=【シュメール王名表】:解明、新解説所見=
●シュメール王名表からの所見、新解説:
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当該のウィキペディア・ページには以下の説明概説文があります。(抜粋引用)
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<“シュメール王名表には、大洪水以前の時代の在位期間が異常に長い、明らか
に神話上の人物(を立てたと)であると考えられる王や、それに反して存在が
確実視できるとした王が混在している。
だからといってそうした王名表の初期の王らを切り捨ててしまうべきではない。
実在と考えられる王たちもまた、後世に同様に神話的偶像となったからである。
なお、不自然に長い、、、以下、中省略、、、、、
近年の考古学上の発見によって実在が確認された王名表中の最古の年代の人物は
キシュ王エンメバラゲシであり、彼の名はギルガメシュ叙事詩にも登場する。
このことは、ギルガメシュもウルクの実在の王であり、単なる伝説上の人物では
ないということを示している。
王名表にはラガシュの歴代エンシ(祭司王)の名が含まれていないが、彼らにつ
いては前25世紀頃以降の碑文から直接窺い知ることができる。
もう一人、王名表に記された初期の王で存在が確実視されているのが、ウルク王
ルガルザゲシ(前24世紀)である。彼はラガシュを征服したが、後にアッカドの
サルゴンに倒された。
他に正確な史料が少ないため、前3千年紀の年代学においてはシュメール王名表
が中心的な史料となる。しかし、このシュメール王名表にも問題はある。初期の
王の在位期間が異常に長い場合がある上、諸王朝は1つずつ交替するのではなく
同時代に複数存在し、それぞれ個々自存的に都市を支配した期間もあったからで
ある。”など々としての文言、、、、>
・・・・・・・・・・・・・・・
この上記説明文を参考アドバイスとして、<シュメル王名表の存在、存立意義>
の真相を探り、解説所見の一考としたいわけだが、現在その王名表として知られ
うる諸資料次元でのそれらの源となる原テキストは、その成り立ちの古代の当初
にあって、2度、3度と書き改めの校正がなされたものであったと見られる。
つまり、最初期に伝承成立した伝統伝書のものが、アッカド・サルゴン時代に最
大限に書き改められ、次ぎにウル第3王朝時代の間にもさらに改め校正された。
そのウルの折にはシュメル語とアッカド語のもの、双方二つが最終的なものとし
て伝承成立したと推定されうる。その後、イシン王朝時代に幾つかのコピー粘土
板が造られ、一部恣意的な改校もなされた。古バビロン王朝・ハンムラビ時代、
古アッシリア時代にも、主要な各都市でシュメール語文字に慣れた書記者、書庫
管理者により、コピー板が随時製作されたと見られる。その写しにはコピーによ
るコピー板も登場する。
現在発掘出土した点数は、断片的で内容の欠けたもの、部分的なものを含めて、
16から18種ほどに及んでいる。その中で、粘土板形体ではなく、約20cm
前後の角柱(4側面表記)のもので、造られた当初には柱の中心に心棒を通して
回転させる工夫がなされ、回して読める仕組みのものでった事が知られている。
<WB444>と寄贈者イニシャルで分類された(Weld-Blundell Prism)もの
がその手のものと見られる。ラルサからの出土か、イシンかは定かでない。製作
年代はイシン王朝の年代終期に関係し、説が色々、BC1827~1817年の頃とされ
ているが、BC1800年前後とも推定されている。
以下、日本文ウィキペディアの<王名表の表示文言枠の抜粋>をベースとして、
順次解究、新解説を示すものとする。
1){初期王朝時代第I期}(大洪水以前)
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通常の年代設定を推定することも不可能。ただし、地名について
は推定がなされている。
この初期グループの在位年数は、あり得ない異常なものである。
何か意図的な動機から手の込んだ算定となったという向きも無き
にしも非ず。後の世、現代に至るまでも、あたかも<なぞ解き>
のような感じの設定をしているとさえ推察されうる。
*シュメル人の数の単位の種類で、sars(60の二乗=3600が一単位)
ners(600を一単位)、sosses(60を一単位)が知られており、
この三つの単位によって在位年数が算定されたとの説が提言、
公表されている。
①エリドゥ王アルリム (在位28800年間) 3600x 8sars
②エリドゥ王アラルガル(alalgar) (在位36000年間) 3600x10sars
③バド・ティビラ王エンメンルアンナ (在位43200年間) 〃 x 12sars
④バド・ティビラ王エンメンガルアンナ(在位28800年間) 3600x 8sars
⑤バド・ティビラ王ドゥムジド (在位36000年間)(牧神)タンムーズ、
3600x10sars
⑥ララク王エンシブジアンナ (在位28800年間) 3600x 8sars
⑦シッパル王エン・メン・ドゥル・アナ (在位21000年間) 3600x 5sars+600x5ners
⑧シュルッパク王ウバル・トゥトゥ (在位18600年間) 〃 +600x1ner
*大洪水以前の前世という、ある何らかの前世に対して抱く観念的時世感覚や、伝説、伝承に関わる世
相要因から、この王たちの在位年が余りにも法外とっぴなものとなっている。それだからして、通常
的な先史の枠組みの内にさえ宛がう事もできない。常識を欠き、不適切、不可能な扱い対象となるよ
うな神話上の事由と見る他ないといった、現代感覚的な受けとめ方となる。(だが、この法外な年数
表示をなしうること自体が、その根底的背景で、単なるメソポタミア全域におけるローカルな洪水で
はない、とてつもなく大規模な洪水があった事をおぼろげながら遠因とするふうに暗示している。)
そんな神話創作上の在位年数を度外視して、現代的な歴史性の常識で、あえてその先史的年代を見定
めるとすれば、<旧石器時代末、新石器時代あるいは、金石併用の銅器時代~青銅器時代>の年代範
囲(前12000年~前6000年以降)のうちに想定される年代となる。(文化期年代ではシュメール文明
の発祥期とされる先史ウバイド文化期〔前6500年前後-前4000年前後〕に特定され、その時期を早く
に分断するかたちで、大洪水以前と、それ以後に成った王朝とに別けて記述したものと考えられる。)
が、しかし、これには視点的問題がある。<青銅器時代>に関わる年代設定においてであるが、、。
現代考古学的史観でのメソポタミア・シュメールにおける学者らの定説一般の見解では、その始まり
を紀元前第4千年期中葉以降(BC3400年前後)の頃からと見なしているからである。
しかも大洪水は、遺跡での発掘時における洪水地層の<炭素14測定>がBC2900年頃を示すと
して、メソポタミアの下手半分、南部地域に限られたローカルなものと推定して、その文明の一時的
な断絶期を見定めている。
*シュメール人の数の単位に着目すると、初歩的な自然10進法の発達と、位取りが異なる60進法へ
の進展、及び両者の数学的相互関係の認知や数量的な活用など、その発展過程がきわめて複雑なかた
ちで、シュメール時代(前4千年期-3千年期)の社会に見られるわけだが、上記の大洪水以前の8
人の諸王の治世期間を表わす、その表記単位、Sar,Ner,(Soss)の期間年数メジャーと
しての成立適用、及びそのスパン尺度(長短観念)変遷の有無等を考究、吟味せねばならないようだ。
こういった見方を前提とするならば、上に明記されている、あり得ないとっぴな治世スパンも、新た
に成立した<時の単位>の適用パターンの一つではないかとの見方も出てこようか。
シュメール生活社会での各種計量的きまりの発展と数観念(数学)の発達、そして楔形による粘土板
への表記の初段階的発展から楔形文字表記への集体系的成立など、シュメール内外の諸都市、王国間
では、必ずしもそれらすべてが一様で標準的なものではなかったようだ。計量的なきまりとその標記
となる各種多様なシンボル(pictogram)も共通しないものも多々あった。
楔形の<ロゴグラム>標記と共に、各都市、各国間共通した標準基準的なものが打ち出されるように
なるのは、サルゴン王のアッカド時代以降であり、それ以前は2650年BC頃、ニップル市が標準
メジャーに定めた<ニップル・キュビト>であった。が、しかしそれは決してグローバルなものには
ならなかった。各都市がそれぞれ自分らの条件に即し、その利に相応しいこだわりがあったから、一
部を除いて各都市の対応は、サルゴン当初のその全てを取り入れ採用するものではなかった。その後
数世紀経つと、、、その一般化への変化が顕著に見られるものとなる。
サルゴンによる計量システムの共通統一の標準化が打ち出されると、これ以降やがて次世代後継者、
その孫ナラムシンがそれを大いに改善、刷新したものとなす事で、アッカド帝国治世が終落した後で
も利用存続され続ける利便性を満たすものとなる。ウル第3王朝などネオ・シュメール時代を経て、
さらにBC19世紀以降、古、新両バビロニア、アッシリアから、後々の前6世紀中葉のペルシャ時代に
までも継承使用されるものとなる。
したがって、<SAR>というある計量単位名は、ナラムシンの体系的刷新、大改善の折に、その新名称
として、他の新旧用語と共に初めて採択されたものと見られる。
彼の基本ベースを基底とした大改善は、当時のメソポタミア全域内外のすべての都市、従属、自主諸
国、王国諸都市の注目するところのもの、無視し難いものとなったようである。
ナラムシン(とその配下ブレーンら)が新計量・Royal Gur-Cube〔 LU.GAL.GUR〕として打ち立て
たその基本ベースは、ある一定規模の<水の理論的な面積、容積(容量)体形状を想定した寸法>を
基準として定めることで、<長さ、重さ、容量(ボリューム・キャパシティー)>の基本ベースの<単位表示>を
明確に打ち出し、旧来以前からの、カウンティングされる多種多様な物品、マテリアルなど、それら
の個々に帰属したまちまち、雑多の計り方、及びその標識として600種類ほどもあったロゴグラム
(シンボル文字)を状況に則し可能な限り一掃し、整備するものであった。
<水の理論的な面積、及び容積(容量)体形状を想定した寸法>の基準値は:
12Kus x12Kus x1Kus と定め、その表面積エリアは:12Kusx12Kus である。
そのかさ丈1Kusは:6susix5層重ねのものとした。
*1Kus は、旧来ニップル市の度量衡(現在考古名称)<ニップル・キュビト>からの1Cubit
に相当した単位で、手の指先からエルボひじまでの長さの標準値を決め定めたものである。今日
のメートル法で言えば、45~50cm寸法内のうちで、定められたものと推定されようか。
このKus(クシュ)という名のロゴ単位も、ナラムシンらが命名した新名であったようである。
この基準ベースから部門各種の計量単位が定められるものとなった。
例えば、上記から直ちに1Kus=30susi(6susix5層)であるから1susi は<1/30>
の長さの比となる単位として定まるわけである。
また、susi単位からの小規模な容積基準として6susiの立方体(6x6x6)を定めて、これを
1sila=2mana とし、そのsilaを容積単位ベースに定めている。
このsila単位ベースから、さらに60silaを1bariga とする新たな容積単位が出されている。
この容積単位系を<12Kusx12kusx6susi>の容積体に当てて適用変換すると、そのまま
60silax60sila = 3600sila = 60bariga ともなる。
さらに<bariga>の上の単位<gur(gur-cube)>を1gur =300silaと定めているので、
3600sila=12 gurとなる。 これに6susiのx5層 (=1Kus)だと、5倍の60gur となる。
(300sila=〔60silax5bariga〕=1gur、因みにアッカド以前の昔のラガシュ国諸市
では、144sila を1gur としていた。)
例の年期問題に関わりを有した<SAR>というロゴ単位は<12Kusx12Kus =144Kus>を
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1SARとした面積(エリア、フィールド関係)の計量単位ベースとして、初めてそこに使用設定、名称化
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
されたものとなっている。以下の基本計測表の2段目行:*印付きのもの。
Basic Area measurement list (基本エリア計測表)
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訳称名 比 規模 単位名 単位名
Unit Ratio Dimensions Sumerian Akkadian Cuneiform
------ ------ ----------- -------- --------- --------- (楔形表記ロゴ)
□shekel 1/60(1/144sar) 1kuš×1kuš gin2 šiqlu □
*garden 1 (1sar) 12kuš×12kuš sar mūšaru □
□quarter-field 5(25sar) 60kuš×60kuš uzalak ? □
□half-field 10(50sar) 120kuš×60kuš upu ubû □□
□field 100(100sar) 60ĝiri×60ĝiri iku ikû □
□estate 1800(1800sar) 3eše × 6eše bur būru □
□fieldランクの100sar=1iku ⇒12kuš×12kuš=約36m2、これに掛ける100sar=3600m2、
このfieldの比の100は、giri の単位が長さの基準ベースで、1giri=2kusとして対比値を出
しており、60giri=120kusとなるものである。比Ratio は、一辺比と単位面積比に基づく。
□shekelの比は、12〔kus〕を5の逆数1/5で割った値:60からの逆数比として、1/60の
値が出されている。
□estate ランクは、1ese=120kus の長さ単位であるから3eseX6ese が18で、field
の100の対比値から、1ese平方=100x18倍で、1800 の対比値となる。
注:<Sar>には従来からシュメール語で、音韻同音的に名詞、動詞、形容詞での使い分けで、何種
類もの色々な意味での使用があった。たまたま、それらの言葉のものと同音的に類似するものと
なっている。だが、ナラムシンの単位名ロゴへの導入意図の本来的根拠は、アッカドの初代サル
ゴン王、ナラムシンの祖父の名前<Sarru-ukin、Sarru-ken>から採られ来るを主張したも
のであった。祖父サルゴンが元々、最初に共通統一的な計量法の制定を先駆けて行なっていたか
ら、彼が祖父の建国の偉大さをも含め、その栄誉を記念するものとして、祖父の名から採択した
主旨のものであった。
この採用によりその後、さらにこの<Sar>は、一般的な言葉用語の面でもその関連性を有した
幾多の意味を表わす諸言葉への新展開をも生むものとなる。
主に数的な面、領域的な面で、その例として、totality, all; world; horizon; ball,
counter, token; 、そして注目の言葉、the number 3600=60^² がある。
