5.教会神学の起源的端緒: その形成的思潮風土


  教会神学がなぜ形成されなければならなかったかについて、その初歩的な理解として、つぎの
問いの言葉 ”何故、使徒後の教会の歩みは、その後世に渡って教義信仰の過程を辿らなければな
らなかったのか ”に置き換えて問い直してみるとよい。古代キリスト教会の初期、2世紀の初め
に視点を定めて見てみると、その大きな要因には二つある。それら二つは先天的にも後天的にも相
助長するかのようである。

 その 1). エルサレム及びその近郊、アンテオケから始まった教会の発展は、その当初からギリ
シャ/ローマの文化圏(ヘレニズム)の中に位置付けられた。小アジア西部(地中海側)を経て、さら
に西、ギリシャ、イタリアへの過程で、自民族ユダヤ人社会の枠を越えて異民族(異邦人)からの
信者数が増してゆく。そんなさなかギリシャの古典文化、諸学問に直接間接その交接の機会を余儀
なくされた。この状況は不可抗的歴史の流れ、先天的な神の摂理(俗に云えば運命)と云えようか。
プラトン(ソクラテス)、アリストテレスの時代(BC5,4世紀)から隆盛を誇った諸学問の影響は
知性レベルの高いヘレニズム文化圏を形成する非常に強力な原動力となった。このヘレニズムの知
性的風土の趨勢は、キリスト教徒の人々、特にその指導者たちの知性をも完全にヘレナイズしかね
ないものだった。
  キリストの来臨前後の世紀には、メソポタミヤからエジプトおよび北アフリカのカルタゴ方面に
至る広大なオリエント地中海世界は、離散したユダヤ人社会が点在して行く中、旧約聖書的な思潮
風土(セプチュアギンタ=70人訳ギリシャ語の旧約聖書BC250年頃〜)の交流と共に様々な
有神論的な諸宗教が、盛んに行われる時代となっていった。つまりギリシャ哲学からの諸学派、及び
ギリシャ神話系に結びつくような多神論的な風向、さらには東方ペルシャ(インドからの流入も含
めて)のゾロアスター教などから派生した諸宗教、ミトラ教、3世紀頃からのマニ教などが相混流
した精神風土がそこには存在していた。アレキサンドリア(エジプトの首都)などでもエルサレムの
ユダヤ正統派とはほとんど無縁な戒律的宗教の一派が存在していた。そんな宗教風土的な世界で最も
流幡の勢いを継続、増大させていったのがギリシャ思想(諸学問=ギリシャ語概念文化)文化圏の形
成であった。これは正に人類史古代世界の夜明け(黎明期)であり、かつ新しい始まりを告げるよう
な、いわゆる”時が満ちた”と云うにふさわしき時代となっていた。
使徒後の古代キリスト教会がそう云った世界の中で、様々な諸問題に直面せざるを得ないのは当然
の成り行きであり、避けては通れない不可抗的なことであった。

 その 2). キリスト教会信仰の純粋性と正統性を保持、擁護し、教会信徒を守るため、内外の様々
な異端思想、非聖書的外来思想に対して、反駁、護教の使命に傾注しなければならなくなった。ロー
マ帝国内の至る所に教会が出来ていくなか、様々な思想傾向の人々がキリスト教に回心したり、聖書
を自己流に解釈して、一派をなすような傾向が流行して、キリストや神について使徒たちが伝えた内
容とは異なった様々な考えをもった信仰が流布し、教会信徒を教化せんとする異端分子が現れれるに
至った。 古代キリスト教会の2世紀初頭から4世紀後半まではそれら諸異端との論争の歴史を特徴
づけるものとなった。ギリシャの哲学(思考形式=思惟)により、ペルシャの二元思想を取り入れた
ような”グノーシス派 ”の聖書解釈による異端(150年頃隆盛)、その他、聖書における二神論
思想、キリストの化現説(ドケチズム)、唯一神論的な神の単一説(反三位一体説)など、さらに後に
