原初教会とパウロの事跡年代記:
キリストの復活と原初教会の誕生:
AD30年 キリストの死と昇天後(過ぎ越しの第一日目、すなわち<除酵祭の日>=種菌を入れないで
焼いたパンを記念して食べる日、その過ぎ越しの晩餐から、翌日の日に主イエスは十字架に
お架かりになり、その第一日のうちに岩墓の穴に納められた。その夕方からはユダヤの民に
とっての<安息日>が始まろうとしていたから、善良なる議員の<アリマタヤのヨセフ>と
いう人がそれを丁重に行った。おそらく将来の自分用にあらかじめこしらえ用意していた岩
窟墓だったかも。彼は主イエスの身柄を引き取り葬ることが出来る立場にあった唯一重要な
る弟子でもあったが、、、。
主のみ身体は、亜麻布に包まれて岩墓穴に置かれ、大きな丸い石で封印された。こうして、
第二日目の<安息日>が終わり、第三日目が始まり、その日の朝方、主イエスは、ご自分で
先に予告されたごとく、その墓穴からご復活=<死んだ状態からの甦り>をなされたのだっ
た。それから40日の間うちに<人の子が天を昇り降りするであろう>との予言どうり、出
現され給い、その後、<ご復活されたご自身>に対する、弟子たちの疑い、疑念も根こそぎ
とれ、ご自身に関することが十分しっかりと理解できたと見て、最終最後の時として、以前、
弟子たちとよく行った<オリーブ山の、とある処(ベタニア)>から、彼らが見守るなか、
神によって天に上げられたという、神のご処遇を彼らは身をもって体験することとなった。
(使徒行伝第1章6-11節)
*****注記(1):
ご復活後に主イエスが、<天を昇り降りする>ように出現なさるということ、そんな事は
前代未聞で、あり得ないことだ。今の現代人ばかりでなく、過去の全ての人々にとっても、
信じることの出来ないことでしょう。このことが本当だと信じることが出来るという事も、
まさに<奇跡>だと言えるかも。かの12使徒達らのように目の当たりにしないにも拘ら
ず信じられるということは!
現実、この<世界>は限りなく<視えない次元>から創造されている。人間の眼では見る
ことの<無限に出来ない次元>から、その存在が成り立っている。<世界のあり方>が、
そういう<成り立ち>と認め得るなら、復活の主イエスのそのような出現も、事実可能だ
と認めることが出来るでしょう。(かっての古代インド、紀元1世末から起こり、4、5
世紀に至る<大乗仏教の発展>の異様さ、釈尊<仏陀>の想像を絶する膨大虚妄化、絶大
化は、この原初キリスト教の諸巻文書とその情報の東方、インドへの伝播なくしては起こ
りえないことだったのだ。(メソポタミアの中継地、<古びた学問・宗教都市となり下が
った、かのバビロン>を経由してのことだが。)【2.宗教を考える】を参照
*****
それから<過ぎ越し>の第一日目から数えて50日目の<5旬節>の日に残された<主イエ
スの弟子たちの一群>は、神による<新しい民の教会>つまり主イエスによる<新しい契約
の民>としての教団を<神の力強いパワー>によって設立されるものとなる。
(使徒行伝第2章)
舌のような形の霊火、霊炎(低温原子イオンの赤化プラズマの現象のようだ。)のようなも
のが、激しい風のような大きな音を引き起こして、皆が集まり座していた一同の上に現れ、
一人ひとりの上に炎のように分かれてとどまったという。このような超自然的<異象>は、
実に考えられないことだが、神によってのみ可能なのだ。(超低温原子レベルでのイオン・
プラズマの創生は、神様のお得意の御業でもある。超低温から超高温にかけての全ての物理
現象の創生までもがそうである。)
さらに彼ら一団の一人ひとりの精神的な自我人格性においても、大いなる変化がその異象と
の視聴覚的連動において起こったのだ。つまり、言葉によって培われ、成長する精神的自己
である<脳>の<神の言葉や主イエスの言葉など>によるその記憶的シナプス回路をして、
あたかも<大きな光>のランプが点灯(真理の光覚醒)したかのようになり、しかもその上
神の全能が、一人ひとりのその精神<脳>をご掌握されたもうて、神のご意思のとうりに、
十数ヶ国語の他国の言葉を語らせたもうたというのだ。(これは、神の聖霊を受けた者は、
その自己御霊によって、<神の言葉>の証しをする、あるいは旧約時代には、預言者として
<神の言葉>を預言したという事象のものと同類系のものだ。)
このようにして、主イエス・キリストの最初の<原初教会>は始められていった。この当時、
使徒行伝の第2章8、9節からの記事で見るように、<エルサレム>は、その神殿と共にか
なり広範囲にわたって世界に知られていた、いわば、非常にインターナショナルな伝統ある
<宗教都市>であったということで、民族的には<ユダヤ人の血筋>ではないが、ユダヤ教
を信奉する<異邦人>も来訪していた。彼らのうちには、<割礼>をうけて、名目上<ユダ
ヤ人>だったりする者もいたのだ。(異邦人の血の混じった半ユダヤ人もいたであろう。)
メソポタミヤ、さらに遠くパルティア、メディア(メジヤとなっている)、エラム、等々と
その記事は記されているではないか。
使徒達の最初の活動:
AD30 12使徒らはその日から、ペテロを中心に自分らに委ねられた<聖なる使命>を遂行するも
のとなる。彼らは、エルサレムの家々や神の宮・神殿の外庭(異邦人も入ることが出来る)、
↓ その東側にある<ソロモンの柱廊>などで熱心にイスラエルの民衆に語りかけ、彼らの<証
しのメッセージ>の内容と、それを耳にするすべてのイスラエル人が、どうそれに応えるべ
きか、怖嘆な思いで説き示すものとなるが、さて、この状況、
【この原初教団の使徒らの<証しのメッセージ>】から、当時の精神的な情景のどんな何が
浮かんで見えてくるか。以下、使徒行伝2章(14節から)~5章までの分析検証に依る:
彼らの<メッセージ内容>:
↓ =============
その①・・・・十字架に架けられ死んだ、あのナザレの主イエスが甦られた、その主イエス
の<復活>を告げ知らせる証し、(我々はうそ偽りなきその復活の証人であ
るということを宣言しつつ。)主イエスの復活というもの。
その②・・・・我々の<先祖の神>でもある<主なる神>により、復活されたその主イエス
↓ は、我らイスラエルが待ち望んでいた本当の<メシア・キリスト>であると
いうもの。
その③・・・・その復活の主イエスは、天に上げられ、今や神の右に座し、神から諸々の権
威を授かり、その再来臨に備えて、待機なさっているというもの
その④・・・・我らを介して、いちじるしい<奇跡やしるし>が、かって主イエスが行われ
たと同程度に起こっているのは、我々自身の力(念力や精神力等)によるも
のではなく、<キリスト>として神が立てたもうた、神の子・主イエスの<
↓ 御名>、<イエス・キリスト>という<御名>において、神が御業をなさる
からだ。ある特定の人にその御業がなされるときは、その人がその御名を受
け入れることにより、その信仰が心に成就しているからだというもの。
彼らの次の<証し内容>は、非常に厳しいもので、かって旧約の預言者らが、イスラエル・
ユダの民を責め、糾弾するような場合に似ていて、まさに告訴、告発的にエルサレム内の民
衆やその社会的指導層(大祭司から祭司長、律法学者、宮守がしら、その他役人、サドカイ
↓ 派やパリサイ派と云われた社会層の連中)に責めの覚醒を促さんとするものとなる。
(この告発的証しは、原初教会設立の最初の日の午前中に使徒ペテロらが立って、宣教の言
葉を述べている、{行伝2章23節}その当初にも現れているが、社会的に非常に波風の緊
張した事態となってくるのは、その1、2年後かと思われる。{使徒行伝3章→5章}何かし
ら対決的な状況となって行き、伝統旧来の<神殿>中心主義の大祭司以下の連中らの出方、
態度が悪い(受け止め方に)傾向に向かい、無謀な暴挙を招く結果となる。
その⑤・・・・”あなたがたは、あのイエスを(総督)ピラトに引渡し、その民衆面前での
↓ 裁判の際、彼・イエスを十字架に架けるよう、激しく叫びたて、民衆をも巻
き煽って、ピラトからその宣告認可を得て、イエスを十字架に架け、殺して
しまったではないか ”と、あの時の事を責め明かす内容のもの。
その⑥・・・・しかし、その主イエスの<受難の十字架>は、人間(この場合イスラエルの
民ということだったが、)およびその社会の歴史的時代の流れとして、その
人間達自身の<無知>の故に、それが必ず<起こる>と、彼らイスラエルの
<先祖の神>が予知され、それ故に、その神の約束された子・主イエスにつ
いての、その予知された事が、あらかじめ<預言>されていなければならな
↓ い、、その必要性は絶対である、ということで、代々したためられた旧約聖
書にはその予言が記されるものとなった。
”あなた方は無知でそのとうりの事をやってしまった、結果は、あなた方の
<先祖の神>の預言された言葉が、成就する格好になってしまったが、これ
は、<不可抗力>なこと、致しかた無い事ゆえ、その<罪>許され、ぬぐい
去ってもらうため、悔い改めて本心(良心)に立ち返りなさい。”との彼ら
<旧来伝統の神殿族ら>にたいして、その覚醒の<責め>がなされていると
↓ いうもの。
****
しかし、彼らは、その<責めさとし>にもかかわらず、悪い思惑や外部から
の悪い言いがかり、虚言などで、ひどい妄想にかられ、また使徒たち一派の
すごい教団的勢いに、恐れもし妬みもして、悔い改めることなく、かえって、
怒りを表わにするというかたちで、暴挙に走るものとなる。
<彼らの大義名分>は、たとえローマの従属化にあり、その傀儡の王(ヘロ
↓ デ家)の支配下にあろうとも、選民としてその旧来伝統の<神の宮・神殿>
と律法(モーセ五書と、それから演繹された生活規則の書=タルムード)を
しっかり維持管理し、
民衆にそれらを守らせることによって、<神に選ばれた民としての社会、そ
の特別な共同体>をとりあえずは、何が何んでも存続させなければならない
ということにあった。
--------------------------------------------------------------------
↓ そういった彼ら旧来の<神殿族ら>に対して、新派としての使徒たちの、
その社会的な立場は、その時勢にあって、どのようであったのか。、、
その⑦・・・・彼ら使徒らの<メシア観=キリスト観>が、主イエスに出会う以前の時、そ
れがある種の願望のような<おぼろげ的なもの>であれ、それが又、主イエ
スに付き従う弟子であった時には、どうその心境が変化していったのか、
そして、主イエスの復活昇天を目の当たりにし、その事実を大々的に証しす
ることになった、この今、現在、その彼らが期待、思い描いている心境の<
メシア観>は、如何なる風合いのものだったのか、という点で、彼らの置か
↓ れた時代史的立場とその宣教(証し)的視点の方向性が明らかになる。
つまりそれは{彼らは、どこまでも自分らがイスラエルの民であることを自
覚して、以前、遠い昔の<ダビデ・ソロモン王国>のような、<国の復興>
を根っからに思い描くほど、選民・民族主義的で、それへの期待を本当に純
なる思いでもって、主イエスに大いに寄せていた。しかし、その彼らの基本
基底的な民族性は変わらないが、この復活し、活きておられる主イエス、我
らのメシアは、我らがイスラエルを<神の国>として昇華・再建国されると
ころの<キリスト>であり、それ故、われらイスラエル民族はそれに備える
べきだ、という考えに質的にシフトする。今あるこの<神の宮・神殿>も、
↓ 真そこ本当に<我らの先祖の神の宮>たらんとするならば、そのような主イ
エス・キリストを再度お迎えすることになるから、改めるところは改め、清
めるところは清めなければならないと、
そういった思い、考え方に行き着くこととなり、異邦の諸民族、諸国もこの
<昇華再建国イスラエル、主キリストの王国・神の国>によって、神の祝福
と繁栄を得るものとなるのだ。}という、彼ら使徒たちの視点的方向性が、
見えてくるわけだ。これも彼らの立場をしての、暗黙の証し、表面化してい
↓ ない重要なメッセージ内容の思想的構成要素となり得ているというもの。
このように使徒たちは、完全に主イエスの<復活>の直視事実に捉えられたかたちで、み
ずからの民族性の<旧約聖書的因縁>によりて、その宣教・証しの使命を果たしてゆくわ
けだが、やがてエルサレムの教会教団が、圧迫・迫害されるようになると、また、多少違
った考え方を培うものとなる。
また、決定的に<新しい息吹の風>をその原初教会に吹き込むこととなるのが、驚くなか
↓ れ、狂ったように迫害の実行者となった<パウロ>という人物なのだ。彼は、主キリスト
・イエスによる<十字架の死>における<贖罪の教理>を神が定めたものとして、徹底的
に表示し宣教するものとなり、その<真理教理>は、ユダヤ人、異邦人を問わず、全人類
すべてに対してのグローバルな<神の赦しの福音><救いの福音>としてあるものだと、
その初代教会を導き、強力に牽引してゆく事となる。
とにかく、12使徒たち教団は、主イエスの<復活・昇天>と、その主イエスが大祭司以
下、神殿経営に関与する、神殿族の連中によって<十字架刑>に処せられ殺されたのだ、
↓ というこの2つの関係の事実、その現実だけに固守され捉えられたかたちで、”我々はそ
の<証人>であるという<ステイタス一辺倒>”において、その教えの<証し>をなして
いるということが見えてくる。したがって、パウロが解き明かした主イエスの<十字架>
での<贖罪の真理>は、未だ隠されたままになっていたというわけだ。(しかし、パウロの
証し・宣教時、その最初から、主の<十字架贖罪>が前面的に宣示され得た訳ではない。
彼の回心後、その初めの頃の証し・宣教は、“イエスは、真に本当に<神の子>であり、
<メシヤ・キリスト>である。私自身は、その方の<光臨を浴び、御声を耳にした>、目が
一時見えなくなり、全く気が動転して気力を失ってしまったが、キリストなる主イエスは、
確かに甦り、生きておられる以外には考えられないことだ。”というものが、その核心内容で
あった。)
***
ローマ帝国の版図領域内の西方<ローマの都>へと宣教伝播してその教会形成がされたの
が、いわゆる<パウロ流>のキリスト教というわけで、その教理的真理の<核>となる力
↓ 点は、主イエスにおける<十字架の贖罪>であり、そのキリストの事跡においてこそ、神
