2. 宗教を考える: その真を求めて!


 2-1). キリスト教か仏教か


 宗教とは、人間存在の生活に深く関わり、その生活のあり方を規定し、左右するものである。
何か対象となるものを信じ拝することによって、様々な願い事が叶えられることを願う人の心
のあり方をも示すものである。 素朴であるが真剣に何かに向って、あることを祈願する場合
もあれば、単なる儀礼、慣例的な行事として、あるいは個人の生活習慣的なものとして守り行
う祈願もあるでしょう。 

 平安、幸福であること、無病息災、家内安全であることへの願いが、いつの時代でも宗教と
いう人の心の現象を表出してきたと云えようか。 そういった視点から云えば、確かに仏教も
キリスト教もそう云った宗教現象一般の枠組み(範疇)の中での諸ファクターに過ぎないと見
なすことも可能であろう。 世界の三大宗教とも云われている、この両者のメガ宗教、それぞ
れ既成宗教として出来上がってしまっているが、その起源、成立の過程から見れば、奥深く、
把握しがたく、見きわめがたい歴史的な背景のうちから生起してきたと云っても過言ではない。

 一般的な通説として、宗教は、人間の弱さに関わるものが契機となって発展する。例えば、
権力者が、自分又は自分の支配体制を護持存続させるため、宗教を利用する場合もその例外で
はない。人の弱さを基底として現実化した宗教で、その最も絶対的な契機となりうる要素はと
云えば、”死 ”という現実である。そして且つ、それに一対化して願望される”死後永世の
命 ”であろう。 ところで、このような観点からキリスト教、仏教を見くらべると、その相
違点が判ってくるのではないか。 人類一般の契機となっている ”死 ”、そしてそれに背
反する”永世の命 ”という課題、それらに対する取りくみ方(解決処方のあり方)にその大い
なる違いが現れているのでないだろうか。 その違いはまた、両宗教の教祖、キリストと仏陀
という存在、人物そのものに関わる意義要素の違いでもあろうか。、、、、、、

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 イ)仏教はその精神法体において、個人の悟り(悟性心)のうちに”死 ”という現実を
   解消する。 つまり仏教用語で云えば、”諸行無常 ””諸法無我 ” あるいは 
   ”四聖諦 ”とか ”真如即一 ”とかいった、直感的認識概念のうちに克服、解消
   できるものとしている。 だがその一方で、その悟りの ”涅槃心 ”を あの世
   (死後の世界)に結び付けて、”彼岸 ””三途の川渡り ”等々の庶民的な低次な
   ”霊魂永世 ”という通念において解消せんとしている。 これは仏陀の存在以前の
   古代インド思想において見られうる ”輪廻転生 ”の想念に相通じ、結び付いている。
   ともあれ仏教では、死とその現実をあるがままに受けとめ、肯定する”自然(じぜん)”
   の法を善と見なすようにその思想を発展、継承してきたものである。

    人間のあり方、いき方という人間の道を説く偉大な教えが本題であるから、西洋かぶ
   れのように<神の存在を思惟したり、その存在云々を問うような宗教>ではない。神の
   存在を否定しはしないが、明らかに思想的には無神論的な立場にある宗教だということ
   が、むしろ自ら<神のポジション>を占有確立するほどの存在となっているという事に
   行き着くのである。人間仏陀から神々の世界にまでも昇天君臨するというような、かな
   り平易に受け入れられやすい構図のものとして、仏教発祥以来の古代からその東洋史に
   その事象が位置づけられるということである。当然のこととしてそこには<神と人との
   存在関係の真理奥義>というものは存在し得ないし、その教理の生まれ得る余地もあり
   えない宗教ということとなる。

   したがって、仏教徒は、釈尊(仏陀)を崇敬し、仏法を第一位、いわゆる神の存在の位
   置にそれを置いて信仰、実践している訳である。 古代からの仏教の歴史的変遷を見る
   と、異様なまでに仏陀の存在が超大化され、あがめられている。その場合、彼は、神と
   して、神の位格に君臨している訳である。また、古い神々の存在は、彼の周囲で仕えか
   しずくアクセサリー的な存在として位置づけられ、その偉大さをさらに高揚する役目を
   担っているかのようである。 そのような現実は、彼の教え、仏法がいかに絶大で、至
   高の価値を有するものであったかを、また、仏悟心的(法身悟覚の心)に無限進展の継
   承をなさしめ得るものであったかを物語るものである。 こういった歴史的事実に着目
   した場合、まさにその最高の善なる意味において、人間は、たとえその死の運命から誰
   一人逃れる事が出来ない存在であっても、その異様な知恵の能力をもって、神としてあ
   がめられ得る存在と成り得るということを、知性ある人間としての存在に潜在的に秘め
   られたる歴史的可能性の結実として証明しているということなのであろうか。
   しかして、ここに人間本来的に実成したる自然啓示的な最高の宗教としての仏教が存在
   しているという訳である。

   *注記:(1)
    仏陀の存在とその教えを古代インドの経典【ウッパニシャッド】思想(ブラーフマン、
    アートマン)の延長線上に位置付けて捉えれば、それはあたかもウパニシャッド思想
    に関わる、全く新しい存在位格を実成占拠したる、その思想原理(悟りへの救済原理)
    にありて、その方法、仕組みのあり方を一新し、変えるかたちで再構築されたものと
    見なしえようか。

    ブラーフマンは宇宙我(大自然我)であり、彼にとってはまた、宇宙法であり、かつ、
    知において、そのあらゆる面で回帰すべく、その個我(アートマン)にありて、それ
    自体を自覚し、諸々万象の諸法因果を悟得する時、新たなる<無我法仏のブラーフマ
    ン>として自らを確立する。(ただそれを前面に表明しないで、その過程への”自ら
    の観想認識分知(内的聞知)による ”<教えの法(道)=さとり(仏)への方法論>を
    明示する。)

    教えを説く仏陀の背景には、そういった新たなる思想がバックボーンにあって、”死”
    はもはや彼にとって、無常なるもの(形ある肉体)の一過程に過ぎないものとして、
    止揚されえたものであろう。

    さらに注目すべきことは、日本に渡来した当初の仏教の発展である。空海や最澄が中国
    で、会得した仏教は<大乗仏教>といわれる、いわゆる民衆(在家向け)向けのもので、
    それがある種の霊的空想の世界観(マンダラ界=金剛界など)をバックボーンとした密
    教という思想様式のもので、その世界における最高位の<如来>という存在を<言葉で
    もって具現化>しているというものです。それで日本では、如来信仰が盛んになり、さ
    らには諸々の観音菩薩信仰までも盛んになされていったということです。ところで空海
    らが渡海した当時の<中国密教>の仏教は、チベット密教とそのルーツを同じくするも
    のですが、そのルーツは、3世紀中ごろから4世紀以降になって発展派生した大乗仏教
    で、北西インドからガンダーラ(アフガニスタン)地方で盛んに行われ、東中部に伝わ
    り、一時的には半島のアラビア海側の南東海岸や、ベンガル側の南西海岸地方の港町、
    ローマを中心とした地中海貿易をなした町々にも点在的に行われていったものです。

    ガンダーラ文化といえば、ギリシャ文化との交流の時期で、インド北西(ペシャワル)
    に都する中央アジア系のクシャン朝 ”カニシカ王 ”時代がその最盛期にいたる時で、
    旧来のインド系の宗教思想だけでなく、様々な宗教思想、哲学思想が合流交流する時期
    で、以前から続いてきた在来のものが、新たな変容をなして発展してゆく契機に好都合
    な時代となっていた。したがって仏教も、カニシカ王(在位紀元後130年〜170年
    頃)の奨励保護の下に非常に民衆化傾向に発展していったようだ。この時期のガンダー
    ラ文化時代の西方からの外来思想は、ギリシャの哲学思想やキリスト教であったが、イ
    ンドの諸宗教思想の絶大な勢いによって、跡形も無くのまれ、その形跡すらも歴史に記
    すことはなかった。しかし、キリスト教のキリスト再臨思想に<ヒント>を得て、<如
    来>の仏教思想に新たな発展の光を投じて、<大乗仏教およびその後の密教経典>によ
    る<如来信仰>の発展到来の時代を迎えるに至ったことは確実な事だと云えよう。
    以下、注記:(2)として、<大乗仏教出現>の初期的動向を記述しておきたい。

   *注記:(2)
    先ずはじめにお断りしておきたいことは、古代インドにおける<大乗仏教出現>その新
    たなる革新的な起こりに関する、現今の仏教学会など、仏教学者らの研究成果からの見
    識による<その起こりの時代設定>は、紀元前1世紀頃からその萌芽的動向が顕著にな
    り、紀元前後からその中葉には、前大乗的な仏教の新しい流れは出来上がってきたとす
    る見方の<歴史的仮説>をその研究書籍等で紹介している。この説は、仏教を擁護する
    仏教学者らの立場に立ってのものだから、たとえ西方からの諸思想の影響があったであ
    ろうことを考慮しつつも、ほぼ部分的にも全体的にも、インド仏教とそれらを取りまく
    インドの諸思想(バラモン・ベーダ哲学系、ジャイナ系等々および民衆レベルの事情な
    ど)の中から、その発展的な当然の流れとして、たとえそれが、旧来の伝統的な仏教、
    部派小乗仏教に対する反動的なものとしてであれ、それは、時代の要請として、俄然、
    自ずと、<起こりえた動向>だと、その仮定的な論証を明示している。これらの事をご
    留意していただき、以下のごとき、歴史における歴史的な推量の仮説以外の何ものでも
    ない、わが臨在<啓示仮説>をご考証されんことを願いたい。
     
     仏教の新しい流れの結実は、紀元1世紀末頃以降から急速に現れ始めた。それは数々
    の釈尊仏陀の出生などの<仏伝文学>の類であり、また2、3の前大乗的な経典小品等
    である。紀元前の4、3世紀頃には、旧来伝統の小乗部派仏教がその古典的経典の類を
    集大成していたわけであったが、その系統的発展上に連なりうると判断されても、間違
    いなかろうと云えるような、その新しい流れを跡付け示したる、新仏教経典の思いがけ
    ないほどの数々の産出(再新増拡された類も含めて)が、この紀元2世紀初頭以後、3
    世紀から4、5世紀にかけ、著出されてゆくものとなる。まさに大乗仏教は、それらの
    経典を唱導、高揚した<経典中心仏教>という新たな流れとも受け取られうるものとな
    っていたのだ。(小品般若から大般若経、阿弥陀経から大阿弥陀経とそれから派生した
    諸経典、華厳経から派生した数々の諸経典、法華経とそれに関する釈正典、その他多数
    の経典類、そして竜樹、世親、無着らによる仏教哲学書のような正典類など、世親の倶
    舎論は小乗派で支持研究されたが、、)

