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5. 人間を考える:
Part 2
無限に展開する知力を得た人類、その脳がどんなに素晴らしいものか、、さきに述べたように進化で
類人とまでなったその脳は、その時、万物の創造者なる神によって計り検証された。脳の大きさ、細胞
単果の数量、DNAの遺伝子内容、それら全てが計り知られるものとなった。そのような試みは何のた
めに、どうして必要であったのか?、、永遠の初めから<この宇宙、万物一切の所有者>は神であり、
人間が<神を作り出す>ような、また、人を<神として崇める>ような、そういった知性を持った人間
を神は<創造したくはなかった>からだ。神の永遠にして最大の課題は、<人>の創造にあった。そし
て人の《脳》は、その最大のキーポイントだった。それは最高度で絶妙なる創造の手腕を必要としたが、
それでもカバーしきれるものではなかった。 神は、ご自分の”似姿 ”そのものを表現した生き物と
しての<人>をこの<ご自分の世界>に存在させたかったからだ。このことは神にとっても、初めから
ご自身の<永遠の”夢 ”>でもあったのだ。神が見える形をとって現れるとすれば、それは<天使>
のようであり、又、外見的に<人の形姿>となるのが、最も理にかなうということであった。この神の
<存在秘儀>は、世界に<人類>が存在しない以前から、しいて言えば永遠の初めから本来的に神にお
いては、”在りて在る ”というもので、それ故<人の形>は、外見的にも神のこの<存在のあり方>
から由来するものである。この<存在のあり方>はまた、神自らご自身を、”父なる神 ”としつつ、
<子なる神=人の子(形姿)>をお取りになるという、<両有即分有>の在り方を 自己定現され得るこ
とができるということを表わしているのです。このように由来的根拠において、<人間とは素晴らしい
存在>だ。この人間創造の為に、あらゆる配慮をし、努力をし、惜しみたもうことなく、万全を期して
臨まれたのだ。太陽系、地球その他一切の可能性、内容において、、、、、、、、
神から神に似た知力をその<脳>に付与された人間、その知力の発達進展は、とり止めもなく発展し
てゆくもの、現在にいたるその全ての人類史の<夢物語の足跡>は、そのことを如実に現わしている。
人の世の<歴史>その夢物語は、様々な人の因果によって刻み込まれてきたものでしょう。その知力が、
様々な分野で発揮されて、人類史の流れは展開してきたのです。その人類史は、16世紀以降20世紀に
かけて、やっと今日あるようなグローバルな人類史を展開するようになった。西洋とか東洋とかといった
別々の世界を別々に歩むということはもはや現実的に不可能になっている。
人の知力はこの上なく素晴らしいものだが、両刃の剣のように危険なリスクを伴っているものだ。知の発
展からその知力によって造られた<核爆弾>などもその一例ではないか、、世界の様々な諸状況によって
良いほうにも悪い方にも発展発揮されるのが人間知力の特質だ。善を好む知力だけでなく、悪を好むよう
な知力さえあったりする、また、善悪に無頓着な知力さえある。このような人の知力は、欲求や欲望とい
う生因力を契機として培われ、知力が知を求めるという<知的な願望>をその心に培うほどに精神的な存
在にまでなる。古代ギリシャの学問はその確たる典例であろうし、また東洋では古代インドのバラモン教
からくる哲学もその例にもれないものだ。人間はその心理にさまざまな願望を抱く、まさに願望の塊りの
ような存在であり、それ故に将来的目標を意図しやすいし、是とあらば、それを目ざして生きるという特
性を発揮するものだ。東洋の古代インドでは、この人間心理が最大限に生かされた例がある。それは宗教
的願望という人間の精神分野において見事に開花実現したという歴史事象から知ることができる。
《古代インドという時代の”天 ”から大きな星が地に落ちた》底知れない知力を秘めた仏陀という
巨人がその時代に現れたのだ。日本では今日でも、その継承的影響下にあるようだし、欧米でもブッダイ
ズムという意味合いで影響を及ぼしている。 人間存在のうちに培われた願望と目標とが一体となるよう
な人間心理において、仏陀が開現成就した<教え=仏法>は、至高にして絶大なるものとなった。このみ
教えこそは、至高の至福にいたる<確たる道=乗り物>とばかりに人々は信奉実践していった。当時の古
代インドでは、古いバラモン教からの流れをくむ<ヒンズー教=バラモンの神々を信奉>が有力なもので