なって起こったキリストの単性論(反二性一人格説)、正統派古代教会を席捲し、揺るがすそれらの
異端に対して論駁護教の教義を方式化しなければならなかった。
神についての三位一体的な考え方は、漠然とながら2世紀中葉にはあったが、神の本質と位格におけ
る”三位一体 ”の教説を方式化したのは、テリトリアヌスというラテン系の人であった。(215
年頃)これは、200年頃起った神の単一性論から派生した”神の三位様態説に対しての反駁論争の
結果であった。この様態説異端は、旧約聖書にあるイスラエル民族の時代にあっては”父なる神 ”
キリストイエスにありては、”子なる神 ”使徒たちの原初教会、かのペンテコステの日以来からの
時代にありては”聖霊なる神 ”として、その一なる神が、その様態(モード)を三位に変化したも
うた存在者だと唱えるものであった。この一人三役的な様態説には、様々な非聖書的な考えが内在化
あるいは生まれ出てくるものであった。これに対して正統派のティリトリアヌスが定式教義化した神
の”三位一体説 ”これもギリシャ的思惟(思考形式)から知性でもって神を認識、捉えんとする試み
の所産であった。”trinitas ”(三一)という言葉は、ラテン語から来ているが、当時のローマギリ
シャ文化圏の知識を表示する言語とその概念は、広汎なる発展盛隆の極みにあり、その言葉の所産と
知性とは、神やキリストをも理性の対象となすに余りあるものであった。 理性の対象として認識し、
言葉の概念でもって方式化する、これが教会の教理、教義の積み重ねとなってキリスト教神学体系を
構築していくものとなる。 4世紀初めから中葉は”キリスト論”論争が最も盛んな時代であった。
キリストを神性、人性という概念でもって捉える論説では、二性論派(アタナシウス=正統派)と単
性論派(アリウス=異端派)とが激しく対立した。時のローマ皇帝コンスタンティヌスはその皇帝権
でもって、教会会議を召集したのは歴史が記す有名な出来事であった。(325年:ニカヤ会議)
この会議を契機に西方ローマ系教会と東方コンスタンチノープル系教会とに分裂していく傾向を辿る
ものとなる。これは皇帝権配下の統一を意図する政治的思惑とは異なった結果となった。
 神の”三位一体説 ”とキリストの”二性一人格説 ”この両者を結びつけて考えることは理性的
頭脳を全く混濁させるほど難しく、且つ不可解さが残気するものである。使徒ヨハネはその福音書で
イエスキリストを可能な限り表現、描写している。その第1章はかなりギリシャ的言示風とも云える。
彼はまさにヘレニズム思想風土のさなか、理性の境界ぎりぎりのところで、イエスキリストを表現し
た。これがヨハネの記した福音書だった。この書に大々的に依拠し、そこから抽出され得た”三位一
体 ”の教説は、その言葉の概念において正統化され、絶対化され、後々の後世、現代までも、教会
教理の最重要な柱となっている。 アタナシウス派のキリストの”二性一人格説 ”、これもキリ
ストを客体的に捉え、その言語概念でもって規定表現したものとなる。対するアリウスの説は、明白
に異端であると云えるのか、これら諸説の正、非はまさに神ご自身が知りたもうところであろう。
人の精神性を人性と捉えるならば、キリストイエスの神性は、即人性であり、人はこの神の御子キリ
ストイエスの御形に似せて創られた(アダム)と云えよう。
 以上のごとく古代キリスト教会は、ギリシャ諸思想、諸学問の流布とその広範囲な発展性の未来が
予定された世界の中で、その大いなる進展成長をなし、聖書からの諸々の教義を体系化し、その所産
的教理信条でもって教会の一致と統一を保持擁立せんとした。 しかしながら、それでもって教会の
