序  章


    古文書、黙示録が世に出た時は、西暦AD96年から100年の間だと言われている。著者ヨハネが
  それを書きとどめ、小アジア7つの教会に公表した当時、主イエスの12人の使徒たちは、すでに
  その消息すら判明しないで、一番若かったヨハネだけが生き残っていた。(ペテロやパウロがローマ
  帝ネロの迫害時64−67年ころ殉死したとの伝承は本当らしい。)
  それで黙示録なるこの聖典は、教会の聖典集(今のバイブル)の最後のものとして、保存され写本化
  された。今の聖書の最初の第一巻が<創世記>から始まっていることは、誰しもご存知かと思うが、
  そのことに相対して、その最後の巻が黙示録で閉じられていると云うことには、計り知れない意義が
  秘められている。その摂理的な配置構成自体が、聖書真理の大いなる輝きを指し示している。
   人類史の初めに神が設けし自然豊かなエデンの園、そして、黙示録の最後の章、21,22章で表示され
  た<神の都>、これは神の計画目標たる神の国の純自然的且つ、人間的成長度の高い文化的な天の新
 しいエルサレム(永遠のエデン、新パラダイス)だと、そこには記されている。
  ユダヤ民族(イスラエルの民)が起源して2千年に及ぶその古代民族史において、その民と預言者た
  ち、そしてその終わりに至れる残れし民(12使徒らの一団)によって、そのような壮大な神の御意
  図(シナリオ)が、聖書という見ゆる文書の形をとって結実、表示された。2千年という歳月をかけ
  てやっと、黙示録の預言の啓示が世界に現わされたという訳だ。そして現代は、それからさらに2千
  年が過ぎようとしている。
  今は黙示録を解釈理解する時代であり、たくさんの研究書、注釈書が世に出ている。それぞれの時代
 において、その時代の何かを反映するかのように様々に解釈されてきた。少なくとも千年余にわたる
 文献的遺産がヨーロッパの名たる図書館、あるいは教会の書庫に眠っていることだろう。
 黙示録は平易な文で記されているから判読はしやすい、だがその意味するところが掴み取れない。
 それは難解で、理解しがたい象徴文字で、文章が表現されているからである。まさに謎解きのような
 こととなる。しかも今日に至るまで、多くの聖書学者、神学者らがそれぞれの解釈を表示するあまり、
 より一層その解釈を困難にしてきたことの現実を否めない。しかもそこにはある種の取り除きがたい
 先入観が延々と引き継がれてきている感がする。
 したがってこのホームページでは、黙示録理解の第一歩として、ある一定の視点をその解読へのアプ
 ローチとして、次に述べる三つの事柄(解読)から定めたいと思う。

  <アプローチへの第一の事柄(解読)>:

  ヨハネが原体験として、パトモス島で啓示を受けた時、彼は主キリストから、その預言内容となる
 幻映ドラマに関してどのように指示、命令されているか、その点がひとつの重要な問題点としてあげ
 られうる。黙示録からはその点に関する文言を2ヶ所見出すことができる。さらにその2ヶ所と密接
 に関わりをなす個所がもうひとつある。以下次の如く、
   
  { 第1章11節 }”その声はこう云った「あなたの見ていることを書き物(巻物に記して)に
             して、七つの教会...............に送りなさい”
 同じく、{ 19節 }”そこであなたの見たこと、現在のこと(今ある事)、今後起ろうとすること
             (後に起こること)を書きとめなさい(書きしるせ)”

 この両文言で明らかに判明することは、ヨハネが幻映ドラマのただ中で、見ている事の内容、そのす
 べてがそっくり全部、今より後の未来に起こり、現実化するものではない、と云うことである。つま
 り、彼の見ている内容が、すでに過去に起こったこと、今、現在のもの、また、幻示ドラマそのものだけ
 で、その真理(神の意図)を伝達せんとするものであったりする訳だ。そして、この2つに関連する
 もうひとつの文言が次の個所である。