の御救い・神に対する<罪の赦しの福音>があるのだ。この核心内容を内包保持するかた
ちで、精神的な倫理性、哲学性、神学性とかの側面の発展がなされてゆき、やがては西方
ヨーロッパの精神的な文化形相の礎となってゆくことになる。
ところが一方、ローマ帝国の領域外の東方、当時のメソポタミア以東への宣教伝播は、ど
うであったか、これは、バビロンやその近辺都市で行われたが、西方ヨーロッパのように
発展することができなかったということだ。
いわゆる<ペテロ流>の<証しの>宣教では、色々他の条件も重なったであろうが、長続
↓ きがしなかったということだ。つまり、主イエスの<証人>としての、使徒ペテロらが亡
くなったりすれば、それだけで<精神的な深い言葉の原理性>が欠けているゆえ、自然消
滅してゆく可能性が高くなり、何の精神的所産の事跡も残さないままに終わったというこ
とが見えてくる。ペテロらが何年もの間バビロンに踏みとどまったにもかかわらず、、、、
<ペテロ流>の宣教は<復活・昇天の主イエスキリスト>であり、その<核>となる力点
は、<主イエスの再臨>と<終末的審判>という教理的要素であったわけで、しかもそれ
らの要素は、変形亜類似的で異質な表示様式で、ゾロアスター教のような精神性のある宗
教にも見うけられ、そんな事情がかえって<教え>の効力を弱め低めるものとなった。し
↓ かも<パウロ流>のような、心に深く入り込む、深遠でグローバルな<精神原理>をその
<核力>となしてはいなかったという点で、残念至極な東方宣教という結果に至ったとの
推察がされうる。ただ、かっての古代インド、紀元1世紀末頃から4、5世紀に亘っての
<大乗仏教の隆盛発展>の動因力が、この<ペテロ流>の<主イエスを宣教すること>と、
その<再臨・神の国>そして<そこへ入るための信仰>等、それらの思想の影響とその取
り入れヒントのうちにあったとみられる。その頃のバビロン周域および、イランからイン
ドの領域は、まさに錯綜する一大広域宗教社会をなしており、その唯一の精神的知的学問
といえば、宗教に関わる諸古書学や宗教的哲学であった。そう云った状勢の中、旧約聖書
↓ やキリストの情報などが、インド側にも流れ、持ち込まれたりもした。
例えば、1世紀末以降、3、4世紀までにその書巻体系の完成を見た ”法華経(妙法蓮華
経)”などは、ギリシャ語でのヨハネの福音書巻の内容情報のインド側での<仏陀観>、
あるいは<仏陀像>という容器への翻訳転用・移し変え応用、及びその独自的仏伝文学の
創作展開以外の何ものでもないと、云えるようなものだ。そのようにして生起発展してい
った<大乗仏教諸派>の流れが、中国や極東アジアの日本など、千年、2千年先の未来を
時代史的過程において、その生活生存に関わる社会風土、および精神思想風土を規制して
ゆくものとなる。そして、やがてヨーロッパ・西洋的なものが、地球を一巡して、極東ア
ジアにまでも合流してくるようなものとなる。
↓ (西北インド・ガンダーラ文化およびその宗教関係については、以下つぎの
リンクを参照にて:【2.宗教を考える】を参照)
*****注記(2):
ゾロアスター教についての近代以降の研究学説的見識が、その成立的捉え方において
間違いをなしている。ゾロアスター教成立への先がけは、古代イラン民族系の人種で
あることには違いないが、そのルーツ系は、当時非常に自然風土的に豊かだったイン
ドへ、北西方中央アジアから南下移動して来た、<アーリア系諸族>と同類の諸氏族
であって、その種族がアフガニスタン、イランへと南下、定住していった。その彼ら
がインド・アーリア族の”リグ・ベーダ ”と類似する<祭儀典礼>のような儀礼習
慣と<神々への韻文賛歌(後ガーサーと言われるものとなる)>をその多少の変遷が
あるものの、延々と口伝持承され続け、それが、7世紀末から6世紀頃にまで至り、
ついに<アベスター正典>の口伝体系の様式を整え、古代世界のうちに日の目を見る
ものとなった。当時のバビロニア帝国では、スシアナ地方で、ペルシャ帝国時代には、
<パールサ>といわれた地方、そこの<祭儀礼宗族>の一派、継承称号あるいは、そ
れが個人名か、<ゾロアスター>なる者が、捕囚移民であるユダヤ民族のヘブライ思
想(モーセの5書やダニエル書など)との接触影響により、いわゆる古いイラン民族
の<祭儀礼典・賛歌類>を融合的に再体系化させて、その興隆をなしたのが、<ゾロ
アスター教>なのだ。そのヒント的影響のアイデアの一つを例に挙げると、以下だ。
↓
{影響ヒントを得た言葉等は、きわめて簡単単純なものに過ぎない。”モーセ5書の
一つ<創世記>からのものを見ると、①・その一神教的主神、②・カインとアベルと
いう兄弟の諸行の記事から・・・・アベルが善なるものとして、善神(善の原理)、
カインの悪の行為から・・・・悪神(悪の原理)、これらの二つの要素に次の③が絡
んでいる、③・創世記の冒頭に近い文言から、<闇がふちの表にあり、、、、>と、
<光あれ、、、、>という言葉そのものからのヒントで、<光と闇>の2元的世界観
の考え方を発想、そして、ユダヤの<ヘブライ的神の摂理思想>から・・・その2元
的なものの<闘争的世界史観>、”
こういった思想要素が、古代イランの在来の<宗儀典礼の思想等>に組み入れられ、
神学的教義化の体系様式をとって、古代ペルシャ帝国時代の最有力な宗教にまで発展
したというわけだ。}
↓
パウロの登場:(ステパノの死)
AD33 ステパノへの策謀的なだ捕と彼の議会での証し(証言)、その言葉の糾弾が殺気だった彼ら
<神殿族ら>の怒りの爆発するところとなり、ついに彼は、市外に引きずり出され、<石打
の刑>にされ、殉教する。この事件に端を発して、ついに大々的にエルサレム中、都内の
<すべての信徒・キリスト原初教団への弾圧迫害の暴挙>が繰り広げられるものとなる。
この頃、パウロ(サウロ)は、生粋のユダヤ教徒パリサイ派の血気たくましい年増の若者の
一人として、また、神殿ユダヤの将来に有望な律法学者の成り立てほやほやの人材として、
キリスト教徒への迫害に積極的に参加し、先頭に立ってキリスト教徒の逮捕、監禁に走り出
した。
↓
***
ステパノなる人物のいきさつ、そして彼の衝撃的な殉教の死という事件は、ほぼ第6章から
始まって、特に次の7章は、すべて彼に関わる件で その章が占められている。<使徒行伝
の著者=>ルカ自らも、彼の殉死が<原初キリスト教会>に関わる重要な<歴史的動向要因
>として位置付けられると、捉えていたことがうかがえる。
彼・ステパノの出自は、明らかではないが、彼の名・ステパノ(Stepanos)がギリシャ名を
採っていることから、<ギリシャ語>を使うユダヤ人だったと推察しうる。そして彼は、ギリ
↓ シャ語を話すユダヤ人グループの支持、後押しで、教団の執事的管理の重要な<7人>に選
出されたに違いない。彼が原初教会の設立当初、120名ほどの一団の中にいたかどうかは
定かではないが、その性格パーソナリティーとしては、信仰に燃えるほど、過激な面があっ
たろうが、内なる精神的な面で<その燃える情熱>となっていたと思われる。行伝記事6章
の9節で、”<リベルテン>の会堂に属する人々、” とあるが、彼が、もしこの一派から
転向・改心した者であるとしたなら、彼に関わる事件は、より一層現実味を厚くし増すもの
となろう。<リベルテン>とは、ユダヤ民族青年層のなかで、最有力な<過激派>で、時の
ローマに対しては、その蜂起の時・チャンスをうかがう、秘かなる、いわゆる地下組織のよ
うなユダヤ民族解放を目ざす<リベルティーヤ・自由主義>を名のる<民族主義的解放者>
↓ 一派の名称だった。(AD66年以降、70年に至るエルサレムの動向に深く関与する。)
この当時の世界(ギリシャ化文化圏)は、エジプトのアレキサンドリアから小アジアのエペ
ソ、ペルガモあたりまで、昔からの離散のユダヤ人が多く点在居住しており、それぞれに彼
らは、同胞の集まりの場として、会堂をもって生活をしていたが、その知的レベルでの旧約
聖書および旧約自民族の歴史に関する知識もかなり高く、且つ一般化する傾向にあった。
すでにギリシャ語などに翻訳された<旧約聖書(70人訳など)>も非常に広範囲に出回っ
ていて、日久しきことだったからだ。ステパノ自身もこのギリシャ語の<旧約書>でもって
その信仰以前から培われ感化された一人であった。(彼の証しの大弁説での”引用文”で、
↓ ギリシャ語訳だと判断できる。)
さて、このステパノに関わる記事で、どんなことが見えてくるであろうか。それをステパノ
から<サウロ、またの名をパウロ>への立場の相違、移行から、その考察の光をあてて見る
と、どんな事が浮かび上がって来るだろうか。
”彼・ステパノは、ユダヤ議会(サンヘドリン)の議場のただ中、尋問台にひっぱり立たさ
れ、偽りの証人らにあれこれと因念の訴えを並べ立てられるものとなる。(6章 13、14)
もはや弁明する以外に無い、だが、自分の事を弁明するというより、彼ら(神殿族ら)に言
うべきことを大胆に言わねばならぬ時が来たのだ。そう心に霊感して<神よ、主イエスよ、
↓ われをして、語らせ給え!>と心で唱え、まさに晴れやかな、神から栄光を賜るような面持
ちで、証しの大弁説を始めた。(第7章2以下)
彼は、父祖アブラハムから始めて、自分ら同胞民族の聖なる歴史の述べるものとなった。彼
弁述の内容は、一部<引用文>の言葉の間違いと、その<引用文>そのものの用い方適用に
誤用があったが(7章42、43)、それ以外は、正しい正史を物語るものであった。だが
彼の演説は、かの12使徒たちの<証し>のものと同一次元での内容ではなかったのだ。よ
く似ているようだが。
この7章42、43節は、旧約聖書の<アモス書>第5章25-27からの引用で、言語上での
間違いは、<ダマスコ>を<バビロン>と表現していること。そして、この二つの文節からなる
預言者アモスの言葉は、本来的に彼の在世時、アッシリア帝国隆盛時での群雄割拠した種族国家、
都市国家の勢力係争争いの状況を、どよめく海の<荒野>にたとえて、述べている訳で、アモス
は、その預言をしたのが、ソロモン王国が北と南とに分裂してからのことで、北イスラエルは、
サマリアを首都して、(南ユダ王国はエルサレムだったが)その王朝がヨアシの子ヤラベアムが
王となった時代、その治世が41年間だったので、アモスは、その晩年に預言をし、その当時の
40年間ほどの<北イスラエル>の状況を捉え表現したのだ。それはBC740年頃で、その2
0年後、3度目のアッシリア帝軍の来襲の時、遂に北イスラエル・都サマリアは陥落し、その民
らは、またも<ダマスコ>の彼方(ユフラテの上流の下手の支流域で、チグリス河との間)の地
に移されるものとなった。(旧約・列王記第14章23、24で、ヨアシの子ヤラベアムは2世
で、ネバテの子ヤラベアムは、一世で、北イスラエルの最初の王)
そんな訳で、ステパノの<荒野の40年>を<出エジプトのモーセ時代のシナイの荒野40年>
に言及適用した試み、そのアモス文言の<引用>は、不適切な誤用であったというものだ。
この彼の弁述の不完全さ、あるいは欠点、力点の無さを挙げると、以下の点が明白となる。”
↓ ①・彼は、使徒たちのように、<ナザレ人イエスこそ主キリスト>であること、そして、そ
の<復活>されたことへの<言及的証し>が全く出来ていないということ。これは致命
的な欠点であり、また使徒的証しの路線を逸脱するようなものでもある。
-----------------------------------------
このことによって、彼は、原初教会設立当初からの人ではなかったことが明白となる。
②・彼の弁述は、7章48から50節の旧約書の引用を含めた文で、完全に今、現にある<
神の宮・神殿>を否定するような言説をあらわにして、しかも大祭司以下、神殿族、議
↓ 員指導者ら<自分を裁く>連中らを<最も頭に来る言葉>でもって反対に激しく断罪す
るものとなる。=これが彼ら神殿族に対して<言わねばならぬ事>だったということ。
それ故、彼の<証し>は、彼らを糾弾することにあったという他ない。彼は、何故か、
旧約時代の預言者風な感じで、社会正義を訴えている、そんな立場になっている。
------------------------------------------
彼は、かの<リベルテン>から転向・改心した者で、神殿と律法による<生活枷の社会
体制からの解放をその<正義>とした<自由主義者として>の主イエス信奉だったので
はないか。彼自身ローマに係わる解放奴隷の身であったからこそに、、、。
↓
③・彼は、旧約聖書からの<選民の正史>を語るのみで、主イエス・キリストに関わる証し
をそれらの言筋から打ち出し語り得ていないので、彼の<主イエス観>の何たるかが、
どうしてもはっきりしない。ただ主イエスを<モーセ>と同じような、<預言者>また
は<解放者>として、あるいは<正しい方><人の子>として、見ていただけに過ぎな
いのではないかといえる。(彼の弁説の本筋が、預言者的な糾弾へと向かっている。)
-------------------------------------------
彼には、主イエスに対する<福音的信仰観>が見られないと、言えるのではないか。
だが、ステパノの弁述が、いよいよ議会席の聴衆らへの熾烈で単刀直入な糾弾となるに
いたった段階で、聴衆らが怒り狂って彼のところに殺到したというから、彼の弁舌は、
途中で断ち切れ、中途半端なままとなった。それゆえ、イエスの復活への証しの事柄に
までには至り得なかった、との見方も取れなくはないという面もあるのも確かだが。
↓ **以上の点から、結論として云える事は、この<行伝文書>を著わした著者ルカが、<原
初キリスト教会>への全体規模的な弾圧迫害の起こった当初歴史を非常に重要視して、
その状況過程をつぶさに調べ上げ、詳細、正確なまでにステパノの事を取り上げ、記述
しているわけだが、彼の出自までもは掴めず、明らかにされていない。このようなルカ
の記述努力にもかかわらず、その史実の真相は正に闇に包まれたままだ。これは、ステ
パノという人物を利用して、彼を<犠牲の捨石>にしてまでも、<主イエスの名>の教
団を潰す為に仕組まれた<大祭司側の巧妙極まりない策謀>だったということではない
か。さきの第5章34-39で律法学者の大先生ガマリエルが、「神から出たものでな
↓ く、たんに人間から出たものなら、自滅するだろう。」との指摘の下にしばらく様子を
