11. 主イエスの存在、その力溢れるパーソナリティー

        --共観福音書3書に係わる諸事情をも呈示--
       ”福音書の著述的特質の概観を踏まえて。”

 神の子なる<イエス・キリスト>について、教会や信者の内外を問わず、信仰のあるなしを問わず、
世界の人々は、何らかのかたち、イメージをもって、あるいはフッーと感じて、その存在を思い起すで
あろう。キリストを信じていない人も、世界の偉人の一人だったとか、十字架にはり付けにされたとか、
教会堂の十字架像を思い浮かべるとか、色々様々でしょうか。しかし、単なる低俗な風評だけが、蔓延
するような世の中では、キリストイエスを知る事に何の価値も見出さないまま、おのが人生の目標、無
目標、夢願望の種々な思惑、努力と苦労の喜怒哀楽のうちに、その生涯の終わりを迎えるのが現実のよ
うだ。ふり返れば人生は何だったのかと。人生に意味があるのか、世界に、歴史に意味があるのか、そ
んな問いに答えを見出す事も出来ない。

キリストイエスは、そんな問いに答えを与えてくれる人物の一人だろうか。今生世界の常識かも知れ
ないが、キリストが歴史上での偉人、賢人、開祖、聖人とかの羅列のうちに一般化されるのは、これも
国の歴史、文化の発展過程のそれぞれの違いから、またその学びや知識情報から得られ評価されたきわ
めて妥当な、何ら自己とのかかわりなき見識ということであろうか。ところが、宗教という係わり次元
からすれば、そんな見識は、たちどころに消し去られてしまう。何故ならば、そろぞれの宗教にはその
精神性において、ゆるぎない至高の価値をその信仰、あるいは信心の対象(者)に見据えているからで
ある。例えば2千年の時が流れても、揺るぐ事のないキリスト教の信仰の価値、これは、主キリスト在
世の時代に、使徒としてのその働きをなしたペテロやヨハネら、あるいはパウロといった先人たちが、
説き明かしてくれた<キリスト・イエスの存在そのもの>に関する真理の教え、その全てをそっくりそ
のまま共有するような形で、なお且つそれが変わることのないものとして、今ある我々の時代にまで至
っており、益々、神によるその<天の恵みの真理>が溢れるばかりに、より一層深化進展してきたと言
えるからだ。

 そもそもキリスト教の根本、その生い立ちは、<イエス・キリスト>の存在を解き明かすこと、その
すべてに成立発展の根拠を有するものとなっている。そこに歴史があるのだ。その力強い証しの所産が
<旧約聖書をも必須不可欠に合編して成った聖書>そのものであり、長い時代の歴史を経由して継承さ
れてきた書物それ自体なのだ。だがしかし、<キリスト存在の説き明かし>それ自体だけということな
らば、キリスト教そのものに関する見方がきわめて薄っぺらで表面的なものとなってしまう。しからば、
その力ある実相の内実とは何か、何かと言えば、それは、<キリスト存在そのもの>が本来的に生きて
はたらく救い、<活ける救いの原理そのもの>であり、且つ現実にそうなり得ているからだ。

主イエスの直弟子なる使徒たち、またパウロらは、その真理を自らの命をかけて、解き証し、宣教して
いった。そして、幸いな事に新約聖書の構成文書ともなる<4つの福音書>や<各地の教会の人々、あ
るいは愛する後輩同胞の御弟子宛への書簡(手紙)>をも書き残してくれたと言う事だ。
キリスト在世・ローマ時代は、その文化レベルで比較すれば、日本の幕末明治前後に相当するような、
そんな時代であったわけだが、その時代からすれば、あまりにもかけ離れた超極東、地の果てなる地に
あるような、日本の知られざる古代ということで、その距離と時間による定めの運命は、いか様になろ
うとも人の知る良しもない歴史の現実。
神による御子キリストのこの<天の恵みの真理>が、その証しの<聖書>と共に祖国・日本に伝えらる
にいたったのは、それから千八百数十年という長い年月が経った後、明治の時代になってからというこ
とだから、、、

かっての秀吉、家康の<キリシタン弾圧撲滅>の時以来、その後の空白時代そのものがまさに呪われた
年月だったといっても過言ではない訳だが、とにかく本当に何とも言いようもなく遅かった。いささか
残念に思うというよりか、大いなる精神的損失であり、日本民族の精神的不幸の要因ですらあると言わ
ざるを得ない。そうは言っても現在、日本に在住する<日本人クリスチャン>は、世界中の教徒、信徒
という同次元的レベルの感性から見て、他の国々に優って、良い信徒のあり方、証しを示しているから
本当に有り難い、感謝すべきことだとも言えるかも。(だが決して手放しでは喜べない。何故ならば、
<アンチィクライスト&真理>の大いなる知恵悪魔の座があり、見えない知恵、ハイテクな干渉、なり
すまし支配のターゲット、或いはもろもろ知識、観念意識、風潮による、<紙一重の如き暗雲霊力>に
さらされる機会があるからである。)しかも人の人格魂のすこぶる大いなる災い、絶大なりと云えるほ
どの現代世界の知的特長は、その人格性の育成成長の自己において、主体的、且つ自分と同次元的に物
を見る目をもって物事を追求するがゆえに、本当に見るべきものも見えないことになったり、あるいは
悟るべきものの自己自身への省察回帰とか、全面的な知的悔悟の心の開門とかの道さえも失われた状態
に陥ってしまう。自分の善性とか、自分の義とかが、すこぶる強く高い自我意識に慣らされた国民性に
おいては、物事の認識対象の理、それが学的研究分野においても、どんなにか正しかろうとも、より一
層見えて来ないという迷妄明暗の内を索訪する、そんな知的領域を自らの内に築き持ってしまうことも
起りうるものだ。あらゆる知識と情報のあふれる社会、一歩誤まれば、おのれの魂を滅びに導き行くも
のともなり兼ねない、そんな危ない現実が今の世界なのだ。(また、いつの時代にも起るものなのか、
<不信仰へのパン種>を絶妙なまでに巧みに撒き散らす、みめ麗しき偽装の者がいるものだから、何時
になっても世の中は、<光と闇>、<幸と災い>が錯綜していつまで経っても止むことがないというも
のか。)だが、それでも、

神の国の天は、無限に開かれ行くものであり、御子の<キリスト存在真理>がその開現の初めであり、
且つ、無限に開かれ行くその終りでもある。如何なる規模の産みの苦しみがあろうとも、、、
この<キリスト存在真理>の<天の救いの恵み>は、使徒のペテロやヨハネ、パウロらが説き明かして
くれた<聖書>を基底基盤として、<神の国到来>という将来に向けて、さらなる深化発展のあふれる
至福の時を刻んでゆくことであろう。まえ置きの序文的な言葉はこれくらいで、早々に本題的な核心に
移行すべきかな。

 在世時での主キリストの確かな情報は、ほぼ新約の4福音書からしか知る事が出来ないわけだが、そ
のなかで、ルカによる書、マタイによる書の2書だけには<主イエスの生誕に関する記事等>が重要不
可欠な部分として書き留められている。そういった記事等の箇所以外の内容は、他の2書、マルコ、お
よびヨハネによる書と同様に成人イエス(30才頃から)の、短すぎるとも言える<3年半あまりの公
生涯>を書き留め、それぞれにその記事内容の構成をなしている。(短期間なるが故に、より一層強烈
なインパクト、存在感を増し与えた公生涯と成りえたから、後々にその記憶が鮮明によみがえり、その
在世公生涯の言動の様子、情景を正確に書き記す事が出来たと言える。)

それら4福音書の記述的なクライマックスは、エルサレムの町中のとある館宿での<最後の晩餐から翌
日に急進展したところの十字架刑までの様子>、そして三日目の明け方早朝、<葬られた洞墓での甦り
の出来事>という4者共通した内容事実をそれぞれに書き表すものとなっている。(かって中国の唐時
代中~後期に伝わったキリスト教が景教と言われた所以がうなずける訳だ。そういった<情景>を教え
伝えたものだったから。)しかしながら4者の福音書における<三日目のキリスト復活・甦り>の記事
には、その4者間の比較上で、相互にくい違った記述の矛盾が表面化しているという事実は否めない。

このような矛盾、くい違いは、ある意味ではささいな事でしかないのだが、どうして生じたのか問うべ
きものともなろうか。これに関する正しい解答は、それぞれの福音書の記述作成上に関わる特殊性、そ
の成立にいたる事情特徴(作成記述者、作成年代、作成場所、作成時の様々な事情、資料状況等々)に
おいて起りうるものだとの一応の見定めの下にその理解が得られるかと思われる。だがそれぞれのそう
いった多様な特殊事情そのものを完全に通解することは容易な事ではない。例えば、<ルカ福音書>の
著述者ルカ(ラテン語名:ルカヌスあるいはルカノス)は、当時最も最有力な宣教者だったパウロに同
行した者の一人で、医者でもあったが、ユダヤ・ヘブル人ではなかった。その出自についてはシリヤの
アンティオケなのか、マケドニアのピリピ(ギリシャの東北方エーゲ海奥岸地方)の出なのか、ローマ
イタリア系の移住者だったのか、あるいはパウロが自分の出身地キリキアのタルソからカムバックした
際、その当初から随行させていたタルソの異邦人信徒だったのか、何一つ定かではないからである。

彼は、主イエスの直弟子・12使徒ではなかったから、使徒たちや当初教団内での伝承、資料を可能な
限り見聞、手元に集め利用した上での作成者であり、他の3者(マタイ、マルコ、ヨハネ)とは違って
特異的な立場にある者だったと云える。さらに簡略かい摘んでいえば、12使徒のマタイ(元収税所の
記録員)は、AD50年代頃には<主イエスの語録>の編集を成しており、60年代半ば頃にはその教
えの語録を骨格として、はや既に成立していた<マルコの福音書>を参照踏み台に、さらにそれを大々
的に補充するかたちで、ほかの諸伝承資料(生誕秘話等←母マリア証し口承や、他の使徒らの証しの伝
えなど)をもって、<彼のマタイ福音書>の編纂を成し得たようである。この編纂時には、ヘブル語か
らギリシャ語への翻訳も、その時代の流れ、教団状況をかんがみて、ほぼ同時進行的に行われたと見ら
れる。このことは、必ずしも当時の教団内で公に取り計られた事ではなかったが、彼マタイ自身の私的
使命として、自らがその編纂小サークルのリーダーとなって、この業績を可能ならしめたと思われる。

 また、これらの4つの福音書での<主イエスの復活>に関わる、相互比較上での<多少のくい違い矛
盾>の記述については、それらの表現記述のフィルターを突き破って、当時代を目の当たりにするが如
く、その事態状況の光景、様子とかを真に回想、垣間見るとすれば、どうであろうか、、、、そこには
主イエスの十字架処刑への惨憺たる事態により、11使徒達および幾多の弟子らが、心逆巻く動揺と不
安の色、激しく、主に従っていた大勢の老若男女らの悲痛なる嘆き、絶望と沈痛の感深まるばかりであ
ったろうか。救世の主、キリストを失った一団の群れの先行きもまったく断絶されたかっこうで、頭の
中は混乱錯誤、この先どう対処すべきかの方案もおぼつかない失意と焦燥の状況、それが<過ぎ越し>
の日の最後の晩餐を主と共にした後での長い一日、ペテロら側近の弟子たちの心境だったのだ。

その時、彼らは、イエスのご遺体の葬りさえ、手ずから直接行うことが出来なかった訳である。たまた
まアリマタヤのヨセフという名の金持ちで、身分の高い議員(サンヘドリン)が、ローマの総督ポンテ
オ・ピラトにかけあう事で、十字架上の亡骸を引き取り、しかもヨセフ自身が自分および一族用の墓と
して新しく設えていた洞墓に丁重に葬り納めたという訳で、この知らせを聞いた彼らは、幾分でも冷静
さを取り戻し、動転した心を静めることが出来たと見られる。 が、そんな状況もつかの間、その二日
後の朝方には新たな事件が、、<主のご遺体>が消えた→<主の甦り>という、思いもよらない事態に
遭遇、もはや彼らの頭の中、精神状態は、その混乱動転の様がピークに達する。よって、それらの日の
状況が、なかば普通どうり順序正しく記憶に留め置かれなかった、そんなところがあったとしても何ら
不思議ではないと言えよう。

そんな極度に困惑動転した最中での記憶の口承、諸史料に基づいて、何年かの時が経って後、その記述
のなされた<主の復活記事>という状況だからして、4つの福音書を比較照合すれば、そのまま<矛盾
・くい違いの文言>が浮き彫りとなって、その時そのものの状況をば、かえって暗のうちに物語ってい
るという事になったでかろうと、そんなふうに言っても過言ではなかろう。
 以下は参考までに<矛盾・くい違い>らしき章節を比較列記したものである。


   ●【よみがえりの早朝、女たちに関わる記事】


    《先ず4つの福音書それぞれから墓に行った女たち、その名について整理しておこう》
     =====================================

     ・マタイの書では:マグダラのマリヤと<ほかのマリヤ>と、2人となっている。
       (執筆年代:AD60年代~後半の間)
              *ほかのマリヤとは、ヤコブとヨセフの母マリヤと想定されるが、
               ここでは不確実な推量となる。
              *このヤコブは、小ヤコブとして、他のヤコブ(大)と区別して
               周知されている。
              *この母マリヤは、アルパヨという人の妻である。

     ・マルコの書では:マグダラのマリヤと<ヤコブの母マリヤ>と<サロメ>の3人。
      (執筆年代:AD50年代~後半の間)
              *3人の名が初めに挙げられており、その3名が揃って墓に行った
               と相定されうる。
               (ヤコブの母マリヤは ⇒ ヤコブとヨセフの母と同義、同一人)
               (サロメは ⇒ 網元漁師ゼベダイの妻で、12弟子=使徒となった
               かのヤコブ(大)とヨハネとの母である。
               =マタイの書27章56節とマルコの書15章40節に言及さ
               れた記事は同義のものであるとしている。
               <ゼベダイの子たちの母はイコール=サロメであるとの>)

     ・ルカの書では :<女たち>とあるのみで、具体的に初めに女らの名を挙げていない。
      (執筆年代:AD58~65年の間)
              *その前日の夕のうちに用意した香料香油を携えて、<女たち>が
               墓に行ったと、記しており、誰々であるかの名前については、墓
               から帰った後に改めて、その名を挙げている。(=24章10節)

               その名は、筆頭にマグダラのマリヤ、そしてヨハンナ、ヤコブ(小)
               の母マリヤと、3人の名を明記している。

              *ルカは新たにヨハンナという名を表わしているが、この女は前出の
               第8章3節で、ガリラヤ領主ヘロデの<家令クーザの妻ヨハンナ>
               と記した、その女と同一人との判断の下に挙げている。
              
     ・ヨハネの書では:<マグダラのマリヤ>一人だけ、他の女らは省略、除外されている。
      (執筆年代:AD85~90年の間)        
              *他の3書に対比して、きわめて異例なかたちで、マグダラのマリヤ
               一人だけにしぼり、彼女の特別なエピソード記事として描き記して
               いる。ペテロともう一人の弟子が<墓を確認するために出向いた>
               事情をもここで新たに明確に記す文脈となしている。
                             (もう一人の弟子とは、若いときの著者ヨハネ自身であろう。)
   
           [注]:著者は何ゆえに<マグダラのマリヤ>一人だけを浮き彫りにして、
              その歴史的事実を記したのであろうか、或いはそう記さないではい
              られない、その当時(執筆へと至る頃の年代)の時世状況の何らか
              の要因が絡んでいたのであろうか。

              70年のエルサレムの時以来、多くのユダヤ人らが各地に離散して
              ゆき、キリスト教団シナゴグへの流入も多くなり、その宗教性、宗
              教色も一様でない側面が出てきていた。ユダヤ教系の人々だけでな
              く、ギリシャ系ユダヤ人もいたりして、それぞれグループをなして
              自分らの教文書なども手がけたりしていた。その頃から後に経外典
              や偽書、偽典と言われるものが出回るようになっていったが、まだ
              異端だ、どうのこうのと、厳しい排斥、論争をなすような状況には
              至ってはいなかった。(グノーシスの異端論駁は2世紀中葉以降)

              そんな状況のなか、何かイエスの福音書風のものなども、幾つか作
              られていったが、その中でも<マグダラのマリヤの福音書>と言う
              ような書典がひときわ大いに注目を引くものとなった。といった歴
              史的背景がかもし出され、ヨハネもそれをひどく気に掛けていたと
              いう節があって、<ヨハネの書のマリヤ記事>に、その対処の心境
              と注目の度合いが反映しているのではないかとも、、、。
           
              *週の初めの日、早朝、墓に行ったのは<マグダラのマリヤ>だけに
               絞られているが、イエスが十字架に架けられたその日の刑場現場内
               近辺で見守っていた女たちの事は、ヨハネはそれを記している。=
               19章25-27節にて。この記事では、イエスに愛された弟子と
               しての自分をも、そのエピソードをもって添え加えている。

               その十字架刑場の現場においては、
               イエスの母、その姉妹、クロパの妻マリヤ、そして、マグダラの
               マリヤの4名が挙げられている。

               <イエスの母>との表示は、ヨハネの書だけの言及である。

               <その母の姉妹>についても、その言葉表現は初出である。
               この姉妹は、イエスの母の姉方と見られ、小ヤコブとヨセ(フ)と
               の母マリヤに相当し、アルパヨという人の妻でもある。
               その子らが、2人とも12弟子の一員であったと見る説があるが、
               その見かたは無理であろう。
               このヨセ(フ)をタダイの別名比定とし、同一人と見なす事ができ
               ないという、ほかの記事からの事情があるからである。

               これについて、ルカの書6章14節での<12弟子の定立>記事
               では、ほかの書で12弟子としてその名が記されているタダイを、
               ヤコブの子ユダとしているのだ。(タダイ=イコール=ユダ)
               ヨハネの書では、14章22節で、このユダが、もう一人のユダ
               として過越しの最後の晩餐に出ている。

               <クロパの妻マリヤ>は、その“クロパの妻”表現としては、初出
               のものである。
               このマリヤをルカの書での<ヨハンナ>に関連比定する説がある。
               その場合、その夫・<領主ヘロデの家令クーザ>は、ヘロデ家を
               離れて、イエスの弟子となり、名をクロパ、或いは、クローパと
               改名していると見られている。

           [注]:イエスの母なるマリアは、ヨーロッパ中世以降、<聖母マリア>
              と大いに崇められ、その久しきイメージ形象が培われてきている。
              母なるマリヤがほかのマリヤらと洞窟墓に出向いたという記述は
              四つの福音書のみならず、その他伝承、経外典からもみられない
              ものであろう。
              (イエスの母マリヤについては、<童貞マリヤ聖母>といった、
              聖なる肩書きのイメージ形象が初期キリスト教会発展後に創出さ
              れてくるわけだが、共観福音書では、神の御子イエスの聖なる、
              その特別なる出産(唯一無二のもの)後、そのマリヤのご献上の
              身体を大いにあわれみ給い、神のご償福を兼ねて、さらなる神の
              祝福、慰めを賜るかたちで、安産子宝に恵まれた幸いな女性とな
              られた。=旧約の民次元での祝福。
              主イエスには、実に4人の兄弟(ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ)
              と、2、3人と思われる姉妹が与えられるものとなる。神の子イ
              エスのご成長に欠かせない聖なる親近、刺激のある兄弟グループ
              の輪となったわけである。マタイ13章55-56、12章46、マルコ3章
              31-32、6章1-3節、ルカ8章19-20節、使徒行伝1章14節)

              近代以降のプロテスタントと異なり、長きに亘る教会伝統を重ん
              じ厳守するカトリックの教畑では、聖母マリヤへの崇拝信心が当
              たり前のように一般化したものとなった。
              そういった趨勢に後押しされたという事も無いというわけではな
              いが、驚いた事に19世紀の1854年には、ローマバチカン教
              皇庁からは、マリヤの処女懐胎は<無原罪のお宿り>であるとの
              教義が、、、、
              また近年の20世紀、1950年には、<聖母マリヤ被昇天>の
              長きに亘る崇説が、カトリック教会の正式教義として定立公示さ
              れるものとなっている。これは明らかに先の<無原罪教義>に準
              じたものと見られる。
               
              これらの前々からの通説教義の経緯には、紀元後1世紀後半から
              2世紀後半にかけて、非常に沢山な聖伝や経外典文書に相当する
              ものが創作された時代の流れがあり、80年代から90年代にか
              けて、ローマのドミティアヌス帝の禁教迫害、及びハドリアヌス
              ら5賢帝時代の2世紀中のたび重なる迫害時でも一斉焚書があっ
              たりしたが、そういった経外典文書系のものが近年、19世紀中
              葉、また20世紀中頃に次々と発見されるに至っているという事
              情が重なっている。
              それらは12使徒達らの名が付けられるということで、相当な数
              に上っている。中でも<ヤコブの原福音>、<マグダラのマリヤ
              の福音書>、<ピリポの福音書>、<ペテロやトマスの福音書>
              といったかたちで注目されうるものとなっている。

              (先の二つの教義定立は、カトリックが保有する経外典書、或い
              は古い聖伝書などに依拠していると見られるが、近年発見された
              <ヤコブの原福音>の内容からは、マリヤの<無原罪のお宿り>
              教義を定立化するにピッタシの内容記事であるのが知られる。
              <ルカ福音書のルカ>も、資料としてその原形オリジナルなもの
              に一応目を通したと言うのであれば一世紀後半のものともなる。
              その内容記事は、
              マリヤ自身の生まれも<無原罪>であり、マリヤが神の子イエス
              を処女懐胎する事態にいたる存在においてや、まさに<無原罪の
              お宿り>であらねば、教理上首尾一貫しないと見なすところの原
              義と適合一致している訳である。

