6.聖書は何を伝えようとするのか、:  Part 1


  聖書は様々な視点、分野からアプローチし得る書物ですので、人それぞれ個性、研究者の持ち
味でもって、多様な成果を引き出すことができるでしょう。その記述の文章表現そのものから直接
的に得られる情報内容はもちろんのこと、他の章句箇所との関連、比較などから、また、発掘的に
掘り下げ、演繹するかたちで、真理を探り発見するといったことが可能となるわけです。ここでは
聖書研究2千年の歴史的成果を踏まえて、それらを列挙しつつ、説述してみよう。

●1.) 唯一なる神による万物の創造、そしてその一体的な万象の物質そのものの特性に基づく
    諸々の物理的な現象運動の設定:
    ----------
    神自らの存在と共なる<永遠>という時間なき空間、とりも直さず即、物(質)なき無限の
    空間(宇宙)という<創造活動の場>において、<永遠における時間の初め>の始まりとして
    創造の世界が創り出された。

●2.) 神がお造りなさった世界を共同的に継承出来うる、その被造界のうちに生きる者、
    すなわち人間の創造:
	----------
    神とコミュニケーションができる精神的存在者であり、この人間創造には、神の御心を知る
    ことができ、世界とその真理、すなわち<神の世界観>を共有することができる知性品格と
    しての人間の育成が課題とされていた。これはいずれにしても神にとって、時間的次元での
    神の永遠的な、大いなる課題となるものであり、現に実際にその人間の人類史の中でそのよ
    うなものとなった。たとえそれが最悪、最低状況でのものであれ、<光は闇を照らし、一層
    その輝きをあらわす如くに>ということの反転善意の中でのもの、、、
    ----------
    神が<ご自身に似せて><ご自身の似姿=かたち>に人を創造された。これはあらゆる面で
    その知性能力を発揮し、その潜在能力の可能性も開かれたものであり、情と意の心もゆたか
    なものとしての<精神面>だけが、人格的に神の<似姿>をとっているというものではない。
    むしろ<精神的人格の似姿>は、結果的なものだとさえ言えよう。つまり、元々の初めに、
    神ご自身が、見ゆる形、可視的存在になる時、しかもある限られた一定の空間の場所での場
    合においては、<人の身体的な形姿>をお取になるのが最も理想的だということが、<人間
    の創造される以前>に、本来的に先在しているのだ。それだからこそ神は比類なき、卓越し
    た精神的存在であることを可能とし得る<人間>を創造することが出来たと言えよう。
    (それゆえ人は、神による<天のみ使い=天使>と等しく、<神々>と云われ得るが、決し
    てこれを拝んだり、死後敬拝たるも、神崇拝の如く、偶像視、偶像化してはならない。)
	----------
    この初めに創られた<人>には自然的に<死ぬ>という、生命的な寿命は、その身体的生命
    組織の次元からはいまだ定められていなかった。しかし、生命的<命>というものの現実存
    在において、<死というものの可能性>は在りうる訳で、これを否定することは出来ない。
    この意味で、人は<死なないように>生き、生活することをあらゆる面で学び、自らを訓練
    し、その知恵を取得し、<命・永生の道>を神の御慈愛の下に確立すべきであった。これは
    <人自身の大いなる課題>であったが、また、先に述べたように、人間に関しての<神の永
    遠的な課題の一条件的な重要な要素内容でもあったわけだ。
	
●3.) 神と人とのあり方:
	----------
    その最も最重要な基底的条件の初歩的な学びの最初は、神との正しい関わり、敬愛、敬拝関
    係の礎定を築くことへの初歩、始まりそのものの内にあった。
    旧約聖書は、様々な状況、条件下で、初めから明示し得るものとなり、その聖書に見られる
    歴史の状況、とりわけ聖別や摂理、裁きの社会的諸事情など、それに関わる言葉預言にて、
    神のご意図までも汲み取り学び行く関係にまで、そのあり方の啓示内容は備えられたものと
    なっている。(神による聖別、それは色々なご意図からのもの、世界宇宙の存続もキリスト
    において成立するところの究極的に特別な創造的、摂理的な神の聖別があり、その聖別論的
    な多様な知見や、教義的な意義は測りがたいものともなる。)

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 ここでの冒頭<タイトル命題>に基づいた神学論述を急きょ取りやめる事にしました。
 これは、現代世界の状況があまりの“何々しかじか”の故に、悠長に論を進め、時間を
 費やすに忍びない、値しないと考え、改めて強く思い直したからです。
 
 すでに充分周知され得るように過去(紀元後古代)から現代までの神学知識の成果の累
 積的進歩、刷新発展してきている現状から、新たにそれらに類した論述展開に尽するを
 是としても仕方のないこと。ここでは趣向を変更して、過去から現代までの神学所産を
 意義深く新たに見つめ直し、その価値ある栄誉を讃え、未来志向の核心的神学講への歩
 みと成したい。

 古代における<啓示場世界>におけるメソポタミア、及びエジプト文明、それに続くギ
 リシャ・ローマ、さらにヨーロッパ文明への発展的道筋は、まさに地球地理的条件下に
 て聖別された広大な地域範疇でのそれであり、これらは否定する事の出来ない過去現実
 そのものである。そしてこの聖別された世界のただ中で、神の御子なるキリストの生誕
 出現を見ることになる。

 このキリストの存在と一体的なその後のキリスト教の発展によりこの世界内の諸形相は
 改新され、正されゆく時代ともなる。キリスト教の発展は、やがてその教会形態で、大
 きく西方のローマと東方のビザンチンを中心とした二つに分裂進展したものとなる。
 (4世紀から5,6世紀と、歴史的諸事情もあって分裂傾向があり、11世紀初にて、
 東西双方は、完全に分離、一つのものとはならなかった。)

 しかし決してその状況は、無駄、無益なものではなかったと見て取れる。厳しい現実の
 中で、教会キリスト教は、その信仰の教理、教義基礎の確立を目指し得たからである。
 とりわけローマを首座としたキリスト教教会形成の発展、ローマカソリック教会体制の
 成現は、何はともあれ、この限られた時代時期において、神学所産の形成を第一とする
 べく<神の予見成就>のご意図の下、その守護教会たるの役割も成し得たと見られる。
 
 ローマ教会に属する神学者たち、東方の教会所産、その交流や対立所見をも踏まえての
 ものであろうが、聖書を源泉とする<神学教義の体系>を厳正強固なるものとして打ち
 立てゆく。ローマカトリック教会の根幹教義ともなる、その神学の主要内容は、以下の
 もの、体系的にその関連性を確立一貫しての、各々の教義項目であろう。

 ①創造論、②原罪論、③贖罪論、④神の国論、そして、⑤啓示論カテゴリーでの<キリ
 スト論>や<三位一体論>の教義であった。

 これらの項目内容を網羅した神学体系は、近代世界の始まる前までに何はさて置き第一
 にしっかりと成立すべきものと<予見されたもの>であった。近代世界への進展にて、
 それまで長きにわたる背景的世界観、いわゆるアリストテレス、プトレマイオス的天球
 天動説(=地球不動中心説)が崩れ去り、諸大学では諸学部での優位トップなる、誇れ
 る権威の<神学としてのスコラ哲学>が失墜、やがては廃講の浮き身になろうとも。
 (18世紀の中頃までに国によりカトリック、プロテスタント系で異なれど、それぞれ
 一部の系統を除いてほとんどの大学の神学部は廃止に至る。)