動詞表現では、to be many; to multiply or to make abundant 等、形容詞的には、
numerous; innumerable の意味などへの使用進展が見られる。
特にこれらの中で、数の<3600=60²>が、言葉用語それ自体として独立的に新たに登場するも
のとなった。これは、大いに注目すべきところである。
この注目すべき点には、詰まるところ<シュメール王名表>それ自体の最終的な成立時期に関わ
るその年代付け資料要素を、あたかも表出提供しているかのようにして<Sar>関連の事柄が
絡んでいると見られる時代の動向を見過ごしに出来ないとした一面が潜んでいるからである。
これにはおそらく、推量の域であるが、先ずナラムシンの計量システムの大改善後、シュメール
王名に関わる歴譜の担当書記者らが、その時代の趨勢により、計量単位からの<Sar>を自分
らが記述する年数のための特別単位として借用したと見られる。その最初の借用の時には恐らく
<Sar>だけで<ner>や<soss>の使用は、未だその段階にまで進展していなかったと見られる。
この時の<sar>は、大洪水前の8人の王権年期を<1sar=12年>として粘土板に記し残し
たと考えられる。(この時点でシュメールの各都市の書記が共通の王名歴譜を共有、コピー保有
していたとは考えられない。ラガシュなどは別個の王名表となる歴譜を記し有していたから。)
①エリドゥ王アルリム (在位 96年間) 12x 8sars
②エリドゥ王アラルガル (在位120年間) 12x10sars
③バド・ティビラ王エンメンルアンナ (在位144年間) 12x12sars
等々、、、
極めて現実的に妥当な線で、知られざる原初シュメールの王権時代を表記したもので
あったようだ。
その後、時が経ちウル第3王朝ウルナンムの時代に<王名表歴譜>記述内容の校訂刷新が行
なわれるものとなる。この折りには<sar>の標語も、すでに計量単位系のものからシフトし
て数学の一般分野で<3600=60²>を表わす普通の<言葉用語>となっており、大きな数を表
わす<表記手段>としての言葉が、<sar>を含め、アッカド語で<ner=600><lim=1000>
そして、60進数のベースである60の数も、<soss> という言葉表語として定着した時代
となっていた。
<soss>のアッカド語に関しては、元々その60に<susi>があったが、これが両手とその
指(親指以外の4指の関節間の3部位x4本=12を用い、片方の手で指折り5回数える)で
60の数を数える観念ニュアンスがあるので、その<susi>に代えて、大きな数次元に連動で
きる数ベース専用の<soss>を新たな言葉用語として立てたものと思われる。
シュメール語で何か別の意味で<soss>があるかどうかについては、全くナンセンスである。
というのは、シュメル語では、so なる o の如き母音系の音韻は、皆無だからである。英字風
アルファベットで表示されうるシュメール語の母音は、<a、e、i、u>の4音のみで、これら
の母音の一つ一つだけで、何種かの言葉意味が表現された。この基本的初源からの4母音が、
さらに幾多の子音字との組み合せ、及び語と語の複合形式をも成して音韻言葉の多様な派生
を見るからである。実に奇妙、不思議な事ながら、<o> 母音字で示され得るものはない。
(<u>母音の多くの言葉の中には、<o>母音にあえて想定されうる如き表音語が幾つかあ
ると、指摘する現今のアッシリア・シュメール学者がいない訳ではないが、、、。)
<susi>は、先に述べたナラムシンの計量システム大改善の折りに大いに演用されている。
計量系以外での数の一般言葉としては<60>にそれが宛がわれている。本来<susi>という
語はアッカド語起源ではなく、シュメール語であり、その原意は<指>を意味するだけの言葉
であった。
シュメール語での言葉の60は<gesta,或いは gis,ges,gez>が使用されていたが、ウル
第3王朝時代には、一般使用としては、ほぼ死語となっていたようである。
また、シュメール語での大きな数の一般言葉は、600の数〔ge-es-tu 又は gesu〕
のみであった。したがって
1000=<lim>、3600(60x60)=<sar>は、アッカド語をそのまま借用したものであった。
(因みにプロト・シュメール語(=pictogram)の前4千年期時代末以前には数単位の<記号>
が案出されており、その表示方法により、3600や36000を簡単に表わすことができた。
半楕円と円の大、小の記号を元に記してのものだが、大円は3600 を示すもので、その大円の
中に10を表わす小円を描き入れて10倍するとし、36000の数を表わした。600は、60を意味
する半楕円の大の中に10の小円を入れて掛けるとし、〔60x10〕表示するものであった。)
そういった諸言語、諸記号状況のさ中、<シュメール王名表>となる粘土板への楔形文字の
<シュメール王権歴譜>の記述は、ウル第3王朝隆盛時代の折りに最終的なものとして出来
上がっていったと見られる。
ウル第3王朝は、古来シュメールの時代を偲び、望顧しての新シュメール再興を目論むに値す
る繁栄の時を迎えていた。依ってその時代のはじめから楔形文字文化盛流に乗り、多種、幾多
の文学品が出る程に創作活動がなされ、新シュメール再興の気運を盛り上げるものとなった。
(創作神話類の輩出、最初期のギルガメシュ叙事詩編纂や、そのほかの叙事詩、伝説物)
<シュメール王権歴譜>も、シュメール語だけでなく、アッカド語でも記されたと見られる。
(これらの原本粘土板は、残念ながら残存出土の例は見られない。)
問題の<Sar>に係わる<シュメール王名表>、その記述文の初めの部分だが、アッカド後
の時代の流れと共に、<sar>の中味の数が何時とはなく自然と<12>から<3600>に
取り違えられ読み替えられて、継承されたとの過程があったとしても何ら不思議ではないが、
むしろ、そんな傾向に呼応し、いわば当時としての最先端的な知的流行の掲揚として、新たな
言葉、600の表語<Ner>をも加え使用する事で、最新の記述とするを是とし、その時代の
趨勢、シュメールの再興、再盛栄への気運、神々の創作神話の最新高揚など、その機を一にし
た再校正歴譜であったと見るべきかも。(リスト表の⑦⑧の王で<ner>使用、上記の如く)
このように捉え見ても、常軌を逸した法外な在位年数であり、これらを記した書記らの心境は
異常なのか、はたや正常なる動機のものと見なせるのか。確かに王権の権威付けの意図が政治
的にあったとされうるが、大洪水以前での神授王権を想定すれば、<神々の創作諸神話>と、
それらに呼応した思意思情を、その洪水以前時代に投反映するような感性でもって、なんらの
違和感もなく、むしろ当然ありうべき事として、すんなり記述するに至ったと見なしても良い
ものか。
(このシュメルの超長期な王権治世の記録は、新バビロニア時代の神話伝統を新たに再現描写
する感じで、『バビロニア誌』を著わした前3世紀初期のバビロンの神官ベロッソスの創作記
述にも対応的影響を及ぼしていると見られる。両者は比較参照できる程にそのテキスト内容が
残存しているわけではないが、ベロッソスの創作展開はその厖大さを表わしている。彼の誌書
は、広く一般層には伝わることはなかった。思想風土的にはペルシャの諸宗教〔ゾロアスタ〕
が根強く浸透してきており、また、ユダヤ教が核となす旧約聖書史観が随処に漂出していたか
らである。ベロッソスがギリシャ神話的世界観との接隣融合をも顧慮し、ヘレニズム時代の到
来、その半世紀ほどが経っていたと、言えども、、、、。)
新シュメール復興のウル第3王朝にありて、そのような王権の高揚的な権威付けに向かわしめ
た決定的な要因、その動機付けとなる切っ掛けとなったのは、その時代的状況とも相応した、
何らかの事件事情の内情内容からその因を発してのものではなかっただろうか。
そんな事件事情が切っ掛けとなったといっても、大々的な当時の社会事件を想定したものでは
ない。
それは、一氏族グループ内の一人の息子と、ウル第3王朝のウルナンムか、息子のシュルギの
(彼が在位する前、王室公文書総監のような権力地位にあった折りなどの時)時代に、王室系
神官書記らが天下領域内での多種多様な粘土板文書などの総整理、総整備の統一を図らんとす
る途上での諸事状況から、係わり絡んで引き起こされる事件事情のものであった。
これは史実史料によるエビデンスはなく、あくまでも想定物語として、あえて記述するもので
ある。事件的物語の想定根拠は、旧約聖書創世記第11章26節~32節での一氏族“テラと
いう名の父を持ったアブラ(ハ)ム一族のウル在住の史的文言をベースに語り明かすものとなる。
詳細に物語れば長くなるから簡略、手短に、と思うが、思い道理には行かず、あれもこれもで、
ひどく長くなってゆく。
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テラは3人の息子をもうけた。アブラ(ハ)ム、ナホル、ハランであったが、系図とファミリー
の相関を示す文言で、ハランだけが父テラよりも、さきにウルで死んだと記している。ハラン
は、娘2人(ミルカとイスカ)と年少の少年ロトを残して亡くなったというのである。
家族の誰よりも先に亡くなった事由を創世記事は明かしていない。記事の本筋、主旨内容の基
点をそらし薄めるからである。系図記述に関しても、事細かにその全部をおおぴらにしている
わけではない。そこでは、アブラ(ハ)ムの妻となるサラ(イ)が誰の子かも伏せれている。後章
記事(創20:12)で異母妹であることが知られる。その異母妹のサラはまた、ハランとは同母
の兄妹であり、アブラムとナホルとが別系同母の兄弟であったとも考えられる。
ウル王朝神官官吏らが、突然、氏族の族長テラの居住地にやって来て、息子のハランの事で、
伺いたい事が2、3あると言って、ハランを町の政庁へ引き連れていった。
丁度その折り、あいにくにもアブラ(ハ)ム、ナホル兄弟は、春過ぎの近隣牧草地から、夏場の
長期間に亘る村の共同牧草地、ザグロス山系の麓へと遊牧の旅に出かけ、留守の時であった。
結局、彼ハランは拉致された状況になってしまった。事の起りは、二人の娘に関わる面もあっ
た事だが、姉のミルカは、後にはナホルの妻となるよう兄弟らの間で話しが決まっていたが、
本人ミルカはまだ何も知らず、知らされてはいなかった。いまや16、7の娘らになっていた
が、居住地から近い町に、たまには父らと出かける事もあった。年頃の娘ともなってきたが、
ここ数年前から水くみ場に水を汲みに行く事や、居残りの羊たちを連れて水をやるのが日ごろ
の務めとなっていた。そんな娘らの日課状況の折に、町の2、3の同い年頃の男等が郊外の野
で小動物を追う狩まがいの事をしていた折りに、水汲み場近くで彼女らに出会い、何気なく声
を掛けた事で顔見知りとなり、その後、彼女等に魅せられ、寄り付くように水汲み場での手助
けもするといった按配となった。
そんな娘らの状況を案じ見て、また娘らだけで町に行かないように、父ハランは、幼い頃に教
え諭したことを、また再度、その年頃に相応しいかたちで教えるべきと思案し、同胞氏族の子
供等をも交え集めて、また、少年の息子ロトのためにも、その教えるべき事柄内容を話したり
する機会へとエスカレートするにまで至った。こんな折りに、たまたま娘らとも顔見知りとな
った町の若者らが話の場に居合わせ、なにとは無く立ち聞きする機会ともなった。
その若者の一人は、その聞いた話が日頃自分の父が言っている事と相反するので不信に思い、
父に告げるのであった。その父の告げ知った事は、“壮大な神殿(ジグラット)に祀られてい
る<月神ナンナは、神でも何でもないから、決して拝んではならない。>、そしてわが一族、
部族は、遠い遠い先祖代々から伝え聞いている<聖なる話>を守り伝えて来たものであると、”
若者の父は憤りをあらわにし、たとえ町の外に住むものでも、町と隣り合わせの居住地であり
王国領地、領域内の者であるから許す訳にはいかぬ、そのまま頬って置くにはいくまいと、、
わが国家ウルの守護神、わが王国が挙げて拝する<月神ナンナ>を冒涜したものとも考えて、
たまたま懇意の知人でもあった神官官吏に告げて、かの居住地にハランという名のふとどきな
人物がいると、話しを捲し立てるものとなった。そんな経緯でハランの身に係わる状況が生じ
てきたわけであった。
ハランは政庁公舎で詰問ぜめにあった。その調べの結果は、誰が判断しても<冒とく罪>を免
れないものであった。それで今後一切、そんな言葉の類を語らぬようにとの誓約お咎めと共に
鞭打ちの咎刑、10数回が執行された。それで事が終りその日のうちに解放、戻れると思いき
や、、、夕刻遅くには家の従僕らも父テラと共に連れ戻すためにやって来ていたのだが、今日
は相成らぬ、2、3日余り留め置く事が決まったと、下役の者らが門衛の所まで来て通達する
という事態になり、ハランの身に何が起こったのか事情が判らないまま、悲嘆に暮れながら家
族等は帰っていった。
ハランは昼間にはとても蒸し暑くなる牢風ごときに留め置かれ、食事もきわめて不十分な状態
に晒された。神官書記らは、あらゆる諸文書次元からの、シュメールの伝統再構築のため、関
連情報を集め、それらの整理、統一文政に意気込んでいたので、ハランがその詰問の際にも、
わが氏族、同胞部族には、代々<聖なる伝え>があると自白していた事が、彼らにとって非常
気になるところ、引っ掛かるところとなり、ハランにはその<聖なる伝え>を語り明かすまで
は、家には戻れないという条件を命じ付すような処遇となってしまった。
天下のウル宮廷の政庁官舎には、配下の主なる都市から神官或いは書記の代表、一人以上が参
画し、持ち寄り、また集めた情報、知産の数々の照合、集積編纂に余念がなかった。特に遥か
いにしえからのシュメールの歴史、伝統の象徴の如き宗教都市ニップルからは、神官長、書記
長の2名が参画、来訪していた。<王権歴譜、その王名系譜>に係わる主要課題、再校正編纂
の担当、その任には欠かせない人材であったからである。
不当極まりない拉致ではないかと、不法な非情さに心苦、心痛堪え難い父テラは、その10日
過ぎになって、ようやく事の事情を知るものとなった。かって他の居留地で住していた折り、
羊毛交易の商いでウル王家に仕えていたとある商人と知り合い、そのお方が今では税官吏の副
長となっていたが、その知遇を頼りにやっとの手立て、コンタクトにより、知らされたる内情
であった。
だが、テラはその内情真相を知るにつけ、はたまた困惑心痛、慟哭の至りとなった。というの
は、ハランについてはその<聖なる伝え>の有る事は知ってはいるものの、その内容までも、
語るほどに知る義もなかったからである。父のテラさえもその内容を知らないほどであった。
事が複雑になるが、<聖なる伝え>の伝承は、その継承方法が、時代の流れ、部族的生存状況
によって、変化してなされていた。例えば先ずノアからセムに継承、語り伝えられた訳だが、
その後、セムからは、その子らの内、エラム、アシュル、アルパクサデの3氏族が、共存的な
居住地生存をしている間は、セムからその3人の子らの代から生まれた孫たちの中から、<最
も確実でしっかりした賢明な息子(孫)>を見出し、継承、伝えるといった方式が採られもし
た。そして、その3氏族が別々に分れゆく頃、アルパクサデのひ孫か、曽ひ孫かの、ペレグ、
或いはリウに受け継がれゆくといった案配であった。(セム系の系図:創世記11:10以降)
父テラの代は、彼自らが継承者ではなかった。その継承者は長男と推定されるアブラ(ハ)ムで
あり、曽祖父のセルグと祖父ナホルの両者から、その継承薫陶をしっかりと授かっていた。
