食べるな、死ぬであろう”という、人の
   死の問題に関わるものとして、神自らのお心の内にある“わだかまり”は、人知れず深いも
   のであったからだ。“死ぬであろう、、”との死の現実事象が、何よりも真っ先に人の子・
   カインの自由意思、その犯罪により生ずるものとなったということは、まさに心傷のごとく
   神が懸念憂慮し給うところの事柄ともなった。

   実際カインがアベル殺しに至った彼の心理的経緯は、その感情的な性格気性からも起りやす
   いものであったとの推察も可能だが、それ以上に彼の普段からの生活上での倫理観、その自
   然の振舞いが良きに高く準じたものであり、そういった生活意識からの考え、自尊心、価値
   判断などが絡んで、犯罪の心因的動機レベルは倫理的ニュアンスから見てそれなりに高いも
   のであったといえる。(一般的な金銭や、男女間、争い係争トラブル等のものに比べて)
   
   そういったカインの一個人としての、心理的な様相(習慣的な考え、感情的な価値判断等)
   が、御子なるイエスの時代の集団的因習社会、それをおり成す人々に比定しうるようなもの
   となっている。内的外的な複雑な階層的な社会の仕組みが絡んで、イエスの身辺にまで糸を
   引いての、御子イエス殺し(十字架刑)であったわけであるが、そこでは父なる神様の総決
   算としてのご自身の“わだかまり”の解消リセットが、主イエス、その御しるしにおいて、
   かたや十分に果たされているとの事由側面が反映されている。

   そして、本旨的意味での、“ヨナのしるしの他は何もない”とされた、御子イエス秘蹟によ
   るキリスト教の大いなる発展の軌跡は、かってのモーセやエリヤの祭壇の火とは異なり、い
   まや御子のしるしと一つなる、神からの“新しい霊の火”“聖霊”を可視的表示した霊的な
   火(これによる一団的バブタイズの成就)により始まるものとなった。そこからの発展成長
   の歴史を観ると共に、人の世はやがて地球規模にものを考えるグローバルな現代へと時代を
   連ねるものとなる。だが、その途上、近代科学とその諸々の学問の発展に根ざした科学技術
   文明の未曾有の主導権益性により、人類世界の方向性が大きく変えられたものとなった。
   (近代的動向への結果と功罪意義⇒注②参照)

   神の臨在性のかって残された唯一のしるしは、まさに御子なるキリストご自身であったとい
   うことになるが、キリスト教会はそのしるしの所産、インマヌエルの栄光を知り、継承する
   ものという次元から言いうるならば、これもまた、霊的な内なる臨在のしるしとなろう。

   神の臨在活動は、かくも太陽系地球・人間界に限定されたもの、しかも言葉啓示を伴うもの
   であり、それに意図、目的などが秘め隠されたものであったから、極めて人間の精神的な内
   奥に深く係わり、その内実性の発展を促がすものとなったということになる。

   注②:
   (近代として歴史的に特徴、位置付け理解されているその時代、キリスト教文化圏における
   文化的価値は、不可抗的な誤謬知見を内包した信仰的世界観と共に失墜してしまい、キリス
   ト教世界の心傷堪えざる躓きとなった。真なる神に向けての文化の弛まざる発展、繁栄の志
   向性や、主導性の意識が低落、消失するにた易くなり、人々、民衆教徒にとって、教会の権
   威性だけが独善的ものと化し、あたかも世俗的な権力のごとく、目だち映るばかりに感じら
   れるものとさえなった。

   現代文明、その華やかな黄金時代を築き、その文明の恩恵に浴する事、未だかって無い豊か
   さを享受しうる現代的意味合いから見れば、近代科学、その諸学問及び、多様且つ、相補相
   益的な科学技術の発展進歩への道程は、人類史上最高の善的評価を勝ち得たものとなったと
   言えるほどに、大いに賞賛されうることであるが、しかし、その時代への道のりは、決して
   なま易しい、順風満帆なものではなかった。古い社会、及び国家的体制の変革、変動を余儀
   なくするものとなった。その市民的革命、民主的集団意識の台頭は、次第にナショナリズム
   の諸国家体制を生み、その列強的競合いの勢いは、結局、その結果なる最悪の果実として、
   たて続けに第一次、第二次の世界大戦という没落的戦火をまねいた。その20世紀の初頭、
   前半期は、過酷な時代として、その時を経なければならないものとなった。
   そのような事態は、近世から近代への過渡期のキリスト教世界の躓きの代償とは比べものに
   ならない程、未曾有の犠牲的代償の支払い、破滅的な損失を余儀なくするものであった。
  
   その大戦後にまつわる顕著な体制的動向は、国家的都市文明の破滅を被る事もなく、何も無
   かった新大陸から豊かな国を築いてきた米国や、戦前、戦中の動乱期、特に第一次大戦時期
   を含めたその前後期の国家体制一新の社会主義革命志向を軸とした動向を生き抜き、この時
   ドイツが敗戦したからその命運が開かれ、著しい共産主義社会体制の連邦国家を築きあげる
   に至ったソビエトが第二次大戦後、その主導性を執るものであった。
   世界がその動勢により二極巨頭の体制での冷戦時代を迎える事となったのは歴史に新しい誰
   もが知る処の現代史的事実であった。そこでは国家の政治、経済に係わる主義思想のヘゲモ
   ニーが世界の領域体制を相築し、二分するほどに、色濃く反映するといった戦後の新たな局
   面を全面的に晒け示すものとなった。

   しかし、科学技術の進展は戦後以来、驚異的な高度発展をなし、80年代以降、エレクトロニクス産
   業革命へと華々しい成果を成し遂げた。エレクトロニクス・テクノロジー導入必須のIT産業社会へと変貌
   し、この新IT革命のグローバル化が、まさに先の冷戦時代の動向を押しのけ、終息させる
   有力な背景、趨勢要因ともなったといえよう。(東側諸国陣営の長ロシア・ソビエト連邦は
   そんな世界的動向に対して、自国の体制体質の不適応な遅れや、東側のリーダーとして、今
   や不的確な存在として意識せざるを得ず、東側諸国の離反的動揺を鎮消することも、足並み
   をそろえ統率することも出来ない状況となっていた。ゴルバチョフが国政及び社会改革=ペ
   レストロイカに踏み切るべく、その大いなる決断をなすおり、その切っ掛け、踏み切り後押
   しとなったのは、かの大変な惨事、チェルノブイリ原子力発電所の爆発事故での対処、対応
   に関わる情報入手に最悪な不備状況を世界にさらけ出した事にその強因があったわけだ。そ
   のゴルバチョフの改革動向の数年後、直前に側近らによる改革路線への反動的クーデターま
   がいの動きがあったが失敗に帰し、この事態からゴルバチョフ自らの失墜、その政権の崩壊
   をまねき、1991年ソビエト連邦解体へと事態が進展した。)

   だが、現代的な趨勢への状況は、決して全面的な楽観を許すものではない。イスラム系社会
   以外の政教分離の諸国間体制の世界は、無神論的であると同時に、それぞれに国柄、国体的
   な政治的ヘゲモニーを内に有して、国益、繁栄の増進を計り、それにまつわり、自防衛の名
   の下にメガトロニクス的な軍備の増進、拡大を顕著なまでに成しつつあるからである。この
   ような傾向が、いつの日にか未来における最終戦争を仮定した予見に結びつけて捉えられた
   ならば、まさに知らず知らずのうちにその準備を着々と行なっているような感ともなる。
   また、諸国の為政者らは、互いに自分らの生き残りをかけ、最終戦争を前提とするような、
   国威の発揚、国民国家の防衛意識の増進、高揚を画策するごとき、気づかぬままに巧妙にも
   現実事象そのものがプロパガンダの役目をなすように、事あるごとに様々なかたちでマスメ
   ディアがすり込ませているようなもの、といった良からぬ可能性も予見しうる状況である。

   反キリストの主導する諸国間の国家国益ヘゲモニーの世界的趨勢は、今後、どこまで世界の
   平和的繁栄を持続しうるか、その善的開発、発展の実益を伸ばせ得るかなど、未来への命運
   を左右する鍵ともなるがごとき実情を呈している。

   近代への曙、ルネッサンス、プロテスタント改革運動の時代から500年を経た現代視点から顧みるに、
   その当時のキリスト教世界での中核的地位にあったカトリック教会の永きに亘る知的活動の
   所産は、決して単なる過去の無用な遺物として打ち捨てられるものとはならなかった。それ
   までの神学書など、関連の諸文献は、医学、哲学、天文など、他の諸科の文献に比べ、はる
   かに膨大な書量のものであった。近代以降に至っては、新勢のプロテスタント教派の有力者らが、
   それらの所産からの知的継承をなし得るだけでなく、聖書研究への多角的な視点も開け、よ
   り一層の進展が可能となり、多視点的にその新境地の諸目的研鑽の発展を形成してゆくもの
   となった。

   現代へと至るこの新たな思潮のプロテスタント神学活動は、英国国教会系及び諸派、ドイツ・プロテス
   タント、オランダ、スイスなど、幾多の新教諸派の発展経路を機として織り成し、米国における
   までの20世紀中に至る数々の現代的諸神学の大成を結果するものとなった。
   ゆえに近代前、15、16世紀までのローマカトリック教会系の、権威の高揚たる諸神学の
   構築大成は、決して無用の産物ではなくて、むしろ大いなる有用堅固な土台、足跡のもので
   あったといえる。もし、そうでなかったならば、やがては東洋との出会いの時、その宗教思
   想における、はるかに高度な主体的心昇性、求めゆくものへの熱烈精進的情熱の伝統、東洋
   のすぐれた宗教思潮の大成に飲み込まれ行く結果とも成りかねない事になったであろう。)
   この注②の文言が長くなり、本論のほうが困惑ハテナですが、ここで以下、本文筋の続きに
   再び戻ります。、、
      
 そんな論呈五でのキリスト存在においての神の臨在性という事蹟ゆえに、人類が依拠する太陽系宇宙
 は、神の唯一の目的・意図的な臨在活動の場となったとの見識を得る。だが現代の天文知見からは、
 銀河の無数在拠した広大無辺的な宇宙規模を実感し得るにあっては、今や太陽系天体群の存在の意義
 さえ見失うほどその実意感が欠けたものとなっている。太陽系宇宙がただ単に極小のありふれた存在
 に過ぎないとさえ見られ得るものとなるからだ。認識理性のあり方、その是非当否が問われる処とも
 なるが、ただにその存在意義を問い正すとすれば、太陽を中心に小宇宙の形成がなされ、即、同時に、
 あえて<命あふれる地球中心を旨とした理念内容>の<生命中心志向型の体勢宇宙>が創出されてい
 るという現実実証そのものを直視、直観しうる事象世界ではなかろうか。
 
 この地球を中心とした命の太陽系宇宙は、決して<偶然>に出現でき得る筈がない。この命の体系宇
 宙は、100パーセントの確率で、その偶然出現ではあり得ない、そんな偶然は不可能なのである。 
 神による創造プラン、その活ける設計図があってこそ、その出現が可能になるのだ。 それが正に神
 による存在そのもののしくみに対応したものなのだ。
 神の言葉、ロゴスがそのすべてを可能となしているのだ。そして、そのロゴスが、人の肉体となって
 出現したこと、人の形姿をとって自らの世界のうちに存在化すること、それが見えざる神の側からの
 神自らの存在の仕組みであり、本来的な在り方の方法である。 神による世界の存在とはそのような
 存在の定理を秘めたものである。

  創世記(聖書の開表の第一巻)の冒頭文言“初めに神、天と地を創り給える。”の時点までを、い
 わゆるインド的(インド流?)な神話文学風的に表現しうるとしたならば、つぎのように語ることが
 正しいでしょうか。、、、

 “「無限自在の創造的思惟能力精神(=ロゴス)の無限の自己意識をお持ちの意識主体であられる、
 <見えざる霊体神>が、いかなる諸時間相も無い永遠のはじめに、その存在の初めからご自身の能力
 と感性(創造することの本来的な喜びの感情)の発動によって、<大宇宙の発現とその展開>が始め
 られた。
 その創造の様は、あたかも両手を千手のごとく動かし、四方八方立体的にその全方位にありて、あの
 リボン体操をするかのように振りかざし振り回して、両の手からいまだ見えざる正と負とに電化され
 た素粒子元素などの物質粒子=原子の軌跡をご自分の考えどうりに創出描いてゆく、その放出された
 無限的に膨大な物粒子群等が、その<原子存在自体間での法則>及び物のある段階的存在過程上での
 物理(量子力学)、理化学反応、高熱力学反応などからの法則にしたがって<力と運動=重力引力と
 その反作用的慣性力、遠心力等>のバランス、アンバランスの熱核エネルギー的展開をなし、諸天体
 の形成および、その諸々の大星雲的な形成をその領域内外的な実勢を生み出しつつ反復展開するもの
 ともなったと。」 ”

 と、このように現代的神話表現を記す事ができるでしょう。これが聖書の<初めの>初めなのです。
 時間も空間も無い、いわば先天本来的にそれらの認知不可なる<初め>にあって、超ミクロの現象の
 創造から超マクロな現象存在への創造が展開されているという事なのです。

  この地球上の諸々の個体生物、あらゆる生命体ももちろん神による設計図(DNA設計)によるも
 ので、環境条件によっては可能な限り多様な種の進化もなしうる存在として創造されたものである。
 神の子、主キリスト・イエスのご在世から丸々2千年が経った。一口に2千年といっても、人にとっ
 ては大変長き時間の経過である。 ノアの契約(旧約聖書におけるノアの箱舟時での神の約束)は、
 主キリスト・イエスの救世の実現成就によって確定し、今に至るまで保持存続されている。この地球
 自体には再創造されうる質料的資質が、ほかの如何なる天体よりも桁違いに豊かに備わっており、神
 の御意志と御力によって今すぐにでも、何時でもそれを実行することが可能となっている。 地球内
 部の灼熱のマントルマグマ、地表の3分の2を覆う厖大な水海の量、これらの質料的資質は、まさに
 神が最終的には再創造を意図して備え有らしめた地球の資質だと云い得るものであろう。

  救世主キリスト・イエスは、”この世に<命(いのち)>をお与えなさった。”この世とは、”人の
 世を含めた、いわゆる古代的な世界観から云えば、”地上的な世界 ”のことで、今で云えば、地球
 上世界のことである。この地球が、今に至るまで存続し得るのは、主イエス・キリストによる神との
 新しい契約の実現成就が、この太陽系宇宙の地球に対して ”存続というかたちの命 ”となってい
 るからである。人と人の世に対しては、その個人の救いと終わりの日の甦りと、その命の文化文明の
 繁栄とが保障されており、それらを支え在らしめうる ”地球存続の命 ”そして 諸々の生物の存
 続の命が、”この世に命を与える ”という主キリスト・イエスご自身の存在の真理として、この世
 に呈示されているのだ。(新約聖書=ヨハネによる福音書の第6章26節~59節の文言から、特に
 33節に言及して、世界の存在の意義を解く)

 さらにこの啓示論説の締め括りとして、<論呈六>を付け加え、秘儀中の秘儀なる神存在の真なる啓
 示内容をもって閉じようと思うが、さらに<その七>までも行かざるを得ないかも、、、。
   
   【論呈その六】
   さて、キリスト教の根幹的教理ドグマといえば<神の三位一体>教説というものであったが、
   この教説ドグマが西方(ローマカトリック)と東方(コンスタンティノープル正教)教会と
   に分裂する時代までに、まさに金字塔のごとく教会神学の権威ある正統性の位置付けを確保
   するには、かなり長い数世紀に及ぶ教会史的道程(古代2世紀から中世6世紀)での数々の歴
   史的経緯、進展状況が見られうるものとなっている。

   キリスト教神学形成の思潮的流れは、この<三位一体>に至る教説神論が、キリスト存在に
   ついての捉え方、解釈のあり方を正否の軸として密接裡に進展し、その神学的主潮を跡付け
   ている。
   この動向は、旧約聖書的ヘブライイズム思潮がヘレニズムおよびグレコローマン思潮文化圏
   のただ中で、キリスト・イエスとその弟子集団(使徒たち)をして、あらたな進展をなして
   いった歴史的事蹟を前提起縁としている。
   初期キリスト教の教会的発展、ローマ地中海世界の各地に教徒集会の教区コロニーが形成さ
   れてゆく中、ギリシャ・ローマの思考思惟ベースでの心的な使役性が非常に顕著なものと成
   らざるを得ないものとなった。

   使徒後教父と目される教会の指導者らは、教会の内から外から、自前の教説活動をなす様々
   な異端に対して、護教、反駁の論を余儀なくされ、自ずとギリシャ的思惟理性でもって、使
   徒たちの信仰遺産(新約聖書となる文書類を含め)と、その中核内容たる<神やキリスト>
   を理論対象となし、その正統性を得た理解のエビデンス的理論教理を公表表明しなければな
   らなかった。この体勢志向は、研ぎ澄まされた思惟理性の萌芽となり、多大な神学所産の伝
   統形成をひた走るものとなってゆく。

   (教説異端として反駁、論駁の対象となったものは、使徒時代から見られた異邦の宗教思想
   のグノーシス、及びグノーシス主義、新プラトン主義に始まり、マルキオン教説(化現説)
   モナルキア主義(サベリウスを代表)、アリウス主義などが、325年の第一ニカヤ公会議
   に至る時代までのもの、 アポリナリス主義が381年第一コンスタンチノプル公会議で、
   異端として排斥された。この公会議では、これがローマ皇帝テオドシウス1世の主催による
   もので、帝国辺境でのゲルマン種族に浸透していたアリウス派キリスト教の強勢が政治上の
   問題となっていたので、再度アリウス主義の異端排除が決議された。

   その後は、西方ではペラギウス主義が410年前後にかけて流行り異端として排斥される。
   一方、東方教会内では、キリスト論論争が主となり、ニカヤ、コンスタンチノプル公会議で
   の正統信条を支持するアレキサンドリア学派と、コンスタンチノプル大司教・ネストリウス
   の説を支持するアンティオケア学派とのキリストの神性、人性の二性問題をめぐっての論争
   が表面化し、431年のエペソス公会議及び、451年のカルケドン公会議で、ネストリウ
   スとその派は異端として排斥破門される。

   ネストリウスは、単性説を唱えたわけではなく、かえってそれを反駁するものであったが、
   ところがその折りに彼のキリスト二性観は容認しがたい不適正な見解に基づくものであり、
   その表われが<母なるマリアの問題>に直結したものとして結果し、その誤謬見識が排斥の
   的となってしまったのだ。

   このエペソ、カルケドン両会議で、キリストの二性一人格の教説が公同教会の正統な教理の
   ものとして定式概念化をなすに至る。それに合せて長き課題であった神論の<三位一体>説
   も正統な信条教義として、いよいよ堅固にその定着概念の正統性を増すものとなる。)

   さて、以上のごとく述べた上で、ニカヤ・カルケドン信条にて、最終結実の定立をなし、そ
   の後の継承を手堅きものとした、<神の三位一体>と<キリストの二性一人格>の教義にお
   ける聖書からの言及、裏付けとなる関連性がどのようであるか、明示しておこう。

   ・<三位一体>とは、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三者を、三つのペルソナ(位格)
    として、その存在をそれぞれに認めうるものとするが、しかし、その本質存在において 
    <ホモウシオス>即ち<同一本質>であるがゆえに、唯一一体、一なる実在実体であると
    の認識にいたるものである。

    *ニカヤ・カルケドン信条時代(325年以降~381年を経て451年の5~6世紀代)頃にあ
     っては、その神学思考も色濃くギリシャ的思惟考究、カテゴリカルな対象把握の定式化
     の傾向を示すものであったからして、
     その定式表現だけにとらわれると、非常に理解しがたい難解なものとなり、その思惟思
     考自体が矛盾に陥っているかの如きものとなる。
    
    この信条教説についての具体的な聖書の聖句典拠の幾つもからの例は以下となるが、父な
    る神と聖霊なる神は、まったく見えざる不可視性の存在であり、子なる神キリスト・イエ
    スにおいて、その両者との交わり啓示、顕現を <力と言葉の御業> の諸事象として現わ
    したものと見なしている。これについては、三つの共観福音書とヨハネの福音書の記事著
    作として、それらの全体から、その全貌をかいま見ることができるとしている。