 そして、近世末、近代の初にはローマカトリック教会は、外勢、内勢の両状況から大い
 にその体制、外貌的権威が揺れたことになる。が、しかしヨーロッパ近代世界の進展は
 新たなプロテスタント系教会の独立形成、発展の歩みと共に、それまでの神学所産の再
 継承的源泉を踏まえた、新たな神学形成への時代を迎える。
 
 近代から現代に至る<新たなる神学形成>の諸事情を垣間見るに、過去、近代以前の状
 況よりもすこぶる遥かに豊かなものとなり、その神学的思索研鑽では、むしろその刺激
 対象となるものが、今や溢れるばかりに満ちているといった状況となった。
 (科学が自然界事物を研究する目線をどんどん深める時代に倣い、神学研鑽もそういっ
 た傾向の目線で、聖書を源泉とする諸々の教義的内容を掘り起こし、論解、教義化する
 ような時代となる。聖書そのものを対象的に扱う聖書論を含め、義認論、契約論、啓示
 論、はたや予定説定立の再論議なども、、他、種々の論点教義の進展が見られる。)

 ローマカトリックとプロテスタント双方ともに神学研鑽での刷新、再追求に余念のない
 ものとなるが、とりわけ伝統的なもの、枠、しがらみ等にとらわれないプロテスタント
 系の神学研鑽は、様々な概念的角度からの研究が開け、その新鮮味と共に広大な啓発的
 思惟領域からの刺激にも影響され、より遠大で細緻な基底レベルから著纂された体系化
 の神学書を数々産出すると共に、且つ、神学各科の部門を網羅する領域は、より一層多
 様な教義細目を整え、大いに全科的領分を広げ、深めて拡充進展してゆく時代となる。

 イギリス(オックスフォード、ケンブリッジ大の国教会を踏まえた残存系、繁栄する大
 英帝国の隠れた礎)、新たにドイツやオランダ、スイスの学部など、これらのプロテス
 タント神学の発展の流れは、新大陸アメリカへの継承研鑽へと進展、新天地での<フロ
 ンティア精神>の助長を大いに良くし、ハーバード、プリンストン大学など、その学究
 研鑽の成果を残すものとなる。

 (フランス、スペイン、ポルトガルなどはカトリック系であり、学としての神学的隆盛
 は顕著なものとはならなかったが、しかし、イエズス会など諸種の修道会各々の活動、
 布教や学校等の設立、慈善奉仕活動などで目ざましく活躍してゆく。その活動は世界中
 の国々で展開されるものとなる。その後ずっとのちの、19世紀後半時期での神学分野
 の趨勢としては、廃れて忘れ去られたかに見えたスコラ神学〔キリスト教的哲学〕が、
 <新トマス主義>のスコラ学的運動として、その復興への指標となった。これは恐らく
 時勢を憂慮してのローマ教皇レオ13世の回勅発布、奨励に因して興ったと見られる。
 
 この近代化へと向かった時代は、旧社会のひずみ、悪癖が露わになり、人の生存文化の
 バランスが崩れ、小作農民らが土地を離れ、多くの人を収容できる修道院も人の数が減
 衰するばかり、人の動き、流れがあわただしく変動してゆく。諸公国、諸国家のあり方
 も、再形成を繰り返す波乱に満ちた時代ともなる。

 教会は、近代思想や科学主義により人・社会と遊離(教区制の実質を喪失)してゆき、
 やがて近代国家との多面的な疎通をも欠くような状況に至る。かっては、何か共通した
 一つの世界の中で抗争、対立しつつも、同じ価値観を共有するごとくに共立関係が保た
 れていた<教会と王制諸国家等>であったが、今や分離断絶的な歩みへと向かう、、。
 封建的な旧体質社会の是正が必然とされつつも、その崩れと共に近代国家へと変貌して
 行くさ中、<教会と国家>は、それぞれの形体様式として、完全に分離、独立への時代
 を迎える。その例外が無かったとは云い切れず、良かれ悪しかれその例外国の盛栄刺激
 がまた、ただでは済まされぬように諸国間時勢を浮き足たたせたとも、、。

 **その近代国家への趨勢、国民民衆の意識の高まり、政体への参画や自国の国益意識
 の高揚ともなり、海外での利権、植民地獲得などで、各国間のナショナリズム的対抗が
 烈火、軍事力的にも列強する時代となる。そういった傾向が、馬や大砲を引きずっての
 時代とは遥かにかけ離れ、やがて第一次大戦の悪夢だけでは済まなくて、第二次での未
 曾有の戦乱、戦禍を招く結果となる。**)

 歴史的概略回顧はここまでとして、ともかく戦後平和の未曾有の発展は、ピーク的な繁
 栄レベルとなり、人知に尽くしがたいほど輝かしいもの、魅力あるものとなっている。
 しかし、現代文明の世界規模の豊かさは、グッドハビテイションな地球環境を破壊し、
 様々な災いをもたらす要因だとも。その災いの元凶結果が<地球温暖化事情>と目され
 ているようだ。温暖化の回避、阻止は、多面包括的、地上グローバル的に対処すべきを
 心得て努めるとするも、その防御は容易ならざるもの、どこ彼処に破れの現実が頻発す
 る、して来るのが現状にて、危機の度合いが進むばかり、、、、。

 <地球温暖化ならぬ、高温暖化による人類の滅亡>の予想、予知、SFの物語りのような
 危機になるなんて事は、決してあり得ないと見るのが世間一般の常識だろうが、、、
 そう考えて暮らせる、生活できている現今の状況は、並々ならぬ神様のおかげ、めぐみ
 に依るものとすべきか、、、何故ならば今の危機的現代状況を予め読み、予期してそれ
 に対応され給うた神様の精一杯のご慈悲善処がなされているからである。

 これはどうゆう事ですか、現代状況におけるそんな神様のご慈愛なんて、、具体的に言
 わないと判らないし、言って明かしても信じられないと見なすのが落ちかも、、、。
 <地球温暖化>は、過去1,2世紀前より徐々に進行し、前世紀後半中には問題化する
 ほど速まるものとなって来た。この温暖化というのは、もうその進行を阻止しないと、
 加速度的な勢いとなり、元には戻れない、地球事象(気象)システム自体に備わる自動
 補正、復元反復力などが弱まり、働かないものとなる。

 事態は深刻である、、神様の手立ても、期限切れとなるかも、、、神様は、遥かな以前
 より、地球上高山各地に氷河を堆積させ、極地(南北)に氷原大地、氷状地帯を在らし
 め備えるように地球の物理事象を定めて善処されている。このような神様の善処対策も
 有効期限切れとなってしまうかも、、。実は膨大な量で高山の氷河が溶け、極地の氷も
 溶けさることで、何とか地球の気温が調整、維持され、<加速度温暖化>が阻止されて
 いるというのが、その真相であると判断され得る。

 現状が有効期限切れとならない前に、人・生存世界側も真剣に対処、諸対策を遂行すべ
 きとして、すでに事に当たっていると見られるようだが、、、現実は甘くない、地球上
 の各所で<異常気象の災禍>が生じており、異常気象が<温暖化加速制止>の調整をな
 すことで、その代償となっている。ともかくも、これが最低限リミット調整の結果を示
 すものなのかと、危惧、推定されなくもない。

 このような状況に劣らず、もっと深刻なのは、神の存在を見失い、正しい信仰を持てな
 くなった心の欠如であり、無信仰の生存活動の励行を、知的、精神的なレベルでも余す
 処なく発揮進展させ、自由に生活できる文明環境を有り難くも創り出している状況だ。
 無信仰、不信仰(欧米等のようにキリスト教離れ、異教のスピリッチャリズムへの心酔
 傾向)と云っても、アジア東洋に一般的な偶像本尊への崇拝心、アニミズム先祖崇拝、
 伝統的な人魂崇拝に比類した宗教的心情は、残眠潜化もなく、回帰なき状況であるが、。

