*【現代宇宙論への布石】*


 一つ或いは二つかの世界観と一体関係にあった古い天文学(アリストテレス⇒プトレマイ
 オス系)体系の見識がすたれ、終焉の時を迎える。近世から近代への知的な探究
 心、自由な啓発的思潮の流れとして、コペルニクスやガリレオ、ケプラーらに
 よる新たな天文学的試みの考究が志向される。その流れは、ケプラーの法則が
 導出提言(1609-1619年)されてから、凡そ70年の後にニュートンの力学
 体系の結実に繋がる。1687年、かの<万有引力の法則>証明で名高い彼の
 著書「プリンキピア」が出版公表されるものとなる。

 ([注]:プトレマイオス系天球宇宙と認知していたかの古い天文学は、かって神自らが
 大いに利用活用せられることで<啓示場世界観>と併存一体関係にあったが、
 遂にその古い天文学の世界観が崩れ去る時が来たということであった。そして
 16世紀にはいよいよ真の意味での本当の<啓示場世界観>の何であるかを知
 るべき時代となってきた。
 永遠の昔に<物の世界>が創造されることで、その初めから極めて理法的な諸
 法則の成り合いに、こと準じたる現象がそのこと自体を物語るものとなったわ
 けだ。
 本当の意味での真の<啓示場世界観>とは、まさに<磁場や電場、重力場>等、
 色々な現象諸法則により成り立ち,且つ、人知を超えて秘め隠されているとい
 うことなのである。)

 ニュートンの<万有引力の法則>が広く知られて以来、天文学における研究も
 いよいよ視野豊かな幕開けの時代へと加速度的に進展してゆく。が、そこには
 地道な諸科学の発展、とくに光学、電磁気学、化学などの基礎素養を含めた、
 物理学系諸科目の基礎的発展が前提的背景媒介となり、新天文学への未知なる
 可能性と発展性に大いに寄与、進展の仕役を果すものとなる。また、数学の素
 養基礎もしっかりと出来上がっており、ニュートンやライプニッツによるその
 微積分法も加わり、その学の確立進展からも天文学的認識提示への新たな可能
 性を見い出し得るものとなる。

 星の観測に関しては、紀元前のいにしえから生活上の時、時節を知るため、農
 耕や祭事に掛けて、また暦の定めのため、一年を巡る星空の動きが星座として
 目測、定められ、占星術との係わりへの発展もより強くなり、等々と、古代か
 ら中世にいたる時代が顧みられるといったわけであるが、、、
 近代の初め、やがて世界観が一新され行くものとなりて、その近代精神の発露
 は留まるところを知らず、多様に発展してゆくものとなる。

 1610年前後以来、ガリレオが初めて<望遠鏡>により、宇宙天体観測を始めた。
 科学的に純粋な意味で天文観測を試みるという天文学一筋の近代精神が開けて
 ゆく。<望遠鏡>という天体観測の機器の進歩発展を契機に、ヨハネス・ケプラー、
 アイザック・ニュートン、十数年先出で同時代となるオランダの数学、物理ほか、
 何でも屋の天文学者クリスティアン・ホイヘンスらの自作望遠鏡による観測活動等、
 最も関心度のある科学の一分野として引き継がれる。

 ニュートン在世の時代には、年齢差はあるが、同時代人としてフランス・パリ
 天文台の初代台長を務めたジョヴァンニ・カッシーニ(イタリア出身、仏へ帰化)が
 木星とその4衛星の観測研究、土星とその諸衛星の発見研究、太陽と地球との
 距離関係の観測計算等、数々の貢献があり、同じく同時代で、デンマークの数
 学者、天文学者のオーレ・C・レーマーの数学と天文知識を駆使して、先のカッ
 シーニの木星の衛星イオの食周期の変動を示すデータを用い、<光の速さ>を
 世界で初めて算出(1676年9月)、さらに<温度に関する物理的視点>におい
 て、世界で初めて目盛り付き温度計を製作、水の沸点、融点を基準温度とした
 独自の温度目盛りを定めた。(1702年)レーマーの温度計、温度目盛りの考え
 を継承、さらに改良を試みて独自の温度計を作ったのが、ガブリエル・ファーレン
 ハイトであったと見られている。

 (レーマー以前の温度に関わる研究の先駆けは、1592年以降のガリレオ・ガリ
 レイであったと見られている。ガリレイは、物体の温度を計測することで、寒
 暖の度合いを定量的に表そうとしたが、空気による熱膨張の度合いを利用して
 計る装置の温度計であったため、気圧などの影響に左右され、定量的な温度表
 示を示すには至らなかった。その後1650年代にイタリアでは、アルコール
 入りの液柱温度計がA.アラマツニにより製作され、さらに17世紀末頃フランス
 では、ギョーム・アモントンが、そういった液柱のものや、ガリレオの温度計を
 参考継承する傍ら、水銀を用いたガラス製細管の液柱計を考案した。だが、未だ
 <温度目盛り>を表わす仕組みの考案には至っていなかった。)

 その後、温度、温度計に関しては、ポーランドのプロイセン王領グダニス出身の
 ドイツ人で、青年期後半以降オランダで活動し、ガラス器具、物理器具の製作
 技術者兼物理家となったガブリエル・ファーレンハイトがアルコール温度計(1714年)
 を、続いて1724年には水銀温度計を製作、当時の日常的温度計は、後述の
 セルシウスのものや、彼の目盛り表示のものが主流となるに至る。1731年
 フランスのルネ・レオミュール、1742年スウェーデンのアンデル・セルシ
 ウス(天文学者)らの研究と製作の系譜が見られる。
 (現在の摂氏°C、華氏°Fの表記名は、彼ら二者の名から由来する。)

 因みにセルシウスの提唱、提案した温度計は、100分目盛りだが、水の沸点
 を0度、氷点を100度、現在の摂氏温度とは正逆的な目盛りであった。
 ファーレントの華氏(°F)は、真水の氷点を華氏32度、沸点を華氏212度
 に定め、その間を180等分してのひと目盛りを1華氏度単位とした。

 その後、19世紀に入り、産業用の熱源動力(蒸気機関)の普及、発展進歩が著
 しくなるにつれ、<熱と動力>の研究が課題となり、その過程中の世紀中葉に
 イギリスの物理学者(アイルランド出身)ケルヴィン卿の名で知られるウィリアム・
 トムソンがパリで、熱機関のカルノー原理(仏のニコラ・サディ・カルノ―が発案した
 熱効率原理:1824年)及びその研究(熱効率の温度関数)を知り、<熱力学>
 の開拓、研究に傾倒(1848年~)するうちに、1854年までに、熱の力学原理で
 必要となる温度度量として<絶対温度>の概念を導入した。

 この折りトムソンは“温度が物体中のエネルギー総量を示す指標”だとの提言を
 して<温度への物理的視点の目>を開く。折りから産業用溶鉱炉の利用が盛ん
 となり、その効率化が希求され、熱温度とエネルギー関数計算など熱力学での
 必要性に迫られていた。絶対温度0Kの、ケルビン単位が熱力学分野での温度
 単位として用いられ、さらに関係する化学、物理学分野においても採用され、
 後々までも普及するに至る。

 (ケルビン温度単位は、セルシウス温度、ファーレン温度と同一次元の目盛り
 単位であるから、通常1気圧(1013ヘクトパスカル)の下での、摂氏0℃は、
 熱力学ケルビン温度Tでは、273.15Kとなり、その絶対零度<0K>は、摂氏
 でマイナス(−)273.15°Cとなる。しかし、この数値が国際度量衡の正式値と
 なるまで長い年月を要したわけで、国際度量衡委員会が審査決定をなしたのは
 1954年の第4回会議においてであった。

 1939年の第1回目の検討査定から、第二次世界大戦の影響で延び延びとなり、
 15年の歳月が流れたが、その間ドイツ、オランダ、米国等の大学、研究施設
 からのそれぞれの精密測定値にも、273.1 の次の桁数値にバラつきがあり、確
 証決定に踏み切れない状況となっていた。
 
 1954年の国際度量衡測温委員会の第4回目審議会議、及び第10回度量衡総会に
 おいて、その事態にケリが付けられ、数値が決定されるに至ったのは、日本の
 東京工業大学の研究実験から公表されたデータに基づくものであった。

 1932年以来、東京工業大学の物理学教室は、その困難な実験室の設置から始め
 るという至難状況下での後発研究の着手となったが、木下正雄教授と、助手の
 大石二郎チームが、1938年までに確証高い実験値、研究データを公表、特に
 <等温線法>による数値データが、確証裏付けのものとして高く評価されるも
 のとなる。それにより最末桁のバラつきが解消され、<273 .15>の数値が、
 採用決定されるという経緯にいたる。これにより絶対零度<0K>=
 <-273.15C°>も確定した。

 また、ファーレン温度(かっ氏)も容易に換算でき、°F=9/5K−459.67、
 および、K=5/9(F+459.67)の換算式も成り立つものとなった。
 *しかし、後にさらに定められた水の三重点、三相共存状態の一点、その圧力
 610.48パスカルよる、摂氏0.01度、絶対温度273.16Kとは意味合いが異なるが、
 <K=t ℃ +273.15K>での換算式が成り立ち充当させるものとなっている。)
 
 以上のように熱力学分野から、後々に物理、天文学とも深く関わる<温度関係
 の基礎度量>が定まってゆく中、18世紀後半以降にはより一層、宇宙天体観測
 への熱が高まり、近代古典天文学史上での最も熱い時代へと進展してゆく。
 
 18世紀末にはフランスのシャルル・メシエ(1730年6月26日-1817年4月12日)
 が、メシエ天体の一覧という、『メシエ天体カタログ』を完成させた。3巻か
 らなるそれは、1774年に第一巻(M1-M45)、 81年に第二巻(M46-68)、
 1784年第三巻(M69-M109)として発表している。

 ちなみに M-31は、星の個体も見当らない星雲として、現在のアンドロメダ銀 
 河に同定されるものだったが、これは無理からぬ事、彼の使用した望遠鏡は、
 現在から見れば思いもよらぬほど小さく、口径が10cm にも満たないものだか
 ら、そんな観測結果も当然だと云えよう。

 メシエの観測した天体のカタログ内容は、現代での観測スケールで対比同定す
 れば、球状星団、散開星団がその半数以上を占めており、残りは、楕円銀河、
 渦巻銀河、レンズ状銀河、その他の星雲であった。しかし、M-1に関しては、
 彼自らが、その名を名付けて<かに星雲>としているが、現在では<超新星
 残骸>として観測されている天体であった。

 これらの天体は、彼の観測においては、ぼやけた広がりの点状や、ぼやけた楕
 円、まる円状、薄型状、あるいは形が小さい何かをイメージさせるか、形の定
 かでない光芒星雲など、まさに彗星と紛らわしいばかりの対象天体として望遠
 鏡で眼視観測されたものであった。(彼は、彗星の発見に意欲を燃やしていた
 ので、その判別にて当初は除外リスト化していた。彗星は、単にホウキ星とイ
 メージされたものだけではなく、色々の形状を現すことが予知されていた。)

 この M-1からM-109のもの、109個の天体の中には M-42のオリオン星雲のよう
 な明るい星雲なども含まれていたが、同時代のイギリスでは、天文に関わる学
 究熱がその推奨進展と共に際立つばかりで、非常に丹念に天体観測をする人物
 が登場してくるまでになる。

 ウィリアム・ハーシェル(1738年‐1822年)は、太陽系の第7番目の惑星・天王星
 の発見に至る初期頃からの観測では口径16cmの反射鏡式(1778年の自作)を
 用いたが、1782年にロンドン郊外スラウに観測所および自邸を移してからは、
 さらに心機一転の観測をすべく、口径18インチ(47.5cm)長筒の長さ6メートルと、
 今までにない規模の大型長20フィート反射望遠鏡を回転可能なやぐらを組ん
 で設置した。

 この望遠鏡により、北半球の星空、その鏡の視野に入る全ての天体を網羅的に
 観測したわけで、主要なターゲットは、星雲、星団と重星(二重星、多重星)
 として、2500体の星雲星団と800体の二重星を観測データ資料となる天体カタ
 ログに収めるに至った。

 1816年、ハーシェル78歳の高齢となり、星空の観測もままならぬままの引退
 状況であったが、強くそう願っていた彼の息子ジョン・ハーシェルが後を引き
 継ぐ事になり、そのあらゆる面で、望遠鏡の鏡の製作手法をも含めて、その指
 導にあたりあとを委ねるものとなる。

 息子ジョン・ハーシェルも天文学者となり、父の観測遺産に加えて、南半球での
 4年に亘る観測(1834年3月5日から南アフリカで)にて成果を上げ、北半球で
 の父の分と合せて、5079体の星団星雲のカタログと、天球上での赤緯と赤経
 に基づく星図の大成発表をなした。それから十年ほどの後、1849年には、父の
 代に続くその長き天文観測の成果により、『天文概論』という歴史に残る著書
 を大成出版し、当時における天文学的啓蒙、啓発に大いに寄与するものとなる。
 
 このハーシェル時代には、彗星の発見から重星の発見に観測活動の価値評価が
 高まり移った時期で、そうした状況には未だ普通星(恒星)や、星雲、星団の
 詳しい知識もなく、その正体が定かでなかった上に、当時の天体観測者自身の
 ある種の宇宙観というイメージも、太陽系と唯一の銀河との位置関係、そして
 その銀河宇宙の中にほかの星々、星雲などがあるのかどうかも判然としていて
 全くわかっていなかった、という事情があった。そのために定常的なものでは
 なくて、星雲も含め、新奇な星々の観測発見が、天文学の新たな進展のカギと
 なろうと見たわけであった。それで当面の処、天体運動や現象の良く目立つと
 ころの新奇な彗星や重星の発見、その動きが標的となった。

 その後、1840年代にはイングランドの西、アイルランドの貴族出身の ウイリアム・
 パーソンズ(1800年6月17日 - 1867年10月31日)が、口径72インチ
 (1.8m)の巨大な反射望遠鏡を造り、47年から観測に着手、さっそく星雲
 観察を始めた。
 それまでは雲のようにしか見えなかった沢山の星雲のうち、その一部にはアン 
 ドロメダ銀河のような渦巻型の形状模様が見られることを発見した。

 また、ウィリアム・パーソンズのそのニュートン式望遠鏡では、楕円状と渦巻
 状の星雲を形状的に見分け、幾つかの星雲(地球により近いものと見られた)
 には、個体的な個々の光源をも見い出すことが出来るまでになった。
 その望遠鏡は、いまだ銅と錫のスペキュラム合金の金属鏡であったが、1917年
 アメリカのウィルソン山天文台の口径 100インチ(2.5m)望遠鏡が登場する
 その時まで、その間、数十年にわたり世界最大の望遠鏡を誇るものであった。

 パーソンズの星雲観測における新たな進展により、天文観測の課題ウェイトが
 星雲関係に向けられてゆく。
 それは、星雲の成状について、特にオリオン星雲をめぐって、先に挙げたジョン・
 ハーシェルとパーソンズとの間で論争が起き、天文学分野で注目されるべき話
 題となったという経緯も、そういった進展傾向の現れを示したものと云える。

 (その折の論争、ハーシェルは、ガス雲、パーソンズは、星の集まりを主組成
 とすると主張し、遂にはお互いの望遠鏡の性能云々、良し悪しにかこ付けて中
 傷にまで発展するが、両者ともに十分な科学的立証根拠が得られず、未決着。
 のちに分光観測が行なわれる時代になり、科学的観測の解決を得ている。)

 星雲へのターゲットは、オリオン星雲だけでなく、それからアンドロメダ大星
 雲へと移ってゆく。19世紀末期、80~90年代にはアンドロメダの観測で、写真
 撮像がなされており、20世紀初頭に至る時代は、アンドロメダ大星雲など、諸
 星雲が、銀河宇宙(天の川を有した天空宇宙)の中に位置するものかどうか等、
 天文観測研究の主要課題が、今また新たに星雲と銀河との関係に向けられるも
 のとなる。

 そんなジョン・ハーシェルやウィリアム・パーソンズが天文事情を華々しくする中で、
 蔭ながら天文学とその思考的発展に一石を投じた天文研究家フリードリッヒ・
 ヴィルヘルム・ベッセル(1784年7月-1846年3月)の貢献を無視する事はできない。

 ベッセルは、大学で学位を得た天文学者というエリートではなく、若年の頃か
 ら務めた会社(ブレーメン在拠)が貿易商品を扱う会社で、その運輸をもっぱ
 ら貨物船に頼っていたという事情から、何かと航海、海事庶事に天文知識が不
 可欠であったらしく、海図だけでなく、航路関係上での星図の読みや、その適
 用計算能力も必要とされる事情の中にあった。その頃、すでにハレー彗星に関
 わる、かのハレーの軌道計算の見直し改良にも取り組み、成果をあげる程で、
 その秀才ぶりが注目されていた、、、、。
 数学に秀でた彼は、やがて次第に天文学に自分の才能をフルに発揮する分野の
 ものと心得気づき、天文学研究家への道を志すものとなる。

 その折り、それまでに
 貿易会社で、たまたま使用していた<星図>が、グリニッジ天文台発行の船舶
 航路専用の良くできたものであったらしく、その製作監修者ジェームス・ブラッドリー
 の名も記憶の縁となった。ドイツ・ブレーメン近郊のローカルな天文台リリエンタール
 の助手として、本格的に天文学研究に励むものとなる。そこで又、おそらく、
 ジェームス・ブラッドリーの貴重な観測データ資料に出会い、未だ省みられる事の
 なかったその過去データ(3222個の恒星)を研究題材、比較資料として、刷新
 的な観測研究活動を試みるものとなる。それは、1806年頃、彼、20才代
 の初めの頃からであった。

 (その頃、ナポレオンのドイツ侵攻があり、1811年にはブレーメンが占領
 される。その直前の頃、ベルリンからすでに退避、ケーニヒスベルクに移って
 いたプロイセン王ヴィルヘルム3世の招きを受けて、ベッセルは、ケーニヒスベルク天
 文台の初台長に任じられるという、天文学の功績と、歴史事情とが関わっての
 経緯があったが、同時に天文台創設の役目をも任される。1813年にて)

 彼のケーニヒスベルクでの研究成果をも含め、天文学の本筋、紀元前2世紀のヒッパルコス
 から始まり、プトレマイオスを経て継承された、いわゆる伝統的な天文学を、真に近
 代の<位置天文学>として、その部門的確立を刷新的になすものとなる。

 (ヒッパルコスから進展した旧来の天球上での天文観測は、星座をレイアウトした
 星々の位置と明るさ、その動きであり、近代に至っても黄道を基準とした座標
 系で取り扱われていた。いまや見かけ上の仮想天球となりしものだが、彼ベッ
 セルにより<天の赤道>の制定、それに基づき、それと共に<赤緯、赤経、天の
 北極、南極>が明確に投影設定された新たな天球として刷新される。近代天文
 学に相応した観測手法、その一部門を磐石なものとなす。)

 以上のような研究成果、貢献をなした彼は、さらに1838年の事であるが、
 さらに進んだ貢献をなした。

 かって地動説を唱えたコペルニクスの時代以来、問題視された<年周視差>に
 関して、同時代の著名な天文学者ティコ・ブラーエさえも、その視差測定の結果
 を挙げる事が出来なかったという経緯がある中、それから2百数十年も過ぎる
 間、誰も測定値を出し得ない状況であった。そんな謂れの<年周視差>の観測
 に、ベッセルは遂に成功した。<はくちょう座61番星>の視差が、0.314秒角
 との測定結果を出したというものであった。

 (これにより恒星の距離計算ができる道が開ける。太陽と地球との距離を単位
 基準とした<天文単位>に、年周視差の測定値がゲットされれば、三角法計算
 の対象として、恒星の距離が出せるというものである。この距離算出手法は、
 やがて後々の<宇宙天体の距離測定>の梯子の一つとなる。また、現代に至る
 衛星観測時代になると、当然の成り行きとして大気圏外の高度な宇宙空間で、
 恒星データ最新のため<より高精度な視差測定>を行なう事にも繋がってゆく。
 ESA欧州宇宙機関が1989年8月8日、衛星ヒッパルコスを打ち上げる等々へ。)
   
 天文観測史事情は、そんな状況で進み、その19世紀後半、末頃には、スペクト
 ル分光観測や、写真技術の導入による乾板撮像観測の一般化時代へと大いに進
 歩、発展を見るに至る。(天体写真観測では1990年代まで、改良進歩した乾板
 によるものがほぼ一般的であった。2000年以降, CCD撮像が主に衛星用カメ
 ラ搭載として登場する。)

 [注]:天体観測に写真技術が適用される時代となるが、カメラ写真の登場発展は、
     1822年頃で、その最初期は、金属板(鉛と錫の合金)に感光剤を塗布加工
     した技法で、フランスから<ヘリオグラフィ>という世界最初のものが登
     場した。これに改良が加えられ、1839年に銅に銀メッキした銀板に感光剤
     加工の<ダゲレオタイプ>が登場、一方イギリスでは、すでに35-40年代
     にネガ・ポジ技法(感光紙ネガ、印画紙ポジ)の写真技術が成立していた。
     この技法のものは、ポジ印画紙での写りの品位がダゲレオより劣り、且つ   
     印画紙自体の色あせ劣化、長期保存出来ないなどの欠点があり、その時期
     には広く普及することはなかった。もちろん徐々に欠点、品質改良されて
     いったものとなったが、、、、

     1822年始まったカメラ写真は、1888年に至ると、つい最近まで盛んに一般
     化していた<ロールフィルム>によるものが登場してくるが、その数十年
     の間には、進化の変遷が見られる。
     1851年からベース素材が、ガラス板に感光薬剤で加工された<湿版>のも
     のが登場、それに代わり、
    1871年にはベース素材は同じガラスだが、加工された感光板が<乾板>に
    代わるものとしての発明に至り、78年から工場で大量に造られ、大いに普
    及するものとなる。
   (天体観測ではこの乾板式がほぼ1990年代の現代まで一般化している。)

    その後、<ロールフィルム>が1888年以降、世界的規模に普及、市場化さ
    れる時代となる。(映画のフィルムもその代表である)この手のものに取
    って代られるや、ノーフィルム時代の登場が現今の時代状況であり、最新
    現代のCCD、CMOSによるデジタルカメラでの写真技術は、従来的なベー
    ス延長上にはない、異次元レベルでの革新的技術で、印刷関係だけでなく、
    様々な情報機器と結連し得る、或いは連携できるものだ。

 《化学分野では新元素探索、発見への研究が加速し、それに関連した無機物、
  有機物を対象とした化学実験がブームとなって進展してゆく。その傾向は、
  化学の反応実験に電気の利用が研究され、19世紀代からは電圧をかけ、液槽
  内の特番電極によって試料物、溶解液の分解、析出などを良しとする<電気
  分解>の方法が可能となり、その新手法が大いに役立てられたからである。
  18世紀後半末から19世紀に至る化学分野の発展はまさに注目すべき転換期を
  迎え、あたかも旧化学の代から新化学時代へと脱皮し、新たにその基礎素養を
  開拓、築き上げんとする新世紀に向けた展開となった。》
 
 さて、その分野の化学では、19世紀初頭から中葉に至る過程で、イギリスの
 ハンフリー・デービーがいち早く<電気分解>実験により、1807年以降、次々と
 新しい元素の析出発見 をなすに至る。カリウム、ナトリウム、マグネシウム、
 カルシウム、ストロンチウム、バリウムは、彼による新元素の発見であった。
 さらに分離抽出の奇物質への調査などでヨウ素が新元素であると認定され、又
 すでに従来実験で見い出されていた塩素も、元素の一種であると認知された。
 1830年の頃までには、発見、認定された元素の数は55種にまでなった。
 (その中で間違っていたものが数種あった。次下でのものと見られる。)

 因みに前世紀末の1789年仏の化学者アントワーヌ・ラボアジエが自著『化学原論』を
 出版して、化学の新発展を大いに促進するところがあった。著書の刊行の際、
 書に掲載されたリスト表の元素の数は33種であったが、その内の四つ(光と
 熱素、ライム、バリタ)が誤認定の類で、ハンフリー・デービー後の時代過ぎまで
 元素扱いされていた。

 当時化学の進展にネックとなっていた<フロギストン説>からの脱却をラボア
 ジエが自著により決定的に成しえた事は、化学史の流れを方向付ける大きな成
 果となった。また、脱フロギストンと共に、暗黙の内にいまだ<4大元素観>
 が意識の何処かに留まる中、その<水>が酸素と水素から成るとの発見(1781
 ‐3年)により、何らかの進歩的兆しを得たとの新心境にあって未来への化学の
 歩みも築かれゆくものとなる。

 (水に関わる発見は、英の化学者キャベンディシュと、その追試実験をなして
 確かめたラボアジエによるもので、1787年に彼がその新要素のものに、酸素・
 オキシジーェヌと名付けている。<4大元素観>については、古代ギリシャの
 アリストテレスを介してエーテルといった第5の要素までも付随していた。)

 1800年前後の時代以降から化学実験の試みがより一層盛んに行われ、イギリス
 ではその初頭から中期にかけ、かのハンフリー・デービーの助手となったマイケル・
 ファラディーが化学実験の試みをする傍ら、それと共に関連しての<電気、磁
 気の関係分野>でも、その実験的成果と、幾多の発見の数々でもって物理科学
 への関連的発展視野の可能性を広め、深め行くものとなる。

 特に電磁気学が新たな物理学分野として開け、その発展の要となって成立して
 ゆく。(また関連的な新発展として、1839年にフランスの物理学者アレクサンドル・
 E・ベクレルによる光と電気の関係の発見がある。電極となる白金に光を照射
 すると電流が流れるとの<光起電効果>現象を見出し、この物理現象に関わる
 研究的進展の歩みは、長く半世紀以上も要したが、その理論的理解も1900年代
 初頭のアルベルト・アインシュタインの<光電効果理論>へと成果に結びつく
 流れとなる。)

 その電磁気物理学の発展に大いに関与したのは、ドイツの数学者としても偉大
 であり、天文学者、物理学者でもあったカール・フリードリヒ・ガウスや、ファ
 ラディーの実験的成果をガウスの定理、法則なども含めて、数学的に整備し、
 統合的に電磁気学(電磁場論)確立(1860年代以降)をなした、J・クラーク・
 マクスウェル(イギリスの物理学者、キャヴェンディッシュ研究所設立に貢献、初代所長)
 らの登場であった。マックスウェルは、その電磁場方程式により、電磁波の存
 在を予言し、1887-8年ハインリヒ・R・ヘルツが電磁波の生成、検出のできる
 発信器、受信器を造り、実験する事で、電磁波の存在を初めて実証した。

 (ボルタ電池の発明〔1800年〕など、電気に関する知見環境を基礎背景として
 ファラディーの電磁誘導の発見とその法則〔1831年〕、物質の電気分解におけ
 る物質の分解変化量と流れた電気量の関係法則の発見〔1833年〕、さらに物質
 の多くが、磁力磁場に対して弱い反発力を発現することを発見し、その現象を
 <反磁性>と命名した〔1845年〕。因みに後に植物学者、医学者となったオラ
 ンダのセバールド・ブルグマンスは、若い学生の頃、1778年にビスマスとアンチ
 モンという物質が特例として磁力に反発する事を先だって見出している。電気
 に関しても、1729年には電気には物質を導体性と不導体性に区分する性質が
 あるとの発見がされている。)

 《元素周期配列表の確立の時代へ、しかし、確固たるものとして
  認められて、次第に広く利用されるまで10数年以上を要するものとなる。》

 1869-71年にはロシアの化学者ドミトリ・メンデレーエフが、現在に至る元素周期
 表の原型模範となる配列表を作成、その時点で63種の元素が載せられていた。
 彼の周期表は、71年に改良された改定版以降は整然と整備されたものとなり、
 将来現在のものへと発展し得るアイデアコンセプトを要した原型をなしたもの
 であった。
 (それまで元素の種類は、1789年時点で33元素、1830年までに55種の元素、彼
 の代には63種類となっていた。現代の数の半分強であり、未だ<希土類やヘリ
 ウムを含む希ガス>などは含まれていなかった。)

 元素の原子量と周期性に関わる性質(化合物反応の類近性→<原子価>という
 言葉を周期表作成に導入していないが、)等に基づいて、形質、性質の系統、
 近似類性を嘉して配列したもので、その中に原子量を予測した未発見の空席を
 も設けて、やがてその空席が新たに発見される元素により埋められるとの予想
 がなされたものとなった。
 
 [注]:原子価という言葉概念は、ずっと後になり、原子構造と電子の配置、
     その準位に従った反応様相(最外殻電子の反応)の知見が得られる段
     階になってようやく、明解、的確な解明さをもって成り立った言葉で
     ある。その成り立ちの完結までには、およそ1世紀以上もの年月を要
     したと見られる。

     その言葉の概念的なものが生まれる源流的な背景は、1799年に化合物
     の生成、反応時での<成分元素の質量の割合>が、化合物各々におい
     て一定であるとの<定比例の法則>が提唱(仏の化学者ジョセフ・プルースト)
     され、<組成元素の整数比>が研究論議の課題となったり、また19世紀
     初頭には、<原子>という言葉を明示した<原子説>が提唱(英の化
     学者ジョン・ドルトンの1802-8年の論文、著作)されたりと、化学の進展
     的課題がその後に向けて広汎、多岐なる様相を呈して展開してゆく時
     期にあった。

     ドルトンはすでに知られていた元素に、厳密な意味で<未知なる質量
     を有したそれぞれの原子>を想定し、それに単位個数的概念を与えて
     一個単位系<原子>を基本定立させ、その諸元素の内で最も軽い水素
     を1とし、以下、軽さ質量順を想定しての番号を付して、その諸元素
     エレメントの原子概念を確立していった。

     (原子=Atomという概念は、古くから、古代ギリシャの代から伝わる
     もので、物質を構成する最小単位で、それ以上分割できない粒子を原子
     と唱えた説などあり、そんな概念ニュアンスがある原子という言葉を
     まさにドルトン自らの元素論に活用したものと見られる。)
     
     最も単純に異種の元素から成る2つ原子の結合から、化合物をさらに
     3次元、4次元、n 次元へと段階的に原子の数の組み合わせ組成として
     捉え、その構成原子の結合状態数を各々まる円でデザインした個々の
     原子マークアイコンでもって図示化、配列した一覧表をも公表した。

     この一覧表は、彼の原子論の整数比率や倍数比例の法則などを指し示
     す例証パターンモデルとしたものであった。(ただしドルトンは同種
     の原子2つの結合を認めていなかった。同元素の二原子分子の存在の
     否定、すぐ後に論議を招くものとなる。)

     化学結合の捉え方を伴う原子論は、無機化合物から有機化合物での結
     合課題に移る途上過程で、<電気化学的二元論>とも合致する形で、
     化学研究の見地、一つの目安として、1810年以降、支持進展される傾
     向のものとなった。(近代原子論の成立過程での歩みが1860年代まで
     続く。)
     にわかに無機、有機共に化合物に関しての元素(原子)と元素(〃)
     との結合の仕組み、化合メカニズムの在り方などへの関心が高まり、その
     解明が問われる研究の一側面も見られるようになった。

     電気化学的二元論は、電気知識の観念に結びつき、各元素の原子が、
     プラスかマイナスかの電荷を有しており、その正、負の電荷により単
     純にクーロン力で化合物を構成するとした考え方であった。

     この説は水の電気分解から端を発して、ハンフリー・デービーがその分
     解手法での数々の実験から、化合物中の原子を結合しているのは<電
     気力>であると、その説を初提唱した。これを支持、発展させ、有機
     化合物までを含め、その解析理論を1811年~1819年にかけて集大成化
     したのがイェンス・ベルセリウス(スエーデンの化学者)であった。

     だが、この二元論は、1820年代以降、実験結果と一致せず、説明でき
     ないケースが続出、理論上例外的破綻を来たし、化学理論の充全的有
     効性を欠くものとなる。(ベルセリウスの化学に寄与した貢献度には
     他にも注目すべきものが数々あった。元素の名前のアルファベット頭
     文字を元素記号に用いるべしの提示導入(1813年)、当時すでに知ら
     れていた元素(43種)の原子量の値をより精度の高いものとして定
     めた事(~1828年)、大学教育での化学とその研究への前提に、当時
     代の最新、最高水準の<化学の教科書>全6巻を著わした事等々、その
     数例である。)
     
     この頃、1820年代へと至る前過程の時期は、元素の質量規定の概念も
     統一的には定かではなく、ジョン・ドルトンが、<原子>という言葉で
     一様に説明的理解が成り立つとして、それを提唱、その原子理論を展
     開表明する。それでもって、原子と原子質量の概念規定の関係が生ま
     れたが、多くの化学者らの間ではその意味使用するところがそれぞれ
     に数値的誤差となって現れ、そのニュアンスの違いが歴然となってい
     た。そこへ又、化学上で意見が分かれての対立、不一致な論説問題が
     沸き起こり、その解決のために新規に<分子>という新たな概念が加
     わってきた。これが、1811-13年のアボガドロの(分子)仮説である。
      ➡ 後には仮説から法則へと公式発展もなしているが、、。

     ジョン・ドルトンの<原子論>での原子量に対するゲイ=リュサック
     の<気体反応の法則>として示された量的な比の値の不整合と、両者
     の元素の在り方、存在の捉え方での相違、矛盾問題に対して、イタリア・
     トリノの物理・化学者アボガドロが全ての気体における<特定された気体
     反応&生成>ではそれぞれの分子(二原子分子)のある定まった同数
     容積比をもって成立するとし、それらの化合事例に対しては容積単位
     の数による整数比例を見て取る事が出来るとした。これへの基底根拠
     となる理論には、以下のように、

     アボガドロが、ゲイ=リュサックの<気体反応の法則>に、分子説を
     導入して、同温、同圧下での<すべての種類の気体は、同一体積枠に
     おいて、それぞれ常に同量数の分子となる>との基底的条件を前提仮
     定した理論がある。
     彼は、この前提理論をもって、ゲイ=リュサック説を補い、化学にお
     ける気体反応則への新たな捉え方、進展を提示した。
     
     だがしかし、化学史の流れとしてはしばしの間、進歩と混迷の併行線
     を辿るものとなる。ジョン・ドルトンは、自らの<原子論>説を一歩も
     譲らないという事であったが、これには、1803年以来、<一定の質量
     比率の原子の相互作用>に基づいて、それの<ある倍数比例の法則が
     成り立つ>との説への確固たる実験結果の見識を得ていたからである。
     (彼の原子理論の実証を早々と試みた有力な実験スポンサ―役の化学者
     トマス・トムソンの協力と理論普及の貢献が、1810年以前から1820年の
     頃近くまで続くほどであった。)

     ここでアボガドロが問題に介入する以前のドルトン、ゲイ=リュサック
     双方間での矛盾不一致がどのような出処事情であったか、、その両者
     の実験手向のスタンスを見てみると、

     ・ドルトン=トマス・トムソンの実験的立場:気体だけに限定しない。

      水、アンモニア、その他、化合物(酸、酸化物)などを実験試料と
      して、その<分解の諸手法>によって反応データを出すスタンス。
      【トマスによる分解実験結果】容積比(パーセント)
       水・・・・・水素100%+酸素50%(整数比=2:1) H₂O
       アンモニア・窒素100 +水素300 (〃  =1:3) NH₃
       窒素酸化物・窒素100 +酸素50 (〃    =2:1) N₂O
       窒素酸ガス・窒素100 +酸素100 (〃  =1:1) NO
       酸化窒素・・窒素100 +酸素200 (〃  =1:2) NO₂
       硫黄酸化物・SOガス100+酸素50  (〃    = 2:1 ) SO₂ 
       炭素酸化物・COガス100+酸素50  (〃    = 2:1 ) CO₂
       等々、、、、、、
      *1810年出版の彼の著書「Elements of chemistry」に十数点を
       まとめて一覧掲載、それまでに出した実験データと見られる。

     ・ゲイ=リュサックの実験的立場:気体間反応に限定してのもの。

      水、アンモニアなどを<生成する実験手法>からのものとして、
      先ず、それぞれの気体試料の蒸出確保、続いてそれらを定量的に
      合成せんと試みる手法により、その結果データを出すスタンス。
      【ゲイ=リュサックの生成実験結果】合成反応での容積の整数比
       水の生成・・水素と酸素でのH+O、或いはH₂+O₂の構成でも
             成立せず、、、、2H₂+O₂の容積組成にて成立、
             2H₂ + O(=O₂)──── ➡ 2H₂O   
             (整数比= 2:1:2)
       アンモニアの
       生成・・・・窒素と水素でのN+H、或いはN₂+H₂の構成要素
             では成立せず、、N₂+3H₂の容積配分にて成立、
             N₂ + 3H₂ ──── ➡ 2NH₃
             (整数比= 1:3:2)
     *彼の実験研究による成果は、1808年<気体反応の法則>として公表
      される。反応し合う諸気体とそれにより生成された気体との間には
      その体積レベルにおいて、簡単な整数の比が成り立つとの法則であ
      る。(これはドルトンの反応&合成でも、それぞれその原子間での
      一定の質量比による相互作用で成るもので、その質量比をベースに
      し、またそれの<倍数比例>により成るとした<倍数比例の法則>
      に類比、合致するとも見られ得る。)