     マタイの書:その典拠文言{28章19節}
           “<父と子と聖霊との名>によって、~云々”28章19節文、この句では、
           父なる神とする格位などの“神”という言葉が見られないが、それが想
           定され得るとして、<三位格ペルソナ>の裏付け根拠の言としている。

          *バプテスマ(洗礼者)ヨハネへのイエスの訪会の際の洗礼時、これは、ヨ
           ハネが旧約予言の最終権威の人であることを、イエス自身も証し、神の言
           の成就裏付け、及びその認証を公けに表明するためのものであったが、そ
           の折りの異象事象が、<神の御霊>がハトのように自分の上に~~、また
           天からの声が響いてきたということで、

           「これは、わたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」との、神な
           る父の声として、視聴覚的異象を伴っている。 ⇒⇒ 3章13-17節
           (モーセの時代でのシナイ山の異象、主なる神の声とその可視的な映顕シ
           ーン異象との対比の啓示が設けられている。)

           マルコとルカの福音書では、<聖霊>がはとのよう(に=な姿を)で、
           マタイのそこでの表現<神の御霊ミタマ(プニューマ セェーウー)>が、
           <聖霊 ト プニューマ (ト ハギオン)>という言葉表現として、同義語レベルでの
           語彙感覚で用いられている。(1:10-11 & 3:21-22節)

           また、神の子イエス自身は、かっての長い旧約時代での<主なる神>の伝
           統的な神表現を意識念頭にしつつも、新たな独自的表現として、さかんに
           <父なる神>としての、“あなたがたの天の父”表現の言葉を民衆らに用
           いられるばかりでなく、“わたしの父”とか、祈りの時には“天の父よ”
           とか、“アバ、父よ”“わが父よ、”また単に“父よ”であった。
           この表意特性は、幼少年期からすでに心の内に本性として萌芽していたも
           のである。

     ヨハネの書:その典拠文言{1章18節}
           “神を見た者は、いまだかって一人もいなかった。ただ<父>のふところ
           にいます<ひとり子なる神>、そのお方だけが、神を[みずから]あらわさ
           れたのである。”
           
           この文言には、<ひとり子なる神>で⇒<子なる神>と、<父>の表現で
           ⇒<父なる神>が想定できるものとして理解される。

           だが、この書のギリシャ語原典に歴史上の異本(写本)があり、その表記が違
           うことで、読み解釈に相違が生じてくる。原筆原本がいずれであったか、
           3世紀前後から5世紀頃にかけて<三位一体>の信条教義が確定した頃、
           その写本表記はどうであったかなど、少々の留意点となるところだ。

           特に主要な写本群のなかで、ヴァチカン写本が4世紀中頃までのもの、シ
           ナイ写本が4世紀後半、アレクサンドリア写本が5世紀初めとされ、ちょ
           うど、三位一体説に関わる課題が論争の焦点となり、その教義成立への時
           期に符合しているからである。

           (現在、新約聖書の原筆文の古代写本が、全体なものと個々の部分断片の
           ものを合せると、3790余点に上るとされ、ほかの引用など関連文書を
           含めると、5千点余にのぼる。しかもそれらの文言表記(使用語彙も含め)
           の違いは、新約聖書本文全体から見て、1000分の1程度にすぎないこ
           とがその研究検証結果から知られている。)

          *参考までに以下にギリシャ語本文を掲載する。(現在広く使用されている
           ギリシャ語新約は、その研究研鑽結果により、現在では、ほぼ原筆原本文
           の復元と見なされうるとしている。)
          
           “Θεον  ουδεις   εωρακεν   πωποτε;
            セェオン ウーデイス   ヘオーラケン    ポーポテ;
            神ヲ  誰モ~何々ナイ 見タ(者ハ) イマダカッテ
                        μονογενης  Θεος  ο ων  εις  τον  κολπον
            モノゲネース セオス  ホ  ウオン  エイス   トン    コルポン
                        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
            ひとり子なる 神  います方   ふところに
                        του  Πατρος,  εκεινος  εξηγησατο.”
                        ツウー    パットロス     エケイノス     エクセーゲーサト。
               父の    そのお方が (神を)あらわされた。

           上記ギリシャ語文言の<μονογενης  Θεος>のところが、異写本では
           <μονογενης Υιοσフィオス>となり、<神>の語に<御子=Υιοσ>が
           対置しての記述となっている。邦訳では“唯一生まれの御子”となろう。

           日本語での<ひとり子なる>との訳の <μονογενης > は、字義的
           には、“唯一(無二)なる生まれの”或いは“ただお一人だけのうまれの”
           といった意味合いの語彙である。

           異写本と見られるものは、アレクサンドリア写本と、ほかに2点のものが
           あり、また、教父クレメンス、イレナイオス、テルトリアヌス、 ユウセビオス などの文書類にも見
           られるとの調索結果が出されている。

           また、さらに注目すべきは、近代19世紀末(1881年版)英訳欽定の
           改訳版、大変な年月をかけたRVだが、その読み訳は<Υιοσフィオス=御子>
           に依拠したテキストからの訳である。これは、16世紀初頭のエラスムス
           以降の従来伝統のギリシャ語公認版(Textus receptus)に準ずるもの
           であった。だがその欽定英訳のRV版の出版時期に符合するように新たな
           別のギリシャ語テキストの校訂版が、ウェストコット&ホート両氏により
           同年の1881年に刊行、まさに従来TRの改訂版とする目論見、或いは
           それに取って替わるものを意図するかのように出版されている。

           その後のギリシャ語原典版は、英国外国聖書協会から、1904年の初版
           と、半世紀後の1958年の第二改訂版へと継続されているが、これによ
           る系統からの上記当該の18節・聖句は、

           <Υιοσフィオス(=御子)>から<Θεος(=神)>に切り替わっている。

           その版の欄外注釈に<μονογ.. Θεος>読みの写本類など、つぎの
           以下文中に述べたものが記載されている。
           (※英語翻訳のKingJamesVersionの改訂版は、<the only bego-
           tten Son>との訳であるから、アレクサンドリア写本など別のギリシャ語原典テキスト
           によるとも、或いは従来の訳をそのまま適用という事になっているとも。)
           
           もちろん現在使用されているギリシャ語新約テキストは、そういった入念
           な研究結果を踏まえたうえで、シナイ写本、ヴァチカン写本の表記(Θεος)
           の方を採用したものとの評価も。さらにより古いAD200年前後のパピルス写
           本の断片にもその表現文字があり、それへの判断史料となったと見られる。
           (イレナイオス、オリゲネス、及び400年前後頃のラテン教父で、聖書のラテン語訳を
           完成させたヒエロニムスらにも、その使用例が見い出される。)
           (関連参考ページは、ここTR系譜をクリック)

           《原筆原本が本当に<Υιοσフィオス=御子>ではなく、<Θεος>であった
           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
           との完全確定となる決め手はない。そういった事情の下に次のような点も
           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
           考慮されるべきだ。》
           ・・・・・・・・・・
           ①)<μονογενης  Θεος>という句は、その18節の文中だけしか見い
             出されないもので、他のどの個所からも見つからない。ここだけでの
             1回かぎりの用句である。(このオンリーワン用法にどんな意義があったか、
             また、込められたか、著者ヨハネにとって、、といった問いも出てくる。)

             ヨハネの福音書やヨハネの手紙(第一、第二)だけでなく、新約聖書
             全体からも、この用例、つまり、<μονογενης>が、まさに主語格の
             <Θεος>そのものと組みになり、直接修飾形容する形式での句は、あ
             たかも有り得ない事のように皆無である。
             
             因みに、<Υιοσフィオス=御子>を修飾、コラボしたものは、その格活
             用変化してその句を成すものだが、幾ヵ所かに見い出される。
             (ヨハネの書:3章:16、18節、ヨハネの手紙1:4章:9節)

             したがって、こうなると、著者ヨハネがその福音書を記した当時にお
             ける彼の精神的あり方、内的な信仰思潮、教団の内外的思潮環境など
             をも考慮した上で、彼の福音書の成り立ちやその内容形式の在り方、
             特徴などを吟味して、かの当該の妥当性、有りや無しや、その正否の
             判断を可能な限りなすところの手立て、知見とせねばならないようで
             ある。


           ②)<μονογενης  Θεος>という句には、三位一体の教義信条の成立に
             関した歴史的事情に大いに係わるものと見られる向きがあるが、それ
             以外にも少なからず、写本、テキスト翻訳関係に係わる上で、それを
             左右し、現在へと至らしめた条件事情の一つとなるような事柄にも注
             意を向けなければならない。

             その一つの事柄とは、キリストの使徒たちが活躍貢献してゆく、教会
             発展の過程段階から、将来的に教会内にさまざまな問題、課題となっ
             てゆく要素、要因を萌芽、内包してゆくものとなるが、その使徒らの
             後の2世紀以降からは、教会の宣教、教えの要となる聖なる文書、使
             徒らが書き残した聖伝書、書簡の保持、継承問題が最も重要な課題と
             なっていった。広い地域にそれぞれの主要な教会ができてゆくさ中、
             アンティオキアからエペソを中心にアジア州の諸教会、アレクサンド
             リアから北アフリカ方面、ギリシャ本土、果てはローマに至るまで、
             公私共々聖なる書物の写本による相互補充を計らざるを得ない状勢と
             もなる。
             
             ここに写本と、やがて新約聖書となるような諸書の結集、正典への是
             非認定などの問題、また他言語への翻訳の課題が浮上してくる結果と
             なる。
             ここに325年ニカヤ公会議以降、皇帝として教会政策への公益的な
             善政権に目覚めたコンスタンティヌス一世(後に大帝と称される)は
             学的にその分野に秀でた有能なユウセビオス(パレスチナのカイサリアの一司
             教)なる人物を見い出し、重用する。

             当時、新約聖書に関わる正典化について、全地全教会の各個から共通 
             ベースで一致同一の正典化を計るべき強い要望の声などが出るほどに
             いまだ問題となる事情の事柄とは目されていなかった。
             共通の意識は、使徒たちの記したものと、異教のものとは容易に判別
             でき、使徒の名を冠した偽書には注意すべしと言う事で済まされる状
             況であったからだ。

             それでも2世紀後半以後、3、4世紀にかけての教父らや、司教レベ
             ルでの教会各個は、その点に関して自明とする処ではあったが、それ
             ぞれ個々に自らの霊的任意において、正典と見なす書への意識を強く
             有していたことは事実だ。
             その覚醒を促がす刺激を放ったのは、使徒後の2世紀中葉頃、西方の
             ローマ教会内から起った異端者マルキオンのそれであった。

             彼は、生まれ育ったポントスや、エペソ、スミルナなどがある西海岸
             地域での教会の風紀事情に不馴れではなかったから、ローマに来て、
             その教会に入会を許されるや、早いうちからすぐに自論の教説でもっ
             て教会内で分派的グループをなした。そしてその分派的リーダー格と
             なった頃の144年に先達聖職者らの席上で自説を披瀝したところ、
             そこが教会破門の宣告の場となってしまった。(当時はまだ異端尋問
             会議や制度システムはなかったが、、)

             その後教会を離れ、自論独自の教派活動をなし、自分流教会の形成に
             是となる基準文書を選別、採択し、いち早くそれらを正典と命名規定
             して選奨、その定立宣明を掲げた。
             彼の教会破門後の活動は、教会の教理的なしがらみから解放された如
             くにより一層その活動、彼独自の教説による布教はエスカレートして
             ゆき、使徒後の教会情勢で、最初期の異端として、とても無視できる
             ものでない影響力を有するものとなった。その背景には、グノーシス
             という当時の思潮世界があり、それをより一層助長しかねないものと
             さえなった。さらに正統教会教理上においては、ただならにもので、
             神の子・キリストイエスの存在そのものと、旧約聖書そのものをまっ
             たく分断、切り離すことで、マルキオンは自らの教説(グノーシス的)
             を唱えるものであった。
             このような危険な異端が累世する事情から教会は、自身の教会動向に
             どうあるべきか、その対応にいまや強く目覚めるものとなった。

             (異端者マルキオンは、当時のヘレニズム時代ゆえの、色々な学問を
             含めた、哲学から神学など、宗教に係わる分野における多様な思潮が
             まさに彷彿として盛んなりし時代時勢のさなか、その種々多大な影響
             現象を修学的に培い、研鑽するに切磋琢磨した申し子のような存在の
             一人であった。
             いわゆる現代的な宗教家として<宗教学>を論じるといった学者タイ
             プではなく、ある一つの宗派、宗教の創始をもくろむが如き者であっ
             た。したがって、彼の目には、パウロが、まさにキリスト教の創立者
             のように映ったわけであり、彼を模範的な指標となすものとなる。
             また、プラトン学派でのプラトンにはソクラテスあり、パウロには、
             イエスあり、といった構図標榜を抱いていた。

             もちろんその当時、グノーシス主義のキリスト教正統教会への思想風
             習攻勢で、旧約聖書で表示された神の存在そのものすべてと、キリス
             トの存在にまつわる真義をまったくもって粗悪にこき下ろし、空しく
             しうる教説に彼は若い頃から既にかぶれていたと見られるが、、、、
             上記の如く、そういった指標を念頭に、自らの宗教活動を、当世の
             彷彿とした多様な思潮から、その種々なる要素を臆面も無く吸引し、
             その融一発展を目ざし試みる事で、自らの宗教を不動なものに樹立せ
             んとした。
             旧約聖書を除外し、福音書は、ルカの書だけとした極端な<正典化定
             立>の所業は、まさにその帰結とも言える彼の事蹟であった。)

             コンスタンティヌス帝の時代に戻ろう、、、、
             ユウセビオス起用に依る写本作製化における各種の使徒文書類の結集
             総一化は、時代の流れとして、それを成すに様々な条件要素があい整
             った時代ともなったという時勢に負うところのものであった。
             ユウセビオス自身、それに見合う人物であり、彼のカイザリアの聖書
             学校、図書館など、その研究資設環境では優位な立場にあった。
             
             アレクサンドリア学派の流れを汲むものとして、その文献学的研究手
             法も、継承的に培ってきた彼の持ち前の才能であった。
             彼の師パンフィロスと共に、旧約聖書原典だけであるが、オリゲネス
             の非常にユニークな六カ語対訳聖書=ヘクサプラを継受所管し、その比較
             批評研究下にあり、その所産に与かるといった、いわば他にはない先
             進的条件を得ていた。
             また、旧約書に対して、新約諸書に関わる正典化の認別もすでにほぼ
             完了済みといったところであった。

             コンスタンティヌス大帝の特命下にて成したユウセビオスのその成果、
             50部余りの択集写本コデックスは、旧約聖書(セプティアギンタ・70人訳)
             とのつり合いから、おそらく文頭イニシャル付きの小文字(イオニア
             式)体の表記であったと推定されうる。
             これは、驚くべきことである。コイネー・ギリシャ語には、かってすでに
             小文字が案出され、一時期(2世紀前半頃)使用されたことがあり、
             ユウセビオスが、そのすたれていたそれを再利用したということで、、
             だが、
             謎めいた事でもあるかのように、知らず知らずのうちに歴史の(捏造)
             解釈となったものか、それとも実際に隠蔽工作的な策が計られていた
             のか、、、直接的に知る手がかりはそこには一つも、何もない。

             ギリシャ語小文字の発祥由来とか考案とかについては、ラテン語の小
             文字祥出からその成立過程の影に隠れて定かに特定できない。前1世
             紀にあったとも、前2世紀中にその前身となる大文字の筆記体からの
             形式が見られるようになって、、、

             コンスタンティヌス1世(大帝)の新ローマへの遷都 (ビザンティオンに
             隣接建都に6年を要す) の AD330年以降からフランク王国カール大帝
             の西ローマ皇帝権の復興帝位の800年頃までの長い歴史の過程にお
             いて、その期間、大変な変遷、発展の時期を経ているが、、、
             ローマ教会を中心とした西方と、コンスタンティノポリス(=旧ビザン
             ティオン) を中心とした東方教会との親交、確執の相錯綜した交流があっ
             たが、(これは教会の公会議、諸々の司教者会議での初期の段階から、
             その在り方、開催状況に反映し、その影響の影を落すものであった。)

             ローマ帝国の文化的志向性、トラヤヌス代からハドリアヌスの代にお
             いて、当時はすでに公用語としては、ギリシャ語(コイネー)とラテン語
             の二様があたり前となっていたが、ギリシャ文化を凌駕する上で、ラ
             テン語とその文化の高揚が計られ、意図された時期であったろう。つ
             まり、ラテン語が世界中での唯一の公用語であり、また唯一の共通語
             足らんとしてギリシャ語を一掃するほどに、、ところが、実のところ
             各地のローマ風の都市建設での大規模な建築建物としての標榜にとど
             まるのみであった。

             それでもラテン語の大文字正立体式の飾らないデザイン風のレリーフ
             が表象され、ギリシャ風のものとは一線を画するものであったわけだ。
             特に皇帝トラヤヌスらのアジア州および周辺地域(小アジア)への思
             い込みには他と比べて何かと深いものがあった。それは、トロイ伝説
             神話との繋がりで、ラティニ族(ラテン人)のローマ建国起源のいわ
             れに自然と結びつくものがあったからである。
             しかし、ローマ人の願望、ビジョンは、ギリシャ文化の知的所産を乗
             り越えることはできなかった。ギリシャ語を学び、その文化の多様な
             知的教養を身に付ける事がローマ市民、宮廷人のステイタスであり、
             それを欠く事が出来なかったからである。(5賢帝と言われるそのひ
             とり5番目のマルクス・アウレリウス帝は、ギリシャ語でものを書き綴るほどで、
             「自省録」を残しているが、その典型といえようか。)

             トラヤヌス、ハドリアヌスの時代、その夢ビジョンに<水を注す>様
             なかたちになったのは、実はキリスト教の発展伸張であったとも、
             ギリシャ語を用いてのそれは、ラテン語文字には未だ無いところの、
             小文字(イオニア式)を併用しての教勢発展、、皇帝トラヤヌスらは
             自分の神殿を建て、自分の像を造り祀らせて、そのタイトル表示のラ
             テン語を鮮明に打ち出してゆく。その像を崇拝、拝まないキリスト教
             徒を見つけ出し、またその教会所を撲滅、その諸書すべてを焚書にす
             べく迫害の手を強くしたということであった。
             そういった迫害の歴史過程で、ギリシャ語小文字はなりを潜め、すっ
             かり姿を消していったのではないだろうか。

             ラテン語の大文字にあやかってギリシャ語の大文字だけが生き残る。
             元々大文字がその筆記体で頻繁に用いられてはいたが、、、、、
             小文字は言葉の分からない者でも、すぐに大文字との見分けがつく、
             やがて教会内での聖書正典にも格式風のもの、そうでないもの共に、
             大文字によるアンシャル体風の筆記様式が定着してゆくものとなる。
             (“アンシャル”という名を付け、その書式を定義したのは18世紀
             になってからの事)

             その頃、3世紀から5世紀にかけて、ローマ帝国が新たに首都を東に
             遷都した関係もあって、西方ローマ教会など、西方のキリスト教の役
             割、権威が自立的に培われ、高くなってゆく機会が増えたといえる。
             のちにギリシャ教父らに対して、ラテン教父と、歴史解釈的に言われ
             る如くに、波乱に満ちた歴史過程にありながらも、そのキリスト教文 
             化は、しっかりと基礎付けられ発展してゆくものとなる。

             ゲルマン諸族の地中海文化圏への広範囲にわたる流入、移動により、
             ラテン語の公用語、文学文語の水準はかろうじて維持されたものの、
             日常話し言葉の標準化的な広範囲性は全く保たれなくなって行き、そ
             の方言が俗的ラテン語として広範囲に多様化、その文字形体も一律な
             ものではなくなってゆく。
             フランク王カール大帝の時(9世紀)に、よりすぐれたものとして、
             統一化されたカロリング小文字体のアルファベットが定立設定され、
             ラテン語文化圏での言葉、文字の乱れも是正され、一様な小文字大文
             字アルファベットの共通利用という時代を迎えるものとなったが、、
             それへの4世紀末から8、9世紀までの過程での文字形体の変遷の流
             れがギリシャ語、ラテン語双方の文字形体、書式様式等のかかわりの
             中で見られるものとなる。

