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4. 人間を考える:  Part 1



 人は生物学的に云えば、最も高度な精神機能を働かせうる生命体である。その高度な知能が言葉という
音声による相共応できる手段をきわめて自然的なかたちで派生するものとなり、その社会的集積の共同認
知の進展過程で、それらを意識的により優れた言葉の体系へと進展させる。さらに視覚的にもそれらを表
現できる文字の発明によって、ついには知識という文化所産を形成するまでになる。そもそも進化論は、
そういった人間の知覚機能が生物進化の過程において得られたとしている。その仮説は、類人猿の頭蓋骨
や人のルーツたるや大昔の人類のものらしき化石の頭骨の形状を調べたり、比較したりして脳の大きさを
推定し、それによって脳の生体組織的な発達形成過程があり得たとの裏づけ立証をなしえたものとして、
その進化の過程、すなわち人間へと進化してきたという学説的見解を導き出し、その生物万生の進化論を
提唱するものとなっている。

 だが、この生物進化論ってやつは、今や科学的なようで科学的でない<人類発祥の起源譚>という現代
世界の<神話>を創り出す結果とあいなったようなものではなかろうか、、、、、。
その神話というのは、その手法として超遠大な時間の概念(何億年、何百万年、何十万年といった)を取
り入れ、そういった時間の物差のなかで、その物語は語り創られるわけである。手みじかな例で言えば、
”森の木上で生活していたある種の猿が、木から下りて後足で歩くようになった。その行動が次第に直立
歩行にまでなり、森などのジャングルから抜け出て、サバンナ(草原)地帯まで生存圏を広げ、木切れや
石などの道具を使って、集団的に小動物を追うような狩をするようにまでなり、そしてその生存環境の変
化と共に次第に体質も変化し、密集していた体毛も長い長い年月をかけて次第に薄くなり、ついにはチン
パンジーやオラウータン以上の類人猿にまでに進化していった、云々、、、、、”というふうに物語れよ
うか。また、最近では<DNA>なる遺伝子にも着目して、その組成配列が、生存環境(地球環境)の変
化によって、度々に突然変異を繰り返し、進化をなし得たのではなかろうかという、ある種の推論も飛び
出している。

 しかし、まぁーチンパンジーやオラウータンの体毛ってやつ、あれはもう体毛とは云えない代物だよ、
あれは分厚い毛皮だっていう感じでしょ、その皮質の層も数mmとかなり厚いでしょ。とても人間の皮膚
とは異質的に格差がありすぎると思われないでしょうかねー。若き女性の柔らかい、とってもなめらかな
皮膚と比べたら、さらにとってもとっても信じられない進化だよねー、進化論っていうおとぎ話は、、、
でしょ。とにかく、いずれにせよ人類史の原初は定かではなく、言葉という機能的手段を身に付けた年代
さえも明確に提示することは出来てはいないんです。そこにはまさに謎に包まれた人間の起源に関する幻
影、つまり仮説の域を出ないという意味での<仮説の幻影>が横たわっているだけでしょう。

 人は確かに知識によって自らを変革し、成長させ、自身におけるその自己形成をなしうる存在である。
人類がその時代々々にあって、どんな自己形成をなしえたかはその知的要素(資質となる外的ファクト)
によって異なるであろうが、いずれにせよそれが正しい自己形成なのか、そうでないかの判断評価は、時
としてある一定の時代的経過を経なくしては正当になし得ることあたわざるものとなろう。 そう考える
と、そういった面から観た人間性とは、実に不確かで、危険すら感じさせうる性質のものだと言えるかも
知れない。いまや人間についての認識、あるいは考えや解釈、それらはまさに多岐多様にして膨大遠大、
その知識や情報の所産は千尋の海の如き大海の様を呈している。それは今日に至るまでに様々な諸科学、
学問、思想、宗教、あるいは主義主張が人間についての知識を集積し、それぞれの時代を通じて、それぞ
れの仕方で表示してきたからである。そして人は、その生の初めから、幼児、義務教育の年代、大学教育、
実社会の大人へと、まさに生涯にわたってその大海の水(知識)を飲んで生き成長し、やがては年を重ね
つつ、老い衰えて死という現実に遭遇するものとなる。
 