              <三位一体の教理>上で、主イエスは<子なる神>であり、した
              がってイエスは<神性>を有したものとして生まれてくるわけで
              あるから、母なるマリヤが原罪の下、或いは原罪本性の存在であ
              るのは、不合理、不都合なわけで、神の御子生誕の真義に合致し
              ない、矛盾したものとなるという訳である。
              カトリックが<原罪の教義>をその神学体系の基底として堅持す
              ることからくる、その大いなる要請解釈により、そのような<マ
              リヤの無原罪のお宿り>が正統な教会教義として成り立ちうるも
              のとなっている。)               
   以上、上記を踏まえて以下へ、重複する点もあるが、。
       マタイの書・・・・・①28章 1-7 :”マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。、、”             この時、墓に行ったのは、<2人だけ>という記述となっている。、、、、             み使いから<事の説明>と弟子たちへの<伝言>(=ガリラヤで会えると             の)を受ける。            ② 同 8-11 :弟子たちに知らせるため、墓を離れ、その途中で、主イエスに             出会う。             この時には、イエスご自身から弟子たちへの伝言<ガリラヤに行くように、             そこで会える>とのお言葉を直に受ける。  マルコの書・・・・・①16章 1-8 :”、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、”で、             3人の名が記されている。だが、その3人が揃って墓に行ったかは、明確に             は断定できない。            *安息日が終わった夕刻(当時のユダヤでは一日の終わりは夕刻であり、そこ             から次の日の始めとなる)以後、<3人>が香料を買い求めていた事は、確             かである。だが、一夜明けたその<週の初め>の早朝では、その3人のうち             の1人(サメロ)が行けなくて、2人だけが墓に出向いたという見方が正し             いかも知れない。(その文節からつい、3人が出向いたと思われがちだが、             2人とすれば、上記マタイの①文節と一致するわけだ。)             この記事では、墓の入り口を閉じた丸い大石がすでにころがしてあったと、             マタイの書とは違った記述がされ、また、見張り番のローマ兵に言及した文             言も見られない。            *み使い(青年の天使)の言葉に関しては、ほぼその意味内容は、マタイの書             と同じと見なし得るものだ。しかし、伝言を受けたその女たちは、恐れおの             のきながら、墓から逃げ去り、すぐには人に何も告げなかったとある。             そして、墓から離れ去った途中での<主イエス>との出会い記事もない。             [マルコの書そのものの問題点]             --------------              この書のコンテキスト(ヘブル文字によるアラム語原典)が、この16章8             節までのもの(未完のまま?)であったらしい。それで途中で途切れたかの             ごとく、そこでの記述は、それにて終了されたものなのか、それともまだ続             きを記すはずのものだったのか、という何か曖昧な余韻を残す終部となり、             それが、後日ギリシャ語に訳された同じ頃合いに、その続きとしての<追加             文(9節から20節まで)>が付加されたとの原典成立解釈がある。             この追加文は、確かに文体の形質が異なるようで、ルカやヨハネの書からの             要約説明文のような感じのする文言で、やはりその2書との関係の相合いを             計り補充するものと見なされ得る。             以下②では、この追加文での<女・マグダラのマリヤ>についてだけ記され             たるを見るものである。            ② 同 9-11:この追加の文節では、甦られた主イエスが 最初にご自身を現わ             されたのは、マグダラのマリヤだと記しており、マタイの書での記述とは異             なっている。マタイでは、上述したように”知らせに急いで行く途中に<他             のマリヤと一緒>に主に出会い、拝したという記事になっているから、、             また、この節での文言と、上の①1節以下での複数の女たちと一緒であった             マグダラのマリヤとの記事との間でも、何かつじ褄が合わないように思えた             りもする。             (ここで、仮にマタイ、マルコ、ルカの3書において、それぞれ中心となっ             た2、3の女の名だけを文節上に記しただけで、その彼女らに随行した他の             女らも3、4人いたのでは、ということも推定出来なくはない。ルカの書:             24章10節の文言でそれが可能となる。             そう拡大推定すれば、その時マグダラのマリヤだけが、墓から逃げ去ったり             はしないで、一人墓の前に留まっていたとの想定も可能となる。その一人に             なっていた時、甦られた主イエスが、一番最初に彼女に御姿をお示しになら             れたとのこと。             そのことの事実を、ヨハネが後に自分の著わす福音書で取り上げることにな             り、その状景を手際よく描いたと見なすことも出来る。             そこでの、ヨハネの書では、先に知らせに行った女たちの言い分では、なか             なか信じようとしなかった弟子たちの事を全く伏せおいて、マグダラのマリ             ヤただ一人だけが墓にいった事からそのエピソード部分記事も書き起こして             いる。他の女たち以外にあとから再度、マグダラのマリヤにより知らせを受             けた事を踏まえて、そのマリヤの一人記事に仕立て、彼女の知らせをして、             ペテロや、愛弟子だった若者ヨハネの心を動かすものとなり、急きょ彼らが             墓に向かったという文面の筋書きとなっている。またヨハネのその文面では             ペテロと若者が墓から立ち去った後に、マリヤが2人の御使い、そして、復             活の主イエスの顕現に遭遇したかたちで、その事蹟を書き留めている。)             だが、、マルコでのその追加文では、マリヤの知らせた事、言った事を弟子             ら皆は、悲嘆に暮れるばかりで、主が甦られたことを全然信じようとしなか             ったという、当初のあり得ないとの否定の様子を思わせる筋書きとしている。                                                                     ルカの書・・・・・・①24章1-10:ここでは”週の初めの日、夜明け前に <女たち>は、、、墓に             行った。”と記され、この章の初めのところでは、女たちの名前を挙げて、             彼女らを特定していないが、10節の文言でようやく、<マグダラのマリヤ、             ヨハンナ、ヤコブの母マリヤ>と、3人の名を記している。            *マルコの書では、3名の名が見られるが、そのサロメが別名でのヨハンナと             同一人という事ならば、マルコの書での3人の女と一致する事になる。             だが、サロメをゼベダイの子であるヤコブ(大)とヨハネの母とする説があ             り、この説に従えば、マルコの書とくい違いが見られるものとなる。             因みにヨハンナは ヘロデ(ガリラヤの領主BC4-AD39)の家令クーザの妻で             あり(ルカ8章3節)何せ領主ヘロデの家門につらなっていた者として、通称             <サロメ>と、あだ名で呼ばれていたとの見方も可能となろう。            *ここでは、み使い(青年天使)は、2人になっている。前2書は、何も人数             を特定していないが、1人だけのような文言となっている。また、み使いの             言葉も<甦りに至った事への説明>に重点が置かれ、伝言としての<ガリラ             ヤで主に会える>などのメッセージの言葉を、ルカは記していない。            ② 同 9:この節では ”墓から帰って、、、いっさいのことを、、報告した”             で済まされており、女たちが急ぎ帰る途中で、主イエスに出会った事への言             及の記述は一切ない。  ヨハネの書・・・・・①20章1-10:この章節では ”マグダラのマリヤが墓にゆくと、、、”の表記             にて、他の女らの関わり同行がオミットされ、マグダラのマリヤ一人だけの             行動として記されている。よって上記の3つの書とは、単数か複数かの違い             が出てくるわけだ。しかし、事はそれだけで済む内容のものではない。             この書の著者ヨハネは、意図的にマグダラのマリヤだけを引き合いに出して             弟子のペテロと<イエスが愛しておられた一番若いもう一人の弟子>(実は             この弟子は著者のヨハネ自身である訳だが、=21章24節= 彼は自分の名を             この書に一度も表記していない。)の対応・振る舞いを優先的に描写してい             る。ほかの書では、ルカだけがごく簡単に<ペテロの行動>に触れるのみで             あるが、そのルカ24章12節のそれは、後日追加されたもの、ルカ本来の原             書時点では、無かった文言とも推定されうるものだ。(それの無い異写本が             本来の原書と同じと見る見方だが。)            *ここでは、さらに先に挙げたマタイの書での、<女たちが墓から立ち去り、             知らせに行く途中で、主イエスに出会い、拝し、また伝言をも受けた>との             記事と一致、あるいは類似するような表示もさらさら無い。かえって、この             件に関して、マタイとヨハネの書の間で、ひどく矛盾が起っているとさえ言             える。ヨハネは主の墓に関わる、ずっと以前の自分の経験と、自分が知り得             たマリヤ情報をもって、その真実を述べたことであろうが、何かマタイの書             のものに対して、意図的に対異を示しているのではないかとも推量される。             (この考えは、もしマルコの書が、実はヨハネがまだ若かった時、故あって、             <マルコの名>でもって、記したものとするならば、、、これが、ヘロデ王             の迫害時(使徒行伝第12章:AD44/45年頃)以降、教会の緊迫した状況にて、             その著述が中断し、未だ結尾の部分が完了しないまま保留されていったと、             その間にマタイがそれを大いに参考にし、利用したとの史実解釈である。             因みにヨハネが、自分自らの実名よる福音書を公にすると共に、<マルコの             書>への<追加記述>も、彼自らが為していると思われる。ヨハネとマルコ             の書の同一人著者説に関しての考証は別のところで述べてみたい。)             ここでは、以下②で述べるごとく、ヨハネは、マグダラのマリヤを前面に立             てて、主イエスご復活時の墓所での光景を、ほかの書では見られなかった、             独自で、新たなものとして記す。                                                           ② 同11-18:ここでは マリヤがペテロともう一人の弟子に知らせた後、再び             急ぎ彼らと共に墓に戻って、しかも、ペテロらが墓穴の中の安置場所をよく             調べ確かめて帰った後、なお一人でその墓所に居残っていたマリヤに起った             出来事として、その事跡を記すものである。             つまり、マタイ、マルコ、ルカの3つの書は、墓に行ったその矢先に墓の入             り口或いはその中で、み使いのお出ましに会っているが、ヨハネの書では、             そういった類の記述とは同じでない、明白に異なった感じの光景を、そのマ             リヤ体験として描き記している。             <マグダラのマリヤは、居残ったその墓所で、2人の御使いと、甦られた主             イエスにほぼ同時的に出会う事となった。> そして、主から直接伝言を託             され、弟子ら仲間のところに戻って行き、そのすべての事を話す事となった             と言う訳である。            *先の3つの書(マタイ、マルコ、ルカ)での、<マグダラのマリヤと他の女             たち>に関わる記述は、ヨハネの書での<マリヤ>の行動立場からして、ど             のように受けとめ、推論対処すべきものだろうか。             マグダラのマリヤを取りまく<女たちの羨望、主イエスへの確執>が、ある             面でその事実真相をゆがめ被うかたちで、先の3者への個々の情報ファクト             となり、それぞれその記述上に表面化してきたものだと言うものだろうか。                         *女たちが墓に行き、もし主のご遺体が墓の中に何の変わりようもなく置かれ             ていたとしたら、彼女らはその体をきれいに拭い整え、用意した香料、香油             などで、悲しみのうちに手厚く慰め惜しむ弔いをなした事であろう。そんな             ふうにご遺体が墓の中に置かれ留まるとしたら、ミイラとなって発見されう             ることさえあり得ると、見なしてもおかしくない。             主イエスの甦りがなくて、遺体が墓の中にあったとしたら、キリスト教の成             立も、その発展もまったく在りえないものとなり、また、現代という人間世             界へと至る世界史の過去の流れさえもなかったことになろう。     
   ●【甦られた主イエスの会現、弟子たちに関わる記事】  マタイの書・・・・・①28章16-17 :この書では、先に女たちが受けた<指示伝言>の如く、11             弟子らは、その後ガリラヤへ行き、命じられた山で復活の主イエスに会い、             最重要な<明言と召命託宣>を授かった事が簡潔に記されている。             ガリラヤでの会拝だけに触れた弟子たち記事は、このマタイ書のみである。             だが、他の書、ヨハネの書のみだが、その書での<ガリラヤの海辺>での主             イエスとの出来事を考慮すると、このマタイの記事は、ヨハネの記事のもの             のあとに取り仕切られたものだと断定されよう。(ヨハネの書の項参照)            *ここでは、マルコの書の<女たちへの伝言>とも相応するようなかたちで、             ガリラヤでの再会のみしか記されておらず、かの三日目に甦られたその当日             など、エルサレム界隈での弟子たちの事は何一つ記されていない。その代わ             りと見るべきか、他の三つの書には記されていない記事ある。それは、墓の             番人役の兵卒らがそこでの異常事態、イエスの死体が消えうせた、、などの             事をユダヤ人祭司長らに告げたが、その事態への悪知恵対応策が計られた事             で、弟子たち、および一団に不利益な誤解を招かない為に、そういった謀り             事をした外的な者達についての<伝え話>を記すに至っている。(甦りの前             日から兵卒番人らが交代で寝ずの番をなしていたにも拘わらず、<弟子たち             が主イエスの死体をひそかに墓から盗み出し、どこかに隠した>というデマ             噂が流れ広まり、マタイがこの福音書を著わす時代の頃までも、以前、まこ             としやかに囁かれていたというから、当時の祭司長ら、パリサイ派の根回し             策謀の邪悪さ、その心の不信仰の罪深さがうかがい知れると言うものか。)  マルコの書・・・・・①16章12-13と14-20節の2ヶ所の記事に言及:             これらの文言部分は、最初に成立した<原典テキスト>に属するものではな             くて、時代を3、40年ほど下った後に加筆された<追加文>としてのもの             で、先に上述した【女たちに関わる、、、】項目部分で触れた<マグダラの             マリヤ>への言及のものと合わせて、その追加文の全体を構成しているもの             である。            *先ずさき出の記事(12-13)は<主の甦られたその日>の午後、夕方近くに             弟子の2人が体験した事を、手短に簡略表示したものである。この出来事と             同一であると比定される記事が、他の一書、即ちルカの書に、かなり詳しい             文面内容として出ている。(ルカにとっては<主の復活>に関連したその諸             事においては、それを異例なほどに主要部分として位置づけ表示している。             ルカの書24章13節から35節にかけてがそれに当たる。通称 <エマオ途上の             物語>と言われるほどで、2人の弟子への主イエス出現遭遇の出来事として、             詳しく記されている。)従ってマルコの書でのこの簡略記事のソースは、ル             カの書のものに由来すると見なしても間違いなかろう。ルカの書でのその大             々的な記事を考慮しての簡略追加であったと断定できよう。だが、ここでも             ルカの筋書きとは、裏腹に<他の人々(弟子たち)は信じなかった>という             相反する様子を伝える筋書きでもって略書きされている。            *つぎの14-20節も他の3書を参照しながら、特にマタイやルカのものに共観             を得させることで、このマルコの書が最も最初期(弟子達の一団が福音宣教             を始めて後)に成立したことを暗に認めさせるような文内容を加味し、さら             には、主が共にいます宣教活動の経過をも踏まえたような表現でもって、こ             の要約追加文を、この書の結尾部分となるかたちで付加ならしめている。             だが、ここで主イエスが11弟子に語られた言葉の一字一句は、他の書には             見られない、マルコの書にだけある特有さを表わすものと評価されよう。            *マルコの書には、<ガリラヤでの主との再会>記事は何一つ記されていない。             ガリラヤでの再会記事は、先に上述したマタイの書と、後で言及することに             なるヨハネの書の2書だけである。  ルカの書・・・・・・①24章13-35 & 36-53節での一連的な記事:             この書の著者・ルカは、その最終章の24章で、主イエスの復活に関わる出             来事を<甦られた当日>その日の内にすべて集約集中するかたちで、ひとつ             の大きな流れのうちに関連付けて、すべてをまとめ書きしている。しかも、             ガリラヤ行き、ガリラヤでの会拝記事など一切記されていない。あたかも、             復活後、2日余りの事のごとくに集約記述されている。             <マグダラのマリヤら女たちでの出来事>が<エマオ村への途上2弟子>の             件に関連付けられ、その彼ら2人が復活された主イエスだと気づくや、すぐ              にエルサレムに引き返し、11弟子らへの報告の知らせにて合流する。彼ら             が話している最中に、主イエスが再び現れなさって、ご自分であることを示             され、主ご自身の口から<受難の十字架刑と甦り>は、元々聖書の諸書で、             預言されていた事で、その真義は、神が救いのために<罪のゆるし>を得さ             せる悔い改めへの<力源本尊>として建てられた、神の救いの力の<活ける             原理>だという事を、イエスがやさしくお説きになり、さらに予ねての約束             預言どうり、<聖霊とその力>が与えられる事へのメッセージを下された記             事となっている。             (この時のメッセージでは ”あなたがたは都にとどまっていなさい。”と             いう言葉を記すことで終わっているわけだが、この言葉だけに固守すると、             11弟子らの<ガリラヤ>へ行っての主イエスとの会拝記事・<マタイとヨ             ハネの書>とは、どうなってるの、矛盾しているようだけど、という事にな             りかねない。)             (因みに都エルサレムからガリラヤ湖辺までの道のりは約100km前後、             当時の旅では、4、5日ほど要すると思われる。主イエスの復活から昇天ま             での期間は、40日間ほどと記されている。その間の前半時期でのガリラヤ             会拝、凡そ20日前後以内と見れば良い。ヨハネの記事では、8日-10日             前後までエルサレムにいたことが知られうるから。その後、再びエルサレム             に戻り、言われたように都中に留まったということになろう。)     【地図参照】             そして、この記事の続きとしての最後の結びの場として、主イエスは、彼ら             弟子たちをベタニヤという村近く(エルサレムから3kmほど郊外のオリー             ブ山の山腹辺)まで引率され、そこでの彼らへの最後の祝福、そして、主イ             エスの当在世時での<最終昇天という事跡>のものとして記すかたちのニュ             アンスをもって、このルカの書が閉じられるものとなる。実際、文面の流れ             自体からすれば、その翌日の午前中での昇天というのが妥当な筋道と思われ             るわけだが、、             (このルカの書は、ルカ本人の第一巻のものとして著されており、その最終             章の結び記述部分が、第二巻の<使徒行伝>書、第1章6-14節で記され             た描写記事へと続くような、関連付けがなされていると見られる。)            *この書での<主イエスの甦り後の出現>に関しては、<ガリラヤでの会現>             の事跡には一切触れられていないということで、ほかの3書(特にマタイ、             ヨハネの2書)との違いが顕著となっている。御使いによるその事前メッセ             ージの言も記されていないから、あえてそれらをオミットし、一所、一時的             にまとめ上げたという志向性があったと思われる。その意図したところは、             この書を手にとって読む人(異邦人向けの人々)の側に、またその善的配慮             (わかり易さ、明快さ)に依拠しての事だろう。                         *この書と第二書となる<使徒行伝>も共に、テオピロという名の何か社会的             に高貴な方に差し向けて、著作されたものであることが、それぞれの書の冒             頭・第1章の序文部分から知られうる。この意味合い線上で、彼の両書は、              ユダヤ人向けと言うよりか、すべての異邦人を対象として、わかり易く、理             解しやすく書き記されたものとなっている。(ギリシャ語ヘレニズム文化圏             において)<テオピロ閣下>は、異邦人の人らしく、ローマ配下の地方高官             か、あるいはルカの故郷での既知の貴族子息(の高官)であったろうか、で             あろうが、はっきりとした人となりは不明である。ルカよりも数年、年下で             あったとの推察がなされ得る。  ヨハネの書・・・・・①20章19~21章1-23節の広範囲な文言における弟子たちの様子:             この書で著者ヨハネは、主の復活に関して先の表目で述べたように、マグダ             ラのマリヤだけに限定した事柄として、事の初めを記述している。しかも、             他の3書には見られない<描写表現のリアル>さが、浮き彫りなる面もあり、             単なる記事表現の枠を超えていると言える。             (こういった感じの記述は、ルカの<エマオ村への2人の弟子の会話>記事             でも見られるが、ヨハネは、この描写記事を暗黙のうちに意識して、女たち             に関わるマリヤの件への援用をなすかたちをとったのでは、、と思えなくは             ない。)             そのマリヤ記事のすぐ後、続いて弟子らの様子を伝えるものとなる訳だが、             ここではエルサレム市中とガリラヤ(テベリヤ湖)の海べでの二様の状況を             表示しているという事で、他の3書にはない特質を示している。また、主イ             エスの復活・出現に関わる記事としては、4書中、このヨハネ書に記された             ものが最も長いものとなっている。            *19~25節部分では ”その日、すなわち”と記し始めているが、マリヤが早             朝、甦られた主イエスに会った、その当日であり、日付が一週の第2日目へ             と変わる日没時刻へと近づいている、その夕方での状況を、語っているもの             である。この部分と類比した記事が、マルコとルカの書に見られるが、マル             コのものは、ルカのものを後で参照要約した<追加文>という傾向を匂わす             もので、その相違は歴然である。ルカの書との対比においては、<エマオ途             上での2人の弟子>の出来事の後、彼らがエルサレムに戻ってからの事で、             その状況からして、とても急いで帰ったということだから、ちょうど日没の             頃の時刻となろうか、、この時間的な意味合いならば、ルカのものと一致す             ると思われる。             (もし2弟子が、宿での主イエスとの会食が遅くになされたものであったな             らば、ヨハネの記したものと、ルカのものとは別個のものとなる。そうなれ             ば、ルカの記事は、2度目のものということになる。)             ここでの特長は、室内に主イエスが現われなさった時、12弟子の一人で、             その場にい合わせなかった者の<名(デドモと呼ばれるトマス)>を具体的             に挙げて、その場にいなかった事に対する彼の立場、事実状況をとらえて、             その時の彼の心の反応、心境を巧みに描写することで、他の書には決して見             られない内容のものとなしている。            *26~29節部分では、その ”八日ののち、、、云々 ”ということで、引き             続いて、かの居合わせなかった弟子、頑強なまでに(その目で見て、しかも             手の釘あとに指を、その脇あとに手を差し入れて確かめなければ)決して信             じないと言い張った<トマス>に関わりを持たせたもので、今度は彼も居合             わせるという状況下での、再度の主イエス出現の様子を記すものである。             この時の主イエスのトマスへの応対ぶり、また、彼への言葉は、個対個のパ             ーソナルな対話として、実にありありと、表わされており、ヨハネならでは             の描写記事の特質となっている。             (主イエスのトマスへの言葉は、単に個としての彼に対してだけのものにあ             らず、即、グローバルな人々に対するものでもあるといった強い感じがする             もので、実に印象深いもの、その状景をして、非常に重みのある言葉となり             得ている。”あなたは、私を見たので、信じたのか、見ないで信じる者は、             さいわいである。”と、、、この部分を受けて、30、31節では、この書             への説明書き、意義書きがなされている。)            *21章1~23節までの部分:八日の日が過ぎた、”そののち、”ということで、             しかも、前回2度にわたるエルサレム市中でのことではなくて、ガリラヤ、             その海辺(ガリラヤの海ともテベリヤの海とも言われていたが、ルカの書で             はまた、ゲネサレという別名も用いられている。その湖は、古代からずっと             時代と共に呼び名が変わってきている。モーセの時代頃からはキンネレテと             いう土地の名のもとに呼ばれていた。琴の海の意ともなる。)での、主イエ                  ス出現の模様を記事したものとなっている。     【地図参照】             この1節からの記事、弟子らの行動の様子に関する限り、一見、場違いな印             象すら受けるようだ。それでもここでは、そんな彼らに対する主イエスの出             現がどんなであったかを伝えるものとなっている。             エルサレムでの場合のように、なにか緊迫した、張りつめた状況下とは打っ             て変わって、何だかとっぴで、事の経緯と合わない、そんな弟子たちの行動             に、いやはや、のんびりムードな漁猟とは、と思われがちである。             旅なれた彼ら(11弟子+数人あまり)にとって、1、2年前後、あるいは             数年ぶりかのガリラヤ帰還であったろうか、、ある程度の旅先への食料は、             用意していたであろうが、ガリラヤへ着いた頃には、さかなの干物もなくな             り、日々の糧の事も、いま少々の間であるが、、ということで、リーダー格             のペテロが漁に行くことにしたわけだ。それで7人余りが船に乗り込んで、             漁をするという状況となったようだ。夕方から夜間にかけて漁をしたが、お             ろした網には何も掛からず、結局その夜は、そのまま錨を降ろして船腹で枕             するはめに、夜明け頃、岸辺に立たれた主イエスに声を掛けられ、お会いす             るあんばいになったというのが、この記事の前半の部分(1~14節)で、             <主による朝の食事の状景>までも伝えているところである。(著者ヨハネ             は、その14節で、主のご出現は、これで、すでに三回目だと、自らの書に             それらを記すことでもって、限定表示している。それ故、ルカの書の記事も             これに順ずる範囲内のものであろうか、それともヨハネに見落としがあった                  ということだろうか。)             15節以下は、その朝の食事後のことを伝えるものであるが、著者ヨハネが             この書の最後の締めくくりとした場面が、主イエスのシモン・ペテロへの三             度の問いかけ、12使徒仲間の中心となる彼ペテロとの対話というかたちの             ものを追憶のうちに思い浮かべて伝え記したと言う事となる。とにかく、か             なりラフな感じでの主イエスとの交わりの場であったと思われる。             著者ヨハネがこれを記したのは、推定AD85年以降90年前後のことで、             この時すでにペテロはこの世を去って年を経ていたが、その彼を偲びつつ、             そのガリラヤ湖畔当時での彼の立場を題材的に活かし、主イエスから求めら             れる<愛>とは何か、その教訓を示すものとしている。弟子のペテロが、大             祭司カヤパの邸宅中庭で、鶏が鳴く前に三度、主イエスを知らないと否定し             た、その事と対称的にタイアップした格好での、主の新たな問いかけでもあ                 り、また、重責な任務(信徒の群れへの養い)への召命委任というかたちを             示唆するものだから、ペテロの心意心底への言葉の意味は計り知れないもの             となる。(主が三度もペテロに念を押している、人の心は、定かならないも             の、これが人の生まれ持った自然の本性だからである。)             著者ヨハネ自身は、これによって、<主を信じることは、主を愛することで                         ある。主を愛することは、ひとえに兄弟を愛し合うことだ。>という教団の             あり方の倫理を旨とし、標榜したと思われる。当時すでにセクト的な傾向が             教団教会内に漂っていたであろうか、、パウロやルカ(マタイ)らからの流             れを汲む<教条主義>に傾く連中(教職者、長老、信徒ら)が出始めていた             と見られる。(初期のギリシャ系ユダヤ人、異邦人問題から、このセクト的             問題、そして、これに絡んで異端問題が教条的に生じて行くものとなる。だ             が、その一方で教会キリスト教神学の著しい発展の端緒をこのヨハネの書に             絡んで見出しうるものとなる。)                    **注:ヨハネの書は、前の三つの書(これらを共観福音書と云うが)とは、似ても             似つかないほど違っており、イエスの御姿、イエス像のイメージも異なった             印象を与えうるものである。             共観福音書の3書は、その書き始めの冒頭では、それぞれに意義豊かな固有                性を示す文言でもって初書きされている。                                                   ・マタイは、その先祖の血筋系として<レビの家系>に属するものだか               ら、<アブラハムから始まるダビデの子、イエス・キリストの系図>               と、選民ユダヤの系図的歴史性でもって、、、              ・マルコは、若々しく重みのある率直さをもって、ありのままその事実               を述べるべく、<神の子イエス・キリストの福音のはじめ。>と、名               打つかたちで、、、               この言には、なにか厳然とした原初的な感銘さを表出する。              ・ルカは、自ら置かれた立場からして、その著さんとする書の由縁の動               機付けなり、著述手順なりの上奏的な文言でもって、、、                            それぞれ3書は冒頭から、その個性を彷彿としているが、マタイは、1章、             2章において、イエス生誕の経緯と、最幼児期の時代的な成りゆきでの厳し                     い様子を伝え、ルカもまた2章にわたって、別の視点から、別伝承資料でも             って、イエス生誕ばかりでなく、バプテスマのヨハネの生誕をも関連付け、             また初子の儀やその時の宮での出来事、12才になった少年イエスのエピソ             ードまでも加え、長々と書き増し綴っている。そして、その2書は、その後             マルコの書での最初の記事の内容と同じ時点、いわゆる<福音のはじめ>と             してのバプテスマ(洗礼者)のヨハネの事跡を展開する。このところから3             書は、その共観たる所以の、共通記述部分を随処に示すものとして、それぞ             れがその著の成立の展開をなしている。その場合、この三つの共観福音書で             の主イエスの公生涯活動の記述が示す、その足跡のエリヤと拠点は、共に、             ガリラヤの全地方及びその辺隣地方(ツロ、シドン、ピリポ・カイザリアと             山、デカポリスなど)であり、ご自分の住まいとされたガリラヤ海沿いの町             カペナウムとその海辺を拠点とされたものとなっている。近隣、船行、対岸             の小高い山稜における記事内容を含めて、そういった地域に絞り込まれたか             たちの記事様式に対して、ユダヤの都・エルサレムでの活動は、最後の晩餐             記事でも知られるごとく、十字架の時での、その最後の<過越の祭り>の時             期、及びその時期への途上、他のユダヤ地域(近郊のベタニア、エリコに近             いヨルダン東岸、西側エフライム丘陵)のみを最終事跡として記している。             そのようにあたかも最終一回限りのエルサレム途上という盛り上がり形式を             意図することによって、主イエスの公生涯の最終クライマックス、その十字             架への死と復活というご使命のいきさつ状況を、ユダヤ三大祭の最重要な祭             の一つ、<過越し祭>の前夜、その初日の場にありて、より印象深くなるよ             うな仕方、方向付けでもって書き記すものとなる。ところが、     【地図参照】             ヨハネの文書に関しては、全体的にもそういった共観3書の様式範疇外の異             なったものと見なす他ない。いわゆる独立した別方式での一書として、共観             3福音書では著し得なかったところ、あるいは、欠けたるところの別異な事             相表示のものとして、先に成立した共観3書を大いに補充バックアップして             いる。また、ギリシャ語文化圏でのその時代思潮にも十分に応え、新風を投             ずる如くに、この書の成り立ち、その存在意義を完成させていると云える。             共観福音書3書との比較対象として、このヨハネ福音書の特質的なスタイル             構成、根底的なスタイルモチーフを云えば、以下のごとくに概略できよう。             (イ、ロ、ハ、の項目における解説にて。)             イ)マルコの書以外の2つの共観福音書、マタイとルカの書では、主イエス               の存在起源そのものをマリヤという一女性の胎、その胎内懐妊によるこ                    とからの生誕に依拠したものとして、それに関わる記事を記している。               あくまでも預言されていたメシヤ(救い主)、神の子は、その一人の女               性から生まれ出ることによって、その時はじめてその存在が成立したと               いう現実をあますところなく、また執拗なまでに書き明かしている。               一方、ヨハネの書では、それら2書とはまったく異なりを大きくする。               その文言冒頭から、前2書が書き示した現実とはまったく異なる見方の               次元から、主イエスの存在そのものの起源に迫り、その<存在原初>を               明言、あかしするものとなっている。いわゆる<ロゴス・キリスト論>               の端緒となった啓示明言に依るものだ。               (現代的に言えば、宇宙の始原が未だ始まらない以前の、その<初め>               にロゴス(ことば)があったという存在次元のもの、或いは神の被造物               たる万物一切世界の存在始原、成り立ち根源を活けるロゴスに置くもの               である。)               著者ヨハネは何ゆえ、メシヤなる神の子イエス、その存在を永遠からの               <ロゴス>と表示し得たものとなったのか、、、、これについては、               プラトンの<イデア思想>との出会いがあったと見られうる。だが、彼               は、決してその思想にかぶれたわけではない。<イデア=>なる語を               <ロゴス=>に単に置き換えたというものではなかった。               彼は、旧約の神と神の言葉に厳然と立脚しているものであったから、む               しろ、プラトン・イデア説の外枠的な素容様式を用いることで、主イエ               スの存在に絶大なる新たな光を見い出し、その真髄奥義が表明啓示され               るものとなった。この新たな光をベースに思想豊かにイエスの事蹟史実                       を記すことが出来たと言えそうだ。(ロゴスの受肉説)               このヨハネは、かって主イエスの12使徒の仲間として選ばれ、二十歳               にもならない年若の青年ゆえに物義をかもしたが、主が愛された<愛弟               子>だということで、皆に黙認されていた。だが、結局彼は、主イエス               の昇天以降の初期の教団発展のなかで、12使徒の一人として、ほとん               どその役目の独り立ち、自立した貢献をなすことなく、実質的に使徒で               はなくなっていた。また名目的にも忘れられたような存在になった。               彼自身も、使徒としての自分の名・ヨハネを恥じ入る如くに捨て、幼年               以来の通称名・マルコで通すことを良しとしたからである。これは、ヘ               ロデ王の厳しい教団迫害のおり、兄のヤコブが殺され、その手がペテロ               にまで及んだという状況下にあって、先に教団の取った対処処置として               かなり効ある安全策でもあった。               その後、主イエスの母・マリヤ及び女たちへの守役、世話配慮が以前よ               り一層忙しくなる時期もあったりして、そういった方面での務めにいそ                  しむものとなった。この頃から、かって十字架上での主イエスの言葉、               (書の19:26-27) 主の母と自分とに向けられた言葉が、妙に謎めいた、               深く心に憶測めいたものとして響きよみがえるものとなった。               (だが、十字架上の主イエスが、ご自分の母マリヤに若者ヨハネをきつ               く結び付けたのは、やがて彼の兄・ヤコブが12使徒のうちで、一番最               初に同じ杯(殉教)をのむことになる、そのことを間じかに予知されて               おられ、ヨハネにはそんな事がないように仕向けられたと見られる。               また、ヨハネにはそのエルサレムへの途上、ヨルダン川に近いエリコ辺               り、非常に心が傷つき、後々までもトラウマのようになったエピソード               が起こっている。兄・ヤコブも同様にひどく傷つき、その最初の殉教の                      死への意識要因となったかも、、、、               ヤコブは、イエスの云われた杯を偽り無く実行したとも、、、。                            ヨハネは、マルコの書:10章35節以下で、それを記しているが、自               分の母親(サロメ)を引き合いに出して記すようなことは避けている。               母がさらに傷つき恥さらしにならないようにである。ところが、後に、               マタイが記した福音書では、ヨハネら兄弟が母親サロメに尻を叩かれ、               そのエピソード事蹟を起こしたものとして知るしている。これは、ヨハ               ネへの善的な配慮であったかどうかはマタイ自身の執筆時の状況次第と               なるが、、とにかくその折に、ヤコブ、ヨハネの兄弟は、もはや人前に               出られないほど、ほかの弟子ら周囲の人々へ印象付けるものとなり、自               らひどく傷つき、躓いたとみられる。               ヨハネは、主イエスの配慮により、選ばれて12弟子中、最後まで生き                   残ったが、使徒である事を全く伏せ、知られるようにすることなく、最               後まで、その老年期になって、<主の僕シモベ>として、長老ヨハネとし               て生きるものとなっている。)               さらにはヨハネの書・1章38-40(自分の名を隠しているが)で見られ               るように、               主イエスとのフレンディーな親交のうちに一夜の泊での語らい、その頃               自分が<遊学>の身であったこと、エルサレムでの律法学徒ではなく、               自由にギリシャ語を学び、その文化に触れるものであったことなど、色               々団らんした際、主がその時、自分にそれとなく<暗示>をお掛けにな               り、<主イエスご自身を描く>ような方向付けをなされ、自分をそのよ               うなかたちで、いち早くすでに選んでおられた事に深く感銘自覚するも               のとなる。               (この頃の主イエスとの私的な出会いのような時には、マルコの名の方               で、自らは馴染んでいたようだ。結局、ヨハネの名は、別の福音書中で               用いられるものとなっている。後のマタイもルカも、その               名、ヨハネを用いてそれぞれ福音書を著しているが。)               そういった彼ヨハネの外的、身辺事情、心の内的変化があって、彼の人               生は、新たな歩みを加えるものとなっていった。               彼は、終生主イエスの母・マリヤを見守り世話する傍ら、思念に思念を               重ね、考えに考え抜いたことがあったであったろう。それほどに彼にと               って、主イエスと、彼を産んだ母マリヤとの存在関係の事柄は、切実極               まりない現実問題となっていたのだった。               マリヤの<聖霊による懐妊>、その事実を認めてはいるが、母マリヤと               主イエスとの2人の間の存在のギャップが目の当たりに大きくのし掛か               り、十字架上での激痛のさなか、主が<自分をマリヤの子である>と発               せられたこと、その自分とのすり替えは、何を意味するのか、、たとえ               自分がマリヤの腹から産まれたとしても、自分は、その自分、普通の自               分であるに過ぎない。               主イエスの身元近くにいつも付き添い、その大いなる存在を見させられ               続け、眼に焼きついたその公生涯期、ただ単に<聖霊懐妊の神の子>だ               というだけの証し言葉で、そのまますんなり済まされるようなものでは               ないと、、、主イエスは、この私をはじめ(12使徒を立てる前から)               から選んで、この大いなる問題における<主イエスの存在>を描くよう               にと、その天命を課せられたのだと、、遂にヨハネは、そう確信するに               いったことであろう。               しかして、彼のそういった事情過程が、ヨハネの書第1章1-18節の文言               での、<ロゴス・キリスト>という存在形姿が生まれる動機の因縁とな               ったものと云えるようだ。               (ヨハネは、マルコと名のり、教団や女たちからもそう呼ばれるように               なっていったから、やがて後に活躍するパウロやルカたちには、まった               く、当時の12使徒の一人として、認知されるものとならず、彼らとの               間には人物誤認の錯誤が生じていたようだ。使徒行伝書のルカは、ただ               口承資料でもって、第3章1節以下や8章14節を記し、12章25節               では、マルコがかって12使徒の一人、ヨハネだったことをまったく知               らないでいた。いとこ関係のバルナバ(後から呼ばれた名で、元はヨセ               フと言う。=使徒行第4章36節)でさえ、マルコが12使徒のうちの一               人だとは、気づいていなかった。ペテロを補助する若者だと思って。               また、のちの福音書、使徒行伝の著者ルカが、マルコことヨハネに初め               て出会うのは、AD44年前後、バルナバがパウロと共にエルサレムか               らアンテオケ教団に帰った時、以降であり、この折り、バルナバらは、               マルコを伴っており、そのアンテオケにはいまだ新入りのルカがいたと               の推量がなされうる。彼も、マルコがかっての12弟子のヨハネとは、               まったく知る義もない。)               また、パウロは、バルナバと共に異邦人問題(モーセの律法・割礼等)               で、エルサレムに参上した際(第15章以下)マルコと呼ばれたヨハネ               が、12使徒側の席にいたので、かって伝道旅行中、途中で帰ってしま               ったことを思い出したりして、非常に不信、嫌疑な思いにかられ、結局               バルナバとは、口論・喧嘩別れしてしまう。(使徒行15:37-40節)               パウロもルカも、そのまま生涯を終えるまで、使徒としてのヨハネの認                  知はなかったようだ。それゆえまた、のちにユウセビオスが<教会史>               を著して、ヒエラポリス(小アジアの西南部地方、ガラテヤ南部辺隣の               カッパドキアの一都市)の教会監督パピアスの言葉を引用しているが、               この彼の言説にも、マルコに関わる不認知、誤認の影響が現れているよ               うだ。             ロ)三つの共観福音書では、先に述べたように、主イエスの公生涯での活動               を記した、その記述構成を、ガリラヤとその海沿い周辺を中心としたか               たちのものとなしつつ、ついには主イエスのエルサレムへの時がやって               来たという、その訪れを一度かぎりのものとして記す事で、よりクライ               マックスな記述内容の流れのかたちにしたのに対して、、、               ヨハネの書では、その内容記事の流れをエルサレムを中心として巡るよ               うな著述様式をとっている。具体的に云えば、ユダヤ人らのエルサレム               での歳時の祭り(特にユダヤ三大祭)の時期を契機として、その慣例事               の時期に沿うような形式で、主イエスのご使命活動を記していると云う               ものだ。そこでその時期巡り形式が、どのようなのかを知るべく、その               書での記述手順をたどって概略すると、以下の如きものとなる。                              Ⅰ. そのはじめの時期・・・・(1章19-51節&2章1-12節)                *バプテスマのヨハネと主イエス、そして2人の弟子らに関連した記                    事からガリラヤ行き、そして到着三日目でのカナという村での婚礼                 での記事、カペナウムへの居住移転。このガリラヤでの数ヶ月ある                 いは半年余の間、主イエスの活動があったかどうかの記載記事もな                 し。(これらに該当する他の3書記事もないと見られる。)                 注:ここでは、ほかの3書で見られるイエスの洗礼や40日の荒野                   での試みの記事はなく、それらの出来事のあと、その幾日間の                   間に起った模様を伝えている。つまり、洗礼者ヨハネが不法投                   獄されるずっと以前に、イエスがガリラヤの故郷に戻られる機                   会の状況を伝えている。この時すでに12弟子のメンバーとな                   るペテロ、アンデレ、ピリポ、ナタナエル(後の共観福音書で                   のバルトロマイ)、そして著者ヨハネとが、イエスに出会って                   いる模様を記している。               Ⅱ. 過越しの祭りにてエルサレムへ・・・・(2章13-25~3章1-15)                                    この祭りは、今の陽暦では、3月から4月の頃にかけての                   ユダヤ暦では第一月(ニサン)に当たる月の15日(14日の                   夕刻)から毎年行われる大祭で、7日(8日)間の祭事となる。                *イエスは<祭りの間、エルサレムに滞在した>とある。(2:23)                 少なくとも祭りが終わった数日後には、都を離れ、<他のユダヤの                 地へ行き、滞在された>とあるが、具体的な地名の明記はない。                 (3:22)                 *ただ弟子たちがバプテスマを授けていたようだから、水のあるヨル                 ダン川または、それに合流する支流の川近辺であろうか。                 エリコから北十数キロのエフライム山系の支流かも知れない。                *3章23でバプテスマの<ヨハネもサリムに近いアイノンで、授けて                 いた。>とあるが、ここはサマリヤの町スカル(ヤコブの井戸)に                 近いところでもある。                  この洗礼者ヨハネは、まだ<獄に入れられていなかった。>とある                    (3:24)が、ほかの3書との比較に注意すべきか。     【地図参照】            ’’’’’’’’’’’’’’’’’               Ⅲ. ユダヤの地から再びガリラヤへ・・・(4章1-3 & 4-45,46-54)                             *イエスは弟子らがバプテスマを授けている水のあるユダヤの地を                 離れ、再びガリラヤへ行かれる。その行かれる理由が、4章1~3節                 で述べられている。(パリサイ人らがイエスの動向を知ったが、こ                      の事を主がお知りになったから、、、とある。具体的には、弟子ら                 が、イエスを信じる<告白洗礼>を施して多くの弟子たちを増やし                 ていったという動向となっている。)                *その道筋ルートで<サマリヤを通らねばならなかった。(4 節)>                 ということで、スカルという町の近くの<ヤコブの井戸>の傍らで、                 旅の休息をとられた。その時に、その町のサマリヤ女との会話で、                 たいへん貴重なる言葉を語っておられることが、愛弟子ヨハネによ                 って残され、それがのちに記されるものとなる。                 このスカルに2日滞在され、その後、予定どうりガリラヤへ、、                 ナザレ(幼児期より育った故郷)に立ち寄り、再びカナへ、、さら                 に書には記されていないが、カペナウムなどガリラヤ湖周辺の海辺                 の町々村々に巡回されたと思われる。                               Ⅳ. ユダヤ人の祭りがあって、エルサレムへ・・・(5章1 & 2-47)                           *この上京時での祭りがどんな名称のものだったかについては、何も                 記されていない。推察の域を出ないが、三大祭に当たる一つではな                 いと思われる。おそらく陽暦の2月から3月にかけての、ユダヤ暦                 では第十二月(アダル)の14、15日に毎年行われた<プリムの                 祭り>(旧約聖書:エステル記9:16-28参照)に相当するようだ。                 (これは、4章35節のイエスの言葉<四ヶ月あると、>及び第6章                 4 節での文言<過越しの祭りが間近になって、、>など、それらの                 前後関係の文からその時節柄を吟味することによる。)                *しかし、この上京時、バプテスマのヨハネが捕えられ、獄に入れら                 れたとの知らせを受けて、早々にエルサレムから姿をお隠しなされ                 たと思われる(ここでの書にはそんな記事文言は見られないが、そ                 の祭りが始まる前日以前には都を去られた推定される。)     【地図参照】                      Ⅴ. 再びガリラヤで、湖沿い周辺、ガリラヤの巡回及び他地方にも ・・・(6章1 & 2-59,60節~7章1節)                *ガリラヤへ戻ってから約一月後、カペナウムの海辺側から向う岸の                 小さな村が点在するような地方へ行かれる。この6章の記事は、マ                 タイの書14章13節以降の記事との一致が認められる。このマタイ                 の記事との照合を考慮すると、バプテスマのヨハネは、投獄されて                 から一ヶ月余りして、斬首されたと思われる。                *この頃、再び<過越しの祭り>が間近であった(4節)が、この祭                 には、当然、エルサレムへ上がられることはなかった。                 (前回に上京されてから、ほぼ1年が経った頃という事になる。)                   *向う岸のカペナウムに帰られたが、その前に同方面の田舎地方、ゲ                 ネサレの地に立ち寄られている。(マタイ14章34節)これ以後、                 ご住居のあるカペナウムを拠点にしたガリラヤでの巡回活動をされ、                 その合間に、ツロやシドンとの地方へも(マタイ15:21)また、                 ヘルモン山系の山麓の町ピリポ・カイザリヤの地方にも巡行されて                 いる。(マタイ16:13節による)                 (注:ゲネサレの地名は、掲載地図上には出てないが、ガリラヤ湖畔                 の町マグダラとカペナウムの中間地域の海岸から奥に広がる平原地帯                 に位置し、湖岸から6-10km内外に点在した村々地方をさす。)                *ユダヤ人たちが、イエスを殺そうと、つけねらっていたから、ガリ                    ラヤの巡回にも、いろいろ心くばりをされたようだ。               Ⅵ. 仮庵(カリイオ)の祭りにてエルサレムへ                            ・・・(7章2-14~37~8章-10章21)                   仮庵の祭りの時期は、陽暦では9月~10月にあたり、ユダヤ                   暦名、チスリで第七月、この月の15日から21日(22日)                   にかけて、7日(8日)間守られる。(これは、ユダヤ三大祭                   の一つで、起源的には出エジプト後の宿営生活の仮住まいを記                   念するものとして、モーセによって定められたもの、モーセ律                   法にある定めの祭りではあるが、主にぶどう、イチジク、オり                   ーブ、ナツメヤシなど実・果物の収穫時での取り入れ小屋との                   関わりのニュアンスなども加味されている。)                  *選民イスラエルの子らは、エルサレムで行われる祭に関して、その                 祭の種類によって、多少異なれども、通常は、祭の始まる前に都入                 りするのが習いとなっている。この章でイエスは、血肉の兄弟たち                 に、”ユダヤ・エルサレムへ行って、自分をはっきりと公けにし、                 世に自分の何たるものかを示しなさい。”と問い詰められる。だが、                 イエスは、”わたしはこの祭には行かない。わたしの時はまだ満ち                 ていないから。”と言われて、ガリラヤにとどまっておられた。                 しかし、10節以降の文言で、兄弟たちが祭のためにガリラヤを立                 ったあとで、ひそかに人目にたたぬようにして行かれた、とある。                 この時、12弟子らには、3、4人ずつに分けて、別々に出かける                 ようにされたと思われる。あるいは彼らの何人かは家族、親族らに                 混じり一緒にエルサレムに上ったという事も想定されうる。                *イエスがこの祭で、人々の前にご自身を現されたのは、<祭も半ば                 になってから、宮に上って(神殿域の中庭)、>と記された時点か                 らだと、見なせるようだが、エルサレムに入都なさったのは、祭の                 始まる前なのか、始まってからなのかは定かでない。(14 節)                 この事から主イエスが、ご自身の<時>を慎重に計り見極め、それ                 を整えつつも、その大胆なる勇敢さをもって、集まりしユダヤ人群                 集に、いかに公然と臨まれたかがうかがい知れる。                *主イエスは、すでにガリラヤのカペナウムの諸会堂でも、ご自身の                 <自己呈示の教え>をなされた。その時のご呈示内容は、<わたし                 は、命のパンである。父が与えるまことのパンは、この世に命を与                 えるもので、わたしがその天から下ってきた生きたパンである。>                  とのご言示のものであった。その言葉表現は、実に単純だが、当時                 の人々にとって、さっぱり受け入れ理解の出来かねるものだった。                 (6章:26-66)                 この宮での時も、ご自分の<教え>が自分自身から出たものではな                 く、自分をつかわされた方の教えであると、また同時に自分をつか                 わされたかたが、自分をつかわしたのであって、<わたしは自分か                 らきたのではない、>と、ご自分を呈示される。このご自分呈示も                 宮にわんさと集まっていたユダヤ人にはさっぱり理解できないもの                 だった。色々な教えとその締めくくりとしての、プラス、その<ご                 自身呈示>言状が、その状景に見られるわけだ。しかも祭司長たち、                 パリサイびとらが、今にもどうかしてイエスを捕らえようと、下役                 どもを配せんとする最中でもある。(第7章32節)                *この祭の最終日にも宮に入って、教えられ、且つ叫んで、ご自身を                 <人から信じられるべきもの>としてご言示されている。                 また、8章では、祭の期間がすでに終わったけれども、なおエルサ                 レムに滞在され、宮に入り、教えをされている。そこでは、とくに                 パリサイびと、律法学者らとのいろいろな現場光景があり、その言                 葉のやり取り、かけひきの中で、彼らの存在をして、彼らを対象背                 景とした<ご自身呈示>の言葉を公にされている。                 身の危険と隣り合わせのような、宮でのそういった問答のすえ、彼                 らユダヤ人から石を投げつけられそうになったが、身を引き距離を                 置くかたちで、その後、宮には上がらず、エルサレムのあちこちに                 とどまって、ご自分のなさるべきことをされたと思われる。                 (神殿域南側<王の柱廊>に通じた橋の下り近くの広場や市場への、                 シロアムの池のある下町にも通じる道や、また神殿の北側宮外壁に                 ある<羊の門>辺りから五つの廊で完備された<ベテスダの池>あ                 たり。9章1-41,10章1-18節)                 そこでは、イスラエルの民衆を羊に喩えて、ご自身を真の<良い羊                 飼い>、或いは<羊の門>であるというほかないような、ご自分の                 ご心境でもって、その譬えを語り、預言予告的な<ご自身呈示>を                 されている。                      *この祭の終了後、約2ヶ月あまりの間、ずっとエルサレム、および                 その近隣の<ユダヤの地>に留まっておられたかどうか、ガリラヤ                 に帰られたかどうか、その点については、他の3書からの照合確認                 できる記事は見当たらない。このヨハネの書に見る限りでは、2ヶ                 月余の後に催される<宮きよめの祭>まで継続してエルサレム、お                 よび周辺<ユダヤ地域>にそのまま滞在されているかのような記事                 つづりとなっている。(10章21節と次の段落文への22節)                 その<宮きよめの祭>の記事では、神殿域の東側宮外壁内側に併設                 された壮麗な<ソロモンの柱廊>での出来事を記しているが、著者                 ヨハネがあえてこれを前述の記事<仮庵の祭り>のものに結び付け                 て記したとすれば、その仮庵の祭りの何日かあと、もう一度ガリラ                 ヤ地方に帰り、その後、再びユダヤの地方とヨルダンの向うの地へ                 行かれたという見方が可能となる。これは、マルコ10章1節に照                 合させているものだが、このユダヤ地方への巡行の間に、<宮きよ                      めの祭り>があり、エルサレムの宮に行かれた。そして、その<ソ                 ロモンの柱廊>での事のあと、ヨハネの書第10章40節で記され                 ている如く、<ヨルダンの向こう岸>の地に行かれての滞在という                 事となり、かのマルコ記事(10:1)とも合致するものとなる。                 この場合、続いてヨハネの書第11章でのイエスによる<死んだラ                 ザロの復活>の奇跡の出来事のあと、ユダヤの荒野に近い地方<エ                 フライムという町>に、そのベタニヤの村からいったん退かれ、姿                 を隠された。その後、主イエスにとっての、これが最後のやま場と                 決意された、<過越しの祭り>がいよいよ近づくこととなる。その                      エフライムの町から再びエルサレムへ上られるということになる。                 その時の道順ルートは、先ずヨルダン川東岸に近い<エリコの町>                 に下り、そこからオリーブ山の東麓の村ベタニヤへと向かう道程を                 辿るものであった(これはマルコ書10章31、マタイ20章:17、                 ルカ18:31節、及びマルコ10:46、マタイ20:29節、ルカ                 18:35節、同19:1 節との照合一致を見るものである。)と、                 見るべきが妥当かどうか。(3書には故事にちなんで <ヨシュア                 率いるカナン定住へのはじめのエリコから、ダビデに至ってのエル                 サレム>という自民族史になぞらえて、主イエスのエリコからの最                 後のエルサレムを記るさんとするその試み思いがあったであろう。)                                  (当時ローマ総督の管轄地域は、ユダヤとサマリヤの二つの地区に                 わたるものだった。したがってユダヤの地とガリラヤの地の間に、                   サマリヤの地域が横たわっているといった地理環境だった。)     【地図参照】                    Ⅶ. 宮きよめの祭りにおいて・・・・・・・(10章22-39)                                      宮きよめの祭りの時期は、陽暦11月~12月にかけての月で、                   ユダヤ暦、第九月のキスレウの月の25日から始まり、8日間                   行われる。その起源由緒は、三大祭のように遥かな過去に遡る                   ものではなく、最もイエス時代に近い年代の歴史事跡を記念し                      て守られるようになった。シリア・セレウコス王国アンティオ                         コス・エピファネス王、その将軍らによって神殿聖所は、甚だ                   しい蹂躙を被り、それ以後、エルサレムの市中共々、ギリシャ                   の神々の祭とその慣習の行われるところとなる。これは、イエ                   スの時代のほぼ200数年(BC168年~165年頃まで)                   前に起ったことであるが、この甚だしき冒涜と荒廃のけがれか                        ら神殿聖所を奪回した。燔祭儀礼の為の焼祭壇を新たに造り、                   神殿内外を修復して、再復帰としての宮きよめの儀式を行った                   という。このユダヤの歴史事蹟(BC164年キスレウの月の                   25日)を、その折りに代々、後々まで記念して守るべきユダ                   ヤ人の祭りに定めたことがその由来となっている。                   (その時の主要人物は、ユダ・マッカビーであり、これは、ヨ                   セフスのユダヤ古代史、および旧約聖書外聖典の<マッカビー                    第一書4:36-61、第二書10:1-9 にて記されたり。)                                                                *”時は冬であった。”と、この祭りの時期が、続記されている。キ                 スレウという第九月の25日から行われる慣わしのもの。これは、                 先の<仮庵の祭り>からほぼ2ヶ月余後の祭りであり、また、主イ                 エスの最後の<過越しの祭り>までは、ほぼ3ヵ月余しか無いとい                 う、差し迫った状況の頃であった。                 その段落文言の始めに、日本語訳では10章22節、”そのころ”                 と訳されている。著者ヨハネが用いたギリシャ語は、" τοτε "                 (トゥ’テ)という、副詞の語で、この一語だけで、<時の頃>を                 表わす指示代名詞の働きニュアンスを感じさせる語句である。                 別の表現語句との比較で見ると、以下の語句がある。                 ”Εν εκειναις ταις ημεραις ”                 エン エケィナィス タィス ヘ-メラィス(In those days)この4語のものも、                 冠詞を一つ含んでいるが、日本語訳では、”そのころ”と訳されて                 いるものである。4つの語句と一つの語による表示の違いがあるか                 どうかは、著者自身の心理状態とその当時の用語使用感覚に拠る所                 であろう。この”τοτε”は、元々<その時><その時期>と、                 ある程度狭い近時、近日的な場合に使用されるものと思われる。し                 たがって、ヨハネがあえてこの語を用いて、前からの一連の諸段落                 文章(10章の<羊飼いと羊の譬え>など)からの継続感覚でもっ                 て、書き記したということは、この章での<ソロモンの廊>での出                 来事を含めた、その全体の彼の記憶データすべてが、実はこの<宮                 きよめの祭>の時期のものだったのではないかとの推察も可能だ。                *先の<仮庵の祭>の頃から、この<宮きよめの祭>以後は、イエス                 だけでなく、12弟子らの拿捕への予期せぬ事態を含め、その緊張、                 危機意識の高まってきた時期でもあったわけだ。それ故、エルサレ                 ム内、及び宮境内へは、一団、一群的な行動を控えたと思われる。                 2人、3人が組になって別々に行動したと言う事になる。そして、                 夕刻などに落ち合う集合場所は、神殿の東側城壁の門を出た、キデ                 ロンの谷の向こう、オリーブ山に通じる道の横手奥にある<ゲッセ                 マネの園>に決めてあったようだ。                 この<宮きよめの祭>の時にも、主イエスは、一番年下の愛弟子・                 ヨハネを守るかのようにして、その2人組での宮内行動をなさった                 ことであろう。ヨハネをあたかも弟子ではないかのように、時々、                 ご自分との距離をとらせたりもして、、、、                              Ⅷ. エリコに近いヨルダンの向こう岸で・・(10章40-42)                *ここでは、主イエスらが、ユダヤ人パリサイびとらの手を逃れて、                 その後、バプテスマのヨハネが、その初めに洗礼による<神へのつ                 とめ>を行った所に行き、滞在されたことを記している。                 その文言で、”イエスはまたヨルダンの、、、”との日本語訳で、                 <また>と、何気ない軽い感じで訳されているが、この訳にあたる                 ギリシャ語<παλιν>パリンは、動作や行動などの動詞系の語に                 対して、明確な動機付けのニュアンスをもって、<再び>あるいは                 <もう一度>といった意味合いを強く表わす語である。                 ほかの共観福音書3書では、主イエスらの<最後の過越しの祭>へ                 の一括関連付けで、その頃の事跡がつづられているので、その最後                 の<エルサレム途上>への時期に当たる頃に着目して、その関連記                 事があるかどうかを見出すほかない。                 ところでその途上ルートを探査してみると、ヨハネの書とは、他の                 2書より際立って対称的なルカの書、この書は、イエスがエルサレ                 ムへ途上したのは、かの最後の一回限りのものと暫定することで、                 その顕著な内容を示すが、その意味においてヨハネのそれとは対称                 的である。そのルカの書では、はや、第9章51節から<最後のエ                 ルサレム行き>への記述過程に入るものとなっており、この時、サ                 マリヤに近いガリラヤの町々村々及び、その近隣のサマリヤの町々                 村々をも巡回しながらエルサレムへと向かう道程での記事をとどめ                 記すものとなっている。(10章1節、13章22節、特に意外と                 思われる文言記事は、10章38-42節で、そのマルタとマリヤ姉妹                 の記事では、その文言内容そのものには貴重な教訓的意義を有する                 ものだが、著者ルカの伝承資料蒐集の段階で、マルタ、マリヤが、                 エルサレムに程近い、オリーブ山を一つ越えたところのベタニヤ村                 の姉妹であったという事の認知が、まったくなかったという事さえ                 見え隠れする。)                 ともかく、そのルカの書では、その第17章11節で、”イエスは                 エルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間(境界地域)                 を通られた”と記されているが、実はこの文言で語る、その条件付                 けが意味するもの、なぜ双方の地域の<間・境界地域>を通らなけ                 ればならなかったのか、という疑問と共に、そのエルサレム行きの                 ルートが、かなり複雑になった行程の旅だったと思われる。                 サマリヤの町々のサマリヤびとと、ユダヤ人とは、代々以前から付                 き合いがなく不仲な間柄で、その名が広く知られていたイエスと云                 えども、エルサレムを目指して行かれる旅ということならば、人物                 が人物なだけに利害その他の影響が起りうる、、そう考えたサマリ                 ヤびとらは、イエス一行らを歓迎しなかったわけだ。(旧首府サマ                 リヤ経由でエルサレムに直結した<大路・中央交易通商路>がある                 が、それに沿った旅が不可となった。)それゆえ、一行の旅したル                 ートは、次のようだったと想定される。     【地図参照】                 ◆ガリラヤからサマリヤとの境界地域をヨルダン川方面へと東(南)                  方向に下る。(デカポリスの10都市のうち唯一ヨルダン東岸側                  にあるスキトポリスに通じる道に沿って、ヨルダン川東岸沿いに                  出る。)                 ◆ヨルダン東岸沿いの道を南下⇒ヨルダン支流のヤボク川合流地区                  の渡しを経て後、ヨルダン川の西岸への道へ、この道がエリコに                  通ずる道だ。                 ◆その岸から西へ10km前後離れた道を南下して、エリコに至る。                  (途中聖書にはその名が記されていない町、ファサエリス、アル                  ケライス、その他、村や小部落が点在する。)                 エリコに至る記事は、ルカの書では、18章35節、19章 1節で、                 マタイの書では、第19章 1節で<ガリラヤを去ってヨルダンの向                 こうのユダヤの地方へ行かれた。>と記されているから、東岸沿い                 に道を南下して、デカポリス地域をぬけてユダヤ地方へということ                 になる。それで、マタイ書でのエリコについては、20章 29 節の                 <”それから、彼らがエリコを出て行ったとき、何々、、”>と記                 されているに過ぎない。                 マルコ書では、10章 1節で、<ユダヤの地方とヨルダンの向こう                   側へ行かれた、、>の文面にて、マタイの書と同じ風合いで、46                 節で、<彼らはエリコに来た。そして、何々、、、エリコから出か                 けられた、、、>との同類記事が見られる。                 結局、共観福音書の3書からは、<宮きよめの祭>の時にヨルダン                 の向こう岸、あるいは、エリコの方面からエルサレムに上った、と                 いった形跡的文面の片りんさえも見られない。               Ⅸ. イエス最後の過越し祭が近づくまでの間                               ・・・(11章1-44,45-54&55)                *ヨルダンの向こうの地(東岸地方)から<ラザロの病気・死>の事                 で、再びエルサレムに近いユダヤの地、ベタニヤへ。                 そこでのイエスの栄光の奇蹟、死んだラザロの埋葬洞からの甦り、                 このラザロの一件によって、エルサレムに近いベタニヤへ。                 それがエルサレムのパリサイびとらの耳に入って。                 主は、そのベタニヤから姿を隠され、<エフライムという町>へ。                 弟子らと一緒にそこに行かれ、滞在される。                 イエスご自身にそなえられた、<そのとき>が来るまで、                 その最後の<過越しの祭の日>が近づくまで。                 (エフライムという町は、エルサレムから十数キロ北方の山地に位                 置した町で、その北西、北側には山地特有の荒野が広がっていたと                 見られる。この南北に細長い山地地域には、ヨシュア志師時代のシ                 ロやシケムといった古い町が、その北方谷間丘陵にあったことで知                 られている。)                *ラザロの埋葬姿のままからの生き返りの一件は、その関連部分を含                 めて、第11章のほぼ全体を占めるほどの記事となっており、他の                 どの一件の事跡のものよりも、その文章量を多く割いている。それ                 だけ著者ヨハネにとっても印象深かったものと見られ、自分の著す                 その書における主題的重要性にとっても、より一層の効果を増し与                 えるものとしての試みであったに違いない。                 ちなみにヨハネの書の初めにふり返れば、その第1章28,~35-39                 節では、自分の名を伏せているが、このベタニヤで、初めて主イエ                 スに出会った事を明確に印象付けている。そういったはじめの頃、                 すでにマリヤ、マルタそして、その弟のラザロとは、まったくの顔                 見知りではなかったとは云い難い。                 (かってのバプテスマのヨハネも、ヨルダンの向こうから、こちら                 のベタニヤに来ていた。ギリシャ語原文の解釈及び日本語訳では、                 バプテスマのヨハネがその洗礼を授けていた、そのヨルダン東岸の                 地からの立場に立って、そこを起点にして、その向う岸・西岸のベ                 タニヤを見るという理解をとっていないから、東岸地区の方にも同                 一名での別のベタニヤがあったといった、奇妙不自然な解釈になっ                 てしまう。                 著者ヨハネは、このパリサイ派ユダヤ人との問答状景の一コマに、                 そんな誤謬を起こさぬようにと、わざわざそのくくりの閉めに、                 ただし書きのような一文を加えているのだ。)                 さらにこのラザロ記事は、他の共観福音書の3書(マタイ、マルコ、                 ルカ)それぞれのうちには全然見られないものである。ヨハネの書                 にだけ独自にある諸記事の中でも、最も主要なもの、注目すべき効                 益性を高め満たすものの一つでもある。               Ⅹ. 過越しの祭が間近になりエルサレムへ・・・・(12章1&2-36)     【地図参照】                *エフライムの町から再びベタニヤへ、イエスにとって最後の<過越                 しの祭>が近づいたので、そのベタニヤへ、祭の六日まえに着かれ                 たとある。エフライムからは、半日強か、一日以内の道のり程度で                 あったろうか。(朝早く出立すれば、昼前に到着か、、)                 このベタニヤは、エリコ方面からエルサレムへ上るほぼ街道沿いに                 あり、エルサレムからは3キロ強ほどであった。オリーブ山の東麓                 沿いの位置にあり、マルタ・マリヤ姉妹らは、エリコ方面からの祭                 の巡礼者などの<休憩茶屋兼宿泊所>を両親から受け継ぐかたちで、                 細々こじんまり営んでいたと思われる。                 マリヤは、日の傾きかけた頃、来られた主イエスを見て、この度の                 エルサレムへの参上には、主の身に何かが起きるような、そんな何                 かを直感する胸騒ぎを感じて、自分の一番大切な<ナルドの香油>                 を持ち出してきて、イエスの両足にぬり、自分の髪の毛で拭くとい                 う最愛、最大限のもてなしをした。                *この<マリヤのもてなし記事>は、ほかの3書には無いが、マルコ                 とマタイの書では、別のもう一つの記事として記されている。                 それは同じベタニヤでの、らい病人シモンの家でイエスが食卓につ                 いておられた時こと。                 高価なナルドの香油を持った女が来て、今度はイエスの足ではなく                 て、<頭に注いだ>というものだ。これは、<祭の二日前>と記さ                 れており、(マタイ26章2節 & 6-17節、マルコ14章 1-11節)                 マリヤの場合での、<祭の六日まえ>の事とは、まさに別件のもの                 となる。つまりイエスは、この最後の時、2度にわたって香油のご                 処遇をお受けなさったということであり、その<二日前のシモンの                 家>での一件は、マリヤの姉、マルタが行ったところの行為だった                 と思われる。                 イエスを裏切ることになる12弟子の一人イスカリオテのユダは、                 この2度にもわたるご処遇で、ひどくもの惜しく感じるところとな                 り、また、イエスの云われた言葉に相当な嫌気がさして、何か自分                 の将来に一層不安をそそるものとなる。イエスに付き従ったのは、                 自分の道、人生を誤ったことになるのでは、と強く感じたに違いな                 い。このユダには自分本位に勝手に思い描いた<イエスの将来像>                 が、何故かその心の内に根強くあったからである。(このユダが、                 弟子の一団グループの会計どころの財布勘定を任されていたが、そ                 の勘定で不正なへそくり私利をなしていたことに関しては、その当                 座の時期には、弟子ら皆に気づかれず発覚しなかった。発覚してい                 れば、12弟子から外されるなり、何らかの処置があったろう。)                 *マルタとマリヤ、この2人の女性のそれぞれの<ナルドの香油>で                 の<思いの行為>、これは、エルサレムにおいて今や、主イエスに                 どんな事が、どんな事態になるか、その緊迫した状況を予感しての                 ものであった。今までずっと見守ってくれていた主イエスであられ                 たからして、彼女らにとってその心の支えを失うとなれば、、、。                 主イエスも彼女らの精一杯の<女の情、思い>をその行為により、                 十二分に心に感受したであろう。思い余った女の自然の情を悪性な                 ものと否定されることなく、それにご自分の立場、状況をして、き                 わめて自然な心持ちでお答えなさる。                 ”、、、 、わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだ                 から、、、” また、                 ”、、、香油を注いで、あらかじめわたしの葬りの用意をしてくれ                 たのだから。、、、”                 主イエスは、<女の愛惜の情>を深くうけとめ、ご自分のご意図の                 うちに、そのお言葉をもって、それを昇華されたのだ。                 彼女らの本能的にこみ上げる、その愛惜の思いは、さらに一層高ま                 り、涙となって溢れ落ちたに違いない。                 (ナルドの香油は、インドア大陸の北部地方原産植物から、その方                 面で精製され、シルクロードの西方ルートづたいに乗って運ばれ、                 メソポタミヤ、シリヤ交易都市経由で、ユダヤ、エルサレム、さら                 にはエジプトにまで、もたらされる非常に高価な商品であった。)               ⅩⅠ.過越しの祭り前のエルサレム入城事情                 ・・・(12章以下、及び関連マルコ書10章46,11章1-11節)                *ヨハネの福音書では、他の3書に比べ、この最後の<過越し祭>へ                 のアプローチ的な日時の過程がより明白である。                 3書のアプローチは、すべてイエスの<最後の過越し祭>へと集約                   記述されているから、<エリコからベタニヤそしてエルサレム>と                 いったルートでまとめられており、その過越し祭の何日前にエルサ                 レムに入られたか、あるいはベタニヤに来られたか、その具体的な                 表現は見られない。                 例えば、ルカの書では、エルサレムの宮を数日間出入りされた後、                 いよいよ、”過越しの祭という除酵祭(酵母の種を入れないパンの                 祭)が近づいた。”とか ”過越しの子羊をほふるべき除酵祭の日                 がきたので、、、”(22章 1節,7節)との文言にあるように、その                 日の当日を記事的展開の目安とし、その意図に沿ってその前後のイ                 エスのエルサレム事跡をまとめている。                 こういった傾向をしめす3書のうち、特に注目すべき点が、マルコ                 の書の記述に見られる。                 その第14章 1節での文言は、”さて、過越しと除酵の祭は、二日                 後であった。”原文直訳であるが、<二日後>と明確な2の数でも                 って、明記されている。                  (Ην δε το.....και τα.....                              μετα δυο ημερας.)                 この<μετα δυο ημερας(メタ ドゥオ ヘ-メラス )>なる                 語句は、マタイの書だけに引用継承の使用を見る。(26章 2節)                 一方、共観福音書ではない、ヨハネの書では、<二日>という表示                 はなく、それに対して、その代わりとして、                 ”、、過越しの祭の六日前に、、”                  =προ εξ ημερων                     του πασχα(プロ ヘクシィー ヘ-メロ-ン ツゥ- パスクァ)                 という明確な日にちを表示している。(ヨハネ12章 1 節)                 そう記すことで、マルコの<二日後>という語句表示に対して、暗                 に連係性をもたせているわけである。その秘められたねらいは、                 その両者の数、<2と6>において、何か両著書間に伏せられた共                 通項なるものを潜ませ暗示するかのように、両者の記事関係をタイ                 アップ、相補関係させることにある。                 さらにこの両者関係を重視して、マルコの書での<エルサレム入城                 記事>(第11章 1節以下)とヨハネの記事(12章以下)のそれ                 とを総合的に査証判断すると、                 マルコの書では、直接ストレートに<エリコからエルサレム入城>                 というかたちの意図的な方式でもって、一連の事跡を集約的にまと                 め記すものとした。ところが実際の真相を知っていたヨハネ(旧変                 更著者名:マルコ)は ずっと後(AD90年頃)に著した、そのヨハ                 ネ書で、その真相をあらわにするものとなる。つまり、                 ヨハネの書では、<祭の六日まえにベタニヤにお着きになり、夕食                 とマリヤの一件も有りで、その夜はそこで宿をとり、<翌日、いよ                 いよエルサレムご入城>という、向きの感じを与える段落文章とな                 している。ところが実際にはそうではなかったのだ、、、、。                 エフライムの町からエリコに下るのではなく、ベタニヤ寄りの間道                 を利用して、そのまま、ストレートにエルサレム入城をされた。さ                 らにその入城に際しては、側近弟子ら(12人)を二組に分けてお                 られ、その日にエルサレム市中で宿を取る者らをお決めになって、                 先々の事や、情報収集の事に当たらせられたと思われる。その日の                 市中での留まり組リーダーは、マタイが適任者だったと思われる。                 (マタイの後々の将来的な使命をも読みして、、)                  このストレートなエルサレム入城は、ヨハネの書では、完全に隠さ                 れたものとなっているが、マルコの書とも部分的に一致した事実と                 して、その真相のうちに横たわっているものである。                 マルコの入城記事は、その前後の段落文関係で、確かに<エリコか                 ら>というニュアンスを読者に与えうるものとしているが、文言上                 では、明確に表示されたその言葉の記述は一切見当たらない。                 では、両書(マタイ、ルカの記事も含めて)の、この大変な見かけ                 上の、解決しがたい矛盾を、どう捉え理解すべきなのか。                                  実は、その捉え方の糸口になる文言が、ヨハネの書の、その当該の                 第12章 1、2 節に隠されているのだ。                 この文言は、日本語訳(新改約聖書も含めて、)の文章からでは、                 見出すことが出来ない。原典のギリシャ語の文に依らなければ、、                 以下ギリシャ語の原文から見てみよう。                                  ”Ο ουν Ιησουs προ εξ ημερων του                 ───                 ( ホ ウーン イエ-スース プロ エクシィ ヘ-メローン ツゥ-                      πασχα ηλθεν ειs Βηθανιαν、、、、、”                  パスクァ  エールシェン エイス ベ-スァニアン、、、、、 )                 この文の下線のある<ουν(ウーン)>の語に注目すべきである。                 これは、接続詞での小辞の類であるが、何らかの理由的推論を旨と                 して用いられる語である。普通に文と文をつなぐ接続詞ではないが、                 この語の用い方には、それなりの状況的空気を読むとか、踏まえる                 とかの気持ちがあるわけだ。                 日本語訳のものは、この語は、<あえて訳されていない>。その訳                 を付けると、ほかの3書(マタイ、マルコ、ルカ)での類似の文面                 (かのストレートにエルサレムに入城する記事)との矛盾的違いが                 きわだって目立ってくるからである。しかも、その ουν(ウーン)                 を用いて記した、その伏せられた本当の理由もまったくわからない                 ままで、大して意味の無い<ουν(ウーン)>があるに過ぎないとし                 て処理され、訳す必要なしと見なされたわけだ。                 英訳書などほかの外国語の書でも、訳されていないものが大半だ。                 英語訳では、年代ものの<King James 版>の書が、<Then>                 と訳している。これには”そのとき、それから”或いは ”そこで、                 それで、それゆえ”といった意味があるから、訳としての妥当性は                 間違ってはいないであろう。その文を日本語で最適に訳せば、                 ”それで(それ故)イエスは、過越しの祭の六日まえに、ベタニヤ                  に行かれた(来られた)”という文面になる。                  (<ηλθεν エールシェン>には、go と come の両意味がある。)                    その King J.Version 訳は<Then>と訳すことで、文章の自                 然の流れとして、その前の文言(11章57節)内容に、その理由付                 けの関連を負うものとしているのが判る。57節では、                 イエスを捕らえんがために<その居どころを知っている者は、申し                 出よ>という、おふれ指令が、祭が始まる前から(10日ほど前ぐ                 らいからか)エルサレム市中に出された事がその文節で知られる。                 この状況事情を受けて、                 ”それで、祭の六日まえにベタニヤに来られた。”との文言となり、                 一見その関連付けがうまくなされたかに見え、文のつながり関係に                 は何の違和感も無いかのようなものとなる。                                  だが、この場合での<ουν(ウーン)= それで>によって、示唆さ                 れた理由付け内容は、普通ならイエスはもっと早くに、例えば、祭                 の10日あるいは15日ぐらい前に来ているはずなのに、かの通達                 指令の故に、<六日まえ>と、少々日にちを遅らせるものとなった                 という、ただそれだけの、単なる曖昧で不確かな推量程度のことで                 しかないものとなる。そこにあるのは、どうという事もない極めて                 軽い、無意味な関連付けでの<ουν(ウーン)>という事になる。これ                 では、かの<矛盾解決の糸口>にはならないようだ。それ故、                 この<ουν(ウーン)>なる語を、著者ヨハネがあえて用いるべきが                 当然であったといった、彼の事情認知の立場が、先ず何よりも先に                 あったと見るべきであろう。その下で、自然とその隠れた意図付け                 がされたものとなり、それへの根拠を他に見出すべきだというよう                 な、そんな隠れた事情の事由があったに違いないと見なすべきもの                 となる。                 マルコの書では、ベタニヤに立ち寄り、留まることもなく、その近                 くからそこを通り過ぎるようにして、ストレートにエルサレムへの                 入城を記している。その時、大勢の群集が歓呼の叫びを上げて従う                 状況での、最後の祭時の都入りともなった。(12章 1節以下)                 そして、宮・神殿境内にも入って行かれた。この時の様子は、マル                 コ記事、11節で、記されているのが、それが正真正銘なる真実な                 実状の記事であった。                 (他のマタイ書21章12-16節の記事内容も、そのマルコ記事には                 記されていないが、そこに含められうると見るべきである。だが、                 マルコの書(11章15-17節)では、主イエスが、その翌日の宮入                 りの際にも、前日(マタイ書のもの)と同じ事を繰り返し行わなれ                 たとの記事を記している事になる。)                 <夕刻近くになっていたので、二手に組み分けされたマタイの組の                 弟子らも、一旦は都の外へ出たが、主イエスの安全を確認して、都                 に戻る事になる。(昼はユダヤの民衆が大勢いて、イエスの味方に                 なっているから、その身は安全だが、夜は違う、丸裸も同然だ。か                 の<おふれ指令>が出されている以上、夜に何が起るか知れない。                 もはや都での夜の泊まりをするわけには行かない深刻な情勢だ。                 イエスにとっても、捕らえられる側として、<その時>への最善の                 主導権を行使すべきなのだから、今の夜間に囚われるわけにゆかな                 い。そんな事になれば、かの洗礼者ヨハネの二の舞にもなり兼ねな                 い。また、弟子の一人が捕らえられても、ご自分が捕らえられたと                 同じことだから、この事にも配慮すべきであったろう。)                 こうして、そんな事由ゆえに                 主イエスと、半数余りの弟子ら(ペテロ、ヨハネ、ユダら)は、そ                 の夕方間じかに、その日の昼過ぎに立ち寄らなかったベタニヤのマ                     ルタ・マリヤ姉妹の館に行かれたということである。このことが、                 ヨハネの書の第12章1節以下で、かって愛弟子だったヨハネが、                 記事として、<ουν(ウーン)>なる語をもって、書き留めなくては                 ならなかった状況の一コマだったというものだ。                 主イエスは、その翌日も、前日と同様に集まった群衆に歓呼され、                 そして、その途上での途中で、昨日と同じようにまた、<ろばの子                 (若ろば)>に乗って、エルサレムにご入城されたという事である。                 (12章12節以下)               ⅩⅡ.過越し祭前日夕~第一日目&三日目早朝へ                       ・・・(13章~17章&18章~19章&20章)                             *ヨハネの書では、6日前のベタニヤの夕の翌日、即ち12章12節                 の ”その翌日 ”つまり、祭りの5日前となるが、この日のエルサ                 レム入りから<過越しの祭>の直前の夕までの五日間に関しては、                 <日別>に分けうるイエスの事跡状況は記されていない。この五日                 の間にあたって、著者ヨハネが集約、最重視的に記し明かしたこと                 は、<主イエスご自身が栄光をお受けになる>ということ、いよい                 よその時がきたということ、それを主イエスご自身が言葉をもって                 表明されたということである。(12章23,27節,32-33節)                 世界の権勢的繁栄の時代情勢は、まさにローマ帝国の壮健営栄の時                 そのものであったわけだが、(丁度イエスのご降誕の頃、その公生                 涯、AD40年代に亘っての対ユダヤのローマ帝国情勢は、最も平                 和的に安定した時代で、その法治的意識もきわめて良好な時期であ                 った。)この時代の精神的、あるいは知的な文化面にいたっては、                 まだまだ、ギリシャ文化の継承発展の円熟期にあり、諸国民、諸民                 族はその文化の影響交流下にあった。これを実感していた著者ヨハ                 ネは、この時こそ、<主イエスの時>であり、神の子・キリストの                 ために備えられ到来した時代だと、その時を読み、主イエスご自身                 も、ご自分の存在そのものの由縁をもって、それを自覚され、証し                 されたと記す。                 12章20節以下、                 ”祭で礼拝するため上ってきた人々のうちの、数人のギリシャ人”                 その彼らの、主イエスへの会見の申し出の機を捉えて、イエスがそ                 のご心境の言葉をもって答えられたと、そう記すことで表明せんと                 している。(23節)                 ★ギリシャ人と掛けて、にゃんと説くにゃん、、、                   ”最も良か土壌 ”と説くわい、、、、そのこころは!!、、                  一粒の麦、地に落ちゃれば、計り知れん実をば、結ぶべーェ ★                            (そのように<かの時>は、その前にも、その後にも、決して二度                 と来ないところの<神の子・イエスの時>であり、新しい時代へと                 変容してゆくに最も適した、その古代ギリシャ・ローマの精神的土                 壌の時代であり、その到来ということに関しては、<神の大いなる                 摂理の戦い>をその歴史過程で見るべき事となろう。)                                  だが、同国ユダヤ人民衆のイエスへの信仰心的状況に関しては、著                 者ヨハネは、その当時の状況把握を踏まえ、その解釈理解による、                     <イザヤ書(現旧約聖書53章1節,6章10節)>の引用、預言者イ                 ザヤの言をもって、ユダヤ人民衆の状況を語り示すものとなる。ま                 た、イザヤがその自分の目をして、見た幻の主は、まさに我らが主                 イエスの栄光そのものであり、彼はその栄光在位の姿を見て、主イ                 エスの事を先在論的に語り明かしたとも記している。                                 *主イエスは、<ご自身の栄光>の事(これは、無限に神の恵みをも                 たらすという栄光も含めて)を自ら公言されてから、”そこを立ち                 去って、、、、、身をお隠しになった。”(12章36節)と記して                 いるが、(これは あとの 44-50節でのイエスの言われた言葉の状                 景時をも、そこを去る前の事として含むものであるが、ここでは後                 述するかたちをとっている。)                 この時以来、日にち的に1日、あるいは2日の間、<過越しの祭>                 までの空白・ブランク、即ち、エルサレムおよび宮には参上されな                 かったとの見方が取られ得る。                                                         ちなみに他のマルコ書では、その祭り前での最初のエルサレム及び                 宮入りの日をその一日目とすると、<翌日>は、二日目(第11章                 12-19節)の宮入りとして、次の三日目も、朝早くの道を行かれる                 時での事柄から、(20節以下)第12章全体にわたり、13章1-2                 までの記事として、その日のエルサレムへの出向き、そして宮での                 ことを非常に有意義な記事内容のものとして記している。もちろん                 それらの内容場景の一つ一つは、同じ二日、三日の範囲の中と言え                 ども、ヨハネの書には全然見られないものである。                 そこでは宮に直属した体制側の人々(祭司長、祭司階級に属するサ                 ドカイ派)および政治的有力者でもある律法学者と、氏族、各界の                 長老たちに対する問答会話や、彼らへの譬えによる話しなど、その                 盛り沢山な状景をして、<イエスのお姿>を、またイエス自らが、                 キリストの在るべき存在の予言的真理をお説きなさったことが記さ                 れている。(35-37節)しかし、この三日目の日のあとの、次の日                 の四日目に相当する宮での記事はなく、それ以後、祭の直前まで、                 エルサレム入りはなかったと断定されうる。                 オリーブ山で、おもだった弟子らの問いに対して語られた預言的事                 象内容とその教えに関しては、実際にはおそらく、その四日目の事                 であろうと思われる。ただ第13章1ー2節での文言が、三日目の枠                 組みの内容範囲に属するものだから、その文言1-2節に係わりを                 もった3節以降の記事、オリーブ山でのイエスの宣示場景が、あた                 かも三日目の事であったかのように受け止められうるものとなる。                 (その三日目に宮から出て行かれる際、日の傾きかけた夕の頃、そ                 の日はとみに、神殿の建物やその他の構築物が夕の斜陽にひときわ                 大きく、立派に輝いて、弟子らの目にとまったことであろうか。そ                 れにうながされたイエスの、弟子らへのご返言に対して、城外へ出                 たのち、その夕刻内でのオリーブ山<お答え宣示>の場景へと続く                 と見なす、その日時見解は間違いではない、それが正しい見方なの                 だと言えないわけではない。)                                  マルコの記事内容をほぼ丸々継承しているマタイの書では、そのマ                 ルコの二日目と三日目とを一つにまとめるかたちで、一日前倒しに                 ずらし、二日目の範囲内の記事内容のものとして、その諸文章段落                 の一連的構成をならしめている。そこにはマルコには無い、別の譬                 えの話をも加え、さらに律法学者やパリサイびとへの、その良から                 ぬ振る舞いの指摘、その痛烈なる批判の言葉など、その文言量は、                 マルコの記事に比べ、はるかに多い。                 その文量は、21章18節から22章、23章に亘り、そして24章                 1-2 節で、最終的に例のオリーブ山での<お答え宣示>の場景へと                 つながるものとしている。この限りで、オリーブ山の事柄は、三日                 目以降のものと見なされよう。                 そのオリーブ山の記事に関しては、これもまた、マルコのそれと比                 べて、さらに増幅されたものとなり、また別の譬え話も2つほど加                 え、そして、人の子の栄光再臨時での采配の在り方が、如何なるも                 のかという教えの言葉、                 (この栄光再臨時の人の子、座位采配の記事、25章 32節~46節                 のものだが、これは、マタイ自らが栄光再臨時の人の子イメージを                 創定し、人間の善的な心性を大いに助長するようなものとして、教                 訓警告的に言葉に表わしたものではないかと思われる。つまり、在                 世時の主イエスご自身から出た言葉でなくて、マタイが主の御霊に                 感じ、聖霊によって創出したものと見られよう。)が見られる。                 それもありにて、第24章 3 節から25章全体へと延々と続き、                 26章 1 節でもって、主イエスがこれまで語られた、その一連の教                 え言葉は、これにて終えられたものとしている。                 その1節の文言に続いて、2節でマタイは、”、、、二日の後には                 過ぎ越しの祭になるが、、”と、イエスの言われた言葉を記してい                 る。それ故、<オリーブ山でのお答え預言宣示>の事跡は、三日目                 か、四日目の事だろうと見なされる。これは、マルコ記事の日順に                 順ずるものと見て差しつかえないと云えよう。                 また、このオリーブ山の<預言宣示>も、ヨハネの書には、見当た                 らない。