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7.ノアの箱舟: その大洪水の真相

                 超付録:”誰も教えてくれない【カインのしるしとそれへの過程&アベルのお供え秘儀】”

  世界中には幾多の洪水伝説が伝えられている。聖書の創世記での”ノアの箱舟 ”伝説もその
うちの一つだといえるかも知れない。しかしこの伝説は非常に意味深いものとして、その内容が、
詳細なものとなっている。果たしてこんな伝承が、有史以前から伝えられたものだろうかと、疑い
たくもなるものだ。創世記第6章から9章の全体にかけて多様な意味深さを示している。
しかも、この<ノア>データはイスラエル民族の遥かなるご先祖の物語として位置づけられるが、
また、この伝説ファクトは、ノアの子、セム、ハム、ヤペテから出た子孫への言及をしている次章
(10章)に続いているものとして、非常に重要な位置づけをなしている。そこでは彼らの子孫から
の地球上におけるグローバルな規模での人類の広がりを伝えているが、大洪水の後、地球上で生存
したのは、あたかもノアの子孫だけだったという意味合いをも込められている。 これには疑問の
余地もあろうか、聖書的にもカインの末裔、その直系、傍系支派の諸々(=シュメール人系に至る
氏族もその中にいたかも知れない)をも含め、ノア以前のセツをルーツとした他の諸々人種のうち
で、何らかのかたちで助かり残った人もいたかも知れない。(創世記4、5章での系図文言参照)

 とにかく、ノアの大洪水は、その規模が超でかいものであったことを創世記の記事は伝えている。
箱舟の大きさだけでも、メートル数で表わすと、約<全長:135m、幅:23m、総高さ:13.5プラス
1m内外>ほどのもので、大海原の大洋向きの頑丈さに匹敵する以上のものだったと云える。

(注:古代エジプトの長さ尺度では、全長:150m、幅25m、高さ15mプラス1m内外に相
当するという。ヘブル尺の1キュビット45cmよりも、エジプト尺:52cmがノア時代に使用されたと
すれば、大きさはこの規模となる。実のところ、この船の建造技術に関して、創世記の伝承記事で
は、<300キュビット、50キュビット、30キュビット、1キュビット上に屋根を設け、内側は3階立てにして、それぞ
れ仕切り部屋を設ける、これは船自体の梁構造とタイアップした補強を兼ねたもの、そのほか船体
側面には相当大きな頑丈な戸口を、、内外すべてアスファルトで防水すべし等々>、坦々とした簡
単、概容的な内容以外は、何も記し伝えてはいない。

 ノアの時代以前、どれほどの文明を築いていたのか、今もって予想も出来ないほど定かでないが、
<超古代文明>という言葉が、かの<世界四大文明>と云われる時代以前のものとして、それらに
対比して思考されている現今、まさにノアの箱舟の建造は、その当時の驚異的な技術力のある一つ
の結晶となったと云う代物ではなかっただろうか。歴史上で知られる古代船の規模は、その運用の
適宜性が考慮されたものとは言え、せいぜい大きくても、25~30m位以下のものでしかない。
因みに15世紀末でのコロンブスが乗ったサンタ・マリア号でさえ、船体自体は18mほど、帆綱
締留め用などを兼ねた舳先突梁を加えても25、6mであった。嵐の大波に洗われれば、まさに木
の葉の如くであり、沈没も已む無しとなる。

木造での150mないし135m<ヘブル尺度は出エジプト・モーセ時代以後、古来からの45cm
とエジプト尺の52cmの両方が用いられるようになったとも。モーセはその伝承キュビット数で、
そのどちらを思い浮かべたかは判らないが、ただ洪水後のハムおよびその子・クシュらと、古王国
のエジプトとの関係、その歴史延長線上から見ると、エジプト尺の52cmでの“ものさし”を基準
としたと推定するのが妥当かも知れない。>とにかく、木造150mの船の建造は、まさにただ事
ではないものだ。時間を掛けての造船、数十年をかけて、たまたまノアの曽祖父の代からカインの
末裔との交流があったと推定され、トバルカインの代から青銅や鉄の製作物に秀でた技術を継承し
てきており、リベット金物の具材等の供給も間に合っていたと見られる。だが一体、どのように工
法造作していったであろうか、初めに10分の1の縮尺で、30キュビットx5キュビットx3キュビットの模型
の試作を試み、それに併行して手がけていったものであろうか、、ともかく内取り寸法で工作を進
める他ないとも、、、内側から、底部の床張りの造作でもって、きっちりと構造寸法を決め定め、
しっかり固定しながら順次進めていったものと思われる。

余談ではあるが、エジプトの古王国時代、かのギザのクフ王のピラミッド、その建造技術は、今も
って知られざる驚異とされている。クフ王は、ハムの子・クシュの曾孫系であり、クフの名は、ク
シュの末を表わしている。力ある王となったクフは、ノアの大洪水ですっかり外装が傷んだ、その
前時代のピラミッドをリニューアル新装して、自らの死後の墓廟としたものだったという説も想定
されるほどである。そのギザの二つ、又は三つのピラミッド以外の幾つかの小さなピラミッドは、
その後に建造されたものとするが、現在の考古学的見解では、それがあべこべに時代錯誤な考え方
になっているのではないかとの批判も出てくる。何故ならば、クフ王朝関与時の二つ、三つのピラ
ミッド以前の時代にも、先々代王や先代スネフェル王により、階段ピラミッド、屈折ピラミッド、
赤い正ピラミッドなどが造られていたとの間違いなき考古学検証により、その建造技術の時代的向
上発展という見方をとり得る事により、、、。)

創世記は洪水について第7章11-12節で、<雨が40日40夜>止むことなく非常に強く降り
注いだ、しかも、大規模な地殻の変動もあり、大小の湖沼の水もことごとく破れ出でたと書き記し
ている。 こんなことは今の地球上ではとうてい考えられない事、起り得ない事だと云えよう。
40日間も止むことなく雨が降るということは、今の地球気象学上での法則原因からして、決して
おこり得ない現象である。当時人が住んでいた地上の範囲域に限定したとしても、、、。

だからそういった観点から、誰もこれが本当だとは信じない。20世紀の初頭にトルコのアララテ
山中でノアの箱舟の残骸が発見されたとの情報もあったらしい。が、何故かこれは、黙殺され、闇
に葬られたと言われている。(古代人は実際にノアの箱舟がアララト山中にあったと見ているが、
  『ユダヤ古代誌』のヨセフスもバビロニア史の著者ベロッソスの言を引用したりして、彼の当世代
 までの幾多の歴史家たちがそれを認知していた事を記述している。)

  この創世記データを忠実に受け止めて考えてみよう。その際、何に着目すべきか、当然、どう
して雨が40日40夜、降り続けに降ることができたか、という点であろう。 
現在の地球大気圏からは、確かにまったく不可能である。だから、ノアの大洪水の前と後とでは、
地球上大気圏は大きく変わったと推察できよう。現在の大気圏の層は、ノアの洪水後のものから連
続している。しかし、洪水以前では、その大気圏の層が、3倍も4倍もあったのではと思われる。

そのように仮定すると、太陽の放射エネルギーも今よりはるかに強いものであったと言わざるを得
ない。太陽そのものの体積も大きかったかも知れない。その時の地球上の気候は、この上なく穏や
かで、安定した暖かい気温を保ち、雨も少ないが、空気中の酸素の占める割合も30%以上と高く、
湿潤な豊かな大地に恵まれた地球が、その大いなる大気圏に包まれていたであろう。また、夜空の
星も、現在よりはるかに地球に近かったであろう。我々の銀河系も現在少しずつ膨張しているかも
しれないが、ほかの星雲、星々は、日夜、相対的に遠ざかっていると云われている。

  40日40夜降り続いた雨、それはその太陽に異変が起こったからであろう。その時太陽の放
射エネルギーがまさに40日40夜雨を降らせる如くに反復減少した。太陽とその系列惑星との引
力バランスが崩れ、地球の自転軸を大変な規模で狂わせる事ともなる。それと同時に地球が未曾有
の地殻変動を起こし、大洪水とともに地球上は、まったく攪拌され、水が引いて大地が顔を出した
時にはその地理的様相を一変してしまった。これがノアの時の”太陽系規模 ”での洪水の真相で
はなかっただろうか。

  ノアの直系の子孫、セムからアブラハム、そして、彼からその後の12族のイスラエル民族、
その民族的指導者モーセにいたるまで、そのノア伝承は、判を押したように確実に伝えられた。そ
の伝承継承の責務を負わされなかった他の子孫のすべての諸族は、その責務から外されたがゆえに
次第にその関心も薄れ、地上にかって大洪水があったという事だけが言い伝えられ、バビロニヤの
洪水伝説のような、いわゆる現在の地球上でも起こりうる規模の洪水の何がしに、何時しかすっか
り、すり替わってしまったのではなかろうか。

  人類文化発生論的に大きな問題となることは、現代の人類発生に関する科学的知識が、地球上
での<生命進化という知識の体系>のうちに位置づけられているということにある。これは、ノア
の時の<地球規模の大洪水と地殻変動>によって、その後の地球上にもたらされた様々な結果が、
後代の人、つまり近代以降の人間の認識する知を誤謬の知識を体系化させるほどに、その学的研究
への<自然対象物>となり得ているからである。ノア以前(大洪水以前)の、ノアの一直系(これ
は創世記5章で記された一系のみ)以外の全ての子孫や、カインのすべての諸々の子孫、これらの
全人類の文化、文物的レベル、および精神的資質も、その高さ低さがあり、概して全体的な一様さ
などあろうはずが無い。つまり、旧石器の文化程度、新石器のレベル、あるいは、カインの一系で
見られるある特別に優れて進歩した場合の”青銅や鉄のレベル”(創世記4:20-22)など、
特にノアの時代へと至る以前では、一部を除き概して西方よりも、東あるいは東南の方向(太陽の
出る方向)に、どんどん人類は増え広がっていったようだ。(今の地球地理上で言えば、中国大陸
方面までも、、、)

精神的には、<神の子たち>と記されている如く(創6章の2節4節)即ち、ノアに至る一系をも
含め、創り主なる神を意識し、その似せられたる心の善に従って生活する人種から、肉食人種オン
リーと化したような狩猟民たち等々、そんなあらぬ食生活の生存の様々な過程(その数千年にわた
る過程)から、遺伝体型的に<野人、原人>のような、何かゴツゴツした骨太の旧人を思わせるよ
うな人種も突出してくる。その当時の人体遺伝子の可能性が非常に優れ、且つ幅ひろい可能性を秘
めていたから、特に食環境系にはその反応の度合いが非常に高いものであった。北京原人やジャ
ワ・アウストロ系原人等もそういった傾向からの出現と見られる。ノアの時代には、低級な肉食系
の諸人種による<生き物の生態系の破壊の極まり>があり、また、高いレベルでは、神を信じない
で、自分たちの欲望のみを満たす生存社会(ハーレム的弱肉強食社会)をつくり、その社会には人
の道が見られない、暴虐的な悪知恵ばかりが横行することに極まった、そんな様相を伝え記すもの
となっている。

現代の高度な知的レベルの<生命生物進化の知識体系>も無神論のそれであれば、これは、現代人
への<知における大いなる躓きと妨げの罠、網>となるようなかたちで、ノアの大洪水事象による
かっての地球上の結果事情が時を越えて現に在るかのようだと云わざるを得ない。それに<経済の
繁栄>だけに、その豊かさを追求しても、追求すればするほど、かえっていつまでたっても豊かさ
とその安定は、確実なものとならないもの、いつも長くは続かないものだ。経済社会それ自体によ
る繁栄社会というものは、実に不安定極まりないもので、<栄枯盛衰>は世の常、このことがこの
世のしるしなのかと、この世の宿命に嘆息しないではいられない人々もあろうか。、、
理想から云えば、<神中心の、>から<人間中心の、>へと、そして<経済中心の、>へと、人間
性の何かが、低下、低俗化してゆくものなのかも知れない。