人の世の生とは、実に不確かで、定かならざるもの、ただ々々大海を漂い行くばかりの人生、人間にとっ
て、人間にふさわしいその光の何たるかも判らず、光なき無明の人生を暗黙の内に終えるに至るかも知れ
ない存在なのだ。それ故、人はおのれの地位や立場、才能や幸福のため、この大海の水に翻弄されないよ
うに自分みずからの信念、主義主張にかたくなまでに固守して生きなければならない、そうでなくては生
きられないという事態も起り得よう。現代という世界に生を受けた人間の宿命とは、まさにこの大海とい
う知識の海を如何に生きるべきかと云う事柄に関わることで、自ずと背負わざるを得なくなる<無明とい
う十字架>ではなかろうか。

 人にはその人生の様々な過程で、あたかも予定されていたかの如く十字架の重荷を背負わねばならない
状況に遭遇するものだ。また、災い、不幸の絶えない現代社会ゆえ、不治の病や自然災害、様々な事故、
事業などの失敗、戦争などでの災禍等々で、まさに絶望と失意のどん底につき落されたような現実、そう
いった生活状況から自らの人生を建て直し復帰するということは、もはやこれまで、死を選んだほうが幸
いだと思うほどに並々ならぬ<十字架の重荷>を背負うことになりかねないものだ。 
しかし、そんな極端な場合に遭遇しなくても、人は年を重ねてゆくうちには老い衰えて、手足、体が不自
由なってゆくという<老いの十字架>を背負わねばならなくなる。若き溌剌とした年代、その命のエネル
ギーを燃やし尽くさずにはいられないほど、エンジョイさせえた時には、そんな人生の終わりをば夢想だ
にしなかったであろう、、、、、そんな未だ実感なき老いの宿命が、人の命の<大いなる十字架>として
やってくるのだ。

 人間というものは、そこに本来的な弱さというものがなければ、かえってひどく人間性を損ない、人間
ではなくなるほど悪い存在になりかねないものだ。だから人間の弱さは、それがあってこそ大いに役し、
幸いなものへと転化させうるものだ。人間の弱さで最も大いなるものは、老い衰えるという人間の本来的
な宿命から来る弱さであろう。この老いの弱さというものは、現在という恵まれた設備社会において、果
たして救いを求めうるための幸いなる契機となりうるであろうか、、、、人の本来的な本当の救いとは、
実にこの老い衰えの弱さによって、本当の命を見い出し、希求し、その救いに与かることだ。(ある古代
民族社会の人々には、そのような人間的傾向が多分に濃厚であったと云えよう。)

 人の<からだ命>は、<老い衰え=死>がありうるかぎり、それは正に、<本当の命>のコピーにすぎ
ないようなものだ。 そんなコピー的な命が、本当の命を得る為には、あるいは本当の命となり得る為に
は、<本当の命そのものたる>、神の子、キリストイエスという、真の【生命の木】に結合(接木)され
なければ不可能なことである。 本物の【命の木】の<命の水>の泉の本源は、キリストイエスの十字架
に設けられ、開かれている。
何故そういうことになっているかといえば、それは、<本物の命そのもの>たるキリストイエスが、あえ
てあの十字架にて、<死という十字架>を背負われたということが、すべての人の<老いの十字架、死の
十字架>を身代わりに背負って下さったという事になるからだ。これはまた、古からのこの事についての
預言、その真理の事実を実現、成就なさったことを表わしているからだ。
だから主イエスの十字架とはまさに【永遠の命の十字架】なのだ。<本物の命>のコピーにすぎない自分、
自らの命を生かすも、殺すもあなたしだい! <老いの十字架>を背
負いし自らの人生を生かすも殺すも自分しだい! 老い衰えという自らの十字架をもって、主キリストイ
エスの十字架へと回帰してこそ、人生の本当の存在意義を知り、悟りうるものとなろう。たった一度だけ
の人生、最も大切な自らの命の人生、それが種々雑多、様々なもので乱れうず巻くこの世で消えうせてな
るものか、、、失われてなるものかと、云うことにならないであろうか。、、、、、

