大和王朝成立に関する諸説、

及び邪馬台国考 アンド 記紀編纂に関わる謎考:
 
●●王朝成立への前過程:
  1.) ユダヤ人ラビ・歴史家 M・トケィヤー氏による古代ユダヤ人による<神殿・祭儀文化の伝播移植=      神社・祭儀様式のはじまり>:
     トケィヤー氏は自著「ユダヤと日本謎の古代史」で、上古の日本の祭儀文化に古代ユダヤのそれとの      稀なる類似性のあることを指摘する。神官の服装、祭式のふるまい方式、また、宮・神殿の構造的な      レーアウトなど、その類似が単なる偶然のものか、それとも古代ユダヤ人によって伝播されたものか、      はっきりと確定できる史料がないということだが、、、彼の主張するところは、古代イスラエルの<      失われし十部族>が今のイランから中央アジアに、そして中国大陸に移り住む足跡の過程で、シルク      ロードを開拓し、その交易をなした最初は、絹の商人ユダヤ人だったから、それ以前にかっての北朝      イスラエル(サマリヤ)の<十部族>の東方への流浪転移において、日本の地にも至っていたのでは      ないかとの想定を表明するものとなっている。      氏はまた、その著の始めの一章の中で、英国スコットランド人のマックレオドというビジネスマンの      著わした本「日本古代史の縮図」の内容を紹介している。この本は明治の初期、1875年(明治8      年)横浜で印刷刊行されたもので、今はまったく入手できるものではないが、民族文化的に見ても文      献的史料価値が高いと評価している。その本で格別に注目されたことは、その英国人が初めて、<日         本人の古代先祖は、かの<失われしユダヤの10部族>ではないかと、指摘していることだ。(19      75年6月初版)   2.) ユダヤ人歴史、言語、民族研究家 ヨセフ・アイデルバーグ氏による<大和民族説>:
     アイデルバーグ氏の著書「大和民族はユダヤ人だった」では、さきのトケィヤー氏の見解を実際の検      証するようなかたちで、アイデルバーグ氏自らが京都の護王神社での宮仕えの研修をされたりして、      古代ユダヤとのつながりに一層の確信を得たとの事で、日本の記・紀への研究言及にまでおよび、      創作神話での<神代セクション>の天照大神の岩戸隠れの記事で、他の伝承によると<天のこやね>      の祈祷詞<ヒィフゥミィヨォイッムゥナナヤァココノトウ>や、神武天皇のご称名<カムヤマトイワ      レビコスメラミコト>など、実際に日本語では意味不明な言葉もユダヤ・ヘブライ語ではその意味が      知られ得るとしている。そういった言語上での<大和言葉>における語彙の比較検証の考察や、カタ      カナの起源由来もヘブライ文字の形体から相似的に由来していると、その著書は明示している。(1      84年12月初版)          **上の挙げた二人の説は、彼らユダヤ人の<失われた10部族>の行方を追って、その生存史的痕        跡を求めてを起点として、日本の古代史への関心度を最大限に深める想定、あるいは論述を表明               するものとなっている。主眼点は、BC722年、古代アッシリア帝国に国を無状なまでに滅ぼ        された<北イスラエル王国>を成らしめていた<10部族のその後>である。この部族は、伝統        的な古典、聖書的な本流(ユダヤ教的な意味も含め)を創成し得たという主流的立場から視れば、        かっての選民イスラエルにとって、最大限に大いなる定めを招いた<派生の10部族>であった        と云える訳で、<南ユダ王国>のBC586年以来のバビロン捕囚後、強力頑強なユダヤ教、あ        るいはユダヤ主義(シオニズムを含めて)を形成結果するような民族性を有するものではなかっ        たとみることができよう。したがって、他民族との混交同化の強さ、流れがややもすると高かっ        たと云えるわけで、たとえ大きな集団としての民族移動をなしたとしても、確固たる伝承所有の        保持系を欠いた諸種族の連合ゆえにやがては他の諸民族との同化共存となって、本来の民族性の        特徴を失うものとなろうか。ヤーウエ神の一神教からは、はるかにリベラル化していたので、今        のイラン奥地(古メデア)の地から中央アジアを経て、その大いなる民族移動がなされ、その途        上で植民拠点を得たとしても数世紀と経たぬうちにその民族性は、影かたちも無く消え去るとい        うものか。中国古代で、孔子や孟子、老子を輩出するに至る過程や、漢族から漢民族という大き        な民族形成期での初期過程でその精神文化面に大いに<その10部族>が関わりを持っていたと        しても、何一つその痕跡となるようなものが見出されるものではない。したがって、彼ら両者が        主張してやまない<失われた10部族限定>の日本列島への渡来説も、たとえその一部種族と云        えども、その確証を証左し得るもの掴むことはできない。      **さらに上述のごとき二人のユダヤ人よりも、四十数年も前から、つまり昭和の先の大戦以前から        <古代ヘブライ語>と<古代大和言葉>に関係付けられた<日本建国古代史>の黎明なる研究を        していた日本人研究家がいた事はある種の驚きではあるが、(これも明治維新以来、開かれた国        として、外国人の目にその日本文化の様々な様相が大々的に見られる時代になった結果だが、)        次の項目3.で、その川守田氏の独自な説を紹介する。彼の説は戦時中に公表されてはいないが、        終戦直前にはほぼしっかりとした語源的論証で裏打ちされたものとして、その史観的完成をなし        ていたと思われる。彼の米国滞在期間が、日本に居するより長かったと思われるので、彼の研究        成果が先に米国で公表されていたかも知れない。日本では戦時中、終戦までその伝統的な、いわ        ゆる国粋・国学的な<皇国史観・万世一系・八紘一宇>の思想統一で、全国民一色化の状況であ        ったわけだが、そんな状況下で、敗戦をも予想しての、戦後の新たなる<天皇制維持>のための        思想支柱の<秘かなる試みの研究>であったとしたら、それは、まったくもって新しい<ネオ・        皇国史観>を象表、浮き上がらせた、そう名付けられ呼ばれても然るべきだと云える論述・論証        の意図を感じさせる説とならざるを得ない。                  3.) 川守田英二氏による文献考古学的語源分析に基づく<大和・日本建国説>:
     川守田氏個人の信念と言うより、彼の信仰と言った方が妥当であろう、その<ネオ皇国史観>成立へ      の端緒的研究の始まりは、彼自身の出生出身地であった、東北の一民謡「ナギャド・ヤラ」(現在も      盆踊りにて継承)の発見である。問題の著書「日本の中のユダヤ」は、彼の死後30年ほど経た、1      990年8月、ようやく初めての一般公開書籍として初版刊行を見るに至ったものであるが、それ以      前の戦後直後、50年前後、50年代に部分的に相次いで発表され、戦前の皇国史観からのじゅ縛か      ら解放された知識人、日本史学関係者らに強烈な衝撃および影響の批評を誘起するものとなった。      関係団体、学会等に公表された彼の主要な研究論説を含め、膨大な研究論考・草稿から一つのまとま      った書として編纂されたのがその書名の本と云うわけだ。      それでは彼のその著書において、如何にして戦後の<ネオ皇国史観=(再生新皇国史観)>成立をな      し得ているか、その研論的軌跡を追いつつ、その概要をまとめ、考察して見よう。      ①先ず序のところで、二つの事が強調されている。その一つは、研究のきっかけ、その動機付けを述       べつつ、その研究対象として挙げたものについてである。東北地方(岩手、青森両県の境界にまた       がる地域)非常に古くから伝わる民謡(以前からその起源はまったく年代的に確定出来ず、不詳の       ものであった。)ナギャド・ヤラに強い関心を抱いたのが、研究へのそもそものきっかけであった       という。もともと彼の生まれ育ったのが東北のそんな民謡の伝承された地域であったから、しかも       16-18才前後の青年期の初めに、現在の東北学院大学の前身である学舎の神学部での学科で、       聖書のヘブル語テキスト(原典)に触れたことから、その視向端緒の発端へとつながったと思われ       る。それ以来、長年の研究の結果、その民謡以外に、日本の全土に見られるほとんどの民謡の囃子       言葉が古代ヘブル語による<ヘブル詩歌>の存映を示すものとの確証がつかめたとしている。       あわせてそれらの言葉に係わる言語領域で、日本語としてすっかり溶け込んだ用語、単語などが、       そのヘブル語の語源に遡る分析によって、千二百余ほども見つけることができたとしている。       (彼のヘブル語古語の語源分析の才能、才知は、いまだ他の人が分け入った事のない研究領域であ       るので、同じ土俵、研究ベースからの他者による再確証、あるいは批判的指摘の検証がなされてい       ないのが現状のようだ。ちなみにヘブル古語は、年代的にBC586年エルサレム・ユダ(南朝)       のバビロン捕囚以後、以前からのアッシリア・バビロニヤ文明圏のオリエント世界での言語、セム       系アラム語が一般広範化した時代であったから、紀元前4世紀までにかなりアラム語の影響を受け       ている。現在の写本テキストからの旧約聖書のヘブル語原典は、そのバビロン捕囚以後のものから       をその継承起源としている。したがって、川守田氏がそのバビロン捕囚以前、それから遡ること、       約140年前(BC720年前後)のヘブル語を対象としているから、まさに純粋な古語であろう       と思われる。彼は、渡米での大学、研究期間が長いから、米国でその古語研究に権威ある学者に恵       まれ、語源研究の手法、あるいは又、幾多の研究資料から自らの研究の知盤を築き得たのか、その       辺のところはまったく不明、定かならず。)       つぎにいま一つは、その研究成果の結論として、その書の最初から前もって掲示し、強く主張して       いることの要が見られるということである。それは、古代大和国日本の源流的起源には、全国各地       の日本民謡囃子言葉に残映した<ヘブル詩歌>のベブル古語が、紀元前720年代の北王朝イスラ       エルの滅亡時、それによって起因した<失われた10部族>の時代の<ベブル言葉>とその古語の       類性を同じくすると見られたにも拘らず、その<失われし10部族>とは、何ら係わりを持っては       いないとしながら、しかも、その時代の南朝ユダヤのうちに、さらにその上、ダビデの王統系に係       わるものとして、自らの核心的研究課題、その源流起源の論定に確証を得たとする。       これをずばり明言すれば、王国分裂後の後半期、南朝ユダ王国ヒゼキヤ王の代、預言者イザヤを首       班とした王族一派(聖族残存の王家継承グループ)が、イザヤの預言による、<インマヌエル>の       名を賜称せし、その第一王子を擁して、BC712年にユダヤの地を秘かに脱出、中央アジアを越       え、遥かなる東の果て、その東海の島列島(日本)に新天地ありとの事前の報にて、東遷植民した       というものだ。これを聖書のヘブライ古語に基づいて論証したというからまさに驚きである。          ②    ③    ④
    ●拙者の正統的聖書観からの批評:
     川守田氏の説論には、非常に大きな感銘を受くところあり、その論には、ある種の信仰の力強さと美      辞端麗な文章ありにて、大正、昭和中期にわたる俊越にして尋常ならざる人物であったと思われる。      また、終戦直後の時期を経ての事ゆえ、彼の祖国、日本への思いは熱く、日本再生復興、愛国の情溢      れる論述推定の説となったと言える。      彼自身、<学究の良心にかけて、、>と表述してはいるが、かなり超脱した、超主観の所産と成りた      るやと、受けとめざるを得ない。実のところ欧米の純キリスト教の聖書神学の立場から観れば、イザ      ヤ(イザヤ書)に言及するかぎり、まさに珍奇・奇異なる<異端説>と評価されるやと思われる一面      もあるが、ただイザヤおよびイザヤ書には、未だ未解決な諸問題が秘められているので、川守田氏の      ような新説が出される釈義の余地があったと云えようか。      ①・イザヤの預言活動ついて:      イザヤ書と題名された、そのイザヤの見た幻について、そのユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼ      キヤの世にあって、その代それぞれに志向的内容に特質があり、その言葉おいて変容の軌跡が見られ      得るが、ヒゼキヤの時代に至るまでにおける<国の非常時的国難状況>においては、やはり彼の活動      は非常に当時代史的、即応政治・聖道的な指導性のある預言活動を余儀なくされていると見られる。      (第1章~39章までの前半)だが、この難局時、ヒゼキヤ王時代でのアッシリア・セナンケリブに      よる国難が<神の大いなる御手に>より去った後には、イザヤの生涯での晩年時に差しかかるが、そ      の一時での国の平穏傾向ゆえに、そのしばし間のある沈思から、それまでの預言活動、その確かなる      <神からの言葉>を吟味前提とした上で、しかも以前の政治的、国民聖道的な直接活動からは距離を      置いた、<より高次な信仰性と新たな確信的希望>に溢れたスピリチュアルな預言活動の自己世界に      没頭する、まさにこれからが預言の本番とばかりに、その真なる幻(神のビジョンとして)の預言を      展開大成するものと成る。(第40章~最終章:66章まで)      イザヤ自身、30代の若い頃と比べ、60才代へと至る過程でのその精神的な成長が無いとは言えな      い訳で、むしろかの国難時代での緊迫した預言活動の経験を通して、精神的魂の質的な飛躍、即ちよ      り高次な内的な覚醒をなしているのではないかと考えられる。それゆえ預言内容も質的に進化してお      り、言葉の言語上においても、以前の前半部分(1~39章)とは、多少の異なり、ニュアンスの違      いを見せていると云えようか。      彼にとって、もはや、ヒゼキヤ王時代でのその歴史的な<都エルサレム>も、既にサマリアがアッシ      リヤによって滅亡(BC722)したように、来たるべくバビロン(新バビロニア)によって滅びる      (BC586)は、必定となっているから、神自らがその御名を置き給う現時の<エルサレム>が、      滅びようが何しようが、<神の都としての名そのもの>の<啓示のそれ>として、その永遠性をも表      明することが本義であったからして、彼の<エルサレム観>も現実時代的エルサレムがバビロンによ      る滅亡後、再び再興されることを予知したエルサレムを預言しようとも、その再興エルサレム預言そ      のものを介しての神本来の本義としての<神の都>の象表として、<神の永遠の都なるエルサレム>      を指標しているかたちとなっている。つまり、彼にとっては、エルサレムもシオンも、選民としての      ヤコブ、またはイスラエルも、<あなた・彼ら・わたし・彼(メシア)>などの言葉の枠のなかにあ      って、神の預言の大成の為にそれらの言葉が<その象徴的な用法として>用いられているのだ。      さらに<おもて立った活動>の時期と、そうでない<自分が表にでない・伝言叙述活動>の隠れた時      期との間には、預言ステータスの違いが精神的に思質変化しているものとして見られる。つまり、お      もて立った時は、彼自身の<わたし>の主体性の表明が読み取れるが、表だっていない隠れた時期で      は、彼の<わたし(一人称)>は、まったく無くなり、完全に<神なる・主>の<わたし>として、      その預言が表明され、イザヤ彼自身は、完全に<主なる神の口>となっているような精神状況だ。た      まに一部、ある章句で、彼自身の<わたし>が現れているところも見られるが、、、、、、とにかく      イザヤという人物でなければ、彼の存在を除いては、40章以降66章までのすべての文言は、在り      得ないものとなっていたであろうと云える。      ②・年代考証として史実の真相:      古代アッシリアに関する考古学史料はすこぶる豊かで膨大な量となって、古代アッシリア学という学      問的一分野を成して今日に至っているわけで、その地道な研究から<イザヤ書>等、イザヤの活躍し      た時代の前後に関する、旧約聖書に記された歴史上の事柄にも、その言及的裏づけの光をあて、双方      からの考究が可能となった。      