 いずれにしても、<真の神のみ心、ご意思、ご意図を秘め示す大いなる御心>を知ると
 ころの正しい信仰心に目覚め得る世界環境、教育環境に与り得られないといった状況が
 致命的なものとなっている。地球温暖化、調整代償の異常気象による他、いまや何が起
 こるか判らない災禍発生の事前時に<神様の守り、ご加護無し、神のセイフティー外>
 となり、実際現実、悲惨、無慈悲な結果をさらけ出すものとなる。

 科学の進歩は、その研究の究極においても<神の存在の在る無し、存否>を決する事は
 出来ない。むしろ、存在しないことが事実であるかのような知的証明を間接的に跡付け
 ているかのようである。科学の行き着くところの見地からすれば、古代から中世、近代
 へと至る<神存在に相当する対象への崇拝、信仰の諸様相>は、全て人間の知性、願念
 感情が想出、生み出した<迷妄の産物>であると、(たとえ人社会の在り方、仕組みに
 おける必須要素のものであったにしても)判断、認知されるものとなるからである。

 <科学の知識>と<神に関する知識>とは、異次元的に相容れないもの、対置的なもの
 ともなり、前者は神を理論位置付け出来ない故、神を否定非在する立場に立ち至るが、
 後者は、その壮大なる<神のお心神学>により、<科学の知識発展>を包摂止揚洗練し
 得るものとなる。(双方究極的な根本面で対置を余儀なくしているが、)

 科学の恩恵は、現代における人社会にとって絶賛すべきものと云えるほどだが、その恵
 みを無駄にしない、させないために、もはや<神の壮大なるお心神学>を志向、認知、
 開現するほかない。ここではこのページの結びとして、その内容の片鱗を示すことで、
 大いなる心悟、真解への道しるべとしたい。

 《神の壮大なるお心神学》:
 なぜ、何ゆえ<神のおこころ>なのか、、、それは、人がその知能において<言葉の能
 力>現わし、多様(話、書、読、記憶等の域にて)に言葉の精神本性を培う存在である
 実際そのものに深く且つ不可分に係わっているからである。

 人と人とのコミニケーション、その心、思いを伝える、自らの考えを伝え発表する、そ
 の一番の伝達手段は言葉を他にしてはないと云える。この言葉による伝達手段は、何は
 さておき、人と人とのコミニケース以前に、<神と人との関係ベース>のために(本来
 的に意味するところ)先立ち有るものなのだ。

 神様も<ご自身の無限のお心>を人間に披歴、伝えるために<言葉を共通の手段>とし
 てお用いなさる事、これにまさる最良な手立ては他にない。<神の無限内容のお心は、
 言葉と共にあり、言葉と一つ、一体>なのだと云える。
 
 人間の言葉、知識の文明が進歩し、科学、とりわけ自然科学分野からどれだけ宇宙の存
 在を究め尽くそうとしても、尽くしきれない現状を露わにしている訳だが、そういった
 万物万象を法則的に究め尽くそうとする、視覚的に見えない最深奥の事象までも把握せ
 んとする<自然諸科学専用の目線>から、あえて<神の存在>を対象に探索追究しても
 神の存在事象のひとかけらも出て来ない。むしろ反って<神が存在しない事>を事実で
 あるかのように証明するようなものとなり兼ねない。こんな結果は結局、過去から現代
 に至った現世人の運命的縮図を顕わにするようなもので、人間知能、認識力の行き着く
 終局至高的宿命だとも言いかねない。
 
 神はご自身の存在を自ら知るものであり、そういった人間の知観力の至高的宿命も当然
 予知しておられ、人間に相アイ対する対応のあらゆる意味、ケースにおいても、ご自身の
 ベストな在り方を知るもの、その無限のお心において最善なる関わり方を予めわきまえ
 給う存在で在られるからだ。

 神の無限のお心は、とてつもなく計り知れないけれども、そのお心には構想の数々、ご
 意図、摂理的に遂行すべきシナリオなどが歴史的啓示の諸書(新約、旧約聖書)から、
 それらに示され、且つ秘められる事で、すたることなく末永く、人の様々な知的対応を
 宜しくして、真理の探究への生きがい、悟心喜悦、関心啓発を高め与える仕組み、認識
 的可能余地が豊かなものとして何気なく自然と含秘的に講じられている。

 例えば一つ例に挙げると、神のお心にある諸構想に関わる基底的維持側面の<永遠性>
 について、人側がそれへの対応認知、理解するまでを見込んで、その過程を神が予め考
 慮する事が自然の理の要請責務となるが、そんな神の、その時々の具体的な啓示手法、
 及びそれらが歴史的に<事蹟啓示>となるような案配に跡付け講じられるものとなる。
 そこでは神の存在と切り離すことの出来ない<神の存在の永遠性>との関わりが標榜さ
 れている。神自らの本質特性と目される<存在の永遠性>、神にとっては、人がこれを
 理解し、記述表示し、言葉で表すことが、真に人の人間的成長の目安と目されている。

 本来、古代の人々が、<永遠という言葉の概念>を獲得するのはほぼ不可能に近い状況
 事情のものであった。人の精神的、知的な成長過程を踏まえ、そのプロセスからして、
 それへの可能性有りやがひょっこり見出され得るようなものであった。
 <事蹟啓示>を書きとどめることで成り立っている旧約聖書からは、即座にその啓示手
 法を垣間見ることが出来よう。
 永遠に対する時間という構図が、選び出され、摂導されたイスラエルの民、その歴史の
 歩みを啓示背景とする事で、時間的言葉の事蹟の連綿により永遠を見出すような仕組み
 となって示されている。
 
 モーセ5書の事蹟録は、モーセがその創世記文書の冒頭記述を、暗に<神の永遠性>に
 対して、
 <はじめに、>という言葉をもって綴り添え、始めるものとなる。単に<神の創造
 のミ業手順そのもの>に直結、係る言葉に過ぎないというだけのものではなくて、、、
 これには暗に永遠的なニュアンスが付される結果を得ている。
 (モーセ自身の知的認知感覚において、<永遠性>に関わる哲学的論理を究明し、その
 論理的立場にあるという訳ではさらさらないという事だが、、、、)
 
 つまり<はじめに>の、この言葉< בראשית =Veresies(ヴェレシース)>の一言には、
 <永遠の初めから時間の初め(事物の始め)へと直結網羅するかたちの意味ニュアンス
 が、神のご意図として秘め隠され、モーセを介してその当該文言が綴られている。

  [注]:<בראשית> は、同じスペルで発音違いの、右からの読みつづりで、
     <“  ראשית  ”=レシィ`ス>の先頭に、前置詞  “  ב  ”が、不可分の
     文法ルール方式で接頭辞スペルの如く結合して成る単語である。

     (ヘブル語には、<  “  ב  ” =in , at , on 等の意味、>の他に、
     “  ל ”  =to, for, towards  等々、と
      “  כ ”  = as, like, so, after 等々、の接頭辞風に不可分
     (Inseparable Prepo.,)に結合する前置詞が三つあり、文法研究により、
     その詳細な発音変化用法などが知られている。)     

 この<はじめに、>の表現のうちに<天と地の創造>が概括された意味合いで明示さ
 れており、この意図するところの神の永遠の意義は、まさに現代科学により、究めつけ
 られた宇宙始原に係わる<現代宇宙論モデル等々>にまで、極超遠な時を経てさえも関
 連、相比を得るもの、それ以上の含蓄を容可したものとして、その言明が定立している
 という事である。