見ていたが、益々その教団の勢いは強まるばかり、大祭司と数名の祭司長らが陰謀をめ
ぐらし、その教団潰しの<前奏の呼び水>を仕組んだということではないだろうか、、
**また、著者のルカは、8章1節で、「サウロ(パウロ)は、ステパノを殺すことに賛成
していた。」と、一文をあえて特記しているが、妙に不自然な感じがする。この一文は
{行伝第22章20節}でのパウロ自身の<証しの告白>(ずっと後になっての最後の
エルサレム滞在の時もの)とも一致してはいるが、、、
彼・パウロは、そのステパノの尋問裁判の際、間違いなくその議場に臨席傍聴していた
↓ わけだが、そのような大祭司らの陰謀が仕組まれていたなんて、まったく知るよしもな
かった。そうではあったが、同僚、先輩方とともに<ある決意>の行動を起こす事に決
めていた。その挙に出る事への<認可了解>も、はや大祭司から黙認されたものとなっ
ていた。したがって、この<ステパノの尋問裁判>の成り行き・結果が、その最終決断
をなす、判断基準としていたわけだ。
ステパノは<悲惨な石打ちの刑>を免れ得なかったが、その時、パウロは、<手づから
石を投げる>ことなく、同僚、先輩らの<上着の番>をするかたちで、その現場に立ち
会うだけに踏みとどまった。(第7章58節)
↓ 何故、彼はそうしたのだろうか。上着の番など<下役、宮下僕>の一人に任せておけば
よいというものだろうが、、これは、パウロの内に何らかの思惑が生じていたからに違
いない。そうでなければ、そのような立場をとってはいなかったはずだ。
いよいよ<ステパノの尋問>が始められるものとなった。彼・パウロらは、下の最前列
の傍聴席に陣取っていた。ステパノがひっぱり出され、尋問台に立たされた。この時、
パウロは、”おや!”と一瞬脳裏をかすめるものがあった。”あの男に見覚えがある、
確か、、確か、、、何年前かな、、あーそうだ! <リベルテン>の会堂に用があって
一度行った時に、、出会った男、ほんのふた言み言だけだったが、会話を交わした事が、
「わたしは、キリキアのタルソの出ですが、、貴殿はどちらからの出で、、、」”
↓ 彼は、あれから<あの名の教団>へと鞍替えしたのか、なってこったー!、この機に及
んで、、、、、”
パウロのあの時の出会いに、<心の深いところで、自分との共通な何かをピーンと感じ
るような>そんな思いを彼に見させられたのだが、、、、とにかく、今は、彼の弁明に
注意深く、耳を傾けるしかない、結果は、彼を<獄につなぎ入れるか>なら良いが、、
我々自体の側ですら、もう我慢の限界というところまで来ている。最悪、即刻の<石打
ちの刑>という暴挙、、ということになったならば、、、しかし、すでに決めていた。
この最悪な結果として断行されるステパノへの<石打ちの刑>は<あの名・主イエス>
の教団全体への<教団潰し>敢行、その意気投合の合図だったのだ。パウロは、何であ
↓ の男が、あんなにまで我々を激しく糾弾してくるのか、とても聞いては居られないが、
(第7章51-53)
彼・パウロは、とうとう同僚、先輩らより、一歩遅れを取る以外になかった。そして、
その<石打ち>の現場で、神または天使、あるいはステパノらの教団が信奉している、
あの名のイエスが現れて、彼・ステパノを救い助けることさえ期待した。もし何も起こ
らなければ、<その教団>弾圧潰しに<我一番>にやってやろう。そう決心して、今は
その<石打ち>の現場を見守るだけ、、、彼・パウロは、ただ見守ることにしたのだ。
33 エルサレム内での原始キリスト教団の一時的な拠点の壊滅、信者らの各地への離散、
↓ 使徒たちの伝道活動は、エルサレム以外の周辺各地方へと移ってゆく。
パウロのキリスト体験と回心召命:
AD34 パウロ(サウロ)の回心 (復活の光臨のキリストとその御声によって)
--その光臨御声の体験は33年中であったかもしれないが、ダマスコから
アラビヤ(ダマスコ以東の荒野地方、心的鎮静祈りと瞑想の為、)へ、
再びダマスコへ、そして、キリスト・イエスの証しを始める。それで
3年ほど経過したようだが、良からぬ律法主義のユダヤ人らに狙われて、
ダマスコの町を脱出、弟子たちの手助けにより。=ガラテヤ人への文
第1章11節からの自分についての弁述の中で、、16-17&18節の処。
36
37 回心後、単独で再び密かにエルサレムに帰還、(使徒9章23-26、ガラテヤ
1章18-20節では回心の3年後と自ら表明している。)だが、エルサレムに
再び集まっていた群れの兄弟たちはみな、パウロをすぐには信じ認めようとはし
なかった。
あまりにもひどい迫害を以前彼から受けていたから、、まったく警戒されるばか
りであった。それでパウロも仕方がないと思いつつも途方に暮れていたが、しば
らくして、助け舟の人物にお目にかかる。それがバルナバというご人であった。
*行伝の著者ルカは、パウロの回心直後、ほんの一時(一ヶ月前後内であろう。)
パウロがダマスコを離れ、アラビア域のどこかで、心深く自らを整え沈思、旧約
聖書聖言の新たな再認識的瞑想をなしたことにはふれていない。これは行伝9章
19節の文の間に入る事柄で、ダマスコに再び戻った直後、“ダマスコの弟子たち
と共に数日間を過ごしてから、云々”とのルカの行伝記事と、パウロのガラテヤ
書でのこれに関する表明記事とでは、矛盾くい違いは見られない。
しかし、パウロがエルサレムに帰還した、そこでの状況は、ルカとパウロ自身の
表明記事とは、大いに食い違いが見られる。パウロのガラテヤ書1章18、19
節では、<主の兄弟ヤコブ以外には、ほかのどの使徒にも会わなかった。>と、
告白している。つまり、教会の最重要の中心人物でもある使徒ケパ(ペテロ)さ
えも実際に会ってはいないかも知れない。<彼のもとに、、、滞在した。>と記
しているが、これは、彼に直接、面と向かって会っていなくとも、彼のもとにあ
る教会の兄弟グループ内に留まった事を意味しているに過ぎないと見なせる。
(ステパノの殉教死の日以来の激しい迫害の嵐の日々の後、それが鎮静化しつつ
3年が経った様であったが、それでも12使徒らは、迫害する側からは、教会の
指導者らを何としても拿捕しようとねらっているに違いないと見なしていたから
その警戒心を解いたわけではなく、当局者らに顔も名前も知られないようにして
いたようだ。ルカが何気なく行伝記事を書いているが、それは、ルカ自身がそう
いった迫害時に直面していないからであり、その時期からはるかに遠い存在にな
っているからである。)
37 おそらくバルナバが、ダマスコでのパウロの事を予め認知していたので、彼の世
↓ 話仲介役となり、彼パウロを使徒らの仲間に加わらせる事になると、ルカは、い
ともたやすく書き記す。だが、パウロは、再びイエスを否定するユダヤ人らに命
↓ を狙われるものとなり、カイザリヤへ避行し、すぐにシリヤから
↓ キリキヤのタルソへ逃れる。(ガラテヤ人への文では、15日間の滞在であった
と、彼自ら明言している。<ケパ=ペテロの下に>とあるが、他の場所にも少な
↓ からず数日とどまったかも知れないが、、)
38 逃避行後、タルソ滞在、その地方へ遙々バルナバが彼を探しに来て、再会、再び
↓ アンテオケに戻る。
42 まる一年ほどバルナバと共に、その地の教会で本格的な宣教活動を始める。
43 その後2回目のエルサレム訪問、(使11:27-30)ユダヤへの飢饉救助のため
↓ の援助品及び義援金を送り届けるため、エルサレムへ、
↓ *この頃エルサレムでは、ヘロデ王が教会のある主だったものたちに迫害の手を
めぐらし、教会が非常に動揺して、一時危機的状況にあった。
この時、使徒グループの一人ヤコブが剣で殺され、さらに頭のペテロも捕えら
れ、獄に入れられたからである。(行伝第12章1-6節 &以降)
*行伝の著者・ルカは、使徒たちの内で最初の殉教者となったヤコブを、ヨハネ
の兄弟、つまり実兄として記している。これは事実だがしかし、彼の著作上で
の伝承、言い伝えなど、史料的調べに基づくものであり、実際的に<使徒とし
てのヨハネへの面識>は、一度としてその先づっと一切ない。
それはこの迫害の時期だけでなく、すでにステパノの殉教の時以来から、教会
中枢を守るために警戒行動の構えを見せていた状況からによる。
(12使徒が欠けた、ヤコブの殉死、そして、激しい迫害者サウロ(パウロ)が
回心して教会兄弟の仲間入り、どちらも使徒ら自身にとっては、思いがけない
事、考えられない事であった。)
パウロが回心後、エルサレムの教会グループに加わろうとした時期も、彼は、
使徒たちの面々が誰であるのか、知られていないほどであった。そんな事情を
ルカはそのようには記していない如く、面識あるふうに記している訳だが、、
ルカは、その当時、使徒の一人だったヨハネが、すでに実質的に使徒ではなく
なっていた事を、まったく知らなかった。そのヨハネが、<マルコと呼ばれる
ヨハネ>となっていた事も判らないで、そのまま伝承的著述をなしている。
つまり、<マルコと呼ばれるヨハネ>は、マルコと呼ばれることで、以前から
使徒であったことをカモフラージし、同時に、主イエスの母であったマリアを
自分の実母であるとして、マリアをも主イエスの母でないとして擁護するもの
となっていた。(行伝12章12節⇒ルカが20年以上のちにそう記した。)
44 *ヘロデ王はカイザリヤに下り、その滞在中に死をこうむる。(使12:19-23)
↓ (ヘロデ大王の孫・ヘロデ・アグリッパ一世<治世AD41-44年、享年54歳>)
パウロの異邦の地への最初の活動:
第一次地図参照
45(?)第1次伝道旅行:新約聖書の使徒行伝の書では、この13章9節の記事から彼の
名がサウロからパウロに替えて以後記述される。(クプロ(今のキプロス島)に
渡っての時から)パウロ回心の時から8、9年後の事である。
↓
その旅程は:アンテオケ → その海港町セルキア → クプロ島サラミス&パポス
→ パンフリヤ・ペルガ(小アジア中南岸)→ ピシデヤ・アンテオケ(14-50節)
→ イコニオム(51-14:5)長い滞在(数ヶ月以上か) → ルステラ、デルベを含めた
ルカオニヤの町々(この地方でも古いギリシャ神話の神々・ゼウス他の崇拝が根
付いていた。11-14) → 再びルステラ、イコニオム、アンテオケの信徒らを励まし巡る → 帰途
↓
復路に着きてピシデヤを通り → パンフリヤ・ペルガで → さらに隣の海港都市
アタリヤにも立ち寄る(10数キロほど離れているか) ここから船で → (シリヤ・セ
ルキア経由にて)ホーム本拠地・アンテオケ帰還(24-26節)。
*その所要年数は、4、5年であろうか。その後、バルナバと共にしばらくの間
そこに滞在した(28節)。
↓
50 エルサレム会議(アンテオケでユダヤ人の慣例事の割礼に関して、争論紛糾ざた
が生じ、パウロ、バルナバほか数人が問題解決、協議するためエルサレムへ、)
*ガラテヤ人への文2章1節の“その後十四年たってから、~再びエルサレムに
上った。”とある文言は、この問題協議の時と見られる。(使行15:1-29節)
↓
問題協議の全教会的一致動向が定められ、終了した後、パウロ、バルナバらは、
エルサレム派遣の二人、シラスとバルサバというユダの同行を得て、アンテオ
ケに戻ってゆく。(二人の同行派遣者は、取り決められた書面を持参する。こ
の書面内容は、必要に応じて、後々も各地の諸教会にても写配布されるものと
なった。元々ユダヤ人以外の人々への割礼をしいる事などの是非から、紛糾不
一致問題が起こったわけだが、異邦人信者に対しては割礼はしなくても良い、
又は、してもしなくても自由な事で良いといった考えに、一応の意見の一致を
見たようだ。使徒行伝15章では、会議の最終的な過程状況を記事として記して
いるのみであるが、エルサレムの使徒や長老指導者らのほとんどがユダヤ人で
あり、本来ユダヤ人にだけ係わる慣例事の割礼など、もはや主イエスによる教
会としては問題外の事だとして、ペテロらは全会衆の前でそれを表ざたに評議
↓ するのは不適切で宜しくない、良からぬ事だと判断したに違いない。)
*パウロのこのエルサレム協議の際も、なぜか疑わしい状況として、パウロのガ
ラテヤ書の文書内容が見られるのでないかと判断されうる。
この折にも、使徒ペテロなる本物のケパではなく、別に立てられているもう一
人のケパではなかったかと、、2章11節以降、とても使徒ペテロなる本物の
ケパではないような振舞いをして、パウロになじられているからである。
(本物の使徒ペテロの人格とは思えない心の鈍さゆえに、、、、)
パウロの異邦への2度目の活動:
第二次地図参照
51 第2次伝道旅行:本拠地アンテオケからの出立。(第一次で良きパートナーであ
ったバルナバとは、ある事が要因で、互いに折り合えず不仲となり、パウロは、
先にその地に派遣されていた、かの教役者シラスを同労者とした。15:36-40)
↓
その旅程足跡は:アンテオケから、その玄関港セルキアには下らず、陸路をとる。
前の同行者バルナバが、クプロ(キプロス島)行きを決めて譲
らなかったか、或いははや先に出立したかして、陸路をとらざ
るを得なかったのか、それとも以前に故郷キリキア・タルソへ
と避行、帰ったおり、その1年余の間、その方面での伝道活動
をなしていたと見れば、あえて陸路を選んだとの想定も出来る
が、その辺の事情は定かではない。(41節では、その時
その方面の“ 諸教会を力づけた。”とある。)
↓
《まずは小アジヤ方面へ》
------------
本拠地アンテオケ → 以北シリヤ → キリキヤ → デルベ(16:1) → ルステラ
→ (道筋ルートからしてルステラから、イコニオム、ピシデヤのアンテオケと、信仰の兄弟と
なった人々を訪問していると見られる=4-5節。ルステラからテモテという
名の若い弟子を同行に加える事になる。)→ アンテオケから北上してガラテヤ西部、
フルギヤ北部地方を経由 → ムシヤのその北東辺、そこから黒海側に面した、
ビテニヤに進まんとしたが、その意向かなわず → ムシヤを横切りる道をとり
トロアスに下る。(16章8節)
↓
*新たに加わったテモテに、パウロが<割礼を受けさせた>、そうしなければな
らなかった事情、<その地方のユダヤ人の手前、>と、真に簡単な理由で、何
かはっきりしない曖昧さが残るような記述となっている。
<その地方のユダヤ人>とは、明らかに<主イエスを受け入れ、兄弟となった
