3. 古代世界から中世に関わる見識
人類の歴史には古代のある時期まで、人々の生活が神話と直結するような、いわゆる
色とりどりの神話の世界に生存を営むといった時代があった。これはこの時期の古代人の
知的能力、知性自身の本来的欲求が世界(自然界とその森羅万象)を神話的に認識してそ
の解釈の得心をえることによって、観念的リアルティーの世界を生み出すといった古代人
特有の実存生活がその始まりの端緒となっている。古代人にとって目に映るすべての諸物、
事象が好奇なもの、不思議なものであり、理解力をはるかに超えた不可解な存在であった
が、何らかの説明理解を付与反映させることによってのみ、その現実世界を生きえたので
あった。古代ギリシャの叙事詩人ホメロスの神話が物語るように、その時代は未だ宗教的
知識の所産、集積の初過程に至っていないような時期であり、古代思想史でもって位置づ
けるならば、神話素要の諸観念を唯一の生活リアルティーとする時代であり、文化文明の
年代史的には、古代エジプト、メソポタミヤ文明の紀元前2千年紀をピークとして前1千
年紀中葉まで延々と続いてきた時代であった。この人間社会は時代が経過するにつれ、神
殿を頂点とする都市文化を開花繁栄させるに至った。そこでは神々の像を祀り、礼拝をな
し、神々と共に生活し、その神々の世界から直接恩恵を膚に感じるような雰囲気環境に生
きていると思わしめる如くに、その生存生活はうまく成り立っていた。自然界の恩恵は、
それほどまでに人間を裏切らなかったし、未だその恩恵が維持されていたという事である。
だがこのような時期はそれほど長くは続かなかった。神々の像は、もはや単なる偶像
崇拝の対象でしかなくて、神殿を主宰、運営する王や神官らの権力者たちは、その体制か
らの驕りと共に自らを神として天上の権力を手に入れんとする傾向に傾いていった。この
古代社会の権力的な趨勢はその当時にあっては、正に究極絶対の権力となり得たものであ
った。神殿建築もその壮大さを極めるにいたり、無知なる民衆はその荘厳さ、権力者たち
の偉大なる権勢に何の疑いも抱くことなく、反動することもなく拝礼を尽くすものとなる。
その支柱的神話思想も”神(々)の子”といったような概念を生み出し、その天上的なポ
ストは代々の王制に世襲され得るものとさえなった。このように古代の神話時代の王とそ
の権力者たちは、自然と民衆を騙すような傾向に陥り、その支配体制を堅持し続けてきた
のであった。これはまた同時に、王、権力者たちが自らをして設けた悪なる趨勢の、いつ
かは滅びなければならぬ”滅びの穴 ”でもあった。
しかし、このような古代社会の末期、紀元前1千年紀の中葉以降にはさらなる”滅び
の穴 ”が<底知れない穴>として、あたかも人類の宿命ででもあるかのように起り得る
ものとなる。この傾向は人間にとって極めて精神的なものであり、初期神話時代の神話素
要の諸観念が、内向的にアニミズム化の傾向をたどり、自然界の個物に”神々”が宿ると
いう知識の想念、その精神的風土を醸し出し、一般化していく過程と共にあり、今や人間
精神にとって<底知れない滅びの穴>の起り得る可能性を予見するものとなる。
古代において聖書は、ユダヤ人固有の民族宗教(ユダヤ教)の中で保有されるものと
なっていた。アレキサンドリア(後のクレオパトラの王朝の都)などで、ギリシャ語に翻
訳されたのもギリシャ語を話すユダヤ人が一般化してきたためであった。キリスト来臨後
の新約聖書は、すべてギリシャ語で記述されている。AD70年以降、一般民衆レベルでは、
会話的にも文語的にもユダヤ人本来のヘブル語は次第に死語と化していったようだ。ペル
シャ時代からのアラム語が多少なりとも通用していたが、帝政ローマ時代の生活言語は今
やギリシャ語が主流となっていた。ちなみにキリスト教の進展と共にその教会が、旧約
(39巻ヘブル語、そのうちのほんの1部がアラム語)、新約(27巻)の両聖書を一つ
正統なる聖典として定めることが出来たのはずいぶん後になってから、5世紀以降のこと
である。教会史によるとAD397年に北アフリカの古都カルタゴ(地中海でのシチリア
島を挟んでのイタリア半島に対して対岸に位置する)での宗教会議でやっと公的に新約聖
書に関する27巻の正典の選定確定が成されるに云ったということであるからして、新旧
の両者が一つ書物に一体化され、現在あるようなペーパーBook化されたのは、製紙技
術と印刷技術がヨーロッパで行われるようになってからである。つまり、ルネッサンス宗
教改革たけなわの時代にいたってからのことである。プロテスタント系でないローマカト
リック教会は旧約聖書に関して、39巻の他にべつの7巻の文書を正典に加えているとい
った現状を見るに至っている。
新約聖書の末巻にある”ヨハネ黙示録 ”は写本の数もかなり少なかったようで一部
地域(小アジア西岸)に限定され広汎には出まわってはいなかった。いわゆる特定地域の
教会の秘蔵本といった性格の文書であったようだ。この”ヨハネ黙示録 ”に類比するよ
うな他の文書は新約のそれには見出だせないが、不思議にも旧約聖書の文書群のうちに見
い出されうるから驚きだ。それらは旧約の黙示文学とも云われている”ダニエル記 ”