 モーセの創造記事に関わる<永遠の初めから時間の初め(事物の始め)>以後に続く過
 程に当てはまる文節範囲は、3節までを主要となすも、~4,5節の事象状況にまで及
 ぶものと見られる。
 イスラエルの民など古代人が容易に理解、受けとめられるように、<朝と夕>の事象パ
 ターンでもって仕切られ記述されているが、まさに直感的にまる一日一日の期間を示す
 如く、<夕となり、朝となり>の文句が重用され、それに付随して<第一日、第二日と
 順に第七日>の文句が当用されている。

 古代の民らの知的レベルにあって、まったく理解されやすく、日々の生活上同一視でき
 るパターンに即しての、まさに極超的に圧縮された要旨内容の文言構成での<創造記事>
 となっている訳だが、、内包網羅的にはすこぶる豊かな創造事象が秘められている。

 例えば、3節での “ 光、あれ、”により、その光の明るさがあって、やっと、ある長
 い長い、どれほど長期間か知れないほどに、闇に被われた空しい、かたちの整っていな
 い地表(いわば原初状態の地球)の状況から、その闇を脱して<夕となり>といった時
 間的な過程を示唆表述するパターン(5節後文)へと、初めて立ち至るものとなる。

 この状況では、未だ太陽は光ってなくて、夜の月も照らされなく、その存否は未だ不明
 言及の状態となっているといった、古代人感覚の創世記述状況を示すものとなる。

 現代科学、現代物理学では<光>を必須的に取り扱う。研究対象にする折りには、その
 現象実体を諸原子、素粒子レベルで捉え、原子核反応や、プラズマ状態を提言する場合
 など、その究極解明理解において必要不可欠な概念的素子ともなろう。
 (かってニュートンも光を論じ、再び19世紀後半以降20世紀には、光が波動か、粒子か
 の問いと共に、新たな量子論的物理の認識展開へと向かう。)
 
 また、2節の文言で、“地表の大部分に漂う大いなる水のある地上を闇が被った状況”の
 時があるが、そんな<地球状況>よりも遥か以前の宇宙原初では、闇と光が相反復する
 ような物理事象の現象事情であったと見られる。(ビッグバーン説の一つの始原モデル
 から想定されるものであるが、、。)

 (創世記事冒頭1節での文言は、<大いなる水>の後続事象展開を介しなすものとして、
 8節の文言内容にまで及ぶものとなっており、2節の文言は、明るい様子は不明瞭なまま、
 光も何も定かでない闇かすみ漂う前段階、まさに出来上がって間もない地球原初状態を
 明示する。)

 現代の<ビッグバーン宇宙論>は宇宙物理学的にきわめて理路整然と説明描写した一つ
 の<宇宙誕生進化モデル>として、その出来上がりを大成した仮説ともとなっている。
 しかし、宇宙始原、原初は、光の無い闇から始まったものか、光から始まったものか、
 まったく定かにはならない。素粒子レベル、或いはそれ以下の最小単位の物質が、初闇
 の状況下で創出されうるもの、創出されたものか、どうかも知られない。この初闇状態
 の無限に空虚な宇宙での温度は、現代の熱力学温度ケルビン・ディグリーの絶対温度ゼ
 ロ度(マイナス摂氏273.15度)等をさらに下回るような、底知れないものであったかも
 知れない。

 現在、ダークマターやダークエネルギーの宇宙での存在が確実なものとして想定され、
 その存在比率の数値まで観測的に計上されている。が、未だ直接、直にそれ自体の観測
 実証データが挙げられず、宇宙物理の数理論からの要請仮説の域に留まっているものと
 も云える。だがこれらは、元々原初時以前から原初時に向け、ケルビン絶対温度ゼロ付
 近などから出所してきているものかも知れない。

 さらに先述した創世記2節の文で言及した、原初的な地球のある時期での<地表に漂う
 大いなる水>の存在、この水は、さらなる地球、地表造成の展開のため、必要不可欠な
 条件のものであったと見られる訳で、現在の地球での膨大過ぎる量の水に相通じるもの
 以上であったとも見なし得るが、このような現地球規模の莫大な水が、よくぞそこまで
 造成産積されるものかと、不可思議に思えてならないであろう。現代科学はこの点、あ
 まりにも平易に、何ら事象的な問題もなく進展する過程でのものとして、その存在の成
 れるやをあれこれと推論説明するものとなっている。太陽系の全規模形成に関わる、そ
 の原始恒星&惑星系分子雲円盤の過程から原初期地球形成時での<マグマオーシャン事
 象時期>において、水生成のプロセスも同時的に進行していたとの仮定もいまや科学的
 な研究見地から可能なものとしている。
 
 (実際には科学を遥かに超えた事象現実であり、科学認識はその存在論証を不可能とし
 ているものだとも云える。ビッグバンなど宇宙論的な原生ベースの進展過程からもその
 理論的位置付けがされない欠如見識にて、化学式で簡単に<H₂O>と分子表示され、何
 か当たり前すぎるほど付随的に、後々の原初地球誕生時以降の自然の諸事象に因り存在
 するに至るとの考えや、先入観があるからなのであろうか、、)

 そんな水物質に関わる云わば<宇宙での水分子の存在>、その原初時での存在状況は、
 如何なる事象のものであったろうか。ここでは余分な脇道言及にもなってしまうが、、
 <水の三様態>は、物質の三態形式(固体、液体、気体、現代ではプラズマも含め、四態と
 も)の内でも、最も日常身近で代表、典型的なもの、物理化学面でも基本的基準のもの
 である。

 宇宙における<水の造成>、そこでは<水蒸気>に変移する前段階的な物理事象を想定
 考慮しなければならない。水素原子(₁H)へのレベルから単体から成る水素分子(H₂)、
 そして、構成対象となる酸素原子(O)の存在、それら二元素結合から成る水分子H₂Oは、
 <水を科学する>の歴史、現代的状況への驚異的な発展、化学の進歩の御かげで、容易
 にその構造式(酸素が水素のそれぞれの電子を取り込み、<共有結合>して、そのある
 べき法則状態を確立、成り立たすという事)が知られ得る。
 (さらにその個々の水分子H2Oが<分子間水素結合>において、各単位的なクラスター
 ユニットを成り連ねる事で、それらのユニットが無数的に連関結合して一粒の液状の水
 や、氷結晶をも現成し得るとするものである。)

 <水を科学する>の進歩は驚異的で、水そのものの知識だけでなく、現今にあっては、
 水に関わる利用知識は、化学物理からの応用技術を伴うものとして、とても計り知れな
 い豊かさがある。(現代文明の限りない有り難さは、この水無くしてはあり得ない。)

 けだし<水に関する宇宙的次元での出所起源>に関しては、科学的な推定仮説、理論的
 な仮説があれど、地球次元への水存在に直結、一貫するような確定的な真説を得る事は
 出来ないようである。天文観測の望遠鏡でリアルタイムに水の造成を観測できない限り、
 永久に立証検分できるようなものでないからである。

 原子、分子次元で、水素と酸素というたった2種の元素のみで成り立つベースの水とい
 う物質であるというのに、その存在は未解決である。古代ギリシャ哲学の祖とも称され
 るターレスの洞察言<万物のアルケー(始原)は、水である>、なんとも、この言葉、
 現代の知識次元へと転化分析してみれば、半ば大当たりではありますまいか、、、。

 化学次元で水素原子は、多様な元素類の始原元素として、不動の位置にあり、且つ他原
 子との結合も条件次第で多様なものとなる。(軽水素Hから同位体の重水素D、三重水
 素T、単体分子H₂、及びそれらのイオン化存在において、、)
 酸素も基本中の基本となる元素であり、単体原子Oとしても、単原子分子O₂としても
 不可欠にその存在の指標位置を占めているものだ。