             ユウセビオスが製作したコンスタンティヌス帝への上呈品写本は、不
             本意ながら彼の意図した目論見どおりに利用されることがなかったよ
             うである。(折り悪く、辺境防備、外征対処に追われ、その上、宮廷
             身内での不祥事、これは策謀にはめられ、有力な長男を誤まって処刑
             してしまったとも、、、ともかく彼の心が定まり落ち着くことなく、
             彼の50品写本に関わる目論見政策は不発に帰したとみられ、お蔵入
             りしたような状態のまま、コンスタンティヌスの死(337年)を迎
             えたが、その後のゆくえは定かでないが、異教徒宮廷人の手に渡れば
             処分される破目になろうとも、、、だが、希少価値ゆえに、一部は外
             部に持ち出され、何らかの裏取引の具財にされ得たとも、、、、

             ヴァチカン写本やシナイ写本、さらにアレクサンドリア写本など、主
             要な写本類の出所の源が、このユウセビオスの上呈品からのものであ
             ったと推定され得る向きもある。すべて大文字アンシャル体に書き換
             え移されてのことであるが、、、そのほかにギリシャ文字の大文字と
             小文字の対照一覧表が、外部にどんどん広がり伝播し、この事が、ラ
             テン語系小文字の幾多への案出契機となったとの見方も取れる。

           ③)ヨハネ福音書第1章冒頭(1-18節)の宣述序言からの文意との関係。
               (関連参考ページは、ここテキスト冒頭をクリック)。


             この文節エリアからの文言と、<神の三位一体の教理>との双方関係
             の間において、両者が互いに矛盾し、反意、異意となるような言句は
             一つも見当たらないように思われる。かえってむしろ、その教理と同
             調、それへの源泉、根拠立てとなっているとの観がするほどである。

             ただこのパラグラフエリアには、<聖霊>、或いはこれと同義な言が
             見られない事と、それゆえ当然その<同位格存在>が明確に言明され
             うるような内容を含んでいるとは言い難く、それを示し得る文言表示
             がそこには何一つ見当たらないという事にも留意すべき点であろうと
             思われる。

             (<聖霊>に関しては、この冒頭エリア文のあと、19節以降のバプ
             テスマのヨハネの事蹟記事に表示されているが、、。その19-34
             節の文中での、32、33節に、その同義語<御霊ミタマ>が出てくる文
             章内容となっている。
             この洗礼者ヨハネがいかに重要であるか、まさに最重要な存在として
             冒頭宣述文<1-18節>の文言構成の一要素をなすかたちで先行呈
             示され、それでもって暗に間接内包されたとする向きも取られ得る。)

             さらに<聖霊=(御霊ミタマ)>に関わる三位一体教理での<聖霊位格>
             の存在についても、聖書全体において示された本来的に真なる啓示の
             関連内容のそれと、何か異差的なブレを生じさせているとの見地に至
             りうる向きも出てくる。
             つまり、<聖霊>とは、旧約聖書において、啓示預言されていた<特
             別な霊>であり、創造の初め以前の永遠性において、初めからその存
             在を有したものではないからである。

             そして、神の子・キリストの在世、誕生・人の子となりし顕現におい
             てこそ、その霊相成立を成し得たものであり、彼存在をとおして、人
             の存在側にも移入、その内住的心性魂の成在化、つまり、聖霊の内住
             とか、宿りとか、聖霊の心内証印とかで言い表されている。

             また、古代のキリスト教原始教会の成立時には、その特別な初源事蹟
             として、記念すべき<聖霊降臨>という事実現象啓示の可視的様相を
             顕現し、その顕在化を大々的なものとさせているというものである。

             旧約聖書での約束の預言、<新しき霊の注ぎ>として、その聖霊降臨
             が、五旬節ペンテコステの節目において成就、大々的な神の栄光とし
             て顕現されるに至ったというわけである。したがってこのような観点
             から、<聖霊の位格>を三位一体に定立移入することは、ブレ誤謬を
             現わしていると言えようか。

             (旧新約聖書全体から見て、<霊諸相>に関する表出、その啓示での
             言葉からは、色々な側面を表示していると言える。

             創世記第1章の初めの“神の霊が水のおもて”を漂い動いているとか、
             “主の霊”とか、これは預言の霊として、或いは王の在位成立に係わ
             るあぶら注ぎのくだる霊として、また、新約・黙示録に記述されてい
             る神の御座の七つの霊とか、子羊の七つの霊とか、その諸相表示は、
             色々である。
             要するに<神の霊>の諸相には、その働きや、意図、目的に従った役
             割的面での諸相顕現をなすものという向きがあり、その作用かかわり
             対象関係において、子羊なる御子のみならず、創造の初めをして、そ
             のすべての被造界、被造物世界で人間、自然界に相対して、その霊相
             がいろいろな種相を表化するものとなる。
             子羊なる御子が具有したる<七つの霊>は、父なる神の全霊と一つで
             あり得るものとして、人間界、自然界のみならず、宇宙的主権の行使
             在任を明示するものである。)

             この福音書冒頭における使徒ヨハネのキリスト・イエスの存在論的あ
             かしの宣述は、キリスト・ロゴス論の原初、起点源として、奥深く、
             旧約要素、新約要素のほぼ全体をまとめて凝縮内包したような論旨と
             なっていると言っても過言ではない。
             モーセ五書での創世記初めの文言とのコーディネイト、、、そして、
             まだ、キリストの黙示の啓示受述がなされていなかったが、それをも
             含めて、18節での“父のふところにいます御子”キリストだけが、
             “神をあらわしたのである”としてのそれ、冒頭宣述であった。

             使徒ヨハネは、自らはキリストの使徒を名のらず、通称長老ヨハネと
             して、ペテロやパウロが使徒としての役割を果たし終えて、その世を
             去ったAD65年前後を過ぎたのちに、人知れず小アジアのエペソに、
             AD70年の後半か、80年代の幾年かに登場して来ている人物で、そ
             の長い間は、教会史など、歴史のおもて舞台には現われ知られていな
             い、いわば歴史的に消息不明の人である。

             ルカが纏めた『使徒言行録、行伝』では、
             五旬節の聖霊降臨後、エルサレムの宮でのペテロに同伴しての初めて
             宣教と、留置解放記事(3-4章)があり、その後、ステパノの殉教
             後の、ユダヤ支配知識層側からのエルサレム教会への迫害時期では、
             サマリア伝道の時(AD34-35年頃)として、まだペテロと共にそ
             の名が記され、(8章14節) その後はペテロの同伴者としての名の記
             録もなく、不明空白時期があり、その数年後ヘロデ王(アグリッパ1世)
             治世(41-44年)の時、ヘロデによる教会への圧迫で、ヨハネの兄が
             その手の者らに殺されるが、その時期も、それ以降も教会教団関係の
             おもてからは、記事記録上に、その存在消息がうかがい表わされてい
             ないといった内情となっている。

             したがって初期の教会歴史上、AD35年頃以降から80年代頃まで、
             約50年間ほど、使徒としてのヨハネは、その歴史のおもてに現れて
             いないという奇妙な空白期間があることになる。
             (このページに関連した別のページ文書では、マルコという名前に匿
             名して、丁度、主イエスの母マリアを母となした状況に符合してのそ
             れだが、そのマリアを中心とした女性たちの群れのためにその世話役
             で翻弄される日々が長く続いたとみているが、、、、

             とにかく、彼は、主イエスからマリアを母とせよ、との最後の遺言命
             を受けるほど、まだ若かったわけで、二十歳にもなっていない若者で
             あった。イエスが、自分の母マリアを母とせよ、とのヨハネへの命が
             イエス自身の短い生涯に事かけて、お前はその何倍をも長生きしろ、
             との暗号メッセージであると、彼は思い悟ったらしい。この事がさら
             に強化されるのは、彼の兄ヤコブが、主イエスの直弟子グループの内
             で、一番最初に殺され、殉教した事件の頃である。彼は、覚悟を決め
             た、自分は、直弟子グループのうちで、一番最後までこの世に何が何
             でもとどまり、生き残ろうと、、マリアとその群れのある限り、その
             世話に尽くし、さらに自分の出来る事を、、そして、その限られた活
             動の範囲内で、アレクサンドリアなどに足を延ばし、学問的知識、見
             聞を培い、つねに将来をめざして備えていったと見られる。マルコの
             福音書はまさに、その長い時期での彼の匿名の書であるといえる。

             (ルカが使徒行伝の書をまとめ上げたのはAD60年代である。しかも、
             パウロに付き、そのサポート同伴者になるのは50年前後、パウロの
             第2回目の伝道旅行(AD51年頃)の初め頃(15章の終節16章)か、
             それ以前かは定かでないが、とにかく、福音書では、ペテロと共に、
             ヨハネ、ヤコブの存在が、主イエスの中心弟子として頻繁に記事上に
             出ており、この彼らを記述しないわけには彼の行伝本書は成り立たな
             いとして、彼らとはまったく面識がなかったという状況のルカであっ
             たと見られるが、その伝え、伝承など調べ上げて、教会の最初期の彼
             らの活動を、その言行消息記事として記したものと見られる。)
                                                                         
    長々と大変な脇道余論を重ねてしまって、本論本旨への流れが分からなくなってしまった
    感がするほどであるが、上記前述をもって、ここでの本論旨の前提、論背景と見なして、
    第6の本内容の論呈を著わすべく先へと進みたい。
                           
   さて、時はいまのヨハネの時代とは、、上記の<ヨハネの福音書の成立>とその在世ヨハネ
   らの時代に至る、西暦紀元前後の頃からキリスト教の生起発展、隆盛をなしてくるその第一
   世紀は、ヘレニズム時代のただ中でも、その精神思想が思潮的に最も際立ち、ヘブライイズ
   ムとの交流影響度をピークに維持するがごとき時代となっていた。
   ギリシャ本土での学問殿堂のお株を奪ったかのごとく、一時期アレクサンドリアでの学問分
   野の隆盛は、世界各地からの多くの知識人、学徒を一度なりとも引き寄せるものとなった。

   神の言葉を主とする旧約聖書内容からの豊富なヘブライ思潮が、70人訳ギリシャ語の聖書
   (セプティアギンタ)により、ギリシャ側の哲学や諸知識の思想風土に流入し始めたのは、紀元前
   1世紀以上も前からの事であったが、この世界時代史における歴史の流れは、まさにふしぎ
   な形勢を醸しゆくものとなった。

   神の摂理的定めのお膳立てにより、神の子・キリストの到来とそれ以降の時代の方向付けが
   整え準備されたものとなろうとは、、、これは、神がお立てになる<キリストの存在理解>
   が、その高み、深み、広さにおいて、可能なかぎり成されうることが望まれ、この事が神の
   御心にあっては何よりも最重要に是とされるべき事柄であった故であり、その時代の歴史自
   体の趨勢実相がこれを自ずと示唆していると言えよう。

   使徒としての名目を返上してその時代を生きたヨハネは、晩年近くになって、主キリストが
   在世時に意図、望思するの定めとしたその内容を啓示受容して、ようやく自らの本分を満た
   し得る時に至るものとなった。
   ヨハネはしっかりと主イエス在世時での史実的ベースに立脚し、その時と場所をユダヤの伝
   統的な祭りの枠組みをもってアレンジして、主イエスの在世時に主イエス自身が啓示表明す
   るに至り得なかった、いわばその時が熟していなかった未表の内容分をば、あたかも、かの
   マリアが、その胎にて御子イエスの受胎受肉なるに供せられた如く、ヨハネは、神のロゴス
   なるキリスト・イエスの存在と、その言動姿を啓示産出、著わしなさしめるものとなる。

   当時の古代的な言葉表現で言えば、まさに天上の主イエスが、いまだご自身の内に抱き擁し
   ていた内容と、在世時でのイエスの存在とが一つに融合した如き内容を秘めたところの、
   <ヨハネによる福音書>という啓示著作の成立という事となる。これは、ほかの3つの共観
   福音書とは相容れない、特異な側面を見せているという所以である。

   (これについての端緒となる、主イエスのヨハネへの主導は、ヨハネの福音書においては、
   第1章の35節以降の<イエスの滞泊している所>に若きヨハネが一夜を共にしたことで、
   将来的な意図を見込んで一番の愛弟子として、ひそかに目をかけた事、そして、主イエスの
   十字架の受難の時、19章25-27節で、十字架上からヨハネに申し添えるかの如き最後
   の言葉、母マリアと取って置きのヨハネとの関係ベース、、最後に21章15-22節での
   主イエスのシモン・ペテロと愛弟子ヨハネとに対する扱い対応に係わるその2人の弟子への
   主導的関係ベースにおいて、見え隠れするヨハネへの主イエスの内密なご意図など、、、

   そのほかに他の福音書では、マタイの書第20章20-28節での、ヨハネが兄ヤコブと共
   にその母・サロメに付き従って、主イエスにあらぬ願い事を申し立てた折りに、イエスから
   訓戒を受けると同時に、恥さらしと、母親への躓きを経験して、その事が後々までも反動的
   に効用、心にひどくひびいてシコリとなる。そのような影響を後々までも留めた事も、主イ
   エスの掌中におけるヨハネへの主導性に係わっている。

   それらに加えて、主イエスの昇天後、教会の時代ではステパノの殉教から10年前後のこと
   だが、思いがけない、まさかのヨハネの兄ヤコブの殉教、そもそも12弟子の一人が、教会
   初期の発展途上の大事な時期、そんな早い時期にあえて犠牲となろうとは、、これもペテロ
   は、獄から救い出されるという幸運事情がある一方、兄ヤコブは助けを得ることなく、殉教
   の定めを許容されたことで、両者、対照をなしている出来事だが、、、、これまた、ヨハネ
   にとっては、相当な心のトラウマとなった事で、もはや在世時ではない時代の流れで、主イ
   エスからのヨハネへの配策主導と目されるものとなる。=使徒行伝第12章1-17節

   因みに彼らの母サロメは、わが子の為にはこの世的な地位や名声などに関わる事に目が無い
   ふうだと言うのは言い過ぎかも知れないが、子らの為に立身出世に敏くあらんとした、わが
   子思いの強い女性であったと見られる。彼女は、網元経営をなすヨハネらの父ゼベダイの妻
   であったが、ユダヤ・エルサレムあたりのいいとこ出、結構裕福な一族系の出自あったかも
   知れない。そのサロメという名前も、ヘブル語の古い初元語源からは、<サロモーン>、つ
   まり、ソロモン王の名前に係わるところの、<その語名の女性形>をかたどったものではな
   いかと思われ、実にこの世的な品位の高さ、上流どころを覚えさせるものだったとも、。)

   まだまだ、本内容の核心となる論述に至らないで、余分なページを割いているような事態に
   終始捕らわれていて、、この著述をなす本人も、はやく終わりにしたいというのが山々のと
   ころですので、、、、先に述べ取り扱っていた事柄<三位一体>に関わる<父と子と聖霊>
   という啓示言葉に対する内容的な視点の理解から本論呈の核心的な大要を結論付けてゆくと
   したい。

   主イエスの存在とその活動の全ては、<神の国の福音>というかたちで、集約網羅されたも
   のとなっているが、その時代は、すでにギリシャ文化と諸学問及びその思想に大いに感化、
   啓発されて日ひさしく、ローマが一大帝国をなしたグレコ・ローマン文化圏のただ中にあっ
   ての、<神のおとずれの時>を表象した、歴史的機会の唯一性をなしたものであった。
   そして、主イエスの福音は、その事蹟結果としては、自らの存在、命を捧げ介して、その言
   葉表現において、<父と子と聖霊>と顕現啓示された在世過程で、それを裏付け基礎付ける
   道を辿るほか無いものとなった。
   御子なるイエスが、神のご意思、御心に基づくところの<神の時>に忠実に従い、自らを捧
   げたからであった。

   (主イエスは、ご自分の願うところ、思い描く思惑、本心なりがあったが、、ユダヤの民、
   エルサレムの現状からは、無理からぬものであった、、、その前夜、ゲッセマネの園で最後
   の決断となるべく、異常な最大限の苦悩的な祈りをなしての思惑心境であったが、ご自身が  
   その教えの本来的使命信条となしておられた、そしてその言葉を公言された<神の国と神の
   義とを求めよ>なる言葉を自ら忠実に実行、全うされた。

   御子なる主イエスによって、弟子たちを含め人々は、神の国を少なからず垣間見る事ができ
   たが、その時、その時点での受肉の主イエス自らにとっての<神の義>は、モーセが書き記
   したものの真義ベースにあっては、神の世界創造以前からのご意図であり、実理的歴然性に
   おいては<アダムらの事蹟>に密接に関わる次元から遠々に御子自身の時に至るところの本
   義的な中心課題であった。
   
   その<神の義を満たすべく、十字架への道>は、御子自身の果たすべき使命として避けられ
   ない道となった。かって洗礼者ヨハネと、御子なる主イエス自身が、その折りに天からの声
   <神の声=~、、わたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。>の言を耳にされたご
   とく、その<神の本意>に一糸のブレもなかったというものである。

   その声の異象は、音の発生ベースとしては、雷の音象を生起させ利用したものであろうが、
   その音による言葉意味を彼らが良く聞き取れるように、父なる神がその音声をして、その言
   葉意味を表わすようにアレンジ調整され、空間および大気の流れ、密度など、それら媒介要
   素を介して拡声、速下のものとなし給うたものであったといえよう。

   ※<神の国>とは、端的に言えば、<その存在様相、或いは可能となるあらゆる存在様相に
   おいて、神の御心にかなっているという理想の国である>と見なされるものである。
   したがって人は、神の国が実現成就したあかつきに初めて、、、
   “おオー!なるほどこれが<理想の神の国なのだな>”と、実際に色々その諸相を感じ入り、
   知り得るようなものとなる、そんな総一的な形相を備えたものである。
   ローマの時代以来、今日に至るまで、その擬似的な片鱗を少しなりとも反映したものとなっ
   て来ているが、そこには甦られた後の御子イエスの、その理想への摂理的な戦い、精神的に
   真理を主導する戦いが必須のものとなっており、観る人ぞ観る、知る人ぞ知るの如きものと
   して、その歴史的な反映を悟り観る事となる。)

   さて、<父と子と聖霊>の啓言は、<三位一体教説>とは密接不可分に同期的意味合いを共
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   有するとの認識を深め、その含意性を何か明瞭なものとして高めるものとなったが、しかし
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   その言葉思潮には、本来元々、その初言時から、内容的な存意レベルで、認意性と実意性と
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   いう二相的な発展の可能性を秘めていたと見られる。本論呈の主眼とするところは、此の辺
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   のところにあろうか、、。 
   ・・・・・・・・・・・・
     
   ①:その可能相の一つ、認意の発展は、ヘレニズム・ローマン思潮界を介くぐり、何か練辣
   な刺激により、揺籃されたかのごとく、大いにその伸張をなし、その思惟特性を最大限に披
   瀝、その所産的事蹟を跡付けるものとなったといえる。
   信仰の対象(神、キリスト)をギリシャ的思惟様式で捉え、認知しているところにその思潮
   的一特性を大いにした新発展の側面を見るものである。

   この傾向過程を平易に顧みるや、、
   <父と子と聖霊>の言葉思潮は、今や初期キリスト教の進展、成長途上における信仰の最も
   主要な知的理解の原理要素として、ギリシャ・ローマの文化思潮界との多様な出会いの中へ
   と流入受容されてゆくものとなる。
   
   使徒たちの時代の初めから、すでにアレクサンドリアではフィロンなるユダヤ人によるプラ
   トン教説を受容した一新派あり、旧約聖書の解釈、アプローチの新奇さゆえ、大いに物儀を
   醸す著書や、徳に関する深い洞察の目覚めを示す著述もあり、プラトン主義の幅ひろい思潮
   台頭の一例となっている。そのフィロン的動向には、<グノーシス主義思潮>の現われにも
   密接に影響を及ぼしていると見られ、やがては、新プラトン学派、アンモニオス・サッカス
   から、プロティノスによる思潮大成へと至る。ヘレニズムの学的主導をなしたギリシャ的諸
   思想は底流的な諸源泉としてその命脈を強く保ち続けている。