 人間の本来的な存在意義に関わること、それは主キリストイエスの十字架の本当の存在意義を知ること
であり、その知るということは、信じることであって、そこにはもはや無知なる盲信的偶像崇拝のキリス
ト像はあり得なくなる。このキリストへの信仰には、確かにそのレベル的な高さ、強さがあるでしょう。
たとい、上天と下天というような場合の大差があったとしても、それが下天に留まる自分であろうとも、
神があなたに与え給うた救いに変わりはないのです。その信仰をきわめに極め尽くして、その上天にある
としても、それは自らの<老いの十字架>を不断に<主キリストイエスの十字架>に回帰していることの
信仰の結果に過ぎないのです。
人の老い衰えの弱さ(十字架)は、その上天にあっても、下天にあっても、まさに幼な子の如く、主キリ
ストイエスの十字架に回帰することによって、その救いを得るものとなるのです。

 上述の如く、そんなふうに人間を考えること、その本来的な人間存在の意義を明らかになし得ること、
それは、人類の歴史において、神の計り知れない深慮によりて、その啓示が行われたが故にこそ、初めて
可能になる事で、そのようなものとして在り得る対象の<人間存在それ自体>が、まさに神によって定め
られたるその創造における<啓示そのもの>であろう。
また、主キリストが負うて下さった<老い、死の十字架>は、異象劇的な召しに与った若きパウロがキリ
ストの使徒となる数年後に、彼の福音宣教とひとつなる啓示の深展真相開示により、<神の愛と義>を現
わした<贖罪の十字架>として、明確にそれが旧約聖書から裏付け証左されている事蹟だと、その啓示展
開の実成が果たされるものとなる。これは重層的に意味深き<キリスト十字架>の本来的な啓示の本現で
あり、さらに現代的立場からすれば、神のご慈愛によりその命のこよなき尊さゆえに<死すべきに値す
る者、命なきに等しき者>に過ぎない者となる我々人類への<贖罪・罪のゆるし➡永遠の命に与る贖いの十
字架>、ただそれだけではなく、<神の愛と義>おけるその適応、効域的広さは、聖書に依拠しうる発展
性として、<神のいにしえからの全世界宇宙の創造>という事象と、その<全世界宇宙を贖い給うた神の
子・キリストの十字架>でもあるという真意事象とが、対等、対アップの関係にあるという真理事情をも
啓示するものとなる。

(注:使徒パウロについては、未だ30才にもならない20半ばの頃、サウロという名であったが、ユダヤ人
同胞で、キリストへの熱心な信奉者ステパノが議会の審問裁判に立たされた時、大祭司、律法学者ら、その
配下の連中らの一人として、彼ステパノの証言弁明に立ち会う機会を得た。 サウロはその折りに、彼の
いにしえからの父祖、先祖ら自民族の歩みを語るその有識ある弁舌には、はなはだ感心、感銘するに至る
ほどであったが、その弁舌の途上末には、議会に集まったサウロ側の連中がイエス殺しの本目、張本人と
されたその糾弾の言葉に、皆、共々に激しく立腹し、ステパノを引きずり出し、石打ちの刑で彼を処刑し
てしまう。サウロはその刑にも立ち合い、まさにイエス殺しの側に立つ若者として、ステパノの殉死直後
にはすぐに、キリスト教徒狩り、教団撲滅の迫害活動に先頭きって乗り出して行くといった迫害者の経緯
がある。〔使徒行伝:6章後半から7ー8章〕)
********************

 この項目ページでの余談になるかもしれないが、参考までに付け加えて述べてみたい、、人生は迷うこ
とばかりだからね。 個人の人生ばかりじゃない、世界全体が迷うているようなものかも、、、、
16世紀半ば、コペルニクスの地動説が公表され、その半世紀余後(17世紀初頭)、ガリレイが、天文
観測による実証的データに基づき、さらなる地動説唱導を試みたが、その近代世界の黎明期には、未だ中
世の世界観から抜け出すことが出来ないでいた。 ヨーロッパでのキリスト教世界、その教会の精神的体
制が非常に強く国社会全般に尾を引いていたからである。そして17世紀後半以降、ニュートンによる”
万有引力の法則”が発見され、彼の力学が確立される頃、ようやく”新しい世界観”が一般化するに至っ
た。中世の教会権力の主権も完全に失墜し、過去の遺物と成り果てた。人類世界の民主化は、宗教改革
(15,16世紀)以降、教会の主権権力体制社会に対して、まずその最初の第一段階的過程を終了する
ものとなった。その後は世界史が物語る如くであり、現代に至っては、自由と民主主義とが頽廃化するほ
ど謳歌される風潮となり、人類世界の真にあるべき姿を見失いかねない趨勢となってきているほどだ。