これは、すでにマルコの書で、記載済みの事跡場景だから                 あえてヨハネは記さなかったのだ、という安易な理由付けは出来な                 いが、ほかの記事との同様な意味合いで、共観的な三書とは、その                 初めの著観段階から、別異ものとして、ヨハネの著志、書建におけ                 る特質性に左右されてのことであろう。                                 *ヨハネの書の記事内容で、最もその特長を示しているのが、過越し                 の祭の夜での晩餐時の記事である。共観3書のうち、マタイとルカ                 の書での、他の書にない最重要な特長の、その顕著なもの一つは、                 それぞれの<イエスの生誕記事>であった。                 (両者の生誕記事の間に、記載的矛盾がみられるが、これは、ルカ                 がマタイの記事での<東方の博士たちの来訪及びヘロデ王の諸事>                 には、まったく係わる事なく、<生誕嬰児(ミドリゴ)>の2ヶ月前                 後ほどまでの事跡を記すのみで、そのあとはベツレヘム及び宮・エ                 ルサレムを離れて、ガリラヤのナザレ(2:39)に帰ったとしてい                 るからである。マタイの記事では、<博士たちの来訪>が、生後2、                 3月後から1年以内の間のことであり、且つ、親としてのヨセフが                 マリヤと幼な子を連れて、エジプトへ逃れる時期は、1才前後から                 2才頃と見なされ、されにそこからガリラヤのナザレに帰る頃は、                 2、3才頃の事(2:19)だといった、内容記事だからである。)                                  共観3書では、それぞれその著作された年代において、過越しの祭                 の夕食とは、今だなお、非常な選民意識をもって伝統的に重んじら                 れ、守られるべきユダヤ国民の慣習事であった。ところが、ヨハネ                 の書では、その著作年代の歴史的状況が一変したように変容した時                 代(AD70年のエルサレム滅亡、ユダヤ民の離散)となっていた。も                 はやその様々な民族的な伝統の価値が消えうせたかのように無意味                 なものとなっていたゆえ、しかもそのAD70年以前にローマ帝国内、                 特にエジプト、シリヤ、小アジアなど各地に点在していた、ユダヤ                 人の会堂も、それを宣教の足場としたキリスト教団によって、順次                 キリスト教のシナゴーク(会堂)に切り替え変容されることで、継                 続消滅するケースもあったことであろう。(さらにAD70年前後以                 降には国土的拠点を失ったユダヤ民族の新たなディアスポラ・離散                 の民による世界中各地での知られざるコロニー時代が併存するよう                 な趨勢となるが、このような事態の民も、神の預言的言葉への摂理                 の動向に良きに付け悪しきに付け寄与するものとなる。)                 このような時代状況ゆえに、著者ヨハネは、かって大いに重んじら                 れていた<過越しの晩餐>も、あたかも過去の事柄の常識内に留め                 る如くに、もはやその意義も無いかのようなかたちで、ただ<主イ                 エスの最後の夕食>の事跡模様として、記事にまとめ上げるものと                 なる。                 したがって、共観3書の、その記事内容での最重要主点となってい                 る内容文言(これは後のキリスト教教団世界に重きをなすもの)は                 皆無である。                 <”イエスはパンを取り、、、、これをさき、与えて言われた、                 「取れ、これはわたしのからだである。」また、杯を取り、、与え                 られると、、、、言われた、「これは、多くの人のために流す、私                 の契約の血である。、、」”>といった文言がそれで、、、                 これは、後の使徒パウロの宣教以後、最重要化してゆく文言となる                 (教会の記念すべき聖餐の儀の成立へ)のがそれにあたる訳だが。                 (マルコ14:22-24⇒マタイ16:26-28⇒ルカ22:17-20節)                 しかし、共観3書での、<夕べの晩餐>記事は、意外な程に短い文                 言量でまとめられている。ルカ記事だけは、文量を増加して、その                 重要さを大いに示す語句メッセージとなしている。(使徒パウロの                 影響そのものを表わしている。)そこには、イエスの、<裏切り者                 ユダ>への言及の言葉なども織り交ぜて、それぞれに記載されてい                 るわけである。(マタイは、2、3の表現語句で、言い回しを変え                 ている個所があるが、ほぼそっくりそのまま、マルコ記事を転用記                    載したような格好のものとなっている。)                *ヨハネの記事では、他の共観3書のものに比べて、非常に意外なほ                 ど、その文言量が多いものとなっている。が、ただ単に量的文量が                 多いというその点、それだけで<ヨハネの書>の最大の特長の一つ                 と成している訳ではない。                 12弟子と夕食を共にしたイエスの弟子たちに対する最後のスピー                 チや、独白的祈りの言葉があり、またそのイエスの心的なお姿の内                 情という面からも、それが直に弟子たちへの<イエス真理>の現示                 ともなり、その内容全体は、他に類のない<父(なる神)と子(な                 るキリスト・イエス)における存在(応一)の真理>を中心として                 表示するものである。                 (その文量を具体的に章別に言えば、第13章から17章にまで亘                 っており、実に合わせて5章分の量ともなる。)                 主イエス在世、その十字架、甦りの史実の時から半世紀以上(AD30                 年頃 ⇒ 90年近くの頃)も過ぎてから、既存の共観3書にはまった                 く見られない、言示されなかったイエスの言葉とその存在容姿が、                 かって12使徒の一人だったヨハネによって明かされるものとなる                 とは、、、彼のうちにだけ、彼の記憶の奥深い底辺におぼろげに眠                 っていたイエスの言葉とその容姿が、鮮やかに、明々白々なかたち                 で甦ってきたというものなのか、、、、そんなヨハネその人自身が                 まさに不思議であり、神の聖霊、即ち、主イエスの御霊の働き無く                 しては在り得ない、起りえないと云った、そんな彼の執筆展開だっ                 たと言えようか。                *この13章から17章にわたる、<主イエスの最後の晩餐時>の記                 事では、イエスに対して会話的に出てくる弟子たちが、ペテロだけ                 でなく、トマス、ピリポ、別のユダ(裏切り者のユダでない別の)                 そして、著者自身その名を伏せての一人の弟子として、その夕食時                 およびその場景を著し進展させる上で、良きかなめの役となるよう                 なかたちで表わされ出ている。                 (他の3書では、記事が簡潔で短いから、弟子らの名や個人をもっ                 て記述されるような風合いではない。ただ、ルカがペテロの事を、                 またマタイが、裏切り者のユダの、イエスの言葉への受け答えとし                 て、その会話上で名を記している。マタイがあえてイエスとの短い                 やり取り会話で、ユダを浮き彫りにしたのは、彼の性根をよく知っ                 てのことだろう。ユダのその言葉応対をして、その会話的状況から                 幾分でも、彼の<人となり>性根の性格を推察できるとして。)                                  そんなヨハネの著述状況の中で、なんと言っても弟子側での一番の                 主たる最初の人は、ここでは会話言葉無しでの無言人物表示だが、                 その夕食時の場に居合わせたイスカリオテのユダ(裏切り者)その                 人であったろう。                 ヨハネは、そのユダをイエスのお取りになったある行為(弟子たち                 の足を洗うというもの)との係わりの中で捉え、どうイエスが、彼                 を弟子らとのうちで、ご処断されゆくかを微妙な状況展開のものと                 して著している。                *その13章以下、ユダに関するイエスの心境、あるいはその対応姿                 勢の微妙なあり方を、ギリシャ語原文に照らして見てみよう。                 1節では、12弟子の皆、すべてを自分の愛すべき者たちとして、                 とことん彼らを愛しとおされたと、ヨハネは記している。ここでの                 ヨハネの視点は、何も知らない他の弟子らとまったく同じ立場にあ                 る。そんな立場の視点から、2節では、あたかもイエスの立場の情                 況に切り替え、弟子の一人ユダの事情による、イエスの心的姿とそ                 の行状を記す。いわゆる<こんな風なもの>といったふうに。                 この2節のギリシャ語原文を取り上げて見てみよう。 だが、ここで                 の原文の訳出は、かなり難しくて、英語、日本語、その他、色々な                 国語での訳文が見られるが、何故かヨハネの言わんとしたこと、そ                 の真意を表わさんとした意図が反映されるほどの充当性には、少々                 かとも、いまいちかとも言えるものかも知れない。                 以下1節からの文で、その内容との関連性に基づいて、英語                 で言うならば、<and >の接続詞ではじまる、その2節の文は、                 以下である。しかしこの文の内容もまた、3節に係ってくる。                 ”και δειπνου γινομενου, του διαβολου                   カイ  デェイプヌゥー ギノメヌゥー、   ツゥー ディアボルゥー                    ηδη βεβληκοτος εις  την καρδιαν                  エーデー ベェブレェーコトス  エイス  テェーン  カルディアン                  ινα παραδοι αυτον Ιουδας Σιμωνος                  ヒェナ  パラドォイ  アウトン  イウーダス  シモォーノス                  Ισκαριωτης, (3節)ειδως οτι                  イスカリオーテェース、    エィドォース ホティ                    παντα εδωκεν αυτω ο Πατηρ εις τας                  パンタ  エドォーケン  アゥトォーィ ホ パテェール エイス タス                                    χειρας, και οτι απο Θεου εξηλθεν και                  クェーィラス、 カイ  ホティ  アポ スェウー  エクセェールスェン カイ                  προς τον Θεον υπαγει, (4節)~~~~~(5節) .”                  プロス  トン  スェオン  ヘィゥパゲイ、 ~~~~~ 。                                   2節からの一連の文は、ギリシャ語原文では、文の終止符ピリオド                 (.)でもって、文のまとまりを動機的に閉めているのが、5節末                 尾である点に着目すべきである。最新の日本語訳は、以下となる。                 2節=そして夕食時に(その事は)起った事であるが、シモンの子                    イスカリオテのユダは、イエスを引き渡さんとして、密告の                    意(裏切りの思い)をすでにその心に思い据えていたが、                 3節=イエスは、父が自分に、その手にすべてをおゆだねなさった                    こと、そして自分が神から出で来り、神に帰ろうとしている                    ことを知りて、                    (注:この3節文では、事の成り行きが予定どうり確実に                     進んでいる事を、主イエスは自覚認知されている旨を示す                     文言となっている。)                 4節=夕食の席から立ち上がられ、上着を脱いで、拭き布をとって                    自分の腰に巻き付け、                 5節=それから水を洗い桶に注ぎ、そして弟子たちの足を洗い、腰                    に巻いた拭き布でぬぐい始められた。                  -----------------------------                 6節=こうしてイエスは、シモン・ペテロのところに来られたが、                    彼はイエスに、”主よ、あなたが私の足をお洗いなさるの                    ですか?”と言った。 (突然の主イエスのその行為に弟子らは皆、あ然としていたことで                  あろうが、これもイエスの身を挺しての生きた教えであった。)                *日本語訳聖書は、新改訳版も含めて、2節のところで、次のような                 大変な意訳を行っている。                  <”~~、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、                    イエスを裏切ろう(売ろう)とする思いを入れていたが、”                   以下3節に続く。>                 この意訳は、非常にすぐれ、まっとうな訳のように思われ、巧妙な                 る訳ではあるが、原文つづり、その文法的構文そのままの文体から                 見て、あまりにも飛躍したものだという事を否定し去ることは出来                 ない。この訳では、                 <του διαβολου(ツゥー ディアボルゥー)>の語句が、あっさり、                 <悪魔>と訳され、つぎに続く、動詞の完了分詞形の語、                 <βεβληκοτος(ベェブレェーコトス)(=入れる、置く、すえる、投げ                 入れる、などの完了分詞形の意味)>を述部として、それの主語                 (主格)となるような位置にした形式の訳文となっている。                 だが、ギリシャ語原文による、文体構文上での、この二つの語の形                 体は、ギリシャ語文法に従って、その格が主格や対格(英語の目的                 格に相当)の形ではなく、双方相関係する故、格の一致のルールに                 より、両者同一の<属格>として、それぞれその語形語尾変化の形                 をとって、一つの文節をなしていると見なければならない。                 したがって、これらの語句での構文節は、属格グループの文節らし                 く、ほかの主文節に従属、或いは、主文形成のための修飾の働きを                 なすべきものと見なされなければならない。                 そうゆうことであるからして、最も妥当で、飛躍した意訳をなすな                 らば、2節の原文は以下の如くになろう。                               <”夕食時になってのこと、すでに悪魔の思い(裏切りの思い)を                 その心に秘めていたシモンの子イスカリオテのユダは、そのために                 イエスを(αυτον=彼を)引き渡そうとしていたのだが、”>                 という文面の和訳となる。この2節の構文は、ある面独立的ではあ                 るが、3節以降の主文及び主動詞と主語に関連従属した、ギリシャ                 語特有の<接続法>に属する文節と見なされる。そういった従属文                 ではあるが、その文中で、唯一その文の主語の位置をかたちの上で                 取り得ているのが、ユダの名称語句なる<Ιουδας Σιμωνος                  Ισκαριωτης(イユーダス シモーノス イスカリオ-テ-ス)>である。                 もう少し詳しく言えば、動詞の完了分詞形の                 <βεβληκοτος(ベェブレェーコトス)>が、独立属格の分詞形として、                 目的語となる<του διαβολου(ツゥー ディアボルゥー)>を属格の形で                 取ることで、分詞構文節を作り、これに続く <ινα(ヒェナ)>によ                 る接続法の構文に関連付けられた形式をとっている。                 (独立属格の完了分詞の隠れた主語は、勿論、イスカリオテのユダ                 に根ざしたもので、三人称単数を暗示するものとなる。)                *上記した既存の<日本語訳聖書(新改訳も)>の文言に関しては、                 欧米諸言語圏の訳文聖書に一致、順じてのものであり、それゆえに                 なんら問題意識を生じさせるものとならないであろう。だが、この                 隠された<訳文問題>は、非常に根が深いものと言わなければなら                 ない。                 これは、旧約聖書が、初めてギリシャ語に翻訳された紀元前3世紀                 中葉以降、70人訳が出て以来、そのギリシャ語旧約聖書の流布、                 影響と相まって、ヘレニズム精神文化風土は、セム系ヘブライ風土                 をまったく変容混融化するものとなった。                 ヘブル・アラム語の旧約書の数々が、ギリシャ語の言葉概念を要し                 た言語に翻訳変換されるという現実真相は、大変なる影響を後代世                 々に亘って及ぼすものとなる。                 今回ここで取り上げた<2節>での文言もその影響の現われと見な                 されよう。簡潔簡単に言えば、                 その2節での<του διαβολου(ツゥー ディアボルゥー)>なる                 語(主格形διαβολος)は、70人訳旧約書で通常的に訳用されて                 いる。これのヘブル語は < שטך ← השטך Satan>の語に当て                 られている。これはヘブル旧約風土では、<敵、敵対する者、反旗                 する者、敵意をもって訴える者(Accuser)>等の意味概念を表わ                 す語である。したがって、本来的になかった言葉概念の<Devil=                 悪魔>なる意味は、かのギリシャ語に訳された<διαβολος>と                 いう語が有する意味概念領域に含まれていたと見るべきであろう。                 しかも、ギリシャの幅広い神話的概念の領域では、<δαιμονιον                 (ダイモニオン)or δαιμων(ダイモ-ン)=悪霊、悪鬼、死霊>とか、                 また、<πνευμα(プニュ-マ)>とかいった語にも肉体をはなれた霊、                 霊魂、そして悪霊、死霊(生者に作用して悪影響をなすとする無形                 の目に見えない人格的、あるいは非人格的存在を想定したもの)等                 の意味概念があり、そういった言葉の一般化(コイネー化=共通語                 化)もヘレニズム化の一面を映ずるものだった。                 こういった精神的環境風土の中で、< שטך ← השטך (スァタン)                 Satan> というヘブル語句も、                 <διαβολος(ディアボロス)> という語の意味から、<悪魔>とか、                 <Devil> とかいった意味を新たに取得融加することで、逆に反                 転使用されるように至った思われる。                 また、同様に<龍(竜)δρακων=Dragon>とかいった語も旧約                 イザヤ書27章1節にあるヘブル語 リウェヤ-サ-ン(リュビヤタン)に当て                 られた訳語となり、預言者イザヤの、その象徴預言のヘブル語は、                 再び主イエス時代以後、コイネー(共通語)化されたギリシャ語と                 して、新たなる象徴語の市民権を得るものとなる。                 (ところで、面白い事にはオリエント・ヘレニズム世界から東へ東                 へと所を移すと、そんな龍・ドラゴンの言葉イメージも、類似同類                 の範疇にありながら、東洋系独特なものへと概念変容していったと                 見るべきかとも想定される。                 が、しかし、やはりこれには、大きく仏教の発展的影響、仏教神話                 (説話)などが絡み、それに古代中国社会での価値観(王龍観)な                 どで、非常に善的イメージを所与されるものとなる。特に日本の中                 世、近世以降では、神道、仏教の相乗影響により、龍神とか、青龍、                 雲龍、昇竜とかの言葉と共に、すこぶる宗教的神的なイメージ対象                 のステイタスが所与されるものとなる。)                *ちなみに2節で訳された日本語聖書での ”悪魔 ”いう語を、本当                 の意味で、正しく捉え理解できるであろうか、ということが一つの                 大きな課題ともなるのではないかと思われる。                 出版されている日本語の今回の訳文の場合:                 ”悪魔はすでに、、ユダの心に、、裏切りの思いを入れていたが、”                 とあり、何か見えない霊の魔者か何ぞがユダのこころに働きかけた                 といった、そんな馬鹿げたイメージを感じさせないとも限らない。                 (実際には、神殿を中心にエルサレムを牛耳治める支配階級の連中                 らによる、イエスを捕えようとの参集体制的な圧力、そういった権                 力事象の風作用を<悪魔>という言葉でもって表現していると理解                 出来れば、この訳での評価も納得のゆくものになろうか。)しかし                 こんな訳が、ヨーロッパ言語圏から日本にまで延々と続き、まかり                 通ってきたのかと思うと、人間の心の観念、思想領域での誤謬が、                 如何に様々な想念連鎖の発揚、発展と共に、その世相風土の趨勢を                 培い築いてきたものかと言わざるを得ない。                *確かにこの2節の文言問題は、これですんなり納得できるとは思わ                 れないと、異議し、いぶかる方も在ろうかと、、、                 特にこの2節は、直接にその章の27節でのヨハネの表述に相双方                 的関連をなしているかのように知られ得るからである。                 この27節も、自然とも、不自然、不可解とも思われる日本語訳が                 見えている。                   ”この一切れの食物を受けるやいなや、サタンがユダに入った。、”                                  この訳は、旧改訳版で、非常に簡潔な意味訳で、判り易い。                 ”彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。、”                 この訳は、新改訳版で、これも意味訳だが、<パン切れ>と訳され                 た点で、その想定に無理がある。というのは、この夕食は、特別な                 意味が込められているからである。他の共観3書で、イエスが割い                 て弟子らに与えられたパンが、イエスの体を象表しているからであ                 る。裏切り者の犬のような<かの者・ユダ>に与える食物の表現に                 は不適切であろう。冠詞付きの<το φωμιον (ト プスソーミオン)>                 は、その語自体、一切れ、一口、小片,一片とかの食物という意味                 の言葉で、パン、あるいはパン一切れといった、意味は見出されな                 い。よって現代的にパンとするのは、いかがなものかと思われる。                                  ところで、問題は、<”サタンがユダにはいった。”または、”彼                 にはいった。”>という訳の文言である。これは、いったい、どう                 いったことを表わしているのだろう、目に見えない無形の(霊とか                 で表されうる)敵なる存在者、イコール<サタン>と見なされて、                 その者がユダに入った。乗り移ったとか、憑かれたという事を言っ                 ているのだろうか。まったく不可解な表現ではないか。ギリシャ語                 原文は、どんなであろうか、確かめて見るべきであろう。                                   ”και μετα το ψωμιον τοτε εισηλθεν                  カイ   メタ   ト   プスソーミオン トテ   エイスェールシェン                    εις εκεινον ο Σατανας. ”                  エイス  エケィノン   ホ  サタナース。                 厳密な直訳は、<τοτε(トテ)そのとき>は、前置詞 <μετα> が                 あって、その前には置かれない副詞として、後置されるから、、                 と言うのは、<μετα το ψωμιον>の表現語句そのものを強調する                 ため、<τοτε>の前に置いて、その意を表わすものとしているから                 である。                                  ”そして、一切れの食物でもって、そのとき、入った、その者(                  ユダ、彼に相当)に、サタンが ”                 (==そしてその時、一切れの食物でもって、サタンが、その者に                    入った。==)                                 という逐語訳(literal translation)となる。やはり、この直                 訳でも、ずばり<サタンが入った。>の原文表現そのままとなる。                 この<サタン(ο Σατανας ホ サタナース)>のギリシャ語は、すでに                 前記したヘブル語 < שטן (スァタン)> と同義語で、その当時、                 一般使用されたアラム語の < םטנא(スァターナー)> のギリシャ語ア                 ルファベット綴りで、音訳&語形転化したものである。 だが、                 これには、冠詞 ο(ホ)が付いて、しかも大文字の Σα....(サ)で                 もってはじまる<固有名詞>ともなっている。こうなると、まるで                 見えざる人格的な存在か、何かを思わせてしまう。しかし、実際ヨ                 ハネが意図した語句表示の真意は、冠詞付きの頭文字で<その語を                 強調すること(その字を大文字にして)>であった。つまり、                 ユダの心の変容ばかりでなく、反動的に顔の表情までもが、イエス                 に対して異様なものとなったことを示さんとした事にある。                 著者のヨハネにとって、この時のユダについての印象、一切れの食                 物を受けた時のユダの瞬時な表情が、すこぶる印象に残っていたと                 思われる。と同時にイエスが、その <一切れの食物> でもって、                 ユダに応対された、その暴き出しの行為の内容、あり方、方法とか                 においても、あえてユダの心をいらだたせ、憤怒させる向きのよう                 なものとして、ヨハネは、これを記憶にとどめていたに違いない。                 それだから、<μετα το ψωμιον>の語句も、それを強調すべく、                 ”και ”の後に続く文の先頭に置かれている。                                  したがって、この <ο Σατανας ホ サタナース> は、ユダが、外的に                 イエスから受けた、一切れの食物<το ψωμιον>をその契機的                 起因としたものとして、ヨハネが実際に見、捉えたところの場景の                 記憶によるものだからして、自ずと外的な<サタナース=サタン>                 とならざるを得ないわけであった。                 このサタンは、ユダ自身にとっては、もはや後戻り出来ない、実行                 あるのみの、<裏切り者>としての<敵意>であり、憤激と心に抑                 制されていたイエスに対する鬱積の思いとが伴ったものであった。                 結局、ユダは、他の弟子達のように、<イエスの言葉、行状お姿>                 によってきよめられた者とはなれなかった。弟子達の足を洗いなさ                 るイエスの行為とその教えの言葉(これには、人の生き方における                 人間関係の色々なケースにおいて多様に変移、用転化し、無限に広                 がりゆく人のあり方が秘められているが、)も、今だそれほど理解                     出来ていない弟子達ではあったが、イエスが最後まで彼らを愛し通                 されたというかたちにおける、その生きた教えであったというもの                 だが、ユダにとっては、それが決定的にその方向付けの明暗を分け                 るものとなった。                 イエスがその行為での、ユダの番の時に、こんなふうに言われたか                 も知れない。                   ”ユダよ、オー、汚れてないね、、” ユダ、答えて言うに、                   ”私はいつも気をつけてますが、、先生、無駄ですよ、こんな                    事なすって!、、、”                 ユダにとって、イエスのこの足洗いの行為は、どうでもいい様な、                 無意味で、うっとうしいだけの事でしかない、そう心の内で考えて                 いたようである。(イエスを先生呼ばわりし、師、頭目とはしてい                 るが、その実、心の内ではライバル欲さえ抱き、今回の夕食時でも、                 イエスの左隣りに座して、あたかもナンバー2の如き感のユダなの                 だった。)                 イエスは、今や<人の子>として、父(なる神)からすべてをゆだ                 ねられた(3節)身であり、自分の足(信仰)でもって、その知、                 感性能力のすべてをかけて、<神の定めた十字架の秘儀>への道、                 その現実事象の実成を、もはや完結するほかないという<最後の使                 命>を負う。                 いよいよ心に緊張、緊迫ありて、慎重に事を運び、心にその事象へ                 の係わりのすべてを掌握し、十字架上の最後までその主導意識をキ                 ープしなければならないという状況にあり、それ故、                 ユダに関わることは、その大いなる事へのさきがけとしての、今や                 重要、慎重視されるべき、大事な最初の起点でもあったわけだ。                 <弟子は、その師以上の者ではない。>また16節のイエスの言葉                 もユダにとっては、意義あるものとはならない。イエスを見ていて                 も、まったくイエスが見えてないユダ、とうとう、このイエスの時                 にありて、彼ユダのことが、                 ”皆がきれいなのではない ”(10節)                    というイエスの言葉によって、その該当者たるを露わにする結末に                 至らせるを余儀なくさせたということになる。                 (一切れの食物は、過越しの夕に<子羊>をほふって、焼いて食べ                 る場合の、その肉の一切れであろう。だがイエスが、あえてそれを                 不適切な浸し皿につけての、それを与えなさったという事だ。)                *しかし、ユダにおけるこのサタン(=悪魔)問題は、これでさっぱ                 りと済まされるという訳にはいかないようだ。聖書は特に新約聖書                 の全体分野にも及んでいる事柄であるからだ。キリスト教徒にとっ                 て、何か<信仰の純粋>らしさ故に、聖書の言葉を字義道理丸呑み                 する人々(多くの人々がそうかも知れない)が、その良し悪しにつ                 き、陥りやすいのが心の偏狭さということになるのだが、、、、                 ここで、主イエスご自身が語られた言葉、そして、主イエスが生き                 ご活動された立場それ自体にまつわる歴史的精神基底を問うべき事                 となろうか。                                  ヨハネの書の8章44節で、イエスは、エルサレムのユダヤ人らと                 の対話のやりとりで、彼らに以下の言葉を投げかけている。                 ”あなたがたは、悪魔なる父から出てきた者であり、そのあなた方                  の父の欲望どうりを行おうと願っている ”                 (υμεις εκ του πατρος του διαβολου εστε και τασ                    επιθυμιας του πατρος υμων θελετε ποιειν.)                 イエスがこの言葉を、彼の高次なる意識にあって、譬え話しでの象                 徴と同じという訳ではないが、それに類比した<象徴語>のレベル                 で、<父=πατρος>、そして<悪魔=διαβολου(διαβολος)>                 と言って、お語りなさっている事は、その対話場景を考慮すれば、                 明らか至極な事実となろう。                 もちろん、そのユダヤ人らが ”自分たちの父はアブラハムだ ”と                 言ったその現実、その言葉との係わりにおいてだが。しかしながら                 イエスは、そのことをアンチテーゼなものとして、彼らのイエスに                 対してとるところの立場を、その象徴語をもって手厳しくご明示な                 される。そして、神なる父から<つかわされた者>、神から出た者                 であって、現に神から来ている者であるのに、そのイエスを認めよ                 うとしない。また、イエスの言葉を悟ることが出来ないような、そ                 んな心になっている。だから、イエスとの最初の接触、出会いの時                 点、その関わりのそもそもの<初め>からすでに、そのような者は                 <人殺し>であり、真理に立つ者ではないと。<悪魔なる父から出                 てきた者>だと象徴表言して、その彼らのうちには真理がないから                 だと言う。真理を知ろうとしない者は、誰でも、そもそも初めから                 そうなる(悪魔を父とするような者になる=象徴表現)のだと、主                 イエス自らが彼らに断言するほかない。そんなご自分の立場をも見                 せつけるようなものとなられている。(44, 45節以降)                 結局、イエスのそういった言葉とは裏腹、対極的に、神殿信奉の保                 守的ユダヤ人らの半数以上は、かえってイエスを<悪霊にとりつか                 れている者>と非難し返すようにしか見ることが出来なかった。と                 いう意思疎通での大変なギャップがあったようだ。(人間とは、立                 場の違いなど、文化や伝統その他色々な面での相違により、本当に                 なかなか理解し合えるものではないと言うことだが、昔も今も変わ                 らない現実であろうか。)                 このようなユダヤ人の立場は、ある意味で、選民として、その神を                 信じているというその方向性において、底知れない窮極的な悪性面                 に至り着いているということを示すものである。                 当時のエルサレムを中心としたユダヤ人たちとイエスとの大変なる                 コントラスト、(そのことがイエスのみ教えの場で、処々に見られ                 るのがヨハネの書のひとつの特徴ともいえるが、)                 そのユダヤ人らは、先祖代々から伝えられている神を、何か絶対至                 高の冒すべからざる神聖な存在として<たて祭る奉儀>の対象とし                 ていたが、片や異邦の神々の神殿と大差のない、奉物奉献を大いに                 事とする利得営利な社会の慣習の下にあった。日常生活では、モー                 セ5書を自分たちの生活伝統の拠り所、支柱としつつも、モーセの                 律法の真意に外れたような、あるいは自分達に都合の良い利役な解                 釈を施したりして守るようなものであった。(タルマッドの書が出                 来たのもその傾向によるものとも。)                 それに対して主イエスは、神を<自分の父>とし、自分は、神なる                 <父の子>であるとされ、その父なる神から自分は出で来たもので                 あると証しされた。                *イエスはユダヤ人や、その他のイスラエル人の民衆の抱いていた、                 メシヤ(キリスト)観が、ご自分の意にかなっていないことを知っ                 ておられた故、自分の口からはそれを言明されることは、ほとんど                 なかったようである。                 主イエスは、自らをしばしば<人の子>と云っておられる。これは、                 勿論、<神なる父の子>である自分が<人の形をとった存在>とし                 て、現に今在るという自己意識から、そう自己表示なされ得たもの                 である。彼のこの自己意識の人格性こそは、子としての<神性>と                 言わなければならない。                 古イスラエル民族の長き時代には、神を<主(ヤーウェ、エホバ)>の名                 をもって、異邦の神々から聖別してきたが、主イエスの時に至って                 は、さらにその<主なる神>をば、彼イエスをして、<父>と呼ば                 しめる<新しい時の始まり>を啓示するものとなった。                *主イエスのかってない前代未聞の高次な<自己意識>は、そのヨハ                 ネ書の<最後の晩餐時>での第14章から17章において、非常に                 顕著に現われていると見なしてよい。ヨハネは、そのイエスの語る                 お言葉にあって、そのお姿(人格姿)を捉え見たものとしている。                 このイエスの自己意識は、父において何一つ知らないことはない、                 何でも知ることができるという霊能の才を自覚されているからして                 そういった面から言えば、現代科学の一切の知識をも凌駕するが如                 き存在ともなりうるお方でもあったと云えようか。                 だが、<子なるイエス>は、ただひたすらに<父なる神>の御心に                 従うべく、そのイエスの今ある世界、今ある時代において、彼の第                 一とすべき大事を全うする事、そのご使命の道に歩まれた。その意                 味においてイエスは、結果的にはご自身を<自律自己限定>された                 ということになる。                 このような自己意識のイエスと、世界内的にタイアップ関係となり                 得る、その対外的同時代世界の世相環境、乃至は宗教的、神話的な                 要素を含めた広汎雑多な<観念的精神環境>を、広汎世界的意味合                 いにおける唯一不二の<啓示場>と見なし、その<啓示場>なる世                 界が、啓示主体のイエスに対して、如何なる受容態的様相(形相)                 をなしていたのか、またイエスご自身のそれへの<臨まれ方(主体                 主導的あり方)>の事象は、如何なる真相のものとなったのか、そ                 の相対相関的な係わりの場それ自体にあるところの実相を垣間見な                 ければ、本当の意味での真実性は見えてこないと云えようか。                *イエスに係わるこの<啓示場>は、その当時代的精神風土をして、                 もはや、狭義な意味でのユダヤ教的旧約風土に相当限定されるもの                 ではなかった。                 メシヤ(キリスト)として立出すべき<神の御子>なるイエスは、                 今や世界史的視野の展望が可能となった<啓示場>、その枢軸的な                 時期において、その到来を適時なものとなし、自らを世界に向けて                 現実化(メシヤ真理、原理の実現)するものとなった。                 このイエス到来の時代は、まさにその古代世界の観念風土、思想的                 風土の熟した時であり、且つ、他方では<理性知>に目覚めた思潮                 によって、古代的時代形相に質的変化をもたらしうるという、大き                 なターニングポイントの流れの時期に入っていた。そう云う特異と                 も思われる歴史的特長を示すものであった。                *このイエス到来の<啓示場>は、古代観念思想の円熟期であると共                 に、その形相に質的変化をもうながす、新たなるターニングポイン                 トの時期でもあった。これを一般世界史の流れに沿って、外的に位                 置づけるとすれば、古代ペルシャ帝国時代からアレキサンドロス大                 王以降のギリシャ・ヘレニズム時代、そしてその延長路線的なロー                 マ帝国時代に亘る長期な過程において、それらの諸要素が培われ、                 混淆熟成され、かなり普遍的、一般的に所与化をなして、その諸観                 念的意識風土の現生化を見るにいたったという事になる。                 その一例を挙げて言えば、バビロン捕囚のユダヤ人の宗教思想の与                 えた影響、メディア、ペルシャでのアーリヤ民族系の祭儀宗教を根                 として、開化され、当時のペルシャの国教とまでなった、ゾロアス                 ター教、その教理思想は、当時の新しい世界観としての思潮を物語                 るものであり、まさに<自然宗教的な面での人間理性の目覚め>を                 示唆するような典例ともなる。                 バビロン学徒のユダヤ・ヘブライ思想(旧約書)との併存関係的な                 刺激交流の時代史を辿る中、広範囲なオリエント世界に及んだその                 影響力は、すこぶる大きなものとなった。                 小アジアの西岸地方での<ギリシャ神話とその宗祭儀>の意義も著                 しく衰退低下し、新たな変容をば余儀なくされる。この神話世界か                 らの逸脱がまた、ギリシャ哲学発祥への契機的発端の一要素ともな                 る。世界を探求する<理性知>を求め、知を愛することへの目覚め                  とその発展が論理精神の概念的熟成へと向かわせるものともなる。                 (帝政ローマ時代にローマ軍人らに信奉支持されたミトラ教もゾロ                 アスター教から派生したものある。これは密儀な儀式を地下要害や                 洞窟要害で執り行った慣わしで知られ、ダニエル書第11章38‐39                 節に比定されるとも。                 さらに時代が下るが、AD2世紀後半以降、西は北アフリカにも及び、                 東はインド、チベット方面、特に中央アジヤで盛んになった<マニ                 教>もゾロアスター教の教理思想の根幹に根ざして派生したもので                 ある。一時的とは言え、東洋方面への<観念的影響>があったと思                 われる。具象的な<マニ車>による宗風、慣習などもその表われと                 言えようか。)                               *今やイエスの<啓示場>は、諸観念思想の熟成時代を迎えていたの                 であるが、このような<啓示場>世界が、なにゆえイエスにとって                 必須なるものとして、対具前提なものとなり得ていたのか。                 この<啓示場>は、イエスの存在(その活動=御業と言葉)を強調                 強化たらしめ、確固不動なる<神啓示>として、全面的にバックア                 ップし、その有効性を長い時代に亘ってさえも持続させんがための                 ものであった。                     当時の諸観念成熟期には、<霊的存在>に係わる観念意識が非常に                 強く高いものとして感覚的にも想念的に敏感に作用する、そんな観                 念的人間性の時代世界となっていた。諸々の<霊的存在>の諸観念                 形相も、人の表象感覚作用、想念作用が創り出したに過ぎないもの                 で、それ自体元々本来的には実在しないものである。元々諸事象へ                 の反映解釈、自己省察、自己幻想などにより、その実相を得ている                 という意識にあって、その存在化を成り立たせている。云わば人間                 の知的想像能力が結実せしめた、<仮想現実の所産>それ自体の意                 識付けに過ぎないものであった。だが、そこから派生して来る数々                 の文化というものは、その人間社会の営みの証となろう。                *イエスは、このような一般的<啓示場>に対して、そのなかで、神                 存在の啓示(御業と言葉)をお立てになった。つまり、本来的に、                  <霊なる存在>は、唯一真の神のみであって、他の如何なる存在も                 そのような存在本質を有しての存在はありえないという事であるか                 ら、イエスが<父啓示>でもって表わす、この神に対して、<仮想                 現実の所産>たる<霊的存在>をあえてタイアップさせることによ                 り、その真の神なる<霊存在>の現実性、あるいは実在性をより強                 め、高め、深める効果に寄与させ、役立たせているというものだ。                 人の感覚意識が創出した仮想的現実が最も色濃くその深底にまで発                 展していったのが、オリエント人類史での長い過程の後、ペルシャ                 化され、次いでさらにギリシャ化されたところの、非常に観念意識                 相の強い世界であった。その世界はまた、古代というある限定され                 た時代の流れから、次第に最も良く整えられた体系的言語環境を持                 つに至るという、古代においては非常に稀なほどすぐれた利点をも                 兼ね備えていた。                                  そんな世界(即ち<啓示場>)のうちにあって、ユダヤ・イスラエ                 ル人自身が拠り処とする唯一の外証的アイデンティティーは、その                 民族史的所産となった一連多種な旧約文書巻の体系(70人訳セプ                 チュアギンタも含む)であり、歴史と伝統に裏打ちされたエルサレ                 ムとその宮・神殿であった。                                 *このような観念意識のバーチャルリアルティー的な虚構の現実にお                 いて、イエスの御業(奇跡)と言葉が、より一層強力効果的に人々                 の心を印象付けるものとなり、社会的にも多様な影響を表わしうる                 ものとなる。そこで、そんなイエスによる具体的事例を2、3取り                 上げて見てみよう。                 ●その例①:マルコの書第9章14-27節での記事から。                                     ここでの記事内容は、イエスが<おしでつんぼの子(少年)>                   を、お癒やしになる状景を描写しているものである。                   マルコを名のる著者(ヨハネ)は、イエスとその子の父親との                   言葉のやり取りの中で、イエスの応対姿を捉え表わしている。                   その父親は17節で、”<おしの霊につかれている>私の                   息子”と言っているが、その霊により生じる子供の異常な様は                   ”彼を押し倒し、あわを吹かせ、歯をぎしぎしくいしばり、体                   をひきつけこわばらせる、、、、”(18節)というもので、                   しかも、物が言えず、耳も聞こえない、最重度の障害異常を現                   わしている子供であった。                   著者マルコ自身も、その25節で、その霊を<けがれた霊>と                   見なして、その時のイエスが、その<けがれた霊>を叱るよう                   にして言われた言葉、そのままを記している。                   <”おしとつんぼの霊よ、わたしはお前に命じる、この子から                   出て行け、二度と入ってくるな。”>(25節)                                      ここで、<霊>と和訳されたギリシャ語は<πνευμα>プニューマ                   であり、中性名詞の語である。これには多種な意味概念があり、                   多様に使い分けられている。ここの記事では、以下の語句(と                   それらに係わる中性3人称の代名詞格)が見られる。                                      ・πνευμα αλαλον(プニューマ アラロン)<おしの霊>(17節)                                        ・το πνευμα(トォ プニューマ)                           中性形冠詞付きでのただの<霊>(20節)                   ・τω πνευματι τω ακαθαρτω                    (トーィ プニューマティ トーィ アカサルトーィ)                     与格の冠詞付き、語尾変化で<けがれた霊を>(25節)                    ・Το αλαλον και κωφον πνευμα                    (トォ アラロン カイ コーフォン プニューマ)                       中性形冠詞付きで<おしとつんぼの霊よ>(25節)                   マルコは、ここでの光景を詳細に捉えているが、子供に生じる                   異様な状態に関しての、いわゆる病名をもって示しうるような                   知識を得る事も、持つ事も未だ出来なかった。これは当時の時                   代としては、至極当然のことであった。しかし、かなり後にな                   って著された<マタイの書>での同類記事では、<天体の月の                   力、影響によって起る気違い病>と考えられたギリシャ畑から                   の情報を得ていたことで、<σεληνιαζεται=(セェレーニアゼェタイ)                   =月(σεληνη = セェレーネー)に打たれて>という直訳の意味を                   持った動詞形(基本形:σεληνιαζω)の語を用いている。                   (英語の<lunatic>は精神病者、狂人とあるが、語源がラテ                   ン語(luna=月)に係わり、ギリシャ語のsele-ne-に遡る。)                                      これの日本訳では、<癲癇(テンカン)>の病気との見識により、                   後に続く語句と共に ”てんかんでひどく苦しんでいます。”                   とかに意訳されている。(マタイ書17章15節)                   マルコによる病状記述では、生まれつきの<真性癲癇>の初期                   症状から徐々に進展してきたようで、                   それが幼児期(21節)、言葉を覚え始める頃、その父親が、変                   だと気づいたようだ。それ以後、次第に病状が異様なものとな                   って現れ、定着していったものと思われる。(幼児期に頭への                   外傷で脳への損傷があり、癲癇風の症状が出るとのケースもま                   れにはあり得るかも知れないが。)                                      