   したがって、使徒後教父や教会の指導的立場の司教、主教(東方系教会)らは、そういった
   ヘレニズム思潮世界との係わりの中で、グノーシス思想がらみの異端や、数々の異教説に対
   して護教反駁の姿勢を強いられるものとなる。
   そのような教役護教活動からも、大いに<神学的発展>を助長する契機、傾向を大にすると
   ころがあり、その信仰理性のたゆまざる知的伸張は留まるところ知らずの状況となる。
   すでに先に述べた如く、数世紀の時を経ると、教会内での異端、異論問題が度々表面化する
   ものとなり、ニカヤ以降、公会議が開かれる時代へと進展する。
   広範囲、広汎に発展したキリスト教の教会世界では、それぞれの教会一致のため、その教理
   的信条が整備され、その内容に係わる最も顕著な例として、<三位一体の教説>が立ち上げ
   られるといった畢竟段階に至る。

   そういった時代過程での諸形勢は、確かに世界史の主要、主流的な流れを培い、助長したも
   のとなるが、そこにおける傾向のすべてがすべてである、或いは全てであったと言い得るも
   のではない。すべての歴史的事象の結果として、ほかに如何なる可能性も無きものとして、
   遂にはそれ自体の終わりを表わし、あとは全く無に尽きるというものではない。

   <父と子と聖霊>表現の認意性の価値は、<三位一体教説>と共に最大限に表明され、呈示
   されたとの見かたがあるが、けっして楽観視されるべきものではない。何故ならば、それは
   あたかも<三位一体>という知の教説の構被のうちに内包され、<父と子と聖霊>そのもの
   における本来的に無限に意図された、活ける啓示性の何ものかが遮蔽、閉じ込められたごと
   き様相をさえ結果させているからである。
   こういった観点から極端に言ってしまえば、<三位一体の教説>の神がいやが上にも高く掲
   げられることにより、かえってその知的イメージ神像を拝する結果から、いまやそれが観念
   的な偶像と化してしまう危険性にさらされる向きもある。

   <信仰と理性>、その古代ギリシャ的思惟様式に融一されて発展した神学的認意性の特徴形
   相は、簡略ながら以上のごとくである。

   ②:次に<実意性>という、もう一つの可能相に関わる事柄については、<父と子と聖霊>
   という言葉言示に与かっている<実意相>を、その現成的発展を良くした事象レベルからの
   ものとして端的に認め、平易に評価しうる一側面として含めることができる。

   これは、教会での礼拝において、単に無内容な心をもって、神を賛美し、感謝と祈りを捧げ
   るのではなく、神が唯一無二の表象顕示として<父と子と聖霊>という存在様相をご成現な 
   されたことにより、その存在原理の内に、つまり<父と子と聖霊との交わり>の内に礼拝が
   なされ守られているものだという礼拝式典において、特に主イエスの最後の晩餐での<パン
   とぶどう酒>により記念とされた聖餐式や、カトリック教会でのミサでのそれはその中核を
   なすものである。また、現世での福音の宣教時にバプテスマ(洗礼)を施す際、<父と子と
   聖霊の御名>によって、それを行ない、且つ<父と子と聖霊>の良き学びの信徒(即ち弟子)
   となせ、との主イエスのお言葉(マタイ28章19節)を忠実に実行する面も、<父と子と聖霊>
   顕示に依拠しての<実意相>である。(実際のところ、<父と子と聖霊>についての良き学
   びの信徒となせ、なれ、あれ、が十分とは言えないほどの状況であった。)

   ともかく、要するに上記①、②で示唆した<認意性、実意性>において、本当に<父と子と
   聖霊>それ自体に最的確となる真に正しい、深い理解のうちに信仰、信心が有り得ているか、
   どうかという事柄が、神の御心に適うかどうかの神ご自身の側での一つの評価、尺度として
   対面視され、ご処遇摂理の何か、ご意図にさえ関わるものとなろう。

   ここで、<真に正しい深みのある理解>に、少しなりとも到達するためにその一端のイロハ
   を以下のごとくまとめて詳述しておこう。(これは、今までの教会系神学思想や、神学者ら
   の諸説には見られない、新たなる視点的一ページの側面となろう。)

   ・)《 御子なるイエス 》に注目することで、:
     
     イエスの人格自我意識から表されるその存在的様相、つまり、主なる神、または神を、
     <天の父、あなたがたの父、わたしの父>などと言表されたる様相は、かってイエス以
     前の長きにわたる旧約時代、その預言者らの共通した立場から醸し表されるそれとは異
     なり、何か存在ステイタスを異にした別個でユニークなものとして、ようやくイエスに
     至って初めて表相実現されていると見なせる。
     (モーセ以来の<主なる神>の啓示表示の長い時代を経て、主イエスにおける<父なる
     神、天の父>としての啓示表示への変容)

     これは、実に驚くべき人格意識の表象であったわけだが、その具体的な現実性、つまり
     言葉表現としては、あまりにも身近で普段的に平易なものであったから、御子イエスに
     おける、イエスによる<最終段階的な結実啓示事象>として、その計り知れない秘儀が
     認識、認知されることはなかった。

     これはまた、主なる神の高き天的な存在から限りなく下降したる、同時にユニーク聖別
     したものとしての、<天という高き上から地という低き下へという様式的意識次元>に
     あって、まさに上から下に降された<新しい存在原理>の表明を示唆するものである。

     (キリストイエスにより<天と地は一つとなる>の真理思想に符合するもので、元々、
     古代的な世界観は見かけ認知による仮想意識次元のもの故、やがては近代以降には消え
     行くものとなる。そのような人類の古び行く知識の意識事象にはるかに先立って、主イ
     エスの世界一元観が先行している。)

    *<新しい存在原理>とは、いと高きから限りなく下に降されたという啓示表意を秘めた
     <父と子と御霊(聖霊)の活ける存在原理>であり、御子主イエス自らにおいて実現し
     ており、且つ、彼においてその啓示成就が果たされているものである。

     (これは、未来永劫に向けての<活ける永遠の存在原理>であるわけだが、その最原点
     的初段階としては、<父と子と御霊(聖霊)の御名によるバプテスマ>を初発志向の最
     重要起点として示されている。主イエス自らがこれを表明、直弟子らに命じられた如く
     である。⇒(マタイ福・第28章:19、20節)

     主イエス在世後の初代教会の3、4世紀の間には異端論駁と神学思想の発展のうちに、
     その言葉はギリシャ的思惟の性向からして、自ずと主知的所産となる<三位一体教説>
     の神観として掲揚され、再び高く拝される対象として、それに包含秘匿されるようなも
     のとなったと言える。)
        
   ・)《 主なる神 》に注目することで、:

     創世記の創造記事に見られる創造者なる神は、人、人類社会とその歴史状況ゆえに、そ
     れらに対してご自身自らを聖別啓示される。
     旧約聖書の事跡記事からはこの神のご意図が貫かれていることを知るべきである。

     何ゆえに神は、ご自身を聖別されるのか、、、。大いなる預言者、指導者としてモーセ
     をお立てになり、父祖アブラハムとの約束により、イスラエルという一民族を神の民と
     してお導きなされた。イスラエル民族をモーセに与えた<ご自分の言葉>により聖別し
     給うたということは、まさに即、ご自分を聖別することであった。

     神ご自身がご自分を聖別する訳は、その永遠のご計画、目的意図を明瞭、精彩、清練な
     るものとして、前段階的なものを事蹟的に跡付けるためであった。
     モーセは、彼自身の知的な才能レベルにおいて、神の言葉の霊示により、創成記事を記
     しているが、その<アダムの伝承記事>でさえ、モーセが神自らの霊示の導きにより、
     アダムに関わる事蹟で、はや、神ご自身が自らを聖別(規定の下に)しておられるとい
     う結果を残し示している。

     つまり、アダムのために<エデンの園>、まさにユニークな園を設け、備え与えられた
     その行為事蹟自体をもって、ご自身をご聖別されているということである。
     (神による<エデンの園>設定インフラ、その啓示事蹟は、神のご意図における最初の
     重要な本目礎定となるものであった。)

     神によるアダムの創成存在は、永遠のはじめから志向存在であるところの神の御子の形
     相似姿の写しであった。御子は、いわば、砕けた言葉で言えば、神における御子という
     神の限りなきロゴスイメージのご自身転映の結晶であった。
     この神における御子イメージは、本来的に神ご自身に有し在るもので、世界宇宙の創造
     後など、後々になってその必要上、考え出されたものではない。

     (新約聖書のヨハネ福音書の冒頭第1章では、<ロゴス=Λογος>という言葉が全面的
     に主役表現されたかたちで示されている。このヨハネの<はじめに=Εν αρχη>)は、
     モーセの創世記事の<はじめに=בראשית ヴェレーシィス>とは類比的に相通じる意味
     合いだが、モーセ視点よりさらに先行した意味感覚である。つまり、ヨハネのそれは、
     永遠性の次元での、モーセのそれは、創造されるべき被造の始原に符合近接して、その
     時間的な余韻を触れさせる。
     
     ヨハネのこの<はじめにおけるロゴス>は、あたかも神とは独立をなしている一存在と
     して、且つ、同等的にあい対する交わりのコーオッパレート、コーディネートな関係を
     なしているといった意味ニュアンスが強い。これはまさに要注意点となる記述と見るべ
     きであろう。
     このヨハネ記述の事情背景には、当時のギリシャ古代からの諸思想知識<プラトンからの
     イデア論系諸思想>や、自分らの教説に取り込み符合したイエス理解、解釈によるイエ
     ス観を表明する宗教的グノーシスと、ヘレニズム時代特有の神秘主義的神知思想、また、
     イエスをキリストとは全く認めないで、旧来からの民族性に合致したメシア観をもって、
     その到来を信じる、いわゆるクリスチャンエクレシアに隣接したユダヤ教との競合など
     があった。
     ヨハネのロゴス記事は、これら歴史的にきわめて特色のある時代思潮を留意しつつ、そ
     の成り立ちの所以事情を垣間示している。)
     
   ・)《 新たなる聖霊 》に注目することで、:

     聖霊(聖霊論)については、宗教改革時代以降、その聖書ベースでの研究により、詳述
     知見されるようになり、近現代に至っては、神の存在に関わる概念規定の枠組みとなる
     <三位一体>において、組織神学的に把握、呈示されるべき、最重要な項目ともなって
     いる。

     そもそも、主イエス在世のAD1世紀以降、新約聖書の文書だけでなく、旧約聖書もす
     でに先にギリシャ語に翻訳されていた(70人訳)時代、共通の話し言葉、書き言葉と
     いうギリシャ語文化圏でのギリシャ的思惟、思考の世界にあっては、その言葉と概念が
     豊富に円熟味を増し、その進展と共に知識の研鑽集積の数々は後々までも永久継承され
     るような時代となる。

     そのギリシャ語圏での人間の精神的(知的)な成長があり、且つ、その言語思惟に依っ
     て立つところの立場から<物事、事柄を捉え見たり、書き表わしたりする諸活動>が時
     代を物語るというものであるから、その当時の新約文書の形成時期においては、その言
     語概念、語彙の利用に係わる影響は当該それ自体、先天的なものであったと言えよう。

     ズバリ上述から何が言いたいかと云えば、使徒たちまでは良かったが、使徒後の時代以
     降は、外的諸思潮からの多様な刺激環境に置かれ、いやおう無くギリシャ的認識姿勢に
     のめり込んでゆくばかりとなった。そこでの対応護教や神学的知識の研鑽は、けっして
     悪いものではなく、善的に良い結果の度合いを残すものとなったが、しかし、信仰その
     ものの面での最も内容豊かなものとなるべき何かを見失い、見い出しえず、真理の全包
     括域内での核心的な内容を失うものとなるというものであった。

     そこでは信仰の対象そのものにこだわり捉われるあまり、それが思惟認識の追求の対象
     にすり替えられる主体的性向となるばかりで、神の究極的ご意図メッセージが不明解に
     半減するばかりに、<御子なるキリストと神への信仰>が、知的な意味で高く象徴化さ
     れるばかりのものとなった。そこではやがて理性の精神的エネルギーが燃やし尽くされ
     ると、あとに残るのは教会の様々な制度化、儀式化での高度な意義付け発展、伸張とな
     って世界史の流れは中世から近世、近代へとその趨勢をたどって行く。

     聖霊に関する規定知識、聖霊論は、旧約聖書領域での<神の霊>とは、一体関係にある
     と言っても過言ではないが、本来的な事柄として両者は、今や厳密シビアーな意味での
     双方の特質大要理解、および認知識別がなされるべきである。
     (旧約の霊、新約の霊とかの概念的区分ニュアンスでの理解論説が以前からなされてい
     たケースがあったであろうが、、、)
 
     旧約の(神の)霊に対して、新約の<聖霊>、その啓示的存在論上での大きな相違は、
     新約の<聖霊>が、旧約のある時代から<神の霊>により(神の言葉の)預言の主要な
     対象内容の一つとして秘匿啓示されていたものであるという事由から、神からの最大限
     の賜物、とって置きの人への最上の賜物という意味あいを有したものであったという点
     である。この霊の賜物がいよいよ旧約時代後期末頃(イザヤからエレミヤ、ダイニエル、エ
     ゼキエルらの預言者時代以降)から神からの新たなる約束事として、秘匿預言されるよう
     になってきたという真理的観点をも導き出されるというものである。
     
     (エゼキエル書11章17-20節、18章30-32節、36章24-27節の文中
     での<新しい霊>、および37章14節、39章29節の<わが霊>、さらに大体的、
     大規模結実を予見するような秘匿幻暗示では47章1-12節において、イザヤ書では
     <新しい事>として、42章9節、43章19節で暗示され、44章3節で、その関連
     内容となる<わが霊をそそぐ>の文言が見られる。また、エレミヤ書では、<新しい契
     約>という言葉でもって、31章31節でその内容が関連暗示されている。そのほか、
     ゼカリヤ書12章10節で、<恵みと祈りの霊>との言葉で暗示されている。

     さらに新約時代における<聖霊>に初めて同義直結したかたちで、言及引用されたもの
     が、かのヨエル書2章28-30節の<わが霊>である。これは、にわかに記憶想起に
     あって、最も顕著に該当すると目され、認知されうる預言であった。新約聖書のうちの
     一つ<使徒行伝>の2章17-21節で、使徒ペテロが熱弁をふるって証言弁明した場
     面、<ペンテコステの日の状景>で、それが引用され、まさにその預言の成就が、最終
     最大限な、最高の発展段階に向けての真なる基起点を表象するようなものとして、その
     証しがなされているという歴史的事蹟を跡付けている。)

     (注):ヨエル書の記述年代については、それを確定できる決め手となる史料的要素は、
          外的関連においても、書の文言内容自体から年代内証を示す直接言節も皆無である。
          これについて色々聖書学的研究がなされ、幾多の諸説が論じ表されているが、
          そのなかで、バビロン捕囚後に成立したとの説も2、3あり、その説さえも否定
          しがたいといった事情内容の特質を有したものと見なされている、、。とは言え、
          この書は、明らかに認知特定された<ユダ王国の破滅の危機、ある大きな歴史的
          事象事件>を詩的に物語ることで、それを踏み台に来るべきつぎの時代への預言
          を織り込み展開するといった表現様式となっている。

          あえて内証的な文言をその書からとり挙げてみると、以下の文節に言及できる。

          ・<1章 2節>:このようなことが、、あなたがたの時代に~~、、このような事が
                   あっただろうか。

                   イナゴの大群、その災害模様に喩えて、事の前ぶれ状況を揶揄する。

                  *北方の国アッシリア軍勢の伸張は、北イスラエル王国から始まり、
                   アッシリアの王は、プルからティグラテピレセル、シャルマネセル、
                   セナンケリブ(父王サルゴン)と続き、
                   北イスラエルは、BC724-722年に、シャルマネセルの進攻
                   により、その間に次王となるサルゴンによるサマリア陥落とともに
                   滅亡する。
                   (イスラエル10部族の離散と捕囚移住は、前王ティグラテピレセルの来襲
                   時からその第一次的状況が生じており、この折には二次的な状況と
                   なっていた。)

          ・<1章 6節>:一つの国民が、、、攻めのぼって来た。

                  *BC714年アッシリアのセナンケリブが来襲し、南ユダ王国の領地、
                   およびユダの堅固な町々を占領していった。そして、いよいよエルサ
                   レムに迫り来る時が来ようとしていた。
                   セナケリブは、その初めスリアの大きな都ダマスコ辺りから軍勢を指
                   揮し、やがて自らもパレスチナを地中海寄りに南下して、その征服事
                   業を展開し、BC701年頃に至っている。その間にユダのすべての
                   町々は取られ、最大規模に堅固な要害の町ラキシも取られた直後の事
                   であった。(BC714年の初来襲は、ユダの王ヒゼキヤの第14年
                   と見られるが、列王紀下18章13節、以後集約的に記されている。)

                   実際にラブシャケを含め3人の将軍がラキシから大軍を率いて遣わさ
                   れ、エルサレムからほど遠くない所に布陣駐屯する状況となった。
                   ラブシャケらは、王命の使者としてエルサレム城壁外に来て、降伏を
                   呼びかけ、また、エルサレムの戦意状況を見計らい、エルサレム城壁
                   周辺の地理情報、相手自分方含め、水の便など、視察をなしている。
  
          ・<1章 9節>:主の家(宮)に、、、、、主に仕える祭司たちは、、、、、
  
                  *ヒゼキアの即位初年度(BC727年頃)から大々的に主の宮の復興、
                   リメーク修繕、ダビデ・ソロモン王時代からの慣例に倣って、その祭
                   事儀礼の復元を進めるべく、宮にたずさわる祭司等、すべての組織の
                   再編成の復活を敢行し、日々に、年事に行われるようにしていった。
                   (この事は、ヒゼキアの第4年から6年にかけての北イスラエル王国
                   の滅亡、首都サマリアの陥落以前の事であった。そのアッシリア王、
                   シャルマネセルの時には、その外交として、アッシリアへの従属を表
                   明し、その難を免れるほか無かった。)

          ・<1章15節>:主の日は近い、、、

                  *あとにも挙げた2章1節、11節文の<主の日>を含め、この書の
                   記述者ヨエルの<主の日>意識は高く、強く心に作用しているようだ。

                  *この<主の日>という言葉およびその観念性はいつ頃から、誰によって
                   もたらされたものか、、、それは、預言者による<主の言葉>における
                   ものだが、、これは大きな問題提起となり、ここでは詳細を解述出来か
                   ねるが、、、

                  *当時の預言者層や主なる神への心ある有識者らは、北イスラエル王国、
                   南ユダ王国ともども、その内外の歴史的現状をして、<終りの時>を感
                   じないではいられないという精神状況に至っていたとみられる。
                   その感情が、具体的な<主の日が来る>というかたちで、預言者の口か
                   ら<主の言葉>として発せられ、受けとめられるものとなった。
         
                   その最初に<主の日>を言葉預言したのは、アモスという人で、ユダ国
                   領内テコアの出身であった。同民族の北イスラエル王国に移転移住する
                   さ中、その地の宗教的中心地ベテルを含め、民への地道な覚醒的預言活
                   動を強いられる召命を負わされる。アモス書の冒頭1章1節から、BC
                   763年頃と見られる。(北イスラエルのヤラベアム2世王の世の後半以降
                   であろう。)

                   彼は、北イスラエル、南ユダを含め、その近隣諸国8ヶ国について、主
                   の裁きの預言をする。この近隣諸国への<主なる神の預言アプローチ>
                   は、同時代的後続の預言者らに新たな志向性の目を開く刺激となった。

                   <主の日>に関しては、
                   アモス書5章18&20節で、3度、その句が見られるだけであるが、
                   それがそもそもの初出のものであった。