  { 第4章1節 以降 } **ここからの文節では幻映ドラマの本題としてその展開をはじめる。
 ギリシャ語原典をそのまま直訳すると、(意味内容を深め、修飾したような訳文にしないで)

   ”そのあと、私は見た。見よ、天に開かれた門、そして、ラッパのように話かけるのを聞いた初め
    の声が「ここまで上ってきなさい、そうすれば、このあと必ず(私のために)起こる(起こさ
    れる)はずの事を見せてあげよう」と言った。
 そして、2節目の文に続く、
   ”(すると)たちどころに私が御霊(のうち)にあった(現れた)。............."

  ここではヨハネが主キリストからの霊信のメッセージ(7つの教会宛のものとして)受けた後、天門
 に上がった(上げられた)事が示され、彼自身はこれから展開する幻映ドラマの中に自らを置いて(
 自分も登場して)、つまり、これから会話を交わす長老や幾人もの御使い(天使)と共に主イエスキ
 リストからの啓示の幻映ドラマの一翼を担うこととなる。

 この第4章1節で注目すべきことは、この節後半の ”このあと必ず起こるはずのことを”という
 文言の内容である。これには二重の意味が隠されている。即ち、以前からの従来解釈としてのそれ
 である。これは第1章1節で、この黙示の文書のタイトル説明と由来においても、はっきり明言され
 ているように、<近い将来すぐにも起こる>とされている 現実の世界における出来事(人の世と自然
 界におけるそれ)を意味するものに当たる。 そして、もう一つの意味とは原典直訳で明示したよう
 に、つまり、ヨハネを幻影ドラマに招き入れて、<これからすぐにも展開せしめんとする>啓示のた
 めの<幻映ドラマ>そのもの、それを指し示しているということだ。
  ヨハネのこの啓示の始まりは、パトモスという島(小アジアの西エーゲ海域)において(1:9節)
 天上的な主キリストの降臨的な幻顕からであった。そして、地上にある7つの教会へのメッセージの
 あと、神がおわす天上での出来事(真理の事柄)の幻示が展開されうる状態となる。
 この地上の教会に関わることから天上(神の御座)に関わる出来事への<移行>をリーズナブルなも
 のとなさしめているのが、先にあげた4章1節の文言だと云えよう。
 以上が視点への第一の解読である。

  <アプローチへの第二の事柄(解読)>:

  視点への第二の解読は次のような試みとなる。
 ヨハネが一連の幻示を受けたのはパトモス島。これはヨハネの原体験であり、そのすべてが脳裏に記
 憶されたと思われる。彼にとってその記憶は、いつでも巻物に記される段階で呼び起こされ、追体験
 されるようなものとなった。
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 *参 考 ; 彼が啓示を受ける時(第1章10節:”私は主の日に御霊に感じた”{ギリシャ語原文
       のローマ字表示:”egenomen  en  Pnumati  en  tei  kyuliakei  hemelai  "})ある
       宗教的心理状態(宗教的エクスタシー??)に陥ったと思われる。
       日本語では、"私は......御霊に感じた”と訳され、英訳では " I was in the Spirit
              on the Day of ......"  となっている。両者の訳とも何らヨハネの心的状態を深く捉
       えた表現にはなりえていない、と云うよりか,表しえないのが現状だ。これは神の直接
       的な介入の力を象徴する霊,即ち ”御霊”のうちにあった、又は ”御霊のうちにあ
       る自分を強く意識した”と云うことである。
               これは神によって起こされる、ある特異な幻夢意識の状態の始まりである。つまり、外
       的空間(例えば、旧約聖書ではエゼキエル書1章1節での例 ”天が開け、神々しい
       幻を見た。”という場合の<天>という空間と同じ)と人の五感(目,耳など)に関わ
       る特異な脳内意識(脳の神経生理的な働きに基づく)との一体的な相和作用において、
       創出された心的状態なのである。このような状態において、ヨハネという人物(人格)の
       一切、つまり彼が今まで培ってきた知識の一切(旧約聖書、キリスト,その他ヘレニズム
       文化圏における全ての情報:出来事,思想,演劇,音楽等々)そして、ヨハネその人の
       性格までもが、そのような幻映啓示の素要,素材となって、その幻映ドラマを成立させ
       ている。
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  ヨハネが見た幻映の数々を編集し,巻物に記したのがパトモス島であったのか、それともローマ帝
  国内のアジア州(7つの教会の所在地)のとある町(エペソ、ペルガモ、スミルナ、あるいはサル
  ディスとかいう町)のどこかであったのか、そのことに関する直接的な証拠、古代の文献その他の歴
  史的資料や初代キリスト教会からのはっきりした伝承すらない。
  しかし,推測するに、先ず原本としての巻物が彼ヨハネによって完成し,これに基づいて7つの
  教会への写本ものが筆写作成され、(これには二,三人の彼の弟子たちが手がけたであろう)名指し
  された各教会へ送られたであろうと推測される。
   さて、ここで注目すべきは、先のアプローチへの第一の解読探査で取り上げた、第4章1節後半の
  部分の”`a  dei  genesthai  ”と同一文字が使用されている文言があり、これは第1章冒頭のタ
  イトル由来説明の文節の一部として見出される。ここでの”`a  dei  genesthai  ”(=”起こるは
  ずのこと ”)には、”en  taxei  ”(=”すぐにも ”)という修飾限定語が付随した文節になっ
  ている。ここでの文言の意味は、まさに平易でそのまま直読みに受けとめて良いほど明快だ。だが
  ここにも知られざる深い意味が秘められているのだ。

   ==第1章1節から3節 and 4節、5節以降の文言==
   1;イエスキリストの黙示。 この黙示は,神が,すぐにも起こるべきことをその僕たちに
     示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使いをつかわして,僕ヨハネに伝え
     られたものである。
   2;ヨハネは,神の言とイエスキリストのあかしと、すなわち,自分が見た全てのことを
     あかしした。
   3;この預言の言葉を朗読する者と,これを聞いて,その中に書かれていることを守る者
     たちとは、さいわいである。 時が近づいているからである。
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   4;ヨハネからアジアにある7つの教会へ。 今いまし,昔いまし、やがて来るべきかたから、
     また、その御座の前にある七つの霊から、
   5;また,忠実な証人,死人の中から最初に生まれた者、地上の諸王の支配者であるイエス
     キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血に
     よってわたしたちを罪から解放し、
   6;............

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  歴史的資料による確証はいまだ見出せないが、ヨハネのこの文書(黙示録)の<タイトル、その
  説明、由来、存在意義>を序言となしている、この1節から3節は、ヨハネ直々の原本巻物には
  元々なかった文節ではないだろうか。唯一無二の彼の原本は、4節から始まっていたのでは、と
  推測できないであろうか。この1節から3節は、弟子たちが筆写作成して各教会へ送る際、つけ
  加えられたと考えられないであろうか。彼らはヨハネの了解のもと<真理の御霊>に導かれて、
  この文言を追加した。もし、そうならばその時、年老いたヨハネは、大いに心ときめかせ、弟子
  たちの成長を神に感謝したに違いない。
     弟子たちが付け加えたと推理されうるこの文言の1節目に、どんな深い言葉の仕組み、つまり、
  「からくり」が浮き出てくるのであろうか。その謎を解かねばならない。
  ”すぐにも起こるはずのこと ” そうです、”すぐにも起こるはず ”なのに、何故起こら
  なかったのか? そんな疑念をもって、1900年もの長き時が経過した今、問いただしては
  如何なものでしょうか。そう問うべき時が来たのです。そして、いみじくもその答えが、この<幻
  映ドラマ>なる ”黙示録 ”の中に隠されているのです。 
  この問いかけが、そもそも、視点、アプローチへの第二の足がかり(解読)となる訳です。