ノアの箱舟については、他に尽きざる、思わん計りの啓示内容を蔵しているが、ここではそれに立
ち入らないで、ほかの興味深い、余談を書き記しておこう。けだし、これは説話・物語的に表示す
るが良いかと思う。
超付録:”誰も教えてくれない【カインのしるしとそれへの過程&アベルのお供え秘儀】”
◇ある一人の聖書研究者がいたが、若い頃からその年代々々に応じて、色々な視点、立場からその 聖書理解を深め、広めていったが、なお不明なる処どころのなかで、何かしら心にひっかかって、 その長い年月のあいだのうちに、その事柄に関しては、<不可抗的に謎>なのかという強い意識ば かりが内に留まるものとなっていた。(聖書は、永遠に活きて在り給う神様の<人を介して>定め 記した<言葉>であるから、そこに秘められた神の御心にある真理を研掘、深解すべきものだ。そ の探求の試みによって、人は、<神の永遠>をおのが心に実感し、触れ知ることができるのだから と、云うのが彼の常々の人生訓であったろうか、、、)  彼の<不可抗的、不可解な謎>となっていたものは、何か、、、その聖書の記事文言とは、その 文書個所は、一体何処だったかと指摘すれば、、なるほどこれは、色々調べても、詮索、思考を最 大限に思い巡らしても、それさえ出来かねるもの、心の明解さは得られないぞ、解けないぞ! と いった類の言なのか、、、それは、アベルとカインの兄弟の出来事に由来した伝承、その《創世記 第4章15節》での最末尾の文言:      ”そして主は、、~何々しないように、彼に一つの<しるし>をつけられた。” という文節におけるものだ。 主なる神がカインにつけられた<一つのしるし>とは、一体、どんなものだったのか、ところで、 その真なる答えを得られんとする前提として、<カインに関する事柄>が、その創世記第4章以外 には如何なる記述データも残されていないという事、特にカインの子孫については、その17節か ら24節で記されているもの以外、他にはまったく見出されず、それだけが唯一の史料なのだ。創 世記文書で、ノアの大洪水以前、ノアとその直系子孫(セム系)が伝承保持していたのは、<アダ ムとイブに係わるエデンと、その園での事>、そして、上記の<カインとアベルの事、カインのゆ く末、6代目までの彼の子孫の系事>、それに本筋系のアダムの系図(第5章)のみであった。そ して、かのノアの箱舟洪水後ののちになって、その<箱舟洪水伝説>が新たにそれらの伝承史料に 加えられることとなる。 天地創造の由来記事、その啓言<創世記第1章~2章4、6節>を著わして、それを先の伝承群に マッチせしめて、その編纂著述をなしたのが、かの出エジプトを指導したモーセその人であるが、 これはもう、何千年も時代が下ってからの事である。しかし、そのモーセに至る以前にイスラエル の父祖アブラハムがいる。このアブラハムの代には、もうすでにメソポタミヤ地域では、大小それ ぞれの都市国邑が発展し、互いにその群雄の様を呈する如く、その時代特有の繁栄をなしていた。 (謎のシュメル人によるメソポタミヤ両河下流域での町邑はBC3500年頃から始まる、セム系 のアッカド王国がBC2330年頃隆盛し、やがて降落、そして再びシュメル系のウル第3王朝の 時代、BC2112-2004年へと至る。アブラハムは、このBC2000年代の人で、その都 ウルに親共々一族郎党と一緒に住んでいた。)  ところで、<謎のシュメル人、あるいはシュメル文明>といっても、日本では何故か、この言葉 自体が一人歩きして、学会などでもてはやされているが、本来、そのシュメルなる言葉は、セム語 系(ヘブライ語を含め)では、地名を指す名であり、創世記11章2節の<シュナル>の地と同義 のものである。欧米の19世紀以降からの<考古学発掘>以来、古代アッシリアの首都ニネベから 出土した粘土板文書の内容から<”シュメルとアッカドの王”>という注目すべき文字表記が見ら れ、その言葉から借用したかたちで、その考古学的研究対象の人種を<シュメル人>と名付けたと ころの考古学上の名前なのだ。だが、そのシュメル人の源郷、出自、その足跡が皆目つかめないま ま、謎として現在に至っているというのが事情なのだ。 ここでまた、必要以上に本論から逸れて、余分なことになるが、研究者の彼は、この<謎のシュメ ル人>の始祖というのは、かのノアの子、三番目の<ハム>だと断言できるという。これは考えら れないことだと、誰もが首を傾げてしまうかも知れない。しかし、創世記の9章20節から11章 9節あたりに至る文言中で、その暗黙のうちに隠された背景を想起、把握すると、<ハム>と、そ の彼の云う、いわゆる創世記にはまったく記されていない別の子孫の繁栄を想定しなくてはならな いと見なす。これは一体、どういうことか、、、そのところの事情は、次のようだと、彼は云う。    ”ハムは、末っ子のカナンをもうけたが、父ノアへの不謹慎、その大いなる失態のため、自らの 恥さらし、氏族の長としてのメンツの失墜ゆえに、父ノアの下を去っていった。このことは、9章 20節以下、ノアの云った、かの言葉から明白になる。この時のいきさつで、ハムは内々の内に逃 げるようにして、その下を去っていった。彼が去って身を隠してしまったからこそ、ノアは、その 言葉、ハムの身代わりに、彼の末っ子の、生まれて間もない幼児、<カナン>の名を挙げ、あえて その<裁拠の処分勧告=祝・呪的な願望予言>を、すべての一族に公言しているからである。そし て、その失われしハムの消息は、その後、一切つかめないままとなった。ハム自身は、兄セム、ヤ ペテへの劣等感を返上すべく、その秘めたる思いをもって最善の努力をなし、新たな一族を起し、 すべての面で、兄たちよりも優れた生活文明を築かんとしたであろう。 その結果が、両河下流、広大なデルタ地帯での優れた彩陶土器や、焼きレンガ造りの文明、そして その極めつけは、<楔形文字の出現>であり、その文化社会の形成へと発展してゆくこととなる。  謎のシュメル人とは、ハムの知られざる別系の子孫なのだが、聖書・創世記10章6節での彼の 子孫の子ら達は、その失踪した始祖ハムの消息は、何一つ知る由も無かった。ハムは、自分の名前 を捨てて、新しい名前でもって自らを生きたからである。つまり、かって伝え聞いていた、はるか 昔の故事、<カインの時の運命>に自分を重ねるような思いを感じて、その末孫の子らの名、ヤバ ル、ユバルに合わせて、自分の名をスメルと名のり、その土地の名もシュメル(スメル)と呼ぶも のとしたからであった。その彼が没して、つぎの代になって久しからずや、聖書に記された、かの ハムの子孫の一派、クシュ一族が両河いずれかの源流、上流方面から南下して来て、その知られざ る別系の子孫と共生混淆するようなかたちで、そのシュメル文明は発展していったのだ。いまだバ ビロンという名の登場しない以前、先史的な名残を留めた町邑が、その東、数十キロ離れた所に、 <キシュ>という名でもって遺跡を残しているが、これはその始め、<クシュ>一族が最初期に築 き、その村営を切り開いたところだと思われる。そこからクシュの子孫(セバ、ハビラ、サブタ、 ラアマらとその子孫)が、南方の湾岸(ペルシャ湾)づたいに、南アラビア、その西隣の南アフリ カ・エチオピア方面へと進出していったと、その聖書記事は暗黙のうちに語っている。  創世記10章8節で、<クシュの子ニムロデ>とあるが、これは、考古学発掘のデータで知られ るようになったシュメルの初期王朝時代(BC3000年前後以降で:ウル第1王朝が2600年 頃、ラガシュのウル・ナンシェ王朝が2500年頃、等に至るもの)とは比定され得るものではな く、BC3800年前後時代と推定すべきかと思われる。このニムロデはシュナル(=シュメル) の地で、先行してバベル、エレク(後のウルク)、アカデ、カルネ(後のバビロン)と、次々にそ の町邑起しをなしてゆく。が、かっての狩人も、その草原(その頃は未だ土漠地帯ではなかった) での狩では満足できず、再び北方の山辺・丘陵のあるアッシリヤ地域に移り、さらにニネベ(はる か後のアッシリア帝国の首都となるが)、カラ(カルフ=古ニムルド)、レセンなどの町邑を建て て、そのアッシリア地方の町々の<族長王>として君臨したようだ。  これが創世記10章8節~12節の文言が言わんとするところだ。そして、かの<バベルの塔の 出来事>(第11章1節以下)は、のちにアッシリヤとなる、そのニムロデの町邑建設の時期又は 晩年の頃、あるいはその没直後の事で、ほぼ同時代ごろの事と思われる。かなり人々がその当時、 シュナル(シュメル)の地の文明に惹かれ、その生存の当てを求めて、ぞくぞくと移り住んできた と思われる。”    このような聖書準拠の天啓明示は、考古学上からその史料の直接的裏付けが得られていない限り 証明不可能な見識だ。まさに彼独自の啓言なのであろう。彼にはかって、師と仰ぎ、慕いうる様な 人物は一人も見出すことができなかった。これは確かにその人生にとって、ある意味で損失となる ことかも、、残念なことだが、、、しかし、真なる本当の教師は、まことのメシアなる主イエスで あったことだろう。この主イエスは、生前に語りえなかったこと、そのすべてを信ずる弟子たちを 通して語ってこられているという現実進展は、主キリストの<七つの霊の御霊>の下に全ての人的 才能が活かされている事を意味するものであるからして、、彼はさらに次の点に関しても明察して いるが、単刀直入、要旨だけを述べておこう。  ”ユダヤ伝承、後に<旧約聖書>と云われるものとなるが、一つの民族がその長期の時代を経て その内容文書量を、たとえ個別分散的であったとしても、逐次増大しながら連綿と伝え、これを保 持して来られたこと事態、単に人間の慣習業の積み重ねだと判断する以上の、何か普通では考えら れない軌跡事象だと云える訳だが、その実際的な古代世界に史実的状況を捉えれば、まずその文書 化の最初の時点は、BC2000年前後の<アブラハム>の時代、これは<粘土板文書>がその楔 形文字により大成され、いよいよ最大限に発展する時代となって来た時期だ。だが、この時点では いまだ<口承・暗誦(朗誦)>を確実な伝承方法として守り、<粘土板>での書記は、きわめて例 外的な補助手段(冒頭覚えの列記、箇条書き)に過ぎない程度に用いられたであろう。だが、父祖 たち(アブラハム、イサク、ヤコブ)の関連伝記の内容量が大変な量になるにつれ、その口承の伝 承方法にも限界が見えてきた。  粘土板への楔形記述では、いまやその平板自体が膨大な数となり、保管・移動などで困難なこと ばかりが予想され、破損紛失のリスクは避けられるものではない。ヤコブの一族(その血族系だけ で70余人)郎党がエジプト・ヨセフの下へ赴く頃には、自前の文字を考案すべきことを考えてい たであろう。まさに彼らヘブル・イスラエル一族は、古バビロニヤ文化圏の<楔形文字文化>と、 エジブト文化の<象形文字文化>との狭間のただ中に置かれたようで、自前ヘブル文字の必要に迫 られての状況、その文字、創作の要請は、避けられないものとなったに違いない。神の選び、選民 に相応しい<新たなる文字>を造り出すための<神の歴史的摂理の導き>と云えようか。 そのエジプト定住時代には、初期源的に獣皮により、(これはのちに良好な羊皮紙の出現へとなる が)また、エジプト既存のパピルス紙(これの生産はエジプト王朝専有の事業にて、一部のヘブル 人もその製造に従事していたであろう。)により、新しいヘブル文字の策定と、その記述的試みが なされるようになっていったと思われる。 やがて年を経て、モーセに率いられた<出エジプト時>の時代(BC1400年代)には、その新   しいヘブライ文字の体系化も完了していたと思われる。このモーセ時代のヘブライ文字は、原初の 古ヘブライ文字で、現在残存しているヘブライ語旧約原典の文字(箱型アラム文字)とは、字形が 異なるが、アルファベット22字様式は同一であった。22個のアルファベットの文字に名前が付   けられているが、これはこの文字が造り出された時の<なごり>であると見なされよう。 最初の文字<a-lef/アーレフ(アラム型:א )>は、牛、家畜を意味する自前の言葉から、 次の<be-th/ベース(同: ב )>は、テント・天幕(住まい)という言葉から、 第3番目の<gi_mel/ギッメル(同: ג )>は、ラクダという動物名の言葉から、 第4番目の<da_reth/ダーレス(同: ד )>は、ドア、ゲイトというベブライ既存の言葉から、     (この言語には天幕住まい用のフォールディングドアや囲い用ゲイトの意味もある。) 以下それぞれ、身近な自前の言葉の語頭音に当てられ得た名称を持ったものとして、その個々のア ルファベット<字体>22字が造り出されていった。 その出エジプト後、40年におよぶ荒野での寄留生活の間に、モーセは、そのすべての伝承ものと <神からの言葉、託宣もの>、そしてそれに準拠し、自らが著した<社会法=定め、おきて>なる 律法など、その編纂・記述の大成化にも尽力するものとなる。現在あるモーセ五書のほぼ原型の古 ヘブライ語による原典は、このカナン入住直前の時までにその最初の成立をなしたであろう。そし て、カナン定住後、他国、他民族との様々な交渉、ふれあいによって、このヘブライの文字文化は 地中海東沿岸の北から南方にかけてのフェニキアの諸港湾都市だけでなく、セム系の西方アラム語 圏の他の諸都市文化にも刺激を与え、前者は、フェニキア語を記すためのアルファベット文字を生 み出すものとなり、後者は四角型のアラム文字を造り出す要因となった。後のアッシリヤ帝国(BC 10世紀~7世紀)も、楔形文字専用からアラム文字へと、その併用を盛んに行う時に至る訳だ。 さらに、7世紀から6世紀BCの頃には、逆に古ヘブライ文字が、四角型のアラム形の文字を採用す るものとなり、やがて母音符号の添記方式も確立されるものとなる。”  彼のこの明察は、確かになるほどだと言えるだろう。先の20世紀初め頃には、アルファベット 音素系の<シナイ文字>が発掘されたり、シリア北方東海岸方面のウガリット王国の繁栄時代から は、BC14世紀初頭頃に、楔形文字による、30種のアルファベット文字が考案され、やがて公用 化されたことが、その<ラス・シャムリ=首都遺跡>発掘資料の数々から、裏付け実証されている ほどだから。 このウガリットも一時はハッティ王国(小アジアのヒッタイト)の勢力下にあったが、西方セム系         フェニキア人の諸都市の一つでもあり、南方パレスチナ(レバノン山脈西部)のカナン人を含め、 かなり流入移民しているので、13、12世紀BCには、古い楔形文字を脱して、新しい独自のフェ ニキア・アルファベット文字を作り出すものとなっていったことも時代の趨勢であろう。 上古古代ギリシャ(バルカン半島からのドーリア人らの南下定住後において?)には、ちょうどそ の頃の時代、BC12世紀の後半には、ほぼ大半が同じ字形で、字数も同じ(30)のものが、原ギ リシャ文字(これがホメロス以降、古典ギリシャ時代のギリシャ語アルファベットへと発展向上 してゆく)として、移入されていることが発掘資料の比較研究によって、よく知られている。 エジプトの古王国時代BC2千年代からの<象形文字文化圏>とメソポタミヤに起源する<楔形文字 文化圏>が交叉折衝していた、ほぼ2千年近い文明の流れの中、小アジア(現トルコ)の奥地から は、ヒッタイト王国が隆盛を極め(前15世紀~12世紀)、大いに楔形文字を重用すると共に、 エジプトとの対決(BC1360年代でのシリヤ北部のカデシュの会戦、セティ1世、ラメス2世の代) 及び和親同盟の晩期(これはアッシリア王国の隆盛とアッシリアのミタンニ王国との同盟という国 際情勢による)があって、エジプト象形文字・ヒエログリフを真似たような、ヒッタイト語にマッ チした象形文字も造使されたことが、かの有名なボカズ・キョイの発掘調査で知られている。その ヒッタイト王国は、エーゲ海北半・トラキア方面(黒海西方)の海洋種族らの小アジア中部への大 規模侵入によってやがて滅亡する。(BC1200年頃までに)ちょうどその頃から、アッシリヤが 帝国へと隆盛する途上のBC900年代後半までの時期は、エジプト王国の停滞時期と重なってフェ ニキア人諸都市と、カナンに定住したヘブライ・イスラエルの最隆盛時代を迎えるものとなる。旧      約聖書の<ダビデ・ソロモン王国>、そして友好関係のツロ(ティロス)王国(ヒラム王)など、 海洋商易帝国時代の大繁栄期の到来を見るに至っている。    ずい分論旨の命題を離れ、わきに逸れてしまった、肝心の<カインにつけられた一つのしるし> に関する明快な解き明かしが出来るのか、、、実は、旧約聖書全体のテキスト資料ベースから、参 考、ヒントにつながる具体的な、これこれに類するといったデータは、ほとんど皆無と言っていい ほどだから、これはもう確かな答えには至り得ない。それでも一応、ヘブル語用語の使用扱い分析 を検証してみると、以下のようになる。 ヘブル語は右から左への読みつづりにて(母音符号無添付)、英訳は二タイプにて。 《 :וישם יהוה לקין אות לבלתי הכות-אתו כל-מצאו 》= <And the Lord set a mark upon Cain, lest any finding him should kill him.>   そして主はカインに一つのしるしを ---------------------------------------   つけられた、彼を見つける者が誰も <And the Lord put a mark on Cain, lest   彼を殺すことのないように。    any who came upon him should kill him.>        *【文言の”しるしをつけられた ”の<つける>(set or put a mark) の動詞用語】:     その原形(語根=triliteral letter normally in verbs)は、 <שום or שים (su-m or si-m)>で・・・→ ו の不分離接続詞が(接頭辞のように)                          語頭に付いて、未完了形に活用変化して、  (三人称・単数・男性の動詞の活用形が、   <וישם(waya-sem)>となる。