    このような何かに目覚めたかのような精神的な新しい変革の流れ、それが果たして、伝
    統的な国内インドの諸宗教=小乗仏教、バラモン教・ベーダ哲学やジャイナ教などの競
    合刺激合いの過程だけから生じたものだと、断定し得ると云えるものだろうか。その歴
    史的状況を踏まえ判断するかぎり、<否>と云えるほど疑わしくなる。何故なら、あの
    マウリア朝の<アショーカ王>没後の紀元前3世紀後半以降、世紀前後、クシャン朝が
    出現するまでの期間は、マウリア朝自体のうちからの政変(BC183年頃)により幾
    多の王朝が出現し、国の衰退ははなはだしくなるばかり、人心も経済的に荒廃的不安定
    をきたすばかり、それゆえその時代の仏教も、衰退する傾向にあり、じっと内に籠り、
    忍容のうちに生きる様相のものであった。その上さらに中央アジアからの外来のサカ族
    が紀元前1世紀から紀元にかけ、廃仏破壊的に北西インドを支配していたからである。

     だがかれらサカ族は、衰退したインド、種族的にも肌の合わない、利のないインドを
    見捨てて本国(アフガニスタン南部地方)へ引き上げてしまう。その後、入れ替わるよ
    うに進出してきたのが、バクトリア(アフガニスタンの北部から中央アジアにかけての
    領域)から興っていた、イラン系のクシャン朝である。このあたりは、一時的ではある
    が、かって以前からギリシャ化(アレキサンダー大王→セリュウコス朝ニカトルらの初
    期にかけ)された地域であり、その後、さらにギリシャの総督が独立して、バクトリア
    王国を築き、サカ族がインド進出する以前の少し前までは、北西インド(ガンダーラ、
    パンジャブ地方)を領有していたことなど、その歴史をとどめていた地域でもあった。

     クシャン朝の興起当時のバクトリアの都バクトラには、色々な人種がいたであろう、
    ギリシャ人、スキタイ他北方諸種族、特にイラン系のユダヤ人ばかりでなく、かっての
    イスラエル10部族系の人種もこの地方に散在していたであろうか。都市部での生活様
    式もかなりギリシャ化し、種族間での共通語も、ギリシャ語が用いられたであろうか。
    そんなクシャン朝(カドフィセス1世、2世)の西北インドへの進出は、かなり容易な
    ものとしてなし得るものとなった。前のサカ族と異なって、彼らには繁栄の為の武器、 
    交易の知恵が備わっていたからだ。だがインドを多方面に渡って征することは、難しい
    ことだ、前のサカ族の二の舞にならぬ方法の道、方策はないものかと、、、ただに彼ら
    インド人のもの(精神文化=宗教)を受け入れ、われらの方が同化するというのでは何
    か我らの劣行をさらけだすようなもので面白くないではないか、朝廷では、王(1世か
    、いや2世であろう、)の下、要人、おかかえの顧問賢者、法学者らによって、対イン
    ド政策の行く末についての意見が交わされた。何んということか、王も大いに納得のゆ
    く<将来展望、行く末長き秘策>が案出されたのだ。”近頃、ユダヤ人らのユダヤ教の
    一派らしき者たちが、<ユダヤ教の救世主信仰>を伝えておるではないか、、手始めに
    この一派の全員を引っ張り出して、北インドに移して事を始めようではないか。、、、

    クシャン朝、彼らの<秘策>は、旧来の仏教など、インドの宗教を変革支配してゆくこ
    とで、インド全体のクシャン朝化を目論むものであった。それで先ずは変革の流れを起
    こすことだ、、そしてそれと平行して、彫刻の技に長けた<石工>のギルド(集団)が、
    朝廷奨励擁護の下、対インド国内の彫刻などに対抗するものとして、なされることが良
    いという事で始められる結果となった。

     そんなわけで、ユダヤ教の新派らしき一派の集団、いまだ<キリスト教>という名す
    ら留めていない信者の群れ、その極めて少数の一団は、紀元80年前後には、西北イン
    ドに在住活動するようになった。(AD50年頃以降、原始キリスト教団の本拠地が
    シリアのアンティオケにあり、ここを基点に西方はローマ方面、東方はバビロン方面と
    一応の伝道地域が決められていたので、12使徒たちの数名は東の方面に赴いたと思わ
    れる。ちなみにペテロは、バビロンにしばらくは滞在した形跡を、新約聖書の彼の手紙
    書簡で書き留めており、またトマスは、パルティアの王か、バクトリアの中央アジア系
    の種族王と会見、伝道の支持を願ったりの<言い伝え>が残っていると云われている。)

    とにかく、ペテロにしてもトマスにしてもこの東方での伝道活動は何故には非常に難か
    しかったらしい。(この頃のシリア・アンテオケでは彼らのことを<クリスチャンナ>
    と世間では呼ぶようになっていたが、クシャン朝の<クシャンーナ>の名とは何ら関係
    はなさそうだと思われるが、???)

    西北インドに移植された一派集団も、2世紀半頃には消滅する運命を余儀なくされた。
    バクトリア(トマス?)、バビロン(ペテロ)との西方への連絡ルートは、閉ざされた
    格好になり、非常に困難なものとなった。それ以上に最大の障壁は、共通言語圏の無さ、
    希薄さであった。かって一時期、ガンダーラ地方(プルシャプラ、タキシラ)でもギリ
    シャ語が交わされたが、それが一般化したわけでもなく、かえってまったく衰退してし
    まっていた。またイラン、インド系などの言語の障壁は、一世代のうちにのり越えられ
    るものではなかった。離散したユダヤ人に関してもこの地方、バビロンからホラーサン、
    バクトリア、ソグディアナなどでは、ごくごく少数が点在しているのみで、コロニーを
    形成するような数ではなかった。

    ところでこのクシャン朝の時代、カドフィセス2世から次のカニシカ王(130年前後 
    即位)に続くことになるが、かなり安定した繁栄を1世紀以上にわたって維持できたよ
    うだ。この頃、西方では、ローマの東方進出がめざましくなっていた時代で、シリアの
    アンティオコス王朝も既に前64年にはローマによって滅び、隣国のパルティア王国が
    直にローマと対決する事態となっていた。パルティアは、ローマにあたる事に忙しく、
    ほかに顔を向けて対決するような余裕などなかった。結局、パルティアは、クシャン王
    国などイランの小王国らの楯となるかたちで、その背後の地域は、いたって平穏のうち
    に繁栄を維持することができたということになる。

     ちなみにクシャン朝もパルティア王国もそのご先祖のルーツは、かって大いなる繁栄
    を誇ったペルシャ帝国の王族系の出自であることを代々伝えていたらしく、クシャン、
    またはクシャーナは、そのかってのペルシャ国王”クシャルクセス”、”アルタクシャ
    ルクシェス”から、その種族名を採っていたことが知られ、バルティアの元の地名は、
    パールサであり、キュロス大王以前から、そしてヒリュカニアから出たダリヨス大王に
    も由縁となる名をとっており、やはり何らかの同盟関係、あるいは血統、同種族的な絆
    の上での共存関係を黙認、黙視し合っていたものであろうか。とにかく、中央アジアか
    ら北西インド、アフガニスタン、内国イランにかけて、その勢力関係はかなり平穏なバ
    ランス オブ パワーな状態が続いたようだ。

     さてクシャン王国の<秘策の手段>にはめられた<救世主信仰>のユダヤ新派の一団
    は、大いなる後ろ立てを得たとばかりに、西北インドでの布教活動をなしてゆくものと
    なる。この一団の信仰思想は、はたしてクシャン朝の思惑どうりにその成果をあげるも
    のとなるのか。停滞気味で気勢をなくし、新鮮さを欠きマンネリ化した、ややもすると
    民衆の心にもこの世にたいする疑心暗鬼な影がただよい、、そういったインド側、その
    すべての伝統旧来の宗教思想、社会風土に新たな希望になるような新鮮な風が吹き込ま
    れたのか、否か。少なくともほんの一時期的ではあるが、非常に強い影響力、インパク
    トある印象を与えたものとなったに違いない。だがしかし、インド側はどう対応してい
    たのだろうか、、かって度々世俗の憂き身を、外来の異民族支配にさらされた経験もあ
    り、自分らの昔から伝来した誇り高きものを保持することこそ、インド住民、みんなの
    共通の願いだということで、守勢保身の態度が一般的な反応であったろうか。それでも
    一部の仏教系、バラモン系の修道者、あるいは自由な沙門ら、その他関心のある在家民
    衆らは、色々な思惑、興味をもって、その一団、西方伝来の新しい宗教思想に接触する
    機会を持ち得ることとなる。

     大通りに通じる広場の奥まったところ、古びかけた石積み風の大きな円舞台の前から、
     ギリシャ風の白い長衣まとい、踊りながら唱和する十数人の男女の声、音頭をとる手
     鼓の音も、、ほど良いリズムの和声を奏でて、、聞こえてくる、聞こえてくる、今、
     集会への招きのデモンストレーションが始まったのだ。、、、、輪になったり、列に
     なったりしながら、大通りの向こう側にある、集会所の会堂へと進んでゆく、、、、

     ”アールヤ、アールヤ われらがアールヤ、救主、救主、われらが救主、
      乳蜜流るる楽土にいらん、アーミド、アーミド、 われらが救主、乳蜜流るる
      楽土にいらん、”
         
        **アールヤとはアレルヤ、つまりヨーロッパでは<ハレルヤ>となったもの、
       さらに今で云うインドの<古代アーリヤ民族>をも指し示す掛けことば。
       (神{神々}を賛美する者=”高貴なる者”を意味する言葉が<アーリア>だ。)
     **アーミドとはアァメン、これはユダヤ人のヘブル語だが、バビロン以東の
       東方では、それがなまって使われるようになってしまったものだ。
       (ヨーロッパでは、<アーメン>ともなったもの)

     じつに晴れやかな、心憎いばかりの演出効果なのか、、ダビデ王の手鼓パレードを
     思い出させるもの(彼だけ、おどけた舞だったが)とも、それともギリシャの演劇の
     前座セレモニーを思い出させるもののようなのか、、、、、

    インド側の仏教、バラモンの僧や在家の衆たちも目を見張る。彼らやその他の修行者達が、
    今や西方伝来の<新しい何か>に出会い、<新しい何か>を得る時がやって来たのだ。
    その<新しい何か>とは、彼らが目にし、心で聴き、感じひらめいて、彼ら自身の立場か
    ら出てきた<新しきもの>、、つまり彼らが自分たちにかなう様々な思念様式での<新し
    い宗教要素>を自分たちがうちに持っているものから見つけ出す、その新しきものを生み
    出す(開発する)というものなのだ。

    では彼らにとって、その大いなる<きっかけ・ヒント>となった、その<新しい要素>
    とは何だったのか。

   【その新しい要素とは】
   ===========
   @・集会での集まりの様子、雰囲気などから、教団的な人員構成、あり方、
     在家云々、男女の別なく、平等的に多数をしめること、そして、
          経典(巻物、又は羊皮紙)らしきものを中心にして、(用いて)
     その会を進めていることから。
     −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     これは、彼らにとって、”衆生への救い(自利のみではダメ、自他も)の
     強い目覚めとなる。そして、経典中心主義への目覚め、さらに経典信仰への	  
     きっかけとなる。