 1859年、ダーウィンが”種の起源 ”を公表して以来、それに基づく進化論は、さらなる展開をな
し、いまや現代世界を大いに風靡するに至っている。 神学をも学び修めた彼、ダーウィン自身は、サル
から人間、いや単細胞から人間というとてつもない事を言う”進化論 ”等が後世に出現するとは夢想だ
にしなかったことであろう、、、、、なぜならば、彼の進化説の基本は、聖書の創世記での神の生物創造
による基本的生物種から逸脱するものではなく、それを暗黙のうちに前提出発点とした形での”種の起源”
という進化説を提唱したからである。だから彼以後、ひとり歩きをはじめたその進化説は、19、20世
紀と著しく急速に発展してきた他の諸科学、学問知識などの総合的な要因によって、過去から現在に至る
一大生物世界全体にわたる遠大かつ膨大なる進化論を構築展開するものとなった。この進化論の横行ばか
りでなく、それと併行して唯物主義、無神論思想の謳歌する今日、人類社会は混迷と苦悩のうちに未来へ
の夢を求め、より良き未来を築かんとその努力と奮闘を余儀なくされている。
 このページの著者は、徹底的な聖書解釈主義者、キリスト主義者として、聖書を前提とし聖書から演繹
した推論的な一仮説をここで提唱したいと願っている。それは以下の如くになる、、。

 ★”世界宇宙が現に存在する限り、神の存在を否定することも、非存在化することも出来ない、神の存
在は自明のことであり、本来的真理である。物の根本、本源次元から限りなくすべての知恵、知識と力に
富みたもうこの神が、自らの対話、交流の対象となりうる、あるいは世界で共同、共存できる(精神面を
その基底とした神の国造りの)パートナーとしての生き物、つまり人間を如何により良く創造したらよい
のかと云う事が神ご自身にとって、真剣にして最大の最終課題の関心事であった。 それは、あらゆる可
能性を加味した、決して失敗が許されるものではない未来永劫にわたる課題でもあった。
それゆえ、神はその創造による太陽系地球圏での生物の生存環境でのあらゆる可能性を熟知して、その最
終最大なる人間創造という課題に執りかかったわけである。生きた生物として可能な限りその完成度の高
い人間創造を目ざして、まず最初に試みたことは、人間へと進化する可能性を有した類人猿を創造するこ
とにあった。この試みは、神にとっても極めて慎重を要するものであった。神は、その進展過程をつぶさ
に観察し、進化に関わる肉体的、精神機能的なあらゆる可能性とその限界を熟知把握する事となった。

 これは神の人間創造への最後のステップであり、最終的準備段階のものであった。地球の様々な外的生
存環境は、ついにその進化を極めるものとなった。この類人猿は、進化して原人と称するものとなり、い
わゆる超古代文明を築くまでになった。がしかし、本来的にその性格本性が粗野粗暴で、神の”か”の字
も知らない、あるいは神なる存在者を意識または感知するような精神的可能性をまったく持ち得ることの
ない本性の生物であることが判明した。神は、この原人生物の粗野なる暴力的権力体制の文明的な発展を
もはや許すわけにいかず、彼らを地球上から抹殺することとなった。そして、この原人の骨の化石は、現
に数万年の時を経て地球上に発見されるものとなった。(ここでの原人という言葉は、アウストロピテク
スからジャワ、シナン両トロプス、そしてネアンデルタール人までを含めたその全般を想定しているもの
である。いわゆる進化論で用いられた言葉の概念とは異なるから注意。また現在の進化論では、実際の事
実としてサル種、例えばゴリラ、チンパンジー、オラウータンなどの類と、ジャワ原人、北京原人との間
をつなぎ得る生物化石の骨はまったく発見されていないのが現状である。)

 神の人間創造はこうして、進化を考慮した旧原人に関わる実証的データに基づき、厳密なまでにそのプ
ランの内容が修正された。創造された人が生活すべきその生存環境に関して、新たなる考えが導入された。
そして、神のパートナーとしての人間の最高度の完成を見る為には、もはや傍観的な立場だけに留まるこ
となく、人間生物への積極的な関与をなすこと、そのための糸口として、未来に向けた可能性を予見した
かたちで、種々の仕掛けのような関与環境の設定が構じられた。その新たなる環境設定と仕掛けを設ける
糸口とは、具体的にいえば、それはまさに聖書は創世記に記述されたる”エデンという地域の地理的、気
候的環境と楽園的な<園>および園内に関わる仕掛けの環境設定である。このように神の人間創造には、
その前段階の試みとして<進化によって現れた原人>の存在があったという仮説を提示し得るものとなろ
う。”★