文法上では英   原形Rootからの基本形となっている。)  語での未来形に相当するが、ヘブル語の特殊な構                       文つづりのルールで、完了形の意味として理解さ                       れる。が、<単純常識的にはそれが正当というこ                       とだが、厳密な文言の同時的現実上に意識を移す                       ならば、その動詞の表わすアクションは、行為・                        動作の完了直前の未完了への含みもある。>                                               ”主は、しるしをつける、--→ つけられた。”  この動詞は、色々な意味に用いられ、旧約テキストでは、普通一般的な感じで使用されており、  特別限定とか、特定の使用という向きはない。ただ、何か対象の人・物などにしるしをつける場  合、マーキングをするとか、マル・バツ印を記すといった動作には別の動詞<תוה(ta-vah)>  が使用されている。(エゼキエル書9章4節など)  以下は、< שום(su-m)>が英語で訳された動詞単語の類を列記する。    set, establish, erect, plant, put, make, constitute, appoint, set down, lay in,     日本語の新改約書では、<、、、~カインに一つのしるしを《下さった》>となっており、  この訳では、神様から何かの<しるし>を与えられた、あるいは彼の側からは<受け取った>  との読みの感じになると言えようか。(この訳が妥当かどうか、検討の余地ありかも、、、) *【文言の”しるし”を意味するヘブル語の名詞用語】:  その動詞の目的語(あるいは補語として)となる名詞は、  <אות (o-t')>で・・・・旧約テキストの英語訳では、”sign, mark, token ” が、                大部分を占め、使用されている。他に badge, standard,  (このאות は、את と   monument, memorial, warning, omen, symbol など   同義語でもある。)    の意味があるが、訳出された例は極めて少ない。                  日本語訳では、sign, mark, token の3つのそれぞれに                対して、”しるし ”の語彙(い)が適合、使用されている。  カインの”しるし ”の英訳では、二つのVersionが共に、set a mark, put a mark で、  < mark >の用語が適用されている。(英訳においても、普通の感じで、特別な意を喚起する  ような向きもなく、前後の文の意味関係から”mark ”と訳した感じである。)  この<אות (o-t')>いう語は、そのヘブル語の用法において特別な場合に用いられたという    傾向、あるいは特別はっきりとした語用カテゴリーが見出され得ると言うものでもない。普通一    般的な使用カテゴリーとしてのものである。けだし、旧約聖書テキストそれぞれの歴史的年代上  の面から捉えると、この語は、より古い口承テキスト、いわゆる<創世記>を含めた<モーセ五  書>テキスト等において、より多く使用されている傾向をみる。が、それは、他に適切な言語が  なかったからだとも云えようか。(モーセ5書ではその語の使用に一貫性がある。)  以下、他の同類語をも挙げて、その使用傾向、用例的特長を3種類の英訳単語(sign、token、  mark )をベースにヘブル語の使用適用を明らかにする。(Revised King James 版に  基づく、参閲照合は、Revised Standard Version 版に依る)  1.) sign ..........     ①. אות (o-t') :    イ.) 物・事象的不思議や奇跡の御業および、その成                        現に関わる場合;      (このאות に同義語         《例句個所》      < את (o-t')>の語がある。)   創世記 1:14、出エジプト記 4:8,9,17,28,                         30,ほか他ヶ所13回、    民数記 14:11、16:38、                        申命記 4:34、6:8,22、7:19、他11回、                        5書以外の他の旧約テキストで、合計33回                        (詩篇、 イザヤ、エレミヤ、エゼキエル書、                        その他の諸書)                     ロ.) 上記の訳カテゴリーには、<事象や物事に                        係わる一般的なしるし、ノーマル的なあかしの                        しるし>となる場合の表現も含まれる。     【上記以外の例外的な用法】     =============                            *詩篇 105:27節で、極めて数少ない例外的文式が見られる。これは、<את (o-t')>の     複数形<אתות (o-thot')>に第3人称の所有格(hisに当る)の接尾辞が付いた形の     活用形<אתותיו (o-thothayv)>として、前の語( דברי ) への属格修飾をなして、     その語との複合的な意味合いで使用されている。     以下そのヘブル文:     《:שמו-בם דברי אתותיו ומפתים בארץ חם 》=  これのヘブル読みは、      ”<samu- va-m divele-i o-thothayv umo-phthi-m ve-elets hahm.> ”     ”彼らはハムの地で、主の(彼の)<しるしの言葉>と不思議(奇跡)とを     彼らのうちに示した(おこなった)。”                                  ②. מופת (mo-phet') :   ハ.) 人、民、または誰かに対して<しるし>となる、                        あるいは<しるし>を与える、という場合;                         《例句個所》                        列王記Ⅰ13:3、歴代Ⅱ32:24、                        エゼキエル書12:6,11、24:24,27     ③. נס (ne-s) :      ニ.) 警告、見せしめをなすものとしての<しるし>                         の場合;(RSV版は”a warning ”の訳。)                        《例句個所》                        民数記 26:10     ④. ציון (tsiyyun) :   ホ.) 地名あるいは場所の<目印標札>となる場合;                       《例句個所》                        エゼキエル書 39:15     ⑤. משאת (ma'seth') :    ヘ.) 火やのろしなど<合図>としての場合;                          《例句個所》                         エレミヤ書 6:1     ⑥. אתין (a-thin) :    ト.) 不思議、超常的現実、事象としての奇跡、その                        <しるし>を表わす場合;                       《例句個所》                        ダニエル書 4:2,3、& 6:27                       *このヘブル語句またはその語源は、アラム語                        から来ているものかと予想される。     以上が<sign>訳でのヘブル語の使用分けの6カテゴリーである。  2.) token ..........     ①. אות (o-t') :    イ.) 証明とか保証、証拠とかの含みのある、神、                        又は人との間の、ある双方関係(約束や                        契約等)にある、そのあかしの<しるし>                        となるような場合;                       《例句個所》                        創世記 9:12,13、17:11、                        出エジプト記 3:12、12:13、13:16、                        民数記 17:10、ヨシュア記 2:12、                        ヨブ記 21:29、イザヤ書 44:25、                        詩篇 65:8、86:17、135:9、     *<token>と訳されたものは、上記の一点のみである。(極めて深慮されて、sign      などと使い分けて、その訳に当てられたと見られる。)  3.) mark ..........       **<カインの一つのしるし>は、この ”mark ”訳カテゴリーに位置づけられる。     ①. ⅰ. מטרא (mattara): イ.) <しるし>としてのマークではない。的、                         標的を意味する語の <mark>                         の場合;                          《例句個所》                         サムエル記 20:20        ⅱ. מטרה (mattara): ロ.) -- 同上 --                         ヨブ記 16:12、哀歌 3:12        ⅲ. מפגע (miphga-): ハ.) -- 同上 --                         ヨブ記 7:20        *上記の三つのヘブル語には、元来<しるし>の意味は無いが、英訳での         <mark>の訳カテゴリーでの使用例の範域を参考として示したものである。     ②. קעקע (qaa.qa):    ニ.) 入れ墨を意味する語で、テキストの英訳では                        <any marks>(如何なるしるしも)                        と出ている。(to be cut in                        on the skin of human body)                        この語も比較参考の例;                        《例句個所》                        レビ記 19:28        *この語は、ある意味では、体に係わる<しるし>となろうか。けだしこれは            皮膚を仔細に切り刻んでの墨入れ描画、あるいは マークをつける様なこと         で、体を傷つけてはならないという戒めにあるものだ。         (旧約聖書におけるヘブライ思想の根本には、元来、<生きた体は、主なる         神の栄光>を現わすという主意が底漂している。)         その同じレビ記 19:28節 では、         ”<死人>のためにあなたの身を傷つけてはならない。”ともあるが、この         ”死人 ”に当るヘブル語:< נפש (nephesh) >は、本来的にまったく         そんな意味を有してはいない。この<ネフェスュ>には、英語でも soul,         spirit, mind といった意味があるが、また、breath, respiration,         life とか、creature, living being, a person, self まで、         いわゆる生命的な面に関わる意味用語としてのものである。したがって、         <the dead>(死人)という意味は、原義的にはまったく見出しえない。         いつ頃からそんな意味に転化され、そのような訳語がなされ、今日まで平然         と、その誤訳が通用してきたのか、大変疑問視されるところである。         <神の言葉>の原著者:モーセは、そんな意味合いで、この< נפש >・         (nephesh)なる語を用いたのではないと思われないだろうか。モーセがそ         の語により言わんとした真意は、どこにあったのだろうか。ちなみにモーセ         に率いられたイスラエルの民のカナン定住後、ずっと千数百年の間なんらの              疑念もなく、この<nephesh>は、その原義の意味どうりのままであった。         《セプチュアギンタ・70人訳ギリシャ版の旧約聖書》がアレキサンドリア         のユダヤ人やユダヤ系ギリシャ人らによって製作されたBC3世紀初期~そ         の世紀中も、やはりギリシャ語への訳語は忠実に<ψυχη(pyushcke-)>         (英単語のsoul)と訳されていたから<the dead>への誤訳はヨーロッパ         などへのキリスト教の時代になってからだろうと考えられる。                      モーセの真意は元々<ネフェスュ・soul・魂>であり、”あなたのからだを         傷つけてはならぬ”と戒めたことへの時代の状況的背景には、かってのエジ         プトの地や、その他異邦の諸国では古代の原始的な宗教儀礼において、また、         個人的な宗教秘儀において、<魂>の永世、来世への救いという題目の成就         のために体を異常なまでに傷つけ痛める風習が行われていた。<魂の贖い>         の儀式が、何らかの麻酔薬(薬草エキス)のような飲み物や、酒飲などと合         せて、そういった形で行われていたという事から起因しているのではないか。         (エジプトの地では、国王ファラオの死時での超立派なご遺体処置ばかりで             はなかった、むしろ民衆レベルでは色々とお金、費用の掛からない多様な宗         教的風習があったと見るべきだろう。また、カナンの地やその近隣の国々、         バール崇拝、モレク崇拝の下に、様々な忌まわしき風習、非道、心あらざる         宗教儀礼がなされていた。)     ③. תו (ta-v):       ホ.) ある意図、目的をもって、<目じるし>と                        なるような<しるし>をつける、印す場合;                                  《例句個所》                        エゼキエル書 9:4、9:6        *この語<תו (ta-v)>は、ある意味で《カインのしるし》に関して、何か         それに対比、あるいは類比すべく、注目に値する向きがあるようだ。しかも         旧約聖書全体から見ても、そのエゼキエル書の文段落の中での、上記2ヶ所         以外、他に使用例は見出されない。         それは、語それ自体の意味上での適正と、使用ケースの状況との一致による         偶然の結果なのかどうか、あるいは意図的な自覚知識をもって使用選択をな         したかどうか、かかる点に関しては判明し兼ねざるところである。         ちなみにこの語の語頭は、ヘブライ語アルファベットの子音字、第22番目         最後尾に当る< ת >letter で、その名称はもちろん<ta-v>である。         英訳では ”sign, mark, cross ”に限定された意味を持っている。            【テキスト本文:Ezekiel9:4】          ויאמר יהוה אלו עבר בתוך העיר בתוך ירושלם 》          《...והתוית >תו<על-מצחות האנשים הנאנחים והנאנקים על   ------------------------------------------------          (And the Lord said to him,"Go through the city, through           Jerusalem, and put(set) <a mark> upon the foreheads --------------------------------------           of the men who sigh and groan(cry) for.......")           --------------------------------------          ”..~(何々のゆえに)嘆き悲しんでいる人々の額には<しるし>をつけよ”             ----------------------------------------------------            【テキスト本文:Ezekiel9:6】           זקן בחור ובתולה וטף ונשים תהרגו למשחית 》          《...