ユダヤ人>ではないと見るべきかとも、、、とすれば、パウロはかなり深刻な
までにシビアーになり、テモテの<命の安全>を考慮して、割礼を受けさせたの
ではないかと思われる。先の第一次の伝道時には、彼自身、死んでしまうほど
に惨いダメージや迫害を彼らユダヤ人から被っているからである。(14章19、5、
13章50節など)
↓
これらの体験から、その地方、アンテオケからイコニオム、そしてルカオニヤのルステラにい
たる町々のユダヤ人は、その異邦的な生存環境のただ中で、かなり心の荒れた
厳しい生活状況下に置かれていると知ると同時に、その異邦人社会との共存関
係に荒立つ波風を立てぬほうが得策だとの<心の内なる聖霊の声>判断をなし
たと見られる。すでにそれらの地方に出来ていた教会による、地道な成長にゆ
だねるかたちで、巡回奨励の旅をなしたと言えよう。
↓
また、先の<第一次伝道の経験>から、彼・パウロの内なる御霊の声は、エペ
ソを含めたその地方、即ちアジア州(通称ローマが広域的に定めた地域の名)の
町々への宣教をまったく差し控えている。この地域はさらに異邦色が強く、そ
れ故にユダヤ人もさらに頑強で、利得に係わることではことさら荒れやすくあ
ったろうから、未だ踏み込めない所だと、なお<その時>ではないとの判断が
先行する。
↓
エペソには、かの<アルテミスの大神殿>が威容なほどの影響力をなしてもい
ようからと、また、古くからの土着の神々の信心風土をも懸念、判断しての、
それであったと見られる。
↓
《アジヤから今の南東欧ギリシャ方面へ》
-------------------
トロアスから船出(11節) → サモトラケ(エーゲ海最北のトラキヤ沿岸沖の島)に
直航し、→ 翌日、本土ネアポリスの港へ、そこから → ピリピへ、(16章12-40)
ここはローマ人の植民都市、数日間の滞在、ここにはユダヤ人の会堂はなかった
が、苦難な事態が起こる。だが神の助けにより結果、そこを無事に去る。
(パウロとシラスがローマ市民権を有する者だという立場が、この町では有益に
働くものとなった。)
→ アムピポリス と アポロニヤ を通り、→ テサロニケへ(17章1-10節)
↓
ここではユダヤ人の会堂があり、数週間の滞在、邪心にかられた悪辣なユダヤ人
により妨害騒動が起こり、またパウロらへの陰謀の影あり、夜の間に兄弟たちの
手助けで難を逃れ → ベレヤへ、(17:10-14節)
ベレヤでの滞在は比較的長かった、記事表示はないが、少なくとも1ヶ月以上で
あったろうか、ここのユダヤ人は穏やかで、その会堂は宣教の助けとなったが、
テサロニケのかの悪いユダヤ人らがそれと知ると、押しかけて来て騒動を起こす。
ここでもその地の海辺から密かに脱出 → アテネへ、(17:15-34節)
↓
この時は、パウロだけ兄弟たちの案内でアテネへ、シラスとテモテはなおベレヤ
に居残る。ただし、テモテは、テサロニケの兄弟らへの奨励支援のため、そこに
も行くようにパウロから申し渡されていたと見られる。(テサ第一手紙3章1-3)
また、使徒行伝の執筆者ルカは、パウロの万一の身体的介護の医者として、さら
に書記役としてパウロに随行したと見られる。ルカは、行伝16章10-11節の記事
で、トロアスからマケドニヤへ渡る際に、“わたしたち”という表現のなかで、
初めて自分を暗示されるものとして出てきている。
↓
52 (当時アレキサンドリヤと並ぶ以上に、伝統的文化都市となっていた、そのアテネ
での単独の伝道活動が数週間ほどは続いたであろうか、行伝記事にはその期間の
表示がないが) その後、未だ同行者の
シラスとテモテが来ないまま、アテネを去り → コリントへ、(18章1-18節)
この町は、商業・交易で栄え、アカヤの主都でもあり、ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)
も幾つか点在した。ここでは1年6ヶ月と幾余日の間、伝道活動ができた。
シラスとテモテがマケドニアからやって来るまで、ユダヤ人のアクラ、プリスキラ夫妻の
家に同居し、同業の天幕作りの手職をしながら、福音への務めもなした。(2-4節)
彼ら夫婦は、49年以降50年頃にはローマからこのコリントの町に移り定住し
ていた。(クラウディウス帝のローマからのユダヤ人追放令のために。)
(シラスらがコリントに来るまで、アテネ以来、数ヶ月~半年位過ぎたであろうか、
彼らが来てから、暫らくしてコリント在住のユストという人の家に場所を移す。
その家の隣が会堂であったから、ユダヤ系のコリント人か、ここを新たな拠点と
して、他の会堂にも出かけ、福音の証しに専念する。5-8節)
↓
ここでもモーセの律法を盲従し、イエスを神の子キリストと認めず、邪心を起こ
すユダヤ人の襲行に会い、アカヤ総督ガリオの法廷に立たされる事件が起きる。
ガリオは、訴え事の内容が自分の裁権処理に不適当と見なし、パウロを解放する。
そのユダヤ人らは、腹いせにパウロらに会堂の場を提供し、不利益をもたらした
とする会堂司ソステネを捕え、打ち叩いて、彼を追い出す結果となる。(18:12-17)
*このコリント滞在中、52年頃マケドニア地方のテサロニケ人への第1、第2の
手紙を記す。
↓
53 《コリントからの帰途の旅程》
---------------
パウロのこの伝道旅行も、このコリントから、シリヤ・本拠地アンテオケに向け
ての帰路となる。(18章18-22節)記事としては、まったく短い文節である。
コリント市の地峡水路の船着場からの出航とも → 10数キロ先のケンクレヤ経由
(ここはエーゲ海に向けての海港町である、ここで外洋船に乗り換えたとも。)
↓
→ エペソへ、(2、3日の滞在か、自分だけ会堂へ、実は予めの下見であったかも、
また他の用で、コリントで会堂司だった主の兄弟ソステネの身請けを
頼んだかも知れない。とにかくかなり穏やかな<ユダヤ人聖書律法の
巡回教師>らしい面持ちでの状況視察が目的であったろう。
ケンクレヤからエペソまで、8日前後ほどの船旅となろう。パウロが
ケンクレヤで頭を剃った事も、かねてからのエペソ伝道への誓願のゆ
えのことで、エペソへの首尾よい下見のためであったとも(19-21節)
(何かを誓願する際、頭を剃るのは、極めて通常のユダヤ人本来の慣例
であったから、そうすることでユダヤ人ラビ(教師)らしく見せたとも)
↓
*同行のプリスキラ・アクラ夫妻は、このエペソに留まった。(19&26節)彼らは
新たにこの町で、生計のための天幕作りも始めたであろう。それは、
パウロの支援、助けのためにも、その市場を得ることは好ましいこと
であったから。やがてパウロのエペソでの長期の伝道が待っていた。
(使徒20章34節も参照)
↓
(余談になるが、行伝記者・ルカは、アクラ夫妻の職業が、パウロに
当てて同業だと記している。彼が職人スキルの手を得ていたとは!!
しかし、ルカはそれ以上のことは記さない。パウロが生まれながらの
<ローマ市民権>を有したものであることも記しているが、それ以上
のことは記していない。ルカ指摘の同業とは、パウロのキリキヤ州タ
ルソ出身の彼の家系業が、驚くなかれ紀元前後には、最有力な<天幕
製造業>を経営していたと言う事であろう。BC64年からキリキヤ州が
定められ、総督府が置かれたその首都タルソは繁栄の一途を辿ってゆ
く。カイザル以来、自由都市の特権をも付与されている。
↓
パウロの祖父の代から、その家業が手広く営まれ、各地のローマ軍団
のご用達必需品ともなって、その大いなる貢献功績により、家系代々
の<ローマ市民権>を贈呈されたのではないかと思われる。
(ローマ軍団野営地でのテント、軍団将軍、指揮官用舎のものから、下
々の兵士らのテントまでも、また、近隣の諸王侯らのご用達にも対応
すべく、その経営が営まれていたのではないか。そんな彼の家業環境
のなかで、天幕作りのノウハウを実際に見たり体験したりして、その
スキルを身につけたと、推定してもおかしくはなかろう。)
↓
パウロのこの下見立ち寄りのほんの数日かの滞在も、エペソの会堂に
集うユダヤ人にはなごり惜しまれるほどによき結果を得た。(18:20)
直に福音真理、かのイエスが神の子・キリストであり、その十字架の
死に関わる歴史的事情過程や、それに秘められた<神の真理>など、
この時には語ることはなかった。彼は何を論じ合い、示したのであろ
うか。かのイエスの事は、まったく口にすることなく、彼らと同様な
旧約聖書ベースの立場で、我々の<メシヤ>とは、一体どんな方であ
ろうか、どんな存在で、その御国はどうあるものなのか、等々、その
聖書の言葉から明かし論じた事であろう。これは異邦人社会のなかで
暮らす彼らユダヤ人にとって大いなる慰めとなったであろう。また、
パウロにとっても、非常に有意義な視察訪問ともなったであろう。
↓
エペソから再び船出し、(この時、なお小アジヤ西、南沿岸の何処か
1、2ヶ所に寄港しているであろうが、記事には記されず。
次の3回目の伝道旅行の帰途では、エペソの港には寄らず、
ミレトに数日寄り、そこから<コス島⇒ロドス島⇒パタラ>
と立ち寄っているのが知られる(行伝21章1-2節参照比較)
↓
54 → カイザリヤへ、(船はチャーター便とは考えられないゆえ、パレスチナ海岸方面
のカイザリヤに直行したとも言えない。シリヤのアンテオケ近
郊セルキア港、シドン、ツロ、トレマイ港など、どれかへの寄港記事が
記されていないだけと見るべきだ。このカイザリヤにはローマ
のユダヤ総督府が置かれていた。)
このカイザリヤで下船し、陸路を行き、ユダヤ人の都、
↓
→ エルサレムへ、(ここへは数年ぶりとなるが、教会にあいさつをしてから、そこ
に滞在することなく、早々に姿を消し、アンテオケに帰って行った。
自分の事で、またユダヤ人が騒動を起こすような事態を懸念して
か、宮に行くようなこともなく。)
↓
*エペソ経由でのエルサレム帰還途上,同労者のシラスとテモテの事には
触れられていないが、シラスは、自分の出所本拠地である、このエルサ
レム教会に留まり、テモテはパウロと共にアンテオケに戻ったと見られ
よう。行伝記者は、なんら二人のことに注意を払うことなく、その伝道
旅行記事をあっ気なく終わらせている。 と同時にパウロのつぎの過程
へと記述を繋ぐように進めている。(シラスとパウロの間に何か意見の
不和、確執があったのでは、、そんな予感もする。シラスは、元々エル
サレム教会の代表者らから、内々のうちにパウロの伝道活動に同行する
よう指示された者だったとも。)
↓
エルサレムへの帰還、その教会状況、何か変に様変わりしたような感触
を覚え、何かしら物寂しいような帰還だったと、推定されなくもない。
かってのペテロを中心とした12使徒も、誰一人いなくて、また教会長
老筆頭株のヤコブも出払っていて不在であった、、パウロの伝道報告を
聞くために会衆を集める事もなかった等々で、、、しかも、エルサレム
自体、その頃すでにその社会状勢の荒廃化への兆し、 人々の心に不安
不穏を感じさせるような諸事件が起きるほどに人の心が荒れていた、と
いうことなどで、、
↓
→ アンテオケ帰還、(テモテ、その他数名がパウロと共に本拠地アンテオケ教会に
到着、行伝記者のルカも随行していたであろう。)
54 パウロ、しばらくアンテオケ在住、数ヶ月いたか、何日居たか、記載無しで不明、
↓ その後、再び伝道旅行再開へ、これが彼の3回目の宣教活動となる。(18章23節)
↓ (この時には、行伝記者のルカは、パウロが出立する以前に、すでにエペソに行っ
↓ ていたと思われる。その記事が18章24-以降からのものとなろうか。)
パウロの異邦への3度目の活動:
第三次地図&ローマ行き参照(赤の線と茶色の線)
54 第3次伝道旅行:パウロは誰を同労者パートナーにしたかなど、その仲間要員に
ついて使徒行伝は、今回その出発当初には何も記していない。
少なくともテモテとテトスは初めから随行したに違いない。
(しかし、パウロの胸の内には、主イエスに倣い、自分とルカを
も含めた、<ネオ・ド‐デカ アポストロス=新12使徒>が御旨により、
成らん事を願い、今回の最大の目標地エペソに望まんとしたで
あろう。
↓
この願いは、エペソの地での宣教活動の間に、ほぼそのメンバー
の形が出来てきた、出揃った感じであった。行伝記者のルカは、
未だそのようなパウロの胸の内を知るよしもなかったが、)
《往路》
----
↓ この往時旅程の足跡は、大まかで、何か込み入った事情があり、詳細に欠ける。
エペソ滞在の出来事だけがその主要記事をなす。(18章23&19章1~20章3節)
↓ アンテオケ → ガラテヤ、フルギヤ地方の町々村々を歴訪、(1回目、2回目の
時のデルベ、ルステラ、イコニオム、ピシデヤのアンテオケなども歴訪したか、どう
か、記載不明であり、また海路か、陸路かの明示もないが、陸路と
しては、キリキヤ(タルソ)経由での事となろう。(23節)19章1節では
<奥地をとおって>とあるが、フルギヤの奥地、及びガラテヤ南部
を経て、コロサイ、ヒエラポリスなど歴訪して、アジヤ州イオニヤ西沿岸部
ルデヤ地方へ、(19章1節)
↓
*行伝記者・ルカが本書を書き上げた年代時をAD65年前後と見なさ
れるとして、その当時のローマ属州の小アジヤにおける行政区の
名称がそのままルカの記述している地域名および領域の広さにそ
っくり重なるというものではない。ルカ自身もローマの行政名称
区をある程度念頭に入れていたであろうが。
ローマの小アジヤ属州区も紀元前後のアウグスト帝以来、境界区
分編成が度々あり、AD80年から140年代頃がその安定期であったと
見られる。その頃の小アジヤ属州行政区は、以下の如く、大きく
7区分に分けられている。
↓ ①アジヤ州(首都エペソ、ムシヤ、リュデヤ、カリヤ、フルギヤ、
ピシデヤ西部の地域からなる)
②ビテニヤ・ポント州
③ガラテヤ州(パフラゴニヤ、ピシデヤ北部、ルカオニヤを含む)
④カッパドキヤ州
↓ ⑤ルキヤ州(首都パタラ)
⑥パンフリヤ州(首都ペルガ)
⑦キリキヤ州(首都タルソ)
55 → エペソ パウロがエペソに入る前に、アレキサンドリア出身のユダヤ人アポロが、
↓ <イエスがキリスト>であるとの証し伝道をしていた。そのアポ
ロによる弟子たちであろうか、パウロがエペソで最初に出会った
ところの十数人ほどの人々であった。彼らの手引きで、会堂での
宣教活動が始まる。三ヶ月間ほど続いたが、信じない人々の悪辣