   A・現在でいう<洗礼式>のような儀式においての信仰への誓願の様子から。
     −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 
     これは、衆生のさとりへの誓願、あるいはそれが後になって、菩薩道への
     誓願も加えられるものとなる。
     (菩薩としての人間形成、その人間像を表し示す経典が作成される。<菩薩>という
      言葉は原語からの音写で、しかも略語形式となっている。意味は<さとりの心情を
      持つ者>、または<さとりへの情感を求める者>をさす。その初期における用語の
      使い方としてだが、後にはその意味が変化発展拡大する。)
     **
     これにはアフガニスタン側のガンダーラ美術の出土品で、真ん中に菩薩が水注ぎ用の
     水瓶を持ち、シュロの枝などを手にした男女らが両サイドに立っている、壁面浮彫風
     のものが見られる。、その顔立ちからクシャン人だという人もいるが、定かでない。

   B・救世主(イエス・キリスト)の生誕物語やその後の生業(彼らの仏観から観たものと
     してのもの)を伝える諸巻の伝書(今でいう福音書などの類)を最重要に持っている
     ことから。
     −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 
     これは、仏陀の存在の見直しとなり、人間釈尊の<悟りを開き仏>となるまでのお姿
     物語やご誕生物語など、色々ないわれのある諸仏伝の文学的創作開発へと方向づける
     ものとなる。

   C・一団の信者がすべて救世主(メシア・イエス)そのものをひたすら信ずるという姿勢
     や、救主(キリスト)の教化・救済という功徳(十字架に係わるものも、その功徳の
     内の一つと見なす彼ら仏教徒の功徳観)にあずかることができるものとして、ただひ
     たすら救世主(キリスト)を<信ずるという道>が<開かれている>と受けとめてい
     ることから。
     −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     これは、以前までは、仏塔とかストゥーパーとかの建立とその崇拝が、仏舎利
     (仏の遺骨)にかかわるものとして、行われていたが、仏そのものへの崇拝という
     かたちで、信仰されるような流れとなる。(いわゆる<南無仏>の高揚)さらに
     久遠(に生きたもう)仏への信仰に発展(後の法華経などの産出において、、)
     **
     一仏の仏陀を旨とした旧来の<小乗派仏教>においてもその傾向が強くなる。
     そしてさらにその流れのゆえに、全体的にも以前はまったく見られなかった事、つま
     り、種々の仏像が製作増産されたり、あるいは窟院で浮彫り像化されたりしだした。
     (ガンダーラ石像製作の影響とその需要が認められる。)、
     さらにその後の6世紀前後には大型の<まがい仏像>にまで発展(バーミヤンなど)。

   D・信者たちの<神の国>への願望とそこへの現世時的な生まれ変わり(再生)での
     心的心情から、また来世実現を<神自身の本目、本願>と見立て、かつそれが
     信者たちの<祈願>となっていることから。      
     −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     これは、<仏国土>という概念的発想を誘発し、ひいては<極楽浄土>という思想を
     設定教義化するものとなる。そして、その<本願、祈願>の本義的姿勢の経典化もな
     されゆくものとなる。<仏国土>観と<極楽浄土>観、どちらが先に思念対象化され
     たかに関しては、前者が旧来の小乗派仏教で、後者が大乗系の仏教の本目教義となっ
     たものだから、ほぼ同時期に生まれ発展、融合化したと思われる。

   E・一団信徒たちが、みんなで読誦や賛歌頌栄しながら礼拝するばかりでなく、祈ったり
     している時には、度々その祈りに合わせて、頻繁に他の信者が<アーミダ、アーミダ>
     (現在のアーメン、またはアメン)を連発して唱え、その場を精神的に盛り立たせ、
     熱狂的にしている状況、それが救世主の<再来臨>や<来世到来>への<願かけ>、
     あるいは<主イエス、メシアよ来たりませ!来たりませ!>と、その祈りの場内への
     降臨在、または見えざる顕臨在を要請して、<奇跡の効果>が見られうる、という
     かたちで状況が見られていることから。
     
     −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     これは、経典中心主義の傾向化に合わせて、各派こぞって経典読誦儀礼の高揚化のみ
     ならず、高度な読誦の技法を生み出す。また、経典に係わる<お題目聖語>や<真言>
     の<お唱え>連唱へと発展する。(南無阿弥陀仏や南無{妙法}蓮華教など)さらに
     **
     CとDによる、<ひたすら信ずる>ということが、きわめて単純容易な<行>と見な
     しうる事から、
     <成仏祈願>の発想が誘起され、その教義付けが実現すると同時に、<極楽浄土>と
     いう仏国への転生(往生)の大願成就の教義化も成立し、それらがEとの強い結びつ
     きとなって、結局は、この世の西方にも、<もう一人の仏者>がおわします、そして
     そのことと合わせて<西方に極楽浄土がある>という思想観とから、”アーミダ、
     アーミダ ”の強い印象付けが因応して、 
     <あみだ如来>仏の発生尊称を生み出すものとなり、それへの関連付けの経典が産出
     されるものとなる。(大阿弥陀経への創作産出へと向かう。)

     この<如来>観、または語句というものは、<アーミダ>が<まこと=真実>を意味
     し、<来臨祈願>と結合して<まこと・真実から来るもの>と受け止め、インド・仏
     教側でのサンスクリット語、又はパーリ語に当てた翻訳転用がなされるものとなる。
     この<如来>という言葉のインド側への翻訳成立と共に一仏主義が崩れ、諸派競合の
     増産による多仏主義化がその主流となってゆく。

     (色々な尊称の<如来仏>が増産される。過去7仏を含め、大日如来やビル遮那仏、
     釈迦牟尼仏もその影響下で生まれてくる。)しかし、多数の仏や如来といっても、本
     来的な<仏観念>の深遠性を感じる感性から<多即一>という観想があり、多は一の
     特性を表現したものとして色々な特性修飾語が付与され、後に造典化された華厳経、
     法華経ではそれぞれその特性が教義化されていることが知られる。

     <アミーダ>からの<アミダ如来>の翻訳導入は、後になってサンスクリット語→
     パーリ語での<アミターバ(無量光)>や<アミターユス(無量寿)>という言葉を
     見出すことにより、その見事な転用結合をなさしめ、その観念的内容を発展変容的に
     高め、それらに不動性を与えるまでに至っている。

   F・西方メシア教一派の上記Eのような<読誦・賛美・祈り・奨励(説教)>の様式姿勢
     と連結したかたちでの救世主の<御名=(キリスト・イエス)>の永久なる永遠性と
     その力(神力として思想的翻訳がなされるが、)、そして、”み名によって祈ります、 
     主のみ名に依りて祈ります、アーミダ、アーミダ ”という、祈祷実践の念行から。
     −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     これは、過去仏となっている<人格的釈尊仏>とその崇敬からの大きな質的転換、そ
     して飛躍をもたらす。つまり、<仏>あるいは<仏陀>という名とその本質そのもの
     の永遠化、汎神論ならぬ<汎仏化>への発展過程を誘発するものとなる。この<仏>
     という<名そのもの>の一人歩きは、やがてその後、4、5世紀には異様な<宗教的
     思惟・想意>によって、装飾的な<天地即一無量>なる一大<仏世界>を創成するも
     のとなる。

     法華経や華厳経の諸個々巻からの一大集大成化が、如実にこの発展の歩みを示してい
     る。ここまでくると、古代インド本来の伝統的な宗教思想の根幹となる<輪廻思想>
     からの脱却、あるいは独立化が成され得たかのごとき傾向の進展をみるものとなる。
    

    次のG項は、バラモン系に関わるその影響の現われと見られる一面を記すものとする。

   G・ユダヤ教起源の旧約書(現在の旧約聖書)のような古諸巻での神に係わる思想、ある
     いは観念から、特に創造の神として、守り保持する神として、怒れる終末的破壊の審
     判神として、またその神の名の”主 ”を<かしこみ畏れる>尊重志向から。
     −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     これは、バラモン教での神々の一極集中化の流れを生み出すものとなり、最も民衆に
     現在的に支持、拝されているものへの、より一層の教義付け、概念化を産出するもの
     となり、民衆ベースでは、バラモン教の風土からヒンズー教という一つの宗教化が展
     開されるものとなる。
     **
     シヴァ、ヴィシュヌなどの主なる最高神(三神)などは新しい特性概念を付与されて
     展開されるものとなった。(神の創造{の時代}→維持{の時代}→破壊{の時代}という
     思想、また、一神教化する傾向の展開も見られ、シヴァ一神の変化様態、役割様態の
     観念も現れている。また、そのヒンズー教思想風土とウパニシャッド・ベーダの哲学
     風土との関系因応から、タントラ教(性力2元神=シヴァ神とその妃神)などの宗派
     性が生み出されるのが見られるようになる。それが哲学的にはやがて<男性原理と女
     性原理>による神付けが付与され、その世界観を表示するものとなる。
    
    以上の要約7点が主に仏教系中心に見た、その結果状況であるが、このような外来思想
    の<新要素の翻訳的発想>から生まれた<新しい仏教>の流れが、旧来伝統仏教(諸部
    派仏教=小乗派と名称付けられているもの)を大いに刺激するものとなる。よってその
    内から<六波羅蜜>などの教義の見直し反省がなされ、声聞道、縁覚道の2つの乗に加
    えて<菩薩道(乗)>が明確な段階的認知付けでもって設定教示され、さらにその<六
    波羅蜜>の一つである<般若>の教義に対する理知的実践的反省から独自の<小品般若
    >の教義経典が産出され、それがやがて<より充実した般若波羅蜜>の内容を具えた<
    大品般若>経典へと発展する。このように主知主義化(哲学化)に陥っていた旧来の仏
    教が、かえってある種の覚醒的改革意識に目覚め、その革新気運の流れが経典の刷新、
    増拡、増編、およびその集大成という大きな活動結果を伴いつつ、その<大乗仏教>成
    立への変遷を成したものと見るのである。

    すべては自分たちの言葉・思想をもって、それらの刷新飛躍の為に<翻訳転用>をなし
    うる立場、そしてさらなる<応用=開発発展>へと進展する事のできた知的エネルギー
    の動勢、その宗教的パーソナルティーの動向、そういった歴史的諸事象を想醗的に捉え
    観ることが出来ると思われようか。

     古代インドでのそのような現実、宗教的精神レベルの高いインドの宗教者たちに起こ
    り得たことだ。彼らは自らの、それなりの立場から<観るところの目>をもって、外来
    からのその<新しい諸要素>に<ヒント>を得て、それらを自らの内に<自らベースの
    翻訳転用の導入>を可能ならしめ、そして<自らのもの>をさらに新しい発展の可能性
    へと押し上げていったのだ。そういった精神的能力を発揮するほど、彼らの宗教的パー
    ソナリティーは、ハイレベルな域にまで達していたということなのか。、、、、

     歴史における人間社会を一個の<宗教的パーソナリティー>に見立てて、その言葉に
    照らしてあらためて見直した時、パレスチィナのユダ(エルサレム)からヨーロッパへ、
    と展開されたキリスト教は、確かに今だ、その<宗教的パーソナリティー>の形成を始
    めたばかりの時期にあり、その後のヨーロッパでの12世紀あたり、トマス・アキィナ
    スやスコラ哲学、キリスト教神学の体系化をなし得る段階に達して、やっとその青年期
    に至ったと云えるものである。ところが東方インドでの、その<宗教的パーソナリティ
    ー>といえば(キリスト教がその原初的教団として誕生したばかりの頃)、つまり紀元
    直後の頃には、その1千年以上の月日を経て、はやその青年期に達していたということ
    となる。いささか自らのものに倦怠の情、落ち込みの念を感じるほどの時期にあったと
    さえ云える。

