島原地形地図【島原藩主松倉築城の島原城とその周辺地域】

【北部拡大地形図】【南部拡大地形図】
注釈1:島原城の西側、下新丁から(古丁地区も含め)桜門町方向に築城時に併行して<武家屋敷>が造
成されている。
(*合戦の直前、早朝であろうか、龍造寺隆信が小山から島津・有馬の布陣状況を眺めたのは、
宇土山に連なるお山の一つで、地図上の上部、宇土町から杉山町辺りの山、“がまだすロード”
のトンネルの山の尾根系かも、と見られる。)
注釈2:島原城の南前、北原町を通る58号道路が昔の古道で、これは1618年以降の築城の折に城下の
主要路として、それなりの道路整備がなされている。
現在、その道に沿って10メーター前後の川が流れているが、この川沿い地帯は、昔は水の流れが
定かでないような低地湿原だったようです。その流れと川土手の整備が築城の折りになされたか、
その後になされたかは不明、だが、明治以降、昭和の整備が現在の状態という事です。その川の
南側にまた東西方向に道があり、その山手側(萩が丘)三叉路で、北へ真直ぐ延びる道があって
<三会城>へとつながっています。
*58号の道が、前線防塁ラインとすると、その三叉路のある道は、最終防壁柵のラインと見られ、
それが、その道の南側に位置した<旧島原城>の防護線となっていた。
また、その旧城の出城(丸尾城)が、58号道の西・山手側の三叉路、<島原農高の右上>から北
に延びる道沿い(上新丁の左下手前辺り)、現在の<本光寺>の敷地区域に何年か以前より設け
られていた。
かって龍造寺勢の進出の折りなど、その攻防を繰り返して以来、もはや戦時での砦の機能しか用を
成さないものとなっていた。1584年の合戦時には、島津・有馬方の最前線の砦となっている。
だが、
この砦は、敵を引き付けて、ねばり強く留めおく囮の役目をする要害に利用されたようである。
注釈3:会戦時(1584年)の旧島原城は、上記、三叉路の道の海手側、加美町から南に下る道の、地図上
では右側、<白土町>表示の地域で、加美町と白土町の間に <中堀町(地図不出)>があるが、
そこがその城の中心エリアで、現在は島原藩主・松倉の菩提寺として、当時に建立の<江東寺>
となって今に至っている。有馬領の時代には、通称<浜の城(旧島原城)>と呼ばれていた。
この城に通じる当時の港は、<白山町>表示の右側、この地図には出ていないが、<元船津町>
地区の湾に位置していた。<坂上町>表示の上に、二股の道が、逆V字に下(南)に延びるが、
これらが、湊道一、湊道二として、城への通路機能をなしていた。
注釈4:さらに地形の面で注意すべき困難な事柄は、江戸中期末、1792年(5月21日)夕刻夜に至って
眉山が大々的な山体崩壊を起こし、広範囲に亘って地形を変容させた事である。
【地形地図参照】:
【眉山A地形図:地形変動範囲】
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【眉山B地形図:拡大部】
大崩壊を引き起こす至る事前的経過兆候は、
前年(91年)末頃<雲仙岳西側>有感地震継続多発、
⇒震源が普賢岳に徐々に移るや、92年2月10日普賢岳噴火開始、溶岩流山中の谷を埋め、2km
にまで達する。
⇒92年4月1日再び地震が一週間ほど群発するや、岳の火柱噴、噴石雨あられの如し。
⇒地震の震源が島原方向に移り、4月21日頃からは島原近辺での有感群発地震が活発化。
⇒5月21日群発地震収まったかと思う矢先、夜になって強い地震が立て続きに2度発生。一度目
は、<七面山>の北東面を部分崩壊、2度目は、その衝撃力で増長されて、<天狗岳>の大崩壊、
この時には山全体の三分の二が、山の麓元から大崩落したようだ。
おそらくその<天狗岳>は、今でこそ標高700ほどだが、崩壊前は900近い高さだったろう。
また、<七面岳>も今は820ほどだが、以前は850ほどの標高だったのではと思われる。
大規模な崩壊流は、地図上では今の<崩山町>から白山町、その東の海岸沖合いにまで至り、
その辺面を扇状形の北側とすれば、南側は<仁田町><大下町><鎌田町>及び<南安徳町>
の北部にまで達する規模のものであった。
特に南側の海岸線は最長で800mほどまで一気に押し広げたものとなり、一方、北側の東面
では、<白山町&元舟津町>の東方面の沖合いに幾多の岩礁の島を出現させている。
*以前から眉山は、<七面山=眉岳>と<天狗山>の二峰からなり、<七面山>は、北方向の、
宇土町方面に緩やかな山麓を広げ、一方<天狗岳>は、南に向け、<白谷町>方面にそれな
りの山麓スロープをなした。遠方からはその両方の山並みをして、眉形のような景観を映し
出すようだった。だが天狗岳の東面の山容は、かなりの急斜面山麓をなし、近傍からは、山
が急に聳え立つ感じに見えるものであった。
*北辺側の<白土町地域>では、大規模の地盤陥没の場所が生じ、そのくぼ地に地下水脈が開け
て大量の湧水が起こり、それにより湖が生じる。梅雨時の雨の影響も重なって、一時の間、
南北に約1km、東西に3、400m程の規模になったと伝えられている。
(現在では南北約200m、東西約70mほどであるが。)
今の地形図上では、北は<萩原、寺町>から南は<崩山町から西八幡町>を堤として、東方
向の<坂下町>方面に、弓なりの南北の湖面をなしたとも、、、。
【北部地域地形図】:map2Ext.mht 【南部地域地形図】:map3Ext.mht
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【北部拡大地形図】
【南部拡大地形図】
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