な中傷、妨害で、その会堂を去り、他の場所へ移る他なかった。
↓
56 頃合い良くすぐに新たなる活動拠点が提供され備えられた。ツラ
ノという名称で呼ばれた講堂であった。ツラノという名の人物が
現存在世の人か、過去の故人であったかは知られないが、自由な
学園施設環境に関与した著名な哲学者であったと見られる。
↓
パウロはそこで2年間活動をする機会を得た。<コリント人への
第一の手紙16章8-9節>の文言では、
“有力な働きの門が、私のために大きく開かれているし、”云々
と述べている。
これが、そのツラノ講堂でのオープンな宣教活動を意識してのこ
とであったと見られる。
↓ (それは、ユダヤ人中心的な会堂における偏狭なものとは対照的で
あったという事を意味するからであろうか。)
この異教風土濃厚な地ではあったが、パウロにとっての伝道活動
の生涯中で、最も充実した時期であったのが、このエペソの地、
<ツラノ講堂の時>であった。
↓
この頃書かれたパウロの書簡:
- - - - - - - - - - - - - -
*小アジアの内陸部地方の<ガラテヤ人への手紙>・・・・・・55年
*ギリシャ・アカヤの<コリント人への第1の手紙>・・・・・56年
* 同 < 同 第2の手紙>・・・56or57年
--------------------
*イタリヤ・ローマへの <ローマ人への手紙>・・・・56or57年
↓
この手紙に関する<教会伝統の従来定説>では、この時のエペソでは
なく、58年にギリシャ・アカヤの<コリント>で記されたと見なし
ている。ここでは、まさに<新説>の呈示となる。
↓
【この新説定立の論証】の要約論証は、以下のものとなる。
-------------------------------
①:ローマ人手紙16章23節でのガイオとエラストについて
・ガイオは、元々の出身がマケドニヤで、コリントに在住していて、
当地へのパウロの二次伝道で救われ(コリンⅠ手1章14節)、第三次
伝道のエペソの時に、アカヤ・コリントにも来てくれるよう、
確認、催促方々代表者としてエペソにに来ていた。(伝19章29節)
こちらに来ていたからコリント人第1の手紙1章14節でその名を
記す事が出来た。
↓
行伝記者ルカは、その29節で、同郷のアリスタルコの名をも記し
ているが、同様に20章4節では、アリスタルコとセクンドとして
2者を並べ述べている。そのセクンドは、ガイオの別名(郷名)と
して記したもの。これは、次に記すもう一人のデルベ人のガイオ
と区別するためであり、同じ名前を並べ記すのは、彼の筆意にか
なわぬとしたことによる。
↓
・エラストは、エペソからマケドニア、アカヤに渡ってゆく際に、
先発して遣わされた、テモテ、エラストの二人(行伝19章22節)
の人と同一人物である。彼は、パウロのエペソ伝道での大いなる
活躍への貢献では、彼の存在なくしては、パウロのそこでの成功
は望めなかったであろう。何故ならば、彼エラストが、エペソ市
の会計役をしている時に、<ツラノの講堂>を全面的に使用する
ことを取り計らってくれた(エペソ市の有力議員からその使用認
可を得る。その議員等はやがてパウロの友人となる。31節)から
である。エラストは、市の会計係の公職を務めながら、パウロの
活動を支援してゆく。やがて、テモテと意気投合の仲となる。
↓
このエラストがまだ<市の会計係の公職>から退いていない時期
に、パウロは、彼の存在を意識して、その市・エペソで<ローマ
人への手紙>を書き送る事となる。
“市の会計係のエラストと~”の結びの挨拶文に明確に記されて
いる。(ローマ16章23節)
↓
②:ローマ人手紙15章19節での“イルリコに至るまで、”及び、25節‐
27節での<聖徒への援助の賛成>、その<賛成>という言を用いる
時点に関して。
・イルリコへの伝道は、第二次でのコリント及びケンクレヤ、一時
一部アテナイなど、それらの近郊以外、他のアカヤ全土にはなさ
れていない状況で、アカヤ北方からイルリコにまでは至っていな
い。第三次伝道においても、行伝記事、その他史料には、その言
及が見られない。
↓
イルリコは、マケドニヤの最西北の奥部地方を指し、エーゲ海側
の河川湾港に近いベレヤ方面からがその最短距離となるが、ロー
マの属領ダルマテヤとも重合した地域を占めている。そのイルリ
コには、最も早い頃から有力なローマ植民市となったドラキウム
という港湾交易都市があり、この名は新約聖書には出てこないが、
アドリア海のドラキウムから黒海入り口のビザンティオンまでは
ローマ街道の一翼をなす主要幹線道路(その建設者の名が付され
た“エグナティア街道”)が敷かれていた。
↓
(紀元前はローマの属州イルリュアとして、またそれ以前、マケド
ニアのアレキサンダー3世(大王)、その父王の代には、イルリュア
王国として、その名が知られ、継承されてきた地域であった。
ドラキウムという都市も、一時期その王国の都ともなったから、そ
の盛衰の歴史も古代都市として古いといえる。
紀元後になって、その地域のローマの属州行政区が、パンノニヤと
ダルマティヤとに分割され、マケドリヤ州が西方に拡大されたりし
たので、その名、イルリュア=イルリコスがずっと後世まで通用さ
れていた。)
↓
パウロは何時頃、マケドニヤの最西北部、イルリコを巡ったであ
ろうか。これは、後に後述している如く、隠れたかたちでしか見
出すことが出来ない。ほとんどその知りえない、隠れたふうにし
か記事には現れていない、それは<コリント人への第二の手紙>
においてである。
↓
第1章の15節では“まずあなた方の所に行き、それから~マケド
ニヤに~”とあり、23節では、“~わたしがコリントに行かない
でいるのは、~”とあるが、先に<ツラノ講堂での活動>の合い
間に多少余裕ができ、テモテらに一時任せられるとのことで、パ
ウロがトロアスに出かけた、その時の事を回顧して、その第二の
コリント人の手紙が記されている。
↓
第2章 12、13 節では、以前に申し合わせていたにも拘わらず、
パウロは、トロアスでテトスに会えなかった。
まったく気が気でなく、心配になりマケドニヤに渡っていったと
記している。
この時には行伝記者のルカは、随行しては居なかった。その時は、
コリントに在住していた、かのマケドニヤ・テサロニケ人ガイオ
が従者2人と共に同行していたようだ。在郷のよしみでそちらの
地理にも詳しい人でもあったから、、、、、、
↓
実際のところ、予定していなかった突拍子のないマケドニヤ行き
の行動をとったために、7章5節では、“着いたとき、少しの休み
もなく、困難さあり、不安と恐れがあった”と、しかし、テトス
が来て、会うことが出来たことにより、うちしおれ気落ちしてい
た我々を慰め、勇気付けてくれた(6-7節)と回顧している。
おそらくパウロにとって、テトスはとても頼もしい男であったと
思える。彼はギリシャ人であったが、まさに外見的にも、トロイ
の伝説に出てくる勇者の如くであり、ずっといつもパウロに付き
添っていれば、ボディーガードをなすような勇姿を備えていた。
↓
(このテトスは、シリヤのアンテオケか、パウロと同郷のタルソの
出か、知られないが、若者として早くからパウロの初期の活動時
AD40年代初め頃から彼に付いていた。ひょっとしたら、自分の出
所さえ分からない孤児であったかも知れない。パウロに出会い、
認められたのは、15、6才の頃か、髪の毛が違う、セム系では
ない、ほぼ間違いないほどにギリシャ人であろうと、パウロは、
真に親代わり、わが息子の如く、親の愛を注いだであろうか。
↓
最初のエルサレム会議の折、
行伝15章以下に相当、パウロに随行している。これは、<ガラテ
ヤ人への手紙第2章1節>で、その名が初めて出ている。行伝2
節では、“そのほか数人の者”としか出てないが、彼は、立派な
大人の青年となった。そして、AD51年頃の第二次伝道旅行から
パウロに付き従い、行伝で、ルカが記す如く、<わたしたち>で
表わされた人員の一人となっている。したがってパウロが、彼を
頼もしく、自分のボディーガード役のような存在になり得ている
と、気づかされるのはこの頃以降のことであろう。第一次の旅行
では、拾捨、歯止めがつかないほど、極端にひどい事態に遭遇し
ているのだから、、、、
↓
パウロのローマでの人生の最後の時とも思われる、その時期に、
彼・テトスは、パウロの事を思いつめるあまりの辛さゆえに、ダ
ルマティヤに立ち去ってしまう。パウロのむごい最期をみたくな
いとの激情、激憤ゆえに、、そして、最も思い出深く、懐かしい
かの地へと、、、テモテⅡの手紙4章10節)
↓
このマケドニヤ巡りは、行伝記者ルカもいなくて、知られざる地
味な伝道旅で、私的な交わりの旅とさえなったが、結果において、
第2章14節で記されている如く、“キリストの凱旋に、、私たち
をとおして(その宣教)、キリストを知る知識のかおりを、至る所
に放って下さるのである。”との成果を回顧するわけである。
パウロは、ローマへの<凱旋道路>をさえ意識したのであろうか。
かのアドリヤ海に面した<ドラキウム>の町を巡った際の、主に
ある宣教への胸高鳴る、何か感動的にさえなるその思い、海を渡
れば、そこはイタリヤ、はやローマへは、手の届きそうな所とな
ってきていると、さらにはその先の<イスパニヤへのそれ>もそ
の視野に望み抱くほどに、そして、テトス、ガイオらと共に、そ
のアドリヤ海の沿岸沿いのアカヤ方面に向かって、下ってゆく道
筋も確認して、ほぼその<ローマ街道>に沿った町々近隣の往復
的な宣教の旅を手際よく終え、エペソに戻ることが出来た。
《ローマ人への手紙は、この時のエペソで書かれた・・の新説》
そんな福音宣教への新たな感動的思いとその記憶の冷め薄れぬう
ちに<ローマ人への手紙>は書き記されたであろうかと、、、
↓
そして、<コリント人への第二の手紙>の方が先に記されたであ
ろうが、
<ローマ人への手紙>も夜のしじまの祈りと御霊真理の交わり、
黙思愛念のうちに、その原稿が記され(ローマ15章22-29節で
は、あの時の思いが反映、表れている)、その原稿が筆記者のテル
テオの手により、日中のうちに、きれいに清書された文字の手紙と
なって、、、ローマにもたらされる。
↓
*<教会伝統従来定説>でのロ-マ人への手紙・その執筆年代は、57-58年頃
この第三次伝道でのエペソを後にしたマケドニヤ、アカヤへの最終
歴訪期間中、<コリント>で記されたとする。
↓
・<聖徒への援助の賛成>について、この賛成は、<コリント人へ
の第一の手紙>の時、その16章にすでの<聖徒たちへの献金>
として、表示され、<コリン.第二の手紙>でも、テトスが<第
一の手紙>を持参してコリントへいった際から、<援助募金の進
め>を説いて回っている。その彼の熱意により、再びテトスをコ
リントに赴かせると、その第8章16節~9章にかけ、その関連記
述をなしている。
(テモテがコリントに遣わされたのは、<第一の手紙>の持参では
なく、それより前の<先の手紙>であった。第一の手紙5章9節
参照)
したがって、この時点では、その献金奉仕は、昨年来からのこと
で、少なくとも数ヶ月から1年ほど前からの備えとしてしており、
その成果の具体的な募金の実をパウロの側には納められていない
事が、当然の事として知られる。
↓
<ローマ人への手紙>における<援助する事への賛成>の記事の
表示も、まさに<コリン.第二の手紙>の時期と同じ頃だと断定で
きるものとなる(ローマ人15章25-26節)。27節では、マケド
ニヤ、アカヤの人々は、“たしかに、彼らは賛成した。~、、”
とある。つまり、<賛成の実>としての<この実>(28節)は、未
だ出来上がっていない段階を示すものとしての記述となる。
パウロら一行がコリントへ着いた段階で、即、その<奉仕の実>
を手にする手筈になっていたから、そのコリント滞在の3ヶ月の
間に、<ローマ人への手紙>が記されたとするのは、その文面か
ら判断して、大きな時期的なズレがあると言える。
↓
*要約論証は、以上であるが、この<ローマ人への手紙>をだれが
ローマに運び、持参したであろうか、という問題もなお残されて
いる。
<手紙の内容文面>それ自体には、具体的に明示されたような、
明白な記述は見られない。が、推量できる可能性のある文面が全
くないというわけでもない。
↓
<教会従来定説>もその推定可能な文面<第16章1-2節>の
“わたしたちの姉妹フォィベ”という女性をその持参者に想定し
得ると見る。明らかにこのフォィベは、今まさにローマに向わん
とする者として、そちらにいる兄弟らに紹介しているからである。
この彼女は、<ケンクレヤにある教会の執事>とある。年齢など
は全く判らないが、たぶん30代前後から40代のうちであろう
との一般的な見方があるが、確実とはいえない。ケンクレヤは、
アカヤの州都コリントに近い、ほぼ近郊ともいえる港町である。
結局のところ、従来定説は、このケンクレヤ & 姉妹フォィベの
事柄をもって、留意すべき判断材料、前提として、パウロらが、
エペソからアカヤに来た時の、その<3ヶ月の間>に書き記され
たものだという見方に行き着いたようだ。
↓
一方【新説】は、次のような想定をなす。
ケンクレヤの姉妹フォィベは、ローマに移り住むにあたり、エペ
ソのパウロの所に挨拶にゆく、あちらの人々への取次ぎのお願い
方々ではあるが、それだけではない。女性の一人の長旅は危険極
まりない。エペソのパウロらの所には、色々な人が訪れ、立ち寄
り、教えを受けたり、慰め励ましを受けたり、祝福を受けたりし
て、その親交を深める場でもあった。シリヤ、ユダヤ方面から、
ローマに移り行かんとして、旅する者たちが立ち寄ったりする所
でもあった。つまり、パウロの所から、幾人かの一団となって、
旅をすることが可能であった。特に当時最大の都であったローマ
へは、この方法がとられるように気遣われていた。したがって、
姉妹フォィベは、比較的安心して旅をなし、ローマに行くことが
出来たようだ。
↓
たまたま、フォィベがエペソに挨拶に来た時、パウロが、ローマ
人の手紙を執筆中で、その8割方を終えようとしていた頃と重な
ったと見てもよいかも。彼女との久しぶりの親交、交わりの談話
に話しもはずむ、アカヤ方面の教会の状況も生に耳にするような
感じで、そんな中、ガイオについての大変な事を彼女から聞かさ
れる事になった。彼・ガイオは、パウロには何一つ口には出さな
