1.ダニエル、エステル、エズラの3文書に関わるペルシャの古代王:
=その年代考証= ”ダリヨスとは!、アハシュエロスとは!”
【問題の背景】:
問題の歴史的背景となる状況は、本旧約文書なるエステル記に関して、近代末19世紀における
聖書批評や聖書検証の学究ブームにおいて取り上げられ、その研究成果の一応の見識が明確に示
されたかたちで留め置かれ、その課題の終解を得たとするものであった。その19世紀検証の見識
は、現代に至るも一般的な見方として継承されたものとなっているが、テキスト本文そのもの、
文書の成立と文書に記された出来事を取り巻く時代史的背景の特定など、その問題課題の深さに
は計り知れないものがあるようである。
因みに古代のユダヤ教のラビ(律法学者)へと発展、繋がるような前代の学者、特にペルシャ帝
国のアルタクセルクセス王の時代のユダヤ学者エズラ(エズラ、ネヘミヤ記中)を筆頭例として、
時代が進展し、下ってゆく過程において、<モーセ五書>の注解、適用解釈だけでなく、多種な
る聖文書の結集(旧約聖書になるもの)保持、少なからず諸書全体に関連した整合性を考慮した
認知研鑽の営みもなされる。(ダニエル書、エステル記、エズラ記、ネヘミヤ記の関連も含め。)
やがて、ヘレニズムの時代になり、その動向の注目すべき大きな進展は、まさに世界に向けての
<旧約聖書>文書のギリシャ語への翻訳事業を行うという時代に至る訳であった。その訳業の要
請者とスポンサーとなったのが、エジプト・アレキサンドリアに王立の大図書館(学問、文献の
研究センター<ムセイオン>の付属施設として)を所有、運営するプトレマイオス朝王国であった。
この図書館への収集蔵書のため、ユダヤで集成されていたヘブル語聖文書(旧約聖書相当分等)
がギリシャ語に翻訳、蔵書される時代を迎える。(一般的に初代図書館長の就任在暦がBC285年
頃から270年頃の期間とされ、この頃すでに図書館の建立竣工がなされていたと見られる。=プ
トレマイオス朝初代王プトレマイオス1世ソーテールの治世末期から次代の2世王フィラデルフォス
治世〔BC282年から単独在位、246年まで〕の初めには大部の完成で運営始まり、初代館長となっ
たエフェソスのゼノドトスは、ホメロス作品の当代第一級の研究者と評価された著名人であり、
作品『イーリアス』は先のアレクサンドロス大王の携行愛読書であった由縁から招聘任命されたとも。)
この翻訳は、ユダヤ人ラビ、70人規模で長い年月(遅くともBC3世紀中葉からBC130年代)
を要し、世にいう「セプテュアギンタ」として完成したわけだが、この前代未聞の大容量の翻訳
時代までに<エステル記>の“アハシュウェロス=Ahas'ue'rus” なる王名人物がペルシャ王
アルタクセルクセス(キュロス王からの5代目王=BC465年~425年治世)に比定され、一般的
に当時の有力解釈と見られていた。(この解釈見解は、遅くともBC4世紀初め頃には成立し、
翻訳のヘレニズム時代に至っては、ギリシャ語への確固たる歴史表示として、"アルタクセルク
セス" との王名が適用され、ギリシャ名翻訳されるものとなる、、。)
しかし、その<70人訳ギリシャ語旧約聖書(セプチュアギンタ)>の"アルタクセルクセス"名の適用
訳は、その後の経過は明らかでないが、そのまま紀元後の数世紀、中世以降まで引き続いて維持
されたとは見なしがたい。伝統的なユダヤ教に対して、キリスト教の出現、その発展が顕著とな
ったから、2世紀前後にはその唯一のギリシャ語旧約書がキリスト教徒の信仰教書に用いられる
現状により、ユダヤ教ユダヤ人側での長年にわたる使用の好評を失う状況となる。それでユダヤ
教徒側は、新たにギリシャ語への翻訳、及び改訳などを試みる結果となり、結局、三つの翻訳書
が、2世紀初頭、ハドリアヌス帝(117年~138年在位)時代から順次成立するものとなる。
それら三つのギリシャ語訳と、初典の70人訳を含めて、初期キリスト教の最有力神学者オリゲネス
(185-254年頃在世:その著書には新プラトン主義の影響が見られる)が、六つの旧約書の本文
を比較対照出来る6欄上下並行式の対訳書(批評注釈付き)、<ヘクサプラ>を著作する過程を
経ているが、因みにその配置欄順は、上段から
・ヘブル語原書(ユダヤ教伝統ラビらが継承しているもの)
・ヘブル語原書の本文の読み発音をそのままギリシャ語アルファベットで音写表記したもの
・ギリシャ語訳(三つの訳の最初のもの、アキラというユダヤ教に転向した人物の訳書、この
訳は意図あって、あえて逐字訳(直訳)に徹した試みのものである。)
・ギリシャ語訳(三つの訳の一つで、エビオン派のサマリア人シンマクスによる翻訳書から)
・先来最初の70人訳LXX〔セプテュアギンタ〕:アレキサンドリアにてのトーラー〔モーセ
5書〕からその訳業が始まったギリシャ語訳のもの
・70人訳旧約書への最初の改訳(三つの訳のうちの一つ、テオドティオンというユダヤ人の
キリスト教への転向者と見られ、その改訳には上記のアキラ訳を参考にして、ヘブル語本文
も参照利用しての改訳書)
だが、そのオリゲネスの<ヘクサプラ>は、完全に全ての旧約聖文書類をカバーしてはおらず、
主要なもの十数種類を取り上げてのもので、そこでの<エステル記>本文に関わるスクライブ内
容が知られ得るものとはならなかった。(アキラ訳、シンマクス訳、テオドティオン訳のそれぞれ
が<アハシュウェロス=Ahas′ue′rus>をどう訳したか、三者共に<Septuagint=70人訳>の
それを引き継いで、"アルタクセルクセス"としたとの記述に関する歴史検証は定かでないが、。)
バビロニア捕囚からの解放帰還後、神殿、ポリス再興の長い年月を経て、宗教性を色濃くしたユダヤ
民族の<生活共同体>の基盤であり、ユダヤ教の起点となる神殿とその祭儀が再び失われる事態
に見舞われるまでの長い歴史過程(BC537年~AD70年)の間で、ユダヤ教の成長発展となる聖典
文書類に関わる特筆すべき一大動向は、その保有聖典類を外部世界に公開するようなギリシャ語
への翻訳事業であったと見られる。
この翻訳への経緯がヨセフスの『ユダヤ古代史』第12巻の初め2章から平易にその伝承史料を用
いて記している。エジプト・プトレマイオス王フィラデルフォス(在位283‐245年)の大判振る舞いの