アッシリアからのクレータブレット(粘土板文書)や六角柱碑文(セナンケリブ王のもの)などに拠      ると、その当時の北方シリアから南へのパレスチナ(フェニキア、シリア、ユダヤなど全地域)、エ      ジプト方面への進出、制覇にあっては、アッシリア王ティグラテ・ピレセルからシャルマネセル王へ      と継続される段階で、その軍隊組織は、大きな膨張をなし、各分遺隊を総計すれば、20万とも30      万とも、それ以上ともなっていたとも見られ、そのシャルマネセルの侵出時には、次期王位を目論む      人物(後にサルゴンの尊称を王名とする)を右腕配下にし、さらにその息子セナンケリブさえも、軍      中枢幕僚の将軍指揮官の一人としてその任に充っていたことが知られる。南朝イスラエルの首都サマ      リア包囲・陥落(BC722年)に至る時勢過程も、またその頃、同時併行的にフェニキアの海岸都市ツロ      も包囲の体勢に入ったことも知られうる。サマリアが、その王ホセアの第7年(BC724年)に包囲され      る、その前過程で、ホセア王は、シャルマネセルが海沿いの西方にやって来た段階で、貢ぎを献上し、      従属の意を示したが、3、4年のうちに反意したため、一戦を交えなければならなくなる。彼の領地      なる<ガリラヤのアルベラ>で、その受け立った防衛会戦に敗北を帰し、捕らえられ、獄屋に留め置      かれた。国中が侵略され、遂にサマリア3年間包囲への状勢を余儀なくしたという、列王紀下(Ⅱ)      第17章3節~6節の記事との、アッシリア側考古史料との一致を見ることができる。      北朝の都サマリアの陥落(BC722年)の月前後に、後にサルゴンの称を名のる人物に王位が移譲      されたことを伺いうるような史料も認められるが、このサルゴンなる人物は、シャルマネセル王の外      戚王族として、彼を後押ししていたとも推定され、軍事・戦略にはすこぶる長けた実力者だったと思      われる。シャルマネセルは、この外征で病か、戦傷かで、全権統帥の権がとれなくなり、やむなくサ      ルゴンがその権を代理継承したと思われるが、その軍全体は、この時点で<王位の継承>なりやと判      断したということであろう。720年以降、エジプトとペリシテ人のガザ(海沿いの国)との連合軍      との一戦にも勝利し、その他、715年にかけて、各方面に進出していることが知られうる。      旧約聖書・イザヤ書第20章1-3節では、南朝ユダの領地に隣接したペリシテ人のアシドドにその      配下の最高司令官を危急派遣せしめ、この都城を占取したことが記されているが、この戦事もアッシ      リア側の史料による年代考証では<BC711年>の事であったとの確証断定がなされ得たという。      そうなると上記イザヤ書のその文言にある如く、この(BC711年)時の前後、イザヤは、エルサ      レムで3年間、<裸、はだし>で歩き、預言の証しとして、つまり、エジプト、エチオピアが征討さ      れる”しるし、前ぶれ”のデモ行為となったものとしてその事を記している。もし、これが711年      からの3年間ならば、<709年>まで、イザヤはエルサレムで健在であった事になる。      このアシドド来攻の最高司令官が、実はサルゴンの子、セナンケリブだったかも知れない可能性もあ      るが、明確に断定することもできない。      南朝ユダのこの時期(724-722年)は、ヒゼキヤ王の第4年から6年にあたるが、国・王の立      場としては、アッシリアへの従属・朝貢の関係を継続していた。これは、前王アハズの立場を歩襲す      るものであった。(列王下16:5-10)ところが、720年以降、数年にして、ヒゼキヤ王は、      隷属の破棄、反意してエジプトへの友好同盟を示す動きをなし始めた。      列王記下(Ⅱ)18章13節以下、サルゴンの子、セナンケリブが、南朝ユダに進軍、攻め込んでき      たのは、ヒゼキヤ王の第14年と記している。これは、明確にBC714年にあたる。セナンケリブ      は、この時、アッシリア王として、まえ出しされた、王格で記されているが、この時点では、実際に      いまだ<王子・継太子)であった。イザヤ書36章1節でも、同様に<アッシリアの王セナンケリブ      >となっているが、これは何らかの事情によるというよりか、意図的な文書記録の仕方、あり方に基      づいてのことと思われる。つまり、アッシリアのセナンケリブの来寇は、714年からはじまって、      エルサレムの包囲・征服への挫折・断念に至るまでには、十数年を要したものとして、アッシリア側      の史料(セナンケリブの六角柱碑文など)から裏付けられ、セナンケリブ王が、ユダから撤退したの      は、<BC701年>と算定検証されると見なされていのだ。(セナンケリブは、父王サルゴンが7      05年に暗殺された、丁度その年に王位を継承しているが、)      したがってこの旧約聖書の各文書は、その十数年の出来事をBC714年に結集圧縮するかたちで、      ひとつ一連に物語るかたちの史実としてまとめ上げたものだと理解すべきだ。      実の処、アッシリア軍の戦法は、平地・平野での<2頭馬戦車、騎兵>を駆使する会戦であろう。と      ころがユダの領地は、海岸よりの平野部よりも、地理的には起伏の多い丘陵地帯、谷盆地、山地など      であるから、アッシリアの軍体勢では不利不向きとなる。ユダの堅固な町々すべてを陥すには、とて      も1年や2年では果たせるものではない。おそらく<ラキシ>を包囲攻略に至るまでに数年を要した      であろうか。それから、ラキシを取るまでにまた数ヶ月、あるいは1年あまりも掛かったかも知れな      い。そして、最後は本命の首都・エルサレムとなっていたが、この首都こそは、かって北朝イスラエ      ルとシリア・ダマスコの同盟軍が攻め上がったが、攻略不可能に終わった、当代随一の城砦都市でも      あったのだ。そんな状況事情があってのことだから、それらをうまくまとめるには、、、      列王記下の記事、18章13節以下、19章及び20章のヒゼキヤの病気、その回復の事、バビロン      からの使節団など、すべてが、かの714年近辺にまとめ、結び付けられるような記述形体になるに      至っているのだ。アッシリア側の考古史料では、かなり年数に巾をもたせた表記を示したものとして      考証、知られている。、、だが、この時代事象に関して、もう一つ別の見方もできる。      714年にセナンケリブが南朝ユダに来寇したが、その年、2、3の町が取られたという時点で、ヒ      ゼキヤは、再び従順の意を示した。だが、その直後、712、か3年に、バビロンの使節の来朝を受      ける機会に接したのだが、バビロン側の真のねらいは、病気回復見舞いではなく、反アッシリア同盟      を模索するため、あるいは又、シリア、ユダヤ、海沿いの国々への叛意を促すためのものだと、アッ      シリア側は見て取り判断し、711年、エジプト、ユダを念頭にした、軍略的要所の地アシドドに急      きょ、軍の最高司令官をもって、その大いなる大隊を先遣しその征圧の役たらしめたのだ。(前述し      たイザヤの20章)翌710年には、時同じくしてバビロンが、アッシリアの別軍によって占拠され      たとのアッシリア側史料は記している。      このアシドドの数年後、再び今度は、本格的にエルサレム以外のユダ全土の町々すべての征圧に乗り      出した。そして、ラキシから最後の目標、エルサレム攻略を目前にして、と云う事で、断念・撤退を      余儀なくされた、かのBC701年に至ったという見方である。          当時の歴史をきちっと、このように捉えると、エルサレム在住のイザヤ及びその王族一派が、ユダ・      シオンの聖都エルサレムを離脱するようなことは到底あり得ないことだといえる。まとめてひとつ一      連に記した各書(イザヤ書、列王記下)には、そのセナンケリブの来寇から終焉まで、現にイザヤが      しっかりとそれらに係わっていたことが記されている。        ③・ヒゼイヤ王の不可解さの裏に隠されている聖書記述の真相(列王紀下、歴代志下):      ヒゼキヤ王に関する事柄を見る前に、南北両王国の前王についての年次的くい違いとも判断されうる      記述を取り上げて、本命のヒゼキヤ問題の予備知識としておこう。      ④・批評結語:      日本の古代建国の礎底的ミステリーある種のひかりを照てる感じではあるが、聖書・イザヤ書などに      見られるイザヤファミリーとその王族一派を想定し、これを記・紀神話への部分的関係付けを巧みに      やってのけ、神武天皇建国初元の礎とすることには、あまりにも超脱・飛躍し過ぎた考想の説論とな      り得たものだろう。      古代大和詩歌が、ヘブル語の語源分析をもってその意味を捉えることができから、大和へブル詩歌が      日本古代の思想底流にあったとする考えにも幾分かの疑念が残る。けだし、一連の東北民謡<ナギャ      ド・ヤラ>から始って、日本全国にわたる民謡の囃子言葉を網羅するかたちでの掘り起こし検証に依      る<ヘブル詩歌>の解出定立、そして、大和言葉および、日本語の形成の核心とその動向付けにヘブ      ル語が、アルタイ語系の言葉との関係において、大いに貢献したとの考究、そして、後の中国漢字移      入に際して事前の受け入れ準備、それが日本語フィールドの受容体制に有益に働き、音読み、訓読み      の幅広い日本語体制となりえる切っ掛けの端緒を教示されている、容易ならざる一面など、故川守田      氏の学究的業績には賛嘆、賛辞の礼を表示したい思いであろうが、しかし、      彼が、<失われたユダヤ10部族>とは無関係だという視点に立つことなく、イザヤ一族に捉われ限      定することなく、かのイザヤ時代、BC722年北朝イスラエル(10支族)の滅亡前後の<南朝ユ      ダと北朝イスラエル>の全体を捉えて、その考察論求をなし得ていたならば、それは最も妥当な日本      古代史の祖形的本流を解き明かしてくれたことになろうか。北朝も南朝もその領土的に<エルサレム      の残存者>を除いては、アッシリヤの侵出征服時には、共に捕囚の惨禍にさらされ、それ故にそれら      支族、10&2の12支の出の者らは、一つ共同共通体験の意識の下に生き、以前の12支族という      古いしがらみを捨て、再出発にふさわしい、一つの新しい民族共同体としての結集を呼び掛け合い、      その何らかの未来への目論みを秘め、且つ、目指しての生存・存続の運命を切り開いていったことに      なろうかと黙視できるからだ。  
●●大和王朝成立諸説:
  1.) 東大教授の<東アジア民族文化学者>江上波夫氏の『騎馬民族国家』:
    1948年5月4-6日に行われた<日本民族の起源シンポジウム>にて【騎馬民族征服王朝説】が     はじめて公表された。その説に対して専門の<日本古代史家>の幾多の方々が反論・批評がその後、     20数年にわたってなされた。江上氏もその反論批評にたいして応えるべく、新たなる修正見識項目            をもって1980年代、改めてご自分の学説をその著において擁護提唱された。     中国大陸は、北東アジア胡族:扶余系騎馬民族が高句麗系民をも併用して九州統一倭国・ミマ キイリ            ヒコ崇神天皇(4世紀初~中葉の九州ヤマト) → ホムダワケ応神天皇の東征(4世紀末 ~5世紀     初頭)畿内大和朝廷による統一王国の成立(江上氏自論の外来騎馬民族征服王朝説)     **この説では崇神帝以降の<垂仁、景行、成務、仲哀、神功の5代の天皇らに係わる>記・       紀での記事内容などは否定、考慮されないものとなっている。つまり、まったくの記・紀       神話上での創作人物か、それとも応神天皇へと至るまで九州王朝時代に継位されてきた、       ある特定の史実の5代の帝位があって、それらの代を想定したものとして、記紀編纂時に       その場所・畿内大和に移し変えられ、その記述が成されたと見たのであろうと思われる。   2.) 水野祐氏らの批判的<ネオ騎馬民族征服説>:
    これは、邪馬台国卑弥呼を九州として、その九州にある一国の奴国が他のクニグニと併行して形成さ     れるものとなり、やがてその奴国の一部が南九州日向方面に移り、狗奴国となり、卑弥呼・女王国と     その従属親和のクニグニを倒して、ほぼ九州一円を治めるものとなる。(記紀では崇神、垂仁、景行     天皇の頃か。)その後、景行か応神天皇の代辺りか、4世紀中ごろ以降に、今ではまったく歴史に記     され得ない、畿内の幻の原ヤマト王朝(既存の前大和段階的な豪族王朝)との覇権抗争にて、これを     征討すべく、東遷制覇への移動をなしたとし、仁徳天皇の時代(5世紀始め頃)には、古き奈良から     都を難波(大阪)に遷都する。そういった歴史的推察での九州から畿内での、(半島外来民族を直近     的に色濃くするものではなくて)<征服王朝交替説>としての<大和統一王朝>を考究し、その学説             を呈示している。     **この考説も記紀と相容れないところ大々的に甚だしいが、具体的に云えば、<神功皇后の       韓国(高句麗の南征の故での百済、新羅方面)への外征>の記事など、相反するものとな       っている。   3.) 朝鮮、韓国側の史学者による論説:
    ① キムソクキョン(金錫淳→キョンに当る漢字見当たらず)の説:三韓三国からの日本国内分国説       (1960年前半に紹介され、69年日本語訳公刊となる【古代朝日関係史-大和政権と任那-】       これは三韓(馬韓、辰韓、弁韓)時代から三国(高句麗、新羅、百済{および伽羅}時代のあいだ              に半島から新天地の倭人諸島(=日本列島)をめざして幾多の人々が、自由に渡海移住し、そこ       に小集村落群からなる小国家を形成し、それらのクニグニを最終的に取りまとめ、支配的に統一       したのが、大王的存在となった、<天孫降臨>の神話思想をもあわせて包摂考出した、いわゆる       <天皇族>系の人種だと、結論付けるものである。     ②      **いずれも記紀の<神武天皇>の東遷およびその歴史的人物の実在性を認めるもの       ではなかった。いわゆる神話上での架空人物ではあるが、史実としての本物が、       神話に取り込まれたものとなったとする。     **先の大戦の終戦後、戦前からの<万世一系の皇国史観>が崩れ去ってゆくさなか、新たな       日本の古代史に係わる、日本史観の再建が求められるものとなり、江上氏ら、学会有識者       たちによって、古代史の再考が始められるものとなった。それで50年代、60年代と、       国内古代史に係わる考古学、発掘調査による研究、資料の集積比較分析も盛んになされる       ようになった。新聞、その他のマスコミなどにも公表されるようになり、特定の知識人だ       けでなく、一般国民大衆にまでその関心度が広まり、次第に<古代史ブーム>を巻き起こ       すものとなる。1972年3月は下旬、奈良の明日香村の<高松塚>と名づけられた古墳       が発見、発掘されたり、80年代末だったか、奈良での<シルクロード展>の大々的イベ       ントが催されたり、また、九州での<吉野ヶ里>遺跡の発見発掘などにより、古代史ブー       ムは、<邪馬台国・卑弥呼>問題を中心に一代センセーショナルな傾向となった。   4.) 古田武彦氏の<北九州王朝説>による見解:
    古田氏は、その最初の著書「”邪馬台国”はなかった」の表題で推察できるように、その視点的出発            点が、その当時の<邪馬台国論争>ブームの中で、他に例の無い、斬新な<日本古代史>の史観を論            証披瀝せんとする試みのものであった。彼の中国および半島(朝鮮)の数多の古史書類からの<文献     検証・考古学的比較>による論述、論証は、計り知れない成果の現われとなり、その史観的価値の業     績は、他者未踏の非常に有益な足跡のものとなった。それでは彼の「邪馬台国はなかった」の論証か     ら<北九州王朝説>が導き出された経緯について、その決定的な<誤解釈>を<魏志倭人伝>の解読     からあぶりだしてみよう。