     上記の双方は、共に未だ元素の単体レベルでの<分子>の存在に関わ
     る知見もなく、またその言葉に意を寄せる知見感覚もないといった、
     両者共通の立場状況にあった。(水素、酸素、窒素、炭素などの元素が
     <二原子単体>の気体として地球上に存在、或いは常にそう成り得る
     存在であるとの現実実情の認知を未だ有しない状況であった。)

     ただ、ゲイ=リュサックの方がドルトンの<原子論>に対して、少な
     からずそれを疑問視する向きの立場から、あらためて検証実験を試み、
     その結果データに拠り、異議併行的な一石を投じるものとなった。
               
     この両者の現状直後の1811年にアボガドルが気体による化合物生成の
     <化合比率>を把握決定できる最良の方法の一つとして、<分子>を
     定立し、その概念の適用導入を提唱する論文を発表した。その掲載が
     フランスの有力な科学雑誌であったので、<分子>という言葉概念だ
     けはヨーロッパ各国に知られ、記憶に残されたが、その言葉が一般的
     に活用されるようになるのは、有機化合物の分析・構造解析や生成の研
     究が盛んになってゆく1840年代以降と見られる。(漸く原子と分子の
     概念が密接に関係したかたちで、一般化への考え支持を得る。)

     因みに1813年にイェンス・ベルセリウスにより元素名にアルファベット
     頭文字をその記号名として用いるよう提唱されて以来、<化学式>の
     表示記法が未だ不統一ながら個々に急発展し、その過程で1830年前後
     には<分子の表記>も行われ始めるようになる。

     国際的な統一標準の化学式(組成式、構造式等)の記法が定められた
     のは、1860年の初の国際化学者会議での諸事項取り決めにおいて成さ
     れたものと見られる。

     有機化合物への研究実験が盛んになるのも、無機化合物の加熱実験中
     に、偶然にも有機化合物の結晶が生じた事が知られるに至った1828年
     を契機に、それは、ドイツの化学者フリードリヒ・ヴェーラーがシアン
     酸アンモニウムから尿素という有機物の結晶を得たとの事だが、これ
     がまた、化学史上、無機物から人工的に有機物を生成し得た事の最初
     の事例となり、無機物から有機物を作ることは不可能だという以前か
     らの考えが払拭され、有機化学への多様な研究発展の幕開けとなる。

     1830年代以降、無機化合物との関連性において、有機化学の研究の流
     れがより一層、無機、有機化合物の構造解析、その結合の在り方に向け
     られた。この研究に顕著な発展を示したのは、ドイツの化学者らに負う
     ところ大であったわけだが、この過程で<原子価>の概念が主要な元素
     に対し、特定の価数をもって、その結合の可能限を認知し得るものとい
     う考えのもとに生まれた。
     これは既に集積された実験データや、それらとの関連性を踏まえた新た
     な実験による分析結果との相対、検証研究の成果によるものであった。

     ドイツの化学者フリードリヒ・ケクレが水素やハロゲン系原子は、他の
     一つの原子に結合が可能、酸素は他の2つの原子と、窒素は3つの原子、
     炭素は4つの他の原子と結合が可能だと提言公表した。(1857‐8年)

 (かの1871年版周期表には、未だヘリウム〔He〕は、新元素としてその位置
 に記載されてはいなかった。原子量の最も大きなものとして、ウラン〔U〕が
 <240>の数値で周期表での最後のもの、最末尾欄に載せられていた。

 表は、縦にローマ数字Ⅰ~Ⅷの族に項目分類分けされ、横項目は、アラビア数字で
 1から12に区分けしての周期性を示す段行欄となって、各元素の<記号名と
 原子量>が記載された様式のものであった。)

 メンデレーエフ以外にも有力化学者らにより表示方式の改良、考案が試みられ、
 こうして20世紀までには未発見空席に該当予想された元素も見つかり、さら
 に多くの新元素も加入され、ほぼ出揃う事で、ウラニウム原子番号92までの周
 期表が整えられるものとなった。

 メンデレーエフのリストも最初の原型表から度々改良を重ねて、より正確さを
 有し、有意さを込めたものへと整備、発展する。1905年には現在のものと
 ほぼ変わらないものがスイスのアルフレッド・ベルナーにより提唱され、以後、
 活用するに大いに適するとして支持され、現在においても国際的に標準な表と
 して認められるものとなる。(メンデレーエフの元素周期表:1869年版-71年版)

 丁度前年の1868年にヘリウムが、太陽光のスペクトル分析で、それまで知られ
 ていたどの物質にも属さない黄色の輝線が捉えられたが、それに関わる元素と
 して、その観測当初はナトリウム系に類属する(D₃線と属名)ものとして、未
 だ未知の、元素同定外のものと見なされた状況であった。

 だがその後すぐに、発見者の一人イギリスの天文学者ノーマン・ロッキャーは、
 彼の共同研究で第一級の化学者(王立研究所教授)エドワード・フランクランドの研究
 実績からの見識も相まって、太陽の彩層大気を構成している、地球上では未だ
 未知、未発見の新気体のものと断定して、それを<ヘリウム>と名付けた。
 メンデレーエフの周期表が最初に公表された時期と重なった頃ではあったが、
 いまだそのような気体の原子量を測るだけの諸試料データも無く、全く計測出
 来る段階ではなかった。

 ヘリウムの地上ベースの発見は、1882年イタリアの物理学者がヴェスヴィオ
 火山の溶岩分析により、そのスペクトル線(D₃)の検測結果を得て、初めて
 地上鉱物にも関わりを示すものとしてその存在が証明される。
 その後、1895年3月26日、イギリスの科学者ウィリアム・ラムゼー卿により、閃ウラン
 鉱(クレーベ石)から、硫酸を溶媒に用いて、その鉱石試料からガスを発生
 させ、その気体から余分な窒素、酸素など不純物を除いて、単体ヘリウムの
 分離、生成に成功、それをスペクトル分光測定にかけ検測、その結果太陽光
 での<D₃線>と同一なるを見出すに至る。しかも、同年代には他の希ガス類
 (ラドンを除いて)も発見され、発見者ラムゼー卿自身によって、それらが
 新たな元素として初めて<周期表でのその位置>を確定し、載せられるもの
 となる。
 
 (化学分野ではその研究活動が全盛期にあるかのような時代ともなるにつけ
 研究への価値観が新元素発見という成果目標に帰するところ大であった。
 だが、それは19世紀後半なかば以降では、鉱物源からのものとして、それ
 に価値有りと目算されたものであった。その関連に準じて試みられる分析や
 反応実験もまた、有益性に富んだ新化合物、或いは新金属への発見、生成と
 いった成果に繋がるとして、その研究価値をそえるものであった。目立つ事
 のなかった植物資料への試みさえも、薬料価値も含め、その資源的な有益さ
 を考慮して何か新しい抽出物、有機資質、効能となる特質、特性を調べると
 いった実験に少なからずその価値観が向けられていた。

 そういった傾向ゆえに、希ガス類に新元素あり、それを見い出し得るといった
 意外な考えに及ぶ事もなく、そんな発見価値も既にその時代を過ぎ去ったも
 のと見られていた。また、実験などで生じる気体はそれ自体を主目的としな
 い限り、往々にして単なる余分な副産物に過ぎないものと見なされた。
 既存の化合物からの発見の価値も1850年代までにほぼ終了したものと見なさ
 れていた。大気、空気に関して新たに問題意識の生じる19世紀末頃まで。)

 とに角、希ガス類は、ヘリウムがその最初で、他は、アルゴンの再発見と共に
 ネオン、クリプトン、キセノンが1894-5年の発見で、さらにラドンは1900年
 にラジウムの放射性大気の分析結果からの発見で、しかもその名が正式名称と
 して国際レベル並みに公に付けられたのは、1923年の事であった。)
  
 19世紀中葉までには化学者により色々な分子化合物が実験生成されて、その実
 績データを積んでおり、それに相まってまた1860年代前後には、元素の原子量、
 分子量の概念が未だ定まっていない事が問題視されることで、、原子量の測定
 のあり方、その概念内容付け規定を最重要課題として、1860年に初の化学者ら
 による国際会議が(南ドイツ仏国境、ライン川に近隣したカールスルーエにて)開催された。
 折りからその会議に出席したメンデレーエフは、その会議の題材、論議内容から
 大いに知見を得て、また、参考資料等として他の研究者の論書や懸案書、最新の
 原子量データなど、覚え書入手もあり、その後の数年の研究活動への意図方針、
 周期表作成の目論み達成に役立つものとなる。
 
 そういった化学分野での根幹、基礎素養の著しい発展が諸分野への影響を色濃
 くし、知的に寄与する事で、物理学との接点、一連的な関係をも深め、科学物
 理の隆盛思潮からは、その19世紀末以降の傾向として、全ての物質を構成す
 る諸元素基底からの<原子論的世界観>という知的眺望観が抱かれ行くものと
 なっていった。

 《原子物理学への道が開かれる。電子の発見、命名を端緒として。》

 その後、1897年にキャヴェンディッシュ研究所のジョゼフ・ジョン・トムソン が、
 陰極管の陰極から発せられる陰極線を、磁気や電気でもってその正体や特性を
 検査、解明する事により、それが負に荷電した粒子、電子である事を把握証左
 した。さらにこの粒子が、原子の構成をなす<電子>でもあるとの、ある見解
 発見に至り、以後、元素原子の考え方に大きな進歩的変化がもたらされ、原子
 物理学への基礎的素養端緒となった。(トムソンの原子に関わる電子の発見)

 (電子に関しては、1894年ジョージ・ジョンストン・ストーニーにより電磁気分野での
 電気に関わる電流の基本粒子として、その存在が先に見い出され、エレクトロン
 という名がすでに公表、推奨されていた。それ故その名が原子構成の電子にも
 適用され、一般化するものとなる。

 だが、これは後々になって<自由電子>と、元素の<原子内電子>とに仕分け
 識別されもするが、何故か、その識別が妥当になされることなく、ごちゃ混ぜ
 的な観念の下に、それでもってその諸関係領域が大いに拡大し、そこから様々
 な理論付けの数学的定式化がゲージ論的変換の整合性を踏まえたものとして、
 次から次へと提起出現するものとなる。

 これは、古典電磁気学での電子の角速度運動論と、ニュートン的古典力学のそ
 れとの狭間において解決されるべき課題であった。 ⇒ 理論物理学への発展、
 ニールス・ボーアの原子模型の電子論へ、~1913年代頃まで)

 さらに加えて注目すべき時代趨勢として、かのイギリス・ケンブリッジ大学に
 登場したキャヴェンディッシュ研究所(前世紀の物理学者ヘンリー・キャヴェンディッシュ
 の名を冠して1871年設立)、さして古くはないが、実験物理学研究所とし
 ての活動が予見される。それ以後、原子物理学の最先端を一歩も二歩もリード
 した<原子物理学>のメッカ的存在と云われる研究実績を残すものとなる。
 その関連として、ジョゼフ・ジョン・トムソン、アーネスト・ラザフォード、
 ニールス・ボーアらが、20世紀初頭の<実験的核物理研究>に多大な足跡を
 残すことになる。

 特に原子の内部構造に関する原子模型の提唱、確立の変遷:トムソンのモデル
 (1897年)から、<原子核>を発見したラザフォードのモデル(1911年)、そ
 れを経て、ボーアの原子模型(1913年)に至る研究の軌跡、さらにまた1918年
 ラザフォードによる密閉窒素ガス実験〔アルファ粒子をその中へ照射〕により
 窒素の構成要素たる水素が窒素から分裂、分離したとして、その原子粒子をば
  <陽子>と見なし、これを<プロトン>と命名しての発見等々、、まさにその
 時代の趨勢を物語るものである。水素が全ての元素の系列的初源であるとの見
 識にて、その折りには窒素原子核を破壊する事が出来たとの見方による発見、
 実験だと見なされていた。(だが、未だ原子核の構成要素の認識には至らず、
 何か、陽子も、電子と同じような存在として見られていた。)

 また、物理学での新活路として、理論物理学、天文物理学へと進展する志向性
 が一層顕著なものとなった。特にアルベルト・アインシュタインは、キャヴェ
 ンディッシュ研究所との直接的な結びつきは薄いものの、大陸側の若き研究者
 として、キャヴェンディッシュの研究成果を十分に認知把握した上での、20
 世紀初頭における最有力な理論物理学者として、天文物理学分野への布石に大
 いなる影響を残すものとなる。

 (そうした発展の背景には、19世紀中葉前後からの物理学上での並々ならぬ研
 究苦悩、努力の足跡がある。ニュートン的古典力学、光学系、及び電気力学との
 関わりから、何か融合的な物理学への進展として、原子、電子の存在理論の応
 対知見と共にそれを加味した電磁気学への理論大成、宇宙エーテル空間論の
 頂点的最終段階からの並々ならぬ脱皮〔=観念的棄却〕への究明が20世紀代
 初めまで続くものとなる。)
 
 そうした20世紀初頭への発展に至る過程では、その過去18世紀までの間に
 数学部門でのさらなる高度な発展、その体系化と、専門数理の定立化があり、
 その成果により、理論的な立証を不可欠とする物理学が、多様な課題に数学的
 手立て、手法証明をもって、数々の研究成果を披瀝する時代ともなってくる。
 (注:18世紀の数学の大家はレオンハルト・オイラー、ジャン・ダランヴェール、ジョゼフ・ラグランジュ、
 と著名な人々が続き、次世紀にはフリ-ドリヒ・ガウスや、ベルンハルト・リーマンらが
 貢献する代へと至る。特に数理物理学の分野的開発者らとも成っている。)

 19世紀には数学的定式化でもって、より綿密に物理現象、及び世界を捉える
 時代ともなってくる。するとそれと共にその物理学が旧来の天文学を強く後押
 しして、より一層高次な結び付きをなし、天文学の多大な進展を促がすものと
 なる。
 確かにその進展の背景には観測機器、計測器具など、とりわけ望遠鏡の高性能
 化、より大型化や、分光器開発など、多様な製作技術の発展、向上の歩みが、
 17世紀以降、19世紀までの3世紀余にかけて見て取れるわけだ。

 19世紀はまた、光学部門における分光学が発展する時代であった。1800年
 代前後から、太陽光スペクトル観測が盛んに行なわれ、赤外線、紫外線の発見
 を含めた帯域のスペクトルと色帯途中で色を区切り分けするような暗線、及び
 574本もの細い吸収線などが実験観測視野に入るような時代となり、色と波長
 の対応関係も定められていった。(1814年の太陽光のスペクトルの観察による
 フラウンホーファー線やトマス・ヤングよる可視光スペクトル色の波長値と可視
 光線全体の範囲幅の値が計測される等)

 (赤外線は、1800年ハーシェルの太陽光のプリズム分光での温度計測実験にて、
 不可視だが温度を上げる<熱光線>として発見。紫外線は、翌1801年ドイツの
 ウィルヘルム・リッターの実験にて、スペクトルの紫の外側の目に見え
 ない部分に<塩化銀塗布の紙>をあてがうと、すぐに化学反応が起きる事で実
 証できるもので、それゆえ<化学線>と称された。)

 19世紀中葉、1859年プロイセン・ドイツの物理学者グスタフ・キルヒホッフが、
 <黒体放射>と<分光学=法>の研究をする過程で、太陽光スペクトルと各種
 元素の放電実験における火花スペクトルとの相比関係から、太陽大気の構成す
 る成分が同定把握されるようになる。
 これによりスペクトル解析の分光法が天文観測、天体物理学での研究発展に大
 きな役割分野を展開してゆくものとなる。
 
 さらに黒体に関わる熱力学的な面での発展として、ヨーゼフ・シュテファンと
 ルートヴィッヒ・ボルツマンにより、熱輻射、黒体放射のエネルギー(電磁波)
 と温度との関係を表わした<シュテファン=ボルツマン法則>の定式化が導出
 されるに至る。(1879年‐1884年)放出されるエネルギー(放射発散度I)
 は、熱力学温度の4乗に比例し、温度Tとすれば、<I=σT⁴>の関係が成り
 立つとする。(<σ>は、放射と温度との関係を示した処の比例係数)

 19世紀末頃にはまた、光学分野に関わる諸課題や、太陽光のそれらを契機とし
 て、光そのものとエネルギーとの関係が大いに注目される研究課題ともなって
 来ていた。
 〔20世紀初頭に至る過程でのマックス・プランク ⇒ A・アインシュタインへ〕
 
 天文分野関係では、さらに
 プリズムに代る回折格子の実用化を目指す段階となり、やがて高精度の回折
 格子による分光器の出現となる。

 1814年に太陽光スペクトルでのフラウンホーファー線を発見した時の手法が
 望遠鏡に精度の良いプリズムを取り付けての観察であった事から、その方法が
 天文観測への視野を広げるものとなるが、発見者のヨゼフ・フォン・フラウンホーファーは、
 光学ガラスの有能な技術者でもあった事からガラスの屈折率の研究だけでなく、
 1819年から21年にかけてガラスに金メッキを施し、300本/mmの平行線を刻
 んだ格子を制作して実験を重ね、回折格子の原理を導き出し、その実用化の提
 案を試みて発展のメドを立てる。さらにのち、
 1882年のアメリカのヘンリー・ローランド博士の製作案のものから、その後はドイツ
 での1930年考案の、ツェルニー ・ターナー式の分光器への発展にも繋がるものと
 なる。
 (太陽スペクトルの最初期分析のフラウンホーファー線は、化学分野も含め、より
 広い科学分野への発展の契機ともなっていった。)

 (さらに2000年代に至る過程では回折格子の製作技術の発展と共に、プリズム
 と回折格子を組み合わせた細密、高分解能を可能とする分光器(グリズム)が
 天文観測装置に装備されるものとなる。焦点用設置の<銀塩写真乾板>に替わ
 ってCCD撮像検出器が搭載される(1980年代以降)ようになると、グリズムの
 分光とCCDの撮像を兼ね備えた観測機器も開発され、その実用化に至る。)

 天体観測用天文台自体の分野では、17世紀から18世紀中葉頃までの天文台が、
 航海上で利用する星図や、それに関わる暦とかの作成、或いは海域での緯度、
 経度を定めるための観測用天文台が主なるものであった。そういった意味では
 英、仏、独の内、イギリスのグリニッチ天文台が最も早い創設であった。

 自然科学的探求を主目的としたものでは、やはりイギリスのオックスフォード、
 ケンブリッジの両大学所属のもので、18世紀に設けられたのがその最初期の
 天文台であったと見られる。概ねヨーロッパ諸国の天文台は都市化光害、その
 他で次第に観測が出来なくなり、閉鎖されたり、精々丘の頂上とか、条件の適
 う場所へと移転を余儀なくされたりした。

 そんな歴史的事情を知り踏まえたなかで、新勢アメリカが、条件の最も良い山
 の頂上、或いはその付近に次々と天文台を建設してゆくという時代を迎える。
 1887年に世界初の山頂建設のリック天文台から、1894年ローウェル、1897年
 のヤーキス天文台【この台は例外で、ミシガン湖に近い海抜334mの自然豊かな
 丘陵地で、シカゴ大学所属、当初としては世界最大の102cm屈折望遠鏡】など、
 そのあと、1908年の60インチ(1.5m)のウィルソン山天文台、1919年の100
 インチ(2.5m)の設置へと続き、望遠鏡天体観測では、今やアメリカが最も
 有力視される20世紀への時代となる。1900年代初頭からその20年代を
 経過する過程で天文学は、観測設備、施設の充実により、いよいよ華々しく注
 目される時代となり、その観測研究はより一層の進展が見込まれる時を迎える。
 (1948年にはカルフォルニア・サンディエゴのパロマー山天文台の200インチ
 〔径5m〕の望遠鏡の設置が完成、ファースト・ライトするに至る。)

*19世紀末から20世紀初頭、アルベルト・アインシュタインの在世、活躍への
 時代はまさに注目すべき趨勢の時期でもあった。電磁気学と古典物理学系との
 関係、化学とその元素知識の諸進歩(放射性元素のアルファ、ベータ崩壊)、
 熱力学とエネルギー、光学と物理、天文学との関わり、そして数学分野からの
 高度な利用(数式、方程式化、ニュートンの自著、万有引力の定式化など、3、
 4世紀前に初出、端緒はガリレオかと見られるが、)関係等々、それら全てが
 大きな関わりをなす諸研究の課題的な総枠の中で、まさに関連的に煮詰まって
 きた状況ともなり、それらの諸分野的関係、関連性において一貫して矛盾なき
 体系化に結び付くような明瞭な知見レベル、あたかも<知識世界の晴れ上がり>
 を追認するかのような宇宙論観を模索する時代過程に至ったからである。

 (参考注記:ニュートン主著の原書『プリンキピア』〔略称名〕は、当時の主
       要学術言語だったラテン語で記されたものだった。
       その初版は1687年、近代科学への大いなるStep・shift、基礎付け
       方法論を示唆した内容のものだが、代数方程式、微積分などの数
       式を直に用いた記述では論じられていない。幾何学図形を用いて
       の説論が全てを占めているといった内容のものである。

       ニュートン在世時代に至っても、いまだ数学と云えば、幾何学が
       全盛の如き時代であり、ユークリッド系幾何学や、ピタゴラス定
       理の新証明研究、幾何学定理の新追求、新展開の研究など、諸学
       分野の中では必須、主要な学科状況であった。
       因みにガリレオ、ケプラーなど先人の運動法則、諸説も、幾何学
       思考に基づいて説論、式表示が定立されるものとなった。

       ラテン語からの原著名「自然哲学の数学的諸原理」= プリンキピア
       も、その本論〔3部構成〕では、幾何学的論述、論証を新開地的な
       志向性をもって、当時としては高度な知見のもとに取り行うもの
       となっている。

       原著の初版は1687年であったが、ニュートン自ら加筆、補足など
       なして、1713年に第2版、1726年には第3版を出している。
       また英訳本は、1729年の Andrew  Motte によるものが最初で、
       それの改訂訳本が、丸々2世紀を過ぎた1934年にFlorian Cajori
       によりなされ、当世現代風に合わせた訳本〔Motte-Cajori版〕の
       刊行となる。
       この訳本がスタンダードなものとして世界中への伝布となるが、、
       その時代、1930年代前後は、諸科学の発展がいよいよ目ざましく
       特異なまでに進展して行くさ中であり、まさに意義深き出版とし
       て、<古典力学>の復刻、再考展開を謳うものとなる。因みに
       20世紀後半以降の人工衛星、宇宙科学開発への基礎理論的足場と
       なる。)

 科学史的に見て、19世紀後半~末、20世紀初頭に向けての
 進歩は、学会や研究機関での論文公表、研究成果の発表、
 各国研究者らの人的交流など、活発に活動状況が増大する
 時代背景もあり、未だかってない急速、驚異的な科学知識
 の集積情報の発展途上を行くものとなる。

 それゆえ当然の事ながらかって前例の無い規模で、総合、
 且つ、研省的関連性を秘め有し、その分野的科学研鑽を深
 め行く過程のものともなる。そういった研究情勢の煮詰ま
 りのただ中で、それぞれの分野がまた、新たな発展性を培
 うと共に、今や相互関連的に<現代的宇宙論展望への過渡
 的趨勢>の流れを自ずと跡付けゆくものとなる。
 
 《観測や実験データによる数値理論の定式化が研究の成果となり、その進歩的な
 仮説への立証的展望、発展の時代となる。またかって化学分野からのメンデレーエフ
 提唱(1869年)による元素の<周期表>が経年を得て、今や確固たる権威あるもの
 として化学者、化学分野だけでなく、物理学分野一般にも広く定着、それを前提に
 大いに識見考究されるだけでなく、原子物理学の研究視野の方向指標を深め、進歩的
 な覚識、醒明にさえ寄与する。特に20世紀初頭、ニールス・ボーアの<原子模型>の
 提示において、、またそれ以後さらに<周期表>それ自体が、表示内容をより精彩豊
 かに包含してより精度の高い、より完成度を高めたものへと、その定常的発展を続
 けるものとなる。》

・1900年・・ドイツの物理学者マックス・プランクにより、物理量の最小単位
      としての<量子>概念の発案、提唱があり、物理学は量子論へと
      新たな展開の幕開けを迎える。

       “放射に関するプランクの法則”と“プランク定数”
       ========================
     *電磁波などの輻射(放射)を、振動する光のエネルギーと仮定
      して捉えた上で、そのエネルギー素量の量子化の法則を定めた。
      (ここでの放射エネルギーに関しては、放射体の質量が何ら直
      接的には考慮されない状況で、温度Tが加味されている。)

     *プランク定数は、光エネルギー最小素量(量子)に関わる振動数
      に比例したところの<比例定数=プランク定数>という基本熱量
      の規定値である。ジュール秒(J・s)で表示されている。
      その値は⇒  h :(6.6260695729 x 10の−34乗Js)

      光のエネルギー E=nhv(一つ光子の素量<e=hv>にn整数
                倍を取り得るものと見なした。)

     *プランクの実験を踏まえた理論様式では、光・電磁波を周波数と
      その波長でもって、黒体での温度との相関定式を編み出すものと
      なっている。<C=λν> ⇒ 波長x振動数=Cでのスペクトル。
      そして、この場合、振動子としての光子の素量という考え方が、
      現れるものとなる。(温度によりλとνが変化する。)
     
      軌道角運動量系、或いは他の運動条件により、< h/2π>が適応
      される場合がある。(換算プランク定数、2πで割った値のもの)

   [注]:上記マックス・プランクの<黒体放射>研究、やはり古典的熱力学の
      立場とは異なって、当時の諸科学の最先端的諸問題を背景とした
      中での、一見異色な研究に思えるものであった。

      鉄鉱石から鉄を生産する溶鉱炉の溶解温度問題から端を発した、
      炉釜 ⇒ 黒体放射という概念の下に、当時の様々な物理要素(光、
      電磁波、スペクトル、電子、原子)など、とりわけ<光>に関し
      て、スペクトル分光法が天文物理分野で大いに発展してきたが、
      尚も旧来からの「光学」本来の狭域な部門だけに限定された研究
      課題に留まるものではなく、光に関する事柄が、光は電磁波なの
      か、光はエネルギー放射そのものなのか、等々の物理的見識視野
      が開けてゆき、<光、電磁波、エネルギー>の三項目など、それ
      らに関係、関連したあらゆる物理の諸課題が目前にあり、より一
      層の発展的解決が求められ、整理されるべきものと、大いに注目
      される時代となっていた。
      
      黒体放射に関わる先人らの研究結果、その二人の出していた公式
      による黒体放射のエネルギー密度の理論値は、低振動数領域では
      実験の測定値と一致しない(ヴィルヘルム・ヴィーンの法則)、高振
      動数領域では測定値に合わなくなる(レイリー卿提唱の法則)と
      いう、双方両者の欠陥をみるものであった。

      この事態を解消、全周波数領域を妥当なものとして、双方の公式
      を見直し修正しつつ、新たな公式を導き出したのが<プランクの
      法則>であった。

      この方式にはプランク独自の定数値が立てられ、<プランク定数
      (h)>が導入されている。だが、これには大いなる曰くがあり、
      光エネルギーの<最小単位>関わる定数ということで、このエネ
      ルギーの最小素量が、光を波動ではなく、一粒の<量子=光子>
      と見なし、仮定することが出来ると考えられるようになった。

      これ以後、<量子力学>という物理学の新分野が次第に展開され
      てゆく。が、しかし、電磁波を含めた光についての、波動か、粒
      子かという択一的な課題がこの後、長く絡み伴うものとなる。
      
      なおこの時代に物理の有力な成果となった<プランク定数>に関
      わる黒体(空洞)放射の研究足跡は、20世紀中葉以降、その放射
      概念をして、現代の宇宙理論への影響の萌芽を見るものとなる。
      (始原的ビッグバン後に結果したと見なすところの宇宙マイクロ
      波背景放射論への起点として。)
      
   ・・・同じくこの年、1900年にアーネスト・ラザフォードは、仏の科学者
      ポール・ヴィラ-ルが発見のウランから放出された<透過性が高い
      が、電荷を持たない放射線>が、電磁波である事を示すと共に、
      その3年後、その放射線をガンマー(γ)線と命名する。

      ラザフォードはこれより前、1898年にウランから2種類の放射線
      アルファ(α)線とベータ(β)線を発見していたので、三つが
      揃いの物理用語として、その語< γ>ガンマ をもって言葉上でも理
      に適うものとしている。(透過性の高低の強さの分類で、その順
      として< γ>ガンマ 線が最も強い。)

     *ラザフォードは、三種の放射線を名づけているが、それの起こる
      放射性崩壊のそれぞれの特徴を分析理解したわけではない。
      スペクトル分析により、原子が他の原子に何らかの物理方式によ
      り転移変換しているとの現象認知、理解しての段階であった。

      (注:ウランから放射線が出ているのを別の研究で、1896年に仏
      の化学・物理学者アンリ・ベクレルが見い出しているが、その名
      前を名称付けるまでに至っていない。
      またマリア・キューリーとその夫らは、1898年に新元素の放射性
      物質ポロニウムとラジウムを発見しているが、これらがどのよう
      な現象で放射線を放出しているか、その物理的原因・原理の解明に
      はいまだ至っていなかった。因みにX線については、1895年11月
      ドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンがレーナルト管やク
      ルックス管での陰極線放出実験で発見している。)

・1905年・・アルベルト・アインシュタインがかのプランクの量子化の仮定と、
      光の粒子概念、光子(光量子仮説)を用いて光電効果を説明した
      ことにより、この両者の量子化の仮定に基づいた量子力学として
      の未開な分野の門口が明解に開け、新たな視点に立つところの物
      理学が築かれようとする趨勢となった。

   ・・・この年アインシュタインは、慣性系での時間、空間座標を前提とした、電
      磁気学での<電場>と<磁場>を統一した理論=相対性理論(後
      に特殊という言葉を冒頭に付し<特殊相対性理論>と呼ばれる)
      を定立した。
      これにより電子概念は、量子力学上で、質量とエネルギーの等価
      性が見い出されるものとなり、<E=ⅿⅽ²>の定式化が導出実現
      される。
      のちの1938年に核分裂反応が発見されて、原子質量への知見解釈
      もさらに深まり、大きく進展、開けてゆくものとなる。

     *アインシュタインが光やエネルギーの問題を幾何学座標系に理論
      的に捉え据えて、<光速度>が静止系、運動系のいかなる座標系
      においても同一共通値とする“光速度不変”の定理を提言論証した
      ことは非常に注目すべき試みで、理論物理学の新たな視野展開、
      その大いなる発展、深化をなすものとなった。

      その前提過程を踏まえ、3次元以上の4次元的な特殊な幾何学座
      標系(リーマン曲率)から、それに写像しての時空のエネルギー
      概念形式を基想点として、宇宙的計量を意図した方程式が導出さ
      れるという結果となったからである。(1915、6年代頃、一般相対性
      理論上にて、<宇宙の状態>を数式物理概念を包含して表すとこ
      ろの方程式を確立する。)

      その後には、宇宙の曲率、部分空間の曲率など、宇宙、空間を3、
      乃至4次元の幾何学座標表域を基本点に見立てる事で、諸事象を
      多元階的に認識するという数理論的展開に発展してゆく。
      こういった進展が、現代的宇宙論への基層プロセスと成りゆくもの
      となる。(宇宙論物理の起点、発展的原点となる。)

     *19世紀末頃までの古典-近現代電磁気学(マックスウェル方程式⇒
      ローレンツ変換等)には、電磁力や光が伝わるためにはその伝達
      媒質となる<エーテル>が存在していると、17世紀以来仮定され
      続けてきた物理観の下に、電場と磁場の発力現象も同様に絶対空
      間=宇宙全体に一様浸透して偏在するとした把捉不可能な未知の
      <エーテルなる媒質>を介して伝播作用しているとの見方が採られ、
      一躍エーテルの再認識問題に関わる脚光を放つものとなる。

      これはその当時、物理科学にある種の蒙昧性を留め置くもので、それ
      をいまだ拭い去ることの出来ないところの20世紀前後時代の天文物
      理学の現状を示唆しているものであった。

      (このエーテル問題には、実験物理学での最有力な実験観測が試み
      られている。1887年マイケルソン・モーリー()のエーテルによる<光
      の速度の変化の干渉縞>を検出するとした極めて精密な装置による
      実験であったが、エーテルの存在、干渉の測定は出来なかった。

      目的主旨は完全に成果無しの失敗となったが、<光の速さ>に関す
      る幾回にわたるデータ、どのような観測地でも、<光の速度>が不変
      一定であることが実証される結果となった。しかして、この<光速度
      不変性>がその後の理論物理学の進展に大きな関わりを成すものと
      なる。➡なお絶対空間とエーテルを前提確固とした、1895年オランダ
      物理学者ヘンドリック・ローレンツの<ローレンツ収縮仮説>、ガリレオ変換
      に対比しての、<相対性原理での新たな変換=ローレンツ変換>の
      提起、さらにその傾向に続き、➡アインシュタインが当時の物理学部門
      を集約整合したかたちでの<特殊相対性理論>樹立へと向かう、、)

      アインシュタインは、光は電磁波であるというマックスウェルの電磁気
      理論の説に基づいて、<光速不変の原理>を仮定することで、電場
      と磁場の相対関係での運動座標系の相互変換が実現され得るとした
      確固たる予見見識の下にその方程式を導き出した。
      これによりエーテルの媒質を度外視して、光速度<ⅽ>との真空中
      での誘電率 ε₀ と透磁率 μ₀ の関係式が成立するとした。

      すでに先にマクスウェルの方程式での電磁波が、エーテル中を伝播
      する速さ と誘電率 ε、及び、透磁率 μとの間に、

      < c²= 1/εμ >という関係の成り立っていた事を前提に、

       ε₀=1/μ₀ⅽ² 或いは √ε₀μ₀=1/ⅽ (√は左辺全体)を

       表立する。

      この相対性理論により、従来からのエーテルという空間媒質は、
      その存在を否定されるものとなる。

      (それまでの相対性原理の基底根拠は、エーテルにあり、物体の
      特性はエーテル中での運動の種々により変化するものだと考えら
      れていた。)
      
・1908年・・アーネスト・ラザフォードは、ウランの崩壊からのアルファ線が
      ヘリウム4(⁴He²+)原子であることを発見。これはガラス管に
      α 線を集め、それの放電スペクトルを調べる実験において認識結
      果したものであった。スペクトル分析によりヘリウムのそれと同
      一同定するものであった。
    
     *まだこの時点当時では、原子に<同位体>のあること、及びその
      原子数概念もない段階であった。各元素には原子量を異にした同
      類のものを複数持ち得る可能性のある事が、放射性元素により示
      唆されるという段階であった。

      したがって、今日の<2価の陽イオンのヘリウム4>であると、
      初めから限定認識が出来ていたわけではない。いわゆる当時の
      <周期表>による水素に次ぐ2番目の元素ヘリウム(₂He)に
      ただ端的に比定されての発見であった。

      (ヘリウム元素₂He自体は、1868年8月仏の天文学者、10月に英の
      天文学者の双方により、太陽光のスペクトル観測での分光解析か
      ら、測定当初は、ナトリウム系に属する新輝線と判断されたが、
      その後すぐに新元素のものと断定、<ヘリウム>と名づけられ、
      太陽に係わる元素としてその存在が初めて認知された。だが未だ
      地球上の鉱物資料などからの裏付け確証は出来ていなかった。

      その後、1882年、イタリヤの学者により地球上での溶岩分析で、
      また1895年、英の化学者により閃ウラン鉱<クレーベ石>を無機
      酸類の硫酸などを用いた反応実験で、その反応ガスを抽出分離し、
      不純、不要なものを除いて、スペクトル分析した結果、ヘリウム
      であることを発見したという経緯がある。)

   ・・・同1908年、ハーバード大学天文台が中心となり、視等級6.5等星
      よりも明るい恒星の星表、輝星目録を発表した。

      (現在は1982年発行の改訂第4版が、印刷版最終バージョン
      として使用されている。)

      ハーバード大学の天文観測は1847年から始まっており、その当時
      設置された望遠鏡は15インチであったが、アメリカでは最大の
      口径のものであった。天体写真技術がその頃からすでに始められ
      ており、恒星ヴェガの天体写真が1850年7月16日、初めて撮影さ
      れたという経歴がある。(写真技術は、いまだ乾板撮像の時代に
      至っていなかったが、、)

      また、1900年代初めには、天文学上重要な恒星をスペクトル型で
      分類した星表を作成している。その後、さらに22万5千個以上の
      地上から見える全天9等以上の恒星の星表=天体の<ヘンリー・
      ドレイパーカタログ>が、観測活動の集大成として1918-1924年
      にかけて第1版が刊行された。これには、天文台所長エドワード・
      ピッカリング以外にアニー・ジャンプ・キャノンという女性天文
      学者をリーダーとした女性スタッフのグループが活躍した。