על-כל-איש אשר-עליו>התו<אל-תגשו --------------------------------           (Slay as utterly exterminate oldmen and young,           maidens, children and women, but come not near any one --------------------------           upon whom is <the mark>,~.....)           ---------------------------          ”年寄りも、若い者も、娘も子供も、女たちも、ことごとく絶滅すべく           殺せ、しかしその<しるし>のある者には、誰にも近づいてはならぬ。”              ---------------------------------------------         *注:上記二つの文言に係わる事象は、預言者エゼキエルが、<神の幻>の内に            見させられたものである。すぐ後にも臨まんとしている、現実のエルサレ            ムに対する<神の裁き>への警告をも兼ねていよう。つまり、神が思い望            むその御心は、この幻での事象展開における処遇が、実際に現実化したほ            うが軽い、好ましいほど、エルサレムへの現実の裁きは、重く過酷なもの            となることを告げている。            エゼキエルは、バビロン南東のケバル川(バビロン州の大運河)のほとり            に一部ユダヤ人捕囚の民と生活を共にしているが、その地において、神の            幻の内にエルサレムやイスラエルの地に携え行かされたり、戻されたりし            て、その捕囚の生涯の期間、<神の言葉>の預言活動をなす特異な存在と                しての祭司だった。(Ezeki.1:1-3、8:1-3、11:22-24、40:1-2)     ④. אות (o-t') :    ヘ.) 上記③のホ.)の場合と同じ意味合いに用い                        られたと見なされる場合;                       《例句個所》                        創世記 4:15 (問題の<カイン>の文言個所)         *【テキスト本文:Genesis 4:15】                《 :וישם יהוה לקין אות לבלתי הכות-אתו כל-מצאו 》=            --------------------------------            それで、カインを見つける者が誰もみな彼を殺すことのないように、            彼に一つのしるしをつけられた。            <~set(or put) a mark upon(or on) Cain, lest ~>                  *前記 ③ ホ.)の場合との相違:           例句の動詞と、その目的語(しるし)の名詞がそれぞれ異なるヘブル用語が               使用されている:            ③ のホ.)は、名詞形の語< תו (ta-v) =しるし>と、その語系統の              動詞形の語< תוה (ta-va) >の 不分離接頭辞(ו)の付いた命令の              活用形< והתוית >である。             (不分離接頭辞<ו>は、英語での接続詞<and>の働きをする。)              これらの二語により<目印>としてのマーク(しるし)が              表示強調されていると見るべきか。            ④ のへ.)は、目的語となる名詞< אות (o-t') =しるし>と、別系の              動詞<שום or שים (su-m or si-m)>の不分離接頭辞の付いた活用形              < וישם (waya-shem)>である。              これらの二語の組合わせにより、③のホとは異なる<しるし>              としてのマークが仕分け表現され得たと見なされるべきか。              とにかく、               細心のキーポイントは、カインが、決して、何者によっても              <殺されないように、、>:それ(しるし)によって、殺さ              れる事からまぬがれる、守られるようなものとしてその効果、              あるいは威力を示すようなもの、そして、カインにとっては、              また、<神のご加護>という唯一の慰めともなり、恵みでも              あったようなもの、そういうものとしての<しるし>だった              と思われる。         両者における<しるし>、その異なるヘブル語の英訳には、共に<a mark>の              用語が使用され、同様に動詞もまた、原典ヘブル語は、同一語ではないが、共に         <set または put>を用いている。<set(or put)a mark> の訳となる。 *以上の、ヘブル用語の英訳に基づいたカテゴリー分析の結果では、<カインのしるし>に係わる  文言は、以下の例文のような表意の<しるし>や、(上記の項目:1. の< sign >や、2.の  < tokin >)のカテゴリーに入るものでもなく、)また、項目:3.の< mark >の範疇に現状  では一応入るものとして、仕分けしたが、実際には大いに疑問の余地ありと見なされよう。     【例文カテゴリー】:< :אני נתתיו אות-בריתי >=I have made him the                sign of my cavenant.                ---------------------------                ”わたしは、<彼>を私の契約の<しるし>とした。” 結局のところ、残念ながら旧約聖書のコンテキストからは、具体的にこれだったのかという、<カ インのしるし>の答えを引き出すことができないのが現状だ。引き出し得るものならば、とっくの 昔に解決済みと云う事になっていたであろう。とにかく<カイン>に関する伝承資料は、かの創世 記の部分(4章)のみに過ぎない。この部分が、アダムからその三番目の子、セツに口承されたと 見るよりも、その原伝承は、初めからカインの家系に属するものとして伝えられ、その5代か6代 目の頃、セツ系の子孫本流にも移入同化され、さらにノアにいたる過程で、カインの6代までの子 孫の系譜情報も追加された。そしてノア後、セム系から聖書の民、イスラエルへ伝承されたという こと、その限りのものである。しかし、これ以上探索知り得ないまま、すんなり簡単にあきらめ、 引き下がるわけにはいかない。、、、 先に述べた聖書研究者の<彼>にご登場ねがい、彼の<天啓明示>の所見を述べていただこう。  ”神は、人の思惟・考え、その言葉の表現規定を超えているお方、時間も永遠もその存在を規定 することはできない。それでも人は言葉でもって語り、讃えることの許されたる資質的特権に与り うる才能を付与された唯一の存在だ。<永遠、即今、今、即永遠>、神はいつでも<今なる永遠> いつも<今即永遠>であられる存在者だ。この宇宙の存在に何百億年、何千億年の時間の流れが現 在に至っていようとも、その期間と共に、またそれを越えても、常に<今なる存在者>なのだ。 神様は、<私は初めであり、終わりである。>という聖言を人に与え表明せしめられた。(イザヤ 書、黙示録等)人、人間との係わりにおいて、あえてご自身がご自身を規定され給うた。しかし、 この言葉は、宇宙、人間その他全てを包括、包み込んだものなのだ。神の言葉は、死人の言葉にあ らず、活きて永遠に働いている、生ける言葉である。現在という高度知識の時代において、<宇宙 あるいは存在の初め>を追求してやまないのも、神の、その<初め>にかかわることであり、人が、 その精神意識にあって、その<初め>に至らんとしていることへの精神事象である。その人間事象 事態がまた、神の<初めであり、終わりである。>という言葉の規定の内にあるというものだが、 人間の個々の事象的始まりもまた、神との係わりにおいてその個々の<初め>を現実化しているこ と、そのすべての起源、オリジナル特性が、人間独自に根ざしたものではないことは明白だ。 <カイン>に関する事柄、これも彼の弟<アベル>との関わり、その事件関係を、そう云ったオリ ジナル的事象上からその理解の追求を深めるべきであろう。 しかるに、<カインのしるし>は、アベルと彼、両者それぞれの<神へのお供え・捧げもの>の行 為と、<神の両者への対応>のあり方に深く根ざしているとの、前提予見を手がかりとしないなら ば、その真相を明らかにすることは出来ないであろう。  カインはアダムの長子として、父にならって、土地を耕す者となる。ある程度、楽土的な土地の 開墾であったと仮定しても、耕すことの労力をこなすには、それなりに体も壮健、剛胆でなければ 出来ないことだろう。これに対してアベルは、幼少時より、羊や他の動物とのふれあい接触の機会 が多くあり、やがて父の勧め、指示もあって<羊の群れ>を管理育成するものとなる。こちらは、 兄カインほど剛健ではなかった、体力的に格差があったに違いない。また、動物(羊)の命にも直 接係わる日常での生活ゆえ、一度や二度、<羊の死>などにも直面したかもしれない。それ故、カ インより、アベルの方が心の内面性で、ナーヴァスであったとも云えようか。両者の性格、パーソ ナリティーがそのまま生活行為の面で表われてくることは明らかだ。(創世記4:2) 創世記事は、ただ彼ら2人の間の事柄を極めて手みじかに伝えるのみだ。この伝えをかのモーセが そのヘブライ語に根ざした最新のヘブライ文字を用いて、厳密なまでに正確に表現せんと、自らが 自筆したと思われる。それが後に<アラム文字>に転換・筆写されたとは言え、その厳密さは、失 われていない。ヘブライ語旧約原典から色々な民族、国の言語に訳されるが、それぞれその国の意 味言葉にふさわしく、なめらかな表現で訳され、その意味内容の伝えに何の誤りもないほどだ。だ が、ヘブル語における文章語特有の表現の厳密さまでは、度々、伝え訳すことが可能だとは云いが たい、概してそれは不可能なことだ。そこで<原典>に照らし、モーセよるその厳密さのステイツ ポイントを見落とすことなく、それを探りつつ、その真相に迫るべきかと思う。  カインとアベルとは、やがて、日が経って<神へのお供え>を持ってくることになる。これも、 父親アダムからのアドバイス、つまり、ちゃんと日々の仕事ができるような<男>・一人前の大人 になれた事への<証しの儀式>のような意味をも込めて、神への捧げものをするようにとのうなが しの言を耳にしていたからであろう。その文言は4章の3節と4節のところだが、ここで先ず注意 すべきは、4節の冒頭<そしてアベルは、彼自身も同じように(しかじかの物を)持ってきた。> という文言である。ここでの、< גם-הוא (gam-hu-) = 彼自身も同様に > の言は、前の3 節での<カインは、その土地のみのりの物を主へのお供えに持ってきた。>との文言内容全体を受 けて、つまり、カインとは何らの差もなく同意義、同レベルなものとして、むしろ返って兄カイン に倣って、<彼自身も同じように>との意味表示を意図して、その言をあえて挿入させている。し たがって、そこでの<動詞活用>の様態は、因ありてかく事を成さしめる用形、アクティブ・コー ザティブ(Active・Causative)の動詞形(Hiphi^l)が用いられているわけだ。二人が捧げた お供えの品々は、それぞれ異なるが、両者とも、思いを込め、心を尽くしてその捧げものへの行為 をなしたと見なければならない。 つぎに注目すべきは、それは、古来よりそこに秘められたる大きなテーマ、その記事全体における 中心的な課題でもあったかのように、その釈義、あるいは神学的な意味解釈や位置付けがなされて きたことで知られているが、その注目点を今、上に解述した流れを踏まえて見ていこう。 4節後半5節以降の文言で、二人のそれぞれの祭壇への捧げ物に、主(なる神様)のご意向応答が あり、なぜかその応答が、二者択一のそれであり、カインの方が顧慮されない、心にとめられない で、弟アベルとその捧げ物の方が顧みられたという、そんな文言記事を表わしている。ここでは、 何故、主なる神は、アベルとその彼の物を選択よみされたか、と云う事が問われるべき課題となろ うが、ここでは、カインの事が問題なので、彼の方に着目してみると、彼の祭壇への捧げ物は、非 常に立派なものだった。地の産物として、果実の類あり、豆その他の穀類あり草食野菜類ありと、 色々種類が豊富で、その壇に供え飾られたことであろう。まさに長子たるの面目に相応しいばかり の祭壇設営を誇っていたとの推察も可能だ。一方アベルの方は、兄のカインに倣ってとは云ったも のの、肝心の祭壇に供え捧げるものと云えば、自分が飼育した<羊の群れ>からのもの以外、自分 の存在をはっきり表明できるに値する他のよい物は何一つ見当たらない状況だ。普通このような場 合、ややもすれば、兄カインに対しての、ひどい劣等感に襲われ、それに責めさいなまされる事態 にもなり兼ねない。アベルも悩みに悩み、必死でその劣勢状況打開の糸口をつかもうと、思い巡ら したに違いない。あたかも絶望のどん底から、神の助け、光明を祈り求めるような思いで、自分の 捧げる物に対してどう対処すべきか、大詰めの段階で、兄カインと同じ捧げ方では自分の捧げる物 に対して如何なる価値も無く、何一つ神への自分の儀礼行為に意義がないことに気づく。兄カイン は、土地からの収穫物の恵みを思いきっり感謝しての捧げ物だという意味で、本当に意義豊かであ り、<感謝と讃歌の捧げの祭事(遥か後々の酬恩祭のあり方のものに通ず)>ということになり、 それはそれで立派に筋道が通り、まさに是として成立するものとなるが、、、だが一方、 1メートルほどの方台形に自然石で積み組されたアベルの祭壇上には、未だ何も供えられないまま、 いたずらに時が過ぎてゆくのか、、、だがやがて、何と幸運なるかなアベル!神の助けか導きか、 あたかも一条の光に心ひらめき照らされる、そんな心境のうちにその打開の糸口を見出しうるに至 った。 それはまた、新しい心の知の生まれか、その知の心水はいや増して、自らが満たされ尽くすかのよ うなものとなった。 彼の打開の糸口のきっかけとなったものは何か。それは、窮地暗索のさなか、ふと自分の人生回顧 をなし、父アダムから伝え聞いたこと、そして、少年時代に兄と共に父に連れられ、<エデンの園 の東>の入り口に設臨された神の異象、ケルビム(的な生き物・ケルブの複合体)と回る炎の 剣(創3:24節)を見に行くということがあって、あまり近づけば、死罰を食らうから、離れてドキ ドキしながら眺めたことの記憶が甦る。そのような追憶から知の目覚めの燭光が、、、<人の命> にはやがて死の訪れがある、、園から追放された人間には<命の木への道>の復帰はあり得るもの なのか、あり得ないものなのか、、思い巡らすうちに、死から人の命を贖うのは命の他にはない、 <命は、命をもってしか贖い得ないものか>、<血は命か>、その尊さの贖償、<神の園>と<命 の木>への復帰も、<命への尊い贖いの儀礼祭事>で開かれるものとなるかも、、アベルはいつし か燃えるようなあつい心となり、このまったく予期しなかった<新しい想念>に突き動かされるも のとなる。 とにもかくにも、ある種の一連の物語のように解き明かす以外に、事の真相、真意は、表呈され得 ないのだ。 <命の木への道>の開かれんこと、これが今やアベルの祭壇儀礼を決定付けた、<中心テーマ>と なったと云えようか。そして、彼は、あの<命の木の道>を守護するケルビムと炎の剣も、ただ単 に<道への門衛守護>の為にのみ現臨しているのではなく、これは、神様の意思の内容を表出表現 した<無言のメッセージ異象>だと確信した。 アベルは、もはや単純無垢なる思いをもって、<炎の剣>は、その贖いの<命の血>を求めている ことへの<しるし>であり、<ケルビム(霊現体の生き物)>は、その<命の肉>を求めているこ とへの<しるし・象徴>を現わしていると、しかと認知し、信じることで、その霊験新たかなる心 もって自分の全本分としての<神への捧げもの>を行なった。(創:4-4)  このように先述して、カインとアベルへの状況把握のアプローチをなした訳だが、この創世記事 4章がそこで語り伝えんとしている内容の中心は、あくまでもカインが引き起こした、弟アベルの 殺害事件に係わる<カインの事柄>であるから、そこには、こと細かな捧げものについての両者の あり方、儀礼などの善し悪しの情報は伝えられていない。がしかし、それにもかかわらず事件の発 端が二人の捧げたお供えものの儀礼上の事にあるとして、その記事は、その事の表面的な事実の成 りゆきだけを、ただ端的に<伝えるだけのもの>となしている。 その創世記事4章4、5節を見ると、アベルと彼の捧げたお供え物は、主(なる神)によって、受 け入れられ顧みられたが、カインとそのお供えには、神からの何の反応、顧みもなかったとあり、 その事、その現実に直面したカインは、この予期せぬ意外な事態に憤慨し、ヘブル語原典記事では  ”カインにとって、それがものすごい憤りとなり、そして、彼の顔を伏させるものとなった。” と記している。(5節後半) まさに彼の心は、動転と怒りの渦でもって、天地がグルグル廻るほどの放心状態になったであろう か。長子として、そのプライドをもって今までやって来た、築き上げてきた自分の人生が、今ここ に来て粉々に崩れ去ったようなショックアウトを食らったのだ。 ここからは4章での中心テーマが、カイン主役の事柄の伝承記事となってゆく。殺害されるアベル のことは、遥かな悠久の後の時代における神の啓示、神の奥義が首尾良く成就せんが為に、すべて 伏せ置かれたままとなり、カインの業跡がその証しの記念として伝えられる結果となる。 (カインの子孫の口承と見られることで、)  カインの動転と憤りの気持ちもやや沈静化する頃、彼は自分に問いかけられる主(なる神)の声 を聞く。”「なにゆえにあなたにとって(それが)憤りとなるのか、なぜ(それが)あなたの顔を そむけ伏させるのか。”(6節:ヘブル語原文直訳)以下7節 ”もしあなたが正しく行っている のであれば、(それを)あなたは受け入れられるでしょう。もし正しく行っていないのでしたら、 咎が戸口で待ち伏せしていて、その業望熱があなたに溢れますよ。しかしあなたは、それを治める べきなのです。」”  カインの耳の中で語りかけられた主の声、耳には聞こえるが、頭の中が混乱していて、考えの道筋 もまとまりもなく、彼には主の言葉を正しく受け止め、即座に返す言葉もない。やがて頭の興奮が 冷めてきても、そこに留まるのは、もの凄い疑念の暗雲と<それが>を指すところの現実への憎悪 の念でいっぱい、、”神は、なぜアベルの物を認め、どうしてアベルの<そんなささげ物>に応え られたのか、私はもうまったく理解出来ないのだ。主よ!私のあなたへの捧げ物は、間違いなく心 して、私はちゃんと行ったのだから、今さら正しいの、正しくないのと、問われても、、あなたに よって結果した<こんな現実>を、私は絶対に認める気持ちにはなれない。” このように、彼の耳に入った<主の言葉>も、さらなる疑念を燃え立たせる渦と化して、かえって、 <自分の義>を押し通さんとする<神への反抗心>の現われを誘発するものとさえなった。さらに カインの<疑念と憎悪の渦>は、弟アベルその人へと向けられ集中するものとなる。 ”私は、父アダムの長子として、父に習い、父からの伝えの通りに、土地をたがやし、実りを主に 願い、そして自然とそこに生きる生き物をも大切に気を配って来た、、、。それなのに弟アベルは どうだ!見かけに依らず残忍なやつだよ。自分が手しおに掛け、愛し育てた<子羊、雄羊>をその 血を採って殺すなんて!とても考えられないことだ、これぞとんでもない<命への暴虐、冒涜>の 罪ではないか、、、、”もはやカインには自分の考えを止めることもできず、自分に渦巻く、その どうにもやり切れない<疑念と憎悪の念>を打ち払い、納得できない不可解な現実を正して明瞭に するためには、、、また自分の考え、立場の正当性を、主なる神に訴え主張する為には、<子羊と 雄羊>の命と血の報復も善なりやとの妄想に駆られ、、弟アベルへの殺意も、これにて是の然りな のだと、直接その行動をもって抗議の正当化を示すべきだ!との、そんな蒙昧で行き場のない考え にさえ、心揺さぶられ、駆られるものとなった。 彼への<愛の忠告、その声>でもあった、かの<主の言葉>も、今や無意味な耳のひびきに過ぎな いものと化したに違いない。 遂に事が惹き起された。カインはアベルに話しかけたが、その時、二人は野に居ての事であった。 その野は、原野的な野ではなく、カインに所属する何らなの収穫物エリアの土地に属するような野 であった。原典資料の別ルートによる<例の70人ギリシャ訳>では、カインがアベルをその野に 連れ出すような文言が見られるが、とにかくカインの心の<戸口の咎への鬱積>は、彼らの住居域 から離れた場所で、その暴発的行為をなさしめるものとなった。(創:4章-8節)カインは、その 直前、アベルに最後の問い正しの話しをした。”どうして、羊たちの命を断ってまでして、お前は あのような捧げものをしたのか、、しかも主は、それに<火>をもって応えられるとは!、、私に は、その現実、その真意が理解できないのだ!、答えろアベル!、”アベルは答えにつまった、実 のところ彼自身どう説明すべきか、人に語り明かすほど、その突き詰めた十分な理解を得てはいな かったのだ。 アベルは、ただ ”私は、自分の命をかけただけだ!、自分の命の引き換えの代価を思いつき、それ で、羊たちの命を代償として捧げたのだ。この事がもし、神の前で間違った事であるならば、神よ、 私の命をお取り下さいとまで、祈り願ったまでだ。” カインは言った、”お前は、本当は間違っていたのだ! 羊たちの尊い命を奪い、そしてわざわざ 主(なる神)の手を煩わす事まで、仕出かしてしまったのだ! 今や主はお前の命を私にゆだねた、 私は今、お前を殺して、お前を羊たちの命の報復の代価としよう。”そう云って、激しくアベルに 襲いかかり、彼を殺してしまった。 その後、カインは、なんとなく心に不安を感じてはいたが、自分本位の<義>の正しさを盾に強気 な面持ちでいたのだが、不明解なる<アベルと羊>との係わり事だけは、彼の心の心底に突き刺さ った棘があたかも地の暗いところで、繰り返し々々不問の問いかけを催促しているかのようで、彼 の心はいつもそれでもって無意識のうちに揺らいでいた。そんな最中、カインは、再び主なる神が 彼に語る声を聞いた。4章に記された事件の結末部分である。 その主の声の言葉の結果は、アベル殺害の咎に対する罰と彼の行く末を宣告、告げ知らされるよう なものとなった。(4章9~16) それは、 アベル殺害死に対して、ただ死をもって償い報いるだけでの死刑を宣告するような不適、蒙昧なる 裁きの類とは、はるかに異なって当を得ていた。この時、カインは、嘘ぶいて、”わたしは知りま せん、わたしは弟の番人ではないですから。”と、その会話の初めに返答している心理状況からは 彼が仕出かした<大変なあやまち>への心の咎めもさらさら感じてはいないかのように見える。 彼のこのような自己本位的な考え立場に根ざした神への反抗心の裏返しには、あたかも親の愛を独 占しようとする独占欲、そういったかたちの愛の欲求が神に対して向けられ、彼の心のあり方や、 心理的意識の動向を左右していたと見なし得たとしたなら、神への彼の受け答え、心的な微妙な動 き、あり方もこの結末の記事部分でよりくっきりと浮き彫りになって来るのではないか。 カインはまさに反抗的にしらを切ったが、主は、即座に<アベルの血の叫び>に揶揄して、それに 起因するものとなる<懲罰宣言>、その予告の言葉でもって臨む。(4:10-12)彼は自分の生活、 人生の命を奪うほどの、この致命的な罰宣告により、やっとその傲我の心が打ちのめされるものと なる。だがそれはただ、<自分への致命的な罰の重さ>、それに耐えかねての事でしかなかった。 アベルを殺したことへの罪、その大罪に対する心からの偽りなき悔い、後悔の念、そして神への罪 の赦しをこい願う心、そういった心境への抜本的変化は生じなかったと思われる。このようなカイ ンのさが(性)は、程度、大小色々異なれど、全ての人間に通じるようなものだ。このカインに対 して、主なる神は、決してその<致命的な懲罰>だけを下したわけではなかった。神は、彼の心の 心底、そのすべて、不解要因となった特殊性など、すべて嘉し給うて、憐れみ深き愛のご処置をな されたと見るべきだ。このご慈愛のこもった<主のご配慮>こそは、<カインのしるし>となった その形あるもの、カインに差し向けられた自己新生への最後の道しるべともなろうか、いやそうな って欲しいと、神自らが憐れみ望む、その望みを形に現わしたものだった。 あの時には、カインは、”何故、主は、アベルを顧みたもうたのか、”絶望の奈落に突き落とされ るような自らの心の問い、、”何故、何故、ナゼ ”の叫びが、こだましていったのだった。 そして今また、負い切れないカインの罰の重みが、彼の心の内奥に不可解なトゲのように刺さった <アベルとその羊にまつわる理(ことわり)>の不解なる陰影を一層強く揺らせ、疼かせている。 そのような彼の心暗きも無意識なる心の奥を、神は見通し知り給うて、しかもその上、彼、カイン の、そもそもの本来的な存在ステイタス、それは永遠に誉高きものであって然るべきはずのもの、 即ち、<ファーストボーン>、アダムとエバにより人類最初に生まれた<初子>としてのそれなの だ。しかも、母親となったエバの口からは、彼を生んだ時、「わたしは、主によって、一人の人 (男子)を得た」との言葉が発せられている。(4:1)この彼女のオリジナルな言葉、それは、そ のお腹、胎での神による創造(生命誕生成長の仕組み・プロセス)の最初の実体験者としての言葉 であり、その子、カインと共に<記念の言>とされるべきものだ。この神の設定した<生命誕生> の仕組みそのものが神の創造であり、この胎内生命誕生の様式(メカニズム)が、はるか後の旧約 の民イスラエルの時代の終末、神の子、キリスト・イエスの生誕において、それの完全なる<神の 創造様式>の一つとして再現されるのだ。余分な事だが、それ故、人に関する<神の創造>には、 <三つの様式>が、その記念として永遠に銘記証表されるものとなる。 (その一つはアダム次元のそれ、その二つは、アダムの骨(肋骨)からのエバのそれ、これは、血 の付いた、肉の付いた骨であり、その存在的な意味においても重要である。この骨は、延髄骨から 尾骨へと真っ直ぐに増殖、伸ばし整えられ、その人体が創造形成されたわけだ。神の不思議な電霊 的鋳型と、霊の創造バリア(霊幕)の中での多様な部位への細胞増殖であり、自然界からの極めて ピュアーで豊かな分子、原子の要素も取り込まれての創造現象であったわけだが、。 因みにエゼキエル書冒頭4節以下の<4つの生き物>の啓示幻視は、それによる<霊幕バリアの創 造>を暗示しているとも云えよう。4つの顔は、創造された現世の生き物の部類的な代表を現わし ているから、、、。しかしながら海の生き物の代表については、ゆえあって取り上げ示されてはい ないが、) そんな訳で、三つ目の様式は、と云ってもこれは<神の真理ゆえ>をその理とするものなのだが、 三つ目、エバにおける初胎内様式は、そのまま神の子キリスト、<子羊なるキリスト>に属するも の、という神の継承持続を意図した<聖なる定め>の源であり、さらに加えて<カインのしるし> もまた、これを関係付けるところの<証しのしるし>ともなる。それゆえ、その伝承文書上では、 まさにカインに係わる一連の貴重なメモリアルな事柄だったと見なされうる。 長々と余分な理由付け、根拠付けをしたかのようだと、立場、考えの異なる様々な人から批判され るやも知れないが、ずばりと具体的に言えば、<カインのしるし>は、頭頂額側の両端に生え出た ような格好になった、いわゆる<子羊に似合った2つの角>に模した物だったということだ。勿論 材質的に<羊の角>と同じ細胞質の硬さというものでは、さらさらなかったが、、これが、主なる 神によって付けられた<カインのしるし>なのだ。実にこれを他にしては考えられないというのが 現実である。確かにこのカインの角は、赤面するほどにひどく怒れば、角が少し伸びた立つ感じで 鬼のような、鬼面顔の表情にもなったものと想像されようか。やがて生まれ出るカインの子らも、 その鬼面ズラで、ひどく叱られることもあった事でしょう。 カインは、10年近く、あるいは、 10数年前後の放浪生活の後、新開地を見出し、その所に落ち着くものとなるが、それが、<エデ ンの東、ノ-ドゥの地>であり、やがて、そこに邑(町)を建ててゆくものとなる。”(創4:17節)   以上の如きものとして、彼の天明なる所見は、今ここ表述されるものとなったが、、<この天啓 明示>の所見で、少し気になる事柄を、補足と云う訳ではないが述べておこう。 <カインのしるし>と共にその創世記事4章のカイン伝説は、それ以上彼の末孫の伝え、記録は、 何一つ残されていないと、本流の旧約聖書上では見なされている。が、旧約の伝承原典以外での、 いわゆる一般世界史において、その<ノアの大洪水>以前の遥かなる上古の<カイン伝説>に係わ る<何らかの痕跡>の微かなる幻影が見出され得るとしたならば、それは、先史、有史の定かなら ぬ<伝説>上において、<大洪水後の時代>への変容的な反映の跡付けを結果していると、捉え見 ることへの可能性ありと思われる、<古代中国の上古伝承>ではないかと推察され得る。 中国の上古伝承は、非常に複雑で、錯綜した重複、増進、削減、再現など、数千年にわたってその 変遷伝承が存続し、中国古代の<漢の時代>に至るものである。周の東周・春秋時代に<孔子>が 蒐集編纂したことにより、それら(六経書など)が秦・始皇帝時代に激しい弾圧的<焚書の嵐>に 遭いつつも、後の前漢時代(90年代BC)には、司馬遷による<中国古代正史の筆頭とも云われ る大著・史記>が著され世に出るものとなる。他に戦国(403-221)から前漢及び後漢時代 (25-220AC)には数々の創作諸伝が現れている。(淮南子、山海経、楚辞、風俗通義など 種々雑多)中国上古の伝承は、現実のところ、漢代までの長い間に様々な様相に変形発展、粉飾、 あるいは創作的添加、変作がなされ、原形をとどめていないから、それは、まさに濃い霧につつま れたベールの中を見通すような言葉の幻影でしかない。実に複雑化した雑繁林立の森に分け入るよ うなものだが、ここのところは、極めて単純に物事の真相を見るような眼識をもって、その伝承幻 影を捉える他ない。前漢の大史公・司馬遷は、その著・史記にて、非現実化、神話化したような伝 説、史実歴史でない、疑わしきものは極力排除して、その史巻の初めを<五帝本紀>から起し記し ている。(黄帝から初めて、高揚、高辛、放勲(堯)、舜の五帝)、そして、これ以降は、<夏本 紀>、<殷本紀>、<周本紀>とその紀年体の王朝史は記される訳だが、その著の成立後、はるか 800年近く下った<唐の時代>に至って、その史記の<本紀編>の最前トップに神話伝説のもの 以外の何物でもないようなものを追加した人物が現れた。姓が司馬遷の司馬と同一だから、その血 筋か、或いは別系の子孫かは定かでないが、唐時代の<司馬貞(656-720)>という名の史子である。 彼がそのトップに添え加えたのが<三皇本紀>である。何故に今さら、800年も過ぎてから追加 する必要に当を得たのか、その辺の事情については見逃しがたき事由の因ありかと、まさに関心を 寄せざるを得ない事柄だ。そこには<唐という時代>の、以前の代にはなかった何らかの特殊な社 会的な趨勢、その影響なり、刺激、あるいは外勢的な状勢の何かが起因していたに違いない。伝統 的な漢民族中華の<漢王朝>の没落以降、その精神的支柱であった儒家・儒教の権威の失墜か、衰 微か、4世紀後半以降には、外来宗教の仏教の伝来、そこには今まさに新しい精神的息吹の流れが 中国全土に浸透せんとしている。伝統的な儒家や道家の教えは、この外来仏教の刺激と感化、競合 によりて、それぞれにより宗教性を高めたる儒教、道教の道への確立、その民衆一般レベルでのよ り一層の宗教化への道標を模索せんとしたのか。唐王朝の時代(618-907年)には仏教の伸 展すこぶる著しく、教団的発展および諸派本山学僧の数や、増加の一途を辿る。ここに古代中国始 まって以来の<新しい異質な共同体の社会勢力の波、その台頭を見るのである。唐はまた、その王 朝の成り立ち(北方民族系軍閥貴族)からして、またその版図の示すところ、超大なものとなり、 西域アジア(ササーン朝ペルシャ等)とも直に隣接するものとなって、その都・長安は、当世での 一大国際都市にまでなった。したがって、外来宗教は仏教だけではなく、マニ教、ゾロアスター教 も入ってきた。 2代目皇帝・太宗は、635年、その臣下宰相の上奏案(仏教勢力けん制策)にて、ネストリアン キリスト教(景教)の招来を勅許した。その3年後からの布教は、845年まで、仏教を中心とし た外来宗教の禁圧、大幅削減政策の時まで続く。この古代のキリスト教の景教も、仏教の発展伝播 ほどではないが、200年余の期間の間にはその流行現象を展開したに違いない。781年にはそ れを記念高揚したる碑文の立派な石碑が長安の大秦景教寺に建立されている。そんな唐の国際的外 来思想の進展盛んなる最中、内国伝統の儒教(道教も同様に)は、体制的権勢の復権および<教> としての復興、挽勢を意図してか、かの有力儒家史士<司馬貞>も、<史記>のてこ入れを画し、 自らが編纂述著、その加増本紀をなしたと思われる。<三皇本紀>のこの最も古い伝説も、元より <五帝本紀>に対し、話のつくり、伝説上でのつながりを持つ、あるいは繋がり得るものだった。 しかし、あまりにも非現実的な伝説としか捉えようがなかった、<史記本典>の編纂者<司馬遷> は、史としての評価をなし得ないとしてそれらを除外したのだった。しかし、その当時すでに民衆 一般にも、他の諸伝での転載、創作などで広く知られうる時代となって来ていた。唐の<司馬貞> は、この最も古い伝説を可能な限り史化(歴史化=非神話化)して、その折衷的編述を行ったに違 いない。<溥儀、女媧、神農>の三者による三皇の史伝化、それに続く<五帝本紀>の史伝、さら に<夏王朝、殷王朝>双方の本紀史伝、これらは一連のセットとなり得た、中国古代上古からの民 族的本源出自の未来に向けての象表暗号のようなメッセージとなっているのではないか。つまり、 神農は、<カイン>、溥儀、女媧は、蛇に係わりのある<アダムとヌュバ(エバ)>、五帝は、神 農カインの五代の子孫、そして、その五帝の五番目となる帝舜が<レメク>に相当し、その子ら兄 弟(妹)らが、ヘブル語音韻へと継承された、その<カ=夏とイン=殷>でもって、元父祖<神農 =カイン>を再譜表するに至ったような、そんな<中国最古伝承>の、今や再述され得ない<幻影 的反映内容>を、この相合いせる符合のうちに想定することが可能となる訳だ。 したがって、このような伝承的一連の流れは、<ノアの大洪水>直後の、生き残りの<カインの末 裔>らによる、前世祖先への極めて強い思いでの再履修の発露、その大洪水以前のカイン伝承を保 留継承せんがために身をもって、その歴史的跡付け再現をするような形で、氏族的、部族的な営み の発展を志向し、その生存史的意義の保持、方向付けに幾らかなりとも努めた事の結果から、自ず と表出されるものとなったことだろう。(旧約書ノアの記事はセム、ハム、ヤペテからの子孫のみ を以後の全人類の系統に想定しているが、それは、それでそのノア時点での伝承として正しいとす べきだ。だがしかし、神様の広い視野摂理にあっては、例外は付きものだと、見なすべきもまた、 正しい判断のようだ。) 現代の時点から中国の紀元前後の時代を一見探索しただけで、すでに多種族の文化の拮抗交叉する 中で、複雑化した文化の色合いを個々にあるいは全体的に知ることになるが、文化的吸引力の核が 何度となく変わる過程を繰り返せば、これまた文化の層は捉えがたきものとなる。