(魏志倭人伝= wèi zhì wō rén zhuàn ←現代中国語発音x古代音でない)     ① 女王国の<邪馬壹国>という名称において:       三国志の著者、陳寿は、どんなふうに倭の国々の名称を得ていたか、諸史料の見聞か、官吏       など人的伝承によるものなのか、その入手のいきさつを確かめるようなことはではないが、       もし彼がその国名を<やまイチ>国と聞いていたならば、この<イチ>に対する音写のあて       字として、<一>や<壹>を用いることは出来ないはずだ。何故ならば中国式での<一>、       <壹>は、<い>としか読まれ発音されない。それはあくまでも<日本語式の訓よみ>の<       イチ>であって、古代中国側・魏ではまったく通用しないものだ。中国の<一>、<壹>は、         <い>と発音されるから、この部分だけ<意味訳>でと云う事はあり得ないはずだ。だから、       古田氏の<ヤマイ国>または<ヤマイチ国>という最初の定義設定は、その研究検証への最       初の<疑問出発点>で、その誤謬に嵌っていると云えようか。、、、また、反対に       陳寿が<ヤマトゥ国>と聞き認知したなら、その読みの音写文字として、その<トゥ>には       当時一般に通用化していたと思われる<壹>の字を、つまり、いわゆる食物のマメにあたる       <豆>の字を当てる代わりに、それの上飾的文字の形になるものとして、それの<壹>を充       てがい、体裁良く記したと、推定され得るのではないか。そもそもの誤謬の始まりは、江戸       時代の国学者<本居宣長>が、後漢書東夷伝での文言中で、<邪馬臺(台)国>(ヤマタイ国)       なる表示を見出し、それで検証されたとして、<魏志の倭人伝のそれ>は、誤りに違いない       とし、<邪馬壹国(ヤマトゥこく)>から<邪馬臺(台)国(ヤマタイこく)>に修正した事       から、、つまり<壹>は<イチ(イ)>としか読めないから、これは<臺(台)タイ(ト) >の       間違いだとして正し、それ以後、<ヤマタイ国>という名称が一般化、現在にまで定着して       しまうという結果となったのだ。        また、古田氏の検証論に対して、正反対の推理をすれば逆のことが成立する。つまり、本       当は<ヤマタイ国>であったが、倭人伝著者・陳寿は、政治思想上、魏国の中央政所の王帝       に付して用いられる<臺(台)=タイ(ダイ)>の字を野卑なる<東夷の国々>に用いるのを       嫌って(避けるべきを義として)、あえて良く似た<壹>(ト)の字を充てがった。それで       倭国側(日本)も、なんらその漢字を気にすることなく、<ヤマト>一辺倒としてその3世       紀以降、近代までその称が継承されてきたのだと考えられることになろうか。       したがって、もう一度、結論を繰り返して言おう、、       この<壹>の字は魏国式、倭国式の相交互関係において、それぞれ”タイ”とも”イチ”あ       るいは”イ”とも読めないし、また、元々タイという字<臺>の記述上での間違いでもない       ことが確かだから、魏志倭人伝の記述どうり、そのまま<邪馬壹国(ヤマトこく)>で正し       いのだと云う事になる。     ② 女王国(邪馬壹国)の里程的位置について:       古田氏が女王国を北九州・福岡市辺りとしている根拠の誤解釈は、以下の如くだ。       先に出てくる「南、邪馬壹国に至る、、、、~水行十日陸行一月」の文言で、その行程日を、       後出の「郡より女王国に至ること萬二千余里」の文言、つまり、半島の帯方郡からの全行程       里、<一万二千余里にそっくりそのまま該当するもの>として解釈していることにある。       [古田氏]の北九州説の方位里程:          7000里余  1000里余  1000里余  1000里余  500里   100里   0里にて      帯方郡 → 狗邪韓国 → 対馬国 → 一大国 → 末盧国 → 伊都国 → 不弥国⇒邪馬壹国                                     100里↓   100里↓                                       奴国    投馬国      イ)その論拠は、半島の郡から大海を渡り、倭国の<伊都国、不弥国>までの里数合計が自ず        と1万600余里となるからして、その差し引きの余り(1千四百里)は、対馬国(方4            00里)、一大国(方300里)のそれぞれを半周する<陸行>をなすという事で以て、        その800里+600里=1千400里を充てると、なんとその全行程の1万2千余里に        ぴたり一致すると見るわけだ。(船ではそんな半周航行するのは無駄かと思われる。)        だが、この読み解釈は、大変無理、不適切なもののようだ。何故ならば、伝の<対馬国>        の説明文言にある如く、「山険しく、深山多く、道路は禽鹿の径の如し」とあり、また、        島民さえも「船に乗りて、南北に市でき(物々交行来)する。」と記している位だから、        郡使らがそんな難儀で無謀な陸行をすることなどあり得ない事だと見なし得るから、この        里程解釈は不当、正解とは云えない。      ロ)郡から水行して、七千余里が「その北岸狗邪韓国に至る」こととあるが、その里程解釈に        も、これ又、<陸行>ありやとみなし、下船陸行きを加えていることだ。これは勝手に有        りもしない(文言表記されていない)ことを加えての誤解釈の読みとなるものだ。もし、        <陸行>するを通の事と判っていれば、表記されてしかるべきだ。        「水行し、韓国の海岸を暦して」さらに水行を続け、半島の最南端を回り込んで、まさに        北上するが如くに、また入りくんだ島々的リアス海岸沿いを「あるいは南、あるいは東」        と船先を向けて、先の半島の最南端に対して、海岸沿いにそって北方端、<狗邪韓国>に        行き着くという事であろう。地球の傾き(の軸による)の地理的な状況から見ても、かな        り北方よりに水行する感じとなるかも。それ故、この場合も水行のみで<七千余里>と、        読むのが正解だと思われる。また、郡使などがわざわざ陸行で他国(たとえ従属国であろ        うと)の馬韓、弁韓、辰韓など、諸多数国を通り抜けること事態、政務上何かと時間と浪        費がかさみ、色々面倒この上ない事になり兼ねないというものでしょう。      ハ)倭人伝の文言記述的構成の流れから見ても、<水行十日陸行一月>を後述の「郡より女王        国に至ること萬二千余里」の中に含めることは、文言の流れからして、不合理、不適切で        ありえない事だ。その流れを見ると、先ず、        「東行不弥国に至る百里、、、云々」と伊都国、奴国の後に続いて、その列記がなされ、        この<不弥国>のあと、引き続いて「南至投馬国水行二十日、、、云々」そして、この後        「南至邪馬壹国 女王之所都 <水行十日陸行一月>、、、、云々」で、その経路的里程        の列記が一通りまとめられたかたちで文言が締められている。これらの表記は<道里、日        程>が良く判明している限りのものである。したがって、                「南 投馬国に至る水行二十日」 と 「南 邪馬壹国に至る、、、水行十日陸行一月」        の二文言は、並列対等的に併記されて、関連付けられた文言であり、その一連の列記文言        から、女王国・邪馬壹国だけを、或いは投馬国をも含めその二国を<半島の帯方郡を起点        とした里程の日程>として、取り上げ解釈することは、文言構成の要旨から逸脱すること        になる。ここでの文言内容は、あくまでも倭国領域内での個々の国邑の位置づけ表記のも        の、文言の筋内容の主旨に反した、とっぴな解釈は間違いと云わざるを得ない。      **さらに続くもう一つのまとまりの文言の締めくくりに、例の問題とする<「郡より女王国        に至るは 萬二千余里」>の文言があるわけだが、この場合の正しい読みは、              <女王国> 即 まったくのイコール <邪馬壹国>と見なしうる面と、もう一つの面で                女王国に統属、従属した国々を含めた意味での<女王国>というニュアンスの二重的な側        面を持っているのだ。(倭人の国全体を一般的に指して云う場合、倭国と云うのと同じよ        うなふうにである。倭国即ち、<倭の女王>との記述も倭人伝には見られる。)                つまり、<女王国>の概念的表記は、先の文言の前出にある如く、<伊都国>の箇所で、        「皆女王国に統属す、、、云々」 そして <奴国>をも含め、少なくとも、後出に列記        された21ヶ国を従属内包したところの、いわゆるグローバルな意味合いでの<女王国>        の様を意図表示し、そして、女王・卑弥呼は、その国々の一つである<邪馬壹国>に常時        在住、都していたという事実側面をも示すものだ。              ③ さらに伝の文言によれば、「女王国より以北、その戸数、道程は略載すべくも、云々、」と       続く個所の後に、その<以北>にあるとされた国邑(クニ村邑)21の国名を列記したるを       見るが、少なくともこの21ヶ国は、女王国より<北地域>に面する側にあると認められた       ものであり、その列記文の後「これ女王の境界の盡(尽)くる所なり。」で、そのすぐ前出       の<奴国>もその列記されたものの最南にあって、女王国に統属するものとして、その境界       の一つともなると読むべきで、倭人伝の始めの里程で記された<奴国>でもあるとの解釈と       なろうか。(この<以北>の領域は、南に向かっての<水行十日陸行一月>行程での通過域          の間中領域を指すもので、<奴国>以外の国名明記の20ヶ国は、恐らく千余戸前後~せい       ぜい2、3千余戸ほどの規模の国邑として、その所々に点在していたと推測されうる。)       そして、また       この九州女王国の東にも、国ありの文言が、倭人伝の後半、終わりの方の文中に見られる。              「女王国の東、海を渡ること千余里、また国有り、皆倭種なり。、、、、」 この文言の国       は、いわゆる今の四国、瀬戸内中国地方に有るとするもので、それには先出に記された女王       国の南にその領界を有した<狗奴国>を取り上げ比定することは誤読の域を出ないものだ。       この<狗奴国>こそが女王国との宿命のライバルとして、東に移動したと思われる<天皇系       の種族>、あるいはその<親密母体>であったのかも知れないのだ。けだし、その原郷の出       自は、半島の<狗邪韓国、或いは新羅系の前母体種族(斯盧シロまたは斯羅シラ国)で、代々天       孫口伝意識の強い種族>等にあると見なすべきであろう。しかも高句麗系など古朝鮮古来の       <檀君神話>の流れとは、別系統の部族的伝説を<我々意識の倭>として守り継承してきた       種族集団であった。(檀君神話も<桓因>とその子・桓雄から始まる説話だから、中国古代       系のものから継変派生して古代から伝えられていたと思われる。それが13世紀末になって、       初めて『三国遺事』に記事としてお目見えする。)       また、<伊都国>から東行すること百里の<不弥国>は、倭国の中でも女王には統属せず、       中立同和の立場で、親<狗奴国>派であったと推定される。<古事記>での神武天皇の項で       の記述箇所で、<日向から出て、最初の経由地>であったということから見て。(現在の大       分の宇佐市から北九州市の遠賀川河口あたりがそれに相当する。しかし、これは、卑弥呼→       壹与の時代=弥生時代末期での<神武東遷>を仮定しての事だが、記・紀が、本来前提とし       た縄文時代後期末(BC600年乃至660年頃)と紀年設定したとする説とは年代的に大       きな差異をなしている。)     以上の諸論言によって、古田氏の北九州王朝説(福岡市)の呈示は、大変な誤謬の見解、論証の     ものとなろうか。     そして、同氏は、この<北九州王朝説>に基づき、日本古代史の新しい歴史の再考、構述をその     幾多の著書で展開してゆく事となる。その3世紀後半以降の朝鮮半島(新羅、百済)への征圧、     任那府設置(記・紀では、仲哀天皇、神功皇后で、朝鮮の三国史記では倭王だが)また、4世紀     末、5世紀の前後の<高句麗・好太王(その碑文に依る)>の南下に対する、新羅百済との共同     の攻防戦(記紀では応神天皇の代に充てる説ありだが)、その時代の中国側の史書(宋書など)     に見える<倭の5王>比定問題、その時代の献上物<七支刀>とその係わりの記紀の問題等々、     氏は、半島朝鮮及び中国史書のすべてを網羅するが如く、検証し、<北九州王朝説>を完全前提     として、それとの畿内大和王権(記紀)との関わりの歴史的真相、位置づけ、その真実を暴くが     如くに論述されている。712年の「古事記」成立に関する照察、さらに720年に至ってのそ     の編纂完了をなした「日本書紀」成立に関する入念な史学的省察、それらすべては、同氏の著書     に遺憾なく表示されている。その概略的大筋の結論としては、以下の如くが彼の史論となる。          ① 女王国といわれる<邪馬壹国>は<邪馬台国>でも<ヤマト国>でもなく、<邪馬一国>と            いう名称の国で、それは今の北九州(福岡市)に位置していた。そして、<古代日本・倭国       を代表した<九州王朝>を形成し、半島(朝鮮)および中国との外交的係わりはすべて、こ       の九州王朝がなしていた。この国際状況は<白村江の戦い>で倭国(日本)と百済連合軍が       唐と新羅の連合軍に大敗を帰した(663年)時まで続き、それ以降、急速な九州王朝の終       焉とともに畿内大和政権に取って替えられていった。(倭国→日本王朝交替説: けだし、       その7世紀中葉には、すでに北九州に勢力拠点を得ており、春日の<大宰府>などもその前       身前衛の畿内大和の<筑紫の国の造>の居所であり、また660年代には<斎明天皇やその       継嗣天智天皇の拠り所としての<朝倉の宮>もその居としてあったからして、7世紀初めに       はその政治的主導権が畿内大和朝廷に握られていたと見たほうが正しいかも。つまり筑紫の       九州王朝は大陸、半島の国々との外交面で、畿内大和に操られ政策をなしていたとも、海外       向けの<顔>としての<九州王朝・倭国>にすぎなかったとも見られようか。)     ② 畿内大和(天皇家系)勢力は、<九州王朝>の非傍系の一侯族のもので、その九州王権に従       属するものであった。だが、660年代以降、九州王権に取って代わり、その王権の全てを       継承するものとなる。したがって、記・紀の成立も<九州王朝の伝承内容>をその多分な史       料要素として取り込み、宮廷国家政治のシンボル的史書として編纂されたものだと、古田氏       は分析している。          ---------------------------------------------   5.) 魏志倭人伝【私論追記】:(魏志倭人伝= wèi zhì wō rén zhuàn ←現代中国語発音x古代音でない)