                   さらにその書では<主なる神>への新感覚の名が、アモスをして表明さ
                   れている。第3章以降、9章にかけて出てくる<万軍の神、主>という
                   表現がそれである。この<万軍の>と飾称した名は、かって、古来の預
                   言者サムエル、その影響のダビデ、その後の預言者エリアが意識した名
                   称であったが、すっかりさびれ果てたものとなっていた。
                   この名称が長い時を経て、アモス警醒活動によって、今や新感覚的に復
                   興されるものとなった。

                   (かってサムエルが幼年の時、シロにある主の宮から担ぎ出された<主
                   の契約の箱>が、ペリシテ人との戦で奪い取られたが、それにより<神
                   の箱>は、その存在意義を失墜させてしまった事があった。
                   この箱にも<万軍の主の箱>と称されるところがあったが、勝手に持ち
                   出されても役立たず、反って戦は大敗を喫し、その名も不肖のものとな
                   り、廃れてしまう。代ってサムエルが預言者としてその名称を継いだ。)

                   これらの言葉、新志向、新感覚の刺激を受けて、言葉の大預言者イザヤ
                   が登場し、<主の日>観をもって、また、<万軍の神>を<万軍の主>
                   という新たな言葉感覚に変換して、彼の預言活動を大成させている。

                   (だが、すでに北イスラエルが崩壊し、南ユダも極度の国難危機に晒さ
                   れている時期であったので、北イスラエルの状況経験に鑑みて、イザヤ
                   ら以下の支持グループは、その迫り来る危機意識ゆえに自分たちの民族
                   を物語るモーセ5書ほか、他の史書や古文書類の整理、修復写書、校正
                   など、その保存に精力的に勤しんでいたと、、、国の破滅の危機を思う
                   がゆえ、その整理保存の手堅い対処がなされたと見てよいのでは、、、、
                   アッシリアによる国難が去り、その後、ヨシア王の時代になり、主の宮
                   から<律法の書>が見つけ出されたというのも、イザヤの時代以降に、
                   その一つが主の宮に持ち込み隠されたものであったろう。〔列王下22:
                   8、歴代下34:14〕

                   また、そういったイザヤグループの危機活動のさなか、その史書的校正
                   により、<サムエル記Ⅰ>の冒頭第1章でのサムエルを生んだ女、ハン
                   ナの事情記事で、<主>を<万軍の主>と書き改め、女ながらもハンナ
                   の祈りでも<万軍の主よ、>と呼ばしめるように書き改めたものかも知
                   れない。何故ならば、イザヤ預言者書生グループらは、預言者としての
                   社会的地位が、サムエルの時からその源が始まり、新たな権威的発展を
                   なしたと考え見なしていたから、その点を鑑み、サムエル文書には十分
                   な熟考検分をしたものとみられる。

                   突然<サムエル記1>に登場する<万軍の主= יהוה  צבאות>という
                   語句は、それ以前の時代に関わる古文書、志師記、ヨシュア記、及び、
                   モーセ5書ではまったく見られないものとなっている。[注]:日本語で
                   の邦訳<万軍>は、良訳すぎるほどインパクトがあり、その強烈感が文
                   章におよぶものとなるといった感じ。イザヤだけでなく、のちのエレミ
                   ヤや、その後の預言者らのものも含めて。)

                  *ヨエル書のヨエルその人は出所不明、ただ、彼の父の名ペトエルだけが
                   知られるのみで、ユダ族のどの氏族系統かは判明しない人物である。
                   しかし、彼は、アモス、イザヤと続く人物に後続する者として、そのヨ
                   エル書の内容解釈から判断されうる人ともなる。

                   おそらく、イザヤの後半生、特に危機的国事でイザヤとユダ王ヒゼキヤ
                   との関わりが頻繁になった頃、壮年30代頃のヨエルが、その任役活動
                   をなしたと見られる。
                   つまり、イザヤは、老齢に至る中、自著や、国の史書類の校正整理に、
                   また、ヒゼキヤ王への対応で手一杯のところであり、精神的にも余裕活
                   力のおとろえたイザヤをホローするようなかたちで、ヨエルは、ユダの
                   民、民衆レベルからの対応として、その活動をなしたとみられる。

                  *【余談ではある】が、ここでの新発言、新説として、アモツの子イザヤ
                   は、実のところ、上記の、かのユダ国領内テコア(エルサレムと南方ヘブロンと
                   の中間に位置するユダの町)出身のアモスを、実の父としたものではな
                   かったか、という新推論が生まれてくる。

                   そのイザヤは、若年期末、ウジヤ王の晩年まえ頃から、王宮政庁で下積
                   み史官補か、書記官補かで奉公していたと見られる。
                   (歴代志下26章:22)
                   しかもすぐ後には、摂政となった王の子ヨタムを助けるべく彼に重用支
                   持される同年輩のものとして、(イザヤは、若年ながら広い見識、見聞
                   を有していたと思われる。何らかの事由により、エジプトやメソポタミ
                   ヤなど当時の世界を隊商旅などに甘んじたものかも知れない。)

                   父アモスとの関係上、北イスラエルで一躍預言者との注目を浴びた父と
                   の肉親関係を表沙汰にしないように、後年その父の名アモスをアモツに
                   替えて、その後継預言者、いわゆる当時の先見者の任を受け継いだと見
                   られる。(ア-モ-ス=עמוס から ア-モ-ツ=אמוץ の名前に、、、父の
                   <万軍の神>表現を<万軍の主>とするごとくに、、、)
                   このように父アモスは、子イザヤへの<大いなる先駆け>の存在となっ
                   たとの新見識はいかがなものであろうか、、。
                                     
          ・<2章 1節>:シオンでラッパ(つのぶえ)を吹き鳴らせ、(15節にも同原語アリ)
                   わが聖なる山で警鐘を鳴らせ、民はみな、おののき奮いたて、、、。

                  *詩文的文章構成から見て、このラッパの句節とあとの15節の文とで
                   は、時間差的にその文言内容が示す様子を違えたものとしている。

                   =この先出のラッパでは、歴代志下32章のヒゼキアの初期対処状況
                    を反映している。
                    要害堅固なラキシ陥落前での、その〔1-8節 〕では、町の外での
                    余分な水の泉、谷川の流れをふさぎ、城壁の修理、補強、さらにそ
                    の外側にも新たに城壁を巡らし、それぞれにやぐらを設けたり、武
                    器、盾を増産して守備防備に余念無く、民への呼びかけも怠り無く
                    その心備えをも促がしなしている。

                   =あと出15節のラッパ文では、なおモーセ時代からの古い慣わしに
                    準じて、断食を聖別し、誰も彼もが生活事、人生事を差し置いて、
                    主の宮に集い来るよう聖会を召集し、会衆を聖別して、主の御まえ
                    に衣服ではなく、心を裂いて呼ばわるように促がしている。

          ・<2章 1節>:主の日がくるから、、、その日は近い。
         
          ・<2章11節>:主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、、、、

          ・<2章20節>:わたしは北から来るものを~、~、前衛の者は、、後衛のものは、、
                   その悪臭は立ちのぼり、腐った臭いが立ち広がる。(主が)大いなる
                   事をなされたからだ。
                   (次ぎの21節にも<主>の語<יהוה>が加わって“大いなる事を~”
                   の同言語の文で締めている。)

                  *アッシリア・セナンケリブの主力の軍勢は、エルサレムの南方から
                   死海方向にむけて荒野を回り込み、エリコに近いヨルダン川の近辺
                   あたりに進出し、陣を構える作戦を遂行、その途上の荒野で<主の
                   手の災厄>にさらされ、絶滅に瀕したようだ。
                   ふくれ上がり、増大したアッシリア軍勢の陣営で18万5千人が、
                   野ざらしの死体となったと、、、列王紀19章 35節は略述する。

                   (従来からの現代一般史的解釈によると、それは、疫病によるもの
                   との推定が通説となっている。が、それは何の裏付けも無く定かで
                   ないし、問題が残るところの説である。
                   一夜のうちでの出来事なら、むしろ地中からの有毒ガスが湧き出て
                   野営地の地形条件をして、広く充満し、漂い被った事に因るものと
                   の推察が妥当かも知れない。)

          このように<内証的文言>を挙げてみたが、この書での時代状況に係わる<ほかの表現
          内容>も何一つ矛盾する事なく、その全体的な書風内容を一にしたものと成している。

                    イザヤ書20章1節のアッシリヤの<最高司令官>が、実は王の子・セナンケリブであ
          ったと見られうる。これは、
          彼がダマスコ、シドン近辺から指揮を執りつつ、直接サマリヤ、ユダ方面に下り、アシ
          ドドを攻め取ったその年が BC711年で、714年からのそれまでの間にユダの町々が
          アッシリヤ軍勢に次々に取られ行く状況が3年余り経過しての事である。
          (列王紀下18章13-18節以下等)

          (アシドドを取った後のアッシリヤの軍事動向は、ユダの町々でも最も堅固な要塞を誇
          って、未だ残っていたラキシへの包囲を展開し、それを拠点とする状況となる。その後、
          エチオピア・テルハカ王がエジプト軍をも配下にしてその連合勢で向かってくるとの報
          を受け、ラキシから後退、物資流通の利くユダ領外のリブナを攻めて、エルサレムに遣
          わされたラブシャケら3将軍の大軍との合流を計る。その後、エチオピア王テルハカと
          会戦し、その軍勢を打破している。=アッシリヤ側の発掘(粘土角柱碑文)史料での一
          般史は、その決戦をBC701年頃としているが、それはその当時の王臣下の随行史官ら
          により後日、王の名誉と尊厳のために都合よくアレンジ編録されたものと見られるか、
          或いは、近現代のアッシリア学史料研究に基づいた一歴史解釈の類と見られる。
          ユダヤの史書〔歴代、列王、イザヤ書等〕では、711年からの3年目になる直前の頃
          709、8年頃とされ、その会戦直後以降にエルサレムへの包囲作戦が遂行される形勢
          へと進展したが、イザヤの預言どうりその時、セナンケリブは大軍勢を失い、自国ニネ
          ベに帰される。その後BC705年に父サルゴンの死により、後を継いで王に即位する。
          ユダの王ヒゼキヤは、713年頃、病で死にかかる状況になったが、15年さらに生き
          延びる寿命を与えられて、BC698年頃死去したと見られる。)

          そのアッシリヤ軍勢による災禍状況で、ヨエルは、それぞれの町々に属するブドウやイ
          チジク、リンゴなどの果樹園、野の木さえも、また農地や、大麦小麦の穀物畑も荒れ果
          て[7-12節]、さらに、それぞれの町の牧草地や、荒野の牧草、木々までも焼き尽くされ、
          牛や羊の群れ等も呻き、さ迷う[18-20節]と記す。
          その様子は、イナゴの大群状況の害に喩える[4節の]様どころではない。はるかにそれを
          凌駕したほどの惨状であった。)
        
      ヨエルほか同系の預言は、バビロン捕囚後、その帰還の新選びの民にあやかり向けて、
     その選民ユダヤをベースに、あたかも全く彼ら宛てへとアレンジされた預言として理解  
     されうる状況を呈しうるものとなっているが、実際にはエルサレムの町が、その神殿、
     城壁と共に再建された後に至っても、一向にその預言は成就されないものであった。

     未だその預言が成就されるにふさわしい時、その最適、最良にかなう世界史的時代が、
     到来していなかったからである。しかもそれは、メシア預言に併行して、それに密接一
     体的に係わる、父なる神の御旨の内での、いまだ隠されたる中心的秘儀の事柄でもあっ
     た。それ故にそのため、メシア・キリストが立てられ、キリスト真理が理解され、且つ
     その真理認識の発展性が大いに期待されるべき人間成長期の世界史的、来るべき世、数
     百年後のローマの時代まで、その成就は、神の子キリストの出現まで、お預けのままと
     なった。

     旧約時代ベースからは、上記の如く、特別に<約束された賜物としての“わが霊”、或
     いは“新しい霊”>であり、あらかじめ預言予告されていたという特徴を示すものとな
     っている。しかし、それに関わるそれらの預言が成就された新約時代においては、それ
     の(わが霊とか、新しい霊の)内容的なもの、はたらき作用的なもの、有り方、しくみ
     的な事柄のすべてがあらわに表象化されてゆく開示、実成の過程のものとなる。
 
     しかも、そのような最重要な<予告預言>を保有する事となった旧約時代にあっても、
     その全史に係わる旧約聖書においては、新約聖書時代に呈示された<聖霊>という語句、
     これはギリシャ語だが、これに比定されるヘブル語は、旧約書では極々少数で、イザヤ
     書63章10、11節と、詩篇51篇11節の3ヵ所ほどである。もちろん新約の<聖霊>と、
     前世の旧約時代のそれとは、源初成現的ステイタスを秘めたレベルでのニュアンスには
     大いなる差異があるから、その内容的内実性において同一比定する事は、まったく不適
     切であり、不可能である。言葉表現上での意味対比は同類であっても、、、。
     
     その旧約でのヘブル語は、<רוח  קדש =(ru-af ka-dish)>で、語句としては、
     一つに結合された用語(ヘブル語で専用されるハイフンのような結合符マッケフによる
     結合語)、一つの複合語といった様態のものとはなっていない。
     新約での当該邦訳<聖霊>のギリシャ語は、<Πνευμα Αγιον =(プニュ-マ ハギオン)  
     或いは το Αγιον Πνευμα や το Πνευμα το Αγιον>といった多形式での表現が
     可能となり、新約文書の各所では、その格の語尾変化、冠詞の同一格変化形でもって使
     い別けられている。

     語句の形体としては、ヘブル、ギリシャとも、רוח 、Πνευμα なる語=<霊>を、
     形容詞の קדש (カーデシュ)、Αγιον(ハギオン)なる語=<聖なる、Holy>を意味する語が、
     修飾したかたちで、一つの語句となし、その概念化を成している。

     日本語で訳出された<聖霊>は、それ自体まったく独立した一用語としての役割観が強
     く、それ自体だけで、優れて印象力のある表意文字ともなる。
     それゆえ、訳出には本当のところ、細心の注意が要求されるとも、、、、、、。

     ほかの語句に関しても、特に旧約聖書の原典内からの訳出は、原典写本がその出所によ
     りシナイ写本、死海写本、ヴァチカン或いはアレクサンドリアと、3、4種等あり、そ
     れに加えて、参照ともなり得る最も古いギリシャ語の70人訳(セプチュアギンタ)があると
     いった事情ゆえに、それぞれの原義、意訳とも異なる箇所が出てくるからである。

     英語訳では、かの1900年頃までの King James V 版での新約聖書では<Holy 
     Ghost>と訳出された箇所が大半で、その四福音書では、ルカ書11章13節の一箇所
     だけが、<Holy Spirit>と訳されているといった翻訳事情を示している。

     一般的に知られている<Ghost>の日本語訳では<幽霊ユウレイ>としか認知されておらず、
     非常に異奇に感じざるを得ない。<Ghost>には<霊>の意味があり、元々、その本来
     原義が<霊>であったのかと推断する他ないが、、とにかく、その King James 版の
     新約における<H. Ghost>との訳は、ひとえに旧約聖書での<Spirit、或いはHoly
     Spirit>なる語句の概念ニュアンスとの同一同化を避け、<Ghost>なる語をもって、
     極力区別立てするように、しかも新約諸書全体を妥当な限り一貫するようなかたちで、
     訳用したものと見なすのが妥当であろう。

     (だが、古くからの King J. 版の<Ghost>訳は、今では廃されたものとなり、他
     の版では使用されていない。結果的に見ても良い印象を及ぼすものとはならなかった。
     むしろ、この語訳により、幽霊、亡霊、死霊といった観念語が深まり、その流行、伝播
     が一層促進され、その結果、<Holy Ghost>の語句自体の概念すら曖昧なおかしな感じ
     を付すものとなったからである。そうゆう意味では失敗訳に帰したものかとも、、、)

     翻訳の元となる新約ギリシャ語原典テキストでは、その区分的厳密性において、ルカの
     福音書にはその用例から若干のブレがある。これは許容される範疇のものとなろうが、
     他の福音書、マタイ、マルコ、ヨハネのものには三者一致してブレは見られない。

     ルカは旧約聖書に係わるユダヤ系の民の出ではなく、いわゆる出自不明の異邦人という
     のが従来今日までの一般的通説である。医者としての知識を修めた人物でもあった。パ
     ウロの伝道旅に同伴し、ローマでのパウロの最後期まで一緒であったようだが、パウロ
     との初めての出会いが何処で、何時だったかの事情は定かとはならない。アンチオケの
     教会でか、パウロの小アジヤ、マケドニヤ等の伝道時途上での、それかといった推定の
     域を出来ないものである。
     (彼が福音書だけでなく、意外とも云える『使徒行伝』というキリスト教団成立初期を
     物語る著書を成したことは、異邦の人というレッテルから見れば驚嘆すべき事であり、
     何ものにもまさる得がたい貢献ともなる。)

     他の福音書の著者、マタイ、マルコ、ヨハネは、その<聖霊=Πνευμα  Αγιον>
     に関して、洗礼者ヨハネと神の子なる主イエスにおいて、その言葉の発祥を見るものと
     している。つまり、洗礼者ヨハネと主イエスが初めて口に出された言葉として、、、
     (マタイ3:11、12:32、28:19、マルコ1:8、3:29、12:36、13:11、
     ヨハネ1:33、14:26、20:22 )
     そして、
     マタイは、その言葉を受けて後に福音書著述の際、主イエス生誕、マリア受胎記事で、
     その言葉(Πνευμα  Αγιον)をあえて用いている。(1:18、20節)

     ルカにおけるその用例では、洗礼者ヨハネの父となる祭司ザカリヤの、主の聖所内での務
     め当番時のヨハネ誕生譚の記事で、その最初の使用が見られる。(ルカ1:15)

     ルカの記述用例に若干のブレがあるというのは、<聖霊>とは、本来的に旧約時代からの
     主なる神が約束なさった<賜物の新たなる霊>であり、御子なる主イエスがその生涯で、
     神の御心を全うなさることにより、その主イエスを通して初めて成就されるものであるか
     ら、その前段階に表現記述するのは、その本来の意味からは妥当でないという事になるか
     らである。

     とくにヨハネの母となるエリザベツと、父ザカリアの記事、第一章41節、67節でのも
     の、そして、第二章25、26節でのメシアを待ち望んでいたシメオンという老人の場合
     が、<ルカ記載のブレ表示>を示すものである。主イエス、その誕生に関わる直接の証し
     という事ゆえに、その前段階の、先行した使用が許容されるものとなっている。

     この三者の場合とも、心の内、心底から湧き上がる、おさえ切れない感情と共に、救い主
     真理に現実感的に触れ、こころ高揚してのその喜びの言、感無量の思いでの証し、そんな
     表明状況を描写せんとしたものであるから、これはもう、<聖霊による、聖霊における感
     情表象>と全く同じだとして、記述適用し得るとしたもののようである。

     ここでは三者とも、本来なら<聖霊=Πνευμα  Αγιον>の代りに、<主の霊、或いは、
     単なる御霊〔ミタマ〕=Πνευμα  Κυριου (Θεου)、or Το Πνευμα )>の語句を用い
     るべきが妥当であったろう。

     (ルカによる第1、2章後半にまで及ぶ生誕記事は、ヨハネ誕生へのいきさつから始めて、
     かなり盛り沢山な内容が込められている。彼がしっかりと下調べ、機会さえあれば、詳し
     く調査、史料口伝収集に努力をかさね、その上で、しかと物語ることのできた彼の賜物、
     才の成果となったものに違いない。

     使徒パウロとの最初の出会いが、何処だったかは判明できないが、よもや彼の母方が、外
     地離散在住のユダヤ系に属する人であったのかもしれない。パウロの一番の愛弟子・同労
     者であったかのテモテのように、、、。

     ルカが若き頃より、医者としての勉学修行を何処でなしたかは知られないが、医者書生の
     立場からも、古くからあるユダヤの祭司職の食と医のさだめ、古くからのユダヤ人の生後
     八日目の割礼の施術、あるいは、産後女性の回復処方のきまりなど、関心を寄せる処のも
     のとなったかも、、。彼がアンティオケの教会に属していた者と推すれば、その頃、ユダ
     ヤ人の伝統割礼施術にも立ち会った折りが度々あったかも知れない。八日目の嬰児、産後
     マリアの言及記事<2章21、22節>も見受けられ、そこからの筆の運びの文筆記述、、、
     そのきっかけ動機も、彼の若い頃からのそれらの関心経歴から来たものかも知れない。