 地球地表面の3分の2を占める海水に関わる水分子H2O、地表大気の対流圏で、主に天然
 存在する酸素分子O2、(約10㎞以上から50㎞の高い成層圏内では、別分子のオゾンO3が
 諸存在との比の90%程をなし、濃度の高い所 20-25㎞ 域がオゾン層となるが、)そして、
 今では既に地表大気中には存在しない(0.55 ppm ほどの構成比)と云える水素分子H2、
 これら三分子の関係から捉え見ると、、、
 
 O2 や H2 といった単体分子をなす2原子は、それぞれに化学結合して独立的な存在レベ
 ルの分子類(他にも2原子分子が幾種もあるが)となるが、この存在分子レベル、その
 ままで他の異原子、異分子などと直に結合して有機化合物を作るものとはならない。
 (極めて例外的に、O2、H2 分子自体が人工的にイオン化され、触媒、溶媒反応処理等
 される場合を除いて。)

 2原子(分子)は、本来的に極めてプライマリーな結合法則を実果するもの故、水分子
 <H2O>の化学式での<H2>は、水素分子の H2 を表わすものでない。(その構造式で
 もって小中学生でも、これは既知の事柄となろう。単体水素分子H₂それ自体と酸素原
 子Oとが直に結合したものでないことを、、、)

 地球惑星が抱える膨大な海の水、これはもちろん<水分子H2O>だけによる純粋な水で
 はなく、それに対しての様々な不純物となる元素物質を混和、電解質的に混入溶液化さ
 せている。

 約96.5%が水分子H2O、極微量に重水素Dでの HDO がみられるが、残りの 3~3.5%程
 は、既知の如く塩分組成で、その主要は塩素イオン⁻1.935%、ナトリウムイオン⁺1.076%から
 なり、他マグネシウム、硫酸、カルシウム、カリウム、炭酸水素など、9種類の―、+イオンが知られており、
 他に非常に微量な元素、ほぼ天然の全ての元素92種(ネプチウム、プルトニウムを除いて)
 が含まれての、現海水の成分組成となしている。(放射性元素のストロンチウム、ウラン
 の含有に関しては、前者の盛んな工業利用、採掘、核実験、後者も核実験や原子炉利用
 による人工的な流入であり、天然本来から出入したものでないと見られる。)

 このような海水の成分組成は、むしろ水分子H2Oだけで構成される単なる純粋な水とい
 う成質のものよりも、生物生存の為には遥かに理想的適合性を豊かにするものとなる。
 地球規模との多様な可能性と合わせ、これ以上ないほど至れり尽くせりのハビタブルな
 ものに整然整調せられたものであり、特に人類とその持続的文明活動にとっては、あら
 ゆる面で充実的に益し得る可能性を有した理想的な海洋水であると云えるものだ。

 実の処、地球惑星の抱える膨大な海の水、その生成起原について科学的に確証された定
 説、正論は今だ以って成立していない。前述したように科学的な推論や演繹理論的仮説
 等、幾多の説論が見られるわけだが、、、そんな中、地球形成の時期と共に水の生成も
 現実のものとなったと観る点に関しては、ほぼ共通し妥当な見識であろうと思われる。

 水の生成をも含め、それを無視できない原初の地球形成期の過程として、最も妥当だと
 あえて推論され得る説としては、<原初期には膨大なマグマオーシャンへの時期>があ
 り、そのプロセスへの前提として無量の原初大気ガスの発生があり、後にはそれへの宇
 宙線等、化学的作用も加わり、大気温度も下がり浄化的な循環もたらされる。やがては
 太古の水集積の生成実現へと至ったと、簡略的に説明されうる仮説推論の提唱もある。

 (注:原初地球の形成には、月の存在形成にも深く関わっているとの見識がある。月の
 存在起原説も、19世紀末以降、色々な説論(分裂説、兄弟説、捕獲説)が出されており、
 かの1960―70年代のアポロ計画で<月の石の採取>及びその後の研究以来、巨大衝突説
 =〔ジャイアントインパクト説〕が最も有力な月起源説となっている。そのインパクト説が地球形
 成のマグマオーシャン期での終わり頃に起きたと推定する事で、科学的研究からの修正
 推定により色々な矛盾、欠点をほぼクリア出来るとした最有力な形成理論として、現在
 では一般的に広く支持されている月起源論である。)

 地球形成には、その岩石惑星という形質、特に地殻の形成と<水の形成>という両側面
 の実現化に向かう前的進展過程がほぼ同時期的な事象として想定されるものとなる。
 <原初地球形成マグマオーシャン説>は、その二つの面をカバーし得るような可能性を
 有するとした見識に最もマッチすると思われる。

 現在でもアイスランドで大規模に噴出し、川のように流れるドロドロのマグマ、そんな
 マグマが原初地球規模の球体全体を覆うような状態になり、その<マグマオーシャン形
 成>は、さらに球体規模を拡大する進展過程を辿るものとなる。そこでは想像を絶する
 ような光景事象が起こっていたと推定されうる。
 
 原始太陽系星雲が形成される過程では、おそらく銀河系(天の川)での星集団の形成途
 上での全体的な回転運動の方向性の力動の影響下にありながらも、(その位置は、中心
 から凡そ2万光年ほどか、現在は2万6千光年ほどだが)局所的にその一体的な強さから
 一歩はみ出した、特別な主系列恒星系を形成せんとする<巨大な分子星雲>、その大き
 さは、数光年から数十光年ほどの広さ規模を有したものであったと見られる。

 そこから原始太陽が出現すると共に微惑星体や、様々な形質の塊小体が形成されゆくと
 して、そうした原始惑星系円盤の形成出現模様を想定し得ると見たものの、その事象の
 全体形勢が如何なるふうであったかは定かに見極めることは出来ない。巨大な領域での
 分子星雲の成分構成や、成分密度といった分布状況が形成事象の鍵ともなろうが、、。

 そういった宇宙の局所的形成過程で、地球型規模の水の存在は、あたかも解明されたか
 の如く軽く見過ごされがちだが、実の処、今なお未解決、不可解なものとなっている。

 地球規模の膨大な海洋水が存在し得たこと、まさに驚きのミステリーと云うほかない。
 プロト地球=原初マグマオーシャン球体への進展の現存化と、その成長継続のプロセス
 では、くり返しくり返し大変な規模の水の供給(氷、水分子を容した微惑星の衝突等)
 があったとの推察、現代の最先端科学での観測検証実験で推定理論付けされている。

 (地球の中心核・コアに含まれている軽元素が何であるかを知るため、超高圧高温実験
 が試みられている。その結果、水素がコアにおける主要な軽元素であるとの測定が得ら
 れたとしている。この場合のコア水素の全容量が何と現在の海洋水の30~70倍の水
 の量に相当〔水分子を形成しているH₂部分に当たる分量〕する水素が存在するとした
 計算、検証結果となり、結局つまる処、原初地球形成時にはかくも驚嘆すべき水の量が
 もたらされていたとも推定されるものとなるが、その前提としていわゆる大小の微惑星
 の衝突が想像を絶するほど何べんとなくくり返されるという状況となり、万有引力とか
 重力の法則が知られている現在的な状況からの目線で考えると、そのような法則外での
 何かランダムで重複重合した複雑な複合的力関係による力学的現象としてしか起こり得
 ないと見るべきであろうか。、、、