あった。そしてバラモン僧侶をトップとする<社会的階級制度=カースト>も、未だ根強く磐石なもので
あった。一地方的な王族領主に過ぎなかった《釈尊=仏陀》は、知力にたけ、領民思いのとても良い領主
であったが、その心のうちには秘めたるものがあった。 領土をもっと拡大し、領民ももっと多くしたい
という世俗的な願望もその脳裏をかすめたであろう。、、一族の勢力領地拡大となれば、他族との戦とな
る事は避けられない、そんなことは自分にとっておろかな行為としか思えず、また自分の性格にも合わぬ
ことだ。しかし、この世で頂点に立つ<バラモン僧侶>には、なにか腹に据えかねるものがある。自分の
うちには、他のどの人よりも優れた知の能力があるようだ。この能力を発揮する事が、もって生まれた自
分自らの<天命>かも知れない。その自覚は、ある種の心の転換<悟り>のようなものでもあった。そし
て、憂うつな心のもやもやも消え去り、自分のうちに秘めていたものも明確なるものとなり、自分自らを
それへと方向づけうるような大きな指標となった。彼、釈尊のうちに秘めたるその<大いなるビジョン>
とは、この人の世において<最高の教えの王者となり、その頂点に位し、その教えの領民を無数獲得し、
その教えの精神的な国土をして、最高の至福を領民達=信奉者たちに与えよう>と、いうものであった。
彼のその<大いなるビジョン>は、彼に出家の旅修行へと誘うほかなかった。その当時、バラモン僧侶以
上に一般民衆からの尊崇を受けた、個人あるいは大小の諸集団の人々がいた。彼らはバラモン教のウパニ
シヤッド哲学からの伝統から派生した行者たちで、それなりの個々の教えを持ち、行や観想のマニュアル
をも示しうるものとして存在していた。そんな精神風土の中、彼、釈尊はその力の限りを尽くして、行と
観想のパフォーマンスを演じたのであった。そして彼の底知れない知力は、世界を掌握し、認識分知直観
した。その知の開眼は、余りて余りうるものとなった。彼によって構築開示された<教えの法>は、その
継承者、弟子学徒らによって、良しにつけ、悪しきにつけ、その精神において無限的に展開されるものと
なった。これが<仏教>という教えの宗教の始まりだ。たしかに《釈尊》の知力は、群を抜いてバツグン
だった。自らの<教え>のために新たにあたらしい<言葉とそのニュアンス>を生み出すに余りあるもの
となり、また既成の<言葉>さえ彼の知力でもって用いられれば、たちまち新しいものとなり、活き活き
とした言葉としてよみがえるのであった。ということで、今や東洋の歴史とその文化の発展は、この仏教
の精神史なしには語れないものとなるに至った。このように人間の知力というものは、いつしか心のうち
に培われたその願望とタイアップして思いもよらない大きなことを仕出かすものとなる。
神の似姿に創られた人間にそういった知的願望があるのだから、神ご自身にも限りなく遠大で、時間
の限りを尽くすほどの<永遠なる願望>があり得たとしても、なんら意に反するものではない。強いて言
えば、事実、ありえて余りあるものとして、その一つひとつが現実化しつつあるというものなのだ。
日本では先の大戦の終戦直後、今から思えば考えられないような珍現象が起っている。それは時の<昭和
天皇>が、自ら<人間宣言>をなされたことを指すのですが、これは戦前の国民が天皇を<現ら人神>と
して崇敬していたということです。明治以来、時の政治家権力者たちが、日本古来の伝統を尊守して、天
皇を<あらひと神>として奉り、一般国民をその国家体制の下に力で服順させていたということですが、
しかしながら、この<あらひと神>思想は、日本の古い神話が集大成された時代(古事記、日本書紀編纂
の奈良時代)前後からその源端を発し、明治以降まで延々と続いていたらしいというものでした。神々の
系譜とその神話譚から自らの権力存在の系譜を位置づけた、そもそもの最初の人物が誰であろうと、孤立
した島国での純粋培養的な神話の力は、そら恐ろしいものと云う他ありませんですね。戦前のような圧制
体制には逆戻りしないようにしたいものですね。20世紀の世界にこんな日本が登場して来るなんて本当
に歴史的にも珍現象でしょうと、心ひそかに考えたのはきっと欧米の知識人だったろうと思います。とに
かく、神々の系譜から来る<天孫降臨>思想や<あらひと神>思想の神話素材は、外来の大陸系から持ち
込まれたもののようです。その発想的あらましが小アジア系ギリシャ神話とか、あるいは小アジアから中
央アジアにかけて離散していた旧ユダヤ系のものとかに関連する糸が絡んでいるかもしれません。