     特に第1章で、その5節からつづる、洗礼者ヨハネの父、祭司ザカリアに関わる記述、、
     それに関する参考資料となる、言い伝え、文書などが偶然にも、神の摂理により残ってい
     たということであろうか。
     かってダビデ王晩年の頃、アロン系氏族の者らからなる、24組の祭司職制度が定められ
     ている。(歴代上24章)その第8番目の組に当たるのが、ザカリアの属する、<アビヤ
     の組>というものであった。モーセ時代のアロンの2人の子らの家系から代々続く諸氏族
     が、ダビデ・ソロモン時代を経て、しかもバビロン捕囚後を経た上で、キリストの時代に
     まで至っているということを、暗にその記事は、背景二義的に重々しく伝えるようなもの
     となっている。)

   *ルカという人の生立、後半生までの事は、何一つ知られていない。使徒パウロとの初出合い  
    さえも不明、、、世の常識、一般的に言えば、全くの推察の域をでないことだが、この内容
    ページを記す論者は、上からの啓示として、斯く言わんとする。

    “ルカはパウロよりも年令が、5才以上、10才前後年上であり、パウロを身体的にケアー
    するという名目で、まさにパウロおかかえの医者として密かに随伴する者となる。
    また、自分本位ではあるが、何か天命的なものを感じて、書記的な事もなしていたというも
    のである。、、、そのずっと若い時にあったきっかけが、実は、かの五旬節というペンテコ
    ステの日(使徒行伝2章)に、偶然の摂理か、エルサレムを訪れている折りであり、各地方
    からの多くの人々(8、9、10節わたしたちの中には=第三者的立場で)と共に、ルカがその内
    の一人として、かの光景現場に駆けつけ、居合わせた者で、その時のペテロの弁明証言をも
    耳にし、後日まで少なからず記憶に残っていたという事である。

    その後すぐに彼は故郷に戻る、、アンティオケとも、、当時はまだ、ユダヤ人、ユダヤ教の
    シナゴグ(会堂)であったが、ユダヤ社会との関わりも深く、その会堂での出入りも母親と
    の関係で、しばしばあったとも、、、、それから数年後から10数年前後には、そのシナゴ
    グが次第にキリスト教徒の専有するところなり、教会集団の主要拠点ともなっていったとい
    う歴史的経過状況が、ルカを取りまく社会的環境としてあったということになる。”  

   以上述べてきた内容、古代末期頃に<信条信仰のかなめ>ともなった、<三位一体の教説>と
   それへの相方的な旧約聖書からの視点的関わりを理解した上で、たまたま上に記したルカの記
   述に関わる視点を区切りとして、さらに引き続いてルカによる『使徒行伝』第二章、五旬節、
   <聖霊降臨>記事から新たな新論究展開の初発起点を取り上げ、この論呈での最後のかなめ、
   <真理認識の新たなる更新>、その最新理解の秘儀開呈を解述することで<神の国への備え、
   解入門論説>兼、その徳用手引としたい。

   ルカが<五旬節>の日の出来事を記すが、この<五旬節>にはユダヤの伝統的に長く続いた慣
   例事による歴史的背景がある。ユダヤの暦の慣例祭の一つ<七週の祭>から由来するもので、
   モーセの時代に定められ、その起源となったユダヤ3大祭(過越し除酵祭と仮庵の祭)の一つ
   であった。(毎年の麦〔大麦〕の初刈り入れの初穂の束をささげる祭事(揺祭)から満7週
   を数えたその翌日の50日目、また、時代が下って、キリスト前のヘレニズムの時代頃には、
   モーセによる出エジプト時・過越しの出来事から50日目頃、〔出エジ記16章1節、二ヶ月目
   の15日直後以降〕シンの荒野でマナやうずらの糧食を与えられた状況に合わせて、7日に関
   わる律法のさだめを全イスラエルの民らが初めて生活実践するようになったことの事蹟を記念
   して、ギリシャ語系での用語ペンテコステ〔五旬節〕を定めるようになった。)

   このような由来があって、キリストの復活したその日から丁度50日目にあたる日に<聖霊降
   臨の事象>起っていることから、初期キリスト教団も、ルカがそれを書き記す以前から、その
   五旬節を最も重要な記念すべき日としていた。

   ルカが伝える、その五旬節における<聖霊降臨現象>、その実相、真相とは如何なる内容を秘
   めたものであったのか、、、、。
   
   父(なる神)からの約束のものとして、12弟子らを中心に皆が一緒に集まっている折りに、
   聖霊が彼らにくだったと、記録し、それには理解しがたい外的な異象を顕映させ、激しい風音
   のような響きを家中いっぱいに伴うものであったと、ルカは後日、取材記録している。
   内的な事象としては、その即時結果として脳内心情的に<聖霊に満たされる>ものとなり、そ
   の聖霊の力が、彼らの脳内に働いて<喋ったことのない他国の言葉>を語らせるものとなり、
   その場限りではあったが、<父なる神と御子なるキリストの事柄を、当世万国宛ふうに証しす
   るはめ様子のものとなった。(行伝2章4-12節)

   この記述に録された<聖霊の降臨現象>は、外的なもの、つまり、外的に働きをなす神の霊に
   よる特別特異な外起象と、内的なもの、つまり、御子なるキリストを理解することへの心悟、
   心証とが、一つ一体、一現象となったかたちで、その特別な一集団に実相化されるものとなっ
   たというものである。
   この降臨事象に依り、彼らの信仰力は、<神が、主が、共にいます、内にも外にも、いつも共
   にいますとの実感、充実リアルティー>をもって強力にアップし、その頂点的な心内悟性の実
   装化に至るものとなる。

   <神の霊による外的作用面>は、もちろん<舌のようなものが、炎のようにわかれて、云々>
   の異象現出が主なるものとなるが、それを現出させるのに、空間物理域での高度で不可視的な
   作用音、あたかも激しい風が急激に吹いてきたような大きな音が天からくだり響くがごとき物
   理音(ルーアフ的聴音効果)を伴い結果させたものとなったが、、外的な霊作用は、この見かけ
   の主異象だけにとどまるものではない。
   神の霊の外的な働きは、さらに彼らの脳内の微細な細胞組織への特別な作用をなす働きにまで
   およぶ範囲のものであった。

   ルカは後にその出来事を最重要な事蹟として、事象的描写の文言でもって綴り伝えているが、
   このように分析的に捉え見ることは、当該当初の事象成就にあっては、まさに無用、無益な認
   識、認知に過ぎない事となろうが、、、今や、現代的に<啓示現象論>を論じ解呈すべき時代
   にあるを是とすれば、そのような分析認知から<聖霊実体>を認識すべきものとなろう。

   神の霊による<外なる霊の働き>と<内なる霊の働き>とについては、<啓示現象論>的に見
   て、多種多様な出来事、事蹟として、まさに旧約聖書において捉え見るところの啓示史全体を
   つらぬき通して、それ自体を成り立たしめているといった働きのものとなる。その前過程的条
   件の内容を踏まえ、理解する事で、<聖霊実相>の存在意義、その在りよう目的、意図など、
   それらを悟認知するものとなろう。

   神様、または、主の言葉として、“わたしは初めであり、終わりである。”あるいは、“わた
   しはアルファであり、オメガである。”といった表現が聖書に見られる。非常に意味深い、総
   括、総含的な含みのある啓示言葉である。マジに考えればこのような言葉は、人自身の口から
   出てくるようなものではないものだとも言える。新約聖書の黙示録に何度も見られるが、その
   書だけに専用な言として見い出されるものではない。(1:8、17、2:8、21:6、22:13節)

   旧約聖書のイザヤ書においてのみ、唯一、先行表言されている。(41:4、44:6、48:12節)
   イザヤ自身もモーセの伝書(創世記のはじめやノアの時)や、現自分の民、及び世界の諸族の
   歴史的状況をも加味意識して、その言葉の表白をなしたものと見られる。

   (その言葉を簡潔に一例にて、意味づけ理解すれば、<初めと共にあり、終わりと共に在る>
   という存在次元のかたちとして、創造のはじめに基づく天地2元相観の<時のはじめと共に>
   から、ギリシャ的知識相の発展段階でのプトレマイオス的宇宙観へと至る、その全過程にわた
   っての<化現視的啓示場世界観>を、神が最大限に活かし用いられた、その<時の終りと共に>
   在るというものである。)

   しかし、この論呈での<聖霊>理解との事柄においては、<神の霊>のはじめと、<人の存在
   にかかわる事柄>のはじめと終りを論究することで、<聖霊>を意味づけ理解せんとするもの
   である。

   <神の霊>は天と地の創造時、天と地でもって表された世界のただ中に在るを、その先天的な
   <界内在はじめ>として位置付けている。(創世記1章2節:“水のおもてをおおっていた”)
   それは、創造された宇宙での内在臨状ではあるが、被造物万象一切に対して、どこまでも<外
   的霊>としての存在と働き臨状を示すものであった。

   また、この宇宙世界内での外的存在の<神の霊>は、御子キリスト・イエスの言動の言葉にお
   いても、その働きをなしているが、神が選び給うた先のイスラエルの歴史事象においては、出
   エジプトの時以来、より顕著なものとなり、多大な働きを跡付けている。

   モーセ時代の荒野での宿営時、度々にわたり会見の幕屋をおおう<主の栄光>、昼夜における
   雲の柱での栄光、まさに年がら年中、雨の降らない乾燥した荒野、砂漠地域を地理的に摂理選
   定し、そこへと引導しての神のご意思の顕現的みわざ、それらは、主なる真の神ご自身の聖別
   としての<存在啓示>の栄光となすものであった。

   そして、約束のカナンの地での選民定住時では、士師記で頻繁に見られるように、選ばれた人
   に降り、多様に啓発、精神的な能力、身体的な力を偶発せしめる<主の霊、神の霊>の働きを
   示すものとなったり、さらにのちには、預言者、王の任位に関わる働きとして、人の意識を感
   動霊感させる。(サムエル記において)
   人の心、脳中意識にまで直に因した働きをも含めて、それらは、どこまでも外的に働き作用す
   るところの<神の霊>、外的霊としての範疇形相を示した<外なる霊>のものであった。

   この<外なる神の霊>に対して、新たに<内なる神の霊>が志向されるものとなっていた。そ
   れは、永遠のはじめから、世界宇宙が創造、その存立が定められない以前から、すでに予定さ
   れたものであった。
   しかも、さきに述べた<外なる霊>は、その人類史的な子供揺籃期の時代に最も適応、最大限
   にその効果的働きをなして、結果的には、<内なる霊>への実現成就のための事蹟的そなえ、
   人にとってのバックグランド的な跡付け、契助的役割を担うものとなっている。

   この<内なる霊>は、人存在、神による創造時での<命の息>から、長い々々年月を経ての、
   <命の霊>にいたる人の存在過程的真理を予徴表象するものであった。(しかし、これは連続
   的に順調に行くものではなかった。ノアの時にリセットされ、ノア以前での豊かさがある種の
   かたちで口伝え、記録に残り、ノア以後、新たな時代への過程をたどるものとなる。)

   <命の息>から<命の霊>に至るもの、モーセは記す、その最初の文書、創世記において。

   彼は、文書の出エジプト記で、80才頃、その召命体験をした事を記している。(3章1-12)
   外なる神の霊による<燃ゆる柴、霊火の不思議>の前で、主の使いを介しての神の声により、
   強力に神を<聖>として印象付けられものとなる。
   かってエジプトやその他、あらゆる神々に対して、何一つ<聖>としての感性を抱いたことが
   なかったが、、、この時以来、神への彼の聖意識は明瞭な自覚の下に生まれ、出エジプト後、
   一層高められる感じに彼の任責活動にかかわり及ぶものとなる。

   (くつ=〔サンダル風のもの〕を脱ぎなさい、、、と言われ、そのよごれたものを脱ぐような
   動作など、、まさに自分の身なり、存在に反映するようなものとさえなる。これが人間側や他
   のすべての動物においての<清い、清くない、けがれ、よごれ>の判別行為、さだめにまで発
   展してゆく。レビ記など。創世記では、唯一ノアの箱舟記事で、清い、清くない獣の表現が見
   られ得る。〔創7:2、8節など〕)
   
   モーセがその<聖意識>において用いた、神に対しての<聖に関わる言葉>は、彼自身が著わ
   した原文書(=出エジプト記の部分)においてのそれが最初である。創世記部分の原文書には
   第二章までの創造記事で、2章:3節の<第7日を聖とされた、あるいは聖別された。=
   [קדש  / ויקדש カーデェス]>の動詞用法の語句以外、それに類する語彙は、一切見られず、
   そのほかで用例適所となり得る伝えの記事処は創世記にはない。この創世記事の文言も、出エ
   ジプト後、モーセがシナイ山の頂で受けた<主の言葉>(出20章8‐11節、十戒記事)に依拠
   して、後にモーセが記した創世記事、啓示文書の言として用いられたものである。

   この事は、モーセ個人に係わる宗教文化性によるとも見られようが、人の観念的な成長発展、
   その人類史的時代の長い経過による進展過程での違いには、その記述での扱いがどうであった
   かという事柄時点からも注視すべきものとなろう。(モーセの聖意識の反映と年代的偏差での
   文筆扱い)

   さて、モーセは、その創世記の記述において、人(アダム)の創造に関して、その説明的記事
   としては、2ヶ所に分け記すことで、二つの捉え方でもって、二側面的な記述表示をなしてい
   るとさえ云える。それのあと方の文言は、先行の記事からの追記継続を兼ねたものとしての位
   置付け関係を成さしめんとしているが、、、。

   (このあたりの記事は、特に18、19世紀、20世紀にかけての<創世記の原資料説批評>
   の対象、要として取り挙げられ、E資料、J資料とかの根拠となり、近代以降の聖書高等批評
   学の端緒となっている。
   ここでの1章から2章にかけての文面の<章区分け>範囲にも、スッキリしないものがある。
   良訳すぎる邦文と、元々、章や節分けのなかった原典ヘブル語とからの間でのことだが、、。

   つまり、1章の終わりを、現在の章分けでの第2章の4節の文言までとしたほうが明瞭なもの
   となるというものである。だが、ヘブル語原典文言での4、5節の文章の区切りがこれを不可
   能としている。邦文訳からはヘブルの区切りが不適切に見える。)
   ヘブル原典では、単純忠実に訳せば、何ら支障なく文章が続いてゆく。一章から続く前の文を
   受けて、以下の如くになる。、、
  
   {4節:これらが、主なる神が地と天とを造られた日々の創造時での天と地の経緯である。
    5節:そして、地にはまだ、野のあらゆる木々もなく、また野のあらゆる草々も、いまだ生え
      てはいなかった。主なる神が、その地に雨をふらせず、また土を耕すほどの人をもいな
      せなかったからだ。}

      *木と草のヘブル語彙は、単数形だが、あえて“木々、草々”とした。
      *後続6節へと続く、その文節を考慮すると、その6節は、<煙霧がいたるところで地
       から湧き上がり、土のおもてのすべてを潤していた>と記されている状況から、5節
       に関係した先行記事での天地造成の日の時期は、第1章の9節での文言、<陸地と海が
       造成された>という時期から、その後のしばらくの間であろう。

       (1960年代前後頃の邦訳では、読み込み異訳なのか、その6節は“地から泉が湧きあ
       がって”と訳されている。しかしこれは、通常見られる地下水系の伏流水の湧き泉を
       意味したものではない。また、70年代以降の新改訳書では、ヘブル語の字義どおり、
       “霧が立ち上り、、、”と訳されているが、この霧も、普通のものではなく、地球大
       地の造成時のものとして、多量に水分を含んだ地殻大地そのものが50度前後以上の
       熱の放散と共に冷温の温度差のある地表面空中に霧となって放出される状況のものと
       推測されるものである。)

      *<水>が天の上の水と天の下の水に分けられた(創1:6、7節)記事と、その後のおお
       ぞらという天の下の水から、かわいた地と海とが造作されたという記事での見識発想
       は、モーセその人独自のものであろう。
       シナイ山での濃き雲、水蒸気や煙霧の体験もあり、彼は、元々それなりに自然への眼
       差し、その探究の心に自ずと目をとめるものであったといえる。
       
   モーセは、人の創造について、<複数二元、或いは三元等の創造>を念頭に置いていたのでは
   ないかとの推察も可能だ、、。そういった考えを内に秘めながらも、モーセら自民族が受け継
   いできた大切な<アダム伝承>との兼ね合い、しかもそれを主要本筋のものと向かわしめる動
   機をもって纏めゆく叙述となしている。(そのアダム伝承での<天と地>に関しては、“はじ
   めに天と地が造られたときには、まだ地には木も草も生えていなかった、、”といった程度の
   伝えのものであったろう。)
   

   第1章での総括的で理にかなう順序、秩序立ての創造記事における、その第6日という期日で
   の<人の創造>と、その<人創造>に併行して、別の異なる所で、その同じ頃の時期に、第2
   章5節以降、7節で言及されている、もう一人<別の人アダム>をお造りになったという事情
   を加味した立場での記述として、、、。

   人の世の超古代史は、ノアの時代にいたる記事のところで、その人存在の2ルート面をも示す。
   つまり、
   エデンの園に関わったアダムからの直系の系譜系を軸とした<神の子ら>として、しかも幾多
   の傍系の子らの多くが、別系起源のアダムからの子らにおける<人の娘ら>との混淆を盛んに
   したといった歴史状況を示唆した記事となっているという事で、、、、。

   (信じられないほどの長命の系譜が記されているが、これはかっての神の創造時での栄光を現
   わしているもので、しかも<神の霊>による密かな内的保全があったからである。からだにお
   ける細胞遺伝子が、永久増殖するように仕組まれており、その専用遺伝子が保全され続けたと
   言う事であろう。外的環境の変化、悪化など、外的な作用によりその働きの低下、損ない不全、
   消失に至るものとなる。

   別系と見られる<人の娘ら>との混淆で、ネピリムとあだ名された人種が出たの記述が見られ
   るが、これは神の子らでも相当良好な遺伝子の持ち主、特に骨の発育造成が優れている者と、
   背丈の在る娘とが掛け合わされたケースであるとの推定もされうる。何でも初で新規な場合に
   は、何かが優性なものとなるケースが多いとして、、、だが、このネピリムの場合にも骨遺伝
   子の優性主導が<神の霊>の啓発によるものだったとする見方も否定しがたい。ともかく、ノ
   アの先史時代から伝えられた神の働きの<証し的しるし>となる一つとして、伝承物語の中に
   残ったものと見るべきであろう。
   また、このノアの時代までの<人に係わる神の霊>も、<外なる霊>としての働き範疇のもの
   であったと理解すべきだ。)
   
   エデンの園に係わる人・アダムは、旧約聖書伝承の原初中核の本筋として、創世記事第2章の
   7節から語られるものとなっている。
   その7節での文言、主なる神がアダムを造作された事象的文言は、まさに<人の死の現象>を
   逆プロセスに想転反映した向きのものとすれば、一介の把握的概見が得られうるようなものと
   もなろうか。(人が死ねば、やがて朽ち果て土に帰り、ちりとなる。現在では、火葬され、1、
   2時間でちり灰と化する。むなしさと悲しさの云い難き極みだが、、、)

   7節で、“土のちりで人を造り(あるいは人をかたち造り)、、、”とあるが、このような簡
   単な言葉で、人の起源を説明、あるいは物語るなんて言うのは、まったく馬鹿ばかしい限りだ
   と、、そう現代人の大人アホなら誰しも思うところであろう。しかし古代人は、この言葉を難
   なく受け容れることができたようだ。かえってむしろ、神のその業を真似て、粘土をこねて、
   あるいは石や金属から人の像を造るようになったほどである。かのローマ人が大理石をもって
   精緻極まりないヴィーナス像を作り出す技は、実に感嘆すべきところであろう、、、。