そのアブラ(ハ)ムからは、その時代居住状況を踏まえ、子から子へと継承伝授されてゆくが、
アブラハムの時、一時、子がなくその継承が途絶えるかもと、非常に危ぶまれたと見られる。
そして、イサク、ヤコブへと、、ヤコブはイスラエルで、12氏族の子らとなり、そのうちの
レビが継承するものとなる。エジプトに下った長い時代にはその部族共同体において、レビ系
の子らがプロト祭司的役割をなして共同継承し、その文書化時代へと発展してゆく。
(エジプトでの共同継承所有の時代には、<聖なる伝え>伝承の唯一性の確立が出来上がり、
その秘匿性の義務からも解放されたといった案配で、実に途方もなく永い時代を経た末に、と
いう事であった。)
さて、父テラは、自分が大変深刻な事態に直面している事が判り、冷静に対応しなければ、と
心震わせながらも、ハランへの心配が大きな嘆きとなった。ハランは語り明かす術もなく、内
容を知らないから語りようもないと、、、また、ハランは、その内容の継承者がアブラ(ハ)ム
であると、自分の命に代えても告げはしないと、告げればアブラムの身に害がおよび、はたや
一族の存在意義が完全に失われてしまうと自覚しておろうかと、、今までの処、何らウル政庁
からのアブラムへの対処の動きがないようだから、、、どう対応すべきか、この厄介な事態を
回避、乗り越えるために、、、テラはあれこれ思案に思案を重ね明け暮れ心労困憊した。
陳述文書を記す術もさらさら心得ていない、粘土板への、、、口頭陳述での申し開きしか手が
ない、、、絶対に死守すべきところも、その場合あろうに、、特にアブラムの事は、一切守秘
すべきだ!、、今では<聖なる伝え>の継承は、われ等が同胞一族の下にはなく、現在の処、
かって先祖の父祖を同じくするエラム人氏族らのいずれかに渡っていると、申し伝えるほかな
いと、、、そう申し添えたうえで、ある共通した誰もが知り、過去の時代に遡るところの言葉
<大洪水>に触れ係わる時代を起点に、それ以後からの、<わが氏族の先祖の系譜関連>だけ
を正真正銘、正直に陳述しよう、、、これだけが、ノアらの先祖が箱舟で助かった事と共に、
自分の知り得ている唯一の事だから、、、父テラはそんな風に思案した。
かの御仁、ハラン拘置の事情を知らせてくれた税官吏の副長にあたる以外に手立てはないと、
実は、知らせてくれた折りに、“息子の事で大変お困りの様子、何か出来る事あれば、少しな
りとも手助けできれば、、との親切なお言葉をも頂いていたから、、、。
テラは朝早く出かけた。もう明日で15日ともなると、ハランの状況が心配だ。今日の内にも
引取りが出来ればと、、、3、4人の従僕にロバを伴い、ウル政庁に向かった。
小一時間掛かる道すがらテラはいい考えを思い付いた。自分の陳述する言葉を、予め粘土板に
打ち記して貰おう、そうすれば一層良い結果になるかも、、副長殿にそうお願いしよう、。
なんという試練をお与えなさったのか、おー主なる神よ!と、昨日昨夜は、誠心誠意祈りをさ
さげたテラの甲斐あって、事が自分の思案したよりもうまくいったように思われた。かの副長
も、粘土板に口上を押し刻む事はとても良いといって、その便宜を計ってくれた。そうして、
副長の案内で、神官書記官舎の部屋にゆき、数人の任官の前で、口上陳述と共にその粘土板を
据え渡した。2、3の質問会話をなして、副長と共にその部屋官舎を出た。有り難い事に副長
も弁護の言葉を申し添えてくれた。“わたしがかって、王家の御用達、商いを仕っていた頃、
いつもこのお人は上質の羊の毛を提供してくれており、今はまた、上質の品を納めてくれてい
る。私は良き領民であろうと、見ておりまするが、、、”と、。
門衛に近い庭の休憩場のような所で待つ事1時間弱、下役らがやって来て、解放されたからと
伝えた。引取りのためについて来いと言うので、2人の従僕を連れて獄舎のような建物に隣接
した隔離部屋に行った。だが、ハランの様子は、それまで事がうまく運び、安堵する思いを打
ちのめし一変したものとなった。
ハランは、この十日と数日の留置の間に、<伝え>を語るならば、その前に大いに食事を良く
して精をつけさせようと、言って、無言のまま何ら答えずの彼に拷問めいたムチを加えた事も
あり、すでに相当体が衰弱し切っていた。しかし、それだけならばまだ回復する、助かる見込
みが大いにあったであろうが、父テラが連れ出す折には、熱病に冒されており、意識は朦朧、
まさに瀕死の状態であった。2人の従者にかつぎ出され、ロバの背に乗せられて帰途に着いた
が、三日の介抱も空しく、命を落すものとなった。
[注]:聖書記事、創世記11:26 節以降では、後にそうなったとした部分も含めたテラ家族の
系図と、テラとその一部家族(アブラム、サライ、ロト)がウルの地を離れる旅立ちの
記事が見られる。
上記の物語では、ハランの死去後、2、3年過ぎ前後には、メソポタミア北部へと新た
な居住地を求めて移って行ったと見る。これはもうテラが、ハランの死んだ事がひどく
耐えがたく、その居住地を離れるほかには、心病むほどにハランの死を忘れる事が出来
なかったからである。アブラムも、弟ハランが自分の身代わりに死んだも同然だと感じ
て、それがむしろ、心のトラウマ、また非常な教訓ともなり、<聖なる伝え>の事に関
しては以後、一切口にする事なく、黙秘する事になる。その内容を守秘する義務は自ら
自覚し、心得たものであったが、、。
それから数十年後(ほぼ70年後位)カナンの地でアブラハム、記憶の胸の内深くしまい
込んでいた<聖なる伝え>は、愛するひとり子、わが子なる、わらべイサク(10才前後
未満)燔祭のたきぎを背負わせ、かのモリヤの山地(後世のエルサレム、シオンの丘)での聖な
る事蹟の経験によりて、(創:22章)その後、強力に記憶が再浮上して、秘伝への密か
なる実践行動に邁進するものとなる。彼自らの聖事蹟=主なる神との啓示コミニケを含
めての人生の総決算として。この生存事象は、記された現旧約聖書の原本には全く表面
化、反映されず。
ウルの居住地での居残り組みは、もう一人の息子、アブラムの弟ナホルであった。それ
に死んだハランの娘ら、ミルカ、イスカ、そして彼女等の母親であったと見られる。
ナホルは、父からその居住地を受け継いで、そのところを確保し、ウル王国への義理立
てをし、及び領民義務を果たすことで、父テラらの旅立ち認可の正当、合法性を手助け
した。
(ウルからの旅立ちを歴史的に年代付ける事は大変難しく定かには出来ない。が、仮に
アブラムの年令が40才頃の時であったとするならば、推定できる可能性が出てくる。
これは、あとの方の項目個所、<ウル第3王朝>の項で記しているから、ここでは省く
が、アブラムらの誕生年代は、ウル第3王朝2代目シュルギ王の時世〔2094-2048年BC〕
後半末期と見られる。さらに彼が40才頃に達する時期には、その第3王朝5代目で、
しかも最後の王となるイッビ・シンの時代〔2028-2004年BC〕ともなる。
彼らのような啓示的所要次元の聖家族は、歴史的な遍歴の興味深さを深々とさせる訳で
あるが、父テラとそれ以前の2、3の先祖らの原郷が北部メソポタミアにあったとして、
しかも、その地でアブラ(ハ)ムが誕生したと見るならば、その数年後(5年以内)には、
南方のウルの地に移住したと推定されうる。ハランがそのウルで生まれているから、。
その後数十年経ち、ハランの事件後、数年以内で、テラとアブラムは、原郷の地を経由
して、いまだ穏やかそうなカナンの地を望んでウルを後にしたと見られる。しかし、原
郷(旧カラン)に留まり、その旧カランに隣接するように、両河チグリス、ユフラテの間の広大
な平原を前にして、新ハランの居住地を開拓し、それがやがて旧カランに取って代わる
町村へと発展していったものと見られる。
そして、やがて、アブラムが、カナンへと旅たつ頃(創12章)、その前後か、それとも
ずっと前かにウルの地に見切りを付けて、弟ナホルが、父テラの原郷に移り住むべく、
その新ハランにやって来るものとなる。おそらく、ウル王朝帝国が、エラムの国びとら
に滅ぼされ、その後、必死に耐えながらエラム支配の良好を望みつつ、何年かは定かで
はないが、踏ん張り頑張ったけれども、結果は以前のウル時代のように、その生活、生
存状況は、トラブルがあり過ぎ、その抑圧等で、うまくは行かず、結局、“さらば、ウル
の地よ!” となったようである。
〔*〕ヨセフスの『ユダヤ古代誌』第Ⅰ巻で、ハランの墓の事に言及し、“今でも彼の
墓が残っている”と意外な情報を伝えている。ヨセフス在世時まで、すでに2千
年が経っているという訳だが、、良い墓が造られ、守られたという事か、、?)
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この物語の真義のほどはさて置き、テラ一族と、ウル王朝側神官連中とのやり取り、提供され
た情報など、それの影響ありとして、仮説想定ではあるが、推論すると、大洪水以前と以後の
<王権期間、乃至、王の生涯、または在位年数>が、当時のすべての残存、既存記録をはるか
に凌駕するよう卓抜性を有したものとして、そうあるべく意図的に表記したものとみられる。
彼ら神官書記グループの審議、査定、再編検討する項目には色々あったであろうが、<王権継
承の歴譜>を最高度に高揚し、シュルギ王時代の隆盛以後、ずっと続いていた低迷期の時代か
ら何としても抜け出さんと、その文化的な試みを大いに良くし、期待を込めたと見られる。
その審議の問題点の2、3の内には、いかに統一的(ウルの帝国的な全領域を念頭に)なもの
となし、且つ、過去から現在に至るまでの一貫性を考慮しての、史的な巧みさをもって、如何
に現ウル王朝帝国の、さらなる正当性を高揚確保するかに着目した点や、それらに関連して、
ラガシュのような都市、国を加えるべきか、否かの是非、その妥当性、可能性の良し悪しが、
さらに検討されたり、また、エラムのような仮想な敵外国への対応、現在のエラムが、とてつ
もなく勝れた過去情報を所持していると仮定した処から来る問題点への配慮(事前、初期のも
のとして、遠い昔のスワン王朝を導入、列記する事で、編纂新歴譜の格を上げるような対処)
等々、シュメールの伝統再構築への意気込みは懸命さに尽き、余念なき処のものとなった。
2){初期王朝時代第II期=〔前4千年期前半~前3千年期前半〕}
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この初期第II期区分での王朝のうち、最初のキシュ第1王朝と次のウルク第1王朝に関して、その記述
内容からの問題所見として、的確に明示しておくべき点が幾つか出てくると見られる。
<・キシュ第1王朝>:23人の王名が挙げられている。
*先史あるいは歴史的年代としては、前5千年期から4千年期頃の
間と推定される。
しかし、実際の史実的歴史性を考慮すると、伝承伝説の記作上
での年代人物が、その名前でもって歴史的に実在していたもの
と定見されると、この年代は、前2800年頃以降(BC
28世紀中)と推察されてくる。つまり、それに該当する人物
の名を挙げると、
22代目エンメバラゲシと、彼の子で23代目最後の王アッガ
である。(のちの創作叙事詩<ギルガメシュ>における作中の
人物、人物名として、その関連が見られる。)
*洪水後の最初の王権として、600=ner を重き念頭にして、
60=soss(60進法)をも考慮しての表記であろう。
太陰暦での1ヶ月=30日で割ると、歴史的リアルティーが現
れてくるといった感じとなる。(割れない者も二人いるが、)
ジュシュル (在位1200年間) 40年(楔形文字名:GIS.URギスウル、シュメル語名:Gusurグゥスゥル)
クルラスシナ・ベル(在位960年間) 32年(実際には中心権力者不在を表示している名前文。)
ナンギシュリシュマ(在位670年間) 22.33...30で割れないのがあるのがミソとも。
エンタラーアナ (在位420年間) 14(王名が生き物の名での表記。東セム語でアッカド語に通ず。)
バブム (在位300年間) 10( 同じく、、、)
プアヌム (在位840年間) 28( 同じく、、、)
カリブム (在位960年間) 32( 同じく、、、)
ガルムム (在位840年間) 28( 同じく、、、)
ズカキプ (在位900年間) 30( 同じく、、、)
アタブ (在位600年間) 20( 同じく、、、)
マシュダ (在位840年間) 28( 同じく、、、)
*“アタブの子”と初めて表示される。
アルリム (在位720年間) 24( 同じく、、、)
*“マシュダの子”表示あり。
エタナ (在位1500年間) 50 「牧人、天に昇った者、国土を固めた者」
*血筋が別系となったかも、、、、
バリフ (在位400年間) 13.33...割れないのがあるのがミソ
*“エタナの子”表示あり。
エンメヌナ (在位660年間) 22 <子の表示>なし。
メラム・キシュ (在位900年間) 30 “エンメヌナの子”表示あり。
バルサルヌナ (在位1200年間) 40 “エンメヌナの子”ありで、前任と兄弟とも、、
ザムグ (在位140年間) 14....これは14年が真で、10倍したもの。
“バルサヌナの子”表示あり。
ティズカル (在位305年間) 10.16...割り切れないもの、入れるのがミソ
“ザムグの子”表示あり。
イルクウ (在位900年間) 30 <子>表示なし、年数のみ。
イルタサドゥム (在位1200年間) 40 <子>表示なし、年数のみ。
*エンメバラゲシ (在位900年間) 30 King List テキストでは、“エラムの地を平定服従
させた王として、その在位年数”と共に記している。
*考古学検証の実際からは、紀元前2700年頃以降まで
には在位した人物と位置付けられ、
近年における考古学上の発見研究からは、王名表の中で
歴史的に実在視され得る最古の年代人物と目される。
しかし、碑文、伝書の記述内容そのものに係わる関連性
からは、年代はBC2700年~2600年頃に想定、当ては
まる人物となり得ると見られている。
(<ギルガメシュ叙事詩>の編纂成立時におけるその内
容において彼の名が登場し、物語中のウルクのギルガメ
シュ王と同時代的になるように関係付けられている)
*また、のちのウル第3王朝の第2代目王シュルギ(BC
2095頃-BC2048頃在位)の讃歌(粘土板)の一つでも
ウルク王ギルガメシュが、エンメバラゲシの頭を踏みつ
けた、との内容があり、ウルクとウルとが姻戚密なる事
(ウルが本来的にウルクの王朝に由来するを強調)と、
それに反し、キシュ王朝とはいつしか対立、対抗関係に
なった事を示している。
アッガ (在位625年間) 20.83..割り切れない年数を入れるのがミソ。
*”エンメババラゲシの子”表示あり。
彼もまた、ギルガメシュ叙事詩の物語中にエンメバラゲ
シと一緒に、その息子として登場する訳で、ウルク・ギ
ルガメシュ王と同時代的人物と思わせるように想定され
ているとも。
*王名表テキストの作成は、後のアッカド時代と、ウル第3王朝時代に大幅に書き換え、更新されたと
見られる。エンメバラゲシ以前の遥かに遡る時代スパンのうちに数多くの王名を書き足すことで、、。
<・ウルク第1王朝>:12人の王名が挙げられている。
*歴史的年代としては、農耕村落から都市化が始まりだすのはBC
4千年頃からであるが、王朝の成立からその存続の期間としては
前4千年期前半から3千年期後半頃までの間と推定される。
だが、考古学的に算定された歴史年代オーダー認定からは、BC
28世紀(3千年期の初期=初期青銅期の第Ⅱ期3000-2700年内)
頃をその上限としている。
(古代〔中〕近東に限定された青銅期時代が明確な時代区分に割
り振られて樹立され、そのタイムラインにおいて期を一にするも
のとされるからである。)