かったが、、コリントにあるクリスポの会堂以外、アカヤ、コリ
ントのほぼ全ての教会の大小の集まり所の建物は、みなガイオが
その都度、収得、提供してくれたものだと、、ユダヤ人の会堂は、
もうどこにおいても有用できない状況になって来ている。パウロ
はその事を聞いて、いま知ったがゆえに、その手紙第16章23
節での結びの挨拶の言葉で、
↓
“わたしと全教会との家主であるガイオから、”と言い放ってい
る。パウロは、あえて自分をも含めた意味で、その家主なるガイ
オと、賞賛高々の思いで記しているかのようである。
↓
このようなことも、姉妹フォィベが、ローマへの旅立ちのご挨拶
に、エペソにいるパウロのもとを訪ねた結果であろうか。
ちなみに<コリント人への第一の手紙1章14節>では、会堂司
のクリスポの名と、ガイオの名が並べて記されている。
↓ -----------------------------
↓
57 エペソ滞在については、少なくとも2年半以上、パウロ自身は、
行伝20章31節で、三年の間と語っている。その滞在時には、色々
な事が起こったであろう。
↓
↓ それの一部的概略と、最後的にエペソを立ち去る要因となった、
大きな社会情勢事件が、行伝19章の主要記事として記されてい
る。アルテミス神殿との関わりで、銀細工人、銅細工人らと、さ
らに同類の仕事をする者が中心となり、関係商売人らも集まり、
町の群集を巻き込んだ騒動を起こす。パウロの率いる伝道団への
流血沙汰は、(ガイオとアリスタルコの二人が、彼らに捕えられ、
つるし上げられるほどになったが、)、何とか免れて、騒動は、市
の書記役の計らいで事前に収まるものとなった。
↓
この騒動により、パウロらは早々にエペソを後にすることを余儀
↓ なくされた。(20章1節)
*エペソ滞在での記事は、行伝第19章だけで、それほどに記述容
量が多いというわけではない。行伝記者ルカの視点的意図が、使
徒としてのパウロという人物に規定されているから、あまり余分
な内容を盛り込むと、これの正典文書となるべき主点テーマがぼ
やけ薄れ、その有用価値が下がるからである。
ルカは、ルカでまた、ある草稿の準備が今や整いつつあった。後
の<ルカ福音書>である。すでに<マルコ文書>をも、その主要
な第一資料として、手にしていた。今ここで記すべきこと、、、
この行伝19章で、あざやかに目に浮かび、よみがえり見えてく
ることがある。
↓
先に<それの一部的概略と、>と述べたが、その記事の19節、
<魔術の本を~みんなの前で焼き捨てた。>とあるが、これは、
占いの本、呪いの本、運勢の本など、その他も含まれ、それらを
除いたものであった。何でこのような状況にまで至りえたのか。
ツラノ講堂の2年間などの記述を踏まえた上で、11節以降の前
節での、神がパウロを通してなさった異常な力あるわざの数々や
一連表述されている悪霊につかれた者に係わる出来事など、そう
いった事だけが、起因の源ではなかったようだ。(11-17節)
↓
行伝記者ルカが伏せて記さなかった事、これはマルコ文書、主イ
エスの言行を描写したイエス伝(後のマルコ福音書)文書に係わ
る事で、それが信じた人々に流布されることになった事情の事で
ある。パウロを導き手、リーダーとした、伝道団の僕(シモベ)たち
は新しい試みを始めた。ツラノの建物の中に、あるいは足りない
時には天幕を張って、書写室を設けて、その流布の道を始めたの
であった。主イエスを信じた人々は、インクつぼと、パピルス紙、
或いは、羊皮紙の幾枚かを携えて、続々と集まり、書写室に入っ
て行って、しもべ達のアドバイスの下、マルコ文書を書き写すも
のとなった。書写室が2部屋、或いは3つあっても、一室に5机
台ほど、初めの内は並んで待っている事も、日によってあったが、
かなりの日数継続的に行われ、続いたものとなった。文字の書け
ない人、読めない人での、わが子、子供らの為に、代筆をさえ頼
む人々もあった。代筆屋、書写屋を生業とする者らの人が、顔を
見せることもあったほどである。主のしもべ達は、この書写活動
に連動させて、異邦、異教の本類を焼却することも奨励し、それ
により主の恵みが一層増し加わることを証しした。
↓
このような奉仕活動の下、エペソという異邦の地にも拘わらず、
人々の心の地は、しだいにユダヤ、主イエス在世の地に啓蒙シフ
トされる状況となった。この状況により、信ずる側の信仰の意識
も高まり、神の力あるわざ、奇跡がなされるにふさわしいものと
なり、それがパウロにより、大々的にかなえられるものとなった。
(焚書の社会状況は、その反動として、ローマ皇帝ドミティアヌス
(81年)のキリスト教大迫害時やトラヤヌス帝、ハドリヤヌス帝の
時代(98-117&117-138年)での暫時的迫害時代に厳しい取り締
まり検閲により、キリスト教書籍、文書類は焚書処分にあった。)
↓
*行伝記者ルカの動静について、彼は、その福音書としての第一巻
を草稿する以前に、使徒行伝の方の自らが臨世の係わりをしてい
ない部分(第1章の冒頭:1-6節、或いは11節まであたりを除いて)
を、ほぼ先に完了段階にもって来ていたようだ。この部分までが
第12章の終わりの節までであり、13章からが、実際的に彼が
体験してゆく、草稿の時となる。パウロとバルナバによる第一次
伝道旅行の時から、彼はすでに同行者となっていると見られる。
そして、現時点エペソにあって、その13章から18章23節部
分までの草稿が出来上がっていたようだ。
こういった彼の著述状況の下で、<マルコ文書>を記したマルコ
と主イエスの愛弟子、12使徒にあたる、一番年下の若いヨハネ
とが、同一人物であるとは全く認知できなかった。パウロ自身も
そうであった。
↓
ルカによる行伝上でのヨハネは、第8章のサウロ(パウロ)らによ
るエルサレムの教会への大迫害後の結果状況により、サマリヤ人
への伝道の切っ掛けとなった際、ヨハネがペテロの補佐として、
サマリヤに出向き(14-15節)、その御用をなしてエルサレムに帰
った(25節)という処で、ヨハネの消息は、行伝上ではぷっつりと
絶たれている。(以外にもこのサマリヤでも、魔術に係わる事が、
記されている。)
ルカにとって、行伝上で記したヨハネは、顔も外見も知らない、
人からの伝え、或いは史料となる教会の記録など、その他の資料
によるところのものであった。このサマリヤの記事後での使徒ら
の動向は、特にペテロの記載が主であるが、補佐随行のヨハネは、
その影かたちもない。ペテロは、地中海側方面に出向いている。
ルダ、ヨッパ、カイザリヤと伝道し、その後エルサレムに戻った
が、(9章32-11章2節)その頃にはようやくエルサレムでの迫害
も沈静化していたであろう。
↓
このサウロ(後のパウロ)らの迫害勃発の最中、一番若いヨハネは、
自重を勧められ、マルコと名乗って潜みの生活を続けることにな
ったようだ。しかしこのマルコ(ヨハネ)に決定的な人生衝撃を与
える事態が生じた。ヘロデ王による教会の主立つ者らへの弾圧の
時、実兄のヤコブが剣で殺されたその生々しい事件である。(12章)
この時の衝撃以来、12弟子(使徒)の一人とされる立場から、ヨ
ハネは完全に<自己脱落>したものとなる。つまり、自分を完全
に隠した一信徒、一兄弟として生きるものとなる。
これは、主に問いつつ、悩みに悩み抜いたところの信仰の決断で
あり、その自己回答であった。そこにはもはや、12使徒として
の名目上の立場さえなかった。大人になったばかりの若者の兄弟
が、何気なく他の顔見知り年配の使徒たちとの交わりを、控えめ
になす光景のみがあった。
↓
やがて、ずっと後年になって、パウロがマルコ(ヨハネ)との交流
をなしたのは、ヨハネ(マルコ)がマルコ文書(福音書)を出してか
ら、再びパウロが、マルコの存在を気にかけるようになってから
の事であった。この再会がエペソであったかもしれない。何らか
の用件で、ペテロの使いとして、<ペテロのⅡの手紙>をアジヤ
(小アジヤ)に持参するよう派遣された一員として、、、、
↓
パウロはその時、かっての同労者バルナバの消息を聞いたであろ
う。また、彼バルナバとの関係を尋ねたであろう。マルコ(ヨハネ)
の答えは、バルナバの弟子でもなく、信徒としての兄弟には違い
ないが、血肉での兄弟でもさらさらなく、何気なく、<いとこの
ような者>ですと、微笑みながら答えたであろう。(何故ならば、
マルコ・ヨハネは、決して忘れる事のない、<大祭司アンナスの中庭
での事>を思い出し、その大祭司の親族の内の僕シモベ、この名が
マルコスであったわけだが、この人の家系がレビ人で、バルナバ
とは従兄弟関係であったので、ふっとそのように答えたのだ。ペ
テロはあの時、剣でマルコスの耳を切り落とした。わたしの兄ヤ
コブは剣で殺されたのだと、ヨハネ福音18章10-27節。バルナバも
もちろんレビ人であった。行伝4章36節)
↓
その後、パウロがローマでの軟禁生活中、<コロサイ人への手紙>
で、これが<バルナバのいとこマルコ>として記され、<テモテへ
の第二の手紙>でも、このマルコ(ヨハネ)の事を“彼を連れて一緒
に来なさい、彼は ~~ 役に立つから。”と、テモテに
催促している。(コロサイ4章10節&テモテⅡの手紙4章11節)
↓
【パウロの獄中書簡についての流れは、手紙をもって派遣された
テキコによって、理解すべきであろう。
・テキコが一回目に派遣された時、<エペソ人への手紙>と、
<テモテへの第二の手紙>を携えて、テモテのいるエペソに、
(エペソ人の手紙6章21-22節&テモテⅡの手紙4章12節デハ“ツカワシタ”
の過去形だが、<δε απεστειλα>の用語が、<職務を与えて
遣わす場合>に用いられる言葉であり、それがエペソへの手紙
を持参する事だったから、即、過去形(第1アオリスト)で記されて
いる。また受け取るテモテの立場にあって、過去形ともなる。
<δε>は、先行の文の状況内容を受けて、“それで”の意味で、
ここでは非常に重い重要な小辞語となる。前の文に後続する文
の接続小辞だが、これは如何なる時も、文頭には来ないから、
ここでは<テキコの単語>の後に来ている。“それで~ツカワシタ”)
↓
*テモテがマルコ(ヨハネ)と一緒にローマに来てから、パウロ
の軟禁中の間に、コロサイ人エパフラスだけでなく、アリスタ
ルコとマルコまでも、そのローマでの宣教活動で、一時の間だ
けであったろうか、捕らわれの身となる。コロサイ4:10節&ピレモン
への手紙23節。
(テモテらが、ローマに帰途する際には、パウロを捨ててテサロ
ニケに行ってしまったデマスを探し出し連れて来て、復帰させ
たと見られる。)
このような時期、最中に、
↓
・テキコが再び2回目の派遣にて、<コロサイ人への手紙>と、
<ピレモンへの手紙>を携え、パウロにより恵みを得て入信し
た年若いオネシモを連れて、エペソの奥東、コロサイに、、
(コロサイの手紙4章7、9節&ピレモンへの手紙10節) 】
↓
57 → マケドニヤへ、
AD57年の五旬節(ペンテコステ:陽暦5-6月の中間の15日)をエペソで
↓ 守った後か、その前かであろう、そこを離れたのは、、、、
( コリントⅠの手紙16章8節では、“五旬節までは、エペソに滞在
するつもりだ。”とパウロはその手紙で記している。したがって、
問題なく順調であり、さらに滞在の必要あらば、それを多少伸ばす
事も良しとしていたであろう。) AD57の五旬節が過ぎた後になっ
てから、やむなくエペソを離れたと見るべきか。(行伝20章16節の
記述が、決め手となろうか。船の寄港先に係わる事での事情、、
“アジヤで時間をとられないために、云々、彼はペンテコステの日には、
エルサレムに着いていたかったので、旅を急いだわけである ”
と、、)
↓
↓ 行伝記事第21章をも踏まえたエルサレムへの<帰途の旅程>の日
取りを溯ると、確かにパウロは、<ペンテコステの日には、エル
サレムに着いていたい>との表明記事(伝20章16節)に合わせて、
実際に旅程どうり、その祭りの何日か前にエルサレムに到着して
いる。エルサレムの宮でのこのペンテコステの祭りの時期にかけ
ては、普段より人、民衆の数が多分に膨れ上がる事になろう。
このペンテコステ・五旬節は、AD58年の時だと見るべきだ。
↓
↓ *マケドニヤ地方での旅程は、事前にテモテとエラストの二人を送
り出していた(19:22節)ので、ある程度はその受け入れ手順も整
い、スムーズな教会巡回とその町々の旅をなすことができた。
それでもエペソからトロアス経由の船旅で、マケドニヤのピリピ
にゆき、テサロニケ、ベレヤまでの町々を巡り、ベレヤから再
びアカヤ(ギリシャ)に向けて出航しても、ギリシャに着くまで、一ヶ
月以上は要したであろう。行伝記事にはその旅程ルートは何も記
されていないし、町々の教会訪問の詳述もない。
↓
→ ギリシャ・アカヤへ、
アカヤといえば、首都コリントの諸教会であるわけだが、ここでは
行伝記事の20章3節によると、
“パウロはそこで3ヶ月を過ごした”とだけ、記している。
↓
パウロらは、そうなるとの予定どうり、そこで冬を越したと見られ
るわけだが、(コリント人への第一の手紙では、“マケドニヤは通
過するだけで、あなたがたの所では滞在し、或いは、冬を過ごすか
も、、、”云々と語るが、16章5-6節。第二の手紙では、きちっと
した計画表明のものとしている。1章15節) しかし、
この越冬に関しては、少々込み入った予想外の事情が係わり生じて
の事となったようだ。
つまり、その結果、パウロの越冬滞在は、それイコール、上記の
“彼は、そこで3ヶ月を過ごした”の<3ヶ月>に当るものではな
いと見るべきだ。
↓
*使徒行伝でのエペソ滞在時期の記事(19章~20章1節)と、その頃に
記された<コリント人への第一及び第二の手紙>との相応関係で、
その時期状況の一致を求めるには、それらをよく吟味して読んでみ
てさえも、少々辻つまが合わない難点が立ちはだかり、解消しがた
いものとさえなっている。この問題をどう乗り越え解決すべきか、
その試みによりパウロらの動向、状況を改めて再認識できようか。
唯、その動向把握には推察、推理の域での考究しか残されていない。
↓
その考察の手順は:
その①:パウロらがエペソに来て、ツラノの講堂でその務めをなす
ようになって(19:9節)、一年になろうとする頃、コリント
の教会から、ある不品行なる不祥事への対処を仰ぐべく、