現代でも真性の<癲癇病>が、病理学的に完全に解明されたと                   いう訳ではないが、脳の神経細胞相互間の異常な働き(神経伝                   達物質の正常な授受がなされないことによるイオン放電の細胞                   破壊など)により、それが神経伝達系統上に奇怪な症状となっ                   て現れることで知られている。神経細胞とその相互ネットワー                   クの欠陥とみられるが、その原因が、脳の形成時での発育不全                   によるものか、遺伝子、遺伝によるものか、定かでない。                                 古代紀元前後近くまでの時代のオリエント世界、特にシリヤ、                   パレスチナ地方での人々、民衆の生活は、非常に過酷であった                   と思われる。部族民族間の興亡が長い歴史の過程で幾度となく                   繰り返され、ギリシャ分立王朝間(エジプトとシリヤ)での紛                   争などで、自然環境も貧しくなる一途を辿っていた。家畜、特                   に羊やヤギなども、牧草地の争奪競争で、草がなくなり、荒地                   と化したり、砂漠化する傾向をも伴う状況となっていった。ま                   た帝国強国間での領土争奪地帯の対象のようなものであったか                   ら、いつその戦争の災禍で、生活が破壊され、疲弊と不安を強                   いられるか知れないものだった。(ヘロデ大王のエルサレム神                   殿再建の時期からイエス生誕を経てイエス時代、その後のAD                   60年代後半までの約80数年間は、まさにユダヤ最後の復興                   期となったようであるが、ローマの属領支配下での平穏さにお                   いてのことであった。)                                      現代生活の豊かさと比べたら、天と地ほどの違いがあり、生活                   の基本となる日々の食料にも、いつ事欠く状況になるか知れな                   いような、そんな生活環境のものであった。食べる事も満足に                   出来ない状況下では、その生育期に体に欠陥を持たざるを得な                   いような人が出てきたり、病気持ちの人、病に罹り易い人も多                   くいたに違いない。                   食事に関する栄養素の知識もなく、病気に関する療法も医学的                   知識も乏しい時代であり、その上、民衆の心は、むしろ<悪霊                   観念風土>に汚染され、神殿詣ではあっても、その迷妄な心に                   は、信仰そのものに関する知識も感性もない始末、当然、病気                   などで原因の判らない場合や、不可解な事への考え方は、その                   起因が<悪霊によるもの、悪霊の働きによる>との判断に帰着                   することになる。                   イエスもそういった時代の<民衆の心、意識のレベル>の中ま                   で、自ら降り立つかたちで、ご対応されていると見るべきだ。                   マルコ書の25節で、イエスは、                   <”おしとつんぼの霊よ、わたしはお前に命じる、この子から                   出て行け、二度と入ってくるな。”>                                      と言って、そんな人々、民衆レベルに、あえて表現、表情を合                   わせているのだ。が、しかし実際のホンネ、その限りない知と                   信仰の心、そのレベルでは、19節で言われた、イエスの心か                   らの叫びの言葉に現れている。                   <”「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、                      私はあなた方と一緒におられようか。いつまで、                      あなた方に我慢できようか。、、、」”>                               主イエスの願うところ、信仰と神の言葉の何たるかを知ってい                   れば、<そのような不憫な子供が生まれることもなく、また、                   <悪霊風土のような迷妄なる観念世界>からも解放されるであ                   ろうに、ということになろう。                                     ●その例②:同じくマルコの書、第5章1-20節の記事から。                        先に挙げた例は、幼児の頃からその発症が顕著となった、先天                   性の癲癇(テンカン)であったが、この2例目の記事では、大人、                   30代前後と思われる男の狂人、頭のおかしくなった重度の精                   神障害者の事例である。                   主イエスが、<悪霊につかれた者>を癒された、その人数は、                   人知れず多いものだったと、4福音書から知られるわけだが、                   <けがれた霊に、悪霊につかれた人たち>に関するニュアンス                   は、かなり色々で、幅の広い感じのものであった。病人や、身                   体障害者に色々あるようにというのと同様に、、、、                   イエスが幾多の会堂で教えを語られた折に、その会堂内で突然                   大声で叫び出し、直接イエスに自分を自己表示しないではいら                   れなくなった、そんな憑かれ意識の者も、その類の内である。                   (マルコ書1章23-27節他)                   ルカの書8章2節では、あのマグダラのマリヤも、何と<七つ                   の悪霊>を追い出してもらったと記されている。七つだなって、                   一体なんだろうと、何か異様な感じがしないわけでもないが、                   その当時の精神的な一面での<悪霊観念風土>を感じさせない                   わけにはいかない。                   おそらくユダヤ社会の精神的な目に見えない構造形相から、自                   分らの<生活律法>を守っているノーマルな民衆の立場、その                   目線から見て、またそう言った目線を助長した<律法学者・パ                   リサイ人ら>の異邦宗教、思想に根ざした<悪霊観>の混在、                   汚染されたかのような意識の立場から、ノーマルでない異邦的                   なもの、考え、教えに憑かれた連中を厳然と区別し、彼ら<諸                   々の悪霊憑かれ>の者らに対して、そのレッテル表明を行って                   来たのではないかと思われる。(イエスの場合にも彼に対して、                   悪霊を<悪霊のかしら、ベルゼブルによって追い出している>                   と、決めつけているのが見られる。マタイ12:24、マルコ3:                   21-30節他)                   かのマグダラのマリヤの<七つの悪霊>も、たぶんペルシャ、                   あるいはインドなど、東方からの<占い>、七つの星占いとか                   の言葉の霊にとりつかれていた娘っ子であったということかも                   知れない。(無学文盲のような古代で、会堂で子供たちが当時                   の基礎教育がきちっと受けられるかどうかも、その時の生活状                   況次第ということだから、どのような大人に成長するか、定か                   ではない。)                   さて、例②で挙げたマルコ記事とその内容に関して、色々と推                   察、検証を試みて見よう。                   先ず同様の記事が、ルカの書第8章26-39節とマタイの第8章                   28-34節で見られる。                   ルカの記事の方が、幾分かマルコのものよりも、解説的にすっ                   きりして分かり易いといえる。                   しかし、ルカは、マタイのものを加味資料とし、マルコベース                   を視点にして、その内容を違えることも、欠かす事もなく、し                   かも自前解釈をも添え、その記述を解述的に変えた表現を取っ                   ている点では、当時としては納得の行く、優れた文言記事とな                   している。                   (マタイの文言の一部も、ほぼそっくり借用されているが。)                     そのルカの文言をも参照しながら、この記事の内容あらましを                   見ると、イエスがガリラヤのカペナウムという町の方面側の海                   岸(湖岸だが)から、デカポリス地域の北端でもある、南東の                   対岸、ゲラサ人の地に渡られたということで、その事跡は起っ                   ている。このデカポリス地方は、イスラエルの子孫系の民衆に                   とっては、異邦人の地であり、色々な人種が生活している所で                   あった。ギリシャ人系の市民が自治をなすポリス(都)もあり                   また、ローマが管理する町、ガリラヤの領主ヘロデが管轄する                   町などもあったが、とにかく異邦的文化、ギリシャ・ローマ風                   を主要とした地域であった。(<ゲラサ人の地>とあるが、地                   図では、ゲルゲサという町の南隣近郊の海岸地域と見られる)     【地図参照】                   その地域にイエスが行かれたということは、少なからずご自分                   の民(イスラエルの子ら)も住んでいたからであろうが、やは                   り、先ずは<失われし同族の子ら>を救うべしという思いと、                   聖霊の導きにより、そこに向かわれたと見られる。                                     小舟からその地に上がられて、ほどなくしないうちに、それ程                   遠くないところに幾多の<岩ほこ>からなる墓場がそこにあっ                   たわけで、そこをねぐらにしていた悪霊つかれの者が、2、3                   艘の小舟の人らを見て、何か物珍しげにではなく、むしろ自分                   の生活領域に進入されたかのような面持ちで、墓場のほこらか                   ら出て来て、何かわめきながら彼らのところに近づいて行き、                   イエスに出会ったというわけだ。(5章:1-2)                   弟子らも、短い腰布だけを纏いからげ、上半身はだかで、髪、                   髭、もじゃもじゃのその男の異様さを一目見ただけで、<狂っ                   たお人>だと、すぐに見分けが付くほどであった。                   この男がイエスのところに近づくや、イエスの聖麗、只ならぬ                   風貌が目に映るや、敏感に反応するところありて、(ノーマル                   な人より、返ってこういった精神異常者の方が正しい意味で、                   自己防衛的に過敏、過剰に反応するものとなる。)                   たちまちひれ伏したままで、頭をふり振り何度もイエスを拝す                   るではないか。                                         これを見てイエスは、哀れまれ、即座に”「けがれた霊よ、こ                   の人から出て行け」(8節) ”と言われたが、そのイエスの一言                   いまだ成らず、それに対してこの狂った男が示した反応は、大                   声をあげて、                                      ”「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わり                     があるのですか。神に誓ってお願いします。どうかわたし                     を苦しめないでください。」”                   と叫びの嘆願をしたではないか、、、、、。                   新改訳では、<Τι εμοι και σοι,(ティ エモイ カイ ソイ)>                   (単純直訳:私とあなたとは何なんですか。What is I and                   You,)のところが、かなりの意味訳、他に<神に誓って>のと                   ころ<ορκιζω σε τον Θεον,>も、そうだが、、、、                   (単純直訳:神かけてあなたに懇願します、)意味訳は、時と                   して、先入観に捉われやすい。(欧米伝統訳もその内だとか)                        ”「いと高き神の子、イエスさま、<いったい私に何をしよう                   というのですか。>神の御名によってお願いします。どうか私                   を苦しめないでください。」”                   との訳をなしている。どちらの訳も、                   この男自身が、自らを<とことん悪い者であり、世間からもそ                   う見られ、離れていないと、鎖、足かせで、いじめられるほど                   自分が狂った悪いやつなんだ>と、すっかり思い込んでおり、                   これ以上、行き場のない自分を苦しめないで下さい、いじめな                   いで下さいと、必死に嘆願しているものと見受けられる。あた                   かも大の大人、男が、幼い子供ようになっているかのような風                   合いさえ感じられる状景ともいえる。                                      ところが、同一記事であろうはずのマタイの書の記事(8章28-                   34節)では、                   その時の事跡を極めて自前解釈的に簡略化し、淡々と記すよう                   な感じで書きとどめている。しかも一人ではなく、二人の<悪                   霊つかれの者>としている点などにより、全然異なる、違った                   印象のものとなるような趣きさえ感じられるものとなる。                   (マタイがこれを簡略化した訳経緯とかがあると見られるが、                   彼の福音書編纂記述の意図、構成のあり方に因るものなのかと                   いう点、また彼自身に係わるわけあり的思惑かどうかという点                   なども含めて、あとで明らかにしたい。)                   マタイはその時もう一人、同じような出で立ちの小柄な男が、                   ノコノコと彼の後を付いて来て、離れたところに突っ立ってい                   た、その男が彼の目に留まって、何となく印象に残ったという                   事なのだろう。狂った男には連れがいた、彼らは、彼らなりに                   <心の通じ合える>同僚だと、見なしたわけか。、、、                   それでマタイは、二人の事柄として、そのイエスの事跡を扱っ                   たというわけだ。、、真相は如何に、、。                   マルコの書では、イエスが、額ずいているその男に名前をお尋                   ねになっている。(9節)                   するとその男、ちゃんと答えられるではないか、前に叫んで言                   った言葉以上に、それとは逆にむしろ一見、ノーマルで落ち着                   いた感じで、、、、                   ”「レギオンと言います。大ぜいなのですから」”と答え、                   ここから(この土地から)追い出さないようにと、そう願う言                   葉をしきりと口ずさんで願い続ける。(10節)                   そんな光景をマルコ(ヨハネ)は見て、記しているのだが、                   ここでは、その男の答え方にはなんら問題はなく、正常な心情                   の如き、それであるように思われる。がしかし、答えた<その                   言葉自体>に、その男の<狂った心、精神状態そのもの>が表                   出していると見られる。                   ギリシャ語文での会話のやりとりは、以下に取り上げてみた。                     イエス・”Τι ονομα σοι;”(おまえの名は何というか。)                        ティ オノマ  ソイ                   その男・”Λεγιων ονομα μοι, οτι πολλοι εσμεν. ”                        レギオーン オノマ  モイ   ホティ ポッロイ  エスメン                       (私の名は、レギオ-ンです。おおぜいですから。)                   彼が口に出した自分の名前 <レギオ-ン>は、実はラテン語の                   legio(レギオ)を音写して、ギリシャ語化された語句である。                   そのラテン語の意味はそのままギリシャ語に受け継がれ、それ                   は、ローマ帝国の軍隊を一団単位で表わすもの、<軍団>とい                   う意味合いをズバリと示すものにあたる。                   (隆盛時のローマには、24とか26とかの軍団があったと歴                   史に記録されている。24レギオン、26レギオンとかで言い                   表されるものだ。因みにエルサレムが包囲されたAD70年の時                   の軍団は、ローマ正規軍の4軍団と、プラス属国援軍部隊に依                   るものであった。)                              その男は、イエスの前で最初に大声で叫んで言った言葉、(彼                   は、それを正気の沙汰ではなく、無意識のうちに言ったであろ                   うが、)                   その言葉から判断すると、彼は、ローマ人でも、ギリシャ人そ                   の他の異邦の諸人種の者ではないと見られる。むしろ、明らか                   にイスラエルの子、イエスが現に今、見当てたところの<失わ                   れしイスラエルの家の子ら>の一人だったと言える。                   したがって、そんな素性の彼が、ラテン語系のそのような言葉                   を自分の名前にするという事は、通常ではとうてい考えられな                   いことだ。                   <彼は、自分の本当の名前を知らない、分からない、思い出せ                   ない、失っているとしか言いようがない。>                   とすれば、彼は、過去のある時点で、自分の過去のすべてと共                   にその<自分そのもの>を失ってしまったのだ。自分を失い、                   自分が誰だか分からなくなった。まさにそれは錯乱状態だ。                   さらに加えて、その過去の時点で、それは彼にとって、脅威の                   トラウマとなる、余りにも凄まじい自分への衝撃的な事象だっ                   たろうと思われるが、その時の記憶だけが、彼の新たなる自分                   のはじまりとして意識されるものとなった。このはじまりの自                   分が自分だから、この自分からは逃れ出る事は出来ない。まさ                   に崩壊した人格のなかでの最小限の人格性を留めているに過ぎ                   ないかのような、そんな自己制約を余儀なくされているものと                   なる。知識や情報の自然な取得も、記憶にとどめる事もままな                   らないで最小限の知験となろう。それらの思い出しも、無我夢                   中のうちに必死、緊迫にならないと出てこない、口に出せない                   というものだったろう。                   彼の脳の損傷が回復に至る素養の下地が整えられるのには、数                   年先以降にならないと、その見込みのない自然治癒状況、ある                   いは、生存環境であったであろうか。(適切な治療、良薬何も                   なく、自らリハビリする自覚や意志、能力もないのだから。)                   そして、マルコ(ヨハネ)が、町の人や、豚飼い人らから得た                   情報によると、                   その狂った男は、<墓場やその近隣の山で、昼夜を問わず、叫                   び続けて、その折には石でもって自分の身体さえも傷つけてい                   た>というのだ。(5章5節)                   傍から見れば、その異様な叫び声は、何か野生の獣が吠えたく                   っているかのように受け止められたものかも。、、とにかく、                   何せ、古代の時代だから、そういった狂った人間に対しては、                   <悪霊に捕らわれている>、<悪霊に憑かれている>という、                   外面的な判断認知しか出来ないの現状だ。                              何故、その男は、昼夜叫ばなければならなかったのか。性本能                   機能の重度の狂いと、性体的欲求に関する<正常な自己認知>                   が出来ないで、何が何だか判らないという精神状態からくる生                   体本能の緩衝なのか。叫び、うなり、からだを傷つけて忍び通                   すという彼の行為は、その緩衝を物語るものであろうか。、、                   確かにそういった可能性の発現、あるいは相乗も大なり小なり                   あり得たかも知れない。だがしかし、彼の錯乱状態のはじめの                   初期過程では、そういった面から起因するような可能性は、皆                   無であったに違いない。                   彼の意識錯乱は、その起りの初期から<トラウマの外因事象>                   となったもの、それからくる<壮絶な幻覚、幻影>に自分が捕                   らわれてしまうことで、一層激しい外貌を示すものとなったで                   あろう。こんな時にはきまって自己喪失の夢遊状態で、もがき                   叫ぶ、と云う状況が伴っていたという事になろう。しかも自分                   の大いなる落ち度が、悪魔の落ち度にすり替わり、症状からし                   だいに覚めてくるうちに、いつも<自分が悪霊のものである>                   との自意識の残映に自分を留め置いたまま、同一化してしまっ                   ているのだ。彼が皆から<悪霊の者だ>と言って、何度も鎖、                   足かせで繋がれ、痛め付けられることにより、身をもって<悪                   霊意識>を自分のうちに植え付けられたことによるもので、そ                   んな二次的な社会的人的被害をも併せ持っていたと言えよう。                   (彼のような場合は、戦時における<極度のトラウマ>という                   ケースが丁度それに該当するであろうが、その人個人の精神的                   資質によっても、その度合いとか、結果する状況が違ってくる                   であろう。彼のようなケースを想定した一例を手短に物語って                   おくと参考になるかも。以下をクリックにて)                   ”★奇跡的生還後【ルナ-スティクマン】となった者★ ”                                      彼の精神錯乱の度合いは極めて深刻なもので、心身両面からく                   る複合的二重傷害以上の症状ともなる重度のものであった。                   彼がイエスに願って言った、(12節) その彼の言葉、                    ”わたしどもを、豚に入らせてください。その中へ送って                     ください。”                                      この言葉それ自体が、<彼自身即、悪霊>の存在意識となって                   いることを如実に表象しており、彼本人は完全無欠なまでに、                   その事にまったく気づいていないから、当然そう在り得ている                   訳である。今の彼にとって、まさにそのような状態が自然の姿                   そのものだと言うわけだ。                   彼が切迫感のうちに言ったその言葉、そう言い願ったこの段階                   で、主イエスの彼への癒しの御業、それが最後の仕上げ、完了                   へのステップとなる。                   つまり、彼にとっての最良最適な癒しはステップ・バイ・ステ                   ップの過程を踏むものとなると言う事だ。                  ・そもそもの最初に:”けがれた霊よ、この人から出て行け”と                   主イエスが言われた時点で、外傷の脳内ダメージの癒し、その                   回復が始まり、その場での時間的経過がおよそ10分ほどぐら                     いか、その内外程度ほどであろうか。、、、                  ・次は心的意識次元で:”豚(の群れ)の中への転換移動 ”と                   いう彼の観念的要望を衝撃的な事象をもって完遂表現する事。                   その強力な印象付けのインパクトでもって、彼の彼自身となし                   たる悪霊意識を突き破り、解き払い、正気の新しい自己に目覚                   めさせる。まさにそう成らせるべく、凄まじい衝撃的な現象、                   <豚の大群が、怒涛の地響きをともない、なだれを打って崖を                   駆け下り、海の中で死ぬ(13節)>という現象が引き起こされる                   ことによって。この時彼は、その驚愕の怖さから呆然、唖然と                   なってゆき、正気の新しい自分に目覚めてきたその自分に気づ                   き、さらに驚いて呆然と立ちすくんでしまう。その後、弟子ら                   から差し出された着物を着てイエスの近くに座っていた、とマ                   ルコ(ヨハネ)は、その様子を書き記している。(15節)                   (当時のユダヤ社会では豚を飼うようなことは、めったに見ら                   れないことだ。ユダヤ人の資質を失ったリベラルな者が、人に                   知られないように僅かばかり飼うのがあったかも知れないが、                   とにかくユダヤ人は、昔から豚の肉を食べない。モーセの律法                   で禁じられているからだ。(レビ記11章など参照)参考:                   ”★モーセ律法に見る【食物規制とエコロジーとは】★ ”                                      イエスらが訪れた<ガリラヤの海(湖)>東南岸地方は、デカ                   ポリスという広地域の一部にすぎなかったが、このデカポリス                   では、大小の豚の群れが何処かしこに飼われているのは、ごく                   自然の光景であった。かの豚の群れも、山のなだらかな中腹の                   続く場所にかなり密集させて、餌を食ませていたであろうか。                   マルコは、その数を<二千匹ばかり>と記している。彼がその                   豚飼い人から直に得た情報だから間違いないと言えよう。実に                   首を傾げたくなる数だ。羊などのように大量に飼育できるよう                   な方法システムを開発したのは、はたしてギリシャ人なのであ                   ろうか。羊、やぎは草食だから牧羊環境さえ整っていれば済む                   事だが。豚はイモ、穀類が主食だ。また小屋、豚舎での飼育と                   なり、十分に世話をしないと、汚れがひどくて、豚の体自体が                   尿糞だらけに汚くまみれてしまう。こんなふう故、ユダヤ人は                   不浄のものとして豚を嫌ってきたわけだ。                   豚は、牛、羊などと違い<反芻しない>家畜だから、律法で、                   その肉を食べるな、と規定されている。が、たとえ反芻するも                   のだったとしても、その肉を食べる人は少ないであろう。                   (豚でも、普通500匹ほどいれば、<大群>だと言える。そ                   れが二千匹近くだから、まさにおびただしい大群となる。その                   大群が、群生の何らかの衝動心理の連鎖で、いっせいに動き出                   したというものだ。その時、数匹あるいは十数匹ほどが、先ず                   強い外的な刺激を受けて、急とっぴに駆け出しはじめた。その                                     突然の動揺が、群れ全体への波動行動のはじまりをなしたもの                   と思われる。)                   その養豚牧場にかかわる町の人たちが何事が起ったかと、やっ                   て来た。おそらくその町の主だった人々の共同所有の豚であっ                   たに違いない。大量の豚が死んでしまった。恐れを感じるほど                   に大変な損害が生じたものだ。何が何だか判らぬが、とにかく                   かの人々(イエスら一行)にこの地から立ち去ってもらう他な                   いということで、事の状況が収まって言ったようだ。(17節)                   主イエスは、早々に舟に乗って引き上げる際、その癒された男                   に対して言われた。                   ”あなたの家族のもとに帰っていって、主(神)がどんなに大                    きなことをして下さったか、またどんなにあわれんで下さっ                    たか、それを知らせなさい。”(19節)                   結局、主イエスがその地を訪れたのは、その男の為のみの巡回                   だった、と言う事になる。                   重度の障害から救われたその男は、親類知人だけに留まらず、                   デカポリス地方のいたる所で、自分にしてくれたイエスの事を                   言い広めたようである。これもあとからマルコが伝え聞いた情                   報であったろう。(20節)                   さて、この事跡のマルコ記事に対して、マタイはどんな意図、                   思惑をもって、それを取り上げ、編纂記述したのであろうか。                   この記事に注目した問題点を見るまえに、マタイが自分の手に                   よる新たなる<聖伝文書(マタイ書)>を編纂作成しなくては                   ならなかった、その聖なる思い、あるいは種々なる動機付けを                   少なからずも前もって知っておかねばならない。                   つまるところ、AD50年代前半頃に出回り、知られるものとな                   った<マルコの聖伝書>に関して、その記事内容に何とも言い                   がたい、なにかボリューム感に欠けたような乏しさを感じたの                   は、マタイだけではなかったとも。                   これは、イエスの存在そのものに直に関わることで、在世時の                   イエスそのものに肉薄させるためには、希薄なところ乏しいと                   ころを充足させ、ボリューム感あるものとなし、律足整然たる                   権威を感じさせる<キリスト聖伝書>を標榜するような、そう                   いった必要性を常々痛感していた(マタイ本人だけでなく、教                   団内でも)ことからの由来によるものであろう。                   かのマルコ記事(悪霊憑かれの男の癒し)に関わるマタイの問                   題点を現わにするためには、イエスの事跡、足どりに係わる諸                   記事の順繰りを、マルコの書を中軸にして、ルカの書を対比さ                   せ、その二書との比較をマタイの書でなし、確認することでな                   され得る。(ルカ書を持ち出した理由は、その書の冒頭で、彼                   が<すべての事を順序正しく書きつづって>と表明している事                   への期待による。)以下その順繰りを見てみよう。(この場合                   イエスの公生涯のうち、<荒野での40日を経て、バプテスマ                   のヨハネの投獄後から、イエスのエルサレムへの最後の途に着                   く直前まで>の足どりを辿るものとする。)     【地図参照】 【順繰り番号】・・ 1 ② ③ ④ ⑤   ⑥   ⑦    (章、節省略)  a).ルカ書    ガリラヤヘ  ナザレヘ カペナウムヘ (ユダヤ)巡り (カペナウム帰) ガリラヤノ会堂、 山カラ降リ          (4:14) (4:16) ペテロノ義母 ガリラヤを含む レビの召命、 海辺と山  カペナウムヘ帰              (4:23)  ノ癒シ  (4:44,5:1-16)(5:17-39) 12使徒選立 (7:1-10)                   (4:31-43)       麦畑(6:1-5) (6:6-49)    b).マルコ書   ガリラヤヘ ------ カペナウムヘ ガリラヤ巡り カペナウムヘ帰 ガリラヤノ会堂、  山カラ降リ          (1:14) (カペナウム) (1:21) (1:39) 海辺、麦畑  海辺と山  (カペナウムノ家ヘ)                               レビの召命  12使徒選立  (3:20-30)                              (2:1-22,23-)(3:1-7,13)                     ②③-- → ③ ---- → ④ ----------- → ------ → → ココハ ⑦ダガ⑤ト逆デ、        c).マタイ書  ガリラヤヘ退 ------ ナザレ去リ ガリラヤ全地巡リ ⇒ ⇒ ⇒⇒ 山デノ御教え 山ヲ降り          (4:12)      カペナウムヘ 海辺、諸会堂 (麦畑記事ハ (山上ノ垂訓)  カペナウムへ                   (4:13)  (4:18,23)  12:1-8デ記)*12使選ノ記ナシ (8:1,5-13)                                     (5:1-7:29) 【順繰り番号】・・ 8    9    10 11   12 13 14 ⑮の論外   (章、節省略)                                            ヨハネの書6章1-24節ヲ  a).ルカ書 ナインとい ガリラヤノ  ガリラヤ  ガリラヤ対岸  対岸   (ナザレ)  浜辺カラ舟デ   参照、照合スルト、、、          う町ヘ   町村々  海辺   ゲラサの地  ガリラヤヘ帰 (付近ノ村々) ベッサイダへ   ベッサイダからカペナウムに          (7:11) (8:1-21) (8:22-)  (8:26-)  (8:40-)  12弟子派遣 ソノ途中草野デ  舟で一時戻リ、ソノ後、                                     (9:1-10) (9:10,11-17)  15の如く、                                                     ゲネサレの地ヘ舟デ渡リ、  b).マルコ書 -------- (ガリラヤ) ガリラヤ  ガリラヤ対岸  対岸   郷里ナザレへ  浜辺カラ舟デ   舟ヲツナイデ、ソノ地方ヲ               (アル村)  海辺   ゲラサの地  ガリラヤヘ帰  12弟子派遣 途中草野デ   アマネク巡リ、ソコカラツロの                         (3:31-35) (4:1-34) (4:36,   (5:21) 付近ノ村々  ベッサイダへ   地方ヘ・・・・⇒ 16 と                       5:1-20)       (6:1-6,7) (6:32-,45-52)  いう見方モデキル。   → → --------- →③④⑥の範囲 ---(11)--→ ココニ⑤ガ来テル → 13 以後ハOK → 14  c).マタイ書 --欠如-- --々--- 在カペナウム カペナウム対岸  自分ノ町 町々村々ヘ 舟デ寂所ヘ              (別章   ペテロの家デ ガダラ(ゲラサ) カペナウムヘ帰 12弟子遣,教 (途中草野デ)              13:2-23) シュウトメの癒し の地へ舟渡 レビ=マタイノ召 カペナウム家、海ベ パンと魚ノ奇蹟                   (8:14-17) (8:18,23, 命ハココニ挿入 郷里ナザレ (ベッサイダへ)                          28-34) (9:1,9-13) (9:35,10:1- (14:13-,22-33) 11:1,13:1-,54) 【順繰り番号】・・ 15  16     17   18      ⑲     20 (章、節省略)                            a).ルカ書    --欠如-- ---々---   ----々----  ----々----  ----々----(マルコ記事8:27-9:1           (省略) 転用ニテ記述サレル)                                            (9:10~27)    b).マルコ書   海ヲワタリ ソコカラ    シドン地方ヲヘテ  ゲネサレの  マタ舟デ   ソコカラ          ゲネサレの地ヘ ツロの地方ヘ  デカポリス地方ヲヌケ  浜辺カラ舟デ   対岸ノ  ピリポ・カイザリヤの          (6:53-56) (7:24-30)  ガリラヤの海辺ヘ  ダルマヌタの地方ヘ  ベッサイダヘ  村々ヘ                      (7:31)    (8:10)    (8:13,-22) (8:27-)  c).マタイ書   海ヲ渡リ   ソコカラ    ガリラヤへ帰   舟デ渡リ南下   マタ向ウ岸   ソコカラ          ゲネサレの地ヘ ツロ、シドン  ソノ海ベ、山ベで  マガダン地方ヘ  (ベッサイダ)ヘ  ピリポ・カイザリヤ          (14:34-)  地方ヘ    (15:29-)   (=ダルマヌタ=マグダラ) (16:5-)   地方ヘ                (15:21-)           (15:39)         (16:13-28) 【順繰り番号】・・ 21    22 23 24 25 (章、節省略)  a).ルカ書   14のベッサイダから間ヲ  山ヲ降りて -記載ナシダガ、 <エルサレム>ヘ    | これ以降          省いて20(ピリポ・ 村落地域ヘ (カペナウムでの カペナウム方面カラ | エルサレムへの          カイザリヤ村々)ヲヘテ  (9:37-43) 同類記事) (9:51-) | 途上旅          ヘルモンの山ノ一つヘ      (9:46-50)                (ユエニ6日ガ8日ニナル)          (9:28-36)  b).マルコ書   6日後ソノ地方ノ 山ヲ下り ソコヲ去り  <ユダヤ地方>ト   | これ以降          高い山 村落地域ヘ   ガリラヤヲ通リ  <ヨルダン>東岸  | エルサレムへの          ヘルモン峰ノ一つヘ   (9:14-29)   カペナウムへ   地方ーエルサレムへ   | 途上旅          (9:2-8)             (9:30-33-)  (10:1,32)  c).マタイ書  6日後ソノ地方ノ    山ヲ下ッテ    ソコヲ去り   <ガリラヤ>ヲ去リ  | これ以降          高イ山(ヘルモン山)   村落地域ヘ   ガリラヤ途中  <ヨルダン>の向コウ | エルサレムへの          (17:1-8)     (17:9-21)  カペナウム帰在  ユダヤ地方ーヘルサレムへ  | 途上旅                          (17:22,24-) (19:1,20:17)   ______________。。。。。。。。。。。。。。。。。______________                                     以上のごとく、主イエスの足どりに基づいた共観福音書3書の                   照合を試みたわけであるが、そこで注目されるべきところは、                   マタイ書での【順繰り番号】の2~12項に係わる内容記事部                   分である。                                     マタイの書が成立する以前は、在世時のイエスを知る上での文                   書資料の主要は<マルコ書>と、マタイが丹念に収録していた              <主の教えの語録>だった。マタイは、マルコの書の不充足感                   を補充しているのは、その<主の言葉の語録>であることにい                   ち早く気づいていた。ならば私からの出所となる<主の語録>                   を<マルコ書>にアレンジ編入、編合すれば、願ってもない結                   果が期待できるのでは、、、という新たなる志向性をもって、                   主イエスの<新聖伝書>編纂に着手したものと思われる。                   しかして、マタイのその編纂著述は、<マルコ書>の大々的な                   リニューアルのものと言われる以上の、<新聖伝書>となって                   その成立を見るに至った。                   具体的には、以前からの<マルコ書>での第1章全体部分が、                   そのマタイの書では、第3章から第8章の17節までの該当分                   に及ぶものとなり、目に余るほど驚異的なリニューアルを感じ                   させるものとなった。                   そのところでの圧巻は、<山上の垂訓>で、非常に良く知られ                   た、その<教え記事>部分となろう。この部分での主イエスの                   御口から出た言葉により、<主イエスの存在が、桁違いに大い                   なる者たる>を感じさせるものとなる。もし、世に名たる賢者、                   教祖たる者と同レベルの人だと、安穏感覚に感じるに過ぎず、                   無認知なままに過ぐるならば、そのような人は、犬、豚、畜生                   のものに等しいとしか、神の御前では評価されないだろうと言                   わんばかりにである。このイエスの言葉に心すなおに胸打たさ                   れる者、心諭される者は、イエスの十字架の何たるかを知り悟                   りて、信じ受け入れるものとなろうからである。                    (されど現代のアンチキリストの悪魔は、恐るべくもこのイエ                   スの言葉をまさに空しくすたれ過ぎ去りしものであるかの如く                   せんとして、あたかも不断にその挑戦的な霊的風土の戦いをな                   しているかのようである。人の世の時代の進展、変遷によりそ                   の生まれ来る諸文化や価値観との大きなズレ、相違がそこには                   厳然としてあり、それゆえ時代に合わない、時代遅れだといっ                   た風潮をも醸し出す訳だ。)                   そういった第3章から8章の超リニューアルな部分の前には、                   また新たに第1章(冒頭前半は、系図をもって<旧約聖書>を                   代表する)と第2章(1章後半部を受け継いでの神の御子イエ                   スの生誕に係わるもの)に亘っての増進追加部分が見られる。                   さらに、他の全ての章に亘っては、主イエスの言葉、教えが、                   <マルコの書>に優って、緻密な量感をなすものとして著され                   ている。                   だが、そんな<新聖伝書=マタイの書>であると言うに値する                   にも拘わらず、何故かとても大きな例外個所が見出されうるわ                   けだ。                   実はその<例外個所>が、じつに奇妙なと言ったら良いのか、                   意図的な編集技法との抱き合わせなのか、それともマタイが心                   底、主イエスに対して善意の配慮をもってなすべきものと、痛                   感していたことによるものであったのか、はたまた定かではな                   いが、マタイ本人の<収税所>勤務時代の<イエスの呼びかけ                   =召命>記事との併存的抱き合わせの、章句つながりの編集を                   なしているというかたちをなして見られる。(第8章、9章)                   先の共観3書の【順繰り番号】表では、No.11、12の個所                   に係わる諸件で、他の書では<5>のところの<レビ召命の記                   事>となっている、それが<12>の所に持ってきて、そのと                   ころに⑤を置いて表わし、他の書とのその矛盾した<順繰り>                   を示すものとしている。                                      <順繰り番号:11>では、先に取り上げ解述した、<墓場か                   ら出てきた狂人、悪霊憑かれの男の記事>があり、その記事の                   後に、いわゆるイエスと共に自分らの本拠地とするカペナウム                   に舟で帰った直後、マルコ、ルカとは異なる他の一記事を置い                   た後に続く、新たな段落文として、あえてマタイは、自分に関                   わる<召命記事>を持ってきて、綴るものとしている。(9:9)                   これはただ単に、<マルコの書:第2章の部分>と<マタイの                   書:第9章の部分>との良識的な一致を計ったものだと言い得                   るほどに、単純に受けとめられるものではない。(他の書のレ                   ビ=マタイ本人の召命記事との位置比較で見たら、明らかに、                   奇妙な不自然さを感じさせるものだ。)                                      このところの編纂事情に関して、かなり複雑な思惑心境が彼、                   マタイの内に漂っていたと思われるわけだが、マタイ個人に係                   わる、イエスの<呼びかけ召命>記事の事柄から、先ずその思                   惑動機への手掛かりが得られよう。                   彼は<マルコの書>での自分についての<召命>に言及した記                   事、これはマルコ書2章 13-17節に記されている(上記順繰り                   表:5=⑤ )が、そこでの自分の名が<アルパヨの子レビ>と                   なっており、ここでの記事に関する限りでは、自分の別名であ                   るから誤記でもなく、不具、不適切ともならない。だが、一方                   マルコの第3章13-19節での<12使徒選立>記事での使                   徒名表示では、その名=<アルパヨの子レビ>の名は挙げられ                   ず、<マタイ>となっている。しかも、他の仲間の弟子の名が                   同じ<アルパヨの子>ヤコブという名で列記されている。これ                   では、レビとマタイとが同一人だとの認知はできないし、誰が                   誰であるのか、知られないという不備が生じる。                   この両方の記事内容の関係からの不備問題は、明らかに直接自                      分にふりかかり、気がかりなものとなっている。たとえ自分に                   とっての不利益を度外視したとしても、主イエスがお選びなさ                   った由緒ある<12使徒という使命職>のメンバーに不明慮、                   不具合の記載が生じてはならないという考え、見方は、理の通                   った正当さの評価を得られよう。、、、というわけで自分に係                     わる思惑の一つが、その編纂時のそこにあるわけだ。                          次に彼のうちに浮かび上がってきた思惑問題は、例のカペナウムの                   向う岸、<ゲラサ人の地での事跡・悪霊憑かれの男とブタ大群                   の出来事>の記事に関しての事となるわけだ。(マルコ書5:1-20)                   マタイは、この事跡の記事を編集レイアウトするにあたって、                   どう位置づけ、記述するかについて、大いに苦心の考労をなし                   たようである。既存の<マルコの書>に順じた記述展開をも念                   頭に置かねばならなかったからである。                   かの<山上の垂訓>の記事のあと以降(第八章)、ペテロの家                   での<しゅうとめの癒し記事>をもって、マルコ書への順応の                   一応の区切り目安としたわけだが、マルコではその章区切りの                   次章に至った段階で、すぐに自分(マタイ本人)に係わる、か                      の<アルパヨの子レビ>の召命記事が見られる。それからさら                   にマルコ書の記事を先に進むと<12弟子(使徒)の選立>記                   事に突き当たる事となる。実は、この<12使徒選立>時と、                   マタイの<山上の垂訓>の記事とは、同じ日、同じ所の山での                   事であったわけだが、マタイは、あえてその<12使徒選立>                   記事を取り込み併記しないで、その時の<主イエスの教えの言                   葉>だけを大々的に押し掲げた編集形体を採った訳だ。                   (ルカの書第6章 12-49 節参照。ここでは、ルカがマルコの                   <12使徒選出>とマタイの<山上垂訓>記事の中身とをつな                   げた様なかたちで、彼なりの著述をなしている。)                   マタイにとっては、今や両記事を併記するような形式は採れな                   い。もし、そうしようものなら、自分の<召命記事>を<山上                   垂訓記事>、ならびに<12使徒選立記事>の前にもって来な                       ければならない。何れにしても史実的には<垂訓・選立記事>                   の前にあるのが正しいが、<主イエスの存在とみ教え言葉>を                   大々的に最大限押し立てるという意図を最優先の動機としてい                   る彼の編集手法ゆえ、その印象効果を計るべく、その前には、                   幾つも別記事を並べ置かないというのが賢明なるあり方であっ                   たのだ。それゆえ、彼は<12使徒選立記事>を伏せて目立た                   なくし、自分の<召命記事>をその後に置けるように、また、                   例の不備、不明慮が生じないよう編集アレンジするにいたる。                   さらに彼の考えは、自分の<召命記事>を置くことによって、                   伏せ無記載にした<12使徒選立記事>の代わりとして、次の                   章区分に当たる第10章の冒頭での記述でもって、<12使徒                   名>を明確表示するものとなる。(<取税人マタイ>と、、)                   ここでは、すでに12使徒に擁立された彼らが、いよいよ実質                   的に、救済宣教の御用に派遣されるための記事を示すものだ。                   だが、この<12使徒派遣>記事は、<マルコの書>での【順                   繰り記述】では、第6章7節以降に該当するものである。した                   がって、そこではそうあるべきものとしてマタイは、そのマル                   コの言及記事に<順繰り>を合わせて、自分の10章枠の<1                   2弟子派遣&関連記事>を立ててゆくわけだ。                   この照準的編集記述となると、当然の事ながらマルコの第6章                   以前の諸記事を、<派遣記事>の第10章枠の前にもって来な                   ければならなくなる。                   ゆえに結局、マルコの第4章の後尾の記事(舟で渡る海上での                   出来事)から第5章全部に言及される諸記事(ここには、例の                   <墓場から出てきた悪霊憑かれの男の癒しの出来事がその最初                   の記事部をなす。)と、さらに、                   マルコの第2章の大半部分(後尾の<麦畑記事>を除いたもの                   で、マタイが、動機とする自分の<召命記事>を含んでいるも                   の。)の諸記事とをそっくり抱き合わせ、しかも記述順序を逆                   にするかたちで、第2章部分を後方に、4章末尾から5章部分                   を前方、前に持ってくるという編集アレンジでもって、マタイ                   は、自らの第8章後半部(ここではジョイント調整として、若                   干のイエスの言葉記事、それらは彼のオリジナル蒐断片品だが、                   それをかませているが。