*この王朝のリスト年は、6と30、2で割るとリアルとなる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
メスキアンガシェル (在位324年間)6で、54年 “Utu の子”表示あり。このウトゥの名を人名と
別に5年間だけ するか、後の神話伝書での太陽神の名とするか、
の表記もある。 不明解なところである。
一般説では、太陽神ウトゥ(Utu)の息子説をとると
するもの。、、、
*ウルクの町が創建される前に、その周域内にエアナ
という神域(聖域)があり、その主長であり、王と
なったとの表示、、アナの神域としての“エ”とは、
のちに<大きな家、神殿>へと意味づけ同化される
との進展があると見られている。
また、<天の家>王権拝受を基礎付けているとも。
もし、歴史的人物と想定されるとすれば、BC28
世紀中に栄在したであろうとの年代付けが、シュメ
ール史の現代的歴史解釈においてなされている。
*エンメルカル (在位420年間) 6で、70 シュメル王名表では、ウルクの初代王メスキアンガ
シェルの息子とされ、
<ギルガメシュ叙事詩>など、他の伝説では太陽神
ウトゥ(Utu)の息子として記されている。
ウルクの町を創建し、そこの王となった記す。
*創世記10章8節のニムロドに比定する説を出して
いる学者もいる。
ヘブル語で“シユナルの地”と表示されたシュメルに
幾つかの町を建てたのが、ニムロドの最初の国とさ
れている。その中のウルクが、ヘブル語ではエレク
に相当する訳である。
(エレクはメレクと同義で、王、君主を意味する。
したがって、この王の名:エンメルカルは、エンと
メレクの合成=エンメレクから派生変化して、、、
エンメレク ⇒ エンメルク ⇒ エンメルカルの名前
を造名したと見られる。
シュメールの原語が東セム語系のアッカド語にスク
リプトされたものと照合し、アッシリア写本(粘土
板)を介して、それを復元しているようなものであ
るから、王名表での本来のシュメール語の音韻発音
の反映は極めて少ないと見られる。)
*エンメルカルをシュメール伝説神話においては、楔
形?<文字の発明者>とされる向きがあるが、その
神話伝承での記事内容からは、言葉を粘土板に文字
として押し刻み記した<最初の例>とする向きに記
伝されている。(すでにそれ以前から石板、石柱等
に楔型で刻み記すことがなされていた。
そこには粘土板を用いて文字を刻む、その方法発
生譚に対して、楔形文字への進展形成と使用方法過
程の発展史的背景がある。)
彼に関わる二つの主要な伝説が伝えられている。
・『エンメルカルとアラッタ市の領主』
・『エンメルカルとエン・スフギル・アナ』
これは、アラッタの領主との戦いを記したもので、
前3千年期の後半中葉頃には伝説記述化されて残存し
て行くものとなったと見られる。
*考古学上では、BC3400年頃~3200年頃まで
に、楔型模様によるピクトラルな文字表示の出現、そ
れによる言葉表記の発展、形成が培われ、より実用化
便宜性を得たものとなり、楔形をした尖筆でもって、
<音節表記>の文字書式の成立を一応になしたのが、
いわゆるシュメール楔形文字形式の最初であった。
この楔型文字形がのちに古代オリエントの多くの諸種
族言語に利用されるようになった。アッカド、バビロ
ニア、エラム、アッシリア、ヒッタイト・アナトリア
諸語、ウガリット・西方セム諸語などである。
(発掘によって確認された最古の粘土板文書は、ウル
ク遺跡第4層から出土し、紀元前3300年頃のもの
とされている。)
*他の粘土写本では、上記2代の王朝として、その合計
在位年数<745年>を加えている。
ルガルバンダ (在位1200年間) 30で、40 牧人。シュメールの伝説伝承では、エンメルカルを父
として、父王を継いで、第3代目の王とされている。
しかし、王名表自体には<子>の表示はない。
*この王を主人公とする『ルガルバンダ叙事詩』がある
が、彼の父とされるエンメルカル王にまつわる諸伝説
から、その説話譚的諸要素が創作され、前3千年期末
には一連に続く一つのかたちに纏め編纂され、粘土板
により伝えられるものとなったと見られる。
この『ルガルバンダ叙事詩』では、父王エンメルカル
をシュメールの太陽神ウトゥ/(シャマシュ)の息子
として描いている。
ドゥムジ (在位100年間) 2で、50 キシュ王エンメバラゲシを片腕で?、捕虜にしたと、
表示されている。
彼の元々の所有町が<クアラ>であったとする記述も
見られる。
*漁師。この王は、創作神話的に導入された架空の人物
かもしれない。
彼にはウルクの守護女神イナンナ(イシュタル)の配
偶神ドゥムジであるという存在付けを設けることで、
ウルクの天からの<神授王権>を、先のキシュ王朝の
ものからの引き継ぎとして、それを正当化するという
目論みが隠されている。
*同じ名で挙げられた人物が洪水前、〔初期王朝Ⅰ〕の
5番目に載せられている。これについて注目すべきは
<叙事詩的な伝書=(神話説話)>の粘土板が出土し
ており、その古代当初の段階で、その同名関係をほの
めかして、交錯的な関連付けが及ぶように意図創作さ
れていると感じられる点である。
しかも、<ギルガメシュ叙事詩>の中でギルガメシュ
本人の心中を語る記述で、イナンナ(イシュタル)神
とドゥムジとの関係に、ある関連付けが見い出される
といった、裏付け役割の向きもあるとの推定もされ得
るという点である。
*ギルガメシュ (在位126年間) 2で、63 実在視される歴史的人物と同一とされるならば、彼は
BC2600年前後頃の在世と年代付けられる。
シュメル王名表では、リラ(風魔、後の死霊リルー)
の息子とされ、王となる前は、クラブ(クラバ=ウル
クの神域聖地)のエン祭司とされる。
同名による、『ギルガメシュ叙事詩』が編纂されてい
るが、それには、ルガルバンダが彼の父、兼守護神と
して登場している。王名リストとは異なる。
これは、前3千年期の末までにはクレータブレットに
記され、伝わるものとなったと見られる。
オリジナル原本は、全く残存していないが、後世の新
アッシリアからのアッカド語翻訳写本の粘土版が出土
している。(ニネベ・アッシュールバニパルの図書館
遺蹟発掘からの出土もの。)
ウル・ヌンガル (在位30年間) これ以下は、そのままでOKのリアル年数となる。
彼には、“ギルガメシュの子”表示あり。
トゥンマル文書等の異本ではウル・ルガル、
*王子時代にウルを治め、発展させたと思われる。
そして彼の息子らの一人にウル第一王朝の初王メス・
アン・ネパダがいたと見られる。
彼は、ウルクと統一王権を巡って張り合い、ウルクを
屈服させたと見られる。
ウドゥル・カランマ(在位15年間) “ウル・ヌンガルの子”表示あり。
ラバシュム (在位 9年間) <子>の表示なし。
エンヌンダランナ (在位 8年間) <子>の表示なし。
メスヘデ (在位36年間) <子>の表示なし。
*彼には<金属細工人>であるとの表示がある。
これに依り、金属細工の発生譚とするものか、、、
メラムアンナ (在位 6年間) <子>の表示なし。
*ウルに完全屈服、服属する。
ルガル・キドゥル (在位36年間) <子>の表示なし。
(ルガル・キツン)
*彼の在位の前半期から後半にかけてウルクの主権を回
復伸張させたが、ウルの王メスアンネパダに対して覇
権をかけて競った。が、しかし彼は結局討ち倒され、
ウルク第1王朝を没落させる。
ウルク市は、ウルに従属する都市として続く。ウルに
属する傀儡太守が政務を執ったか、本来の血筋系の名
目的従属王朝として細々と命脈を保ったかは、未だ定
かでない。
<・ウル第1王朝>:4人の王の名が挙がっているが、1人の王名が洩れたとも、、、
王朝期間:Approx.BC26世紀~25世紀
メシュ・アネ・パダ (在位80年間) *ウルクのウル・ヌンガルの子とされ、のちにウルクと
(別称メスアンネパダ) 覇権を争い、ウルクの最後の王ルガル・キツンを破り、
シュメールの統一王権を手に入れたとしている。
また、キシュ王をも名乗ったとされ、それを主張する
だけの立場があったと見られる。
しかし、フランスの考古学者(アンドレ・パロット)のマリ
遺跡からの発見により別の見方もある。それには彼の
父を、出土資料で“メスカラムドゥ=Meskalamdug”
とした、ビーズによる象嵌?碑文が見られ、この刻銘
からの説とされる。
*この王には継承者の子以外に、別の息子ア・アンネ・パダが
いた事が考古出土のタブレット資料のテキストから知られ
ている。王名表には名前が出ていないが、、、
その碑文には、彼の父が財を投じて建てたラガシュの
神殿の一つ、E-babbar を取り壊したとされ、それ
は、彼の子孫が絶たれた故の行為だとして、ことわざ、
教訓的な表現として、長く残ったと見なされている。
(このことわざ、暗訓詞には未決の論点がある。後の
バビロニア写本で、その父の名メシュ・アネ・パダとなってい
るが、元となる古いシュメール資料のものでは別名で
のメシリムとあり、しかもキシュの王であるとの考古学
的な裏付けもあり、同一人なのか、異なる人物か、など
議論の余地が残されている。同一人としてずっと長く
認知されてきたといった証拠が出てこない限り、、)
メシュ・キ・
アング・ヌナ(在位36年間) “メシュ・アネ・パダの子”との表示あり。
エルル (在位25年間) <子>の表示なし。
バルル (在位36年間) <子>の表示なし。
以上までを、王名リストにおける<初期王朝時代第II期>として、暫定的に区分別けしている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上記以後の王名リストの内容は、次に3){初期王朝時代第III期〔BC2500-2330年〕}として、その
歴史的年代を考照し、その区分を定め理解するとしている。(アワン王朝以下、最終のイシン第1王朝まで)
しかし、王名リストにおける記述順は、実際的な歴史の時代順列を示す得るものではなく、史実的には不
明瞭で、定かには出来ない。
なお、シュメール王名表には、都市国家ラガシュの第1&2王朝(BC2500-2271年頃)に関わる王名は
記されてはいないが、度々覇権的、対外的攻防を巡ってその王国と深く係わり合いをなしたと見られる。
考古学証左やその史料によれば、サルゴン・アッカド王朝に対抗できずその従属都市に堕ちたが、アッカ
ドの没落後、再び第2王朝としてシュメールへの覇権を回復、伸張するに至る。そのグデア王の治世時代
と、その後が継続して軍事的、経済文化的に、また都市の拡大規模も最大全盛の時となったと見られる。
(BC2075-2030年short chronology)
ラガシュは、ウルク第1王朝時代と同時代ということだが、その第1王朝初期ラガシュ王ウル・ナンシェ
〔BC2500年頃〕別名ウル・ニナが、同時代のウルクの王ウル・ヌンガルの分系の子としてラガシュを継承
したらしき由縁があり、また、ラガシュの第1王朝没落〔ウンマのルガルザゲシとアッカド・サルゴン時〕後の長
い時代を経た後、その系統からウルの第3王朝を起こしたウル・ナンム王へと、その血筋を系するもので
はないかと推察されうる。(処がウル・ニナには父親か父祖系の名前での碑文の出土があり、全く相反し
ている。ラガシュコロニー〔村落〕から立ち上がってきた土着の先住民らは、本来的にウルク系種族とは
異なるものであったから、独立自治の都市となった折には、ウル・ニナの出自を自分等の有力な先人、或
いは父祖に位置付けたと見られる。ラガシュ第2王朝のグデアは、出自不明の婿として王家入りし、名を
馳せた王となっているが、これもグティ時代が到来しない以前のグティ人系出であったかも知れない。)
ラガシュがその都市化への時代から、そのようなウルク、ウルとの深い関わりにある事が、その時代当初
から知られ、且つ、むしろその初期にはウルク、ウルを擁護する前衛的な都市に過ぎなかったとして王権
継承に関わる<シュメール王名表>に加記される根拠なく、記されなかった所以と推察出来なくはない。
実際に覇権をもって全シュメールを征する過度な動きもなく、シュメール王権を主張、宣言するような事
もなかったと言えば、ラガシュに係わる考古学発掘上の幾多の史料内容に全く反するものともなろうが、
しかし、これには読み解き明らかに証左し得ない歴史的真相がその当時の現実としてあったと見るべきが
正解であろうと断定されうる。
その真相とは、第2王朝ウルクの創始王エンシャ・クシュ・アンナとラガシュ第1王朝のエアンナトゥム
(ウル・ナンシェの孫)との、その同時代における彼らの勢力動静に係わる関係におけるものである。
この時、ウルクの王エンシャは、先の王権継承国ハマジ市国を征圧し、キシュ、ニップル、アカデ、その
ほか全シュメールの諸都市を平定したとして、そのシュメール王権、第一位の統治支配権を主張宣言した
とされている。また、王名表では彼の治世は、60年であったとも記されている。
ところが、これに対してラガシュの王エアンナトゥムも、同様に全シュメールの覇権、統治指導権を宣言
する立場を得て、これを主張しているということである。このラガシュ王の事は、ラガシュに係わる諸遺
跡の大々的、且つ長年に亘る幾度もの発掘と、その史料研究により確かなものとなったとの見識を得てお
り、当時代的史実性の面では<王名表>に係わる諸史料ドキュメントよりも、遥かにまさり、重みがある
といったものである。
そのラガシュ側の史料は、エアンナトゥム王の死直後に、彼を讃え、記念回顧して立てたとされるステラ
碑(Stele of the Vultures〔禿げ鷲の〕=戦勝記念墓碑かも知れない)を含め誇張があるかも知れ
ないが、ウルクの王エンシャ・クシュ・アンナの治世末期に、彼に代わりエアンナトゥムが全シュメールの
統治権を継承したものと推定される。
この継承主張の統治権は、エアンナトゥムが宿敵ウンマを打ち破り、支配下に治めた直後であったと見ら
れる。(BC2460-50年頃)これは、かってエアンナトゥムが若い頃、ウルク王エンシャ・クシュに協力
し、その共闘前線(対ウンマ、エラム)に対処したことで、ウルク王がハマジ王国への遠征打倒をなし、
全シュメールをハマジ支配から解放し、自らの傘下にする事ができたと、、、かってのその防衛偉勲に根
ざしたものであったと見られる。
それでエアンナトゥムの治世の終りまで、ウルクだけでなく、キシュにもその支配を及ぼすものとなった
と推定される。その後、彼の王朝の後継は、のちの作成となるラガシュ独自の王名リストによると、6代
続いたもようである。これは、ラガシュ第1王朝として、歴史名付けられている。
(後継王時代にシュメール諸都市はそのラガシュから自治独立したが、新興のアダブの覇権に晒されるも
のとなった。)
もし、エアンナトゥムが、自力単独で、シュメールの諸市国すべてを武力征圧していたならば、かの戦勝
記念碑<禿げ鷲のステラ>に優るとも劣らぬ勝利の記念碑を建てていたに違いない。しかし、そのような
大いに意義ある記念碑は発見、発掘されてはいない。(王家には格式的に不釣合いな小さい丸石碑文など
が発掘され、彼の成せる事蹟らしく刻み記されてはいるが、、、。)
ラガシュ第1王朝を征圧したのはウルク第3王朝を起こしたルガル・ザゲシであった。が、彼の出自は、
元々ウンマであり、かっての敗北からの復興と共に、過去から長い間宿敵だったラガシュを見立てての対
決であり、ウンマの首長たる彼の率いる主力のウンマ勢が打ち破るものとなる。それ故、ルガル・ザゲシ
のウルク第3王朝は、当時キシュ第4王朝が継承していたシュメールの伝統王権を簒奪しての、ウルクの
それであったから、まさに非正統の外来者継承であったと言える。
このことは、当時代の外部地域の者たちからもそう見えたものであったから、それでルガル・ザゲシは、