兄弟らがエペソに遣わされた。この件に対してパウロは、
現<コリント人への第一の手紙>をしたためる以前の、今
では知られていない<前の手紙>に関わるとして、その訓
戒と、きわめて個人あての処分勧告の文面内容でもって、
コリント教会にそれをもたらすものとなる。
これに関する言及は、
コリント第一の手紙第5章1節から、9節で<前の手紙で>
と、言明している事で知られる。(コノ手紙は残存シテイナイが、)
この<前の手紙>と共に、この時パウロは、<テモテ>を
コリント教会へ遣わしている。(第4章17節、16章10-11節)
↓
その問題の対処後には、再び、
その②:10日も過ぎないうちに、パウロはまた、コリント在住の
クロエという比較的裕福な婦人の家の者たちから、<分派
的な主張争い>が生じていると聞かされる。(1章10節
以降、11節~13節、3章4-7節等)
↓
この容易ならない、とても良からぬコリントの状況の故に
パウロは<コリント人への第一の手紙>をしたためるもの
となる。しかも<前の手紙>での問題をも考慮しつつ、主
を信じる者の<生き方の原則>を語る教示もふくめて、、
<この第一の手紙>の持参者、つまりコリントへ遣わされ
たものは、<テトス>だったと推定されうる。
↓
彼は、先に遣わされていた<テモテ>と入れ替わるような
ものとなったが、このテトスは、パウロの代理として、マ
ケドニヤにも赴き、そちらを経由して、アジヤ(ムシヤ)のトロ
アスで落ち合う予定になっていた。
その頃、トロアスの兄弟らから、再三にわたり<福音宣教
の要望>があったから、ツラノ講堂での活動をひと段落さ
せ、テモテらに任せてでも、行く手はずを整えていた。
↓
この事は、<コリントⅡの手紙第2章12-13と7章5-6節>
で、既に過ぎた過去の事として、その<第二の手紙>を書
き記す時点で、その手紙の中で言及しているわけである。
この<第二の手紙>は、エペソでの宣教活動、ツラノ講堂
での2年目の後半中ば頃に書かれ、この手紙と共に再び、
テトスを他の兄弟二人を連れ立たせて、送り出している。
(第二の手紙8章18節、22節及び12章18節:アポロを指すか)
↓
その③:いよいよエペソでの活動も終盤に近づく頃、その十日近く
になった頃、かねて計画していたように、これは<コリン.第
二の手紙第1章15節>で明言された<アカヤ、マケドニヤ来
訪計画>であったが、これに基づき<テモテ、エラスト>の
二人をマケドニヤに送り出します。(行伝19章22節による)
↓
どうやらパウロが彼ら二人を送り出した時点で、かの<第
二の手紙>で表明されていた、当初の計画を少し変更した
ようである。当初のそれは、<先ず最初にアカヤ=ギリシャに
行く>手はずだった。が、テモテらは、マケドニヤに先発
したことから、その変更をなした事が知られる。
↓
また、先に<第二の手紙>を持って、再びアカヤに行った
<テトス(ら3人)>は、そのままアカヤに留まっていたよ
うである。このテトスらは、マケドニヤ経由でアカヤにパ
ウロらが来るまでの期間の間に、パウロの容認の下、クレ
テ(現クレタ島)に赴き、福音宣教に奮戦していたとも考え
られる。
↓
<テトスへの手紙第1章5節と3章12-13節>で、特に後者
の文言では、アポロとゼナスの名が出ている。ゼナスは、
ローマの民事法にも詳しい法学者でもあったから、コリン
トでの不品行不祥事問題への対処の手助けになったとも推
定される。
↓
テトスは、パウロらがアカヤ到着した折、その知らせを受
け、クレテからアカヤに戻り、パウロに状況報告をし、ク
レテへの助言と指示を得てから再びクレテに渡ったと見ら
れる。
↓
その後、数月経ってパウロらが首尾よくシリヤに向けて船
出しようとした矢先、それが出来ない様な事態となった。
(パウロらを船ごと沈めようとする陰謀なのか、どんな陰謀
だったか、記されていないが、それが予知されて、、)
↓
反パウログループのユダヤ人による襲撃妨害を避ける以外
に手はなく、ひそかにマケドニヤ方面をめぐり、その地方
のいずれかの港から帰航することにした。(これについて
行伝20章3節では、極めて短文簡略記述にて済まされて
いる)
↓
このマケドニヤ迂回の時、途中で一行は、二手に分かれて
先にトロアスへ渡って行った先行の兄弟らのことを行伝は
次の<4-5節>で、その名前を挙げて記している。
↓
このマケドニヤ迂回旅でパウロら一行は、冬を越さなけれ
ばならなかった。一端はマケドニヤに向かったかに見せか
けたが、大事をとって、敵対者の目をくらまし、アカヤの
北部奥深くに退いて、そこで冬を越す事にしたようだ。
パウロは、クレタにいるテトスにその所在を知らせるため、
またその越冬地=ニコポリに来るようにとの指示催促をも
付した手紙を出している。これが後世に残った<テトスへ
の手紙>で、テトス宛としての唯一のものである。
↓
(伝統従来定説では、この手紙は、ローマからのパウロの獄
中書簡の一つと見なされているが、それについての確たる
裏づけ、或いは論証があるかどうかは、未確認だが、手紙
本文の文中では、“ニコポリにいるわたしの所に~”と表
示しているので、軟禁中でも、一時釈放での場所としても
妥当性を欠いているのではと思われる。)
↓
*パウロがかのアカヤ、マケドニヤ訪巡の当初計画を変更せ
ざるを得なかった、その決定的な要因は、何であったのだ
ろうか。当初の計画では、アカヤだけでなくマケドニヤで
も、十分に時間をかけて、主のご用に当ろうとの心づもり
で、<コリン.第一の手紙での表明(16:5-6)>から<第
二の手紙での計画立て(1章15-17節)にすることで、意気込
みの確信を示していたわけだが、、、、
↓
エペソでの滞在活動の最終段階で、<アカヤ、マケドニヤ>
巡りで、十分に時間をとる事が出来ない状況に至っている
事情に気づき、深く認知するものとなる。
<使徒行伝19章21節>の文言だけから、その決定的要因
を看破、見抜くことは不可能に近いであろうが、行伝記者
のルカは、‘それとなく’以下の如く記しているようだが、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・原典(ギリシャ語コイネー)
“Ως δε επληρωθε ταυτα,εθετο ο Παυλος εν τω
πνευματι διελθων την Μακεδονιαν και Αχαιαν
πορευεσθαι εις Ιεροσολυμα, ειπων οτι ~ ”
↓
(<διελθων>は、第2アオリストの過去分詞で、主動詞<εθετο>
の示す時制動作(この場合は過去)と同時的に起こっている事で
はないから現在分詞をとらない。<同時的ならば現在分詞を
必ずとる>というルールがあり、主動詞が fut.,prese.,
past のいずれであろうと、この文法ルールがギリシャ語では
適用される。)
(<πορευεσθαι>は、不定法現在・中態の語形で、
主動詞<εθετο>の時制に関わるルールはなく、その
語自体が表わす行動動作のあり方により、現在、不定過去
のいずれかの不定法語形をとる。)
↓
・英訳(R.S.V.)では、
“Now after these events Paul resolved in the
Spirit to pass through Macedo'nia and Acha'ia
and go to Jerusalem, saying that ~、”
↓
*英語では、<διελθων>の不定過去分詞をそのまま
直訳(having past through)出来ないので、英語不定
詞よる訳(to pass throu-)となる。(King James 版
では、
“~ spirit, when he had passed through ~,”で、
to go to Jerus., への修飾節として続く。これが本意を
表わす訳に近適だが、間接話法的な接続節の導入となる。)
↓
また、<πορευεσθαι>の方は、そのまま直訳でき、
<to go to ~>となるが、and の接続詞を投入し、
go to の前の to を省略することになる。ここでは、
主動詞<εθετο(resolved)>の、両者の語に関わる
ウエイトが、両方なのか、それとも前者 or 後者なのか、
その不確かな曖昧さが残る。
↓
・和訳(協会訳)では、
“これらの事があった後、パウロは御霊に感じて、マケド
ニヤ、アカヤをとおって、エルサレムへ行く決心をした。
そして言った、~ ”
↓
英訳、和訳とも、難なくさらりと的確に意訳をなした感じ
であるが、やはりその元の原典語は、ネイティヴ人常用者
の心情、心意から語文が成り表されているので、その言葉
の真意、真相を注意深く汲み取らなければならない。とは
言っても、この文節の言葉だけでは、何も分からない。
↓
その結:ここではパウロが、アカヤ、マケドニヤで十分時間をとる
はずの<先の計画>を取り下げて、先には主目的ではなか
った<エルサレム行き>が最優先の事柄となって、その選
択を迫られた。従って<前の計画>を変更して、いわゆる
アカヤ、マケドニヤは、<マケドニヤから、唯パススルー
するだけ>と決めたのは、<エルサレム行き>を優先的に
決意した結果によると見るべきだが、パウロにとっては、
実のところ中道案の選択でしかなかった。本当ならば、マ
ケドニヤ、アカヤ巡訪を中止すべきとの意向もあった訳だ。
↓
エペソ滞在のパウロの耳に、アンテオケ教会を通して、又
直接にエルサレムから、エルサレム教会の良からぬ現況を
この半年余り前から頻繁に入ってくるようになった。
(これ以前のたより情報などでは、エルサレムの聖徒たちの
なかで、困窮者が多くなって、援助を必要とする。援助の
手を差し伸べて欲しいとの事だけであった。)
↓
それは、ユダヤ主義の入信者が多くなって、以前からいた
信者らが、アンテオケ教会の方へ流れて来ているという事
態が起きているとの情報であり、何か教会が様変わりした
ような状況だとの知らせ、うわさであった。ギリシャ人の
信者は居なくなり、教会がユダヤ民族主義者らに利用され
兼ねないとの不安の声もアンテオケでは出ているとも、、
サンヘドリン=エルサレムの70人議会の一人にも選ばれ
ていた長老ヤコブと、その親派の少数名が踏みとどまって
いるとの現状も聞かされる、、、
(数万人ともなったユダヤ教的キリスト者に押されて、や
むなく議員になったヤコブは、大祭司サドカイ派とパリサ
イ派との反目抗争に絡まれる中、大祭司派の律法裁判によ
り処刑、殉死させられる。AD62年、前任者フェストに
代り、ユダヤ総督交代の赴任途上の時期に乗じて、、、
これは先にパウロという主要大物人を取り逃がした腹いせ
の陰謀策であったかも知れない。)
↓
エルサレムの都自体の状況と、エルサレム教会、もはや、
実際に自分の目でしかと確かめるには、エルサレムへ戻る
他ないと、その上でエルサレム教会の動向をきちんと定め
なければ、、、、胸の内は、困難、難題の決断で揺れる。
このように<当初計画>の変更、その<決定的要因>は、
<エルサレム、及びその教会の現状>、その幾多の情報に
よるものだった。
↓
↓
《復路》
----
復路旅程は、往路の初めのそれに反し、一応の経路的詳細の整った記事として、帰
還地エルサレムまでを記しているが、帰途に向けて出立する以前でのマケドニヤ、
ギリシャ・アカヤでの訪問滞在記事の詳細はまったく記されていない。
(使徒行伝20章2節~21章17節までが訪歴兼帰還復路となる。)
行伝記者ルカがほんの2、3節で、歴訪記事を済ましてしまっていることは、何一つ
特記すべき事がなかったと見るべきであろうか。何事もなく、ただパウロらの励ま
しの言葉、教えの奨励だけで数ヶ月(マケドニヤで1ヶ月余、ギリシャで3ヶ月)が
過ぎたと、、、、ルカはどうやら、この歴訪では、記すべき材料をキープするだけ
の意欲を喪失するほど、かなり落胆していたと思われる。というのは、何故かと言
えば、ルカの同行なしにパウロが予定外の勝手なマケドニヤ巡訪を先にしてしまっ
たからである。(これは前述した如くであり、コリント人第二の手紙で、トロアスからテトスが
心配で、マケドニヤまで行ってしまった、パウロの予定外の行動の事)
↓
ルカは、パウロにその信頼を裏切られたと感じたわけではないが、少々お冠だった
ようである。結局、自分の記す記事に秘すべき唯一性的特質の新鮮さが、自分の内
にインスパイヤーされなかったと見るべきであろうか、彼の意外な著処遇の現われ
と見なすべきか。
↓
57 エペソを後にしてマケドニヤへ、“その地方を通り、”巡り経てアカヤ、すなわち
ギリシャへ、(マケドニヤをどう巡って、どのようなルート道順を経て、アカヤに
入ったかも、不必要でどうでも良いかの如く、記されてはいない。行伝20章1-2節)
↓
*ロ-マ人への手紙・その執筆年代は<教会伝統従来定説>では、57-58年頃、
この第三次伝道でのエペソを後にして、マケドニヤ、アカヤへの最終歴訪期間中、
<コリント>で記されたとしている。
↓
57 アカヤ・ギリシャで、“三ヵ月を過ごした。”(3節)この期間もどのように活動し
たのかも不明、何ら特記すべき諸状況材料を留めおくものも、記憶すべきものも、
皆目なしであったのか、、、、ところがあにはからんや、この行伝3節では、いよ
いよシリヤへ向けての帰還、おそらくケンクレヤの港からであろう、船出せんとす
る矢先、ユダヤ人らによる陰謀が生じた為それが成らず。彼らの危難を避けて再び
↓ マケドニヤへ、迂回経由策をとって帰る以外になかった事だけを記している。
57-58
反パウロ派ユダヤ人らの陰謀後のパウロと、その一団の足どりは、不明と言わざる
を得ない。これはまさに、記事記述に係わる<空白の期間>とのなるわけだ。
↓
ルカのマケドニヤ経由決行を示した文言に続いて、4節では、自分自らがあたかも
心機一転、再スタートさせるかのように、一行の同行者たちの名前を挙げ記すこと
から、<行伝記事・著作>の後半、その最終的な山場へと著述の心を次第に集中展
開させて行くものとなる。
↓
しかも、16章で初めて出てきて以来、なりを潜めていた“私たち”という表現が、
この20章と21章にかけて、新たなる意欲の表われを示すかのように見られるの
↓ もそのきざしである。16章では、それが8回使用されているが、そこでの導入に