こんな処で、日本の<あらひと神>思想を持ち込んで、欧米のキリスト教信仰の<キリスト>の存在
と対置させようとは思ってもいませんでしたが、<天孫降臨>とか<あらひと神>とかの言葉の受けが、
類比的なニュアンスを醸し出していて、なんだかこの辺のところが面白いと言えないでしょうか。 日本
人の口からいえば、”欧米のキリスト教は、<人間キリスト>を神にした、神として崇めている、ならば
我々日本人が、ヤマト民族の本源象徴なる<天皇>を神として崇め奉ることは、なんら非なることではな
いではないか ”という論法になってくる。確かに日本人の目からすれば、外見的に”欧米のキリスト教
は、<キリストを神にした>としか見えてこない。しかし、実際にその真相はいかんや、確かに内容的に
も、多分にそういった側面も認められよう。キリスト在世の<ローマの時代>といえば、その時代領域に
おける情報化流通面では、手段方法によって早い遅いの差こそあれ、現在とほとんど大差のないレベルま
での時代に至っている。そんな時代での<キリスト・イエス>の登場ですが、これまた先に述べた《釈尊》
以上に(この方は、のちに観想表象的に展開表示された仏世界(仏教の世界観=曼荼羅世界観)の如来身
として、崇められているが、)より一層不可解な存在となっていた。これはその時代がギリシャ的理性知
の時代となっていたがゆえの当然の帰結として生起した事情であった。キリスト教は、使徒後(キリスト
の12弟子達の時代)の時代以降、古代ローマの時代を脱して中世、近世とその時代を過ぎるのですが、
教会の形成発展の為に、ただ単に<信仰、伝道、愛の奉仕、諸々の文化活動>といったことに携わるだけ
では済まされませんでした。ギリシャ的知性の時代が、キリスト教を”哲学 ”するように促したような
ものでした。そこには、そうせざるを得ないような様々な諸要因があった訳です。 事の諸状況が複雑す
ぎて、一言では云えませんが、そのうちの最も端緒となる大きな一因は、様々な異端思想に対する護教的
な論駁、論戦を繰り広げなければならなかったという事由にあったのです。そうした様々な諸問題解決の
理性活動の結果、キリスト教に関わるあらゆる知識の所産集積がなされ、<神学>という形での大きな知
識の学問分野までも形成されていったということですが、そんな神学論戦、学問活動の中で<キリスト・
イエス>は、<神>として位置づけられ、その絶対化がなされるに至ったのです。
ところで、このような歴史的帰結を<神ご自身>は、本当に良いものとして、お認めなさっているの
でしょうか。答えは、”否 ”です。中世から近世、近代に至るまでに諸侯王族の権勢とタイアップして
強大なキリスト教的社会体制を形成していったのですが、その過程の半ばで、”否 ”という物議を醸す
現象が起こってきたのです。それは、唯一神、一神教の神を絶対的に掲げた預言者<マホンメド>による
(この方はユダヤ民族の代々の父祖アブラハームの子イシャークの腹違いの兄イシュマエールからの先祖
系図に位置づけられている。)
<イスラム教>の登場です。これはまさに時熟して、旧約聖書(モーセの5書)へのヒードバックを意味
志向するようなものであった。唯一、真の神によって、新たに起こされたこの宗教の ”旗印 ”の意味
するところは、<諸々の偶像>を破壊して止まないところにあった。その”旗印 ”は、ヨーロッパ西洋
だけでなく、<東洋の諸々の偶像の撲滅>という役割をも担っていた。不完全で良からぬ社会体制には、
かならず偶像が、ビィジブルにもアンビィジブルにもその頂点にシンボル化されたり、設定されたりして
くるからです。こんな訳でヨーロッパ・キリスト教体制社会は、弱体化を堅持したまま近代の宗教改革、
ルネッサンスという新たな時代の夜明けを迎えるに至る。 このことは西洋史を学んだ人なら誰しもがご
存知のところでしょう。それから数世紀、諸科学が大いに発達してきて、思想、学問は多様化、細分化、
高度化されて、その進展、止まるところ知らずとなって来ているのが、今我々が生きている現在の状況の
ようです。思想的に何を信じたら良いのか、何が信じられるのか、判断しかねる時代、そうだね、思想朦
ろう化現象の時代だとでも云いたいぐらいな状況なんでしょうか。、、で、何も信じられない、信じたく
ない、そして、何も信じなくても良いということで、自らを決めつけ生きるほかないようなご時勢なんで
しょうか。これは、まっこと本当に大変な時代ですよ。人としての<善悪意識も混弱化>してしまって!