すぐに、キシュと親密な共存関係にあったアッカド(アカデ)のサルゴンに報復征圧され、その王権を奪
われる運命ともなった。
次の以下に順に列記するものは、同時代的併存、諸都市国家間での従属服属、兄弟血縁属国、あるいは、
主従的並立王朝などの動静傾向をも念頭考慮に入れて見るべきものとなろう。
3){初期王朝時代第III期〔前3千年期後半:BC2500-2330年頃〕}
---------------------------------
⇒[アワン王朝・3代の王あり]:その王名は挙げられず。
王朝期間:Approx.前26世紀中後半での一時期。
(実際には前26世紀前半よりも以前と推定できる。)
この王朝の首都アワンは、エラム・スサの北方、スサの地域と隣接地域とみられるが、その
位置、遺跡は定かでない。エラム種族連合地の最も初期の勢力的な居住拠点の一つであり、
スサより先にメソポタミア・シュメル地方に向けて支配権を現したと見られる。
元々エラム諸族の交易の町として栄え、シュメールの幾多の都市との間で商いがなされた。
スサから出土したロイヤルリストによれば、アワン王朝には12人の王の名が認められ、そ
のうちの3名という人数表示だけがシュメール王名表に記されている。
*王名リストは、3人の王で、356年間と表示しているが、これは信受するに値しないと見
られよう。この年数には、3人の王の在位数を後端に含むもので、それから遡って356年
前を、アワン自体が、その都市化王朝を始めたその初元年とおおよそに当て見立てて記した
ものと見られる。
(王名リストの記されないのは、王名リストの主流でない外側王朝の故か、それとも名前情
報がその当初時に入得されていなかった、情報不足のせいであろう。)
⇒[キシュ第2王朝・8人の王あり]:
王朝期間:Approx.前26世紀
・王名順位:ススダ→ ダダシグ→ ママガルラ→ 子・カルブム→トゥゲ→ 子・メンヌンナ→
(名前不明の者、エンビ・イシュタルとも)→ルガルング
*ススダには、絨毯に似た、製作法の全く異なる<敷物工人>の表示が、またママガルには、
<舟使い人>の表示があり、それらの専門職の発生譚を示すものか???。
⇒[ハマジ王朝・1代王のみ記載]:王名・ハダニシュ
王朝期間:Approx.前25世紀初頭時代
*シュメール王名リストでは、そのハマジ王ハダニシュの治世年数を360年と記したものと
なっているが、これは、ハマジの都市が国をなした頃からのおよその経過年数を読んだもの
で、その王自体の年数は、そのうちの知られざる数十年と推定されるものであろう。
*ハマジの場所は不明、およその想定としては、チグリス川寄りのエラムとアッシリアの間、
ザグロス山脈の西側で、現ハマダン近くを源流としたチグリスの支流ディヤラ川中流域から
チグリスへの下流域に向けたその間の何処かであったとされている。
(ハマジもアワンと同様エラム、セム系種族によるものかどうかはっきりとは知られない。
もしかしてツバル族かも、かってのノアの子らのヤペテからでた5番めの息子トバルの一傍
流系が、以外にもチグリス川東側ザグロス山系に寄ったものかも知れない。創世記10:2節)
王名リストではウルクのエン・シャ・クシュ・アナにより征圧され、その王朝の没落が知ら
れうる。この時<シュメール王名表>がその記録伝承での要とする系統指標の<伝来王権>
は、ウルク第2王朝に襲奪トランスファーされる。
*その後もこのハマジは存続するが、前2340年以降、シリア北部の地域を拠点としたエブ
ラ王国が大国となり、その関連歴史に登場することになる。
そのエラブ王イルカブ・ダムー(Irkab-Damu )が、シュメールの一市国ハマジに外交的政策を
行なっている。それは、王が交易使者に送り持たせた粘土板レターの控えの写し粘土板が出土
した事でその内容が知られている。
その外交取引がおそらく双方それぞれの利意に叶い、首尾よくいったとの、、、その結果は
まったく判明してないが、その文言内容は、ハマジ市国が大量の木材(レバノン杉?)を入手、
その交換として、エブラからの要請に答えて<傭兵>となる人員支援を手配するというもの
であった。
エブラの粘土板は、1964年以来のエブラ遺跡発掘により、王国書庫の粘土板が大量に発
見され、シュメールとの歴史的関わりの情報もいくらか得られたようである。
およそ2万にもなる大量の<楔形文字の粘土板文書>の出土であり、<エブラタブレット>
として有名、注目されている。前2300年代中葉過ぎ以降に年代付けられたものがほとん
どで、シュメール語とエブラ語の両方で記され、楔形文字が使用されている。その頃はすで
に楔形文字が中近東世界では共通の文字様式となりつつあり、シリヤ北部だけでなく、南部
方面(ダマスコ)まで広まり伝わったと見られる。
(そのエブラ王国は、前2400年頃からおよそ100年にわたってメソポタミヤ中北部のマリ王
国と覇権を競い合い、戦イクサ対抗しているが、<シュメール王名表>に出てくるマリ王朝は、
そうしたエブラ王国と張り合ったマリ王国には比定されないものである。それ以前の時代に
溯る初期の王たちの王朝であると推定され、これについては現在のところ考古学上からの歴
史的証左は何一つ得られていない。)
*文学的所産資料では、ウルク第1王朝のエンメルカルの二つの伝説叙事詩<『エンメルカル
とアラッタ市の領主』と『エンメルカルとエン・スフギル・アナ』>にその市名が見い出さ
れ、アラッタとは何らかの、その領主と主従関係に近い交易自治の町であったと見られる。
その創作伝説では、その時エンメルカルに、そのアラッタへの遠征途上で、征圧された所と
して記述されている。(アラッタに関係した町)
*さらに後のウル第3王朝時代には、ウルの支配する一州都となっており、その後のウルの没
落時、前2010年頃には、イシン王朝創立のイシビ・エラにより、ハマジとその州域は、
占領、掠奪されている。
⇒[ウルク第2王朝・3代の王あり]:
王朝期間:Approx.前26世紀末~前25世紀
・王名順位:エンシャクシュアンナ(エン・シャクアンシャ・アナ)→ルガル・ウレ(ルガル・キニシェ・ドゥドゥ)
→アルガンデア
1代目エン・シャ・クシュ・アナは、ハマジ、ラガシュ、キシュ、アカド、ニップルなど多
くを征服平定し、全シュメール支配への王権を主張、個別都市国家の枠領分を越えて初めて
「シュメールの主人にして全国土の王」の称号を使う。この称号は、のちにシュメールの地
だけでなく、より広範なメソポタミア全域への王権を表明する称号へと進展してゆく。
*エンシャクシュ王の在位年数が王名リストでは60年となっている。これは、シュメールを
ほぼ全域的に平定する以前に、その王朝を創建し、その在位をなした時から数えての年数で
あるとみられる。
彼は、ラガシュの若王エアンナトゥムとの共闘同盟を取り付け、ハマジ王国を打倒し、シュ
メール全域を支配下にまとめたと見られる。
⇒[ウル第2王朝・3代の王あり]:一人王名の不明がある。
王朝期間:Approx.前26世紀末~前25世紀末
・王名順位:ナンニ(ナニ 又は ナンイとも)→ 子・メスキアンナンナ→(王名不明)
1代目ナンニの治世の後半期に彼は、ウルクから王権を移譲させるものとなる。
しかし、彼の死の前後、アダブからの進撃をうけ、王権を奪われる。そしてその王朝
は、アダブへの従属下のうちに継続したが、その後の存続経過状況は定かでない。
*ナンニの在位年数が王名リストでは、120年となっているが、これはウル第1王朝
との間の知られざる空白期間を埋めるような年数をも加味して定めたものと見られる。
⇒[アダブ王朝・1代の王のみ]:王名・ルガルアンネムンドゥ
王朝期間:Approx.前25世紀中
*都市国家として新興してきたアダブは、1代かぎりではあったが、その王ルガルアン
ネムンドゥを要して、覇権的王権のウル第2王朝を打ち負かして、さらにより一層広
域な王権国家として、その覇権的進展をなすものとなる。
この時、ウルは、かなりのダメージを受け、その後、再起復興するまでに長き時を要
したようである。(のちのウル第3王朝が起るに至るまでの過程において、、、)
*彼の帝国的進展は、その後続的維持が存欠、続かなかったが、ペルシャ湾沿い、ザグ
ロス山系、現イラン高原から地中海にいたる全メソポタミア領域内外を7つの州にし
て治めるという規模になった。考古学史料からの歴史的見方によりそう見られている
が、その7つのうちには半名目的にもエラム、マルハシ、グティウム、スバルトゥ等
のチグリス川東方側の諸国、諸族を含むものであったとしている。
が、しかし、この史料情報にも確かさの問題点が残されている。何故ならば、この王
(ルガルアンネムンドゥ)自身の記した<碑文>そのもののテキスト内容からではな
くて、それに言及したとされる、のちの第1バビロン王朝時代後半過ぎ(前17~16
世紀の間)に年代付けられた史料、その写本的言及の内容テキストの発見出所に基づ
いた近現代の一部の学者による歴史的見識であるからだ。
⇒[マリ王朝・6代の王あり]:
王朝期間:Approx.前26末 or 25世紀中
・王名順位:アンブ→ 子?・アンバ→ バジ→ ジジ→ リメラ→ シャルム・イテル
*在位年数は歴史的にリアルと見られ、30,17,30,20,30,9年で合計136年間となる。
*バジ王には、皮革職人、ジジ王には、絨毯に似た敷物職人にあてたとした表示あり、
物づくり発生譚の代替となる役割を示すものか、、、。
*マリは、新興の都市国家として台頭してきたという訳ではないが、本来のシュメール
地域圏の隣外に位置する立場として、シュメール側の玄関口となり、いわゆる西方の
諸王国(地中海、レバント方面)との国際的な交易中継都市の役割をなして、シュメ
ール諸都市とも馴染んできたものであった。東側からの多様な交易品もあり、交易都
市として潤っていたが、キシュ、ウルクの低迷に続き、ウルまでも没落破綻した状況
となり、そのあと、アダブに交易品の半分以上を独占され、マリの生命線を絶たれる
ような死活問題が急浮上してきた。
アダブがシュメール全域を押さえて、マリが蚊帳の外というアダブ王権体制では、マ
リの存続が危ぶまれること、目に見えて明らかであった。マリの有力者らは結束して
耐え、その時を窺っていたと見られる。
そんな状況で、機会到来と見て、すかさずキシュ、ウルクなど主要なシュメル都市に
なり代わって、アダブの討伐に乗り出していったわけである。西側の友好諸都市の支
援や傭兵、またシュメール圏内の賛助をも得る事で、新興都市覇権のアダブの失墜を
可能としたわけであった。
そして、シュメールの伝統王権を一時預かり奪うものとなったが、マリから出た最有
力者のアンブが一王朝創設に向けて進展を計り、その保持確保が6代に及ぶ王の時に
まで至ったというものであった。これは、シュメールがその当初までに諸都市間にお
いて、ラガシュを含め、しかも、エラムからの攻防もあり、その王権覇権争いで互い
に疲弊し切るによって、全域的に諸都市が低迷状態になり、その傾向が幾分とも長く
続いたという事を暗示するものと見られる。
(結局、キシュで、酒〔ワイン、ビールなど〕造りと居酒屋を営む女主人クバウが、その
富と指導力により立ち上がり、シュメール有力者を糾合してマリから王権を奪回する
ものとなる。この事情が大きな勢い契機となり〔キシュ第3王朝〕への進展となる。
この時、マリは包囲征圧されたが、実際には降伏し、破壊されるには至らなかったと
見られる。一部の写本では破壊され滅ぼされたように記しているが。)
⇒[キシュ第3王朝・1代王のみ]:王名・クバウ(クババとも表示される)
王朝期間:Approx.前2539年-2439年〔Short chrono.〕
〃 前2603年-2503年〔Middle chrono.〕
王名リストのうちで、ただ一人知られうる女性(クゥバウ〔クゥババ〕)で、ラガシュや
ウルクに従属支配されたキシュに独立をもたらし、没落した王朝の再新復興への礎石を
築いたとされている。その復興礎石の過程で、結果としてマリからの王権の奪還があっ
たとして、ウルク、ウル系統の<シュメール王名表>を綴る記述者らは、順じてそれを
書き記したと見られる。
(王名表を綴る主持者らは代々に亘り、ウルク、ウル系統の書祭官と見られ、その最初
期に<キシュ第1王朝>からの伝承を継承してのその始まりによって、キシュをも加味
した三者を主要軸に絡めた視点、立場からシュメールに関わる王権王名のテキストを書
き残したと見られる。)
ラガシュの王エン・アンナ・ツム1世、ウルクの王エン・シャ・クシュ・アナ、そして、
アクシャクの4代目プズル・ニラー(前2460-2440年S)と同時代人として登場する。
*クバウは、マリをその主導権をもって屈服させ、勢いシュメルの王(女王)に推され、
その位に就いたと見られる。がそれ以後、いうなれば<居酒屋サロン王朝>のような風
合いの下で、シュメール全域を督視指導し、各諸都市の自治権的な面を認め、宥和的に
支配し治めたと見られる。ただし、ラガシュだけは、元々自治権、独立を守って戦う都
市であったから、その支配下の類ではなかった。
*のちに彼女への崇拝熱は、伝説的に女神化されたものとなり、アナトリア(小アジア)
方面にまで、ヒッタイト王国ではメインな女神にまでされ、やがて西海岸のイオニア・
ギリシャ方面では、その神話の形成発展の時期と相まって、BC6世紀中頃には、ギリ
シャ・オリンポスの主神ゼウスの娘・キィベベ<Kybebe>の名へと、文学詩上面での
ヘレナイズ変容をなすまでに至った。
⇒[アクシャク王朝・6代の王あり]:
王朝期間:Approx.前2501年-2408年〔Short chrono.〕
〃 前2565年-2472年〔Middle chrono.〕
・王名順位:ウンジ→ ウンダルル→ ウルル→ プズル・ニラー→ イシュ・イル→子・
シュ・スェン
*5人の王とする写本(粘土板)もあり、3番目ウルルが不明として抜ける。
6人の王の在位順の年数を合計すると:30→ 6→ 6→ 20→ 24→ 7年 =93年となる。
*
⇒[キシュ第4王朝・8人の王名を記載]:
王朝期間:Approx.前2408年-2296年〔Short chronology〕
〃 前2472年-2360年〔Middle chrono.〕
・王名順位:プズル・シン→ 子・ウル・ザババ→ ジムダル→ 子・ウス・ワタル→
イシュタル・ムティ→イシュメ・シャマシュ→ シュ・イリシュ→
ナンニア
*1代目プズル・シンに前キシュ第3王朝の女王<クゥ・バウの子>との表示あり。
*8人の王名の内、その2代目ウル・ザババには他に古伝記録が見られ、それにはアッ
カドのサルゴンの在位以前の事が主に述べられている関係から、その古伝は、後世に
記された粘土板のものと見られる。
*8番目のナンニアには<宝石商人>の表示がなされ、これにより、宝石の交易商いの
初め譚を示そうとした意図があったともとれる、、、。
*この王朝での年代関係は、3代目のジムダルから以降の諸王の代は、ルガルザゲシの支配
下に入って存続してゆき、さらにアッカド・サルゴン治世下で同時代的に続いたと見られ
るものである。
⇒[ウルク第3王朝・1代王のみ]:王名・ルガルザゲシ 在位25年間
王朝期間:Approx.前2296年-2271年〔Short chrono.〕
〃 前2360年-2335年〔Middle chrono.〕
*ルガルザゲシの出自は、元々ウンマであり、過去長い間宿敵だったラガシュに
よる、かっての敗北からの復興と共に,彼がウンマでの実権を握った後、主力の
ウンマ勢により宿敵ラガシュ(第1王朝)を征圧する。その勢いに乗って今ま
でにない広範囲のメソポタミアを領する規模のシュメール支配権を樹立した。
が、しかしその後、治世末期となるべく、アカデのサルゴンによる報復征伐に