 ただしその実験結果の水素の配分比例:マグマオーシャン(マントル)側と外核コア側等
 との係数値、その値をそのまま地球規模という対象にあてがい計算して妥当、しかるべ
 きか、どうか、なお多々、疑問の余地があると思われる。
 この実験研究の成果発表は2021年5月11日付け公開、東工大、東大、北大の研究グルー
 プらのもので、高度な科学技術実験とその分析検証・シミュレーションによるもの。)

 結局、地球における超膨大な水・海洋水の始源存在のプロセスは、宇宙科学、専門物理
 科学など、如何なる学究的試みをもってしても、その全プロセスの全容を詳細に解明す
 ることは不可能であるという結論に至るほかない。
 けだし確実に云える見識内容だけは、<原初期地球の形成過程で、水が不可欠なものと
 してその形成に関わり、もたらされて在ったという観点>に絞りほぼ確定され得たとす
 る研究推測のようである。

 太陽系の形成は、超巨大な分子雲からの進化発展というのが現在科学から広く支持され
 た一般的通説である。
 分子雲質量の大半(分子雲の収縮した質量の大部分)が集まって<原始星(太陽のタマ
 ゴ)>を形成、その原始星ができてくる頃合いにはその重力引力関係により分子雲質量
 の残りが扁平な<原始惑星系円盤>を形成、その円盤雲領域内外から惑星、衛星、小惑
 星、その他の小天体群等が出来てきたというプロセス、その<太陽系形成モデル>が標
 準的な知見として成り立っている。だが、しかし、
 この標準的で平易に推測できる形成事象のプロセスからでは、膨大な海洋水を有した地
 球のような惑星は出来上がってこないのではないかとも推定され得る。

 一般的な巨大な分子雲をベースとする見方以外の、ほかにもっと活動的で後々膨大な水
 を産生させ得るような巨大な何らかの天体事象を起点としながら発展形成してきたとす
 る見方ならばより一層可能かも知れない、、、現太陽が恒星の種類分けとして最も新し
 い【種族Ⅰ=PopI】に属するものとの定見が、従来の巨大分子雲説に符合一致したもの
 となっているが、。

 結局、宇宙における水の起源、言及に関しては、今や驚嘆すべき高度な観測技術、実験
 レベルから色々な説論、知見への考究過程となり、現代的な考究視野もますます広汎な
 ものとなる。例えば、宇宙始原過程の初期を念頭に、及び諸銀河、諸恒星の状況から、
 星間分子雲のレベルから、また、身近な太陽系原初惑星円盤から、その地球形成期に絞
 り込まれた時間空間レベルでの視点から、等々、対象とするその捉え方には高度で多様
 な観測手法が試みられ関連総体的な見地において導き出される諸論説所見となる。そこ
 で利用されうる諸理論、背景的科学情報の知識資料には過不足はなく、むしろデータは
 豊富なまでに裁量され得る過程にある。
 以下、参考までに現状からの研究例をWebネットからの情報として挙げておく、、。  

*2011年7月末には、初期宇宙における水の探査を目論んだ研究チームが120億光年のかな
 たの大質量クエーサー(ブラックホールの特殊な一種天体)を取り囲む<ガス・塵雲>
 で超大量の水分子(水蒸気)を発見している。その量は、地球海水の140兆倍にも及
 ぶとのデータ算出にて公表されている。クエーサーが超大規模な分子雲を周りに形成し
 ているからだ。
 (このクエーサーは、太陽の200億倍の質量があるとされ、APM08279+5255の星表名
 の天体で、その周囲を取り囲む水蒸気を含むガス・塵雲の差し渡しは数百光年にも及ぶ
 と見られている。

 したがって、天の川銀河の水分子・水蒸気の質量に比べると4000倍ともなり、天の
 川銀河では、そのクエーサーに対して4000分の1ほどの水蒸気の質量しか観測算定
 されていないという訳だが、これは、大部分の水分子が<気相・水蒸気>ではなくて、
 凍って固相及び、その塵物質への氷着的<氷状態>になっており、超広範囲に亘っては
 確かな観測検知データが挙げられないためである。)

 水蒸気を含むガス等を取り込むこのクエーサータイプの天体は、水蒸気の存在により、
 取り囲む周域のガス・塵雲が通常よりも高温、高密度の状況結果を示すとされる。

 (通常標準の宇宙的基準では星間分子雲がケルビン10度Kから20度K=摂氏-260℃
 ~-250℃代、、 その他天体雲も-200℃~-100℃前後とかなり低温である。
 因みに地球での高度10数km前後=対流圏界面辺り、-53℃ほどの大気レベルにあ
 えて比定すると、そのレベルでのクエーサーガス雲では極めて希薄な状況となる見られ
 るが、天の川銀河のような典型的銀河との比較では、温度は5倍ほど高く、密度は10
 倍から100倍の相対幅で高いと算定されている。

*また別の分子雲の観測結果の例として、へびつかい座ρロー星の近くの分子雲がマイナス
 250℃の極低温の水素分子のガス塊で、その中で過酸化水素=H₂O₂の存在が発見さ
 れ、宇宙空間での水への変化、外的作用条件により<水を作る素>とも想定されている。
 2011年7月ヨーロッパ研究G'P公表。)

*2001年4月以降、ヨーロッパ宇宙機関研究チーム観測結果により、冷たい星間分子雲(平均
 温度マイナス263℃)も、温かい分子雲と同様に、水素分子、酸素分子に相対的に比例した
 量としてその水分子が多少、豊富に存在していることが知られる現在状況となった。

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 数世紀にわたる科学探求、ヨーロッパ、のちにアメリカも主流となってグローバルな科
 学研究となり、その副産物として科学技術により文明からの多大な恩恵、豊かさをも所
 与されるものとなったが、その原点的支柱の学としての自然科学の現代的展開も、いよ
 いよ宇宙世界の究明理解を一途に目論むという研究の哲学的極みに至っている。

 だが、現代宇宙科学での研究成果から捉え、理論説明し得るとした<宇宙論>の全体的
 および個々関連的な部分を包含した体系的な一大説論がいまや間違った見識のものでは
 決してあり得ないと断言できると云えるであろうか、、。少なくとも矛盾した面や不可
 解で自然事象的に在り得ないような面が見え隠れしている。

 19世紀末頃から20世紀代に亘っての科学全科及び宇宙科学の一大成果の代表指標と
 もなっている<ビッグバン宇宙論>が高度な理論付けや、実験、観測データによる裏付
 け傍証を得ており、それらによりすっかり標準モデルとして正当化されたものとなって
 いるが、、人間の自然への探求の知的試みは、古代から現代まで延々と続いてきたもの
 で、そこには幾多の思考の変遷、飛躍的な進歩もあるといった系譜をたどっている。

 現代的に疑問の余地が大いに増すばかり、宇宙論的に不可解な事柄、理解不能な事象、
 未解決課題も多々ありで、<宇宙の始まり>をビッグバン・インフレーション理論に帰
 すること事態に疑問を感じないではいられない状況だ。それは、過去からの時代の流れ
 として、近代以降の科学の主要全般的な一方向性の高度な発展による宇宙論的な追求の
 一所産であるに過ぎないとも見られ得る。

 (いわゆる古代ギリシャのアリストテレス天球宇宙論➡クラウディオス・プトレミ-の天文学、
 それのさらなる発展系での中世、近世末までの流れの宇宙論が、近代以降にコペルニク
 ス的に一転する逆転思考ともなったとした状況に類比する如くに、、。16世紀末まで
 コペルニクス体系の中核理論に対立したかたちで、旧来系最後の天文学者ティコ・ブラ
 ーエが時勢の流れを踏まえ独自の宇宙天体系理論を構築し、正確な観測による成果を挙
 げ、星表作りにも貢献、当世の天文事情、研究を大いに刺激、影響を与えたが、、。)