翻訳要請の筋書きとして記し、ユダヤ・エルサレムの政治的宗教的代表トップの大祭司エレアザロス
は、何ら憂躇することもなく、欣快、交誼の思いで引き受けたとの風合いで彼は記述している。
(このエレアザロスは、先代の大祭司職シモン1世からの中継ぎとして、幼少の子オニアス2世の代
わりにシモンの兄弟だった彼がその職位に就いた)
ヨセフスの『ユダヤ古代誌』がAD1世紀末、90年代以降にローマ世界に知られるようになったが、
この記述された歴史的面々の物語誌が、かのギリシャ語への聖典翻訳の時代に、極めて記事蹟的
にその表面上密接な繋がりをなし、70人訳翻訳完了時から凡そ250年ほど隔たりがあろうとも、
<70人訳ギリシャ語聖典>から<ヨセフス『古代誌』>というこの二つの文書の出現事情によ
り、関連的に刺激し合う影響力に直結した様相観をもたらすほどに、諸聖文書に関わる論点アプ
ローチ志向の歴史的初流を感じさせるものとなる。それは、ヨセフスも<エステル事蹟>を記載
し、ダニエルの事蹟物語を述べ、エズラ(エスドラス)やネヘミヤ記事を物語り、それらにより
ペルシャ王との関りを必須のものとして言及しているからである。
双方に共通関連した文書内容に一致しない面が多々見い出される事で、関心、問題点を誘発する
ものとなるが、例としてヨセフスの<ダニエル言及>に関しても大いに然りで、そこでは彼が、
ベロッソスの「バビロニア誌」の内容を引き合わせて用いている事からその真、その是非が問わ
れるものとなる。ベロッソスは、自らの誌書もって、ユダヤの聖文書類からの歴史相を骨なしに
せんとしたバビロンの有力神官でもあり、自分らの<ベル神の再興>を企図している。
ダニエル書における諸王と、その年代関連についても、その共通項として自らが書き記す史によ
り、そういった言及に関して、その代替表記に成功していると云ったものとなる。
しかもベロッソスの記述時代以降、<ベロッソス・セリウコス王朝 対 エジプト・プトレマイオス
王朝・セプテュアギンタ>という両者の時代史的構図が色濃くなるが、ユダヤ当世時代における
ラビ・ユダヤ教への発展移行過程で、その聖文書対応事情、および新たなキリスト教との対立、
競合など、複雑化するそのリアル時代相により、そういった構図は、時を重ねる雲、カスミ見え
て来ないものとなっている。
しかしながら直結ヨセフス路線の記述歴史とは裏腹に、その<古代誌>登場出著と時を同じくし
て、同族ユダヤ教のラビたちが自分たちの本幹基盤とする多様な聖典書群の本来的な選別正典化
を計り成したというユダヤ教発展の動向は、かのヘレニズム時代の彼らの翻訳事業時に遡っての
内情内幕の事情、動向に大きな因縁が在ってものであったと見られる。つまり、その翻訳事業に
望むに際して、<モーセの五書>だけでなく、進んで他の聖文書、聖典類も外に向けて門戸を開
くものとなるを予知、前提にして対処すべき時代になっていた。
大祭司エレアザロスは、プトレマイオス王の要請をすんなり快諾しているが、その背景には既に
ある程度、どう対処すべきであるかという体勢への自覚、対処手法へのあり方も考慮されるに至
っていたと見られる。ラビグループも大祭司の意向を積極的に支持する派もあれば、危機意識を
強く抱いて事に当たろうとする派もあり、祭司らグループの中には文学に優れ、諸聖文書に付加
すべき、補遺の書作を目論む者もいたと見られる。
だが、そういった対処傾向の時代背景よりも先行して、もっと込み入った時代史的背景事情は、
ユダ部族系とベニヤミン部族系との間に生じたと見られる。
その時代史的事情を項目的にまとめると以下の如くになる。それらを総して見れば、その時代状
況の根底的なある基相を在化せしめ、その趨勢が<問題の発端となる要因相>となしている。
ⅰ.南ユダ王国からのバビロン捕囚の民(2部族系)と、北イスラエル王国の民(10部族系)は、
同じ運命を辿ることで、広大な領域(バビロニア、アッシリア、メディア、ペルシャなど)における各拠点
を居留地にするが、ユダ系の捕囚民(BC600年前後~)よりも一世紀余り先の10部族系の
民もアッシリア帝国の滅亡により、また同じBC600年以降、カルデヤ人ネブカデネザル王が
メディアの首都エクバタナを征圧した折により、再度同様な困難辛苦な生活の日々に晒され
る。こういった同じ生存運命により、ある程度は元々の12部族としての同胞、同族意識を培
い高め、双方一つに融和、融合したる趨勢を見せるものとなる。
こういった時代当世、ユダ、ベニヤミンの2部族系残存の民よりも、やはり10部族系の先住
残存の民の方がはるかに多かったと見られ、イスラエルの民として、また後のペルシャ時代
には、かのパレスチナ(カナン)の故地へは、広域なユダヤとしての一般意識を抱くものと
なる。
ⅱ.ペルシャ王キュロスの発令(BC538年)により、バビロンからユダヤへの帰還の際は、やは
りかってエルサレムを中心として代々生活してきたユダ族系の民が主導権を執って、その帰
還を奨励、実行するものとなる。その非常に困難な生活状況でのエルサレム復興、神殿と町
の再建を行ううものとなるが、その過程を介して、ユダ族系がアロン系レビの祭司、大祭司
を立て擁護することで、ほぼすべての指導権、主権的地位を築き行くものとなる。
ⅲ.外敵妨害などで度々工事の中断が生じる厄介な状況にて、困難な再建復興に翻ろう、余分
な対応に従捉されるばかりで、年月が過ぎるばかりとなる。
王家すじのゼルバベル、アロン系祭司後裔となるエシュアに率いられた第1回目の帰還は、
エルサレムとその宮に密接に係わる祭司22組とレビびと、宮に仕えるしもべたち、近隣
の町々に属する民とその氏族の長らほか、主要人員数を整え確保しての、その総数がおよそ
5万程になった。帰着後3、4年までに宮の基礎を据えたが、結局その後の本殿とその外構建
築は進展せず、城壁、城門の修理も未着のまま、BC536年頃から520年のダリヨス王の治世2
年まで中断、その再開後の、BC515年の初め(治世6年アダル月の3日)に、ようやく神殿だ
けが完成した。城壁、城門は、かなり後先のBC445 or 4年(アルタシャスタ王の治世20年
or 21年エルル・第6月25日)に完成、神殿完成時からさらに70年の年月が経過していた。