    このような現実社会の<宗教的パーソナリティー>の<自己実現性>の質格差の違い、
    ひいては、そのレベルの違いが、西北インドでの東西宗教の出会いの歴史的現実におい
    て、如何なるものとなり、如何なる結果をもたらすものとなるのか、想像するに難くな
    いと云えるのではないだろうか。
    
    **
    この<大乗仏教>形成の歴史的途上に”伝説的にその名が知られた<竜樹=ナーガール
    ジュナ>という人物 ”がいたことが伝えられているが、果たしてこの人物が、実際に
    史実上の人であったかどうか、疑わしいの限りである。彼の不詳年代は、暫定として、
    AD150年から250年頃とされているが、これには何ら事跡証明の無いままに、た
    だ彼の著と付された<書典類>と、その当時のものと目される<他書経典類>との関連
    から想定されたものに過ぎないというのだ。実際これは、大いに訳ありで、おかしいの
    かぎりだと、疑念の余地ありと云わざるを得ない。南インドの仏教の主要な一派が拠点
    とした場所で、その地名を ”ナーガールジュナコンダ ”と云われれ、そこにその僧
    院の遺跡が見られるという。(クリシュナ川の上手側の下流域に位置する)

    これこそが、後にできた”ナーランダ大僧院学舎 ”と同じような、仏教研究の僧院学
    舎であっとするなら、そこでの共同研究者らの、その形ある研究成果の公表される際、
    その<書典類>にその僧院学舎の名が付され、それがさも最もらしくその著者名らしき
    ものとして、古代インドの宗教社会に通用し得たという事、いわゆるその学舎の総称的
    非人格名であっても、それがあたかも人知れず、自然と伝説的な個人名として一人歩き
    した、という事、決して起こりえない事ではないだろう。

    いやそれどころか、<ナーガールジュナ>=<ヘビの木(樹)>、すなわち、<ヘビの
    知恵の木>をあえてその<旗印>として、わが精神文化の保持、発展を願い、その当時
    の<西方からの外来のもの>に対処したということだろうか。、、かのエデンの園での
    <命の木>を失ったことへの<人類の運命>、片方の<命の木>を失えば、もうそれは
    それ自体だけでは、現在、今の時代に至るまでも、どこまでも、<ヘビの知恵の木>に
    付されたものだ、として以外には、そのすべての文化の文明的結果を残し得ないのだ。

    南インドの東岸、クリシャナ河口の町は、西岸の交易港に劣らず、その当時、西方との
    交易(ローマ文明圏との)で栄えていた要衝の港町であり、西方文物がもたらされる玄
    関口ともなったところである。当時西方で最も学問文物で栄えていたエジプトのデルタ
    河口の主要都市・アレキサンドリアから何がしかの西来の学問・思想の文物が流入して
    きたに違いない。ギリシャ語の旧約聖書の巻物で特にソロモン王伝説でなじみの深い、
    ソロモンの<箴言>や<エクレシアシス=伝道者の書>がたまたま入手されるものとな
    る。これらの巻書で、宣揚された<悟り・智恵>、<空の思想>が、従来の仏教哲学へ
    の<大いなるヒント>となって、ナーガールジュナコンダ僧院学舎での新たなる仏教発
    展の成果<仏教独自に秘められていた空観論の成実=般若経から大智度論、中論の巻>
    など、従来の<縁起・諸法の定理>への再新的な経典化や理論的体系化の所産が行われ
    るものとなる。

    ここでまた、一つの仮説を提言することになるが、釈尊・仏陀の出自、出現も、かれの
    神話的伝説などで、史実の部分と作り話の部分が入り乱れた様相で、定かでないが、
    西洋の世紀的年代基準を以ってしても、その誕生および没年はいまだ確定できていない
    のが学究的現状である。おおむね東洋史が一貫的に再構築され得たのも、西洋の年代基
    準が適用され、それぞれの事跡を比定的にその年代付けを可能としたからである。イン
    ドの年代記に関しては、小アジア出身の最初のギリシャ系歴史家といわれるヘロドトス
    のペルシャ戦記(ヒストリエ)資料や旧約聖書の史書、オリエントの年代碑文や諸書等
    との入念な研究照合に基づき、<アレキサンダー大王>のインドへの遠征という事跡を
    考軸契機として歴史的探掘が試みられることによって、初めてその西洋の世紀基準をあ
    てがった、インド史への再構アプローチを成し得るものとなったようだ。

    ペルシャ王キュロス2世のカスピ海東岸オクサス河流域(ペルシャ帝国の東北辺境とな
    る中央アジア)のマッタゲダイ族征討遠征の最中での彼の戦没(BC529年)時から
    マケドニア・ギリシャのアレキサンダー大王の西北、西南インド(インダス河流域)へ
    の遠征(BC327−325年)時までを歴史時間的基底軸とした、その範疇で仏教の
    興隆発展の史など、インド史が考究されたわけだが、しかし、事は容易に把握、決定さ
    れるものではなかった。インド側にもインド本来の諸暦による年代が幾種もあるからだ。
    バラモン教の書記年代もあれば、北、中、南インド等のそれぞれ王国で採用された暦年
    代もあり、重層重複的な歴相をなして、西洋的年代確定を困難にする。その最も典型的
    な例のひとつが、仏陀釈尊の<誕生没死>の年代決定だった。
    今日までに明らかになったその研究成果によると、三つの説が挙げられている。

    一つ目の支持説@は、あまり歴史史実の価値・重要度の認められない、南方諸王国(デカ
    ン高原以南の南インド東西両岸域を含めた地方の諸国)からの通俗説で、その諸伝・諸
    仏伝に根ざしたかたちの<伝え>を基とする。これは、釈尊在世をBC624〜544
    年前後としている、いわゆる最早期説である。東南アジア諸国もこの説を支持する人々
    がほとんどであるが、にも拘らずこの説には検証すべき歴史的資料もなく、その裏付け
    論証がなされえないから、学説的価値がないと見なされている。で、その信憑性は、い
    まだ謎とされるほど定かでないが、仏滅後の後世に書伝化された、多くの初期経典類や
    文学的仏伝類の内、歴史性の認められる諸伝、諸典がすべて後世当時代にかこつけて、
    製作された、いわゆる捏造のようなものならば、つぎに挙げる二説だけが、学説的に重
    要視されるとは評価出来なくなるであろう。(釈尊の出家の動機を心性的に物語った仏
    伝書や出家当初マガダ国の首都ラージャガハに赴き、その国のビンビサーラ王の招き、
    会見などの状景からの出家尊譚を表した教典などの著作物)

    二つ目の説Aは、その在世をBC563〜483年 プラス・マイナス 6年の僅少差の諸説を
    唱えるもので、ヨーロッパ(英、仏など)の学者らの研究による。これらは主にセイロ 
    ン(現スリランカ)の小乗仏教の上座部派系の諸典やその類比されるべき史書などの関
    係資料に基づき、論究表示されたもの。

    三つ目の説Bは、BC463年〜383年を釈尊在世の時と定めているもので、特に日
    本の現代昭和期の著名な仏教学者らが論説したということで、定評を得ているものだ。
    この説は、インドに侵入したかのアレキサンダー大王の死(BC323)後、数年の後に成立し
    したマウリヤ王朝(BC317年[初代王:チャンドラグプタ])の第3代目アショーカ王の即
    位の年数的伝承をインド北部系小乗仏教の上座部の<説一切有部>という部派僧団のも
    のを正当とし、それを根拠に説を打ち出している。その伝承は、<アショーカ王即位>
    の年を釈尊没後116年と定め伝えている内容のもので、ちなみにアショーカ即位は西
    紀では明瞭に紀元前270年前後とされており、その268年を採って116年を逆算
    さかのぼると、BC383年に仏陀釈尊は、逝去されたという算定になるわけである。
    ところが、同じ小乗上座部でも南方系の<分別説部>という僧団部派は仏滅後218年
    を数えてのアショーカ即位を伝えるものとなっており、この南方伝承は、先に述べた二
    つ目の説に類するが、その両説(北部インド説と南部インド説)の間には100年もの
    差異が生ずるものとなっている。

    以上の3説で、共通するところは、インドのほとんど全域で伝播した仏教が、その初期
    原始僧団が上座部と大衆部との2派に分裂(これは釈尊没の100年後と仏典は記す。)
    し、さらにその2派から20部派以上に枝派化(およそ200年経過するうちに)しつ
    つ拡大していった過程で、釈尊のご在世の年齢だけは、ほぼ80歳であったとの共通の
    伝承を伝持していたという事実を示すものである。

    年齢寿命に関しては仏教部派全体がほぼ一致しているが、その在世年代だけが、上述の
    ように3説以上の諸異説を現わにし、統一された一説とはなり得なかったとは、はなは
    だ疑問に思われてならないであろう。このような不一致をもたらした要因には、色々な
    諸要素が重なり因した訳であろうが、単なる外的社会情勢、時代の相克だけに起因した
    結果とは云いがたい。古代インドの数百年と続いたバラモン教社会で培われた人間の精
    神性、今でいう”国民性”や、特殊な思想風土、生活人生の慣習的パターンなどがすべ
    て宗教的精神性(輪廻と解脱の人生観)に根ざしたもので、そこには民族的歴史性とか
    史観といった意識に目覚めることはなかった、あるいはまったくそのようなことに人生
    の価値とか、種族、民族の価値を見出さなかったというのが、その最大の要因であろう
    か。、、それに加えて<文字の文化>も、その保有を成し始めるのも、紀元前5世紀中
    葉以降、4世紀にかけてのことだから(当時の西方ペルシャ帝国からの文字の移入から
    はじまって、初めてインドに文字が創られる)、有力な史官、史家が出てくる時代環境
    ではなかった、ということにもその要因が重なってゆく。しかし、そういった諸要因の
    全てだけでなく、仏教僧団自体の側での何か隠されたる諸事情が因して、上述の<在世
    不一致>な諸説が生じたとするならば、どう見るべきものとなろうか。、、、
    
    本来的には元々、二つ目の説Aインド南部およびセイロン系の説が、正しいものとして
    伝承されていたが、(アショーカ即位まで218年を数え上げるものとして伝継) それが、
    後の紀元後1世紀中葉、末以降から数世紀への過程で、西北から北部インドでの新仏教
    復興(大乗仏教の登場)という新たなる社会的気運の動勢と共に、従来の小乗派である
    <説一切有部派>の僧団も、その勢いに押され、刺激されて<仏陀釈尊の誕生から入滅
    逝去までの在世時の全て>を見直し、再編成を計らなければならなかった。これには、
    小乗仏教僧団の将来的発展維持の為の命運がかかっていた。