複雑な文化の層 を見据えたうえでの、物事を単純に見る眼、歴史上の事柄を極めて単純なところまで遡ってこれを 透察し、その真相を演繹、引き出す。そんな歴史理解のあり方も有っても良いかと思う。 【エデンとの関わり】  以上のように引き出された見識仮定、云わば一つの仮説的前提とも云える訳だが、その下で、さ らに再考すべき事柄が浮上してくる。いわゆる<カインとその子孫>の定住地域問題である。それ に関連して、かの<エデンの園>があったとされる<エデンという地域名>でもって呼ばれた、か なりの広さのある<エデンという地理的領域>の比定位置問題も出てくる。 創世記事4章16、17節、さきの<カインのしるし>の問題の次節での文言であるが、彼はその 後、10年あるいは10数年のうちには、定住生活に落ち着くことになる。この定住地が、つまり <エデンの東、ノ-ドゥ>であると、(16節)そしてその地域にやがて<町を建てた>と(17節) 記している。彼はもはや、<エデンという広い領域>のどこへ行っても、生活して行くことができ なかったことが知られうるわけで、それで<エデンの東>にその新天地を見つけ、そこに町、集落 を建て、やがてそこをホームベースにして、子孫がどんどん各地に広がって行き、また、5、6代 後になれば、<エデン領域>の何処かに再びリターンする者、氏族も出てきたかと思われる訳だ。 そこで<エデンの東>とは、現地球の地理的位置としては何処に相当するのか、ということになる が、その前に<エデンという地域>が想定されなければ、見定めることができない。したがって、 創世記第2章8節以下14節で記された<エデン>の記事内容、および記述に関する問題があれこ れ出てくるわけだ。  先ず当該記事の2章8-14節の文言内容それ自身から<エデン地域>を特定できるか、という 点について、スポットを当てて見ると、以外や出来そうで、出来ないの実情だ。過去に多様な説が 出されてはいるが、どれひとつ納得の行くものではなかったと云えようか。ただメソポタミヤの考 古学資料の洪水伝説、及び発掘調査で、深く埋もれた<洪水跡遺跡>らしきものとの結び付きに基 づいて、20世紀初頭には<メソポタミヤ中南部説>が創世記事のそれに該当するだろうという、 一応の仮定見解で済まされてきたようだ。 ところで、文言内容それ自身を吟味すると、<エデンから流れ出た一つの川が、そのエデン地域で 分かれて、4つの水源>となり、その4源から4つの川がエデン以外の大地を巡って流れていると いう向きの記述を見る。で、その知られざる川の名、ピション、ギホン、ヒデケル、プェラ-ツェ、 と順に4つが記されている。後者のヒデケルは、ギリシャ語で、<ティグリス>、プェラ-ツェは、 <ユフラテ>として、英訳、日本語訳などにも用いられている。これは、旧約へブル語原典が、初 めてギリシャ語に訳されて以来、(アレキサンドリア70人訳)広く世界一般の常識となったもの だが、ユダヤ・イスラエルの民自身、父祖アブラハムの代(創15:18)から<プェラ-ツェはユフラ テ川>に、ダニエル(ダニ10:4)の代には、<ヒデケルはティグリス川>に相当するという考えが、 すでに定着していた事に疑いを差し挟む余地はない。したがって、このユダヤ人の古くからの既成 の考えに依り、ギリシャ語訳はその妥当なるを得ていることになる。だが、この正当なる、なんで もない常識の考えでもって、創世記事の<エデン領域>を特定しようものなら、まったくのチンプ ンカンプンで、理解出来るどころではない状況にぶつかる。 4つの川が、その記述に沿うような様相の位置付けとはならず、第一の川・ピションおよび第二の ギホン等は、それこそぜん然あさっての、はるか離れた所のものとなり、しかもその源流の源とし ての<4つの源への分岐>を成しているという、当該の記事文言からは完全に逸脱しているものと なる。ちなみに<ピション>は、金の産出、金鉱があり、ハビラという地名で暗示されているが、 この古代地名だと、アラビアの中南部以南イエメン方面となる。また<ギホン>は、クシュという 古名で、暗示されているが、これは、かのギリシャ語訳(70人訳)では、エチオピア方面が、ク シュの地と見なされていることから、エチオピアと訳当てされている。現在このエチオピア地域と は、エジプトのナイル川の最上流域で、その水源(ビクトリア湖など)をなしている訳だが、とに かく、チグリス・ユフラテ両河の水源の方向、位置とは、まったく相容れないものとなる。地形地 理学の立場からすれば、この4つの川による全体的描写の文言は、まるでバラバラのデタラメ、ま さに地理音痴の記述以外の何ものでもないと極評され兼ねないものとなる。  こんな風では<8~14節>の文言記事は、一体どうなるってゆうもんだろうかと思われるが、 それらがつぎの15節以降へと文章がつながってゆき、その2章全体の文言からも、個々の部分の つながりからも、非常に差し置くことのできない、且つ、最重要な部分ともなり、2章の全体に秘 められた聖書的秘儀(啓示)の数々は、まさに基底的に絶大なるウエイトを占めるところのもので ある。それだから、チンプンカンプンで理解不可なる、<4つの川>関する文言個所を正当なもの、 納得して受容できるもの、そんな秘見秘路を探り当てなければならないのだ。ここではその文言の、 より深い再吟味の試みが要求されようか。  8節: 主なる神は、東のかた、エデンに一つの園を設けて、、、、人をそこに置かれた。 これは日本語訳(新改訳ではない)での文言であるが、ヘブル語原典を見ると、この日本語訳にも その訳し方に問題がある。これは例の<カインの住み着いたところ(ノ-ドゥ) >にも関係してくる 事だが、新改訳も又、同じ訳し方をしている。これらの訳し方は、エデンの地理的場所を<東西南 北>の方位感覚をもって、<東の方角>に位置付けるべく、エデンという地名語を修飾した文型( ベブル原典において)として訳されている。しかも、その訳し方は、一つの先入観に左右されてい ることから起因したと思われる。つまり、聖書での歴史の主要舞台は、カナン地方(ユダヤ・エル サレム)或いは、シナイ半島方面、ということで、そういった地域での、創世記事編纂者または筆 記者自身の当時の<現在位置から見て>という先入観、その解釈での<東方>、そのイメージで、 <東のかた>つまり、<東の方にある”エデン ”>という意味付けをなすものとなった。 問題の原典ヘブル語の綴りは、以下だ。    ←~ <ויטע יהוה אלהים>גן-בעדן מקדם : ===================================       直訳:”主なる神は、<エデンの(=における)園を東の方(部分)に>設けた。       意味訳としては・・・==<一つの園をエデン内の東の方に>設けた。== 「東のかた」の<מקדם (m'qedem) >は、一つの複合語をなしているもので、この場合   קדם (qedem) + מן (min): 前置詞の< מן 「part of」> プラス 名詞の< קדם 「東」>と   קדם (qedem) + מן (me-n): 名詞の< מן 「part」> プラス 名詞の< קדם 「東」>との  二つが想定されうるが、<+前置詞:מן >の方が正当だと見られる。この合成語は、  <גן-בעדן =(gan-be'E-den)>に掛かる形容語ではなくて、動詞の<ויטע (wai'ttsah)>に  結びつくものである。  <גן-בעדן (gan-be'E-den)>は、一つの独立した複合的な意味を表しうるユニット語と成すべく、  その連結符号(ヘブル語独自のハイフン<called "Maqqeph">)をもって表示されている語句  である。これは、自ずと<エデンにあるところの園>だ、と限定するもので、他にはない、他の所  ではない、ということを意味し強調するものである。  また、動詞に係る<מקדם (m'qedem)=東の方>の語は、主なる神の深慮にあって、その園を  <エデン内の東の方面>に設けるのが、最もベストであったと云う事をも示すものである。  したがって、”東のかた、エデンに~、、、”との日本語訳は、<エデン>の方位位置を示す形で、  その語、エデンを修飾しているものとなり、原典テキストの立場からすれば、正しく訳されてはい  ないものとなる。参考までに、英訳の二つのバージョンでは、以下の如くとなるが、原典に忠実か  と思われるが、この二者からの日本訳でも、”東のかた、エデンに~、、”とすることも出来よう。  ① Revised American Version on around 1884 from KING JAMES VERSION:    "And the Lord God planted <a garden eastward in E'den;> and     there ~ "   ② Revised Standard Version on 1952 from AMERICAN STANDARD VERSION on 1901:    "And the Lord God planted <a garden in Eden, in the east;> and     there ~ "  *創世記の古文書化が部分的に試み始められたのは、イスラエル民族の出エジプト期以前のエジ                 プト定住時代の後半期以降だと思われるが、口承によるその古伝承保持継承は、メソポタミヤ   文明発祥地ウルなどに生活の場を得ていた父祖アブラハムの時代に至る、はるか上古のノアの   代から受け継がれていた故、この文字化以前の口伝承時代の地理的面を考慮すれば、特にノア   一家が、その大洪水以前にその生活の場としていたのは、まさにそのエデン領域或いはその隣   接地域であったに違いないと想定できるものとなり、よって上記の<東のかた>= מקדם   (m'qedem)>は、エデンという固有名詞風の地名の地理的位置付けを特定するものではないと   断言できようか。   けだし、もしあえて万が一、エジプト定住、または出エジプト後のシナイ宿営時期に、例えば   神の人モーセが加筆したとしたならば、それは < גן-בעדן אשר-קדמה > といった感じ   の文節となり、<מקדם (mi'qqedem)>の代わりに< אשר-קדמה (a'shel-qe'dmah)=   ”東の方にあるところの” >を加えて、その先行語句< גן-בעדן (gan-b'eden)> に   関係付けするような文型になろうかと思われる。この場合はエデンの地理的位置づけとなる。  以上の問題点を考慮した上で、さらに核心的な事に迫って見よう。 いま上で挙げた8節から14節でのエデン及び園についての記事は、その第2章での主題、即ち、 <最初の人・アダム>のプリミティブな生存状況を伝えるために、その数節の記述過程が添えられ ていることが分かる。”エデンの東の方に一つの園を設け、”に続く、8節の後半の、<お造りに なったその人をそこ(園)に置かれた>という文言以下10節までの記事内容は、次の11節以下 14節までの<エデンおよび園>に関連する事柄を一足飛びして、再び反復するかたちで<15節 の文>と一つに結び付き、15節以下での文言の、その内容付けを確かのものとなさしめている。 そういった関連付けの文章の流れ、表面的には何らの差し障りもない文節のまとまりをしているよ うだが、前述の如く<4つの川>に関しては、理解を深めんとすれば、立ち処にチンプンカンプン で理解しがたい珍奇さに遭遇する。<これは何か訳ありであり、何らかの意図的な趣意がひそんで いるのでは>、と疑問視せざるを得なくなる。 この推察の読みが正しければ、この<四つの川>に係わる11節から14節には、極めて正当なる 善処の趣旨をもって加筆したであろうという真相が浮かび上がってくる。その趣旨背景と処方の状 況は、次の如きものであったと考えられる。  先ず、父祖アブラハムの代以降の古伝承または、エジプト在留時での<試みの文書化・パピルス 書巻化>等での<四つの川>の記事内容は、ただ、4つの川の名のみであった。以下の如くに。   11節:その一の名、それはピション、 12節:第二の川の名、それはギホン、   13節:第三の川の名、それはヒデケル、14節:第四の川、それはプェラーツェ。     *第四番目の”プェラーツテ ”は、後のギリシャ語での、ユフラテ(ユーフラテス)で、     ギリシャ語訳以来、すべての他国語訳は、このギリシャ語名を採用している。       しかして、 モーセによる出エジプト後の宿営時期に、モーセは、この伝承記事の現実を再確認し、その問題に 直面することになる。彼による最初の編纂が、五つの区分編成のものとして成される状況となった ようだが、(原初モーセ5書大成の出現)この編纂時に<エデンとその園>に関わる<四つの川> については、既存古伝承・パピルス書巻の<伝えている内容だけ>、それだけで果たして十分なの か、そのままで良いものかどうか、大いに熟慮し、想念に想念を重ねたに相違ない。というのは、 モーセ自身もこの<四つの川の名>を特定するような風には、認知でき兼ねていたのだ。この4つ の川が、何一つ具体性のかけらもなく、まったく宙に浮いたままでは、<エデンの園や、園におけ るアダムの伝承内容>にも悪影響を及ぼすは歴然、そのリアルティー、現実性が一層欠如されかね ないものとなる。やはり従来の<古伝承>のままでは民族的な将来性にとって絶対に良くない、と 自覚するにいたる。とにかく、より良識を添えたる具体性、現実性がはっきりと表された<4つの 川の名>とすべきが最善だと判断し、この個所へのより良い文言案出、加筆の良策処置が執られる ものとなった。(出エジプト時での指導者モーセとその民・イスラエルにとっては、その出国が、 主なる神による超自然の御力と不思議のリアルティー、その現実性そのものに在臨させられたるも ので、その当時代世界での最も強大な王国体制の権力者ファラオとのリアルで厳しい対決をモーセ とその兄アローンとが経験するものとなる。このような現実に至ったのも、400年、430年前 の父祖アブラハムとの契約、約束に基づいた、その事柄を核として、<時来たりし>世界史的一般 状況に対する主なる神の強制指導以外の何ものでもなかった。だが、モーセは、その現実性を一身 にわが身に負うものとなる。)  次にそのような趣旨動機付けによる、具体的な処方がモーセの眼識により為されるものとなる。 その手順的起点は、以下のようである。 当時のモーセにとってその民族は、その発祥を含めた<古伝承>資料との係わりと共に、それにあ ってはいまだ大して多い情報分量ではなかったから、事の処理は至って容易であった。つまり、 【その1つは】、<川>に係わる古伝承部分の<川>という言葉をもう一度よく見直し、その使用        ニュアンスを定め、用法整理すること、   **旧約聖書ヘブル語原典全体から”川 ”に関する語句を検索、拾い出してみると、11種     類ほどになった。それらは長い年月をかけて、生まれ用法化されて定着したものである。     それを分類的に見ると、     ①、自然の小川や谷川、及びその流れ、また小規模地域の河川など(ローカルリバー)、     ②、人工的な<水の流れ>、水路や運河など、そして、     ③、エジプトのナイル川のような大河、ユフラテ、チグリスなど大河川に当てられるもの。     ところで、モーセ時代には、いまだそんな原典全体ではなく、<原初古伝承>のみ、原形     原初5書の著編纂時期であったから、①や②の使い分けどころか、それらの語句が生まれ     ていなかったと推定される。したがって、モーセ時代以前に溯って見ると、③の類のみに     集約限定されるものとなる。(一語のみ例外的な派生語が作出されているが、、)そして     以下の二つの語句が最も最初期のものとして存在していた訳だ。     イ)モーセの代までに伝えられた、その古伝承におけるもの、       <נהר (na-ha-r)>この<川>・ナーハール は、例の<エデンとその園の川・四       つの川に用いられている、古伝承本来からのものである。モーセ以前のセム系イスラ   エル部族に至るまでの”川 ”に関する言葉は、大きなもの、小さなものなどを区別     することなく広く使用されていたと思われる。       これをモーセは、<大河>への使用付けに限定するものとなった。       ’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’     ロ)モーセの時以前、長いエジプト在留時代にそのエジプト語から移入形成された外来語   としてのもの、        <יאר または=יאור (イェオール)>、この語は、2千年期代に至る過程での古代   エジプトのエジプト語の”川 ”に相当する語句<イオテル・(複数形はイテルウ)>   から発音が訛って、イオテル・・→ イェオールとなり、イスラエルの民に用いられ       たが、旧約へブル語原典上では、そのエジプトの川(後にナイル川と固有名詞化とな       るもの)に限定使用されている。(創世記41:1,2,3,17,18、出エジプト記1:22、2:3,   5、4:9、さらに7章、8章において見られる)              **当時の古代エジプト人も、その<イオテル>をその大小に関係なく、<川>一般と     して、その語を用いていたらしい。後に<ナイル川>の呼称が付いた由縁は、その     複数形<イテルウ>に冠詞が付いた形で、<ナ・イテルウ>として、そのナイル川 に相当した川に限定的に用いられるようになった。(下流デルタ地帯)         その語がやがて後になって、ギリシャ語での<ネイロス>となり、さらにナイロス         と訛り・・・最後的に → <ナイル>に転化してきたようで、さらに後の         ヨーロッパ言語圏では、<Nile River>となったようだ。 したがってここで注意すべきは、ヘブル語原典上では、モーセ時代以降に至っても、 <ナイル>という呼称名はいまだ存在しなかったし、古代エジプト人も、そのような 呼称名を用いることはなかった。