8:18-22)から9章1-26節までを                   アレンジ編集していると見られる。                   しかして、マタイの第9章の前半部分(思惑の<召命記事>部                   分は9節からの文面にて。)と、マルコの第2章の大半部分と                   が、その内容面で一致をなすものとなる。                        このような、9章枠とマルコの2章枠との順繰り一致の試みに                   よって、意外、法外なアレンジ結果、つまり、9章の前に来る                   べきでない筈の記事、<悪霊憑かれの男とブタの事跡記事>が、                   すんなりと自然なつながりを見せるかたちで、9章への記述的                   関連付けをなすに至っている。                   そこでの、そのマタイ記事は、マルコ記事(5章1-20)に比べ、                   かなり簡略カットされ、主要部分のみを手短に記すかたちを執                   っている。したがって、マルコ記事のように、<真意の情況>                   が伝わってこないし、<憑かれ男>の癒された様子や、その後                   どうしたのかも分からず、記事として意義深さを欠いている。                   しかも、あたかも、もう一つ別にあった、別記事を思わせるよ                   うに、<一人を二人の男にし、地名をしめすゲラサ人をガダラ                   人(マタイ編纂時にはそう呼ばれていただろうが)>とし、さ                   らにキーワードともなる男の名前、<レギオン>という言葉さ                   えなく、実に簡略的なアレンジをなしている。                   それだから、マタイをして、彼のその解釈的記述そのものをし                   て、主イエスに対内向してあるところの<啓示場世界>そのも                   のの具体的表示の一例を見るようなものとなる。                                確かにマタイは、この記事をアレンジするにあたって、あまり                   いい気がしなかったようだ。                   何故ならば、この記事の後、一つ別記事をまたいで、すぐ、自                   分の収税所時代での<召命記事>を置くかたちをとっており、                   その当時の取税人としての仕事では、ローマ・レギオン(軍団)                   等に充当するような<税の取立て、配分等の職務>に直接係わ                   っていたからである。彼にとって、<レギオン>という、その                   言葉、それ自体、あまり思い出したくなかったようだ。                   そんな彼の内情と、かのイエスの対岸デカポリス地方へのその                   試みの初巡回が、<豚の大量死・損害に係わる事>でもって、                   あっけなく頓挫してしまった、という印象ばかりが強く記憶に                   あとを引いていた(また、帰りの舟では、主イエスも口数なく                   ダンマリで、その表情も、何かうかぬ様子だったのを見ていた                   のかも知れないことも、)事などが、あい絡まって、簡略化し                   たであろうかと、推察されうる。                   しかも、その簡略記事をおこなった代わりに、少しさき出しで                   はあるが、彼のとって置きのオリジナル記事、ローマ人らしき                   <百卒長>に関する、極めて有意義で、極上な記事を、あえて                   アレンジしているようだ。(第8章5-13節)この記事を別                   の福音書で、ルカがその著時に、欠かすことなく有意義に取り                   入れている。(第7章1-10節参照)                   ついでながら、先の【順繰り番号表】で、No.15~19での                   ルカの書の<欠如>部分に関して、ルカはなぜ自分の<順序正                   しく>の記述方針をその直前でストップさせたか、それについ                   ての何らかの訳があろうかと思われる。                   この15-19の順繰り部分は、彼ルカにとって第一の重要資                   料である、マルコ書によるそれらの記述部分が、大変複雑に込                   み入った巡回経路であり、先ずそれに対して、そこまで対応す                   る便宜を計らなくても良かろうという判断があり、その上、さ                   らには、マルコ書の7章31節での文言に、ルカ本人が強く疑                   問視した点があった事によるものと思われる。                   つまり、<”シドンを経てデカポリス地方を通りぬけ、ガリラ                   ヤの海辺にこられた。”>、という                   マルコ記述に関して、ルカが執筆したその当時(AD60 年代                   半ば頃)に至っては、もはやマルコの記述地名をそのまま認知                   出来なくなっていたというような、何らかの<地域地名変容>                   をしていたと思われる。                   (因みにマルコの執筆時(AD50年 前後)までは、ダマスコと                   ピリポ・カイザリヤの2都が、当時のデカポリス(10を数え                   る都市)の内に数えられたものだとの認識が、当時の一般民衆                   らに共通してあったという状況だったからであろう。)                                      そんな事情にて、マルコ書の第6章47節から7章を経て第8                   章26節までに該当する事跡部分が、大幅にカットされるもの                   となったようだ。                    以上で<マタイの書>編纂時に係わる、その編集の思惑、動機                   上で、<悪霊憑かれの男の記事>との関連性において、見え隠                   れするそれらの内幕真相を解き示したものとしたい。                                         その例③:                                                                                 ハ)ヨハネの書は、言葉によるその根底的な描写スタイル、つまり、捉え見               る、捉え描く著者の主体的あり方、あるいは方向性なりが、マルコの書               と同じ目線的な次元でのその延長線上の、より成長し、かつ質的に進化               したかたちでの<もう一方の端>にあるようなスタイルをとっている。               事実、ヨハネの書は、その基底的スタイルにおいて、あたかもマルコの               書をベースとなすようなかたちをとりつつ、描き表わすべき事象の真の               姿を、より高次な、別の次元(霊的に高められた真理意識次元とも云え               ようか)から書き現わしている。そうすることによって、先のマルコの               書を著充補完しない、そのままにしておく代わりとして、そのヨハネ書               をば、マタイ、あるいはルカの書に対して、その存立意義を投げ掛ける               ようなものとなしている。構図的に示すと、以下の如くである。               マルコの書・・・・⇒マルコ(イコール)ヨハネ⇒・・・・ヨハネの書               ------                    ------               イエスの様々な場景               マルコベースの記               を写実的にリアルに               述スタイルがより               活写表示して、   ・⇒(数十年の時を経て)⇒・ 高度にシフトアッ               イエスのナマの姿を               プされた、イエス               描くところの現実描               真理の意識次元で               写の記述スタイル。               マルコ記述スタイ               (50年代前後から               ルが活き働いてい               50年代に成立)                る記述スタイル。                                          (80年代後半                                       90年前後に成立)                                                     *当時のユダヤの都エルサレムを中心とした歴史的状況を考慮すると、そ               の歴史のAD60年代半ば以降は、66年にはローマとの本格的なユダ               ヤ戦争を勃発させており、それに至る過程の世相は、混乱極まりがたき               荒廃状況(同胞同士との、サマリヤびと、ギリシャ系シリヤびと等、異               邦人との紛争、諸事件がすこぶる頻発する状勢)にて、また、その戦争               混乱の継続の結果、遂に70年でのエルサレム陥落及び、ユダヤ民族の               自治宗教的共同体の滅亡を見た訳であり、そんな事態状況を鑑みると、               <60年代後半以降から70年代に亘る未曾有な困窮困難時期>に新約               聖書の共観福音書3書(マルコ、マタイ、ルカ)の草稿着手、およびそ               の記述完成がなされ得たとは、到底考えられない状況だったと見るべき               が正解であろう。エルサレムでの原初期キリスト教一派のみならず、シ               リヤ・アンティオケの教会一派においても、もはや小アジア、アルメニ               ヤ方面等への本拠地移動、あるいは教徒らの離散を余儀なくされた状況               であったからだ。                  マタイ、ルカの書には記されているが、マルコ、ヨハネの書、それぞれには共通して記されていな  い記事がある。その記事には、主イエスが、バプテスマのヨハネとの<聖なる出会いの相互認儀>の  あと、荒野にご自身をお導きなされた、その40日に関わる事柄内容が示されている。そこでは主イ  エスの神の子としての主体性、あるべき姿が浮き彫りにされて、貴重な記事となり得ている。  40日余をかけての、新たな高次元的意識での<壮絶な自己超克のご自身認識>、父なる神のうちに  在りて、その一なる瞑想、ご自身のすべて、およびご自身に関わる世界の全てを再吟味し、整えたも  う。自らの進むべき方向付けを明確堅固たるものとなして、ご自身みずからを神と人、および、その  世界に対して、備えなさるべきものとして、、、、そしてまた、まさに後々までも、くり返し繰り返  し 主イエスの存在そのものの、計り知れない<あり方>が問われ得るものとなるようなかたちで、  その記事は記されているとの結果をさえ見るものである。  さて、その記事はマタイの書では、4章 1-11節、ルカも4章 1-13節で、ほぼ同一内容のものとし  て、書きとどめられている。ところが最も早く著作成立したマルコの書では、その内容にはまったく  触れられていないが、主イエスの<行動情報>として、<荒野に40日とどまり、試みにあわれた>  という程度の、<2節ほどの文言>で、極めて原初的につづられているにすぎない。こういった事情  を察するに、マルコとマタイの2書に関わる関係、あるいはそれぞれの著述的立場が見え隠れしてい  ると思われる。つまり、マルコ(=愛弟子ヨハネ)は、主イエスの御そばにあって、その現場を自分  の目で見、その耳で主がお語りなさる言葉とその状景以外は、出来る限り記さないという著述スタイ  ルをとっており、反対にマタイは、ずっとのちになってからでも、主イエスがある事を回想的に云わ  れた場合の、その言葉内容にも心を配って、著述資料となしたというタイプの立場をとっている。  したがって、マタイの書での一連の4章 1-11節の記事の出どころは、ある時に主イエスが、かの荒  野の40日について、何らかのきっかけで弟子の一人がその事を尋ねることで、大いなる比喩をもっ  てその時の体験、ご様子を語られたということに依るものであろう。  イエスと共に12弟子らが雑談などをしている最中などで、、、  ”よからぬ連中(パリサイびとや律法学者ら)ばかりでなく、ヨハネの弟子らも何かと我々の事を、  ちっとも断食しないで、食べたり飲んだりしていると言って中傷しおる。我々の評判も、これでは受  けが悪くなる、、このままでは良からぬものになり兼ねやーしないかなー、、、、  先生(イエス)、我々も断食をすべきではないでしょうかねー、、、ところで先生は、かって荒野で  40日も、断食されたとのこと、あのヨハネ様の弟子からそれを小耳に挿んだんですが、、我々は、  そんな大変な断食はとても出来ませんが、、一体どんなものだったでしょうかね。その時のことを聞  かせて頂ければ、我々が断食するようなおりには、きっと何か有益になるかと思いますが、、、、”  そんな調子の会話の場で、、、主イエスはお語りになり、マルコ(愛弟子ヨハネ)は聞き流したが、  マタイは、その比喩的、象徴的な告示の教えをイエスの体験として、しっかりと記憶にとどめ置いた  ということだ。12弟子でない、のちの人、ルカは、そのマタイの書から引用転化して自著に記した  とされよう。  しかしながら、この主イエスの荒野での40日の事跡に関して、確かにマタイが聞きとどめた<その  イエスの語りの内容>は、ずっと後になって、彼がその福音書でまとめ記した内容記事とほぼ同じ程  度の<語り表現のもの>であったと見なし得よう。だが主イエスは、その時、それらの内容を聞き入  れた<その聞き手>、即ち12弟子らの<聞き入れ理解能力>に合わせるレベルで、お語りになった  と見るべきであろう。したがって、そこでの主イエスに秘められたご体験内容に関して、先に述べて  おいた如く、その<試みの表現内容(マタイ 4:1-11節)>から理解されうる、あの時のイエスの霊的存  在の心理状況での、(我々には体験することも、知り尽くすことも出来ないわけだが、)その秘め隠  された彼の霊的主体性という存在云々の、ただそれだけばかりでなくそれ以上に、遥かに尽きること  なく深い、その神秘玄妙なる<イエスの存在奥義>の真理が隠蔽、包含された、そんなイエスの行動  事跡であったと言えようか。(この事は、可能な限り一重に追求されて然るべきものであろう。)  だが主イエスご自身自らが、たとえ、自分乃至自分の存在自体が、<神の奥義そのもの>であるとの  ことを、自覚なされていたとしても、その内発的な実意行動は、その自分自身への<再確認実証の試  み>以上に、主イエスにとっては、決定的なまでに不可避なものとして、余儀なくされたものと思わ  れる。果して、その発意的ゆえん、縁動因となり得た、その内容とは一体、何であっただろうか。、  その事は取りも直さず、<聖霊に導かれて、>という、平易な意味ニュアンスの範疇内に留まるよう  なものとして、今やそういった類の言葉表現が表看板となって、その心的行相様態を示すものとなり  得ているといった感じである。、、、これの3福音書の記事では、それぞれ以下の文言表記を見る。  ・マタイの書では、<イエスは御霊によって荒野に導かれた。>(4: 1節)、*御霊にもとづいて           (御霊の下に)・・原典の原義的基本ニュアンス:Τοτε ο Ιησους ανηχθη εις την ερημον υπο του Πνευματος, ~~、、、                          ・マルコの書では、<そしてすぐに御霊がイエスを荒野に追いやった。>(1: 12節)、           *御霊が能動的に働きかけるものとして、                  ・・単刀直入的なニュアンス: Και ευθυς το Πνευμα αυτον εκβαλλει εις την ερημον. και ην τη ~、、  ・ルカによる書は、<聖霊に満ちてヨルダンから帰るや、御霊により荒野に導かれ、>(4: 1節)、             *御霊において、or 御霊にありて、                  ・・原義的なニュアンス: ~~ πληρης Πνευματος Αγιου υπεστρεψεν απο του Ιορδανου, και ηγετο εν τω Πνευματι εν τη ερημω / ~~、、  という、それぞれの言葉表現をとって記されている。  <御霊(ミタマ)>と訳されているギリシャ語が、<(το)Πνευμα = (ト)プニューマ>である訳だが、  東洋アジア地域などや、日本的、または日本人感覚での<御霊>という言葉の概念的ニュアンスと、  ギリシャ語化されて用いられている<新約聖書ベース上>でのその言葉概念の質と量域におけるニュ  アンスにあっては、その深みとか広さとかでかなり相違した異相面が見られる点には非常に注意を要  するが、また一方、そのヘブライ的語彙環境からギリシャ語圏環境への言葉概念のシンクレ的推移過  程で、かなりの<意味ニュアンス>の転化拡充、拡張深化などの発展傾向が見られるのも見逃せない  一面である。  さて、上記の3つの文言を字義的にそのまま受け止めれば、イエスを動かす<動因>は、<御霊>で  あるという見識解釈に至るほかない。だが、これらの表現は、著述をなしたる三者のイエスを全面的  に受け入れ信じたすえに、<イエスに充てがわれた帰結的認識>に至り得たところの表明のものに過  ぎない。マルコ(=インコグニト)なる、もう一人の福音書記者ヨハネも、洗礼者ヨハネの記事部分  の個所(第1章19節以降)32,33節(原典では”聖霊 ”との表示もあるが)で、彼の口でもって、  <御霊>の表形表示を著わすものとしているが、ヨハネ自身も、イエスが言われた言葉への自らの理  解として、それ(Πνευμα 及び -τος)に言及している個所がある。(7章39節)また、ヨハネは、  <聖霊>という言葉(το Πνευμα το Αγιον)も、イエスのお語りなった言として記している。  (第14章26節)  また、<Πνευμα>という単独の語彙を、日本語訳で<聖霊>と意訳した個所もあるし、単に<霊>  と訳した個所も見受けられる(3章34節で洗礼者ヨハネの口によるものとして、5-8節で、イエスの  お言葉において)。  さらにこれらの語彙に関する、ヨハネの書での最も顕著な特徴となる用言も挙げておこう。それは、  <真理の御霊=το Πνευμα της αληθειας(トゥ プニューマ テェ-ス アレースェイアス)>という  表現に見るものである。(14:17節、15:26節、16:13節)この語彙表示は、他の3福音書には見ら  れないものだ。ヨハネはこの用語をもって<御霊或いは聖霊>という言を、その同義語内容のもの、  そのものとして、イエスの言説において、具体的に説き明かし得る帰結に至っている。それ故、彼の  書では、あえて<荒野での40日の試みの記事>に関しては、その書との内容的な不整合性を意識し  てか、そのために彼は、<Less対応(完全無記載)>扱いのものとなしている。ヨハネ自身は、  まさに<真理の御霊>によって、神の子イエスを<活ける受肉啓示顕現>そのものとして、証しして  いるわけであるが、この証しこそが、正真正銘の主イエス・キリストの<歴史的実像>そのもの、そ  の真髄であると、言明して止まないのだ。  (父なる神の神格ペルソナにおいて、その本質そのものなる霊における<無限なる諸々の力、あえて  その無言性、ワード(ロゴス)レスとしての側面から>、また、その霊における<無限なる無量無尽  のロゴス、しかもこのロゴスありて、《命》のご自存を識認され、その転映省察により、ご創造にお  けるその無限の可能性を認覚された。>--ご自身を斯様な相にありて啓示顕教されるや、さらに-  そのロゴスゆえをもって、<ロゴス>をば、神みずからが《子》-と定め給い、キリスト・イエスの  名をもって、しかもイスラエル民族史により予め創出された<歴史的聖書的啓示場>なる精神風土を  その受け皿前提となすことによりて、御子によるところの世界であるこの世に彼を現し送り、彼を立  て給もうたと云う事となる。)  かの3福音書での<荒野へと導かれ、>の本文課題の件から少々逸れてしまったようだが、その事跡  に秘められたる<真理事象>での、神の子・イエスの<歴史的実像>の真髄をさらに明らかにすべき  かと思う。  主イエスに関する<私的な生涯資料(公的生涯以外でのもの)>に関して、真実、信憑性のある確か  な記録文書は、残念ながら皆無に近いと云える状況である。新約聖書正典に定められた4福音書以外  に、イエスの有力な弟子(12使徒)らの名(トマス、ピリポ、ヤコブ、ペテロら)を借用冠した<諸偽書、  創作捏造文書、外典等>が、数多に出回っていた歴史的事情(AD1世紀末頃~3世紀頃)の起って  いたことは確かな事実であったが。  (これらの偽造文書類は、その当時のグノーシス思想、化現説、キリスト単性説などと相まって、キ  リスト・イエスの正しい理解を掻き乱し、甚だしい弊害の種となり、神の救丞論的世界風土を著しく  荒らし、損なう要因ともなった。正統を旨とする教会側は、これらを反キリスト、悪魔から出たもの  として、徹底的に反駁排斥して行くものとなった。)  したがって、大人に至るその幼少時からの成長時代を録したものは、ルカの福音書2章40-52節  での、かの印象的な<ハプニングの伝え記事>を残す以外、新約正典書でも皆無なのである。その記  事では、確かにずば抜けた<少年イエスの賢さ>、いわゆる現代的に言えば、超天才ぶりを垣間見る  ことが出来る。  しかも、このような事跡状況をあえて、マリヤ、ヨセフの両親に印象付ける形で、何気なく行ったと  ころに<少年イエスの自覚意識の高さ>が見え隠れしていると云える。彼は、自分の<12の年>を  この上なく意識して、<父なる神に選ばれた民、12の部族の諸伝>、その12の数に絡めての同調  意識でもって、エルサレムでの唯一のひとコマの出来事を印象付けられたと思われる。  ルカの文言49節では、少年イエスが、以下の如く両親にお答えなさったことからも、大よそながら  推知できようか。   ”どうしてお捜しになったのですか。わたしが《自分の父の家》にいるはずのことを、    ご存じなかったのですか。”  この12才の頃には、はやすでに<メシヤ意識>が、彼のうちに芽生え始めていたと見ても差し支え  ないくらいだと云えようか。また、少年成長期の間にガリラヤ・ナザレでも、何らかの止むに止まれ  ぬ状況ゆえに、ご自分の能力の何らかを現わさざるを得なかったといったことが1度や2度はあった  であろう、むしろあってもおかしくない、成長期でのしっかりとした<意識付け>として、しかもこ  の場合、彼自身が主体的に強く意志するわけでなく、不思議なほど神が後押しするようなかたちで、  それ故その結果として、少年時での<意識付けの経験>が彼にとってすこぶる深まるものとなる。  とにかく、彼は、ルカ文言にある如く、大人への成長にむかって、<知恵に満ち、ますます父(なる  神)に対して、賢く>成長されていったと見る以外にない。会堂(シナゴグ)で聴く、ラビ(律法の  教師)らが説く、聖書(旧約書巻など)に係わる説話、知識など、その聞いた内容よりも、はるかに  何倍も上を行くような<知の閃き>を内にインスパイアーされ、正しい知恵、能力を身につけてゆか  れたと思われる。(2:40,52節)だが、  その一方で、おそらく二十歳そこそこか、それ以前のことであろうか、家族を支える大黒柱なる義父  ヨセフが亡くなり、その家業を受け継ぐ事になった。彼には、たくましく懸命に働かなければならな  い時期が、数年以上は続いたと思われる。幾人かの兄弟妹達が、まだ15歳にもならないほど小さか  ったからである。だから、全く普通のガリラヤ地方の<働きびと>の青年と何ら変わることのない、  生活にいそしむ姿がそこにはあったのだ。(舟や家屋、改築などの大工仕事を家業として、すぐ年下  の弟、ヤコブも、彼に付いて一緒に働いたであろうかとも。合計で7人兄弟以上だ。マルコ6:3節、  マタイ13:55節からの参照により)--イエスはこの時期、自分の家族を支えることは、イスラエ  ルの<12部族の家>を支えることだという、ダブラセ意識をもって、その霊的理念のもとに、まさ  にその<内なる霊に燃えて>、ただ々々知恵豊かに働きたもうたと思われる。-- そんなわけで、  彼の私的な成長期には、特記されるべきものは、ほとんど皆無ということになろう。    そんな彼ら、普通のガリラヤびとも、イスラエル12部族の者ゆえ、ほぼ毎年、<祭のため>、エル  サレムに上るのが慣例事になっていた。だから、彼イエスにとっては、何回ともなく行けば、エルサ  レムの事は、隅から隅まで、その事情、様子には明るくなり、全て知り尽くされていた事であろう。  また、自分の民イスラエルの民族史的に現在へと至るその現時点状況への、さらに世界的視野におけ  る世の中の現状や、その人々の様々な精神的な諸相への、深い洞察、把握の見識等を、しっかりと胸  の内に捉え納めていたと思われる。特に12部族からの民イスラエルの当世の現状、如何なる状態、  事態に置かれているか、その良し悪しに係わる<神の摂理的な動向、ご意思等>、国(ダビデ・ソロ  モン時代の如き国)もなく、世界各地に離散している民、かっての国土もローマ属州や傀儡領主の下  にあり、しかも、かっては<神の御名の冠せられたるエルサレム>、そこでの年中祭儀も、外法的に  異邦ローマ帝国の管理下に置かれているといった現状、そういった状況、事情から反映してくる精神  的な形相が、一体どんな様相のものに譬えられ得るものだろうか。彼は、まさに改めて同期再復する  かたちで、旧約書巻類、特にイザヤ書、ダイエル書などを自らに反照し、且つ本来的に自らのものと  して帰着するものとなる。  (エルサレムの歴史的経過をふり返るに、BC323年アレキサンドロス大王死後、ギリシャの征服  領域は4分域化によるものとなり、BC143年から83年までの60年間は、独立自主国家の様相  を取り戻し維持し得たが、それ以前は、北の国シリア・セレウコス王国と、南の国エジプト・プトレ  マイオス王国双方による争奪のマト地域となった。そして、BC83年にはローマによるユダヤ・エ  ルサレム占領(ポンペイウスによる)にて、それ以後属領化される。そういった属領下においても、  エルサレムでの内輪の支配権をめぐり、親ローマ、反ローマなどに組した内紛が繰り返された。  結局、BC44年ユリウスカイザルの暗殺前後から、その後、ローマ帝国を二分するような大きな内  紛戦争を結果する過程で、ユダヤ人でないイドマヤ人のヘロデがユダヤの王となった。(BC37年)  これは、先にヘロデの父アンティパトロスが、ローマ・カイザルによりBC47年以来、ユダヤの総  督に任命されており、その父の権勢時での有利さも手伝って、彼が若くして、ガリラヤの地の太守を  任される事から始まって、次第にその地位への実力をものにしていったことによるものであった。  だが、このような時の過程の時勢は、父の代からの、シリヤ王国の燃えかすの力と、新たなるローマ  の燃える勢いの係わりの手と共に、以前の独立系ユダ・マッカバイオス家の末裔の兄弟ヒルカノスと  アリストブロスとの王位継承に端を発した争いが、絶えまない紛争の火種となった時期でもあった。  それ故、そういった争いの終息に至った後にも、その尾を引く陰ありて、彼ヘロデの父アンティパト  ロスの暗殺が起るような事態をも招くものとなった。(BC43年)これは明らかに反ローマ的反対勢力  派のユダヤ人の一人・マリコスの奸計によるものであった。  ヘロデは、その支配政策上、ユダヤ教を受け容れた名目上のユダヤ人という立場でユダヤの王として  君臨することができた。(BC4年死去まで) 彼の背後にはローマ帝国という大きな支持があった。  ヘロデ大王後は、その王国領土の相続をめぐり、その遺児、孫らによる、ローマ皇帝の政策意向がま  いに係争が生じるなか、分割されたり、再び統括されたりし、AD26年以降再びユダヤ、サマリヤ  が、ローマ帝室直轄領として総督ポンティオ・ピラトの下に置かれる。AD36年まで)  **以上の時代は、まさの<主の大いなる恐るべき日が来る前に>の<その日>の事を遅らせること    も、取り除くことも出来る方、主なる万軍の神が、その口(預言者)をもって予言された言葉、    <<見よ、炉のように燃える日が来る。>>の、それに当てられた、<イスラエル選民の烈火終    落の時>を物語るもののようであろうか、しかりそうであるに違いない。(マラキ書4:1節)    また、生活経験豊かに大人に成長されたイエスが、やがてかの家業から開放される頃には、未だ私的  にして、内々の自覚のうちに秘めていた、その強力な天命、先天の<メシヤ意識>も、いよいよ熟成  のピークに達していたことであろうか。  この頃のイエスにとっては、<父なる神によって定められた、その時>が、いったい如何なるあり方  で、どのような啓示的状況、事態でもって開かれるものとなるか、というこの一点に、意識が研ぎ澄  まされ、且つ、旧約聖書全般における<啓示内容>の関心度が、さらに自己反照的に深められ、極め  られていった。そして、  旧約全体にわたる<神の言葉の啓示および歴史の一切>への、またそこに秘められたる<真理とそれ  への予呈内容の一切>への全責任を背負うような、あるいは自らに背負わされるような、そんな神の  子としての、意識ステータスにありて、その公生涯への始まりの時に至らんとしておられた。  ところで、ガリラヤ・ナザレで生活を共にされていた聖母マリヤは、彼イエスについての、<出生の  秘密>を何一つイエス本人には、ひと言も語ることはかった。彼女に起きたその<神の奇蹟の御業>  に、自分勝手な口の言をもって係わり汚すことは、もっての他であった。したがってイエスは、母か  らの、人によく見かける余分な関与もなく、純粋に<神の子・メシヤ>として、自らによるその成長  を果たすものとなる。  ルカの書、1章26節以降の記事、マリヤの<懐妊予告>等は、はるか後世の、原初キリスト教団時  代において、生前の母マリヤが証ししたもの、その伝承を、さらにルカが、後々に入手し、まとめ上  げたものとして、今に記し残すものとなっている。  その記事では、その当時のマリヤの様子が手に取るように知られうる。御告げを受けたマリヤは、そ  れから<数日後、あるいは10日過ぎ>には、来るであろうはずのものが来ない。つまり<月のもの  ・月経>が止まったことに、本当にあり得ない事がこの身に起ったと、大変な思いで気づくものとな  る。風のたよりにでも聞いていたであろう、親族のエリザベツが身ごもったこと、<御使いからは、  はや6ヶ月にもなる>と知らされ、もはや、大急ぎでユダの町にいる、かって不妊だった<エリザベ  ツおば様>の所に足を運び、自らの置かれた立場共々、その真相をはっきりさせなければならとの衝  動に駆られない筈はなかった。そして、そのおば様エリザベツのところに三月ほど滞在し、その間に  気も落ち着くこととなり、妊娠4ヶ月目に入る頃ともなるマリヤも、産む覚悟、勇気を持ってその時  に臨む様な心構えをなしたと云えよう。  このようなエリザベツの事や、その産まれた子(後に洗礼者ヨハネ)に係わる出生の事も、マリヤは  自分の腹をいためたイエスに対して、何かその予備的なことを話すような、そんな余分な関与は一切  することはなかった。母マリヤもきっぱりと、<自らの立場>を神に対してしっかりわきまえ、正し  く守り抜いたと思われる。その信仰の賢さ、生き方の賢明さは、まさに賞賛に値するものであろう。  (マリヤの受胎・懐妊、それは後になって神学上での化現説異端との兼ね合いで、<受肉論>云々の  教義問題となって浮上してくる。時代の最中のキリスト教は、その神学形成をギリシャ哲学的思想の  吹きすさむ<知の環境風土>を掻い潜る定めのうちに為されざるを得なかった。その掻い潜りでの影  響は、自ずと信仰的にも<主知主義>に傾く傾向、側面をあらわにし、その精神史に特長ある足彩を  刻むこととなった。神の存在に関わる<三位一体論>も、そういった傾向での、その時代の最も大き  な知的産物であったと云えよう。  父なる神は、マリヤの胎とその機能的環境をお借りになられた。(現代的なレベルで言えば、受精卵  の代理母に類比するかのようだ)しかし、マリヤ自身の卵巣から造り出される卵子を用いられたので  はなく、マリヤのものにまったく属さない、神ご自身のオリジナルなもの、神の存在側における、永  遠の初めから<神の御子>とし存立なさっている、その<人の子の形>をば、そっくりそのまま、こ  の世(創られたる世界)に移し替える御業、それは、人間知性に対しては、それでもって規定するこ  とも出来ない、全てを越えた<神の存在法での定めの神秘>であり、不思議この上なきものだが、と  にかく<オリジナル御子卵子>であり、普通一般に細胞分裂して成長してゆく受精卵と同じように、  成長してゆくものであったわけだが、その全ての遺伝子内容が<御子>としての唯一無二のもの、そ  のオリジナリティーを完全無欠なまでに父なる神に負うているものなのであった。)    さて、メシヤなる神の子・イエスと、その彼に、あるべきところの<主の道を備え>、且つ誰よりも  最初に彼イエスを公に証ししたバプテスマ(洗礼者)のヨハネ、このお二人をその予定された運命的  な出会いにまで導いた<神の摂理>による、その要因とか、見えない絆とかいったような、  両者相互に共通、合い符合せし意識領域での拠りどころとなるもの、基想、起点となるものは、具体  的に何であっただろうか。それは、イスラエル民族に直に係わっていた、その時勢的<終末観>であ  り、また、そこにあらわに顕在化している、民族的現状の何たるかを生活生存的に象徴されたる<荒  野、あるいは砂漠>といった感のする意識であった。これは、何らかの民族的な復興なくしては、何  ら希望の光の一つさえ見い出せない状況、状態を意味するものであった。  しかして、彼らお二人の意識は、その見るところ、その判断、選捉するところ一致して、立場は異な  れど見事に同じ識念相域に在り、置かれるものとなった。確かにその当時、イスラエルの民衆には、  なお強い<選民意識>が残っていたことから、終末的時点からの再度の巻き返し、民族的復興を夢見  ていたようであり、それが取りも直さず、少なからず<メシヤ到来>への待望観に結び付いていたの  は事実であろう。  彼らは、全く別々の人生を辿り行くものとなったわけだが、お二人にとって共通する<キーワード>  は、今やその霊的意味において<荒野・さばく>でもって表象反映され得る、イスラエルの民、民衆  の心的様相の現状であった。  ヨハネの荒野生活での時は満ちた。かってユダヤでの祭司職の家系である父母の家、その世襲を継ぐ  ことなく、<主なる神とその言葉>に仕える献身びと=ナジルびと(旧約時代での聖別の誓いによる  ナジルびとに類似、かっては、その精神性の畑から<ヤーウエ・主の預言者>らが輩出されることも  あった。)として成長するように、彼の父ザカリヤからの訓育教導もされたであろう。やがて家を離  れ、荒野でいよいよたくましく神の言葉により成長するものとなる。彼の心は、今や<神の言葉>で  もってその霊性が熟するものとなった。(ヨハネは、かっての古えの預言者エリヤもその身を寄せた  <神の山・ホレブ>シナイにまで、足を運んでいたかも知れない。そんなことは一切福音書には記さ  れていない、まったくの無情報で、未知なことでしかないが、、)  <らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめて>の装い(マルコ1:6)は、まさにあの預言者エ  リヤの装いに似るものであった。(旧約書の列王紀下:1章8節=エリヤの毛ごろもが、彼の外套そ  のものであったのか、それとも別に他の外套をも使用していたのか、その点は不明だが。)  ヨハネの信仰は、<主なるメシヤ>の来臨そのものであった。かって<神の民>として、選ばれたイ  スラエル、その自分の民が、他民族らにより虐げられるに等しいものとなり、<モーセの律法>によ  る事柄も空しきもの、ただ生活上の習慣事、祭儀の慣例事それ自体でのものになり下がっていた。  いまや<神の選民>としての意義も価値も期限切れのようなものとなり、無意味な様相をあらわにす  るといった感じで、民衆は<暗黒と死の影>の下に、まさに生活も心も<荒野>であり、荒野を生き  るもののようあった。  ヨハネにとって、御民イスラエルの存在意義を不朽永遠なる輝きとなしうるものは、今や唯一、今に  至るまで、その数々の預言書で語り継がれ残された、<メシヤ預言の成就>以外には、もはや何も残  されてはいなかった。これだけが御民に係わる望みともなった。    <御民イスラエルの最後に輝くべきその栄光への手立ては>は、イスラエル民衆の存在世相なる<荒  野(アラノ)>、その心の<荒野>に、メシヤなる<主の道を備える>こと、彼ヨハネの<メシヤ到来  信仰>は、今や熱き思いをもって熟した。  <預言者イザヤの書40章3節>、<マラキ書3章1節、4章5節>などが預言している<神の言>  により、キリスト・メシヤの先行者として立たされることとなる。  主なる神からのこのヨハネの役割使命は、彼にとっても、イスラエル民衆にとっても、メシヤの福音  (救い)と迫り来る<神の国>という、当該の思念的思いにより双方の適合を見るようなかたちで、  その<悔い改めのバプテスマ(浸洗礼)>を授けるという、具体的な行為となって実現する。加えて  彼の存在(荒野で呼ばわる者の声)とその教えの言とで、荒野に<主の道、メシヤへの道を備え>、  さばくに<その道筋をまっすぐにせよ>との、預言の役目を成就させるものとなった。  <荒野で呼ばわる者の声>、その天の啓示の声が<民衆の心の荒野>に響き渡った。ガリラヤの片田  舎、その丘陵織りなす地にもその余韻が、ブドウの実を摘む手を休ませ、泉のせせらぎの水に、<命  の水>の思い(真理)を深める一人のお方、こころ麗しき神の子・イエスに、その声がとどくものと  なった。  御民イスラエルの心の荒野に<命の水>を湧き出らせ、<砂漠にその道筋を直くする時の真意>を今  もって胸に秘め、その声を聞けり。  いにしえより<神がその御民の運命の時を予知し、それに備えての全ての事柄(啓示)>が、今や新  たなる光の輝きをもって甦り活かされ、永遠の時の流れを刻まんと、その新しい<神の時の初め>が  やって来たのだ。  神の子イエスは、<呼ばわる者・ヨハネの声>を神から使わされた者のそれとしてお認めなさった。  ガリラヤのナザレからヨハネのもと、ヨルダン川へ、、彼ヨハネによるバプテスマ(洗礼)は、イエ  スご自身を公に証しする事そのものへの聖なる儀証の礼でもあるが、そこにあってのイエス自身に係  わる全ての事柄は、彼の心の内にあって、限りなく深いものとして自覚認知されたるものであった。  選民イスラエルの歴史だけでなく、モーセの書に記されたる<アダムの初めからの事>も含めて、そ  れらにおける神の啓示の全てが、自分自身に係わるものであり、且つ自分の存在を現わすものである  ことを深く自覚して、、なんという人間性であろうか!、このような人格性は、まさに驚異的な神の  不思議さを示すものと言う他に、ないというものであろうとも、、。  光がかたちをなしたごとくに、”聖霊が鳩のように下って来た ”また ”天からの声があった ”  という超自然な外的異象も、そのようなイエスを真認、証しせんとした、父なる神からの結果的裏  づけとなる意味での<外的なしるし>であったと云えよう。    イエスは、ヨハネからの洗礼時を介しての<父なる神>からの応答に、すみやかに応えるべく、荒野  へと赴かれた。それは、彼自身なる内なる<御霊>が、求め促すところによる自明の行動であった。       旧約聖書の末書となる”マラキ書 ”第3章1節では、以下の言葉が記されている。     「見よ、私はわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。・・・これはヨハネを指す                                    預言である。       またあなたがたが求めるところの主は、たちまちその宮にくる。・・・主イエスを指し示す                                    預言である。    **次に続く文節では、そのヘブル語原典の訳し方によっては、    その契約の使者を・・<新しい契約>に係わる<御使い>とする              ニュアンスをもって訳すならば、それは、              <新しい契約>即ち<神の子イエスの誕生>を              告げ知らせるところの<御使い>を指すものと              なる。              その<御使い>さえも、<すでに来ている。>              という言葉の預言ともなり得るものだ。  主イエスは、ヨハネのところに来て、洗礼の聖儀をおこない、ほどなく直ぐに荒野に行かれた、とい  う事であるのに、、何で、<たちまちその宮にくる。>と云えるのか、”そんな預言は完全に的が外  れているよ”と、誰もが云い得るところだ。だが、違うのだ。どう違うのか、、、、  イエスの在世時での宮と言えば、ヘロデ大王が再建した、ローマも羨むほどの壮麗さを誇った、かの  神殿に相当すると見なされうる。だが、そこで為されていることは、外観の壮大壮麗さでもって人々  を惹きつけ、その宮詣自体への拝礼や、数々の慣例儀礼をなしているに過ぎないものであった。神殿  内の内装的形構は、モーセ時代の幕屋聖所や、それを受け継いだソロモン王の神殿などに比定した様  式を採ってはいたが、その至聖所には、モーセ時代からあったような<主の契約の箱、およびその上  なる贖罪所>もすでに失われて存在せず、且つそれらを<模造>して、その記念としたような聖なる  代用のもの(レプリカ)さえもなかった。おそらく、豪勢な垂れ幕と金張りの戸張で仕切られた前に  <香をたく祭壇>と、供えのパンを置く机、そして、単なる灯りのための燭台が備えてあったほどで  ある。それとも、それらが垂れ幕・戸張の内側(至聖所)に移し置かれていたかも知れぬ。  とも角、そのような室空間が設けられてはいるが、もはやそこでは、<神の言葉=啓示>の意味を、  真摯に顕わし示す得る正当な儀礼は、為し難い現実となっていた。モーセ伝承に則した本来的意味で  の<神の神殿>としての本質本義な内実を欠いていて、全く無意義、無意味なものと化していた。  至聖所での<契約の箱と上なる贖罪所>の、神の言葉=啓示が顕わし得る<本義>は、その本義あり  てこそ、真なる宮であり、神の神殿なる宮であり得ることになる。しかして、つまるところ、その本  義とは、それの本源でもあるメシヤ、<神の子・イエス>そのものである。彼は真の<宮>であり、  その<本義そのもの>であるわけだ。したがって、”たちまちその宮にくる”との言葉は、限りなる  当然の事となりえており、その言は即、成就していると云えるわけだ。(これは、至聖所とその在り  方そのものが、事象事物預言として在るもので、<それの本義の何たるか>を、それでもって世々後  世に伝えゆくものとする、といった<神の本来的な思想(ご意思)>がまずもって先にあり、それを  具象的にモーセが授かり受け、その選民に伝え行わしめた事、その<神の定め>による秘儀から来る  ものだ。)  バプテスマのヨハネによるイエスの邂逅的洗礼には、二重の意味が込められている、という言い方よ  りも、もっと深い真意が隠されている。これは、ヨハネに対する、イエス自身の<ヨハネの役割理解  における深い捉え方>によるところにおけるものだ。  ヨハネ自身は、イスラエル民衆の心を導き整え、メシヤが現れるために、幾らかでもそれに相応しい  <場とその道>に備えること、その使命を自覚し、その為に<神殿・宮詣崇拝一辺倒の世情>からの  <心の覚醒>を促さんと、<悔い改めのバプテスマ>の招授をもって、その道すじを立てんとする。  ヨハネの<メシヤ理解>の程がどんなであろうとも、彼は、自分に課せられた本分を全うせんとする  者として、その立場にふみ留まっているに過ぎないものだった。  だが、イエスの場合は、そういった先行支援的なお膳立てが大いに有りはしても、そのメシヤとして  の任、その道を全うする事への重みは、とり止めもなく深く、計り知れない厳しさを要請されるよう  なもので、且つ、それを乗り越えずしては終わらない、完遂できないようなものであった。  イエスは、民衆へのヨハネの<悔い改めのバプテスマ>に<罪祭のやぎ>を観て取った。これは、旧  約聖書のレビ記第16章の内に記されている<贖罪の日>関わる内容に直結した事柄として、イエス  の最重要視した心の心境を明かすものとなる。(かって贖罪の日は、年に一度、イスラエル暦で7月  10日に守る定めとしてあったもので、それに関わる<特別なやぎ>であった。レビ23:27節も参照)  イエス自らが、進んでヨハネによるバプテスマを受けるということは、裏を返せば、そのイスラエル  民衆の<悔い改めのバプテスマ>それ自体と、それでもって告白表明されえた<神への罪>の全てを  負うということであり、その真意をご自身をして有効ならしめるということである。  したがってイエスのこの<バプテスマ>への深い係わりは、自らをもっぱら、<荒野に送り出される  やぎ>、即ち、民のすべての悪、罪,汚れを転嫁された<やぎ>の立場におき据えたことを意味する  ものとなる。彼は、想起想念的にそれを自己の内に許容内実化した。それゆえ、彼は、真理における  神の言葉、その啓示内容を限りなく充たし切り、成就する為に、そのような<荒野に送られるやぎ>  の立場から始めなければならなかったのだ。  もはやイエスにとっては、このような立場、処から始めなければ、やがて行くべきところ、かのエル  サレム及びその宮へ、自らのそれへの聖別イメージをもたせた、神の都エルサレムとして、神の宮の  それとして、そのところに向かい行くことを出来なくさせる心内意識の矛盾、ひいては霊的真理のわ  だかまりが生じてしまうわけである。    イエスと、かのレビ記16章での祭司頭のアロンとを比較すると、まるで両者は正反対的立場から、  それぞれその聖なる任務、使命を為すような様状を見せているかのようだ。  つまり、アロンは、<聖所と会見の幕屋とその内にある祭壇(炭火で香を焚く壇)>を清め聖別する  ための贖いを、すべて終えてから、罪祭のために生かしておいた一方のやぎ(二頭の内一頭のやぎは  ほふって、その血で清めの儀式をなしている。)を<スケープゴート(Scapegoat)>として、身代  わり転嫁の儀礼をなし、そのやぎを荒野に送り出すことで、その贖罪儀式の主要行程を終えるものと  している。(16:20-22節)そのあとに続く祭儀は、通常普段ベースにあるような、定めの<燔祭>  等となる。(レビ記1章での記載の如く)  一方イエスは、罪無き神の子であるから、アロンのように最初の段階での清め聖別をする必要性の全  然ない立場にある。したがって、イエスは直ちに、その贖罪儀式の最終段階、身代わり転嫁のやぎ、  <スケープゴート>の立場から、逆行的にその<聖なる昇業の途>、その初めとしての荒野への出向  きとなる。  ところが、神の子・イエスにありては、その荒野への自らの導きから始める、その<ご昇業(霊肉精  神実存の全存在において)>は、祭司頭なるアロン的精神レベルや、かの洗礼者ヨハネの霊的レベル  で成されることでもって、すんなり済まされるものではなかった。それほどまでに、イエスの心は、  深えんで奥深く、意識されうるものだった。イエスにとって、アブラハムの契約とか、アダムの事柄  とか、またモーセの存在とか、その他すべての個々において、<啓示的無限性、永遠性、あるいは普  遍的世界性>を意識されておられたこと、それは、イエスのきわめて自然な心の特性でもあった。    年に一度きりの<贖罪の日>第7月の10日(現暦では、9月初旬-10月)に関するレビ記第16  章での文言では、そのモーセ、アロン時代特有な観念的想念性を含んだ特殊な言葉が見られる。それ  は、日本語訳でもそのまま日本式に原語読みして、カタ仮名で表記されている。その語とは、、、     ”アザゼル ”ヘブル語では、<עזאזל =(エア’ザアー`ゼエー’ル)> この語は、第16章の8節、          10節(2度)、26節で、4度だけ見られるもので、他の旧約聖書の正典諸巻類          すべてにおいて、一切使用されていない、ユニークさを秘めた言葉である。  文言8節では:”その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。くじの一つは主のため、          (そして)くじの一つはアザゼルのためである。” とある。    この文で知られる如く、やぎ二頭で、ワンセットの関連繋がりのセレモニーとなっている。  ひとつは、民への罪祭のために捧げられる犠牲のやぎ一頭と、いまひとつは、<アザゼル>に当てら  れる為のやぎ一頭である。これによって、その特別贖罪日に求められる、祭司アロンも含め民全体の  ための、聖具設備への聖別清めのあがない内容が満たされるものとなる。(20-22節)  その後、いつもの通常レベルでの<燔祭>(この日の時だけは、祭司らと民衆全体の為のものだが)  の執り行いに移る。これは、<聖所及び会見の幕屋>の入り口の前方にある<焼華祭壇>で行われる  もので、それへの犠牲の捧げもの(雄羊)でもって、この<特別な日のあがない>の全行程が完了す  るわけである。(24節)  毎年、一度きり、この日だけに<”アザゼル ”>の儀式が行われるということだが、この語につい  ての、現代英語訳版では、邦訳と同様な仕方で、表音式に<Aza'zel>の英スペルで記されている。  <Scapegoat=スケープゴート>と英訳されているのは、KingJamesVersion系のもので、その諸改訂版  も、その語をそのまま1900年前後まで用いたと思われる。しかし、最初にヘブル語原典(旧約)  を英訳したWilliam Tyndale(ウイリアム ティンデェル -1536年没)16世紀初頭の聖書翻訳者だが、  この人が、scapeとgoatの二つの単語からの<合成語>として、この<Scapegoat>の訳語をあみ  出したものだと思われる。   (Scapeという語は、元々中世後期の英語時代には、Escape というの語の<頭音消失形(E)無し>  として認められていた古英語のものらしい。依って、この語を転用し、合成語の訳語とすることで、  概念的にも定着した用語となったようだ。)     この<Scapegoat=スケープゴート>の訳語は、単純に考えれば、レビ記の16章での内容をとても判り  易くしてくれているとも云える。この語をもってその事を、いま先に前述した如くではあるが、、。  しかし<アザゼル>というヘブル原語は、その意味解釈、訳語等をめぐって、ティンデェルよりも  ずっと以前から問題視されていた。もって、彼訳の聖書が成立した当初から、彼の訳語は、正しい  意味解釈に在らざるところの誤訳であるとの批判の風評を煽られるものとなった。それでも、かの  King James 版は、このティンデェルの訳語を採り入れ、使用するに至っている。  (かっての70人訳ギリシャ語や、そのラテン語訳も、概念的には不十分かと思われるが、同じよう  なゴート訳、ギリシャ語では、明らかに前置詞プラスの複合語:<απο+>によって、その訳言をな  している。したがってそういった傾向を、ティンデェルも踏んでいるとの推定も可能か。)  邦訳ではそのヘブル原語の意味が、そもそも不定不解である上に、英訳の<Scapegoat>に当たる  適切な日本語の語彙も見当たらないまま、今日に至ったのが現状であろうか。  祭司の長なるアロンの前にいる<かの生きやぎ>、それに<アザゼル>=イコール・スケープゴートなる  抽象名詞の言葉とその概念の衣を着せるような解釈手法の訳は、とても明解さに長けており、その宗  儀法的意味観念も、如実に伝え示し、理解しやすいとの絶賛を表したいほどにもなるであろう。が、  かってのヘレニズム時代から初期キリスト教時代以降に亘って、もちろんユダヤ教をも含めてその語  <アザゼル>は、とくに荒野に居つくとされる悪霊(evil spirit)または、悪鬼の一固有名だとの  考えが一般化されるに至っていた。その当時、観念的にその存在を認められていた<悪霊のかしら=  べルゼブル>の名と、同様な類感のものと考えられていたと見てよい。  (マタイ10:25,12:24.27,マルコ3:22,ルカ11:15.18.19他)  だが、止まれ! この語<アザゼル>が、歴史的に見ても、このレビ記16章でほんの数回(4回)  だけで、旧約書巻のみならず、他のあらゆるセム系の古代碑文、考古学的な資料等からの類比を見計  られ、論じられたような形跡は、現在に至るまでのところ、一度も見られていない。他からの比較資  料的語彙等が、皆無で、出て来ていないということに、何か謎めいたイワレが秘められているのでは  と、そんな受け止め方のアプローチもできようか。(エジプトのヒエログリフでの表音等での類比)  年に一度だけという<贖罪日>の特殊性、その定めの内容記述の故に、その語が、それ自身の限定性  をもって、他ではまったく使用されることもなかったと言い切れば、それまでかも知れない。だが、  果たして、そんな風に言い切れるものだろうか、、、、。  しかし、ここでまったく新しい別な見方、捉え方を、そのベブル原語<アザゼル=עזאזל>に投げ掛  ける事によって、イエスの<荒野行きの心の真意>を、さらにより一層深く見定め、知ることが可能  ではないかと思われる。  この見方については、ずばり結論から先に開言することにしよう。つまり、この<アザゼル>、4度  だけの使用、そこにだけ限定されたヘブル語彙、この4回記述の語こそは、モーセその人の心の内面  をも照らすところの、言葉の言語(文字記号)による、遥かな先の未来に向かっての<暗号>メッセ  ージであったということだ。これは、一体、どう云う事か。  (主なる神は、面と向かってモーセに語る場合と、そうでなくモーセ(の心と口)を通して、ご自分  のご意思を語り伝える場合とがあり、また、その両方での<主の言葉啓示>がなされる場合(シナイ  山頂、幕屋のあかしの箱の上ケルビムの間から等)もあるわけだが。)  文字記号による暗号と<モーセの思惟思惑の内面的メッセージ>の分析、成立を見てよう。だが、そ  の前に、かの第16章で、主がモーセに語り、その言葉を受けなければならなかった、その祭儀的状  況要因、その背景的な前提をかい摘んで述べておかねばならない。以下の小字記述にて、、、  イスラエルの民は、出エジプトの三月目の初めに、シナイ山下の荒野に宿営するに至る。その数日、  及び40日、40日と、その10日前後のうちには、主のための幕屋・聖所の建立のため、諸々の工  作を開始した。その日数を合算すると、出エジプト後、およそ6ヵ月を経て、その着手に至った。  しかして、およそ半年余りを要して、出エジプト後の第二年目の正月、当時のイスラエル暦の第1月  の1日には、その<会見の幕屋・聖所>、それを囲む聖域とその中の祭壇、及びその他の設備諸々、  祭具諸々が、その全ての工作、工事の終了をもって完成するものとなった。(出エジプト40:1-16-33)  そして、モーセは、その完成を見た当日であろうと推定されるが、レビ記8章1節以降9章に亘って  書き記した如く、出来上がった<幕屋・聖所及び聖域内の諸々の設備、器具>の<油注ぎの聖別>を  行い、主なる神への<献上聖用の義認可>の儀を執り行った。アロンとその子ら(4人)も祭司とし  ての<油注ぎの聖別>を受け、直接に祭壇にたずさわる彼らの故をもって、その祭壇の為に彼らをあ  がなうべく、それぞれに犠牲の雄牛、雄羊を捧げることで、その清めの規定に従いて、これを聖なる  祭壇と為した。そしてそのあと、ようやくにして、アロンとその子らの<任職式>の犠牲儀礼を執り  行う段階に至った(8:22-36)  彼らの任職には7日間を要した(33節)とある如く、大変なものであった。モーセ以外、これを行い  得る者は誰一人いなかったので、彼は、これをも執り行った。  つまり、七日という最初の週期の、一日一日の<祭壇のあがない>と彼らの主への<務めの日々>を  ば、あがない聖別したわけである。  任職の儀が終了し、八日目になってようやく、アロンとその子らが、祭司としての務めができるもの  となり、その初舞台のようなものとして、イスラエルの民ら全体にとっての、その最も記念すべき、  輝かしい、そして主の栄光が民らの前に現れるところの祭壇儀式を為すに至った。(レビ9:1-8-24)  前日のモーセの執り成し聖儀の完了を受け、モーセの導きでアロンらが、祭壇に近づいた。(8節)  アロンらのなしたその初心の<罪祭と燔祭>は、<頭に手を置く>以外はすべてモーセが先に執り行  った手順と同様の方式であった。そして、さらに彼らは、民のための<罪祭、燔祭>を、また<酬恩  祭>の犠牲をも捧げ、その締めとして、民らを祝福し、ここでアロンらの務めが、定めの聖儀法通り  終了するものとなった。(9:22-23)  この<聖所献用>への聖別祝祭典は、この時に至る民ら全体の一大イベントとして非常な盛り上がり を見せた。その終了後には、祝い酒や<酬恩祭>  での<もも肉、胸肉>その他の素祭(ソサイ)などでの、打ち上げの会食を喜び楽しんだようである。  (その聖所、祭壇奉納の祭典は、他書民数記:第7章記事全体からも、その盛大さがうかがえる。)  だが、そんな盛り上がりの有頂天も覚めやらぬなか、数日後か、一週間後か定かでないが、予期せぬ  思わぬ事態が起った。アロンとその子らが、任職の儀をなし、その聖なる務めを始めたばかりという  のに、年長のナダブとアビフの2人の子が、大変な間違い、誤用のしてはならぬ務めをなしてしまっ  たのだ。(レビ10:1) 彼らは、先の祭司デビューで有頂天になり、気をよくし酒気を帯びていたのか、  (8節)思い上がって増上していたのか、聖所の中の<香の祭壇>でアロンだけが行ないうる朝と夕  に<主の前に薫香>を焚く務めを真似て、彼らがこれを行い、しかもその方式が間違っていた。   (定められた薫香でなかったか、それとも、指定の薫香を<細かく粉状>にしたものでないといけな  いのに。その薫香の固形断片状のままで火皿の香炉に盛っても、ただ濃厚でひどい臭いが立ち込める  ばかりで、最良に心地よい香の匂いにはならないのだ。)  彼ら二人は、入る資格のない禁制の垂幕の中、あかしの箱・贖罪所の間に入ってしまったから、さー  大変、彼らは、<あかしの箱>の前の床に転げ死するものとなる。主の前から<特殊な火>が出て、  ほぼ苦しむことなく、瞬時に心臓などの急所を焼かれての死であったろうか。  アロンと残りの子らは、二人の死を悼み、喪に服することもできず、幕屋の入り口から外へ出ること  すら出来なかった。主の注ぎ油の<聖別>が彼らの上にあり、それ故、死体に触れ、係わる事自体が  厳禁タブーとなっていたから、それができなかった訳である。(レビ10:4-7)  予期せぬ過ち、事態を起こし、長子の2人は、犠牲の死を招いた。しかも<契約のあかしの箱>の前  で死人が出たということで、聖なる祭儀の修復、回復もままならぬものとなった。真っ先にアロンへ  の戒告が、彼が死ぬことのないように、主よりモーセを介して為されるものとなる。(レビ16:1-2)    このような幕屋・聖所の完成、その聖用献上後、その最初期での不測の事態の経緯過程から、あらた  に聖所の垂幕(タレマク)の中、いわゆる至聖所の<あかしの箱・贖罪所>を、犠牲の血(2度に分けて  の罪祭)をもって、清め贖わねばならぬ事となった。(レビ16:3-22節)この聖所内、至聖所の清めの  儀式が、あえてその年(第2年目)の第7月の10日に行われるように、それまで他の祭儀が支障な  く執り行われたかどうかは定かではないが、(この場合には、その時に至るまでの間、アロンは、至  聖所への薫香を焚くのを中断する事になるが。聖所の外の祭壇での務めは通常どうり為され得た。)  早々にその清めの贖いが執り行われ、その正常復帰が計られたとも推定される。(16:3-22節)  この事が機縁となり、これらの一切の儀式が、あらたに加えられた定めとして、年に一度、第7月の  10日に行われる<贖罪の日>と決められ、代々民の守るべき永久の定めとなした。これら一連の事  情経過がその状況背景となっている。