    そのような過程で、経典の見直し、再編さんが行われた。そこで経典類の歴史的権威付
    けとして、よく知られた、知名度の高い二人の王、マガダ国の王ビンビサーラとマウリ
    ア朝のアショーカ王までの関係付けを強化的に見込んで、年代的には100年〜110
    数年がほぼ間違いないものとして、<釈尊没後116年にアショーカ王在位>を位置づ
    けるものとなった。そして、ビンビサーラ王に関わる経典、その息子による父王からの
    王位簒奪などの伝書、また、釈尊の<出家譚聖伝>など、大々的にその一連の全てが更
    新編さんとなるような格好で経典造成がなされるに至った。そういった僧団内部の活動
    情勢があったということから、北部インド説という新たな説(三つ目の説B)が浮上してく
    るものとなった、ということではなかろうか。、、、、、、、

    これは原始仏教僧団の最初の2派分裂が、釈尊没後の100年ほどの事だという、部派
    仏教全体の共通認識にも係わらず、<アショーカ王即位時代>において、そういった教
    団分裂の動勢を何一つ伝えていない、その痕跡さえ見出しえないで、かえってアショー
    カ王の仏教大奨励の事績だけがその時代の歴史上の史実として顕わになってくるという、
    教団分裂の時期に関わる裏付けがあるから、そんな見方が取れるわけだ。ただこの最初
    の教団分裂の要因はなんだったのか、教団内部の教義とか教えの説示とか、戒律の不一
    致とかによるものか、それとも外部的情勢に起因したものだったのか、という点を見極
    める方がより一層その歴史的真実に迫りうるものとなろう。
      
    釈尊その人について、その出家以前の少年期や、青年時代のことを知りうる歴史的資料
    等は、現在のところ一つも残されていない。釈尊生誕出自のころのインド・アーリヤ人
    によるバラモン教司祭者優位の社会体制は、低落的な変容期のただ中にあった。数百年
    続いたバラモン最上位の<四姓の階級性社会(のちにカーストと云われるほどに定着し
    たが)>が、都市化への多様な発展と共に王族クシャトリアの<王権体制>への社会的
    移行を可能としたからである。

    釈尊出生の頃には、北西インドからガンジス河の本、支流の中部および東部インド、な
    らびにデカン高原以北の南西部にかけて、十六ほどの都市国家的社会が王族王権の下に
    形成されつつあった。(のちの原始経典におけるその関連記述を歴史性ありと判断して
    の資料に基づく)その頃には旧来からのバラモン、クシャトリアなどの伝統的なアーリ
    ヤ族本来の種族的あるいは氏族的な絆も薄れ、その階級的な職姓(ヴァルナ=color)だ
    けが社会的有用性を果たしていた。ガンジス中部インドのコーサラ国などの3、4の国
    以外のほとんどの国(12カ国)の王族は、伝統的なアーリヤ人種ではなく、後世外来的
    な種族や先住土着、混血から台頭してきたものであったと思われる。

    釈尊出生の<釈迦族=シャーキャ族>も、その仏伝処で記され、自ら明かされたゆえを
    真とすれば、その種族名が明白であるからして、まさに伝統本来的なアーリヤ人種では
    なかったということが推定されうる。おそらく祖父の時代に彼の父と共にかの雄大なヒ
    マラヤの山麓に定住してきた時の2、3の連合氏族の一派であったろうかと思われる。
    釈尊ご生誕の<ルンビニー>の地や<カピラ城>在住の地は、現在のネーパルの中部、
    インドとの国境に近い南部辺側に位置するところで、雄大な大ヒマラヤ連峰に併行して
    走る小ヒマラヤ(1000〜2000m級)山脈の山麓・丘陵台地(数百メートル)の地域に位置し
    ていた。そこからは肥沃なガンジス河流域の広大な平野を遥か彼方に一望出来ようが、

    当時としては、そのガンジス平野と比べれば、未だ辺境の地だったと思われる。しかも
    彼ら釈迦族一派の時代社会史的状況は、その仏伝諸書の伝えに依れば、伝統的な格式の
    残るアーリヤ系の王国コーサラに従属したものとなっていたと判断される伝えを得てい
    る。かれら一派の首長らは、独立した自治による地域社会を形成、維持していたのでは
    なくて、コーサラ国から貢納を強いられ、また、軍事的な連合援助をも強要されるよう
    な立場にあった。伝統的なバラモンの四姓階級性を継承したコーサラ国側から見れば、
    彼ら釈迦族一派の首長らはまさに外輪的な名ばかりの<クシャトリア=王族階級>でし
    かなかった。地道な仏教・仏陀の歴史的研究の成果によれば、非常に史実的要素の欠け
    た状況にも拘らず、釈尊の父親についての姓名らしき名称を得ている。その名は、王族
    貴族風の感を思わせるものではないようだが、何か社会的職目的に地位と名誉を得てい
    るものだとうかがえるものだ。

    その父の名称<シュッドーダナ>という言葉でもって表される意味は、<浄飯=浄らか
    な米飯>ということのようだが、そこにはやはり、今で言うインド特有の<カースト=
    階級性>のクラス(職姓階層)の表示が認められるようだ。
    おそらく<おいしいお米栽培と精米の技術など>の開発生産に貢献したところの、栄誉
    ある称号をコーサラ国王から封されたものかも知れない。そしてその上納も毎年なされ
    ていた。それはまた、父祖の代からのその地での大々的な地域開発から始まったもので
    あったかも知れない。

    釈尊自身の名も、<ゴァータマ>という名称を伝えているが、これも、農耕に関連付け
    られた意味を持つもので、<最上の牛>を表すものだ。これも、その当時の職姓クラス
    の類を示すものであろう。しかし、後世インドでは、牛が聖牛として非常に尊ばれ、現
    代にまで至っている現実を考えると、牛の人間社会に対する貢献度がいかほど多様に価
    値高きものであったか、その長い時代史的状況を察するばかりのものであり、また大い
    なる<仏陀釈尊>の存在による相乗効果も相成って、聖牛とされるに至るは、当然と見
    なす他ない。

    釈尊は、<麻耶=マーヤー>夫人から生まれたということは、ご存知、よく知られた事
    だが、その生誕時に関わる神話化の伝えはさて置き、その史実的な仏伝によれば、母の
    麻耶夫人は、その誕生の7日後にお亡くなりなさったという。難産で産後の身体的回復
    が思わしくなかったことで、悲運を見たのであろうか。それで母・麻耶の後、面倒を見
    て育てたのが、その妹ゴゥーミタだったと伝えている。少年期の伝えは皆無らしいが、
    十六歳から二十歳位のうちに結婚を果たしたらしいとの諸仏伝の記述を見出すという。

    日本での過去の時代に見られるような<元服>という慣例的儀式(成人としての認めの)
    が、当時のインド社会(アーリヤ・バラモン教社会)にあったかどうか、調べてみる余
    地がありますが、ともかく何らかの、例えばカースト制の慣例などに因したことによる
    早婚が行われたということも考えられようか。、、、伝統世襲的なコーサラ国では、バ
    ラモン(司祭階級)の子息だけでなく、王族・貴族階級の子息も、その青少年期には、
    しっかりとした教育を受けるべく、慣例的にその学習期を遵守していたらしい。これは
    後になってそのバラモン社会では、その法典化がなされ、四つの生活人生期に区分規定
    されたその最初の第一期に相当した。(学生期、家住期、林棲期、遊行期の四生活期)
    果たして少年期の釈尊は、れっきとした師の下にその学習期を過ごしたであろうか。

    バラモン系、あるいは他の有能な師のもとでの教育はされなかった、欠けていたからこ
    そ、かえって釈尊という人物をして、かの大成を成し得たのではなかろうか、とも推定
    されうる。彼の父親・シュッドーダナは、公務に忙しく、その部下や配下のシュードラ
    (隷民=カースト制の最下位のもの)の苦情、応対管理の雑務もあったりして、息子へ
    の教育は、はなはだなおざりであった。が運よく祖父がその教育の任に相応しかったの
    ではなかろうかと見られる。その祖父が父より大いなる人徳の人で、成長する少年釈尊
    に与えた影響は、予想以上に大きなものだった、、それは後の釈尊の人生を決定的なま
    でに運命付けるものとなったと、仮にでも理解できよう。祖父の少年・釈尊への口癖は、
    いつも次のような言葉で、釈尊がその<さとりの成道>を成しうるまで、彼の脳裡から
    離れなかったものだ。、祖父好みの手作り自慢の”乳粥 ”を頂くおり等にはいつも、、、
      
    ”子よ、ゴァータマよ、知恵を得よ!、さとりを得よ!、世界を我がものとする
     ほどの、大きな知恵を!、大いなるさとりを! 得よ!”

    と、これが少年ゴァータマの祖父の、彼に対する強烈な印象付けの口癖だったのだ、と
    仮定出来る状況のものではなかろうか。ガヤー(ブッダガヤ)近隣の河辺の仮休息の場、 
    体と命のすべてを注いでの修行、求悟精神の数年と苦行の日々を経て、普通の生活生存
    では決して得られない経験的もの、<体得の結実精神の何か>が有難き”乳粥 ”をすす
    り頂く縁幸の謝を思い、疲労困ぱいのからだ意識の内から熟し出ずらんとしていた。、

    彼、釈尊の内には、そのような確固たる祖父の言葉に根ざした、そのあるリビドー的動
    因が潜在的にその少年期をして記憶の内に培われていたからこそ、<大いなる悟りの境
    地>を開き、その成道の完成をなし得たのではないか。、、その当時のインド時代にお
    いて、彼の<悟り>の<縁起観>や<無常観>は、<輪廻>の既知通念に代わる、いま
    だ誰をも悟り得なかった、最上のもの、世界および人界を総握したる如き、壮大なる智
    慧の発露であり、そこから展開され得る<理法の言葉>と、その精神性の無量の始まり
    だったとは、誰が知り得たと云えようか、、、、。 
                 
  
 ロ)キリストに起源するキリスト教に関してはどうか、この宗教はまぎれもなくヨーロッパ欧
   米世界の形成を大いに培ってきた諸要素を多大に秘めたる思想でもある。この宗教もまた、
   低次な意味で死後における”霊魂永世”、そして”死後天国”という一般的な通念のもと
   に”死 ”という現実を受けとめている。この点に関しては仏教とも相類比するであろう
   が、しかしそれは、ギリシャ思想(哲学)など他の思想との交流発展の中でヨーロッパを
   形成してきたキリスト教という既成宗教にかぎってのことであって、イエスキリストの存
   在本来の次元と、ヘブライ(古代選民イスラエル)史の存在をその起源とする”聖書 ”が
   啓示したる次元から見ると、全くその違いが判ってくる。

    キリスト教は、ただ単にヒューマニズム(人道)的なキリストの教え(愛の倫理)だけ
   だったならば、キリストの12人の弟子たちによる初代キリスト教団の成立さえもなかった
   であろうし、いわんや、その永久的な歴史的存続発展もなかったはずである。その場合に
   は悲惨なイスラエル民族に残されたものはユダヤ人固有のローカルな民族宗教たるユダヤ
   教のみがあるだけであったことになろう。
   キリストイエスの生涯は、33才半という短い人生で終わっている。イスラエル王国を建
   て直すメシヤとして、あるいは偉大なる宗教の教祖として、70才あるいは80才位まで
   生きておられたらと誰しも思うことがあろう。当時の弟子達ですらそう願っていたし、ま
   さかこんなに早く、その結末がくるとは誰しも思っても見なかったことである。