こういった時代状況の過程で、祭司であり、有力な律法学者の一人、エズラがバビロンから
エルサレムに帰還する。エズラ記ではアルタシャスタ王の第7年1月ー5月の第二陣の帰還(先
の帰還時で、居残ったユダ系氏族らの子孫も含めて)のものとして、エズラ記7章から8章
にかけて、その模様記事が記されている。(BC459年〔 or 458年〕時の事)
この学者肌エズラの到来により、エルサレムの精神史的傾向は啓発、修善、高められるもの
となる。彼の到来以前のエルサレムでは、祭司ら共々、知的な活動、聖文書などに関わる研
究などにたずさわる糸口や場が整えられていなかった状況であった。その点、バビロン地方
での民、共同体での研究文化活動は刺激的に充実、整えられたものであった。
このエズラも、父セラヤの先の第一陣の帰還時にはバビロンに残された者だったが、成長し
てモーセ5書などの研究に没頭するものとなる。やがて<聖文書類の所産の代表>のような
存在として、帰還すべき時が、彼にいよいよやって来たという事である。
(彼の帰還時には、エルサレムの城壁、城門および扉など、その工事は放棄されたままであ
った。ペルシャの先王の時における妨害以来、手付かずでそのまま、現王アルタシャスタの
エズラの帰還時にまで至っていた。かなり民ら、エルサレムの指導者らも含め、その意欲が
沈滞低下したものであった。この時期ペルシャからの総督による税が重かった事も大きな一
因ともなった。この傾向にも拘わらず、彼は活を入れ、意欲を起こさせ、新たな手順指向に
より、建築資材、加工木材や加工石材の地道な製作、確保にも乗り出すものとなる。この大
規模な長年の下準備により、ネヘミヤが新たにユダヤ州の総督としてやってきた折り、アル
タシャスタ王の第20年、BC445年には一斉に構築分担工事に取り掛かり、52日を経て
城壁が完成、驚くほどに短期的な施工期間となっている。=ネヘミヤ記6章15節)
そういった事蹟の後、エズラは、聖文書類の整理、校正、また自らの<エズラ書=(エズラ
記とネヘミヤ記は一つの書として後世に伝わる)>を記すものとなる。だが、かなりの高齢
になっており、その著書の内容に重複的傾向が多く見られ、何か整然としない記述を余儀な
くしたかの如くである。(読みづらい、どうのこうので、のちに編纂分割されたとも、。)
この著述の折りに、関連する聖文書なども参照、考慮したものとなるが、その中で、<エス
テル記>の巻物にも一隅の情報を得る。だが、その内容事蹟がスサの都での事ゆえ、また、
ベニヤミン族からのものであったから、時代の明確な年代把握の決定的見識を持ち得なかっ
た。が、自らの年代人生から見ての判断として、その文書の冒頭、<アハシュエロス王>とは
ペルシャのクロス王の子カンビュセスか、或いは次のダイヨス王の子クセルクセス王、わが
親王アルタシャスタ(アルタクセルクセス)の父であろうとの見識に至る。これによりエズラは、
自らが記す書で、<アハシュエロス>の王名を引用、当該のエズラ記第4章6節に記載し、
その前後の節をもって、
ペルシャ王クロス ➡ダリヨス ➡アハシュエロス ➡現王アルタシャスタ(ギリシャ語名:
アルタクセルクセス)の系譜で、文書整合するものとなる。
だが、この彼の記述の折り、注目、注意すべき事があった。それは、ユダヤの聖文書類の中
で、未だ封印され、開き読まれていない諸巻一組が残されていた。それがいわゆるダニエル
書であったわけだ。"ギリシャの世が来るまで封印を解くな”と明記されて伝えられていた。
それがエズラの手の届くところにあったのか、それともバビロンのユダヤ・コロニーの学風
研究所に保管されていたのか、或いはダニエルの縁戚、後継者が秘蔵していたのか、定かに
は知られていないままに、後々にダニエル書が日の目を見るものとなるが、、、
(因みにエステル記は、その原本ベースにおいて、神の名、主の名が一度も記されていない。
これはユダ・エルサレム側から見て、非常に異な事である。後に補遺書によりユダ系感覚に
して他書と整合し所有したと見られる。がしかし当初は、ベニヤミン族系と10部族イスラ
エル系の同族同胞、共存状況を、また故国を今や一つのユダヤ州全体として共通に意識する
事で、その下での記述、筆録であったと見られる。)
近代に至って<アハスエロス>に関する所見、言及が改めて再認識されるものとなる訳だが、
<エステル記>自体の聖文書類枠(前旧約聖書ベース)における直接、間接な扱い処遇には、
聖文典類の全体的方向性や流れから、一つの事蹟的歴史を2つの局面的流れの中で扱われ得
るとして捉え見ることができる。
一つの流れは、<70人訳ギリシャ語聖書LXX>内での扱いを起点とした系統のもので、それ
にヨセフスの一般史的な「ユダヤ古代誌」の内容が絡んでゆく事で、その論視過程が生まれる。
そして、2世紀初頭末~中葉にかけてのオリゲネスの6書テキストの比較対照を試みた<ヘク
サプラ=6欄並列旧約聖書>が登場、これによりヘブル語正典系とギリシャ語LXX書及びその
改訳テキスト系のそれぞれの本文間で、色々な相違が顕わにされ、時には注解評も示される。
もう一つの流れは、これも<ギリシャ語への翻訳(70人訳LXX)事業>に絡む事情を起点とし
て、聖典類の扱い動向の流れを云々するもので、ユダヤ固有の<ヘブル語原典>保持、存続を
改めて強く意図する試み、その発展的な流れにおいて、どう対処するかというものであった。
ユダヤにとって前代未聞の翻訳事業という事で、大変に物議を醸す事情のものとなる。今日で
云う<保守派とリベラル派>といった二系列的なラビ集団に意見が分かたれる状況ともなった。
神殿に従事する祭司組クラスも、大祭司の<翻訳受託OK外交>に皆々が一辺倒ではなかった
と見られるが、大祭司の権限行使には先見の明もあり、(というのは、翻訳要請のエジプト側
プトレマイオス王朝の全面的な資金調達、及び膳立てによる事業だというメリットがある訳だ
が、その事だけに由るものではなく、内外ユダヤ民族民衆の言葉、言語の事情状況を鑑みて、
その将来的動向を予見してこの機会に乗じるを得策と判断してのもの。)という事で結局は、
その翻訳事業の実務を任されるラビらの階級が、その対処の方針あり方等、将来に向けての、
しっかりとしたコンセンサスある基本姿勢を共通のものとして内に秘め、その方針に則って事