   しかし、この言葉は、人が人の像を作るような場合とは、訳が分らないほどの違いがあり過ぎ
   ると言えるものだ。だが、現代人一般は、こんな言葉で納得できる筈がないという事だが、。

   地球大地の創造、造成時では、その土は、まさに純粋なかたちで、炭素系のみならず、多様な
   元素素材のものであったろう。<ちり>とは、そういった純粋な分子、元素素材のことである。
   人が粘土をこねたり、石や金属を加工したりしての造作次元のものでは全くないというもので
   あり、その神のみわざは、まさに高次なる、目に見えないほどの次元からの<造り出し造作>
   であるというものだ。

   古代人の思考、考えレベルからは、<命の息をその鼻に吹き入れられた。それで人は生きた者
   となった。> というような言葉表現が、そのレベルとぴったし釣り合うところであろう。
   創世記事を記したモーセは、この文言において、主なる神の<人創造>の御業の最終の詰め完
   結へのその一手に向けて、花を添えた意味合い風に、<命の息=נשמת חיים>の表現でもって
   その造業を語り尽くすものとしている。
   〔נשמת חיים =ニシマ⁻ツ クァイ⁻イム〕 ⇒  נשמת =息、 חיים =命

   (<神の言葉の永遠性>における現代的理解説明の真理においてはどうか、、それは、、、、
   人ボディーの細胞質生命レベルでの身体すべてが出来上がり、あたかも深い眠りから覚めるか
   の如くとも、言い難い以上の、はるかに究極次元でのもの、あたかも究極的に一糸の命脈意識
   が身体全体に、その神経の全体的経絡を初動浸透させるがごとく、<命の意識の目覚め発現>
   となったところの<命の息>という、見かけ上ではあるが、<神の作用息吹>を示めさんと意
   味するものだと言える。肺や心臓などが即、その機能を始めて、視覚視野、聴覚聴野も開け通
   ずるものとなる。

   つまるところ大脳側、部分的小脳側の神経伝達組織と、そのほかの体、内蔵諸器官に係わる全
   神経経絡が、脳間脳髄部位のあたりに集中する<核座中枢神経部位>への初動開始の作用因と
   しての神の御業の最後の詰めが、<命の息>という表現にあたるものである。)
   
   だが、モーセを代表とするような古代人の知的感性においては、実に<命の息>そのものが実
   体的に神から発出されて存在するとしたもので、それが人に吹き込まれる事で、初めて命ある
   人体になったという認知レベルのものであった。
   モーセのような古代人にとっては、上記した現代医学におけるような、そんな知識などまった
   く無いものだから、<命の息>を吹き入れられて、それが人の内にあって<呼気>するものと
   なったといった具合の表現になるような結果とならざるを得ない。
   原典へブル語で使用された語彙と、その文意感覚では、簡潔にそういった意味合いを示すもの
   となっている。

   (かってモーセが神の召しに従わねば、自分の命が絶たれるような<神からの召命>を受けた
   際、<燃える柴>、柴が炎に包まれているのに一向に燃え落ちないで、近づいてよく見ると、
   炎の中で、かえって揺らぎながら枝を幾つも伸ばしているようではないかと、そう思った時に
   自分の名前を呼ぶ声がしてきたという、異象なる不思議体験をしているわけであったが、こう
   いった神から見せ付けられた初期の諸体験なども、<神の創造のわざ>記事叙述への足がかり
   支柱となり得ているというものであるが、余分な知識のない古代人モーセの、神からの諸々の
   体験知識に依るところの彼の著作の手というものが成り立ったと云う他ない。
   〔注〕:邦訳では<柴>と訳され、日本的感覚では<背の低い雑木一般>になってしまうが、
   これは、棘のあるアカシャの若木であったろう。モーセもこの木の固有名を知らなかったから、
   単に<トゲのある木>を意味する一般語彙<סנה = スェネー>を用いたと見られる。)
   
   ここで、ヘブル語の原典文言を取り上げ見ておこう。とくにギリシャ神話における古思想が、
   イスラエルのソロモン王国時代の繁栄期頃、イオニア(小アジア西部地域)の諸都市から起こ
   り始め、多諸族的な諸伝承の集積混合の創成発展をなし続け、BC9-8世紀のホメーロスや、BC
   8-7世紀のヘシオドスらを経てその文書化伝承をもって伝わったと云う事だが、これは、同時
   代的な文化の近隣関係の状況を見せており、その古ギリシャ思想における<人の起源>に関し
   ては、その神話によると、<ガイア=大地>の<土から生まれた>という観念性を生み育み、
   信じられたものとなったがゆえに、そういった考えとの対比、相違をも考慮しておこう。

   (イオニアのギリシャ古神話の形成段階およびその集大成化への過程には、なぜかモーセ五書
   やヨシュア記、士師記までの、あるポイント、ポイントの観点が、どうやらその諸種族的な神
   話思想への形成発想のひらめきや、創作原点、或いは諸契機ともなっていると見なす向きが否
   めないようだ。)

   第2章7節の文言:(ヘブル語は、右から左への読み書き式にて、、)
                 וייצר יהוה אלהים את-האדם עפר מן-האדמה ”
         “ :ויפח  באפיו נשמת חיים  ויהי האדם לנפש חיה
   ローマ字式での読みで: 
    Waii⁻tzel Iehuwa⁻ Ero⁻hi⁻m Etz・`Ha⁻a⁻da⁻m  A⁻pha⁻l Min・Ha`ada⁻ma⁻
    Wai`phaqh Bea`pha-iv Nish`matz Qaii⁻m  
                     Waiehi⁻ `Ha⁻a⁻da⁻m Re`nephesh Qai`iya⁻:

   このヘブル語文で、注目すべき語句、また、とくに留意すべき語句を2、3 挙げて解示確認
   してみると、、以下のような把握理解が得られる。

    ・<את-האדם>エツ・ハ`⁻アーダーム:
              ここでの<〔-את〕エツ・>は、後続の目的語を<強く限定する冠詞>
              の働きをなす語である。よって〔אדם〕アーダームに英語でいう定冠詞
              the に相当した〔ה〕ハア も付いているのは当然であるが、この
              ハーアーダームは、前節の6節の状況を踏まえた上での、5節の<また、
              土を耕す人もいなせかったからである。>の文中での<人>に関係
              付けられている。しかしそれだけのものではない。それだけならば、
              英語のような定冠詞〔ה〕ハア だけで用が足りるものである。

              つまり、著者は、前の章、第1章26、27節での創造記事では、
              その<人・創造>について、2元、3元説を念頭にしつつ、次章7
              節でのこの<人創造>を、その前章記事のものと、同次元、同時期
              的なものとして、それらへの強い関連付けを意識した<〔-את〕エツ 
              の語の用法>を採ったものと言える。                
   
    ・<עפר מן-האדמה>アーパ⁻ル ミン・ハ`アダーマー:
              前述、先にも触れたように<ちり=アーパール>は、高次元で純粋な素
              材(元素、分子系レベルのもの)である。したがって、人・文明か
              らゴミのように出てくる類のチリではない。
              モーセは民を率いてシナイの荒野へ、それは神のご臨在手なる<雲
              の柱>が道標となって導き行ったものであった。(出エ13:21)
              その広範囲なシナイ山系の地域はめったに人の寄り付かない、いわ
              ゆる原初のままなる地理的地形風土のエリアであった。

              (しかしモーセは、その地が初めてだった訳ではない。一度だけで
              なく、その前生涯の40年ほどの間に、時を見て牧草探査のため、
              2度、3度訪れているようだ。(神はそんな彼を知り、召命された
              との所以である。牧羊の営みがうまく行っていた頃であったが。)

              モーセのシナイ山での諸々体験、神との言葉啓示体験だけでなく、
              神おわします自然体験そのものが、大いに彼の知的情報源となって
              いる。彼はそこで、原始の土さえも神によって造り出されることの
              追体験的な模様を自らに察知させられている。
              これが、モーセの<האדמה = ハ`アダーマー の 土体験>であったと
              見られる。

              モーセの神の召しによる登上行動は段階的に徐々になされたもので
              あった。シナイの山の前に民らが宿営を始めた後に、(出エ19:2)
              その最初①:山への登り口から少しだけ上がったほどのところで、
                    神からの最初の言葉メッセージを受け、民の宿営地に
                    戻り、その言葉を伝える(3-6節&7節)
                    さらにこの状況が数日の間のうちに繰り返される。
                    (9-14節)

               2度目②:三日目にシナイ山への<お下り顕現>するとのお言葉
                    どうり、神が全能的な力をもって、シナイ山全体をご
                    掌握、その火山的現象状況導出し、火の中に山頂に顕
                    下され、全山が濃い雲に包まれた(19:16節~)直後、
                    登り口あたりにいたモーセは、主に召されてその山頂
                    へと上っていった。(19:20節)

                    だが、途中で急遽引き返すように命ぜられる。(21節)
                    その時、神が民への安全を考慮した口実とモーセの受
                    け答えがあるが、再度下れ、行けと命ぜられ、アロン
                    と共に登れと、口実される。(19:24節)

                    (下山の途中で、モーセは天からの神の声の御言葉を
                    聞いた。宿営地の外近くに待機していた民らもまた、
                    その声を聞いた。それが<十戒の言葉>であった。)
                    (20章:1-17節&22節に記述されている。)
                    その下山して民と会話した後、再び山すそまで垂れ下
                    がった濃い雲のほうに向かい、登り口辺りで主の言葉
                    を受けた。(20:21節 ~ 24:2節)

               3度目③:その後、モーセはアロンとその子ら、70人の長老ら
                    と一緒に登れと召される。この時は山頂に近い中腹程
                    度の所までで、モーセだけがそこから少し進んで主に
                    お近づきするだけであった。他の者たちは、
                    休み所のあるところから山頂方面に向けて、神の臨在
                    的異象光景を目にして、飲食した後、無事下山。
                    (24:1-2節&9-11節)

               4度目④:再び主なる神の召しを受け、モーセは登る。この折り
                    従者に若くて力強いヨシュアを伴う。石の板が何枚も
                    あれば重いし、読み書きもできるヨシュアに書き物の
                    用具をも用意、持たせて登る。(24:12-18節)

                    (山は雲がおおい、山頂は、内にある火の輝きが雲に
                    反映し、山麓、宿営地から見れば、燃える火のごとく
                    輝き、主の栄光の顕われとなっていた。しかし、
                    以前のような危険性は無くなって、むしろ安全な山体
                    環境、温室的適温、適加湿が講じられていた。)

                    この時、神の聖所なる幕屋、契約の箱、幕屋に必要な
                    諸々の器物の造作すべき内容方法、および幕屋への聖
                    なる務め、礼法運営方法などの定めの言葉を受ける。
                    これには四十日四十夜の期間を要した。
                    (25章:1節から31章:18節&32章:7、15-18節)

               5度目⑤:その後再び、モーセ一人だけが山に登る。これはモー
                    セが民への応対、会見事をする<幕屋>をゆえあって、
                    宿営地の外に移してからの事であった。
                    それは正式の<神の聖なる幕屋聖所>ではなかったが、
                    一時的な仮の<会見の幕屋>としたもので、ヨシュア
                    がいつもその番をしていた。(33章:7-11節)

                    モーセは前のような石の板二枚を造り、それを持って
                    一人で登った。誰とも登るなの命を受けていたから。
                    (34章:3節)
                    この時も四十日四十夜、山頂及びその近辺に留まり、
                    主の臨在を拝しつつ、主の言葉を受け、主からの諭し
                    や、シナイ後のアドバイスを受ける。
                    (出34章29節まで)

                   *この最後の一人の折には、主なる神はモーセを最大限
                    に支えられたと見られる。
                    山体も依然よく温まっており、夜も冷えることなく、
                    水蒸気による温室的環境が、さらにすこぶる効果的な
                    ものとなり、その作用が彼の身体保持に大いに一役買
                    うものともなっていた。

                    彼は実際的に、<命の息>のごとく働く特別な空気を
                    感じとるもののようであった。何か自分の体が生き返
                    った、リフレッシュされたように、、、。
                    (旅路での荒野の暑さとは段違いということか、、)
                    また、ずっと主との臨在的対話の中、主からのほてり
                    の故にモーセの顔の皮ふ、顔面が光を放つようになり、
                    一時的に栄化されたものとなった。(34:29-35節)
                    --------------------------------------- 
                   *この数度のシナイ山登行、山頂逗留で目にしたもの、
                    経験した事のうちの一つが、いたる所から吹き出す水
                    蒸気と共に泥水的?にこぼれ出て、下方に溜まり、造
                    り出される<土>、土の山や土層、、、まさに<土>
                    の造作だと感知させられる事象であった。
                    ---------------------------------------
                  **その5度目の下山後、モーセは、<神の聖なる幕屋>
                    造り、その聖所に必要な諸々用具、器物造りに執りか
                    かる事となる。(出エジ35章:4節~40章:1-33節) 
                                  
    ・<לנפש חיה>レネフェシュ カァィヤー:
             この語句をどう訳すか、モーセの時代から旧約聖書が訳されるように
             なった時代までの古代の期間は千数百年の年差がある。
             邦訳では、人は<生きた者と>なった、新改訳では、<生きものと>
             なった。とあり、それぞれ第一章からの創造記事、特にほかの生き物
             (これは20、21節や、24、30節にある語彙と全く同一語句である。)
             や、26、27節の人の創造記事との内容的相関関係、語句関係において
             その結びつきウエイトの置き方で、そのニュアンスが異なる訳し方と
             なっていると見られる。

             しかし、英語訳圏では、むしろ適切な訳語が無いかのように思える感
             じで、“ man became <a living soul>”や <a living 
             being>などと訳されている。英語の概念性に未熟なものは全く馴染
             めない、すんなり受け容れがたいような英訳ともなる。
             前者の soul は、1900年頃までの King James Version 版に
             見られるもので、その初版が1611年になるものだから、その頃までの
             西洋の時代史的反映や、精神的な人間性に重きをおくような価値観や
             人間認識の一般的通説知見のあらわれと見られる。

             LXX70人訳のギリシャ語で、すでに ψυχη〔プシュケー〕と訳され、
             ψυχη ⇒ イコール soul という訳出路線にゆくほかなかったとも、、。
             すでに高い知的レベルで、ギリシャ哲学系の人間観でのψυχη 概念は
             定まり成っており、その人間認識とユダヤ系神学とが交接、交流する	
             過程段階でさらにキリスト教が深く関わり、その関わりにおける言葉
             の新解的認識から<人間教理の知識>が確立されてゆく。
             その人間観において位置づけられる存在概念として、<soul>という
             訳出が、また、それだけでなく、紀元前における <ψυχη>という訳
             も、至極、妥当なるものと見なされるに至っている。
 
             (使徒パウロの新約書簡で啓明された教理諸観からの人間観は、その
             背景風土的根底において、<霊魂と肉体という二元性のギリシャ的思
             想風土>に根ざしたかたちで表想化され、その教理的効用をなしてい
             ると見られ得る。もちろん、その場合、<霊魂先在とか、不死、不滅
             輪廻、分出とか>等のギリシャ哲学、宗儀風の見識を表明、支持した
             ものではさらさらなかったわけだが、、、)  

   さて、モーセのシナイ山での諸々の体験、それは出エジプトから始まる数々の体験から引き
   続いてきたものとして、いわばそのクライマックス的なものとなったと位置付けて良いよう
   な、非常に重要な啓示事象内容を有したものとなっている。

   父祖アブラハムとの主なる神の約束が、モーセの時代(430年後)になって、具体的な歴
   史事象として果たされる運びとなった。アブラハムの時代以降の世の趨勢は、その長い年月
   を経るに及んで、メソポタミヤ地域を含め、エジプトを頂点として、カナン(シリア、パレスチナ)
   全域が偶像の神々で満ち満ちる状況となり、その権力支配、体制は容認しがたいほど悪しき
   ものとなっていた。その遠い昔に<ソドム、ゴモラなど極めて一地域単位での悪癖>だけが
   排滅されたわけだが、、、モーセの代には、神ご自身が聖別の民を存立させ、ご自分の民と
   なすことで、人類史的世の趨勢を新たに切り開き、善導すべく、将来的展望の下にいよいよ
   善処遂行せんとする時となって来ていた訳であった。

   そもそも神が人を創造された主旨、所以、しかも<神のかたち>に、神ご自身に似るものと
   して人を創造されたという事柄自体に秘められている真相から、この人創造は、神ご自身、
   計り知れないほど大変な決断覚悟というものを払うものであったとも言えるが、それ以上に
   深い思惑、深慮の限りなき見通しがあってこそ、成され得たものであったと言えよう。
   だが、この<神の人創造>は、それに対する神自身における<神の自己責任>を自他ともに
   問われるものとなる。

   この<神の自己責任>は、神自らが最大限に背負い給うところの責務となる<自己責任とい
   う十字架>でもあり、この責務ゆえに神ご自身の深慮の思惑は、もはや神自らが人の世に対
   して、その理想を追求し、実現せんと意図する必然の事柄と一体的なものとならざるを得な
   かった。
   (しかし、その原初においては、その啓示的例外を除いて、ノアの時代まで、先ずはほぼ人
   の自由意志の為すがままの世の成り行き、放任状態での様子を見るものであり、<神の自己
   責任>は、それに応じた何らの善処をなす事もなく、あえて棚上げされたものであった。)

   モーセと民らはシナイ山で、<聖別された神の民>となるべく、諸々の言葉を受けた。つま
   り、十戒と教えのいましめ、生活上の諸律法から神の幕屋聖所の設立と、その聖なる運営儀
   礼および祭儀法、年祭聖会の定めなど、その一切に関わる言葉が啓示されるものとなった。
   神の言葉を社会的な規範とした民族的共同体の誕生であり、まさに理想を念頭に置いた神の
   次なる新たな第一歩、その動機付けとなる一選民の民族史的展望への試みでもあった。

   その当時の世界状況においては、まさに比類なきレベルの<言葉文化で一つにまとまらんと
   した共同社会>の出現を見るという装いのものとなった。
   しかし、そのような<神の言葉>に依らんとするものも、結局は外から与えらた範疇のもの
   として、神の<外なる霊>のみ働き(しるし奇跡を含めて)という限りのものであった。 

   <命の息>から真の<命の霊>への長きはざ間の発展過程と、秘儀的飛躍の成就には、まず  
   人の精神的進展に見合う神の言葉による<多様な外なるみ働き>が密接に関与してゆくもの
   となる。
   アダムは、神により人のかたちに造られた際、外側から<命の息>を受けた形式で示されて
   いる。それで人は、<living soul=ψυχην ζωσαν= 生きた魂>となったと、、後々の
   ヘレニズム時代以来から、そのヘブル語原典<נפש חיה = ネフェシュ クァィヤー>を、そう訳され
   るものとしている。これは、唯一最初に造られ存在した、最もプリミティブ (primitive) 
   と言うべきか、無内実ゆえに未だ霊魂とは言えないような、純白無垢な意識の霊魂であった
   と解すべきものであろう。

   このアダム、神自身に似るように、神のかたちに創られ、才能的に無限の発展史の可能性を
   秘めたものとしてその初源存在の時代を生きるものとなるが、その知覚本能、知恵感覚は、
   物事を語性的に把捉せんとする能力を先天的な脳機能として擁し容されたものであった。
   エデンの園の自然を管理し適宜に耕すことや、諸動物に名前を付けて仕分け分類するなど、
   また、女、エヴァを与えられた折りでの、同一同類的存在への深い直感認知の心魂性の表情
   が垣間見られたものであったと、、、記されている。(創世記2章15-23節)
   だが、神に似る能力の無限の可能性を秘めたアダム(エヴァ)であったが、その初期途上で
   意外な結末の生涯へと展開していった。(創3章以降で記されているごとく)

   近代以降、背教、背信の知識時代の発展が急伸長し、拡大してゆく。反キリスト、反聖書の
   時代となり、その知識成長、蓄積の頃合い、世の趨勢に乗って<反キリスト>時勢悪魔は、
   現世<人間の起源>をアフリカなどの地に捏造、設定するまでになっている。
   この近・現代的趨勢は、色々な面でキリストに対抗、競うことでもって、文明的発展を大い
   に助長し、大繁栄の文明をもたらす傾向ともなる。