   12弟子たちの集団は、キリストの死後(十字架の死)解散し、そのまま消滅することは
   なかった。普通ならば集団は解散し、人々はそれぞれの日常生活に戻ってゆく訳である。
   一体何故、そうならなかったのか、、、、、それは、そうなさしめない確かな理由、その
   確固たる事実があったからである。 その事実とは、本当にキリストイエスが三日目に墓
   から甦り、弟子たち(女たちを含めて)にその姿を現したということ、40日の間に度々
   現れて、彼らとの会話の交わりをなされ、神の国のことを語られ、彼ご自身に関わる真理
   をさとされ、その約束と宣教のメッセージを彼ら弟子たちに託された事、これらの事実の
   ゆえにキリスト教は、その初代の段階で確固不動、不朽のものとなってゆくのである。

   もし、このキリストの復活が起りえなかったとしたら、キリストの十字架の死はただ単に
   まったく歴史的な不慮の死、無益無縁な死でしかなく、十字架における彼の存在の真理も、
   その救い(贖罪による神の救丞)、それにおける神の人への”愛の啓示”もあり得なかっ
   た事になる。

    キリストイエスの短い生涯(33年半)は、それ故、旧約聖書における預言の成就と彼、
   自民族、イスラエルの存続してきたことの目的、意義の完了成就を本来的に強く意識し、
   意図したものであった。 彼イエスは、旧約聖書の預言を成就することで、自らの人生を
   全く制約されざるを得ない方であった。 そして、その人類史上例を見ない、驚嘆すべき
   公生涯(およそ3年半)を人類史に刻みつけ、見事に最高のかたちで、その存在真理の大
   輪の花を咲かせたという訳である。

   神の子に位置づけられたロゴス(キリスト・イエス)が、自らのロゴスを刻み記した、自
   らの存在のゆえに在りえた、その自らのための旧約聖書の為に、その地上での短い生涯、
   33年半をもって、自らの存在目的の意義を全うされたという訳である。このようにキリ
   スト教は、キリストイエスにおける確固たる外的な事実と、それに心内的に呼応する個々
   人における確固たる内的事実において成立発展している宗教なのである。
         
    神の子としての存在のキリストイエスが、いつの間にか<神そのもの>となってしまっ
   た。<父なる神、子なる神、聖霊なる神>として、それぞれ位格において個別的神格であ
   るが神性という存在本質においては同質同一であるという概念理解を得ることによって、
   いまや三者は一であるとの非常に高次元で、超高度な<三位一体>という教義(教理)を
   歴史の過程で打ち立ててしまった。これは、キリスト教信仰における超理性的思惟による
   <神認識>の教義的結実であるが、、、。

   <神の子>としてのキリストがいつしか<子なる神>という受け止め方、考え理解の仕方
   へと変ってしまった。キリストの在世存在のインパクトが、キリストの存在そのものへの
   認識理解を求めるあまり、神と同格の位にまで押し上げ、<子なる神>という言葉概念を
   案出してしまったのだ。このことによってキリストの本来的な意義、キリストがキリスト
   で在りうる、元々の存在の意義が、ぼやけ薄れてしまった。それゆえキリストご自身がお
   説き示された福音の中身そのものとしての<神の国=天国>もいつしか<死後天国>にす
   り替えられてしまったのだ。それと共にキリストの命と存在を代償とする<十字架刑>に
   よる罪の贖い(神への贖罪の義)に基づく<罪の赦し>が<救いの福音>という<福音の
   中身そのものの全て>になってしまい、その<死後天国>へ行けるために信ずべきはキリ
   ストの<十字架の福音>という教理的位置づけを得てしまうものとなったと思われる。
   とくにヨーロッパ中世のキリスト教会が、アリストテレスの<宇宙的天体論>に端を発し
   た2世紀のクラウディウス・プトレマイオスの<天動説>世界観に依拠したる、<天上界
   教説>を堅持したることは、その趨勢を物語るものと言えよう。(この事は以後章2−2
   にて言及)
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 両宗教に関わる結論として云うべきことは、近代から現代に至る現代仏教が、万象の壮大宇宙
を仏法の思惟様式で新たに受容し直そうとしてきたこと、そんな試みにおいて<本源なるもの>
を唯物的な側面からも、唯心的な側面からも久遠究極の<命=いのち>という壮大なものとして
表示しているわけで、<一切はそれを本源とし、また一切はそれへと還元する>という仏法史観
でもって、宇宙を観受し、その究極本源の<命>の心格(人格的なものとして)をして、それに
<仏>を即一させて、現代仏教の真髄的<教義=教理>を完成に導いている。これは、キリスト
教と対立並行的ではあるが、きわめて隣接した教義的側面を示していると言えるものである。

他方、<命の宗教>とか<命の言葉の宗教>だと自負しても良いと云えるキリスト教はどうかと
いえば、<命>そのものに関しては、仏教でみられるような東洋的観想の<究極的概念>でもっ
て、そういった壮大なる<命の心格>の教義を打ち立てることはできないのだ。それゆえ両宗教
の違いは歴然であり、その本質的な面での融合などは永久に起こる事は無いと云えよう。それは
やはり歴史的オリジンのちがいであり、<人間からの最高の知恵発露とみなされる”自然宗教 ”
としての仏教>と、かたや<歴史と自然の中への啓示ファクトから発展した”啓示宗教”として
のキリスト教>という、双方両者における根本的な相違を否定し去ることが出来ないからである。

ところで、こういった両者の相違を踏まえつつ、さらに違った視点から見直すと、新たなる視野
が開けてこようかと思う。つまり、人類史を<宗教的な流れの面>から観ると、この二つの宗教
は、明らかに西洋エリヤ方面と東洋エリヤ方面とに隔別分岐の流れをたどっているが、そのよう
な歴史事情の場合、その古代的な存立の意義が、今現在の意義との係わりの過程で、<真理の世
界観>に基づいた見方をすると、それらの意義が双方歴史的時間を超越したかのように直結して
いるという見識を得るに至るということである。具体的にそれはどういうことなのかということ
になるが、この二つの宗教が、それぞれ共にいまだ成立していないはるかな昔に、それらがやが
て人類有史時代になって、厳然明確な形でその歴史を刻むことになろうということが明確に起源
付けられ、運命づけられた格好の現実性が秘められていたということを意味し、その運命の糸に
係わる起源付けファクトとは、<命の木>と<善悪を知るの木>という”エデンの園”で現示さ
れたそれである。エデンの園といえば、アダムとイヴの物語で馴染み深いが、その伝説を伝え継
承していたのが先祖代々からその血統でつながっていた<ユダヤ民族>だということが知られて
いるが、何んでまた、そんなところに起源付けがあるのという疑問反論が出てくるかも。それは
無理も無い当然のことですが<人間観、あるいは人類起源論>の違いや先入観があるからそう云
わざるを得ません。とにかくこの有史以前からの伝説のファクトは、その時点から未来永劫に至
る人類人間界に関わる<象徴的暗示予言>の役割を果たしているものです。この<象徴的予言>
の内容を具体的に云わなければ、何んにも分からないということですが、、、、、、

まずは<善悪の木>のファクトから云うと、それが示唆する人間の根本的存在基底が、人間の知
性とか本性全般における全ての可能性の実成として、つねに<純粋に自然ベース>で展開してゆ
くことになる、そんな事象の生存相を限定暗示してるんだということを知らなければならない。
その自然ベースの可能性の生存展開には、<エデンの園の物語>創世記の文言で見られる如く、
神がかの誘惑のへびをしてイヴに向かって言わしめた<ことば>の意味する内容も含まれており、
実際に ”、、、目がひらけ、神のようになるでしょう ”という言葉は、予言の言葉として、
幾多の古代王権文化の歴史上でその足跡をしるし成就している。この純自然ベースでの人間の可
能性の最大のキーポイントは、<人間自らの能力による善的にして最高の、あるいは最大の人間
性の発露、その精神的所産、あるいは文化的所産>を加味せられたる、その<象徴的暗示予言>
ということにある。それは身体をともなった精神的能力の面ばかりでなく、身体を主とした多様
な能力をも含めてのことである。、、

次に<命の木>のファクトに関しては、何を読みする<暗示予言>となりえているのか、それは
人がその生存的生命を保持しているが、もはや如何なる自分の能力をしてもその<命の木>には
至り得ないという運命的な存在の基底において、<純なる自然ベース>では実現不可能な存在相
の<何か>、つまり神の係わりの業(命に至ることへ啓示および命そのものの啓示)によっての
みその可能性がありうるとして、そのファクトは表象意味予言をしているのです。神と人間との
間、その関係においてこの二つのファクト<善悪の木>と<命の木>は、必須の存在基底であり
排除できない現実性のものであった。そういった状況で、人はくしくして<命の木>への係わり
の生存権を失い、前述の如くその一方だけに係わる純自然ベースの<存在基底>の生存権のみに
踏みとどまる以外になかった。それ故に<命の木>のファクトは、神のみが関与するところのも
のとなり、人に対して<命への救い>・救済救償を要請する起点起源的ファクトとして、神様が
それを受容し活かし給う<象徴のファクト>となったわけだ。これらの事実は絶対であり、世界
がいかほど<進化論や無神論>あるいは無神論的宇宙観を唱えようとも、この二つのファクトは
厳然とし、否定し去ることはできないのだ。かえってこの二つのファクトの可能性から神の世界
の完成が見えてくるのであり、<神の国=天国>はその完成にありて、実現するものなのだ。

人間の側からの人間のみによる善にして最高のもの、そのさらなる純化せられたるもの、神から
の何んの手助けも関与も無き<自然ベース>での最高の所産と、神が関与、手引きの限りを尽く
した<啓示ベース>からの最高の所産とが、そこには結実の栄光となって具現化することとなる。   

 2-2). 宗教での”救いの原理諸相 ”


 宗教での人間の”救い”というテーマをその原理的諸相において、まず初めにその例を”イン
ドの古代宗教”での場合をも取り上げ、考えてみたいのですが、先ずはその前に念頭にしておく
べき事柄をあらかじめ示唆しておきたい。

 現代という21世紀の時代を踏まえて、還る見るに、先の18〜20への3世紀間の過程で、
何ゆえに第一次、第二次の大戦による滅亡的文明の没落を経験しなければならなかったのか。そ
の当時の人類の生存傾向は、ある面で<古い精神的に規制され、拘束されたような概念や体制的
な慣習>から解放され、その自由をもって羽ばたきの人生思潮を謳歌するような新しい時代の一
面をも有していたのだが、近代国家という名の<国づくりの形成、成長の依って立つ基盤的国力
>があまりにも軍事力面に偏りすぎ、危ない国威のせめぎ合いの関係各国の国際情勢の中に置か
れ、その時代史的傾向から抜け出ることができない、因果な宿命を辿って行ったといえようか。