 しかし、聖書の創世記での創造記事(その第1章→2章にかけて)それ自体には、そのような前段階的
<原人仮説>を認受できるような記事内容ではとうていあり得ない、そもそも、その創造記事そのものが
古代の一創造神話ではないか、まったく馬鹿々々しい限りだと一笑に付されるやも知れない。確かにその
創造記事は、外見的に一見するだけならば、まったく単純な創造譚という神話にすぎないものとして軽く
読み流されてしまうものだ。その場合、悪いのは現代的な知識によって作られている先入観が働いて、評
価、判断がなされているということだ。 そのような場合には創造記事からの如何なるメッセージも受け
取ることができないでしょう。 とにかく創造記事に関することは他の箇所のところで述べているので、
こちらを参照してください。
また、さきに上述した ”エデンという地域および園の環境設定とその糸口の仕掛け ”に関してはここ
では簡略的に列挙するだけにとどめたい。

 まずその一つとして、人それ自体を、はじめに男子一人だけの生存状態にするようにして、エデンの園
に置かれたと云う事。(第2章8節)<<これは第1章26-28節での人の創造記事と相一致しないこ
とに注意すべきであろう。これは創世記事を記し、編した著者の状況に起因するものである。その問題に
ついてはこちらを参照されたし。>>
 
 次に二つ目としては、園を設けた神の最大のメインテーマともなり、その課題そのものを象徴している
とも云える”園の中央に生えさせ設けた、2本の特別な木、すなわち<命の木と善悪を知るの木>の設定
である。(第2章9節)この人類最初の生活舞台の設定に関しては、人間存在そのもの、あるいは神と人
との存在関係に関わるものとして、その大いなる問いかけ、半永久的な問いかけがなされ得るものとなる。

 三つ目としては、地球上におけるエデンという地域の設定が、それはかなり広い地理的範囲であったが、
あたかもいかなる他者の侵入をも決して許すものではない所の、隔絶された地理的環境の設定であったと
いうことだ。具体的に云えば、エデンという地域の東西南北のどちらか一方の端の方がその水源、または
源流となって一つの川が流れ出て、さらにもう一方の端のほうからそれが四つに分かれてそこから出でて、
四つの川となって、さらに超広大な規模の大地を縦横に蛇行しながら流れる。しかもこの四つはかなり西
より、南よりの方向に沿って流れるものであった。この四つの川による自然の障壁が、一段と標高の高い
エデンという広い地域の天然パラダイスをあたかも隔絶するかのようにしていたという事である。(10
-14節)(このエデン領域を含めた広大な地球上の地域は、”ノアの箱舟=大洪水 ”の時代にまった
く跡形もなく消えうせた。創世記第7章11-8章14節参照、これについての参考メモは、ここを
クリック。)

 その四つ目としては、エデンという地域の中に設けられた”園 ”に関して、人にその園を守り、管理
するように仕向ける方向付けの設定がなされたということだ。これはまったく負担のない遊びのような、
仕事であって仕事ではない、ある種の自発的な義務、務めであり、また人の生活学習的な要素をいち早く
考慮したものであった。(15節)

 その五つ目は、神はその人との関係の間に、一つの守るべきルールを設けられた。これも”守ること”
を習うという学習的な大いなる要素を有している、一つの小さな単純な戒めに過ぎないものだった。が、
これが人の人類史的な未来を決定的なまでに左右するところものとして設定されていた。またこの戒めは、
神と人類最初の人との、人類を代表するようなかたちでの最初の約束事、契約の意味が秘められていた。
その最初の人(アダム)彼自身は、まったくそのようなことを知るよしもなかったが、。(16-17節)