(これはもうすっかり余談のほうへそれてしまって申し分ない、本論に戻りますが、)
その答えは、”否 ”ということでしたね。そのことをちゃんと明らかに証してくれているのは、<
聖書>以外にその手がかりを見つけることは出来ないようです。そこからその答えを導き出すと、神様は
こう断言されているようです。
<<私の存在のあり方は、私自身が決めている事だから、何人も身勝手に口出し主張しても、間違いを起
こすだけだ。私は<永遠に活ける存在>であるが、人の人格的存在を明確に類比投映するかたちで、知って
頂くことを願っている。>>
主イエスの愛弟子だったヨハネは後になって、その福音書の冒頭で、<ロゴス>を表記している。(日
本語訳では<ことば>だが、意味が軽すぎてお話にならない。)これは、ヨハネが、神とキリストから悟
り、賜わったところの<究極の表記>だと断言してよいでしょう。 人がもし、個としての一切の人格的
内容をその<脳>から消し去られたとしたら、その人はもはや人ではなく、何の意識すらしない生きて動
く物にすぎないものとなる。そのことと同じような意味合いで、<ロゴス>という表現表記は受けとめら
れなければならない。その<ロゴス>には一切の内容の全てが充足しており、またつねに充足しつつある
という<神の理性心そのもの>を表わしている。 神ご自身の事も、神の子イエス・キリストのことも、
かっての旧約聖書に記された選民イスラエルの事も、、また全宇宙が神によって創られたという時、諸々
の星雲宇宙は、神の<デサイン>に基づいて創られたと云えるわけだから、その<活けるデザイン>が、
<ロゴス>なんだよということになる。 したがって ”ロゴスは、<肉体=人>となり、私たちのうち
(=世界)に宿った ”とヨハネが表記するとき、神の存在のあり方:父なる神→形姿顕現=子なる神
(人の子形姿)が、キリスト・イエスという存在内容の一切を包一した<そのもの自身>となすかたちで、
現実存在化したと見なすべきである。
つまり、まず先行的な意味合いにおいて、神の存在のあり方という<ロゴス>においてのみ、父なる神と
子なる神という<神自らがお決めなった自己存在のあり方、およびその自己規定が、その初めから<ある
>ということ、そのことにあってロゴスがイエス・キリストという存在の<ロゴス内容>の一切を自己保
有している。この<イエスの存在ロゴス内容>そのもののロゴスが、この世界のうちに現実化したという
ことになるから、イエス・キリストは、唯一無二の<神の子>以上でも以下でもないということになる。
それ故、十字架の死と復活の事跡の後、その昇天にあっては、その初めからあるところの<神の存在のあ
り方>に回帰しているということになるので、その<存在のあり方>においてのみ、あくまでも<子なる
神>であられうるし、<活ける神の子>でもあると、云うべきものとなる。
”聖書が指し示すところは、<神ご自身の御心を代弁するもの>として、徹底的に<神の子=メシヤ=
子羊>なのである。”新約聖書の最後の巻、<ヨハネの黙示録>をご覧あれ、その21,22章では、
天から下る<新しい神の都、エルサレム>のことが記されているが、このような<永遠の世界>が実現成
就しても、なおことさらに執拗なまでに”<主なる神と子羊> ”という存在を表記しているのであるが、
(21章22節、22章1節、3節)これはもう、神の真理願望の執念そのものを指し示しているという
ことの現れではなかろうか。<永遠の神の都>から、、、、、、、、
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