それぞれの国という枠組みの中で、人々の生存活動は、自由の羽ばたきの可能性を得ているが、
経済、文化、商工業、産業の面では、その拡大発展の傾向を進み出したばかりだったが、その規
模は多方面に及ぶことなく、いまだ小さくて、本当の意味で、全ての国民に豊かさを与え、その
生活を保障するものではなかった。人は、平和的な経済文化、産業への活動に従事する以上に、
軍事面(軍事産業を含めて)での仕事、軍人や兵士、あるいは他国への傭兵として生きる人々の
ほうが多かったと思われる、そんな危ないアンバランスな時代であったのだ。20世紀に入って
遂にあの悪夢のような二つの大戦(1914−18、36−45)を仕出かすものとなる。世界
中の全ての一般国民は、惨憺たる悪夢のような悲惨を被ることになるが、軍人やその手の指導者、
国家体制のしもべらは、自分らの時代だとばかりにその士気を揚々としていたであろう、その緊
張が心を潤したのであり、悪夢のような悲惨を感じることはなかったであろう。わが国、日本軍
部の軍人にありては、その敗戦ムードでの最後には、悲壮なる思いで自決するほかなかったわけ
だが、、、、、未曾有の人命的被害と未曾有の文明経済的損傷破壊に見舞われた、そんな大戦後
の新たなる復興の営み、その始めの時期(10年とか10数年とか)は、大変な生活状況を味わ
うものであったが、21世紀へ向かってのその文明の再構築は、まさに驚異的な進展、繁栄の拡
大成長を謳歌するものとなった。先の時代とは比べものにならない無限大なほど、多方面、多様
にその文化事業規模や経済規模の拡大を呈し、その文明形成の質と技術ノウハウ、そのシステム
コンセプトが先の時代ものとは、考えられないほどの格段の違いを見せているのだ。現代文明の
勢いは、この地球を一色に覆うがごとく、地球規模で発展し、地球環境が問われ、地球大地の改
善、環境づくりが注目されるべき活動課題ともなっている。そんな夢のような21世紀ではある
のだが、決して予断を許さないような、危ない面がなくなったわけではない。核兵器を頂点とす
る破壊力の極まりない軍事力が、先の時代よりもはるかに増して飛躍的に現前しているからには
すべて良しとは云い難い、未来恒久、真なる平和的発展を保障された驚異の現代文明だとは未だ
言い切れない、諸々の問題をもはらみ抱えているのが現在の状況のようだ。

このような文明の進展も、技術と社会の制度、あり方の発展によるものだが、果たしてこれが最
善の評価を自らに帰するものとなり得るのか、また不断にその価値ある未来的進展の途上を維持
しえるであろうか、現代文明というこの巨大文明の破局が決して起りえないと断言することも出
来ない。
科学社会主義・システム技術による文明が人間を救済する、あるいはしているのだと言って、宗
教のような前時代的過去の遺物はもはや用済み、不要であると見なしている現代人も多いことは
否めないのだが、しかしそんな人々は、人間としての何か本来的な自覚、自己認識の出来ていな
い、且つ、現代をよく見ることを少しも行っていない人たちであろう。

我々現代人は、現代を知ること、よく理解すること、現代がよく見えなければ、普遍的絶対の真
の<人間救済の真理>及びその道しるべへの心情的想起・想着の念を持ち得ないまま、その人生
を終えてしまうことになろうか。現代を知ること、現代がよく見えるためには、現代にいたる過
去(の歴史)を知るという方法以外にない。しかし、そのような歴史の学習は、大概に学生時代
にやって来たことじゃーないかと云うことになるわけだが、そこが19世紀の頃以降からの世界
的な教育体制の落とし穴となっているのだ。つまり国家の政治的指導者たちの<国民への洗脳教
育>として、<人類史の歴史>を学ぶ前に<ダーウインの進化論>を持ち上げ、それに根ざした
一大体系の<進化論的生命史>(これはダーウウィンが最初に生物の類的比較の観察実証による
推論でもって進化という<仮定概念>を明確に論理表示したのが始まりであり、それ以後すべて
の関連されうる諸科学が想定創作的に推定裏づけの発展に寄与するかたちで、その統合史観的一
大絵巻物となったような知識の偶像)の知識を脳裡に刷り込むことによって、実際の人類史にお
ける最も肝心な深みのある人間性の面とか、精神的な事柄をまったく見えなくし、ただ外面的な
出来事、年代的な事跡事象の事柄ばかりの<物覚え>の学習、ひいてはそれらを必死で詰め込ま
なければならないような、<進学受験>のためだけの学習という次元のものとなっているのだ。

 我々は、真の意味で古代の先人たちの並々ならぬ<知への情熱>、その努力の所産に、その歴
史的道しるべに省察の眼を向けるべきだ。たとえ我ら現代人がある面での<真理の頂点>に現在
的に立ち得ているものであろうとも、、、、、現代を見る、理解するという意味で、ある標識の
ような目安の見識を持つために、その一例を挙げて、<救済原理>の歴史的な念頭前提となし得
たらとの意図で、ここでは古代ギリシャの代表的哲学者アリストテレスとその時代を起点とした
人類史的過去と未来との世界観的な思想表示の是非を問うて見よう。

当時のギリシャ諸都市、アテナイを中心としたギリシャ文化の発展は、先のオリエントの大帝国
ペルシャとのたび重なる戦役後も、ずっと対決競合の関係のただ中にあり、その国境的な競合領
域のイオニア(小アジア西岸諸都市を中心とした地域)や地中海の東海岸などは、その経済的利
権利害の上でかなりナーヴァスな緊張関係にあった。BC450年前後以降からの大政治家ペリク
レスの善政によるアテナイの繁栄はその隆盛を極めて、同時代人のソクラテス、その門下のプラ
トンや彼を師と仰ぐアリストテレスに至る古代屈指の極めて稀なる<学問の文化の華>を大成さ
せるものとなる。貴族出身でもあったプラトンやその弟子アリストテレスらは、強大なオリエン
トの帝国ペルシャをかなり意識して、自国アテナイの富国強国的繁栄の為、その学的知識の向上
強勢に意を注いだ。とりわけアリストテレスの情熱と甚大な研鑽努力は、古来からのギリシャ語
において培われた言葉の理論的演用方法など、目を疑うほどの諸分野にわたる広汎な学的用語と
その概念の定立集大成をはじめとして、諸学問の体系化と、諸科学への基礎的な方法論・思惟思
考の方向付けを確立するものとなった。彼にとっては、かってのイオニア学派のターレスらを初
めとする古人、先人、あるいは同時代人の<知の所産>を省察、批判、同感移入しつつ、その意
義ある思惟思弁の論理の大成を打ち立ててゆくわけであるが、それはまた、そのさらに古い伝統
的な神話的時代からのホメロスやヘシオドスの所産(その叙事詩:オデェーセイヤ、イリアス、
仕事と日々等)に関わる<神々の世界観>に係わる、その受けとめ方、即ち、世界自然について
の神話解釈や、崇拝的な信心のあり方など、ある意味で大いなる刷新を試みていると見られる。

そのことは、長年、古来ターレスらイオニア学派(BC6世紀)など、最初期の知の探求、建学の
士たちの希求するところと意を一にしたことでもあった。ギリシャ・アテナイ国家の世界天下の
野望は、アリストテレス彼自身においては、<セム系種族>と彼自らが判断した、かの強大なペ
ルシャ帝国文化の背景的核心をなしたる、特に学問、知識の諸思想、および宗教面で、これらを
凌ぎ、優越に至らんとする国威の高揚にあった。その当時(BC4世紀中葉)のペルシャ帝国内の
一般諸民衆の支持した有力な宗教は、確かに古来から国教是認となっていた<ゾロアスター教>
ではあったが、学問的(神学的)な面では、ユダヤ・ヘブライ思想が有力優位な位置を占めるに
至っており、かなりヘブライ化した兆候を見せる状況であった。アリストテレスはこの大帝国ペ
ルシャ領域内の最有力のヘブライ思想に優越対峙すべく、ギリシャの国威掲揚の大業をなし得た
訳だが、これが後のアレクサンドロスのペルシャ遠征への精神的な自信、支柱ともなったが、師
から教養教育を受けた少青年期は、それほど彼への尊敬の関心度が高まった訳でもなく、哲学的
な知や論理よりむしろイリアスなど神話上の英雄譚に魅せられ、その反抗期的な時期もあった。

アリストテレスがギリシャでの名声ある博識の師であることに気づかされたのは、マケドニアの
王に即位してからのことであったから、師への対抗心、自己主張の若き情熱が、別方面で燃える
ものとなったのではないかと思われる。アレクサンドロスとの関わりはさておいて、アリストテ
レスは、オリエント・ペルシャのセム主義・ユダヤ神学思想を暗黙の内に意識しての、それに対
して、自らの哲学および諸学説の論を結集して、如何ような思想的応対をなし得るものとなった
のか、この自然歴史的な結果状況、この点がここでの一例として挙げている世界史における重要
な基底点となろうか。我々は、ここで彼アリストテレスが、今まで誰も思惟理論で以てなし得た
ことのなかった、まったく<新しい世界観>を表明することが出来たということを知らなければ
ならない。人類文明のあけぼの、その先史から有史へと、メソポタミア、エジプトの文明は、他
地域と比べ、大きな発展の歩みをなし、古代世界での大きな文明圏の流れを形成方向付けるもの
となり、時代はやがてその時を経て、強大な世界的規模の帝国ペルシャ時代へと至る。その数千
年の間、人々は、世界や自然の存在そのものに関して、何かを知るという<知力>をもって理知
的に認識する必要もなく過ごしてきた。そこではあるがままに感覚的に世界を見ていたわけで、
その社会的共同の生活生存のため、時節を知り、時と季節のめぐりのしるしを定める必要から、
日や月、そして星々の運行などの観測に最大限の努力を払った。しかして、そういった面での目
測的数概念の天文知識は、意外なほど豊かな観測経験知となって蓄積されていった。

ユダヤ・ヘブライ思想の源となる<旧約文書(聖書)>時代の到来も、この帝国ペルシャ時代に
あって盛んになった訳だが、そんな状況の時代領域では、神(唯一神)あるいは神々への信仰心
が生活に密着するほど身じかなことであったので、ギリシャのような領域外での哲学的思惟の発
現も、その思潮的な流れもなかった。まさにアリストテレスの宇宙的世界観などというものは、
問題外の、さらさらの領域外のものであった。このグローバルなオリエント地域では、旧約聖書
の創世記や、その他の文書記事での表示から感じ知られるように、世界は、天と地の二元的な様
子のものか、半球体的な天蓋を擁しての天と、その下なる地上界が相対してあり、それに地下な
るヨミとか冥府とかいった場所的なものが想定された、まさに延々旧来の<目に映るままの世界
観>であった。アリストテレスのその斬新な宇宙世界観は、大地が相当な規模の大きさの球体を
なしていると憶測し、この球体地球の中心を基点として<天の天球体=天蓋層的に見える天球>
が、同心円的に廻っているというもので、いわゆる地球大地は不動で廻らないから天球天動説と
いった立場のものとなる。彼のその<天体論説>では、その大地から天球までの宇宙が非常に詳
しく運動の原理原因、そして始原質料(四つの元素及びすべての源なる第一元素らしきもの)等
を踏まえて、論理論証的説述を試みている訳だが、しかし、太陽やその惑星、月、そしてその他
の星々(恒星)に関しての実体、実質的な知識は皆無だから、いまだそれらが球体のようなもの
だとも断定されていなくて、ただ<神的なもの>、つまり天上的なものというイメージを思わせ
るものとなっている。そして、太陽や月、遊星(火星、金星、木星とかの惑星)はそれぞれが別
個の運行天球を以て運動していると見なしている。恒星のすべてに関しては最上位の天球体の内
全面に張り付いた感じで、その天球が廻転することで永遠的な運行を現すものだとしている。ア
リストテレスは、このようにすべての事物、対象物体を客体的に観察し、その経験知や従来所与
の知識を踏まえて、思惟論理を展開するという科学的思考形式を示しているので、このゆえに諸
科学の祖と言われている所以で、そういった思惟傾向の主体的人間性とその論理形式、思弁方法
論が以後、長きにわたる後世の人類精神史(ヨーロッパの歴史など)に大いなる発展的な影響を
与えるものとなる。