     *ピッカリングの下ではかって1893年から96年まで研究無給助手
      として働いていたヘンリエッタ・リービットという女性が1903-4年に
      再び雇われ、女性同僚仲間に参入、彼の指示で、特化された天体
      部門の研究、マゼラン星雲(大マゼラン、小マゼラン)での変光星の調
      査、研究に従事してその成果を挙げる。1907年までに大マゼランで
      808個、小マゼで、969個、合計1777個の変光星を写真観測データ
      から割り出し発見し、その一覧表を作成した。
      
      この女性天文研究者リービットは、さらに翌1908年には、その
      発見変光星についての論文を<ハーバード天文台年報>に公表
      したが、それには16個の変光星の<その明るさと変光周期の
      相関表>を掲載して、明るさの度合いと変光周期の長短には相
      関的法則があることを指摘発見している。

      この地道な研究発見は、当時のウィルソン山天文台の学者ハーロー・
      シャプレーだけでなく、その後のエドウィン・ハップルの研究成果
      への架け橋ともなっている。

・1909年・・アメリカの実験物理学者で有名なローバート・ミリカンが、電子
      の電荷素量を計測する<油滴実験>で、素量計測に成功した。
      これを翌1910年に公表したが、たまたま他の研究者の数値結果と
      矛盾し、論争を招くものとなったので、改めて実験装置を改良、
      精度アップして1913年に、より正確な研究数値を得て発表する
      に至る。(電子1個当りの電荷:1.592x10⁻¹⁹クーロン、現在の電荷量
      は、1.60217653x10⁻¹⁹クーロンで、少し誤差が見られるが、、)

     *この実験の実質的な成功は、1905年以来、アインシュタインが
      唱えていた<光量子仮説>を裏付ける結果となった。
      
・1910年・・アーネスト・ラザフォードは前年以来、ハンス・ガイガー、マースデンとの
      共同で行なっていた、α線を金属箔に照射しての散乱実験から、
      α 線を透さず跳ね返す現象をなす部分で、微小な存在の有るゆえ
      を発見し、その微小なるものを<原子の核>であるとの見識確定
      するに至る。
      さらにこの発見により、翌11年には原子模型(原子核モデル)
      を発表、確立する。これは原子に核子がある事への初めての提言
      公表となった。(原子核の発見とその存在定立の認知実現)
      
      そのモデルは、先にジョゼフ・トムソン教授が1904年までに提唱
      したモデル、核なき正電荷の原子球状体を想定した系内で、負の
      電荷を持った微粒子(電子)が分布し、互いに斥力浮遊の環状軌
      道の周運動をするといったモデルのものとは異なるものであった。

     *ラザフォードの原子に係わる<核の発見>想定による、その新モ
      デル型の原子模型は、1913年には<ボーアの原子模型>の確立に
      繋がり、原子物理学への大いなる発展の契機となり、また量子力
      学への先駆け発展の糸口となり、1960年代の<素粒子物理学>と
      いう究極的な原子核物理への流れを決定づけるものとなる。
      
・1911年・・ある金属や化合物の物質に<超伝導体>となる現象が発見される。

      オランダの物理学者ヘイケ・K・オンネスによる極低温での電磁気
      反応物理実験で観測された現象である。

      この現象には超伝導となる<転移温度=臨界温度Tc>があり、
      金属導体の種類により温度差があると見られた。
       (水銀4.19K、スズ3.72K、アルミニウム1.20K等々、その
      超伝導性物質の個々において。)

     *この超伝導体の特徴は電気抵抗がゼロとなり、電流密度(電束)
      が最大となる。そして後の1933年には外部からの磁力(磁場)、
      磁束密度がゼロになり、外部磁場を遮断する<完全反磁性>とな
      る性質が発見された。(マイスナー効果と言われている。)
      この性質は、紛らわしいながら<完全導体>という言葉概念での
      <電気抵抗ゼロ>という場合のそれとは区別される。
      <完全導体>は、<完全反磁性>を有しないものである。

     *この超伝導現象は、1957年、その基本メカニズムが<BCS理論>
      と名づけられた、超伝導状態における電子同士に働く固有な現象
      として解明されている。(電子が物質結晶の格子との相互作用を
      介して、斥力状態から互いに引力状態となり、接合して電子対を
      つくり、ある種の特殊な凝縮体へと相転移するメカニズムとして
      いる。それは、1925年の"ボーズ=アインシュタイン凝縮”説での
      ボーズ粒子凝縮現象に類似するものと見られる。
   
・1912年・・アメリカの天文学者ヴェスト・スライファーが、ローウェル天文
      台での観測で、系外渦巻き星雲の分光波長のスぺクトル線が赤色
      側にずれている<赤方偏移>現象を発見する。
      (この現象の起因がドップラー効果なのか、ほかの原因によるも
      のなのか、その頃の時点では未だ定かにされていなかった。)

     *ローウェル天文台は、1894年にアリゾナ州フラッグスタッフに設
      立され、現在も運用されている。マースヒルズの施設には歴史的
      記念物に指定された、設立当初の61cm屈折望遠鏡が一般公開され
      たかたちで設置されている。研究者用は、別の施設アンダーソン・
      メサに4台の望遠鏡が置かれている。

・1913年・・量子論、量子力学の発展、確立に大いに貢献したデンマークの理
      論物理学者ニールス・ボーアは、改良を重ねたメンデレーエフの
      周期表で示された元素の配列的特性を的確に表わす原子構造を発
      案、提唱した。(中心の核の何なのかはまだ不可知であったが、)

      これは<ボーアの原子模型>として知られ、電子のエネルギー準
      位状態に基づく軌道殻を定めたもので、古典的原子模型でもって
      イメージ図化される端緒となった。

     *電子の運動、そのエネルギー状態と、対応する軌道との相関関係
      を<量子条件>という関係則の概念枠の下に描像、成り立つもの
      と示した<原子模型>であった。

     [注]:だがボーアの原子モデルの<核の構成要素>に関しては、未だ
      全くその認識をなし得る段階に至ってはいなかった。ただ彼の師、
      ラザフォードの発見した<核>が、原子の中核として正電荷を帯
      びたもので、それゆえ彼が仮定した<量子条件理論>により、電
      子を諸軌道殻に定常捕獲できるとした<電子の在り方構造>提示
      した程度のものであった。(核への明確な把握は未だ無し。)

   ・・・同じ年、イギリスのケンブリッジ大学・物理学研究所のジョゼフ・
      トムソンにより、<陽極線>の構成要素を調べるという主旨で、
      イオン化したネオンを電磁場に誘導させ、その偏光実験を試み、
      写真乾板に写すと共に、その実験データを測定した。
      その結果、ネオン原子には、2本の線が見られることで、質量を
      異にした2種類の原子(Ne20とNe22のネオン)が存在するとの
      結論付けをなすものとなる。

      これは、後々になって初めて明確に、元素の<同位体>というも
      のがあるとしての認識(同位体概念の成立)に至るもので、その
      時の実験結果は、非常に注目されるべきであったにも拘わらず、
      当時はさほど重要視されるものとはならなかった。
           
・1916年・・アルベルト・アインシュタインは、一般相対性理論、その関係主
      論文5件余りを1911年から1916年に掛けて暫時公表する事で、
      かってのニュートンが力学的な力として定式化した万有引力を新
      たな捉え方として理解し、それに代る新たな宇宙論的定式化を生
      み出すものとなる。
      
      質量自体による物体間を基底とするニュートンのそれに対して、
      質量が引き起こす時空の歪み(曲率)の<重力場>という新たな
      物理概念の幾何学的(宇宙空間へのリ―マン幾何学投影把握)導入
      認識(宇宙への真開知)をもって<重力場の方程式>、すなわち
      <アインシュタインの方程式>を導き定めるものとなった。
      (現実の全宇宙的状態を捉え示す、史上最初の方程式ともなる。)

     *この当時、天文観測上では<膨張する宇宙という現象>の実測
      把握、発見がいまだ実現されていなかったので、
      <翌1917年>になって、彼の <Gμν = κTμν> の方程式は、
      後に提唱された<定常宇宙論>のある一つの先駆けともなる
      “ 静止宇宙モデル(宇宙の大きさは不変定常) ” を現宇宙の正しい
      見方と見なしていたので、それのより安定性のバランス要素として
      <宇宙項  Λ〔ラムダ〕gμν>を左辺に導入し、補足修正した。

      これは後々の日に、宇宙項の Λ は、宇宙物理学上での<宇宙定数>
      という見方の<スカラー量>として、定立採認されるものとなる。
      
        <Gμν + Λgμν = κTμν>、
             ======  
      この宇宙項により、重力に対する<万有斥力(反重力)>として
      作用していると示唆する事で、釣り合いの取れた、収縮する事も
      なく、膨張することもない、平常な<定常宇宙モデル>を提唱し
      たものとなっている。

      上式の右辺の κ は、比例係数で、アインシュタインの重力定数
      とも云われ、
      < κ = 8πG/c^4 =8π/c⁴xG> である。そして、上式の右辺は
     
      <エネルギー運動量:Tμν値 x κ倍>で、、、

       <Gμν + Λgμν = 8πG/c^4 ・Tμν>の等式が宇宙空間で、
                           成り立つとする。

      (ニュートン万有引力法則<Gxm1m2/r²>の “ m1m2/r² ”を
       “Tμν8π/c⁴ ” に置き換えて<GxTμν8π/c⁴>という
      別の値立て様式(四次元を想定した)つまり<テンソル形式>に
      仕立てたものとしている。したがってアインシュタインが捻り出
      した定数:<κ = 8πG/c⁴ >は、その形式に拡張適準させたもの。

      Gは万有引力定数、 c は光速度で、その4乗を反比例のものとし
      て投入している。重力場の時空の歪みが、光速で伝播するとして
      光速度 c の関与を前提考慮している。まさにアインシュタイン
      の物理哲学の極みであり、秘策とも云えよう。)

     *この重力場方程式への中性子星やブラックホールなどの大質量天体の
      利用適応においては、
      強い重力場の最小限を仮定して導出される式として立てられる
      ものとなり、その式内容の構成は、      
      左辺項を重力による時空の歪み(時空の曲率)を表す幾何学量で
      あり、時空の曲率を求めて、重力を記述せんとするもので、
      Gμν に Gμν  =  Rμν - 1/2Rgμν をあてがい用いる式となる。

       ・①<Rμν ― 1/2gμνR =8πG/c^4 ・Tμν> 式から ② へ
        (Rμν は 時空のリッチ曲率、2項目のR は スカラー曲率,
         またはリッチスカラー)

       ・②<Rμν ― 1/2gμνR + Λgμν  =8πG/c^4 ・Tμν>の式への
     
      より具体的な応用展開が試みられる今日的な動向となっている。

     *宇宙における<時空の歪み(時空の曲率)>とかの概念は、アイン
      シュタイン自身の独自な宇宙物理感性おける並々ならぬ考究により
      産成されたものと見なし得る。(エーテル存在観を完全に論証否定
      し去るが、しかし、それに代わる閃き考究として、時空概念の高度
      な数学的〔リーマン幾何学系空間座標の応用〕記述内容を前提として、
      その座標系の適用を試みた<宇宙空間論>の研究呈示となる。)

      宇宙空間について一般知識人は、そんなに難しく考える必要はない。
      例えば、地球とその地球圏重力域について見れば、その重力場は、
      あたかも球体を包みとり巻くように重力が発揮されているという事
      だが、、、、

      力学宇宙物理では、太陽、地球等の諸惑星それぞれが、質量の大き
      さに準じた固有の重力があるとして、これを存立事由の基底原理に
      して、<万有引力の法則>の現象化がなされていると理解する。
      (ケプラーの法則:第1~第3から ➡ 導出公式化されたニュー
      トンの<運動方程式および万有引力方程式>の成立)

      太陽と地球との相互関係(=万有引力)で、地球上では公、自転か
      ら生ずる融一的作用ベクトルの遠心力が太陽間での引力の反作用の
      一部として働いている。
      したがって物理的原理として重力は、両者間での<万有引力と遠心
      力との合力>という性質状態のものと見なし得る。

      この場合、重力の強さ、密度などに格差や、時間的変動が生じて
      おり、地軸(自転軸)の北天、南天、或いは赤道面からの西方天、
      東方天など、緯度、経度、標高の違いで、色々な重力域での<重
      力自体の歪み現象>の相違が生じているものである。月との関係
      の重力バランスや、太陽との自公転の運動における重力バランスが
      反映されての事だが、、。

      太陽と地球という簡略な二者間での引力の値は、F=G・Mm/r² 
      の公式に数値代入する事で得られる。その算出値は膨大なもの
      となる  ⇨ F=3.52 x10 ^ 22 [N] 〔単位ニュートン=㎏・m/s^²〕
      しかし地球上の重力算出には、この地球x太陽間に働く引力値: 
      Fは、適用されない。

      個別に地球自体だけ考慮した地表での重力計算式を想定する。
      地球の自公転する運動条件を前提に、引力式が用いられるが、
      結果的に<重力加速度:g>の値が、標準定数として成り立ち、
      万有引力定数に対比したかたちで、それらの等式適用が可能と
      なる。

      ・M:地球質量、m:地表上の物体 として、、、、
                            F=mg  と  F=G・Mm/(R+h)^2  の 二 式 からの
       関係式が成り立つ(地球上では重力と万有引力は、遠心力を
       無視できるほどに等しいものと見なせるから、、、。
               (遠心力は、赤道上最大、極ではゼロ、最大でも万有引力の
          300分の1強、程度でしかない故。)

        mg= G・Mm / (R+h)^ 2 ⇨    g=GM/(R+h)^2

                            ∴  質量mの物体の地上からの高さhは、地球半径Rに比しては
         ほぼ無視できる値だから、簡略して、
         < g=GM/R^2    >の式で、計算定立され得る。

          ・万有引力定数G:6.67x10^⁻¹¹[m^3/s^2・kg]
          ・地球の質量M:  5.97x10^²⁴[kg]
          ・地球の半径R:  6.37x10^⁶ [m](平均値)
       (この三つの値を上の式に代入すると、g:9.81 m/s²  となり、
        現在の国際度量衡の標準重力加速度: 9.80665 m /s² に比する。
        因みに同上式に個別太陽を当てて、太陽表面での重力を算出す
        ると、g= 2.74x10^ ²  となり、地球重力とは、274/9.8  との
        比の格差関係となり、太陽重力は、地球の 27.96倍 となる。)

      *また太陽系での太陽間引力(重力)に対する全惑星(ほぼ冥王、
       天王星まで)における均衡的全エネルギーの力学的関係も、その
       関係方程式として、アインシュタインの相対性理論から導出知見
       され得るものとなる。
            n
        K = ∑  k(ー1/2G(mM)/r)/n   ≒  ― 1/2・GM²/R
            k=1

        <<  F  =  GmM/r² に対して K =  ―1/2・GM²/R>>

        (この場合の R は、全惑星の各質点の重心からのrの総和平均
         距離の値となる。Mも惑星rの総和の平均値、~/n)

     *20世紀の後半以降での天体観測で、やたらと重力により<時空の
      歪み>が取り沙汰され、その現象証拠とする<重力レンズ現象>
      が生じて、天体光学上の観測結果にその新たな進展の契機ともな
      る場合があるとしてその効果を重視している。

      この重力による<空間自体のゆがみ>、及びそれによる<レンズ
      効果>という考え概念、実測想定も、実は天文物理的に現実検証、
      証明(理論式の定立証明の測見のみで)の不可能なるものにして、
      あやしきものである。

      というのは、今では計算上<重力レンズ効果>は、”重力レンズ”
      という言葉の奇異な新語とその概念の天文学的な過度なる発展が
      2000年代前後以降に見られ、現代では完全に観測的に活用、応用
      されるものと見なされ、その幾多稀なる効果現象をスーパーコン
      ピューターでのデータ処理手法により、撮像X画像化や、シミュレ
      ーション等で立証化想定される時代にあり、理論的にも高度な天
      文概念に位置付けられ、その宇宙事象に関わる見識実証に必要不
      可欠な役割をなしているという事のゆえに、かえってむしろ、訝
      るところ少なからずである。

      (アインシュタインの時より丁度まる100年経ったが、その間に
      ”重力レンズ”という奇々な言葉まで生まれ、天文学研究の現在時
      では一ブームを巻き起こしているとの感で<重力レンズ天文学>
      という研究志向性をも熱く有し、そのレンズ天体の観測が探索の
      ターゲットともなっている。
      <重力レンズ天体>を見つけ出すといった課題と共に、その重力
      レンズを利用、介して得られるとした観測データによる新たな解
      析、知見への進展も見出し得るといった進展も見られるわけだ。
      その思いもよらない<重力レンズという特異な言葉もいまや潰え
      ることもなかろう。この言葉の出先は、1936年の訳アリのアイン
      シュタイン代理論文の公表時以来のもので、彼のオリジン言葉で
      はなかった。)
      
      確かに一般人から見れば、はるかに手の届かない高度な天文学、
      宇宙物理学に発展した時代となった。可視光の撮像データから、
      赤外線データ、紫外線データ、その他電波データ、及びモデル、
      シミュレーション照考プラス α といったものを網羅し、驚異的な
      かたちで天体の画像化がなされるものとなり、その処理技術も、
      より近似なもの、よりリアルなものを追求する試みとなり、我々
      の眼が決して目にすることが出来ないものを、、提供、公表する
      時代となっている。)

     *アインシュタインの<特殊相対性 ⇨ ⇨ 一般相対性理論>にわたる
      物理理論の根底には、彼の<時空観哲学=空間と時間を質点相互
      運動ベースに空間座標系で<光の時間要素x= ct >組み入れて、
      3次元から4次元座標系へと合一変移することで、本来空間一体の
      そのバーチャル時空における宇宙と諸々の事象(重力諸事象)を
      どう捉え、どう認識表示すべきものとなるかという動機的哲理の
      意図とその追求がある。

      (そのアプリオリな前提概念の成るを以って、曲がった時空を表
      象化する質点運動の認知理論から、さらなる時空それ自体の歪み
      への理論投与、重力波の存在等の想定、さらには宇宙膨張への背
      景的契因=時空そのものの膨張といった質的に変容した知見へと
      発展してゆくものとなる。)
               
   [注]:アインシュタインは、特殊理論に続いて一般相対性理論を構築す
      るに際して、二つの仮説概念を適用導入した。

      一つは、先に定立されていた電磁気学での電場と磁場のごとく、
      宇宙での重力事象として投入したのが<重力場>という考えの
      概念であった。
      
      いま一つは、先に彼の特殊相対性論で、否定し去った古典力学上
      の<エーテル>観に替えて、時間と空間を一体化したところの、
      一体観の<時空>という概念の導入であった。
      (この<時空間宇宙>を全体的、或いは局所的に捉え理解する為
      に<リーマン幾何学の座標系での曲率、多様体の数学的理論知識
      が応用されている。)

      この<時空概念>は、エーテルだけでなく、古典力学が根底背景
      基盤とする先天的な<絶対空間>の前提さえも、無用蒙昧なもの
      として消し去るものとなった。

      そして、これらの二つの概念は、重力が物の重さに依存起因する
      として、その重力場エリヤでは、時空に歪みが生じる、曲げられ
      て平坦でないという考え方を究明することでもって、自分の把捉
      せし物理世界の理論立証を試みようとした訳である。

     *先に挙げた<エネルギーと質量>に関わる比例の定式(E=ⅿC²)
      及び、ここでの<質量と重力に関わる宇宙の重力場>を開示した
      方程式(Gμν + Λgμν = κTμν)は、
      まさに彼、天才のひらめきであった。宇宙項 Λ [ラムダ]を左辺に加
      えた事が、性急にして人生最大のミステイクだったと悔んでいるが、、
      (後々の代には<宇宙定数>として定着公認されるに至る。)

      それでも彼の数学的物理定式は、それはそれで永久に不滅であり、
      物理科学の進歩において大いに価値あるものと、誰もが思い信じ
      て憚らないものとなった。
      
      彼は、天才且つ稀なるペテン師だ。<時空>と<重力場>概念を設
      定し、重力による<時空のゆがみ>を案出、それをリーマン幾何学
      の特殊な座標系の曲率概念でもって、数式的な理論立証をしたから
      であった。ここまでは彼の天才発想の理論だが、この先の予想、予
      知は、まさにペテン師としての彼となるものだ。

      実のところアインシュタインの方程式は、数学的文字式による完結
      的現実態の表現式で、それ自体が解答であるようなものである。し
      かも、同じ四次元様式として、その標識添え字<μν>を用いて、
      左辺項と右辺項を揃えているが、左辺の値と右辺の値とは、数値的
      に性格が異なるもので、左辺は左辺で別の方程式から、右辺は右辺
      で別の方程式からそれぞれ解を求めなければならないといった風で
      あり、アインシュタイの重力定数である係数<κ>xTμνが、その
      まま直に<時空の歪みの曲率値>を表示できるのかも疑わしい。

      (後になって、曲率とエネルギー或いは質量密度との相関的関数が
      定式化されるように発展をなすが、、当時の時代では、いまだ観測
      データ及び、その測定値も出せない段階であった。)
      
      彼は、自らの理論を裏付ける、何か不動的に実証させうるものを求
      めた。その秘策がすでに彼のひらめきとしてあったのだ。天体観測
      での実際的次元で、実証性をものにするように、その要素的なものを
      自らの理論に指向移植することであった。

      <万有引力>のニュートンも、プリズムを用いて<光学研究>を行
      なっているが、その頃の<光>に関する一般見識に ”光はエーテル
      (光の媒質として)により伝播する” との考えがあり、音と同じよ
      うに波のかたちで伝わるとされていた。

      エーテル問題は、20世紀初頭まで光との係わりで執拗に論じられ
      るほど根深いもの、いわゆるニュートンは、光を粒子として、エー
      テルに波の作用、干渉を起こさせるとしたが、一方、同時代のホイ
      ヘンスは、光の波動説を唱え、エーテルが媒質として光の波動伝播
      を可能ならしめるとした。

      こういった二様の考え方等の問題がずっと続き、19世紀末頃でも
      なお未だ、光に関わる<エーテルのモデル化>が再考、試みられる
      という状況でもあった。(エーテルの風、その実証的な実験の試み
      等々と共に)

      アインシュタインの当世では<光が電磁波の一種であるとの考え>
      (1864年マックスウェルがその方程式で推定提唱して以来)が定着して、
      すでに半世紀近く過ぎんとする時代となる。そんな知見時勢にて、

      アインシュタインはエーテルに代る、自らの<時空連続体における
      時空間の歪み=重力場>の仮説理論に観測結果の確証を添える為、
      光学上での単純な<光の屈折現象>に目を付け、ニュートン初期へ
      の思考回帰でもって、時空間の歪み重力場では<光が曲がる現象>
      が起こるとして、<光学上の光の屈折現象>をひそかにそれに適用
      公言しても良いとした。 
      (光の屈折事象に関しては、かのヴィルヘルム・ベッセルが、恒星
      からの地上への光について、地球大気次元でのその<大気視差>の
      観測数値として、しかと挙げているものだった。1820年前後の事。)

      彼の当世時代は<天文観測ブーム発展の隆盛期>であり、太陽観測
      は常に<日食>時が、欠く事の出来ない絶好の機会であったので、
      イギリスの天文物理学者アーサー・エディントンらは、アインシュタイン
      の理論説を実証するために、大々的に<日食観測>に乗り出すもの
      となった。(1919年5月29日西アフリカへの遠征観測ほか)

      その結果は、<太陽コロナ上空大気圏での恒星の光の屈折現象>で
      あるものが、<時空歪み=太陽重力場>によるものとして捉え、観
      測され、大いに証明されたと見なさる一件ともなった。

      (これにより<時空連続体なる宇宙>自体が、真空であろうとなか
      ろうと、天体重力により光の物理作用が起こるものと見なされ、や
      がて、時が過ぎ、宇宙時代の隆盛期、80年代以降になると
      <時空宇宙それ自体>が膨張をするという観測的実体観にまで発展
      するものとなる。
      <重力による曲がった時空領域=重力作用域=重力場>といった何か
      直感的な概念を得るものとなる。)

     *彼の理論は、宇宙を包括的にも内在的にその物理理論をもってより
      深く把握、理解させうる可能性ありとの期待を抱かしめる故に、皆、
      その後の研究者らは、彼の理論的結実となった<方程式>を解く事、
      或いは、派生的により厳密な発展をさせようとの研究に弾みが付い
      たりして、その後長く、
      彼の考え、理論の下=その宇宙物理的世界観から抜け出せないまま、
      その影響下に多かれ、少なかれ置かれるものとなる。

      アインシュタインの1905年の<光電効果>の説明での<光量子
      仮説>、プランクの量子素量をそのまま<光量子>と定めて、光の
      一光子素量のエネルギー<E=hv>により、その光電現象が見事に
      理論定式化解明されていた状況と共に、今や物理や天文研究の新発
      展的な動向は、アインシュタインを代表する時代を境目として、そ
      の飛躍的発展と共に、大いなる進歩への過渡期を迎える時となる。
 
      (アインシュタインの光電効果の理論的証明および、その方程式:
      <F₀=hν-W>に関しては、アメリカの第一級の著名な実験物理  
      学者ロバート・ミリカンの1915年以来の幾度とも無く念入りな実験に
      より、結果検証されるものとなった。ミリカン自身は<光の波動>
      支持者で、アインシュタインのこの手の論説に強い疑問を呈してい
      たのが実情であったが、、、)

・1916年・・ドイツのポッダム天体物理天文台の台長カール・シュヴァルッシルトは、
      (第一次世界大戦の1915年ロシアへの従軍中に、)アインシュタインの重力
      方程式からの一つの解を最初に導出する事に成功、その論文がアイ
      ンシュタインの手を経て、ドイツの天文アカデミー学会から発表された。

      (これにより大戦後<アインシュタインの方程式>が一躍注目度を
      高め、さらに新たなる解を求める研究に火が付き、一時期その研究
      全般がブームとさえなった。)
     
     *そのシュヴァルツシルトの解は、個別天体でのある一つの星を想定
      した、球対称で、その周辺の真空な時空を仮定して得られる解で、
      天体の質量M(重力)が周囲に及ぼす時空間の歪み範囲の距離を表
      わすのを解とするものであった。(➡シュヴァルツシルト半径)
      その解により、曲がった歪みの時空領域(重力場)の半径が求めら
      れる数式の導出発見となるものである。Mは、天体の質量、Gは、
      万有引力定数、Cは、光速度で:

       r=2GM/C² の式で<重力半径:r>が表現されるとする。

      この重力半径は、シュヴァルツシルト半径と呼ばれ、のちのブラック
      ホールを示唆する如く、その半径のおよぶ先面域は、ブラックホール
      <事象での地平線の位置範囲>をも表わし得ると見られた。

     *このシュヴァルツシルト半径の定式、重力の時空への歪効力の境界
      面としての<事象の地平線>という認知概念は、恒星天体の把握研
      究に必要不可欠な要素ともなって、後々までも知見視野の有効性を
      示すものとなる。
      これは、まさにアインシュタインの<場の方程式>に命を吹き込み  
      在強ならしめる解であり、具現的証しをなしていると見られる。

・1917年・・オランダの天文学者で、ライデン天文台の台長ウィレム・ド・
      ジッターが、アインシュタインの理論とその方程式にいち早く反応
      した者の一人として、その解となるような<一つの宇宙モデル>の
      定式化をなした。その特徴としては、以下のようである。

     *彼の求めた解は、宇宙の膨張率(H)を導き出すものとなった。それ
      への前提条件は、質量系に関わる<密度>と、内圧エネルギー系に関
      わる圧力をプラス・マイナスのバランスをゼロとなし、その上で<宇宙項>を
      正、ゼロ、負、のいずれかの値をとるもの、即ち宇宙定数ラムダ(Λ)
      を >0、=0、<0、 の三領分から求めた三つの方程式の解から、それ
      らの解に対する<膨張率>を見定める関係式を見い出すものであった。

      H ∝ √Λ/M(pl) (膨張率Hは、宇宙定数の値Λをプランク質量の値
               M(pl)で除したものに比例する。)

     *ド・ジッターの宇宙観は、上記した三つの解から、現実の観測上での
      経験則により、
       ・宇宙はある有限の最大可能、最小可能半径を有しており、
        その大きさ以上、及び、最小以下にはならない。
       ・宇宙の半径が段々大きくなったり、小さくなったりするとした
        場合、それぞれそのある値(ポテンシャル限界)まで来ると、
        半径が再び減少したり、拡大したりするとしている。

      つまり、彼にあっては、宇宙は、その<定常宇宙論>説において、
      つねに膨張と収縮を繰り返すものと見なしている。
      (膨張収縮事象を包含した<定常宇宙論>)      
      
・1918年・・アメリカの天文学者ハ―ロ―・シャプレーが球状星団内のケファイ
      ド変光星の明るさの観測から星間距離を測定する方法を考案し、
      球状星団の距離を定めて、数十個に及ぶその星団分布図を作成、
      これにより<太陽系が銀河系の中心ではないモデル>を描く。

      (これは後に、シャプレーの銀河系モデルといわれる。かって、
      18世紀後半にウィリアム・ハーシェルが銀河宇宙のほぼ中心に太陽系
      が位置しているとのモデルを初めて示唆し、彼の息子のジョンも
      父とは異なる<リング型の銀河モデル>提唱したが、それらと比
      べて、宇宙認識レベルでは遥かに優れ、既に格段の差があった。)
     
     *彼は後、1921年から1952年までハーバード大学天文台所長を務
      めているが、アメリカの大きな有力大学にも所属の天文台があり、
      この当時からのアメリカの天体、宇宙観測は世界の最先端を先走
      るものとなっていた。

     *シャプレーの銀河モデルは、直径25から30万光年の大きさで、
      その銀河を天球状に分布するごとくに数十個以上の<球状星団>
      が取り囲んでいるというものであった。しかも、渦巻星雲や他の
      星雲も、すべてその銀河系内に存在しているとした。
      どうやらこれが、彼にとっての他には無い、唯一の全体的な宇宙
      モデルとしたところの宇宙観だったと言える。
      (これは天体観測に基づく天文学者の近現代的<初期宇宙観>の
      表明、提示だったと言えるものであった。)

      このモデル説の提唱直後の1920年4月26日に、宇宙論に
      関わる<宇宙の大きさ>についての公開討論が行なわれ、大きな
      反響を巻き起こしている。

      論争相手は、同じく同国一流の天文学者、ヒーバー・ダウスト・
      カーチスで、シャプレーのモデル説とは対立した自説を唱えてお
      り、星雲観測の成果により、渦巻星雲は銀河系の内には在らず、
      系外に在って、我々の銀河と同じような別の銀河であるとの説を
      主張した。我らの銀河の大きさの主張にも約30万光年と、カーチ
      ス主張の約2万光年の直径として、その格差対立を示していた。

      (この論争は、数年後、エドウィン・ハッブルがアンドロメダ大星雲
      での観測研究からその距離を科学的に理論算出する事で、1924年
      以降、その決着に至るものとなった。その当時のハップルの計算
      したアンドロメダ銀河までの距離は、約100万光年としている。現代、
      2000年代ではアンドロメダ M31 は、約200万から250万光年へと
      推定距離が長く算定変移している。また我らの銀河系の径状幅も
      10万から12万光年とその推定認知に変動改変が見られる。)
             
・1919年・・アーネスト・ラザフォードにより<陽子>が発見される。この時、
      陽子は未だ、全ての元素の原子核の主要核子となる構成粒子であ
      るとの見識が曖昧で、未だ各構造が明解されてはいなかった。

      (アルファ粒子の射入による窒素ガスへの反応実験で、水素原子
      への反応分離に成功、その単一原子核をイコール =陽子のそれだとの
      見解実証を得ることの状況下において。)

   ・・・この年イギリスの天文学者アーサー・エディントンが一般相対性理論
      での重力場の重力によって、その場を通る恒星の光線が曲げられ、
      本来の位置から僅かにずれて観測されるとの予見を確かめる為、
      皆既日食時での太陽重力場領域内に位置する恒星の観測する。そ
      の観測結果から初めて光が重力場で僅かに屈曲するのが裏付け実
      証されたとしている。(英天文学会はブラジルにも一隊の観測班
      を派遣している)それは先ず、

      1919年5月29日、西アフリカの海岸の沖に位置したプリンシ
      ベ島での遠征観測の結果であった。この皆既日食時に好都合な標
      的恒星は、おうし座の中心部あたりからの星の光を写真撮影する
      事で、立証のためのデータを確保した。(11月6日にその結果を
      発表、アインシュタインの理論の正しさが証明されたとする。)

      (アーサー・エディントンによる皆既日食じでの観測、本当にアイン
      シュタインの重力理論での効果を立証するものであったのか、、、
      その曲がってズレた星の光は、観測データの数値では、1.61秒角
      とされ、理論上での値:1.75秒± 5 とは近似すると見られ、一応
      確かな証明が果たされたとしている。

      だが、この頃はいまだ<太陽事象の情報>乏しい時代であり、光、
      光線の光学的性質〔屈折、反射、吸収、透過、散乱等〕からの何
      らかの作用に起因した光の曲がり偏向ではなかったか、、という
      結果も考えられる。(宇宙での光の光学的性質、その反応の可能
      性には計りがたいものがある。)

      当時の太陽光スペクトル観測に関しては突出した成果が積まれて
      おり、初期の1814年のフラウンホーファー線の発見時には700
      近い暗線が、またスペクトル色に染まり不明瞭で見えにくい筋線
      を含めれば1000以上にもなり、当時の太陽コロナをとり巻く大気
      圏状況は、現在とは異なり、濃いめ、厚めの傾向だが、光の透過、
      屈折による光路反応がかなりうまく起こりうる大気状況であった
      とも推定されうる。
      
     *相対性理論では、重力が直接光乃至光線を曲げる作用をしている
      とは言っていないようで、質量重力により重力場時空が生まれ、
      その曲げられ歪んだ状態から、そこを通る光が曲がった空間に即
      して曲がるとしているようだ。
      しかし、実際に重力により空間が曲げられているとの直接的科学
      実証、観測実証は、いまだ2000年代以降の現在においてさえ得ら
      れていない。

      (ロケットが発射されて、宇宙空間に向けて上昇してゆく場合、
      重力を振り切りながら上昇するが、発射時は、まったく垂直の感
      じであるが、やがて天上に向け大きな放物線を描いての上昇とな
      る。自転をしている地球の重力の作用を受けているからだ。

      後の宇宙開発の時代に至る時期には、ロケット工学、軌道学の知
      識が高度に確立されてくるが、ロケット打ち上げには、緯度の低
      い地点が有利と認知された。いわば赤道直下から真東に発射され
      たロケットの場合、地球の自転遠心力を最も効率よく利用できる
      という軌道工学計算が成り立つ。その場合でも重力に抗するロケ
      ットの向進力が描く軌跡は部分的な楕円曲線となる。)

    《1920年代以降からアインシュタイン理論を介して、天体物理学とか宇宙物理学と
     いった研究視野の展開を示す時代となる。それに刺激、加速してか天体観測がまた、
     より一層盛んに行われる時となる。しかし、原子物理学では、1930年への期間、
     電子への研究が深まり、古典物理学的な結び付きの志向性の下、電子の角運動量、
     スピン的概念の数学的定式化が試みられる時となり、まさに電子及び電子間諸研究
     による<量子力学の確立、展望>の10年となったと云える。》

・1920年・・アーサー・エディントンはさらに恒星の構造的理論研究をも試みて
      恒星はそれ自身の重力による収縮力と、ガス圧(温度)や輻射圧
      による膨張する力とが互いの均衡を保つ事で、安定化したガス天
      体となっているとの考えにより、ある一つの<恒星モデル>を思
      い描き提唱した。

      そうしたモデルの根拠は、恒星が水素原子からヘリウム原子へと
      元素転移の核融合をなして、エネルギーの代謝を維持継続してい
      ると理論立てできるとした、恒星での核融合反応が確実な事象で
      あるとの見識にあり、<恒星モデル>説への定立に至り得たもの
      となる。
      (未だ元素化学的見地からの核融合理解ではあるが、これは天文
      分野からの新たな進展への一つとして、原子物理学における核融
      合理解への考究接点、開考点となった。)
                      
・1922年・・ロシア(旧ソ連)の宇宙物理学者で、数学者のアレクサンドル・
      フリードマンが一般相対性理論の重力場方程式に従い、宇宙膨張
      を表わす方程式を導き出し、エネルギーと運動により、力学的な
      膨張宇宙と成り得る一つのモデルのあり方として、その厳密な解
      を発見し定式化することに成功した。(フリードマン方程式)
      (膨張する宇宙モデルという見方の始まり。)

      (彼の定式導出への解の特徴は、負、平〔ゼロ〕、正の三形式の
      曲率を仮定考慮して、エネルギー、運動量を<質量密度ベース>
      から捉え、算定され得るものとし、宇宙項(Λ)をゼロとして除く
      事が出来るとした点にあった。しかも、三形式の曲率を前提とし
      た方程式の解からは、膨張宇宙だけでなく、収縮もあり、平衡も
      ありうるとする宇宙像の解が導き出せるとも見なされた。)

