3. 真理を考える:諸科目真理と形而上(絶対知)的真理


  人間にとって真理とは何か、そもそも真理という言葉の概念には、奥深い多様なニュアンスがあ
るようだ。古代ギリシャの哲学的な言葉としても、その当初から用いられていたようだ。ギリシャ語
の”al~etheia ”は、物事の認識における真理としても、存在論的に現象や実在をそれ足らしめる本
質や法則、あるいは抽象的な定理への探求把握においても用いられる言葉である。真理は虚偽であっ
てはならない、真実,真でなければならない。そうでなければ人の心は、ゆがみ健全でなくなり、蒙
昧のベールに包まれ、はたや、その人格性までもが疑われる結果となる。 人間性の成長にも知らず
と深く関わる、その真理という言葉を用いて、真理とは!と、今一度、問うてみても大いに意義ある
ことではなかろうか。

  人間にとって真理とは、それは人が知る能力を有する限り、ベールに包まれた世界のようなもの
であろう。無限の広さ、深さをもったベールの層につつまれた世界のようなものに例えられる。諸科
目全体的に見れば多様な領域となる。たとえば、古代ギリシャの医学的な知識にあっては、脳につい
ての構造的知識や生命体における遺伝子の仕組み、それを有した細胞組織についての知識を未だ得る
には至っていなかった。その真理を得たのは、つい最近、19から20世紀になってからの事である。
脳を中心とした神経生理学とか、精神生理学の知識のない時代では、多様な欲求、あるいは本能的な
欲望などと共に働く知性や感情、意志が織りなす人格性は、古代ギリシャを問わず、ずっと昔から代
々、肉体と結合して存在する”霊魂 ”の働きによるものと考えられてきた。 この例のようにすべ
ての諸科学的真理は、時代を連ねて探究され発見され、明らかにされるものだ。

  人間にとってのもう一つの真理とは、諸科学的な真理とは質を異にして人間知性に開示、受容さ
れうる、いわゆるMeta  Phisics な領域において、その認知把握の成立が可能となりうる性質のそれ
である。この真理は諸科学的な真理を在らしめる源であり、そのすべてを包摂するものである。この
真理は、啓示によらなければ完全なるものとして人の知性に受容されえないものであった。 古代ギ
リシャの哲学者も古代インドの宗覚者も、遠うまわしに云えば、みなこの真理を希求し、それなりの
類比的認知を会得し、教化していた訳である。 この真理の啓示宗教としてのキリスト教の成立は、
人間精神、あるいはその精神界に太陽の如き”真の光 ”をもたらした。今やこの真理は、外的客体
啓示の要素とそれによる内的主体啓示とによって、人の知性を完成へと導くものとなり、真理の絶対
知、すなわち”ロゴス ”の想起を完結させ得るものとなった。 新約聖書の【ヨハネの福音書】の
成立は、使徒ヨハネの知性をして、それを裏づけ物語るものである。 使徒ヨハネのキリストイエス
理解は、ロゴスそのものであり、そのキリストイエスをして、彼は自らの内に、完全なる”ロゴス想
起 ”を完結することができた。人間知性にとっての真の光は、meta phisics な認識領域に成立し
うる”絶対知 ”であり、これは人間に本来的に備わった知性的な可能性の具現である。

  そして諸科学的真理の知識のすべてに関しては、人類の大いなる財産とも遺産ともなるに価する
であろうが、もしこれらが永遠に活かされ有用、保持されうるものとされるとするならば、その場合
には必ず”絶対知 ”としての<真理の目>を通して、<絶対知真理>のうちに最新包摂されるものと
なる。すべては人類人間の知性の行き着く究極限界上での完結を必須目的とした<人類史の存続>に
おける知的事象の事柄なのであり、これは、<神のご慈愛と義の要請>によりて予定されていたこと
である。