   <アプローチへの第三の事柄(解読)>:

   視点への第三の足がかりは、以下の如くです。
  主イエスの昇天後、ユダヤ州及びエルサレムでは、2つの歴史的状況の事件が起こっています。
  ひとつはローマ支配の下、エルサレムの上層階級のユダヤ人(王、祭司階級、律法学者らからなる
  パリサイ派の市民)たちから、12使徒らを中心とした初代キリスト教団が、大変な圧力、迫害を受
  けたということです。(使徒行伝の書によれば、AD34年のステパノの殉死の頃から60年頃のパウ
  ロのローマへの護送、軟禁の頃を経て、異邦人のローマ帝ネロの迫害、AD64年頃へと続きます。
  ヨハネの兄で12使徒の一人だったヤコブもAD44年に殉教している。{使徒12章1,2節})
  今ひとつは、ユダヤ人の聖都エルサレムが、ローマに反旗をかかげたためAD70年ローマ軍にたた
  きのめされ、陥落し、マサダの最後の砦も破られ、生き残ったユダヤ人は、全世界に離散せしめら
  れたという歴史的事件である。
   この二つの歴史状況は、主イエスがお語りになった言葉の預言として成就する。 ヨハネの福音
  書を除く三つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)には、それぞれ多少ニュアンスが異なるが、主イ
  エスの言葉として記されている。(ルカでは、21章12〜24節)帝政ローマによる迫害は、さ
  らにドミティアヌス帝の時(80〜90年代)にもその猛威をふるい、この時にヨハネはパトモス
  島に追放されたとの所以を記している。(黙示1章9節後半)(**参考:ローマによる迫害は断続
  的ではあるが、ネロ帝からディオクレティアヌス帝の時をAD300年代初期まで、約250年間にわた
  っている。AD323年コンスタンティヌス大帝時代以後、信教の自由が与えられた。**)
   エルサレムとユダヤ民族の滅亡という大変な事態を含めたこの状況は、彼ら初代キリスト教団に
  とって正に”終わりの日”であり、且つ、すぐにも”神の裁きの日”が始まるとの確信に至らしめ
  た。したがって、こういった歴史状況が、これから”すぐにも起こるはずのこと”、第1章1節の
  文言にかかって来ているのです。 ここで注意すべきは、主イエスが十字架にかけられる数日前、
  彼が預言した ”エルサレムの滅亡”と ”この世の終わり”そして ”人の子(主イエス)の再
  臨 ”という一連の言葉の裏には、何か秘密が隠されているようです。ヨハネがまさに、主イエスの
  この一連の予言の言葉に関して、後の黙示録においてそれらに関わる<啓示>を受けている訳です
  から、、、、、、、、
  主イエスはかの預言では、天地が滅びる日のことを ”ノアの箱舟 ”の時のようなふうに来る、
  云々と云っておられるが、また、”その日、その時は、誰も知らない、子(イエスご自身)も知る
  ことが出来ない、ただ、”父 ”なる神だけが知っておられる。”とも断言する。 そして、この
  時には ”人の子の再臨 ”もあるはずだと語る。これらはまた、エルサレムの滅亡による、苦難
  の日々が続いた後、すぐにも起こるものだと言われたかのようだ。(マタイ福音書24章29節)
   しかし、このイエスの預言は、現実のところ実際には起こらなかった。その故、ヨハネは、その
  見返りにこれに関わる啓示を、昇天後の主イエスキリストから授かったということになる。そして、
  それは、主イエスが神から与えられたものだと、黙示録の冒頭では記している。こう云った経緯を
  考慮して、我々の生きている現在、今の世界、この意義深き3千年期の始まりを意識して頂きたい。
   主イエスキリストは、父なる神からの使命により、十字架の(死による)勝利を勝ち取られた。
  (**参考:何故十字架が勝利なのか、それは人類万民と神との関係において、<贖いの救いと神の
   義、そして神による永遠の未来が約束されたからだ。**)