 その六つ目は、二つの点を一つにまとめて述べよう。まずそのひとつとは、すべての他の生き物、家畜
となりうるものから空の鳥まで、人と出会い、ある種の交流(ふれあい接触)が可能となる生き物(した
がって水中でのみ生息するものを除く)を人のところに来させるという設定である。これも人に言葉を作
り出させ、自分以外の他の生き物に関してのある種の観察的知識を得させるという、学習的な側面を有し
ているが、それと同時にある程度の自分という存在のある種の自己認識を他のすべての生き物をして呼び
起こし得るものとしての設定であった。これによって彼、アダムは何か無意識的に底知れないような、今
まで感じたことがなかったようなある種の心理、心的な孤独の感覚を覚えるに至る。(18-20節)
次にそのふたつとしては、そのような人の心的状況のなかで、人にとって今もっとも必要とするところの
他者なるパートナー、それの欠けたるの意識付けをなし得たさなか、神は、特別な方法を以って人、アダ
ムにふさわしい一人の<女子>を創造して、彼に与えることになるという、その特別なる方法(彼の肋骨
の一つを取り出してのそれ)の設定、そして、その過程へと至るべく、その彼の心的状況を醸し出し得る
先に述べた他の生物との触れあい交流の設定とが、一つとなってそこに設けられているのである。
(21-25節)

 そして、その最後でしかも最終的な七つ目の仕掛け、その設定は、創世記の第3章で述べられている、
<へび>に係わるものである。神はエデンの園にそのへびが入ってくることを特別に許したもうた。この
生き物は、確かに不可解なものではあるが、神の創造物であり、<野の生き物のうちで、たくみに生き抜
く上でのいい面わるい面での両方の感覚的知恵を兼ね備えた、いわゆる生活の<狡猾>さに最も長けた能
力を現わし得る存在として創られていた。この特別な存在としてのこの<へび>は、その爬虫類という仲
間の生き物のなかで、その進化を最も余儀なくされた唯一の生き物であった。(第3章14節)つまり、
現在も生息しているあらゆる種類の普通のへびと同じような形状、生息のあり方に次第に進化してゆき、
そのある過程で、ある別の普通の種のへびと交わりながら同化し、以前持ちえた自らのユニークな種を保
持、存続させ得ることなく、その種を消滅させるものとなる。(かなり短期間の間において。)

 園の中にその快適な住み処を得たこの狡猾なるへびは、その孤独なる現状のゆえに女が自分に慣れ親し
むかのようになるために、たえずその存在をアピールし、自分自身が感覚的に持つようになったある疑問
(その疑問とは園の中央にある2本の木の実を喰らいたいが、なぜか本能的に何かを感じて、食べること
が出来ないでいること、そして彼ら、人間も同様その実を食べた様子のまったくない事からくる疑問)を
晴らすために女を利用せんと、その接触の時、そのチャンスの時を何度もしつっこいまでに繰り返す。こ
のへびの繰り返しの、未だ言葉になっていないその発生音的な呼びかけの行為は、人なる女の知覚的能力
と内に働く想像的な能力をして、そして、それに合わせて女の無意識的に潜在する食への願望的欲求が作
用して、その女自身の内なる声(へびの呼びかけの発生音を自分なりに暗示的に解釈するというその声)
が、かのへびの呼びかけの声となり、遂にそのへびの狡知の罠にはめられる結果となる。
へびについてもう一つの見方がある。それは、彼らが守り通していたことをへびが先にそれをなしたとい
うこと、つまり、禁断の木の実を食べ、その結果彼らの交わす言葉を理解できるようになり、へびがへび
なりの音声でもって人の言葉に少しでも近いような声音を発するに至ったということである。とにかくい
ずれか一方の立場からにせよ、そういったへびの存在も、当時のアダムの生活存在次元での、人のより良
き成長過程のためには避けては通れない、かのアダムに命じた<戒め>に係わる一過程での試み、神によ
る仕掛けの設定でもあったと云えよう。(第3章1-6節)

 さて以上の如く、七つを列挙したわけであるが、さらに大いなる神の仕掛けが見い出されうる。これは、
人の身体に係わる創造時での先天的な生命生理の仕組みに関係したものであり、同時にかの園の中央にあ
る2種の木の実の生化学的な成分組成に係わる、その創造的な設定の仕掛けであると、ここでは示唆する
に留めておきたい。人の脳の仕組みは、超自然的な能力につながる場合があるし、その意識は、脳をして
少なくとも、3層あるいは4層の意識表示がその人類史的過程で起り得るものとなっていると云えよう。



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