は極めて自然にシンクロさせた言葉記述の流れを見るのみであるが、ここ20章の
5節以降では、その
↓
“わたしたち”というのが、パウロも含め、その一員であるとして、俄然、文書中
の主役でさえあると、するかのように著述への進展的進行の役割を持たせている。
(先発してトロアスで待っている、かの同行者ら:ソパテロ、アリスタルコ、セクンド、ガイオ、
テモテ、テキコ、トロピモ の7人に対して、パウロを含めた“わたしたち”というものの存
在を先ずは併記対照させた文言にしている。4-5節において)
↓
<“わたしたち”>の方は、マケドニヤの“ピリピから出帆”したと、行伝6節は
記すが、その時期がユダヤでの慣例大祭の一つ<“除酵祭が終わったのちに”>と
も前書きを付している。(ピリピの玄関港としての町ネアポリスからを意味する)
↓
マケドニヤ経由の<空白の期間>をもふくめて、かのエペソを後にしたその時期、
それは、
先に前述したように、<コリント第一の手紙16章8節では、“五旬節までは、エペソ
に滞在するつもりだ。”とパウロは、その手紙で記している>が、それが、ほんに
<五旬節>の後であれば、“ピリピでの除酵祭が終わったのち”に至った、それま
での期間は、10ヶ月と十日~十五日前後の日数が経過したということになる。
↓
仮に10ヶ月としても、エペソからの<マケドニヤの歴訪1ヶ月+ギリシャの3ヶ
月>との単純計算で見れば、思いがけないマケドニヤ経由の回避行の<空白期間>
は、6ヶ月ということになる。
<五旬節>の後、エペソを立ったその頃から4ヶ月余の後、シリヤに向けて出帆せ
んとした、その時が、秋の中旬前後の頃までと推定されうるから、マケドニヤの何
処かで、その<空白の期間>の間での“冬を越す”という数ヶ月(3、4ヶ月)が含
まれることになる。ルカの行伝文書には、このマケドニヤ回避行の時の模様を何一
つ告げるものを残さなかった。
↓
先にパウロとの係わりでテトスの事を前述しておいたが、テトスがクレテ(クレタ島)
でやり残した務めを果すべく、そこに留まっていた最中に、パウロが彼宛てに手紙
を記している。パウロ自らがクレテ伝道に赴いたという形跡がないので、かのアポ
ロともう一人(ゼナス)の同労者が、アカヤ・ケンクレヤから渡ってその宣教をなし
た結果であろう。
↓
パウロら一行は、かなりの暗夜避行で、2手に分かれて行動し、最終的にピリピで、
除酵祭の十日ほど前までに落ち合うといった申し合わせまでして、反パウロ派ユダ
ヤ人グループの目を逃れなければならなかったとも考えられる、、、、
↓
この時期の唯一の手紙が、<テトスへの手紙>として、今に残っていると判断され
得る。この<空白の逃避行期間>での<越冬>が、アカヤ北方、アドリヤ海側の港
湾の町ニコポリであったと思われる。(テトスへの手紙3章12-13節)
↓
58 冬を越し“除酵祭”(3月末4月初め頃)後、ピリピ(ネアポリス)からトロアスへ、
五日かかり、トロアスに七日間滞在、先発した7人の同行者らと落ち合う。
(5-6節)
滞在7日目がたまたま<週の初めの日>であったので、ユダヤの普通の生活習慣か
ら、皆が集まって<パンを割いて食べた>。パウロが翌日出立するので、夜中を過
ぎ、明け方まで語り合ったと、、3階の屋上間の窓から、居眠りして落ちた若者の
出来事の記事も添えられているが、医者としてのルカの検視関与ありやとも、、
(7-12節)
↓
*この3階風の家、その3階は屋上兼半オープンな窓付きの居間が設えてあり、灯の
明りだなが幾つも設けられている、そんな造りの建物で、けっこう裕福で粋な家で
あったと思われる。
実はこの家が、カルポという人が所有する家だったと、断定しても間違いないかも
知れない。(テモテ第二の手紙4章13節) 1階か2階かに書庫と云えるほどではな
いかも知れないが、<書棚付きの書斎用の部屋>が設けられていたりして、ここで、
パウロが私的な諸々の手紙、或いは他の書き物さえをなしたと想定されうる。
(パウロは、上着をそこに残してきたと言う。 カルポと言えば、みんなが“あー、
トロアスのあの家か、”で、共通の周知のところであったろう。)
↓
58 パウロを除いての“わたしたち”がトロアスから先に舟に乗り込み、アソスへ、
パウロは何故か陸路でアソスへ、徒歩ではなく、馬を使用か、、、
(7日間のトロアス滞在の間に会えなかった兄弟、あるいは姉妹が、アソス方面手前
いたから、気になり寄ってみることにしたということであろうか。それとも、まだ
ユダヤ人陰謀襲撃の万が一を考えて、一行に害が及ぶ事のないようにと、、、)
(13節)
↓
その日のうちにパウロが、先に舟に乗った一行と落ち合ったとは思えないが、とも
かく、アソスで“わたしたち”という一行の者らと落ち合い、彼を舟に乗せる。
アソスから → ミテレネへ、(ミテレネは、今のレスボス島にあった、古代から栄
えた島の首都で、小アジヤ・イオニヤ沿岸多島海の水運の要所であった。)
(14節)
↓
*“わたしたち”に関しては、先発してトロアスで待っていた一行(7人)の者らと落
ち合う以前の、その表現と、合流してからの一団への“わたしたち”との表現の推
移が見られる。
しかし、その合流後の“わたしたち”メンバーには、多少の人数変動があったろう
との見方が妥当であろう。
↓
・落ち合う以前の“わたしたち”のメンバーは、確かさと、想定込みで:
パウロ、ルカ、テトス(彼は、クレテ島からニコポリに呼び戻されて。)
エパフロデト(彼は、マケドニヤ・ピリピ教会からの同労者で、ピリピ・
ネアポリスからの出帆に際して、骨折り世話をしてくれた者。また、
教会からの援助使者として、パウロらに随行したと見られる。これは、
<ピリピ人への手紙>が、パウロのカイザリヤ兵営獄舎入獄の2ヵ年
ほどの間に記されたとする、書簡時期の立場による。AD58-60年。
<ピリピ手紙2章25節>
他に知られざるサポーターの兄弟従者が1人、2人付いていたかも、、
↓
・落ち合っての合流後の“わたしたち”メンバーについて、
合流した7人の内、アリスタルコ、テモテ、テキコ、トロピモだけが、
その後の消息が知られうる。
<アリスタルコ>・パウロのローマ行き、カイザリヤからの出帆時に
同行しており、パウロと共にローマでも。
(行伝27章2節、コロサイの手紙4章10節、ピレモン手紙24節)
<テモテ>・・・・エペソでの主の務めに遣わされて、その後、ローマ
に呼び戻されている。(テモテ第二の手紙4章11-13節、
及び、ピレモン&コロサイへの手紙の冒頭挨拶文で)
*テモテが何時からエペソに就いたか、その動向を
行伝ルカは記していない。だが、このエルサレムへ
の旅の途中、つまりミレトに着いた時、エペソ教会
の長老たちを呼び寄せ、話をした後、別れる際に、
テモテをパウロ自らの代理として彼らに就け遣わし
たとも、、、その時
↓
パウロは、最愛の信仰の子・テモテに、予めすでに
用意していた<最善の心尽くしたるテモテへの手紙
(=テモテへの第一の文)>を自ら彼に手渡した。 エペ
ソに着いてから読むようにと、言い添えて、、
(<テモテへの第一の手紙>には、だれ彼がテモテ
の所に持って行ったというような文面的形跡の影す
ら認められないからである。)
↓
テモテはエペソに留まった後、パウロがエルサレム
に着いて、12、3日そこそこの内にカイザリヤの
兵営獄舎に監禁される。それが2年間ほどになる、
その前の頃にエペソからカイザリヤに戻り、しばら
くしてから再びエペソへ行くが、その前ついでに一
時ピリピに遣わされたと見られる形跡がある。(ピリピ
への手紙1章1&12-14節、2章19-23節の文言から)
↓
<テキコ>・・・・彼はアジヤびとであるが、アジヤ州の何処の出身か
は、定かでないが、エペソとの関わりが深いとみら
れる。パウロの第三次伝道、特にエペソでの時から
の聖徒であるのは確かである。パウロのエルサレム
帰還の船旅以降も、ずっと“わたしたち”の一員で
あり、パウロのローマへの護送船旅にも、同行した
者の一人であったかも、、、
パウロのローマ在住時では、最もよくアジヤ方面へ
の使者役として活発に活動している。
<エペソ人への手紙>6章21-22節、および<コロサイ人
への手紙>4章7-8節などで、その言及を見る。
↓
<トロピモ>・・・彼への言及は、パウロが<テモテへの第二の手紙>
の4章20節“トロピモは病気なので、ミレトに残して
きた。”の文言以外、他に何もその後は知られない。
(このパウロの文節も、エルサレムへの帰途の際、ミ
レトからの出帆間際になって、体に変調を覚えてい
たトロピモが、単なる疲れだと思っていたが、やは
り、病を患うものだったと判り、船旅は無理でミレ
トに残しておく事にした、そのことを思い出して、
テモテに知らせる意味で記している。
(その<テモテへの第二の文>もパウロがローマに護送
され、その最初の2年間の軟禁生活と、その期間中に
第一回目の公判弁明時とその時の一時的牢獄監禁が
あったと見なすものである。
使徒行伝の最終の28章では、その公判弁明のほん
の1、2日足らずの事には何ら触れ記されてはいな
くて、その結びの句が、30-31節で述べられている如
く、パウロの主への務め、その宣教の生涯に終止符
が打たれている。)
↓
ミテレネに寄港、即日出航し、→ 船中の泊で、翌日キヨス(島)の沖合いに至る。
次の日(これも船中泊をしてか、) にサモス(島)に寄る。
サモスから出帆して → その翌日(これも船中泊?)ミレトに着。
*サモスの港で錨をおろし、そのまま船中泊して、翌日朝早めに出航すれば、その日
の内にミレトに寄港できるとも。(ミテレネからサモスまで続航にて。)
(15節)
↓
*エペソには寄港しないで、続航することの航路予定を決めていたとの事。
(16節)
これは、<乗り合いチャーター船>にて、はじめの出立地・トロアスで、うまく事
前に航路の段取り予定がされていたとも、、、(小アジヤ沿岸とその島々地域専用の
<乗り合い舟>或いは、それらの<チャーター舟>が、時節的航行時期には通行の
便として、いつも行き来するのが可能であったと見られる。)
↓
パウロは、ここミレトで、エペソの教会の長老たちを呼び寄せ、再会を果す。
(到着の日を含め、まる二日は、ミレトに滞在していたであろうか。)
*実のところ、エペソに立ち寄り、エペソ教会の人々と再会するのは、公衆的に事が
大きく知れ渡り、反パウロ派ユダヤ人の標的が再び活発化するのを懸念し、無事に
エルサレムに至る事が出来ないことにもなり兼ねないとの思惑による事前配慮だっ
たと思われる。
↓
エペソの長老たちは、パウロ自身から、もう“二度と彼の顔を見ることはあるまい”
との<最後の言葉>を聞かされるとは思っても見なかった事であろう。彼の奨めの
忠言やお諌めの言葉もほろほろに、胸痛くこころ悲しくも、また熱くもなる惜別の
情に激しく涙することになる。(20章18-38節)
↓
パウロのエペソでの3年間、“夜も昼も涙をもって、、”彼らをさとし、導いてき
たとのこと、、、、涙をもって祈り、涙をもってさとし、そして、共に涙した彼の
真実なる愛の熱情と、神の福音へのたゆまざるあかしの情熱とは、永遠にすたる事
のない不朽の活きた足跡であり、現在のキリスト者も皆、エペソの人々と同様に、
彼のその<聖なる御働きによる恵みのあかし>に与っているものである。
↓
ミレトで彼の<最後の声の言葉>を聞いたエペソの長老たちは、十数人か、二十人
ほどであったろうか、確かな人数は定かではない。しかし、そのほとんどが同族ユ
ダヤ人の者ではなく、純真な異邦人の人々であった。彼らは真の神様、本当の神様
を知り、どんな救いを、どのような御旨、意図目的をもって、どんな諸過程を経て、
どのような方法で為し遂げて下さったかを、神の御子なるキリスト・イエスにおい
て、知るものとなっていった。
↓
*ここでパウロに随伴している<使徒行伝記者ルカ>について、その著述編集での彼
の視点的主旨とか、視点となる心の置き所を見なければならないと思う。
↓
58
↓
パウロの受難のはじめ、カイザリヤ監禁公判:
58 パウロ、エルサレムの宮にてユダヤ教徒らに捕縛される。
58 ロ-マ市民権により、ロ-マの官憲の手でカイザリヤへ移送
され、そこに監禁される。
↓
60 同年新総督フェストが着任する。
↓
カイザルへの上訴、ローマへの連行船出:
61 パウロ、船旅(2隻のアレキサンドリ船を乗り継いで)にて
ロ-マに連行され、上訴の成り行き、結果をまつ。この軟禁(&獄中)生活の
あいだに諸教会宛に手紙を出す。
*アジヤ(小アジア)のルデア地区のエペソへ、
<エペソ人への手紙>・・・・・・・61か62年
【新説】・<テモテへの第二の手紙>・・・・・ 同上
●パウロの書簡のほぼ全てが、後に発展形成される<教会&キリスト教
神学の大成>の基礎、大要源泉となるものである。パウロ宗教思想の
開祖と云えるほどに、、
その基となる書簡の一つ、<エペソ人への手紙の>冒頭、第一章から
の一部、文面から、その真理思想のほんの一面を、以下へのリンク
から参照にて。
【パウロのふみ】を参照
*アジヤ(小アジア)のピシデヤ西部地区のコロサイへ、
<コロサイ人への手紙>・・・・・・62 or 63年
<ピレモンへの手紙=個人宛>・・・・同上
*マケドニアのエーゲ北部沿岸地方の
<ピリピ人への手紙>・・・・・・62か63年
《教会従来定説だが、目下検証確認中》
↓ 第一回目の公判裁判とその時の獄中生活から、
63 最初の仮釈放にて、軟禁生活を再び続行(約丸2年間の監禁だった。)
↓
64 この間にネロ帝のもと、再び入獄の憂き身にあったか?
↓ *テモテへの第1の手紙・・・64か65年(教会伝統従来定説では、
この手紙もパウロ獄中書簡の一つとする。)
↓
67 *テトスへの手紙 ・・・・・65か66年 (教会伝統従来定説では、
この手紙もパウロ獄中書簡の一つとする。)
*テモテへの第2の手紙・・・67年(教会伝統従来定説では、この手紙は
パウロ軟禁獄中釈放後の書簡の一つとする。)
↓
**この頃まで、福音書の記者ルカが、ロ-マに留まっている。
彼は、パウロの従者として、先のパレスチナのカイザリヤから
一緒にロ-マに来ていたのである。
↓
67 パウロの死 (殉教?OR 獄死?)・・ユウセビオス説
**68年とする説もある(ヒエロニウス)
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