    [南九州説の九州本土からの方位里程]:<里程は国境から国の都心地までの距離といったような                       概略な思測里程のようだ。>                      (魏志の時代の<里の単位>は、今のメートルでは75~                       90メートル前後で、これに基づくとされる。中国古代                       では、時代によって、これ以外に<長里>のものが使用                       され、国々が異なっていたと見てよい。                       魏の長里は、434m、歩は1.45mほどで、三国志は、これに                       拠るものかとも見られるが、)     末盧国→東南陸行至る<伊都国>五百里⇒東行至る<不弥国>百里:(宇佐、日田方面、大分内の)                ↓                           東南至る<奴国>百里:(熊本、八代地域)                                                  《伊都国》の地域:筑後地域(小城市、佐賀市、久留米・鳥栖、大牟田辺りを境とし                  た範囲)、これは、まったくもって、定説(筑前・糸島半島前よ                  りの平野)の前原の平原、三雲遺跡群などを比定した伊都国では                  ないとは、異なことだと言われよう。                  この新伊都国は、小城辺りに関所を設け備えた迎賓用邸閣を構え、                  さらに奥座敷として、<吉野ヶ里の遺跡>の如き、周壕邑を国の                  都となしていた。(朝鮮半島の諸国、また郡使などは、この奥座                  敷まで在留という事であった。女王・卑弥呼の都する都邑に関し                  ての記述は、この伊都国の都邑を視し想定しての、更なる倭人側                  から聞き入れられた情報を加味してのものとなった。)                 ★だがここでの伊都国は、新に国替えした、新国邑の伊都国なのだ。                  先の糸島平野の<旧伊都国>は、卑弥呼共立の前、その大乱の際                  (~200年頃近くまでの間の)、戦の惨禍でダメになり、諸国申し                  合わせ協約により、一女子(卑弥呼)共立以降、<邪馬壹国>直属                  の国邑としての、<新伊都国>に留まったのだ。古代での戦・大                  乱時後など、協約により、国遷都、よくあるケースと思われる。                 ★考古的第一級の文書、遺物が出てない以上、仮説といえば仮説だ                  が、かすかな間接的証拠となるとしたら、糸島の<平原遺跡・一                  号墓の副葬品の40面ほどの鏡の埋装状態である。これらの鏡が                  2面を除いて全て破砕状態で埋添され、まさに異常な埋葬状況を                  呈していたと言う。                  (この墓は埋葬品から判断して女性、有力な女王のものとされ、                  鏡も異例で、46.5cmという超大型の鏡が4面も出ている。日本                  最大のものとも。)                 ★この墓が一女子(卑弥呼)共立前後のもので、<旧伊都国>に属す                  るとする見方も、拙著の私論仮説だが、この仮説が真に正しいと                  しての立場からみると、以前からある定説が、その<邪馬台国問                  題>その論争の長い歴史において、伊都国の定位置(糸島地方)が                  不動のものとして認められていたからである。江戸時代の新井白                  石(1716年)から現代まで、その間の糸島地方、博多湾岸等での考                  古学発掘(1781~8、1822、1899年、そして当の平原:1965年~)                  考証での展開で、魏志倭人伝での<伊都国>は、既存既知の、卑                  弥呼以前、以後の位置相違無きものとして、常識認知されていた                  から、他の地域へ目を向けるようなことは在り得なかった。それ                  ゆえ、明治大正昭和と都市化が進むが、それ以前に<新伊都国>                  に属するような遺跡も地中深く埋没してしまって、その形跡すら                  無いという事になる。                 *それでも超びっくりの<吉野ヶ里遺跡>が1986年(昭61年)に出て                  きたということだから驚きだ。発見の端緒は、1980年代になって                  佐賀県が吉野ヶ里丘陵南部への工場団地の開発計画のため、その                  地域の文化財保護発掘の事前調査(1982昭57)を行ったことによる                  ものだった。                               *各国邑の都は、これを取り囲むようにして、その諸産物などの収穫地域を領有して成り         立っていたわけで、特に<伊都国>は、主要的な国柄であったにも拘わらず、奴国など         他と比べて、異例なほどその戸数が低かった(千余戸⇔大乱、遷都により減少とも)。         つまり戸数に対して、所領域が広かったという事で、多少の余剰遊閑地があろうとも、         国益の豊かさは上位トップクラスであったろうと思われる。(労力人足の不足なども、         他邑から安くまかなう、出稼ぎ人らを使役出来たであろう。)      **末盧国の津(現在の唐津港)からの古代道(今の唐津街道=国道203号線)は、倭国        第一位の主要幹線道路であったであろう。そしてこの道は、さらに東に続き、<東行して百        里の不弥国>、現在の”吉野ヶ里”遺跡を中心としたその国邑へと至りうる古代道だったろ        うか。けだし、この<不弥国>は、倭国女王・卑弥呼の後期には、<伊都国>の領域膨張に        より、日田、宇佐方面へと遷邑遷都し、その時代的趨勢の勢いを存続させていったと思われ        る。現在の佐賀市に隣接した近郊に<多久の別府(べふ)>とか<多久の納所(のうそ)>とか        いう古い地名が残っている。また、有明の海の津(九州倭国内の主要な港)として、その地        名が残っていると思われる<牛津>の地名も想定されうる。この筑後佐賀平野は、弥生時代        の後半期には九州全域のうちで、最も豊かな稲作田園地帯ともなっていたと思われる。                  **筑前・博多湾方面はその頃、それほど開けた地域でなく、小中規模の村邑がぽつりぽつりの        状態であった。むしろ遠賀川地域の方が、先進的に先に開けていたが、卑弥呼初期の頃まで        は、有力な氏族の移動欠如により、その発展は見られず、低下傾向に至った。中間的な博多        湾岸のこの地域は、畿内大和の九州進出の頃から重要な要所となってゆく。その初めは<景        行帝>からとみられるが、やはり大和王権の政略的発展を重視すれば<神功皇后時代前後か        ら応神天皇以降>であろうか。これ以前の<景行帝、ヤマトタケルの西討>の代に関しては何故か        創作譚的で、かなりあやしい説話であろうと見られる向きもあるが。        (大宰府の設立は、さらに後の事だ。おそらく記・紀では継体天皇の時代<筑紫の君・岩井        の乱の征伐後を経てからその前身政庁府が有力となっていった。このとき以後、畿内大和の        九州への進出は、飛躍的な展開となろうか。その鎮圧年代は定説では、528年、他説では        531年とのこと。また        畿内大和王朝の<日本列島>での拡大統一国家への樹立制覇へのビジョンは、その4世紀末        頃には明確な意図と手法を意識したものとなり、その精神的な史記的伝承分野での日本列島        の領域掌握の理念、いわゆる机上での神話的国取りの理念は、その初期には史部による<口        伝伝承>のかたちで形成、継承され、それがやがて文書化(古事、旧事の古書)され、最終        的には712年の<古事記>、720年の<日本書紀>という、磐石比類なき諸書となるに        至った。古事記に関しては、古事記自体の中から、その文書記述内容上の間違い、矛盾、誤        謬等を調べ尽くしても、まったく見出せないほど精緻にして、非の打ち所の無いほど正確に        編纂されているといえる。史実云々の面からは、いわゆる外側的裏付けの歴史学の立場から        は、史実性や年代錯誤など、<神話と史実の間>で、様々な批判、論評が噴出するものとな        る。)                                               伊都国から→南、至る<投馬国>水行二十日:(霧島山岳地帯を二分した西部および南部                               鹿児島地方西南部)         伊都国から→南、至る<邪馬壹国>水行十日陸行一月:(宮崎県の延岡、日向、西都から                                   熊本方面の山地地域)                  《狗奴国の位置》: これは、<女王国の南>と読み得る文言があるから、、                    (残念ながらこの国の里数、日程の表記の文言は見られない。)                   霧島地方から宮崎地方南西部を北限とした東部地区から東南部                   鹿児島湾地域一帯を領有し、今の<都城市>辺り、あるいは                   東海岸の<宮崎市>至る辺りまでを境としていたかも知れない。                      *九州島倭人国で初発に名が挙がっている<末盧国>、その津(港)、現在の唐津湾域に相当       する、そんな地点を基準にして放射状形式で、それぞれの       国邑位置を記すとの解釈の読みには些か文言的に難がある。<伊都国>を基準に同形式で読む       という解釈ならば、文筋どうりで納得のゆく妥当なものと見てよい。       拙論は後者が最も文言構成の流れとしては、正解を得ていると判断する。だが放射形式での読       みとの関係において、主要国邑すべてを一括一概にそれに特定基準した見方を採る事は無難で       はないとの考えも出てくる。       上記のように二国(投馬国と邪馬壹国)は、<伊都国>からの方位里程だとも取れる一方で、       さら<不弥国>方面を起点とした読みも可能だとすれば、その解読の仕方で、その道程模様も       違ったものとなる。       イ.)<伊都国>の場合:二国とも<有明海>の沿岸沿いを南下するものとなる。その                   場合<邪馬壹国>の水行は十日だから、有明海最南辺りの途中                   から下船して、<陸行一ヶ月>の行程を旅することになる。          *** 陸行の一ヶ月はちょっと長すぎる感がするが、どの辺りで下船するのかでの            問題もあり、また、道なきところを行くわけではないゆえ、当時の道順や道路の            諸事情状況をも考慮して、 ”一ヶ月もあれば ”の感じの表記だったろう。            つまり、この二国の<日程>は、倭人が通常に旅する場合に要するもので、宿泊、            天候条件にも左右されるなどを多分に加味した日程距離のものと云える。            (もちろんこれは、倭国側からの聞き取り情報によるもので、魏の使者が実際に            足を運んで得た日程距離ではないと思われる。)         ロ.)<不弥国>方面の場合:これは瀬戸内海側、豊後水道を経由、南下するルートを採る事                    になるが、同様に<邪馬壹国>は、適当な入り江の津がいまだ                    未開だった故に、途中で下船し、陸行となったと見る、そんな                    想定の読みともなる。          *<水行十日陸行一月>表記については、二とうりの読み方ができるとの見解もある。           ---------------------------------------------------------------------------                        ① <水行十日 プラス 陸行一月> という、その合計の日程            ② <水行なら十日>、<陸行ならば一ヶ月> と 区別しての場合、、、             **<投馬国>の表記との<兼ね合い併行的な感じ>を考慮すると、その両者は             一方は<水行二十日>、他方は<水行十日>との併記を意図しているとも             受け止められ、そのついでとして、”陸行ならば、一ヶ月あまりだ”と、             あえて<陸行>のそれを追記したとも取れる。(②に相当する読みとなる。)                 **だが、①の形式での読み理解ならば、その水行の起点(出立場所)を佐賀の             有明北岸の津とすべきでなく、先の<末盧国の津>(現在の唐津湾)として、             その水行旅程を放射的に、その二国(投馬国と邪馬壹国)に当てるべきもの             となる。この場合、当然<外洋海岸沿い>を南下する部域も出て来る。長崎             の平戸(出島)の水峡を通り抜け、島々を目印に縫うように南下し、長崎半島             という大きな目印を目指して沿岸水行し、その半島の岬から天草島と島原半             島の間の海域へ、その広い海峡を経て有明海最南域に到るような船行を辿る             ものとなる。或いはさらに天草の島々の海峡から八代海に入るコースを辿る             ものともなるか、その古代の開かれた既知の航路は定かではないが、、、、             (投馬国はさらにその海岸沿いを南下する。)             だが、有明海最北岸地区の津を水行の起点とするならば、<末盧国の津>か             らの<陸行>分の数日(2から5日ほど、宿泊分、天候条件を含め)をその             <陸行1月>のうちに含算してのものとなる。                     ・陸行では・・東南5百里=伊都国(ここでの一部放射式)                    ・                ●<末盧国の津>・  *両者の使い分け記述形式にて                    ・                        ・水行では・・二十日 ⇒ 投馬国                            十日 プラス 陸行一ヶ月 ⇒ 邪馬壹国            (この場合は、<末盧国>起点で、陸行と水行を二手に別けた放射形式となり、            さらに<伊都国>起点での放射形式(for 奴国、不弥国)            との二段構えの里程、日程が顕著に表記されていると読み解くものとなる。            因みに倭人伝原文で、<水行>という漢語が最初に見られるのは、倭(国)に            至る道程表示の最出立地点を示す表記文中においてである。以下原文            <従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、~ ~...> *郡ハ当時の帯方郡を指す。            依って倭国側での<水行起点>も、水行という新たなる区分けから<末盧国の            津>からだと見なしたとしても、何ら疑念を差し挟むものとはならない。            つまり、投馬国、邪馬壹国に関しては、里程距離では表示できないという現状            がある、見えてくる。それは倭国側自身から述べ伝えることが出来ないのだ。            それが可能なのはもはや日程のみである。倭人が通例の旅に要する日数以外に            はないということで、その文言は、仕切り直して<末盧国の津>からの水行出            立点を筆者(陳寿)はその前提としているのではないか。            たとえもし、<伊都国>が、博多湾側の筑前方向にあったとしたならば、何故            に博多ベイの船着場に至る航路を取らないのか、不思議でならない。いまだそ            こには渡船場もなく、また、そちら方面に<伊都国>が位置していなかったこ            とをも示唆していると見るべきであろう。)                           *方位に関しては、地球の軸の傾きと夏場、冬場の<夏至・冬至>の時期との関係上、         古代人の<日の出>の方向を<東>とする方位感覚にズレがあって当然の事でしょう         から、、実のところ、<日の出>は、夏場と冬場とで春、秋分点を基点に最大35度         以上前後幅でその位置に違いがある。つまり冬場の<東>は、夏場では<東南>の方         向位置となるようなものだ。         したがって、現代のように厳密なまでに<方位磁石>の器具でもって、知るという感         覚ではないということを考慮すべきでしょう。        *邪馬台国の所在問題で、最も重要な事柄は<2世紀から3世紀>に亘って起った九州         【倭国の争乱】の要因を憶測することにあろう。その時代の流れ、半島、大陸からの         交渉、文化と政治的利得の影響が高まっていく過程で、有力氏族の国々との指導権争         いが自国の運命を決するまでになってゆく。九州・倭国の最初の対外国向けの玄関口         としての<末盧国>の津(港)と東南5百里に位置する<外事・交易管理優先の政所         であろう《伊都国》>にかかわる主導権、あるいはその地域での利権利害の思惑を絡         めた争忙が、国を上げての争乱となっていったことだろう。唯一の玄関口となり得た         <末盧国>の港から便利に道が開けた<伊都国>ルートのその地域(今の佐賀市から         久留米市へと開けるが、)結局、各国共同公平利益の為、卑弥呼、あるいはその後の         壹与ら、女子を共立してその和平利益を公平に管理し、検閲機関をきわめて特殊なか         たちで制度化してゆく。