遭い、その領域の全てがサルゴン支配下のものとなり、シュメール王権も剥奪
されるものとなる。
*これより時代の流れがこのウルク王朝の没落と共に、それまでの伝統的なシュ
メールに対して、人種、文化、習俗的な面で異質度のあるアッカド王朝の時代
が到来する。
以上ここまでを<初期王朝時代第III期>として区分している。
4)<・アッカド王朝とそれ以降の王朝>:
-------------------
⇒[アッカド王朝・5代の王あり]:
王朝期間:Approx.前2270年-2083年〔Short chronology〕
〃 前2334年-2147年〔Middle chrono.〕
サルゴンによってメソポタミア中南部に領域的なアッカド帝国が成立し、
以下、彼の子ら、孫、その子と、順に4人の王が在位する。
・リムシュ(弟?)→(兄?)マニシュトゥシュ→(子)ナラム・シン→
(子)シャル・カリ・シャッリ
(在位年数:サルゴン56年、以下4人の王:⇒ 9年⇒ 15⇒ 37⇒ 25年)
*サルゴン:前2334~2279年頃の治世年間〔Middle chronology〕
前2270~2215年頃の治世年間〔Short chronology〕
キシュ王ウル・ザババに仕えた庭師ラーイブム(La'ibum)の息子として育てられ、
成長して庭師の仕事をするが、やがて王の酌人となる。さらに後のサルゴン伝説
説話ではキシュ王ウル・ザババを追放して、王位を簒奪したとされているが、複
数在る歴史的記録による両者の関係からは、それに矛盾する向きも出てくる。
彼は古くからの小さなアッカドの町辺を開発し、その新都市建設を完成させた。
そして、その新都で自らの王位を確立し王朝を開いた。しかし、南部メソポタミ
ア・シュメール諸都市を支配下にしていた有力第一のウルクの王ルガルザゲシと
対立、張り合うところとなる。サルゴンはその戦いで勝ち、彼を捕虜とし全シュ
メールを支配下にした。また後に、アワン王朝とエラムの諸王とが連合して彼に
抗する対決、進攻にも打ち勝った。
〔Middle.BC2334年頃、Short.BC2270年頃〕
彼の在位は、通常一般説では56年間とされている。
この王サルゴンは、バイブルの旧約聖書で記されている<バベルの塔>で知られ
るバベルを再建して、それがのちのバビロン市の起りとする、バビロニア年代記
などで知られている。(創世記11章9節でのバ’ベィル、これがアッカドの近郊に
位置していたので、のちのアッカド王朝終焉後以降、バビロン王朝の起こりと、
そのバビロン都市の拡大により、アッカド市が併合吸収されてなくなったと推定
されなくもない。)
*4代目ナラム・シン時代:前2254~2218年頃の治世年間〔Middle chronology〕
前2190~2154年頃の治世年間〔Short chronology〕
彼の下での帝国治世は、地中海東沿岸、アルメニア地域から南はペルシャ湾岸地方
の両岸先、東はザグロス山系の丘、高原及び盆地の居住地域に至るまで、その支
配圏を広げ、アッカドの最高潮の強さに達した。が、その強権なるが故、諸国、
諸種族の民らは反発の色を拭い切れず、叛逆、離反行動の可能性は避けられない
ものとなった。
*最後の王シャル・カリ・シャッリ治世代:
この王の代には帝国各地に異民族が侵入し、その対応に追われた。具体的に記録
に残っているのは、アムール人、フルリ人、そして、グティ人の侵出であった。
彼は、西方の都市バサル(現:ジェベル・ビシェリ)でアムール人と戦って勝利し、
また、グティ人の背反、その王シャルラグを破るなど、帝国の維持に努力したが、
特にグティ人一味のたび重なる侵入、略奪には手を焼いた。
更にシュメール諸都市でも反乱が発生し、彼の著しい努力も空しく、アッカド王
朝は、弱体化の一途を転げ辿るほかなかった。そしてこの王は、なんと粘土板で
撲殺されるという方法でもって暗殺され、広域メソポタミアの統一支配を試みて
きたアッカドの帝国王朝時代は、その終わりを告げた。
〔short chronology: BC2129年頃、middle chronology: BC2193年頃〕
*帝国王朝没落後:
シャル・カリ・シャッリ王の後は、グティ時代とも呼ばれる異民族によるメソポ
タミアの混迷混乱期の時となり、この没落衰退の王朝も、グティの勢力支配下に
置かれる。主権、自治の実権も無きに等しく、形骸的なものと化した朝政におい
て、4人の者が、3年もの間、並立、併存の在位とかの感じで、“誰が王で、誰
が王でないかさえ分らない”といったほどに無為、無権の時世にまでなったと、
<シュメール王名表のテキスト>自体が表示記している。
〔BC2128-2125年short chro. BC2192-2189年middle chronology〕
(在位の継承不確定、不明にて混乱したアッカド王家の4人の者の名前が<王名
表>では、Irgigi、Imi、Nanum、Ilulu と記されている。ある説では、その
4人目の<Ilulu >が、グティ人の首長の一人エルルメシュ〔Elulmesh〕と同
一人であるとした見方がなされている。
この人物がアッカド都市国家の実権云々に参入した事で、王朝王家が、今や形式
的に過ぎないとするも、長らくその王位の不成立、不詳状態に立ち至ったものと
見られる。)
その後2人の王(父・Duduとその息子・Shu-Durul)が多少の主権回復を計り、
21年と15年の在任でアッカド市の治世を取り戻したかに見えた。が、しかし
結局は、その市政テリトリーの実権も奪われ、グティ人に取って代わられ、市街
地は壊滅されたまま、2度と復興する事もなかった。
〔Sho.chro.BC2083年頃、Midd.chro.BC2147年頃〕
<シュメール王名表>では、この時、伝統王権は、アッカドからウルクに引き継
がれたものとして、ウルク第4王朝を連記した内容形式となっている。
(現在もアッカドの遺跡、その場所と同定されうる考古学上の決め手、決定的な
確証となる証拠遺物のものは出土していないとした状況である。)
*<アッカド、アッカデ、アガデ>といった同義の地名または都市名の名前の起源、
意味は知られていない。サルゴン時代の人々によりその名が起ったものでない。
サルゴン代より遥かに遡る以前より、その名が存続してきたものであった。
その起源は、旧約聖書成立への伝承(セム系族長伝承)では、ハムの長子クシュ
の子ニムロドが起こした町の名で、彼が名づけたとする。(創世記10章8-10節)
*サルゴンの登場する前には先住民が、すでにアッカデに村落コロニーをなして、
定着していたが、サルゴンがその近隣地域に近い<キシュ>からアカデ地方に居
住&活動拠点を移したという事は、それがサルゴン自身の現実的な要因によるも
のであろうが、そこには何か共通の同族、同人種的支持基盤となりうる背景があ
ったと見られる。
しかし、そのアッカデ地方の原住民がナニ人なのか、定かではない。サルゴンと
その王国の烈強的隆盛により、南方からだけでなく、メソポタミア全域および周
辺からもアッカド人と呼ばれるようになり、その通称が定着するものとなった。
話し言葉も南方シュメールと異なり、のちにアッカド語と称される東セム語系の
もので、崇拝文化すら言葉の上で異なり、既存のシュメールのものと相対しなが
らシンクレ発展してゆく。いわゆるシュメール神話とその崇拝様式が、アッカデ
のいまだ未成熟で、充実されるべき神々の名枠、およびパンテオン形成の内に吸
収され、併存、融合的にその発展成長を遂げるものとなる。
<主要な神々の名の併存&融合移行>:
シュメールの神名は、ハンムラビのバビロン第1王朝(前18世紀BC)以降には
忘れ去られる。
ナンム⇒ティアマト〔原初の海〕、アン⇒アヌ〔何故か共通一致での天空神〕、
キ(ニンフルサグ)⇒アントゥ〔地の神→(大地母神)〕、エンリル ⇒ ベール
〔大気神〕、エンキ⇒エア〔水の神〕、ナンナ⇒シン〔月の神〕、イナンナ⇒
イシュタル〔エロス、戦いの女神〕、ウトゥ⇒シャマシュ〔太陽の神〕、
ニンギルス⇒ニヌルタ〔大地、豊穣、戦闘の神〕
⇒[ウルク第4王朝・5人の王の在位]:
王朝期間:BC2091年頃~2061年頃までとの一般的推定説。
〔short chronologyにて〕
BC2155年頃~2125年頃〔middle chrono.〕
・王名順位:ウルニギン→ ウル・ギギル→ クダ→ プズル・イリ→ ウル・ウトゥ(または、
ルガル・メラム)
この王たちは順に、7年、6、6、5、25年とその在位年数を経たが、最後の
王以外は極めて短い。その合計年数は49年間である。独立維持は前半期から
後半に至る30年程となる。(在位年数が2番目ウル・ギギルからクグ、プ
ズルまで各6年ベースになっていると見れば、この三者は王権を共有とした
かたちでの共同治世をなしたと見られよう。〔7年+6年+25年=38年〕
対グティアンの危機的、シュメールの末期的混乱の時代となったから、、)
この王朝は<グティ時代と併行した時>を経ているが、グティ人支配下での
先のアッカド従属王朝が完全に滅びることで、シュメール王権がこのウルク
王朝に移されたとしている。(BC2080年代末、short chronology)
(シュメール時世のもっとも混乱した時代で、末期的な情勢であったので、
王権がアッカドからこのウルクに、どのように引き継がれたかの具体的な事
情は定かでない。シュメールの時々の主神、最高神(エンリル、イナンナ)の下に、
時の権威あるエンシ(神官長)による仲介授与儀礼にて具現されたとするの
が長い間の従来通例であったとみられるが、その通過儀礼が、グティ支配下
の監視の目を掻い潜って、ひそかに行なわれたというものか、、、、そうで
なければ、<王名表>の記述内容となった、その記載作成時において、王権
の引渡し移転を単なる机上のものとして記したということになる。)
*最後の王ウル・ウトゥの治世年(25年間)の初期の頃には、グティ人の勢
威に屈して、従属王朝、服属の都市国家となるが、その過程の末にグティの
軍勢に敗北し、昔ながらの伝統神授とするシュメール王権も奪われる。
〔Short Chrono.前2070-2061年頃、Midd.Chro.前2134-2125年頃〕
⇒[グティ朝時代・]:
王朝期間:BC2147‐2135年頃~2135‐2050年頃〔short chronology〕
BC2211‐2199年頃~2199‐2114年頃〔middle chronology〕
遊牧、牧畜を主なる生業として、チグリス川東方、南から北西に長く延び
るザグロス山脈のおそらく中央地域とされるが、その山中諸高原、山麓を
生活の広い活動領域としていたグティ人、牧羊、牧畜からの諸産品でもっ
て、以前よりチグリス川シュメール諸都市、町々と、その交易生活をなし
ていたと見られるが、民族的出自や言語は、その言語や文化的遺物の確た
る情報がないゆえ、いまだ知られざる民となっている。
シュメールが<アダブ王朝・ルガル-アネ-ムンドゥ>の時代となる折りに、その生
活圏(後のグティウムと称される)への征圧を受け、その王朝に貢物を納める
民へと強要される。これが残存するアダブ側の碑文のコピーから知られえ
た最初である。
その後、鉱物資源や貴石物の交易品の供給地への発展も共なったと思われ
るが、アッカド・サルゴン王朝、その帝国時代は、さらに厳しい辛苦の状
況に晒される。それはサルゴンの時代ばかりではない。3代目ナラム・シ
ンの代には、彼の大軍勢との戦いを余儀なくされ、再び征圧される。その
子の4代目シャル・カリ・シャルリの時も、自由独立の種族民たらんとして、その
種族王シャルラグの下に叛旗するも、打ち据えられ、一時はさらなるくび
きを架せられるといった状況をも辿るものとなる。
・シュメル王名表に名のない先王が2人:〔BC2147‐2135年short ch.〕
〔BC2211‐2199年midd. ch.〕
エルリドゥピジル → イムタ
ニップル市の遺跡から出土した碑文史料から立証された王であったが、
しかし、彼らに先行する直前の支配者、その名などは知られていない。
この二人は、ニップル市国に依拠して、13年に亘り支配実権を執り、
“グティ人の王、四方の王”と自らに宣称した。そして、全てのグティ
種族をリードして、メソポタミア・シュメルへの彼らの支配がおよぶも
のとなした。先のアッカド王朝の支配により、シュメールの諸都市は、
疲弊しており、それからの解放という向きもあったが、彼らグティに抗
するまでの力、準備は足りなかった。
*この二人のあと、<王名表>に記載の族長名が王として、名前を連なれ
るものとなる。
つまり、イムタの直続後継が王名リストにあるインキシュシらとなる。
・シュメル王名表に名のある王が19人:〔BC2135‐2050年short ch.〕
〔BC2199‐2114年midd. ch.〕
<王名リスト>では、全て順番に在位したものとして列記されている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
*19人の王名には、治世年数が付加されている。しかし、その年数によ
り、順番に19人の在位が入れ替わっていったと見るのは、全く滑稽な
事のようである。<王名リスト>の記載者、編者が簡略に名前と年数を
列ねていっただけのことであろう。実際にはこんな交替は現実的に在り
得ないと見るべきであろう。リスト編者は、グティ人天下の愚鈍さ、無
能さを、その年数の羅列でもって表明したかったとの、そんな意図があ
ったものかも知れない。
最初の6人:インキシュシ6、サルラガブ6、シュルメ6、エルルメシュ6、
イニマバケシ5、イゲシャウシ6、
各名前の数字は、<王名表>での在位、治世年数を表示し
たものである。
これらの王の代に、アッカドの帝王朝が征圧され、没落。
被災のアッカド市はグティの支配下に服する。
〔short chro.BC2129年以降2083年まで。〕
〔midd.chr.BC2193-2147年〕
この族長支配グループが6年間での各分担・共同実権での
支配を行使した。一人イニマバケシが5年で、その共同か
ら1年ショートして欠けたものとなった。
ただし、最後尾のイゲシャウシが、さらに単独で6年延長
継続支配に至った可能性も十分に考えられる。
これらの王らは、先に挙げたリスト外の2人の王に引き
続いてニップルとさらにウンマを本拠としてシュメール、
メソポタミアへの政威実権を行使した。
また4人目のエルルメシュが、先の占領当初時から、首都
アッカドへの分担実権の任を担当、その参入統治権により
残存のアッカド王家内の治世王位が不詳のまま混乱状態と
なり、政務不履行に陥ったと見られる。このエルルメシュ
をアッカド王朝征圧時直後に4人の者が併存したとするそ
の内の一人イルルと同一人と見なす。
*この時のニップルは、シュメール第一位の神殿都市として
の機能(主神、最高神エンリル崇拝)を果たしてはいなか
った。かってアッカドのナラム・シンが大規模に神殿など
を再建したが、それをまた、ナラム・シンが破壊したから
であった。(そのニップル市が諸都市と共に大いに謀叛の
戦いを支持したためであった。この謀叛戦で、ナラム・シ
ンは9度戦って鎮圧することができたと、粘土碑文などで
記されている。)
結局、グティ人諸王とされる19人は、ニップル神都とさ
れた最重要のエンリルの神殿を再建するようなことはなか
った。(王名リストに名を列ねるが、正規の神授とすると
ころの王権の継承がなされたものではなかった。)
ニップルの神殿および、神殿地域を大々的に再建するのは、
ウル第3王朝ウル・ナンムの代からであった。
その神殿域の広さは、3万2千m2 で、内庭、外庭があり
その周囲は壁で囲まれていたと、考古学資料上で知られて
いる。(再建マップとされる粘土板の出土)