  この主イエスは、十字架に架けられる前夜、オリーブ山にあるゲッセマネという所の園で、死ぬほ
  どにうめき、悲しみ、悩まれた。そして、血のように汗がしたたり落ちるほどに祈りを重ねられたと
  福音書は記している。(ルカ22章39〜44節) 主イエスのこの時の心境(姿)は、人の世の
  将来の状況(ユダヤの民の行く末も含めて)、来るべき終わりの日(神の裁き)、そして神の国の
  あるべき方向(内実姿)等々、様々な事柄が錯綜する中で、それらの全てが、この杯、即ち、<十字
  架の死>という杯にかかって来ており、その重圧に耐えかねてのことであったと思われる。主イエ
  スは、十字架の杯なしで、少しでも長くこの世のメシヤであり続けたかった、そうあるべき最良の
  方策はないものかと、、、、、、、神の真理を証し、人の道を教える ”教えの王 ”として、こ
  の世に長くとどまることを神に願ったのです。

  しかし、父なる神のみこころは、否でした。父は、主イエスの祈りに答えて、こう語られたかも、、

  ”わが愛する子よ、ギリシャの哲人達のような教師はもうそれで十分であろう、 インドの仏陀の
  ような巨人も、もう一人で結構だろう。人の知によるこの世の教えは、人の心の目を開き、納得さ
  せ、その心を教えの虜にするかもしれない、
  だが、時が過ぎれば、邪の道具、邪の道をかもし出すやも知れないものだ。(**注:)  わが子
  イエスよ、おまえは、彼らと同列になってはならぬ、われが定めしこの杯を受けよ!、これは初め
  より定められ、そして預言者たちにより、またモーセの書で示されていることではないか、、、、
  それだから、お前が三日目に甦る時、私はお前が墓に眠っている間のその一日一日に対して、千年
  の時を与えよう。 そして、三日目の時として、その三千年期には、必ず ”人の子 ”として、
  再びこの世に使わす、、見よ、あそこにいるお前の兄弟ら(主イエスの弟子たち)を、、、心にも、
  体にも、力がないではないか、、彼らがまったく持って奮い立つためには、この杯を受ける以外に
  は、、、”と、、、これが父なる神のご意向だったでしょう。

   主イエスは、このように十字架という定めの<神の杯>をお受けになり、それによって三千年期
  という時間を与えられ、確得されたのです。(**この事は、主イエスの十字架による罪の贖い、命の
  福音、その救いの期間ともひとつでしょう。**)
    このように主イエスによる、後々永遠に史的秘儀となる定めの十字架により、秘められたる神との
  三千年期の秘儀、それが、視点へのアプローチの第三の事柄(解読)なのです。

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  **注:例えば作者は、仏教についてその可能性をこう見る。つまり、現実、人間生存界の”生老病
     死の苦”の認知とその苦から救われるべく設定された過程的(目標的)悟りに関して、法的
     な支配原理、人間生存を基底的に捕え、精神的に支配しうる邪悪な相が見え隠れすると。善
     に目覚め、その善とか、聖とかの概念を包括的に進展させうる人間社会においては、それらが
     人をはかり、邪悪に裁くところの心の通念的ものさしと化する。仏教におけるその法には、
     まかり間違ってそういった要素が作用しやすい。いかなる社会においても、人間の善悪の知
     は、邪悪な支配のものさしになりかねない。作者はまた思う、仏教における仏界を表す曼荼
     羅図という観念的世界像や、観念的釈迦の見ゆる偶像等々、皆なくなればいいと思う。これ
     らは、歴史の人、教祖仏陀とは無縁のもの、時を経て後から創出された産物にすぎないから。
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