に当たるというものであった。
その対応に係わる基本コンセンサスは、自民族内に対しては、伝来のヘブル語原典類テキスト
をしっかりと伝統的純粋に守り保持する事で、(これは主に保守派のヘブル語専門通のラビの
目処、管轄となったが、)その翻訳事業への了解対処とするものであった。
そして、ギリシャ語への翻訳に実拠しての対応では、他国、他民族の諸異邦人らを念頭にして
<対外向け用の訳本原典の体系化>を目標とした翻訳、及び編集、編纂を旨とする心得にて、
その翻訳実務に与り臨むというものであった。
このような対応方針の結果、その翻訳全般の完了の後に見られる事となるが、何世紀もの遥か
のちに第2正典と定めた(西方カトリック教会ほか)諸典書とか、プロテスタント教会系が、
<アポクリファ=旧約聖書経外典>として除外した典書類を増伴して大成(~BC150‐130年代)
する事になったのがギリシャ語<70人訳原本LXX-セプティアギンタ>であった。
これら第2正典、又は経外典となるものの大半は、翻訳時代の過程のさ中(BC3世紀後半~2世
紀後半)と、<70人訳本成立>後の最初の写本時期(BC1世紀―AD1世紀)に著作成立したと
されている。
かの翻訳事業が始まる前に出揃っていたとする書巻本があったとするならば、それはトビト書
とユデト書が適宜として挙げられよう。だが、注目すべきは<エステル記>であり、その追加
分編集が補遺文挿入という形式でなされ、且つ聖典視されるのは翻訳事業の時より、かなり以
前(BC4世紀中葉前後:ペルシャ時代末期)においてと見られる。
この折りの編集では本テキスト内の文中3か所のみの補遺文挿入で、事が成るものであったと
推定される。
その後さらに、翻訳事業完了の後、BC40~30年代以降に、そのエステル全訳本は、テキスト
本文の初めと終わりの2か所に関連的に対となるような補遺文が追加されたと推定される。
が、この追加分は、全く既存の<70人訳ギリシャ語原典>そのものの<写本製作時での編集>
と見られ得るものであった。(未だ年代を正確に定める事不可能なる古代であった点に注意)
こうした傾向の流れは、先述したように<内に伝統的ヘブル語原典>を厳正にキープする一方、
ギリシャ語の<70人訳LXX本>を対外異邦向けを兼ねた<外向け用ギリシャ語原典本>に定
めると共に、これには適正、適宜な編集対応をも許容するとして、時代状勢への順応を示した
ものと見られる。
このようなバイブル聖典書に係わる2本立ての流れは、ギリシャ語外向け聖典書(LXX)をして、
ヘブル語原聖典書を防備(テキスト内容を守る)する意図も込められつつ、それぞれ互いに影
響を因しながらAD1世紀代に至るものとなる。ラビ保守系ヘブル語原典も、(話し言葉のヘブ
ル語が消え去った現状にて、ヘブル語の読み書きがラビらの専売特許となり、彼らが町々村々
のシナゴーグ〔会堂〕で、ヘブル語聖典〔5書や預言書〕を朗読し、また小規模ながら読み書き
学習に師事したが、)ギリシャ語での母音字を用いて、ヘブル語の読みのフリガナにするとい
った補助的な進展傾向もなしていった。(後のオリゲネスの<ヘクサプラ>の一つにも通ず)
この2本立ての流れは、キリスト・イエスの在世後のキリスト教の出現(AD30年代)と進展、
及び対ローマ戦争でのエルサレムの壊失(AD70年)により大きく変動し、聖典文書に係わる
外向き、内向き二元体勢の意図や存立意義は、完全に崩れ破たんするものとなる。生き残った
ラビたち、宗教伝承の指導者らにとって、もはやラビ中心的ユダヤ教にとっては<70人訳ギリ
シャ語聖典>の保持継承の価値は無きに等しいものとなる。
その<原典LXX>は、やがてテェオドチオンの改訳、改訂の<ギリシャ語旧約書>に取って替
えられ、キリスト教徒利用向けの度合いが高くなる。それでユダヤ人保守派ラビら(ユダヤ教)
も、<ヘブル語聖典類>のみをバックボーンとして保持し、ユダヤ教の精神的所産体制の新た
な進展へと向かう時代となる。
(タルムードやマソラ本の作成出現へ、マソラ本旧約テキストは、9-10世紀にその完成の域
に達した。ヘブル語マソラ本は本文内容の色々な注解付きで、母音記号や節回しアクセントなど朗
読、読みでの伝統を保持するために考え出され、その変遷、発展を経て完成に至った。)
これは、紀元90年代、及びその年代に至る過程で、保守系パァリサイ派ラビたちの新たなユダ
ヤ教の拠点、研究施設となったヤムニア(エルサレム西部の古くからの町ヤブネ)での彼らの
活動において、ヘブル語聖典書群からの厳正な選別により、ユダヤ教自身の<正典>と定べき
ものを確定、公表するに至る。その正典の基準照合により<70人訳本LXX>における他諸本、
追加文書一切を正典に属するものとしない、除き置くものと見なした。(この動向にユダヤ教
のヤムニア会議が行われたと推定された説が19世紀末以来論じ提唱され、今日に至るまで
その説の是非が問われ論議されているが、、、。)
こういった<ヘブル語聖典書群>に関する流れで、キリスト教の<旧約聖書39巻>の策定
への時代も開かれゆくものとなるが、ティオドチィオンのギリシャ語旧約書の成立(AD150
年頃)からオリゲネスの<ヘクサプラ>時代(230-240年頃)、それから後AD4世紀末には
ラテン語への翻訳校訂の新たな進展(ヒエロニムスによる<フルガート旧約聖書の完成>:
385年~405年頃)という決定的な翻訳文書群の初期大成化が見られるなかで、近世、
近代へ、15世紀後半の活版印刷の登場以降に時代へと問題諸点が運ばれゆくものとなる。
[注]:ヒエロニムスがラテン語に翻訳する時に用いたテキストで、<エステル記>については、
<70人訳原本セプティアギンタ>であった。そのエステル記正典のテキストには補遺文が
5か所分(かなり多くの文量で全体の3分の1以上)でもって、追加編成されていたもの
だが、ラテン語に訳す折りに、すべてそれらを抜粋し、まとめて<正典テキスト>の最後
に別文の追加であるとの印を付けて配置している。
一方、ダニエル記は、その三つの追加文書として、テェオドティンのギリシャ語訳本(AD
140-150年頃)に付随したものからの翻訳となっている。がその扱いは<スザンナ物語>
は、ダニエル本テキストの前頭から後尾に移され<ベルと竜>文書と共に配されている。