一致と統一が後世にわたって保たれていった訳ではない。 キリスト教が諸民族、諸国家国民に受容
されていく中、聖書原典は多様な言語に翻訳されてゆく、そういった過程で自前の翻訳聖書をもって
教団の運営にあたるということで、また新たに一教派が出来るといった具合に、歴史的出来事や地理
的な条件、聖書教義の強調点、教会組織の違いや信徒集団の気質や風潮など、様々な要因で教派が生
まれてくる。 ヨーロッパ近代以降の例では、ローマカソリック教会とプロテスタントの教会という
大きな進展の流れを見るし、それと併行してギリシャ正教会、ロシア正教会がそれぞれ独歩の歩みを
形成していった。 プロテスタント系の教会では、その民主的な主権の下、その個性を主張し、競う
かのように幾多の教派が誕生して現代に至っている。 だが現代という時代は大変な時代だ。神を信
じない者は ”滅びの子 ”だからである。
  現代、この先はたして、前の例を教訓として活かせ得るであろうか。、、、、、、
先の第一次、第二次世界大戦での滅びの戦禍、このような惨状はまさに諺いわくの<一日にして成ら
ず>の悪しき歴史的進展をたどった諸状況、諸契機から生起しえた結果であろう。15,16世紀で
のヨーロッパでの<文化的ルネッサンス運動>や<宗教改革運動>などは、非常に好ましい善的な発
展であったが、この時期を過ぎた以降の急速な諸科学の発展、学問の分野としては大いに歓迎され、
更なる進展を注視すべく期待されうるものなれど、諸科学的知に連出関連したる雑学思想のたぐいが
人の世の風潮をグローバルに大いに染色趨勢化してゆく。もろもろの諸思想が対立、混交したりして
大きな渦流となり、未だかってない未曾有の時代思潮を風勢化して、19世紀以降20世紀前半にわ
たる欧州全体の世界情勢を激動、動乱の時代へと特徴づけるに至る。
  イギリスはひと足早く(17世紀中葉から)近代国家形成の時代に入っていたが、大陸欧州では、
18世紀末のフランス革命(1789-1799)以後、ナポレオン旋風(1799-1814,15)の時代を契機とした欧
州体制(オーストリア王家による神聖ローマ帝国)の解体によって、まさに深刻な動揺の中、諸処に
近代国家形成の諸事情は、一気に高まって行く、革命と政変とが諸国間戦争のさ中やその合い間に頻
発する情勢、古い王制的立憲君主の近代国家から市民革命による立憲共和制議会国家、そしてさらに
社会主義思想による政党議会制の近代国家の形成、諸々の政治的政党の運動とその台頭は、近代国家
形成の大きな要となり、それを特色付けるものとなった。
  その極左にあったのが、マルクス主義(初宣:1848〜)による共産主義運動であり、1904年12月、
1917年3,11月のロシア革命の結実とそのイデオロギーによる近代国家の誕生である。共産主義運動は
ある意味で非常にインターナショナルな性質のもので、個々の国の民族性やその伝統文化からくる民
族主義を打ち壊しかねないほどに、そういった民族主義に対峙するものとなる。したがってさらに政
治闘争的な動乱の時代思潮は一層その深刻化を増すに至る。
  1850年代以降のダーウインによる自然淘汰の進化論思想(1859年【種の起源】出版)は、
科学という学問分野内に留まることなくして、その時代の思潮に非常に大きな影響をおよぼし、人種、
民族意識の目覚めと相まって、処々に民族自決の民族運動の高まりからも、独立的な近代国家形成の
傾向を助長するものとなる。まさに20世紀初頭にいたる近代国家の形成期にあって、強い帝国主義
的な国家間の生存闘争的な外交も峻烈にして策謀深きものとなりしや、国際信義にももとるものとさ
えなる。民族、国家間の戦争,紛争は日常茶飯事と化し、国内の政治情勢も不安定で、政党間の競争
