日本近史:幕末・明治維新から昭和の終戦までの
          日本をどう見るべきか。



 先の昭和20年までの戦火を知らない我々戦後生まれの世代が大半となった現代、幕末・明治からの
日本のあゆみをどう捉え、受けとめて、それを将来への指針の糧とすべきか否かは、国民にとって大い
に良識の具とするところと思われる。戦後教育の偏重傾向が今の現代社会での様々な人間性喪失の弊害
を引き起こし温床となっていることは確かだ。<人間教育は人格教育であり>、歴史を正しく理解して、
それを<人格教育>への最善の知徳として、その健全なる形成的方向付けがなされないならば、人間教
育としての真の価値は無いものとなる。戦後から60数年経った、今の日本、本当に素晴らしい文化、
文明の国となり、世界の国々の人がたくさん観光やら留学、スポーツ、その他の事で、自由に訪れるも
のとなった。このように豊かで世界からも信頼されるようになった日本が、この今の状態をさらにより
よく維持していかなければ、今までの努力、踏ん張りも何にもならないことになる。これからの日本が
大事なのだ。そこでもう一度、自分の人生を振り返る如くに、日本を振り返って考えて見よう。義務教
育や高校などで日本史の概観を学んだ人も、、共通の歴史的価値を共有するために!!

さて表題の”幕末・~昭和終戦まで、、どう見るべきか。”の概握評察の見識を試みる前に現在の<日
本古代史>の学問的現状を一瞥認知しておくべきであろう。日本の古代史は何かそれをタブー視するか
のような前提、風合いをもって、あたかも厳かなミステリーのヴェールに包まれているという向きがあ
るが、これはヨーロッパやオリエントの古代史の内容把握の水準から言って、はるかに遅れた歴史感覚
であり、後進国レベル並の意識であると言わざるを得ない。それは、日本古代史への学術研究の進歩と
その成果がまったく良くなし得ていない、その可能性さえ断たれてしまっているような現状で、日本の
古代史に係わる主要な考古学的な史跡が<封印>されているからだ。<日本の政治・社会体制>は、そ
の体制維持のため、そのような<封印状態>を解くようなことは万が一でもあり得ないであろう。日本
国民、日本人の<知る権利>は、この点に関して、ウヤムヤであり、これへの明瞭な<歴史的把握>が
ないかぎり、日本人の真の意味での、いわゆる精神的な大人としての真の<文明開化>が果たされては
いないのではという疑念の現実に遭遇することとなる。<封印された数々の考古学的史跡>を現在の中
央政府<文科省>が主導となり、その国家的なプロジェクトとして、学術文化的な発掘調査に乗り出す、
その厳正、慎重なる面持ち、心使いをもってその<解明への学術探査>をなしえない限り、国民は自ら
の、ヴェールに覆われた<古代史>の真実なる歴史の実相をより最大限に<知りうる権利>に与り得る
ということはありえないというのが、今、現在の歴史・考古学上の現状ではなかろうかと思われる。

海外的史料としての<魏志の倭人伝>による、<邪馬台国・女王卑弥呼>伝説では、九州説、近畿域内
説など、金印での<漢ノ倭ノ奴ノ国王>とは、また隋の古書に記された<倭の5王>とは、そしてそれ
らとの係わりがどのようであったか、その歴史的関連性などを明らかにされるべきだと見られる<大和
朝廷成立>の史実としての概要認知、どれをとっても通説俗説、諸々仮説があろうとも、明確で総括な
一貫性のある歴史史実を得ることも出来ず、神話・古伝書的史料との兼ね合いにおいて、ウヤムヤ・曖
昧の躁鬱さを引きずった<古代史的アイデンティティー>以外には、日本国民はそれを持ち合わせる事
ができないということ、<文明人として有るまじき精神的空虚さ>を味わう事となる。そこには歴史の
はざ間での右往左往する哀れな日本人大衆の形相・姿しか垣間見ることが出来ないとも想像される。

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 前置き所見の言わんとする意図は、読者各自のご判断にまかせて、表題での本論への筋道へ移ろう。 歴史を学ぶことは人として非常に価値のあることだが、その貴重な学びが無に帰することのないように さらに<歴史を読む>という、もう一段レベルアップした意識をもって、歴史に隠されている<歴史的 暗号コードとしての流れの意味>を掴み取る、つまり<歴史を読む>という覚醒的試みをもって、史実 史としての歴史に目を向けると良い訳ですから、その点を踏まえて、先ずは概要的にその大きな流れを <Point of View>的に捉えながら各時代の歴史的形相コードを見て行こう。先ずその歴 史の新たなる流れを、<武家社会>確立の時代が始まろうとした、平家と源氏の時代に見ることができ よう。 平家は、壇ノ浦の合戦で、源氏に敗れ、その時代を終えるに至った。その時、平家一族との姻戚関係で の正統第一位的な<天皇家系>も断絶の憂き身にさらされたことになったわけだが、第二、第三など傍 系の天皇家系は、源頼朝の<鎌倉幕府>以後も、表舞台的な天下政治の権力はないものの、武家社会の 頭領として、国を治める者(この場合は頼朝になるが)を己が代理者として認可するようなかたちで、 印璽の詔勅をなすという、隠然たる権威を示しうる存在であった。   このように<武家の棟梁>による天下政治を執行する幕府の登場以来、670年余にわたって日本の国 は、伝統的な大和王権は<陰のミカド天皇>、武家幕府の統領は<陽の将軍天主>として、その双頭的 体制の形勢のなかで、両者の勢力的な係わりがその時代々々の局面で成されていった。国がより強く、 しっかりした体制として確立されてくると、海に囲まれた島国の大和日本は、古代の時よりも一層海外 との交流が自由なものとしてなされなくなって行くものとなった。官吏管轄の制が行われるようになっ たからである。公式使節の交流以外は、何らかの認可が必要だ、と言った具合に、、13世紀後半中の 中国の元朝時代の元寇の役、フビライ帝の野心があったことは否めないが、日本征討へのきっ掛けは、 その先には宮廷御用商人たちの日本に対する苦情の申し立てがなされた事のうちにあったに違いない。