もう一つの追加<アザリアの祈りと三童子讃歌>は、本テキストの所定位に留め置くを許容し
たが、それら三つとも、<エステル記>の場合と同様に別文の追加であることの印を付し
ている。
それぞれ双方の追加文書には、本元オリジナルの<70人訳LXXセプティアギンタ>の作成編纂時
に、その追加意図の事由、目的に見合った文書が適宜に用意され、最初に添えられたと見
なされるが、本文テキストとの違和感があるのは否めない。
<エステル記>の追加文に関しては、馴染みの度合いがとれて、良くマッチしたかのよう
だが、それにより問題点が覆い隠され潜むものとなり、また新たな問題視点も生じてくる。
<ダニエル記>の方は、本文テキストの文書質感とは完全にマッチしない三つの追加文書
と云えるものである。三つの文はそれぞれに特典があるが、総じてイスラエルの律法と預
言書の教え知見に基づいた教導的物語(スザンナ、ベルと竜)と、モーセ5書他正典から
修熟会得された精神知識からの信仰の祈りと主への讃歌(アザリア、三童子)という人間
側ベースの文書質感、いわゆる信仰する立場の人間側くさいベースからの表出文書として
その質感を表している。
それに対して<ダニエル本テキスト>は、全くそういった精神ベースを基点として生ずる
文書記述のものではない。ダニエル自身が神の側基点に取り込まれ、記されるべき内容の
数々(啓示内容)を受け預かる立場に在らされて、記述をするものとなるから、その本文
全体からも、それを総じて云えば、<啓示性の文書質感>が極めて自然なかたちで全体に
わたり反映、浸透しているかのごとく表出、表示されたるものとなる。
<エステル記本テキスト>には、受け預かる内容のようなものは全く見られない。これは、
事蹟の摂理性をベースとしたものと見なされるが、それにはまったく気づかない、秘め隠
れたものとして、その事蹟物語を極めて自然なかたちでの摂理的歴史性として、それその
ものを啓示となし得る記述の文書質感の特質を示すものである。
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ダニエル書でのダニエル、エステル記でのモルデカイ(娘エステルの養父となっている人物)とは
双方の書を見る限りでは同時代人だと、判断されうる。 ダニエルはユダの王エホヤキムの時、捕囚
となり(彼の治世の第3年:BC607年頃)、一方モルデカイは、エホヤキムの子エホヤキン(幼名
エコニアで当時8才で即位)の時、バビロンへの捕囚となった。 エコニヤだけでなくモルデカイも
又、その時15才前後の少年だったと推測されうる。(ネブカデネザルの治世第8年:BC598年頃)
エコニア王に関しては、その37年後(BC562年)バビロン王ネブカデネザルの一人息子、エピル
メロダクが即位したその年の暮れ、彼が幽閉の獄から解放されたとの記事を旧約聖書の中から見い出
す事ができる。(列王紀下25:27~、エレミヤ書52:31~)この何の変哲もないごく普通の
記事に何か引っ掛かりを感じないだろうか。エピルメロダクがただ単に不意に思い出したかのように
そのような”解放の命令 ”を出すであろうか。 彼が何かに後押しされて、あるいは不穏な属州帝国
内の情勢に心動かされて等々、、、、とにかく何らかの要因、動機があったと想定されよう。
その頃の時代、ネブカデネザルの王妃アミテス(この妃のためにあの有名な空中庭園のある北の宮
殿が建設されたのだが)の実兄と想定されるメデア人アハシュエロス(アハシュチュアゲス)は、エラ
ム州の首都スサで王としての執権を行使していた。 彼はネブカデネザル王と同年輩ぐらいであった
と思われ、ネブカデネザルの統治の後半は、共同統治者としてその任に当たるようになっていた。
息子エピルメロダクが未だ若かったためである。(この2人の王の父親達は、かって強大を誇ったア
ッシリア帝国の首都ニネベを陥落せしめた時の盟友の仲であった。)
ネブカデネザルの晩年(彼は病没するが)からエピルメロダクがバビロンで在位した時世には、はや実
質的にスサの都が、全国を統治しているような体制の傾向を兼ねており、その趨勢でもってバビロン
の宮廷がバックアップされていたと思われる。
ネブカデネザルの一人息子エピルメロダクが、BC560年(治世の第3年目の年)に暗殺されると、彼
の母でもあった王妃アミテスの実兄アハシュエロス(アハスチュアゲス)がカルデア人の国、バビロ
ン王国を受け継ぎ領有するものとなった。彼はその時、おおよそ62才くらいで、バビロン州では、
メデアびとダリヨスの名で一般的に知られていたと見るべきであろう。(ダニエル5章31節)
ダリヨス=ダレイオスという名は、個人呼称の名として用いられる以前に、世間一般的には大いなる
人物としての<王者>に冠される呼称であった。ダニエル又はその記述者は、あえてその呼称を用い
た、或いは用いなければと、見られる何らかの理由、訳があったとも、、、。
(ダニエル記5章1~30&31節:エビルメロダクは幼少からの名前で、ベルシャザルは王として
の権威ある尊称名ともとれる。エビルメロダクは、カルデア語ではアピルマルドゥクであり、一応は
バビロンの守護神<マルドゥクの息子>を意味する名である。ベルも同意語にあたるバビロニアの至
高神をあらわすものである。)
ともかく、ダニエル記では、その記述のごとく彼の治世が名実ともに新たに始まった訳である。が、
その執権王座は、以前からの従来どうりスサにあり、そこを首都としていた。何故ならば、バビロン
を受けて数年と経たぬうちに共同統治者で彼の後継者 (息子)たる ダリヨス2世が、カルデア人の王
としてバビロンで正式即位したからである。(ダニエル記9章1~2節)
こうした政局の背景としては、メドペルシャ(二重国家)体制へと至る新たな継続時代が、ダリヨス
1世(父アハシュエロス)と、子のダリヨス2世によって事前準備されたとするものだが、その裏には
地方豪族の有力な一勇キュロスの著しい台頭があり、メデア州だけでなく、本拠地となっていたエラム
州(スシアナ)及び、その南東、東方周辺が予断を許さぬ状況になって来ていたからである。
BC538年天下の都バビロンを征したペルシャ人キュロスの登場までこの体制は、20数年間存続