古代の神・鬼道に仕え、斎く奉る<祭儀宗礼の国>として名         高い<邪馬壹国>を立て、その女王宣示権で為さざるを得なかったと云う事だが。         (その行政的な権を女王国からの横取り、独占せんとしたのが、<狗奴国>だったか         も知れない。当初から反目して倭国騒乱の因だったかも、、、しかも争乱による倭国         全体の疲弊没落をさけるために、和平的に<女王擁立>での和議案が、その当初の段         階では、<狗奴国>による<傀儡的なもの>であったりしたかも知れない。         また、後々になって、九州・倭国勢力と畿内大和の勢力が反目、相乗するのも、畿内         大和勢力が、今の福岡市・博多湾か、又は唐津湾の糸島半島側かに別ルートの玄関口         を設けて、事を始めるようになったからだというものかも知れない。         畿内大和の大阪湾河内→大和地域は、佐賀湾(有明海)→久留米地域を反映した、その         代替代償の感がする。)         (追記①古事記の神代神話の記事での《葦原瑞穂の国》と神武イワレビコのその地・         東への東遷、東征記事参照。)         (追記②倭人伝の文言にはその<狗奴国の男王の名と官の名が記載されている。前者         は卑弥弓呼、後者は官の狗古智卑狗で、この国の<伊都国>への諸外事を任された全         権官吏でもあったろう。その名が記載されているからには、伊都国でもよく知られた         存在であったと云えよう。男王の名については、女王・卑弥呼の名とよく似ている。         <弓>を除けば、まったく同一だ。何でだろうかと、疑問を抱いたとしてもおかしく         ない。史学は、客観的史料の裏打ち論証がなされないと、学説とは認められないが、         そういった学説を離れた、他外の立場からの推察として言えることは、伝の記載の如         く女王・卑弥呼には、俗世の政務を担当手助けする男弟がいたから、その女王一族の         親本家系と狗奴国・男王系王族とは、元々の始めは同一血族から来る傍系氏族であっ         たとの見方が取られ得るかも知れないということだ。         兄弟同士の利権争いは、同じように主張し合う立場に立ち得るからこそ、しばしば、         そういった争乱を引き起こすものとなろうかとも。         ただ、卑弥呼と卑弥弓呼の二つの名がどんな部類の名称なのか、魏の記述者による表         記として、如何なる主意の下にそれの表音となる音韻漢字を当てたか、また、当時の         呉音で<呼>は本当に<コ>と読み、発音していたか、など疑問の余地があろう。)       ハ.) 女王国の<外延の国々>に言及した倭人伝記事:         ・女王国東渡海千餘里、復有國、皆倭種。         ・*又有侏儒國、在其南、人長三四尺。              ★ここでの文言、2行目、<又侏儒國有り>との意外な展開、何だか               信じがたい言だとも言える。背丈の目立って低い人、小人国だと、、               おとぎ話じゃあるまいに、とでも言いたくなるが、さてはや、、               <人の長け3、4尺>とある。現在の一尺は30センチほどだが、               それで120cmだから、、魏から晋の時代の一尺は24cmほど               だから、さらに低くなる。確かにこの<3、4尺>の言はオーバーな               ものかも知れない。5尺と見なして120だから、この程度であろう               と判断される。当時の漢語で、<矮人(ワイジン)>という言葉が、東夷伝               等にも使用されている。これも丈の極めて低い人種を意味するもので、               低俗劣性卑下された感じも込められている。同じ小人でも<侏儒>の               ほうが、すぐれて上位である事をもって、それが用いられていると見               るべきであろう。               上記2行の文言の流れ、その意味する処からして、当時の近畿内<大               和地方>の<その南>、紀の国の東南部あたり、今の田辺、串本地方               を指すものと思われる。どうやら古代の弥生時代前・中期までに、今               の大洋州(メラネシア、ポリネシアなど)のピグミーと言われるとても背の低い               人種のグループ・一団が、黒潮に乗って渡ってきたか、漂流されたか               して、紀伊半島のへさきにでもたどり着いたものだと思われる。              ★記紀などの<神代の天孫降臨説話>のところで、天のウズメが猿田毘               古に相対するわけだが、このサルタヒコは、何か非常に大いなる存在               として描写されているが、その彼(男子と思うが)が、自分の本拠地と               思われる紀伊半島の一角に戻り、その仕えの陣の準備をするまもなく、               海に潜って、日の糧でも獲らむとするや、貝に手を吸い取られて、確               かに大きな貝、20キロもあろうか、海底から持ち上がって来る事も               出来ず、溺れて底に沈んで死んでしまう。この猿田彦、実際には小柄               で背の低い国君だったと思われる。彼の率いた<娘子軍団>は、天の               宇受賣(ウズメ)が受け率いて面倒みる運びとなったが、この娘子隊の子               らの容姿ときたら、おそらく今で言えば、あのひどく可愛いタレント               <矢内真理?>のような、そのひと回り小さくしたような、目のクル               クルッとした感じで、非常にまさに猿のような機敏さを心得るものだ               ったとされよう。(一つの仮説となってしまうが、、)                        - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -         ・去女王四千餘里、又有裸國・黒齒國、復在其東南、船行一年可至。         ・*参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。         <去女王四千餘里>・・女王(国)を離れて四千餘里、また、裸國・黒齒國あり、                    <また、その東南にあり、>の文言に続く。         <復在其東南>・・・・<またその東南に在りて、>この言は、前の<有裸國・                    黒齒國>に係るもので、<船で一年で至るかな>という。              ★この場合の<その東南>のその(其)とは、<また(復)>の<その>               であるからして、<女王国>の領域(の何処かの地点)からの、その               <東南>を言するものとなっている。この場合、伝の著者(陳寿)は、               あえて”南方”または ”南西”と記すべきか、どうか、その方角               位置について、かなり顧慮したであろう。現在、我々が正しく知る               限り、この<東南>の方位の言は、間違っていると断定できるから               である。つまり、この場合、中国(魏国)の遥か南方・南蛮等、その               すでに知られたる島々と重複する可能性を生ぜしめてしまうからで               ある。このような事態を避けるためにという事であろう。、、、、                   (当時の中国史書などで、本国が知る限りの南方の島々は、台湾近辺               までで、それから東、および南東方面は、未だ未知であったろう。               ちなみに琉球(沖縄)諸島などは、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六               東夷傳 流求國」(7世紀)が初出(608、609年に当る文言)である。)           これらの国々は、奄美諸島、琉球(沖縄)諸島を含め、さらにそれらの島々経て           ルソン島方面など、太平洋中西部よりの南の島々のクニを、およそに指し示す           記述と見られる。(これは、また倭人国からの聞き取り情報に違いない。)          <周旋可五千餘里。>・倭の地、女王国のある倭国を参訪するには、海中に                     絶在して、或いは絶え、或いは連なる洲島の上を、                     周行取り(周旋)して行くこと、五千餘里ばかりなり。                   ★この<周旋可五千餘里>は、文頭の<去女王四千餘里>と対比関係に               置かれている。<周旋>で、一千里異なる向きもあるが、その言わん               とする領域の中間里程を指し示すをもって、その差異を表していると               見るべきだ。               倭の地参訪ルートでの船行は、確かに大変困難を要することであった               に違いない。今で言う、赤道海流のフィリピン諸島沖を北上する流れ               を利用し、台湾沖はるか東を琉球諸島方面にさらに北上、そのあたり               から黒潮海流に乗って行くという訳だが、その島伝いにといっても、               それぞれの島の地形によって、潮の流れもその満ち干きとの兼ね合い               によりローカル的に微妙に変化する。風向きと潮の流れを読んだりし               て、島々を旋回するように、本流の黒潮に繰り返し乗らなければなら               ない。そして、さいごの山場は、黒潮の本流が支流の対馬暖流に分か               れる分岐海域である。その本流に乗るか、支流対馬の潮流に乗るかに               よっても、到着地への方向、目的地を誤まるものとなるからだ。              ★古代沖縄・琉球人は、弥生時代中期頃には、<貝による交易ルート>               を開いていたというから、船航海の巧みな経験者だったろう。その倭               地から得る交易品も時代によって、色々であったであろう。たしか、               沖縄の古代、古くから継続集産してあった、ノロの<神歌>の歌詞の               うちに、繰り返し出てくる”ヤマトが下さる<赤椀><黒椀>”も、               当時の<土器類>に変る、<木製漆器類>ものによる沖縄古代人の生               活文化改革の<世直し>を謡い奉るものだったに違いない。               その時期が、古墳時代か、平安時代か、それとも鎌倉の源頼朝の叔父               源為朝の琉球在留という沖縄伝説の時代(1170年代頃)か、その交易                  時代を見極めることが難しいが、、、。                                ★古代の東南アジアなどでは、当然の事ながら、裸(上半身)ですごす               習慣の村落、村邑など、いくらでも見られるものであった。また、               ご存知?日本でも明治の中頃まで既婚女性の習慣(身だしなみ)でも               あった<お歯黒>、歯を黒くする習慣も、中国南東部方面・東南アジ               ア系が、古代からの風習ルーツであったようだが、当時の3世紀の               倭国では、見かけるのは珍しいくらいで、一般化したような風習では               なかった。5、6世紀に<歯>に良いらしいということで次第に広ま               り、その後、遙々唐の国から来日した鑑真和尚によって、さらに良い               処方が伝えられ(西暦753年以降)、急速に習慣化されていった。婦女               子を主流とするも、男子でも見られたという。娘らでも18、9才で               お歯黒をしたという。(平安時代以降、時代によってその傾向が違う)               <黒齒國>とは、               そんな有意ある<お歯黒(鉄漿カネツケ)>習慣ではなく、古代にありがち               な極めて初期的な食性摂取のあり方で、自然に草木や果実で、歯が染               まるようになり、その状態が歯に良いとの自覚から、普通にその生活               のあり方として身に付いていった、そんな人々の島々、村邑国邑があ               ったと見られるとの意を云うのであろう。               どうやら歯のエナメル質を保護する上で、黒く染色するタンニン成分                   の濃いもの、すっぱい山ブドウなど、南洋系の植物の食べ物があった               と思われる。今の子供らは、経験した事がないと思うが、野イチゴや               桑の実だったか、イチジクの実?だったか、食べて歯はもちろん口の               中すべて、外くちびるまでも黒紫に染まりなでくった、そんなことが                あったような、かすかな記憶があるのだが、野イチゴや桑の実にタン               ニン成分があったかどうかは知る良しもない。           上に掲げた<倭人伝原文>の2系列文字、確かに注意すべき点がある。つまり           <去女王四千餘里>の言列を、上方の<侏儒國~、、三四尺>の文列に続くと           して読むことが出来るからである。著者<陳寿>は、この魏書の中の東夷伝、           倭人条を含めた<三国志・30巻>を280年代の書き上げ成立せしめている。           まさにほぼ同時代人(233年- 297年)に依るものと云える。それ故280年前後           頃に彼の入手し得た<倭国、倭人情報>は、確かなものと言っても差し支えな           かろうと思われるが、それでもやはり、その<倭人伝>情報は、彼の立場から           見れば、ほぼ90%以上、すべて<2次史料の域を出ないもの>と見なさざる           を得ない。彼もこの辺のところをよく自覚していたであろうと見えて、簡潔至           極、みごとな文言、文列構成でもって著わしている。このように言う事で、何               を言いたいかといえば、つまり、<去女王四千餘里>という文列は、前の文に           属するとも、後の文に係るものとしても良いように<文言配列>がなされてい           ると言うことだ。           また、他の一例として、倭人の<男子は、大なるも小なるも無く、皆鯨面文身           する。(=男子無大小、皆鯨面文身)>の文言や、<今倭の水人、好んで沈没し           魚蛤コウを捕え、文身はまた以って大魚、水禽をはらう。(=今倭水人、好沈没           捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽)>以下続くの文言など、その両文言の間に、時           代的な既定をほのめかした文列を差し入れて、その倭人情報に確かな余裕さを           持たせている。その差し挟みの配文は:             <自古以来、其使詣中国、皆自称大夫、夏后少康之子、封於會稽、              斷髪文身以避蛟龍之害>           である。古来より倭人の使が詣でる折、皆、自らを大夫(ダイフ =副大臣、次将           軍級の高官)と云う。會稽に封ぜられた少康の子については髪を断って文身し、           以て蛟龍(フカサメの類)の害を避けたが、倭人はこれに習うや、これと同じよう           なことではなかろうか。           そして、先に記した倭の地の諸里程方位に付きて<その道里を計り=(考量)>           吟味するや、まさに会稽の東に在るは、当を得たることではないか、といった           含みを持たせている。           したがって、またこの倭人の生活風情も、<280年代の彼の今の時>まで続           いているものなのか、250年前後まであった風情なのか、或いはその頃一時           的に流行ったものなのか、詳しく確かめなければ定かではないものと云える。           水人(専業的漁夫らを含めて)も、時代と共に<漁具や手立ての進歩>のゆえに、           そのあり方が変ってゆくであろうから。墨入れ文身をしなくとも、帯たれ、帯           ヒレに変わるとかで。           (この<鯨面~水人>のパラグラフの結びの文列に<~、、会稽東冶の東>と           あるが、この古代の会稽という地名は、今の上海地方以南方面(杭州北部)に当           るもので、その会稽東冶(トウヤ)とは、会稽の会稽たるを示したるその位置から、           当の<東>に在る、と自信をもって言い切っている感じだが、やはり、この場           合も、倭人の国を、その<九州島を基準眼目>にして記している訳で、<列島           日本全体>を眼目にしている訳ではない、そのような認知観念に未だ至ってい           ないと見るべきだ。)          ★(夏后とは、史記などで記されている中国古代での最も最古の伝説の<夏王朝           の元祖・兎ウ>の事らしい、その6代目の少康の子がその会稽というところに、           <元祖・兎ウ>を祭祀する宮を設け、斎祭る任に封せられたとのことで、その           子孫系何十世代か知れないが、その子らのことを言っているようだ。前漢統一           王朝成立直前頃(BC206年)までは<越の国>として存続していたとのこと。           越は、斉や楚の国とともに漢勢力によって滅びたが、祭祀の宮は会稽に存続、           誰とはなしに<陳寿在世の頃(280年)>まではその形跡が残余していたと考え           られる。あたかも日本の伊勢、越、角鹿ツノガ(敦賀)発祥譚の源、記紀上代への           反映の影を垣間見るが如くのようである。          ★元々<天孫>観念の初めは、中国古代の思想ベースでは、<天子>の子、子           孫系を意味するものであったが、何時しか土着の天照す太陽崇拝との習合によ           り、他の神々思想の形式(神祇、地祇への布石)を包摂するかたちで、<天照           大神の御子>としての天孫に成り替わったとも、そんな推定も可能となる。)