3万2千m2 は、単純に想定して<320mx100m>
という感じの規模となる。
次には9人:ヤルラガブ3、イバテ3、ヤルラ3、クルム1、アピルキン3、
---------------------------------------------
ラ-エラブム2、イラルム2、イブラヌム1、ハブルム2、
この支配グループは二グループに分かれる。先ず5人が、
3年間での各人が分担的に共同実権を行使した。しかし、
1年で途絶えた者、クルムが1人いた。
このグループの後尾アピルキンが、4人のあとに、さらに
単独で3年継続延長の支配をなしたとも考えられる。
つぎに4人のグループが2年間共同実権を分担をなした。
これも1人イブラヌムが1年で終わった。
このグループでも、後尾のハブルムがさらに単独で2年の
延長継続をなしたとも考えられる。
次ぎは3人:プズル-スエン7(先のハブルムの子)、ヤルラガンダ7、
シ'ウム7、
この3者グループは、7年間の共同分担統治を行なった。
しかし、この頃には、支配領域がすっかり狭くなったと見
られる。また、その支配力も領域規模で低下してきていた
と考えられるが、その残存支配領域が首尾よく安定してい
て、交替することなく7年間続いたと見られるが、ヤルラ
ガンダとシ’ウムが、それぞれ単独でさらに、7年、7年
の継承支配を続けたと見られる。(2人に係わるウンマで
の台座碑文の出土から推定すると、、。)
最後は1人:ティリガン
彼は、40年間単独で、その残された領域を治めるものと
なった。
<王名表>でのこのグティ人支配に相当した従来の年間説は、2147年~
2050年頃とほぼ1世紀の期間と歴史解釈されている。しかし、上記の如く
分担共同実権を考慮すると、その期間が短縮されるものとなる。
上記2135年からすると、6年(+6)、3年(+3)、2年(+2)、
7年(+14)、そして、40年に
より、その経過合計年数58年(+25年)を差し引くと、2077年頃
またはプラス継続分合計25年を引くと、2052年頃までとなる。
(Middle Chronologyでは、2141年、又は2116年頃となる。)
*グティ人勢力は、従来から部族、氏族といった集団体制での共同社会を成し
ていたので、各族長、氏族長のグループがその中核指導権を行使していた。
したがって、都市国家における<王権>といったものには馴染みがなかった
ので、王権体制、王を立てるようなしきたり仕組みを踏襲することもなかっ
たと見られる。
王名表に記載の19人余の名は、各都市にそれぞれ並立的に実権を握り、そ
の支配を行使した各族長らの名前であろうと見られる。
このグティ人支配の時代でも、幾つかの従属都市のローカル王朝に自治権を
認めて、それなりの統治をさせたケースが見られた。その中で、最も初期に
親交従属し自治権を認められた代表的都市は、ラガシュで、その王グディア
の時には、主権独立都市国家の地位と、ラガシュ第2王朝としての繁栄を大
いに享受するものとなっている。
(ラガシュ第1王朝の没落後、アッカド王朝帝政支配下、服属時代を経て、
グティ人支配の後期にまで至って後、ラガシュの再興と見られる第2王朝と
して隆盛となる。グディア王の治世年期:BC2144年‐2124年、第2王朝期
としての時代期間:BC2157年~2110年、on Middle chronology)
⇒[ウルク第5王朝・1代王のみ]:王名ウトゥ・ヘガル、26年、7年と諸説の在位年数がある。
ウトゥ・へガルは、紀元前2114年(sht.chro.2050年)頃、グティ人の王に反抗し、立ち
向かったウルクの統治者であったとされている。
彼は、最後のグティ人王Tiriganに対峙し、シュメールの諸都市を導いた。何処で戦いが
あったかは定かではないが、ウトゥ・へガルは勝利を収め、Tirigan を Gutiumへと退か
せ、その軍勢をも退散させた。
Tiriganは、ウトゥ・へンガルの前に引きずり出され、シュメールを離れ Gutium に戻
る事の裁きに服し、そこへと追放される。
グティ人を破ったウトゥ・へガルは、シュメールの王として即位した。しかし彼は、力を
長くは維持できず、7年の後、その再復継承した伝統王権をウルナンム(ウル第3王朝初
代)に移譲、娘婿であった彼をシュメールの王としてその統治を継承させた。彼はウルク
第5王朝における唯一人の王であったが、歴年のシュメールにおける最後の統一的王朝の
再来とされる<ウル第3王朝>をもたらすに大いに一役買った人物ともなった。
さらに後、ウル第3王朝の支配下で継続したそのマイナーな第5王朝は、ウル第3王朝の
弱体化時代の到来と共に衰滅したが、ウルク市自体はイシンの支配下で存続し、やがては
シュメール王名リストのテキストには記載されていないアムール人によるイシンからの独
立と共に再起されるウルク第6王朝に取って変わる。(前1860年頃)
この第6王朝は、バビロン第1王朝の初期時代に至って後、当時のバビロン王シン・ムバ
リトが、ラルサ体勢に対抗、それを平伏させる為に、すでに弱小国となっていたイシンな
どと同盟を交わす中、ウルク王イルダネネ〔IR-ne-ne〕も加わり、バビロン王と共に、
その対戦に処する。が、しかし予期に反して、ラルサの英主王リム・シン1世の前に、こ
のバビロン同盟軍が打ち破られる結末となる。それにより、その直後の BC1802-4年頃
〔Midd/chronology〕には、このウルク王朝も没落したと見られる。
⇒[ウル第3王朝・5人の王が在位]:
王朝期間:Approx.BC2112年‐BC2004年〔Midd. chro.〕
〃 BC2049年‐BC1940年〔Short chro.〕
・王名順位: ウル・ナンム⇒ シュルギ⇒ アマル・シン⇒ シュ・シン⇒ イッビ・シン
在位期間:〔18年〕 〔46年〕 〔 9年〕 〔 9年〕 〔24年〕
Midd.chro.
年代期間:2112-2094年 2094-2048 2047-2038 2037-2028 2028-2004年BC
ウル・ナンムは、かってのサルゴン王がそうであったように帝国的覇権を発揮して国領域
を治め、ラガシュ第2王朝など征圧し、南部シュメール地域だけでなく、北部メソポタミ
ア地域の諸都市にまで支配権を及ぼすものとなった。
シュルギ王の治世後半頃からは、アムール人や、エラム人らの徒党集団による掠奪行為が
しばしば支配地域で起こり、防壁などの苦慮策をも計らねばならなかった。
この王朝最後の王イッビ・シンの時、BC2004年にエラムの大進攻によりウルは陥落、
この王朝が滅亡している。ウル王イッビ・シンは敗れて、エラム東方に連れ去られる。
このエラムの征服の頃より半世紀余りの間、シュメール・メソポタミアは、エラムの支配
地域となり、諸都市は、支配下服属、或いは従属同盟国家としてエラムに仕える。これに
ついて<シュメール王名表>では、この折りのエラムには何一つ触れられておらず、エラ
ムの記載は一切なされていない。ただ、“ウルが打ち破られ、シュメールの真なる土台が
根こそぎ引き裂かれた”との表示が見られる。
注:このエラムの時期の半世紀余の後半~終期に向けては旧約聖書における族長・父祖アブラ
ハムの<カナン時代>と深い歴史的関わりをなして、非常に興味深いところとなっている。
旧約書記事では、創世記第14章1節からその章全体に係わるものとして記されている個
所である。
その半世紀余は、ウルの帝国的旺盛が終り、エラムの進出が大優勢な時となったが、それ
でも緩やかに群雄割拠した都市国家群となっていた時期で、創世記事の1節のシナルの王
アムラペルは、おそらく都市国家ラガシュの王であったと見られる。当時はいまだメソポ
タミア地方の大飢饉の冷めやらぬ時で、彼が、エラムの王ケダラオメルにカナン地方で背
いている諸王(5人の王)を征伐するかたわら、カナン方面への遠征をなしてはどうかと
持ちかけた。それでエラムの王は勢いに乗って仲間の諸王(エラサル=ラルサ、ゴイム=古メデア系)
とも連合し、カナン遠征、背反諸王処罰策を敢行、聖書記事<5節>の文面の如くである。
この折り、アブラハムの弟の子、甥のロト一族がソドムに住拠しており、その遠征の王ら
にソドムのそこかしこを襲われ、ロトらが全財産もろ共連れ去られる。アブラハムは身内
のロトらを救助連れ戻すために非常な勇気を振るい起たせる。家のしもべ3百十数人と、
3人の隣人同盟者と彼らが率いる手勢の者等、総じて500人にも満たない人数勢力であ
ったので、エラムの連合、4人の王らの軍勢にまともに当たっては事がうまくゆくわけが
ない。
ひそかに追跡し、寝静まった矢先に夜襲をかけて野営地をかく乱、攻めに攻めて追い散ら
し、4人の王らをダマスコの北にまで追撃していったと、、、夜襲作戦の詳細はさだかで
ないが、14節、15節に記されている。17節ではエラムの王“ケダラオメルとその連
合の王たちを撃ち破って帰った”としている。
このエラムの王とその群勢が、さんざんに撃ちのめされ、敗走を喰らった事態状況から、
その後のメソポタミアでは、イシン王朝がエラムの支配を一掃するに、またとない時と、
大いなる好機と見なし、その敢行に至ったと見られる。
(このメソポタミア王らの遠征時におけるアブラハムの歴史事蹟の年代付けは、BC2千年
以降、BC1950年までの間に起っているが、厳密に考究すれば、BC1960年前後と
断定されうる。アブラハムの履歴を辿ってみると、彼が40才前後に父テラと共にウルを
離れ、北メソポタミアのハランに定着した。それは、エラムがシュメール・ウルに大攻勢
を掛ける数年前と見られ、BC2010年を過ぎた前後の頃になる。そして、ハラン定住
後、父の築いたハランと名づけられた町村落を離れて、カナンへと向かったのは、75才
の時で〔創12:4〕、35年ほど経過したことになる。
それからカナン〔ヘルモン山麓からシナイ半島北部に及ぶ地域〕に半定住的生活で、その
最初の10年となり、86才で、子のなかった妻サラの代わりにハガルから子イシマエル
を得た。〔創16:3&16〕カナンに動向した甥のロトは、ウルを出た時は少年であったが、
まさにすっかり熟年の大人の年になっていた。<この10年のカナン生活時代の間で、>
アブラハム80才を2、3年過ぎた頃の時と断定されうる。
したがって、2010年頃から40~45年が経過した年代付けが可能となってくる。こ
れは、ある面でエラムのメソポタミア・シュメール支配の最も興隆した時期、絶頂期に至
らんとした時の出来事であったと見られる。)
その後、ウル第3王朝の後継を主張するイシン第1王朝が、〔注記〕の如く好機を得て、
エラムの支配勢力を退け一掃、ウルクやラガシュの都市等と同様に、ウルをもその支配下
に取り戻す。
だが、5代目リピト・イシュタル王の時、そのイシン王朝からラルサ市の統治を任されていたアモ
リ人グングヌムの離反に遭い、その独立後のラルサの勢いある隆盛によりウル市は、再び
イシン配下からラルサの下へと奪われる。(イシン・ラルサ時代)
《西、西北方面からのアムール人(アモリ人)のメソポタミアへの進出》
=================================
この時代、すでにウル第3王朝中期頃から外来種族アムール人がメソポタミア各地に移住
進出してきており、イシン第1王朝を皮切りに、次々とアムール系王朝が各都市に成立し
てゆく事になる。(アムール人は、アモリ人として旧約聖書で記され、同種族系と見られ
る。西セム語系の言葉を有するが、人種的にはハム系や、その他との混血を経ていると見
られる。)
⇒[イシン第1王朝・14人と1人の王の在位]:
王朝期間:Approx.BC2022-17年~1794年〔Middle chro.〕
〃 BC1958-53年~1730年〔Short chro.〕
・王名順位:イシュビ・エッラ(33)2017-1984 ⇒シュ・イリシュ(20)-1963 ⇒イディン・ダガン(20)-1942
()在位年数 ⇒イシュメ・ダガン(20)-1921 ⇒リピト・イシュタル(11)-1909 ⇒ウル・ニヌルタ(28)-1880
&期間c. ⇒ブル・スェン(21)-1858 ⇒リピッツ・エンリル(5)-1852 ⇒エッラ・イミッティ(8)-1843
⇒エンリル・バニ(24)-1818 ⇒ザムビヤ(3)-1814 ⇒イテル・ピシャ(4)-1810
⇒ウル・ドゥ・クガ(4)-1805 ⇒スェン・マギル(11)-1794
⇒(ダミック・イリシュ(11-23?)=この王は、<王名表>の他のコピーに記載されての
ものと想定される)
Middle Chronology による年代付けです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
*これらの王の内、第10代目の<エンリル・バニ(24)1842-1818年>は、バビロン第一王
朝が成立して後、その2代目の王スム・ラ・エル(Sumu-la-El:1881-1845年)及びその
息子の3代目サビウム(1845-1831年)、孫の4代目アピル・シン(1831-1813年)らの
代と同時代関係となるイシン王と見られる。
イシンの初代王イシュビ・エッラはアムール人で、かってウル第3王朝最後の王イッビ・
シンの下で仕える将軍であった。彼は、大飢饉の発生(前2022年頃)により、食料調達の
ためにイシン市に派遣されていたが、調達資金や輸送などのゴタゴタしたやり取りの問題
などを抱えて頓挫するあまり、遂にその市を拠点にウル第3王朝に叛旗するに至り、その
まま新王朝の創設に向かう。
紀元前2017年頃イシン市を拠点に独立(イシン第1王朝)したのを契機に、アムール系
がメソポタミア政治史に登場することになる。これ以後、バビロン第1王朝6代目の王・
ハンムラビがメソポタミアを統一するまでの時代を<イシン・ラルサ時代>と、歴史年代
的に特徴付けて言われている。(ウル王朝は、最有力の将軍に背かれ、その独立を認める
ほど弱体化した矢先、エラムの大攻勢に見舞われ、没落するものとなる。)
イシン王たちはシュメールの後継者をもって任じ、紀元前20世紀前半、南部メソポタミア
最大の国家として栄えたが、第5代リピト・イシュタルの治世にラルサが独立して王朝を
築く。その後、ラルサの隆盛とバビロンの双方から圧迫されてイシンは弱体化してゆく。
この時代に発布されたリピト・イシュタル法典は、ハンムラビ法典やウル・ナンム法典と
並び、人類最古の法律文書として名高い。
その後イシン第1王朝は、バビロン第1王朝の王シン・ムバリトがラルサに対抗する為に
既に弱小国となっていたこのイシンとウルク双方と同盟を交わして対決したが、ラルサの
英主リム・シン1世がこの同盟軍を破り勝利した事で、イシン王朝は、1794年、その
ラルサによって没落する。その後間もなく、ハンムラビ率いるバビロンによって、ラルサ
属領の都市イシンも制圧され、以後バビロニアの重要都市の一つとして存続した。
しかし、属領支配下で存続したこのイシン王朝はやがてカッシート朝(バビロン第3王朝)
により没落断絶する。都市イシン自体は存続の営利価値ゆえ残存、維持され、その時代以
後も、地方の中心地として機能し、長く存続したと見られる。
**[注]:<シュメール王名表>は、このイシン王朝までとして、その王名列記の原テキス
トの最初の楔形文字による粘土板が成立したと見られる。それの粘土板写本、及
びアッシリアの翻訳粘土板写本により、今日その記述内容を歴史的な証左検証の
史料として知り得るものとなっている。
このイシン第1王朝がシュメールの王権に係わる代々諸王朝の最終となる<ウル
第3王朝時代>と深い関わりをなし、そのシュメールの諸王朝時代を終わらせる
過渡的時代となっているから、またその正統な王権継承自認も兼ねてイシン王ら
の追加記述がされたと見られる。***
<シュメール王名表>で言及されている内容は、ここで終わっている。