     *この年代頃からフリードマン理論による<膨張する宇宙>という
      考え方の、ある種の新たな宇宙論の始まりが見られるものとなる。

      (そのフリードマン方程式は、現在でも観測的宇宙論における、
       <宇宙論パラメーター>の導出のために参照応用されている。)

    《1920年代の中葉ころから光学式望遠鏡による単一的対象目標の観測がもはや限界状況、
     制約に至るさ中、銀河、星雲及び、銀河団が研究アプローチへのターゲットとなる。》

・1922年・・同年、アメリカの天文学者で、ローウェル天文台長のヴェスト・
      スライファーは、先の1912年に系外銀河の赤方偏移を初めて
      発見し、さらに系統的な銀河の偏移研究についての所論データを
      まとめて発表した。
      この貢献は、数年後のエドウィン・ハッブルの研究成果に導く先
      駆けともなった。 

・1924年・・アメリカの天文学者エドウィン・ハッブルは、当時世界最大と目され
      た100インチ(2.5m)フッカー望遠鏡(ウィルソン山天文台)を
      用いた観測により、我々の銀河系の辺外にも、他の銀河が多く存
      在していることを(それらはかって単に星雲として認められてい
      た天体だったが)発見、初めて明確に突き止める事ができた。

      この銀河観測により、<銀河の形態分類法>を初めて考案して、
      1926年には提唱発表に至る。(<ハッブル分類>と言われ、現
      在でも利用されている。) 

      また、アンドロメダ銀河内に二つの変光星を発見し、その観測デ
      ータからの計算で、アンドロメダ銀河までの距離を約100万光年と
      見定めた。(現在は、254万光年と測定されている。当時の観
      測データと計算基礎の低さ、未熟さが知られうる。)

     *1920年前後までは、星雲の性状、組成、位置距離など、明確な概
      念知識も不完全であったわけで、星雲が新たに銀河として認識さ
      れるようになるのは、20年代中頃から、まさにハッブル時代の天
      体観測からであった。
      
     *太陽系が属する銀河以外に、他の幾多の銀河が観測視野に捉えら
      れるようになり、この頃から深宇宙観測への手始めとなる。
      その後、さらに観測研究を重ねる結果、<銀河の遠のき運動>の
      観測データが挙げられるものとなり、その銀河運動に関心をよせ
      るものとなる。
      
・1927年・・ベルギー出の司祭・天文学者ジョルジュ・ルメートルが渦巻銀河が
      遠ざかっているという、これまでの観測結果により宇宙の始まり
      は、<原始的原子群>が創生卵のかたちをとり、一気に“爆発”し
      たことから生じたものという、新たな<宇宙起源モデル>の考え
      を提唱した。(先にフリードマンが宇宙項なしでの解を提示して
      いるが、ルメ―トル のアインシュタイン方程式を前提理解したその
      理論には、<宇宙項Λを加味>した解の方程式の定立を見るもの
      となる。)

      この説が、ビッグバーンという言葉の名称を冠せられ広く通説化
      されてゆく、その始まり元となっているものである。が、やがて
      この<ビッグバーン>という言葉の入れ物が、理論と観測による
      データ成果を受け入れ満たすようなかたちとなって、後々に至り
      確固たる学説的な発展成長をなし、現代的宇宙論モデルをも確立
      して行くものとなる。

      実はこの説を大々的に公け提言したのは、1931年になってからの
      ことである。
      彼がこの年、27年に「ブリュッセル科学会」の機関紙年報に発表
      した論文、それは本人としては前論的なもので<本説:(ビッグ
      バーン)>への理論的方向付けを意図したものであった。これを
      かって師弟関係にあった縁で、イギリスの天文物理の権威アサ―・
      エディントンが英語に翻訳、合せて教え子・ルメートル を英国に招いた
      事から、この折りとばかりに自説の本論主旨を説明する機会を
      得て、また今回新たに<王立天文学会誌>に掲載された自らの最
      新の論文、その重点内容を説明(上記の理論的あらまし)した事
      で、賛辞と批判が飛び交うような大変な反響を引き起こす羽目に
      なったという経緯がある。

      これは、以前より支持されていた"定常宇宙論"とは相反するもの、
      対立した新理論的な仮説であったわけだが、とりあえず一部の学
      者らに支持された。とりわけ、かのアインシュタインも最初の内
      はひどく批判的であったが、幾たびかの交流の後、最終的には彼
      から賞賛の言葉支持を得るところの説論ともなった。

     *ブリュッセル科学会への1927年の最初の論文のタイトルは、
      仏語でのずいぶん長いものであったが、因みに日本語で表記する
      と、

      『銀河系外星雲の視線速度を説明しうる、一定質量でその半径が
      成長するところの宇宙』

      というものであった。これはいわば、<膨張する宇宙>という新
      アイデアをその論文内容として、それを如実に表わしていると言
      えるものだ。

・1928年・・アメリカの化学、物理者アーヴィング・ラングミュアが、密度と
      温度を考慮した気体の放電現象を20年代初め頃から研究をして、
      放電により人工電離させた気体粒子に初めて<プラズマ>という
      名前を付け、その電離実験の知見理論から<プラズマ物理学>と
      いう新知見分野の研究の礎を築いた。

      その研究では、プラズマ存在である事を顕著に示す現象としての
      <プラズマ振動>の発見、その物理現象の仕組みが解明された。
      
・1929年・・エドウィン・ハッブルは、自らの銀河観測のデータ結果により、
      ジョルジュ・ルメートルの新理論ビッグバン見識に、その観測的
      裏付けを与え得るものとなる

      これは、幾多の銀河が地球からあらゆる方向に向けそれぞれ遠ざ
      かるのは、ルメートルの唱えた初源宇宙卵の原始的爆発からの膨
      張運動を示すものだと、証明、結論付けたかたちとなる。
      ( "BIG BANG" の先駆け論に実証性を与えるものとなる。)

      また、彼は、銀河の観測により、その光のスペクトル解析から、
      <赤方偏移>が<宇宙の膨張>に起因(空間自体が拡大)して
       波長が引き延ばされることで起こり、観測される事象との発見
       にて、その最初の見識を得たものとされている。

      (赤方偏移それ自体〔波長スペクトルが赤色側に、指標ともなる
      スペクトル線=暗線、輝線がズレる〕の観測発見は、1912年に
      米国の天文学者ヴェスト・スライファー〔ローウェル天文台長〕
      によってなされており、それ以来、他の天文観測者によっても
      偏移観測はなされている。)

      観測した銀河からの距離(D)と地球からの後退速度(v)との
      関係に、<比例の法則  =  ハッブルの法則>が成り立つことを、
      <赤方偏移 z>の経験則(観測データ)からの関数尺度をもって、
      比例定数<H₀ = ハッブル定数>を導出し、その関係法則を初めて
      定式化した。(ただし、それは<赤方偏移の起る原因の三タイプ
      の内で<宇宙論的赤方偏移>と呼ばれ、類別されたものとして、
      現在では規定、認識されている。宇宙の膨張が事象的事実と見做
      すことで、、)
      

       ・v=H₀ ・ D  この距離 Dに対する、掛ける比例定数 H₀ は、
               観測データなしで、グローバルに全ての天体
               等にそのまま理論適用されるものではない。
                 (ハッブル定数H₀の実効性は<ハッブルの法則
               規定>の下にあるものであり、また、関連した
               値が色々修正補正されるケースがあり得る。)
          
          この場合、赤方偏移zは、以下の式で定義、表示される。
      
       ・z=⊿λ/λ ⇨ 重力赤方偏移を想定した場合:波長λ、振動数v
                光速度cとの関係 λv=c  を シュワルツシルト
                半径に関連付けることで、波長に基づく視点から
                観測値の波長 λrec と、天体までの距離rにより、
                
                λem  = (√1-2GM/c²r)λrec の関係式で
               
               波長 λem の値を出し、以下の赤方偏移の定義式

               <  z  =  λrec ― λem/λem   > に代入、これにより

                理論上の赤方偏移 z の値が算出され得る。 
  
        また、後退速度 v の 視点から 距離 D の理論値が算出され得る。
      
        v=Ho・D  and      v = cz      ⇨ D=v/Ho  =   cz/Ho

      しかし、距離 D を求める場合には 赤方偏移「   z  >> 1  」あると
      いう事が前提条件となる。しかも、赤方偏移の量 z が  0 ≦ z<1の 
      範囲で観測されるような天体(恒星系)の場合には、v  と zとの
      比例関係を修正する必要が出てくる。

      この場合のzの修正内容式は、 
       z=(z+1)² ―1/(z+1)²+1 となり、距離Dは、
     
        ∴ D=(c/Ho )  x  (z+1)² ―1/(z+1)²+1 となる。
        

      *  ハッブル時代の定数の値と現在の値とは、観測技術の向上などによ
      より、少々数値差異を認めざるを得ないが、この定数は、天文物理
      学の宇宙観測研究には不可欠な参考要素の係数となってゆく。)

     *現在におけるこの定数は、あくまでも精密、厳密な観測データに
      より成立するとしたものだが、しかし常に動的に測定変動する条
      件下ものと見なされている。
      したがって今の処、現役の衛星プランクの観測データに基づき、
      2013年の段階では<67.15 ±1.2km/s/Mpc> となっている。
      また数々の定数が挙げられているものの内、以下の観測からの
      データでは、(単位:km/s/Mpc)

      ハッブル宇宙望遠鏡:2016年5月 → 73.00 ± 1.75
                2016年11月  → 71.9  +2.4 、−3.0
      スローン・スカイサーベイ:
                2016年7月 → 67.6 +0.7、−0.6
      LIGO科学コラボレーション:
      (国際重力波観測連係団体)
                2017年10月  → 70.0  +12.0、−8.0
 
       等々の数値が公表されており、
       以上の数値例、及び他の幾多を考慮すると、70前後での
       変動数値を計測するものとなっている。

      Mpc = メガパーセク(英語:parsec、単位記号:pc)は、天文学
      上での距離を表わす計量単位である。(太陽と地球の距離の1天
      文単位<au>を基準として、対象となる天体が年周視差により1秒
      の角度を張る時の三角測量上での距離を1パーセク(pc)とする。
      
      1pc = 3.085 677 581 x10^13 ㎞(約3.262156 光年)で、
      1Mpc  =  3.26 光年 x 1000 x 1000 = 326 万光年の毎単位値となる。
       光速30万kmを基に計算すると、その後退速度 v でもって、そのまま
       時間を遡求逆算すると、時間距離が算出されうる。(^ は乗数記号)
       ハップル定数は上の例値の内から<70㎞/s/Mpc>として 、

       {(30万km/s ÷ 70km/s)x(3.26 x 10^6 光年)}の無限式での

       1Mpcという天文学距離単位 に当てた一例ともなる。

       前項の値 4285.7倍 を  約 4.29 x 10^3 倍 と改変して、その結果
         (4.29  x  3.26 x 10^9 ) で、<13.98 x 10^9 光年>となり、
       139億8千万光年の彼方距離となる。これは、
       139億8千万年前の時を算出、意味するもので、=宇宙誕生の
       ビッグ バーン・インフレの時を超過してほぼそれと類比した時間
       距離を示唆する宇宙観のある見方ともなる。
       
    《1930年代に入って、太陽のエネルギーの源が、<水素の核融合>によるものだと、
     漸くはっきりと特定する見解に至る事ができた。原子物理学もアインシュタインの
     諸理論後の20年代以降、量子物理による発展時期を迎えていたが、実験データは、
     それほど豊富には得られないまま30年代を迎えるものとなる。そして、30年代初頭
     以降から原子物理学の進展が目ざましく顕著なものとなり、その確固たる研究分野の
     開闢的発展期を迎える時となる。》

    1920年代は電子に関わる電磁気論(導線、真空陰極管等のベース)を
    宇宙的時空間を仮定したベースにおいて、電子の挙動を追及する理論
    物理の時代へと移行しており、時空での<場の量子力学>追求の試み
    としても、数理物理学による電子の諸現象の定式化解釈がなされる。

    その量子(力学)物理学の数理的理解記述の発展期を築いたのは、、
    ヴェルナー・ハイゼンベルクの行列力学、不確定性原理、マックス・
    ボルンの確率解釈論、ポール・ディラックのディラック方程式、エル
    ヴィン・シュレーディンガーの力学を波動関数として捉え、記述する
    シュレーディンガー方程式、ヴォルフガング・パウリの排他律原理や
    非相対論的スピン理論等、原子物理の理論的記述の新たな視野の広が
    りの進展を見せる。そういった進展を理論的背景や思考的契機として
    原子核物理の理論見識過程を経て、1950年代以降の新たな段階の<素
    粒子物理学>の時代へと進展する。

・1931年・・アメリカのベル研究所の技術者カール・ジャンスキーは、宇宙か  
      ら地上に届くところの電波を初めて検出発見した。
      (この発見は、<電波望遠鏡の大いなる発展の発端>となり、
      まさに注目すべき新たな天文観測の端緒となっている)

      彼は、全方位観測できる回転台機構のアンテナで、その入力電波
      信号のすべてを記録チェックし、さらに未知なる電波信号への追
      跡観測と分析を一年以上かけて継続した結果、その電波が最終的
      に太陽以外の恒星によるもので、銀河系の中心、いて座の方向に
      その発源があることを突き止めた。観測された電波は波長14.6m 
      のものであった。これにより
      宇宙には電波を発する天体のある事が初めて知られるものとなり、
      電波天文観測という新たな方法での天文研究の道が開ける兆しと
      なった。

     《加速器による原子核研究への道が開け、その普及により原子物理学は急速な
      進歩、発展の歩みを可能となす。50年代以降には大型の各種加速器及びその
      研究機関、関連施設により目ざましい進展を遂げつつ、宇宙諸科学全般への
      貢献度を高め、現代的宇宙論への支柱的見地と指標的役割をなすものとなる。》
       
・1932年・・加速器の登場は物理学にとって注目すべき時代の始まりであり、
       【加速器による核物理のデータ理論研究】その実証性を確かな
      ものにしてゆく。(新たな原子核実験の登場)

      未だ核や、その構成粒子を破壊出来る程の装置ではなかったが、
      一部分的に崩壊させ得るものとして登場した。それが反って良い
      研究結果をもたらしたと見られる。

      イギリスの物理学者ジョン・コックロフトとア―ネスト・ウォルトン
       (アイルランド出身)は、キャベンディッシュ研究所アーネスト・ラザフォードの
       下で、原子核に関わる実験研究を重ね、水素核<陽子p>を高電圧
       下で加速、それをリチウム原子核に衝突させる実験を試みる。

      その実験で<リチウム核>を崩壊させ、同時にそれを<ヘリウム
      原子核>へと変換(原子番号3から2への上向転位変換)させる
      という<人工的核変換>に初めて成功する。

       〔 ⁷Li + p → ⁸Beが即、分裂崩壊 → ⁴He +⁴He 〕
                < ⁴He はアルファ粒子の実体である。>

       この時はまだ中性子nの存在は発見、把握されておらず、知られて
       いなかったが、現在では p、n の質量数で示すことが可能だが、、
       (3p4n   +   1p   →   4p4n が即、分裂崩壊 → 2p2n + 2p2n)

       中性子nを照射する反応実験は、未だ行われていなかったが、
       参考までに記すと:ヘリウム4と 3重水素[トリチウム] とに核分裂する。
       (この場合はリチウム6への射撃)
       〔 ⁶Li + n → ⁴He + ³T 〕
         (3p3n  +   1n     → 2p2n   +  1p2n)
               
     *これは、元素を別の元素に核反応変換させたという、<史上初の
      人工的試み>となった。
      もしこれが、ヘリウム<₂He>に陽子を衝突させたところの、リチウム
      <₃Li>への転移だったとすれば、より重い元素への転換となり、
      <核融合反応>となるわけだが、果たして可能かどうか?
        〔 ⁴He  +  p    → ⁴Li    +    n    or    ⁵Li 〕
       (2p2n + 1p      → 3p1n  + 1n  or    3p2n  ) 
       このリチウム 4, 5の同位体 は、非常に半減期の極短なもので
       自然界には存在ゼス、人工合成での極々瞬間存在である。

     *アーネスト・ラザフォードは、この実験結果によっても、彼が先に
      発見していた原子の<核>について、<陽子>が、水素を含め、
      他の全ての元素に共通の核子、<原子核>それ自体を構成する
      共通の主要素の一つであるとの認識に至らず、まだその事に気付
      かないでいた。

      それは何故か、、幾つかの正電荷の陽子同士が一つにかたまり、
      <核>を形成するという事は、全くあり得ない、矛盾したことで
      あると、認識していたからだ。(マイナス荷電の電子との集合体組成
      がそれぞれの原子と見なしていた)
      
      彼は、中性子の存在を予想してはいたものの、それの核への役割的
      位置までは、全く予知していない、出来ないものであった。

      (それで、次に記すごとく、皮肉にもドイツのハイゼンベルグに
      先を越され、それまでの実験研究からの成果の花となるべきもの
      を持ってゆかれる結果となる。)

   ・・・丁度この32年の年に、ケンブリッジ大学の物理学者ジェームズ・
      チャドウィックが、長年に亘り原子核の研究を続ける中、初めて
      <中性子の存在、発見>となる実験的証明を試みる。

      これは1920年にラザフォードが<中性子の存在>を予言して以来、
      彼の意思を継いでの、初の実験的実証への試みとなった。
      (詳細は後述の同年代の項にて。)

   ・・・同年(1932年)はまた、中性子発見により注目すべき年となった。
      ドイツの理論物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルグは原子核が、
      <陽子と中性子>から構成されているとする理論を発表する。
      それは、あくまでも<核の理論模型>であったが、、、。

      (ハイゼンベルグはゲッティンゲン大学のマックス・ボルンの下
      で助手を務めた後、1924年にかの有名な原子模型を提唱した
      ニールス・ボーアの下、コペンハーゲンに留学し、ボーアが設立
      していた研究所の一員として、原子核についての研学、研究に没
      頭しているから、そのような原子核理論をいち早く打ち立て得る
      ものとなるのも納得、頷けるわけだ。)

      また、この年、32年には、アメリカの実験物理学者カール・アン
      ダーソンが宇宙線の軌跡の観測中に<陽電子>の存在を発見する。
      その後、さらに1936年には、
      霧箱による宇宙線の飛跡観測中から<ミュー粒子>を発見する。

   ・・・ドイツ出身の天文学者ルーペルト・ヴィルトは、スペクトル線に
      よる太陽系惑星の大気研究で、木星のスペクトル解析から、その
      吸収線がメタンやアンモニアなどの水素化合物のものであるとの
      観測データを得た。これにより彼は、最初の木星構造のモデルを
      提示した。
      その想定モデルは、内部中心からまず金属と岩石からなる固体層
      コアがあり、そのまわりを氷のシェルが幾重にも相当厚に覆い、
      さらにその上層を濃いガス層が分厚く覆うといったものであった。

・1932年・・イギリス・ケンブリッジ大学の物理学者ジェームズ・チャドウィックが
      原子核構成素子である<中性子=(ニュートロン)>を発見する。

      これは、彼の師ラザフォードが1920年以来その存在を予見、示唆
      していた事から始まり、原子番号4のベリリウムに高加速された
      アルファ粒子(ヘリウム4)を衝射させる核反応実験により、そ
      の新たな粒子の存在を検出立証するものであった。

      ①<⁹Be+⁴He ⇒  ¹²C+¹n>・・中性子nが飛び出てくる。
      ②<他の原子核+¹n>・・その中性子nを他の原子核に当てると、
                   陽子が飛び出す。元の原子核は、他
                   の下向原子核(原子番号)へ転移。

      *それぞれ原子レベルでのスペクトル線を吟味、同&異の比定判
       断をする事を併行前提に検証された。

      ①②の実験過程で、②で荷電の<陽子>を検出できた事により、
               nが新しい粒子であったことを確認、それを
               無電荷ゆえ<中性子neutron>と名づけた。

     *この<中性子>の発見により、原子核の構造、及び反応に関する
      理論的認識が深まり、実験研究における成果は大いに進展を見る
      ものとなる。中性子を照射実験に用いることで、新元素や諸々の
      同位元素を人工発見したり、初めて<原子核分裂>を起こさせた
      りとした新たな進展へと向う。その一例として、
      翌々年の34年にはイタリヤの物理学者エンリコ・フェルミが放射性
      元素ウラン等から多数の人工転移の諸元素を生成している。

   ・・・同32年、<陽電子>が発見される。負の電荷を有する<電子>が
      そっくりそのままプラスの電荷を有した<反粒子>として位置付
      けられるものとなる。

      発見者は、カルフォㇽニア工科大学の宇宙線研究教授:ロバート・
      ミリカンの下で、共同研究に携わったカール・D・アンダーソンで、
      霧箱(cloud chamber)で宇宙線の軌跡を観測中に<陽電子>の
      ものを検知してのものと見られる。

      (霧箱は20世紀初頭以来、当時の実験物理学での最有力な装置の
      ひとつであり、荷電粒子、放射線などの研究、宇宙線の検出、観
      測に欠かせないものであった。しかし、1950年代以降に発見され
      た<ニュートリノ>のような荷電粒子でないものは検出できない
      ものであった。それで霧箱に代わり、1952年以降には、主に液体
      水素を満たした泡箱装置(bubble chamber)が発明され、使用
      されるようになった。)

     *この反電子なる陽電子も、すでに1928年イギリスのポール・ディ
      ラックにより、その存在の仮説が立てられていた。

   ・・・同32年、オーストラリア出身の物理学者マーク・オリファントが
      重水素²H どうしを加速衝突させることで、ヘリウムを合成すると
      いう人工的核融合に成功する。この実験からヘリウム3、および
      三重水素³H の発見なしている。   
      (彼は20代後半、1927年に英国、ケンブリッジの E.ラザフォードの
      キャヴェンディッシュ研究所の研究員となり、活動している。)
     
・1933年・・オランダの天文物理学者ヤン・オールトら研究グループは、銀河
      系中心から放射される電波が発見されていた状況下で、その当時
      スペクトル観測が盛んに有用される途上でもあり、宇宙からの電
      波(電磁波)にも、それに関わる領域があって、スペクトル輝線
      が観測されるものが存在するのではないかとの予測から、中性水
      素原子から放射されるとする電波のスペクトル輝線が、その波長
      としては、<21cm線>であるとの仮定予測を確実なものとな
      した。

      この予測は、第二次世界大戦中の事であったが、戦後の51年に
      なり、ようやくその5月11日に観測からの検出に成功、アメリカ
      の研究チームが3月25日に一足早く先に検出していたが、この中
      性水素原子の発する<21cm輝線>の検出により飛躍的な観測
      研究の成果がもたらされるものとなる。

      その一例として、52年にはその輝線観測のプロファイルに基づ
      いて、銀河系内の中性水素分布図が作られ、そのガス雲様相の想
      定から、我々の銀河系が、渦巻構造なすものである事を初めて明
      らかにすることができた。(銀河系内の恒星回転説➡渦巻銀河構
      造への観測データ解析明示)
      
      また、<21cm輝線>の観測データとドップラー偏移の大きさ
      の分析などで、様々な天体観測に利用されるようになる。

・1936年・・宇宙線観測の中より<ミュー粒子>が発見される。これは、例の
      霧箱観測実験での飛跡検出、およびその分析結果によるもので、
      電荷が電子と同じで、しかも電子よりはるかに重いと推定されて
      新粒子との特定に至った。
      
      発見者は、先に<陽電子>の発見をなしたカール・D・アンダーソン
      と、同じく米の物理学者セス・ネッダーマイヤーによるもの。
      (これには翌年に日本の理化研の仁科芳雄グループによる追実験
      でも、同様の結果が得られている。)

     *後の47年になって、電子と類似の性質があるとして、素粒子の分
      類枠の一つであるレプトンの一種とされ、<ミューオン>と新た
      に改名された。これは、それまで<ミュー中間子>として、誤認
      扱いの経緯状況にあったからである。

・1937年・・銀河系への本格的な研究、その構造や力学的特性などについて、
      ヤン・オールトの天文学、天体物理学の多大な貢献実績が、この
      30年代以降、目を引くものとなる。

      「銀河系中心部の構造について」の論文の発表 ⇒1941年にて。

   ・・・同年、銀河系以外、より深奥の銀河団や超新星の研究、発見等に
      貢献した、スイス出身で、アメリカで活動した天文学者フリッツ・
      ツビッキーが、宇宙での知られざる<ダークマター(暗黒物質)>
      の存在を示唆、提唱するものとなる。

      当時ツビッキーは、世界最大の望遠鏡を要したウィルソン山天文台
      を利用して、銀河、銀河団の観測、研究に邁進していたところ、
      <かみのけ座銀河団>内での構成メンバー銀河の運動(公転速度等)
      と明るさの観測から、各銀河同士を引き付けあい続けるには不十分
      で、軌道速度からは欠損質量が生じるとし、その矛盾の説明ゆえに
      観測され得ない何か他の物質の存在が銀河団全体への重力的な支え、
      バックボーンとなっているのでは、との考察を、天体観測史上初め
      て示唆するものとなる。
      (1933年来からの研究の成果として、有力メジャーな  ”アストロ
      フィジカルジャーナル”  に投稿することで、提起公表する。)

・1938年・・ドイツの化学・物理学者オットー・ハーンと共同研究者リーゼ・マイトナー
      らによる原子の転移研究実験の過程で、天然ウラン(原子核)に
      中性子を低加速照射することで反応を起こさせ、その反応生成物
      から、それがより軽い二つ以上の元素に分裂する<原子核分裂>
      であること発見した。

     *この場合、分裂してラジウム(後でバリウムと判明する)と、他
      に別の(不明な)原子とになったとかの、詳細な結果がいまだ掴
      めていない研究段階であったようだ。(ベータ崩壊の変換式現象
      理解として未だ把握されず。)

     *この実験の研究発案主導は、初め女性物理学者リーゼ・マイトナー
      によるものであったが、ナチス政権のオーストリア併合により、
      ユダヤ系オーストリア人の彼女はハーンに研究継続を任せ、ドイ
      ツを離れるという経緯があった。
 
・1939年・・ユダヤ系ドイツ出身のアメリカの物理学者ハンス・ベーテが新た
      に恒星天体内のエネルギーが核融合反応であることを発表した。
      
      (ベーテは、20代中葉の1930年前後にケンブリッジ大学に研究
      員留学し、その頃まだ大学の天文台長兼教授でもあったと見られ
      るアサー・エディントンの下で最新の恒星内部物理学の理論手法を研鑽
      している。この事から恒星研究で新たな進展をなした見られる。)

      それは、原子核融合での質量とエネルギーの関係則に基づいた、
      より自然なかたちでの<量子化学反応式>を導入することで、そ
      の転移融合の過程を式モデルとして定式理論化し、それを明らか
      にするものであった。
 
      その理論は、水素、ヘリウム間の範域を基底カバーするとした核
      融合反応サイクルと見なしたものであった。

      <陽子Pー陽子P連鎖反応>:以下現代的化学反応式で示すと、
      P+Pの融合反応を起点に、²H+P、⇒ ³He(ヘリウム3)、
      ³He+³Heとの融合で、⇒ ⁴He+P+P ヘリウム4が生成
      され、陽子が2つ放出される。
      (他に²H+²H → ³He+P 融合展開もあるかも知れないが)

      こういった循環サイクルのものが、太陽の質量と同じくらいの恒
      星で行われるエネルギー生成サイクルの核融合と見なした。

      太陽よりもうんと質量の大きい恒星には <CNOサイクル>,
      炭素(C)、窒素(N)、酸素(O)を触媒とする核融合を提起 
      したものであった。こちらのサイクルは先に同様の研究をしてい
      たカール・F・V・ヴァイツゼッカーが前年に提唱していたもの
      で、それを採用、さらにより深い改良的な理論付けを施し発表す
      るものであった。

      (1920年以降、イギリスの天文物理学者 アーサー・エディントンが進め
      た<恒星内部構造物理>による<恒星モデル>の理論化の見地が
      開かれることにより、その理論的立場を前提に、丁度その頃、
      キャヴェンディッシュ研究所ではイオン化された<原子の質量>
      の測定がより精密になり、その計測データ(水素とヘリウム)と、
      モデル対象とされたある恒星を源とした水素、ヘリウムのスペ
      クトル分析により算出された理論質量との比定、及び恒星内分布
      量との両者の比較から、恒星内核融合説が予見、示唆されるもの
      となった。

      また、高温高圧な気体次元での天体内部核の推定質量に基づいて
      エネルギー算出を試みるとしたもので、それを核融合暫定基準値
      に比定する試みともなった。これは恒星に関する<標準太陽モデ
      ル>定立への先駆けともなる。)
      
・1940年・・この年代の初め前後に、パラボラ式の世界初の電波望遠鏡がお目
      見えした。これはアマチヤの無線技師グロート・レーバーによる
      自家製のものだが、恒星系地球外電波の受信検出を目論むものと
      しては世界最初のものであった。

      (これは、1931―32年に無線通信技術者カール・ジャンスキーに
      よる太陽系外の宇宙(銀河系=天の川の中心方面)からやってく
      る電波の発見後、そのジャンスキーの論文に啓発、観測へのヒン
      トを得ての電波望遠鏡発展へのパイオニアとなるものであった。)

      口径9.5mの放物面反射鏡のものが、シカゴ郊外のイリノイ州
      ホィートンのレーバー氏の自宅裏庭に設置、37年頃完成した。
      それによる数年の観測結果(全天に向けての電波源の分布把握)
      の大成が43-44年までに公表され、第二次世界大戦後には非常に
      高く評価されての影響下に、急速且つ、烈促な電波天文観測の技
      術発展を伴い、天文学全般の研究レベルを引き上げ、その研究視
      野を奥深いものへと導いた。

      電波望遠鏡の登場により、光学望遠鏡では観測できない可視光以
      外の波長の電磁波を幅広く観測できる時代へと進歩していった。
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     *20世紀後半中葉には世界最大の直径305m巨大球面アンテナ
      を擁したものが、プエルトリコにあるアレシボ天文台に1963年に
      完成しすでに久しく数十年が経つが、その後2000年代になって、
      地震被害や老朽化破損にて完全崩壊となった。
      アレシボの建設後の一基型・超大型球面パラボラとしては、中国
      が2011年着工、2016年7月に完成した、径500メートルの世界最大
      となる電波望遠鏡が存在している。

      今では宇宙望遠鏡ハッブルなどもまだなお観測の主流となしてい
      るが、さらに2020年代に向けては、チリ・アタカマの高精度パラ
      ボラを何十台も繋げ、一つ連動の干渉計システムとする事で大開
      口の合成型望遠鏡(略称:ALMA〔アルマ〕望遠鏡=2014年で最
      終66台のパラボラアンテナ群を完了)となる。

      それを主基地として、さらに地球上諸地域にある複数の他の望遠
      鏡(6基台)を連動させることで地球規模の<電波望遠干渉計シス
      テム>を構築、プロジェクト=イベントホライズンテレスコープ:
      略称<EHT>と名した観測網体制へと発展する。(これはすでに
      2017年4月以降から本格的観測が始まり、2019年4月10日にはその
      研究成果として、データ解析処理、及びコンピュータ画像化の完成
      により、<M87楕円銀河>の中心となすとした、注目すべき超巨
      大ブラックホールの把捉撮像が公開される。

      その後、2022年5月12日には、その観測2例目となる<いて座A*>
      (これは天の川銀河の中心に位置する)の巨大ブラックホールの
      データ解析画像化、リング的な光波部と事象の地平面からのブラッ
      クホールシャドウ(実質ホール本体を覆う)の撮像が公表される。

・1942年・・スウェーデンの宇宙物理学者ハンネス・アルヴェーンは、プラズマ
      物理の理論をより発展適応させるものとして、プラズマを電導性
      の流体特性をなす荷電粒子群であるとして、それが自他の電磁場
      と密接に絡み合った系をなすものと見て、<宇宙プラズマ理論>
      を初めて提唱した。

      これは、電磁流体力学という新たな物理概念において、プラズマ
      の流体運動性の記述を磁気流体力学(MHD)の方程式系で求め、
      且つその相互作用をなす電磁場の記述を<マクスウェル方程式>
      との組み合わせ、連結連立方程式から求めるとした<宇宙プラズ
      マの解析理論>を志向するものであった。
      
      そこではプラズマの圧力、張力、温度、その流体の磁力線との凍
      り付き、イオン流体と電子流体との混合物とするその相互作用を
      論じ求めるとした<2流体モデル>、またビルケランド電流(後に
      宇宙のフィラメント構造を想定、その観測対象へと比定発展。)
      等々、極めて複雑となる諸概念を有用とするものであった。

     *アルヴェーンの研究は、1937年以来、ノルウェーの物理学者で、
      オーロラ研究の探検家K・ビルケランドの研究業績と、宇宙空間
      の捉え方、その論文(1913年)内容:”宇宙の全体が電子と荷電
      イオンで満たされ、、、星も進化の段階でそれらを放出する、、
      太陽系や星雲以外の真空の宇宙空間(と当時は見なされていた)
      でも、それら(1928年Ir ・ラングミュアによりプラズマと新語名化。)
      が見つかる、、云々”との予言的言説に促され、新分野の宇宙物理
      学開拓の道へと向かう。その基礎となる<電磁流体力学:MHD>
      の新分野、プラズマ物理学の基礎開発を成し遂げた。(この業績に
      より、1970年に栄えある<ノーベル物理学賞>を授与される。)

     *彼の研究は結果として、新たに<プラズマ宇宙論>を提唱するも
      のとなる。これは1950年代以降、その当時から有力となってきた
      <ビッグバーン宇宙論>に対極するほどの新説に発展してゆく。

      しかし、1990年代前後に観測、一躍研究の的となった宇宙の大規
      模構造”グレートウォール”に関しては、うまく説明できるものと
      なったが、同じく、89年頃に観測発見された<宇宙マイクロ波背
      景放射:CBM>については、上手く説明できない、相入れないもの
      となっている。

  [注]:プラズマ宇宙論の根幹となってゆく新鋭の<プラズマ物理学>は、
      当時の天体物理学、宇宙物理学の発展的志向性、天体宇宙観測の
      著しい進歩の時流に乗って、その理論思想が宇宙の諸事象を理解
      するうえで、非常に適用、適応力によりすぐれて、宇宙理解をあ
      る面から一新するほどのものへと発展してゆく。

      宇宙に対するその新知見の記述を見せた<プラズマ宇宙論>も、
      21世紀前後には、より高度な<統一的宇宙論モデル>の志向時流
      により、それのうちに融合化、所々部分的に合致せるものとして
      後付けられるものとなる。

      例として <インフレーション・ビッグバーン宇宙統一論>では、
      ビッグバン後の<宇宙の晴れ上がり>までの期間(約30~40万年
      と推定)の間の、その広汎なスペース規模に及ぶ<原初プラズマ
      状態>(これは後のいずれの過程での諸プラズマとは質的に異な
      るかも知れない、原初的唯一性のものとの見方)の想定適応、

      また、星雲や銀河の諸生成や、諸恒星の進化過程での重力ブラッ
      クホールとの相関的ちから関係でのプラズマ電磁力(巨大なプラ
      ズマ・フィラメントへの発展とその回点力)を想定した適応、等々、
      現在においては、太陽コロナ・プラズマでの適応・アルヴェン波&
      磁束理論が見られるといったところである。

      しかし、<プラズマ宇宙論>支持者は、プラズマによる宇宙生成
      を重力ブラックホールの出現以前のものとして主張し、「ビッグ
      バーンはなかった」などの著書を記したエリック・J・ラーナー や、
      「アープ・アトラス」という特異な銀河(338点)のカタログ書を
      1966年に出版したアメリカの天文学者ホルトン・C・アープ(パロ
      マー天文台)も、天体観測に多大な貢献をなすも、<ビッグバン
      理論>を強く批判する立場を表明した。

      因みにその当時は、<ビッグバン説>が提唱されて十数年になる
      頃、天文観測、宇宙物理学も<ビッグバン目線>で諸研究にたず
      さわる傾向が強くなり、従来からの伝統的な<定常宇宙論>とは
      対極関係をなすものとなっていった。
      
     *<定常宇宙論>というものに関して、その由来、要旨について。
      -----------------------------
      この宇宙論の起点、発生原点は、1678年代のアイザック・ニュートン
      の著書『数学的諸原理の自然哲学』通称「プリンキア」における
      内容ベースの基本セオリーから生起付けられたものである。

      つまり、ニュートンが<絶対空間と絶対時間>を観察者とは全く
      無関係なものとして、先天、客観実在とした上で、自らの力学の
      3つの運動法則と万有引力の法則を数学的に理論関係付け、ケプ
      ラーの惑星3法則を含めて<万有天体>においても同立普遍なる
      法則として著述論表する。(普遍的法則によるコスモス観)