  6.) 邪馬台国と大和王権成立等に関わるこれまでの諸説論を、ここで系列的に概観しておこう。     往古の時代的流れから:     ============          *奈良時代初期成立の『日本書紀』では、<神功皇后の条>で、注を付す形で、           倭人での卑弥呼記事が引用されている。これが成立当所からならば、卑弥呼を           神功皇后に比定すべく、その目論みを成したものとして編年記述され、当然の           事としてその時点で、邪馬台国は、<畿内大和>であるとの考えにおさめ定ま           っていたことになる。この考えに誰一人異議を唱えるものもなく、平安時代以           降も、つぎの中世、江戸時代と、その元禄の時期まで、畿内説を疑問視する学           者、賢者はいなかった、異説の公言者は出なかった。           ・卜部兼方ウラベカネカタ・・鎌倉時代末、1274~1301年頃の推定成立と見られる                      『釈日本紀』(日本書紀の注釈書)を著わし、倭人伝                      と関連した条項部分で、畿内説を評価表明している。                      (生没不明だが、1250年前後から1300年前後の有力な                      神祇官で神道家でもあった人。)           ・北畠親房キタバタケチカフサ・『神皇正統記』で<卑弥呼=神功皇后>説、邪馬台国                      を代々からの大和の国として表明しているが、これは                      彼にとっては、日本書紀(古事記)による自明の知見、                      伝統的定説であったからの結果だと判断される。                      『神皇正統記』は1338年末からその概要を草し、1339                      年9月中に仕上げたものと見られている。これは東国で                      の陣中小康、城篭り最中、何らかの意図の下での執筆                      だったというほかない。鎌倉幕府滅亡後、建武の新王                      政復古の始めの失政に因して、足利尊氏の叛旗に会い、                      皇統家が南朝と北朝とに割れて、全面的内乱に突入し                      ての数年の、間もない時期の事である。公卿の身では                      あるが、南朝の総大将か、軍師ともなって、東国の武                      家の士らを味方につけるべく征するを目論み、関東の                      地を陣遷したとのこと。                      (鎌倉末~南北朝時代(1293-1354)の後醍醐天皇・南                      朝中枢の公卿政治家、諸古典を修めて、天皇国家政治                      の思想家、神皇神道による政治的イデオロギーを有し                      た近世初めの人と云える。明治時代以降の大日本帝国                      時代にもその精神的支柱にかかわる影響が大だったと                      見られている。)          *江戸元禄の時となって、松下見林(1637~1703年)という儒医の国学者が出た。           彼の著わした1688年(元禄元)の「異称日本伝」で、卑弥呼を「気長足姫尊」           (オキナガタラシヒメノミコト)に比定して、大和説見解を表明している。だが記紀の編纂           時代(奈良)までには、倭はヤマト、倭国もヤマトコク、或いは大倭もオオヤマ           トと読む慣わしもあって、それが、大倭ダイワを大和ヤマトへの語変換の変容を容易           にし、難なく定着化した時流となる。結局、見林は、後漢書(5世紀成立)の倭伝           の条での<邪馬臺タイ国>(=邪馬台国)表記が正しくて、魏志倭人伝(3世紀末成           立)の<邪馬壹国>表記の壹(イチ、イツ、一)は、臺(タイ、ダイ、台)の誤りであると見           なし、読み直して理解すべきが正しいとする。後の本居宣長もこの立場をとる。           これ以後、大和ヤマト=邪馬台ともなり、また、<邪馬台国ヤマタイコク>という通称           名への展開、定着化への可能性が開かれるものとなる。           (見林、宣長ともに<臺タイ>の字を和語の表音で<ト>と、当読みしたのだが、            これはまさに<造作の当て読み表音>と言う外ない。因みに<臺と台>は、本           来は、別々の意を持った字であった。が、字音が同じだから<台>は、<臺>           の略字となり、混用される便の定着化を見た。それでも漢音はタイ、呉音は           ダイと読まれるのみで、<ト>の表音読みは皆無、まさに日本だけの和語当て           字音と見なす他ない。)                             ・<邪馬臺ト>⇒=<大和>           <邪馬壹イチ国>⇒<邪馬臺タイ国>&⇒・ *両者とも和語のあて読みの<ト>                             ・<邪馬臺トの国クニ>⇒<大和の国>             かって古代中国では、その王朝天子・皇帝在所の宮殿府を<臺=タイと発             音する>でもって表わすのを常、習慣とするに至っていた。魏志倭人伝に             も、<京都>(長安を指す。)の代わりとして、最後尾の文列で使用されて             いる。              ””因詣臺 ””・・・これは中国王朝府だけに当てられ使用できる                         ものとしてあった、専用の言葉である。                         この場合<魏の王帝府>であり、他の内外諸国                         向けに対しての記述では、魏朝時代以前では使                         用されていない。           *異論九州説の端緒は、その先駆者として、新井白石(1657~1725年)が出た。彼           は壮年期までは畿内説であったが、その晩年期に九州説を唱える事となる。           筑後国山門ヤマト郷を比定した。(現福岡県みやま市瀬高地域)           次に古典学者、本居宣長(1730-1801年)が出た。彼は<方位記事>を重要視し           <九州南部説の先駆>となった。卑弥呼を隼人、或いは熊襲といった類の種族           と見なした。これらの学者らの以降、九州説が次第に有力なものとなり、従来           長く通説に留まっていた畿内説との対立論点の過程が始まるものとなる。          *明治以降、大正、昭和の戦前までの流れとしては、先ず『日本書紀』への史学           的研究の成果発展により、<神功皇后と卑弥呼比定説>には、年代的に差異矛           盾するとの考証見解がとられ、九州説がその論証を有利とした。           このような九州説をさらに深化させたのが、東京帝国大学(現東大)教授の白鳥           庫吉である。彼は、明治43年(1910年)に里程や狗奴国など諸関係に新見解を           加え、<肥後>に邪馬台国を比定する著を発表した。(『倭女王卑弥呼考』)           (白鳥庫吉=1865年3月1日(元治2年2月4日)- 1942年(昭和17年)           3月30日 東洋史学者。津田左右吉の師でもある。)           一方これに対して、その同じ年、これまでの九州説を批判し、畿内説を強く主           張する論者・京都帝大(現京大)教授の内藤虎次郎(湖南)の論説が出た。彼は、           倭人伝での<方位記事>に誤りがあると論じ、その<魏志の伝書>以後の、中           国史書からの<倭国観>をもってその傍証の根拠となし、卑弥呼を<倭姫命>           に比定した著にて、自論を展開した。(『卑弥呼考』)           これにより倭人伝の<方位記事の正誤>の是非をめぐり、その点もクローズア           ップされる視野が開けてゆくものとなる。           (内藤虎次郎(湖南)=1866年8月27日(慶応2年7月18日) - 1934年(昭和9年)           6月26日)東洋史学者。)           この両者の対照的な学説に啓発され、大正、昭和初期にかけ、日本古代史、邪           馬台国をめぐる研究は、史学界の発展と共に活発化してゆく。その十数年の間、           九州説では<肥後説>より、<筑後国山門郷>説をとる論者が多く、九州南部           説については、有力な支持論なく、衰微する傾向を辿った。           畿内説では、水行の航路を瀬戸内海とする通説以外に、日本海経由とする論も           出された。この時期には考古学者の立場から、高橋健自や梅原末治らが論争に           加わり、古墳や鏡に着目して、畿内説を唱えたり、また、笠井新也らが<箸墓           古墳>を卑弥呼の墓と断定した論を出して、畿内大和説を主張した。その後は           考古学的に裏付けされるべきが重要との新たな視点への動向を見せた。          *昭和に入ってまもなく、紛争戦時体制から大戦争へと引導する、大日本帝国の           ファシズム悪魔の抬頭により、言論、報道の自由は剥奪され、その厳しい官憲           思想統制の下、古代史研究の自由も失われる。邪馬台国論議も急速に衰滅し、           戦後になるまで途絶、中断したままとなった。          *昭和戦後になってからは、考古学、地図学史の見地からのみならず、史学の専           門外の多様な学究的立場からの論及も盛んになり、九州、畿内の両説とも、そ           れに関連した地方自治体の文化的保護推奨も加わって、さらに今日的なインタ           ーネット上でのページ見解もありで、論説が多様化して、定まりの結論、結末           が付かない状況となっている。     昭和戦後から現代:(九州説と畿内説)     ==================          {①行程(里程・日数)を放射式に読む・・<榎 一雄>、戦後初めて、<伊都>                             を界とした放射式読み方を考開して、                             筑後説をとった。久留米地方を比定。          {②放射式アンド方位の修正にて・・・・<富来 隆>、南を東に、東を東南に                             と、古代感覚から現代感覚に読み替え                             修正しての論。豊前宇佐を比定。          {③古墳の出現時期、及び近畿地域            出土の銅鐸への考証見識より比定・・<斉藤 忠>、大和、近畿での前方後                             円墳の出現は、4世紀~6世紀であり、                             それ以前には見られない。また弥生時                             代後期にまたがる銅鐸の祭儀的文化勢                             力も九州地方に全く及んでいなし、3                             世紀での銅剣、銅矛、銅戈の出土する                             有力古墳が近畿ヤマトには少ない故、                             倭国の邪馬台国が、大和の地にあった                             とは見なし得ない。(この見解は19                             80年前後時点のものである。)     ◎九州説:{④遺跡考究による比定にて・・・・・・<柳田康雄>、前原市平原遺跡群の再考                             調査及び発掘により、導き出せれた結論                             として、甘木市の平塚川添遺跡群を邪馬                             台国の中心地と定めるに至る。                                      {⑤          {⑥倭人伝を中国、半島の史書から照考、            解析されて呈示された見解比定・・・<古田武彦>、女王国は<邪馬台国>で                             はなく、そのような名称の国はなかった。                             <邪馬壹イチ国>が畿内<大和王権>の国                             である、比定一致させる考え、それによ                             る<邪馬臺ト>、<邪馬台国>と字面訂正                             した安易な歴史解釈は許されないとする。                             倭国連合の<九州王朝>が女王国であり、                             女王・卑弥呼は、<邪馬壹イチ国>に都す                             るとし、その<九州王朝説>を論証する。                             併せて列島内的多元王朝を提唱する。          {⑦弥生後期(卑弥呼立王前後から)の            墓式及び遺物、記紀の天皇在位年数、            地名比定など総合的計理解析にて・・<安本美典>、卑弥呼の代は、甘木、朝倉            (邪馬台国東遷説)         を中心とする。壹與(台与)の代は、周防灘                             に面した豊前、宇佐地域とし、そこから邪                             馬台国は、畿内大和地方に東遷したとする                             <邪馬台国東遷説>を論説する。                             