までも武装化闘争となっている始末、さらに自由主義的な諸思想(哲学系分野ではフォイエルバッハ、
ニーチェ等)では、ニヒリズム的世相が漂う中、唯物主義、無神論、世俗主義化により一層歯車がか
かる結果となる。このような前代未聞的な世相が、起こるべくして起きたとさえ云えるような、二つ
の滅びの世界大戦を誘発するに至ったのだ。
  古い体制のしがらみをいまだ引っさげているような
オーストリア・ハンガリーの二重国家の帝国主義政策(1908年のボスニア・ヘルツェゴビナ併合
などバルカン半島南下の勢力政策)とそれに反対するセルビアの民族自決の気運動向とが対決し、か
ってないほどの緊張が続く中、14年6月28日のサライェボ事件(ボスニア訪問中のオーストリア
大公皇太子夫妻がセルビア人民族主義者によって暗殺される)が契機となり、その一ヶ月後、7月の
28日にはオーストリアのセルビアへの宣戦布告となって、戦争は一気に欧州全体を巻き込む世界大
戦に発展していった。この戦争はたんにイギリス、フランス、ロシアの三国協商国対ドイツ、オース
トリア、イタリアの同盟国という筋書きの両者帝国主義間の争いというにとどまらず、それを主要軸
とした幾多の自他民族の解放、、諸国家の領土獲得、拡張をかけた、戦争における生存闘争という性
質をはらむものとなった。
  諸人種、諸宗教が複雑にからむ、バルカン半島の情勢は、戦争の様相までも複雑化した。イスラ
ムトルコ帝国は、ギリシャの独立人民戦線とも戦いを交えなければならず、ギリシャはまた、イタリ
アの進入を阻止せねばならなかったといった具合で、とても考えられないような戦争の状況をかいま
見るものとなる。そして次の第二次大戦はどうであったか、全くもって皮肉にも、第一次大戦の結果
が、その主要原因ともなるような働きの進展をなしているのだ。敗戦国ドイツの動向がいつしか危険
なものとなる。その敗戦からの復興のあり方が<ドイツ民族>高揚の一大スペクタクルの国民国家主
義一辺倒の様相を呈するものとなり、それを指導したナチス党(国家社会主義労働者党)およびその
党首ヒトラーの政治思想とその国家的生存闘争の理念的展開は、先の大戦で失った領土を取り戻すべ
く、仮借なき国際信義、ベルサイユ条約履行に反意せしものとして、1939年9月1日、ポーラン
ドへの宣戦を敢行するものとなる。
  日独伊の三国同盟での一翼を担っている日本も、満州事変、シナ事変と続く軍国体制下での軍事
的外交路線を展開しているさなか、ドイツに歩調を合わせるを余儀なくするがごとくに、連合国アメ
リカへの宣戦を敢行するものとなる。1941年12月8日、ハワイ島の真珠湾奇襲作戦、この大戦
は、東アジア、太平洋地域をも巻き込んだ広範囲な第二次世界大戦となり、20世紀前半の歴史を凌
駕する最大の出来事となる。
  滅びの戦争を誘発する諸要因、そういった戦争をまったく阻止することができない、
戦争に歯止め、ブレーキが掛からなくなるほどに至った歴史的諸状況の精神思想史的な風土様相が、
その背景的な基底として横たわり、滅びの時代を醸し出しているのではないだろうか。、、、、
このようにヨーロッパでの教会神学の衰退化、ないし無能化とその精神風土化の喪失事情とは、今も
って今日的な趨勢でもあるわけであろうか。
先の大戦での全世界的な規模での多大な犠牲を払って、得ることのできた戦後の再出発的世界の繁栄
と平和、それは確固たる平和主義への再認識であり、本当の意味での正しい民主主義社会の発揚でな
ければならず、また、それらをいつまでも真たらしめるために、<戦争は犯罪である>という強い自
覚、その不動の理念を心に秘めねばならぬでしょう。