      この統一普遍的セオリー観が、新たな不変、定常な<宇宙原理>
      という思考観念を誘発、派生する源となる。そして時代の進歩と
      変遷と共にその長い過程で、当初から多様に議論、反論、激論が
      幾たびか噴出するも、この<定常宇宙原理>観念が記憶に息づく
      所産となる。やがて時代の進展に対アップして<定常宇宙論>
      という考え方へと進展、さらに近現代的なセオリ―を要した<定
      常宇宙論>として提唱されるものとなる。

      その当時、特に1948年前後の要旨の主要点は以下の如くである。
      それは、フレッド・ホイルと2人(宇宙物理学者トーマス・ゴールド、宇宙
      論数学者ヘルマン・ボンディ、共にオーストリア出身、英国ケンブリ大トリニティ卒)の
      支持者よる共同論文で詳細に表明されている。

      ①:ニュートンの万有引力が宇宙における永遠に変わることない
        一つの<宇宙原理>と見なせるように、完全な<宇宙原理>
        は、宇宙自体が絶えず新たな物質を生成しており、そのため
        に宇宙は膨張を繰り返すとする。
      ②:宇宙は<ビッグバン>により、その創生の初めがあるもので
        はない。宇宙には初めも終わりもない。
      ③:宇宙の物質密度は、その膨張により低下、減少するものとは
        ならない。<完全宇宙原理>は新たな宇宙物質を生み出すか
        らである。したがって、宇宙全体、そのラージスケールで見
        れば、一様で均質なもの、それ自体が変化するものではない。

      *定常宇宙論は、1964年以降、<宇宙マイクロ波背景放射>が
       発見され、それが<宇宙創始ビッグバン説>を裏付ける証拠
       事象との考えが有力となり、それに向けての宇宙への全天アプ
       ローチ探査の1989年<COBE観測衛星>打上げ、サーベイが
       展開される頃には全く影をひそめるものとなる。

       そんな定常宇宙論に代わって、むしろ<プラズマ宇宙論>の
       方が有力な宇宙論モデルへと、その理論展開をなしてゆく。     
                 
・1946年・・イギリスの天文学者フレッド・ホイルにより、恒星内部では元素
      合成が生じていること、その合成の主要なあり方、概念を初めて
      明確に提示した。

     *彼は<ビッグバーン説>支持者ではなく、<定常宇宙論>を主張
      する側の一人であったが、皮肉にも1949年のBBCラジオ番組の
      スピーチで、” 宇宙は大きな爆発= Bing Bang で始まったと
      彼らは言っているが、云々、、” と、批判した事から、その言が
      論説名にまでなってしまう。

      これにはビッグバーン説を有力に理論提唱したジョージ・ガモフ
      が、その著書、講演などでその表語を用いる事により、広まりに
      一役買っていたといった節も見られる。

     *ホイルの<定常宇宙説>は、ルメートルやガモフらが展開した創
      成モデルのビッグバーン説に対抗して、従来から暗黙のうちに認
      めていた<定常モデル>の宇宙観を擁護するかたちで、1948年に
      自論の考えを含め、理論立てして公表するものであった。

      先にエドウィン・ハッブルが観測結果から理論付けた<宇宙の膨
      張現象>を、宇宙では絶えず新しい物質が生成されているとの定
      常現象の見識に基づき、その事象がまさに拡張の原動力、作用因
      となり、膨張宇宙が結果しているとの見方を披瀝、主張したのが
      ホイル説であった。(赤方偏移が宇宙の膨張に起因して観測され
      るとするエドウィン・ハッブル説と対立した。)

     *いずれにしろ遠方の銀河だけでなく、すべての銀河が固有な運動
      をしながら位置移動の運動をなして、地球からの観測もその相対
      的な運動として捉えられていると見るべきである。現代的時期で
      は膨張しているように観測されるが、数千年、数万年後にはまた
      転じて各距離間が元に戻り、平衡、或いは見かけの空間域が縮小
      傾向をみるような観測結果を得るやとも、生成と消滅の超大現象
      のバランスの中での定常宇宙論の発展内容と見られる。

・1947年・・K中間子が宇宙線のうちから発見される。これはジョージ・ロチェスター
      とクリフォード・バトラーによる霧箱での観測実験にて、その放射線
      の飛跡の検出、分析認識からのものであった。
      (両者ともにイギリスの物理学者)

   ・・・また、同年、<パイ中間子>がセシル・パウエルによってを発見
      される。(イギリスの物理学者でノーベル賞受賞者)
      このパイ中間子に比定され得る粒子が、1934年湯川秀樹により
      既にその存在が予測されたかたちで理論的に公表されていた。
         
・1948年・・理論物理学者ジョージ・ガモフ(帝政ロシア出身で、学生時は、
      アレクサンドル・フリードマンの弟子、アメリカ国籍を得た。)は、1927年
      以来、ジョルジュ・ルメートルの提唱した<宇宙創生ビッグバーン説>
      やエドゥイン・ハッブルが1929年以来、その天文観測により宇宙
      が膨張しているとの立場を支持、さらに当時の天文、物理の最先
      端知識を駆使して、より一層詳細な理論付けを試み、自派、自説
      の宇宙論を提唱してゆく。だが、自らの理論と実験データが示す
      実際状況に不一致、矛盾ありで、一時支持されないものとなる。

      それでも、宇宙創成論の本旨たるビッグバーンを前提にして、宇
      宙はそれによる<宇宙背景放射>が生起しており、その残影を留
      めていると推論、その予言的な言葉を残している。
      (宇宙誕生の始まりを高温高密度からのビッグバーンによるとし、
      その膨張宇宙と共に<宇宙背景放射>説を初提唱する立場となる。
      しかも膨張宇宙の最初期段階に諸元素の大部分が生成されたとする
      元素起源に関する新理論=αβγ理論を本旨となすものとしている。)

     *ガモフが唱えた<宇宙背景放射>の概念、何か非常に理解しがた
      い、解りづらいところがあろうか、、、概念イメージが描き出て
      こないとも、、ビッグバーン後における宇宙等方向に残映する結
      果となった熱温放射が背景から注がれているとか、、??ならば
      宇宙の無限の彼方は、ほぼ3次元的に何か大気のようなもので球
      体ドーム状に覆われているのか、とも想像しちゃいますよね。、、

      (後に観測が可能となり、その全天サーベイ測定での放射の温度
      は、その全領域で一様均等方的に 2.7~3K内との結果を挙げる。
      因みに 0K°=―273.15C° だから、摂氏Cではマイナス 270度ほど。
      ビッグバン時点の何万Kから3000Kとかの宇宙時期を過ぎ、現代時
      での測定により、その残影輻射は冷めきった極みに達したものと
      思われる。宇宙は絶対温度0K(―273.15C)よりももっと低温に
      達するものなのか、?。サーベイ全天宇宙の温度分布が、空間域
      においても、まばらで高いからその放射温度を背景的に測定でき
      るというものであろうか。)

・1948年・・この年、アメリカ・パロマー山天文台に口径200インチ(5.08m)
      反射式ヘール望遠鏡が設置された。これは当時世界最大であった。
      カルフォルニア州サンディエゴのパロマー山(1713m)に建設。
      ファーストライトと共にエドウン・ハッブルが最初の観測者として用いた。

     *この天文台での写真撮影専用(アナログだが14インチ²の写真乾
      板使用)に特化されうる写像感度の秀でた48インチ(1.26m)
      シュミット式望遠鏡による<スカイサーベイ観測>が実行された。
      1948年11月の初乾板を皮切りに1958年完了のPOSSプロジェクト。

      可視光を対象としての北天範囲を主として観測であったが、注目
      されるべき<最初のスカイサーベイ>となった。撮影観測の最終
      年(1957‐58年にかけて)には天球の南天、赤緯―33度までカバ―
      した拡張版撮像がなされ、このサ―ベイでは合計937組(赤色と青
      色光域の写真)の乾板構成でもって完成した。

      (南天全域に関しては、のち1970年代に英国のエディンバラ王立
      天文台の主導で、オーストラリアのアングロ・オーストラリアン
      天文台設置のUKシュミット望遠鏡を介して乾板デ―タが得られて
      いる。)

     *上記両者の乾板データは、1994年以降にはその写真乾板が全てと
      他の蓄積された乾板と合わせてデジタル化され、全天を網羅した
      <写真星図データベース>としてコンピュータで扱えるものとな
      っている。(Digitized Sky Survey、DSS)現在www上でも
      公開され、各国関係機関を介して閲覧利用が可能となっている。
      
・1948年・・同年頃ブㇽックへブン国立研究所(47年設立)では大型の衝突型
      円形加速器の建設が始まり、50年前後から1968年まで実験運用
      される。素粒子関係での数々の研究成果を挙げ、世界物理学界を
      リードした。(シンクロトロンの名称:コスモトロン)

      同じ48年、素粒子物理の分野では、ベルギーの物理学者レオン・
      ローゼンフェルトにより、素粒子の分類分けでの一つのグループ
      として、<レプトン>という新語が作られた。

      (古代ギリシャ語で〔軽い〕を意味する<λεπτος〔leptos〕>と
      粒子ニュアンスを有する接尾語”₋on"からの合成の新造語である。
      これは、後の素粒子の<標準化モデル>の区分、位置付けで、
      <クォーク>グル―プと関係対語するかたちで使用される。)
      
・1952年・・上記ブルックヘブン国立研究所の衝突型加速器実験(陽子衝突)により
      後に複合粒子(ハドロン)に類族されるメソン系のK中間子、バリオ
      ン系のラムダ〔Λ〕粒子、シグマ〔∑〕粒子、グサイ〔Ξ〕粒子がその衝
      撃崩壊により発見される。

・1955年・・反陽子が発見される。陽子の1919年発見から30数年後となるが、
      その間には既に1932年に中性子、陽電子の発見が相次いでいる。
      発見者は、実験物理学系のオーウェン・チェンバレン、エミリオ・
      セグレらで、カリフォルニア大学バ―クレ―校の加速器ベバトロンで
      の陽子散乱実験によって、負の電荷を持った陽子と推定される粒子
      が検出されるというものであった。

     *1950年代後半から60年代にかけて、さらに様々な粒子が発見され、
      原子物理学は、<原子核モデルの定立>時代から<素粒子物理学>
      の研究と、その基本モデル化、標準モデル化を志向、定立せんとす
      る時代へと進展する。      

     《大戦後、米ソを軸とした東西冷戦体制を背景に、50年代後半からは
      米ソの国威的指標として宇宙開発競争が顕著な時代となり、宇宙物理学、
      天文学もその影響下で進展、或いは停滞気味の歩みともなるが、原子物
      理学分野での根本的基礎付けとなる<素粒子物理学>の飛躍的な発展に
      より、その知的見地を踏まえての数々の新展開の研究活動が開け、ひい
      ては最新的宇宙論への構築、新宇宙モデルへの構想を新たに意図するよ
      うな相乗的時代へと進展してゆく。その一方でまた、ロケットや人工衛
      星関係の技術革新、知識の向上にも著しいものがあり、宇宙探査時代へ
      と華々しく向かってゆく。とりわけ1960年代以降から世紀末、新世紀に
      亘って続く<太陽とその惑星>への探査、観測が、冷戦体制終焉後には、
      やがては国際的協調の下で遂行される共同研究課題に関わる主要な手立
      てとなってゆく。》

・1956年・・素粒子物理の研究分野では、この年さらにニュートリノ粒子(中性微子)
      が発見される。
      (クライド・カワン、フレデリック・ライネスよるアメリカ国立ロス
      アラモス研究所での共同実験で、原子炉から発生するニュートリノ
      らしき粒子ビームを使って、その存在裏付けを検証できる反応実験
      によるものであった。)

・1958年・・アメリカ航空宇宙局(National Aeronautics and Space 
      Administration, NASA)が、アメリカ合衆国政府内の宇宙開発
      に関わる計画を担当する連邦機関として、7月29日国家航空宇宙法
      (NationalAeronautics and Space Act) に基づき設立
      された。同年10月1日から正式にその活動を始めた。

      NASA が行なう活動には、国家プロジェクト的な宇宙開発を目指
      す重要な任務の他に、学術研究を意図した天文学的な宇宙探査に
      関わる種々の目的、目標のミッションが随時計画、試みられるも
      のとなっていった。

    *ソ連が先に人工衛星、有人衛星を打ち上げる過程で米国もマーキュリー
     計画(1959~1963年)、ジェミニ計画(1965~1966年)、そして、
     1961年からは月への有人着陸を目指すアポロ計画(1961~1972年)
     と続き、宇宙開発に向けた当初の有人宇宙飛行計画は、一大国家プロ
     ジェクトとして推進されていった。

     その後は、スカイラブ(73-74年の軌道ステーション)計画、75年
     7月のアポロ・ソユーズとのドッキングテスト計画が遂行される。

     さらにその後アメリカは、スペースシャトル計画(1981年‐2011年8月)
     を遂行するものとなる。その他に当時の米ソは、60年、70年代には
     金星や火星に無人探査機を送り込んで何かと競い合うものとなった。
     こうして双方の過熱した開発競争は1975年頃まで続く。

     (その頃、ソ連も軌道上に宇宙ステーション・サリュートの打ち上げ、
     サリュート4号:74年、5号:76年、6号:77年で漸く安定したものとなる。
     その保持継続をなすべく、度々ソユーズ宇宙船が往還したが、月への
     有人飛行や月面着陸の計画は断念された。74年6月23日正式に中止。
     ソ連のサリュート計画は7号‐82年の打ち上げ後、1986年の有人搭乗
     ミッションの終了でもって終わった。

     その後の後継ステーションは1986年2月19日打ち上げの<ミール>
     に替わる。ミールは、時代の過渡期の間、軌道上に留まる続ける。
     89年12月東西冷戦終結➡91年12月末ソビエト連邦崩壊後、新たに発
     足した新連邦での<ロシア共和国>との国際協調路線の関係が開け、
     米国・NASAとの間で<ミール・スペースシャトル計画>が1994年
     から1998年まで遂行された。

     ロシア・米によるこの宇宙ステーションの建設、研究活動実績、経験に
     より、つぎの<国際宇宙ステーションISS>へと受け継がれるものと
     なる。1998年11月20日ロシア・基本モジュール・ザーリャを打ち上げ、
     軌道上に投入、続いて12月4日米・スペースシャトル・エンデバ―の打ち
     上げにより接続モージュールが運び上げられ、いよいよステーション
     建設、構造物組み立てへの時となり、翌99年から段階的に始まる。)
     
・1960年・・この60年代には、各種望遠鏡の大規模化、観測機器、測定技術の
      急速な進歩により、宇宙への探査規模は益々広く、遠方への深み
      を増すばかりとなる。全天への総銀河サーベイ観測、銀河団など
      として捉える観測規模に拡大して行き、大きな視野スケールで臨
      む観測活動へと発展し得る過程が整えられるものとなる。

     *この年から太陽探査機パイオニア5号による太陽観測が始まる。
      NASAのパイオニア計画での探査機で4号までは月探査向けに
      遂行された。5号から、1968年打ち上げの9号まで太陽周回
      軌道上からの太陽事象観測と惑星間空域での事象計測を目的とし
      て実行された。

     *62年には金星探査を主目的とした探査機マリナー2号が打ち上げ
      られ、そのミッションにおいて<太陽風>の初観測データを挙げ
      ることが出來、その存在が実証されたと見られる。(太陽風の存
      在は、1950年代から予想されたもので1958年にはアメリカの宇宙
      物理学者ユージン・N・パ―カ―が概念的に初めて<Solar wind>
      の名称をもって提唱していたものであった。磁場を帯びた太陽風
      が太陽自転の影響で同時的に螺旋状となり、太陽圏にブローする
      とした、磁場のねじれ<パーカー・スパイラル>の名の下で捉え知
      られるものとなった説でもある。)

・1962年・・ニュートリノ粒子の存在証明から6年後のこの年、米国の実験物
      理学者レオン・M・レ―ダ―マン、他二人の共同研究者らが、ブルック
      ヘブン研究所の加速器コスモトロンを使用して、ニュートリノの
      反応を実験調査し、その結果、ミューニュートリノという別種を
      検測しての新発見に至り、電子ニュートリノとの関係からレプト
      ン枠での二重構造性を実証した。

      (二重構造は、電子と電子ニュートリノ、ミュー粒子とミュー
      ニュートリノといった対関係が事象検出に反映、その解析結果に
      よる実験立証となったものと見られる。この当時は未だ、タウ粒
      子とタウニュートリノは未発見状況であったが。)

   ・・・同じくこの62年、アメリカで天文観測での新たな実験手法が展開
      される。
      それは、天文観測用ロケットによる、大気圏外、つまり、大気の
      可能な限り希薄な空域でのX線天体(X線を発するとする天体)を
      観測把握する試みとなる。(X線は大気で吸収され地上では不可)

      リカルド・ジヤツコーニ、ブルーノ・ロッシーらの観測研究チームは、
      ロケットにX線検出器(ガイガー計数管機器)を搭載しての実験、
      その当初は、月からのX線を捉えるのを主眼としていた(当時は
      太陽からのX線だけが把握されるのみと見られていた)が、この
      最初の試みで予想外のX線天体(さそり座・ScoX-1 といて座A*
      〔Sgr A*〕相当に推定されるもの)の発見となる。

      この成果と共にその観測方法は<X線天文学という新分野開拓の先
      駆け>となり、その後の天文観測、宇宙物理学への90年~2000年
      代へと向かう過程で、飛躍的な発展に貢献する一大研究部門となる。

     *銀河系の中心が、いて座という星座(肉眼レベル観測される星々、
      近代のメシエの観測星表名も含め)領域方面で遠近的に重なった
      その背後の遥かな遠方の宇宙にあり、地球からの距離は、後々には
      およそ<2万6千光年>と計測され、その中心域にある<いて座 A、
      & A* 星>は、旧来観測の星座の星々とは位置的関連関係も有せず、
      いわば可視光を対象とする光学レンズ仕組みオンリーの望遠鏡では
      観測不可能な天体であった。
       
     *[注]:宇宙線に関しては、現在では多様な知見が得られているが、
          その種類についても大きく二つに識別されるとも、、、、

         ・粒子放射系:アルファ線、β線を含め、陽子線、電子線、及び
           陽電子線、中性子線、ミュー粒子線、中間子線、ニュー
           トリノといった幾多の粒子系のもの。

         ・電磁波放射系:高エネルギーのガンマ線や  X 線、紫外線、
           可視光線も含め、さらに赤外線からマイクロ波、一般的な
           電波領域に及ぶ等のスペクトル線表示をする類の電磁波系
           のものがある。

           (太陽源のX線は、直接観測されたものではないが、1947-
           48年に蛍光に関わる被射変色から推定発見となったもので
           あったが、それより先の地上レベルでは、例の<なぞの不
           可視の放射線の一種>として発見され、年久しからずや、
           ドイツの某大学の総長ながらヴィルヘルム・レントゲンが、
           真空放電=陰極線の研究実験に取り組み、1895年11月8日
           夕刻、その合い間に起きた未知の放射線となる事象の発見、
           翌年それに関する検証論文を公表、それ以来、またたく間
           にその存在が世界中に認知されるものとなる。)
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     *この60年代は先の1940年に始まる<電波望遠鏡観測>を先駆けとして、
      赤外線天文学、X 線天文学に並行して、さらに70年代の紫外線天文学の
      本格的な観測(紫外線は太陽光の一部以外、地上大気を透過しないので、
      大気圏外からとなるが、)も始まる。

      (NASAのスカイラブからの太陽コロナ観測〔73年〕により、また、78年
      打ち上げの米英欧共同の<紫外線天文衛星=IUE>による高精度の紫外線
      スペクトル観測の成果など)。

      X 線波長に連続した更なる短波長のガンマ線の発源の天体観測も本格的
      になり、1960~1964年にかけて、かに星雲や、超新星残骸(Cas A)、
      幾種もの電波源銀河、活動銀河、銀河団を対象に試みられる。
      その時は有意なガンマ線源の信号は発見されなかったが、90年代から
      2000年代に向けての高度な観測技術への発展ともなり、1991年からの
      <コンプトンガンマ線観測衛星>や2008年8月から<フェルミガンマ線
      宇宙望遠鏡>の運用へと継続する例の如く、高エネルギーガンマ線源の
      諸天体(パルサー星、ガンマ線バースト源天体等)観測も有意な研究の
      一分野ともなる。
                  
・1963~・・素粒子標準モデルの初期原型と、その主要となる<基本粒子>の
  64年  一類が、米の物理学者マレー・ゲルーマンにより<クォーク>とい
      う名称でもって理論的にその存在が確立実証されるものとなる。
      これは素粒子物理学のこれまでの幾多の実験と理論見識の積み重
      ね成果として、その実現に行き着くものであった。

     *標準模型の原型成立に至る流れは、1948年以降<軽い粒子>=
      レプトンというグループと、それに対する<重い粒子>=バリオ
      ンというグループに区分けした類別志向の下で、60年代へと至る
      前座の進展過程があった。そこへさらに前年の62年「国際高エネ
      ルギー物理学総会」での開会トークで、前ソ連の素粒子理論物理
      学者レフ・B・オクンが、新たな分類分けとして<強い相互作用>
      で結合するノンレプトンの<複合粒子>グループが知られている現状
      を思慮して、これに<ハドロン>という名の新語枠を設けるべし
      との提意が示され、認められるに至る。(ギリシャ語の”強い”を
      意味する<'αδρος〔hadros〕>+接尾語<on>との合成新語発案)
      この時までの<強い(相互)作用>は、量子数の一つである荷電の
      <価粒子>が、第一義的なものとして意識されていた。

      こういった粒子物理学の分類規定枠の流れを受けて、その総会の
      1年後、さらに新たな部類整備分けの標準化モデル体系がマㇾー・
      ゲル‐マンによって発案提示されるものとなる。

      彼は、<ハドロン>を新たにバリオンとメソンとの二種類枠に
      し、以前バリオンに相対して枠付けられていたレプトンが、新
      規に理論確立した彼の<クォークモデル>のクォークグループ
      に対比並存するかたちで位置付けられ、その標準モデル化を形
      成した。(メソンまたはメゾンは、別名で中間子の事)
      
      ゲル‐マンは、原子核を構成する陽子、中性子など、重い粒子類
      (バリオン)を構成する内部構造の模型を、数々の粒子観測実験に
      よるデータ結果からの特徴と、その確定的理論により初めて提案
      し、公表するに至る。<クォーク・レプトンモデルの定立>

      クォークと名付けられた素粒子にレプトンという素粒子を並立的
      に関係付け、さらに<強い相互作用>を励起するとした<グル
      ーオン>を想定した素粒子グループの<初期標準構成モデル>
      の成立である。(レプトンに属するタウ粒子が1974~77年に
      加速器による高エネルギー実験で発見され、タウニュートリノ
      も2000年7月にその発見が成り、素粒子グループの<標準モデル>
      理論は、名実ともに完全盤石なものとなる。)

      グルーオンは、ゲル-マンが新たに導入した量子数の<色価>を
      持ち、その違いにより8種類のグルーオンがある。これらは質量
      がゼロ、電荷が中性である。(グルーオンは、ゲージ粒子という
      名の素粒子グループに分類付けられている)

      (陽子、中性子はそれぞれ三つのクォークから成り、陽子は2つ
      のアップクォークと1つのダウンクォークから、それに対して、
      中性子は反立対称的に、2つのダウンクォークと1つのアップ
      クォークから成るものと理論設定出来るとした。)

      同時期にイスラエルの学者ユヴァル・ネーマン(アメッリカでの
      滞在研究中の62年にて)と、ジョージ・ツワイク(米の物理学者)
      も、この64年にクォークから成るモデルを提唱している。
    
     *最初の三つのクオークによるモデルは、1968年にスタンフォード
      大学が運営する当時の<スタンフォード線形加速器センター=
      SLAC>(現名:SLAC国立加速器研究所)での電子などの陽子、
      中性子への衝射実験で、アップクオーク、ダウンクオークの物理
      な実在を立証するものとなる。(ストレンジクオークは、1947年
      に先に発見され、その時にはK中間子として誤認知されていた。)

     *この研究提案の背景には、1950年代前後からの加速器による各種
      原子核、陽子、電子の衝突実験から数多くの新粒子の出現を見ると
      いった流れがあり、それに係わる系列整備、統一的な理論モデルを
      組み立てる必要がその研究課題となったからであった。

・1964年・・イギリスの宇宙物理学、理論物理学者ロジャー・ペンローズは、
      スティーヴン・ホーキングと共にブラックホールの特異点定理
      を証明する。(星の生涯での崩壊過程上で生ずるか、生じないか
      の特異点と<事象の地平線>を現出するブラックホ―ルに係わる
      理論質量的相関定理)
  
     *ブラックホール表現とは、謎めいた星の天体名なのか、それと
      も天体事象を意味する名称なのか、その当時の頃は未だその言
      葉、名称表示もなく、新奇な天文物理学の研究課題として浮上
      してきたばかりだと見られる。

      実の処、1930年代前後から<太陽と諸恒星の研究>が並行して
      行われるようになり、太陽を標準モデル化し、その比較を前提
      に諸恒星の観測研究が盛んに進むものとなり、加えて天体物理
      学への発展から、星=恒星の一生を原子物理現象次元で捉える
      新たな研究への流れもあり、そう云った研究風土の過程で出て
      きた、未だ明確にならないある<天体の事象>の特殊な何かを
      理論認知、仮定するものであったと見られる。

      (世界の一流、トップクラスの専門家らが注目、研究対象とし
      て、取り扱った事象のものと見られるが、実際にこの年、64年
      時点では<ブラックホール>という言葉の言名さえも使用され
      ていなかったのが現状である。
      1967年になって、アメリカの理論物理、天体物理の学者ジョン・
       アーチバルト・ホイーラーがようやく命名、使用した事で、その用語
      定着への始まりとなったと見られる。)

・1964年・・ジョージ・ガモフにより1948年に言明、予言示唆されていた
      <宇宙マイクロ波背景放射>に関係すると見られる宇宙からの
      未知の電波として、地上用電波のノイズの検索、除去中に発見
      される。
      英語では、Cosmic Microwave Background(Radiation):略称とし
      て、CMB、または CMBR と表記されている。

      発見の経緯は、ベル研究所の技術者アーノ・ペンジアスとロバート・W・
      ウィルソンが、天文電波観測用の新型の高感度マイクロ波アンテ
      ナの設置、受信テスト試験中、その電波ノイズの干渉源の幾つか
      を極力除き減らすための作業をしていたところ、その最後に残っ
      たノイズの電波が、銀河系からの放射とされる通常のものよりも
      強いものだった事から、後でそれが系外宇宙からのマイクロ波と
      いうものだと判明したとの事であった。

      このマイクロ波放射は、波長スペクトル及び、それに相関したエ
      ネルギー分布が極めて黒体放射のそれに非常に極似して一致する
      との特徴を示すものと認知された。それでジョージ・ガモフが十数年
      前に言明していた<宇宙マイクロ波背景放射>ではないかと、見
      識比定されるものとなった。

・1967年・・アメリカの物理学者ジョン・ホイーラーが、極めて超高密度、大
      質量にて、強力な重力を有し、しかも通常的に巨大な恒星とする
      <星の分類外>のもので、崩壊した形跡を見定めうるような特異
      な天体を<ブラックホール>として初めて命名した。

   ・・・同年、アメリカで国立加速器研究所が設立、その運営が始まった。
      (74年研究所にフェルミの名が冠された。当初はレプトン用シンクロトロン)

      78ー79年からはさらに陽子、反陽子を衝突させ得る加速器へとグ
      レードアップの建設がなされ、1983年から稼働を始めた。2008年
      に欧州原子核研究機構(CERN)の大規模円形式ハドロン衝突型
      加速器(LHC)が登場するまでは、世界最大の衝突型加速器で
      あった。(テバトロンと称される高エネルギーシンクロトロン)

   ・・・同じ67年、かっての63‐4年のマレー・ゲルマンの素粒子標準モデル
      の発展、準完成型と見なすべき<素粒子標準モデル>が登場する。
      (グラショウ・ワインバーグ・サラム理論からのものである。)

      これは電弱統一理論の確立に基づく再構成のグレードアップで、
      ゲージ粒子のゲージ場を、先に仮説提示(64年)されていたヒッ
      グス理論(ヒッグス機構)へと、遡求的に関係付ける意味合いにて、
      <両者の相互作用>を導入、その相互作用場において<電磁相互
      作用と弱い相互作用>のそれぞれのゲージ粒子の質量獲得を起源
      付ける方式を理論的数式で導出定立、それでもって電弱統一理論
      を成立せしめている。そして、ヒッグス場とゲージ場での相互作
      用間には<電磁カレント>、<荷電カレント>、<中性カレント>
      という3方式の新たな概念により、それぞれのゲージ粒子(光子、
      W⁺⁻ボソン、Zボソン)に理論的に対応付け、その理論存在を確実
      なものとなしている。
      
・1969年・・前年からのスタンフォード線形加速器セン(SLAC)におけ
      る陽子、中性子等のハドロンを標的とした高エネルギー電子の衝
      突実験で、陽子などが内部構造を有し、幾つかの点状粒子(パート
      ン)から構成されていることが発見された。

      この実験事象(電子の深部非弾性散乱実験)から、リチャード・P・
      ファイアマンにより<パートン・モデル>が示されるものとなり、
      内部構成としてのパートンの実在性が、実験と理論付けでもって
      初めて確立されるものとなった。

     *陽子、中性子などのバリオン類や、Πオン、Kオンなどのメソン
      (中間子)類のハドロン(複合粒子)は、その内部構成要素たる
      <クォーク>それ自体を単体で直接飛び出させ、検出把握するの
      が不可能である事が知られるようになった。当年代時において、

      上記のような電子衝突実験では、電子側の反応粒子線の起点飛跡
      検出のデータ解析から、内部衝突時には以下の如き反応が検知さ
      れている。
       ●陽子などバリオンは・・・三つの偏向点が生ずる。
       ●Π オンなど中間子は・・・二つの偏向点が生ずる。

      この検出結果により、
      これは、先の64年にマレー・ゲルマンが定立したクォーク・モデル
      に比定され得る<アップクォーク、ダウンクォーク、(ストレンジ
      クォーク)>の存在の間接的な実験把握、実在反応の実証事象と
      見なされるものとなった。

     *後にパイ中間子(Πオン)の自然崩壊(平均寿命26ナノ秒)で、
      ミュオンの生成が生じるのが知られるものとなる。
      (ミュオン=ミュー粒子自体は、1936年に宇宙線などの粒子を
      観測する霧箱実験で、電子より重い新粒子として発見されている。
      アメリカの物理学者:カール・アンダーソンとセス・ネッダーマイヤーによって。)

・1972‐3年・宇宙探査機パイオニア10号、11号の打ち上げあり。
      地球外知的生命体探査用として、地球からのメッセージを絵と
      図式で記した金属銘板が機に取り付けられたものであった。
      (10号:72年3月2日、11号:73年4月5日打ち上げ)

     *観測機器はNASAからの航行軌道までの通信用アンテナと原子力
      電池での作動、航行途中では外惑星の木星や土星を初めて観測、
      そのデータ信号を発信した。その後の交信機能は次第に電波信号
      が微弱になり、それぞれに途絶した。(11号が先に何かの不具合
      で1995年11月送信途絶、10号は2003年1月22日に完全に信号
      が途絶した。もはや地上からの指示コントなく、何らかの方向反応
      を指標したプログラムにて太陽圏外へと飛行したと見られる。)

・1974年・・ジェイプサイ(J/Ψ)と名付けられた<新粒子>が発見される。
      アメリカの物理学者バートン・リヒターが率いる研究チームと
      マサチューセッツ工科大学(MIT)の教授サミュエル・ティンが
      率いる研究グループがそれぞれ別々に11月のほぼ同じ頃発見し
      たものであっ

       【新クォーク<チャーム>の存在実証】:クォーク標準モデルで
      予想された2世代目のクォークの存在立証となるもの。
      この<新粒子>の注目すべき事は後の粒子分類系統の標準区分で、 
      複合粒子のハドロンに属する<中間子>とされ、素粒子グループ
      の一種であるクォークに6つの型あるうちの、その一つに当たる
      <チャームクォークと反チャームクォーク>の組み合わせから成
      るという事で、新クォーク素粒子(チャーム型)の存在を実証す
      るものであった。

      【クォーク標準理論で予想された3世代目の存在立証は、、】
      因みにクォーク標準6型のうち、ボトムクォークは、1977年に
      ウプシロン複合粒子(中間子)の発見からのものであり、また、
      トップクォークは、その存在確証成立が大幅に遅れ、約20年後の
      1995年2月にでの成立発見、両方共に国立フェルミ加速器研究所
      (米・シカゴ近郊)での実験によるものであった。
      
      トップ型はその寿命(1x10⁻25乗秒ほど)が短く、複合粒子を
      生成せずに、ほぼ例外なく<Wボソンとボトムクォーク>へと即、
      崩壊するのが標準理論からの現状と見られている。<強い相互作
      用>が要する時間の20分の1でしかないから、他粒子と結合し得
      るだけの時間にはショートしている。

      (トップクォークは、非常に重い質量〔タングステン原子と同程度〕で
      あるとされ、フェルミ研のテバトロンでの陽子と反陽子の衝突実
      験で、その重いクォ‐ク自体が飛び出し生成される可能性はゼロで
      あった。
      <質量⇔エネルギー交換保存法則>も成り立たない??。古典物
      理の物理量測定感覚から衝突状態を定義することは出来ないとい
      う事で、量子論的なターゲット測定値〔対想定理論値〕は、測定
      回数を充分に多く行い、バラつく測定値の統計、バラつきの<確
      率分布や確率値>を得る事から、事象の成否を決定するという方
      法を採る場合があるというものであったとも、、、、。
      
      したがって、陽子ビームと反陽子ビームの衝突によるW‐boson±と
      ボトムクォーク±を主とする反応プラズマでの収集データ解析は、
      確率分布からの帰納法的な検出となる。)

      実験では検出装置そのものの高度な性能機能が求められたもので
      あろうか、どでかい検出装置(on CDF)、1995年2月の発見に至る
      までの過程では、幾度も<Wボソンとボトムクォーク>に崩壊し
      た結果ばかりが挙げられるものの、肝心のトップクォークそれ自体
      の存在を直接に示す確実な検知データが容易には挙がらなかった
      と見られる。

・1977年・・ハーバード・スミソニアン天体物理学センターの研究者による世
      界初の<赤方偏移サーベイ観測>が開始された。

      これは2度の期間に別けて遂行され、第一次は、この年から82年
      までの初の試み、第二次CfA観測は、1985-95年にかけて、この
      折り1989年には幾つかの銀河団が連なり超銀河団となるグレート
      ウォールと名された宇宙の大規模構造を見い出す成果を得た。

      (これには女性の天文学者で、ハーバード大教授マーガレット・
      ゲラーの主導により、研究、観測スタッフらが非常に時間、期間
      を要する地道で根気のいる観測作業に専従しての事である)  

     *第二次CfA観測(1985-95年)では、宇宙大規模構造のかの有名
      な<CfA2グレートウォール>が1989年に検出発見されている。

     *この赤方サーベイ観測に影響、触発されて、以後幾多の天文研究
      チームがその研究主眼をより遠方の、より多くの銀河探測に置い
      たところの掃天的<赤方偏移サーベイ>を試みるものとなる。
      今までになされた主なプロジェクトは以下の如く挙げられる。

      ●2dF銀河赤方偏移サーベイ(2dF Galaxy Redshift Survey):
       1997年~2002年4月11日までの観測期間で、アングロ・オー
       ストラリアン天文台チームが遂行、口径3.9m反射式望遠鏡に
       よる銀河の偏移測定に集中した掃天観測であった。
       観測結果は、総合計測光:38万2300余の天体、そのうち23万
       2155天体が銀河で、これを含め24万5591天体の分光データが
       挙げられている。
        
      ●スローン・デジタル・スカイサーベイ=SDSS:
       <赤方偏移サーベイ>ではもっとも強力で大規模なプロジェクト
       として展開する。
       1999年、2000年から開始され、その第一段階は、2005年に
       その初期目標を終了し、総観測天体数約2億個をもって、これ
       までで最も詳細な<宇宙の3次元地図>が作成されている。
       続いて、第二、第三と、サーベイプロジェクトが遂行される。

   ・・・同77年、再び宇宙探査機ボイジャー1号、2号が打ち上げられる。
      (2号機が先に8月20日の打ち上げ、1号は16日後の9月5日にて)

      この2機は、太陽系内の外惑星探査と太陽系の圏外探査をも遂行
      し、恒星間空間に向けて飛行して、初めての深宇宙探査を行うよ
      うに可能予定されたものであった。

      (この年の時期、丁度、外惑星の木星、土星、天王星、海王星等
      がその軌道配置の関係で、連続的に方向探査することが可能とな
      る機会にあり、そのチャンスを生かしての打ち上げであった。)

     *1号、2号共に現在も運用中で、ボイジャー1号は、2004年12月以
      降には、ヘリオシースに到達、2012年8月25日にはヘリオポーズ
      に達し、太陽圏外に出たとのNASA発表が2013年9月12日付けで
      なされている。