するものとなるが、BC550年以降には急速に衰退の一途をたどる。 アハシュエロス王(ダリヨス
1世)の没年は判明しないが、キュロスによって幽閉の憂き身、追放の身に晒されたであろう。75
才前後以降~80才までの間には没したと思われる。エステル記では、彼のスサ在位治世の第12年
までの年記が見うけられうる。(エステル記3章7節) 因みにアハシュエロスは、キュロスにとって
母方の祖父にあたる。(キュロスの母は、アハスチュアゲス=アハシュエロスの実娘である訳だ。)
モルデカイがエホヤキン王(エコニヤ、当時8才)と共にバビロンに捕え移されて後、 25年ほどの
年月が流れた。彼は40代前後の年令になっていた。(エステル記2章5~7節)モルデカイの“おじ”
(その名はアビハイル:第2章15節)つまり将来のエステル(ハダッサ)の父となる血縁関係の“おじ”
ではあるが、モルデカイの父の兄弟のうちでは一番末っ子であった為、その年令差は10~15才前
後くらいのものであったろう。 彼ら二人は共あれ、エラム州の首都スサに永住することとなる。
そして“おじ”は、遅くして結婚し、エステルの父となるが、幼いエステルを残して死に、その母も亡
くなる。やむなくモルデカイが彼女を養女として引き取り育てる。(彼らは血筋では従兄弟どうし)
エステルが王妃となって後、その十数年後ペルシャ人キュロスの台頭により、スサ、バビロン体制
の王国は崩壊の日を迎える。その終末動乱のさなかペルシャ王キュロスとエステルとの間で何らかの
接点があったであろう。エステルは30代そこそこの年令でその美貌には変わりなく、かたやキュロ
ス王は40才代であったろうから、、キュロス王の背後にエステルの影があったとも、、このキュロス
王は、ペルシャ人の2世王としてBC550年に、或いはその50年代中に即位したと、ペルシャの史料研
究から知られている。(アケメネス朝ペルシャ開初期)
キュロス王をしてユダヤ人のバビロン捕囚からの帰還、エルサレム(神の宮)の再建を公に布告させた
のも、エステル(モルデガイ)の説示、導きによったものではなかったか。キュロス王もユダヤ人を政
治的に利用するのが得策であると判断し、“天の神”をして預言者エレミヤの預言を成就させることは、
全天下の王位に就くにあたり、大いなる大義の信任となったっであろうから、、、、またキュロス王、
配下の軍勢の徴兵、志願兵で活躍した精鋭部隊にイスラエル(10部族)系の若者が多くいたと考えて
も不自然ではなかろう。確かに彼は自分についての預言に関して、甚だしく感動したと思われる。
バビロン側の碑文その他の史料によると、かのBC560年以降のバビロンの王、つまりユダヤ側での
史料(ダニエル記9章1~2節)にあるダリヨスなる人物は、ナボニドスに相当する。BC539年の
第8の月、キュロス王に敗北し、バビロンをあけ渡したその時の彼の治世年は、バビロン治世第17
年の時であった。したがってこれを逆算すると彼は、BC556年頃即位したメデア人のバビロン王ダリ
ヨス2世その人であったことが裏付けられうる。ペルシャ人キュロス王の勢いは、BC550年頃その
上昇期に達しており、その頃、549年にメデア(旧首都エクバタナ)を征服しているから、かのバ
ビロン、スサ体制のバビロニア帝国は落日の時期を迎えていた。東の都スサに関しては、キュロス王
がバビロンをとる以前に手中に納めたと思われる。それはBC545年前後であろうか。 彼キュロス
の曽祖父ティスペスの代から、スサはアンサンと言われる地方(エラム州の東部地域の呼び名)を含め
た首都であったが、前7世紀末からのバビロンの台頭によって、 その王ネブカデネザルに征服されて
その勢力版図内で主要な位置を占めていた。ペルシャ人キュロスは再びスサをとり戻した事になる。
エピルメロダクが、BC560年に暗殺されたが、その首謀者はネブカデネザルの娘婿ネリグリッサロ
スである。彼はエルサレム攻囲に加わったネルガル・シャレゼルであると見なされている。(エレミヤ
記39:3、13節) 彼の在位は、バビロン宮廷での名目上の王として、都バビロン市を4年半統治し
たが、これはいわゆる都の都知事のようなものであった。(ヨセフスのユダヤ古代史では40年間の
統治となっているが、これは彼の創作らしい)彼の息子で、その後継者ラバシ・マルドゥクは、年少
で即位したが、数ヶ月で暗殺(撲殺)された。その陰謀者の一人にナボニドスが加わっていたが、そ
の彼が本当にアハシュエロス王、つまりエステル記での王(ダニエル記ではかの62才のメデア人ダ
リヨス)の実子であったかどうか、養子の息子だったのかは定かではない。(ヨセフスは別の見解を
取りながらアハスチュアゲス、つまりアハシュエロスの子としている。)王妃エステルも、老王ダリ
ヨス(アハシュエロス)との間には、子は得られなかった。
一般的にエステル記での王アハシュエロスは、アルタクセルクセス王(465~425年在位)の父
クセルクセス王(486~465年在位:クロス王から数えて4代目)に該当するとの説が受け入れら
れている。そしてその説の場合エステルは、その王の治世の7年頃(BC478年)に王妃として記録され
ている名<アメストリス>という娘に該当するとの見解をとる。(ペルシャバビロニア年代史料から)
しかしこの説は、まったく旧約聖書を偽となすもので、エステル記第2章5、6節でのモルデカイに
関する記事、“さて首都スサにひとりのユダヤ人がいた。、、、、、、、彼はバビロンの王ネブカデ
ネザルが捕えていったユダの王エコニアと共に捕えられていった捕虜の一人で、エルサレムから捕え
移された者である。”という記事文言に関わる時代に対して、あまりにも年代の差があり過ぎる。
100年またはそれ以上の隔たりがあり、その説をまったく受け入れ難くしている。この聖書、エス
テル記の文言は、初めに前述した如く、BC598年頃(ネブカデネザルの治世第8年)の事をさし示し
ているのだ、、、。しかしながら、広く一般的に受け入れられてきたその説にも、拠って立つ聖書的
根拠が無いわけではない。
それは、エズラ記第4章6節の文言に相当するもので、“アハスエロスの治世、すなわちその治世の
初めに、、、云々”と王名が記されており、これがまさしくエステル記での王に該当するとし、歴史