(第1月、即ち正月の10日と、これにかこづけた、第7月の  10日には、緊密な関連性が意図されている。出エジプト時、その10日に<羊か、やぎの子>を取  り備え、<神の過越し>14日に対処したとの、つい1年前の出来事から来る。出エジ12章1-6)  (この年、第2年目の1、2ヶ月も、大変忙しいが、意気盛んに事を定め行う日々であったようだ。  民数記1章1節では、その2月1日以降、<神の幕屋>を中心とした12部族の陣形的宿営体制が敷  かれ、また、宿営部隊それぞれがその<12の旗>の下に移動出来るように、その順行手順が定めら  れる。(2本の銀製のラッパによる等。民:10:1-10節)そこには<民族移動的国家、或いは共同体  らしき体制>が整えられたのを見る。そうした<主の幕屋>中心的体制の求心力が強く高まる最中、  その2月20日には、いよいよシナイの荒野をあとに出立するものとなっている。民数記10章11-  12節が、この時を書き記している。)  主なる神に聖別選び出された一民族、これは決して極々小さな事ではなかったのだ。氏族ファミリー  的に捉えれば、ただ父祖アブラハムとの神の契約上での<預言的約束事:カナンの大地を与えるとの  事>を果す、成就する事に過ぎないとの、その程度の歴史的意義だといった見識に終わってしまう。  しかし、<神の言葉の文化>を荷なった選民イスラエルが、どこへ、どのような世界史的状況の時期  に投入されたかを、大いなる認識の眼をもって見極め知るべきであろう。古代エジプト文明、メソポ  タミヤ文明の2大潮流が、その爛熟期から下降してゆく中、その地理的中間地域に位置した地中海東  岸からパレスチナ・カナンは、その2大潮流の下、つねに軍事的、生活文化的に影響されること、す  こぶる大であったろう。その2大潮流文化の煎じ詰めたるところは、まさに偶像文化の爛熟、その下  での生存状況で見られる横暴、圧殺、暴虐などはなはだしく、無秩序と混乱が頻発する、暗黒の暴力  支配が蔓延るところとなっていた。(逆に<偶像文化>が善的に長く続くと、その文化的諸要素の浸  透が生存社会の隅々までも深く行き渡り、そういった文化そのものの歴史的伝統を引継ぎ築くものと  なり、もはやそれから抜け出すことのままならぬ精神性とか、国民性とかに至るものとなる。)  その当時すでに、人や動物、家畜の類が、非業無秩序に殺戮され、その血が流されるものとなって来  ていた。それゆえ主なる神は、その聖別選びの民をもってさえも、そのような状況に対して、報復一  掃の処置を定め進めるほかなかったのだ。選民イスラエルが、オリエント2大潮流の間に、紆余曲折  しつつも、民族的に長く留まることによって、次第に世界の各所に時代の流れの新しさが見られるも   のとなり、千年、二千年、三千年の時代の流れを方向規制付ける基ともなったのだ。ギリシャ・ヘレ  ニ・ローマン時代からヨーロッパ文化への時代、そこからさらに西洋と東洋という2大的局面文化、  そしてグローバルに地球全体的な文化的融一交流の時代へと、神はまさに、聖別選びの民をもってさ  えも、かの<ノアの箱舟>以後、<ノアとの契約>を、そのモーセ時代の時から強力に、その当初に  在りては物凄く厳しくも、その契約を実行、推し進められたというわけである。これは単に選民イス  ラエルという一民族だけに係わる啓示史に終わるといったような事蹟を物語るものではないのだ。      さて、以上の事態経過により、注目されるべきは、予期せぬ2人のアロンの子の死、つまり、聖所内  至聖所の<あかしの箱>の前で死すという大変衝撃的な、何とも不可測この上ない事態の<死>とい  う事で、これが機縁となり、モーセは甚く沈思しつつ、主なる神を通して<死そのもの>の事柄を吟  味するものとなった。それに関わる処置問題が大いにクローズアップされ、<不測の死>、あるいは  <予期せぬ災いの死>に対しての、あがないの方式を<主なる神に>訊ね、主より、そのお言葉を給  わるものとなる。     主なる神からの、そのお言葉内容における、まさにその核心的なキーワードとなる言語こそが、かの  <アザゼル>という用語であった。これは、モーセ自身もその時代に在りて、使用認知していない、  未だ知らざる言葉、正に神からの新たな<新造語>だとの思惟意識をもって受けたものであった。  (あかしの箱の前に座すモーセへの<主の声>と共に、薫香の煙を用いて、その言葉の<スペル>、  もちろん、これは最初期の古代へブル文字であったわけで、紀元世紀前後から現代に使われている、  <四角張った語形>のものではなく、草書体的で、しかも大文字であったか、フェニキア文字風のス  ペルとも云えるものであったか。その ”アザゼル ”という<スペル>が煙によって、つづり浮き出  たか、それとも、あかしの箱の前側面かに、指のなぞらえにより浮き表されたかなど、そんな何らか  の方法により啓示伝達されたかのようだ。)  先ずもって、そのお言葉内容の全体的な面から見ると、(モーセは、これを後で、他との関連を考慮  して、手順よく書き記して、そのレビ記の16章の文面としているわけだが、)その新規できわだっ  た、何か珍奇でもあるといった感じのする部分が目につく。それは、幕屋・聖所の贖いのための<罪  祭に係わる2頭のやぎ>、それらをその最初から明確厳然と、<主なる神と、新語なるアザゼル>の  双方に前もって振り当てる。そのために<くじ>の重用を示した文面である。(16:7-10節)    兎にも角にも、かの事態からの復帰には、最も最重要に行なわねばならない事は、<至聖所・聖所>  のためのあがないであり、2頭のうちの一頭のやぎが、イスラエル民衆に係わる分を請け合うものと  して、今や主に対して、それをほふられなければならないということである。  あの最初の<立ち上げ奉献式(第1月1日での)>では、モーセがその至聖所内外のもの全てを、注  ぎ油をもって<聖別>し、その幕屋聖所内に如何なる<あがないのための血>も持ち込まなくても良  いという、云わば最善のスタートをもって、その祭礼を行わしめるものとなっていた。だが、今や、  事情が急変し、罪祭の雄牛とクジに割り当てられたやぎの血の両方にわたって、その血をそれぞれ繰  り返し至聖所の中に、その垂幕の内に携え入りて、その贖罪所(ショクザイショ)の2ヶ所に注がなければ  ならなくなった。  しかもその儀礼を行う前に、アロンが死ぬことのないように、垂幕の前の<香の祭壇>の炭火を香炉  皿に満たし、細かく砕いて粉状にした薫香(この折には、炭火も薫香もモーセ自身が手ずから備えた  ものでなければならなかった。死ぬことがないよう、慎重を要したのだ。レビ記の書には、この事は  何も記されず、省かれているが。)、それを<両手一杯の量>分が必要適正の限度とみなし、その聖  量をもって、焚く分として携え、(通常の時は、そんな分量を使わないし、気遣いなく適量を見定め  てするものであった。)垂幕の内、主の前で、あかしの箱の上なる贖罪所(両端に純金のケルビムが  対置している)、それを、その香ばしい焚煙をして、雲の如くおおわせなければならなかった。これ  は同時に、かの死んだアロンの2人の子の<過ちの行為=異(薫)火>に対しての代償儀礼による、  聖所復帰への有効幸運を計る意味をもなすものであった。  罪祭の雄牛とやぎの双方の血による、7たびの指でもってする振りかけの注ぎは、その垂幕の外にあ  る薫香の祭壇の上にもなされなければならないという、普段通常時にはなされない、まさに<特異な  あがない>、再聖別を余儀なくされたところの儀礼を現わすものであった。  (通常一般レベルでの最重責な罪祭として、<油注がれた祭司と、イスラエルの民・会衆全体>、そ  の両者、それぞれがあやまちを犯した場合がある。その二例レベルでの場合と比べてみると、かの場  合の重大さの度合い格差が如何に違うかが覗い知れる。二例では、幕屋の中でも、その<垂幕の前>  で、7たびの血の注ぎと、そして、主の前に向ってある<香の祭壇>の上部四隅にある<角ツノ>に、  その<あがない血>を塗ること、その二つが求められるものだ。もちろんその残りの血は、すべて、  幕屋の入り口の外の<焼華祭壇>の元部周辺に注がれなければならないが、これは他の諸々の罪祭や  燔祭、酬恩祭などでも行われる、極々通常どうりの儀礼様式と同じであった。(レビ記4章参照)        さて、イエスの荒野ゆき、神の言葉(啓示された旧約書の言も含め)の真理に満たされて、即ち聖霊  に満たされて、彼の御魂(心魂意識)は、自ずと自身を荒野へと導く。そのイエスと、かの新語なる  <アザゼル>とが何なのか、、今まで古代イスラエルの神拝礼のあり方、契約要請的な祭式の様程な  どに少々係わりすぎて、論旨の的を逸してしまったのか、こりゃ一体何なの!と、云われかねないか  も知れへんけども。だが、  その<アザゼル>について、先にずばりその結論は、と言う事で、モーセによる、遥かな先の未来に  向っての<暗号>メッセージだと、断言して置いたわけだが。モーセは、これを<新造語>として、  神から受用するものとなった。彼は、この神からの<新造語>に秘められたる、深い意味を知り得て  いたかどうか、定かではないが、たとえ理解され得たとしても、これを明らかにすることは、神から  の<心のタブー>であろうと、かなり厳正に意識していたであろう。したがって、これは、その新語  のため、くじで割り当てられたその<やぎ>に限定された用語でありつつも、いまだ未解封の隠語=  言葉の<暗号>として、めだって強調揚示されるわけでもなく、さりげなく普通に、その関連文節文  中にだけ納まって、その旧約書継承時代の長き期間を経るものとなって行ったもののようだ。  (実際のところ、モーセといえども、理解不可能な言葉であったと思われる。主イエスは、どうかと  云えば、ご自身の立場として、直接その言葉に触れるわけではないが、預言のかたちで具体内容的に  暗示なされておられるようだともいえる。)  ここでそのヘブル語、<四角形風スペル>ではあるが、その語に関わる用語関連分析や周辺諸語の諸  見から<新造語:アザゼル>としての<成立表意>の若干を索考しておこう。  ヘブル語でのスペル:< עזאזל >(aza-`ze-l)**ご存知の方もあると思いますが、ヘブル語は                           22の子音字のみからなり、そのうちの5種                           類が語末などで字形変化をする。                           母音字は、原則なしだが、22のものうち、                           限定の3種類だけが母音的な併用をする場合                           が見られる。                          現在のヘブル語聖書は、母音記号が付けられ                           ているので、音読できるが、これは、紀元後                           6世紀頃に、その符合形式が成立したからで                           ある。つづりは右から左へ、読み方も右から                           左へと進むものとなる。                           (本ページでは、全て母音記号の符合付けは                           不可能である。)  上記のスペルは、基本字形のものであり、実際の原典テキストでは、以下のごとく、セパレートしな  い前置詞、つまり名詞系などの単語の語頭に接字した形で表示されており、その意味をなす。   原典テキスト中のもの:< לעזאזל >(ra'aza-`ze-r)・基本形+前置詞(ל)(右読みにて)     *語性的品詞は、文法類別では、名詞であるが、いわゆる固有名詞の扱いとなっているが、これ     はギリシャ時代(ヘレニズム)以降の<言語文法学>の到来からの事であろう。ヘブル語の、     極めて希少な古語として、残存してきたものだから、現代的文法の観点からは、もはや、普通     名詞とか、抽象名詞とかの品詞分けの対象外ともなろう。     この< לעזאזל >(ra'aza-`ze-r)は、この字形式で、旧約書テキストのレビ記第16章     での文中内だけの限定使用であり、しかも、そこでの【4度】以外は見当たらない。ほかの前     置詞や冠詞などが語頭に付いたり、語末に接尾辞がついたり、或いは、複数変化や性変化の語     形のものなど、まったく一切皆無であるということだ。     したがって、いつしか固有名詞化される扱いとなったと見られる。また、文中での語句文節の     関係からは、男性、単数扱いのものとされる。     (ヘブル語には、ギリシャ語のような、中性というものはない。)  次に<アザゼル=עזאזל >に密接に関わる用単語である<やぎ>に係わるヘブル語と、その使用状  況を省察しておこう。   レビ記の書全体において、<やぎ>にあたるヘブル語には、2種類が見られる。以下のごとく。  Ⅰ)< שעיר >(sa-`i-r =サー`イール)・・・22回の使用、その内16章での使用が14回を占め、                       何か意図的で、非常に注目に値する。(他章では8回)                  単独使用:16回(<שעיר> or 冠詞付き<השעיר>  男性形:                     and 複数形<השעירם>(ハ'スェイー`リム)にて)   ・単数:<שעיר>            -------------------------      (sa-`i-r = サー`イール)      その複合語:【 שעיר עזים 】(ス`イール イジィーム)    ・そのconstruct形:<שעיר>            *意味は<若雄やぎ、又は、雄やぎ>         (s`yi-r =スェ`イール)             (直訳では、<やぎの雄やぎ、又は>)     (母音符合が異なり発音も違う)                        他のモーセ5書で、一番使用回数が多いのは民数記:   ・複数:<שעירים>or<שעירם>    ・民数記:21回(組み複合語の<主意語>として、     (shyi-`ri-m =スェイー`リーム、or~`リム)     オスの若やぎ or kid を表わす。)他に、    ・そのconstruct形:<שעירי>              (shyi-`re-i =スェイー`レェーィ)       6回の単独使用(文の前後により複合の従=                            随語<עזים>省略分含め)同じ意味を表わす。  女性形:   ・単数:<שעירה>           その複合語:【 שעיר עזים 】レビ記と同じ形式にて。      (sheyi-`rah- =スェイー`ラー)           *意味は<若雄やぎ> レビ記と同じ    ・そのconstruct形:<שעירת>                     (sheyi-`ras =スェイー`ラス)  ・創世記では、何故か<一ヶ所、1回だけ>、その単語の                           従語を伴っての使用を見る。(創37章31節)   ・複数:<שערת>               上の民数記と同形式:【 שעיר עזים 】      (sheyi`ro-thi =スェイ`ローツィ)      この語式は、創世記29章9,16節や38章17,20                           節の共通形式【 גדי-עזים 】と妙に異なる。    ・そのconstruct形:<שערת>         (shyi`rothi =スェイ`ロツィ) **他の書(出エジプト、申命記)では、その状況、事      (これはテキストでは      柄を物語るに相応しく、この用語が、当該使用されるに         見あたらない。)     マッチしない筋、理由にて、それらの書には使用例が、                      全々見られないというべきか。                      だが、創世記事のかの個所のみ、<重要例外なもの>と                      して、意図的に使用されたと、考えられる。                                            この創37章31節に係わる記事は、ヤコブの末っ子ヨセフ                      が、エジプトに売られ行く直前の事件を物語るものであ                      り、エジプトにおけるヤコブ(スラエル)の子ら・12                      氏族とモーセ時代の出エジプト以降の事柄に直結する、                      重要な要、契機となっている。                      そのために<レビ記、民数記>で、大々的に使用する事                      となった、この< שעיר >(sa-`i-r = サ-`イール)への                      あえての関連付けの為、用いたと思われる。そうでない                      と、レビ、民数記におけるその語が、5書での先行伝承                      のものから浮いてしまい、孤立無縁の言葉関係となって                      しまうからである。この場合、仮に古い伝承資料、口承                      の言葉との差替えが意図されたものとするならば、、、                      以下の如き、切り替えとなる。                                        イ)父祖ら表現:【 גדי-עזים or -גדיי】の組み合わせから・                          (ギェ`ディー -or グェダー`ィエーィ イジィーム)          *意味は<子やぎ、またはやぎの子>                       (直訳では、やぎの子やぎ、又はやぎの若やぎ)                     *創29章9,16節 and 38章17,20節 on ヘブル原典参照                  ロ)モーセ時代の組み合わせのものへと                    シフト・・:【 שעיר-עזים 】(スェ`イール イジィーム)                          *意味は<雄やぎ、若雄やぎ>                            (直訳では、やぎの雄やぎ、又はやぎの若雄やぎ)                    ・出エジプト記、申命記の両書では、その使用は全々、                     見られない。                     この点も注視すべきところで、伝承的には、次に挙げた                     < עז >(エーズ)よりも新しい言葉、モーセ時代前後には                     日常的によく使用され、認知されるものとなった言葉であ                     ると思われる。                                          *(この基本形は、男性名詞だが、性変化の接尾辞が語尾に                     付いて、女性形は<שעירה = スェイー`ラー>となる。これの                     使用では、雌やぎとなる。レビ記4章:28, 5章:6節など)                     原典テキストでは(レビ記 5:6節)construct 形だが、                     その女性形:【 שעירת עזים 】(スェイー`ラス イジィーム)  Ⅱ)< עז > (e-zu = エーズ)・・・12回の使用、その16章での使用は1回のみ。(16:5節) (そのうち単独使用は、単数、複数形あわせて:6回)  男性形:なし             ---------------------------     (本来女性名詞にて)                       他のモーセ5書では、  女性形:接尾辞付でないもの。      ・創世記:4回(やぎ or 子やぎ)と、雌ヤギの4回                      ・出エジプト:6回(オス・めす区別なし)   ・単数:<עז>(e-zu =エーズ)    ・申命記:1回(区別なしの複数形)(14章:4節)    ・そのconstruct形:<עזי>            次の5節での<野やぎ>には、        (yi`zei =イ`ゼィ)            別語:< אקו >(a`kko-)がある。   ・複数:<עזים>                (yi`zzi-m =イ`ジィーム )    5書中で最も多く使われているのは民数記である。    ・そのconstruct形:<עזי>     (前述の語<שעיר>との複合にて多く見られる)                                    (yi`ze-i =イ`ゼーィ)      ・民数記:18回(若雄やぎ or kid を現わす主意語                              の従定語=随語として使われる)    *だがこの語、単品だけでは          1回(雌雄区別なし・31章:20節)     <雌やぎ>を特定表現する          1回(特定の<雌やぎ>、これは単数     ことはない。他語と複合的             女性形だが、同義的他語との     な句をなして表わされる。             複合にて・15章:27節)以下の如く     雌雄の係わりなき<やぎ>は、      【עז בת-שנתה】(e-z bas-sna`tha-ha)     この語での一語表示が可能。        字義:<בת>娘、<שנת + ה>その(娘)年の、    *construct形の語体は、         意味:一才の雌やぎ(生まれ年の雌ヤギ)     原典テキスト中には           *さらに(別の語: < עתוד >(attu`d)が、     見当たらない。             雄やぎを表す。13回複数形にて、7章:17節他)    (使用されていないとも。)                                   *(この語の基本形の性は、元々feminine-女性である。                               そのためにこの語が単独で使われない場合、つまり、                            コンストラクティブに他の語と複合して用いられる時には、                            その語の性を表明せず、やぎの<雄>を特定する。                       特にその複数形での組み合わせで使用されている。)                             *これの複数形は:<עזים>(yi`zzi-m = イ`ジィーム )  以上、やぎに係わる二つの言葉(שעיר とעז )を、レビ記の第16章での、かの<アザゼル>との  特異な関係ありや、の想定の下に その言葉の使用状況を見たわけだが、レビ記ではこの2種の言葉  による、その使い分け以外に、<やぎ>に限定された他の用語の使用は皆無である。  しかも <שעיר =サー`イール>に関しては、レビ記以前の創世記、出エジプト記、及び、以後の申命記  では、<創世記での例外使用>と見られる、その一ヶ所以外、この言葉は、他に用いられていないと  いう、使用状況の特徴を示している。  ちなみに<やぎ>に言及される言葉を、モーセ5書全体ではどうなるかを見ると、上記の二語以外に  なお二つの別用語の使用が見られる。  一つは、< תיש =tayish >であり、創世記30章35節、32章14節のみで、旧約書全体からみても、  僅か4回しか見られない。ゆえに非常に古い伝承古語であろうとも判断されうる。その創世記では、  複数形< תישים =tue`ya-si-m >で用いられ、しかも本来的に<雄やぎ>に限定された意味のも  ので、かのレビ記での用語 < עזים , עז =e-z, yi`zzi-m>とは、雄と雌との間柄という明確  な<対>の如き言葉関係の使い分けを創世記事では示している。  いま一つは、単数形< עתוד =a-`tu-d >、複数は< עתודים =atu-`di-m >又は< עתדים =  同発音>で、民数記(13回 )と申命記での1回のみ(32章14節)、他の旧約書では、イザヤ書と  ゼカリヤ書と、時代の期間幅があるが、他の書を含めて、わずか6書に過ぎず、それぞれその使用頻  度も1回-3回未満と少ない。この語は、レビ記と民数記での歴史上の同時期的相関に着目するかぎ  り、比較的新しい言葉であろうと推定され、この民数記以来、その使用に初めて登場しており、それ  におけるある特有な専用性をも示している。  つまり、それを云えば、<酬恩祭のための雄やぎ>には、この語が専用に使用され、<罪祭のための  雄やぎ>には、かのレビ記における <שעיר =サー`イール>と、これによる複合句を用いるといった、  極めて厳密な使い分けがなされている。(民7章16-89節他)これは、非常に注目すべき点である。  モーセは、祭儀の諸々が定めのとうり首尾よく実行されるよう細心の注意と努力を惜しまなかった。  それにも拘らず、その当初時期にアロンの二人の子の死に直面し、その痛手と挫折の思いは、彼の心  を非常に重苦しくしたに違いない。そのような経験、及び祭行過程を踏まえていたから、レビの書を  書き記す務めにおいても、並々ならぬ<祭儀履行>での言葉の説述と文面的配慮が計られている。  <定めの手順規則>を口頭にて語り伝えるより、言語の明文化をなす上では、その厳密な正確さ、且  つ誤解を生むことの無いよう明確に書き記す事が要求され、モーセにとっても、かなりハイレベルな  言語の設定処理作業の試みを余儀なくされたと思われる。  (モーセは、レビ記の8章、9章で、出エジプト記の第40章1~17節、33節までの事柄、即ち  その第二年の一月一日と、その一週に及んだ<一大献祭式儀>を、アロンとその子らの祭司への任職  の側面から記しているが、その前の章、即ちレビ記第1章から7章にかけての内容に関しては、すで  にその<奉献式>の前日までには、その定めの整備を終えるところまで来ていた。つまりモーセは、  <主の命じられた定めの言葉>を、ある一定の祭式法儀にまとめるかたちで、それの草稿化をなした  もの(7章37-38節言及分を含め)と見られる。  したがって、この草稿でもって、実際にイスラエルの民に語り公言したのは、その<奉献式の一週>  を経た後の事であったとの見方もできるが、もし事実そうならば、その後編集の完結をなして成立し  たレビ記上から見れば、あたかもその順序(8-9章と1-7章)を逆にして記しているとの感を禁じ  えないものとなる。  ただし、第1章1節での<会見の幕屋>が、かの奉献式に完成した<聖所>のものではなく、以前か  ら宿営の内に設けられた旧の幕屋で、出エジプト記第33章7-11節に記されたものと見なせば、  1-7章での主要内容記事がその時期の幕屋からのものとなり、何ら見かけ上の不順は、些かも無い  ものとなろう。)  モーセにとって今や、アロンの2人の子の死により、聖所と祭司とをあがなうべき罪祭の事が急務と  なった。しかも、主なる神からは、<アザゼル>なる、未だ耳にせざる新語をも受けて、その聖所の  贖い清めの罪祭を執り行えというものであった。  レビ記では、<主は、、、モーセに言われた、>という実事形式で、繰り返し何度も<神の言葉>を  受けたという事、その事自体が、いわゆる厳然とした<事跡>であるという訳だが、そういった中で  状景的事柄や事件を記した事蹟もあり、その主要なものとしての記事が3ヶ所見られ、レビ記編纂上  での主要なかなめともなっている。第8と9章での<奉献聖別式>、第10章での<アロンの子らの  死とそれにまつわる事後状景、しかもモーセ自身の心痛なる気遣い(12-16-20節)をも加示する。  そして、三つめは、10章の不祥事により必須生起することになった、第16章での<聖所に対する  贖い罪祭>、しかも、この予期せぬ罪祭を、年に一度の<贖罪の日>と定め、毎年、第7月の10日  (ユダヤ暦)に行うようにと、モーセに命じ言われた<主の言葉>であるということで、祭司アロン  は、これを受けて、その一大罪祭を執り行ったという事蹟記事である。    その一連の三つの事跡関連から最大の印象付けの記述を跡付けているのが第16章全体にわたる記事  である。モーセは、この章の記述に至る過程おいて、<罪祭のやぎ>に関する、その言葉用語の新た  なる確立確定が将来的にも明確に必須なりやと跡付けているのが見られる。これは、原典ヘブル語テ  キストからしか読み取ることが出来ないものであるが、この章の文言での<やぎ>に言及した用語の  使用をもって、その内容文言をば特別に聖別されるべきだとの新志向意識を働かせて、その事蹟に関  わる文言の記述をなすものとしている。  このような<聖別志向文言>へと、<やぎ>の用語確立をもってモーセを駆り立てたのは、いわゆる  主なる神からの新造語<アザゼル>によるものであった。神からの新語なるが故に、将来的にどうな  ろうとも、何はともあれ、この語の位置づけ存在を最大限になして置かねばならなかった。そのため  には今まで<やぎの言葉の使用>がかなり曖昧な状況を呈していた事から、厳然とした<やぎの使用  用語の確立>が急務となり、レビ記編纂において大いに注視されるべき主要課題の一つともなった。  原典へブル語テキストのレビ記から、その<やぎ用語>の使用展開とその確立への流れを、その語を  を中心に見据えて、第1章から順にピックアップして見ておこう。  (第16章に至るまでに、その使用例が見られない章:2、6、8章と、11~15章とがあるが、  それらはそれで<主の言葉>の叙述上の叙順アレンジにおいて、最大限の編纂効果をなしている。)  第1章:  ──────   ①・・10節・・< מן-העזים >(min- ha'yi`zzi-m)=(やぎの内から)         *先ず最初に古来から用いられている語:ハ'イッ`ジィーム(העזים)冠詞付複数形。          この語だけで雌雄区別なしの<やぎ>を表わし、その後、後方に続く語で、          条件としての<雄=זכר(za-qa`r)>の語をもって明確に限定表現している。          (本来が女性名詞で、雌ヤギ限定での使用と、雌雄おかまいなしでの          やぎ一般にも用いられている現状ゆえに。)          創世記、出エジプト記でも、雌ヤギ、やぎの双方での使用を見る。  第3章:  ──────    ②・・12節・・< ואם-עז >(wim-`e-zu)=(またもし、やぎならば、)         *ここでもさらに同様の語:エーズ(עז)前項①での<עזים>の単数形。              雌雄の限定なしで、雌雄おかまいなしの<やぎ>として、古来から常用          される如く、この古来語が用いられている。   第4章:  ──────   ③・・23節・・< שעיר עזים >(she`yi-r yi`zzi-m)=(やぎの雄やぎ)=むく毛もの)         *ここで初めてやぎ規定の新たな語の導入:サーイール(שעיר)男性単数名詞。          (この複合語句の相対語<עזים>(yi`zzi-m)は、複数形であるが。)          当時やぎの雄雌をその外見容貌(体毛、角など)で即座に見分けることができた          ので、この語を<雄やぎ>に当てて使用することが日常化した。だが、子やぎ、          若やぎには少々難が生ずる場合をよみして、テキスト文言では、この語に対する          さらなる明確な厳密さを示すために、<雄>を意味限定する語(זכר =ザーカール)          を後続使用している。          レビの書以前の<父祖伝承資料>に相当する書、いわゆる創世記で、それのただ          一ヶ所だけ、この<複合語句>の使用が見られる。これはモーセによる著述時の          改訂筆写により、意図的に関連相符された唯一の個所であると検証想定されうる          ものである。(創37章31節)         ④・・24節・・< על-ראש השעיר >(al-`rosh ha'ssa-`yi-r)=(その雄やぎの頭上に)         *前節の<複合語>の意を受けての単独使用: ハ'サー`イール(השעיר)冠詞付で。                   この言語記述により、①の(העזים)ハ'イッ`ジィーム の言葉と同等の、文語使用上          での言語資格を示すものとなる。             ⑤・・28節・・< שעירת עזים >(sheyi-`rath yizzi-m)=(やぎの雌ヤギ)         *新たな複合語句<雌やぎ>の表示:シェイー`ラス(שעירת)女性形                               (接尾辞変化のコンストラクト形)。          ③の23節の文の<雄やぎ>との完全対照としての<雌やぎ>、その複合語を          後続の語形変化語(性一致)と、<雌>を意味する語とで記示している。  第5章:  ──────   ⑥・・ 6節・・< או-שעירת עזים >(o'-sheyi-`rath yi`zzi-m)=(または雌のヤギ)         *前章⑤の<雌ヤギ>の語句をさらに反復使用:シェイー`ラス(שעירת)女性形(々)。          この再度の記述使用をもって、その語の女性変化形での<雌ヤギ>を厳密確定し、          それによって、より一層、前述の<雄やぎ>の語句を対照的に確固たる言語表現          として定立せしめている。           第7章:  ──────   ⑦・・23節・・< וכשב ועז >(w'cke`sheb wha-`e-zu)=牛(と羊とやぎ)         *もう一度ここで、言葉の初次元一般に回帰:エーズ(עז)、接頭接続辞(ו)付き          この23節を含む文内容は、犠牲の供え物に関する定めから一歩離れて、食べる事          に関しての注意の戒めを<家畜の肉類、あるいは血>について最善の禁忌をその          民らに促がしているもので、その内容と言葉の使用とがうまく釣り合い合致して          いると云える。。  第9章:  ──────   ⑧・・ 3節・・< קחו שעיר-עזים >(cke`cku sheyi-r-yizzi-`m)=                           (あなたがたは<雄やぎ>を取りなさい)         *この語句は③の4章23節で定立済みの複合語:シィイール -イッジィー`ム(שעיר-עזים)          (へブル語のハイフン、マッケフ(連結符)のあるなしの違いがあるが。)          前章の8章には、<やぎ>表示の語句は見られないが、この9章に続く内容と共          に、例の<主の幕屋・聖所の奉献式>、並びに<任職祭>の実際状況を記す記事          という事で、レビ記の中では、その事蹟的有用性に適うものとして、非常に貴重          で、重要な位置付けを占めている。          だが、レビ記編纂上、ようやくにして、この8、9章で、それらを取り上げ記す          ものとしている点、また、ここではっきりと、各種祭儀に関する明文規定が明確          に表示され、特に罪祭における定めの曖昧さが、その明文化により拭い去られ、          憂慮なきものとなした点など、その深慮の極みには計りがたいものがある。          アロンとその子らによる聖所の祭儀運営が、ここでようやく、その儀礼手順を踏             まえたものとして執り行われる段階に至ったと、そう事蹟付け、物語るのはレビ          記編纂成立上においても、注目に値する点である。             ⑨・・15節・・< ויקח את-שעיר >(waii`ckack eth-she`yi-r)=                               彼は罪祭の(雄やぎを取って)         *ここでは4章24節④の使用とは違った形での単独使用:エス-シィ`イール(את-שעיר)          この語句は、9章の初めからの文章内容から、上記⑧の語句<שעיר-עזים>の          <雄やぎ>を受けてのもの、同一のやぎである事は明白だ。したがって、先の④          項のように冠詞付の ハ'サー`イール(השעיר)にしても、文言上何ら問題とはならな          いだろうが、両者の間に結構な文言的隔たりが見られ、取られていることから、          あえて、その述文状況を逆に生かして、冠詞なしの語句としている。          (後述の第16章での⑭と⑯との文関係、及び⑮と⑱⑲⑳との文関係参照)          その冠詞の代わりにここでは、対格(目的語)用冠詞(את)が、ヘブル語のハイ          フン(マッケフ=連結符)によって、連結された使用例となっている。          このマッケフ(ハイフン)は、関連する複数の語を連結して一体語句とするが、          その時、音読の流れ調子や、表現意思などで付けたり、付けなかったりする。          (付加時は、その先行語のアクセントが無くなり、その長母音が短母音で読まれ          ることをきまりとし、その一体連結語句の最後尾の語にアクセントが来るのが通          常である。)                     第10章:  ───────   ⑩・・16節・・< ואת שעיר החטאת >(wi`eh-th she`yi-r ha'ccka`tta-th)=                             (さて、罪祭のやぎを)モーセは、、         *先の⑨・15節の語句と同形式:ウィ`エース シィ`イール(ואת שעיר)          この語句が文頭(16節の初め)に来て、接頭接続詞(ו)が付いた対格用の冠詞が          先行し、マッケフ(連結ハイフン)無しでの目的語句としている。                    モーセのレビ記最終編纂時にあって、この16節文言で、ほぼ サーイール(שעיר)の          語に係わる全ての語句使用の事例を先行表示して、レビ記での<事蹟的山場>なる          第16章、神からの新造語<アザゼル>に係わる事柄を含むが故の意識をもって、          その祭儀事蹟内容を、慎重且つ、語句使用の聖別的新感覚にて、その叙述に当らん          とした<サーイール(שעיר)>設定の記述的流れ、言語使用の前過程があるようだ。          (この16節の< ואת שעיר החטאת >と第16章27節に係わる下記に示した          (22)項のそれとが完全同一語句であること、それは決して偶然の結果ではない。)         *この第10章では、モーセ自らの<心痛な面持ち>からの彼の一面さえも、あえて          吐露している事蹟記事としている。アロンの上の子ら2人のあやまちと死により、          手痛い打撃を被ったモーセは、これ以上死を招いてはならぬと、ひどく神経質に事          を確認吟味しないではいられなかったようだ。それが、アロンらへの<言葉による          再言示>(12-15節)であり、さらに自らの眼でもって、丹念に検視、調べる確認          行動(16節以下)に出る他なかった。          彼は、この審査で、まだ屠られていない罪祭のやぎがいるか、いないかを確認し、          そして、アロンの子らが、焼かれたやぎの肉をその庭の聖なる所で食べたかどうか          の形跡を厳しく目視した。また、聖所の内庭で、細々とした奉仕の務めをする娘ら          にも、その様子を確かめたであろうか。(この娘らは、アロン及びレビ系の子らが          中心となり、12部族からは、自発選抜されて、順繰り当番制で、内庭エリアで、          その奉仕の業をした。彼女らがいないと幕屋聖所の運営がうまく維持されない面も          あったに違いない。出エジプト38章8節)          その結果、2人の子らは、祭司の役目として、食べていなかった事と、すべて<燔          祭>のように焼いてしまったのだと、モーセは見て取って、怒りつつもその不理を          彼らに正し、諭したと言う具合の記事となっている。          (この時、アロンが、彼らに代わって食べていたという風のことで、モーセは、一          応納得了解に至ったようである。罪祭に当てられる<やぎ>、その肉は、小牛や羊          の肉のようには美味しくない。それでアロンの子らは食べなかったのかとも考えら          れるが、それを食べる事で<罪祭のあがない>の内実が完了するという真義が、彼          らにはよく理解されていなかったようである。美味しくない<やぎの焼いた肉>を          食べる事で、そのあがないの犠牲儀式が主なる神に受け容れられる。神の代わりに          それを食べるという証しの行為でもって、その真義が成立するものだから。)          この第10章記事は、アロンの上の子ら2人が衝撃的に死んだ、その直後のことで          あるから、下の2人の子ら、エレアザルとイタマルとは、そのショックと恐れで、          気持ちが動転していたに違いない。だが、その彼らの心境を表す語句に関して、か          なりニュアンスの異なる意訳(筋が通って不自然ではないが、)がなされており、          それゆえ、彼らの動揺した心境の一かけらも、全然伝わらないものとなっている。          <主の言葉の書>という聖なる特質性のゆえ、その言葉の定め、おきてに重点固執          されている傾向の為か、ヘブル原典語上での何らかの手違い、誤謬が生じているの          ではないかとさえ思われる。          (12節へと続く前の段落文、8節-11節では、主が直接アロンに言われた<警告の          ことば>として、少々不自然に挿入されたかのような段落文節となっている。だが          これは、モーセが主によって語ったもので、通常の<主はモーセに言われた>とい          う形式をとっていない。つまりここで、わざわざ直接<主がアロンに語った言葉>          として記すことで、その警告的戒めの言葉に重みを持たせているわけである。そう          することで、12節への前提的関連付けをなし、その警告の言をアロンの傍らで聞          いていた2人の子らは、さらに一層恐れおののき、震えが止まらないものとなる。          寸でのところで、酒を飲んでいて<会見の幕屋・聖所>に入るところだったからで          ある。そして、その時モーセは、彼らのそういった様子を直視してしていたのだ。          でなければ、12節ではなく、6節のところに、以下で問題としている<その残っ          ている>にあたる言葉を先に持ってくるのが、至極自然な文のながれとなろう。)                    この個所は 12節 と 16節での文言中だが、以下のごとし。                    ・英訳、和訳ともその超意訳は:【その残っている子、又は生き残っている子】                          エレアザルとイタマルとに、、、、              *これはその語が正しければ、何も超意訳というものではなく、まさに              まっとうな訳なのであるが、英訳では、時の一致ルールで、<are>が              <were>となるが、実際、left alive の<alive>という意味は、              その言語の意味範囲では、全然カバーされ得ないものだ。               <are left や remain、leave>などが、その一連の意味領域である。           だが、実際にその語自体を別角度から見直すことによって、その真の意味を直訳           的に当てて、訳するとすれば、          ・その真相訳は:【おそれ慄いている子】エレアザルとイタマルとに、、、           ということになる。何故にこんなことになるのか、、問題は、そのヘブル語に           ひそんでいるのだ。           そのヘブル語は:<הנותרים and הנותרם>(ハ'ノーサーリーム および ハ'ノーサーリム)           ────────────────────────────────────────────────────────────          この語形変化語(男性・複数形で冠詞付の動名詞で、前の語を形容詞的に修飾)に          は、2つの意味の違う動詞の語が、それぞれその語形変化語を取りうる事が検証の          結果判明した。その2つの別々の動詞の原形(root stem) は、以下の動詞の変化          派生系統により成立するものとなる。                    Ⅰ)既存の和訳・英訳等に支持された語:その原形語<יתר>(ヤーサル=ya-thar)            この語の動名詞(Participle) の派生系統は、レギュラー動詞としての普通             モードの能動態(Simple Active=ヘブル文法名<QAL>)の使用領域外の語            のもので、受動態(Simple Passive=ヘブル文法名<NIPH`AL>)を主要域            とする。したがってこの系統から派生した動名詞となる。                   ・<יתר>(ヤーサル)⇒ 未完了形(3人・単・男):<נותר>(ノー`サル)------                ⇒------動名詞(単・男):<נותר>(ノー`サール)------                   動名詞(複・男):<נותרים>(ノーサー`リーム)+ 冠詞<ה>(ハ')                          ⇒ベブルTEXT表記:<הנותרים>(ハ'ノーサー`リム)                      Ⅱ)10章の事蹟的文言内容とその分析を考慮して、               索的復元された語:その原形語<נתר>(ナーサル=na-thar)            この語の動名詞も、そのモードは受動態(NIPH`AL)において、活用されうる            もの。                        ・<נתר>(ナーサル)⇒ 未完了形(3人・単・男):<נתר>(ニ'`スェール)-----                ⇒------動名詞(単・男):<נתר>(ニ'`サール)------                   動名詞(複・男):<נתרים>(ニ'サー`リーム)+ 冠詞<ה>(ハ')               ⇒ベブルTEXT表記:<הנותרים>(ハ'ノーサー`リム)或いは(ハ'ノースェ`リ-ム)                    Or <הנתרים>(ハ'ニサー`リム)また(ハ'ノーサー`リーム)とも読める。         *上記2つの用語が、同じレターズ(スペル)で、同じ発音=ハ'ノーサーリム(或いはⅡの          ものが、それに近い<ha'no-theri-m=ハ'ノースェリ-ム>と読むべきものが、そう読ま          ないで、同じ音声)だったために、極めて原典成立の初期段階の時期から、          <<残っている>>を表わす言葉のものにすり替わってしまった。しかも、書写に          よる写本巻作成においても、その初期時期から何の疑問、気遣いも無く、その言葉          の意味で何の不自然もなく、そのままあり続けてきたものとなった。          実は、その語と同じ動名詞のもので、女性形のものが、レビ記の2章 3節、8節、          及び8章32節(これは単数形)で、<残り物、残った物>の意で、先出し表記され          ており、この文書段階で既にその用語に馴染んでいるという状況が認められる。          さらに、この第10章では、問題の12節と16節へと、その状況意識で続くこととな          り、特に12節中の文では、<残っている者>と、すでに先に馴染んだ語の<残って          いる物>とが、文の前後に同時併記されている。このような用語状況が、極めて自          然な働きかけとなり、原義の元用語とのすり替えが生じてしまったといった結果に            なったに違いないと推定される。                  *やぎの用語<サーイール=(שעיר)>の確立過程への流れを辿る傍ら、10章の文言内          容それ自体にまで係わり、そこでの別言語にまで立ち入ってしまった。一体何を          論述しているのか、はなはだ分かりづらいものとなったようだ。          神からの新造語<アザゼル>、その当時としては未だその概念内容は希薄で、未完          未成熟なもの、これからその言葉に相応しい内容を満たしてゆくものであるが如く          に、モーセにとっても、イスラエルの民にとっても、未知なる空白を残すような、          そんな未来に向けての進展有るや、無しやの新造語であったようだ。            そして、いよいよ、その整えられた第16章で、その儀祭的装いでの最初の意念的          ニュアンスを表示し、与え付すものとなる。  第11章:使用例なし(~15章まで見当たらず)  ───────   ▽      ここでの各章は、<主はまた、モーセ(とアロン)に言われた、>の表現パターン   ▽      でもって、それぞれ始められている。          その内容は主の聖別の為の言葉、即ちその教えをおきて・定めとして記している。   ▽      主がこれらの言葉でもって、具体的に聖別なされんとしたことは、実に神の愛であ   ▽      り、憐れみと慈しみでもある。宿営での集団生活、その生活生存上での<食の事、          出産の事、病の事、カナンに入った後の家の事、男女関係及びその生理の事、全て   ▽      は、遥かな古代時代の事ゆえ、衛生上、医療、薬物上での知識のはなはだ乏しい現   ▽      実、死肉、腐肉を食いあさる鳥などは、どんな細菌や微生物に汚染されているか知          れない。地を這いずり回る生き物でも同様のこと、<食べてはならない、忌むべき   ▽      ものだ>という事になる。つまるところ、人体組織(細胞次元)血液などに適する   ▽      か否か、未だ知られないからである。             身体、衣服の汚れ、不潔不衛生は、病気、疫病の温床となる。それゆえ水で清める   ▽      以外にない。これら生活上のことが、すべて宗教的に意義付けられて、選民イスラ   ▽      エルの末永い存続が望まれているわけだ。  (これらの配慮も神からの知恵による<愛の配慮>であると見て然るべきであり、          <神の愛>を反映、表していると言える。)   △              第15章:使用例なし 【第16章:】    =======  この16章では、”アザゼル”をとり巻く<やぎの用語>環境として、<サーイール>          の言葉が圧倒的に多いことが知られうる。<サーイール>はこの為に、事前に整えられ          たのだ。          この章は、第11章から15章まで、その間が随分とあるが、第10章との関連付          けを強く意識しているようだ。1節の文言がそれを示しているわけだが、、、、、          これを新改訳の聖書で、見てみると、          ”アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいてそのために死ん             で後、主はモーセに告げられた。”              <主がモーセに告げられた>とする、<その時>を強調明示しつつ、ヘブル語の原          典語句に忠実に従って訳されている。この1節は、言わば見出し的な役割も果たし          ているといった感じの文趣としても、訳せるというものであろう。          <ふたりの子の死後~、、~死んで後>と、念を押す形で<時>にその強調点を置          く様な訳し方である。だがこの訳は、的外れではないが、なお不十分であり、この          1節の真意を明瞭に捉え表したものとなっていない。以下の訳文と比べるとそれが          明らかとなろう。下の訳では、その言われた<時>ばかりでなく、後続して言われ          ている<主の言葉>に当含すべく、まさに主が、どうしても言わねばならなくなっ          たその<ゆえん>が示され、見出し的な文としても、すっきりしたものとなる。          ”アロンのふたりの子の死の後、彼らが主の前に近づいて死んだことのゆえに、           主はモーセに言われた。”          <:בקרבתם לפני-יהוה וימתו>(`becka-rba-`tham                           riphene-y-yehowah  waya-mu'thu )          この1節のヘブル文は、三つの語句節に分けられる。その最後尾が、上記したごと          き<ヘブル文字群>だ。先頭から順に直訳すると、          ”彼らの近づいたことのゆえに / 主の前に / それで(彼らは)死んだ。”                    となっている。ヘブル語と日本語との言語自体の成り立ちの異壁はどうしようも          ないが、その1節のヘブル文の真意を汲み取るという事で、邦訳すると、このヘブ          ル文字群は、          ”近づいて死んだことのゆえに” 或いは  ”近づいて死んだことによりて”          と訳すべきかと判断されうる。少しの訳の違いで、文全体のニュアンスが、かなり          微妙に異なってくるようだ。                   ⑪・・ 5節・・< יקח שני-שעירי עזים >(i`c-ckackh she`nehi-shey-`reyi                                      yi`zzi-m)=                              罪祭のために(雄やぎ二頭を取り、)         *この5節の語句は、第16章では最初のものであり、自ずと複数形でもって<雄や          ぎ二頭>を表すものだ。          これは、先述の③項(4章23節)で、初めてその導入使用を見た、かの単数形語句          <שעיר עזים>を複数形にして、今やここで用いられるものとなっている。          (この複数形<男・三人称>の複合語句も、レビ記では初めて見るものである。)         *イスラエルの会衆全体に係わる<幕屋及び聖所内の聖備具物>を新に清め贖うとい          う事で、民とそれらの両方に係わる<贖いの罪祭>となる。通常の場合での雄やぎ          一頭では双方に対する<聖別と贖いの義>を充足満たし切れず、どうしても二頭を          要するものとなるといった感じである。          だが、そこにはもっと深い訳とか意味、深慮の真相が、真理らしきものとして隠さ          れているようだ。          ⑫・・ 7節・・< ולקח את-שני השעירם >(wila-`ckackh eth-she`nehi                                   ha'sheyi-`rim)=                              (彼はまた、そのやぎ二頭を取り、)         *この7節の語句も、先の③項の語句を受けて、④項(4章24節)でその独立的単独          使用をなしている単数形 <ハ'サー`イール(השעיר)> に対して、その複数形での単独          使用を成立せしめているものである。          (単独使用とは、<שעיר-עזים>のような複合語句ではない、単一語でのもの。)          この7節での使用以後、以下の ⑬項 から 22項まで、この第16章に限り、すべ          て、単数、複数に係わらず、単一語句での単独使用がなされている。   ⑬・・ 8節・・< על-שני השעירם >(al-she`nehi ha'shyi-`rim)=                                  (その二頭のやぎに向けて)         *ここでの語句も前項 ⑫ と同じ<二頭の雄やぎ>の複数形で前置詞<על>al-が          付く目的語句である。この8節で、いよいよ例の<アザゼル>、神からの新造語の          語が登場してくる訳だ。          この場合の民のための罪祭には、二頭の雄やぎが必要とされたということは、通常          での個々の場合の罪祭(第4章で記されている<祭司、民の全会衆、司たる者、民          一般の個々の人>といったランク分けでの場合の一頭)とは違って、何か異例のも          のであるかの如く見られてもしかるべきだと思われる。          これは、垂幕の内なる<契約の箱>のある聖所と、その仕切り(垂幕とばり)隣の          会見の幕屋と、その中にある香を焚く祭壇とのために、全会衆の民に対してなされ          る<あがない>である。幕屋の外の庭の前にある、犠牲のものを焼く祭壇は、その          あがないの儀式の対象外となっている。(ただし、残った血があれば、それをその          焼華祭壇のもとに注いだ事であろう。通常の罪祭では、その祭壇のもとに注ぐのが          きまりであったから、それに慣らってのことだ。燔祭、酬恩祭の残り血に関しては          その祭壇の<上側面周囲>に注ぐのがきまりであった。)         *イスラエルの民にとって、動物(家畜類を主とした)犠牲の供え物には、神へのそ          の関わりの在り方、儀礼的意味要因から、おもに三つの主要な祭儀様式が意義付け          られている。罪祭、燔祭、そして、酬恩祭とがそれである。この三供犠は、火祭壇          でなされる通常のものとして、個々の民らにも祭司らを介して開具されており、あ          る時は、罪祭だけ、ある時は罪祭と燔祭で、また燔祭と酬恩祭、或いは燔祭のみ、          酬恩祭だけ、さらには三つをセット過程にして行うという具合に、それぞれ適宜な          選択肢がなされ得るものであった。          (他に鳥の燔祭や罪祭、麦粉に油を注ぎ乳香をその上に添えた素祭を燔祭として、          また麦粉だけの罪祭など、その他にぶどう酒の灌祭なども行われた。)          モーセがこれらを祭儀律法として明文定式化し、民族的共同体において行政執行化          する以前では、父祖ら(アブラハム)の伝来による氏族的なものとして、燔祭、酬          恩祭に意合したものとして行われていた。しかもそれらは、アベルの供え物(創記          4章:4)や、ノアの箱舟離別時での祭壇供犠(創8:20)からの伝承を汲むものと          みられる。          モーセ自身もエジプト出後のシナイの当初、人倫のおきて、倫理律法を受け、その          言葉の数々を<民との契約の書>として明文化した直後、その父祖伝来の礼祭に慣          らうべく、シナイ山のふもとに祭壇を設えて祭儀を執り行っている。(出エジ記:          24章4-5節)          一般的に古代セム系の他種族も、動物供犠の儀礼を様々な意味合いでなしていたよ          うである。(モーセの義父、ミデアンの祭司エテロも、これを行っている記事が見          られる。出エジプト記:18章12節)          セム系以外の諸種族でさえ、それぞれ自分らの神々に対して、ある種の動物供犠の          儀礼(種々なる祈願:戦勝、幸運、繁栄、収穫等の)を行っていたことは、歴史一          般が示しうるところである。         *民族共同体の全体レベルでは、朝と夕での常供の燔祭、毎週の安息日、月の初めの          新月日、後々にユダヤ3大祭となった<過越しの祭、七週新穀の祭、仮庵の祭>、          そして、ユダヤ暦7月1日のラッパ吹奏記念日、          さらにこの16章での、同月10日の<贖罪の日>、これらすべてが公的礼祭とし          て、それぞれその定めに従って行われた。          (民数記28-29章とレビ記23章とで、これらのことが記されているが、その          祭儀の規模、つまり犠牲として供える量的な数は、レビ記でのシナイ山麓で定めた          ものと、それから38年ほど経ったエリコに近いヨルダンの東岸方向のモアブの平          野での宿営時(民数: 28-29章)に定めたものとでは、けっこうな量的異なりをな          していることは当然であろう。            ⑭・・ 9節・・< את-השעיר >(eth-ha'sa-`yi-r)=そのくじが当った<そのやぎを>         *これは前出の④項・4章24節と同じ冠詞付単数形:2頭の内の1頭のやぎを指し、          限定目的格となっているその<השעיר>場合には、対格冠詞<-את>でもって主格          の動詞に対応する表示語句をとる。         *8-9節で、祭司の長アロンは、2頭のやぎに対して、くじを引く事を求められて          いる。一つのくじは、主のために、          この<主のため>というのは、契約の箱の置かれた至聖所を清め贖うことが主なる          神にとって、その民との契約の当初としては、厳格、厳正至高なまでに、その<聖          なること>の、民への要請として必須であったからである。          シナイ山やその荒野方面では、年間を通じて、雨および曇り模様な天候のきわめて          少ない地域である。          その荒野の宿営場所での<幕屋・聖所>の上に顕現したる主なる神の栄光が、つま          り、雲が垂れ下がり、幕屋を被うがごとく、その上空一帯に留まり在ると言う異象          を造りなしたるその顕現、そこには、主なる神ご自身の強力な自己掌握的集中の顕          現力が働いており、その掌握領域での物理的空間次元から見れば、人にとっては、          極めて致死度の高い危険領域となっているものである。          シナイ山での火と噴煙に因りて、その上空一帯に濃き雲を造り、しかもその天空の          大気温度・湿度を手広く空間的に掌握し、それらを<幕屋聖所>の真上、その上空          へと移行、掌握的に移しもたらされ、それによる雲の内の中心に居まし給うという          事、その事により、<幕屋聖所の箱の上なる御聖顕所>が成立するというものだ。          これは、          ”わたしは、雲の中にあって<即座に>贖罪所の上に現れるからである。”と、第          16章2節で明言されている如くである。          <契約の箱>の上部を蓋することを兼ねた、その純金の100x60cm強ほどの          板状の両端には、一体、一体のケルブと言われる神の象徴的な異象物が、その顔を          互いに向かい合わせ、しかも鷲のつばさのようなものが箱を被うような格好で、取          り付けられていた。これは、神の存在活動に係わる事象を尊厳的象徴の一つとして          表し、見ゆる形でミニチュア的に具現した装飾的な聖なる尊厳物であったという事          だが、          実際実用的には、神の強力な顕現力による、その空間の見えざる未知のエネルギー          を、その両体をして、軽減調整したり、緩衝したりする働きをなしていたとも云え          ようか。(既存化された自然界を背景とした神の顕現というものは、その諸々の自          然力を超えた異象を派生表出せざるを得ないものとなって、そこへと顕現するよう          な場合には、神にとって相当強力な、神独自の高エネルギー的な顕現力が必要発揮          されざるを得ない場合もあり得るからである。)          次にいま一つのくじは、<アザゼルのために>というものである。          これが為のくじは、文言上では、まさに<主のために>の ”主 ”と対等なもので          あるかの如くに位置付けて表現されている。          一見何でもないかのようであるが、、、、          相対する関係対置的な真理本質から見ると、主なる神に深く係わる関係を有する如          くのようである。が、しかし、主とはまさに別個に相対して、その存在的な表象を          なすものといったような、そんな意味合いで表された<アザゼル>という言葉、神          からモーセに与えられたその<神語>が、そのくじの聖なる儀式でもって、今や厳          然と示されるに至っている。          もちろんモーセにとっても、その当初の知見では、<アザゼル>のために、その聖          なるくじで決められた<生きやぎ>を荒野に送りつける<贖い転嫁の儀式>での真          意理解の範囲内に留まる程度のものであったかと思われる。          ⑮・・10節・・< והשעיר >(weha'sa-`yi-r)=また(アザゼルのために                             そのくじが当った)<そのやぎ>は、         *前記の⑭項以後、この16章は <サイール、又はハ'サイール>の単独語で占められたもの          として、その<やぎ>表現がなされるものとなる。         *くじでもって、二頭のやぎを<主のためのもの>と、<アザゼルのためのもの>と          に振り分けるという、<聖なるくじ>の仕方が、如何なる方法(方式)であったの          か、ということは、とても興味の湧くところだが、残念ながら推量の域を出ない。          (ただ適当、恣意的に二頭を振り分けるというものでなく、聖なる儀礼に相応しく          <くじの儀>を執り行った事であろう故、<神意を問う>が如き礼法を採り入れ、          それによるくじ方式が行われたと思われる。          祭司の長なるアロンは、ここで初めて、<胸当て=Breast-Pad>、これは袋状に          二重折りになったもので、その中に<ウリムとトンミム>という名の象徴的な意味          を秘めた聖なる二つの個物が入れられている。(レビ8:8節、出エジ28:15,30節)          これら二つの形状、材質は、まったく知られていないが、宝石などの類で、多面玉          体のようなもの、水晶ダイヤと、紅玉ルビーあるいはサファイヤとかいったものだっ          たかも知れない、、、、。           アロンが幕屋聖所の入り口で、主の前での祈りと共に、これらの入った方形(23          cm角ほど)の<ブレスト・パッド>を掲げて揺り動かし、そして、彼の子エレア          ザルに手渡し、予め定め聖別された二人の若者(それぞれのやぎの留め役)に同時          的にそのパッドに手を入れて<くじ引き>引かせた、そんなやり方で決めたのでは          なかろうか。(パッドの両サイドの上半部分が縫合されていない形体にて)          このようなアロンの礼法以来、<ウリムとトンミム>により、主なる神に神意を問            う方式が、後々長く継承されていったと云えるかも知れない。民数記27章:21節で          も<主の言明された言葉>として記されている。          新改訳聖書でない口語訳では、ギリシャ語70人訳を照合し、適正訳したものとし          ての記事が見うけられる。それは、サムエル記・上の第14章 36-37,41-42節で、          ダビデ王の前、初代イスラエル王サウルが、自分及びわが子と、民との間で、祭司          アヒヤを介して主に問い、くじ分けするのが見られる。だがこのサウルの時代には          また、それ以後でも、その当該物が、本当にアロンから受け継がれた直々の<ウリ          ム&トンミム>であったか、どうかは疑わしいところだ。          何故なら、サムエル記・上第4章3、-11節の記事から、その事柄が浮上してくる。          これは、サムエルが12才前後の少年の頃だが、民イスラエルにとって最も重要な          <主の契約の箱>が奪われたという、ペリシテ人との戦事の時の事、それに仕えて          いた二人の祭司ホフネとピネハスが共にその陣営(箱はそこに設けられた特設天幕          の中に設置されていた)にて殺され、そのどちらか一人が着けていた、或いは外し          て安置していただろう、その当の<胸当て>が、その中の<二つの宝玉>共々奪わ          れてしまった、と見て、ほぼ間違いないと云えるからである。)         *胸当て=ブレスト・パッドは、5色の糸にて平織りされ、縁取り刺繍綴じがほどこ          されたもののようである。おもて面には、四列段にして、三つづつ宝石が金編細工          でもってはめ込まれており、その合計12個は、イスラエルの12の部族の名を示          すものとなっている。(詳細は出エジプト記第8章15-30節参照にて)          その二つ折りにした袋状の中には、さらにかの二つの宝石、ウリムとトンミムと名          ざされたものが隠れ秘められたものとなっていた。          その古代当時のイスラエルの民自体にとっては、ただ単に<神・主の神意を問う>          というきわめて現実的なものとして、祭政(さばき)的な効用が現わし示されるも          のであったようである。          だが、おもて面の12部族を示す宝石と、そのパッド袋の中に秘められた二つの宝          石(パッドを含めこれら自体全体が物的な啓示具現だが)に関わる<神の啓示のご          意思内容>は、計り知れない深みのあるものであったようだ。          (この大変な奥義については、別項ページファイルにて言及しておきたい。)   ⑯・・15節・・< את-שעיר >(eth-she`yi-r)=罪祭の(やぎを)   ⑰・・18節・・< ומדם השעיר >(ue'mi`dam ha'sa-`yi-r)=                                 雄牛の血(と、やぎの血から)   ⑱・・20節・・< את-השעיר >(eth-ha'sa-`yi-r)=かの生きている(やぎを)   ⑲・・21節・・< על-ראש השעיר החי >(al-`ro-sh ha'sa-yi-`r ha`ckai)=                               (その生きているやぎの頭の上に)        21節・・< על-ראש השעיר >(al-`ro-sh ha'sha-yi-`r)=                                    (そのやぎの頭の上に)   ⑳・・22節・・< ונשא השעיר >(wena-`sha- ha'sha-`yi-r)=                                 (やぎは、、、負いになって)      22節・・< את-השעיר במדבר >(eth-ha'sha-`yi-r ba'midz`ba-r)=                                     (荒野にそのやぎを)   21・・26節・・< והמשלח את-השעיר לעזאזל >(wiha'mesa`le-ckah eth-                             ha'sha-yi-`r la'aza-`ze-r)=                          (アザゼルのためにかのやぎを送った者は、)   22・・27節・・< ואת שעיר החטאת >(wi`e-th she`yi-r ha'cka`tta-th)=                                   雄牛(と罪祭のやぎとを)           27節以降、16章終節の34節まで使用例なし      ====================         *この第16章での特別贖罪日は、アロンの二人の子が<主の箱>の前で死んだとい             うことにより、きわめて大々的なものとなり、この章での後節、29節以下、32,          33,34節で、再度、守るべき<定め>の規定書きがなされている。本来的に元々、          通常ならば、出エジプト記第30章10節で記されているように、<香をたく祭壇>          の上部4すみの角(ツノ)に、、その屠られた罪祭の血をぬり付けるのみで、たった          それだけの事で、年に一度だけの特別贖罪の<あがないの儀>は良しと認められる          ものであった。         *この章での<主なる神>からの新造語<アザゼル>の表示的プライマリーステーツ、          それにおける基相コンセプトは、神ご自身のうちに、あたかも究めがたいものとし          て秘められており、啓示的過程(イスラエル聖史と預言)からも、その関係的真意          の理(ことわり)は、把握しがたいものだ。          これについて、どう順序立てて解述すべきか、かなりの困難な、理解論程を踏まね              ばならぬが、先ずはそのヘブル語本体<עזאזל>(aza-ze`-l)そのものの要素周辺          から、考究の光を当てるべきかと思われる。          【語分析究明】:2分解構成と<א>文字によるジョイント構成                 ⅰ)<עז> と <אזל> の二つの語句系での合成コンセプト。                   (別の分割タイプとして、そのまま単純に<עזא>と<זל>とに                    無意味に分けられるとも思えるが、、)                 ⅱ)<א>レターがジョイント役となすことでの <עז> と                    <זל> との語句系による合成コンセプト。            ⅰ)での<עז>文字では、母音発声読み法則において、三つの言葉が使用され、             存在している。                 <עז>(eh-z = エーズ)・・これは先に前述した如き、関連の                             <やぎ>である。単数では雌やぎ、                             複数では、<やぎ一般>として、                            *<やぎ>という言葉を踏まえた上で、                             <アザゼル>という言葉との関わり、                             関連付けをにおわせている。                 <עז>(azu = アズ)・・ 形容詞で、strong, powerful,                             violent など(強力な、力強い、                             荒々しい)を意味する。                 <עז>(oh-z = オーズ)・・名詞形で、strength, power,                             violence などを意味する。             <אזל>の文字では、二つの言葉が浮上してくる。                 <אזל>(a-za`l = アー`ザ'ル)                           ・・動詞形で、go away, go out など                             (去る、去らせる、出てゆく、追い出す)                             の意味がある。                 <אזל>(e`zel = エ'`ゼル)                           ・・これは名詞化されての用法と見られ、人                             の死、つまり逝去を暗示することで、                             石という語との組み合わせ語句として、                             墓標、墓石などのメモリアルストーン                             を意味する場合に使用される。                             <אבן-אזל or אבן-האזל>                             (`エベン-`エゼル or `エベン-'ハー`エゼル)=                             <a memorial-stone or the memorial-                             stone>                            *<אבן>(`エベン)は、stone=石、宝石、                             鉱石、岩などの意味使用が見られる。           ⅱ)での二つの文字<עז>と<זל>のコンセプト領域では、ジョイント役の<א>             文字それ自体にも<新語造成>の意義が込められている。             概して、このⅱ)での造語コンセプトは、ⅰ)に追随補足、一体化している                と見るべきである。             <א>文字は、ヘブル語アルファベット子音字22レターズのトップ文字             (名称:アーレフ)であるが、子音字それ自体の音価を表わすほど発声音を有し             ない。(発声なき<軽い息・スロート音>)したがって、語句音節の初めで             は、母音記号を付すことで、子音字の発声音価を表わす。                 (ヘブル語母音記号は、a,e,i,u,o 系での短母音が5つ、長母音が7つ、             及び、特定子音字<ת,ה ,ע ,א>の4字へのharried 発声を示す3種類の             半母音記号により、それぞれの語句の子音字音声を表わしている。 また、             母音無しの子音字には、別記号 Sewa(コロン:の感じのもの)がその代わ             りに付され、ボーカル、サイレントと、ある一定の発声および、記号付けの             ルールもある。              <ברא>バーラー = create, make の語句のように<א>文字が語尾にある             場合や、<עזאזל>(aza-ze`-l)の<-עזא>(aza-)のように、一音節を             閉じる末尾にある場合には、母音記号無しでの無音となる。)             <עז>語句のコンセプト領域については、すでに ⅰ)で前述した如くである。             <זל>語句に関しては、ほとんど無関係と思われるものだが、まさに隠語             的な位置付けとなるようなものとして、<זל>ゼ`ール が <זלל>ザーラ`ル             に対比関連付けられれている。             これは、<א>を挿入組み込む事で、その代わりとして、<זלל>の一文字、             <ל>を取り去るという、<造法>コンセプトを示している。                    <זלל>(za-la`l = ザーラ`ル)                           ・・ 動詞形で、大食い、大食漢になる、                             放蕩、浪費、退廃する、させるの                             意味があり、また、みじめ、貧困、                             みすぼらしくなる、の意がある。                             別モードの動詞形では、                             震われる、揺れる、震わすの意が                             ある。                            *この語句は、聖書中では、2ヶ所                             ほどしか見当たらなくて、その使                             用頻度は低い。(申命記21:20、                             箴言23:20,21)          以上、ⅰ)と ⅱ)での語句類周辺から意味するものは、多様にその想像観念の諸          相を繰り広げるようなものとなり、ある一定のまとまりのある思想コンセプトが、          直ちに得られるものではない。単純平易に、<やぎを去らせる>とか、<ヤギは、          その群れ数や、生息気候風土によっては、その緑の自然大地を食い尽し、荒廃させ             るほどの、大食漢だ!>とかいった、そんな風な語句の糸付け関連の想像もなされ          得るが、、                   *アロンやモーセの時代という、ある限定されたヘブルびと系言語風土の相様状況を          瞬握掌知しての、主なる神のお取り上げ文字の造成新語であるとも見られようか。          上述の如く、言葉の成り立ち<要素群>は、諸語による点と、見えない線とも、ま          さによんどころ無き糸で、繋がりがあるとの見方も可能かも知れない。この16章          での<アザゼル>への贖い聖儀の挙行意義という観点からすれば、当時の民全体に          とっての<安心立命>へのあがないの有効は、主なる神のよみし給うご加護のうち          のものであったに違いない。ただにこの聖儀の遵守におけるその意義有効の有るう          ちが、イスラエルの民にとって、その花となり得たものであろう。         *やぎ送りのアザゼルとは、一民族に関わる限りの儀礼啓示に過ぎなかったという事          で、安易に済ませられる事象であるならば、神から起源派生してくる<贖い思想>          とか、救丞史にかかわる一切すべての事柄が、何の真理意義をも有しないものと見          なすような、背理、背反なるを旨とする世相となり、地球上生存界における神から          のご加護、保障は約束されないものとなってしまう。                  *そのやぎ <את-השעיר> の送り出し、その行き着くところは人の住まない、と言          うか、住むに困難、住めない荒野の中<במדבר>(ba'midz`ba-r)、、まったくの          砂丘砂漠とかまでは行かないが、、それを思わせるような、死の力が迫り来る、死          に支配される感じの<デッドゾーン境界>に属する<荒野>不毛の地であること、          そして、主なる神自らが、<ァザーゼール>をお立てになったこと、これらは一体          どんな思惑、意味あっての事なのか、というよりも神ご自身が、御心のうちに明晰          識観されている、その深い真理相、その活ける妙理の一端を、かい間見させようと          した<言葉の表明啓示>というものであったと云えようか。          ヘブルびと系人種の一派なるイスラエル民らには、いまだ神との係わりから離れた          世界観とか自然観、或いは自然界とかいった考えに相当した言葉、概念、思想とか          いったものへの発露発展を、その民らをして殆ど見るに至り得ないところがある。          その心に反映したる世界観というものは、いや、未だ世界観と言えるようなもので          はなく、それへと替わり至るまでの前段階的な想念として、意識に有したるもであ          るとのそれは、神(=エロヒーム)が、<天と地と、さらにその内に満ちて在るも          の全て>をお造りになったという視覚野的な観念である。しかも、その創造者なる          神自身も、その造られたる世界、天地のうちに活きて共臨し給うという感覚意識が          判然としない様相ではあるが息づいていた。そんな心的時代状況の先行する中で、          啓示教導者たるモーセによる、より一層の<話示&書示>両面からの明確な思想指          導の方向付けがなされたという特異な一面からは、まさに<アザゼル>に関わる、          <神本来の妙理深奥、そのご意思的内奥>をば、未だなお知るべき精神的成長段階          には至りえていない、決して解得、垣間見る事はできないという知性的発展段階の          自存的制約の下にあったという時代状況の特質を認めなければならないであろう。         *やぎは、死を招く<デッドゾーン>に送られた。イスラエルの民の、死につながる          諸々の咎、悪を荷い、身代わりの死をその<デッドゾーン>で果しめるという、神          からの言葉による<贖い儀礼理念>、まさにこの理念真義だけで、当時の選民イス          ラエルにとって十分事足りるわけである。(荒野デッドゾーンに送られたやぎは、            理念儀礼的に身代わりの死を果したわけであるが、実際には自由に生き延び、たく          ましく野生化して、何処かで残存したケースもあった事であろう。)         *死を招くような<荒野のデッドゾーン>は、何を意味し示唆暗示するものとして、          神の<初・終 And 永遠的な贖い思想>の儀礼啓示の枠組み設定のうちに取り込れ          たものとなっているのであろうか。モーセ時代当時、地理的には確かに荒野が各地          に点在してはいたが、それでも自然環境は平穏で豊かであった。かえってエジプト          の地ではその繁栄によって自然の豊かさが喪失してゆく状況にあった。気候風土の          豊かな気象の平穏時、それの唯一の例外が旧約聖書にも記されている。これは、ヤ          コブ=イスラエルの末っ子ヨセフのエジプト時代での事象として記録されている。          (創世記41章から47章に及ぶ大々的な重要記事となっている。7年の大豊作と          7年の大飢饉、それによるヤコブとその子らのエジプト下り寄留の所以を記す。)          このような事象記事は、相当広範囲に亘る地球規模の気象異変であったろうと思わ          れる。北方地域(バルカンから黒海、カスピ海より以北)での相当な寒冷化、そし          てメソポタミヤ、パレスチナ(カナン)、エジプトなど中南部域での干ばつ気象、          諸民族、諸国民への影響は、はなはだ甚大な事になったであろう。(北方の諸民族          の南下、アルプス越えして住む地を開拓、定住生活していた諸族も、イタリヤやフ          ランス南岸部方面へと移動した事であろう。アーリヤ諸族も又、イラン以東地域へ          の南下移動を余儀なくされたことであろう。これらにより東地中海地域の民族人種          の色合いも様変わりしてゆく事になる。)          このような事象は、かなり気象的に平穏な時期での事、その平穏豊かな地球史での          時代の最中であったが故に、<神の御手・ご意思>による<啓示事象>としての明          白さが際立ったかたちで、表記され得るものとなった。そういった風合いでモーセ          の旧約古書は、記事録編纂されているようだ。          だが、この<例外事象>が本当に<主なる神の手>によるものなのかどうか、実際          には定かではないとも云える。ただ神が、その<自然事象の起こり来る事>を、事          前に予知し給うて、それに善処すべく、対処のみ手を、エジプトの王パロの夢、又          ヨセフを介して、差し伸べられたという事だったかも知れない。勿論、神にとって          はこの地球圏をば、種々なる角度、側面から如何ようにも支配することができ、事          象変向、或いは、ご加護掌握する事などご図意のままであろう。これらはご意思ご          深慮によるご処断・ジャッジにての介、不介入の事柄の義ともなろう。          モーセの出エジプト時での、その地における10の災い事象や、シナイ山の噴火事          象などは、まさに明白至極なる神のみ手による特例ものだと云う他ない。          (天と地という極めて小さい世界意識の内に生存している古代の人々(選民ら)で          あったからこそ、地球規模でのほんの一地域での<神よる事象啓示>がモーセを介          して、明白に明示されうるものとなるというものだ。これに反して現代的世界観・          宇宙意識にあっては、人々がそうあるゆえの存在だらこそ、まったく何も見えない          ものとなってしまう。つまり<太陽系規模、あるいは銀河系、またはそれらの類系          全体宇宙規模>での一般事象における<神の諸啓示力>など、全くもってその諸力          が無限大に大きくなり過ぎるものとなり、もはや人の感知できるようなものではな          いということになる。地球が公自転しているが、これを肌で感官リアルに感じるこ          とができない、感じていないという、そんな小さな意識事情にも似ているというよ          うな事だが。)                    だが、ここでは地球規模の<天と地>という自然界事象のうちに問題意識を置いて          見るべきであろう。          今や、自然界それ自体だけでの、自然事象というものは、人にひどい災いをもたら          し、人々を死に追いやる滅びの力を現わしうるものともなる。          かって、キリスト以前の古代においては、めったにその自然の牙を見せるものでは          なかったのだが、、、、。          (アリストテレスの哲学、彼の思惟観照による<コスモス世界観>などは、秩序正          しい、調和のとれた美しき事象コスモスを表象明示するものであった。依ってその          時代に至ってもなお、かなりの平穏豊かな事象環境が続いていたと見られようか。          ちなみにゲルマン、アングロ・サクソン、ガリア系の諸種族がギリシャ系の世界観          から、自然界、ネイチャー、ネイチャーワールドといった概念を、言葉に取り込む          までには相当長い年月を要している。ラテン語圏を経ての事だが、英語のNature、          それに類等したドイツ語の言葉も、その生成出現は、古英語時代末期以後の事らし          い。それゆえ、それからさらに、それらの言葉に概念移入されてゆくのは、12世          紀以降、ルネッサンス時代へと至らんとする時期であったと思われる。)          自然界事象での荒ぶる現象、それは人を滅ぼす<死の力>ともなる。この自然の荒          ぶ猛威、死の力、これこそが、主なる神自らが、ご自分と対置させて表明言示され          給うた、かの<アザゼル>そのものの真なる本性、本姿いうものなのだ。          したがって、選民イスラエルの<スケープゴート=身代りやぎ>時代でのそれは、          未だはなはだ小微なることで、なお平穏な人類史的段階過程での事柄であったとい          うことになる。                    プラトン、アリストテレスのギリシャ時代以降、オリエントは、ヘレニズム文化の          時代傾向をはせ行くものとなる。その最中の時代に神の子イエスは、<アザゼル>          体験表示の<荒野>、死の力を有する<デッドゾーン>とも云うべき処に、その身          を置き給うた。それは、主なる、父なる神の<定め>をしかと受け止めてのイエス          の行動でもあった。          彼の<アザゼル>対処の<キリスト意識>が、並みのものではないことに相なって          いる実情は確かであり、当然のことでもあろう。父なる神の御心、ご意図と一つだ          という把握しがたい人格精神性によるからである。これは、いまだかってない、今          後もあり得ない、神と人との<新しい契約の原理>そのものの、大いなる内容意識          そのものの根幹でもあるからだ。          彼は<その荒野>で四十日四十夜、飲まず食わずを過ごし得て、死を制し、死に打          ち勝ち給うたところのご自身を顕現なされた。それは、あたかも肉体的にも精神的          にも、あらゆる<死の力、原因>を排除し、不死の生命存在になられたといった、          そんな存在のステイタスでもあったと言える。          これが彼、主イエスの<アザゼル>対処なる、父なる神の御心にかなった<永遠の          贖いやぎ>の実現成就であった。          この<やぎ存在のステイタス>から<子ひつじ存在のステイタス>すなわち<十字          架の死と甦り>は、前者あっての後者であり、前者との一体前提なくしては、後者          のそれは、その<完全成就の義>を満たし得た事にはなり得ないものなのである。          何故ならば、<やぎステイタス>での死を制し、死に打ち勝ち、しかも一切の迷妄          もなく、神の真理そのものの精神に心輝いている、その現世即身の永生永遠の命、          その存在ステイタスという実在であるからこそ、<神の御救い・贖い真理>のため          に、その<人の子・永生なる尊き命>を犠牲にして、自らをして十字架に捧げると          いう事の、限りなき無限の真意を呈示しうるからである。ゆえにその行為=贖いが          真に全き完全さをもって実現成就するわけである。(永遠の命への贖いは、彼イエ          スの現世レベルでの<永遠の命>をもってのみ成立する。)          因って、ただ単に、死すべき人間、永遠の命を有せざる人が、その命を捧げたとし          ても、人の命をあがなうことにはならなし、出来るものではない。何一つ神の救い          のあがない、命を贖い得るという効力も意味も全く生起せず、旧約予型に値する意          義すら見出しえない。(牛やぎ羊の方が人よりも罪悪けがれなく、無垢だから、)          依って死すべき人間には如何なる教えの有徳の輝きがあろうとも、          神における<恵みの効力原理>が、まさに永遠のものとして現呈供与されるもので          あるから、その効力の源結泉たる贖いの内実とはほど遠いものであり、それを全く          満たすべきものに価しない。即ち、神が意図、大願しておられた<永遠の命の原理          実成>の基軸、中核にも在りうるような事は、全然あり得ないということが明らか          だからである。          イエスのこの両ステイタスと、その両者にわたる公生涯での時節活動、その期間で          の<神の国の力>の現示、そしてそれへの<福音宣示>とは、まさに神の御子なる          イエス・キリストの存在そのものを満一結需したる処の活ける存在事蹟であり、こ          れはもう、天から与えられた極上の<活ける命のサンドイッチパン>なりと、もう          一度、主イエスが仰せ証しされようと云うものである。          この<イエス存在>の真義に関わる真理の一切を内実せしめる<新しい命の霊>、          別の言い方をすれば、<新しい聖霊の御魂(ミタマ)>とは、この彼の<活ける永遠の          存在事蹟>を原理根としているものである。それ故、これは、まさにそれと、真如          一体の実有意識を得させ、悟らせるものともなる。          溢れる歓喜の涙をもって、この<活ける命のパン>なる主イエスを拝し、食べる事          ができるならば、できるであろうか、出来なければならない。          出来ればこの上なく幸いなるかな。心に<神の国>がしかと開かれ来る事になるか          らだ、神の国が見えてくるからだ!。          彼、主イエスは、その<荒野での時>を比喩をもって物語られた。死および死の力          を<悪魔の化身>存在に仕立てるによって、、、この三つ余りの異なった物語的諸          相で、第一義的に共通した<人の、世界のあり方の真意>は、どうあるべきもので          あったろうか。その答えはその記事、2つ共観福音書を手にして、お悟り下さい。          <比喩化身の悪魔>は、全世界の繁栄を見せて、イエスに言い放った言葉など、、          また、近くにあった石をパンにして食べてみろとも言った、、、、、          (筆記者マタイは、主イエスがお語りなさったそのエピソードを、何かある観念的          な執念のこだわりの自らをもってして、書き表わしたかのようにも受けとれる。)          これら比喩の主旨を離れた別の次元から捉え見ると、、、、          この<化身悪魔>が勝手に言い張るその<繁栄を誇る全世界>、これはまさに彼自          らが、<石をパンにする>ことによって、その大繁栄をもたらしているのだと、言          い誇っている、そんな風に暗示しているようなものだ。          その<石>とは、地球上の<諸々の資源>を指したものであり、その<パン>とは          その諸々の石でもって、依り立つ<諸々の文明文化そのもの>と言う事になる。          <化身悪魔>をして、主イエスが、言わしめたその悪魔の言葉は、実にウソぶいた          ものであったわけだが、、、それは、          ”<国の力と、その繁栄>とは、限りなく主なる神のものなり。”          という言葉が、聖書、まさにその全体における神からの思想からそれを反映明示し          ているという事実を証明してやまないのが明白だからである。これは<主の祈り>          の結びの言葉として、キリスト教会でも組み入れられて、良く知られているとも。  第17章:  ───────    23・・ 3節・・< שור או-כשב או-עז >(`shor oh-`ckesheb oh-`eh-zu)=                               (牛、あるいは羊、或いはやぎを)         *前16章にわたっての何か特別な記述のような文言内容での、やぎに関わる言語、          <שעיר(サイール)>の連続使用現象から、再び通常的な記述様相への移行を意識した            記事内容を採り記すものとなっている。          以下、終章(27)に至るまでの間の2、3の個所において見られる。  *第18章:使用例なし(~21章まで見当たらず)  ───────   ▽   ▽   ▽  *第21章:使用例なし  第22章:  ───────   24・・19節・・< בבקר בכשבים ובעזים >(ba'ba-`cka-r ba'ckesha-`bim                                    ueba'yi-`zim)=    (牛、羊、あるいはやぎのうちの)きず無き雄を                          25・・27節・・< שור או-כשב או-עז >(`shor oh-`ckesheb oh-eh-`zu)=                                (牛、または羊、またはやぎが)  第23章:  ───────   26・・19節・・< ועשיתם שעיר-עזים אחד לחטאת >(wa' ashi-`them she`yi-r                           -yi`zim eh`ckad recka`tta-th)=            あなたがたは(また罪祭のために一頭の雄やぎをささげなければならない。)  -----------------------------------------------------------------------------  *第24章:使用例なし(~27章まで見当たらず)  ───────   ▽   ▽   ▽  *第27章:使用例なし  ───────  **24章以降、最終章の27章まで用語例なしにて。 以上にて、神からの新造語<アザーゼール>に    関わる<やぎ用語>の使用展開とその確立への状況を少なからずも探査検証せしものである。    だが、モーセを介して示された<神の新造語=アザゼル>は、神の啓示領域(旧約聖書に係わる    歴史的生存領域=<オリエント圏)での限定的なものとして、キリスト・イエスに帰納集枢され    えた事柄の概念にとどまるというだけのものではない。(グローバルなものとして予知啓示した    もうた神のアザゼル概念は、結果的に以下の別ページ参照内容のものとなる。    ”それだけでは終わらない:★【アザゼルのグローバル展開】参照ページ)★ ”                                                とんでもないほど長々と、あれこれ述べ論じるページとなってしまいました。読み応えがあるなんて  思って下さる方々がいて下さればと思うばかりですが、、。実に神様の恵みにより<心に神の国の開  かれん事>を、また、<心のうちに神の国の、より鮮明にならん事>を願いてのことゆえ、ご了解下  さり、ご理解頂けるものと信じます、、、。  ともかく、かの4つの福音書からの大いなる結論の最後として、<主イエスの活ける存在真理>と一  つなる主イエスの全人格心情の本姿、そのさらなる一端一姿をここになお付け加えておきたい。    イエスはその凝縮された公生涯を歩み始めるに際して、<神の国>の何たるかを、その<全解真知>  したる意識のご心情人格にありて、公期間の間終始一貫して、その<御国の諸形相>をお語りなさっ  ている。だが、彼の置かれ在る現実諸世は、まさに極まり落ち至れ尽きた、低位などん底の様相とな  るに至っている時代であった。神の名(エル)を冠した<エルサレム>に、いまだかってない壮麗な  <神殿>が厳然としていても、選民イスラエルの精神的現状は、<神の言葉(モーセの律法など)>  をまったくむなしくするほど、邪観念、邪想が渦巻き、その言葉でどれ程までも汚染されたる<邪悪  な世相>を反映するものであったことであろうか。そういう現状の意味からも、先行者たるバプテス  マのヨハネの存在は、予め預言されたる必定のものなりという結果を裏付けるものであり、その使命  (イスラエルの子らの心を父なる神に向けさせ備える浄洗礼)の務めも、如何ほどに尽力すべきもの  となったかは、想像に難くない。  イエスのもとにはおびただしい数の群集が押し寄せ、また様々な人々が足を運んだことが知られるわ  けだが、病気の人々、身内に病や障害の者を抱える人々も、非常に多くあり、皆、癒されんがため、  ひたすら悲願の思いで心裂けそうな、そんな<願望信仰>をもって、イエスに接した人々であった。  からだの病、心の病、身体機能障害など、どれ一つとっても深刻な生活上の問題で、いや応なしに対  応救済されるべく、癒しの<現実的救い>がなされるほかなかった。イエスはその名のごとく、<主  (ヤーウェ)は、救いなり>という、その意味を余すところなく満たすに余りうるものであった。そ   の教えの言葉は、多くの人々の心を照らし目覚めさせ、心に光を与える教化となり、人々をして、イ  エスその人に驚嘆の眼を向けさせた。  だが、イエスの力ある御業も、教えの言葉も、彼にとっては、かえって一層、それらの事績だけでは  自分の使命が全う完結されるようなものではないことをあらためて実感し、その事情を初めから予知  ご存知せられたる<初心の天命>に帰らざるを得なかった。全ては、その自覚のもとでのご諸行活動  ではあったのだが、つねに<父なる神>に祈られたという、彼の姿、姿勢がそこに見られる。  イエス自らが、メシア=キリストとしてのご自分存在のなすべき使命内容、その啓示の完全さなり、  完璧さなりを目意標黙のうちに見定めるところの、その精神特性は、彼自身の存在そのものに根ざし  たものと言うほかない。ここでは理解不可なる不合理なキリスト論を述べるつもりはないが、ただ主  イエスが、多くの人々を、また身近にいる弟子たちを見るに付け、自分一人だけが死を超越し、力あ  る者として、いつまでも死なない者であっても、いかほどの価値があろうか、詮方なき事のようであ  るとの自意識のある中、ただ力が自分から出てゆき、その恵みがなされることの繰り返しだけ、また  教えの言葉を何度となく語るだけ、そういった諸業をいつまでもただ繰り返すだけでは、不本意なが  ら<真の救い>にはならないことを身をもって実感されておられたようである。  そんなイエスの自己認識の中、大々的な<自分啓示>即、ご自分存在における<父なる神啓示>を実  現実成なされて、その十二分なる働きを果たされたわけだが、それらの事象を見るなり知るなり、あ  るいは聞くなりの諸契機に基づいて、我々現代人を含め、極々一般的な人間にとって、とりわけ当時  の<ギリシャ人>的理性にとって、<理性を超えている存在の、そのイエス>を、理性でもって理解  せんとするは、元々本来的に無理難題な試みともなろうか。  主イエスは、神の御子という存在そのものゆえに<命の根源そのものであり、もろもろの命の本源で  ある>との、啓示言葉を感覚感性的に受け入れ理解したとしても、理性がこのことを、具体的にどう  ゆう仕組みで、どう存現展開するものなのか、等々を問うことにもなれば、理性は立ち所にして言葉  を失う。何一つ実論的説明の答えを見い出しえないという、その無能さを顕わにするのみである。  人は言葉を話し、その言葉概念を不断に有するもの、それは実に有り難い人間特有の恵みの能力であ  り、あらゆる文明の原動力、その基層だとも云える。この人の<言葉概念>を<命の本源そのもの>  に還元するように捉え見れば、<命の本源そのもの>には、その<無限無量なる言葉の生現創造>を  して、それと一つであるというところの<それ自体(=命の本源そのものの自体)本源>という在り  方が見えて来る、まさに感性直観されうるということになるわけだ。  このような見方からすれば、主イエスの<十字架、その死と復活>への真摯な、且つ内なる熱情のこ  もった<彼の使命的志向性>は、まさに<命の本源そのもの>が見える形をとって、我々が生き、生  存生活するこの世界のうちに現れ、それゆえに全く新しい、人知を超えた新たなる活動展開と、その  目的主旨なり、真意なりを垣間見させてくれたということになろうか。  まさにそれは、<おとめマリヤの胎内>から始まったとも云える。それは、<命の本源そのもの>が  最善最良なかたちで<人(の子)のDNA>をとり、自らをご加護のうちに自然形成させたと言うも  のだからである。<命の本源>は、マリヤから<人の子>として生まれ、この世に現れた。そして、  この<命の本源>なる<人の子>イエスは、本来的に<自分存在>の真意が、それなるがゆえにさら  に新たなる<命の原理>の起生源ともなる<神の福音>樹立という道、聖なるご使命に自らを捧げる  ものとなる。  このことは、同時にイエスがお語りになった全ての<教えの言葉>にご自身が、御子として可能な限  り、その責任を果たし満たす事と一つであり、且つ、それらの内容成就は、不変不滅、永久の約束事  として、イエスの存在真理から、それをして認受、認容されるものとなる。  主イエスにとって、もはや残されたる唯一の道は、公生涯の初め、覚悟して心の内深くに秘め気意し  ていた、御父なる神の御旨、その<シナリオ>どうりに自らを志向させるほかないものとなった。  直弟子たちや、信じる者たちに自立的な力を得させる為には、もはや畢竟不可避な現実要請として、  自らの命を捧げるほかなかったのだ。自らを捧げる十字架の死は火である、即ち自らの存在生涯に基  づき、その依って立つところの<全焼の子羊の火>としてのそれであった。  彼の荒野での四十日に至る<霊の自己練磨>は人知れず、誰も知らない<キリストとしての自分自身  にのみ係わる、最初で最後の十字架>であった。現世の世界に自分が打ち勝ったところの自分で在ら  んがために、、、そういった自己確立的な存在において、全ての徳行、有徳の言業の役分を果たし満  たして行くものとなる。  またその最期的シナリオ、その秘儀の成就により、<真の救い>と、神の国と義に基づいた<世界の  永世>とがもたらされるものとなるという事の、その深い認識の下に、ご自分の命のみならず、ご自  分の存在全てをも与え尽くすものとなる、<神への贖いの十字架>、それ以外には、如何なる他ごと  も今や無用、無見のものとなるほかなった。この<十字架>において、ご自分の命、ご自分の全てを  与えるということは、真に新たなる<命の霊>を与えるということであり、<命の本源そのもの>に  おいて、まさに<永遠の命>を与え、得させることを告げ示すものであり、父なる神と御子なるイエ  スによる、最高最善なる永遠の<救いの秘蹟>として、いまや<その啓示>が成就するものとなる。  この<秘儀なる救い>は、また御子イエスによる<神の大いなる無限の愛>の真実を表明告示したも  のであり、世界、宇宙、全ての事は、ことごとくこの<秘儀>のもとに在りて、有するものとなる。  御子のご在世時における神のご意図は、この<贖罪>にあった。しかもその時、その当世世界は、も  はや<贖罪>の義なくしては、<神の無限の恵み>からの、その愛の付与が与えられざる時代にまで  至っていた。だが、  この御子・イエスによって、世界は、その閉ざされたような未来への闇を取り除けられるものとなっ  た。イエスのご心情、ご意願は、<私に定められたこの【贖いの十字架】>により、<命の霊>を与  える事、それ以外に帰するところは何ものをも、もはや残されてはいなかったというものである。  この十字架において、ご自分がその存在をして、<命の霊>となり得ることの他には、如何なる最善  も無きこと、このイエスの<十字架妙理>を信じる者には、それによる<神の救い>が成就されると  のこと、この<福音メッセージ>を彼自ら心溢れる強いご意志をもって予めご表示なされた。したが  って、この<イエスを知ること>が、即<命の霊>であり、御子による<贖いのロゴス原理(具象十  字架)>において、活きて働く<神の活ける命の妙理>の具現ともなって行く。その繁栄は、<主の  霊、全地に満ちん!>という旧約聖書預言の成就が意図されていたことを示すのもと云える。  これはまた、人間観という別な見方の視野から言えば、人の<人格魂>、いわゆる自分を意識し、自  分を人格的に現わしている<自己>が、その<肉体生命依存の現出>以外の何ものでもない事を認識  したものであり、且つ、そこでは、 自魂(=おのれの霊魂)が、別個、独立に存在する、あるいは  先在していたものだとか、また死の時、肉体を脱して、何か別の世界に移り行くような存在のものと  か、新しい肉体的生命の誕生時に、他から別の霊魂が移入合体するものだとか、そういった類の蒙昧  な観念、思念観は棄消されるものとなる。  このような愚昧な偶像思想は、自然なままでの人情とか、願念とかに極めて相応している向きもある  と言えども、真にアンチ(反)・イエス観念の助長源とならざるを得ない様々な要因ともなっている。  ”★(注:霊、霊魂とかの事柄:【霊及び、霊魂理解について】参照ページ)★ ”  この<命の霊>はまた人知れず、人間存在のすべての能力的可能性の扉を開かしめる源でもあり、イ  エスの教えの言葉、<からし種の譬えの木>のごとく、神からの知恵の種による、種からまた、新た  な種へと、多様に分岐発展の成長をなし、そんな日々新たな、より豊かな諸文化形成の時代へと至ら  しめる原動力ともなる。何故ならば、主イエスによる<贖い>においては、無限の可能性が約束され  ており、<命それ自体の可能性>ばかりでなく、あらゆる分野にわたって<神の国を切り開き、獲得  してゆく>という、<命の霊>による信仰のフロンティア精神の発動が嘉され、期待されていたから  である。  このように世界は、イエスのパーソナリティーのうちにあり、その望みのない闇に被われたる、既存  の古い世界に打ち勝って、新しい世界とその未来をば、神とご自分のうちに先定成就なされ、自らは  人の善なる能力の多様な可能性を最大限に開花すべきを嘉し、自らをして開得展望の未来永劫への発  展の無限の礎石となられた。在世時でのユダヤパレスチナの民らの端的に切羽した実情での切実なる  要請は、その民らの抜本根本的な存在様相にあっては、<命のパワー>と<真理の光>を如何にして  人自らをして受有するものとなるか、なるようにならねばならぬ、せねばならぬ、という事態状況の  事柄があり、そのことが眼前、具体的なまでに主イエスが直視されたる現実状況のそれであった。  確かにイエスの周辺、社会的環境状況は、中央エルサレムには民族的な象徴たる神の宮神殿があり、  大祭司らの身分層や律法学者層とそれらの派閥があり、各地方には地区別に会堂シナゴーグがあって、会  堂司や、中央から訪れる律法の教師らが詰めて、民衆の宗教的日常習慣の便宜教導を計るといった状  勢には違いなかった。そんな中、主イエスの立場はかなり微妙であり、民衆からも<ラビ=(先生、  教師)>とも呼ばれたりしたが、なにせ、先に洗礼者ヨハネが大いなる預言者かと黙されつつ、イエ  スへの先駈けとなってすでに活動していたので、ヨハネのイエスについてのお証し紹介や、特別尊貴  な対応ぶりのゆえに、民衆らは、いや応なく新登場の主イエスへもその熱いまなざしを向けるような  事にもなり、イエスの存在、動向への関心度は日増しに高くなってゆくといった傾向を見せていた。  (いち早くイエスに注目する機会を得た幾人かの民衆は、イエスがヨハネからの洗礼の時を経た後、  イエスの姿を追ったが見つけ出す事が出来ず、彼が荒野の方に出て行かれたといった噂だけが流れ、  飛び交うといった状況で、その推移が過ぎ去る時の流れがあったようだ。)  当時のユダヤ・イスラエルの民衆らにはすでに<メシア来臨>、その待望の思いが根吹いており、あ  れこれとした待望観も培われていた。それに加えて洗礼者ヨハネが現れて、<神の国が近づいた>と  の宣言を大ぴらになし、ならばそれに備えるべく、当事者ヨハネから<洗礼=心を正すバプテスマ>  を授からねばならないといった、ある種の社会的勢向をば見せていた。これによりメシア待望の思い  が一層強く助長され、いよいよ熟する時に至ったという社会的趨勢を醸し出していた。いまや、イエ  スは、そのような<時の趨勢>のただ中に在ったわけだ。    主イエスご自身は、神からの言葉をお語りなされ、後の諸福音書にても書き記しえないほどの数々の  力ある奇跡の業をなされたが、そのような事、自分本拠から出る力、真理の言葉(光)は、民ら、そ  の他の人々をして、ただに止めどもなく自分からの事象となるに過ぎないものであり、他者なる民、  人々ら自ら自身の存在にあって有することが最も至高の善、且つ、至義となりうる<命のパワー>、  <真理の光>そのものたるに比すべきに値するものではない事をご存知であられた。結局、在世時に  イエスが数々の言葉と御業とで顕示された御諸行は、その2相点に帰順するに尽きるものであり、そ  ういったパワーの全てを無尽に秘めたるご自分を丸ごとひと纏めにして、<贖いの十字架>へと捧げ  置き給うた。そうする以外には如何なる手立てもなく、そのご自分十字架をして、人のみならず、神  においてもご自身における、ご自身からの、ご自身に依る、一切諸々のパワーの源泉、及び動義とな  るとしたところの、活ける秘蹟、神の言葉解示の<十字架>となし給うたと云うことである。  この事は、父なる神が人の世を在らしめられる以前から、いわば永遠の初めから神が、予め心意し、  嘉して置かねばならぬという事柄内容の最たる秘事として予知されたものであり、その予定のうちで  の是非を計り照応されたり、その有無をば黙されたるところの秘儀でもあった。御子なるイエスが、  御父なる神の御意存に一に従い順じ給うてその秘儀使命を成し遂げられ、今や至高にして無限に力あ  る動義の秘蹟となし給うたものである。人知れず計り知れないところの歴史の由縁、神の下にあるそ  の人類史的な運命の理コトワリとあい成り至ったものとしてかとも、、、、。    4つの福音書からの主イエスの人格的心情の本姿、その一端さえ充分に語り尽くせないままだが、以  上をもって、少なからずも福音書での<主の御姿探訪>の参考となればと願う。      旧約、新約の全聖書が志向・証しているものが<神の福音>であり、神が備え与えて下さった、この <福音>に関わり、証しする人たちも、多様な立場やタイプ、人材的特性を具えた人々であった。ゆえ に、証しの役割への充足完備も大いに満たされたものとなっている。4つの書(福音書)では、バプテ スマ(洗礼者)のヨハネの存在が不可欠な人材として記されている。彼はメシア(=キリスト)の存在 の先行者であり、キリストに道を備え、心的世相の地ならしをする先駆けとしての役割をもって、その 使命を果たすに至っている。現世時で<メシヤ・キリスト>を一番最初に紹介、証ししたのが、この洗 礼者ヨハネであったわけだが、こんな超ドラマチックな劇的な時代状況は、人知では思いもよらない、 到底偶然とは考えられない事であり、また、人が演出作為、創作できるようなものでもない。そのヨハ ネとキリストとの人的関係の構図は、まさに世界史広しと云えども、他には類のないユニークさを示す ものである。 (キリストが何故ヨハネのバプテスマをお受けなされたのかという疑問を抱かれる方があるやと思いま すが、その両者をしての行為状況の<真意>は、ヨハネが旧約聖書・預言者イザヤの書に予言された人 物であることを、<神の子・キリスト>自身も完全承認・公証するための礼であり、それだけにとどま らず、キリストご自身が、すべての人の罪を負った方として、そのヨハネの洗礼の儀式の存在意義それ 自体にさえ、真なる本物本当の意味付けをなさっているというかたちで、両者の立場の行為関係が申し 分のない完全さをもって果たされているわけだ。この場景に対して<天からの声>も、これに応答認義 するに値すべく、 ”あなたは、わたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。”という神の声の宣言、証示的言葉も 発せられたという、そんな裏づけ異象も伴っていた。将来的にこのバプテスマが<主イエスを信じて受 け入れる>時のバプテスマへと、また、父と子と聖霊との名によるバプテスマへと、その真義内容が新 たにされ、高められ深められたかたちで継承されるものとなり、それへの端緒がヨハネをして、イエス によってご採択継承され、その可能性が開現されたという真相においても非常に意義のあることだ。)  洗礼者ヨハネは、誰よりも一番にメシヤを紹介・証しする者でもあったわけだが、イエスにお会いし て、心感動し、強気に高揚させられた所為か、精神的にもその心、言葉がより義にきびしくもなり、過 激になる向きもあった。一方、 主イエスは、人々の弱さの極みはもちろんの事、強みの壁障にさえも、徹頭徹尾適切対応をもってお仕 えなされ、その言葉、行為に微塵の偽もなかった。神からの力と知恵によって、多くの人々の心も体も その病のすべてをお癒しになり、おさとしになり、神の国とその福音のみ教えをお説きになった。まさ に<人の子>としては、<枕する処なき>ほどに神の御旨に従いて、お仕えなされた方である。 <主の道を備えし、先の洗礼者・バプテスマのヨハネ>さえも、その様相のうわさを耳にして、何かし らおのれの意向とは喰い違うのかと、その認識判断に迷い、疑い躓くほどの心境に陥ったというほどだ から、正に人としては、人類史上、他に例なき人望、人徳に満ち満ちた方、唯一無二の神の御子として その凄さがうかがえる。 主イエスの心のすべての本性、特性面において、その人格意識は、人知をはるかに超えて超絶した自己 意識の存在でありながらも、とことん神の子として、<人に仕える事は、わが父なる神に仕えること> 以外の何ものでもない事として、その彼の仕え方において、自らの存在意義、ご使命を全うされたとい うほかない。このような御子キリストのみ姿の存在啓示は、あたらしい時代への夜明けであり、始まり でもあった。  父なる神の<わが御子>をば、世に送る事に際しての、そのバックアップ的な摂理啓示の手立ては、 単にイスラエル民族の興起、継導の歴史におけるものだけに限定されるようなものにあらず、人の世界 の全体規模での展望にありて、並々ならぬご配慮、ご志業の計らい有りてのものとなった。何故ならば 御子を世に送り、お立てになるに最も適した人類史の<時>の到来、つまり、そのタイミングが、世界 全体規模における多様な形相状況において、 それぞれの精神、世相の諸文化がどう熟したらよいかと言う事での、その絶大なるご処配摂理(これは、 まさに神ご自身の見えざる、知られざる<大いなる戦い>でもある。)があり、それによりて当世現時 代的、及び当世以後近時的、或いは未来永劫展望的にも、最も適合、適益した<時>を、御子キリスト に如何に備え来たらしめるかという事に、神の一大ご意思が集中集約されていたからである。 その御子に依りて、さらなる未来への<新しい展望>が開ける、開かれうるというご意図を実現させう るものだから、また実際そうなるに至ったというのが、神における<真理の実相>、神の世界における <主権摂理の見えざる真相>であるという啓示理解の真実真理を明かしてくれるものとなる。