      (ヘリオシースは衰えた低速度太陽風が星間物質と混じり合う領
      域で、ヘリオポーズは太陽風が完全に星間物質に溶け止めされた
      太陽圏の境界となるところである。ヘリオポーズの境界域が宇宙
      の磁場の影響で歪んでいるとのボイジャー1,2号の観測データが
      受信されている。太陽活動の状況からも境界の位置的変動が起る
      と見られるが、対外的な要素との相対関係ともなる。
      ヘリオポーズ:太陽から約200AU前後=300億㎞内外)

     *ボイジャー2号機は、1号機同様に木星、土星の探査もなしている
      が、両機共に主目的の天王星、海王星の探査にも注目すべき成功
      を収め、外惑星探査ミッションに区切りを付け終了している。
      (このミッションでは両機とも<冥王星や太陽系外縁小天体群>
      への探査には向かうことはなかった。)

      その後、1号と比べかなり遅くなったが、2018年11月5日に太陽圏
      を離脱したとの発表が同年、その1ヶ月後の12月10日にNASAか
      ら出され、星間空間へのミッション運用に移行した。

      (両探査機はそれぞれ冥王星探査への航路から外れ、2015年1月
      の時点で、ボイジャー1号は、太陽から約195億㎞点に、2号は、
      約160億㎞離れたところを飛行中との結果が得られている。)

      ボイジャー機は2機とも2025~30年近くまで、通信可能、運用さ
      れる見通しで、一部の観測装置だけが動作してのデータが送信さ
      れうると期待されている。

     *因みに先の探査機パイオニア10号、11号(1972‐3年打ち上げ)は
      すでに通信が途絶え、運用終了となっているが、同じように太陽
      圏外の何処かの恒星間空間を飛行中と想定されている。

     *ボイジャー機はまた、地球外知的生命体との接触、出会いの大命
      を帯びたものとして、金メッキされた銅板製のレコード盤が搭載
      されており、その盤のカバーは、アルミニウム製だが、超高純度
      のウラン238で,その表面がしっかりコーティングされている。

      このウラン238の使用にも意図があり、その半減期が、45.1億年
      ということで、レコードをゲットした外文明が、その同位体組成
      解析をすることで、いつごろ収録作成されたかを認知できるよう
      に工夫されている。(先のパイオニア10号、11号では表面に図示化を
      施しただけの金属銘板で、はるかにマイナーなものであったが、
      大々的な収録内容とメッセージとを伝えるものとなっている。)
      
・1978年・・宇宙のスケールが観測的にどんどん大きく開けゆく中、銀河にま
      つわる<宇宙の大規模構造>という様相存在の認知的発見への新
      たな展開視野が開けてゆく。(深奥宇宙観測への展開)

      (天体望遠鏡の大型化や、性能精度の多様な向上により、観測対
      象となる天体、宇宙を倍率拡大レベルとか、特徴、段階的に多様
      に捉える事ができる時代ともなり、遠方の銀河も星のように見え
      たものが、その関連周囲までも見えるようになり、まったく見え
      なかったものがまた、見え現れるといった観測状況、新奇な発見
      なども相次いで生じてくる事となる。)

      地球からおよそ3億光年離れた位置で、観測の認知形式では初め
      て<宇宙の大規模構造>というニュアンスで<超銀河団>が浮き
      彫り把握され、測映図、レイアウト化される。またその分布配列
      様相の見識発見という成果に至るものとなる。
      
      これは、元々離れて位置している2つの銀河団、<かみのけ座銀
      河団と、しし座銀河団>が、他の小銀河団や銀河群によって繋がっ
      ている(銀河フィラメント状をなして)事を測定分析、分布把握
      することが今や可能となった事で、その見識発見に至った最初の
      事例として注目された。
      これには二人の天文学者スティーブン・グレゴリーとレアード・
      トンプソンが、この最初の超銀河団発見に寄与している。
      
     *この<かみのけ座超銀河団>も、後の1989年に発見される
      <CfAグレートウォール>大規模構造の一部をなしていること
      で知られ、そのグレートウォールの中心部に位置している。

・1979年・・米フェルミ国立加速器研究所では超伝導電磁石を用いた大型の
      サイクロトロンタイプの衝突型加速器<テバトロン>の建設が
      始まる。

   ・・・同79年(旧西ドイツでは)、素粒子の標準モデルに類別され得
      る<グルーオン>が、ドイツ電子シンクロトロン研究所(DESY)
      での実験検出の事象解析で、グルーオンの存在を裏付けるデータ
      結果が挙げられる。
       ●電子・反電子衝突型加速器DORISと、PLUTO検出器での実験
        (1978年)
        三つのジェット事象位相の飛跡が三つのグルーオンにより
        生じたと解釈できる検出データが挙げられた。

       ●同類型で別のより高エネルギーの加速器PETRAと、TASSO
         &PLUTOの両検出器での実験(1979年)
        上記、前年の事象検出結果の再確認実験が行なわれ、同類
        事象での確認確証が得られるものとなった。

      (グルーオンはクォーク間に<強い相互作用>を誘発し、交換
      結合などをさせる作用因子として素粒子の一グループ内に位置
      付けられたもの。
      質量は0、スピンは1、電荷は中性だが、他に<色荷>と称する
      量子数を持つ。この色荷の違いによりグルーオンが、クォーク間で
      働く<強い相互作用>で機能対応するベースでは全部で8種類の
      存在を示すと見られている。)

     *ハドロンとしての陽子⇔中性子の内部構造要素(アップ、ダウン
      クォーク)の変換事象を<グルーオンの色荷>でもって上手く理論
      把握、説明できるという素粒子の理論物理学への展開がある。

・1980年・・宇宙物理学部門で、アメリカのアラン・グースが、始原初期宇宙に
      関わるインフレーション理論を発表する。(1月、スタンフォード
      大学のセミナーで公表にて。)

      アランが"インフレーション"という言葉を用いて提言した理論は、
      宇宙の始原空間からの初期膨張の進化モデルとしたもので、それ
      は想定された特一的なビッグバーン現象後、即同時的に連続して
      膨張事象が引き続いたと見なす。ビッグバンの10の―36〜―34乗秒
      後の瞬発時から、即10の―33乗、―32乗秒間の時間に生起連続する
      ものとして、、、このフラッシュ膨張期に因して、プリ宇宙は、
      急速膨張の度合いの低下減少に伴ない、温度、密度、エネルギ―波圧
      なども低下、低減しつつ、局所的に多少の格差がある各所それぞ
      れの平衡、非平衡の不安定状態から次なる相転移現象の段階へと
      進展する前まで、そのインフレーション影響下での諸状況展開を
      成していったとしている。

      インフレーション理論は、所謂、ビッグバン理論そのものが言わ
      んとする原理事象を内容的に充足すべく、解示するような相補的
      前提理論の役割をなしている。
      つまり、ビッグバンと言われてきた現象本体の実質は、素粒子物
      理学を前提にした(量子場理論適応などの)立場から、<インフ
      レーション理論>で展開、明示すれば、ビッグバンをより正しく
      理解出来るところの一番妥当なモデル理論となるというようなも
      のである。

     *この宇宙誕生のモデル理論はまた、現ロシアの天体物理学者アレクセイ・
      スタロビンスキーが1979年にその案を示し、1980年にその論文を
      公表している。
      日本でも1979年~80年までデンマークの理論物理学研究所の客員
      研究員であった佐藤勝彦(現東大名誉教授)が最初の支持提唱者
      となり、1981年に綿密詳細な論文を立ち上げ、自論のインフレー
      ションを発表している。

      さらにその後、インフレーションという名のもとに色々異なる様式
      ニュアンスのインフレーション理論が提唱されている。

・1983年・・赤外線天文衛星IRAS(Infrared Astronomical Satelite)
       が、1月25日に打ち上げられた。
       アメリカ NASAとオランダ NIVR、イギリス SERCとの
       共同計画に基づいた観測衛星で、10ヶ月間にわたり観測活動が行
       なわれ、11月21日にその運用が終了した。観測装置を冷却する冷
       却剤(液化ヘリウム)がその使用蒸発により尽きたためであった。

     *これは衛星による赤外線波長(4種の波長域に限定されたが)観測
      の最初のものとなった。その後、後続の赤外線観測衛星系での進展
      は、2000年初頭期に至る過程で天文観測上、その貢献度を最大限に
      発揮するものとなる。

     *主要な観測成果は、全天の96%を走査して、その赤外線源の地図
      を作成した事である。これにより約35万以上の線源が発見され、
      12マイクロメータ、25μm、60μm、100μmの波長焦査で測定する事、4度に
       亘る波長別スキャンで、その赤外線源(最終約50万相当の天体物)
       の分類的なカタログや、区域別カタログが作成されたと見られる。
      (他に彗星、小惑星の発見、銀河の発見などがある。)

     *この80年代前半は、可視光観測以外に X線天体観測(70年の世界初
      のX線天文衛星ウルフ以来)と共に、赤外線観測が天文学の方向付け
      の一つとなり、ガンマ線、紫外線観測への発展も含め、宇宙論的天文
      学への新たな研究の先駆けとなり、より大きな観測目標のプロセスへ
      と導く時ともなった。

       因みに1990年打ち上げの<ハッブル宇宙望遠鏡HST>は可視光波長
       による観測を主とするが、1997年スペースシャトルによる2度目の
       サービスミッションにて多天体〔近赤外線〕分光装置&カメラや、
       望遠鏡撮像分光器が追加設置されている。続いて91年にコンプトン
       ガンマ線観測衛星が打ち上げられるが、さらに
       1995年<赤外線宇宙天文台ISO>、99年<チャンドラ X線観測衛星、
       2003年<スピッツァー赤外線宇宙望遠鏡SST>、2006年日本の<赤
       外線天文衛星IRISあかり>、2009年の<ハーシェル宇宙望遠鏡HSO>
       等々が続く。

       (ハッブル宇宙望遠鏡の後継機としては、ジェイムズ・ウェッブ宇宙
       望遠鏡 (JWST)が2021年12月25日に打ち上げられた。その観測波長
       域は、近赤外線&赤外線のみに限定され、近紫外線&可視光の観測
       能力を有せず、六角形のセグ鏡18枚を組み合わせた主鏡の口径は、
       約 6.5mで、ハッブル望遠鏡 2.4m よりも大幅な高性能化が図られ、
       地球と太陽のラグランジュ点 (L2) に位置する事でより高精度の観測を
       可能となす。)

・1985年・・10月米国フェルミ国立加速器研究所の加速器テバトロンによる
      CDF<重心系エネルギー2TeVの陽子・反陽子衝突実験>の試運転
      が開始される。
      本格運用の物理実験期間は以下の如く遂行されている。

       ●1988年6月~1989年5月:Run―0実験ターム

       ●1992年4月~1998年2月:Run―1実験ターム
         *1994‐5年に<トップクォーク生成事象>の候補検出から
          その存在が確定される。

       ●2001年4月~2011年9月:Run―2実験ターム
         *この期の実験では、ヒッグス粒子の存在把握、立証を
          主目的としている。
          2008年8月までのテバトロン実験での解析結果では、
          トップクォークの質量解析値を前提として、
          ヒッグス粒子の質量が、114GeV/C²~185GeV/C²の
          範囲内との推定結果が出されている。
          
      *欧州CERN研究所(スイス)では、2000年の頃、LEP実験で、
       ヒッグス粒子の存在事象を捉える兆候に至ったとして、その
       質量を115GeV/c²以上のレベルとし、それ以下では存在しない
       と、その範囲レベルを計測概算した。
      
    《各種観測機器搭載の専用探査機、宇宙望遠鏡での観測、各種の全天測定等に
     よる、より遠方、深宇宙研究の到来となる。それまでの観測機は、系内空間や
     惑星へのもので、 1960年代からのパイオニア計画,マリナ―計画等で遂行され、
     パイオニア5号の打ち上げ(1960/3/11日)成功を手初めに、6号、7、8、 9号まで、
     金星との間の惑星空間で、太陽磁場や太陽風粒子、宇宙線等の 初期的観測をなす。
     初成功の5号では、データの受信が1ヶ月半余りと、短い実運用(4月30日)期間
     となった。本体が直径66㎝、43㎏と小さく、太陽電池パネルも当然小さくて、
     地球との距離間隔をすべてカバーできるような容量ではなかった。
     5号の太陽周回は、短0.806㍳x長0.995㍳の楕円をなす形の軌道を達成、だが、
     これはある前提の下、地球側からの距離では、2千900万㎞x74万8千㎞ともなり、
     因って太陽をまだ1周もしない間にデータが届かなくなる事態に直面、その後は
     単なる信号だけが地球から約360万㎞強の軌道上まではキャッチされる(6月26日)
     という経験実績を残した。
     マリナー計画では、マリナー2号が1962年8月末の打ち上げで、12月14日金星への
     最接近飛行、その<フライバイ計画>に初成功するというものであった。》

     *米ソ冷戦が終焉に向う80年代後半以降から、NASAの活動は本格
      的に最先端技術をもって目標を宇宙探査を主導し、行なう時代へ
      と向かう。
      (いわばスペースシャトル計画とも重なる時代で、シャトルに拠り
      各種探査機、衛星等が投入され、その天文学分野での支援貢献も
      他に類を見ない有用な時期となる。)

      1999年に打ち上げられたNASAのX線観測衛星「チャンドラ」や
      スピッツァー赤外線宇宙望遠鏡(NASA・アメリカ航空宇宙局が
      2003年8月にデルタロケットにより打ち上げ、2013年8月に運用
      10周年を達成、今なお観測を継続している)など、ハッブル宇宙
      望遠鏡(90年)、コンプトンガンマ線観測衛星(91年)と共に、
      NASAが学的追求の大規模観測計画(Great Observatories Program)
      をなすものであり、これら以外にも幾種もの観測衛星、探査機が
      繰り出される。

      かって1940年代に初めて宇宙望遠鏡の提案をしたのがライマン・
      スピッツァー Jr.博士であったが、それが現実のものとなった。

・1987年・・<ペルセウス座・うお座超銀河団>という、銀河の大集在による
      <宇宙の大規模構造>が1978年の時以来、また新たに発見される。
      地球から2億5千万光年の近傍での銀河団の集まりとして、その形
      状分布をなしていると見られている。

     *超銀河団を<宇宙の大規模構造>という概念、ニュアンスで表現
      出来るような観測のデータが得られるようになり、そ分析処理で
      もって画像を表出、呈示できるようになると、見出され得る超銀
      河団の大規模構造に、その特徴的画像模様から<グレートウォー
      ル>とか、<銀河フィラメント>とかの名称が付される。

・1989年・・<CfA2グレートウォール>と名づけられた、幾つもの銀河団
      が平面的に壁の如く連なる形状となった<宇宙の大規模構造>が
      また新たな分析測像処理にて捉え開出、発見された。

      ハーバードとスミソニアンの天体物理学センター(CFA)が、1977年
      から1982年までと、1985年から1995年までと、第1次、第2次の
      2回に分けて行なった世界初の<赤方偏移サーベイ観測>の状況
      結果から、幾つもの銀河がグループを成し、その多数の銀河団が
      さらに連なることで超銀河団を形づくるように、<赤方偏移>の
      観測データから解析表示された測像に対して、グレートウォール
      の名称で公表されるものとなった。
      
・1989年・・NASAが目指す本格的な科学研究の新たな試みとして、宇宙論
      的探査を目的とした<衛星COBE>が11月18日打ち上げられた。
      (NASA宇宙ミッションの一番機として、1996年まで観測ミッションが
      行われた。)

      これは、CMB(宇宙マイクロ波背景放射)に関わる研究を主目的
      とした観測衛星で、
      ①CMBの温度マッピング及び非等方の程度検出、
      ②黒体放射との違いを見るべく、CMBのスペクトル測定、そして、
      ③宇宙初期と目される赤外、遠赤外線を放つ銀河の検出探査といった
       天文学的ミッションを主内容としていた。

     *大きな進展の観測成果が得られ、COBEの後継プロジェクト・
      WMAP探査機(2001年7月~2010年9/8日)による、より精度の
      高い<CMB観測>の展開へと続く。

  同89年・8月8日には欧州宇宙機関(ESA)により、世界初の高精度な
      <位置天文衛星:ヒッパルコス>が打ち上げられる。

      *静止トランスファ軌道(極端な楕円軌道)から正常な地球圏
       <静止軌道>への移動投入に失敗(アポジエンジン:推進装置
       の作動故障)したが、そのまま静止トランス軌道のまま(多少
       の軌道修正があったかも、、)、計画予定の大半の観測を行な
       い、1993年6月にその運用を終了した。

      *その観測成果は:
       ①恒星の位置の時間的変化を観測し、それによる<年周視差>
        から恒星の距離、固有運動を精度よく求めることが出来た。
       ②全天の恒星観測から、推挙して118,218個の恒星に関わる
        <ヒッパルコス星表>を作成。
       ③補助観測装置によるデータから、精度は低いがさらに百万個
        以上の星掲載の星表(ティコ星表)や、さらに同データから
        の再解析により約250万個の星表(ティコ第二星表)を作成。

      *衛星<ヒッパルコス>の名称は、古代ギリシャの天文学者の名
       (BC190-120年頃)にちなんで付けられているが、うまい具合
       にその頭文字が音語呂合わせになっている。
       <Hi・P・PA・CO・S>:High Precision  Parallax 
       Collecting Satellite(高精度視差観測衛星の略)

      *この観測衛星の後継は、2013年12月19日に打ち上げられた、
       欧州宇宙機関(ESA)<ガイア計画>の衛星探査機ガイアに
       引き継がれる。(19年現在、運用が6年経過中であるが、2022 
       ~24年頃まで、そのミッション運用の延長が期待されている)

       ガイア衛星は2台の宇宙望遠鏡搭載にて、比較できないほど優れ
       た観測能力を有して、その観測軌道位置も地球圏静止軌道では
       なく、太陽と地球との公転軌道面の直線上のラグランジュ点L3
       &地球を間に挟んだL1とL2の3点のうちの地球(軌道)の外側
       のL2点(地球から約150万kmの距離)に打ち上げられ、さらに
       地球公転軌道面に対して垂直に周回する面を含む<リサジュー
       軌道>を描いて非周期的運行、太陽の食(地球による)を避け
       ての観測となり、衛星での観測技術は高度の発展をなしている。

   [注]:太陽・地球間など2天体の間の三体(質量)問題から導出想定
       のラグランジュ点L1、L2、L3(直線上)と、60度の位置にある
       L4、L5(2つをトロヤ点と呼ぶ)は、すでに18世紀中に2人
       の天才数学・天文学者により発見されている。
        ●レオンハルト・オイラーのL1、L2、L3(1760年頃発見)
        ●ジョゼフ=ルイ・ラグランジュのトロヤ点 L4、L5
                           (1772年発見)

      *太陽と木星での木星軌道上の位置の前方60度、後方60度の
       L4、L5ラグランジュ点付近には数千個上の小惑星群が留まり
       公転運動をなしている。これを<トロヤ群>と呼んでいる。
       (木星と火星との間の膨大な数の小惑星帯ベルトとは空間域
       を全く異にするもの)
       
・1990年・・ハッブル宇宙望遠鏡が4月24日に打ち上げられる。これはスペ
      ースシャトル・ディスカバリーに格納搭載されての打ち上げ、ある
      宇宙高度の空間でのディスカバリー上から、下部据付けのブース
      ターロケットの噴射により、さらなる上空の目標点へと上昇設置
      された。その望遠鏡の軌道高度は、560kmであった。

      以後、20数年におよぶ個々諸天体銀河、及び全天的宇宙観測に
      より、驚異的な撮像、神秘な宇宙様相を呈示するものとなる。

      その間、スペースシャトルによる望遠鏡運用のための維持、修理
      ジャイロスコ、機器、カメラ等の交換ミッションが5回に亘り、
      船外宇宙飛行士により行なわれている状況も驚きである。
      (1993/12, 1997/02, 1999/12, 2002/03, & 最終修理交換2009年5月)

・1990年・・NASAが宇宙論的探査研究を目的として、1989年11月18日に初め
      て<宇宙背景放射探査機 Cosmic Background Explorer
      =COBE>を打ち上げていたが、その探査観測データにより、宇宙
      マイクロ波背景放射(=CMB)が2.7Kの黒体放射の理論曲線と
      ほぼ完全に一致すること、および、CMBの平均偏差のゆらぎが、
      10の―5乗と、極めて僅かで、CMBの放射熱が、全天域の規模に
      渡って等方的であるとのデータの分析結果を得た。

      (この観測結果は、CMB探査の最初の1機目のものとして、大いに
      注目され、後にさらにその2機目、3機目と継続される。)

・1991年・・ガンマ線観測用の<コンプトンガンマ線観測衛星>が、4月5日
      NASA(アメリカ航空宇宙局)により打ち上げられた。
      (スペースシャトル・アトランティスに格納搭載されての打ち上
      げである。薄くなった大気圏最上層域の軌道高度450kmにて。
      アメリカ初のガンマ線観測衛星で、ガンマ線源の対象巾は、10キロ 
      電子ボルトから30ギガ電子ボルトまでのエネルギー天体物の観測
      探査であった。)

      この衛星コンプトンは、天球上のエリア全体からほぼ毎日2、3
      個のガンマ線バースト(GRB)を検出し、その天球上での位置
      を十分な精度で読み出すことができたが、バースト源の正確な宇
      宙内位置(距離的奥行き)を特定検出できるものではなかった。

      (バーストの閃光は、数秒から数分と色々あり、その残光は数時
      間ともなるが、ガンマ線そのものは数秒、数十秒と短いものが多
      い。そのため一日に数回起きていると見られるが、全天からそれ
      をすばやくキャッチ検知する観測機器の性能が要求される。)
   
      つまり、この衛星観測では、GRBが銀河系内、系外縁で起きてい
      るのか、銀河系以外の他の銀河で起きているのか、それを未だ正確
      に識別する事ができなかった。(GRB:gamma-ray burstの略)

      しかし、ガンマ線バーストには、硬ガンマ線と軟ガンマ線の2種
      類に区分されるような観測データが得られた。(そのデータ結果
      の見識を契機に、後日には<硬ガンマ線バースト>と<軟ガンマ
      線リピーター>との専用名を付けて識別把握されるものとなる。

・1992年・・NASAは、今後の宇宙科学ミッションの一環として、SMEX
      (スモール・エクスプローラー・プログラム)を発表する。

      これによりこの年以降、小規模(180₋250kg程度の重さを目安に)
      の探査機、観測衛星をできる限り最多数打ち上げる事を目ざして
      宇宙科学研究の部門的活動を展開した。
      
     *最初の打上げとなったSMEX‐1号観測衛星SAMPEXは、
      1992年6月3日、楕円周回するタイプとして、地球極軌道に打ち上
      げられた。  
      これは、何か精密化学機器のような各種の望遠鏡を装備した衛星
      で、地球環境、地磁気圏の放射線、その他の観測を目的とした。

・1995年・・太陽&太陽圏観測機<SOHO>が12月2日、打ち上げられる。
       欧州宇宙機関(ESA)とNASAとの共同開発によるものにて。

     *太陽観測に特化された最新鋭の観測機であり、太陽表層部用の
      6機器だけでなく、太陽風観測測定用に2機種、太陽の内部構造
      へのデータアプローチ(光球磁場&対流層、太陽本体の振動)用
      に4種の機器、合計12機器を搭載しているものであった。

     *2018年現在も運用されており、主要な太陽観測データの情報
      をほぼリアルタイムに提供して、太陽風その他を含め、宇宙天気
      予報に役立てられている。
      太陽と地球の間のラグランジュ点L1(地球から150万kmに
      位置する)を中心にして垂直に楕円軌跡を描く<ハロー軌道>
      を6か月周期で巡っている。(機本体の総質量は、610㎏)

      (太陽と地球との引力が釣り合った<L1点の周辺>、そこへ打ち
      上げ時の慣性運動力だけで、ハロー軌道に投入できるものではな
      いだろう。観測機が格納されたロケットの頭部自体が推進力に
      ロケットエンジン付きであり、月によるスイングバイも利用され、
      さらに観測機自体にも方向制御、姿勢制御のためにジェットエン
      ジンが備え付けられているのかも、、とにかく太陽―地球間での 
      引力釣り合いエリアを慣性力だけで、今現在も周回軌道をなして
      いるという事だが、まさに凄い宇宙空間の利用テクノロジーだ。)

・同95年・・11月17日、欧州宇宙機関(ESA)が中心となり<赤外線宇宙望遠
      鏡=ISO>が打ち上げられた。<近1000㎞x遠70600㎞>の高楕円
      軌道上で、軌道周期が約24時間スパーンでの運用となる。

     *この衛星望遠鏡は、当時運用されていたハッブル宇宙望遠鏡とは
      別の意味で、特化的に優れた観測志向を可能とし、いわゆる、
      <赤外線宇宙天文台ISO>であるとの名に相応しい、凡そ26000以上
      の個々の天体に対して、詳細、高度な観測を行うことができた。

      (赤外線観測に特化された4つの観測装置が主鏡の背後に装備:
       ①赤外線カメラ、②赤外線測光装置、③赤外線短波長分光器、④
       長波長分光器が配され、地上天文台からは観測不可能な膨大な
       観測データの獲得へ)      

・1996年・・イタリヤとオランダは共同で広角X線カメラ2つと連係動作する
      ガンマ線検出器を搭載した観測衛星<BeppoSAX>を宇宙
      軌道に打ち上げた。

      これにより先にアメリカが打ち上げた<コンプトン観測衛星>の
      性能不足をカバーすることが可能となり、ガンマ線バーストの発
      生源を正確に把握し、地上天文台の光学望遠鏡で、天体を特定検
      出し、種々の観測データを得るものとなった。

     *宇宙でのガンマ線バーストの現象は、60年代末から80年代までの
      長期に亘って、バースト源や発生メカニズムが正確に明らかにさ
      れていないものであった。が、この観測衛星によりバースト検知
      が容易に展開するものとなり、地上における<ガンマ線バースト
      座標ネットワーク>を介して、より多くの観測データが集積され
      るものとなる。

      (この観測衛星により、その発生源が遠方の宇宙、銀河系外であ
      ることがほぼ明確なものとなって来た。また、超新星爆発との関
      連性にも研究の目が向けられるものとなる。)

・1997年・・2MASS(Two Micron All-Sky Survey)の観測プロジェクト が
      この年から実施される。

      近赤外線領域での完全なる全天走査を試みる天文観測で、米国の
      研究機関により、北半球と南半球を分担する望遠鏡が1基ずつそれ
      ぞれ設置され、2001年にまでかけて長期に遂行された。
      (2micro赤外線領域は3つの波長帯:1.25μm、1.65μm、2.17μm
      に限定され、その測光データで全天が網羅されるものとなる。)

      この掃天観測により、最新の全星野地図の作成がカタログ化される
      ことで完成した。達成されたその内訳は、平均的明るさ14等級まで
      の点状光源(恒星、惑星、小惑星)が3億以上、銀河や星雲、星間雲
      などの非点状光源が100万以上に及ぶものとなった。

     *このプロジェクトの上記した観測規定条件により、全天球上での太
      陽系&地球近傍、2億光年から3億光年域での全ての天体光源の洗い
      出しが明確に行われ、その天体マップが完成、これにより今まで不
      明慮、不確かであった相対関係での、その近傍の天体と遠方の天体
      光源との明確な分け隔て、見分けが出来るものとなった。

     *このプロジェクトを実施、断行するにあたっては、それなりの事情
      があったと見られる。これに携わったリーダーや主要研究員らは、
      皆、天体観測を専門とする天文学者らのグループと見られる。彼ら
      は、他から宇宙天文に関わる天文物理学者や宇宙論者の現今の研究
      に、何らかの危機感を覚えざるをえなかった。

      これと云うのもコンピューターが大いに活用される盛りになってき
      て、すでに古い、或いはもう古くなってきたデータを入力使用する
      という事態が頻繁に起こり得る状況となったからである。取り合え
      ずこのデータで計算処理して置こうだが、その結果は上々、納得で
      きるもの、これで大丈夫だと見て済ます、ところが大変な間違いの
      研究成果となるや知れない、そんなコンピューター事情があったか
      らである。
      特にその点に関して、注目の<宇宙の大規模構造>に関する課題で、
      銀河、超銀河団に関わるコンピューターの立体的位置づけ画像処理
      などについて、大いに懸念されるところがあった見られる。

     *このプロジェクトは、大いに貢献するところがあったけれども、2年
      後に別の研究団体(宇宙物理学者、宇宙論者)が並行して実施した
      さらに大きなプロジェクト<スローン・デジタル・スカイ  サ―ベイ=SDSS>
      の成果の陰に隠れ、これの成果は余り注目されないものとなった。

・1998年・・アメリカの理論物理の宇宙論者マイケル・ターナーが、“ダーク
      エネルギー”という概念用語を作り、初めてその適用を提唱した。

      これは、90年代後半からの最先端天文物理学の動向、その宇宙論
      的理解の大勢が、アインシュタインが1917年に自らの理論方
      程式のために式項提案した<宇宙定数Λ>や、宇宙膨張に関わる
      これまでの<インフレーション理論>では説明、納得しえない
      観測データ分析、及びその結果事情を経験するに至った状況を背
      景としている。

      1933年以来、先に提唱されていた“ダークマター(暗黒物質)”に
      次い、<ダークエネルギー>の用語が無際限的な宇宙の事象理解
      のための<新たな宇宙定数項>に比定されるものとして仮定考慮
      される向きのものとなった。

      実質的にはいまだ<仮想的エネルギー>であったが、その提唱当
      初においては、宇宙全体にわたる(観測可能な範囲宇宙だが、)
      反重力的な効果(万有引力に抗する斥力)を及ぼすもので、いわ
      ゆる諸々の既存銀河、銀河団、銀河群に対して宇宙空間的に<負
      の力の作用>をなしていると推定、仮定された未知のエネルギー
      としている。
      しかし、いまや研究活動進展からの偶然の時の一致か、、、、、
      その仮定に対する証拠が、宇宙の膨張が加速している、<宇宙の
      加速度膨張>の発見というかたちで、それが指摘される理論とも
      なったからである。(次に述べるごとく、、、)

   ・・・同年、および翌99年にはこれに同調するかたちで、<宇宙の加速
      膨張の観測研究、その発見の成果が発表されている。
      これは遠方の超新星(Ia型)の観測により、その明るさによる推定
      距離と、赤方偏移Redshiftとから、相対的な速度と距離を測る事が
      でき、この測定データの集積照合により、宇宙の<加速度膨張>
      発見に繋がるものとなった。だが従来からの<宇宙膨張  ⇨  減速的
      膨張宇宙のモデル論>との相違が生じ、驚きの大きな問題点となる
      に至った。(そのIa型超新星は、宇宙年齢の20億年代、いわゆる約
      118億光年の超新星爆発の光を観測検知したものとの事)

      (宇宙が加速度膨張する原因は、ダークエネルギーによるものだと
      の推定、関係付けの見解がこの頃から出されているが、それに対す
      る反対理論も提起されるものとなる。従来からのアインシュタイン一般
      相対性理論での宇宙モデル論を拡張すべきとかの<修正重力理論>
      の構築など等々、、2020年代以降、なおいまだ未解決な研究課題と
      なっている。)

   ・・・同98、及び翌99年にかけてようやく観測装置準備を終えた、
      <スローン・デジタル・スカイサーベイ=SDSS>プロジェクトが開始さ
      れた。これは当初(第1期SDSSとして)地上からの天球宇宙の
      全天4分の1、25%を越える規模範囲を観測目標とした天体探査
      であった。反射望遠鏡にCCD30個が並んでセットされた大規
      模カメラを取り付けたものと、特別な分光装置を有した分光器に
      より、天体の位置と明るさが精度よく測定された。

      (当初はアメリカ、日本、ドイツの3カ国共同連携により始まった
      プロジェクトであったが、SDSS―Ⅱの第二次の段階ではさらに
      参加国が増え、国際的に大きな共同プロジェクトとなり、2008年
      7月~2014年6月の第3次のSDSS-Ⅲ、さらに7月からの第4次の
      SDSS-Ⅳでの観測内容へと引継ぎ展開されている。)

      これは、銀河やクェーサーなど、それらの位置と明るさ、距離を
      精密に求めることにより、その詳細な<宇宙地図、3次元地図>
      を作り上げることを主目的としていた。  
      2005年までにその初期目標が達成され、その総観測天体数が  
      およそ2億個にまでおよんだ。

      (先年の1948-58年にパロマー山天文台がなした写真乾板による
      スカイサーベイに対して、このプロジェクトは、最新高精度の口径
      2.5mの反射式望遠鏡と、それにCCD〔CCD30個並んだ大規模な〕
      カメラがシステム設置され、5色フィルタ―で、同時に5色の撮像が
      ゲットされるものであった。このカメラシステムは、日本の東大
      宇宙線研究所グループの製作によるもので、観測の精度技術に革
      新をもたらすものとなる。)

     *このサーベイでのデータ解析の結果、超銀河団によって宇宙での
      大規模構造<巨大ウォール>の形象が見い出されるものとなる。
      2003年10月23日<スローン・グレートウォール>と名づけられ
      て発表された。
      ウォールの形相サイズは、全長13億8千万光年(423メガパーセクMpc)
      地球からの距離位置は、10.6億光年として観測算出されている。
      
      第二次段階では①銀河系内の天体観測と銀河系の形成進化、②先
      の第一次での観測以上に広範囲を観測するサーベイ、③遠方銀河
      内のla型超新星サーベイと、それとの関連の膨張宇宙の研究等々、 
      といった、これら三つの目標プログラムの下に遂行された。

     *このサーベイでの<クェーサー>の観測データベースから、後に
      クエーサーの詳細な分布をも調べる事により、その位置配列のデ
      ータ模映から新たな大規模宇宙構造の発見となるに至っている。
      (2012年、U1.27と名づけられた大クエーサー群)

     *このサーベイプロジェクトは、さらに2010年前後以降、第三次段
      階へと進展し、SDSS―Ⅲプログラムの遂行へと展開する大々的な
      長期プロジェクトとなった。その4つのプログラム(プロジェク
      ト)の内の一つが注目すべき高度な観測手法(BOSS)による成果
      と研究の深度、進展の結果が期待されている。

      (バリオン音響振動分光サーベイ=BOSSによる、50億、60億と
      かの数十億光年の彼方までにある銀河の距離を、その誤差1%程
      の精度で測定、新たな宇宙銀河地図の三次元位置でのデータ化、
      初期宇宙の広範囲における諸銀河の形成や、諸銀河間の進展の在
      り方、そこでの宇宙重力や、宇宙の加速膨張の原因、仮定された
      謎のダークエネルギー等、その研究解明への試みも可能と見られ
      たものであった。)
      
・1999年・・X線専用の観測衛星<チャンドラ>が7月23日、NASAにより
      打ち上げられる。すぐれた機器装置を装備したものであったから
      宇宙観測での多様な観測データを収集獲得でき、他からの観測結
      果との多角的な分析研究を可能にして、宇宙科学の進展に予想以
      上の貢献結果を出すに至っている。
  
      これはNASAのシリーズ的に関連付けられた<グレートオブザ
      バトリー計画>の<4つあるうちの3番目のもの>であった。
      先の年代90年に述べたが、<ハッブル宇宙望遠鏡>は、その最初
      のもので、2番目は、<コンプトンガンマ線観測衛星>である。

     *この衛星はスペースシャトル・コロンビアに格納搭載されて、宇
      宙に運ばれたが、高度は通常より高く、月と地球との距離の3分
      の1の所を楕円軌道で周回するよう立案設定されていた。

      それでシャトルのとどまる位置からは、その衛星の下部に一体接
      続された上昇ブースターロケットでの噴射により、その上昇高度
      位置に運ばれ上げられるものとなった。

      楕円軌道高度は、遠地点14万km強、近地点10万kmでの周
      回で、地球静止軌道である3万6千kmに比べて、数倍もある高
      さであったから、そのブースターロケットでの上昇、遷移軌道修
      正は、噴射停止、再噴射可能システムのものにより、地球重力を
      利用したスイングバイ加速の飛行技術が採用されたと思われる。

・2000年・・ガンマ線バースト検知観察専用の多波長観測を可能とする探査機
      <HETE2号>を10月9日に打ち上げる。
      
      先の96年のガンマ線観測衛星<BeppoSAX>により、観測
      データが多く収集されたが、問題究明への的確、解決には至らず、
      ガンマ線バースト(GRB)の発生源、実体の詳細が未だ明らかに
      されないままであった。

      この未決、未知なる天文事情を打開すべく、アメリカの研究チーム
      (マサチュセッツ工科大主導)は、フランス、日本の協力の下に、
      自国NASAの全面的な支援をもって、新たな探査機の打上げ観測が
      実行された。

      (この衛星は地上ネットワーク以外に、他の衛星とのネットワーク
      連携に迅速に対応でき、より多くの詳細な情報が得られるように
      なった。チャンドラX線天文台やハッブル宇宙望遠鏡など、その他
      の観測衛星によって。)