年代的にまったく疑う余地のないものと見る。つまり<王名一致説>をその根拠としている。また、
別の見解が古代文献から見られうる。
それはヨセフスの「ユダヤ古代誌」においてである。彼ヨセフスは、それにおいて、エステル記での出
来事をアルタクセルクセス王の時世の物語として記述している。ヨセフスはその当時(AD1世紀)広く
出回っていたギリシャ語の旧約正典(エジプトのアレキサンドリアでBC3世紀から同2世紀中葉に翻訳
された、かの70人訳の書)にあるエステル文書をベースにそれを書き記したか、それとも他の史料
やユダヤ古来の伝承録かに基づいて、それを書き記したかのいずれかに違いない。だがその正当性が
裏付けられうる決定的な史料は未だに発見されていない。やはり諸史料に基づいた彼の創作であろう
と見られている。(しかし彼の書と70人訳でのそれは、相乗効果的に大きな影響力となった。)
さて、ユダの王エコニヤ(エホヤキン)がバビロンに捕え移された年は、BC598年頃、エルサレ
ム陥落の11年前の事であり、それから20年~30年ほど経ってエステル記での民族史的出来事が
起きている。ちなみにエステル記は、現在に至った正典集の構成形体としての聖書において、その正
典性を否定する著名な人々がいない訳ではない。 ヨーロッパ中世初期のローマの教皇グレゴリウス
や宗教改革時代のルターなどがその代表である。エステル記の内容はただ単にユダヤ人にとっての歴
史的事件を記した物語にすぎないと見なし、その信仰的価値や神の啓示性を見い出すにはほど遠いと
するからである。 捕囚の民となり、異邦の地に離散し、虐げられたり敵対視されたりしたユダヤ人
ではあるが、エステル記の歴史的事件から連想されるユダヤ人の報復的行状は、まさに血を血で洗う
如くに野卑、野蛮な行為に見えてくる。だが虐げ支配される積年の恨みが大爆発しての行動だったこ
とは確かだ。しかしながら、時代が大きく下り、人間性が社会全般的にその良識と共に向上すればす
るほど、そんな行為は受け入れがたくなる。そんな側面をかいま見るエステル記からでも、様々な古
代の情報を得ることが出来る。
このエステル記を読むと、ユダヤ人(現在もその記念の祭りを守っている)の5大祭のひとつ、プリ
ムの記念祭の由来が手にとる如く知られうる。ユダヤ人はこの記念すべきセレモリーをエステル記の
時代以来、代々ユダヤ全土あるいはユダヤ人の居住コロニーで守り続けて来た。このプリム第ニの書
(=原書=エステル記9章29節)即ちエステル記は、公的な祭礼の巻物としてその記念日(ユダヤ暦
第12のアダルの月の14、15日)に朗読されてきた。これはユダヤ教の経典タルムードでの正典
の地位を得た事を意味するものとなった。その結果、へブル語旧約原典に基づくキリスト教の旧約聖
書においても、紀元後1~2世紀にはすでにその正典の地位を占めるに至った。
エステル記の物語はユダヤ人のバビロン捕囚の時代のことで、その当時ユダヤ人はバビロニヤ、メデ
ア帝国の全州、全国に散在していた。そういった状況のさなか、国王アハシュエロスの印がある勅書
によって、あわやユダヤ民族が絶滅するやの大いなる危機、災難に直面する事態となった。エステル
記はそのような事態が起きてきた経緯について、そしてその奸計の危機から王妃エステルがいかにし
て逆転勝利し、同朋ヤダヤ民族を救い得たかを記している。したがってユダヤ人としての王妃エステ
ルとモルデカイの存在が、ユダヤ民族存続にとって大いなる意義を有する事となる。バビロン捕囚か
らのユダヤ人の帰還とその後の民族的な歴史、そして、来るべき神の子メシア、キリストの時代へと
続く、その民族的存続を介してこそ、ようやくにして神の摂理史、つまり啓示としての聖史が成立す
るものとなる。そういった視点から見れば、エステル記には正典としての存在の意義とその価値が、
大いにあると云えよう。
ただエステル記での最大の問題点は、これが単なる作り話だとするほどにその内容の歴史的年代査
定が難しい事にある。旧約聖書自体からは一致と不一致、曖昧さから来る矛盾で明確に定める事がで
きない点である。先に述べた如く現在に至るまで広く支持され、承認されているかの説が、古代ペル
シャ帝国の創始者キュロス大王から数えて4代目の王クセルクセスを、エステル記に出てくるスサの
王アハシュエロスと同一視するのはエズラ記にその聖書的根拠を見出しうるからだと述べた。
その<王名一致説>を支持するものとして、“ヘブル語旧約原典”から翻訳され、1970年代に出版
された新改訳聖書は、エステル記第2章6節の “彼は”の彼をモルデカイとする関係代名詞(英文法
的に云うと)ではなく、前の5節で記されている彼の曽祖父 “キシ”の名を当てている。これはヘブ
ル語の文法上からも、またモルデカイその人を主眼としたその前後の文面関係からも、まさに強引な
異訳(誤訳)としか云いようがない。さらに今一度、その定説の聖書的根拠となっているエズラ記の文
言を再検討してみよう。
エズラ記第4章6節で “アハシュエロスの治世、すなわちその治世の初めに、、、云々”と記され、
その文言の前後の節を見ると、5節で “その企てを破る、、、云々、、、ペルシャ王クロスの代から
ペルシャ王ダリヨスの治世にまで、、云々” とあり、そして7節では “またアルタシャスタの世に
ビシラム、ミテレダテ、云々” と、前後して立て続けに4人の王の名が出て来る。ペルシャの古記
録(碑文等)による王名表では7節のアルタシャスタは、明らかにアルタクセルクセス王のユダヤ名
に当たるから、これらの王達は、クロスの子の2代目ペルシャ王カンビュセスを跨いだ5代目まで
の4人を記すものである。したがってエステル記でのスサの物語は、ここに根拠を求めてユダヤ名
のアハスエロスをペルシャの4代目の王クセルクセスと見なし、彼の治世に起きた出来事を書き記
したものと解釈する訳である。
このエズラ記を記した人物はエズラその人であり、彼は、先に述べた5代目の王、アルタクセルク
セス、即ちユダヤ名アルタシャスタの時代の人である。彼自身の事は、その書の第7章以降から述
べられており、その王の治世の第7年(BC459年)にバビロンからエルサレムに帰還した生粋のユ
ダヤ人(レビ部族系での系図が明白な一族)である事が知られうる。このエズラという人は、第7章