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これより以下は、<シュメール王名表>のリスト外の記述のものです。(付録)
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⇒[ラルサ王朝・14人の君主&王]:イシン下での3人の服属君主、次いで独立、
そのあと11人の王が在位。
BC1944年頃、イシン王朝は、ラルサ市の統治権をアムール人ザバイアに
より奪われ、その次のラルサ王グングヌムが、ラルサでの独立王朝を形成する。
グングヌムは、イシン王5代目リピト・イシュタルと、南部メソポタミアの覇権
を巡って激しく争う。特にその初期の戦いではウル市の争奪が焦点となった。
この戦いはラルサの勝利に終わり、イシンはペルシア湾への出口、交易の拠点
を失った。又〈ウル第3王朝の後継者〉という大義名分の政治的立場も失った。
続いてシュメールの最高神であり、王権を授けるとされたエンリルの神殿があ
った宗教都市ニップルを巡って、またも両王朝は争ったが、ここでもラルサが
勝利し、イシン第1王朝のメソポタミア・シュメールへの覇権の芽は潰えた。
BC1763年、ラルサは、バビロン第1王朝ハンムラビの進攻を受け、半年
間に及ぶ包囲戦の後、その都市は落城し、BC1750年までバビロンの支配
下となる。
ハンムラビの死後、その後継王(サムス・イルナの治世第9年)の時、リム・
シン2世により、ラルサは一時、独立の勢いさえ見るが、共に協調叛旗した
ウル、ウルク、イシンが次々に征圧される。ラルサの首領リム・シン2世も、
バビロン王に破れて処刑され、その王朝の再現、維持への夢は潰えた。
⇒[バビロン第1王朝・11人の王が在位]:アムール人による<アムール王朝>でもある。
・BC1830年~1531年まで〔Short chronology〕
・BC1894年~1595年まで〔Middle chronology〕*通常的年代記
・BC1950年~1651年まで〔Long chronology〕
第6代目のハンムラビの治世以前のバビロンは、小さな都市国家のマイナータ
ウンでしかなかった。(かってのサルゴン・アッカド王朝時代の初期の頃は、
たんに宗教、文化的経済の中心をなす小さな田舎町でしかなかった。)
ハンムラビによるメソポタミアの再統一により、一躍、帝国的な領域の首都と
して発展するものとなる。前1757年頃、アッシリアへの征服もなり、貢納など
をもって服属支配するに至った。
このバビロン王の治世の頃から<バビロニア>と言われるようになる。
(ハンムラビの在位:前1792年-1750年〔middle〕/ 前1728-1686年〔short〕)
しかしハンムラビの子サムス・イルナの治世時の前1741年頃、バビロニア
に初めてカッシート人が外来種族として侵入してくる事態ともなった。
のち、紀元前1595年頃、ヒッタイトのムルシリ1世に攻められて、この第
1バビロン王朝は滅ぼされる。
また前18世紀初頭、第6代王となるハンムラビがメソポタミアを再び統一し
てゆく過程の時、北方のチグリス川西岸に位置するアッシュール(アッシリア
の最初の首都)では、紀元前1813年にアムール人のシャムシ・アダド1世
が、古アッシリア王国のエリシュム2世を破って新王に即位したが、その頃す
でにヒッタイトの台頭、進出があり、それに押され、拮抗した状況となった。
中アッシリア王国の時代には、当初はフルリ人のミタンニ王国の勢力圏下に置
かれていたが、アッシュール・ウバリト1世の治世(在位:前1365年-前1330年)
中にミタンニ王国の勢力、影響下を脱すると、バビロニアへの制覇をもなして
ゆく時代となり、古代オリエント世界の一大勢力となった。
(アッシリアのトゥクルティ・ニヌルタ1世〔前1244年-前1208年在位〕によ
るバビロン征圧にて、カッシート・バビロン王朝は、南方ペルシャ湾域に押しや
られる。そのためエラム王国との勢力拮抗が生じてくる。
ニヌルタ1世は、さらにユーフラテス川を越えて西進して、ヒッタイト領にも
侵出、ヒッタイト王トゥドハリヤ4世との戦いでこれを破り、北シリアへも、
その領土を拡大してゆくといった情勢ともなった。)
⇒[<海の国>第1王朝・]:バビロン第2王朝とも言う。BC1740or1732年~1460年頃
この王朝は、<バビロニア初期王の年代記>資料、粘土板Aと粘土板Bの二つ
のタブレットのテキスト内容からの王名リストAで、11人、及びリストBで、
12名の名と、その王らの治世期間と意味される年数が挙げられている。
他に歴史的に検証されうる資料がきわめて乏しく、ただ、アッシリアのキング・
リストA‐117資料による同時代的参照位置付けを可能とするのみである。
メソポタミアの最南端地方、チグリス、ユフラテ両河の河口地域に依拠した王朝
であるからシュメル、イシンとの何らかの繋がりがあると見られ、シュメール風
の王名が認められる。
⇒[カッシート王朝・]:バビロン第3王朝とも言う。BC1595年 or 1570年~1155年頃
このバビロン・カッシート朝は、エラム王シュツルック・ナクンテ率いるエラム
勢の進攻により、崩壊する。
⇒[イシン第2王朝・11人の王が在位]:BC1155 or 53年頃~1025 or22年まで
カッシート朝が滅亡した後、イシン都市を拠点にしたマルドゥク・カビト・アヘ
シュによって、再び王朝がイシンに成立した。
これをイシン第2王朝(バビロン第4王朝とも)と歴史的に呼んでいる。
ただし、マルドゥク・カビト・アヘシュはイシンの出身ではあったが、それ以後
イシン第2王朝の王たちは、基本的にバビロンを拠点とした。それで、<バビ
ロン第4王朝>とも言われている。
この王朝の中で最も高名な王は、ネブカドネザル1世であり、彼は、カッシー
ト朝の滅亡時に、エラムによって奪われていたバビロン市の主神マルドゥクの
神像をエラムから取り戻して、バビロンでマルドゥク神の祭祀を復活させた。
これは、バビロニアにおいて政治的にも宗教的にも重大な意味をもったものと
なり、後々の時代にわたり、その伝統的な影響を残すものとなる。
また新たな名声英雄として、ネブカドネザル1世の勝利を扱った文学作品が、
後々にわたり多数残されるものとなる。
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【参考引照:References from Wikipedia Pages】
<The Old City-States in the Ancient Mesopotamia>
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Further information: Cities of the Ancient Near East and
Geography of Mesopotamia
In the late 4th millennium BC, Sumer was divided into many
independent city-states, which were divided by canals and
boundary stones. Each was centered on a temple dedicated
to the particular patron god or goddess of the city and
ruled over by a priestly governor (ensi) or by a king (lugal)
who was intimately tied to the city's religious rites.
The five "first" cities, said to have exercised pre-dynastic
kingship "before the flood":
1.Eridu ・・・・・(Tell Abu Shahrain)
2.Bad-tibira ・・(probably Tell al-Madain)
3.Larsa ・・・・・(Tell as-Senkereh)
4.Sippar・・・・・(Tell Abu Habbah)
5.Shuruppak ・・・(Tell Fara)
Other principal cities:
6.Uruk ・・・・(Warka)
7.Kish ・・・・(Tell Uheimir & Ingharra)
8.Ur ・・・・・(Tell al-Muqayyar)
9.Nippur ・・・(Afak)
10.Lagash・・・(Tell al-Hiba)
11.Girsu ・・・(Tello or Telloh)
12.Umma・・・・(Tell Jokha)
13.Hamazi 1
14.Adab・・・・(Tell Bismaya)
15.Mari・・・・(Tell Hariri) *-2
16.Akshak 1
17.Akkad 1
18.Isin・・・・(Ishan al-Bahriyat)
Minor cities (from south to north):
1.Kuara・・・・(Tell al-Lahm)
2.Zabala ・・・(Tell Ibzeikh)
3.Kisurra・・・(Tell Abu Hatab)
4.Marad・・・・(Tell Wannat es-Sadum)
5.Dilbat ・・・(Tell ed-Duleim)
6.Borsippa ・・(Birs Nimrud)
7.Kutha・・・・(Tell Ibrahim)
8.Der・・・・・(al-Badra)
9.Eshnunna ・・(Tell Asmar)
10.Nagar ・・・(Tell Brak) *-2
(*-2:an outlying city in northern Mesopotamia)
*Apart from Mari, which lies full 330 kilometres (205 miles)
north-west of Agade, but which is credited in the king list
as having “exercised kingship” in the Early Dynastic II
period, and Nagar, an outpost, these cities are all in the
Euphrates-Tigris alluvial plain, south of Baghdad
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<History of Sumer>
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Ubaid period: 6500–4100 BC (Pottery Neolithic to Chalcolithic)
Uruk period: 4100–2900 BC(Late Chalcolithic to Early Bronze Age I)
・Uruk XIV-V: 4100–3300 BC
・Uruk IV period: 3300–3100 BC
・Jemdet Nasr period (Uruk III): 3100–2900 BC
Early Dynastic period (Early Bronze Age II-IV)
・Early Dynastic I period: 2900–2800 BC
・Early Dynastic II period: 2800–2600 BC (Gilgamesh)
・Early Dynastic IIIa period: 2600–2500 BC
・Early Dynastic IIIb period: c. 2500–2334 BC
Akkadian Empire period: c. 2334–2218 BC (Sargon)
Gutian period: c. 2218–2047 BC (Early Bronze Age IV)
Ur III period: c. 2047–1940 BC
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<Cuneiform script>
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Emerging in Sumer in the late fourth millennium BC to convey
the Sumerian language which was an language isolate (the Uruk IV
period), cuneiform writing began as a system of pictograms.
In the third millennium, the pictorial representations became
simplified and more abstract as the number of characters in use
grew smaller (Hittite cuneiform).
The system consists of a combination of logophonetic, consonantal
alphabetic and syllabic signs.
The original Sumerian script was adapted for the writing of the
Semitic Akkadian (Assyrian[disambiguation needed]/Babylonian),
Eblaite and Amorite languages, the language isolate Elamite, and
for the language isolate Hattic, Hurrian, and Urartian languages,
as well as Indo-European languages Hittite and Luwian(*), and it
inspired the later Semitic Ugaritic alphabet as well as Old
Persian cuneiform.
Cuneiform writing was gradually replaced by the Phoenician alphabet
during the Neo-Assyrian Empire (911–612 BC).
By the second century AD, the script had become extinct, its last
traces being found in Assyria and Babylonia, and all knowledge of
how to read it was lost until it began to be deciphered in the
19th century.
(*)アナトリア(現小アジア)のルビアの地名から取られている言語名、ヒッタイト
帝国の影響下で、フリギア、後のリュディア方面から始まり、シリア北端地方
から中部アナトリアが中心となり、その楔形記号での記述使用を見る。
(エジプト、アラビアの中、南部以外のほとんどの地域で楔形記号が利用された
時代時期があったと見られる。)
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