      実は1号探査機がいち早く問題究明に対処するため、4年前の96年
      11月4日に打ち上げられたが、軌道到達時でのロケットの切り離し
      作動が出来ずに、失敗に終わっている。今回の2号機は、そのスペ
      ア部位品などから再製作され、時間を要するものとなった。

・2001年・・アメリカ NASA は 6月30日、CMB観測ミッションの2機目の   
      衛星・WMAPを打ち上げ、天球宇宙感覚にて、その全天にわたる
      大スケールでの非等方性、及びCMB残留の温度状態を検出把握
      すべく全天をサーベイ測定した。2003年にそのデータ成果が
      全天を模した、鮮明な彩色解像画像として公表された。
      (2010年8月まで観測運用され、9月8日をもって終了、10月には
      L2 を離れた太陽中心軌道オンリーのグレーヴ・ヤード軌道へとコ
      ントロール噴射、推進移動して廃棄される。)

     *全天におけるCMBの相対温度の測定に関しては<差分マイクロ波
      ラジオメーター機器>により天空上の任意の2点間の温度差を測
      定し、それをベースに全天を0.3度以内の高い角度分解能と感度で
      正確に測定、全天を6ヶ月毎に区切って、くり返しサーベイ、その
      データの解析により、最終的に作成されるCMBマップに表入され
      ると予想される系統誤差を特定の1ピクセル毎に最小限(1000分
      の5K以内の温度誤差)に抑える事を目標とするものであった。
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     *WMAPの数々の諸データ解析により宇宙年齢(137±2億年)や、
      宇宙の物質&エネルギーの組成割合が、ダークエネルギー73%、
      ダークマター23%、バリオン(水素、ヘリウム系元素物質など)
      4%等と、その観測結果を挙げる事ができた。
      また、宇宙の大きさも、その計算推定値として、780億光年以上
      を少なくとの下らないとしている。

      これらの観測算定結果は、現代の宇宙論パラメーターの推定値に 
      定められたものとほぼ同定し、現代的宇宙論の物理的指標の類と
      もされる。

     *CMB(宇宙マイクロ波背景放射)は、ビッグバーン・インフ
      レ―ション初期宇宙説を裏付ける物理事象的な証拠とされている。

     *このサーベイ宇宙機は、太陽と地球のラグランジュ点(L2)域
      地球からの高度距離150万㎞の軌道上、地球の外側に位置して地
      球と同じ公転周期で太陽を周回、いわゆる引力バランスにより地
      球と並行対で、L2点をも中心に周回する人工惑星として、その
      周回位置から全天を観測するものとなる。
      (2010年9月8日まで観測運用、このWMAPの後続のCMB観測計
      画は、欧州宇宙機関・ESAが実行、主運営する<プランク宇宙望
      遠鏡>で、2009年5月14日打ち上げで、2009年7月3日に、太陽―
      地球間での同じ<L2点>に投入され、マイクロ波を2つの高低
      エリアに分けた周波数帯で捉え、より高感度、高分解能観測を可
      能とした。)

・2003年・・NASAは4月28日、<紫外線宇宙望遠鏡>観測衛星GALEXを
      打ち上げる。地球軌道高度は697km、ほぼ正円軌道周回にて。

      これはNASAの宇宙科学ミッションSMEX(小規模探査衛星
      プログラム)の一環シリーズとして第7番目(SMEX-7)であった。

      紫外線波長を発する恒星や銀河などの観測に特化されたもので、
      そのすぐれた検出能力により、運用開始から4年の間の初期ミッ
      ションで1000万個の銀河を含む紫外線系の天体星図を作成する
      ことに成功した。

・同03年・   8月25日、NASAの宇宙探査の別計画シリーズ、<グレート
      オブザバトリー>の4つ目の最後のものとして、<スピッツァー
      宇宙望遠鏡 (SST)>がデルタIIロケットにより打ち上げられた。

      これは他のシリーズ3機、ハッブル望遠鏡、ガンマ線観測のコン
      プトン、X線観測のチャンドラ衛星が、スペースシャトル機への
      搭載だったのとは異なり、直接ロケットのトップ上段に格納され
      てのものとなった。

      また、高精度の赤外線スペクトル観測を目指す事で、地球周回の
      人工衛星ではなくて、地球の後を追うかたちの太陽周回軌道の人
      工惑星のものとなった。これはまた、宇宙での赤外線観測機とし
      ては、1983年打ち上げの<IRAS>、1995年の<ISO>に続く、
      第三番目の専用機ともなる。

      軽量ベリリウムで製作された反射望遠鏡の他、3つのデータ観測
      機器を搭載:
      ①4波長 (3.6 µm, 4.5 µm, 5.8 µm and 8 µm) の
       赤外線を同時に観測するカメラ。
      ②4波長 (5.3 µm-14 µm, 10 µm-19.5 µm, 14 µm-40 µm, 
       19 µm-37 µm) の赤外線を分光観測できる分光計。
      ③遠赤外線を含めたマルチ波長帯観測装置。

     *幅広く赤外線視点からの豊富で、明細なデータをゲットする事が
      でき、その色彩豊かな、人の眼では視えない天体画像の数々を描
      き出すことを可能とした。

     *この宇宙望遠鏡は、2020年1月30日にすべての観測ミッションを
      終了している。打ち上げの年から16年余に亘り、稼動運用された。
      (2019年7月31日前後のブラックホール天体<OJ287>の観測運
      用時には地球から約2億5000km離れた軌道上に位置していた。
      打ち上げ当初の時点では、地球からかなり近い位置にあったが、
      年月の経過とともにその軌道上を地球から徐々に離れて行くもの
      であったと見られる。)  

・2004年・・GRB・ガンマ線バースト研究調査の新ミッションのため、観測
      衛星<スウィフト>が11月20日打ち上げられる。

      軌道高度600㎞と普通より高く、ほぼ大気圏(~500㎞)を十分に
      離れた高さの圏外宇宙空間での周回(~90分)にて観測。
      (新名称:ニール・ゲーレルス・スウィフトに改名される。2018年1月10にて)

      検知観測できる望遠鏡と、バースト状況の過程観測のできる望遠
      鏡とで、ガンマ線、X線、紫外線~可視光の各領域での3種類の
      機器をシステム装備している。地上センター関係だけでなく、他
      の衛星への情報送信が可能で、すべての情報データを送ることが
      できる。

      この宇宙機は、波長領域を特化した3種類の宇宙望遠鏡機器により
      バーストの出現から終焉までのほぼ全過程を連続的に観測カバ―
      出来るもので、多角的、多様な観測、計測データが得られるものと
      なる。
      (アメリカ、イギリス、イタリアにより共同開発され、NASAの
      ゴダード宇宙飛行センターがその運営、管理にあたり、現在も
      運用中である。)

     *これによりバースト現象の幅広い情報データが集積されるものと
      なり、その分析把握の理解が宇宙論的に進展するものとなる。

     *ガンマ線バーストの発生現象は、巨大な質量の星の核が重力崩壊
      を起こし、超新星爆発を伴った時に、それがブラックホール形成
      へと進展するものとなるならば、その直前のまえぶれ前兆として
      起こる場合もあると見られている。それは中心部からのガンマ線
      エネルギーの超高速(光速度に近似)のジェットバーストである。

・2006年・・太陽観測へのアプローチ熱が高まる中、太陽観測衛星<ひので>
      が、9月23日(6時36分)鹿児島県内之浦ロケット発射場より打ち
      上げられる。(本体重量も900㎏とかなりのもの)

      先の科学衛星SOLAR-Aの<ようこう>(1991年8月30日打ち上げ)
      に代わる後継の科学衛星シリーズ<SOLAR-B>の別称を有す。
      (ようこうの重量は約390㎏)

      この当時の観測機器装置としては、最新鋭のもので、米のNASAや
      英の天文研究機関、ノルウェ―など4か国十数機関の協力により共同
      開発されたものである。(可視光磁場望遠鏡<SOT>、 極紫外線撮
      像分光装置<EIS>、 X線望遠鏡<XRT>、 これらの使用保持の為
      の高精度の<姿勢制御システム>など)

     *衛星<ひので>の観測位置は高度約680kmの円軌道上となるが、
      軌道の傾斜角98度(地球の自公転軌道面を基準面する感じ)だから
      垂直極方向であろう。しかし、オールタイムに太陽面を直視できる
      態勢を確保した軌道である。(地球上の遥か高空上での昼と夜の
      境界上を周回するような軌道となる。軌道周期は96分)

   ・・・同06年、NASAによる太陽系外縁探査機ニュ―・ホライズンズが打ち
      上げられた。(1月19日フロリダ州ケ―プカナベラル基地の大型ロケット用
      発射台第41番から、最大規模の動力噴射構成でのアトラスV型ロケ
      ット551により、先ずは宇宙への慣性力飛行へ。)

     *地球脱出速度が11.2㎞/秒以上であれば、普通の周回衛星などはOK
      だが、今回はその程度の速さでは成功しないという事で、16㎞/sを
      超えて宇宙への飛び出し。今までの幾多の探査機のうちで最高速度
      (37.5㎞/s)ともなった。第三宇宙速度とも言われる<太陽重力>
      を振り切る速度(約16.7㎞/s)以上の保持を考慮しなければならな
      かったからだ。

      5基のブースターを初段に配備し、探査機本体の重さも465㎏と、か
      なりの軽量化を計り、宇宙速度への向上に配慮されたが、なにせ、
      超長旅の飛行であり、軽量且つ頑強な本体でなくては可能な限りの
      速度確保でないと成功は見込めないものとなる。
      (数十年と長い間に培われた航空工学、ロケット技術、経験の全て
      が活かされ積み重ねられた製作のノウハウが成功の秘訣となった。)

      発射後9時間で月の軌道を通過、驚異的な速さである。およそ2か月
      後の3月から4月7日に火星の軌道を通過する間の、その第三宇宙速度
      (太陽重力脱出)は37.5㎞/sで、この飛行時期に最も最速となった。
      それで地球や火星での重力アシスト=スイングバイによる増速の必
      要はなかったと見られる。)

      その後、6月に小惑星帯に至り、その13日頃には、27㎞/sにまで速度
      が低下した。さらに木星に最接近する翌2007年2月28日時点までに
      は、また徐々に継続して速度が下がって来ていたと見られる。

      この折り、木星での最接近といっても、木星の重力が太陽系内惑星
      の中で最も強い事は、その質量の最大である事ゆえの既知なる事実
      (表面重力:23.12m/s²、脱出速度も59.5㎞/sとその数値が高い)、
      故に予めそれが計算考慮されてのものか、その距離230万数千㎞で、
      接近し過ぎて木星の重力に捕捉されない圏域外、その許容範囲内で
      最初の重力スイングバイ、よって増速に成功。4㎞/sほどの加速を
      確保することで、23.1㎞/sを超える速度にまで達する。
      (スイングバイ前の速度は、19㎞/sまで落ちていたと見られる。)

      その後の探査機の航行速度は公表されていないが、順調に土星軌道
      を通過(2008年6月8日)。でも速度は徐々に低下していくとも、、
      2009年12月29日には冥王星までの中間点を通過、地球までの距離が 
      24億6300万㎞に達する。

      天王星軌道(2011年3月18日)、海王星軌道(2014年8月25日)と
      順当に通過し、翌2015年1月には冥王星の観測が開始できる距離と
      なった。2月14日から探査開始、翌2016年1月まで冥王星の衛星も
      含めて観測活動を遂行し、その月に接近探査ミッションをすべて
      終了する。

      その間、途中の7月4日に通信途絶のトラブルが発生、すぐに回復す
      るも、機器が一部しか動作せずのセーフモード状態、7月7日に正常
      復帰して通常観測を再開。その一週間後には冥王星にフライバイ、
      単なる接近通過で増速できたかどうかは不明だが、その最接近距離
      は13,695㎞となり、カロン衛星の公転軌道の内側を14㎞/sの速度
      で通過する。その折りに2㎞/s余り加速出来たかも知れない。
      (冥王星重力に抗する脱出速度は1.2㎞/s以上で余裕十分、因みに月
      重力の脱出は、2.38㎞/s以上)

      冥王星探査後は、エッジワース・カイパーベルト内の太陽系外縁天体
      <2014 MU69>をフライバイ観測することが予定され、2019年1月
      1日、お目当ての天体<2014 MU69>に接近、その写真撮影に成功
      した。この小天体は大小の球形が雪だるまのようにくっ付いた恰好 
      をしている事が判明した。(19㎞Φと14㎞Φで長さ32kmほど)
      現在は地球から64億㎞以上離れた系外宇宙空間を飛行中。

     *この探査機は、ほぼ30年前の1977年に打ち上げられたボイジャー
      1号、2号の外惑星探査の折り、そのミッションが海王星探査までと
      なっていたので、<冥王星>やその外側の太陽系外縁小天体群、特
      にいまだ未知にして注目度の高かった<エッジワース・カイパーベ
      ルト>に類属する天体を主要目標に定めた初探査の試みであった。

  [注]:2000年代初頭のこの頃になると、それまでにNASAが科学探査の
      ミッション計画を遂行してきた過程が概ね二本立て、即ち、はる
      か遠方の宇宙、深宇宙とかの宇宙全体に関わる探査観測活動と、
      太陽系に関わるあらゆる探査といった二分野傾向で計画を進めて
      きた状況であったが、前者のほうが行き着くところ、手詰まり感
      となり、それなりの答えが出たとも見なして、後者、太陽系に関
      するさらに新たな情報、深理解を得るべく、多様な探査、観測に、
      より一層活動の重点を置くようになってきた。その研究の成果、
      宇宙開発技術への実績が、且つ、太陽系の起源に関わる追究、知識
      の研鑽と共に、将来的展望を見出し、未来を作り出すとする傾向
      になって来ている。

      顕著な事例としては、かって1960年後半~70年代初めに大いなる
      偉業実績となったアポロ計画(6回にわたる月面有人探査:アポロ
      11、12号&14、15、16、17号)終了後、同じ60年代半ば頃から既に
      始まっていた火星へのアプローチ(マリナ―計画やバイキング計画等
      により地道な探査機活動がなされ、80年代には一休みしたかたちと
      なった)が、90年代に入ってからは再び計画遂行の主目標となり、
      先進の機器を装備した探査機が打ち上げられるようになる。
      しかし、何故か失敗の方が多く、その年代での成果実績は余り良く
      なく、次の新世紀の代へと繋ぐという流れが見られる。

      2000年代になると、前とは打って変って順調な探査活動となり、
      <2001マーズ・オデッセイ>のような周回軌道探査機だけでなく、
      ロボット探査車が火星の地表面に投入され活躍する時ともなる。
      (2004年1月3日と24日に火星着陸の2台のローバー<スピリット>と
      <オポチュニティ>)

      2011年11月26日打ち上げの探査機:マーズ・サイエンス・ラボラトリーからの
      火星地表面へ降下された科学探査車はすでに3台目のものとなり、
      現在も<キュリオシティ>の愛称で運用中である。

      (遠方、深宇宙観測については、NASA以外の各々天体観測機関
      が大型の設備、超大型の電波アレイ観測網システムなどの構築に
      より新たな進展段階に至っている。NASAもその傾向に呼応して
      ハッブル宇宙望遠鏡の後継となる大型機器の開発計画の遂行に携
      わっている。打上げ予定も、諸機器製作の遅れ、本体不備など、
      色々あって延び延びとなっている。それで2021年春、3月以降に
      なるとの事で、期待されている次世代望遠鏡<ジェイムズ・ウェッブ宇宙
      望遠鏡:JWST>が予定されている。)

     *アポロ計画の時の<月への有人探査>のように、<火星への有人
      着陸探査>の遂行は、残念だがほぼ不可能に近いと言える。
      何せ、火星までは最速でも凡そ4ヶ月か、それ以上かかるからで
      ある。しかも帰還の見込みも立てられない。

      因みにかの系外探査機ニュ―・ホライズンが、その最速レベルで
      98日前後で火星軌道に到達しているといった現状実績が上がっ
      ているが、465㎏という軽さの探査機本体ゆえの飛行だからだ。
      (かのアポロ16,17号時代での月までの飛行時間は70時間以上
      90時間以内、3、4日ほどであった。その総重量:15トン以上)

      これはもう、地球と火星の間、接近時の距離5600万㎞~8000万
      kmで、その場合、平均最速度5.0㎞/sの宇宙船で130日~185日
      を要するが、その所要日数や、その他の多種な条件に相応機能
      する人工惑星の中継ステーションが2つ、3つ構築されている
      といった状況でないと、出来ないのものであろうと思われる。
      (太陽と火星間でのラグランジュ点 L1、或いは L4、又は L5を
      利用した中継ステーションが可能と想定されるが、、、)

      しかし、中継ステーションなるもの、その構築こそがさらに至
      難の事柄となる。火星との間に火星の公転に同心円的に同期し
      た理想的な軌道のステーションを設けるなんて事は、これこそ
      完全に不可能だ。人工惑星としての<重力そのもの>をバラン
      ス良く成立させるという事が出来ないからである。

      それでも現在、有人火星探査計画が、ロシア、アメリカ、欧州
      でそれぞれ構想されてはいるが、、結局ところスペースシップ
      そのものの開発、半永久的な推進力の開発に期待が込められて
      いるようだ。地球の大気圏に再突入しないで済むように、いつ
      でも常駐していられる、そこを出入りするポートとするような
      宇宙基地ステーションをも念頭にして、、、、。

    《現代宇宙論に最も深く関わるものとなって来た物理学分野もいよいよ素粒子物理
     の研究でその頂点を極めるような見識段階に至る。かっての原子核子の発見以後、
     1940年代前後からそれ以降には、ミューオン、パイ、及びK中間子、 50年代には
     デルタ粒子、ラムダ粒子、シグマ粒子等や、ニュートリノなどの発見、そして、
     60年代はその諸粒子研究と共に、<物質の根源的究極 要素>である<素粒子>の
     発見的確定、及び、その物理的特徴、仕組み、成り立ち等、他の諸粒子との関係、
     作用関連を見究める時代となる。さらにそうした時代以降も、クォークの確証発
     見と共に、尚、諸粒子の発見が各年代を追うごとに生じており、2000年代以降に
     までも発見、研究の流れは続くものとなる。その初年には、タウ粒子(1975年の
     発見)の対となる<タウニュートリノ>が発見されたり、 2012年にはかって
     1964年、まさに半世紀も前にその存在が予想され、追求されていた謎の粒子たる
     <ヒッグス粒子>の発見だと比定され得る新粒子の発見など、さらに新たな進展の
     裏付けを得たかの如き現代的状況となる。 》
               
・2008年・・原子核物理、素粒子物理での最先端的研究も高エネルギー物理
      実験を極め尽くすほどハイレベルとなり、欧州では全周約27㎞
      にもなる大規模な<大型ハドロン衝突型加速器LHC>が登場する。
      本年9月10日からその稼働を開始した。

      欧州原子核研究機構(略称CERN in French)による世界最大の
      加速器となるもので、スイス・ジュネーヴ郊外の大規模研究所を
      メインサイトとして、フランスとの国境を跨いで地下に設けられ
      た実験施設である。旧来から使用されたサイクロトロン型円形加
      速器(PSとSPS)と連携しての複合施設をなしている。
      その大型LHCには、その地下円周に7つの<検出実験の設備拠点>
      があり、それぞれその使用目的、リサーチに対応するかたちで設
      けられている。
     
      それまで実験稼働していたレプトン(電子)用の衝突型(LEP)
      が2000年に実験終了となり、その地下トンネル等の利用を兼ねて
      設置されたもので、ハドロン(主に陽子ー陽子)用の衝突型加速
      器である。
      先の電子―電子向き用の加速器に代わる後継の新設備ではあるが、
      当面は<陽子―反陽子>衝突実験への可能性を欠くものであるが、
      将来的にはその実験の可能性も期待され得るかも。しかし、この
      類の実験は、すでに米のフェルミ国立加速器研がテバトロンにて
      先行され、半ば研究発展済みであるから、どうかと思われる。

     *CERNの原子物理研究は、1954年秋の設立以来、以下の主要な加
      速器での運用の流れが見られる。
      ●陽子加速器<PS=Proton Synchrotron25GeV>:現在も現役運用
       単独稼働時期:1959年~1971年CERN最初のシンクロトロンにて。
        前段加速用の
          運用時期:1960年~現在時、for ISR、 SPS、 LEP、and  
                LHCの連係複合加速機構の一部(25GeVまで
                のブースター加速)として。
      〔注目すべき成果〕: ―1973年<中世カレント>の発見に寄与、
                当時の飛跡観測実験で、
                検出装置の泡器<Gargamelle>がPSで
                作られたニュートリノビ―ムの受入射実験で、
                <中性カレント>の事象反応を示し、その
                新発見をなしている。

                粒子加速実験が主目的で、その達成を目標と
                するPSは、陽子だけでなく、電子、陽電子、
                反陽子、酸素や硫黄の核子など色々な粒子を
                加速、汎用加速器として運用された。
                 
      ●ハドロン衝突型加速器<ISR=Intersecting Storage Rings62GeV>:
       運用稼働期間:1971年~1984年
      〔注目すべき成果〕: ―新粒子発見といった目立った成果は無い。

      ●スーパー陽子加速器<SPS=Super Proton Synchrotron450GeV>:
       運用稼働期間:1976年~現在も単独運用可能にて、
               1981年~1991年、陽子・反陽子=ハドロンコライダーと
               して、またLEPのための最終加速射入にも運用。
               2008年からは< LHC>への前段階最終加速及び
               射入用に使用されるものとなる。
                
      〔注目すべき成果〕:―1983年WボソンとZボソンの生成、検出。
               これらの素粒子は、1968年に理論上存在が
               予想されていた。
 
      ●大型電子・陽電子衝突型加速器<LEP=Large Electron-Positron>
       運用稼働期間:1989年~2000年(LEP2)
               Zボソン、Wボソンの産出、計測に運用される。
 
                円周27㎞、地下約100mに建設されたレプトン
               コライダーであったが、その建設容積地は、
               新たなLHCの建設のため、丸ごと拡充改革利用
               されるものとなる。

      〔注目すべき成果〕:―ヒッグス粒子探索実験にて、その質量範
                囲の値巾を<115GeV/c²以上から170GeV
                前後>までと暫定的に検出測定する。
                (このレンジ巾は、LHCの2011年までの
                実験で、115から130GeV/ⅽ² 前後まで予め
                絞り込まれ、統計確率で最も高いポイント
                レベルは、124GeV(CMSで)&125-
                126GeV(ATLASで)というデータ結果を
                出している。)

                ―Wボソン、Zボソンの質量エネルギーの
                精密な測定。

      ●大型ハドロン衝突器<LHC=Large Hadron Collider>:
       運用稼働期間:2008年~2021年へと現在も運用可能。

          (013年2月~015年かけて当初の7TeVから14TeVへと高エネ
           ルギー化アップに向けた改善修理のため休止期間を取る。
           2015~2018年でのRUN2の運転期間終了。
           2021~2023年のRUN3の運転計画予定に向け、諸改善での
          アップグレード中)
 
       〔注目すべき大成果?アリ〕:
         ―  2012年(7月4日)ヒッグス粒子と確定されうる新粒子の
          検出測定、その膨大なデータからの解析結果を取得する。

         (これは今世紀における一番の新粒子発見となるらしく、
          ヒッグス粒子という存在の追求予測のコンセプトは、
          <物質〔素粒子次元のレベルで〕に質量を与える起源
          反応をなすもの、標準理論に関わる待望の起源粒子>
          という事で、物理学会では大変な反響を呼んだ。)

・2008年・・6月11日、フェルミガンマ線宇宙望遠鏡がNASAにより打ち上げ
      られる。8月から運用が開始され、仏、独、伊、日本、スウェー
      デンほか等、各国の研究機関が共同研究に参加する。

      ガンマ線観測用天文衛星として、フェルミ望遠鏡は、2つの観測
      装置を搭載している。
      ①大エリア望遠鏡(LAT):全天の約20%となる広角視野を有し、
       20MeVから300GeV以上の高エネルギーガンマ線の検出&撮像、
       これにより全般的な掃天観測を行う。
      ②ガンマ線バーストモニター(GBM):突発的なガンマ線バースト
       天体の観測を行う。
       エネルギー帯域幅は、8KeVから30MeVにて、2種類のシンチレー
       ション検出器、12個+2個、合計14器によりバーストを捉え察知
       する。
       (8KeV~1MeV域は、12個のヨウ化ナトリウム結晶器で、2個は、
       重複する帯域があるが、150KeV~30MeV域のガンマバーストを
       ビスマスゲルマニウム結晶器で把捉する。)

      *このフェルミ観測衛星は、先の1991年4月打ち上げの<コンプ
       トンガンマ線観測衛星>(特定エネルギー帯域での最初のガン
       マ線全天分布地図や、全天におけるガンマ線バーストの分布観測)
       や、2004年11月打ち上げの<スウィフト・ ガンマ線天文台機>
       (バースト研究専用の衛星にて、その残光も追観測する意図で、
       X線と、紫外線/可視光の2種帯域の観測機器も搭載)の観測
       研究実績を踏まえ、補うかたちで、さらにより詳細な、高エネ
       ルギー帯域を目指す観測研究のために運用されている。                   
       (注:コンプトンガンマ線衛星が、姿勢制御機器の一つが故障
       で、2000年6月初めに大気圏に制御再突入させて消失している
       ので、コンプトン機の後継代替ともなる衛星機と見られる。)
            
・2009年・・ESA(欧州宇宙機関)は、5月14日、3機目のCMB宇宙ミ
      ッションとなる<宇宙機プランク>を、アメリカNASAとの共同
      で打ち上げる。太陽ー地球間のラグランジュL2点を中心とした、
      半径45万kmの周回リサージュ軌道への投入、観測となった。


      (この折り、初の遠赤外線&サブミリ波帯域での観測をも可能と
      なす<ハーシェル宇宙望遠鏡(口径3.5mの大型)>も一緒に打ち
      上げられ、太陽と地球とのラグランジュ点 L2(高度150万km)を
      中心とする直径70万㎞の周回リサージュ軌道に投入される。)

      宇宙観測機プランクは、可視光学系望遠鏡とは異なるが、グレゴ
      リー式という反射望遠鏡の形式を利用して、低周波数帯と高周波
      数帯に区別した両方の検出装置に対応、合わせての 低、高、両周
      波数帯巾が 27Ghz~1000Ghz まで、波長域では〔11mm~
      0.3mm=300μmまで〕を観測キャッチできる機能となっている。
      その開口ダイアメーターは、<1.9mx1.5m> という形状をなし、
      円形を類するものではない。

      プランク機による初期観測結果が、2013年3月21日に公表される。
      WMAPの観測データによるものよりも、さらに高精度のCMB放射
      マップ画像が完成した。
      高感度・高分解能の観測装置を備えての宇宙背景放射観測を目的
      とする宇宙望遠鏡であり、高度化した技術装置、CMBに特化され
      た周波数帯は、2つの帯域を照準として、
      ●低周波数帯(30Ghzから70Ghzの3つの帯域)と、●高周波数帯
      (100~857Ghzまでの6つの帯域)の2台の検出装置による測定、
      その微小な変異差を全天にわたり探査するものとなる。

      (因みに前機WMAPは広視野、低感度域で、背中合わせの2つの
      主グレゴリー式反射鏡によるもので、銀河系及び系外源からの前景
      信号を減算排除し、CMBの観測精度向上のために最適な< 23GHz
      から94GHz までの5つの周波数帯域>を採用しての全天からの相対
      温度測定であった。その成果として、プランク機の観測での大幅な
      改善向上に寄与している。)
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      宇宙年齢:138億年、 宇宙の物質とエネルギーの組成:ダーク
      エネルギー68.3%、ダークマター26.8%、バリオン4.9% である
      との観測データの結果が算出された。(先のWMAPの数値、ダーク
      エネ.73%、ダークマタ.23%、バリオン4%とは多少異なる)

      前機を含め3機に及ぶ宇宙CMBミッションの観測総合結果からは、
      現宇宙の始まりは、ビッグバーン・インフレーション宇宙を裏付け
      示唆するデータとなるとするもので、その宇宙論的な宇宙のかたち
      としては、<観測可能な限り規模>の宇宙的視点から類推して現宇
      宙は<平坦で均一等方的構図のものである>との示唆を得ている。
      (ただし、宇宙膨張事象を一様方向、或いは各々特定方向に許容
      認知した標準宇宙論モデルとした平坦説での仮説である。)

     *CMB観測機プランクと一緒に同じ宇宙エリアL2 に打ち上げられた
      ハーシェル宇宙望遠鏡は、欧州宇宙機関(ESA)による観測シリーズ計画
      での最後の4番目のミッションでもあり、その観測運用が2013年4月末に
      終了したが、
      その科学観測での成果は、前シリーズ的に最初の赤外線宇宙観測と
      なる83年の<赤外線観測衛星IRAS>、95年の<赤外線宇宙天文台
      ISO>、及び 2003年<スピッツァー宇宙望遠鏡SST>と、2006年
      日本の<天文衛星IRISあかり>などの研究結果を踏まえ前提となし
      て、宇宙と個々の天体へのより詳細な集大成となり、且つ、より高
      度な科学研究への進展ともなり、数々の新発見観測と共にその分野
      への知見を展開するものとなる。

      “現代的宇宙論” 成立過程への見方からすれば、その成立への貢献度
      は、その多大な観測研究所産の必実、必須をもって、その一翼を担
      うものともなる。つまり1980年代以降を視点として、 宇宙天体観測
      の研究分野という大枠に限定した限りでは、その観測研究の大きな
      流れは、一つに<宇宙形成論的な深奥観測>、2つに<銀河系、及び
      太陽系への最新的な観測研究の試み>、そして3つには、<赤外線観
      測を主に恒星や星雲天体を詳細高度に研究把握>といった具合に観
      測対象領分を大概区分けされ得るからである。

      今後は、こういった活動結果を踏まえ、さらなる観測研究の発展の
      過程が見込まれている。(超大規模な電波望遠鏡や、ハッブル宇宙
      望遠鏡後のより優れた大型の後継機、光学系の主鏡のものや、赤外
      線など波長系タイプの主鏡等、より高性能な機器の登場により。)
      
   ・・・<同上CMB宇宙ミッション>とは目的を異にした他の観測活動>:
      -----------------------------
      同09年3月6日、「系外惑星探査機ケプラー宇宙望遠鏡」を打
      ち上げる。アメリカ NASA の別計画の探査ミッション(ディス
      カバリー計画)の一環に属するものとして、普通衛星形式を超え
      た人工機(太陽周回軌道)の特徴をなす。

      これは、非常に注目すべき探査機で、その探査目的に適した<宇 
      宙望遠鏡、しかも反射屈折望遠鏡>を主体とし、光度計測センサ
      専用の高画素のCCDカメラを装備、他に各種分光観測機器を備え、
      太陽系外惑星、特に太陽に似た系をなす恒星でのハビタブルゾー
      ン内を想定した<地球型惑星>や、より大きい惑星がどれくらい
      存在するかを調査、見つけ出すという目的を第一目標にした探査
      機であった。

      この探査機は、地球の周回軌道を離れ、地球を追尾するかたちで、
      太陽を周回する公転軌道に乗せられ、その位置から観測探査を行
      なうというものであった。(主鏡:1.4mで、開口部の径が0.95m
      であるものなので、補正拡大レンズ:1m強内外と見られる。)

      はくちょう座の領域方向の一部だけに限定された観測であったが、
      10数万個の恒星を観測した結果として、2015年5月現在も
      現役進行中にあり、その系外惑星の発見数は1019個に及ぶ結果を
      得ている。そのうち地球型惑星は数が少ないが、ハビタブルなも
      のとしては、数個の発見が挙げられている。

      (その後、2,3の機能トラブルが生じたものの2018年10月末まで
      運用され、膨大な観測データ、系外惑星2600個以上、それらに関
      わる恒星を含め、50万個以上の恒星のデータをゲット、ハビタブ
      ルゾーンの惑星候補も十数個、数十個?に及ぶものとなる。
      そのうちハビタブルゾーン地球型惑星に最も類似した天体が3、
      4体、属名公表されている。しかし、ハビタブルで、液体の水が
      有りうると推定されたとしても、それでもって生物、生命体が誕
      生している、生じ得るとは限らない。まったく良い条件が揃って
      いても、微生物細菌のサの字も表明出来ないものかも知れない。

      <生体を形づくる>生体物質(DNA、RNA構成体)というものは、
      有機質化合物の次元から見ても、とてつもなく高分子重合の生体
      物質となるわけで、宇宙のどのような環境からも、自然発生的に
      生成されるようなことは完全に不可能である。
      現在の生化学での手法により、RNAのほんの断片を疑似的に合成
      することが出来るほどに進歩しているが、これもウイルスという
      もっとも最小で、生物生体に属さないとも言われる個体のRNA
      からのコピーに類似する。こんなウイルスのRNAさえも宇宙の
      如何なる環境からの作用により生成、生まれることは100%
      不可能である。
      
     *太陽系に似た系をなす恒星とその地球型惑星を見つけ出すという
      探査機の試みであるからして、まさにハビタブルゾーン内の生命
      生息惑星を見つけんとする、そんな宇宙探査と言えよう。

     *系外惑星への観測上の関心は、1990年代以降からその高まり 
      を見せるものとなり2000年代へと続き、地上天文台だけでな
      く、衛星探査機も加わり、その成果、結果が飛躍的に伸びるものと
      なった。また、NASAは、この新世紀代から太陽系の誕生、形成等
      への関心を新たにして、その理解を深めるため、色々な研究目的
      の探査機を打ち上げ投入している。
      (ケプラーの観測運用は、2018年11月15日終了するものとなり、
      その後継ミッションとして、すでに同年4月18日、地球周回衛星と
      なる<衛星望遠鏡TESS>の打ち上げが成功裡になされている。)
      -----------------------------
       (フランス主導の欧州宇宙機関(ESA)の系外惑星探査の望遠鏡
      衛星COROTが、2006年12月27日先に打ち上げられており、12年
      11月まで運用されたが、その成果は今いち十分ではなかった。
      反射式望遠鏡が口径27㎝と、規模がそれ程ではなかったからだ。)

   ・・・同09年12月14日、次世代的赤外線宇宙望遠鏡として、NASAの
      宇宙機WISE(広域赤外線探査衛星)が打ち上げられる。
      以前のものと比べ、超感度赤外線センサーを搭載にて。3.4μm、
      4.6μm、12μm,22μmの四つ波長帯域を47分度範囲で一度で検測、
      全天の99%をカバーしての超感度スキャンするものとなった。

     *この観測のデータから、2014年にまとめられた研究成果の一部
      において、以前から<オールトの雲>(太陽系を1万AU、或いは
      10万AU〔天文単位〕のR距離以内の間で球帯状の星間物質が大環
      円をなして取り囲んでいるとする仮想理論上の)仮説(1950年)
      案に上乗りした仮説上の天体テュケー〔Tyche〕など、木星質量
      以上の天体は、<仮説のオールトの雲>内外の天文単位内には存
      在しないとの探査結果が示された。

     *仮説上の<オールトの雲>も宇宙の星間物質としての構造体と仮
      定し得るわけだが、太陽系外縁天体の一グループをなすカイパー
      ベルト天体のように数々の発見がなされているものではない。
      (現在では外縁天体グループ全体では1千数百以上の数にのぼる
      との天体物の観測概算結果となっている。)

     *太陽圏の外縁(太陽風と太陽磁場の終端境界=ヘリオポーズ)と
      <仮説オールトの雲>との距離比較:
        ・ヘリオポーズ:太陽から200AU前後=300億km内外。
        ・オールトの雲:太陽から1万AU、乃至10万AU以内にて。
      大変な距離の相違で、まさに銀河系宇宙空間での様相となり、太
      陽からの引力がおよぶ圏域からも遥かに遠いところとなる。
       
     *<オールトの雲>は、すべての彗星(長周期彗星、非周期彗星)
      の発生元として、オランダの天文研究者ヤン・オールトが1950年
      に仮定提唱した仮説であったが、この仮説があたかも存在するか
      のように有力視され、ひとり歩きをしている状況である。
      実際にハッブル宇宙望遠鏡などで、その一部を捉えられても良さ
      そうなものであるが、全く実体は観測データに挙がってこない。
      
・2010年・・米航空宇宙局NASAにより太陽観測衛星SDO(Solar Dynamics
      Observatory)が、2月11日ケープカナベラル空軍基地から打ち
      上げられた。
      太陽活動における紫外線(特に極紫外線)の変動や磁場の観測、
      特に外部的磁場事象に関係する太陽内部の物理的活動状態を調べ
      その関連性を探査、把握することを観測目標としている。

      (近年の異常気象など、地球大気に関する事柄が関心度を増し、高
      まっている中、高度な文明生活を維持する上で、太陽の活動状況が
      及ぼす影響や、関連性を探るべく、より深く、より正しく科学的に
      把握、理解するとの意味目的を持った地球・太陽圏事象観測である
      と見られる。)