   この究極的大繁栄の現在的世界過程も、完満に至るに未だ70、80%程度の段階かもしれ
   ないが、神のお心の嫌うところ、好むところ、その反映が自然界宇宙に霊妙に表出される。
   <反キリスト体制のこの世悪魔の諸業繁栄、そのすぐれた生存活動>も、結局、神がこれを
   すぐれてよい面を重視、紙一重のものと見なし、容認した給うものと理解すべきであろう。
   (だが、いつの世も最高の文明を象徴している<金の杯>に、陰湿、狡知な悪知恵支配でも
   って邪悪な罪を満たすような諸々の裏諸業は決して見過ごし許されるものではない。)

   この世は、初めから<神の無限の愛>を知る事はないが、神の無限の愛の勝利は永久不滅に
   輝いている。その創世の初めから神の無限の愛が込められているからである。太陽系レイア
   ウトの地球のあり方、また人、人類に対しての地球それ自体が、無限的な素容内質を秘めた
   天体そのものという造成のされ方でもって<神の無限の愛が込められたもの>として、その
   存在を得ているからだ。

   さらにそれに加えて、この世界に神の御子を存立、その真理を成就させることによる<御子
   キリストにおける神の愛>がそれへの永遠の支柱となっている。 
   最初の人・アダムからの全ての啓示諸相、諸事歴象の事柄を容受、統捉しての御子キリスト
   において成り行く、新たな無限の可能性への始元的(再出発)始まり、、神の無限の愛は、
   キリスト存在を介して、さらに義と勝利に輝いているのだ。

   アダムにおける<命の息>は、<命の霊>とはなり得なかった。<神の無限の真理相や愛>
   についての内実性をいまだ結実、満たし得るものでは到底ありえなかったからだ。
   だが、<命の霊>は、御子キリストにおいてようやく実需の時を迎えて成就され、その無限
   の内実化を実成、保有させ得るものとなった。

   旧約聖書に見られる、すべての啓示事象の主導的働きをなした神の霊は、<外なる霊>とし
   て(対世界の全域領が七つの霊に振り当て分担されるごとき活動領域のもの)、神が世界創
   造の初めからあらかじめ意図しておられた如く、遂に御子キリストにおける無限の内実化を
   促がし志向する<内なる霊=(聖霊)>との一体的な融交関係の存在を開現定礎し、御子自
   らが、その力・パワーの実成を現わし成すものとなった。

   <父と子と聖霊との名において>と、主イエスご自身がお言葉を与えお命じなさった、その
   初基程には、この上なき最も最善、啓明簡潔なる<贖罪の義=十字架による贖いの恵み>が
   神の国・福音内容の主要素源の一つとして、その至福への受戒門となるように定まるものと
   なっている。その不朽、永遠的な初基程をさえ前提とした、さらなる背景的内奥には、ただ
   単に人・個人の内実成長に与かる<活ける存在原理>となるというだけでなく、現実世界・
   宇宙内での<父と子と聖霊による存在原理の具現、実質化>が経綸され、目論まれるものと
   なっている。
 
   これは、神の存在におけるそのご意図が、人、および人間世界に対して、意外、予想外なま
   でに極めて平易で、特殊なものでない普通感覚な在り方で、上から(天上的意味での天から)
   の降示となった<父と子というある史的に究極、終端的啓示形式>でもって、その現成、実
   現を見るものとなる。
   その父と子において、父に係わる<外なる霊>と、子に係わる<内なる霊>とが融合一体関
   係を実就、実現することで、即、聖霊の在現を成就するものとなる。その受働配与が、今や
   キリストにおいて、人における<命の霊の存在原理>の始まりとなり、その原理の実存的道
   程が、即<命の道の真理実現>と同義なものであるという内実的実証を感受するものとなる。

   御子キリストによる、終極的且つ、始元的となる<父と子と聖霊との存在原理>は、上なる
   神から下なる人次元に下されたという啓示場様式を介して、神がその憐れみの愛を最大限に
   表明、刻印されたところの<命の存在原理>であるというものである。

   <命の息から⇒命の霊>、その両者間には<真理内容を包摂した長い歴史過程>が介在し、
   御子キリスト・イエスにおいて実現成就の<永遠の時>に至っている。しかし、これはその
   <歴史時間過程>での人間ベースに根ざした、人間の多様な精神的活動からの様々な諸ファ
   クト(諸宗教、哲学、神話などから培われた観念、言葉、概念による諸思想など)による混
   在、混淆の類汎状況、完全にかき乱されたる状態になり得るとの歴然たる事情が、神にあっ
   てはあらかじめ初めから予知されたものであったから、<父と子と聖霊>という、極めて単
   純ユニークで、特異な啓示様式として、その存在原理が呈示され、その類なき唯一性の確立
   をもって、実成されうる時を迎えたというものであった。

   <命の霊>はまさに<父と子と聖霊における存在原理>であり、本来的な意味からすれば、
   <人体霊の完成、完結>を見るべくところの、人における<内なる霊>である。
   神によってお膳立て啓示の準備ばんたん(父・子・聖霊)となった、神からの<内なる霊>
   は、活ける<命の人体霊>を混然一体、融一的に育み、成長強化強然とするものとして、そ
   の完成の域に至るものである。これは言わば、<命の統一真理学という実践的正当神学>を
   修学会得するといった、<命の道の真理過程>と一体的なもの、同一なものとなっている。
   そして、この<内なる霊>活動に対して、神の全能なる<外なる霊>は、これを支え、守り、
   大いにご加護され給うことに止むということは無い。
   (父は<外なる霊>、子は<内なる霊>、聖霊は父と子による<命の霊>という形式で、最
   も単純に言葉表示された次元で、その存在原理の概略概念化を観ることが可能となるという
   ものかも知れないが、、。)

   至福に満ちた<神の国>では、幼子の内から<その道への訓練>がなされ、様々な才能への
   勉学にめざす子ら、様々なスポーツ才能をめざす子ら、皆々それぞれ、その人体霊の育成強
   化を怠らないものとして自己形成し、それぞれの分野、人生で皆、自分<命の全う完成>の
   個性的特徴の栄えある栄命、栄化に浴与されうるものとなろう。   

   以上にて、論呈・その六、及び、神存在に関わる諸相論の最主要課題を終わります。 

   引き続いてなお、<論呈七>を結びとして、また、今までの足りない面の追加、補いの論、
      論解をもって、そのすべてとしておきたい。

   【論呈その七】
   神様の存在、そのご聖業活動の偉大なるみわざ、神様の<物造り>は、いわゆる元素、原子
   次元への造成過程から創めて、そのプロセスを一にしての全宇宙創世へと進展したものであ
   ったわけだが、この事は現代に至りて、ようやくにして到達し得たる人認識においての神観
   内容と類比的に一となす事実実相ものである。

   神観或いは神観念の人類古代史、その始原的な状況をひも解き、垣間見る如く知らんと試み
   ようとも、その源泉発祥の史的実証が得られると言うほどに容易いものではない。
   先史の遺物や遺跡から考古学的に推定読み取りうる認知段階から、史料有史の文明時代に至
   るまでには、はや既存、既成的なものとしての、神観的な諸観念、通念意識が至る所の文明
   社会をば特徴付け、それ足らしめる現実結果を成り立たしめている。
 
   古代エジプトの初期、或いはメソポタミア(バビロニア)の初期シュメール文明、また他、
   4大文明圏のうちのものにしても、それぞれにその原初的なものの多様な観念表象が見られ
   うる。ほぼ同年代的なエジプト、メソポタミア双方の文明においては、その原初的な起点と
   なる共通項(の知的観念)が、注目すべき事だが、いまや史料的にも明瞭なかたちで見い出
   されうる。

   それは、<原初の海とか水>であり、神話的物語の発想展開の起点となっているが、それが
   神格化への表象意識に進化し、多様な神々の擬人化を生み出す反映意識へと、さらに発展、
   やがて、それぞれの神話物語を文字表式で創作するものとなる。(時代が下って、BC15世
   紀後半、モーセが纏め記した旧約の創世記にも、“原初の海、大地をおおい漂う水”の深淵
   描写が見られる。したがって、この<原初の水>観念意識は、人類史的なある時期には度々、
   かなりグローバルに伝播したものともなっていたと推定されうる。)

   だが、初期エジプト、メソポタミア双方の共通項ともなる、その観念性の次元からにおいて
   は、<原初の海、水>とかを神となす自然崇拝的な観念を超えた神観念、或いは神観的なも
   の、それを第一位となすような意識表象は、至極自然の事ながらまったく見られない。これ
   は、古代人の知的成長レベルを顧慮すれば、当然しかるべき表象意識の才能認知段階として
   その程度に留まるを得ない、不可抗的必然のやも得ない人的実情と見なすほかない。

   そういった表象意識の認知段階での<原初の海、水>を<始原なる神>と見立てる知意識か
   ら、その自然界的世界観をして、何よりも先に<神々の存在>が先行して生まれ成るといっ
   た考え発想とその初生諸観念を種々に解釈投映するものとなる。そこでは神々の存在界が、
   何よりも先に先行第一義的世界として思惟されるものとなる。
   シュメール神話の例のように、<天と地>が即、天という神=アン〔アヌ〕、地という神=
   キが生まれて、その世界観を成すと共に、次々にその現象想定的な神々への想出思考が彩り
   を成すものとなり、それがさらに人間の事象次元(愛、戦争、知恵知識、死、冥界、運命、豊
   穣、幸福等々)にまで、幾多の神々を生み出し、BC20世紀中には、その体系的なパンティ
   オン(アン or エンリル と アヌンナキ+50神、その他の神々)をも想定するほどになる。

   しかし、<原初の海、水>にまつわる初期の神話的思惟観念からは、人成長の精神的に求め
   られた、その理想最善に望まれたる、あるべき神観内容の進展的確立への志向、方向路線に
   向かって発展すべくもなく、むしろ目に見え形のある偶像を造り据えるような、また、形は
   無いが、言葉によるイメージ偶像、或いは神体等も考え出し、それらを含め、拝むことで、
   かえって心の無知なるをあらわに空しきものとなり、甚だしく心身的低下を辿るようなもの
   ともなる。その神殿域、拝殿等、その外見領域が素晴らしく壮大なものとなったとしても。
   (“原初の海、水”といったおぼろげながらの口伝え観念性のものは、ノアの大洪水の事象、
   その後を通して、むしろ一層強調され、印象付けられたものとなったとも推定されうる。)

   人類の未来にとって、人の成長、その正しい路線は、必須不可欠に重要な事柄である。特に
   古代における人類にとっても最重要な課題ではあったが、そのように考え、目覚めるように
   なる時代に至る事さえ、何時になるのか、何時来るものとなるのか、定かではなかった。
   ところが古代における人・社会が、その宗教的な権威付けとか、恣意的な祭礼により、極め
   て支配的、慣例的な秩序を成し、たとえそこに不正、不義の乱れがあり、度々是正されたと
   しても、その最重要課題は、神と人とのより大いなる課題の内に見据えられ、解決されるも
   のとして、決して第一義的、究極的な指標に掲げられる契機となるものではなかった。
   
   古代の神観、神観念はことごとく偶像や、表象イメージに堕するものとなっている。選び出
   されたイスラエルの民でさえもその例に洩れることなく、その爛盛な傾向に惹かれ染まり堕
   した。選民であったがゆえに、諸偶像との係わり事がむしろ啓示的裁きの鮮明さを跡付ける
   ほどに自国を失う史事への悪因ともなった。
   要するに人、人類は、自力では神を正しく知りえない存在であり、たとえ<神の存在>を感
   覚知性で認め、心にあれこれ思描するとしても、そこまでの事でこれが限界である。先に述
   べたように古代の人々が想観表示した<神々象表>を決して越え出るものではない。この点
   については、古代史全般から見ても、すっかり実証済みのものと言えよう。

   そういった実情、限界条件は、人の側から人自身だけにより乗り越え、解決できる事情のも
   のではない。人間の存在と神の存在は、本質的に次元を異にしており、存在本質それ自体が
   全く異質なるゆえ、人が神の異次元的存在側に入り立ち、移行するような事はできない。
   したがってこれは、人と神との両者の存在間に根ざした課題であり、神存在の側から神様自
   らによってのみ、神様の働きかけ、神様側からの意味ある何らかの呼応顕応無くしては、決
   して解決されようもない問題である。 

   神様の方から神様が第一義的なものとして解決して下さる課題であり、神様が積極的に人間
   存在側に働きかけて対処なされる範疇のものと言える。そうであれば、もうこれは、神様の
   特別な諸々の活動啓示を生来させるべく、為さしめるものと認めるほか無いものとなる。 
   しかし、現代に至っては、古代におけるような、或いは古代の延長となるような諸偶像を拝
   む事が消滅、或いは減少したとは言え、人の知的な進歩、変遷によりその祀拝慣例に替って
   はなはだしいばかりの<無神論知性>の時代へと、知意識は進展進化の成長をなしている。  

   このような無神論進化への傾向は、古代的偶像問題よりも、その深刻さは比べられないほど
   解決不可能な問題となろう。神の存在そのもの、および神の啓示をまったく認めない、無視
   したものとなるからである。しかしながらこの傾向は、人間知性の成長進化としては、むし
   ろ至極当然の自然の理、自然の成り行きであり、本来的に人間本性の行き着く末であると、
   その現実結果を見るほかないが。(人間本性のこの可能性がはたして回避されるかの問題)

   神様の特別な諸活動がかってよりも、より一層明白、鮮明となるのはモーセの時代であった
   と言える。モーセに率いられたイスラエルの民らにはまさにリアルタイムの経験であり、過
   去からの諸々の伝承を含め、全てを書き留める方式、手段には、永遠的に未来につながりゆ
   く時代の時が来ていたからである。
   使用文字の変遷、いまだ楔形文字では不十分で不的確、不適性であり、BC15世紀までに
   は、エジプトに居留していたイスラエルの民らが自分らに最適な文字を考案していたであろ
   うと、その原ヘブル文字(フェニキア・後期ウガリット文字に類似したものとも)、古ヘブル文字、
   そして、アラム文字からギリシャ文字へと引き継がれ行く、その長き過程の最初起点に遡っ
   た時代に重なり、相当する。

   そのモーセの時代において、モーセが<世界の創造者>としての神を明確に啓示するものと
   なった。“天と地と、それに満つる一切のものの造り主”という、モーセ・メッセージは、
   後々までも覚醒的な神観となり、基軸となってゆく。これはシュメール・バビロニア神話で
   の神々が、何か個々のものを造るといった場合、程度のものとは、訳が違う。バビロンの神
   官たちが、マルドゥークを世界と諸々の神々の主神、最高神として再編打ち立て、彼が世界
   を造ったと、古来からの彼らの神話伝承を書き換えるケースもあったが、それは、原初的発
   信、オリジナルなものとして、超脱した創造者神観という強力なインパクト、独自性を有し
   たものではなかった。
   
   シュメール・バビロニア神話からは、真なる神観思想の萌芽、思潮の流れは生まれ出る事は
   なかった。神々をどんどん祀立させ、且つ伝統儀礼的にあがめ拝するという行為が、かえっ
   て人間の知性、理性の真なる成長、発展を阻害、停止させ、遂には不能没という死の状態に
   至らしめる傾向をもたらすだけであった。

   真なる神観の発展、その内容形相の多様さは、神様の特別な諸活動、適切なる働きかけ、事
   象と言葉の啓示に根ざした過程、及びその史的ベースからしか生来、結実しないものである。
   神観内容の多様な結実は、旧約聖書の各書内容文面に固有、個性的なまでに反映されたもの
   として結果している。
   神様のご性質、ご性格、ご心情、存在本質、神名表現、本性的属性、未来、将来的なご意図、
   目的など等々が、様々に表出、反映し、言葉でもって記録されたものとなっている。

   そのような神様の古代人類史上でのある特定時期、その適切なる時をよみし、最良に可能と
   なせる時代おいての、積極的な摂理掌導、特別な働きかけのすべての軌跡は、決してそれだ
   けで終焉、過去のものとなり、潰えるようなものではなかった。

   つまり、はるか古代旧約時代からの<真なる神観内容>に関わる、その啓明跡付け蹟産は、
   神様が秘め隠しおかれたさらに大いなる目的意図の下に、その真なる前提的教宣、地ならし
   的啓蒙、先行的準備段階のものとして、古代の人々、選民イスラエルを介してあてがい遂行
   されるを最善、必須のものとするものであった。これは、後々の世の人々の為に、その真理
   覚醒への契機所産、裏付けとなるを目的として意図されたものである。

   神様による世界創造、現代感覚での全宇宙という事だが、それは、創造主なる神様と共に、
   未来永劫、永遠に在るものとなり、太陽系小宇宙の立場からすれば、言わばまさに超大背景
   的なものである。この超大背景的な宇宙はすでに贖われているがゆえに、永遠の事象を諸々
   多様に展開するものとして、神のご主権の下に在る訳である。

   これは要するに、全宇宙の創造者なる神は、言わば<父なる神>としての立場(位格)にあ
   り、全宇宙をご創造なされる以前、その全宇宙創造のプラン(計画)が如何なる目的の為に
   実行、実現される事が、最大限に最良のものであり、且つ、最良にあり続けられ得るか、と
   いった意図目的、目標が先ず先行するかたちで、神のうちに創案考慮され、立てられたもの
   となっていた。
   しかして、この究極的意図目的なるものが、如何なるもの、いかなる内容のものか、という
   ことへの開示、開現の何がしがあり、人間本性にあっては、全知真理への帰着に尽きるとい
   う事が目標として予期、予定されている。

   全宇宙の創造者なる神は、自らを<父なる神>として自己認秘し、やがては全宇宙を贖わな
   ければならなくなる可能性を有する全宇宙を贖う者として、自己内存定された存在、実動贖
   為者を唯一の御子としてお立てになっている。
   ここに<全宇宙の創造:父なる神>に対して、<全宇宙の贖い:子なる神>という両事象に
   関わる相互関係の、時間相、時間性概念を超脱した<永遠の秘儀>があるわけだ。

   御子の存在というのは、人間存在に関わる世界に向けては、神様ご自身の全てである。
   つまり、全宇宙をどのようにお創りなさろうとも、神様ご自身は、目に見える可視なる存在
   事象の宇宙と同じように、可視なる存在としてご自身が在るわけでもなく、自らをそう在ら
   しめ得る存在でもない。(天使[御使い]や、諸々異象啓示は、神からの何らかの媒介手段、
   造成を通して、その代行、代象的可視性を具現するものである。)

   神の見えない、不可視なご性質、これは神の存在本質であり、創られた諸々の被造物、全宇
   宙の存在などの、物(質)次元性を有せずして、まったく異次元的に異質な存在である。
   だからと言って、物質次元の世界に対して、神の居まします異次元世界があるといった、二
   元、二界的な考えは当を得たものではない。
   裏を返せば、神がこのような存在本質で在られるがゆえに、宇宙万物、物次元の一切を創り
   出すことが可能であり、その創り出す根源に即臨即居、即応し、無限の創造パワーを発増、
   発揮できるわけである。

   このような神様が御子をお立てになり、その御子の存在がご自分の全てであるという事の真
   意は、その知恵能力をもってお創りなさった世界宇宙が、ご自分の不可視なる存在ゆえに、
   それが存在していても、何の意味も意義もないまま無駄骨に終わってしまう、そんな空しさ
   を単に回避するだけといったものではなく、父なる神様ご自身の<無限のお心そのもの>が
   御子をお立てになる事で、御子に反映、表現されうるものとなり、御子のご存在において、
   御子に関わる全て諸事、事柄と共に、その御諸業のお心すべてが御子に結集されるかたちで
   御子を通して、御子によって実顕、表示されるからである。

   不可視な存在の神様が、父なる神として、その<無限の心の全て>を御子において表わし示
   されるという神現理法は、また、創造者なる神様の立場として、その創造責任を果たすとい
   う意味での最大限の履行、計り知れない誠意深慮の義を示すものと云える。

   以上にて、結びの論呈・その七、及び、神存在に関わる諸相論を終わります。