ヘレニズム・オリエントの時代に至って、そのヘブ         ル語の<イェオール>が、ナイルを意味するものとして、原典からの翻訳の場合に、 適用されるようになった訳だ。(日本訳のものも<ナイル>と訳さないと、場所的な 意味を解さなくなるので、それに相当する川は、ナイルとしている訳だ。)            【その2は】、その整理再認識された川をあたかも<聖名なる川>の如きになるように、<父祖アブラ        ハムの古伝承記事に結び付けること、それだけで他の4書の著編纂への整合性が計られ        得る基礎的方向付けの基を据えるようなものとなった。   **旧約ヘブル語原典上、初めて<川> נהר (na-ha-r)ナーハールが出てくるのは、問題     の第2章10節の<エデンの園>の文言である。     この古伝承の記述事実を起点にして、次に <父祖アブラハム以下に言及された、その<川>の語句に着目して行くわけだ。すると、 後にその創世記とも称されるものとなる、当該の古伝承においては、以下の①②③の三ヶ所     の章句だけに見出されるものである事が判明する。     その三つのものは以下の如く、二ヶ所が、その手法理解のキーポイントとなり、他の一ヶ 所は、補足的な裏付けとなるものとして重要なものとなる。今やモーセの編纂手法が、それ     らによって明らかとなってくる。          ①、創世記第15章18節:(エデンとその園の記事以降、この章句に初めて出てくる。)              ”その日、主はアブハムと契約を結んで言われた、「わたしは、この地を    あなたの子孫に与える。    エジプトの川から、かの大川、フェラーツェ(ユフラテ)川まで。」”    ’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’   この<エジプトの川>は、ナイル川を指すものではない。当時のエジプト王国の領土の   境界をなしていたもので、ガザ(現在のガザ市に相当する辺り)の南西80kmほどに   あり、シナイ半島の中央部を源流域とし、北および北西に蛇行し、地中海に注ぐ。(現       在の沿岸の町アリーシにその河口がある。)夏場には水量が減り、水がかれる場合が通   常のような、ローカルな川である。   このエジプトの<川>にも、נהר (na-ha-r)ナーハールの語句が用いられているが、   これは<古伝承の伝えのまま>を残した形を取っている事に特に注目すべく、その例外   の一つと見なされるものだ。(大小の区別なく使用された時代の名残をとどめている。)    ヘブル語:       ======   <מנהר מצרים (minn'ehar mi'turaim=ミン'ネハル ミ'ッライム)>    ’’’’              * נהר (na-ha-r)に前置詞<מן (min)>(from、~から)が頭辞結合  して מנהר (minn'ehar)となり、ミ'ッライムはエジプトを指す語  だから、”エジプトの川から ”の日本語訳となる。   次に<かの大川、フェラーツェ(ユフラテ)川、、>の語句であるが、この個所が、       いわゆるモーセがその編纂著述に際して、最大限に着目した文言となったものである。           ’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’’       つまり、モーセがその代々からの<古伝承>を詳らかに調べ、またその伝えを自らが聞   いている限りでは、その言葉の文節は、”かの大川 ”という語句のみで、<フェラー   ツェ(ユフラテ)川>なる語句は、未だ何一つその伝えにはなかった、古伝承本来の元       々の形は、”、、エジプトの川から、<かの大川まで。>」”という表現だけのものと       して継承され、それをモーセは再認知したのであった。   したがって、彼は、自らの<川に関する>将来的な想定を嘉した、その分類的な認識構   想をもって、   <フェラーツェ(ユフラテ)川>なる語句をその文言に加筆投入するものとした。これ       によって、この創世記事:15章18節自体も、より一層具体的、現実味のあるものと   なり、且つ、かの創世記事:2章10節以下、14節での知られざる川の固有名、エデ   ンに係わる<第四の川の名前 ”フェラーツェ ”>を転用同一化することにより、その   関係付けが見事に成され得るものとなる。        ヘブル語:       ======       <:עד-הנהר הגדל נהר-פרת、、(adz-ha'na-ha-r ha'ga-dor        ’’’’’’             アド-ハ'ナ-ハ-ル ハ'ガ-ド-ル                           nehar-phela-tue:)>                           ネハル-フェラ-ツェ:        * עד-הנהר הגדל (adz-ha'na-ha-r ha'ga-dor )の語句が、古来からの          伝えによる本来古伝承の ”大川まで。”に相当するもの。            < הגדל (ha'ga-dor)>は、ナ-ハ-ル(川)を修飾する形容詞に当るも          ので、”大いなる”とか”偉大な”とかを意味し、したがって、そういった  ニュアンスを込めた”大きな”という意味合いで、<大川>と訳されている。  この語句に続くものが、例のモーセが転用、加筆挿入したものであり、下の 次の説明の如しである。                  * :נהר-פרת (nehar-phela-tue)なる語句は、<川>”ナ-ハ-ル”の語  に、例のエデンに係わる第四の川の名、他の三つの川の固有名と並んでの固有              名詞の ”פרת (フェラ-ツェ)”なる語が連結符でもって結合され、ここに  初めて複合形式としての<フェラ-ツェ川>の語句を見、後に<ユフラテ川>          と訳され、認知されるものとなる。(語と語が複合すると、発声上合理的に短          縮され、その発音が変化する。)        * 上記の語<נהר-פרת>の挿入加筆によって、モーセの5書編さん時での<川>          に関する語句の使用分けの整理がなされるものとなる。その第一位的に明確化          されたのが<古伝承>としての、今で言う5書筆頭の創世記である。          ・エデンの園に関わる第四の川、<フェラ-ツェ(פרת)>に関係付けられた川、           つまり後の時代に<ユフラテ川>と認知されるようになった川に対しては、           <נהר(na-ha-r)、הנהר (ha'na-ha-r)>が限定使用だという方向付け。          ・古伝承の<ヨセフのエジプト>における記事(創41:1,2,3,17,18)にある           ごとく、後の代に<ナイル川>と呼ばれた、その川には、そのエジプト語           からヘブル言葉に転訛使用されていた、<יאר または=יאור (イェオール)>           を使用、これは、その古伝承自体がすでにその語句をもって、その伝えを           なしていたから再認するのみで良かった。          ・創世記事の全内容において、上記<ユフラテ、およびナイル川>以外の川に           関して、その言及されうるものは、唯、一ヶ所のみ見出されるものとなる。           創世記第32章23節における<川>である。(ヘブル原典では、24節)           この一ヶ所の語句が又、重要なキーポイントの方向付けとなるものである。           つまり、これは古伝承では、先に明述した、<エジプトの川>でのごとく、           <מנהר מצרים (minne'har mi'turaim)>のように、その語句継承は、           <נהר (na-ha-r) → הנהר (ha'na-ha-r)>であったと見られるが、           この語をモーセは、かなり良く似た発音とつづり・文字レターでもって、意           図的にそれとなく新語造作転換の適用をやってのけたと断定され得る。           <נהר or הנהר >から<נחל or הנחל (na-ckal or ha'na-chal)>           へと、、、転換新造語付けをする。           これによって、<川>に関する語句の使用整備の基礎付けが完了されるもの           となる。           依って創世記以外の四書(出エジプト、レビ、民数、申命記)での著述編纂は、           この <נחל or הנחל (na-ckal or ha'na-chal)> の語句が、頻繁に           ユフラテ、ナイル以外のものに対して、一般専用的なまでに使用されるものと           なる。           このモーセの設定した慣例に従って、それ以後のヨシュア記、士師記と、後に           続く諸典書は、この語が重用され、さらに時代が下って、その時代々々に適し           た新しい語も加わり、適宜、これに替わり得る使用傾向が、習例化するものと           なる。         【注記】:創世:32章23節は、ヤコブがパダンアラム(北部メソポタミヤ)か              らギレアデに帰還した際に、ヤボクの浅瀬の渡りを渡る時のその<川>              を指すものである。この川(後に通称ヤボク川とされる)は、ヨルダン              川に流れ入る、その主要な支流である。しかもギレアデの山地地域一帯              を大きく2分するような地形的流れを成している。カナンを目ざし、相              当規模の数、種類色々の家畜群を伴う、牧畜移動では、当然のごとく、              この方面への移動が適切であったという訳である。この場合の語句は、              目的語特定用の ” את  ”が前に付いて、勿論<na-ha-r>ではなく、                 新語表記の<את-הנחל (eth-ha'na`ckal) >とされている。           ●この<ナ`カル、or ハ'ナ`カル>の語句は、創世記事では、一ヶ所のみだが、            出エジプト記を除いた、残り3書と、次のヨシュア記には、ローカルリバー、             水の流れ(of waters)あるいは、谷の川といったニュアンスで、全面的に使            用されている。                        レビ記:11:9,10、23:40、民数記:13:23,24、21:14,15、34:5、            申命記:2:13,13,14, 24,36,37、3:8,12,16、4:48、8:7、9:21、10:7、            ------------------------            ヨシュア記:12:1,2,2,2、13:9,9、15:4,7,47、16:8、17:9,9、19:11、            ------------------------           *以上のほか、他の諸書にても用いられている。            特に上記の申命記2章での<ゼレデ川、アルノン川、ヤボク川>での使用は、            その典型的な範例となるものであろう。                        ②、創世記第31章21節:(上記①のアブラハム記事以来、二番目として言及されるもの)       この章句での<ナ-ハ-ル(川)=נהר >なる語の使用状況は、上記①での場合のように、       その川自体が事柄の主要テーマに関わっているものではない。父祖アブラハム、イサク、       ヤコブ(イスラエル)と三代続いてきた、その三代目のヤコブの青、壮年期での出来事の       物語的系譜(イスラエル12氏族の出自に係わる歴史)が主要な事柄となっている記事内       容である。状景は、ヤコブが伯父ラバンのところ(ハランの地パダンアラム)で、20年       前後ほど過ごした後、その間にラバンの娘二人を妻としたが、いよいよ伯父及びその息子       らとの仲、折り合いが悪くなり、その地からひそかに父母の住む地・カナンに逃れんとす       る状況時での記述に出てくるものである。       ハランは、古アッカド王国以来に開けた北メソポタミアの一村落であったが、前19世紀       頃には、交易大隊商路の中継地となり、商業的にも栄える都市へと発展した。その西方、       西南方・数十キロ先にはユフラテ川の上流域が広がっており、東方のチグリス川と相まっ        て、その両河の間という地理的環境にあるところであった。       ヤコブがこの地域から逃避行する際に、そのユフラテ上流の川を渡って、故郷カナンの地       に帰るべく、ギレアデの山地方面を目ざしたと、古伝承は伝えている。この伝えの文言で       注意すべきは、その川・ナ-ハ-ルについて、冠詞を付して特定している点である。以下の       ヘブル語文の如く。        ヘブル語:       =====       <:ויגנב יעקב את-לב לבן הארמי על-בלי הגיד לו כי ברח הוא        またヤコブもアラムびとラバンの心を欺いて、彼の逃げ去る                         もくろみを何一つ告げなかった。                (ויברח הוא וכל-אשר-לו ויקם ויעבר (את-הנהר                ''''''''''        こうして彼は、自分の所有するすべてのものを携えて逃げ、                           立ち行きて(その川)を渡り、                                ''''''''                 :וישם את-פניו הר-הגלעד >                                                      そしてギレアデの山地めざして進んでいった。        *ヘブル語では<動詞が目的語をとる時>、通常連結符(-)付きの <את (eth)>         をその前に伴うという、ヘブル語独自文法ルールがあり、ここでの ”ナ-ハ-ル         (川)”も、動詞ア-バル(ויעבר → עבר <pass over=渡る>)の目的語と         して、את (eth)をその語の前に伴い、冠詞の接頭辞<ה (ha') >をも付けた         形で、普通一般の語句形式(את-הנהר)をなしている。         したがって< ה + את >の目的語は、通常普段どうりの様式で、特定された語句         表現となる訳だから、この場合の<את-הנהר (eth-ha'na-ha-r)>も、誰もがよく         知っている<あの川、その川>、という具合の感じで特定されているものとなる。         依って、この創世記事・第31章21節において、それに反映されたる時代、         つまりヤコブ自身が生存していた時代において、その川についての認知は、広く世         間一般ないし世界に行われてはいたが、未だ固有なるネーミングをなしたる固有名         を有したものではなかったと断定されよう。この章句個所も、本来的に古伝承から         の伝えのままの継承となる。つまり、         父祖アブラハムからヤコブに至る時代過程にあっては、フェラーツェ(=ユフラテ)         なる名前での<川>の認知は、未だなされてはいなかったと見るべきであろう。         (現代の日本語訳の新改訳や一部英語訳は、         そのナ-ハ-ル(川)が自明の事として、ユフラテ川だとわかっているから、当然の         事として、”ユフラテ川 ”と意味訳され、読者に良く判る計らいがされている。)      -----------------------------------------     ③、創世記第36章37節:(モーセの編纂手法による補足的裏付けとなる個所)       この章節での<川・ナーハール(נהר)>は、<エデンの園>に関わる一連のその語句以外          のもので、先の②での場合に次いで、<三番目>に表記されているもので、創世記事では       これが最後である。       この章の37節に言及された<川・(נהר)>については、この36章の記述全体の構成概       容を良く理解した上で、その語句の妥当性、正当性が、つまり、モーセのそこでの編纂著       述の正しさが認められ得るものともなり、同時に、その編著述における<隠された意図>       が、<ナーハール>=イコール <フェラーツェ(ユフラテ川)>となるような想念付け       への<補足的裏付け>の確証手法でもあったのだ、ということを知り得るものとなる。       以下、その章の主題とその構成概容を述べながら、その手法を見てみよう。        ●先ずこの36章の内容全体に関わる中心テーマについて:       これは、通読すれば一目瞭然に判ることだが、ヤコブの兄エサウとその子孫に係わる系譜の       情報を表示するものだということが知られうる。そして、エサウとその子孫たちの定住地が       死海(塩の海)の南の地、その西、東に広がるセイルの山地に寄るもので、その地域の先住       民との混交が行われ、エサウ系を主流とした<エドム>という民族的部族の諸族長関連の社       会が、出エジプト・モーセ当初の代、及び40年間の宿営時代の間に存立していたという事       を伝えんとしている。