     *SDO観測衛星は、今現在も運用されている。(当初から5年以上の
      運用を目どに、さらに5年の延長が予定されている。
      
    《”国際宇宙ステーション=ISS” :1999年より組み立てが空間軌道上で
    始まり、その全体規模の組み立てが2011年7月に完成した。そこでの各種
    の研究実験の内の一つとして、宇宙観測の新たな目標を目指し得る段階と
    なった。
    打ち上げ最後のスペースシャトル・エンデバー(2011年5月16日)により
    宇宙ステーションに<アルファ磁気分光器>が運ばれ設置、その運用が始
    まるものとなったからである。分光器は宇宙線を検出測定し宇宙での未知
    の物質を探捉する目的で設計された実験機器で、すでにその存在が予測仮
    定されたダークマター、ダークエネルギーの発見、性質解明への手がかり
    を主な照準目標としている。》

   *国際宇宙ステーションは、静止軌道上には位置しなくて、秒速約7.7㎞前後
    で飛行、約90分で地球を1周する周回軌道上にある。しかもその軌道は、最
    低高度(制限)278㎞、最高高度(制限)460㎞の範囲内で維持されている。
    高度は、大気の抵抗で絶えず低下傾向(約2.5㎞/毎月)にあり、そのため
    高度修正のリブースト・アップが動力エンジンなどで行われている。また、
    安全進行のための姿勢制御も4基のコントロール・モーメント・ジャイロなど
    で、その方向性や姿勢角度が確保されている。

・2011年・・木星探査機ジュノー(Juno)が、8月5日フロリダのケープカナベラル
      基地41番発射台から、アトラスV551型ロッケトで打ち上げ。

      NASAの太陽系科学探査では中規模となる<ニュー・フロンティア計画>
      の一つで、当初は2009年6月の打ち上げ予定であった。国、NASAの予
      算事情で、今回まで延期された訳であった。

      ジュノーは,木星の極軌道への投入による観測を目論むものであったの
      で、その観測調査は特化され、木星の組成分析一般だけでなく、重力場
      や磁場、両極地域の磁力界圏の様相など、詳細にデータ収集を得んとす
      るものであった。

     *この宇宙機は、打ち上げから何と5年後の2016年7月5日に木星の極軌道
      に入るという行程を経ているが、それは打ち上げ後、火星の軌道半径を
      超えた深宇宙までの楕円軌道を飛行し、2012年8月と9月の2度の軌道修
      正をする事で地球への接近軌道に戻り、地球の自公転運動に合わせた重
      力アシストのフライバイタイミングを計ったからであった。

      そのフライバイ時が、2013年10月初めで、9日には最接近となり、地球
      地表から558㎞のところを勢いよくスイングバイして増速力を最大限に
      得て加速し、そのまま軌道上の木星へと向かう長旅の飛行軌道に乗ると
      いう状況のものであった。しかも木星への接近時には、南極方向か北極
      方向かのいずれかから木星の極軌道に入る飛行体勢を確保せねばならな
      いというものであった。

  [注]:木星への探査はアポロ計画終了直後、すぐの1973年から始まっていた
      から、かれこれ半世紀にもなんなんとする。以下はジュノー以前に木星
      への接近探査等を行った無人探査機の名歴:

       〔1973年〕・・パイオニア10号、パイオニア11号
       〔1979年〕・・ボイジャー1号、  ボイジャー2号
       〔1995年〕・・ガリレオ探査機,1989年10月打ち上げ、金星1回と
               地球 2回のスイングバイ(重力アシスト)で増速し
               て、木星へ、(周回観測機オービターと大気圏突入
               観測機プローブで構成されたもの)
               オービター機は7年余の観測運用、2003年9月21日
               木星大気圏への善処の制御投棄にて終了。
              *木星探査に特化された探査機ゆえ、2011年に打ち上
               げられたジュノー探査機を除き、唯一周回軌道観測
               を遂行した探査機である。

       〔1992年〕・・ユリシーズ探査機(太陽の極周回軌道に乗るため、
         &     木星に接近、木星でのスイングバイ、ほぼ軌道長半
       〔2000年〕  径が木星と太陽との距離約5㍳に等しいので、その
               太陽周回軌道の折りに木星への接近観測もできると
               見込まれた。(2009年6月30日運用終了にて)
              (6年前後の周期で最初と2回目に観測、3回目周期
               途上の後半なかばに運用が打ち切られた。)

       〔2000年〕・・カッシーニ、土星探査が目的の探査機で、1997年の
               打ち上げ、木星で最後のスイングバイをするために
               半周的に木星をフライバイする航行での木星観測。               
               (この探査機は、打ち上げ当初、金星2回、地球1回
               と木星とで、計4回スイングバイ加速して、土星への
               周回軌道にたどり着いている。)

       〔2007年〕・・太陽系外縁探査機ニュー・ホライズンズ、冥王星に
               向かう途中での観測であったが、前年の9月から望遠
               カメラが始動して木星を撮影しており、12月からは、
               本格的に木星系の衛星、4つのガリレオ衛星だけで
               なく、第5番目のアマルテアや他の衛星にまでおよび、
               木星の観測と共に質の濃い途上観測となった。

             *打ち上げ後、スイングバイすることなく、航行修正だ
              けで、火星軌道、小惑星帯を通過して、直接木星軌道
              へ飛行して、木星でスイングバイ加速する予定の手順
              を実行した。
              07年2月末に最接近してフライバイ、その距離は230万余
              ㎞であったが、それに前後する数日間に、より近接し
              た衛星(エウロパ、ガニメデ、イオなど)、木星の小
              赤班等のカメラ撮影に成功している。

              凡そ6ヶ月余に亘っての観測であったので、内容的に
              は観測対象規模が冥王星より大きく豊富であった故、
              その収集データ量はお目当ての冥王星を凌ぐものと
              なった。

・2011年・・地上からの天体観測も画期的な進歩発展をなし、今や宇宙天文観測は、
       NASAの積極的な関与、推進と連携発展する研究過程となり、、
       21世紀への幕開けと共にその黄金時代のただ中をゆくものとなる。

       *同年9月30日、16台のアンテナを構えたアルマ望遠鏡がその初期
        科学観測を開始、同10月3日には、新たな天文学を切り開くべく、
        試験観測で得られた<触角銀河>の画像をいち早くプレスリリー
        スした。(これからさらに大型の観測プロジェクトが展開され、
        その参画が予定されることとなる。)

     [注]アルマ望遠鏡とは、南米チリ共和国の北部にあるアタカマ
        砂漠の標高5千mの高地に建設されている。観測開始当時は
        16台のアンテナであったが、どんどん追加建設され、
        2020年代に向けて、すでに66台のアンテナを組み合わ
        せた巨大な一つの望遠鏡とする<電波干渉計>という仕組み
        の観測技術を大成している。66台のアンテナは、差し渡し
        16kmの範囲に展開するものとなっている。
        (アタカマ砂漠はアンデス山脈と太平洋沿岸に挟まれ、南北
        に1000㎞、雨のほとんど降らない長大な乾燥砂漠をなす。)
   
       *かって1999年1月から観測を始めた<すばる望遠鏡>(ハワイ島
        マウナ・ケア山・標高4,205m山頂所在の大型光学赤外線望遠鏡)
        も優れた観測技術、観測装置を有し、建設後当初以来、世界最大
        規模を誇る一枚鏡(直径8.2m)の反射望遠鏡であった。
        2012年8月には、超すぐれた撮像技術を誇る<超広視野主焦点カ
        メラ〔HS―Cam〕>が設置され、カメラ視野が世界最高の性能を
        発揮するCCD素子116個を備えて成るものなり、巨大なデジタル
        カメラとして貢献するものとなった。

        (ハワイ、マウナ・ケア山頂では、既知の如く、主鏡の形成体質が
        異なれど、有効口径がほぼ10mにもなる大型の光学近赤外線望遠鏡
        ケック1、ケック2と、同一のもの2基での天文台施設が1993年
        &1996年以降から観測を開始して久しい状況である。宇宙機衛星
        での華々しい宇宙観測の陰に隠れて、何かと地味な活動状況であ
        ったが、日本の<すばる望遠鏡設置>の影響と共に山頂天文台群、
        地上での天体観測の黄金時代の一翼を担うものとなっている。
        主鏡の形態構造については、正六角形のガラス製〔対角線1.8m〕
        のもの36枚をセグメント式に密に組繋いで、口径10mとなした
        ものである。したがって、日本の<すばるの一枚鏡>という大変
        な製作形状のものとは異なっている。)
        
        だが、2010~15年前後以降には、さらなる大型化施設の地上望遠
        鏡が続々登場し、現代天文観測の黄金時代を謳歌するものとなる。

        ● 大双眼望遠鏡:米国アリゾナ州南東部グラハム山、標高3260m
                に位置する。(LBT)
                光学望遠方式であるが、径8.4mの鏡を2枚を同一
                架台に並べ設置、その双眼にての有効集光面積が
                径11.8mの単一鏡として機能するという驚くべき
                ものである。その分解能では世界で最もすぐれ、
                光学系としては最先進的、革新的なものである。

        ● カナリア大望遠鏡:カナリア諸島ラ・パルマ島のロケ・デ・ロス・
                    ムチャーチョス天文台に新たに2002年から
                     建設され、2007年7月14日のファーストライト。
                  口径10.4mの反射式望遠鏡であるが、36個の
                  6角形セグメントの組み構成により、それが
                  一つの主鏡の如く機能するという斬新で、
                  先進的な技術を駆使した望遠鏡である。 

        ● 超大型望遠鏡VLT:チリのアタカマ砂漠のセロパラナル山に位置
                  するパラナル天文台に建設、径8.2mの望遠鏡
                  4台で構成され、それらをワンユニット式に
                  用いて干渉計として観測できる機能を持つ。
                  光ファイバーで4台を結合したVLT干渉計での
                  観測では、口径130mの望遠鏡に匹敵した実質
                  作動の性能を発揮し、よって単独で使用する
                  よりも25倍もの分解能を実現できる。
                  撮像画質を高めるために径1.8mのVLT干渉計
                  補助望遠鏡がそれぞれに装備されている。
                  (ヨーロッパ南天天文台所属運営)
 
・2012年・・宇宙における大規模構造と云われるものの内、二番目の大きさ
      ともなる大クェーサー群<U1.27=別名Huge-LQG>が発見
      された。これは、同現時点までに観測されたクェーサー群では
      最大のものである。

      この発見は観測即、同時ゲットデータから得られたものではなく、
      かの<SDSSプロジェクト:スローン・デジタル・スカイ サーベイ>1999年~
      2005年にかけて実施された観測データからの入念な分析、検証、
      コンピューター解析画像処理等から見出されたものである。

      73個のクエーサーから構成され、その配置は、おおよそに英字
      の<Ⅽ>を描くように連なってその構造なす。
      その長さは、40億4000万光年で、C字型上での平均直径も
      16億3千万光年との測定結果が出ている。
      地球からの距離は129億光年離れているが、しし座のエリア方向
      に位置している。(2013年1月公式発表)

   ・・・同12年6月13日、NASAの<SMEX>宇宙科学ミッション
      の継続推進として、11番目<SMEX-11>衛星 NuSTARが打ち
      ち上げられた。

      この衛星は、高エネルギー(=高周波数)のX線を捉えるX線望
      遠鏡を装備したもので、先のチャンドラX線観測衛星やXMM-
      NewtonX線衛星(欧州宇宙機関所属)が観測対象としたX
      線よりも強い、近ガンマ線をも観測できるものであった。
      特に太陽質量の10億倍以上のブラックホール、超新星残骸、銀
      河の高エネルギーに関わる現象など詳細な探査観測に向けられた
      ものであった。
    
・2013年・・第3次のSDSS-Ⅲ プロジェクトでは、大規模スケールでの探査
      研究が続けられる中、この年11月、さらに最大規模の、15年の
      現時点で、一番大きな大規模構造となる、<ヘルクレス座・かん
      むり座グレートウォール>の存在が、その研究者チームの論文に
      より発表された。

     *このような超大規模構造のグレートウォール(全長100億光年、幅
      72億光年)が、ビッグバン理論のうちに位置付け、認められうる
      かどうか、大きな問題を投げかけるものとる。

      (現代主流の標準宇宙論、重力を根本としたビッグバン理論とは
      対極的ともなり得る別理論の<プラズマ宇宙論>というモデルで
      は、<フィラメント構造>提唱を前提にして、その理論自体を裏
      付け確証するかの如く、何の矛盾する処なく、そのような大規模
      構造形成をうまく理論説明できるとする。

      これは、電磁流体力学からの電磁力と重力との相互作用における
      展開として、プラズマガス雲現象を初期宇宙でのそれの形成期と
      見なし、理論付けが可能となるからであるとの見解による。)

     *今や、宇宙論、宇宙モデル問題は非常に複雑化して、理論の調整、
      新解釈的形成途上、確立への時代となってきた。

       ●<ビッグバン(インフレーション)理論 ⇔ CMB宇宙背景放射>
        (ビッグバンを大前提とした現代宇宙論での初期宇宙記述、
        ビッグバン以前は、物理理論を記述することができない。)

       ●<宇宙の大規模構造(グレ―トウォーㇽ、大クェ―サ‐群)⇔プラ
        ズマ理論での超銀河フィラメント>
        (あまりの遠方への観測データによる処理映像だから、数十万
        数百万光年のへだたり空間も、在っても無いようなものとして
        データ処理化されてしまう。)

       ●<ダ―クマター、ダ―クエネルギーの存在⇔ Λ‐CDM(重力論)>
        (暗黒物質の正体、成り立ち起源は、、ビッグバン宇宙の存在
        そのものの前提、或いはその初期宇宙形成の途上経過の一過程
        に過ぎないものかどうか、、、)

      これら3つの事柄が宇宙論問題として密に関係してくる未来への大き
      な研究課題、展望となるようだ。

      (2000年代初頭以来、宇宙機WMAP、プランク衛星とで<CMB
      観測>が、さらに高度になされることにより、本来主要の<宇宙マイ
      クロ波背景放射>のデータが、<ダ―クマタ―、ダ―クエネルギ―の
      存在を示唆するデータ>とシンクレしたとか、すっかりすり替わった
      とかの感じさえするが、、、、元々<宇宙マイクロ波背景放射>それ
      自体はその実、本来的に<ある始原過程時でのダ―クマタ―、ダ―ク
      エネルギ―の存立からを源>としていたとするものではないか、との
      見方、データ解釈が可能、或いは、それが真であるかもとも、、、

      というのも、1930年代以降、ビッグバン説、宇宙膨張、赤方偏移と
      いった事柄が、理論と観測により互いにすっかり結び付いた関係の宇
      宙見識として発展してゆき、さらに1940年代末以降、ジョージ・ガモ
      フの提唱した<宇宙背景放射>説が次第に認知度を増して加わるかた
      ちで、<ビッグバン宇宙モデル>の確固たる理論付け〔素粒子物理の
      面から投入〕で、その大成化に成功しているといった状況で、、、、

      さらにこれへの諸学会からの支持もありで、今や伝統的な不動の定説
      といった状況観を呈するの故をもって、さらにその上、<ビッグバン
      宇宙論>では、有意な証左としての<宇宙マイクロ波背景放射>が堅
      固な裏付け実測〔2.725Kという黒体輻射・ケルビン温度の換算導出〕を
      伴って位置付けられたという事もあり、もはや、誰も今さらそれを疑
      う研究者もいないし、また、双方の関係を否定するような余地ある実
      勢でもないというのが現実な訳で、、この実勢がそもそも、長い年月
      を要して連綿と考究を重ね続けてきた実績ある宇宙論研究での今日的
      実情において、まさに知らず知らずのうちに、悍ましくも大変な誤謬
      に立ち至った結果を呈しているのではないか、との可能性もないとは
      断言できないからである。)
    
・2013年・・NASAは、太陽系内に向けた宇宙科学ミッションSMEX
      (92年発表の<スモーㇽ・エクスプローラー・プログラム>)のさらなる
      継続遂行として、
      太陽観測衛星IRIS( Interface Region Imaging Spectro‐
      graph )を打ち上げた。(6月27日)

     *この観測機は、太陽表層面の下層大気、特に<彩層>への観測
      アプローチに特化された衛星で、本体の重さが183㎏と軽量タイ
      プであった。それによりカルフォルニアのヴァンデンバーグ空軍
      基地より離陸した大型の航空機<スターゲイザー>母機から切り離し
      空中発射で、<IRIS衛星>を先頭部に格納した<ペガサスXL>
      ロケットによる打ち上げとなった。

     *軌道傾斜角97.90度の楕円の極軌道で、軌道長半径:約7,015.4㎞、
      軌道周期約98分弱、短半径での高度は、623kmと665㎞を航行し
      常時太陽面を観測する軌道上に置かれた。

     *現在(2018年)も運用中で、日本からの観測衛星<ひので>と
      同類系の極軌道のものであるから、<ひので>との同期観測で、
      同時間データ収集ができ、その連携的通信研究を可能となした。
      (2013年10月19日)

      この研究で、太陽表層部の光球上からのプロミネンス(紅炎)、
      黒点に伴って発生する<活動型紅炎>であるが、それがコロナ中
      に熱波となって吹き上げ、コロナを加熱する一つとなるとの現象
      を太陽表面からの磁力線(磁束管)にまとわり付いたプラズマと
      して、その現象を解析している。
     
     *光球表面上には、幾多の数か月に亘って安定して活動存在する静
      穏型紅炎もあり、それが彩層中へと揺らぎ浮かぶものともなる。
      また、光球表層下内には無数の渦対流の炎熱塊があり、表層面の
      ほぼ全体を揺炎化現象と成している。しかし、これらは彩層エリ
      ア中で温度が下がるものとなる。

・2013年・・欧州宇宙機関(ESA)による<ガイア計画>で、天体(恒星等)
      の<位置天文観測専用>の宇宙望遠鏡探査機ガイアが12月19日、
      ソユーズロケットで打ち上げられる。

      このガイア探査機は、1989年8月8日に打ち上げられた<位置天文
      衛星:ヒッパルコス>の後継をなすもので、観測の精度と幅広い
      深化が先のものに較べ、より非常に高く期待されている。
      
      特に我々の銀河系(天の川)でのより多くの天体観測を主要目的
      として運用され、銀河系全体の1%にも満たない10億個の恒星と
      その他の様々な種族恒星の天体が観測される。

      年周視差観測により距離や、固有光度、分光分析により、光度、
      温度、重力、元素構成など、恒星の詳細な物理特性を得る観測が
      行われる。
      
      また、銀河系の起源、進化、構造に関わる幅広い重要問題に対処
      するためのデータ取得観測や、銀河系の高精度の3次元地図の
      作成がこの観測の主目的の一つとして見込まれている。

      これら高精度の観測は、地球から約150万km離れたL2ラグラ
      ンジュ点に探査衛星ガイアを投入し、その非周期リサジュー軌
      道での観測ポジションで成し遂げられるものとなる。

     *当初の観測ミッション予定は、5年計画であったが、現在、19年
      時点でも尚運用されており、6年余り経過するさ中だが、されに
      2022~24年頃まで良好延長の観測運用が期待されている。 

・2018年・・太陽探査専用、特にコロナへの近接観測を計画した宇宙探査機
      <Parker Solar Probe>が打ち上げられる。
       8月12日午前3時31分、フロリダのケネディ宇宙センターに隣接
      するケープ・カナベラル空軍基地内発射場より、現時点で最大級
      のロケット<デルタ IV ヘビー10号機>で打ち上げられた。

      これから7年に及ぶ太陽探査ミッションが計画実行される予定。
      金星を利用した太陽への楕円周回軌道、それにより可能な限りの
      近時点確保での観測探査となるが、その最接近距離目標はなんと
      太陽半径軌道で、600万km前後への到達が計画されている。

      (地球から太陽までの距離、平均で約1億4960万km、太陽半径が
      約70万kmであるから、驚異的な接近探査と思われる。しかも、
      コロナ層が太陽半径の約10倍(700万km)の厚みとかで、まさに
      コロナ域の外縁内深くに入り込む事になる。)

     *太陽への探査機による直接観測は、すでに半世紀以上前、1960年
      3₋4月のパイオニア5号から、また1962年打ち上げの惑星探査機
      マリナー2号(金星への接近が主目的でフライバイする。)も、その
      初期の試みに加わり始まっている。NASAのパイオニア計画では
      1968年打ち上げのパイオニア9号までが、惑星間での太陽探査観
      測に運用されている。

      その後もヘリオスA、B、他等々、ユリシーズの初回1994‐5年、
      SOHO機1996年など、年代的に途切れることなく、2007‐8年
      3度目ユリシーズ、2015年6月のDSCOVR機へと続いている。

      そのほか、初の宇宙ステーション・スカイラブでも観測がなされて
      おり、また、つい最近の日本の観測専用衛星<ひので>2006年と
      2013年打ち上げのNASAの観測専用衛星<IRIS>による、注目す
      べきハイレベルな共同研究観測の成果が見られる。それによると
      長年の「コロナ加熱問題」の謎に解明的な視点となる観測データ
      が出たとして、その推論の実証が期待されるとしている。

      今回の探査機<Parker Solar Probe>の打ち上げも、コロナ
      問題への研究視点、焦点が十分に定められた上でのものである。
      が、また太陽観測全般における今日までの諸点もろもろの集大成
      的な探査を試みるものとなるであろう。

     *太陽コロナの希薄化、コロナ領域が減少しているのではないか、、
      コロナホールと言われる現象の出現、今年18年の9月、10月も、
      何か異常な大きさで、太陽表面の1/4ほどをいびつなかたちで
      占めている。SOHO観測機のデータによれば、2015年頃からで、
      その年からホールが次第に大きくなり、ほぼ同規模なものが16‐
      18年と、毎年出現し、その画像が公表されている。

      (通常は太陽の両極部辺りにホールが確認されているが、上記の
      場合を含め、これが正常と云えるかどうかも決し難いらしい。
      それでも太陽のS極底面側の観測で、2015年8月18日のデータで
      は、ほぼ全面が暗黒画像になっている。おそらく、太陽のS極底
      面側は元々輝きが鈍い低温域だから、それと本来のコロナホール
      の出現とが重なっていることによる現象と思われる。
      太陽の力学的自転軸と両磁極との何らかのバランスの狂いや、そ
      の関係から自転がランダム的になる事もあり得るとすれば、これ
      は一寸深刻な事情を示すものかも知れない。)

     *太陽のコロナ層エリアは、いつ頃出来たものなのか、発生起源は
      いつ頃であったろうか、なんて問うのはまったく偏屈な事かも知
      れないが、あえてそうする時と思われる。

      コロナ層は、本来的に特殊な層エリアで、太陽の形成過程からそ
      の系が落ち着き定まった時期までに、すでにもう出来上がってい
      た既存層エリアであったとは言い難い。太陽の形成過程に出来上
      がる資質的特性のものではないと見られるからである。
      つい最近、人類一般史的年代で、有史 前後、或いは先史の時に、
      その形成的基礎の端を発しているものかも知れないものだ。

     *現代宇宙論に関わる多様な情報があふれる中、太陽が最重要且つ
      大きな課題となっています。
      銀河系などでの太陽と同じような大小恒星の研究からその詳細な
      データに基づいて、現在の太陽の存在状況、太陽の寿命、50億年
      後の太陽がどうなるか等々、科学イメージの推論が出来るような、
      そんな情報社会ともなっています。

      しかし、太陽と同じような別の多数の恒星天体と比較、類照して
      の太陽とその系に関しての運命には、人類、地球にとっては、全
      く存続の望みはありません。完全絶望です。超々遠ーい先の事と
      は言え、、、これも現代人の知識が行き着いた現代宇宙論の内容
      のうちの一つというものであろうか。

   ・・・同18年4月18日夕、<系外惑星探査機ケプラー宇宙望遠鏡>の
      後継となる<衛星宇宙望遠鏡TESS>がケープカナベラル空軍基地
      40号発射台(ケネデイ宇宙センター内)から打ち上げられた。

      これはケプラー探査の活動ミッションの成果を踏まえ、より高度な
      継承活動が期待されうる。
      その主な目標ターゲットは全天の約90%をサーベイ観測し、地球
      から30〜300光年の範囲内の明るい恒星を捉え調べる事により
      地球型(岩石)に類する<系外惑星>の有無とそのデータ(質量、
      密度、大気構成、水、液体の有無等)をより正確に推定せんとする
      ものとなる。
      (先のケプラー機では、恒星の輝度が低すぎて、スペクトル分析が
      出来なかったが、TESS機では観測にスペクトル分光器が活用でき、
      その恒星データからの結果を適応できるからである。)
      
・2019年・・おとめ座にある巨大楕円銀河M87の超大質量ブラックホールが
      観測史上、初となるデータ把握と、その画像化に成功する。

      観測データに基づいておとめ座銀河団を形成造映する幾多の銀河、
      その団群領域の中心に位置する一つの巨大楕円銀河M87(地球か
      ら約5500万光年の距離)、

      そのM87の中心に見られる超大質量ブラックホールが直接観測の
      対象となり得て、その膨大な観測データからの直接的な連係処理
      によりその画像化に成功した。

      2017年4月以降、2年の歳月を掛けての試みで、2019年
      4月10日付けの、「天体物理ジャーナル論文誌」の特別版にて
      公表された。

      これは科学者たちの国際的研究チーム(200人以上が参加)による
      プロジェクト<イベント・ホライズン・テレスコープ=(EHT:
      事象地平線望遠鏡)>による画期的な研究の成果だと目される。
 
      地球上、世界各地の望遠鏡(ハワイから南極まで等)をつなぎ、同
      時一斉連携して観測することで、地球サイズの巨大望遠鏡の効力を
      実現するとした研究プロジェクトであった。

      複数の電波望遠鏡の一斉観測データを照合し、相関合成して、その
      入力データのさらなる精度アップを計り、最終的にメキシコ、ハワイ、
      米アリゾナ州、チリ、スペインの各地の電波望遠鏡の6つが、<M87
      銀河の中心>に同時に向けられる。地球規模の大きさの望遠鏡とし
      て、その同期機能の観測が成し遂げられたとされている。

      これにより今まで全く観測不可、見えなかった<M87銀河の中心
      にあるブラックホール>がその一つの顔写真のように、解析画像化
      することが出来たとされる。
   
      かってブラックホールの存在が予言予想されて以来、未だその存在
      が間接的に示唆されるほどの証拠しか得られていなかった、誰もが
      視覚的に見ることが出来ないと思っていたものが遂に捉え見られた
      という事である。そのブラックホールの顔写真は<ブラックホール
      存在事象の地平面>を視覚的に表示しているとするものである。
      これは、<ハップル宇宙望遠鏡>の観測能力レベルの1万倍以上に
      相当する観測能力に依るものと見られている。

      (最新の電波望遠鏡〔アルマ望遠鏡など〕では、ハップル宇宙望遠鏡
      では捉え見る事が出来なかった極小点のような銀河さえもたくさん
      見られるものとなる。

      電波望遠鏡の機能的構造〔ハード面〕設備は、①大口径のパラボラアン
      テナ、②受信検波装置、③電波の生アナログ信号をデジタル信号に変
      換し、各開口からの電波を電波干渉で読み取り相関し、一つに合成す
      るスーパーコンピューター装置〔これにはスペクトル分光に変換する
      分光器としての機能ソフトの配備の有無もあり〕、そして、④伝送の
      データを解析、記録、相互通信、画像化等の処理機能をなすところの
       S・コンピユーターから構成されている。)

      今回のEHT・プロジェクトではさらに複雑で高度な技術で、地球上各
      地の8つの望遠鏡が同時一体的に運用され、その同期開口(原子時計
      搭載の通信衛星使用か?)をなしているゆえ、地球規模で一つに結合
      構成された巨大な電波望遠鏡の出現という事で、まさに驚異的な天文
      観測への進歩発展と見られる。

     *ブラックホールについての言及、研究課題が具体的に<天体物理事象>
      として注目され始めたのは1960年前後以降からその半ば頃であった。
      1964年に、ロジャー・ペンローズとスティーヴン・ホーキング(共に
      イギリスの理論物理、宇宙物理学者)の<ブラックホールの特異点定理>
      及び、重力崩壊に至る星がその特異点を通過するとした過程前後から
      <事象の地平線>が現成するとの論説等が大きな反響となっている。

      この頃、まだ<ブラックホーㇽ>という名称は用いられていなかったが、
      1967年にジョン・ホイーラーがその天体事象の名に相応しい言葉と考え
      て、初めて用名採用するものとなる。

      <事象の地平線>は、即、重力理論に密着したもので、結局<アインシュ
      タインの宇宙場(重力場)の方程式>を基本源として導き予測された
      定理事象であり、
      アインシュタインがその理論を発表した直後(1916年)に、カーㇽ・
      シュワルツシルト(天文物理学者)がその方程式の厳密解(究相単密
      な解)として、その最初の一つを導出した事で、同時に顕在化するに
      至る。

      シュワルツシルト解、或いは同義のシュワルツシルト計量とは、、、
      電荷や角運動量、その他のベクトル量、宇宙定数などもすべてゼロと見
      なした<球対称=球体(中心を通る任意の軸に対する任意角度の回転が
      常に不変と見る対象物)>で、その<静的な質量、又は質量分布>のみ
      が、外部(の真空域、空間)に及ぼす重力とその場を記述する事を解と
      する、極めてシンプルな、基底基準的な理論物理数値である。

      その解の特徴として、重力場に関わるある決定的な観点を示す<シュワ
      ルツシルト半径>が必然的な結果として求められ得た事で、初めて具体
      的な理論認知となったものである。

      それは、その質量(球対称)の中心から<シュワルツシルト半径>だけ
      離れた空域場所に<事象の地平面(線)>と呼ばれる境界面域を持つと
      いう特徴を示すが、この境界面は、まったく物理現象を起す面>を示唆
      するものなく、理論上の値域を意味するものである。ただその質量に応
      じた<シュワ・シルト半径(=境界面)>よりも小さい領域にまで、そ
      の対象(球体=星)が凝縮した時には、必ずや今で云う観測で知られる
      ようなブラックホ―ルを起こす過程となるであろうと見なす理論方程式
      である。

       (<r=2GM/C²>:

       *確かにこの理論方程式を<超新星爆発前の巨星、超巨星>に対して
        適用した場合、その進展事象を数理論上で把握理解するに絶大なま
        でに適した、参考理論式となってくる。)

      したがってシュワルツシルト解は、任意の質量Mがどんな値でも成り立
      つので、原理的にはその質量による<シュワルツシルトブラックホ―ル>が
      個々それぞれに存在し得ると仮想的に理解想定されるものとなる。
      
 以上でひとまず締めくくるとしますが、年代による記歴が、直接間接色々な
 科学分野をして、織り重なって記していますので<現代的宇宙論への布石>
 というかたちで、その流れの本流というものが捉え難い、見えない、定かで
 ないかも知れません。
 要するに幅のある物理科学、天文学および天文物理学を2軸、合軸とした流れ
 を本筋イメージして、その最終的な20世紀の後半以降、現在に至るアメリカ
 ・NASAなどの驚異的な活動を中心として、国際的協調路線の下に何かしら驚嘆
 に値するような宇宙探査活動、研究等から裏付け結果されたかたちでの、その
 現代的宇宙観たるのそれであろうとする流れへの布石である。

 だが、最後的な結論として、<ビッグバン理論>抜きにしては、現代的宇宙論
 を語ることが出来ないという点からして、それを要[カナメ]とする限り、宇宙物理
 学や素粒子物理学が克服しがたい究極的難点に立ち窮す現状を併せ有している
 といった現実をも否定することはできない。
 (ビッグバンへと連続連動する一体的前過程として、インフレーション理論が
 立てられ提唱されていますが、、データ認識ずくめのそれ自体がエビデンスと
 なり、数々の仮説宇宙理論の定説がなりたっていますが、、)

 現宇宙は、<ビッグバン>から生まれ、形成されたとする、その理論付けの
 知識は、ここ数十年の間にめざましく増大し、進展切磋して非常な深まりを
 見せている。あたかも理論、概念先行型の器の中にじっくり時間をかけて満
 たしてゆくが如くに、、、。

 そして、あらゆるデータ知識による推論説明を要して<ビッグバン>理論は、
 今や事実事象の真実性を獲得し得たかの如くである。素粒子物理学の立場か
 らも<ビッグバン>それ自体の位置付けを、素粒子の存在次元の前後過程か
 ら、きわめて秩序だった筋の通る言説として、言葉推論上のうわべではある
 が、容易に説明ができる<現代的標準認定仮説>のものとなっている。

 観測可能範囲に在りながら、未だ不可知な<ブラックホール>の存在、重力
 理論上からは超脱した特異点を示すものという訳だが、本来的に言うなれば
 <ビッグバン>こそ、まさに超特異点で、説明不可能なもの、自然事象的に
 起こるとは全くもって思えないほど、謎々だらけである、、。究境、モノ物
 質の究極の存在、それ以上は在り得ないというミクロな素子の次元から、そ
 の先天本来の<物理特性とその発展性>を認め、前提に据えたとした見方に
 よっても不可解さを留めている訳だが、、、。
 
 途にも各にも尽きざる探求、最新の宇宙論的課題のターゲットは、ダークマ
 ター(暗黒物質)、ダークエネルギーの存否、何たるやであり、その物理的
 解明把握をば求めんとすることであろう。

 宇宙を一つの全体的なものとしたところでの、その構成分布が、プランク観
 測衛星などから、ダークエネルギー:68.3%、ダークマター:26.8%、(両
 ダークの合計:95.1%)、バリオン:4.9% と、その数値データが挙げられ
 ているからである。

 衛星の分析探査コンピュータソフトに間違った概念要素の混入がなく、正し
 く設定されたものであるかぎりは、、、、、。

 現代宇宙論は、<インフレーション・ビッグバン宇宙モデル>に、ダークマ
 ター、ダークエネルギーをそれへの各々媒力と仮定したような新たなモデル、
 <Λ‐CDMモデル>や、ホットとコーㇽドの中間的なウオームDark・マター
 の存在を仮定した探測、推論を付け加えて、その宇宙論的理解の真髄に至ら
 んとするかのようである。

 【オックスフォード大学イーリサーチセンターのジェイミー・ファーネス
  博士により、10月26日付“Astronomy and Astrophysics”に発表され
  た最新の研究論文】による新説:上記の両ダークに関わる<クリエーション
                 ・テンソル説>と<負の質量流体統合
                  説>から仮定される<新宇宙理論モ
                  デル>として

  ●観測及びそのデータからの<宇宙膨張現象>を起因させているとする
   <ダークエネルギー説>=宇宙定常均衡を仮定したそれに対しての内な
    る<負のエネルギー>として:(諸局所的か、全体的かは見定め出来な
                 いが、重力崩壊を防ぐもの ➡そのバラ
                 ンス比率の宇宙定数 Λ₁)

  ●宇宙が全体的にも、各々の銀河の存在、或いは銀河間ベース(銀河群、
    銀河団レベルも含め)での、それぞれの諸運動(回転、移動等)からの
    力により容易に崩散壊しない現状を起因させているとした、その要請が
    妥当とされるところの
    <ダークマター説>=諸銀河運動或いは宇宙全体運動の正のエネルギー
    に対しての<負のエネルギー>:(諸銀河等の正エネルギーに対する
                  ➡そのバランス比率の宇宙定数 Λ₂)
   *その一例予測仮定として提唱されている:一銀河を取り囲み維持する
    かの如き役割をする<ダークマターハロー説>

  **<Λ‐CDMモデル>での Λ = Λ₁ + Λ₂ ・・<統一合算宇宙定数>

  ●現代の標準宇宙論モデルを含めた標準的な諸仮説モデルは、それぞれ多
    様、多角的データの相互間において、相矛盾した面が見られ得る事が否
    めない状況であるが、現在の処、次の如く宇宙は、
   <①開かれた宇宙、②閉ざされた宇宙、③平坦な宇宙>のうちのいず
   れかであると見なすのが常識であった。

   ③の平坦宇宙は<Λ‐CDMモデル>による<ビッグバーン宇宙モデル>
   の定立を可能としている。

   ②の閉ざされた宇宙は、新たな新説として、無限的な超まるい宇宙像、
   或いは無限的な超楕円の閉ざされた境界を有する宇宙モデルが想定され
   ている。   

 思うに1922~1924-29年での"膨張する宇宙"=フリードマンの理論、ハップルの銀河
 観測データから裏付け依拠したかたちで、当時まで全般的に支持されていた
 別の<定常宇宙論>に対して、1927年のベルギーの天文学者・ルメートル
 による<ビッグ・バ‐ン宇宙始原説>の新説提言から始まって、現今での<諸
 宇宙モデルや始原宇宙論>の提言にまで至る歴史的過程は、単に天文学や、
 物理学の単科的発展だけでなく、化学、数学、諸工学部門、産業的もの造り
 技術等の係わり集積のバックアッフ的補助、補充なくしては、その最先端的
 現代過程には決してたどり着く事、不可能と言うことであろう。
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