の終わりから8章、9章にかけての文面で、自らを一人称でもって “わたし” と表記しながら、こ
の書を書き記している。
このエズラという人物は祭司の家系でも第一級の家系(モーセの兄アロンの直系)の出で、もちろん
有力な祭司でもあったが、バビロンにおいてはユダヤ人学者グループの一員でもあり、またヘブル語
旧約原典、特に歴代志、列王紀等の校正編纂者集団の有力者でもあった。
それでペルシャの王キュロス(クロス)の治世元年(BC538年頃)の布告令による、ユダヤ人のバビ
ロン捕囚からの帰還(BC536年)とエルサレムでの神の宮再建(BC536年2月から)について、その当時
の記録資料を用いて、その状況、事情内容を記すに至った。彼はその事をエズラ記の第3章7節から
4、5、6章にかけて、神の宮再建に関わる状況が如何なるものであったかを伝えている。
その記述によると、宮の再建は、キュロス王の代の最初期の段階から、異邦の先住民らによって、
何度となく妨害され、思いどうりに工事が進まなかった。それでダリヨス王(3代目の王)の治世第2
年まで、その再建工事は中断のままになったと、書き記す。(異邦先住民、ペルシャ王による移植民)
(第4章4~5節&24節)
基礎が据えられたまま工事が中断されていた神殿建築は、寛大なダリヨス王になって,その治世の
2年目から再開された。だが近隣の州の知事らがやって来て、またダリヨス王への奏上の手紙が送ら
れることとなった。だが運良くその手紙の内容が王の理解しうる所となり、クロス王の勅令を記した
巻物の一つに ”再建の命” が下されているのを見出し、工事は王の命の下、首尾よく為される事と
なった。(第6章1~12節)そんな訳でエルサレムの神の宮は、ダリヨス王の第6年アダル(ユダヤ暦
の12月)の月の3日にその完成を見るに至った。(6章15節) もちろんこれは、まぎれもなく神殿
本体のみの完成であって、周囲の内庭、外庭の外構や廊、それに連なる城壁などは未完成であった。
その年は、BC516年頃に当たるから、当のエズラは幼少か、まだ生まれていなかったか、の時代の
事となる。
そこでエズラは、第4章のところの文面構成である手法、即ち挿入法を用いて時代をクロスオーバー
させている。つまりエズラ自身の時代の諸状況、アルタシャスタ王 (アルタクセルクセス:BC465~
425) 治世初期の諸事情(近隣の異邦人たちが役人を買収しての妨害や彼らの告訴状)や、その前王
アハシュエロスの時にもあった彼らの訴え状の事に注意を促しつつ、それらを挿入文の形式で書き記
している。神の宮本体はすでに完成していたから、その挿入文の諸事情に関わる事柄は、神殿を取
り囲む外構や廊壁、町の城壁等の工事に言及されたものである事がわかる。(第4章12~13節)
彼は自分の時代に関わるその挿入記事を挟みながら、半世紀以上も前のダリヨス王の代にその完成を
なした神殿にかかわる当時の状況を第5章~6章にかけて書き記す。そしてその6章の終わり、22節
で、ダリヨス王のことをあえて、“アッスリヤの王” と明記してその章句を終わらせている。これは
その王が、アッスリヤ地方出身の王家の者であることを示すもので (クロス大王は本家筋で、その次
の代で本家は途絶えており、) 彼は、分家の出身ヒュスタスペスの子と云われていた由縁である。
(彼の父ヒュスタスペスは、今のカスピ海の南方地方(山脈の南麓)、当時ヒルカニアと言われた地方
の総督をしていたが、子ダリヨスは、アッシリヤ地方の総督となっていたかと思われる。)
したがって結論的に云えば、エズラ記でのこのダリヨス王もまた、ダニエル書でのペルシャ時代以
前のバビロンの王、メデア人のダリヨスとは全く時代の異なる王となる。このようにペルシャ、バビ
ロニアの王名が、ダニエル書、エズラ記、エステル記の三者にわたって、年代的に錯綜重複したかの
ような複雑さをかもし出しているので、その点を明確に見極めなければならない。
以上の事からエステル記での物語は、間違いなくペルシャ大王キュロス(クロス)以前のバビロニア帝
国時代の後半から末期、すなわちスサの都にその政治的中心が移りゆく、今まさに繁栄を謳歌せんと
するさなかの時代に起きた出来事であると結論付けられ、先に前述した如き、新たなる新説の見解の
立証がここで成り立ち得るといえよう。
最後にエステル記は、王妃エステルが侍女の一人に書記の役をさせて記録させ、叔父モルデカイから
の情報を考慮しつつ、書き記したと想定しても間違いないと思われる。この場合、王の名前をあえて
実名の<アハスチュアゲス>を用いず、匿名の<アハシュエロス>とした理由は、クロス2世が天下を
継承した事態に関わるもので、クロス2世が母方の祖父アハスチュアゲスをひどく嫌っていたという
経緯により、思案して<アハス+エ+ロ―ス>という形式でのヘブル語名、合成語を考え出したと見ら
れる。(19世紀近代になって、バビロニア語の<Aḥšiyaršu>がヘブル語に転用され、<אֲחַשְׁוֵרוֹשׁ>
となったとの説が導き出されているが、、、)
これは都スサの名のヘブル語名<シュシャン>のアルファベット・スペルが、ユリの花の<ユリ>名
と全く同じスペルとの文字の様相にヒントを得て、<アハス>が毒草のケシの花で、<エ>は、ヘブ
ル語での文と文を繋ぐ特殊な接続の働きをする接頭辞(アルファベット名:Waw 〔ו〕)で、
<ロース>は、頭、かしらを意味して、<ケシの頭目>となり、<ユリの頭目>との対照をもじった
皮肉な別称としている。これによりクロス王のご機嫌を損なわないように、好感善処したと見られる。
この処置は、エステル記の本文の初めに最初に出てくる王名からは、<エ>あたるスペル〔ו〕Wawが
母音記号を付して用いら、9章まで同様であるが、原書本文の最後の10章では、その王名文字が
2度だけ出てくるが、その1節目の最初の王名には、<エ>のWawスペル〔ו〕が何故か省かれていて、
<アハスロス>との読みとなる。これは、そのつなぎの一字〔ו〕のあるなし云々により、その王名が
合成によるものだとの暗示を与えたものと、気づき見るべきかも知れない、、、。
( אחש + רש ➡ אחשורוש )
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