 近代以降の主要な全般的趨勢から大いに注目された自然科学の一方向性は、ニュートン
 の天体物理、力学の体系理論によりほぼ確定的にその発展の基盤底流的な志向性を将来
 に向けて自ずと定めるものとなる。
 科学史の目線からは<ニュートン系古典力学から20世紀への量子力学>といった流れと
 して、大いに論述されるものとなるが、結局は物理と化学の両分野での多様な実験や、
 諸法則の発見、定理公式、定数の導出などの成果が19世紀後半以降、20、21世紀
 における元素、原子、電子などの究極的な研究把握に繋がり、大規模な数々の研究実験
 の実証データからそれを確固たる裏付け前提となして、宇宙論的自然科学の最たる<研
 究目標の究極的把握>へと自ずと向かってゆく試みとなる。

 要するにその研究指標のプロセスから生まれる宇宙論知見は、個々の超高度な実験や観
 測の確たる認識、実証把握ともなるもので裏打ちされるとするも、一方向性からの最大
 限の推論・ドクサ認識でしかない事をまぬがれ得ない。

 結論的に云えば、科学全般を規定する一方向性を意味するものではなく、主要な発展の
 原動力となり、主流となった自然科学部門での一貫性のカテゴリーとして、コペルニク
 スからニュートンへの科学知見の進展を契機とすることで、その学究路線の過去(古代
 ギリシャ)と未来(現代)に繫がる研究の目線志向を<一方向性>として捉え定義する
 という向きのものである。つまり古代ギリシャの自然哲学、その原初なタレスの知見か
 ら現代的な超高度な学究認識の知見に至るその全般を捉えての<一方向性>を示唆する
 ものである。

 その<一方向性>の流れが極めて顕著に表面化するのは、いまだ古代の元素観が根強く
 残っていたが、それを脱して新たな近代元素論への向かうさなか、18世紀末19世紀代で
 の化学分野での<近代原子論の成立>という潜在的な前提過程を踏まえての後の、20世
 紀への発展過程においてである。そこでのあらたな物理的新発見、新究明による原子観、
 原子組成そのものの広汎な実験的究明の試み、原子の構造から物質の最小単位と見なす
 <標準素粒子理論>の確立やその発展予見の成果過程において、その諸理論内容、諸知
 見が宇宙物理学、宇宙論成立への主要な構築適用要素となり、その一方向性を色濃く定
 めている。

 <素粒子理論>など、それを踏まえての水素をはじめとする諸原子の熱核融合、核分裂
 反応等の理論事象が、まさに一方的に宇宙始原論(ビッグバン)や、宇宙の形成進化の
 考え構想の基底、基本ともなり、その方向付けを成さしめているというものである。 
参考:“科学メモ” 

 (はるか古の諸々神話(エジプト、バビロニア、ギリシャなど)さえも、自然を理解、
 解釈せんと生活社会の知恵や心の安徳のためを含めた知的な試みの結果であり、自然探
 求へのある種のアプローチの片鱗を示すものとも云えるが、科学目線の思考性(科学性)
 を欠いた知的精神性の試みと見れば論外域とすべきであろう。)

  ガリレオによる1600年初頭の近代天文観測(最初の望遠鏡観測と、その観察記述=
 「星界からの報告」)のはじまりから4百年にわたる天文学系自然科学史の長き歩み、
 アインシュタインによる1910年代における宇宙物理学への理論的端緒、糸口の役割
 と成り、その学の進展と共に密接に関連付けられるものとなる量子論と原子物理学への
 発展がある。
 アインシュタインは、<時空という概念>でもって、4次元座標系(先の1905年の
 特殊相対性理論において、数学者・数物理のミンコフスキーが4次元座標空間での同系
 別座標への転換を可能とする公式を見事に打ち立てる、その前提を踏まえて、さらなる
 一般化へと)を現実宇宙に反照適応するとしたかたちで提起、重力、質量、運動諸エネ
 ルギーを物理要素とし、その時空にあてるリーマン幾何学の曲率に数学的に考応した
 <時空間での力学的幾何描象=相対相互同時規制関係>を示すテンソル微分形式を可能
 内包した<重力場方程式>打ち立てる。

 それが画期的な宇宙天体事物への適用を是とされ、近似方程式理論として支持されて、
 数々の応用解示的な研究進展を見せるものなる。この状況により物理学的時勢の流れは、
 一気にアインシュタイン色の影響下のもとに多様に進展し、まさのすべての研究者らは、
 その時流な研究世界に乗るほかなかった。また、その理論継承の見識世界のさらなる形
 成者となるほかなかったと見られる。
 そういった意味でアインシュタインは、近・現代の物理における<超ドクサ理論の父>
 とも云える存在だと言っても過言ではないだろう。
 
 (なぜ超ドクサ理論なのか、、それは、理論の前提心底で、<太陽系での太陽と地球
 の二者間での静止と等速公転の運動関係、及び双方ともに同次元的な場(今日的に
 は太陽系自体が運動しているとの認知。古典力学の旧来観では“絶対空間”の宇宙
 となるが、)の空間座標系を想定できるとする思惑を秘めて>自らの理論を構築、例え
 ば、相対性原理への初期考察の思考実験例、その代表的な論、<直線軌道堤と、そ
 のレール上及び速度ⅴで走る列車に関わる諸例証の解説>からの特殊相対性理論
 成立への創考など。だが、その相対理論では、超飛躍的な理論ドクサ表示するものと
 なる。つまり、エーテル説を支持してのローレンツがエーテルのゆえに<ローレンツ収縮>
 が生じるとした仮説に対して、<光速度不変の原理>を必定の基本ベースにして、慣
 性座標の静止系Kと等速並進運動系kから相対性原理の計算理論を確立し、空間と
 時間における物理法則を把握、記述できるとしている。)

 このようなアインシュタイン的時勢の流れを見ることで、自然科学の一方向性(注目度
 の高い主要な研究分野において)は、20世紀中葉、後半以降には、自ずと明確厳然と
 した考え方となるかたちで、精神的というか、思想的というか、その特徴をあらわにす
 るものとなってくる。 それはまさに、近代のニュートンの科学精神の根底的立場(絶対
 空間、絶対時間、光の無限大速度)に対極するような世界、宇宙認識のものとなる。

 近代天文学、その観測(望遠鏡によるガリレオの貢献)の始まりから4百年余が経つとは
 言え、現代では驚異的な科学技術、知識の集積により高度な天文観測、研究究明がなさ
 れる時代となった。これもひとえに<神の存在を持ち込まない>無神論、唯物論的思考一
 途の立場がなし得る特徴のお陰であり、非常に意義深く有意義なものである。その歴史的
 活動の価値は計り知れないものとも云えよう。

 自然科学の主要な流れ(=近代天文学➡<観測可能な宇宙視野の拡大追求>を試みる
 現代天文学を踏まえた現代宇宙論物理学の解析見地等々)は、単なる一科学史と見なす
 ような流れではなくて、まさに世界史的流れの中で何か壮大な時間的スパーンの摂理的な
 プロセスを踏みしめ行くと云った状況を垣間見るものともなろう。

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 古代から近世末までの地上からの豊かな裸眼観測による天文宇宙論も、次の近代以降へ
 の発展の基礎知見的な必須の踏台ともなり、新たなフェイズプロセスを招来させたる画期的
 な節目のものともなり得た訳だが、、、、