( ”エゼキエル書 ”)である。ヨハネという人物は、新約聖書の著作者上から云えば、
使徒パウロに比肩するほど重要な著作者である。福音書や手紙文(書簡)の一部も彼、ヨ
ハネの手によるものとして留められている。当時の原初キリスト教会にあっては、彼とパ
ウロとは若者どうしであった。ヨハネが20代前半の年頃であり、パウロはその後半、あ
るいは30才前後であったろうと思われる。ヨハネは、パウロが教会の仲間に加わった当
初(使徒9章26−29)、唖然としながらもしだいに彼から刺激され、強い影響を感じ
ざるを得なかったに違いない。ヨハネはいつも使徒の頭目ペテロにつき従って、いわゆる
補佐役として行動した。主イエスの在世時のときから、とても若くして12使徒に選ばれ
ている。何故主イエスが、17,8の彼を選んだのか、やはりそれなりの選びのメリット
があったのではなかったか。ただ単に兄のヤコブにくっ付いてイエスに従っていったとは
思われない。彼らは父、ゼベダイの営む漁師の仕事を手伝っていた。雇い人を幾人か使い、
網を製造し網元でもあったりするかなり裕福な家庭に育ち、ガリラヤ湖畔の村々のうちで
有力な漁師であったろう。(マルコ福音書1章20節)そのヨハネには末の子として、ギ
リシャ語を習わせていたのではないか。つまり彼、ヨハネはとても若くして、自国語のヘ
ブル語、アラム語 そしてギリシャ語をも使い分けるといった、バイリンガルな将来性の
ある少年だったのではなかろうか。 彼ははじめアンデレ(ペテロの弟)と共に洗礼者ヨ
ハネの弟子ともなっていた。(ヨハネ福音書1章35−40)彼らは洗礼者からイエスを
紹介され、イエスについて行き、一晩宿を共にした。主イエスは、同郷ガリラヤ出身の彼
らを歓待し、かなりフレンドリーになったにちがいない。
洗礼者ヨハネが獄に捕らえられる前までの期間は短く(3ヶ月前後かも)その間の主
イエスの行動(ヨルダン川からエルサレム周辺近郊での)は、状況察知の巡回程度のもの
であったようだ。(マルコ福音1章14節)その後主イエスの本格的な活動がガリラヤか
ら開始されることとなる。 そこで主イエスはいまだ少年であるが、ギリシャ語を話すヨ
ハネを弟子とするにいたる。使徒ペテロもイエスの昇天後、補佐役の通訳者としてヨハネ
を引き連れるものとなる。エルサレムでの使徒たちの宣教活動は、本当に命がけで、非常
にきびしいものだった。ペテロとヨハネらは2度も留置され、審問された。(使徒4章&
5章12−18)その後ステパノのユダヤ人による惨い殉教の死があったりして、教会と
いう群れの集団にも迫害の手が及ぶようになった。ユダヤの領主ヘロデ王が教会に圧迫の
手をかけ、ヨハネの実兄ヤコブを剣で切り殺すという事件がおこった。それに乗じて使徒
ペテロも捕らえられてしまった。(使徒12章1節〜)ヨハネは兄ヤコブが殺されたとい
う事で、大変なショックを受け、ひどく落ち込んだに違いない。 ペテロはその事が起こ
る以前からヤバくなってきたという状況を察知し、若いヨハネの事を気遣ってもはや彼を
引き連れての行動をとらなくなっていた。そういったきびしい現実の中、若いヨハネが捕
らえられないようにとの気遣いから、教団の人たちは彼を”マルコ ”と呼び合うように
したのではなかろうか。裕福だった彼、ヨハネ(マルコ)の母は、信者たちが集まること
の出来るかなり広い住まいを提供していた。(使徒12章12節)彼、ヨハネ(マルコ)
には、年が6つ7つ上だが、いとこのバルナバがいた。このバルナバは、教会の仲間信者
らに受け入れてもらえない状況のパウロを丁重早々に支持し、親交を深める。そして、彼
との宣教のパートナーを組むものともなった。パウロは名前も顔もよく知られていたので、
いち早く迫害の標的となった。(使徒9章27、11章25節) ヨハネは、ギリシャ語
にも雄弁なパウロに対しては、心ひそかにライバル意識を抱いていた。しかしこのヨハネ
に関しては、使徒行伝中での彼の活躍の記事はまったく見い出されない。バルナバは、パ
ウロと共にマルコ(ヨハネ)をつれてエルサレムからシリヤのアンティオケに帰った。
(12章25節)そのアンティオケから小アジア南西海岸地域への最初の伝道の長旅に出
るわけだが、(13章)その時も、ヨハネを同行させている。が、彼ヨハネは、途中ペル
ガでなぜか一行から身を引いて、エルサレムへ帰ってしまう。ヨハネはいつ終わるとも知
れないその伝道旅行に危惧して、また主イエスから託された母マリヤの事、および自分の
母の事などエルサレムの事を気遣って一行から離れたに違いない。その後、彼は、彼らに
負けじと、誰よりもはやく最初の福音書、”マルコの福音書 ”をしたためる事となる。
最初はアラム語で書いたが、それを自らギリシャ語に翻訳したという事となる。このよう
に使徒ヨハネは、その30才前後の若き時に ”マルコ” によるという福音書を著作し、
さらに晩年になってから、いわゆるれっきとしたヨハネという名による ”ヨハネの福音
書 ”そして ”黙示録 ”を完成せしめたのではなかろうか。
さて古代ローマ帝国は、カイザルの後継者、オクタビアヌスの帝位(アウグスト)の
確立をもって、その強力な実勢の真なるを現わにするものとなるが、