エサウがヤコブの唯一の兄弟であり、長い間のヤコブ一族のエジプト       寄留、定住時代での交渉の途絶えブランクがあったから、なおさらの情報表示となったであ       ろうか。けだし、       この章での<エサウ=(エドム)子孫系譜>のデータ情報が、どのようにヤコブ側に伝えら       れたか、実際のところ定かではない。が、決して、モーセその人自らが、入手していたとこ       ろのオリジナルの情報だったということを、一概に否定し去ることも出来ないであろう。       広いセイルの山地地域を取り巻く方面にイスラエルの民が<宿営生活>を繰り返す時代に、       いや、それ以前、出エジプト以前に、かのモーセがエジプト王宮から脱走し、遠く離れて、       今で言う、北アラビヤの西北部の<古代名:ミデヤン>の地に至りて、そこで身を固めたと       いう、その40年間の生き様の間に、ただのうのうと牧羊を営んでいたわけではないであろ       う。この時期の間にもヤコブの兄弟系エサウの子孫情報の交換入手、あるいは調索、周辺世       界の状勢などの情報認知が、自ずとなされ得たに違いないと思われる。       (本文テキスト日本訳をこのページに掲載できると良いのだが、長くなるから割愛する。)      *1節~19節:エサウの前置き系図から、彼の生活事情による<セイル山地での定住>以後              の子孫の系図情報。      *20~30節:セイルの地で混交した先住民ホリびと(=ヒビびと)のエサウ系との関係か              らの、その系図情報。      *31~39節:そのセイル地域一帯、すなわちエドムの地を支配した、いわゆる属領のよう              なかたちで、収益目当てに治めたところの、東方メソポタミヤ勢力下の諸王              の8代目までの系譜。              (このセイル・エドムの地は、エジプト王朝の進出してくる領域に近いと              思われるが、内陸部の荒野、山地が多い地域の為か、何故かエジプト王国の              干渉は受けていなかったようだ。エジプト王朝はもっぱら、地中海および、              平地を利用した、その沿岸よりのカナン、フェニキア方面への伸張に及              んでいたということであろう。例外としてシナイ山方面に到る地域での鉱山              採掘事業がなされていたとの考古資料が挙げられているが、、、。)                        *40~43節:この章の締め区切りとして、更に追加のエサウの子孫族長の名前列挙の情報。              これは当時の代、即ち、その編纂時での最新のものでの、まえ出の系譜内容              の漏れをカバー、補足したものであろうかと思われる。      ●上記の節分け概要で、例の<川>の語句、<ナーハール=(נהר)>が見られるのは、31-       39節区分においてである。その37節の文言中にそれが用いられている。       この概要部分(31-39) の文脈内容は、<セイル・エドムの地を治めた王、8代までの系譜>       を伝えているものだが、その諸王名の人物の出自、或るはその都とかの所在地の詳しい正確       な情報等はほとんど皆無に等しい。33節で、2代目の王ヨバーブの出所が<ボ'ツラー>       となっているが、この所名が、そのまま後のカナンでのイスラエル諸王(南北諸王)以降、       預言者イザヤ時代(BC700年代)にまで至る、エドムの首都だとは断定しがたい。       と云うのは、       モアブの地のアルノン川(死海東中岸)の近郊丘陵のデボンという町が、アモリびと進出の       BC1500年代には、<ボ’ツラー>との同名が用いられていたからである。       したがって、そのエドムの地に居座っての<エドム王>といった存在での諸王だと想定する       事は、必ずしも、その<列記の王8代すべて>に妥当しうるとは云いがたい。       また、そのエドム地域の氏族の族長連合から<王>を擁立するような事が起っていたとする       ならば、そういった内容の情報が残存表示されてしかるべきだと思われる。だが、実の処、       エサウ系子孫の歴史状況からは、いまだそのようになるまでの歴史的発展段階には至ってい       なかったのが現状だと見られうる。さらにモーセ率いるイスラエルのシナイ半島方面での宿       営時代には、アモリびとがエドムの地を治めるものとして、その王を立てる時代へと変って       来ていたとの見方も取れる。       民数記の20章14節以下の記事では、モーセがエドムの領地の近隣であるカデシから<エ        ドムの王>に使者を使わす文面がある。この時の王が、かの列記中の8人のうちのいずれか       ならば、その名をも記し得た、記したことになるであろう事、間違いないとの考え方も出来       得るからである。       この部分の記事内容の情報がエドムの地本来の出自ではなく、また死海の東岸の東部地域か       ら、ヨルダン川を遡上したその東の地域にまたがる領域からの諸王に関してのものならば、       もっと正確で、はっきりとした情報が多く得られる記事となったに違いない。したがって、       この部分が非常に不可解なるが故に、他の記事区分のように広く人に知られたものではなく、       モーセのような個人的人物が探索入手した、極めてパーソナルな情報であったと解されよう       か。       かってはモーセも、エジプト王宮の王族の一人でもあったことから、その王国の勢力範囲、       版図にも明るかった筈だ。彼は、40才に及んで、ゆえあって王宮から逃避行をせざるを得       なくなった。(出エジプト2章11-15節)その時彼は、国王パロ(ファラオ)の権力、       その勢力圏外まで落ち延びなければならなかった。その確実な安全圏が彼には予め判ってい       たから、その方面<ミデヤンの地>に逃れゆくことができたということになる。       この北部アラビアの西部方面は、エドムの地と隣合わせでもあり、しかも東北方アッシリア       (北部メソポタミヤ)方面での状勢を知りうる傾向ともなる生活圏である。彼の80才へと       至るところのミデヤン人としての生活も、その後半期には、群雄割拠するメソポタミヤ勢力       の干渉支配を逃れて、シナイ半島よりの方面(現アカバ湾周辺)で、その生活圏を確保して       いたと思われる。       そんな生活状勢の時代に、その生活に必要な情報として記憶に留めたのが、<エドムの地>       を治めた群雄割拠の諸王たちであったということになり、それがベースとなって、この31       -39節の文言が、出エジプト後以降、彼モーセの五書・著編纂時期に再現表記されるもの       となる。したがって、その諸王の時期は、イスラエルの民の出エジプト以前のことであり、       民が荒野での宿営期をまさに終わろうとした頃、ヨルダン川を渡ってカナンの地に占入する       直前に死海北東岸からヨルダン川東岸に連なる東部平野及び丘陵台地に汎居していたアモリ       びとの二つの王国(シオンとオグ)などは、いまだ出来上がってはいなかった。       その地域には、モアブ人とアンモンびとらの(両者ともアブラハムの弟の子・ロトの子孫系)       生活領域として、その生活圏を分け合っていた時代に相当するということになる。       また、この<エドムの地を治めた諸王>は、エサウ(エドム)系の子孫の輩に属する者たち       ではなく、別系の先住、あるいは外来の人種(ホリびとを含め)であったと見られ、その王       としての地位は、東方メソポタミヤ勢力の従属傀儡王または代官王にすぎなかったと思われ       る。(創世記14章1-5における場合に類系する。これを第一波の時代の流れとすれば、       このエドムの諸王の代は、その第二派の時代のうねりであり、古バビロニア王国ハンムラビ       王が、シリア、北西メソポタミヤ間に栄えた<マリ王国>を征服した直後のBC1700年       前後以降、1500年前後にいたる時代中に該当すると見られる。)       そのエドム諸王の列記の文言中に、34節だが、”ヨバーブが死ぬと、彼の代わりにテマン       びとの地からフシャームが王となった。”と記されている。が、このテマン人の<テマン>       なる名は、まえ出の11節、ここではエサウの第一妻アダの子・エリパズの子らの一名とし       て、いわゆるエサウの孫として、そのテマンの名が記されている。この族長テマンの子ら、       子孫が住した地が、<テマンびとの地>に比定できる訳だが、その地から出たフシャームが、       エサウ系の子孫であると、必ずしも断定できるものではない。       さて、ここで見られる37節の<川>に関わる語句<ナーハール>について、その疑問点を       も踏まえて、その(補足的裏付けの)真実性の正否を確認してみよう。       先ずは37節のヘブル語テキスト文言の以下から。        ヘブル語:       ======       <:וימת שמלה וימלך תחתיו שאול מרחבות הנהר > '''''''''''''''       右から左への読みで:       (waya'ma-th samlah wai'melock ta'kheta-iv sa-wu-l me-le'ckhobo-th ha'na-ha-r:)                                   '''''''''''''''''''''''''''''       ”~サムラーが死んで、彼に代わって(ユフラテ)川の近くのレ`コォボースのサァウールが        王となった。”          '''''''''''''''''''''''''''''''       *ここで問題視されるのは、ギリシャ語70人訳以来、今日まで、”川のほとり、或いは、川の       の近くの ”そして、自明のように<ユフラテ>の固有名をそえて、欧米言語及び日本語訳等       の通例の代わりに、その<川・ハ'ナーハール( הנהר )>の語句を固有名と見なし、この語の       前の語句(<前置詞 מן (mi-n) → מ (me-) + ( רחבות ) レコォボ-ス >)=       メ-レ'コォボ-スとは、元々一つの固有名であったかのように見なして、<町あるいは所>の       名の固有名称として訳されているという点での一例事にある。       それは日本語訳最新の<新改訳版>で、その表記は<レホボテ・ハナハル>となっている。       異例の訳だから、一応、米印(*)が付いて、欄外下の注書きが添えてある。とにかく、       いずれの訳においても、その所在を示す名前の<古代上の地理的位置>は不明で、明らかにさ       れ得ないのが現今の現状である。(今後の考古学的な面からの可能性も無いであろう。)       そういった<訳語>に関わる疑問の余地があるわけだが、ハ`ナーハール( הנהר )のヘブル         語句自体の文法上での、正確なる正当性を第一義的な前提としたならば、その語句を固有名と       して、見なし訳すことは不適切だとも云えよう。冠詞の付いた普通名詞が、発音上その母音符       合やドットも変化することなく、同じままで固有名詞化して使用されるような例はあり得ない       ことだと思われる。       (ナーハールの複数形で、冠詞無しでのかたちで、特別に使用された<地域名>の一例として、       創世記24章:10節と、申命記23章:4節で見られる。       アラム・ナハライム=ארם נהרים が、       それで、単数形<נהר =na-ha-r>の複数<נהרים =neha-ri-mu>が、短縮発音変化して       <naharaimu>となって、その固有名的なヘブル語句を成している。原義的意味は、        ”二つの川の間の ”という事で、メソポタミアを表わす同義の地域名語句となる。)      *創世記の記事以外での同様のパターンを挙げ、その裏付けの参考として列記して置こう。              ①出エジプト記:        23章31節・・・~< וממדבר עד-הנהר >~ (u'mimideba-r adz-ha'na-ha-r)  訳:何々<と荒野からユフラテ川まで>を       ②民数記:        22: 5節・・・~< אשר על-הנהר ארץ בני-עמו >~                 (a'sher al-ha'na-ha-r e'retu b'ney-am'mo)               訳:<アンモンびとの国のユフラテ川に面してあるところの>何々        24: 6節・・・ ~< כגנת עלי נהר >~ (k'ganoth a'ley na-ha-r)               訳:<川辺(川のほとり)の園のよう>              *この文言は、詩文のような託宣言葉だから、散文と異なり、抽象的な表現が             見られる文章の一部である。したがって、川の語句は、冠詞の付いていない             <ナーハール>となっており、ハイテンションな心情をもっての抽象使用だ。        ③ヨシュア記:        24: 2,3節・・~< בעבר הנהר ישבו אבותיכם >~ (b'e-ber ha'na-ha-r ya-shbu- aboteykem)               訳:<あなたがたの先祖たちは、ユフラテ川のむこうに住み、、>        24:14, 15節・~< אבותיכם בעבר הנהר ובמצרים >~                 (aboteykem b'e-ber ha'na-ha-r u'bmituraim)               訳:<あなたがたの先祖たちが、川のむこうや、エジプトで、、>                ~< אבותיכם אשר בעבר הנהר >~                 (aboteykem a'sher b'e-ber ha'na-ha-r)               訳:<川むこうで、あなた方の先祖たちが、、、> 【その3は】、上記のごとき、<川>に係わる語句の使い分けの基礎付けを踏まえた上での、<大川・ユフ        ラテ川>にのみ限定された、そのユニット語句の、その後(創世記15:18節以外での)        の波及反映の使用個所を取り挙げ示しておこう。       ①、波及その一:(例の最初の基礎付けの創世15:18節とまったく同一)   申命記:  1章 7節:<:עד-הנהר הגדל נהר-פרת >~                   (adz-ha'na-ha-r ha'ga-dor nehar-phela-tue:)                 訳:<大川ユフラテ川まで、、、>       ②、波及その二:(< הגדל > 大きいの<大>=ha'ga-doruが省略されているもの)         申命記:  11章24節: ~< מן-הנהר נהר-פרת >~                   (min ha'na-ha-r nehar-phela-tue)                          訳:<ユフラテ川、その川から、、、>       ③、波及その三:(例の最初の基礎付けの創世15:18節とまったく同一)         ヨシュア記:1章 4節:~< ועד-הנהר הגדול נהר-פרת >~                   (uadz-ha'na-ha-r ha'ga-dor nehar-phela-tue)                 訳:<大川ユフラテ川まで、、、>      *ハ`ガードル< הגדל >、又は、ネハル・フェラーツェ< נהר-פרת >と表記された       ものは、この3ヶ所のみであり、多使用厳禁、希少限定として、その配慮がなされてい       ると思われる。       特に③のヨシュア記では、モーセの後継者として、ヨシュアが、しっかりガッチリと、       モーセの設定路線を忠実に踏襲していることが、ヨシュア記全体の<川>に係わる語句       の使い分けの状況からも非常に良く知られうる。       (ヨシュアは、出エジプト直後以来、その二十才代の若き時からモーセに付き添う従者と       して仕え、書記、筆記者としての役目もなしたか、あるいは、そういった務めをなす2、       3人の者らの指示者であったと思われる。また、自分の属する部族エフライムの若手男衆       の最も若手のつかさでもあった。)                    以上の如く、モーセの古伝承への具体的な文言処置によって、<川>に係わる”モーセ五書”での 編纂内容のすべては整えられるに至ったと見られうる。 モーセのこのような著述処法に込められた本来的意図は、創世記に<エデンの園>に関わる四つの川が そのうちの第三(ヒデケル)と第四(フェラーツェ=ユフラテ)をもって、最も現実的にイスラエルの 民らにとって身近に知りうるリアルな感覚のものとして、定めおくべきだとの思いが込められたもので あった。それらの川の事で、伝承記事が宙に浮いたようなものにならない為に、モーセは最深の注意を 払って、最善を尽くしてその著述事にあたったと見られる。
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