高天原=邪馬台国、天照大神=卑弥呼比定、                             及び、甘木、朝倉地方のローカル地名(旧名                             を含む)を畿内大和への地名写しと見る。       -----------------------------------------          {①行程(里程・日数)を放射式に読む・・<豊田伊三美>、榎氏と同様に放射式                             の読みにて、畿内大和説を展開した。          {②放射式アンド選択式読み・・・・・・<志田不動磨>、「水行十日、陸行一月」                             をそのいずれか一方を選択する読み方に                             て、大和説。          {③考古出土物・鏡によるもの・・・・・<小林行雄>、卑弥呼が景初3年(239年)                             に賜り入手した<銅鏡百枚>に言及して                             の同笵鏡分布の領域からの論。(三角縁                             神獣鏡に当てたものであろうか。これに                             は出土数の多さ、仿製ものもありで、決                             め手にならぬとの批判あり。)     ◎畿内説:{④卑弥呼を記紀の皇女に比定して・・・<和歌森太郎>、倭トト百襲姫を卑弥呼                             と見なす。(箸墓古墳も比定されよう。)                             この百襲姫は、3代目安寧天皇の5世に                             あたり、7代目孝霊天皇の皇女で異母計                             併せて8人のお子の一人である。また、                             8代目孝元の異母妹でもある。                             この姫には伝説の故事があり、吉備一族                             との濃い血縁と勢力的な繋がりも想定さ                             れ、ヤマト王権との何らかの確執があっ                             たと考えられる。それへの隠蔽取り込み                             が、日本書紀での創作記事とか?、、、                             しかして日本書紀の崇神天皇7年の条で                             の説話記事その他に関しては、古事記で                             のものとは異違で、差替え創作の記事と                             も思われる。書記の編者がなぜ百襲姫を                             引き合いに出す形で、古事記のそれと違                             えてまでして、箸墓の古墳に関係付けよ                             うとしたか、この点が問われる処だ。          {⑤地図学史の見地から論解にて・・・・<室賀信夫>、彼は15世紀初(1402年頃)                             に半島朝鮮(高麗・李氏朝鮮)で作られた                             以下の地図名称、(163cm×158cmサイズ)                             「昆一彊キョウ理歴代国都之図」に目を付け、                             自著『魏志倭人伝に描かれた日本の地理                             像-地図学史的考察-』にて自論を展開                             している。(現龍谷大学所蔵にて)            *その論の内容を極簡単言えば、その古地図上の日本列島が、九州を上の北に             して、南の下に伸びた形で描かれている、いわゆる西から東への横向きが、             北から南への縦方向になっている。             したがって<倭人伝の筆者>も、その当時、同様の考え、イメージを持って             いたとして、卑弥呼の都する<邪馬台国>の方位を<南>と記す結果になっ             たというものだ。            *地図は、ユーラシアとアフリカを含めた旧世界地図のもので、国々の首都、             主要都市等を明示する意図で作成されている。その原本図は失われたが、             複製写図が2点だけ残存しており、その1点が上記の大学所蔵のもの、あと             1点は1988年長崎県島原市の本光寺で発見されたものらしい。サイズもさら             に大きく 280cm×220cmとなっている。             だが、こういった旧世界地図が、原本図そのものを異にしたもので、さらに             2点、日本にあることが知られている。(原本図は存在せず)             ・熊本の本妙寺にある「大明国地図」、秀吉の朝鮮遠征時での武将              加藤清正に渡ったものとされる。             ・天理大学にある「大明国図」、これは日本での複製であろうとされる。              上記4点図は、日本に16世紀末、17世紀前後に入手、又は江戸期に日本             国内で複製されたものである。                            問題の<龍谷大学所有のもの>は、その入手経路が定かでないと云われてい             るが、一説には16世紀末、秀吉の朝鮮征伐(文禄・慶長の役)時に入手したと             の説がある。            *さて、ここでの室賀氏畿内説であるが、彼の論の根拠として取り上げた地図             は、それ以外の上記3点が、普通どうりに西から東へと日本列島が描かれて             いることから、何らかの手違いとも、或いは何か意図的に、故意にそのよう             に図化したのではとの推察さえ可能となる。まさにおかしな唯一の例外品だ             という事にもなる。               1402年成立の李氏王朝のその原本図は、元々、中国の同類の地図を参考             タネ品としている。以下のものだとの、室賀氏の問題写図品には、朝鮮の権             近という人による<奥付>が地図の下欄外に記されている。これが、記載捏             造のような感じの、私意的なものであろうと疑われても、と思われる。             その参考タネ地図となった4点のうちの2点の中国の原本図は、             ・李沢民による声教広被図(世界地図)1320年前後の作成との推定             ・清浚による混一疆理図(清浚:1328 - 1392年)1350年以後の作成              この2つ中国製地図には、日本が東西の横方向にかけて、九州、四国、本州             と、3つの島として描かれたものであることが、その2つの原本が失われて             いるが、それらの複製写図本(14世紀代)で、明確に知られている。             これは、すでに秦の始皇帝時代(前3世紀末)には、不老の仙薬を求め、東             の海中、日本にやって来た<徐福>からの何らかの伝え、報告で知られるも             のとなっていたと見られる。             したがって、この既知なる3つの島の配置を三国志倭人伝の著者・陳寿が、             その方角、<南を東に>と間違えて記すようなことはあり得ないと断定でき             る。             ならば、かの李氏朝鮮の原本図は、どうして北南・縦方向に描かれたのか。             その作成者らの入手した中国の参考写本図が、完全なる全体描画のものでな             くて、日本や朝鮮半島等が省かれていた、よりサイズが小さい写図のもので             あったと考えられる。また、彼らの当時の日本に対する歴史認識が、<邪馬             台国>即<大和朝廷>大和日本という、直結一貫した史観であったことが重             なって、その見識において、そのまま<倭人伝の記述>どうり、忠実に日本             国土を配置すれば、結果はまさに、上下縦方向に<北から南>へと描くこと             になるというものだ。                        室賀畿内説は、結局、1400年時点での地図作成者の日本史観を倭人伝の             <陳寿>在世の魏の時代に充当して、畿内説を正当化したものとなる。                                           {⑥発掘遺跡による比定にて(A)・・・・<寺沢薫(橿原考古学研究所)ら>、最近                             (2011年)の纏向遺跡発掘調査からも最                             有望視されているが、                             <原田大六>、九州前原市平原遺跡の発                             掘を全面的に手がけた原田氏は、宇佐神                             宮が立つ亀山が卑弥呼の墳丘墓とされて                             いるのは、根拠の無い間違いだと指摘す                             る。これは自然の地層からなる自然本来                             の山稜で、戦時中防空壕が掘られている                             が、土をもって築かれた形跡はなく、自                             然本来の地層をあらわにするばかりであ                             ると指摘する。彼の宇佐神宮創立由来は                             平原1号墓の埋葬者の女王を記紀神話の                              <天照大神>に比定、史実化して、その                             王巫女、大日霊尊オオヒルメムチを<ヒメ大神>                             として祀るという表式で独自の創建説を                             とっている。したがって邪馬台国・卑弥                             呼の九州説は、論外であり、畿内説を提                               唱している。                    {⑦発掘遺跡による比定にて(B)・・・・現在も発掘調査続行の<纏向遺跡群>、                             ───────────     ───────────                             奈良の大和、旧磯城郡地域は、記紀でも                             知られた古代遺跡の超散在地帯であり、                             ヤマト王権発祥、成立の地であることは                             否定できない。長い歴史を経て、広域大                             和およびその周辺から、山代、京都の平                             安京へと移ってゆく、歴史的重みのある                             原初地だからである。(摂津京、近つ淡                             海の大津京など他、度々あるが、、)                             箸墓古墳、及び寺沢薫氏が「纒向型前方                             後円墳」と指摘された先行古墳群が点在                             する<纏向遺跡>が、今日、非常な注目                             を集めるに至っている。                             寺沢薫氏はヤマト王権の初成立地と見る。                             考古学者の白石太一郎、石野博信・関川                             尚功らは箸墓古墳を卑弥呼(=百襲姫命)                             の墳墓に比定している。            ★纏向遺跡群は、相当広範囲な規模に及ぶ広さを占めていることが、現在に至る             発掘過程で知られるようになって来ている。一説では、あの藤原京にも追随す             るほどの領域規模かも知れないとのこと。             また、何か特質性のある都市的な大規模集落跡のようだとの、学者らの見方も             あり、丁度、邪馬台国・卑弥呼が没した、250年頃から290年頃にかけて、             畿内以外の北九州から、北陸、東海、関東といった広範囲な地域から搬入され             た外来の土器が、相当多数の出土率をなしているという。その反面、人の住む             住居址の集落跡が、あまり見られないとも云われている。(未だ発見されていな             いだけか?) そのことから、何か祭礼的な大神宮などがあり、お参り習慣事が             広く行われ、加えて各地からの物産交易市場が大々的に催された、そんな特異             な古代交流都市だったというものか。             あるいは、全国の各地の散在する<ヤー + マゥトウー>(後に音が縮みヤマト)               ”主の民 ”らが毎年定められた時節に集まって交流をなしたということか。             各地集落ごとに、食の為の器ものの土器と各種の食料ものを携えて、、、             だが、纏向遺跡出土の土器類による時代の設定、その編年は、卑弥呼(=百襲             姫命)の時代を目安暗黙、先入観にして類別設定したものだとは云えないだろ             うけれども、この場合は少なくとも一世紀は、時代を遡るようなものとなる。            ★<ヤー + マゥトウー>についてのヘブル語源からの類推過程は、以下の如く             想定されうる。             <יה>=ヤー プラス                 <אמות> or <מטות> ヤー + ゥモース  or ヤー + マムトース             *上記<ウモース>と<マムトース>は、共に複数形名詞で、部族(種族)、              民、(根)などの共通の意味を持つ言葉である。どちらか一方が              吸収されるかたちで、一つのことばとして残ったと見られる。              以下は、その一つの例として、音声的にヘブル文字で綴り              造作したものである。(この綴りのヘブル単語はない。)                            <אמטות> ヤー + ウマートース ⇒ ヤウマートース ⇒ ヤウマトー ⇒ ヤマトー                         (注) 二つの言葉が一つの音声発音として融一されて、最終的に上古の               ヤマト言葉となって残ったという仮説の域をでないものである。               だが、倭人伝の<邪馬壹イチ=邪馬台ト国>のそれが、これと同じ、               または、これを表わすものだとの考えを丸々認めることには、少な               からず問題点を残すであろう。              *何はともあれ、倭国語(倭人が口にした通常の言葉)、あるいは大和言葉を               形成していったとする<上古諸祖語系>の幾重もの混淆融着の流れが知ら               れない限り、何一つ確かなものと見なす事は出来ない。               (卑弥呼の時代に大陸の言葉、漢や魏の言葉、文字に通じた倭人が、幾人               となくいたであろうが。)                         ★日本全国が注目する!世紀の大発掘! 箸墓!