しかしながら、彼の<宇宙的世界観>は、アレクサンドロスの東方オリエント遠征後のヘレニズ
ム文化圏到来以後、これが大いに民衆レベルまで浸透して行った訳でない。
依然旧来の感覚的な世界観に何の疑念も感じることなく、日々が営まれるようであった。ほんの
一部の知識階級の人々、アテネ(アテナイ)やアレクサンドリア、またペルガモ、アソスなどの
小アジア北西海岸の諸学派の学者、学徒らが、学び、保伝承するに過ぎなかったようだ。やがて、
紀元後1世紀代にエルサレムからはじまったキリスト教が、東海岸から小アジア、ヨーロッパへ
伝播してゆく時代には、単にアリストテレスの幾多の諸学説の内に埋没しているようなものとし
て、特別に関心を引くようなものとはならなかった。むしろ、自明既存に一致した世界観として、
キリスト教と融和し、その神学体系の形成、強化に寄与する向きがあったと言える。結局、裏目
に出るような相乗効果というかたちで、その<宇宙論的世界観>は、<天動説>強化を推し進め
るものとなった。(13世紀には、スコラ神学があり、トマス・アクィナスがアリストテレス哲
学の諸学説を援用的に移入し、自然神学の刷新、その有用価値を高めたので、ローマ・カソリッ
ク教会の権威を表す象徴みたいな説となり、他分野、諸科学の発展の妨げとなり、<中世から近
世にかけての知的暗黒時代をもたらす起因ともなった。)

聖書は、地球が平らだとか、丸いとか、また、太陽が動いて、地球大地が動かないで、その中心
だとか云ったようなことを<科学風に規定断言している>と見なしうる記述文言などは見当たら
ないわけだから、ローマ・キリスト教界の聖書解釈から勝手に演繹、定義化され、教説風のもの
となり、<扁平大地説、天動中心説>が(後には聖書無謬説という建前も加担して、)非常に長
い期間、頑強なまでに継承され続けるものとなった。また天文学という権威ある学問分野でも、
2世紀の後半以降、ローマの天文学者クラウディウス・プトレマイオスが強力な<天動説>を計
測数理論的に体系化して、当世ローマ世界で高い評価をうけ、伝統的なエジプト・アレクサンド
リア天文学派を牽引しているといった情勢下であったので、初期護教時代の当初からキリスト教
界は、何らの違和感もなくその説を定説として支持し得たようだ。

ところが驚いたことにこの同じ伝統的なエジプト天文学を継承したアレクサンドリアの学派には、
プトレマイオス以前に、ギリシャのアリストテレス以後、同じギリシャ人でアリスタリコスとい
う天文学者が、歴史上ほぼ最初だと云われる<地動説>を、他の惑星も太陽を中心として、それ
ぞれ円軌道をなして廻っているとの学説を公表している。これはアリストテレスの死後、40年
ほど後のBC280年頃のことであり、科学上では、アリストテレスの<思弁的理論の天文宇宙
観>よりはるかに優れて正統的科学性を示すものだった。アリストテレス自身も過ってはその研
究で、古来エジプト系天文学の学的史料を踏まえている訳だが、そんな事由からして、エジプト
系アレクサンドリアの天文学が如何に他の地域に比べ、観測実績が豊かで、先んじていたかが知
られうる。

そんな状況から見ると、やはりエジプト・アレクサンドリアの天文学派には<天動説派>と<地
動説派>の二つの流れがあったのではとも、少なくとも、両説を念頭にした天文観測・研究がな
されていたと、云えようか。このアリスタリコスの<地動説>は、およそ1800年後のヨーロ
ッパ近代の時代まで、研究の一史料としてのみに留まり、日の目を見ないまま伝えられていたよ
うだが、それに着目し、見直したのがコペルニクスであった。(西紀1500年前後の事)彼の
論説著書「天球の回転について」は、1543年に公刊行となったが、これは彼の遺志により、
彼の死去と同時的な出版という異例なかたちをとる事となる。それからまた半世紀以上経って、
ガリレオやケプラーらの天文学者が出て、この分野での学究的知識の是正、改新を計り、<地動
説>の正しさを世に訴えたことは、あまりにも有名な出来事として歴史は語り伝えている。

17世紀になってもローマ教皇庁・キリスト教界は、この説に異を唱え、公に知られることを阻
止せんと試みているということは、何とも云いがたき、伝統とその権威よる教会理性の蒙昧さな
のか、その正当性の盲守なのかと、意を我変じるところだが、アリストテレスに始まって、プト
レマイオスにて俊英至極に確立された<天動説>に依拠した中世初期以降における<教会の天上
観教説>が、ほころび崩れ行かんとする兆候要因が見られれば、これを排除するの処置を為すは
当然でしょう、、、結局17世紀後半、ニュートンの力学・万有引力の法則による見方で、終止
符が打たれる事となる。アリストテレスがその優れた思弁論理で構築した<宇宙天体論>は、ま
さに<知の偶像>のようなものであったが、そこから派生確立された<天動説>が千数百年もの
長き時の流れを我がものとすることのできたことは、歴史の驚き、驚異、はたまた奇跡だったの
かとも、また現今の文明を省みるに、むしろ<知の暗黒中世>が長く続きし事は、かえって良か
ったのではないかとも、その評価を下したくもなるのだが、、、、

 一例を挙げての序が大変たどたどしい論述文章になってしまい、何を意図しての歴史的回顧だ
ったのか、その的が意味曖昧では何の意義もなかったことになり兼ねない。そこでその結論とし
て一言申し加えておきたい。<”すべての人間は、生まれつき知ることを欲する”=アリストテ
レスの言>、この言は地球上に生まれ、生きる全人類に、その程度の差こそあれ、当てはまるこ
とのようです。けだし、人は<知ることを欲する>以前に、知ることへのあらゆる動作を感官的
知覚によって行い、その感覚的無意識知をその当初の起点表象となしているという事も確かな事
実だから、それを<欲する>ということは、人の主体的自己形成、あるいは人格的形成に必要と
なる、何らかの<知の対象>となる事物事象を客体的に選択することへと至らせることである。

したがって、知ることによる<人間形成>とか、知識を得る、所与されるという問題は、人類が
生存する限り、常にその存在の是非が問われうる事と合わせて、その存在(人、人間である、又
は在ろうとする、在るべきだとの。)の故に、永遠に続くような、永遠的な課題となるものだ。
人間というものは、人間であろうとするなら、その精神の本性上、本質的な面で、<知ること>
によって、<自らを救う>という、知性における<救済原理>の自己展開性の一遍を現実化させ
得るものだ。したがって<人類史存続の究極の意義>は、世界・宇宙及びそれに関わる事物・事
象を知ることにあり、蒙昧、偽り、誤謬の知識ではなく、正しい、真実な、真理の知識を会得す
ることにある。正しい真理知識による自己形成的知見が<知性による《救済原理》の自己実現>
という<救い>を完了しつつあるという、その人類自らの精神的発展性の歩みとなり得る訳だ。

先にアリストテレスとその時代的精神状況、及びその後の発展性の事情などを述べたわけだが、
そこには大変な<知の誤謬、偽りの知見>が人間世界全体を被うかのごとく蔓延していたことが
知られうる。確かにアリストテレスら、古代ギリシャの哲学における<知の精神性>の発現開華
には、計り知れないほどの価値があり、その知性、思惟論理の卓越さは、その古代ギリシャとい
う時代を生きた哲人ならでわの<俊才>であろうが、しかし、それにも拘らず、言葉の概念など
豊富な言語用語それ自体を思惟対象として演繹的論理展開をなす故に、また、あたかも言葉の概
念、観念そのものの世界にはまり込んでしまっている、といったなかでの思惟ゆえに、そこには
知性の誤謬を脱し得ない、人間の精神性が見て取れるのだ。しかして人類歴史は、人間知性とい
う側面においてさえも自己要請的に<知の救い>というの最善、最高の目的に即し、その目標に
向かって、常に未完了の完了を遂げつつある如くに、その歴史的存続をしなければならない定め
を負わされているのだ。

このように考定結論づけることで、<救済原理>に係わる一例としての歴史的な前提の知見が得
られただろうと思いますが、、如何でしょう。ところで、もう一つ別の一面で、こういった歴史
の見方に係わりのある事柄を追記して置こうか。その関連参考となる生活・物文化面からの一す
じの斜陽光を見ると、紀元前2、3世紀頃には、火お越し・火取り用の<レンズ>が水晶や、製
作ガラスを研磨して使用されていた。(エジプトなど)その時は、それをあてがうと物が大きく
ぼやけて見えることが判っていたが、眼鏡への使用工作を思いつく、その必要度もなかった。
その後、西暦13世紀の始め頃か、やっと柄付きの一つレンズのめがね(虫眼鏡の感じのもの)
がヨーロッパにも登場してきた。マルコ・ポーロは、その「東方見聞録」で中国・元朝時代にも
その手のものがあったことを記している。

その物が工夫改良され、二つレンズ使用のものへと発展、耳に掛けられる仕組みのものとなり、
イタリア・ベネチアのガラス工房では、15世紀の前葉の<印刷機>の登場により、印刷本が、
大量に出回るにつれ、いよいよ眼鏡の需要が高まっていった。そして、眼鏡から、さらに遠くの
ものが近くに見えるような<望遠鏡>、筒型をしたものに二つのレンズをはめ込んでの物、凹凸
レンズをあれやこれやして、対物、接眼用など、試案して考え出される。これがやっと実用とし
たのが17世紀初頭の頃か、イタリア(1590年頃が最初)で、またオランダの眼鏡屋さんの
考案(1608年)とかで、この時、世は、なんとガリレオ・ガリレイの時代だった。

ガリレオは、直ちにその翌年(1609年5月以降))自分用の天体望遠鏡に改良し使用する。
月や惑星等、それまで<思い描かれていた天体宇宙>を直接、肉眼感覚的に覗き見ることが出来
るものとなった。歴史としてのこの<物文化>の一連の流れ、とても言い切れない、長い年月の
積み重ねですね。
(▼アリストテレスの謎、彼の哲学に裏ネタありの仮説、、《??こちら??》をクリックにて、▼)