 近代から現代への弛まざる研究、研鑽の努力を以ってしても未だ雲外蒼天の境地たる完遂
 の宇宙論に至っていないのは、無理からざる状況、諸事情が先天必然の研究制約としてあ
 るからだ。この点に関しては、古代も、現代も、驚嘆、驚異的に研究進歩しているが変わりの
 ないことだ。(太陽観測衛星及び探査機、木星への周回探査機、驚くべき技術であるが、)
 我々の依存したる太陽系全体を遥か彼方からリアルに捉えた観測画像としてその容姿を知
 見することすら出来ないという、この点を考えただけでも、その洞察理解は充分さに欠け、単
 にモデル・シミュレーション想考の遡及ドクサともなろう。 だが、、

 いまや通説の始源宇宙論の体系進化的理解も、その現代的最新掌握の試みにおいて何か
 究極的な最終課題として乗り越えるべき難解な二、三の壁に突き当っているとの現状を垣間
 見るようなk状況であるが、、、。

 これまでの論述内容の締めくくり、及び総論的見地として、且つ、最重要な聖書情報に係わる
 問いの、啓示解明的に深い意味内容の証論を記述しておきたい。

 最終的、且つ確定的な宇宙論の到来を指標しても良いとすれば、<その真理の道の中で
 いまや驚くほど豊富な知識、知見の数々をその流れから汲み上げ、まさに未曽有の高き処に
 上げたるヘッド(知能叡智)>ともなろう。

 今の時代、<神様による創造>を信じる人々は、キリスト教徒、ユダヤ教徒、またイスラム教
 徒ぐらいであり、その他すべての一般人は、神の存在すら認められん知的風土の無神論者風
 となり、はなはだしく宗教的無関心の人生人格ともなってしまう趨勢である。
 これはやはり、高度な科学知識による<生命進化論体系や地球の歴史、宇宙誕生論等>と
 いった知識の教育知見に風靡された結果であろうと見られる。

 ここでは各時代すべての古代人に、その知的レベルにもっとも適合し理解し得うる文書情報と
 しての<旧約聖書・創世記の創造記事>、これは、古代以降、中世 ➡ 近世・近代に至るまで
 も受け入れられ、支持された主要な内容であった。実際に自然物理学者のニュートンでさえ、
 自らの自論的創造観を有し、かの<絶対空間や絶対時間>は、そもそも本来的に彼の創造
 神学からのアプリオリーな基底概念として秘めていたものであった。これを彼は、力学体系の
 大著 『プリンキピア』 で定義付けるものとなる。

 このように近代にまで有力に支持された<創造記事内容>に対して、現代的に高度な知的レ
 ベルで以って、それに対比させるとしたかたちで<神様による創造>に関わる 《新創造論》
 の あり方をここで記述せんとする向きのものともなる。
   
 先に(論述全体内容から分析的に捉えた論見要旨を無分列メモとして)示しておく:
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 ①聖書記述内に見られる科学事象的に捉えられ得る主要な三タイプの例、
 ②三位一体の古代から近世に至る教理体系の成立とその時代期間にわたる伝統継承的
  な意義、対する現代科学の総結集的総力における学識的宇宙論体系の存立的な意義、

 ③<命とロゴス>と神の存在、臨在(神の永遠存在なくしては<有限なる宇宙一切の
 存在>はあり得ない事)、永遠無限、無限の知恵と知識、命の宇宙体系システムへの
 創造実現(銀河系内的存在のミクロな太陽系宇宙)に至るまでの長い過程の存在意義。

 ④新たな神学宇宙論:現宇宙論科学知識を踏まえて考究したる<新宇宙創成論の試み>

 以上の四項目の大要論旨を記述することは、<神の無限、無量的な啓示内容>をまさに
 発掘、発見するが如きな知的体験、すなわち即、天からの啓示のお示し智しの顕現発揚
 の摩訶不思議な心的真相となろうとも。そこではまた天的歓喜が溢れる程にもなろうとも。

 上記した4つ本旨的記述内容の前提とした向きで示唆すべき核心的に真なる事は、古代
 ギリシャの自然哲学、科学的思惟をはるかに超越、優りて比見されうる<言葉表示>が、
 聖書文書に散見するという事である。 その例を二つほど挙げておこう。

 ・<ヨハネ福音書冒頭の“ロゴス”説示>、これは、宇宙全体、その諸々の事象、法則が
 ロゴスを本源として具現しているという事である。具体的に言えば具現している宇宙一切
 は、<無限の知恵知識のロゴス>を反映したもの、また永遠にしている、という事である。

 このロゴス言節は、ヨハネの心解からの霊言啓示ともなるが、そのロゴスそのものの中核
 となるものは“命の本源と永現への栄光、そしてそれへの贖い真理開呈”である。このロゴ
 ス中核に関わる神の本筋過程は人類史での最重要一隅ともなるイスラエル民族史そのも
 の摂導、掌中プロセスでの神の啓示史と御子なるキリストの現成成就である。この事象は
 神の新しき霊への新発端(動機)からのものであり、御子なるキリスト存在成就において、
 人の真理に関わる知解次元での真理世界相の育成に対応するかたちで、包括網羅的に
 全知識一切を内包、内実化してゆく、或いはその可能域にあるものとなる。

 これが父なる神としての、神の人への新しき霊の授受定立の実現ともなり、しかも、子なる
 キリストにおける命の御霊と一体化しての命の生命原理の、人への人自成、或いは人への
 永遠の実成化を実現するもの、また、それを本願予言しているとも見られるものである。

 (使徒パウロによって解き明かされた<贖い原理>から即<新しき命の原理>へと真に
 神の御心にかなう発展、成長をすべきところ、それどころではなく護教、異端論駁 &神学
 論争、聖典問題、教理信条設案、 神学教理の体制化、教会権威のドグマ化&組織の体
 制化、西方、東方教会の分裂及び主導権争紛、聖俗間での任権、権限係争、その他諸々
 の争論、紛因の起らざるところ無く、まさに気忙しい状況のままに、いつしか近代を迎える
 時代へと進展、かの本目すべき本来性への成長発展への過程は見失われ、その成果に
 至り得ないまま、キリスト教及び教会の改正・宗教改革の争乱時期へと、、、全史に亘って
 教会を<神の国>の指標と目し、その布教的発展も絶えざるものだったけれども、、、
 こんなふうにヨーロッパ・キリスト教世界史を問題、不祥事多きと一概的に捉えるとしても、
 その歴史事情は語るに尽きざるところの無いものとなる。
  “初めであり、終わりである”という神ご自身のご表示真情、まさに終わりは、初めのはじま
 り、初めは、終わりの始まりといった感である。 次のもう一例へ、、、)
  
 ・次のもう一例は、ヨハネ黙示録文書第1章の文言中にあるものだ。因みに第1章は、黙示
 文書全体の起こり、成立への記述展開の導引原動力を示唆する内容のものにて衝撃的な
 発端序章となるようなものとして、その事象内容が表示表現されている。

 その文中にある<わたしは初めであり、終わりである〔1:17〕>という言葉がそれである。
 これは確かに旧約のイザヤ書〔41:4、44:6、48:12節〕においてすでに見られる同義的
 言節のようだが、この黙示新約時代には新たな意味づけ、意味深き新たな真意を秘めた言
 として、その将来的行く末、未来永久を見据えるかたちで、ギリシャ文字の初頭綴りαアルファ、
 後頭綴りωオメガという発音を引用して<わたしはアルファであり、オメガである〔1:8節中>
 の言葉を一意的に同義させて、ギリシャの言葉文化の行く末永きの影響(現代に至る文化、
 学問的な様相)を予知し、示唆する含みのものとなる。

 
 
    
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