<親魏倭王>卑弥呼の金印が、             果たして出土するか? 箸墓の主は、一体、誰だろうか?、、、             陵墓の守護神<宮内庁>は、許可するわけがない。ずっと伝統的に墓守の番人             が仕事だからね。政府も国会も、<天皇制の呪縛>から逃れられないでいるわ             けだから、、いずれにせよ、どんな結果内容を顕わにするかは判らない。             考古学的に重要視すべきところなく、期待外れとなることもありうる。少なく             とも古代の史実が明白となった、古代史をあらたに見直す事となったなどと、             そんな評価が見込めるかもしれない。           《参考著書:邪馬台国99の謎、その他Web閲覧調査》                    7.) 記紀伝承と倭人伝・邪馬台国との関係付け、記紀成立過程への原資料的説話、乃至伝承を想起      創出させうる底流的な思想要因、あるいは構想要因となる何らかの類伝的背景を探り出す事が      できるか。      古事記と日本書紀、その両者の成立過程から見て、それぞれにその存在意義があり、その特質      的価値をもって二者択一的に、どれが一方を選び、他方を除けて置くという関係のものでは、      さらさらないようだ。その両者一対にした成立過程それ自体の史実に、いまや我々自身にとっ      て、決して知る事の出来ないような、徹底的に隠ぺいされた何かが、もはや歴史的にも解明不      可となる秘義のような何かが隠されていると云えるのではないか。      その絶対的に封印されたる、その歴史的実相から漂うが如きその陰影となるものは、何か。      記紀編纂への歴史的要因、その必然的な要請は、例えば古事記の冒頭奏上序文で、太安万侶が     その企画の所以を語り記しているが、そこに表明される所以の文言理解だけで、簡単に済まさ      れるものではないものがある。そこでは天皇(天武)自らが、心のうちを明かすようなかたちで、      <帝紀、諸旧事>に関わる事の状況を認知し、今や強いご意思をもってそれらを正さんと願い、      その詔勅が下されたとのかたちで、その編纂の試みが始められるものとなる。      一見おもて向き、何でもない平静な文意で、所以事由が表記されているに過ぎないものだが、      しかし、実際にそこでは、天皇(天武)ご自身、心のうちの所見を仰せられた言葉として書き留      めている、その背景には容易ならざる時代の流れがあり、天皇自ら、天下存立への大いなる危      機意識を感じ、その状勢を辛辣なまでに憂慮されたに違いない。宮廷諸臣、その下々配下、皆      心が不安に動揺するような、今までにないそんな時代的変容を来たす流れに直面していた。ま      さにこのままでは現体制での、今日までに至り培った何かが崩れ去るような曲がり角の時に来      ている、そんな時代状況を漂わせるものであったようだ。      かって欽明天皇の世に、外来の仏教が、初めて公的なかたちで宮廷にもたらされた。552年      百済(聖明王)からの使節、その親交外交ゆえの仏教公伝来というもので会った。この頃までに      はもう既に世間上層一般人レベルにも、渡来人系を介して伝播のきざしが見られ、日浅からぬ      状況に至っていた。(530年前後の代とも、538年にはその確かな史料考証が得られている。)      この公伝の時以来、宮廷では廃仏排斥派と嵩仏奨励派の2つの勢力に相分かれる状勢を顕わに      するものとなる。宮廷での政と祭との一体的なまつり事の常なる様相に狂いが生じてゆくもの      となる。      宮廷神祇保守派<物部氏&中臣氏>と、崇仏新進派<蘇我氏総一族>との対決、これ以後、熾      烈なものとなって、後日の<天皇日嗣>、後継者擁立争いにまで絡みゆく状勢となった。(日      本書記は、これを史実として記していると見れば、587年の旧暦4月、用命天皇ご崩御直後の時      としている。) その両権勢家とも、親子2代に亘っての権勢争いであったが、ついにその機に      乗じて、完全決着(いずれかが滅ぶ)にまで及ぶ結末に至ってしまった。      (物部尾輿⇒守屋 対 蘇我稲目⇒馬子という代系構図であり、馬子がその多勢な勢力(現皇室      系族をも付けて)を駆使して、守屋、物部の宗家一派を掃討し去ることで、長く続いた主導権争      いは、ようやく終焉するに至る。)      そういった紛争、内乱を変遷した流れの時期、あわただしくも、物々しくもある時勢の時にあ      っては、心の落ち着くいと間のない世相ゆえ、それなりに物事が表面的に過ぎてゆくので、幾      分でも外来仏教の真の影響力は、いまだ少ないといった傾向を見るものであった。そんな経過      と云えども、新来の仏教というものは、まさに新々なるかたち、その<俊美な仏像(偶像)とそ      の言葉の巻書>が、今や重ねがさね大和国家に入って来るものとなる。      今まで、従来の極めて素朴な<古神道>の世界観 (これは、後の古事記で表象されうる世界観      に類定しうる以前のものとも云えよう。) に異質な感化の影を投げかけ、動揺ひび震々のはた      めきを来たす時代へと進むものとなる。      確かに推古天皇の即位後、600年前後から3、40年余の間、政治勢力的には極めて安定し      ていたような歴史記述が日本書紀にはうかがえる訳であるが、その書記の記す史歴が真実なら      ば、その外来の仏教を、己が体制に巧みに取り込み、それに対して上位優位な立場から政治的      に利用できたという事になる。      この趨勢を証しするのが、<廐戸ノ皇子・聖徳太子>の摂政的な政策貢献や、経典等による教      示活動の書記での記録となる。だが、その当該の時代、果たしてそのようであったかどうか、      また、実際に疑わしい処である。それは、記紀編纂時期の700年代における<創作歴史の記      述>であったかも知れない。この700年頃には、どうやら大陸の中国・唐だけでなく、遥か      遠くの西方・ローマ世界の国風情報もヤマト日本にもたらされていた。そんな対外世界の様相      認知を得るものとなっていたから、用命天皇の御子・上の宮豊聡耳トヨトミミ皇子が、<ウマヤ戸      皇子>として、また<聖徳太子>という諡号的尊称名を用いて、( 同時代的編纂時期に、広く      舎人や、僧、学僧などから、太子像の説話、伝説などを創らせたことで、それが後々に発展伝      世し、あたかも聖徳太子の伝記史料集であるものとして、11世紀中葉までに法隆寺僧によって      その一巻に収集編纂されたもの『上宮聖徳法王帝説』が成立しているが、そういった分野の初      期過程から採られ、定着化した尊称名であると見られる。)      前者名は、遥か遠くのローマ国風のキリスト教、後者は、近くの唐風の仏教を代表した形で、      古事記、日本書紀の記述段取りがなされていたのではないかと推察されうる。つまり、古代ヤ      マト王権国家の新たなる発展をもたらすべき<ターンニングポイント>は、敏達天皇を経て、      推古天皇に至る時世として捉え、それまでの<帝統紀>が、そのバックボーンとして保有して      いた諸古伝類に加えて、新たに時代趨勢のトップに立ち、黎明あらたかに時代をリードする聖      なる光徳の人物をその歴史に登場させることが、記紀編纂従事者ら、皆の一致した見識、その      時代をより最善に捉え直して、次の時代、即ち彼ら当事者自らが生きている現時代への輝く礎      にせんと試みるようなものとなしたのである。      古事記がその<推古天皇>の簡略な帝位記事でとじるものと成しているのは、まさにその時代      のターニングポイントであることを示し、且つ、日本書紀という新国史に新たなる時代の幕開      けを託すものとしているわけである。          実在の<上の宮の豊聡耳トヨトミミ =(ウマヤ戸皇子)>は、49歳前後で亡くなっていると書記で      は伝えているが、これが事実ならば、何故か短命すぎるような不自然さが漂う。ただ単に多忙      な公務、激務からくる疲労だけによる突然死とは思えない。長い間に蓄積された精神的なスト      レス、心臓に係わるような心神疲労に、真の原因があったとも考えられる。      さらに古事記では、推古帝以前の<用明、崇峻>両天皇時世間でも、敏達天皇と同様に他の事      蹟歴はいっさい記されていない。蘇我氏と物部氏の争いや、蘇我馬子の横暴など、血なまぐさ      い事柄を記すなど、もっての他であるというのが、古事記の古事記たる本来的趣旨、<奥ゆか      しき書風スタイル>を損なうことなく著わすという事になるからであろう。書の初めと終わり      のバランスが大切であり、天皇帝紀の列伝歴を中核として、その多様、多彩な彩をもって織り      成すことに、その書本来の編纂の本意があったからである。      これに反して<日本書記>は、紀年(編年)様式の国史編纂を主旨とするから、その近世、現代      に関わる歴史記述には格段の違いがあるほど、多量なものとなっている。それでも推古天皇の      時代からの、一見平穏そうな数十年の時代の実相面、真相は、書記の記述からは容易に明かし      知る事は出来ない。      やがてまたも、大いなる政治的変動をもたらすものとなる。何でそのような時世が起きるもの      となるか、平穏そうな時世の水面下で、反蘇我勢力が息を潜めている、馬子が亡くなり、蘇我      氏の力にかげり、衰退が見られるようになったなど、、半島や中国の動向、海外からの微妙な      影響刺激も無視できないものだったとも、、そこには様々な時代要因が背景的に折り重なって      息づいている、そんな時代の流れを垣間見るようだ。      書記がその大きな政治変動の始めを史実として記すと見るならば、645年での<乙巳の変>      をその動向起導点とするものとなる、そんな解釈が可能になると思われる。      蘇我氏の御曹司、入鹿一人だけを誅殺(計略暗殺)するだけで、時代が一転して行くとは、、、      誰が思い知った事であろうか。(これでまたひと紛争起こると思いきや、日本書紀には そんな      ことは記されていない。入鹿の父・蝦夷が、考えても見なかった突然の事変に、すばやい対応      が出来なかったと言えば、それまでだが、、この辺りの事は疑念、不可解さが残るところで、      一戦を交えたが破れ、逃れて自邸もろ共、火の中で自害し果てたと、そんな記事を露見させる      書記の記述でもなかった。      思いがけない事態にただ慟哭、愕然として、何も出来ない自分の耄碌モウロクした姿、その落日の      姿を自らの内に見たに過ぎなかったと云うことか。      そんな<蝦夷の姿>が現実となる以前に、ずっとそれ以前に親交ともがらの情薄く、多くの有      力氏族や配下の支持を失ってゆき、人脈仁愛の絆が希薄となった。天下の大臣家は、すでに宙      に浮いたように孤立傾向にあったというわけか。既存の地位と大いなる財力だけが、独りよが      りの権勢に物言わしめる、そんな儚い楼閣でしかなかったわけか。      飛鳥甘樫の岡の邸宅を包囲される直前には、無益な戦を避けるようにとの諭しの警告により、      邸を守備する家臣の将司ほか皆、退散してしまった。邸宅の主・蝦夷は、もはや、宮廷の宮殿      などにも引けをとらない立派な自邸に自ら火を放ち、自害するほかなかったと、書記は書き留      めている。これは、たとえ、蘇我総本家が一戦を交えたとの事が、実際の史実であったとして      も、その真実を書き記す事はしないはずだ。何故ならば、先の時代に<聖徳太子の摂政事蹟>      が記し立てられ、その影響力を過分なものとすべく、その時代からの流れに添わしめるように      その書記編纂を行うのが<最も妥当な記述の流れ>だと、捉え見ていたからである。)      蘇我氏(馬子、蝦夷、その子入鹿と)の全盛途上の時、過去の紛争に関わったその後の自家の運      命、衰退的てん末を憂い、報復、打倒の思いを深く心に秘めた青髪な男、中臣の鎌足、日嗣の      皇子とも有望視された、中大兄皇子(後の天智天皇)ら引き立って、信じ難いような計略事を辛      くもやってのけたというものであった。      天武天皇即位の時、673年から、外来仏教公伝の552年を溯れば、120年、蘇我馬子が      物部守屋一族を征討した時代(587年)からは、86年ほど時世が経っている。天武天皇の記      紀編纂の詔の時期には、それ故、かなり仏教が伝播浸透して来ていたと見られ、宮門外の僧、      学僧だけでなく、幾多の留学帰りの宮廷仕官らが中心となり、仏教経典、仏教知識から教養を      培う事が一つの欠かせない傾向になって来ていた。儒学との係わりもある中国伝来、半島経由      の五経の学問(その最初は513年継体天皇7年)に比肩すべく、それに優るとも劣らぬ教養の学と      しての位置付けを占めるものとなって来ていたに違いない。      天武天皇及び保守宮廷の危機意識は、海外状勢や、外交バランスなどを危惧するといった、外      的な要因だけでなく、今や仏教の勢い、その宗門勢力の組織的力の勢いまでもが日増しに拡大      してゆく状勢であり、近い将来には宮廷帝室の伝統天下がひっくり返ることになり兼ねない、      少なくとも、<プリ古神道、或いは古神道>的な心象世界観、その薄氷的な精神知相感覚が、      いともたやすく一掃されるか、呑み込まれるかして、消失してしまうだろうとの、非常に憂慮      すべき内的な事態を、先見の明をもって機敏に抱え込んだ状況のものであったと見られる。      確かに乙巳の変(645年)以降、大化の改新として、先の天智天皇の下で、新たな体制の基盤      造りがなされ、中央集権的親皇政治への確立、方向付けがようやく定まるものとなった。だが      この政治的体制志向の策定だけでは充分とは言えない状況であり、ある根幹的部分の充実さが      未だ欠如したままで、おおよそ手付かずのままの状態であった。つまり、精神的な面で、外来      の仏教思想に押し流され、天下政治の精神的主導権までもが立ち行かない事態に直面していた      ということだ。      (この天武の心理状況は、宮廷を離れ、吉野の山麓に自らが篭る(出家のかたち)ことで、すで      に非常にリアルに印象付けられ、後の<壬申の乱>をひき起こしてまでも、自分が立たねば、      という燃えるような志し、執念動機となって、大海人皇子を駆り立てるものとなっていた。)      ヤマト国家日本に入ってきた、その外来仏教は、概して<大乗仏教>がその主流であった。こ      の<大乗仏教>は、いわゆる北西インド、あるいはその地域につながる中央アジアで、大々的      に復古、隆盛してきた類の仏教であった。(1世紀末その萌芽、2世紀~4世紀頃がその隆盛期)      これは、<人間仏陀>に根ざしたインド古来の<原始仏教>が、その類を離れて異常なまでに      知的、観念的に肥大化してゆき、あたかも<世界宇宙仏>化したかたちで、幾多の経典類が著      産され発展してきたものである。      ブッダの教えの言葉を無制約的に拡大解釈して、その<悟り仏>を世界万象に反映回帰させる      観念性を表出進展させることになれば、あるいはその観法会得の世界を深悦表象する心理状態      に至れば、まさに世界は、視えると視えざるとに限らず、<仏世界ひとえ>であるとの、ある      一種の<一切智の世界観>がそこには生まれ出るものとなる。      (かって古代ガンダーラ文化が、西方ギリシャ文化との係わりで生起し、仏像製作の始まりと、      その流行をみたが、紀元後になってからは、また、後世に<大乗仏教>と言われるかたちで、      再び仏教が息を吹き返し、復興隆盛を極めるに至る。その知的な究極の要因は、西方オリエン      トからの思想的刺激によるものであったと見られる。      因みにギリシャ思想系のヴァレンチノスのグノーシス世界観や、原始キリスト教系のロゴス・      救世主観から始まって、アリウス主義の神学的世界観などに至る、西方宗教事情の知的情報の      東方近辺への流入、そして、その変移転用となりうる知的な刺激がそれであろう。)            -------------------------------------------------------------------------------------------       ●●民間研究者およびサイトページでの諸説・諸見解:
  1.) 古代の天皇の中に'神'の字が付く天皇が三人いて、その神武天皇、崇神天皇、応神天皇が     百済、高句羅、新羅のそれぞれの出目の初代王(天皇)だったと、その存在を想定する仮説の     提言をする方:http://blog.goo.ne.jp/n_ishii517/e/7926006bf3dc58d996e9e0eb3eeb2beb